kan-haru blog 2007
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若山武義氏の手記も、今回から昭和戦後史の第2編に入ります。1945年(昭和20年)代の終戦直後の記録は非常に少なく、大変貴重な戦後史の資料です。
戦後史第1編 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第1~8回
若山氏の手記は、大戦の大空襲の戦災に遭遇された空襲編の3編も掲載済であります。是非この貴重な記録を閲読して頂き、お知り合いの皆様方にもご紹介願えれば、記述者におかれましても満足されるのではと思います。
戦災日誌第1編 大森町界隈あれこれ(8) 鎮魂!大森町大空襲(第1~11回)
戦災日誌第2編 大森町界隈あれこれ(19) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第1~7回)
戦災日誌第3編 大森町界隈あれこれ(K30) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第1~9回)
終戦の詔書
終戦の詔書は、天皇の大権に基づいてポツダム宣言受諾に関する勅旨を国民に宣布した文書で、1945年(昭和20年)8月14日発布され、これにより戦争終結が公式に表明されました。同日、天皇は詔書を録音し、その内容は翌15日正午にラジオ放送を通じて広く国民に報じられました。
これが、玉音放送(「大森町界隈あれこれ(K33) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第4回)」参照)であり放送の時間は正味4分10秒間であったと記録されております。
放送時間が正午を選んだのは、最も聴取率が高い時間帯であったからと云われております。当日は、学生・生徒は学校に、町会隣組は隣組単位に集合してラジオ放送を聞いたのですが、当時のラジオは性能上多数の人に聞かせるものはありませんでしたので、大部分の人は放送内容を聞くことができない状況でした。
終戦の詔書の内容を国民が見たのは、翌日の新聞記事でした。
終戦の詔書は、国立公文書館で所蔵されております。
詔書の全文テキスト文書は、国立図書館の電子展示会「日本国憲法の誕生」資料内の資料と解説・第1章 戦争終結と憲法改正の始動「終戦の詔書(クリック)」で閲覧できます。
若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) 天皇制の問題集 第1回
終戦の詔書
昭和20年八月十四日終戦の詔書に
朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激
スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ
朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ
将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコ
トヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ
と仰せ給うて、敗戦に虚脱せる国民に其の進むべき道を宣示し給うた。更に元旦の詔書に、明治天皇開国五箇条の御誓文により新たに国運を開かせ給う旨を仰せられて
朕ハ爾臣民ト共二在リ常二利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス朕ト爾臣民トノ間ノ紐帯ハ終始相互
ノ信頼トニ結バレ単ナル神話ト伝説ニヨリテ生ゼルモノニ非ズ
と、天皇の現御神たる事を御否定遊ばされ
朕ハ我ガ国民ガ時難二躍起シ当面ノ困苦克服ノ為メ二、又産業文運振興ノ為勇住センコトヲ希念ス。
我ガ国民ガ其ノ公民生活ニ於テ団結シ、相倚リ相扶ケ寛容相許スノ気風ヲ作興スルニ於テハ、能ク
至高ノ伝統ニ恥ヂザル真贋ヲ発揮スルニ至ラン斯ノ如キハ実ニ我国民ガ人類ノ福祉ト向上ノ為、絶
大ナル貢献ヲ為ス所以ナルヲ疑ハザルナリ
一年ノ計ハ年頭ニ在リ朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ自ラ奮ヒ自ラ励マシ、以テ此
ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ
敗戦後の新日本建設に付き懇篤に我等の向かうべき道を宣示し給うたのである。
戦争華やかなりし頃、如何なる点が不敬であったのか所轄「天皇機関説」にて篤学の学者、思想家、の連中が学園より追放され、自由主義者と共に囹圄の人となった人々も相当あったのである。
「皇室に対する国民の感情は宗教以上の信仰である」と、クルーアメリカ大使初め我国に長く滞在した欧米人の皆一致して断定された通り、学問や理屈で説明の出来ぬ感情なのである。
天皇制に対して、学者の学問的解釈に対し、ただ
神聖にして犯すべからず
として、何が故に神聖であるかは、学問的にも倫理的にも説明されない。只、国民衆庶の牢固熱烈なる信仰を特権階級に利用され戦争となり敗戦となっあ今日、言論の自由から批判の対象となったのは当然である。
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毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(4月分掲載Indexへ)
カテゴリー別Index 大森町界隈あれこれ 戦後史編手記 第1、2編総目次 へ
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若山武義氏の手記も、今回から昭和戦後史の第2編に入ります。1945年(昭和20年)代の終戦直後の記録は非常に少なく、大変貴重な戦後史の資料です。
戦後史第1編 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第1~8回
若山氏の手記は、大戦の大空襲の戦災に遭遇された空襲編の3編も掲載済であります。是非この貴重な記録を閲読して頂き、お知り合いの皆様方にもご紹介願えれば、記述者におかれましても満足されるのではと思います。
戦災日誌第1編 大森町界隈あれこれ(8) 鎮魂!大森町大空襲(第1~11回)
戦災日誌第2編 大森町界隈あれこれ(19) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第1~7回)
戦災日誌第3編 大森町界隈あれこれ(K30) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第1~9回)
終戦の詔書
終戦の詔書は、天皇の大権に基づいてポツダム宣言受諾に関する勅旨を国民に宣布した文書で、1945年(昭和20年)8月14日発布され、これにより戦争終結が公式に表明されました。同日、天皇は詔書を録音し、その内容は翌15日正午にラジオ放送を通じて広く国民に報じられました。
これが、玉音放送(「大森町界隈あれこれ(K33) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第4回)」参照)であり放送の時間は正味4分10秒間であったと記録されております。
放送時間が正午を選んだのは、最も聴取率が高い時間帯であったからと云われております。当日は、学生・生徒は学校に、町会隣組は隣組単位に集合してラジオ放送を聞いたのですが、当時のラジオは性能上多数の人に聞かせるものはありませんでしたので、大部分の人は放送内容を聞くことができない状況でした。
終戦の詔書の内容を国民が見たのは、翌日の新聞記事でした。
終戦の詔書は、国立公文書館で所蔵されております。
詔書の全文テキスト文書は、国立図書館の電子展示会「日本国憲法の誕生」資料内の資料と解説・第1章 戦争終結と憲法改正の始動「終戦の詔書(クリック)」で閲覧できます。
若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) 天皇制の問題集 第1回
終戦の詔書
昭和20年八月十四日終戦の詔書に
朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激
スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ
朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ
将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコ
トヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ
と仰せ給うて、敗戦に虚脱せる国民に其の進むべき道を宣示し給うた。更に元旦の詔書に、明治天皇開国五箇条の御誓文により新たに国運を開かせ給う旨を仰せられて
朕ハ爾臣民ト共二在リ常二利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス朕ト爾臣民トノ間ノ紐帯ハ終始相互
ノ信頼トニ結バレ単ナル神話ト伝説ニヨリテ生ゼルモノニ非ズ
と、天皇の現御神たる事を御否定遊ばされ
朕ハ我ガ国民ガ時難二躍起シ当面ノ困苦克服ノ為メ二、又産業文運振興ノ為勇住センコトヲ希念ス。
我ガ国民ガ其ノ公民生活ニ於テ団結シ、相倚リ相扶ケ寛容相許スノ気風ヲ作興スルニ於テハ、能ク
至高ノ伝統ニ恥ヂザル真贋ヲ発揮スルニ至ラン斯ノ如キハ実ニ我国民ガ人類ノ福祉ト向上ノ為、絶
大ナル貢献ヲ為ス所以ナルヲ疑ハザルナリ
一年ノ計ハ年頭ニ在リ朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ自ラ奮ヒ自ラ励マシ、以テ此
ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ
敗戦後の新日本建設に付き懇篤に我等の向かうべき道を宣示し給うたのである。
戦争華やかなりし頃、如何なる点が不敬であったのか所轄「天皇機関説」にて篤学の学者、思想家、の連中が学園より追放され、自由主義者と共に囹圄の人となった人々も相当あったのである。
「皇室に対する国民の感情は宗教以上の信仰である」と、クルーアメリカ大使初め我国に長く滞在した欧米人の皆一致して断定された通り、学問や理屈で説明の出来ぬ感情なのである。
天皇制に対して、学者の学問的解釈に対し、ただ
神聖にして犯すべからず
として、何が故に神聖であるかは、学問的にも倫理的にも説明されない。只、国民衆庶の牢固熱烈なる信仰を特権階級に利用され戦争となり敗戦となっあ今日、言論の自由から批判の対象となったのは当然である。
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