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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 梅屋敷駅付近(第4回)

2007年11月30日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2007 工事のお知らせ掲示案内拡大

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梅屋敷駅付近の高架化架橋工事
これまでの、梅屋敷駅付近の高架化工事は、梅屋敷第4踏切(多摩堤通り)から梅屋敷第3踏切(梅屋敷公園南側)の中間までは、2階建て複線の高架橋がかなり早い時期から着手されておりました。

           梅屋敷第4踏切付近2階建て高架化架橋(写真再掲)

それより北部の梅屋敷第2踏切までの梅屋敷添いも、梅屋敷公園敷地をかなり削りとって、高架化架橋の工事の準備(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 梅屋敷駅付近(第3回)」参照)が進められてきました。

次いで、それより北部の梅屋敷第1踏切までについては、線路を第一京浜国道側に約3m移設して工事の準備が進められました。
梅屋敷駅上の高架化架橋の建設準備としては、線路を第一京浜国道側に移設のため、下りホームの東口駅舎、改札口、トイレと売店などの移動(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 梅屋敷駅付近(第1、2回) 」参照)が行われました。

           下りホームの東口駅舎、改札口、トイレと売店などの移動

梅屋敷駅上の高架化架橋建設
これにより、梅屋敷駅上の高架化架橋の建設準備が整い、ホーム上の工事を告げるお知らせ(トップ写真拡大)が掲示されました。
これに伴い、梅屋敷第1踏切南側まで移動してきた工事機械が、梅屋敷ホーム南端の上に備えつけられました。

 工事機械の移動 左:梅屋敷第1踏切南側にあった工事機械(11月18日撮影)写真拡大 
 中:工事機械が梅屋敷駅ホーム南端の上に移動(11月23日撮影)写真拡大
 右:梅屋敷第1踏切南側にあった工事機械が移動した跡(11月23日撮影)

これで、梅屋敷駅上の高架化架橋の建設が京急蒲田駅側から着手され、品川方面に移動しながら高架化が進められます。

  工事機械が駅ホーム上に敷設(左写真拡大)  ペアーの第2工事機械が北上(右写真拡大)

京急電車時刻ダイヤ改正
京浜急行電鉄では、2007年12月2日から、梅屋敷駅の南隣の京急蒲田駅の本線上り3番線ホームを、第一京浜国道側に新設した新3番線ホームに移設し、これにより蒲田駅でも駅上の高架化架橋の建設が進展します。
時期を合わせ、同日から時刻ダイヤが改正され新ダイヤとなります。改正の時刻表が、350円で販売されました。

 2007年時刻表拡大2006年時刻表拡大

新時刻表は、2006年時刻表の表紙が京急電車カラーのレッドでデザインされたものから、品川駅1・2番線のホームを背景に、初代の1000形電車(1959年登場)と並んで新1000形電車(2002年登場)が入線している場面の、黒基調の大井写真のデザインのため、前年のものと比較すると暗い感じがします。

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大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 京急蒲田駅付近(第3回)

2007年11月28日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2007 上り線ホーム連絡通路拡大

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京急蒲田駅高架化工事のこれまでの経緯
京浜急行電鉄の高架化工事最大の蒲田駅の高架橋工事は、先ず空港線と本線下りで使用していた1・2番線ホームを、2005年05月に第一京浜国道側に別置の仮設ホームを新たに設けて、そこを新1番線として空港線が約16m東方に移設(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 京急蒲田駅付近(第1回その1)」参照)されました。

次いで、2006年11月26日に、京急本線下り線が仮設ホームの新2番ホームに移設(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 京急蒲田駅付近(第1回その2)」参照)されました。1993年に空港線が都心直通となり、1998年には横浜方面とも直通運転に使用されたこれまでのホームと線路はきれいに撤去(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 京急蒲田駅付近(第2回)」参照)され、周囲には白い囲い塀で遮られホーム跡の工事状況は見られなくなりました。

 本線下り線が仮設ホーム新2番ホームに移設(061126)   在来2番線ホームを撤去

本線上りホームの移設
空港線と本線下りホームの移設が済んだので、2007年12月2日から「京急蒲田駅の上り線ホーム連絡通路が変わります!」という案内通知が張り出されましたので、状況の様子を11月18日に取材してきました。

       在来2番線ホーム跡には太い高架橋脚の構築が進む(070910撮影)

撤去された元の1、2番線ホーム跡では、本年の9月頃からホームがあった場所の所に道床が設けられ、コンクリート枕木が設置され始めており、11月18日には新たに本線上り線となる線路が敷かれておりました。また、下り線線路が施設されていた場所には、太い円柱の高架橋脚と新たな3番線となるホームがあらかた出来ておりました。

      在来2番線ホーム跡には新3番線仮設ホームと本線上り線路が敷設済み

新たな本線上り線路は、蒲田第2踏切上では現在の空港線乗り入れ線を通り、踏切の先で新たな上り線路として分岐する形がとられております。

 蒲田第2踏切上から見た本線上り移設線路 左:横浜方面を望む(空港線乗り入れ線路)、
 中:京急蒲田駅ホームを望む(空港線乗り入れ線路から直進分岐する本線上り線路)、
 右:駅ホームを望む(直進分岐した本線上り線路は左カーブして新3番仮設ホームに進む)

また、多摩堤通りの梅屋敷第4踏切上の上り線路は、本線下り線路と平行して走り、踏切りを超えたところで合流します。

 梅屋敷第4踏切上から駅側を見た本線上り移設線路 左・中:新3番仮設ホームから出た
 本線上り移設線路は、下り線路に平行して踏切を直進する
 右:梅屋敷側を見た本線上り移設線路 踏切を直進する移設線路は、踏切を超えたところ
 で現在のぼり線路と合流

ホーム連絡通路
上りホームが移設すると、現在の上下ホームの連絡通路は、新たな2ヶ所の地下通路となり、現在の跨線通路と地下通路は閉鎖されます。
また、蒲田駅西口改札所は、当初現在の1番線ホームにある既存の改札口を使用して、新1番線には新旧ホーム間を通路で繋いで連絡するようです。


新たな地下連絡通路と東口改札所はまだ見えてきませんが、覆われている第一京浜国道側の東口出口付近の姿ははっきりしません。

12月2日以降解体の京急蒲田駅東口     新たな京急蒲田駅東口となる工事現場

同様に、新2ヶ所の新たなホーム連絡通路の階段とエレベータの形も分かりませんが、この週末には姿を現します。

 現在の京急蒲田駅西口   現在3番線ホームと移設3番線ホームは仮通路により連絡

これにより、空港線、本線上り・下りと移設が済み、いよいよ京急蒲田駅の複雑な高架橋の工事が本格的に進展していきます。

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旅ものがたり 同窓旧友たちの旅 袋田の滝と大子温泉 その2

2007年11月26日 | 旅ものがたり
kan-haru blog 2007

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茨城県大子町の地勢
大子観光の袋田の滝を鑑賞し、だいごレトロ館でゆっくりとお茶を飲み休憩した、ここ奥久慈大子町の地勢は、水戸市の北約55kmの地点にあり、茨城県の最北西端で、中心地(役場所在地)は海抜103m、東経140度21分、北緯36度46分に位置しています。北は八溝山系を境に福島県、西は栃木県、東は茨城県常陸太田市、南は茨城県常陸大宮市にそれぞれ境を接しています。
面積の約8割は、八溝山系と阿武隈山系からなる山岳地で、山あいから流れる中小河川は数多く、これらは源を福島県に発して町の中央部を流れる久慈川に注いでいます。この各河川に沿って、狭あいながらも耕地が開け、人家が集落を形成しています。

                        大子町地図拡大

海抜100m奥久慈のこの時期の朝晩の気温は冷え込みの季節を迎えますが、今年も友たちの旅では天気に恵まれ、風も無く暖かい秋の日和に恵まれました。

奥久慈の宿泊温泉はホテル奥久慈館
だいごレトロ館から大子温泉ホテル奥久慈館(茨城県久慈郡大子町池田2369-3)へは、タクシーを呼び5時前にチェックインしましたが、ホテルの駐車場はすでにかなりの数の宿泊者の車が駐車しておりました。
3階の並びの部屋に案内され荷物を整理して、早速旅の疲れを落とすため、古くから美人の湯とされている、肌を滑らかにする温泉にゆったりと浸かりました。
温泉の効能は、泉質がナトリウム-硫酸塩・塩化物泉で、効能は血圧、動脈硬化、外傷などに効くようです。

殿方の浴場は、地下にあり大浴場と岩風呂がありエレベータで降ります。婦人の浴場は1階にあり、良くある時間交代制ではなく、午後1時から午前0時までと、午前5時から11時まで自由に入浴できます。ここの温泉は、宿泊の部屋が空いていれば、翌日も部屋を利用でき、入浴・町内散策が自由にできるサービスを行っています。

手前:殿方大浴場、奥:岩風呂  大浴場岩風呂と大浴場美人の湯(ホテル奥久慈から) 

・伊東園グループ
ホテル奥久慈館は、クリアックスグループの株式会社スタディーが伊豆半島を中心に廃業した老舗のホテルを改装し温泉旅館・ホテルを運営するチェーン旅館で、365日同一料金1泊2食付、1室3名以上の場合6,800円という料金システムで営業をしています。また、チェックイン・アウトの時間が自由であったり、ホテルによりカラオケやインターネット・囲碁・将棋・麻雀ルーム等が無料で利用できるのも特徴です。
驚く程おいしい食事や高級感があふれる部屋とかお風呂、というわけにはいきませんが、旅館を改装して朝食のバイキング食堂なども大変明るく綺麗で、客室の浴衣、半纏、歯ブラシ、などの備品は完備しており、従業員の態度も行き届いておりました。

友たちと楽しい夜の宴会
夕食は、和食善と銘うった料理です。宴会は、観光のウォーキングにより空腹が待ちきれず、18時半から始まりビール、酒と話が進み、Wさんも宴会席のかたはらに、一緒に座っているような感じがしました。卒業後51年を過ぎた友たちの友情は固いのです。
若い時には、一緒に登山して麓の温泉に泊まりました。目の前の、鮎の塩焼きをみると感慨深いものがあります。


二日目の奥久慈やなの観光
ホテル奥久慈館の天然温泉で気持ちも、体もすっかり癒して二日目の観光です。


二日目の観光は奥久慈大子観光のやなで、この日も天気が良く、暖かい日でしたので川の瀬に木を打ち並べ仕掛けられた、やなに上がると川風が何ともいえない気持ちの良さでした。
観光やなは、毎年5月1日から11月30日まで行われ、8月の盛りには「鮎のつかみどり大会」が行われ大人気のイベントです。
折角の採りたての鮎が食せるのですから、ビールで塩焼きを賞味しました。鮎の塩焼きは、養殖ものと天然ものがありましたが、食べ比べをすると断然と天然ものがやはり格上でした。

                    奥久慈大子観光のやな

ふるさとの川と別れて帰路につく
旅は行く前が楽しみなのですが、同窓友たちの旅も終わりが近ずき、やなからは奥久慈に別れを惜しむ徒歩グループとタクシー組に別れて、JR大子駅に向かいました。
・奥久慈しゃも
奥久慈では、いろいろと名物を堪能しました。しかし、奥久慈の名物で忘れてならない物に、山のとりにく奥久慈しゃもがあります。奥久慈しゃもは、全国特種鶏(地鶏)味の評価会で第1位に選ばれた折り紙付きの美味しさで、肉は身が締まり、脂肪分が少なく、歯ごたえがあり、ヘルシーで滋味に富んでいます。

     JR大子駅              駅前の旅館で特製のしゃも弁を買う

しゃもは、江戸時代にシャム(現在のタイ)から輸入されたニワトリの品種で、原産地名が名前の由来で、茨城県養鶏試験場で改良を加え、できたのが「奥久慈しゃも」です。
昨日、駅前にある旅館に「しゃも弁当」を注文しておきましたので、帰りの特急列車でとっておきの奥久慈の味を賞味しました。

旅行後、Aさんからお手紙を頂戴しました。書面には、「今回の旅も素晴らしい旅でした。暖かい日を浴びながら ゆっくりと お互いを気貴い 時々立ち止り一休みして 急がずに歩いて行こうという優しい旅を もうしばらくは是非続けたいと切に思います。
お互い老化はしかたがないもの、今日は楽しかったと感じる日が一日でも多いよう 過ごしていきたいと思います。」とありました。
これは、同窓友たち夫妻全員の願いです。これからも、同窓友たちの旅が長く続けられるようにと祈念して、奥久慈の旅の記録を終わります。

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旅ものがたり 同窓旧友たちの旅 袋田の滝と大子温泉 その1

2007年11月24日 | 旅ものがたり
kan-haru blog 2007

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同窓旧友たちの旅第2回
ブログを開始して、今年も11月恒例の同窓旧友たちの旅の2回目を迎える季節となり、11月12、13日に茨城県大子町袋田にある袋田の滝に行ってきました。
昨年は、草津温泉(「旅ものがたり 同窓旧友たちの旅 草津温泉(その1、2)参照」)への8人の参加の旅行でしたが、一人が帰らぬ人となり、今年は上野駅に集合した7人での旅となりましたが、参加者の気持ちは8人が一緒でと思っての同窓旧友たちの旅の記録です。

同窓旧友の関係は、51年前の1956年(昭和31年)に明治大学工学部を卒業し、大学授業の実験グループで同一班に編成された6人組が縁で、卒業後もスキーや登山、旅行や飲み会などで投合していた仲間達で、徐々に会社の仕事も忙しくなるに連れ疎遠となりました。
ところが、今から10年近く前に、仲が良かったAさんが突然に逝去されて学友一同悲しみにくれ、寂しさが募りました。これを契機にして、誰言うともなく一年に一度旅行をしようではないかの発言で11月の旅行が開始され、翌年から夫妻同伴の行事となり、Aさんの奥さんも参加され、和気あいあいの楽しい旅行が恒例となりました。

しかし、療養をしながら昨年まで元気に同窓旧友の旅に楽しそうに参加していたWさんが、突然に悪化し帰らぬ悲報に接し、一同悲しみにくれ大変な寂しさが募っております。
同窓グループの大学卒業の昭和31年頃は、日本はまだ貧しい国で学校に登校すると、電力不足で停電のため休校になるなどの時代でしたが、同窓グループは皆苦学しながら明日の希望に期待して心は豊でありました。このような背景の学友なので、今に至るまで考え方や行動が共通した関係の友達です。

袋田の滝へ

                       地図拡大

今回の袋田の滝へは、途中乗車の者がいなく、全員が上野駅10時発の特急スーパーひたち15号に乗り込み、つまみでビール・酒などで潤し歓談ながら、水戸駅までノンストップでの旅が始まりです。
水戸駅からは、水郡線に乗り換えですが、ウイークデーなのにかなりの混雑で座れませんでしたが、途中から座席が空いて座れ、久慈川沿いに単線の気動車に揺られ袋田駅には12時26分の着です。

袋田の駅から袋田の滝へは路線バスの他に、紅葉シーズンの10月23日から11月23日の火・水曜日を除き、無料の大子町周遊観光バスが運行しており、駅前12時30分発のバスで袋田の滝に10分足らずで到着です。


バスを降りて、久慈川の支流の滝川添いに歩き、川を渡りお土産店の並ぶ道を進むと、袋田の滝のトンネルの入り口です。


入場料金300円の袋田の滝トンネルは、長さ276m、高さ3m、幅4mで、安全に滝見が出来る様に1979年(昭和54年)に完成したもので、袋田の滝正面に設けられた観瀑台に結ばれてます。


袋田の滝
トンネルから観瀑台に出ると、高さ120m、幅73mの袋田の滝が眼前に迫り、前日の雨で、水量は多く、今までに見たなかで最高の迫力がありました。


袋田の滝は、日本三名瀑の一つに数えられ、大岸壁を四段に流れることから、別名「四度の滝」とも呼ばれ、標高404mの月居山(つきおりさん)の中腹にあり、久慈川の支流・滝川に注ぎ、1940年(昭和15年)に茨城県指定文化財「名勝」となり、大子町(だいごちょう)が管理しています。


袋田の紅葉
西行法師が「花もみち経緯にして山姫の錦織出す袋田の瀧」と詠んだことからもうかがい知れるように、滝周辺の自然美と紅葉の鮮やかさも袋田の滝に負けず劣らず美しい景勝の地ですが、紅葉が渓谷全体を彩られてませんでした。

袋田名物の昼食後、宿泊地大子へ
滝を鑑賞し楽しんでから戻ると食事時なので、食事処で袋田名物のこんにゃくのさしみ・でんがく、鮎の塩焼き、きの子そばなど、各自思い思いの昼食をとりました。
・こんにゃく
袋田の茨城県北部では、古くから栽培が盛んで、江戸時代には水戸藩の専売品として藩財政を支えてました。当時、中島藤右衛門という人がこんにゃく芋を粉末にする方法を発見してから、全国的に栽培されるようになりました。
・奥久慈そば
奥久慈のそばの実は、粒揃いで、特有の香り、風味、甘味があり、全国のそば職人から高い評価を受けています。


食休み後、今夜の宿泊温泉の大子へ、ラッキーな月曜運行の無料の14時53分発の大子町周遊バスで、大子レトロ館に向かいました。

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イベント 東京国際女子マラソン 大森町旧東海道三原通り交差点がマラソンの折り返し点

2007年11月22日 | イベント
kan-haru blog 2007

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11月18日の日曜日は、東京国際女子マラソン大会が行われました。

東京国際女子マラソン
東京国際女子マラソンは、1979年11月に世界で初めて国際陸上競技連盟が公認する女性限定のマラソンとして第1回大会が開催されました。
2007年の大会は、第29回を迎え北京五輪代表選考会を兼ねた大会で、アテネ五輪金メダルの野口みずき(シスメックス)が2時間21分37秒の記録で、大会記録を8年ぶりに塗り替えて優勝しました。
レースは、野口と前日本記録保持者の渋井陽子(三井純友海上)にサリナ・コスゲイ(ケニア)の3人が先頭集団を引っ張る展開で進みましたが、29キロ付近で渋井が暑さに消耗して遅れ、36キロすぎではサリナ・コスゲイも突き放し、高低差25mの坂もスピードで走り抜けての優勝でした。

マラソンコース
コースは、東京国際マラソンコースで、国立競技場をスタートとゴールとして、東京ドーム、東京駅、皇居、増上寺、品川駅、大井競馬場、平和島競艇場の各施設の付近を通過して、第一京浜国道と旧東海道の美原(三原)通り(「大森町界隈あれこれ 大森町風景 旧東海道(三原通り) その1」参照)の分岐点にある、大森海岸交番前を折り返し点とした42,195kmのコースです。

 拡大地図クリックすると東京国際女子マラソン大会公式ホームページのコースマップのPDFファイルが開き表示されます。表示PDFマップのアイコンバーのズームを大きくすることによりによりコース図が拡大して表示します。

コース折り返し点
大森海岸交番前に設置される東京国際マラソン折り返し点は、30年ほど前から日曜日に自動車の通行を止めて、東京で男子や女子の国際マラソンが60回も開催されるようになって以来、大森町の風物誌となりました。
11月18日の女子国際マラソンは、五輪代表選考会を兼ねたビッグなもので、天気も快晴で気温も20度と暖かく絶好のマラソン見物日和でしたので見に行きました。


第一京浜国道と美原通りの交点にある、大森海岸交番の前面の歩道上には、折り返し点を通過する選手を撮影するテレビカメラが設置されております。

   大森海岸交番            折り返し点の通過選手撮影のテレビカメラ     

折り返し点ポールは、運搬トラックから降ろされ、13時には車の交通を遮断して、折り返しポイントに設置されました。

                     折り返し点の設定 

折り返し点の周囲は、大勢の整理員と見物の観客で半周が取り囲まれました。

               折り返し点を囲む多数の整理員と観客

やがて、マラソンの先頭を走る規制車、計時車、先導車が続いて来ました。

      規制車              計時車             先導車  

先導車の後には、先頭集団の渋井陽子、野口みずき、サリナ・コスゲイの順に並走して折り返し点を通過していきました。


以下、2番手以降の選手団が続き、第29回東京国際女子マラソンの熱戦がくりひろげられました。

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旅ものがたり ハウステンボス 風格あるホテルでオランダを満喫の家族旅行 その4

2007年11月19日 | 旅ものがたり
kan-haru blog 2007

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第二日目のハウステンボス
チェックアウト後、ホテル内船着場から出る宿泊者のみが乗船できるホテルヨーロッパクルージングでブルーケレンに行き、ハウステンボス第二日目もレンタサイクルを4台借りました。


・パレス ハウステンボス
最初のパーク制覇は、ハウステンボスの北端にあるオランダの宮殿パレス ハウステンボス(地図ハウステンボスHP参照)です。


17世紀に建てられた、ベアトリクス女王陛下のお住まいになっている宮殿の外観を、忠実に再現したものです。内部は、美術館になっていて、「壁画の間」に描かれたロブ・スフォルテ氏の壁画は、「反戦と平和」がテーマで国内最大級の規模です。
次の「時代部屋」は、17世紀と18世紀のオランダを代表する建築・インテリア様式を再現したものだそうです。
宮殿の後ろのオランダ・バロック式庭園は、オランダの宮殿のために設計したものを保存されていた図面をもとに再現したものです。見物した後、宮殿前庭にある隠れた迷路遊びに挑戦しました。

                                      宮殿前庭の迷路に挑戦

パーク自転車散策とピノキオでの昼食
宮殿の赤く色づき始めた木々の庭を楽しんだ後、自転車でパークを廻りオークション・ハウス ランガダイク、スタッドハウスを背景に時を刻み続ける花時計や子供用のアミューズメントの「キンダージム」、「キッズ・ファクトリー」などを周回しましたが、小学生の孫にはもう卒業の年齢でした。

  オークション・ハウス      スタッドハウスの花時計    フォーム・ファクトリー

昼時になったので、昨日にはあれほど混んでたワールドレストランのピノキオに行って見ると、行列もないのでイタリアン ピザ&パスタで昼食をとりました。イタリア・ナポリにある古いピザ屋をイメージした店内で目を引く、有田焼きで特注した大きなピザ窯でパリッと焼き上げるピザの味は折り紙付きの人気の店です。

                 イタリアン ピザ&パスタのピノキオ

アミューズメント
アミューズメントは、月曜日のウイクデーのため待たずに見られたことと、午後は雨が降り出した関係で、二日目はアミューズメントを主体に制覇しました。
・大航海体験館
シュミレーションシアター大航海体験館(地図ハウステンボスHP参照)は、上下、左右、前後、ローリング(横揺れ)、ピッチング(縦揺れ)など、油圧シリンダーで支える客席は本物そっくりの船の動きを再現し、1600年にオランダの帆船「デ リーフデ」が日本に漂着した大航海を再現したものです。

・フライト・オブ・ワンダー
空飛ぶ冒険の旅フライト・オブ・ワンダー(地図ハウステンボスHP参照)は、空飛ぶ小さな魔女と一緒に、浮遊感覚を楽しみながら、スモークやライトを駆使した日本初上陸の特殊効果を駆使した夢と冒険の世界へ旅立つライド型アトラクションです。出口では、ライドに乗車の写真が出来上がっておりました。


・グランオデッセイ
スペースチャイルドアドベンチャー「グランオデッセイ」(地図ハウステンボスHP参照)は、2007年3月25日にオープンした新しい施設で、入場者全員がフューチャーキャストシステムの撮影ユニットに数秒関顔を入れるだけで、コンピュータが自動的に撮影データを解析し、来場者の3D顔データを生成、瞬時にシーンに合わせた表情に画像処理され来場者は映画に登場します。
上映される映画は、全編フルCG映像で制作され、常設設備では世界初の導入であり、これまでにない全く新しい興奮と感動を味わえます。終了後、入場者ごとの出演の雄姿の写真が出来上がっておりました。

      グランオデッセイに出演の雄姿           船長役の加山雄三

・ミステリアスエッシャー
3D映像 ミステリアスエッシャー(地図ハウステンボスHP参照)は、「だまし絵」で有名な20世紀のオランダ版画家M.C.エッシャーの才能あふれる摩訶不思議な世界へと、世界初のコンピュータグラフィックを使った3Dシアターです。

・Kirara
ハウステンボスIFXシアター「Kirara(キララ)」(地図ハウステンボスHP参照)は、愛・地球博で人気を博した『三菱未来館@もしも月がなかったら』がIFXシアターとして登場しました。IFXとは、想像(Imagination)と無限(Infinity) 、効果(FX=effectsの略語風スペルで映像テレビ用語)の3つの要素が三位一体のシアターです。
単なるシアターの枠を超えCG映像を通し、無限大に広がる空間が体感できる映像シアターで、クライマックスシーンでは、天井と床、そして壁が大スクリーンと化し、無限に広がる映像空間が出現します。

帰路につく


二日間、楽しくハウステンボスを制覇してドリームの世界を満喫して、大道芸人の芸に送られながら、往路と逆コースをとりエアポートライナーで長崎空港へと向かい、夕飯に名物の長崎ちゃんぽんを味わい、ジェット機は偏西風に乗り往路より20分早いフライトで無事羽田空港に到着しました。

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旅ものがたり ハウステンボス 風格あるホテルでオランダを満喫の家族旅行 その3

2007年11月17日 | 旅ものがたり
kan-haru blog 2007

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ホテルレストランでの夕食のひと時
いろいろなアトラクションを制覇しているうちに、レンタサイクルの時間切れとなり、夕暮れが遅い長崎でも、周囲のパーク設備に灯りが燈りはじめました。

                 灯りが燈りはじめましたパーク

ハウステンボスのホテルレストランでは、秋のシーズンの9月3日から11月30日の期間にリゾートライフを楽しめる多彩なレストランが用意されております。
家族旅行のディナーは、ホテルアムステルダム(地図ハウステンボスHP参照)の「ア クールヴェール」で長崎の地のものをふんだんに使用したブッフェスタイルの食事を楽しみました。
せっかく素敵なレストランに来たからには、料理に合うワインをソムリエに頼み、乾杯して夕食のひと時をハウステンボスで楽しみました。

                 ホテルアムステルダムのディナー

ハウステンボスの夜
秋の夜長のハウステンボスの探索は、王室のプライベートボートを感じさせるクルーザーの船上からの景色を満喫し、ショッピング店を巡り、それと洋上の花火観賞が見られます。
・ロマンティッククルーズ
夕食後の散歩は、ハウステンボスの夜の街並みを船上からの観光を楽しもうと、ユトレヒト桟橋(地図ハウステンボスHP参照)発の、イルミネーションで施された輝く運河船で夕暮れの運河をロマンティックに演出したロマンティッククルーズで一周し光の街を楽しみました。

               夕食後の散策はロマンティッククルーズ

・オレンジ広場の花火
ハウステンボスのスパーケンブルグ地区オレンジ広場(地図参照)では、毎日恒例となっている花火が11月4日日曜だけは特別仕様で、夜を締めくくるべく、いつもより美しく、盛大な花火が夜空を彩り打ち上げられました。

                  オレンジ広場での打ち上げ花火

・ショッピング
ハウステンボスのオリジナルキャラクターグッズから、チーズ、ソーセージ、お菓子が勢揃いしたショップ。子どもだけでなく、大人も楽しめる商品がたくさんそろっています。


ホテルヨーロッパ
海を庭に持つ、都市型ホテルの頂点それがホテルヨーロッパ(地図ハウステンボスHP参照)です。アムステルダムにある100年の伝統を誇る同名ホテルを一段とグレードアップしてハウステンボスの一角ユトレヒト地区に再現しました。19世紀のオランダの邸宅を思わせるインテリア、運河を望む優雅で贅沢な7階建て328室のホテルです。
デラックスなお部屋で、長崎の夢をみながら眠りにつきました。

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旅ものがたり ハウステンボス 風格あるホテルでオランダを満喫の家族旅行 その2

2007年11月15日 | 旅ものがたり
kan-haru blog 2007

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カナルクルーザーで観光
ハウステンボスの場内の各施設も、展望塔からの展望で地形的展望が掴め、午前に乗車したクラシックタクシーによりパーク中心部の街並みのイメージも分かってきました。

      乗船場                               ユトレヒト

そこで午後は、場内に24もの橋が架かり全長6kmもある運河上を、クラシックなカナルクルーザーが周遊しておりますので、ドムトールン展望塔下のユトレヒトの乗場から(地図ハウステンボスHP参照)乗船しました。クルーザーは、ヨーロッパをイメージした華麗な仕上がりの全長が14.6m、定員が51名の小型船で、狭い運河を時計周りに速度が約3ノットで、ゆっくりとキンデルダイクまでの半周を10数分、一周を約25分で運航します。

    ホテルヨーロッパ           迎賓館

船内の案内を聞きながら、今夜宿泊のホテルヨーロッパ(地図ハウステンボスHP参照)や迎賓館などのレンガの街造りの景色を見物し、キンデルダイクまで(地図ハウステンボスHP参照)の半周を遊覧しました。
迎賓館は、ホテルヨーロッパの別館で、オランダ王室等のVIP宿泊用に設けられ、宿泊した主なVIPは、ベアトリクス女王、天皇・皇后陛下、秋篠宮文仁親王・紀子妃夫妻、マイケル・ジャクソン、ジャネット・ジャクソンなどの方々が利用されました。

                         跳ね橋              風車

ハウステンボス制覇の交通手段
ハウステンボスの沢山あるミュージアム、アミューズメントやショッピングなどの制覇には、移動のための交通手段が必要です。
バスやタクシー、クルーザーでは乗降場の制約と運航の待ち時間が必要です。そのため、クルーザーを降りたキンデルダイク地区との運河対岸の、ブルーケレン地区に様々な形態の自転車を貸すレンタサイクルがあります(地図ハウステンボスHP参照)。

 昔の自転車(その1その2)  2人乗りの横並びタイプ    

自転車は、博物館、演劇・映画催し物、ショッピングおよびレストラン等の場所に、気の向くままどこへでも行きたいところに行けますので、ハウステンボスの様な巨大なパークでは必要なものであり、各種形態の様々な準備されています。
先ず、最初は2人乗りの縦タイプと、同じく2人乗りの横並びタイプに1人乗りの子供用自転車を各1台、3時間借りてこれからいよいよハウステンボスの制覇です。

フリーシアンホース花馬車の旅
ハウステンボス制覇の借りた自転車でまずニュースダットに向かうと、オランダ王家の馬のフリーシアンホース花馬車が待合所で見られました。
フリーシアンホースは、長いたてがみの光沢のある黒い体の馬で、オランダ王家で血統を維持しています。花馬車を引く姿は、足を大きく蹴り上げて優雅に気品高く歩きます。
次の回の順番で乗れそうなので、待ち合い所にならびニュースダットの街並みの一角を王家気分で旅してきました。

 フリーシアンホース花馬車

ニュースダットでアトラクション体験
ニュースダットは、アトラクション街でスリリングやトリックアートな体感が味わえるコーナーです。幸いと、どのアトラクションも待たずに見られるようなので、興味あるアトラクション館を選び体験しました。
・マジックミラーメイズ
日本では最大規模の英国生まれの魔法のミラーの迷路で、鏡に特殊な仕掛けを施した幻の森では、幻の道に迷い鏡に当たりながら、本物の道を探してゴールに進むと「不思議の国のアリス」の白いウサギが一瞬現れる、鏡の国の冒険マジックミラーメイズの体験です(地図ハウステンボスHP参照)。

・スーパートリックアート
平面の世界を立体(3次元)に描いたトリックアートが一堂に展示してあります。展示されているアートは、どれも額縁ごと立体的に壁に描き込まれています。
目で眺めて立体に騙され、手で触れて平面であることを確かめて楽しみます。ここの、アート迷宮館では、写真のフラッシュ撮影がOKです。遠近法や照明を駆使しての「騙し絵」には、感心させらえるスーパートリックアートの体験です(地図ハウステンボスHP参照)。

 トリックアート拡大1拡大2拡大3拡大4拡大5拡大6拡大7

・ホライゾンアドベンチャー
実際にオランダで発生した大洪水の猛威を体験するもので、高さ18m、幅52mの巨大舞台装置に、800トンの水を使用して霧を客席に撒き、稲妻、波、豪雨、竜巻の迫力いっぱいの自然の驚異を、客席を揺らし、映像、音響装置を駆使して再現してくれるホライゾンアドベンチャーの体験ですです(地図ハウステンボスHP参照)。

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旅ものがたり ハウステンボス 風格あるホテルでオランダを満喫の家族旅行 その1

2007年11月13日 | 旅ものがたり
kan-haru blog 2007

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小学生憧れのテーマパーク
小学生の孫の希望で、授業参観の振替により11月4、5日の日曜と月曜が休みになったので、ハウステンボスに親子3代で行ってきました、楽しい一泊旅行の記録です。
現在高校2年の長男の孫も、小学生の時には同じ様に憧れのホテルに宿泊して、東京ディズニーリゾート(ディズニーランドとディズニーシー)に行きました。その他、伊東・湯河原温泉などにも行き、その時の楽しい一コマが想い出に残っております。

ハウステンボス
ハウステンボス(Huis Ten Bosch長崎県佐世保市ハウステンボス町1-1 地図参照)は、オランダ語で「森の家」という意味で、ベアトリクス女王が現在居住のハイステンボス宮殿を再現した事から名付けられました。
ハウステンボスの用地は、大村湾に面した佐世保市針尾の工業団地開発面積152ヘクタール(46万1干坪)を、当時の長崎オランダ株式会社が購入して、1992年3月に開園したもので、東京ディズニーリゾートとほぼ同じ規模です。

往路のアクセス
一泊二日の行程ですので、短時間でなるべく沢山のスポットを楽しむため、先ずは混雑が予想される土・日を避けて日・月の行動とし、往復の航路は長崎空港からエアポートライナーで大村湾を直行縦断してハウステンボスに入国するコースをとりました。
ホテルは、ハウステンボスで一番人気の高い豪華なホテルヨーロッパの予約できましたので、宿泊荷物はエアポートライナーの下船時に預けると客室まで届けてくれるサービスがあります。

(羽田空港を出発のJAL1841便)

自宅からは、京浜急行電鉄で羽田空港に行き、7時35分出発の早朝便飛行機で朝食は空港で空弁を買い機内食です。
長崎空港からは、空港に直結した動く歩道で船着場まで行き、10時発のエアポートライナーで、大村湾をおよそ50分の航海でハウステンボス南端のマリンターミナル発着場です。
エアポートライナーは、当日の航路は風あたりはあまり強くありませんでしたが、空港から大崎半島を廻る付近までは高速で飛ばしますので、内海ですが波飛沫が客席の窓に被る場所もあり、船に弱い方は注意が必要です。
船窓からの陸上に見える棒状の物は、かっての世界大戦の際に日本連合艦隊に戦闘開始を発信した、歴史のあるアンテナです。

                   (船窓に波飛沫の連絡船)    (歴史あるアンテナ拡大)
                  
ハウステンボスが近ずくと、船のエンジンをゆるめて速度を落とします。ゆっくり進む海から見るパークの異国情緒のある風景も格別です。

   (正面にドムトールン展望塔を望むマリンターミナル)

初日の見学・体験
船を降りて入国したハウステンボスは広大で、東京ドームの33個分もあると云われてる場内は、歩いては制覇できません。

      (クラシックバスからパーク内町並を見物)

そこで、近くのスパーケンブルグ停留場からクラシックバスに乗り、車窓からハウステンボスの風景を眺めながら雰囲気を掴み、パーク中央のニュースタッド停留場で下車しました。

          (バスを降りて跳ね橋や風車のあるキンデルダイクに向かう)

バスを降りたニュースタッドの対面のキンデルダイクは、オランダ風景でお馴染みの風車と花畑のスポットで、跳ね橋や風車内などを見物しながら散策しました。

     (お馴染みの風車と花畑のオランダ風景)              (風車内部)

旅行での楽しみの一つには郷土料理があります。昼時になったので、各国の料理店が軒を並べているユトレヒトに戻り、ワールドレストランのランチ店の品定めをすると人気の高い「ピノキオ」は長蛇の列なので、長崎ランチの定番トルコライスが売りの「とっとっと」に入り、各自が好みのメニューで昼食をとりました。

            (ドムトールン展望塔)          (長崎ランチ定番の「とっとっと」)

昼食後の見物は、ユトレヒトにあるパーク全体を見渡せる高さ105mの展望塔、ドムトールン展望室(80m)からの展望により、目的の場所と方向の位置関係を掴みました。

展望1拡大 左:右奥はハウステンボスジェイアール全日空ホテル
  中:アレキサンダ広場を望む、右:ホテルアムステルダムホテルを望む

展望2拡大 左:中央奥ホテルデンハーグを望む、中:ホテルヨーロッパの正面側望む
   右:ホテルヨーロッパの後面側望む

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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第3編 我等の生活談義 第6回

2007年11月11日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

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戦後のインフレ
戦後のインフレを語るには、いわゆる物価統制価格(配給品の価格)である公定価格に基づいた物価指数が使われ、1934年(昭和9年)~1936年(昭和11年)の物価指数平均を1とした値を基準として扱います。若山武義氏の手記に出てくる「丸公」は、公定価格のことで、当時は○の中に「公」の文字を入れた丸文字が使用されておりました。
当然、公定価格に対して、配給以外に物資を調達する自由・闇価格の定価の2本立ての経済となり、戦後の双方のインフレ率を見ると公定価格で測ったインフレ率は,自由・闇価格で測ったインフレ率を大きく上回っていたと、大蔵省財政金融研究所「フィナンシャル・レビュー」(1994年)が示しております。

この資料によると、戦後のインフレである日本銀行の卸売物価指数(旧指数)は、1945年9月の346.6から同統計の公表最終月である1948年12月の20825.1まで、3年3か月の間に60倍(連続複利ベースでは月率10.5%、年率126%)上昇しました。
同じく小売物価指数は、1945年8月の475. 1から物価水準の最初のピークである1949年5月の37386.9まで、3年9か月の間に79倍(連続複利ベースでは月率9.7%、年率116%)上昇しました。

また、公定価格ベースの消費財物価指数は、1945年10月の3.21から物価上昇の勢いの弱まる1949年5月の315.38まで、3年6か月の間に98倍(連続複利ベースでは月率10. 9%、年率131%)上昇しました。このように、終戦直後からドッジ安定化政策の始まる1949年初めにかけての3年強の間、公定価格で測ったインフレ率は月率で10%前後、年率で120~130%であったことが示されております。

新円切替え
終戦によって、戦費捻出のために発行された戦時国債の償還、軍需物資に対する支払い、進駐軍による円の大量印刷、復員兵の帰還費用の捻出、戦後復興させるための資金供給のためのお金はいくらあっても足りず、日銀は沢山の日本銀行券を発行したため、カネにみあったモノが不足する状態となりインフレが発生しました。

そこで1946年2月16日(土曜)、第一次総合インフレ対策として、金融緊急措置令を含む「経済危機緊急対策」が発表され、翌日実施し旧円が新円に切替えられ預金封鎖が行われました。
預金封鎖は、2月17日(日曜)現在における預金を閉鎖して、旧紙幣は3月2日(土曜)をもって強制通用力を失い、新円との引き換えは2月25日から3月7日までの間に強制預入の形で行われることになりました。さらに、10万円を超える資産に対して25%から90%の財産税がかけられました。

そして、標準世帯生計費を500円と定め、一般勤労者の給与等は一か月500円までは新円による現金払で、それ以上は封鎖払とされました。封鎖預金からの現金引出は、原則的として毎月世帯主に300円、世帯員一人につき100円に限定されました。また、3月30日からは一律一人100円までの限定となりました。
金融緊急措置令により、日銀券は2月18日の618億円から3月12日の152億円へ収縮したものの、4月からは増加に転じ、9月には旧円封鎖直前の最高発行高を突破し、金融緊急措置の影響は一時的なものでした。

戦後のこのインフレは、ドッジ・プランなどの幾多の施策により、1947年10月に182.2%のピークに達した後,インフレ率は次第に低下し、1947年秋から1949年秋まではインフレの減速期となり、1949年秋以降はデフレ期に入りやっと収束したのです。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) 我等の生活談義 第6回

持たざる者勤労階級の庶民生活
我々大衆の預金は、一体どこに飛んで行ったのであろうか。委く生産資本家と農漁村の懐に鞍替してしまったのである。事実の説明は、金融、産業あらゆる資本家階級と農漁村の新興成金の財産税や所得税は、我々の懐から納めてやった事になる。即ちこのインフレの様相は、聖書の教え給う如くに
 持てる者は尚その上に与えられ、持たざる者は持つもの迄も奪わるる

と。かくて富める者はいよいよ富み、貧しき者はいよいよ貧しく、貧すれば鈍する、悲しき事実である。インフレを我が世の春と記う階級と、日に月に重圧に苦しむ勤労階級と、一線を引いて二つに区分することが出来るのである。

庶民の悲願 主食三合配給
我等庶民の悲願は只々一つ、主食三合配給、これである。
祖国再建の為めの重ねての増税、結構である。我々の枡で量ったきまりきった収入から勤労所得の二割徴収、これもよろしい。欣然と応ずる。鉄道、郵便、莨なんでも値上げ、夫れも当然よろしかろう。
 但し主食三合配給を条件としての上の事である。

収入はピッタリ押さえて置く。徴収の税金、消費の値上げは遠慮会釈なくとり上げる。「不足の主食はヤミ買いせよ」と云う事は、我々庶民階級が貯蓄も何も使い果たした時に自殺を強いる事になるのである。
然らば、三食三合果たして不可能であろうか。今、社会の現象と各方面の意見を茲に綜合して見よう。

前議会で会える選良は、議政壇上から「大臣諸公と雖も、よもや二合一勺の配給で生活してる訳はあるまい」と質問して苦笑せしめた。かく質問する御当人も二合一勺の配給で生活してる訳ではないから、お互いに配給以外の生活を肯定したのである。

配給だけの生活をして居ったら、栄養失調で死んだ大学の先生の後を追うのみである。「あいつ栄養失調で死んだ」と云われたくないばかりに、乗車券の入手に二日か三日立ち通し、駅より二里、三里遠しとせず、叩頭百遍、やっと買った重荷を汗水流して殺人汽車電車にもみくちゃにされ、やっと我家に辿りつくまでは真に薄氷を踏む思いである。これで幾月の補給が出来るのかと思うと、考えた丈でもぞっとする。況や育ち盛りの子を多く持つ母の労苦は並大抵の事ではない。とても書きつくせるものではない。

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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第3編 我等の生活談義 第5回

2007年11月09日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

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戦中・戦後の食糧消費統制
1940年には、砂糖、塩、醤油が配給制になり、1941年4月から東京、大阪、名古屋、京都、神戸、横浜の六大都市において、米穀の一人一日二合三勺(330グラム)の配給が行なわれました。当時の日本人の中等程度の勤労作業を行う成年の米の消費量は、一日430~500グラム(三合~三合五勺)とされております。この配給量のみでは、約二割も少ないもので、外食、混食、代用食等何等かの方法によって補給しなければ食糧不足となる状況でした。

配給開始当時は、開戦直前であり配給量を補給する食品の入手もまだ比較的余裕がありました。しかし、開戦後の1942年7月には、主要食糧の国家管理体制の強化が施行され、食糧管理法にもとづいて「中央食糧営団」が東京に設けられて、米穀・内地米は政府が農家からすべてを供出・買上げ、外米は政府が輸・移入を行ない、直営配給所を通じて消費者に配給が行なわれました。

また、麦類(大麦、小麦、裸麦)は政府が農家からすべてを買い上げて、これを業者に依託して精麦あるいは乾麺、乾パン、小麦粉などに加工し、一般消費者には米の代替品として配給を行ないました。甘藷、馬鈴薯も、すべてを買い取り、このうち副食物用は青果会社に売り渡し、また主食物として総合配給に加える必要のある場合には、一般消費者に配給が行なわれました。

配給内容の低下
1939年12月の米穀搗精等制限令の施行によって消費節減のため、お米は七分づきを強制されたので、配給米の内容は当初七分づきでしたが、1940年の夏ごろには京浜、阪神などの大都市においては、外米の混入率が50%から70~80%にも及びました。
1942年8月には米の変わりに乾麺が一般家庭に配給され、同10月には配給米に仏印産のひき割玉蜀黍の混入が実施されました。

1943年に入ると配給米は五分づきとなり、代用食に馬鈴薯や小麦粉、乾パンが配給されるようになり、さらに、大豆10%、外米20%、稿米20%、内地米50%が米に混ぜて配給されるようになりました。その配給米も、二分づきとなり、大政翼賛会の指導のもとに玄米食普及の国民運動が展開されました。

さらに、雑穀の主食代替による「綜合配給制」が実施され、同年秋の甘藷の収穫期からは甘藷が、同年冬以降においては脱脂大豆(大豆粕)も代替食糧に加わり、1944年度からは穀粉もこれに加わりました。
代用食の混合率は、1943年度には10~20%程度でありましたが、1944年度には30~40%以上と増加されました。

1945年にはいると食糧事情は極度に窮迫化し、混合割合が増加し6月ごろの東京都における状況は、お米五割に大豆、食用粉等の代替物五割から、さらに食糧事情の逼迫でお米四割に玉蜀黍、高梁当の代替物六割となり、7月ごろになると実際の混合率は70%以上となり人間が生活していくには、ヤミの食糧の購入量がかなり必要となり、善良な国民は悪性なインフレに見舞われ、耐乏生活の生き地獄を味わらされたのです。

しかも、ついに主食配給量そのものの10%削減が7、8月に実施され、8月15日の終戦に至ったのです。
戦後も、飢餓地獄は続き、1947年10月に東京地方裁判所刑事部判事の山口良忠氏は、闇物資を拒否して配給食糧だけの清節を通し、栄養失調で餓死すると云う事件が起こり、現在の衣食住が満ち足りた時代のいまの人には信じられないような、多くの凄惨な事が起こりました。(日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働者状態 法政大学大原社会問題研究所編 1964年発行 出典)


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) 我等の生活談義 第5回

主食の配給とヤミ値
日華事変初まっての後、十五年の初め頃までは、兵隊さんのおかげです、兵隊さん御苦労さまで、其の慰問袋に、缶入りのエァーシップ、ドロップス、純綿の越中や手拭で袋に包んで、格家庭が供出する程の余裕、物資があったのである。
あ〃あ〃、あの時代にもう一ぺんなってくれんかなと、長大息するのは、我れ一人ではあるまい。今日只今は夢の夢である。

主食の米麦が営団の手で配給されるようになったのは何時からか記憶にない。企業合同、なんでもかんでも統制流行のトップを切ったものと思う。初め二合三勺、十八年の夏頃のヤミ米が一升四円位の時迄は、外食券なしでも、どこの食堂でもめしは喰べられた。汽車弁あり、そば、うどん、天丼、うな丼ありで、狸の腹鼓迄行かんでも先ず腹をすかして歩く必要はまずなかった。亦今日のように腰弁で歩く必要もなかった。「給仕、今日は僕もり二つ」とどなって居られた。

其のヤミも翌年は二十円から三十円と飛び、更に五、六十円と飛躍し、宿やに行こうが、温泉に行こうがお米持参。通勤から、どこに行くにも持弁。今日此頃は三俵一万円の、一升百円のと、上海の話かと思うと東京のヤミ程の話であり、我々には手も足も出ぬ。米の二十倍から二十五倍はまだよしとするも、生鮮食料の野菜、魚の百倍余の暴騰には悲鳴を挙げざるを得ない。

一皿四十銭の当時の切身の魚は十五円から二十円、一盛十銭の茄子やきうりがお安く致しましての十円から十五円、水密、夏みかん一ヶ十円、ぶどう、桜桃一粒五十銭、一銭か二銭で買った子供の「飴」がなんと十円。おどろき、桃の木、さんしょの木である。

去る三月、お母ぁからおばあさんのへそくり迄まき上げて一旦収縮した日銀券も、百五十億から八月一日には既に五百億円をを突破した。此の勢いで毎日々々日銀の窓口から二億、三億と云う札束が、速射砲のように吐き出され、年末には一千億円を突破するだろうと思う。

戦争中、ヤレ国債だ、ヤレ定額だと、隣組の何時も物議の種の貯金、それが今日毎月の生活費と引出される。竹の子生活である。物交の品はなくなる、貯蓄はつきてなくなる。たとへ現在の五百円の枠をはずされても、今では、使い果たして二歩も残らぬ実情なのである。

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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第3編 我等の生活談義 第4回

2007年11月07日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

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戦前・戦後の飢餓地獄
1941年(昭和16年)に戦争に突入してから、政府が定めた一日一人主食米二合三勺の配給は、生存に必要な最低限度の食糧でしたが、東京大空襲のあった昭和20年3月以降の配給は遅配・欠配が続きました。
東京では敗戦の直前の6月には、3ヶ月間も配給がとまり、まさに飢餓地獄に陥りました。

しかも、主食食糧の配給品は、米・麦はほとんど無く、代用食と称し高粱(こうりゃん)、とうもろこし、脱脂大豆(豆粕)や煮ても柔らかくならないさつま芋などです。
それも同年7月には、生存最低限な食量配給がさらに削られて、二合一勺となりました。

配給は、主食だけでなく、生活必需品のすべてが配給制で、調味料の塩、醤油、菜種油も配給品でこれらも欠配続きです。特に、砂糖の配給は昭和19年から停止されておりました。
たばこや酒も配給で、二級合成酒が一家庭二合と決められていましたが、遅配・欠配でありました。

8月の終戦を迎えても、配給は改善されるどころかますます劣悪となり、主食配給に食べられない芋がらなどが配られた時もありました。
ともかく、大変な食糧難の時代で、飢餓は昭和22年頃まで続きました。
連合軍は、最初には放置しておりましたが、後になり大変だと援助することになり、国外から食糧が入ってきましたが、初めの頃は主食配給品には、キューバ糖やオレンジ缶ジュースなどが見られました。

これも、だんだんとコンビーフ、コーン、ハム、ソーセージ缶や混じりけのない食パンなどが配給になり、食糧飢餓からやっと改善れてきたのです。
副食の魚の配給も、戦時中には漁獲しなかったので豊漁で、東京ではすけそう鱈がしばらくの間タンパク源となりました。

当時、少量のお米の配給もありましたが、まったくの玄米であり、そのままでは食べ難いので、各家庭では配給のお米を一升瓶にいれ、篠竹棒で突っいて多少でも白米にして食べたのです。
終戦直後は、焼け野原で土地が空いており、自給の食糧生産に励み焼け灰により収穫もよく、食糧不足の足しにしたり、ヤミの買い出しなどの努力により、何とか切り抜けたのです。

しかし、物資不足は、食糧以外の全製品にわたり、昭和24年に焼け跡の土地を借りてバラックを建てたのですが、建築材が配給で窓のガラスもしばらく入らず、板貼りの状態で大変な時代でした。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) 我等の生活談義 第4回

インフレ生活
前大戦のドイツ、現在のハンガリー、莨一本買うのに我々は千円紙幣を出す様になった時は、石橋さんの云う本当のインフレかも知れぬが、そうなったら日本の破滅だ。
現在丸公さえ、昭和12年からの騰貴指数は十一倍七分五厘、ヤミの十八年十二月から現在迄の騰貴平均指数(砂糖の如き我々に不必要なものを除き)二十四倍五分である。祖国再建に生きて働くには、配給以外に三分ノ一以上殆ど半数のヤミ物資を必要とするのである。それが大部分主食と生鮮食料品の補給にかぎられるのである。勿論おでんやでヤミ酒一杯のむ余裕のないギリギリの苦しみなのである。

今日の五百円生活、此の基準は、十年前から十倍の諸物価値上りを見ての算出である。相当生活物資の出廻る事を予想しての事であると云う説明である。前記の通り丸公さえ十一倍七分五厘である。配給だけの生活なら稍々十分であろうけれ共、ヤミ物資と云うものの勘定を入れぬお上の算盤なのである。

十年前の社会生活世相
なる程、十年前は、たしかに東京市民三人位の生活で所得五十円なら、細々ながら貯蓄も出来、ゆかたの一枚位は毎年変えたのは事実である。但し、但しですよ、当時の社会生活の世相は次の如くであった。

もり、かけ、とうふ、湯銭が仲よく五銭、安食堂で定食三品付十銭から十五銭、酒屋、魚屋、八百屋の御用聞きがうるさい程来る。銀ブラがえりに明治製菓あたりでミルクの香りのよい御自慢のコーヒー一杯十銭、而も角砂糖がきれいな容器に山程出して置いて入れほうだい、お好みのままの御接待である。今日は帝劇、明日は三越、各デパートは商品珍品山と積み、食堂は亦競争で珍味佳肴を華麗にならべて食欲をそそり、休憩室に入れば、可愛いガールさんのすすめるお茶はのみほうだい、マーク入りのマッチは使いほうだい、おかえりには二ツ三ツたもとに無断頂戴してかえるから買う必要がない。

デパートの屋上から東京を見渡してみる。先ず御婦人方の虎やの羊かん、夜の梅、栄太郎の甘納豆、風月のカステーラ、塩瀬の梅干、岡野のもなかとならべて立てれば数限りない。兎に角、御自慢の味を看板にして売ってくれた。我々にした所で、飲むと食うのには事かかぬ。南は橋善、天金、浅草では松喜、ちんや、牛山盛りの米久、財布の軽い時は吉原土手まで足をのばしてけとばしや、たまさか思い出しては金万のふぐのひれ酒、到る処、粋な小料理、江戸前御料理、乙な姉さんの御酌でも鎌足公一枚で沢山。いよいよ苦しい時は風呂帰りに屋台のおでんやでコップ二、三杯ひっかけて、お好みおでん三ツ四ツ、おまけに茶めし二、三杯かっこんでも、ギザ二枚で事足りた。

新婚の夫婦、めしたくのは七面倒なりと仰せ遊ばして、何もかも仕出しや、煮しめやで事足り、箸一本持って居なくとも不自由のなかった時節である。

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大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 梅屋敷駅付近(第3回)

2007年11月05日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2007 京急高架化工事で削られた聖跡梅屋敷公園

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梅屋敷駅付近高架化工事の現況
梅屋敷駅は、1923年(大正12年)4月1日に新設の専用軌道を移設した時に営業を開始し、当時は周囲では田畑の農地が広がっておりました。その後、宅地に変貌する過程で「里道」が生活道路となり、道幅の狭いまま廃止することが出来なくなりました。
そのため、梅屋敷駅のホームの両端には踏切があり、ホームを伸延することが出来ず、本線では唯一の4輌列車しか止まれませんので、6輌編成の普通列車は横浜方向の2輌のドアーを開かずに、品川寄り4輌から乗り降り(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 梅屋敷駅付近(第1回)」参照)します。

 写真左:梅屋敷駅東口(060909撮影)  中:線路移設のため駅舎閉鎖(070519撮影)
 右:線路移設のため出入口移動(071031撮影)

梅屋敷駅上の高架化工事も大森町駅と同様に、線路経路のカーブを緩やかにするため下り線路と上り線路のそれぞれを、第一京浜国道寄りに移設の工事を進めるため、先ずは下り駅舎と改札口を5月19日に移動(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 梅屋敷駅付近(第2回)」参照)しました。同時に、梅屋敷商店街通りの大森町第4踏切の東側警報器の位置も、第一京浜国道側に移設が済んでます。
その後、9月には旧駅舎を取り払い、その跡を下りホームへの入り口としての整備が行われましたので、これにより、ホーム北端部付近の下り線路の移設が可能となりました。

 写真左:梅屋敷駅東口商店街(061007撮影)  中:大森町第4踏切第一京浜国道側
 から西側を望む(070408撮影)  右:下り線路移設のため警報器の後退設置(070519
 撮影) 

一方、梅屋敷駅南端の梅屋敷第1踏切以南の高架化工事では、梅屋敷第2、3踏切にかけての線路経路のカーブを緩めるため、下り線路が平成17年12月に、上り線路が平成18年2月にそれぞれ第一京浜国道側に約3mの移設を、梅屋敷公園(「大森町界隈あれこれ(N32) 大森町風景 梅屋敷公園」参照)を削って完了しております。

 写真左:梅屋敷公園を削って線路移設(060917撮影)  中左:梅屋敷第3踏切
 (060917撮影)  中右:第一京浜国道側に約3m移設した線路下り展望(060917撮影)
 右:約3m移設の線路上り展望、梅屋敷第2踏切上に軽乗用車通過中(060917撮影)

次いで、平成18年9月には、梅屋敷第1踏切とホーム南端部付近の上下線路の移設が行われました。

 写真左:ホーム南端部付近から梅屋敷第1踏切付近の移設前S字状線路(060909
 撮影)  中:第一京浜国道側に約3m移設の新設下り線路(060917撮影)
 右:線路移設後上りホーム幅拡張(070103撮影)

これにより、梅屋敷駅から南の京急蒲田駅方向の高架橋の建設工事は、梅屋敷第1踏切から第4踏切(多摩堤通り)までが、高架橋経路のルートが固定されましたので、高架橋の建設が可能となりました。

 写真左・中:梅屋敷第2踏切付近の高架橋工事状況(070103撮影 左拡大)
 右:梅屋敷第2踏切付近の高架橋工事状況(070103撮影 右拡大)

既に、梅屋敷第4踏切(多摩堤通り)から梅屋敷第3踏切(梅屋敷公園南側)の中間までは、2006年ブログ開始時には2階建て複線の高架橋がかなり出来上っておりました。

 写真:ブログ開始時には2階建て複線高架橋はかなり仕上っていました(070103撮影)

また、平成19年9月には、高架施行工事機械が梅屋敷第1踏切南端まで北上してきましたので、ここから梅屋敷第2踏切(梅屋敷公園北側)方向へと、1階建ての高架橋の建設が開始されるものと見られます。

 写真:梅屋敷第1踏切南端まで北上してきた工事機械(071031撮影)

この1階建ての高架橋が出来上がると、多摩堤通り部分の2階建ての高架橋との結合の立体化高架の複雑な建設へと進むことになります。
さらに、梅屋敷駅構内の線路の移設を終え、大森町駅方向から建設が進んで来る高架橋との結合があります。

高架橋が出来上れば、京急蒲田駅付近連続立体交差事業の終わりではありません。続いて高架駅舎建設、駅付近関連道路・広場の整備や電波障害などの環境整備などにも莫大な費用がかかります。一体、元が取れるのか、他人事ながら心配が先に立ちます。
地元の京急連続立体交差事業に関する記録は、できる限り取って残しておきたいと思っております。

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大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第10回)

2007年11月03日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2007

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大森町駅付近高架化工事の現況
大森町駅は、1906年(明治39年)10月1日に梅屋敷と山谷との間で専用軌道化され、道路上から移設し大森山谷駅と称し開業しました。1935年(昭和10年)時代の乗降場は、山谷踏切道を挟んで下りホームは現在と同じ位置の北側にありましたが、上りのホームは反対に踏切道南方の現大森記念病院側にありました。しかし、戦争の末期の頃、上りホームも現在と同じ様に北側に移され、下り駅舎本屋の改札口から入って構内踏切を通って乗り降りする形となりました。

 2006年3月28日には駅売店のあった大森町駅(写真左:東口拡大と中:西口拡大)
 2007年4月29日構内踏切のある大森町駅(写真右:下りホームから望む拡大) 

その後、1945年(昭和20年)4月15日の空襲(「大森町界隈あれこれ(14) 鎮魂!大森町大空襲(第7~9回)」参照)による戦災で焼失し営業休止となり、下り線の石囲い土盛りのホームの残骸が永らくその姿を曝しておりましたが、1952年(昭和27年)12月15日に大森町駅 (「大森町に住んで65年!(その5)」参照) と駅名を変えて営業を再開しました。

 構内踏切撤去後の大森町駅(写真左:拡大、写真中:踏切待ち上り乗客拡大、写真右:踏切に入る大型トラック拡大)

高架化工事のため本年4月29日に構内踏切の撤去(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第3回)」参照)が行われましたが、線路を渡る通路道が大森町第1踏切の1本となったことで、朝の通勤ラッシュには踏切が大混雑に見舞われ収拾がつかなくなりました。そこで、5月21日通勤時に上りホームに臨時の改札口(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第6回)」参照)が設けましたがラッシュの解決にはなりませんでした。

 2007年5月27日下り線路を第一京浜国道寄りに1.5m移動(写真左:移動前、写真右:移設後)

これに並行して、駅上の高架化工事を施工するのに伴い、線路経路のカーブを緩やかにするため下り線路と上り線路のそれぞれを、第一京浜国道寄りに1.5m移動の移設工事(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第7、8回)」参照)が行われました。

 2007年6月20日上り線路を第一京浜国道寄りに1.5m移動(写真左:移設後、写真中・右:第1踏切道幅拡幅)

この工事に際して、大森町第1踏切(大森町商店街通り踏切)道内の道幅が拡幅され(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第9回)」参照)ましので、朝の通勤ラッシュの混雑が何とか収まりました。
これにより、地上の大森町駅上での高架橋工事の着手が可能となり、10月に通知ポスターの工事案内が掲示され、工事機械を品川よりホームの北端部の上に据え付け設置が行われ、いよいよ地上駅上の工事開始の準備ができました。

平和島第5踏切付近の高架橋      大森町駅北端上に移動してきた工事機械

今後は、平和島第5踏切(マルエツ際踏切)の南端から大森町駅ホーム北端部上までの高架橋建築工事が別のペアーの工事機械と連携して進められ、工事の進展につれ工事機械を京急蒲田駅方面に移動させながら高架化が完成していきます。いよいよ、101年にわたり営業していた、大森町地上駅も時代の要請により高架駅に姿を変えようとしています。

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番外編 カテゴリー別ブログ記事の検索と見方 [付 kan-haruの日記11月月間INDEX]

2007年11月01日 | INDEX
kan-haru blog 2007

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 1 大森町界隈あれこれ 大森町に住んで65年!
 2 大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記 総目次
  2-1 大森町界隈あれこれ 鎮魂! 大森町大空襲 (第1編)
      付 東京大空襲 ~あれから61年~
  2-2 大森町界隈あれこれ 手記第2編 戦災日誌中野編
  2-3 大森町界隈あれこれ 手記第3編 戦前戦後目黒にて
 3 大森町界隈あれこれ 戦後編若山武義氏手記 総目次
  3-1 大森町界隈あれこれ 戦後史編手記 第1編総目次
  3-2 大森町界隈あれこれ 戦後史編手記 第2編総目次
  3-3 大森町界隈あれこれ 戦後史編手記 第3編総目次
 4 大森町界隈あれこれ 大森町の社寺
 5 大森町界隈あれこれ 大森町商店街
  ■ 大森町界隈あれこれ 大森町商店街 旧東海道ふる里祭り 10月20日
 6 大森町界隈あれこれ 大森海苔
 7 大森町界隈あれこれ 京浜急行
 8 大森町界隈あれこれ 大森町風景
 9 大森町界隈あれこれ イベント
  ■ 大森町界隈あれこれ ニュース 大森町周辺の秋のイベント(2007.10.14) 10月14日
  ■ 大森町界隈あれこれ ニュース 大森町周辺の秋のイベント(2007.10.22) 10月24日
  ■ 大森町界隈あれこれ イベント 地場演劇公演「山わろ~呑川へきたかっぱのこと~」
   10月30日
10 大森町界隈あれこれ 大森町学びや

  一般 カテゴリー別目次

21 風景・風物詩 総目次
  ■ 風景・風物詩 秋の歳時記お彼岸 城下町古河の菩提樹お墓参りと周辺散策 その2
   10月3日
  ■ 風景・風物詩 地蔵菩薩公開 薬師寺東京別院宝物のお地蔵さま拝観 10月22日
22 小さな旅 総目次
23 旅ものがたり 総目次
24 秋葉原界隈 総目次
25 イベント 総目次
  ■ イベント 運動会 第15回お茶の水小学校運動会 10月5日
  ■ イベント 東京オペラシティ ドイツ留学中の倉澤杏菜ピアノリサイタル 10月8日
  ■ イベント 江戸天下祭 江戸の風情と粋な山車と神輿が丸の内を巡行 その1 10月10日
  ■ イベント 江戸天下祭 江戸の風情と粋な山車と神輿が丸の内を巡行 その2 10月12日
  ■ イベント 新田神社 例大祭の古武道奉納演武 その1 10月16日
  ■ イベント 新田神社 例大祭の古武道奉納演武 その2 10月18日
26 ITと技術 総目次
  ■ ITと技術 筑波宇宙センターとサイエンス・スクエアつくば見学 その1 10月26日
  ■ ITと技術 筑波宇宙センターとサイエンス・スクエアつくば見学 その2 10月28日
27 Weblog 総目次

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