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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ(4) 大森町に住んで65年!(その4)

2006年03月30日 | 大森町界隈あれこれ 65年
大森町の変遷
大森町の交通の要所は、大森町の北境で東西に貫通している環七通りと、地勢の中心点で南北に走る国道15号(第一京浜)と国道131号(産業道路)が合流して三叉路を構成しており、さらに大森町の中心部を南北に京浜急行電鉄が縦断しているのが特長です。
現在、三叉路のところに大森警察署がありますが、前回述べたように戦前、戦時中には大森区役所が立地し、隣接して大森消防署が立ち並んでおりました。
また、大森町中心位置の京浜急行電鉄の現「大森町」駅は、戦前、戦時中には「山谷」駅と云われており、隣駅の現「平和島」駅は以前「学校裏」駅と呼ばれており、戦前の学校裏駅は環七通りの南側にありました。
大森町は、戦前、戦時中、戦後の時代とともに大きく変遷してきました。その、変遷の一部を、写真や地図によって見てみましょう。

写真・地図で見る大森町界隈の変遷
写真・図の番号をクリックすると表示します。ブログに戻るには、ブラウザの「戻る」メニューをクリックします。(写真出典:写された大田区 ~懐かしい・まちとくらし~ 大田区立郷土博物館 1992年2月15日発行)

写真1 現在の大森警察署付近(国道15号道路側)
写真2 1961年頃の大森警察署屋上から見たの第一京浜(左)と産業道路(右)の合流点、右の鉄塔は隣接の消防署火の見櫓
写真3 1954年頃の学校裏駅近くの第一京浜と環七通り合流点、当時環七通は合流点が終点でした。国道沿いの建物も、殆どが1,2階の木造建築です。
写真4 1992年頃の写真3と同地点、環七通は平和島埋め立て地に順延しており、第一京浜と立体の大森陸橋が作られました。
写真5 1959年頃の環七通り北側の京浜急行電鉄の学校裏駅。現在は、高架駅となっております。
地図1(PDF地図版) 戦中の大森町地図。
 出典:複刻古地図 地形社編 昭和十六年 大東京三十五区内 大森区詳細図 人文社から抜粋

戦中の大森町は、昭和十六年(1941年)太平洋戦争開戦の年に発行の地形社編の地図により、さまざまな情報が正確に盛り込まれておりますので、当時の大森町の様子を知ることが出来ます。
当時の京浜電車の「山谷」(現、大森町)、「学校裏」(現、平和島)、「八幡」(廃止駅)、「海岸」(現、大森海岸)、「鈴ヶ森」(廃止駅)の駅の変遷や、大森消防署や大森警察署の場所(旧東海道、美原通り)等とともに電気館、大森劇場、日活館の存立が分かります。当時の大森町の丁目名は大森一~九丁目の区画割りになっていました。東京湾には、まだ埋め立て地は無く、海岸駅近くには、大森海水浴場がありました。

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小さな旅(3) 清澄庭園・深川江戸資料館

2006年03月28日 | 小さな旅
21日お彼岸の中日お墓参りの日は、天気が良く暖かったので、早めに茨城県から東京にUターンして、秋葉原からバスで清澄庭園・深川江戸資料館のある清澄白河に向かい、深川探索(拡大図)を行いました。
深川界隈には、深川不動尊と富岡八幡宮があり、ちょっと足をのばすとうそ替え神事の亀戸天神は何度か訪れているが、清澄庭園と深川江戸資料館は初めてです。
本所深川の町は、芭蕉が住み、勝海舟もいた、忠臣蔵の大舞台があり、大相撲のふるさとで、細い路地裏には多彩な伝統や文化が息づき、東京の下町のなかでは歴史を感じ、情緒豊かな何か懐かしい臭いがあり、落ち着きのある好きな町の一つです。

清澄庭園
清澄庭園は、東京都立の公園で泉水、築山、枯山水を主体にした「回遊式築山山水庭園」です。この造園手法は、江戸時代の大名庭園に用いられたものですが、明治時代の造園にも受けつがれ、清澄庭園によって近代的な完成をみたといわれています。
庭園の一部は、江戸の豪商・紀伊国屋文左衛門の屋敷跡と言い伝えられ、明治11年、岩崎弥太郎が、荒廃していたこの邸地を買い取り、明治13年に「深川親睦園」として一応の竣工をさせたが、弥太郎の亡きあとも造園工事は進められ、隅田川の水を引いた大泉水を造り、周囲には全国から取り寄せた名石を配して、明治の庭園を代表する「回遊式林泉庭園」が完成しました。(都立公園・庭園案内の清澄庭園から出典)

深川江戸資料館
深川江戸資料館は、清澄庭園から清澄通りを渡り、名物の佃煮やさんが並ぶ資料館通りの左側にあります。
深川江戸資料館は、約150年前の深川のたたずまいを、地下一階から地上二階までの三層にわたる高い吹き抜け大空間に、当時の沽券図 (こけんず)を参考に忠実に再現された資料館です。一つ一つの建物が実際の大きさに造ってあり、自由に中に入ることが出来、展示されている生活用具に触れることが出来ます。
時間によって夕方の情景を作ったり、朝になるとニワトリの鳴き声や、路地裏の猫が鳴いたりと本当に生活しているような雰囲気に構成されています。
ここでは誰でも長屋の八っあんやおかみさん、御隠居さんや番頭さんになれるんです。楽しみながら江戸の文化を学べるます。私も、すっかりと江戸町人の気分です。

深川めし
深川めし」は、ざっくりと切った葱と生のあさりを味噌で煮込んで熱いご飯にぶっかけた漁師の知恵の一品と、もう一つ、あさりの炊き込みご飯もありますが、それは大工などの職人さんが弁当に持っていけるものをという事で、生まれたと言われています。
深川江戸資料館の前には、名物 深川めしの深川宿がありますが、昼食は済んでいますので夕飯ようにおみやげ用の「深川めし」と「あさりの佃煮」を求めて帰路につきました。

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小さな旅(2) 菩提寺墓参

2006年03月26日 | 小さな旅
古河市
何故か菩提寺は、茨城県古河(こが)市にある。
21日のお彼岸の中日に、先祖代々の墓参りをして参りました。
東京生活が長く、実家があるわけでもないのに菩提寺が茨城県にあるのかは、今となっては分からない。
古河市は、城下町(PDF地図版)でありますのでお寺の数は非常に多いところで、その中の真言宗豊山派神宮寺が我が家の菩提寺であります。
注.Adobe Readerをお持ちの方は、クリックしてPDF版地図を表示すると、地図を自由に拡大してご覧になれます。
神宮寺は、文安3年(1446年)に良宥上人が鎌倉で開いた寺で、当時の鎌倉公方足利成氏の古河入りに伴い、古河に移りました。室町時代の作である十一面観世音菩薩坐像が有名です。
古河市の場所は、JR宇都宮線で埼玉県との県境の利根川を渡った茨城県の最南西端にあり、上野駅から丁度1時間のところのひなびた町です。

桃まつり
古河市の名物は、鮒の甘露煮やお茶、御家宝、洋傘、地酒、銘菓などが特産品です。
また、古河桃まつりイベントは、古河を代表する日本一のまつりのひとつで、昭和51年(1976年)より開催されています。古河総合公園に約2000本の花桃が美しく咲きそろうなか、野点茶店、野外音楽会、郷土物産品の即売会、桃むすめによる場内案内などが催され、期間中、市内のみならず県内外から多くの人出でにぎわいます。

今年の桃まつりは、3月20日(月)~4月5日(水)まで開催されます。
21日は、丁度JR主催の「駅からハイキング&ウォーキングイベント」が開催され、古河総合公園を中心としたハイキングが行われ、東京をはじめ近県より多数の参加者が集まり、桃むすめも登場して賑わっておりました。
古河総合公園の満開の花桃は、桜と異なりピンク色が濃く、日本一と云われるだけあり当に圧巻そのもので、一度は訪れてみられることをお勧めします。
しかし、残念ながら今年は桜の開花は早いのですが、桃の開花は平年通りで、21日はまだ蕾の状態でしたので、桃まつりへの参加は取りやめて清澄庭園へと迎いました。

ホリデー・パス
JR東日本では、首都圏(ホリデー・パスのエリア内)で発売し、有効期間は1日間、エリア内乗り降り自由な企画乗車券(事前購入・当日購入可。価格は2,300円。)があり、利用区間によっては割安となり、複数箇所の移動には何回もキップの購入が不要で便利なパスです。使用は、土・休日および4月29日~5月5日(ゴールデンウィーク)、7月20日~8月31日(夏休み)、12月29日~1月3日(年末・年始)の期間に使えます。

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大森町界隈あれこれ(3) 大森町に住んで65年!(その3)

2006年03月23日 | 大森町界隈あれこれ 65年
戦時中の大森町
大森と云うと、東海道線・京浜東北線のJR大森駅が中心とした地域を想定すると思いますが、大森駅は区の北端で品川区境にあり、大森町は再掲の大田区全図の地図(PDF版地図)で見て分かる通り、西の境は東海道線から東側にあり、北境は一部を除き環七通りから南側で、南の境は糀谷・蒲田から北側に位置し、大田区南北の中央部にあります。

戦後(1947年)合併以前の大森町は、馬込・東調布・池上・入新井・大森の5つの町からなる大森区にありました。
大森区時代の戦時中の大森町は、1940年発行・大東京区分図大森区詳細図復刻版よりの大森東部地域分割の入新井・大森地区地図(PDF版地図)で見ると東側は東京湾の海岸線に接しております。
注.Adobe Readerをお持ちの方は、クリックしてPDF版地図を表示すると、地図を自由に拡大してご覧になれます。

地図で入新井の海岸線には、何と大森大海水浴場(写された大田区~懐かしい・まちとくらし~ 大田区立郷土博物館1992年 出典)が見られ、京浜電車(現在の京浜急行電鉄)の海水浴場の傍の駅名は「大森海岸」(現在実存)と云い、現在では東京湾までは遥か2Km以上先まで埋め立てられ、想像も付きません。
現在の大森町の中心にある京浜急行電鉄の駅名は、その名もズバリ「大森町」ですが、当時は「山谷」と称してました。

その他、京浜電車の駅名にはいろいろと変遷があり、「山谷」駅の北隣の駅名は「学校裏」(「平和島」に1961年改正)と呼び、現在の駅が環七の北側に対し南側にありました。学校裏の由来については、別編で記載しますが、駅の傍に大森で最も古い寄木尋常小学校が開校した場所で、その裏側に駅が出来たからです。その後、寄木尋常小学校は、国道131線沿いの大森第一小学校と、内川と云う河川沿いの大森第二小学校に分校しました。
ちなみに、大森第一小学校は私の母校であり、大森第二小学校は子供達の母校です。
また、「学校裏」と「大森海岸」の間に、「八幡」と云う駅が通称八幡通りにありましたが、現在は存在しておりません。

なお、当時の大森警察署は、現在地の国道51号線と国道131線の三叉路の又部では無く、三叉路から分岐の旧東海道の美原通りを北行した、通の右側にありました。
現在の大森警察署所在の場所には、大森区役所があり、付近に電気館、日活館や大森劇場などがあり、戦前の大森町の立地条件は区部の中心街として形勢していたのです。

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大森町界隈あれこれ(2) 大森町に住んで65年!(その2)

2006年03月21日 | 大森町界隈あれこれ 65年
大森町はここ
地勢的に見た現在の東京都大田区大森町の所在場所を、明確に示します。
先ず、ここを大田区全図の地図(PDF版地図)から見て行こう。
注.Adobe Readerをお持ちの方は、クリックしてPDF版地図を表示すると、地図を自由に拡大してご覧になれます。
大田区の位置は、都の区部の南端に位置し、南から西には多摩川をはさんで神奈川県川崎市に接し、北から西にかけては品川・目黒・世田谷の各区に接し、さらに東は東京湾に面しています。
大田区全図の地図(大田区地図帳 東京都大田区 平成10年12月発行)によると、大田区は19の行政地域に分かれております。

大森町はどんな所
わが大森町のエリアは、大森東と大森西の2つの行政地域で構成されております。
大森町の位置は、北から東にかけて入新井行政地域と接し、西にはJRの東海道本線・京浜東北線を境界にし新井宿・池上の各行政地域に接し、南は蒲田東・糀谷・羽田の各行政地域に接しております。
大森町の地形は、東側に接している入新井行政地域の臨海部が埋め立て地として整備される前までは、東京湾に面した平地で海抜は5m以下です。大森町の雰囲気は、住宅や店舗、工場が多く集まった商業・工業地域を形成しており、現状の住居地は商業地域となっております。

大森町の居住地は、大森西三丁目にあり、大森三丁目連合町会に所属しております。
大森町の丁目境界は、ここをクリックして、大森町詳細地図(PDF版地図)を表示すると見られますが、大森東一~五丁目、大森西一~七丁目、大森中一~三丁目、大森南一~五丁目で構成されております。

大田区の名前の由来
昭和22年(1947年)3月に、当時「大森区」と「蒲田区」と呼ばれた地域が合併し誕生したのが大田区の始まりです。大森、蒲田の両方の一字ずつを取って命名されました。
大田区の前身である大森・蒲田の両区は、ともに昭和7年(1932年)10月に、当時の東京市へ隣接する郡町村が編入された際に設置されました。 馬込・東調布・池上・入新井・大森の5つの町が大森区に、矢口・蒲田・六郷・羽田の4つの町が蒲田区になりました。
(大田区タウン 東京都大田区歴史探訪http://www.otaku-town.com/history/から出典)

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大森町界隈あれこれ(1) 大森町に住んで65年!(その1)

2006年03月19日 | 大森町界隈あれこれ 65年
日記を開始して以来10回目の投稿にあたり、大森町に住んで65年となり、ここで、新たなカテゴリの「大森町界隈あれこれ」を新設して、大森町の今昔の連載を進めていきます。

大森町は古く江戸時代から大森海苔の有数な産地で名をはせており、今でも海苔加工産地であることは余り知られておりません。
ブログの5、6回で記述の61年前3月10日の本所、深川、浅草を中心とした東京大空襲では10万人を越える犠牲者がでましたが、1945年4月15日空襲で大森町近辺が焼き尽くされました。

歴史の風化が進み、大森海苔干し風景の風物詩や、戦争を知らない世代が10人中8人とも云われ、今語り継がないと後世に伝わらないとの思いから、「大森町界隈あれこれ」を記述して参ります。
幸いのことに、父と同一勤務先の若山武義氏の戦中、戦後の貴重な手記が保管され残されておりました。遺族の石川清様ご好意のご提供により、先ずは「大森町界隈あれこれ」鎮魂!大森町大空襲編と、次いで大森町の戦後混乱期編の手記を掲載する予定です。

また、「大森町界隈あれこれ」には、今後の大森町の今昔物語として、大森町界隈の歴史や見所、大森町駅付近の京急の変遷と京急高架化工事、蒲蒲線鉄道新線計画、大森町で幼稚園から小学・中学・高校までを通学した学校変遷などなどについても掲載します。

大森町に住んで65年!
大森町に住みついたのは昭和13年(1938年)で、居住場所は住居地図に示す国道15号(第一京浜)の三叉路に分岐した、国道131号(産業道路)の大森警察署に面したA地区が、父の転居勤務先事務所であり、その2階が大森町ではじめての社宅住まいとなりました。
敗戦色が濃くなってきた1944年に学童疎開がはじまり、茨城県と栃木県にある母方の親類の縁故疎開生活で大森町の生活から離れざるを余儀なくされました。
1944年の夏頃、防空上の理由で建物の強制疎開が行われ、大田区では1万2千世帯の家屋が取り壊されました。大森町の社宅も、強制疎開により住居できなくなりました。
1945年8月15日の終戦により、同年秋に一帯が焼け野が原の東京に引き上げましたが、住まいは父の勤務先会社事務所跡(住居地図B地区)に間仕切りした部屋に、居候の生活で再び大森町生活に戻りました。
居候生活は何時までもできないため、昭和24年(1949年)に大森町駅(当時は戦災で消失のため駅は運営休止状態でした)付近に土地を借りて,平屋2間のバラック建ての仮住居に移りました。それ以後同所が、大森町住まいの本拠となり今日まで住んで、65年を経過しました。

大森町って何処
インターネットで大森町(http://www.netoomori.gr.jp/)を検索すると。「大森町(おおもりまち)は秋田県の東南部にあった町町。2005年10月1日に市町村合併で横手市となった。」とあり横手市にあります。
秋田県の大森町と吾が大森町とは姉妹都市を結んでおり、大田区開催のイベントの大森フェスティバルには出店されてます。
では、わが大田区大森町とは何処にあるのでしょうか。地名の変遷などを、次回でご紹介します。

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続・秋葉原界隈(2) 秋葉原UDXに昔懐かしい「須田町食堂」が

2006年03月16日 | 秋葉原界隈
3月11日に訪れたUDXの「AKIBA_ICH(アキバ・イチ)」レストラン街に、何と昔懐かしい「須田町食堂」が店を構えておりました。店の出で立ちを見た瞬間、昭和30(1955)年台の時代にタイムスキップしたのではないかと、思わず迷いました。
ここをクリックすると、拡大写真が表示します。

丁度、昼時であったので、迷わず店に飛び込みました。
1952~56年の学生時代には、まだ今のグルメ時代のように食生活は何でも有ると云う豊かな時代ではありませんでしたが、当時学生でもたまには「須田町食堂」で、リッチな気分になりお腹を満たすことができた、庶民的な昔懐かしい洋食屋さんでした。
店の雰囲気は、当時を思い起こす店構えと、古風なビール広告ポスターなど学生時代の昔に返りましたが、残念ながらメニューは現代の洋食ものでしたが、価格は手ごろに思われました。

下町の洋食「須田町食堂」は、大正デモクラシーの嵐吹き荒れる大正13年(1924年)、帝都の中心で創業され、当時、高値の花であった洋食を、庶民の手の届く価格で提供したことで、たちまち街中話題となり、東京の食文化に大きな影響を与えました。華やかな大正文化を彩る文豪や文化人、さらには政治家、芸人、力士など各界の著名人にも愛され親しまれたと云います。創業以来、80有余年を経て大正ロマンそのままに再現された東京の味、「東京名物」と謳われたハイカラ洋食の須田町食堂(須田町食堂パンフレットから)。

昔に返ったところで、「秋葉原のルーツを探る」というパンフレットがありましたので、コピーを掲載しましたので、江戸時代、明治・大正時代、昭和初期時代の秋葉原を探索して見てください。

昔を思い出しての昼食を終え、アキバ・スクェアに戻ってきたところ、慶応義塾大学と企業30社の産学協同による電気自動車のエコカー「Eliica」の展示車と、秋葉原広場での登場したばかりの綾瀬瑞樹ちゃんの路上ライブなどを見て、浦島太郎から現在に戻りました。

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続・秋葉原界隈(1) 秋葉原クロスフィールド完成

2006年03月14日 | 秋葉原界隈
3月9日、昨春先行オープンした秋葉原ダイビル(ブログ”秋葉原界隈(その1)”)に隣接して複合ビルの「秋葉原UDX」が開業して、開発エリア「秋葉原クロスフィールド」が整備されました。
ここをクリックすると、「秋葉原UDX」拡大図が表示します。

秋葉原UDXは、地上22階、地下3階建て(延べ床面積16万1,676㎡)で3月11日に訪れてみました。1~3階「AKIBA_ICH(アキバ・イチ)」には、30以上の飲食・物販店と金融機関が入り、かっての「東京神田青果市場」の活気と、「選ばれた食」をイメージした下町の老舗の味が楽しめ(次回をお楽しみに)ます。

UDXの2階のAKIBA_SQUARE(アキバ・スクエア)には、企業、大学、行政機関などの展示場、イベント会場として最高のプレゼンテーションが発揮できる総合イベントスペースです。
写真1 当日のイベントのライブ風景

UDXの5~22階はオフィスエリアで、IT分野の研究・実験に使う「先端ナレッジフィールド」や「東京アニメセンター」などの関連施設が入居し、2006年秋には「デザインミュージアム」が開設の予定であるとしております。

隣接の「秋葉原ダイビル」の産学連携エリアでは、大学や企業、日本弁理士会などの20法人メンバーによるコミュニティの「AKIBA TECHNO CLUB (アキバテクノクラブATC)」は、IT先端技術に関わる人材・情報の交流や、コミュニティ活動の情報発信により、学学連携・産学連携を活性化させ、「産業の創出と再生」に繋げることを目的とするそうで、さまざまな領域がクロスした「秋葉原クロスフィルド」の誕生です。
かっての秋葉原は、家電製品や電機部品を売る街から、次世代の新しいビジネスを創造していく街へとの変節です。私にとりましても、成年期から継続してますます関連の深い街になります。

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小さな旅(1) 秩父長瀞の蝋梅と火祭り

2006年03月12日 | 小さな旅
久しぶりに好天に恵まれた3月5日の日曜日に、長瀞の標高497mの宝登山にある蝋梅園の蝋梅を見に行ってきました。今年は、厳冬のため例年より開花が1月ほど遅く、丁度見頃の時期を迎えたところでした。また、蝋梅園に隣接の梅百花園の梅は、蕾がほころぶ前の状態で、開花は1週間ほど先のようでした。

ここをクリックすると、拡大図が表示します。

宝登山には、上野から高崎線で熊谷乗り換えの秩父鉄道で長瀞駅で下車し、駅前広場を国道140号線に向え北進し、宝登山神社の大鳥居をくぐり、神社脇を左折して坂道を登ると宝登山ロープウエイ山麓駅まで約30分ほどの行程でした。当日は、天気がよいので人出が多く、ロープウエイ乗車まで小1時間ほどの行列の後、5分間の乗車で山頂駅到着です。
ここをクリックすると「秩父鉄道長瀞駅~宝登山山頂の地図」を表示します。
写真1 「賑わう蝋梅園」クリック

蝋梅」(写真2)は、大辞林によると「ロウバイ科の落葉低木。中国原産。庭木とする。葉は対生し、卵形。一、二月、葉に先立ち枝の節に香りのよい花をつける。花は径約2センチメートルで、多数の花被片があり、外側の花被片は黄色、内側は暗紫色。唐梅(からうめ)。」とあります。

当日は、たまたま宝登山ロープウエイ山麓駅に隣接広場で長静山不動寺の火祭りの行事が行われる日にあたり、蝋梅観賞して下山後に関東一と称する火渡荒行奉修見ることができました。
写真3 「駅前広場の郷土獅子舞奉納」クリック
写真4 「長瀞火祭りの柴燈大護摩」クリック
長瀞火祭りは、秩父路の山間地域で、はぐくまれた信仰行事“火渡祈願”を歴史を越えて受け継がれた“秩父の心”として長瀞に再興した、総本山醍醐寺座主御親修による秘法の火渡祈願で、「柴燈大護摩・火渡荒行」(写真5 クリック)と云われております。

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東京大空襲~あれから61年~(その2)

2006年03月11日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
いま、日本人の10人のうち8人が戦争を知らない世代となっております。

そこで61年も前の、東京大空襲での東京区部での戦災焼失区域を知ることができる術があるのかを調べたところ、現在2種類の東京区部戦災焼失区域図が販売されていることが判りました。

1つは、㈱之潮の発行による、1945年8・9月にアメリカ軍撮影の空中写真から作成された、戦災復興院が1946年に刊行した、知られざる東京戦災白地図群(縮尺1:5000)の33葉で、一部は品切れの地図もあるが残存品は財団法人 日本地図センターのイベント公開時に入手が可能です。
もう1つは、株式会社明元社の発行による、『東京都戦災誌』編集/東京 ISBN-4902622-04-1 東京都焼失区域図で、東京都区部焼失区域図(東部・西部)2枚と八王子市焼失区域図1枚組があり、大型書店やAmazonから購入ができます。
ただし、何れも高価なため、購入は限定されます。しかし、明元社ホームページ(http://www.
meigensha.co.jp/)の地図見本に東京区部焼失区域図から東京の広域にわたり焼失区域を知ることができます。

また、インターネットWeb検索により、東京大空襲の写真などの情報は多くみることができます。しかし、3月10日の東京大空襲での焼夷弾の低空爆撃や100回に及ぶ空襲により、東京区部焼失区域図に見られる様に下町は壊滅状態となり、約10万人が犠牲となり、20万戸に及ぶ家屋が焼失した被害を蒙ったとされてます。
低空爆撃の焼夷弾の雨のなかでは、密集した小さな家々があっという間に火の海に包まれ、火焔による酸素欠乏で消防車のエンジンが止まり消化不能となり、一家が逃げた川べりでは、次々と人間が焔に包まれ黒焦げになって重なり遭う様は想像に絶するものです。

そこで、東京大空襲の記憶を伝へる戦争体験者の高齢化により、記憶の継承が途切れることの危機感から、戦争の語り部の先頭に立って活動を続ける作家の早乙女勝元さん(73)は、2002年3月に「東京大空襲・戦災資料センター」を開設して館長を務めて精力的に活動しておられます。

「東京大空襲・戦災資料センター」の設立は、はじめ「東京空襲を記録する会」が1970年より、この空襲・戦災の文献や物品を広く収集してきて、1999年に東京都の「平和祈念館」が凍結の事態となり、「記録する会」と財団法人政治経済研究所はやむにやまれぬ思いから民間募金と資料収集をよびかけ、4000名をこえる方々の協力により、2002年3月9日、戦禍のもっとも大きかった地にセンターを完成できました。
センターには、「東京大空襲を記録する会」が1970年から収集してきた空襲・戦災に関するの文献をはじめ、約5000冊の各種資料が収蔵されています。
資料のなかの、焼夷弾でえぐられた古いピアノが、無言で悲惨さを物語ります。資料・展示保管室の写真や地図をはじめ、防空頭巾や防毒マスク、溶けたガラス盃、焼夷弾などセンターが収集してきた資料が各テーマに沿って並べられ、訪れる人たちに無言で語りかけます。

本日、昨年10月に次いでの2回目の「東京大空襲・戦災資料センター」に訪問しました。これは、先にお伝えしました、「大森町界隈よもやま」の大森町大空襲編に故人若山武義氏の手記を掲載するに当り、関連資料および写真の掲載許可の打診をして参りました。掲載許可については、内諾を得ることができましたので、若山武義氏の手記は貴重な資料となります。

当kan-haruの日記をご覧頂いた皆様には、「東京大空襲・戦災資料センター」にお尋ね頂き、戦争の悲惨さと無益さを皆様にお伝え頂ければ幸いと思います。

<前回 東京大空襲(1)
次回 大森町界隈あれこれ(8) 鎮魂!大森町大空襲(第1回)
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東京大空襲~あれから61年~(その1)

2006年03月10日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
今から61年前の今日、太平洋戦争による東京大空襲は、1945年3月10日未明のB29爆撃機約300機による低空絨緞爆撃による焼夷弾1,700トン、爆弾6個による2時間半にわたる爆撃で、本所、深川、浅草を中心とした住宅蜜集地の27万個の家屋が焼失し、亡くなった人は10万人を超えた世界史に残る大空襲と記録されております。

東京の初空襲は、1942年4月18日にB25爆撃機による奇襲攻撃により、39名の犠牲者がでました。それ以来、本格的な1944年11月24日から1945年8月15日(終戦日)に至るまでの、延べ99回に及ぶ焼夷弾を中心とした市街地爆撃により、4月城南、城北、5月山の手、8月八王子と大規模爆撃が進められ市街地は焼け野原となりました。
空襲により、1941年(開戦時)に687万人の東京区部の人口が、終戦時には253万人に激減したとの記録があります。

クリックにより浅草・東本願寺周辺の戦災写真が見られます。右上端に白く国際劇場、その左に金竜小学校、はるか遠くに千住桜木町の四本煙突(お化け煙突)が見える。

以上の記録は、東京大空襲を伝えようと市民募金をもとに2002年に開館した「東京大空襲・戦災資料センター」の展示資料と共に、次の書籍からの資料によるものです。
・ 図説 東京大空襲 早乙女勝元著 河出書房新社 ISBN4-309-76033-3 C0321
・ グラフィック・レポート 東京大空襲の全記録 石川光陽(森田写真事務所編)
     岩波書店 ISBN4-00-009838-1 C0036
・ 図録 「東京大空襲展」~今こそ真実を伝えよう~ 東京大空襲六十年の会
     発行所 ㈱ビジネスセルインターナショナル

私は、1941年12月8日の開戦は、我々の年代では忘れようもないことで、小学2年の時でした。1942年4月18日の最初の空襲を受けた後、敗戦色が濃くなってきた1944年に学童疎開がはじまり、母方の親類の縁故で間借りの縁故疎開生活を余儀なくされ、大森最初の住居も同年夏には防空上の理由で建物の強制疎開により、大田区では1万2千世帯の家屋が取り壊されました。

大森地区の空襲被害は、1945年4月15日に大森町近辺が、5月29日には大森駅付近が多量の爆弾と焼夷弾爆撃により殆どが焼き尽くされ、大森町よりは北は平和島から、南は蒲田まで見通せるといった荒涼とした焼け野原となりました。
少年時代の戦争体験は、疎開先でも艦載機P51の機銃掃射を50m先で受けたこともあり、戦中、戦後の波乱の時代は中々書き尽くせません。

幸いのことに、当時私の父と同一勤務先の若山武義氏の手記が保管され残されており、遺族の石川清様のご好意のご提供により、「大森町界隈よもやま」の大森町大空襲編に掲載を予定しております。

次回 東京大空襲(2)へ>
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秋葉原界隈(その3)

2006年03月09日 | 秋葉原界隈
前回に続き、秋葉原との係わりについて記述します。

 ここをクリックして、前回に使用した秋葉原駅を中心とした Google Localのマップを表示してください。

[株式会社ササオ]
 表示マップの検索覧に「㈱ササオ 東京都千代田区神田佐久間町1-17」と入力して、「検索」ボタンを押すと、東京都中小企業振興公社と道路を挟んだ角のビルが示されます。
 表示された場所の亀谷ビルの8階には、2005年11月に開所された㈱ササオ秋葉原営業所ショールムがあり、タッチ★サイン(タッチパネル案内)システムや最新IT商品が展示されております。
㈱ササオは、前述の東京都異業種交流会H11メトロ グループ分科会の「XML応用研会」のメンバーであり、26日には会場をお借りして1月例会が開かれました。
 ㈱ササオでの主たる業務は、イベントや展示会、博物館、美術館で使用されている写真・解説パネル・イラスト・案内板など、多種多様な展示ツールの製作販売を行っている総合グラフィック製作を行っている企業で、本社は上野にあります。

[電気技術開発株式会社]
 表示マップの検索覧に「電気技術開発株式会社」と入力して、「検索」ボタンを押すと秋葉原駅西の中央通りを北方の御徒町方向に進んだところに、道路右側に位置表示されます。
1976年に日本技術会に入会と同時に、プロジェクトチームの「情報化研究会」に入会し、研究会では研鑚を目的として毎月1回の例会を開催しております。研究会開催の会場は、隔月毎に電気技術開発株式会社の会議室を10年来の長きに亘り、ご提供を頂き研究会の活動を行っております。情報化研究会は、オフコンが出始めた1968年に、[コンピュータ懇談会]として発足し、1973年に情報化研究会と改称し、これからも将来に亘り息の長い活動が行われる予定です。

[通学した工学部校舎所在地]
 また、1952~56年に通学した大学の工学部の校舎は、現交通博物館の南西方向に当る、小川町の交差点から本郷通りを聖橋方向に100m程北進したところにありました。
 現在工学部の校舎は、神奈川県の生田に移転して、小川町には何らかの面影も存在しておりません。当時の思い出は、社会環境が充実してなく、今日の中国の様に<日常良く停電して休講となり、映画見物での楽しい勉学でした。


 私にとりまして、秋葉原界隈は、小中学生時代から大学までの学生時代、勤務時代の物品調達、技術相談、異業種交流活動、技術研鑚など多様な行動に関して深く係わりを持ち、しかも半世紀に亘る長い期間を過ごすと共に、今後も係わりを持つという人生行路に多大な影響を受けた界隈なのです。

<前回 秋葉原界隈(2)へ      次回 秋葉原界隈(4)へ>
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秋葉原界隈(その2)

2006年03月09日 | 秋葉原界隈
前回に続き、秋葉原界隈との係わりについて記述します。

ここをクリックして、前回に使用した秋葉原駅を中心とした Google Localのマップを表示してください。


[交通博物館]
 表示マップの検索覧に「交通博物館」と入力して、「検索」ボタンを押すと秋葉原駅南西方向の万世橋際に示された場所に、交通博物館が古色蒼然と佇んでおります。
 交通博物館は、少年にとっての憧れの場所であり、戦前・戦中・戦後の小中学生時代(1944~53年)には何度も訪れ、最近には孫と同行するなど半世紀に亘る想い出の深い博物館で、昔からの変わらぬ建物外観を見ると何かノスタルジアが漂っております。
 交通博物館のあゆみを見ますと、当初東京駅北側に開館した鉄道博物館は85年の歴史を持ち、1936年に現在地の万世橋に移転し丁度70年を経過しましたが、本年の5月14日もって閉館してしまいます。良き時代、悪しき時代の変節に係らず、半世紀以上に亘り少年や鉄道ファンに夢を与え続けてくれた交通博物館とも、誠に残念で寂しいことですが、いよいよお別れです。
 現在、閉館にちなみ、さよなら交通博物館 特別展示「写真でふり返る交通博物館85年の歩み」が、機関車ホールで閉館日まで開催されておりますので、閉館までに訪れて想い出に耽りたいと考えております。

[東京都中小企業振興公社]
 表示マップの検索覧に「東京都中小企業振興公社」と入力して、「検索」ボタンを押すと秋葉原駅南側神田川沿いのワシントンホテルの並びに所在位置が表示されます。
 東京都中小企業振興公社は、東京都異業種交流会とは関係の深いところで、中小起業社に関するいろいろな施策を行っている機関です。ここには、2001年頃、東京都中小企業振興公社登録ワンストップIT総合相談員として、中小企業社に対して月2回2年くらいの間通ってIT総合相談に応じてました。

<前回 秋葉原界隈(1)へ       次回 秋葉原界隈(3)へ>
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秋葉原界隈(その1)

2006年03月09日 | 秋葉原界隈
秋葉原界隈(その1)

 1月17日は、秋葉原駅前の1番高い「秋葉原ダイビル」(2005年 3月31日オープン)で、東京都異業種交流会H11メトロ グループの 1月例会が開催され参加しました。
 その「秋葉原ダイビル」の隣の「秋葉原UDX」が2006年3月9日に 完成すると、世界に広くその名を知られた秋葉原電気街領域の様 々な人々と、様々な情報を集い交流することによって、ITを活用し た次世代の新しいビジネスを創造することを目的とした「秋葉原ク ロスフィールド」が、昔の神田青果市場跡地に誕生することになり ます。

 また、秋葉原電気街の反対側の日本鉄道建設公団が所有して いた場所に、巨大規模の売場面積を有する「ヨドバシカメラ」が 2005年9月にオープンし、「つくばエクスプレス」秋葉原駅が、 2005年8月24日に開業して、山手線・京浜東北線を挟んだ秋葉原 駅東西の様変わりは、目を見張るほどであります。

 秋葉原電気街との付き合いは、ラジオ少年として中学2年生(19 47年)時代から電気部品店街を物色した頃から始まり、電気街が幾 多の変遷で変革した中、通信機製造メーカー時代の電気部品調達 や、ソフトハウス時代の開発用パソコンやソフトウェアの調達な ど、現代に至るまで半世紀以上も続き、縁が深く馴染みの多い歴史
のある想い出の街です。
 
 ここをクリックすると、秋葉原駅を中心とした Google Localのマップが表示されます。

 表示マップの検索覧に「ダイビル」と入力して、「検索」ボタンを押すと「秋葉原ダイビル」の位置が判ります。

 なお、地図上に「ダイビル」の位置マークが表示されない場合に は、ここをクリックして「google ローカル ヘルプ」をご覧下さい。

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kan-haruのgooブログ日記

2006年03月08日 | Weblog
はじめまして。
kan-haruと申します。

ここをクリックすると、拡大地図が表示されます。  

今日から、gooブログに参加させて頂きます。よろしく、お願します。

大森に住みはじめたのは、父の仕事の関係で昭和13年(1938年)に、大森警察署傍の国道15号(第一京浜)の三叉路に分岐した国道131号(産業道路)に面した大森警察署前の対面した場所が勤務先事務所の2階に転居してから、世界大戦による疎開期間中を除いてこれまで大森町には65年有余経過しました。

自宅兼事務所の所在地は、京浜急行の大森町駅と国道15号線とに挟まれた商店街の狭い路地裏に立地しております。現在、京浜急行の高架工事が今年から始まり、1,2年後の近傍は大きく変貌することが見えております。

大森は、江戸時代からの歴史のある浅草海苔の有数な産地であり、終戦直後は土地が空いておりましたので、私宅の西隣で干し海苔生産が始まり、毎年冬になると風物詩の海苔すきや海苔の天日干しが見られました。

大森町界隈のあれこれについて、戦中戦後の通学校変遷、東京大空襲、浅草のり、大森の歴史、大森町界隈の見所、大森町駅付近の立体工事、蒲蒲線計画、などなどについて今昔のことを書いていきたいと思います。


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