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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第2回)

2010年07月31日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2010 寂しく切り離された大森町駅旧上りホーム  

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上り線高架化開通後の下り線の高架化工事も、7、8月の工事予定は8月第1週後の月遅れのお盆を迎えて夏休みとなります。本格的な下り線高架化工事は、お盆休み明けからです。

第1工区
現在までの工事の進捗は、旧上り線の線路の撤去が第1工区で平和島付近の仮上り線高架橋から大森町第1踏切までの区間の撤去が済んでいます。
7月21日に平和島第5踏切から内川橋梁までの傾斜部と、その先の在来線傾斜高架橋を見ると旧上り線線路は撤去されており、新上り線高架橋の接続部には大勢の作業関連者が現場工事の実施見分を行っているのが見られました。

 平和島第5踏切から新上り線高架橋の接続部を望む(0721写真拡大)

30日に旧上り線線路の撤去が済んだ、平和島駅から大森町駅間の状況を走行列車の前窓より動画撮影をしました。

平和島ー大森町間旧上り線路撤去.wmv

[クリックすると旧上り線線路の撤去後の状況が見られます]

また、旧上り線ホームの撤去工事は、第1工区の大森町駅ホームの平和島寄りの駅舎屋根の2/3が6月27日には撤去されております。7月28日に見るとえびすヤード入り口付近のホームの一部が撤去されました。

 えびすヤード入り口付近のホーム部撤去(0728写真拡大)

同29、30日の深夜にはシャベルカーを入れて、旧上り線路付近で工事が行われていました。

 旧上り線線路跡の夜間工事(0729写真拡大)

夜間工事では、旧上り線線路跡に複数箇所に溝が設けられ、電力電線が設置されました。

 在来線路下に設置溝が設けられ電線の設置(0730写真拡大)
 
同31日には在来下り線との間に工事用の柵枠が建てられました。上り高架ホームのエスカレータの取付工事および上り線高架ホーム下部の工事準備が行われるではないかと思われます。

 在来下り線の間に工事用柵枠が建つ(0731写真拡大)

第2工区
第2工区では工事の動きは見られませんが、前回記述で大森町第4踏切から梅屋敷第3踏切までの区間の旧上り線線路の撤去が終了しています。

第3、4工区
第3、4工区の京急蒲田駅旧上りホームの撤去工事は前回にも紹介しましたが、28、30日に見るとホームの撤去工事が継続して行われていました。

 京急蒲田駅旧上り線ホーム撤去工事(0728写真拡大)

第8工区
第8工区の糀谷駅旧上りホームの撤去工事は、前回にはホーム屋根柱枠を除き撤去が進んでいましたが、7月28日に見るとホーム屋根柱枠の撤去は終了していました。

 糀谷駅旧上り線ホーム撤去工事(左上中上右上左下中下右下0728写真拡大)

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・毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(7月分掲Indexへ)
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大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区下り線工事 Sub INDEX 2010年版

2010年07月31日 | INDEX
kan-haru blog 2010 12月28日24版

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 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区下り線工事 Sub INDEX



242 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第1回)  7月16日
243 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第2回)  7月31日
244 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第3回) 8月17日
245 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第4回その1) 8月29日
246 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第4回その2) 8月31日
247 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第5回その1) 9月13日
248 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第5回その2) 9月16日
249 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第5回その3) 9月18日
250 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第6回その1) 9月26日
251 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第6回その2) 9月28日
252 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第6回その3) 9月30日
253 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第7回その1) 10月13日
254 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第7回その2) 10月15日
255 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第8回その1) 10月29日
256 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第8回その2) 10月31日
257 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第8回その3) 11月3日
258 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第9回その1) 11月16日
259 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第9回その2) 11月18日
260 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第9回その3) 11月20日
261 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第10回その1) 12月5日
262 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第10回その2) 12月7日
263 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第10回その3) 12月9日
264 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第11回その1) 12月23日
265 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第11回その2) 12月25日
266 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第11回その3) 12月27日
267 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第11回その4) 12月29日

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大森町界隈あれこれ ニュース 大森町周辺の夏のイベント

2010年07月29日 | 大森町界隈あれこれ イベント
kan-haru blog 2010 大森西地区実施委員会設立宣言

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今年の夏は7月というのに、連日33~35℃の熱暑に見舞われています。熱い最中に大森町商店街のサマーフェスティバル2010も行われ、大森町周辺では暑さに負けずに夏のイベントが開催されました。

社会を明るくする運動大森西地区集会
毎年7月を“社会を明るくする運動”~犯罪や非行を防止し,立ち直りを支える地域のチカラ~強調月間とし、今年で第60回を迎えました。
この運動は,中央推進委員会並びに都道府県及び市区町村等を単位とする推進委員会により推進するもので、大田区では大田区教育委員会、大田区内各警察署、大田区保護司会、大田区立小学校校長会、大田区立中学校校長会などの31機関・団体による実施委員会・団体の協力により、力を合わせて犯罪や非行のない明るい社会を築こうとする運動です。
大田区の平成22年度の社会を明るくする運動のテーマを、「ふれあいは 朝のひとこと みんなの笑顔 生きる力を育てよう!」を目標に、大森西地区では大森西地区実施委員会を設立して、委員長の松原忠義大田区長出席の大森西地区集会を7月25日に大森学園高等学校イベントホール(大田区大森西3-2-12)で開催しましたので、参加してきました。
大森西地区集会次第は、関口順代保護司会第1区分長の開会あいさつから始まり、鳴嶋享郎大森西地区連合会会長の大森西地区実施委員会設立宣言を行い、来賓祝辞には松原忠義大田区長、畑澤正一大森学園高等学校長、田村英二大田区保護司会長の挨拶の後に実施委員会委員の紹介があり、委員退場後に「心のリレー」の広報ビデオの上映がありました。

 社会を明るくする運動大森西地区集会(左上:大森西地区集会会場の大森学園高等学校、中上:大森西地区集会会場イベントホール、右上左下:大森西地区集会実施委員会委員、中下:松原忠義大田区長挨拶、右下:田村英二大田区保護司会長挨拶)

休憩後、アトラクションではふれあいこどもクラブの和太鼓演奏と三遊亭小金馬の落語「ちりとてちん」で楽しみました。

 ふれあいこどもクラブの和太鼓演奏(写真拡大)

続いて五石秀治三原高等学校長の講評があり、川口元久西地区委員会会長の閉会あいさつで解散しました。

 三遊亭小金馬師匠落語(写真拡大)

大森三丁目連合町会盆踊り大会
大森町商店街通りの北側から内川南岸までの大森西3丁目と、諏訪神社近辺の大森西2丁目の一部に、東邦医大通り西の大森西4丁目の一部が大森三丁目連合町会の範囲であり、同町会主催により毎年恒例の盆踊りが大森西交通公園(大田区大森西3-4)を会場として今年は7月23、24日午後7~9時の2日間行われ、模擬店も出店して参加の子供にはお土産が貰えます。公園の中央のやぐらの上で複数の生太鼓で音頭を取り、多数の町会の人が2日間にわたり参加して賑やかに踊り夏の風物詩です。

大森三丁目連合町会盆踊り大会.wmv


[画面中央のボタンをクリックすると動画が見られます]

こらぼ大森夏まつり
大田区区民活動支援施設大森のこらぼ大森(大田区大森西2-16-2)では、大森コラボレーション主催、大森西地区時事会の共催で7月25日11~15時に恒例の夏まつりが開催され、今年は第7回を迎えました。こらぼ大森夏まつりの協力団体は、大森学園高等学校、大森西地区の各6町会、大田区保護司会第1分区や大森西地区民生児童委員協議会などの14団体が協力しており、協賛者には大森西地区の企業、商店など27法人が協賛しています。
夏祭りには、猛暑の中で模擬店でフランクフルト、焼きそば、ポップコーン、焼きとりなどの出店がでて、イベントには子供和太鼓、よさこいソーラン、太極拳演舞などが出演し、体育館ではトランポリン体験レッスンにチャレンジできました。

 第7回こらぼ夏祭り
(:第7回こらぼ大森夏まつりポスター、右:第7回こらぼ大森夏まつり風景 鈴木あきまさ東京都議会議員ホームページから) 

大森西三丁目大寿会第一クラブ定例会・誕生会
大田区老人クラブ連合会大森西三丁目大寿会第一クラブでは、年4回開催の定例会と誕生会(5、6、7月生まれ該当者21名)を、7月21日に諏訪神社諏訪会館(大田区大森西2-23-6)で開催しましたので出席しました。

 大寿会第一クラブ定例会・誕生会風景1

会長の挨拶後乾杯にて定例会が開始され、誕生月該当の誕生者の紹介があり、歓談しながらお弁当を食べての懇親会の後に、恒例の余興が行われ合唱、カラオケ、舞踊と和やかに過ごしました。

 大寿会第一クラブ定例会・誕生会風景2

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大森町界隈あれこれ 夏のイベント 大森町商店街サマーフェスティバル2010

2010年07月26日 | 大森町界隈あれこれ イベント
kan-haru blog 2010 第2版20110810 ちびっこ和太鼓演奏

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今年も大森町商店街恒例のサマーフェスティバル2010が熱暑の中、7月18日の日曜日に開催されました。今年のレポは、フェスティバルで人気の演芸を動画集にまとめて見ましたので、一端を垣間見て雰囲気を感じていただきます。


2010大森町サマーフェスティバル
祭の定番は縁日の露店が風物誌です。露店のゲームは子供の好奇心を煽り、商品をとってやろうと夢中にするのが、昔も今も同じみの射的、金魚すくい、玉すくい、輪投げや籤引きなどです。
夏の縁日にはかき氷、焼きそば、ポップコーンにフランクフルトは、大人にも子供にも欠かせません。今年は猛暑で、かき氷やドリンクはアッという間に売り切れです。

 サマーフェスティバル縁日露天

大森町サマーフェスティバルでは、露天以外の商店街のお店でも店頭での個別販売も行い、洋品店の「榎本」では毎年恒例の味噌田楽、玉こんにゃくと黒米おにぎりを出してお馴染みのお客さんには人気です。スーパーの「なんぶや」では店頭ですいかとゆでとうもろこしを売り夏の祭りには人気商品でした。また、「セブンイレブン大森町店」でも店頭でオリジナル商品をタイムサービスで販売していました。

 大森町商店街のお店でも店頭販売サービス(:榎本の人気商品玉こんにゃくと味噌田楽、:なんぶや人気の冷しスイカととうもろこし、:セブンイレブンでは商品のタイムサービス販売)

その他の商店街のお店も通例の店頭前で催しをして、サマーフェスティバルを盛り上げていました。今年は、新規に参加の中国食材の「食彩天国」を初めとして、順不動ですが、洋品の「ナンカ堂大森町店」、パナソニック電器の「パナハルス三晃」、すしの「ちよだ鮨」、創業50年のお茶「小坂園」、生花の「美喜生花店」、とんかつの「さぼてん」、ダイニングバーの「風炉里庵」、中国料理の「チャイナハウス」、食材の「芝浜」、金物の「きりやま」と「スリーエフ」のお店が参加しました。

大森町サマーフェスティバルの演芸
大森町サマーフェスティバルの演芸は、「芝浜」店まえの空き地で14時から大3小児童とふれあいこどもクラブによる「よさこいソーラン」と「和太鼓」が幕開けです。
今年の演芸の演奏順番に変更があり、大東京信用組合前毎年の特設ステージでは、最初に「太鼓番社中による四次元太鼓」から始まりました。太鼓番社の和太鼓演奏では、ラテン風の太鼓演奏も披露されました。

よさこいソーランと和太鼓演奏.wmv


今年から出場となった「ラップグループ Pentaphonic」のライブと「シンガソングライター HARU」のライブと続き、17時からは地元大森学園の「ブラスバンド演奏」が行われました。初登場のラップグループ Pentaphonicは、大森町で生まれたラッパー・MC株が率いるヒップポップグループで、結成2年目ながら各方面で高い評価を得ており、2010年7月7日1stシングル「Jetsetter/DESKTOPROCK!」を発売しました。また、シンガソングライター HARUは、2007年秋のテレビ東京のオーデション番組「イツザイ」にて多数の応募の中から優勝しました。日産キューブのCMソングに起用され、ダニエルパウダー氏とのコラボレート曲「FIND MY WAY」でメジャーデビュー。
大森学園のブラスバンドは、昨年70周年を迎えた地元に根を下ろした男女校で、翌日には高校野球予選の応援演奏やコンクール出場の合間を縫っての登場です。

ライブ演奏とブラスバンド演奏.wmv
この動画は、都合により一時閉鎖とします。

サマーフェスティバルの演芸のメインイベントは、恒例の大田区職員によるくすのき連の「阿波踊り」が18時に大森商店街の東邦医大通りからスタートして、途中大森町共栄会本部前と、さわやか信金前に京急大森町駅付近で得意の阿波踊りが披露され、20時過ぎにはサマーフェスティバルのエンディングです。

くすのき連阿波踊り.wmv



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大森町界隈あれこれ 大森町の昔を古地図で探る 大森村絵図その4

2010年07月24日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2010 名所江戸百景「南品川鮫洲海岸」

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大森村絵図を歩く
・大森村付近の東海道
日本橋を出発点とする東海道は、江戸時代初期に幕府が整備した江戸と京都を結ぶ、重要な交通路であり、参勤交代の大名行列のほか、一般の旅人にも大いに利用されていました。

 大森村絵図

明治初年頃の大森村境界の不入斗村から北の大井村(現鮫洲付近)の東海道は、石垣の波打ち際の海岸線に沿っております。不入斗村に入って東海道を上っていくと、すぐ鈴ヶ森八幡(磐井神社 大田区大森北2-20-8)(「大森町の社寺 磐井神社 大森町北端にある鈴石伝説の磐井神社夏祭り その1、2」参照)があり、その先には鈴ヶ森刑場跡から鮫洲を通り品川宿です。

 江戸名所図絵 鈴の森八幡社

・大森村の東海道
大森村絵図の東海道北端は今の平和島入り口付近であり、ここから南に下り東海道は現在の三原通り(現美原通り旧東海道 大田区文化財 大森本町2-1付近から大森東1-4付近)(「大森町界隈あれこれ 大森町風景 旧東海道(三原通り) その1」参照)となり、街道の道幅は現美原通りと同一で3間余り(6m)です。三原とは、字名の北原、中原、南原の三原を示しています。

 三原通り

・寄来神社
東海道を南に下ると、大森村絵図の時代には北原と中原の中間点付近の街道脇に三原の鎮守の寄来大明神が祀られています。由緒によると創建年代は不詳だが、1720年(享保5年)再建時の棟札に、1616年(元和2年)に社殿を改築したとの記述があります。1868年(明治元年)神祇伯・白川資訓王より「大森神社」の社号と額面を賜ったとあります。
なお、寄来神社は後に大森神社(大田区大森北6-32-12)と改称(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 大森神社(寄来神社)」参照)して、現在は第一京浜国道脇に移転しております。

 創建時と現在の大森(寄来)神社の場所

・徳浄寺
寄来神社から三原通りを南に下ると南原で海側に、1627年(寛永4年)四ツ谷に創建され、1688-1704年(元禄年間)に大森村へ移転してきた徳浄寺があります。徳浄寺(大森東1-16-22)は、浄土真宗本願寺派で山号を海松山と号し、開基は祐信、俗姓は菅原氏で豊島郡四谷に住み、日世智行の時念仏門に帰依し、本尊及び親鸞の影像と寺号を本山より下賜されました。13世秀山の子、教伝が当地に移し、大森徳浄寺の1世になりました。9世祐海が1830-44年 (天保年間)に本堂を建立しました。

 徳浄寺

・三原通りの老舗
その2で、大森村には1688~1716年(元禄から正徳)にかけて、中原、谷戸、南原に三店の「和中散」の店が開店し、江戸中期頃から大林寺の住職12世日好により、村民の困窮を救うために始められた麦わらを編んで作る細工ものを、東海道を往還する旅人達にに「土産品」として売り喜ばれたといわれます。

 大森麦藁細工

現在の三原通りにも、1669年(寛文9年)に創業の老舗海苔の松尾が中原に店を構え、現在は環7通りに面した場所に移転しています。

 寛文9年創業の海苔の松尾(:現在の海苔の松尾、:中原で営業の海苔の松尾)

南原の徳浄寺の門前には元祖甚三郎が1715年(享保元年)に駿府駿河の国安倍川のほとりより出府して茶店を開き、東海道を往来する旅人たちに、夏の暑さの疲れを癒すため、真夏の土用中だけ一皿の餅に渋茶を添えて、旅情を慰めたのがあべ川餅のはじめたのが、開業当初からの場所で営業しているのがあべ川餅の餅甚です。
また、三原通り沿いの中原に居を構え三浦屋提灯店は8代続く提灯屋の老舗で、流麗な江戸文字を手書きにした提灯や祝額、藍で染めたのれんなどを製作しています。

 享保元年創業の餅甚(写真拡大)

・海難供養塔
内川の河口付近の海岸沿いに、1855年(安政2年)海難事故にあった人々を供養するために、総高さが232cmの海難供養塔(大森東1-27区指定文化財)(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 津島神社2008年秋の例祭」参照)が建てられました。塔は、五輪塔の変形のような形で、水輪に当たる部分に胎蔵界大日如来の種子が刻まれています。
江戸市中や神奈川に及ぶ魚介業者をはじめ、町人、武士、役者等約300名の名が刻まれ、東京湾沿岸でも屈指の規模を持つ貴重なものです。

・羽田道
東海道から内川橋際(大森東2-2先)で分かれ、羽田東海道から内川橋際(大森東二丁目2番先)で分かれ、羽田や大師の渡しに向かう道です。分岐点付近に、歌舞伎にも出てくる「駿河屋(するがや)」という旅籠(はたご)があったことから「するがや通り」とも呼ばれます。内川橋から大鳥居交差点(東糀谷3-3先)までの旧道で、羽田でとれた魚などを運ぶ生活道路でした。

 羽田道(:羽田道石碑、:駿河屋跡、:羽田道石標)

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カテゴリー別Index 大森町界隈あれこれ 大森町風景別総目次
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大森町界隈あれこれ 大森町の昔を古地図で探る 大森村絵図その3

2010年07月21日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2010 池上本門寺

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大森村周辺の地勢
・大森村の地形
大森村周辺の地勢を見ると、北西部は武蔵野台地がせり出した台地で、南東部のほぼ3分の2は多摩川の河床および海面の自然隆起に次いで、火山灰等の埋積によって生じた沖積土の低地に続いた埋立地の平野部であり、中央部は所々に河谷の湿地がみられます。

 大森周辺の高台と低地地形図

古代の大森貝塚時代の砂洲は、飛鳥時代まで寒冷化と堆積作用によって海岸線は後退し、古墳時代までに形成されたとみられます。さらに、海岸線は第1京浜国道・産業道路まで後退して、奈良時代の「倭名類聚抄」に地名「蒲田」「駅家」(大井または新井宿)が記されており、平安時代の「延喜式」に「薭田神社」(蒲田)と「磐井神社」(不入斗)記載されており、丘陵上から低地の自然堤防や砂地上の六郷、蒲田、大森の平野部へと生活が移ってきました。
戦国時代の小田原衆所領記帳には、大森、小花和、堤方、雪が谷、一ノ倉、不入斗、新井宿、蓮沼、安方、根岸、馬込、極楽寺などの記述があり、これらの所は第1京浜国道の通る自然堤防と砂洲や、その西側にある自然堤防と砂洲上に集中しています。

 高台東南の低地平野部の地形図(地形図の濃い黄色の部分は自然堤防・砂堆・砂洲を示す)

明治初期の大森村
明治初期に描かれた大森村の絵図の世界は、江戸から東京になっても何も変わらずに江戸時代の延長です。大森村絵図の大森は東・西・北大森村の三村構成であり、大森村と他村の境界は北側が不入斗(いりやまず)村で西側は新井宿村に接しています。東側は海岸で不入斗村の堤付近では東海道が海岸線に接しており、「地名辞書」によれば古くから石垣による波除堤が造られており、大森村の北原より南原方には1680年(延宝7年)に長さ三百九十六間(約720m)の波除堤が造られたという記録が残っています。その2に記述の様に、1854年(嘉永6年)に黒船襲来で大森に台場を築くなど、明治以前の古くから大森村の海岸の埋め立てが行われていました。
大森村の南側の境界は、現在の大森と蒲田の境界に一致しており、当時の呑川(現在の旧呑川)を挟んで森が崎(現大森南)が南端の境界で、蒲田村と糀谷村に接しており、大森村全体は平地に位置しています。

 大森村旧東海道の海岸線

大森村絵図では、旧東海道は不入斗村(現大森北)の平和島口付近から海岸線を南進し、三原(現美原)通りの北原から、寄来社(大森神社)縁の中原を通り、南原で徳浄寺を抜けて中央部の内川橋を渡りやや右に曲がると三原通りが終わり、旧東海道(現第1京浜国道)が進みます。
内川橋の先の旧東海道は、曲がりくねった南北に流れる内川沿いに進むと、内川は現大森町駅付近で西に折れますが、直進する旧東海道は松並木で海岸線からはやや離れますが、西側には池上本門寺の五重塔と本門寺大堂が見晴らせます。
六郷用水の最初の橋を渡り松並木が過ぎると旧東海道は、品川宿と川崎宿の中間で人足や駕籠かき等の替え場所の大森中宿で、人家が街道を挟んで増加し、街道の掛茶屋、旅人の荷物運搬人足の建場が設けられた所で、道を挟んで東側に天神社が西側に貴船社が鎮座しています。大森中宿には3つの六郷用水の橋があり、それを渡ると他村の北蒲田村の境界で大森村旧東海道の終点で、現在の第1京浜国道の梅屋敷商店街通りに当たります。
大森村の南北に旧東海道が通り、大森中央の東西には内川が流れ、田畑の灌漑用の六郷用水が張り巡らされています。大森村の絵図の黄色部は水田であり、緑部は畑と三原通りや中宿の人家の密集地です。

 大森村絵図編集版

1590年(天正18年)に領地を得た徳川家康が、江戸城下町づくりと並行して、領地基盤の充実を図るため、多摩川下流域の低地平野部の農地化を図り、六郷用水を引いて灌漑し田畑が開発されました。また、沿岸の大森村、不入斗村、糀谷村では海苔の養殖が盛んになり、江戸近郊の農漁村として耕地が拡大発展しました。
江戸から明治と時代は移っても、大森村近郊農村の性格は変化せず、六郷用水の農業用水の最盛期は明治末期でした。

 大田区の農耕地と居住人口の変遷

1872~74年(明治初年)の「東京府志料」によると、大森村の戸数は1261戸、人口7541人で、田地が104町3反5畝20歩で、畑地が77町2反2畝11歩と記されています。
農漁村の大森村の絵図には、耕地の面積と田畑の収穫高が記入されております。徳川時代の税法は、田畑の耕作して得た収穫物の石高を持って定められ、そのあがり高のうちから応分の割合で上納することになっていました。この上納高は、その年の豊凶によって増減されました。一段の地に対して収穫高を盛り付けることを石盛と云い、1升の籾は5合の玄米になるので、1歩からの収穫を5合の割合では300坪では1石5斗となります。これを石盛十五または十五の盛といいます。このような石盛を基準にして上納を定め、田の種類を上田、中田、下田および下の下田4種類に類別し、1位ごとに上納を減じ、上田十五、中田十三、下田十一、下の下田九の割合と定められました。また、畑地は水田同様に4種類に分類し、上畑十三、中畑十一、下畑九、下の下畑七と定められていました。
収税法は、田地は取米を定めて玄米を収め、畑取米は升目2石5斗を金壱両として金銀にて上収したとあります。田畑の上、中、下の石盛を定めることを、検地、検見、縄入と云います(大森区史から)。この大森絵図は、明治5年の地租改正のための、明治行政村として旧村時代の耕地の分布と面積を明確にする目的で作図したものであったかもしれないと述べてあります(大田郷土博物館北村敏氏 地図中心2009年10月号から)。

 田畑収穫高

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大森町界隈あれこれ 大森町の昔を古地図で探る 大森村絵図その2

2010年07月18日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2010 大森村麦わら細工

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今回より古地図で昔の大森を探っていきますが、その前に大森を理解しておく必要がありますので、大森全般の地形や歴史および事柄について触れておきます。

大森の地名の変遷
明治以前の大森
・武蔵国
明治以前の大森村は、奈良時代から明治初期まで律令制により武蔵国に属しており、秩父、多摩、埼玉、足立、豊島、荏原郡などの21郡(後に22郡)が置かれていました。
武蔵国は、現在の埼玉県、東京都の大部分、および神奈川県川崎市と横浜市の大部分を含みます。

 武蔵国の郡構成

・荏原郡
江戸時代には荏原郡の村々は、六郷(34村)・馬込(13村)・世田谷(30村)・品川(13村)・麻布(5村)の5領に分かれ、合計で95ヶ村がありましたが。慶応から明治にかけては、武蔵知県事管轄、品川県、東京府と体制が混乱しましたが、明治初頭には三田・上高輪町・下高輪町・北品川宿・南品川宿を含む102ヶ町村となりました。
地域は現在の行政区画で目黒・品川のほぼ全体と、大田・世田谷の大半と、港・千代田・神奈川県川崎市の一部をあわせた範囲に及びます。

 荏原郡町村構成

明治時代後の大森
1867年(明治元年)に江戸を東京と改称し、武蔵の地に東京府が開設されましたが、1871年に一旦開設の東京府を廃止して、荏原、豊島、足立、葛飾、多摩の5郡を所管し、同時に飛び地の荏原郡世田ヶ谷村などの21ヶ村と多摩郡岡本村などの9ヶ村が東京府に移されました。

 明治初期大森村絵図

1872年(明治5年)に荏原郡の西大森村・東大森村・北大森村が合併して、大森村が成立。
1878年(明治11年)に東京府は府下を区と郡に分け、麹町区・神田区・浅草区などに旧幕時代の地称を付し東京15区を設け、市街地に隣接する旧街道宿場および農村部に荏原郡・東多摩郡・南豊島郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡の6郡を置きました。荏原郡に属する旧大森区に該当する区域は、大森、不入斗(いりやまず)、新井宿、馬込、池上、石川、雪ヶ谷、市野倉、桐ヶ谷(馬込領桐ヶ谷)、堤方、下池上、徳持、久ヶ原、道々橋、鵜ノ木、嶺、下沼部、上沼部の18村に分かれました。
1889年(明治22年)市制・町村制が施行され、東京府は府下に旧15区の区域を市域とした東京市を設け、上記の18村は荏原郡大森村、入新井村(不入斗村と新井宿村が合併)、馬込村、池上村(池上、石川、雪ヶ谷、市野倉、桐ヶ谷、堤方、下池上、徳持、久ヶ原、道々橋の10村が合併)、調布村(鵜ノ木、嶺、下沼部、上沼部の4村が合併)の5村に編成されました。
1897年(明治30年)に 荏原郡大森村が町制を施行して大森町となりました。
その後、荏原郡の入新井村が大正8年(1919年)に入新井町に、池上村が大正15年(1926年)に池上町に、昭和3年(1928年)に馬込村と調布村が馬込町と東調布町に町制を施行しました。
1932年(昭和7年)に大森・入新井・池上・馬込・東調布の5町域をもって大森区が誕生し、東京市に編入されました。
1947年(昭和22年)に大森区が蒲田区を編入・改称し1文字ずつとって大田区が成立しました。大田区は東京23区の最南部に位置しています。

・大森村に隣接する旧村名と大森区・大田区の町名との対照
大森村絵図を読み解くために、絵図が描かれた1872年(明治5年)以前の大森村の隣接する村名と、明治22年(1889年)の市制町村制施行時の村名と大森区成立時の町名および現在の大田区の町名を対比して表示しておきます。

 大森村および隣接の村名、大森区・大田区の町名対照表

明治以前の大森村の歴史
明治時代以前の大森村の歴史を大森区史から抜粋してみました。
江戸時代の大森の資料を拾ってみると、「通俗荏原風土記」によれば大森海岸旧街道を三別して北、中、南原と呼ばれ、これを俗に三原と称せられ、昔は磐井神社領内に属し、八幡原耕地と称え、後年原八軒とも云ったとあり、家数八戸と記載されています。
徳川氏入国後、1573~1593年(天正年間)六郷領花井の郷大森村と称し、慶長、元和の頃に東大森村、西大森村、南大森村、北大森村の四個村に分割したが、元禄の頃廃置分合して東西北の三個村としました。
「新編武蔵風土記稿」によると、六郷領内の家屋総数は3700軒余で、最大は馬込村の307軒、最小は浜竹村の17軒となっている。地域的には大森地区に最も多く家屋の集中があり(東大森村300軒余・西大森村200軒余・北大森村180軒余)、平地、水田が多く、海浜で「漁猟・海苔」とされ、次いで羽田地区(羽田猟師町300軒余・羽田村270軒など)になっている。現六郷地区では、八幡塚村が152軒で筆頭、「水陸の田相半ば」とされ、その他の村はいずれも数十軒の規模であるとあります。
1605年(慶長9年)2月大久保長安幕命により、六十間を一町、三十六町を一里と定め、東海、東山、北陸三道に、一里塚を築き、新井宿、池上、多摩川の矢口に通じていたが廃せられて、鈴ヶ森磐井神社前から大森町を通過して、蒲田の梅屋敷に達する間、東海道、品川、川崎間の中宿として、大森は人足や駕籠かき等の替え場所となり、掛茶屋も街道に軒をつらねるようになり、当時の街道往来は想像以上の繁栄であったそうです。
その後、大森は幕府直轄の地となり、東、西、北の三村に分かれ、東海道の交通が煩雑になるにつれ、中宿大森村の人家が街道を挟んで増加し、街道の掛茶屋、旅人の荷物運搬人足の建場が設けられ、海路による交通荷物運搬等の利便のために、大森村の発展は他と比して急速な進展がみられました。
1854年(嘉永6年)に黒船が浦賀に来て通商を迫られたため幕府は沿岸警備の必要にせまわれ、「通俗荏原風土記」によれば東京湾防備として大森に台場を築き、幕府は加賀前田侯に警備にあたらせ中原の和中散の家を本陣としました。台場の跡は旧大森ガス会社(現ジャックニコラスG大森)の所在地でありました。

 江戸名所絵図大森和中散

「和中散」は、食あたり、暑気あたり等に効く、道中常備薬としてつくられ、旅人に珍重されました。1688~1716年(元禄から正徳)にかけて、大森村中原、谷戸、南原に三店が開業していました。このうち南原にあった店が、のちに北蒲田村の忠左衛門に譲られ、1818~1830年(文正年間)の始め、忠左衛門の子の久三郎の代に、梅屋敷に移転して庭園に梅の名木を集めて、休み茶屋を開きました。梅屋敷公園に1975年(昭和50年)3月19日指定の大田区指定史跡の和中散売薬所跡があります(「大森町界隈あれこれ 大森町風景 梅屋敷公園」参照)。

大森村の隣接の新井宿村と不入斗村全図
大森村絵図を見るにあたり、ここで隣接村の新井宿村と不入斗(いりやまず)村の地形図を見ておきましょう。
下図は、『入新井町史』(入新井町誌編纂部 編者 角田長藏 編集兼発行者 岩井和三郎 1927年(昭和2年)20日発行 非売品)の口絵で、明治9年に作成された新井宿村と不入斗村全図の絵図です。
絵図は右方が北で新井宿村と不入斗村の境界は、新井宿村は東海道線を境として上部分に、東海道線の下部分の紙田と永田が新井宿村であり、不入斗村は他の東海道線の下部分の大半と八景坂の一部が大森北一丁目に分かれて不入斗村に入ります。
明治時代には大森村ではありませんでしたが、大田区になった現在では、「長田、皿沼」は中央1、2、4丁目と山王3丁目ですが一部は大森北5丁目と大森西1丁目です。「河原作、西沼、新田」は大森西1、4丁目で、「八幡、潮田」が大森本町1丁目と大森北2、3丁目であります。「谷沢、谷中、川添」は大森北3、4、5、6丁目で、「中」は大森北1、3、4丁目で、「高田、堀後、根岸の一部」は大森北1、4丁目となっており、大森町界隈です。
明治初年頃は不入斗の多くは耕地であり、人家は少なかったのですが、現在になり人口の増加で町名が多くに分かれました。

 新井宿村と不入斗村全図

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大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第1回)

2010年07月16日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2010 在来上り線線路が撤去された大森町駅構内  

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京急の高架化工事も5月16日の上り線高架化開通により、空きとなった地上上り線の施設の旧線路や上り線ホームの撤去工事が進み、旧地上線路の踏切も下り線の線路幅に縮福されて踏切遮断機の移設が行われ、踏切の旧上り線線路上の道路の簡易舗装も済み、踏切の待ち時間が大幅に短縮されました。
今後の工事は、旧上り線施設の撤去工事を進め、下り線の高架化工事が開始されます。本ブログも、今回からタイトルを「全工区統合下り線高架化工事編」として進めますので、よろしくご支援とご閲覧をお願いします。

在来上り線施設の撤去工事
・第1工区

 第1工区高架工事予定表(7-8月)(工事予定表の拡大表示) 

7月13日には大森町駅第1踏切の旧上り線上の道路の簡易舗装が行われ、同様に大森町駅北方の平和島第5踏切道路でも上り線側の簡易舗装が済んでいました。同日その踏切上から北方の線路を見ると、大勢の作業員が内川橋梁の北部から踏切までの間の旧上り線線路の撤去作業の準備を行っていました。

 平和島第5踏切北方の線路撤去工事(:平和島第5踏切道旧上り線上の簡易舗装工事、:平和島第5踏切北方の旧上り線路撤去工事作業0713)

翌14日には同踏切南側の旧上り線線路の撤去作業の準備が行われていました。

 平和島第5踏切南方の線路撤去工事(0714写真拡大)

同15日に見ると、大森町駅構内の在来上りホームの南半分の線路が枕木から外され、線路が撤去されていました。工事作業表を見ると、7月29日と30日に撤去線路の搬出が行われる様です。なお、在来上りホームの撤去工事は、前回からの進展は見られません。

 在来大森町駅構内の線路撤去(0715写真拡大)

また、同13日には大森町駅第1踏切南の管理用地(ヤード跡)の整備工事が行われ、区道との境界に金網塀が付けられました。この区道は、高架化が完了すると内川南岸から蒲田の多摩堤通りまで、鉄道の高架化に関連して幅員6mの側道が整備され設けられる道路(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 関連側道整備編交通計画大森西地区説明会(第1回その1~3)」参照)です。

 第1踏切南のヤード跡の整備工事(0713写真拡大)

・第2工区
7月15に見ると梅屋敷駅構内在来ホームから、南方の梅屋敷公園南の梅屋敷駅第3踏切に至るまでの間の在来上り線線路が、枕木から外され線路が撤去されていました。

 最も早く進む梅屋敷の線路撤去工事(0715写真拡大)

梅屋敷第1踏切から同第3踏切間の線路撤去工事は、全区間では最も早く行われました。しかし、在来線の上りホームの撤去工事は未着手です。

 早く進む梅屋敷の線路撤去工事(左上中上:第1踏切付近の線路撤去工事、右上左下:第2踏切付近の線路撤去工事、中下右下:第3踏切付近の線路撤去工事0715)

・第3~5工区
7月15に見ると多摩堤通りの梅屋敷第4踏切南側の京急蒲田駅上り在来線ホーム付近では、在来上り線線路が枕木から外され線路が撤去されていました。
前回で示した様に、京急蒲田駅上り在来線ホームの撤去工事は進んでおり、同15日も複数台の工事クレーンを使用して撤去の工事が行われていました。また、京急蒲田第2踏切北側構内の旧上り線線路は、旧上りホームと空港線ホームへの分岐線路が通っていましたが、この分岐部分の線路の撤去が行われていました。この分岐線路は、上り線の高架化前には、上り線高架橋の西側に設けられた仮上り線高架橋を使用した旧上り線線路が結ばれており、横浜方面からの品川方面行きと、羽田空港直通乗り入れ列車が運用していました。
今後、下り線高架化工事が始められると、現在運行の下り線列車を上記の仮上り線高架橋を使用して運行し、下り線線路を空けて工事が行われます。このため、品川方面と空港からの横浜方面行きの下り列車は、在来1、2番線下りホームから線路を合流して、先の撤去された分岐線路付近から仮上り線高架橋へと線路が結ばれます。

 京急蒲田駅構内の旧上り線施設の撤去工事(:梅屋敷第4踏切蒲田駅構内の撤去された旧上り線線路、:クレーンを使用して撤去が進む旧上りホーム、:京急蒲田第2踏切北構内の旧上り線線路の撤去工事0715)

・第8工区
前回記述の様に糀谷駅の上り線ホームの解体撤去工事は、京急蒲田駅と並んで早くから進んでおり、7月16日に見るとホーム部がかなり解体され、後はホーム屋根部と柱の撤去が行われます。

 解体撤去工事中の糀谷駅旧上りホーム(左上中上右上左下中下右下:工事機で上りホーム解体工事中の現場0716)

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大森町界隈あれこれ 大森町の昔を古地図で探る 大森村絵図その1

2010年07月12日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2010 荏原郡大森村内川橋(明治14年発行複製地図日本地図センター)

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古地図で昔の大森を探る
・大森町の過去の災害
大森町界隈は、過去に天災と戦災の大きな災害を2度被っています。その1は1923年(大正12年)9月1日に神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生したマグニチュード7.9の関東大震災による災害です。
2つ目戦災は、第二次世界大戦参戦により東京大空襲を受け、大森町の空襲被害は1945年4月15日(「大森町界隈あれこれ 鎮魂!大森町大空襲(第6~11回)」参照)の空襲で、京浜工業地帯の鶴見、川崎、蒲田、大森が精密工業の中心であることから、米軍は工場を破壊することを作戦として、B29爆撃部隊3航空団の1つが大森の平和島以南から蒲田以北の京浜国道を中央線とした大森町の工場破壊を目標として爆撃が行われ、他の2航空団が現在の川崎市小田、浅田、南渡田町を中心とした工場殲滅の爆撃が行われました。この空襲で、大森は6万8千戸を焼き尽くされ、特に大森町は壊滅的被害を蒙りました。川崎は3万5千戸を焼き尽くされました。
この2回に亘る災害で、大森町にあった遺産の建造物や資料類は、石造物以外は殆ど消失してしまいました。

 大森町周辺戦災焼失地図(黄色部が焼失地域)(戰災燒失地域表示 新生 東京詳細地圖19460505 京極堂CD-ROMから)

・地図から昔の大森を見る
有形・無形の資産は、貴重な歴史資産ですが、記録資料も立派な歴史情報です。現在は、ITを活用することにより、誰でも簡単にいつでも記録情報を作成し保存することができますが、一昔前では情報を紙での記録しか残せませんでした。しかも、情報所有者の頭の中の情報を伝える手段に限りがありましたので、貴重なローカルな歴史情報が殆ど残されていないのが実情です。
現在、一般に使用している地図には、地形、交通道路は一見して見ることができますが、そのほか産業、文化、生活環境、人口、区域変遷、交通や時代反映などの表現されていない沢山の情報が秘められています。そこで、大森町界隈の残された数少ない歴史資料を補うため、各時代の大森の地図を見て歴史を探り、情報を纏めておく必要を感じて、「古地図で大森を探る」を開始します。
下記の現在の大森町周辺地図にオレンジ色で示された線は旧東海道を示すもので、第1京浜国道と分離した部分は三原通りと呼ばれ、昔から人家が賑わっていた場所であったので、第1京浜国道建設は離れた場所に造られました。第1京浜国道は、時代と共に何度となく道幅の幅員拡張が西側方向でお行われ、旧東海道端は東側サイドが一致しています。

 現在の大森町周辺地図

大森村絵図
古地図で大森を探るの第1回目の大森村絵図は、前回記事で掲載の様に昨年の秋に大森村の古図(東京府武蔵国荏原郡大森村明治14年5月発行複製)を購入するため日本地図センターに出かけた際、「大森村絵図」の紹介した雑誌が目に留まり、その絵図が「大田区史(資料編)諸家文書3」に所収されていることを知り、大田区役所で閲覧できたことにより大森村絵図を入手しました。絵図が描かれたと云われる明治元年7月から同5年の時代の大森村絵図は、この時代の大森村を知るためには貴重な資料であり、先ずは大森村絵図から昔の大森村を探ります。
下記に掲載の大森村絵図は4葉構成で、サイズが非常に大きく縦が1550mm、横が1875mmもあり、掲載のためのコピーには原版をA3サイズ24枚に分割コピーし、それを15枚に編集し割愛分割して作成したものです。

 荏原郡大森村絵図(大田区史(資料編)諸家文書3から)

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Kan-haru日記へのご訪問有難うございます 本日からKan-haru日記を第2部に衣替えします

2010年07月10日 | Weblog
kan-haru blog 2010 

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Kan-haru日記へのご訪問、誠にありがとうございます。お蔭さまで、これまでのご訪問者は41万を超え、閲覧数も116万を超えました。今後ともご閲覧の程を、宜しくお願い致します。

Kan-haru日記の記事で「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化」は、沢山の方々のご閲覧を頂いており、誠に感謝致しております。
京急の高架化も5月16日に上り線の高架化が開通し、これからは下り線の高架化工事を手掛けてまいります。下り線の高架橋の築造工事は、平和島と平和島第5踏切間、京急蒲田第6踏切と同第9踏切間、雑色第4踏切と六郷土手間および、糀谷第1踏切と同第2踏切手前の傾斜高架橋の4区間の工事となります。
下り線の高架橋の築造工事は、上り線の高架橋が築造されたため、周辺の地上からの展望は難しくなって参りましたので、車中からのビデオ撮影を主体として地上撮影も交えて掲載して参りますので、今まで以上のご閲覧をお願いします。

平和島ー大森町(地上線路).wmv


これから高架化工事が行われる平和島駅駅ー大森町間の下り本線地上ルート運転ビデオ(クリックすると再生できます)

Kan-haru日記の2番目のテーマの大森町界隈あれこれシリーズで、大森町の世界大戦の空襲、社寺、商店街、海苔、風景、イベントおよび大森町の学びやのカテゴリーを掲載してきましたが、新たに「大森町の昔を古地図で探る」を風景のカテゴリーの中に追加していきますので、よろしくお願いいたします。
下の図は、日本地図センター発行の月刊「地図中心」平成21年10月号の表紙です。表紙に書かれている絵図は、明治初期に作成された「大森村絵図」の一部です。この絵図の説明を大田区立郷土博物館の北村敏氏の説明によると、大森村は明治5年に東・西・北の大森村三村が統一されたので、絵図には三村が表示されているので、作成は明治元年7月から同5年の統合までに描かれてものであろう。中央の太い赤い帯が東海道で、右方が江戸である。細い赤線が村道で、水色が馬込村の谷戸を水源とする自然河川の内川で、内川の右から合流するのが六郷領35村の水田を灌漑し終えた六郷用水北堀の末流余水である。
東海道は内川板橋で繋がれ、橋の袂から羽田道が延びて厳正寺が接しています。大林寺などの寺社や小祠は、ほぼ今日と一致しています。大森村絵図の全体図(一橋大学蔵)は、縦155cm、横187.5cmと大きなもので、現存する大森の最古の地(絵)図で当時の大森の情報が手に取るようにわかります。この大森村絵図は大田区の「大田区史(資料編)諸家文書3」に所収されており、絵図を入手できましたので見て行きたいと思います。
また古地図は、東京府武蔵国荏原郡大森村明治14年5月発行を初めとして、大正、昭和の各時代の大森の地図を見て行きたいとおもいます。

 「地図中心」平成21年10月号の表紙の大森村絵図

その他の一般記事の風景・風物詩、小さな旅、旅ものがたりなどその他のカテゴリーの投稿記事には、従来の延長で掲載していきます。最近掲載を始めた小さな旅での龍馬シリーズは、勝海舟と西郷隆盛の大田区池上本門寺松涛園での会見記事を掲載したところです。これからも継続していきますのでご閲覧をお願い致します。

 池上本門寺松濤園案内図 

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小さな旅 勝海舟 牛島で修行し赤坂・洗足池と移り、西郷と会見で江戸無血開城戦禍から救う その2

2010年07月05日 | 小さな旅
kan-haru blog 2010 池上本門寺松濤園の西郷・勝会見の碑 

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勝海舟は本所の牛島神社で剣術の稽古に励み、18歳で禅を弘福寺で学び、1845年(弘化2年) 23歳で赤坂溜池の筑前黒田藩邸に通って永井青崖について蘭学を学び、同年岡野孫一郎の養女民子(砥目氏の娘)と結婚しました。
翌1846年(弘化3年)に、所帯を持ったことを機に本所(墨田区)から赤坂田町に転居して、活動の場を移し赤坂(港区)で終生を過ごしました。晩年には葛飾区東四ツ木一丁目と洗足池畔の大田区南千束一丁目に別邸を設け、墓は別邸そばの洗足池に面して造られました。

 赤坂に住居の3か所の勝海舟邸江戸地図(①:最初に本所から転居した借家、②:長崎から江戸に戻った2度目の赤坂元氷川町邸、③:静岡より帰京して元旗本屋敷を買い取った3度目の邸宅 goo今井谷六本木赤坂萬延二年景山致恭図)

勝海舟の銅像
・墨田区役所
江戸本所亀沢町で生誕した勝海舟のゆかりの地の墨田区では、墨田区役所内に勝海舟コーナーを設け、勝海舟の偉業を称え、墨田区民の皆さんを中心に「海舟の功績を後世に残すために全身像を建てよう」という機運が高まり、全国規模で賛同者から銅像建設のための募金が集められ、銅像が市民グループ「勝海舟の銅像を建てる会」により建立されています。墨田区役所には、所用の際の5月6日に立ち寄って見ました。
墨田区役所(墨田区吾妻橋1-23-20)では、毎年3月10日を前に東京大空襲の犠牲者への追悼と平和への祈りを込めて、ボランティアの協力で作られた折り鶴約13万羽の「平和のオブジェ」が、ロビーの壁面(高さ約13メートル、幅約7.5メートル)に飾られます。また、ロビーには現在建設が進められている東京スカイツリーの模型が置かれてあります。

 墨田区役所(:墨田区役所、:墨田区役所平和のオブジェ、:墨田区役所スカイツリーの模型)

区役所の1階展示室には、歴史的文化的な観光資源としての勝海舟銅像について普及・PRを図るとともに、勝海舟の事積等を紹介することを目的に、勝海舟コーナーが開設されており、咸臨丸模型(縮尺1/50)、銅像レプリカやパネルなどが展示されています。

 勝海舟コーナー(:勝海舟銅像と咸臨丸レプリカ、:勝・西郷会見、:パネル展示)

勝海舟の銅像は、生誕180年を迎えた2003年7月21日に区役所のうるおい広場に建てられ、除幕式が行われました。建立のきっかけは、鵜沢義行・日大名誉教授が平成11年に区教委主催で開いた「墨田区と勝海舟」講座で、「江戸を戦火から救い、今日の東京の発展と近代日本の舵取りをした。銅像がないのは寂しい」と話した講演後、約20人の聴衆が像建立の寄付を申し出たのが発端で、その後「勝海舟の銅像を建てる会」立ち上がり800人以上から約4900万円の寄付が集まりました。銅像は、地元で育った彫刻家の木内礼智・東京家政大名誉教授が制作し、高さは255㎝で江戸城無血開城の時の40代当時の勝を描いたものです。

 勝海舟銅像(写真拡大)

赤坂での勝海舟
赤坂に移ってからの勝海舟の活動を年表から拾うと、23歳で所帯を持った勝海舟は、赤坂田町中通り(現赤坂3-13-2のみすじ通り)の借家に住み、当初は日蘭辞書(ツーフハルマ)の筆書を2部作り、1部は売却した。28歳で私塾を開き蘭学と西洋兵学を教えました。
・赤坂元氷川町邸時代
33歳の1855年(安政2年)に長崎海軍伝習を命じられ長崎に向かい、翌年には講武所砲術師範役となり咸臨丸で航海などをして、1859年(安政6年)37歳で江戸に戻り赤坂元氷川町に転居しました(「小さな旅 竜馬と赤坂 竜馬の足跡を追い赤坂本氷川坂の勝海舟邸跡を歩く(その2)」参照)。
江戸に戻るとアメリカ派遣を命じられ、38歳の1860年(万延元年)の正月13日に咸臨丸で品川を出航して2月25日にサンフランシスコに到着する。同3月18日にサンフランシスコを出航して5月に江戸に帰りました。1862年(文久2年)軍艦操練所頭取となり、このころ海舟を刺殺しようとして訪れた坂本龍馬などに、世界情勢を説いて決意を変えさせて門下生として育て、明治維新への流れに重要な転機を与えることになったのもこの邸宅でした。42歳の1864年(元治元年)に軍艦奉行となり、従五位下安房守に叙せられる。
1866年(慶応2年)8月に、一橋慶喜より長州藩との休戦を調停する密命を受け、安芸宮島で長州藩広沢真臣らと会談して休戦を協定する。1868年(慶応4年)の46歳で陸軍総裁となるも、免じられて軍事取扱いを命じられました。

・勝海舟と西郷隆盛の会見
1868年(慶応4年)、官軍が江戸総攻撃を3月15日に予定するなか、第一回の会談は徳川側の勝海舟が高輪の薩摩藩邸(現港区高輪三丁目のホテルパシフィック)を訪ね、東征軍参謀の西郷隆盛と会見し、江戸城開城の手筈と徳川宗家の今後などについての交渉が行われました。

 高輪の薩摩藩邸

第二回の会談は三田海岸の薩摩藩邸屋敷の表側にある民家(現港区五丁目の三菱自動車ビル)で行われました。

 薩摩藩蔵屋敷と薩摩藩田町藩邸江戸地図

この結果、江戸無血開城が決定され、戦火から江戸の町と百万市民の生命を救うことができました。
この会談の後も戌辰戦争は続いたが、勝海舟は、旧幕府方が新政府に抵抗することは反対だった。その理由は,一旦は戦術的勝利を収めても、戦略的勝利を得るのは困難であると考え、内戦が長引けばイギリスが支援する新政府方と、フランスが支援する旧幕府方で、国内が二分される恐れがあること等が理由である。(墨田区勝海舟コーナーから)

 西郷・勝会見の地(左上:三菱自動車ビル前の西郷・勝会見の地碑、中上:西郷・勝会見の地碑の裏面、右上:西郷・勝会見の図、左下:西郷・勝会見の地説明案内、中下:JR田町駅の西郷・勝会見の図、右下:JR田町駅の西郷・勝会見の説明板)

同4月11日に江戸城の引き渡しが行われました。この時の会見の場所が、池上本門寺の松涛園であるとの説があります(「風景・風物詩 池上松涛園 西郷隆盛・勝海舟の江戸城開場会見の名園 その2」参照)。石碑は西郷隆盛の甥にあたる西郷従徳の揮毫で1941年(昭和16年)に建てられたものです。
同9月8日に改元して明治元年となり、10月に東京を離れて駿府に向かう。

 池上本門寺松濤園案内図

・赤坂氷川町4邸宅
1869年(明治2年)に安房守を安芳と改め、安芳を本名とする。1872年(明治5年)の50歳の時静岡より帰京して、赤坂氷川町4(現赤坂6-6-14)元旗本屋敷を買い取った邸宅に移転しました(「小さな旅 竜馬と赤坂 竜馬の足跡を追い赤坂本氷川坂の勝海舟邸跡を歩く(その1)」参照)。
1879年(明治12年)57歳の時、木下川浄光寺境内に西郷隆盛追悼の自筆の碑を建立し、後に洗足池の別宅の傍に移設する(「小さな旅 大田区と竜馬 池畔に別荘を構え勝海舟墓所のある洗足池を歩く その2」参照)。
1883年(明治16年)に西郷隆盛の名誉回復運動を行い、翌年に西郷隆盛の名誉を回復する。
65歳の1887年(明治20年)に伯爵となり華族に列する。1891年(明治24年)に洗足池畔に別邸を建築して洗足軒と名付けました。
1899年(明治32年)1月19日に77歳で赤坂の自宅で死去し青山墓地で葬儀が行われ、同25日に洗足池畔の墓地(「小さな旅 大田区と竜馬 池畔に別荘を構え勝海舟墓所のある洗足池を歩く その1」参照)に葬られました。

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小さな旅 勝海舟 牛島で修行し赤坂・洗足池と移り、西郷と会見で江戸無血開城戦禍から救う その1

2010年07月03日 | 小さな旅
kan-haru blog 2010 墨堤常夜燈  

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龍馬シリーズも立会川、赤坂、洗足池と進み、今回は本所で生誕した勝海舟が向島で剣術と禅の修業し、三田の薩摩藩蔵屋敷で西郷と会見した場所までを追ってみました。

勝生誕の地
勝海舟は、1823年(文政6年)に江戸本所亀沢町で、父小吉の実家の旗本の男谷家で誕生し、勝家に養子に出され24歳までは本所入江町で暮らしていました。西郷吉之助書の『勝海舟生誕之地』の碑は、両国公園(墨田区両国4-25) 内に建立されています。碑文には、「勝海舟先生は幼名を麟太郎と稱し文政6年1月晦日この地男谷家邸内に生まる。剣は島田虎之助に師事し蘭學海洋術を學び安政7年咸臨丸艦長として渡米す。明治元年3月13日高輪薩摩邸に於いて西郷隆盛と會談。官軍の江戸進撃を中止させ江戸百萬の庶民を戰禍より救い東京都繁栄の基礎となせり。明治32年1月19日赤坂氷川の自邸に於いて歿す。明治百年を記念しこの碑を建つ」と書いてあります。(「小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その4」参照)。

 勝海舟生誕地と居住地(goo地図(江戸切絵図)嘉永新鐫本所絵図から再掲)

・勝海舟の胸像
1774 年(安永3年)5月11日に、下総之国葛飾郡本所横川町の旗本能勢筑前守頼直の江戸下屋敷内に創建した能勢妙見堂(墨田区本所4-6-14)は、勝海舟の胸像が建立されています。この能勢妙見堂は、子母澤寛の小説では、「勝海舟こと幼き勝麟太郎が九つの時、狂犬に襲われ、睾丸の片方を食いちぎられ、医師さえ諦めた、生死を彷徨う息子を、父、勝小吉が能勢妙見堂で水垢離をして祈り、三日三晩抱きしめて、体温を上げ続けて、どうにか助けたとあります。」(「小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その5」参照)。

 能勢屋敷妙見堂江戸地図(goo地図(江戸切絵図)嘉永新鐫本所絵図から再掲)

・弘福寺
勝海舟は、実父小吉の本家で従兄弟の男谷精一郎の道場で、後に精一郎の高弟島田虎之助の道場(浅草新堀)に住み込んで剣術習い、夜は牛島神社で寒稽古に励み、直心影流の免許皆伝となりました。また、師匠の虎之助の勧めにより弘福寺で禅も学びました。
海舟が稽古に励んだ牛嶋神社は、本所の総鎮守で創建は860 (貞観2年)と伝えられ、墨堤常夜灯の下の大銀杏のある場所(向島須崎町)にありました。現在は、関東大震災後の隅田堤の拡張により1932年(昭和7年)に墨堤常夜灯から500m南の現在地に移動しました(「小さな旅すみだ郷土文化資料館と墨田川江戸流しびな」参照)。

 弘福寺江戸地図(goo地図(江戸切絵図)安政新判隅田川向嶋絵図から)

今まで隅田川のすみだ郷土文化資料館より北方の弘福寺付近は歩いたことがなかったので、7月1日に勝海舟に因んで墨堤常夜灯などの墨堤の史跡と桜橋から見たスカイツリーを眺めながら散策してきました。弘福寺へは、都営浅草駅から江戸通りを進み、言問橋を渡り牛嶋神社の北の水戸街道の手前の道を北進して三囲神社脇を通り、向島5丁目に入ると右側に中国風の重層の建築は唐様の山門の弘福寺です。

 弘福寺付近地図

弘福寺(墨田区向島5-3-2)は、東京都墨田区にある黄檗宗(おうばくしゅう)の大本山である宇治の黄檗山万福寺の末寺で, 1673年(延宝2年)に名僧鉄牛禅寺(てつぎゅうぜんじ)によって創建したと伝えられている日蓮宗で、本尊は釈迦如来が祀られています。

 弘福寺(写真拡大)

堂宇は関東大震災で焼失し、現在の建物は1933年(昭和8年)に再建されたものです。弘福寺の鐘楼にかかる梵鐘は、高さ117.0センチメートル、口径63.4センチメートルで1688年(貞享5年)6月に鋳造されたもので、『江戸名所図会』などにも登場するよく知られた梵鐘です。

 堂宇(:本堂、:鐘楼) 

境内の祠には、「咳の爺婆尊」と呼ばれる二つの石像が並び、修行中の風外禅師が、父母の姿を彫って孝養した石像と云われ、「風外」という作者名から風邪に効くと言われるようになり、ぜんそくや咳を治すという信仰が生まれました。

 爺婆尊(写真拡大)

・長命寺の桜餅
弘福寺の隣の長命寺(墨田区向島5-4-4)は、隅田川七福神の弁財天が祀られています。三代将軍徳川家光が、鷹狩にて腹痛に見舞われた際、寺内の井戸水で薬を服用し快癒しました。これにより井戸水は長命水の名を授けられ、寺号も長命寺となりました。長命寺は言問幼稚園が併設され、正門はウイクデーの園児の在園時間帯は入りにくい雰囲気でしたので、歌碑、俳句碑等の石碑が沢山あるのですが参拝は見送りとしました。
長命寺の桜餅(墨田区向島5-1-14)は、1717年(享保2年)初代山本新六が隅田川土手の桜の葉を集め、塩漬けにして桜餅を考案、向島の名跡長命寺の門前にて売り始めてそれから二百八十年余、隅田堤の桜と共に名物となりました。通常の桜餅は、桜の葉1枚をですが、長命寺の桜餅の桜の葉は3枚使用します。

 長命寺(:長命寺、:長命寺桜もち)

・野口雨情の文学碑
長命寺から墨堤に出ると、野口雨情の文学碑があり、碑には「都鳥さへ夜長のころは水に歌書く夢も見る」とあり、墨田区の立札の解説には
「ここに刻まれた都鳥の詩は、日本童謡民謡の先駆、巨匠野口雨情氏が、昭和8年、門下生の詩謡集の序詞執筆のため当地に来遊の折、唱われたものである。東京都民の心のふるさとである隅田川ぞいを飾るにふさわしい作品として、記念碑に刻し、永遠に保存する。 昭和63年10月9日 墨田区」とあります。

 野口雨情の文学碑

・墨堤植桜之碑
1877年(明治20年)に建てられた約3メートルの巨大な石碑です。向島に在住した榎本武揚揮毫による篆額、浜邨大■(はまむらたいかい)の文と撰によります。当初、この碑は言問亭(現言問団子)の西南の岸辺に建てられましたが、水害等のために1896年(明治29年)8月に現在の位置に移されました。
墨堤は、『江戸名所花暦』に「江戸第一の花の名所」と称された桜の景勝地です。堤に初めて桜を植えた来歴から大水による被害、地元住民たちの植桜による墨堤の再生などを含めた墨堤の歴史と、今後末永く保存し、顕彰したい願いが朗々と刻まれています。明治時代始めに、桜の樹齢である60年から70年までに重なり桜が枯れたため、この状況を憂えた大倉喜八郎が、その再生を成島柳北に呼びかけ、一千本の桜を植えました。これがきっかけとなり、安田善次郎などの財界人をはじめ村人までもがひとつとなり、石碑の建立が成し遂げられました。(すみだウエブサイトから)

 墨堤植桜之碑(:墨堤植桜之碑説明)

・墨堤常夜燈
この常夜燈は、1871年(明治4年)に牛嶋神社の氏子たちによって奉納されたものです。対岸の料亭も含めて、料亭29軒、個人50名以上の名前が刻まれています。この中には、当時有名だった料亭の植半・八百松・武蔵屋を始め、現在も続く駒形どぜう・言問団子・長命寺の桜餅なども名を連ねています。建立以降、三度の改築・修繕を経て今日に姿をとどめています。
かつては牛嶋神社の境内地、土手から神社へ下る坂の入口に建てられたようです。隅田川を往来する川舟のための灯台としてその安全を祈るとともに、墨堤の燈明も兼ねていました。関東大震災の後、牛嶋神社が移転したため、常夜燈だけが元の位置のまま今日まで残りました。
石燈籠としては琴柱(ことじ)形の脚部をもつ独特の形で、明治時代の画家たちは、好んで墨堤の桜と常夜燈を組み合せることで、向島の風情を描き出していました。(すみだウエブサイトから)

 墨堤常夜燈(:墨堤常夜燈説明)

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番外編カテゴリー別ブログ記事の検索と見方 7月INDEX

2010年07月01日 | INDEX
kan-haru blog 2010 7月1日23版

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K&A kan-haruの日記の月間INDEXは、毎月1日付けで掲載しており前月の登録記事の即時検索のほか、カテゴリー別の登録記事の全て(2006年3月から最新登録まで)の検索ができます。
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カテゴリー名の「ようこそ kan-haru日記へ」欄内には、次に示す日記の総合目次と日記を見るためのガイダンスが掲載してあります。
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ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その1)  2007年1月30日 更新
ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その2)  2007年1月22日更新
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番外編 ブログ記事の参照地図を拡大して見る方法 [付 kan-haruの日記3月月間INDEX] 2006年4月1日

  大森町界隈あれこれ カテゴリー別目次
■印覧の10年6月掲載項目以外の目次は、下記の項番に付記された下線付きのカテゴリー項目を選択すると、当該カテゴリーの掲載当初から現在日時点までの目次が見られます。

 1 大森町界隈あれこれ 大森町に住んで65年!
 2 大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記 総目次
  2-1 大森町界隈あれこれ 鎮魂! 大森町大空襲 (第1編)
      付 東京大空襲 ~あれから61年~
  2-2 大森町界隈あれこれ 手記第2編 戦災日誌中野編
  2-3 大森町界隈あれこれ 手記第3編 戦前戦後目黒にて
 3 大森町界隈あれこれ 戦後編若山武義氏手記 総目次
  3-1 大森町界隈あれこれ 戦後史編手記 第1~4編総目次
 4 大森町界隈あれこれ 大森町の社寺
 5 大森町界隈あれこれ 大森町商店街
 6 大森町界隈あれこれ 大森海苔
 7 大森町界隈あれこれ 京浜急行関連
  ◇ 2006・2007年版2008年前期版2008年中期版2008年後期版2009年前期版2009年中期版2009年中Ⅱ期版2009年後期版2010年前期版2010年前Ⅱ期版
 8 大森町界隈あれこれ 大森町風景
 9 大森町界隈あれこれ イベント  
10 大森町界隈あれこれ 大森町学びや
 
  大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 サブ・カテゴリー別目次

11 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 Sub INDEX
  ◇ 関連側道全工区統合 2009・2010年版大森町付近工区2006・2007年版大森町付近工区2008年版大森町付近工区2009年版梅屋敷付近工区京急蒲田付近工区2006~2008年版京急蒲田付近工区2009年版雑色付近工区糀谷付近工区
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合編(第24回)上り線高架化開通ビデオ雑色編 6月5日
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合編(第25回その1)上り線高架化開通ビデオ糀谷編 6月7日 
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合編(第25回その2)上り線高架化開通ビデオ糀谷編 6月9日
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合編(第26回)上り線高架化開通後工事 6月15日
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合編(第27回)上り線高架化開通後工事 6月30日

  一般 カテゴリー別目次

21 風景・風物詩 総目次
  ◇ 2006・2007年版2007・2008年版2008~2010年版
22 小さな旅 総目次
  ◇ 2006~2009年版2009・2010年版
 ■ 小さな旅 大田区と竜馬 池畔に別荘を構え勝海舟墓所のある洗足池を歩く その2 6月3日
 ■ 小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その1 6月17日
 ■ 小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その2 6月20日
 ■ 小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その3 6月23日
 ■ 小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その4 6月25日
 ■ 小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その5 6月28日
23 旅ものがたり 総目次
24 秋葉原界隈 総目次
25 イベント 総目次
  ◇ 2006・2007年版2008年版2009年版
26 ITと技術 総目次
27 Weblog 総目次
 ■ Kan-haru日記へのご訪問有難うございます 日記からのお知らせと平和島仮高架橋列車運行ビデオ 6月10日

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