K&A

kan-haruの日記

イベント(11) 展覧会 お茶の水小学校展覧会(その1)

2006年11月29日 | イベント
11月17日と18日は、千代田区立お茶の水小学校・幼稚園の展覧会が開かれ、18日の土曜日は学校公開日として父兄関係者の参観ができました。
同校では、9月24日に第14回運動会が開催され、それに次ぐイベントであり最近の小学校の展覧会はどんな様子なのか興味がありましたので、見させて貰いました。
お茶の水小学校は、夏目漱石が通った元の錦華小学校が近隣の小学校と統合して纏まった学校(「イベント(6) 運動会 お茶の水小学校運動会」、「風景・風物詩(A1) 東京百景 山の上ホテルとその周辺(その3)」参照」)です。

最近の都心公立小学校
展覧会開催の公開ですので、児童の展示作品と午後の授業風景とともに学校の施設も見させて頂きました。授業風景の写真の掲載はできませんが、教室周辺の写真(2年生教室6年生学習成果品)などを見て下さい。
統合のお茶の水小学校では、一学年が二学級なので、教室は比較的に余裕をもって使用(ランチルーム理科室家庭室)しているように感じました。
また、こういう機会でないと見られませんので、屋上にも上がらさせて頂きました(屋上風景1屋上風景2)。

展覧会を覗く
展覧会会場は、講堂と校舎2階ロビーに展示してありました。
展示作品は、学年ごとに幾つかの定められた統一のテーマーで描かれた絵と工作作品が展示されておりました。
全体を見ての印象は、けばけばしく無く明るくて、カラフルに表現された展示品であり、幼稚園児から高学年まで、どれも創造性があり、表現力が豊かで個性を発揮した図画・工作品であると感じました。
われわれの小学生時代とは、時代の差に大きな違いを感じましたが、これは当然のことであり、それぞれの時代の背景を展覧会で見て改めて認識しました。

2階ロビーの展示作品


講堂の展示作品


・幼稚園児作品
ふれあい動物園でいろいろな動物を見たり抱っこした経験や、毎日世話をしているクラスのうさぎとのかかわりを生かして、好きな動物を作りました。
ビニール袋に紙を入れ、セロテープ形を作り、まわりにタオル生地を貼りました。
好きな動物1好きな動物2

・1年生作品
図画
図画の展示風景
工作 お茶の水動物園
1年生は、移動動物園が校庭にやってきた時、さわったりだっこしたりして動物と仲良しになりました。そこで、お茶の水小学校がもし動物園になったら・・・と想像して、みんなで動物を作ってみることにしました。
紙粘土で形を作った後、絵の具やマーカーで色をつけました。動物の周りには、北の丸公園で集めたどんぐりや落ち葉などを使って景色を作りました。他の動物園にはない物も「お茶の水どうぶつえん」には、いるかもしれません。お茶の水動物園

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(10月分掲載Indexへ)
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大森町界隈あれこれ イベント(2) OTAふれあいフェスタ(その2)

2006年11月26日 | 大森町界隈あれこれ イベント
OTAふれあいフェスタ(平和島公園地図平和島公園空中写真再掲 拡大して見られます その1参照)は、見るもの触れるものが沢山あり過ぎて2日間みても見切れないほどです。トップの図はクリックすると拡大して見られます。

・「水のエリア」を見る
大森町の平和の森公園を出て通りを渡ると「平和島」で、平和島競艇場バス乗降場横の「水のエリア」への通路は、観客や阿波踊りなどの出場者でごった返しておりました。
「水のエリア」は、平和島競艇場建屋を中心として、競艇場内中央のベイプラザ、東京テレシアターなどで観る、食べる、遊ぶスポットが盛りだくさんの出会いのエリアです。
競艇場観客席は大入り満員の中で、水のステージ上では、競艇ボート試乗会や「轟轟戦隊ボウケンジャー」 ショーと木遣りは終了しておりました。
競艇場の観客席入り口の前へと進むと、景気付けに獅子舞を先頭に、お囃子車に続いて、大森・六郷・萩中地区のお神輿パレード(神輿1神輿2神輿3神輿4)が練り歩いてきました。


続いて、160名が繰りひろげる「よさこい鳴子おどり」民謡流しが通り、その後競艇場観客席に行くと、助六連の阿波踊り(阿波踊1阿波踊2阿波踊3)が始まっておりました。


この後、ステージではメインのパレードの入場ですが、見るのを諦めて観客席を後にして外に出ました。
「お買い物ストリート」の自冶体交流コーナーや各地の特産品に区内各団体の相談・体験ブースなどをざっと一回りして、ストリートの出口付近で餅つき秋田の大森ワインなどいろいろな物が売っておりましたので、弁当とお土産用のワインを買いました。
ストリートの外の競艇場の中央広場では、くすのき連(大田区)、けやき連(板橋区)、さざんか連(杉並区)、目黒さんま連など各連の今年の見納めの阿波踊りを行っておりましたが、時間がないので横目でみながら、「ごちそうストリート」を通り再び競艇場の観客席に行き昼食をとりました。

食後、家から持参した空き缶を抽選券と交換し、ベイプラザーの抽選会場でお茶とテッシュペーパーを貰い、奥の虹のステージではジャズの演奏をしているのを横目で見て、2階に上がると大森学園高等学校(「大森町界隈あれこれ 大森町学びや もりこう会の集い(その1~4)」参照~4)」参照)のテクノワールドを出展しておりましたので、ちょっと覗いてみました。
まず目についたのは、もりこうかいの集いの時見た自動車部の各種の自動車(MITSUBAECONO POWER 260車名不明)が展示してあり、希望の子供には車に乗せておりました。


テクノワールドには、学科ごとの展示コーナー(電気科展情報科展機械科展)のほかお遊び的な展示コーナー(サイエンスショーチャイム・イライラ棒きんきらペン・ぷうぷうボール)もあり何れも大人気で、人が集まっておりました。

夕刻の予定がありましたで、残念ですが折角のOTAふれあいフェスタを後にしました。

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次回 大森町界隈あれこれ イベント 平和の森公園フィールドアスレチック へ>
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大森町界隈あれこれ イベント(2) OTAふれあいフェスタ(その1)

2006年11月24日 | 大森町界隈あれこれ イベント
OTAふれあいフェスタ
第17回を迎える、OTAふれあいフェスタ「おおたふれあいフェスタ」が、平成18年11月11日(土曜日)と12日(日曜日)の両日の10時から16時の間開かれました。
OTAふれあいフェスタは、区民がつどい、楽しみ、ふれあえる機会を創り出し、区民の連帯意識を醸成する目的で、OTA(おおた)ふれあいフェスタ実行委員会と大田区の主催で毎年実施し、30万人が集まる大田区最大のイベントです。

会場は、平和島を中心とした、平和島競艇場、平和島公園と平和の森公園の3会場(平和島公園地図平和島公園空中写真参照)を、3つのエリアの「水のエリア」(平和島競艇場)、「太陽のエリア」(平和島公園)、「緑のエリア」(平和の森公園)のテーマ分けして、それぞれのテーマ毎のふれあいコーナー、体験コーナー、乗り物コーナー、ゲームコーナー、スポーツコーナー、学習コーナー、ミニ動物園やフリーマーケット、模擬店などの一日では見切れないほどの催しが盛り沢山の他、JR大森駅東口から八幡通り、第一京浜国道を通って水のエリアまでのパレードや、水のステージでのショー、神輿パレード、民謡流し、阿波踊りなどが分刻みで催されました。

平和島公園地図と空中写真を拡大して見る方法
拡大して見るには、次の3月月間INDEXに方法が記載してありますので、参照して下さい。
番外編 ブログ記事の参照地図を拡大して見る方法[付 kan-haruの日記3月月間INDEX]4月1日

平和島
会場の内平和の森公園は、太平洋戦争時に捕虜収容所として埋め立てを開始し始めた、当時の島の拡張の跡であり、大森町に編入された場所なのです。
したがって、平和の森公園会場は、大森町のエリア(大森町エリア地図参照)でありますので、OTAふれあいフェスタは大森町も一翼を担っているのです。
その後、埋め立ては陸続きに拡張され、南北に首都高速1号線羽田通りとモノレールが通り、
平和島競艇場、平和島公園や東京流通センターを備え、平和の森公園以東を境にして「平和島」と命名した島が完成したのです。

埋め立て陸地
平和島が完成しても埋め立ては継続され、平和島の南側に「昭和島」が誕生し、その東側に「京浜島」ができました。さらに、埋め立ては際限なく続き「平和島」の東に京浜運河を隔てて、東京港野鳥公園、中央卸売市場大田市場、大田スタジアムや臨海斎場が出来、その南東には「城南島」も出来ました。
中央卸売市場大田市場は、JR秋葉原駅の西側に隣接してあった「東京神田青果市場」(「続・秋葉原界隈(1) 秋葉原クロスフィールド完成」参照)が移転して来たのです。
これらの埋立地の北側には、品川区に所属する大井埠頭の埋め立て地へと続く、大陸地が誕生したのです。

OTAふれあいフェスタにふれあい参加
フェスタ初日の11日は生憎雨に見舞われましたが、二日目の12日は朝から快晴でふれあいに参加してきました。夕刻には、他に行く予定があるので、昼食はOTAふれあいフェスタでとるようにと自宅を12時に出て、徒歩で美原通りから環七通りを抜け平和の森公園入り口には30分程で着きました。途中の美原通りには、平成19年4月に開園予定の「大森ふるさとの浜辺公園」(「大森町界隈あれこれ(N30) 大森町風景 大森ふるさとの浜辺公園の砂浜開放」参照)の垂れ幕が掛けてあるのが見られました。
・「緑のエリア」を見る
先ずは、平和の森公園南の環七北口から入り、ひょうたん池沿いに北上して平和の広場芝生上の「緑のエリア」は朝からの好天気で、既に沢山の人が来ており、「青空大フリーマーケット」は大混雑でした。


このエリアでの幼児に大人気の「ミニSL」は、発車の整備をしておりましたが乗車希望者は長い行列です。


植木市や相談コーナーなどいろいろありましたが、ふれあう時間があまりとれないので、模擬店で小物日用品を買い平和の森公園を北口から出ました。

・「太陽のエリア」
「太陽のエリア」は、平和島公園にあり体験やふれあいコーナー、アマチュア音楽祭などがありますが、時間が取れないので残念ですが今回はパスとしました。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(10月分掲載Indexへ)
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大森町界隈あれこれ イベント(1) ポレポレエコまつり

2006年11月22日 | 大森町界隈あれこれ イベント
好天の11月5日日曜日に、地域活動の特定非営利活動法人 大森コラボレーションのこらぼ大森のグランドで、子供交流センター活動による「第3回ポレポレエコまつり」が開催されましたので、日頃大森コラボレーションがどんな活動を行っているのかを知るため見学に行きました。
こらぼ大森は、大森町の周辺を囲むように走るメイン通りの一辺の北側にある環七通り、東側にある第一京浜国道、南側にある大森町商店街通りに、さらに西側にある東邦医大通りの四辺形のほぼ中央部に位置したところにあり(地図参照)、ここは、元大森第六小学校の跡地で、イベントは校庭跡のこらぼ大森のグランド一杯に展開して行われておりました。自宅からは、徒歩10分ぐらいのところです。


こらぼ大森
平成14年3月に、大田区最初の統廃合校として閉校した旧大森第六小学校の跡地をどのように利用するかを大田区と地域住民・区民活動団体代表などが話し合いを重ね検討しました。
地域としては、①区民の自主的な活動を応援する場が欲しい、②高齢者を支える活動のできる場が欲しい、③中高生の居場所が欲しいといった区民の希望を反映して、大田区は平成16年4月「区民活動支援施設 こらぼ大森」が開設されました。
こらぼ大森には大型児童館・子ども交流センター、協働支援施設、区民利用施設のグラウンドと体育館棟、そしてシルバー人材センターの施設を設け、いろいろな世代の人、さまざまな目的を持った人々が集う場所として出来たのです。

・子ども交流センター
子ども交流センターは、「地域で子育てを!」というコンセプトで作られたNPO法人「おおもり子どもセンター」が大田区から学童保育と児童館事業を受託して運営しており、乳幼児と保護者が一日過ごせる「ファミリールーム」、子どもたちが体を動かす遊びができる二教室をつなげた「ホール」、子どもたちが手作り工作など行える図画工作室使用した「工作室」、中高生などのバンドが練習できる防音設計の「音楽練習室」があります。
ここでは、職員の他に大学生から高齢者までの幅広い年代のボランティア、アルバイトが支えて「地域の子育て・子育ちの拠点」を行っております。

また、シルバー人材センターの「作業室」では60~80代の高齢者の方が箱詰めなどの軽作業を行っり、「寺子屋」では退職後の先生と小学生が、学校の補習勉強を行っております。
協働支援施設では、団体間の情報交換や情報収集の資料をそろえ、活動の相談の「情報交流室」や、印刷やコピー、軽作業ができる「ワーキングルーム」と短時間打合わせに利用できる「ミーティングルーム」、会議・学習会に利用できる「会議室」および「共同事務室」などがあります。
一階には来館者が飲食、休憩や歓談のできる「ふれあいコーナー」や、高齢者配食サービスに利用する「調理室」と、会食会・展示会に使用する「軽食コーナー」などがあります。

ポレポレエコまつり
子ども交流センター「第3回ポレポレエコまつり~エコな江戸をあそぼうよ~」は、こらぼ大森グラウンドで12時30分から16時まで開催されます。
当日は、外出先からの寄り道で13時少し前に着いたところ、グランドは子供たちで一杯でした。
まつり風景(会場案内図参照)は、あそびの種類によりコーナが分かれており、「子どもあそび村」には、竹筒たおしや札所めぐり、江戸くじやなど13のコーナーと共に「エコ城」があります。「遊び・体験処」には丸太切、わら細工などの11体験コーナーがあり、「楽市~食の市場~」には、焼きそば、フランクフルトやお汁粉・甘酒など10種類の食べ物店があり、何れも大繁盛で食材を追加仕入れても売り切れたようです。

「工芸村」には、花のお江戸のワッペン作り、土鈴作りや木工クラフトなど5種類のもの作りコーナーでもの作りに汗を流しておりました。「幼児あそび処」には、わらプール、江戸おもちゃ工作紙芝居などの5種類のあそびコーナーで、その芝居小屋、子供みこし幼児迷路占いコーナーなど盛り沢山の江戸の遊び処が用意されておりましたので、参加した幼児、小学生などはあっという間に時間が経ったことでしょう。


ポレポレエコまつりの、遊びの準備や手伝い員は、周辺地域の町会、幼稚園父母会、大森学園高等学校(「大森町界隈あれこれ 大森町学びや もりこう会の集い(その1~4)」参照)の生徒など多数のボランティアで運営されました。

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イベント(10) 晴海フラワーフェスティバル Infiorata 2006

2006年11月20日 | イベント
丁度、5~6年ほど前に晴海トリトンのオフィスビルで開催のセミナーに参加した時に、たまたま晴海フラワーフェスティバルの準備で、大勢の人がバラの花びらと砂を使って絵模様を描いておりました。その時、一度機会をみて完成した作品を観賞して見たいと思っておりましたが、それきりになっておりました。
たまたま、11月4日の新聞に、晴海フラワーフェスティバル Infiorata 2006の記事が載っているのを見て思い出し、快晴の11月5日に見に行きました。
行きは、京浜急行・都営地下鉄を乗り継いで東銀座駅から、都バスの晴海ふ頭行きで会場前の晴海トリトンスクエア前で下車すると、晴海フラワーフェスティバル Infiorata 2006の会場前です。

晴海フラワーフェスティバル Infiorata
インフィオラータ(Infiorata)とはイタリア語で「花の絨毯」のことだそうで、イタリアのジェンツァーノ市で毎年6月に開催されるインフィオラータは、カネーションの花びらや種等を使用して花絵を制作して展示を行い、2000年以上の歴史を持っているそうです。
晴海フラワーフェスティバル インフィオラータは、地元住民を中心として実行委員会を組織して開催し、本場イタリアの芸術性と技術を14万本のバラの花びらで、トリトン流にアレンジしてデザインし製作しているとのことで、2004年にジェンツァーノ市とトリトンとで友好「インフィオラータ・フレンドシップ」を結び、イタリア大使館/イタリア政府観光局/ジェンツァーノ市の後援で開催されました。

インフィオラータ観賞
2006年開催のインフィオラータ「晴海フラワーフェスティバル Infiorata 2006 ~四季のハーモニー~」のテーマをパンフレットでみると、「季節を感じる素晴らしさ」、「四季折々の感動」を表現した「四季のハーモニー」を表現した作品と、晴海フラワーフェスティバル5周年を記念した5年間の代表作品を再現した多彩な14万本のバラの花びらを使用して、イタリア・ジェンツァーノ市のアートディレクター アントワーヌ・チェザローニ氏監修の花の絨毯が出展してありました。
・会場風景
会場の入り口に高所作業車のゴンドラ(バケット)が置いてありましたので、初めはインフィオラータの開催中に何に使うのかと思っておりましたが、希望者を乗せて高所から「桜の散歩道」の花の絨毯を鑑賞するサービスと分かり行列して乗って見ました(高所から観賞の花の絨毯1花の絨毯2)。
高所観賞のゴンドラは、桜の散歩道の入り口と奥のレクサス晴海の2ヶ所にあり、ゴンドラにはヘルメットを被りチエーンを付けた上、2人の付き添いが付くという物々しいもので、手前のゴンドラには4人の観賞者が、奥のものは2人が乗れるものでした(ゴンドラで花の絨毯の高所観賞風景1風景2風景3風景4)。
会場の晴海アイランド トリトンスクエア(地図参照)には、運河沿いの「桜の散歩道」と五つの庭(空中写真参照)があり、花の絨毯は桜の散歩道上に16枚、水のテラスと花のテラスの庭に各1枚とオフィスタワーのグランドロビーに3枚の計21枚の花の作品が展示してありました。
・Infiorata 2006 展示作品
花の絨毯の絵は、近隣の住民を中心に約600人が下絵をもとに、バラの花びらと色のついた砂を使用して敷き詰めて、これを絵に仕上げ ながら、縦7メートル、横5メートルの作品にして行きます。作品は、屋外に展示してありますので、維持も大変で時々補修作業(補修作業1作業2作業3)の手がかかります。
今年の出展作品のテーマの幾つかを掲載しましたので、鑑賞して下さい。
作品12「ジェンツァーノの花祭り(2001年)」


作品3「花火大会と勝鬨橋」
作品4「夏祭り」
作品9「目指せ!2016年東京オリンピック」
作品13「ローマの休日(2002年)」
作品14「芸者(2003年)」
作品16「かぐや姫(2005年)」
作品17「チャレンジバナーコンテスト2006(高学年の部最優秀賞)説明パネル 水のテラス会場


インフィオラータの歴史
「晴海フラワーフェスティバル Infiorata 2006 ~四季のハーモニー~」パンフレットによると、13世紀頃から、イタリア全土でキリストの聖体の休日に行列し、花を道に撒く習慣があり、1625年にサンピエトロ寺院の中で、モザイク風の花のデコレーションをするようになりました。
1782年にツァーノで、花びらでデザインした花のカーペットを制作し、戦後はリビアが中心となり、1983年頃から有名な画家やファッションデザイナー、スタイリスト達が参加するようになり、日本、アメリカ、カナダ、フランス等に紹介するようになったそうです。

2001年から2005年開催のインフィオラータ
これまでの晴海開催のインフィオラータは、2001年にはジェンツァーノ市に出典したアントワーヌ・チェザローニ氏のデザイン画をもとに16枚の花の絨毯を描き、2002年には10万本のバラの花びらで「オセロ」「ピノキオの冒険」「ロミオとジュリエット」「ローマの休日」などイタリアにちなんだオペラや映画の世界をテーマにした14作品を描き、2003には江戸開府400年を記念したイタリア人画家が見た江戸をテーマに「能」「歌舞伎」「絵付師」などを19作品を表現し、2004年には歌手の白井貴子さんをコンセプターとして招き“夢いっぱいの地球”をイメージして制作協力で集まった15人の夢作家の20作品の花絵を描き、2005年には生誕200年を迎えたアンデルセン童話と日本昔話を主題にイメージした20作品が描かれました。

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大森町界隈あれこれ 大森町学びや もりこう会の集い(その4)

2006年11月17日 | 大森町界隈あれこれ 大森町学びや
大森工業高等学校校舎から南方面に広がる海苔乾し場(1952年)
(出展:工場まちの探検ガイド 大田区立郷土博物館)

大森工業高等学校の歴史(4)
・大森工業高等学校時代
終戦の翌年の1946年(昭和21年)に、旧制中学校の大森工業学校に入学したのですが、1947年(昭和22年)の学校制度の改革により、新制の大森学園中学校に半ば強制的に編入された新制中学を卒業しました。
中学からの進級校は、同年の学制改革により新設された新制高等学校への入学となります。
新制高校の大森工業高等学校は、1947年(昭和22年)に森ヶ崎で開校し、2年後の1949年に戦災で焼失した大森町の元大森工業学校の古巣の地に、廃工場の建物を移築して取りあえずの復興を叶えてスタートした大森工業高等学校へ入学しました。

この頃、1948年(昭和23年)、日本のインフレ抑制と経済自立のため、「経済安定九原則」がGHQにより指令されドッジによって推進されました。この政策により、インフレは収束したものの、同時に中小企業の倒産、失業、労働情勢悪化など深刻な不況を招く結果となりました。
学校の移転により、大森第四小学校の学域では無くなりましたので委託生徒は二年間で打ち切り、新制中学の大森学園中学校は一般から募集を行いましたが、不況のため応募者が少なく学校経営も苦しい時代でした。
その後、1950年(昭和25年)6月25日、南北朝鮮境界38度線で北朝鮮軍と韓国軍との間に戦闘が開始され、始まった朝鮮戦争は日本経済を一変しました。アメリカ占領下にあった日本は、直ちにアメリカ軍の緊急物資調達計画に繰り入れられて、朝鮮地域国連軍とアメリカ軍の軍用資材の発注を受けることになり、いわゆる朝鮮特需を迎えたのが日本の立ち直りのきっかけとなったのです。

大森工業高等学校卒業記念(完成したばかりの実習工場) 筆者:前から2列目の右から4番目

こうした在校生徒が少ない中で、大森工業高等学校を卒業しましたが、まだ不況から脱していない状況では、名も無い私立中学への応募は堪えきらず、大森学園中学校は廃校となり、新制中学の卒業校は存在していないのです。

・当時の大森町付近の風景
自宅の住居も、1949年に現大森町駅近くに土地を借り、そこに2間の平屋のバラック小屋を建てて仮の集合住宅から移り住み、戦後の生活をはじめたところでした。
当時の住居の周辺の状況は、京浜急行電鉄の大森町駅(当時は大森山谷駅と称してました)が1945年4月15日の大森町の空襲戦禍により焼失(「大森町界隈あれこれ(6) 大森町に住んで65年!(その5)」参照)して以来営業停止のままで、駅周辺にはバラックが10戸ほどの焼け野原の風景(「大森町界隈あれこれ(13) 鎮魂!大森町大空襲(第6回)大森町上空付近の航空写真(国土地理院) および「大森町界隈あれこれ(14) 鎮魂!大森町大空襲(第7回)1946年航空写真を元に作成の大森・入新井付近戦災地図参照)でした。

大森町駅の営業再開は、平和条約発効の年の1952年(昭和27年)12月15日ですが、戦災からそれまでは下り線のホームだけの残骸を曝しておりました。1952年頃になると、戦後の復興が進み、数キロほど離れた下丸子付近の多摩川べりで花火大会が開かれるようになり、まだ営業前の駅ホームの上から花火が遠望できるという、今では信じられないような風景でありました。
当時の大森警察署は、1931年(昭和6年)に大森町役場として3階のビルが建てられ、その後大森区役所として使われておりましたが、1941年(昭和16年)に区役所が大田区中央に移転したため、警視庁の大森警察署の庁舎となりました。この建物は、大森では最も大きなビルで、1986年(昭和61年)に解体されるまでは大森のシンボルでした。1939年から疎開までの間は、産業通りを隔てた警察のまん前に居住し、戦後のバラック建ての住居も大森警察の近くで、この古ぼけたビルは今でも瞼に浮かんでくるほど懐かしい建物でした。

戦後の食料難で、バラックの周囲の焼け野原には、食うために野菜などの自作をしましたが、焼け跡の灰が良い肥料となり、何でも良く育ち多少の自給自足になった思い出があります。
一方の伝統産業である海苔養殖業は、戦後の復興が進むと共に増産が行われ、1950年代初(昭和26、27年頃)には、戦前の最高レベルまで回復しました。それに伴い、海苔乾しが戦前の台乾しの方式(その2参照)から枠乾し方式(その3参照)に代わってきたため、広い空き地を使用しないでも海苔乾しができるため、大森町の海苔養殖業がそれまでは呑川沿岸の森ヶ崎周辺で生産していたものを、大森町の内陸の各所にある空き地を求めて進出し、特に内川に近いところのあちこちに海苔乾し風景(トップ写真)が見られるようになりました。

関西修学旅行京都 筆者:最後列の右から5番目
関西修学旅行奈良 筆者:後列の右から8番目
十国峠遠足(1950年) 筆者:後列の左から4番目

もりこう会の集い(その1参照)に出席して、60年前の中学、高校をふり返ると真に感無量です。また、大森町周辺も、景観が大きく変わろうとしております。歴史をふり返り、風化しつつある記録を残すことは、大変な意義があります。
今後、先に若山武義氏の大森町空襲の記録手記の掲載の続編として、大森町界隈の戦後編を掲載する予定にしております。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(10月分掲載Indexへ)
<前回 大森町界隈あれこれ 大森町学びや もりこう会の集い(その3) へ
次回 大森町界隈あれこれ 大森学園創立70周年 徒弟学校から戦後焼跡工場仮校舎の歴史を追う(第1回その1) へ
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大森町界隈あれこれ 大森町学びや もりこう会の集い(その3)

2006年11月15日 | 大森町界隈あれこれ 大森町学びや
海苔枠乾し 戦後急速に普及した障子の桟状の木枠に海苔簀を
掛けて乾す方式で、持ち運びが便利で道端でも河岸でも乾せる。
(出展:大田区海苔物語 大田区立郷土博物館)

大森工業高等学校の歴史(3)
・大森工業学校から大森学園中学校へ
1945年(昭和20年)8月の終戦によってわが国は連合国軍の占領下におかれ、国政がすべて占領行政のもとにあって行なわれていました。この間各分野にわたり改革の実施が要請され、教育改革は特に重要なものとされました。
連合国軍最高司令部は、戦時教育体制を根本から改めるために1946年(昭和21年)1月、教育使節団の派遣を本国へ要請し、民間情報教育局にはアメリカ教育界の専門家が多数来日して、その助言・指導のもとで教育改革が進められました。
この教育改革により、「教育基本法」が制定され「学校教育法」、「社会教育法」、「教育委員会法」などの立法が行なわれ、戦後教育の体制をつくりあげる基本規定となりました。
これにより学校制度の改革は、基本となる学校体系を六・三・三・四の編制に改めると云う大改正となりました。

これにより、六年制初等教育の戦時下の国民学校は小学校に改名し、新制度へは問題なく移行が進みました。
しかし、1872年(明治5年)以来我が国の学校制度は、初等教育の小学校は、尋常小学六年と高等小学二年の八年制を実施しており、中等教育の五年制の中学校(旧制中学)に進学する者は小学六年卒業で入学する制度でした。
改革の三年制の新制中学校には、それまでの国民学校高等科と定時制の青年学校の二学年生と、さらに中等学校(旧制中学)の二、三年生を編入することとなり、文部省内には三年制の中学校をただちに創設することは、多くの困難が明らかなため、改革には年数をかけて徐々に行なうようにする意見が強かったのでした。
しかし、総司令部側の強い意見で、六・三制の新制中学校を1947年(昭和22年)の春から実施を強行することになりました。

また、六・三・三制の新制高等学校には、旧制中学(中学校、高等女学校、実業学校)の四、五年生を編入した三年制高等学校に改めましたので、切替えには中学設置のような困難な問題はありませんでした。
この学校制度改革より、旧制実業学校の大森工業学校は、新制中学の大森学園中学校を新設すると共に、大森工業学校は新制高校の大森工業高等学校と、二校の私立新制中学と新制高等学校がスタートしたのです。
なお、大森工業学校は、大森機械工業徒弟学校の流れを汲んだ学校で、夜学部がありましたが、新制の大森工業高等学校も昼間働いて学ぶ生徒のため夜学部は継続しました。

無理やり大森学園中学に編入
この改革により、旧制実業学校に入学したのであるが、一年後には有無を言わさずに無条件に私立の新制中学生に編成されたのです。新学制の新制中学では、職業科目は無く普通科となり、折角電気を勉強しようと入学したのですが、強制的な学制改革により翻弄されたのです。
ただ、新制中学の改革年に学校の近くに住む、電気に詳しい新入の先生が来られ、放課後その先生の家に有志が詰めかけ、ラジオの製作に没頭しておりました。中学2年生の頃に、ラジオ部品などの電気部品などを販売していた露店街が、須田町交差点付近から秋葉原に店を構えた電気店街(「秋葉原界隈(その1)」参照)が誕生したのです。
これが、社会に出て、技術志向に進むきっかけになりました。

大森工業学校一年生遠足 鎌倉鶴岡八幡宮 筆者:前から4列目の右から5番目
大森学園中学校二年生遠足 観音崎灯台 筆者:最後列の左から4番目

新制中学の一年生は、中学校の新設が困難であるため、大森学園中学校の近くにある大森第四小学校(大森町学びやマップ再掲 マップ⑦参照)卒業生のクラスの一部を、大田区からの委託を受けて二年継続して預かったのです。
したがって、当初大森学園中学校は、新制中学に志願して入学した訳でない二、三年生の結果的の志望学制と、委託学制の色分けされた生徒構成の学校となりました。これも、学校制度改革の強制実施の過度期の歴史です。
委託学制が入ったお陰で、やっと机と椅子はどうやら調達されましたが、その他の学校教育の設備は殆ど無い戦後の混乱の中での授業風景でした。

戦後一年が経ち、一面の焼け野原の中で、いち早く復興したのは漁業でありました。敗戦後の混乱で、誰もが物資欠乏に苦しんでいましたが、生きるためにはまず食べなくてはならないのです。
空襲によって工場、人口、家屋ともに激減していたため、工場排水や家庭排水など、ほぼゼロに近く、終戦当時の海は明治末期くらいの状態にまで水質が回復し魚介類は豊富でした。
そうした資源の回復と、折からの食糧難のために、漁民の再興復帰への意欲はいっそうかき立てられましたが、伝統産業である海苔養殖業は、ある程度の道具(海苔舟、竹ヒビなど)が必要なこともあり、終戦後、すぐに再開するのは困難でありました。まずは、現金収入に結びつく磯物取りが中心でありました。
戦中から1947年(昭和22年)にかけて低落の一途をたどった養殖海苔生産も、1948年(昭和23年)から反転に転じ、その後回復へと向かいました。

この頃大森学園中学校、大森工業高等学校は、1948年の春に森ヶ崎の仮校舎の工場建屋を購入して、古巣の現大森学園高等学校に念願の校舎を建てて再建し、新校舎で新制中学校を卒業しました。

大森学園中学校卒業記念 筆者:前から4列目の右から2番目

また、時を同じくして仮住まいの共同住宅から、現大森町駅の近くに平屋のバラック建て住居に移転し、今日までの居住宅となっております。

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大森町界隈あれこれ 大森町学びや もりこう会の集い(その2)

2006年11月13日 | 大森町界隈あれこれ 大森町学びや
昭和大東京百図絵版画 大森・海苔乾し 1937年(昭和12年) 小泉発巳男
大田区立郷土博物館所蔵

大森工業高等学校の歴史(2)
・大森工業学校入学前
1945年(昭和20年)の終戦により縁故疎開先の栃木県から東京に引き上げてきて、暫くは東京ガス大森工場裏にあった、父の元勤務先の事務所を改造した共同住宅に仮住まい(「大森町界隈あれこれ(N30) 大森町風景 大森ふるさとの浜辺公園の砂浜開放」および大森町学びやマップ④以下マップと称します 参照)をしました。
仮住まいの住宅からの通学学区は、疎開前の居住宅(マップ①)から通学していたのと同じ学校の大森第一国民学校(マップ③)ですので、そこへ転校しましたが4月15日の大森町大空襲で全焼のため、大森第五国民学校(マップ⑤)の校舎に間借りしての授業でした。

当時の国民学校は、戦時下の1941年(昭和16年)の学制改革により、入学時の東京市大森第一尋常小学校から東京市大森第一国民学校と改称され、さらに東京都制に移り東京都大森第一国民学校となり、戦後混乱の1946年(昭和21年)3月に間借り校舎で卒業証書も貰えず卒業したのです。

大森第一国民学校卒業記念(間借りの第五国民学校にて) 筆者:前から3列目の左端

現在の東京都大田区立大森第一小学校は、同年4月15日の学制改革で改称されたのです。この様に、小学校で3回の学制改革により校名が変わりましたが、これからも何回かの学制改革により、校名がその都度改名されてきました。

・大森工業学校時代
大森工業学校入学は、当時終戦直後の混乱期の真っ只中であり、中等学校制度(1943年中等学校令の5年制)の中学入学校の選別は大変な時代でした。
まずは、戦時下の小学校では、疎開や戦時教練などに追われまともな勉強が行われていない中、しかも通学のための交通機関も戦災被害の復興が進んでいない状況でありました。しかも、日本が初めての敗戦にあい、食うや食わずの状態で将来の展望が全く見えない状況では、進学校の選別は困難でした。
そこで、戦災で焼けた大森工業学校が森ヶ先の工場跡地で開校(マップ⑥)しているのを知り、仮住まいの住居から僅かの時間で徒歩通学ができることと、大戦で彼我の技術力の差を目の当たりに見せ付けられ工業が重要であることの単純な理由から、進学校として決めたのです。

当時の大森工業学校は、電気科と機械科の実業学校でありましたが、何せ戦災で焼け跡の工場での仮住まいであり、教室は荒削りの板で仕切り階下は土の土間のままで、当初は机と椅子が全く無く各自が鉄板をコの字上に曲げたものを椅子代わりとしての授業風景で、昔の寺子屋よりお粗末なものでした。当然、工業過程の機械や電気の実習教室は無しの授業でしたが、徐々に机と椅子は補充されてきました。
しかし、大森工業学校は、大森機械工業徒弟学校の流れを受け継いでおりましたので、昼間働いている人のため夜間部も開校しておりました。

終戦直後の工場跡地である大森工業学校周辺では、1年前までは兵器を作っていた中小工場で、焼け残りの機械や資材で、ナベ、カマ、弁当箱などを作ったり、空き地を耕作して野菜などを作るのが精一杯の状況でした。
また、この辺では、江戸時代より前から養殖海苔の大生産地でありましたので、終戦により増産が開始され、大森工業学校脇の現在では旧呑川緑地帯となっている呑川には、海苔採りに使う海苔船が沢山繋留(出展:大田区海苔物語 大田区立郷土博物館)され、川岸の海苔漁師の畑には台乾しの海苔乾場が冬季の間見られました。
当時の風景は、学校傍の呑川に汐見橋があり、トップに掲載の戦前の版画とそっくりな風景であり、戦争でぎすぎすした心が和んだのを覚えております。その後、台乾しの海苔乾場は、海苔生産効率のため、枠乾し場に代わって行きました。

大森工業学校入学時代には、周囲で見られた台乾しの海苔乾場風景
(出展:大田区海苔物語 大田区立郷土博物館)

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大森町界隈あれこれ 大森町学びや もりこう会の集い(その1)

2006年11月11日 | 大森町界隈あれこれ 大森町学びや
大森町には幼稚園入園前から現在まで居住しており、幼稚園から高校までの学びやは、大森町にある学校に通学しました。大森町には、専攻したい大学が存在しませんので、初めて区外の学びやに通学し、先日卒業半世紀を経た母校のホームカミングデー(「イベント(8) 明治大学 ホームカミングデー(その1~2)」参照)に招待されたところです。
もりこう会とは、戦後の学制改革で新制中学・高校に変わって、大森工業高等学校となり、その交友会の卒業同窓会のことを云います。「もりこう」は、大森工業を詰めて称した略号なのです。

学校改革
大森学園高等学校は、少子化の影響と共に大学進学率の向上による普通科志向による志願者の減少傾向により、平成17年より工業科と併設して普通科募集が始まり校名が改称されたのです。これに伴い、同年老朽した校舎の建替えにより8階建ての第一期の新校舎が落成し、今年のもりこう会では第二期のイベントホールが完成していました。


引き続き、創立70周年を迎える平成19年までに、体育館などの第三期工事が継続して行われます。
第二期工事までに完成した校舎を見ますと、何と贅沢で立派な施設であると感心し驚くばかりでした。先の大学母校のリバティタワーやアカデミーホールの施設も全く同様ですが、社会の変遷による教育経営が破綻に結び付かないようにと、学校当事者のご努力には頭の下がる思いがします。

もりこう会の集い
もりこう会の集いの案内がきましたので、10月28日に会場の大森学園高等学校(東京都大田区大森西3-2-12 地図参照)に参加しました。
もりこう会受付のある新校舎のエントランスホールには、男女共学の制服見本が展示してあり、また、国内で行われている大会に毎年参加している自動車部の出場カーも展示してありました。
もりこう会開始前の時間を利用して、昨年新校舎を見学しましたので、今年はイベントホールを見学しました。われわれの学生時代には考えられず、思ってもみない立派なホールでした。


同窓会は、式次第に従い進行しましたが、役員が入れ替わりましたので、質疑応答にもたつきがありましたが、来年度の予算案審議も無事に終了して懇親会に移りました。
もりこう会閉会後、恒例の二次会を同期生と京浜急行蒲田駅近くの店で一献を傾けて散会しました。

大森工業高等学校の歴史(1)
・創設期
大森工業高等学校は、1938年(昭和13年)に大森・蒲田地区の中小機械工場経営者の有志よって、大森機械工業徒弟委員会が発足して、地方(特に東北地方)出身の少年工達に教育の場を与え、後継者の育成を目的として、1939年(昭和14年)に創立した大森機械工業徒弟学校が前身となります。
大森機械工業徒弟学校は、高等小学校卒が入学資格で修業年が3年で、生徒は昼間加盟工場で働き、学費を負担してもらい夜間に学校に通ったのです。
この時代は、学校が少なく雇い主の無理解などにより、働きながら学校に通うことが難しい状態であった中で、多くの経営者が学校を創立したことは、工業化の熱意によるもので、後の大森がものつくりの工場ネットワークの源となったものと思われます。

・大森工業学校の設立
1942年(昭和17年)財団法人大森工業学校の設立が認可され、夜間部は大森機械工業徒弟学校生徒中の希望者を試験の上入学させ、昼間の部は一般の尋常小学校卒の生徒を受け入れるなど、制度が改められました。
1943年 (昭和18年)の学制改革「中等学校令」により、新しい中等学校制度が実施され、中学校、実業学校および女子中学校が一つの学校制度として統一されました。

・大森工業学校の戦災
1945年(昭和20年)4月15日の大森町の空襲(「大森町界隈あれこれ(14) 鎮魂!大森町大空襲(第7~9回)」参照)により、校舎は全焼し学校再建は困難を極め、解散の声も聞かれました。
しかし、米沢現理事長(懇親会にて右から2人目)のお父さんである当時の理事長、米澤勇作氏は、日本の早急な工業再興と工業教育の必要性を考え、大森では焼け残った森ヶ崎の工場を借りて学校を再建させました。

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風景・風物詩(B10) 秋の風物詩 酉の市 大森鷲神社

2006年11月09日 | 風景・風物詩
11月4日は、酉の市で夕食前にJR大森駅(「イベント(7) 大森駅開業130周年(その1~3)参照」)近くの大森銀座商店街通りにある大森鷲神社(東京都大田区大森北1-15-12 地図参照)に行ってきました。
大森町の自宅からは、大森駅まで京浜急行バスで行き、大森銀座商店街には18時少し前に着きました。大森銀座商店街は、1987年(昭和62年)に商店街のカラー舗装を記念して、Milpa(Mill parkの略語でそぞろ歩く公園(または広場)と言う意味)とネーミングされた、緑と黄色の色合いがカラフルなアーケードの商店街で、商店街通りはすでに大変賑わっており、周辺には200ほどの露天縁日が並んで、酉の市の雰囲気をかもし出しておりました。

大森鷲神社酉の市
今年の酉の市は、4日、16日と28日で、三の酉です。
4日は、三連休の中日で、暖かい快晴で絶好の行楽日和でしたので、酉の市にはかなりの人出で、商店街通りは酉の市に来た人の列が切れ目なく流れ、神社に参拝する本殿まで長い行列が続いておりました。
行列に並んで本殿を参拝した後、神社で家内安全、商売繁盛を祈念し開運の守札を結んだ、神様の御分霊の「かっこめ(熊手御守)」が縁起物として頌布されますので、毎年新しく買って神棚にあげております。


鷲神社境内では、神楽殿でお囃子により酉の市を盛り上げておりました。
縁起物の熊手の店も、沢山の大小の熊手を露天一ぱいに飾り付けて客を呼んでおります。
熊手には1,000円ぐらいの豆熊手もありますが、売れ筋は10,000~50,000円くらいです。
熊手屋さんの店の前に立つと、すぐに威勢のいい掛け声が飛んできます。熊手を求めると、お店の中央にかかげて周りに集まった熊手屋さんの威勢のいいかけ声で、「家内安全・商売繁盛」と大勢で手締めとなります。


鷲神社縁起由来
この地に祀られた日本武尊が戦勝を祈願をされたと伝えられる処から、武運、開運、商売繁盛の神として多数の方の信仰を集めて居ります。
社殿は、1864年(元治元年)11月再建と古文書にあり、その後、数回の修理改築を繰り返して戦災後に建造された現在の社殿は、1953年(昭和28年)10月完成したものである。
尚、1877年(明治10年)の記録には、境内に蒼稲魂命を祭神とする末社があったとされている。
鷲神社宮司

懐かしい露天、屋台の味
露天では、お好み焼きを行列の人気でした。また、定番の焼きそばや、たこ焼きなどが夕食前で、美味しそうな匂いが漂よっておりました。あちらこちらの屋台の居酒屋では、やきとり、おでん、煮込み、大きな鍋から湯気が上がり、祭りの賑わいがほろ酔い客を心地よくしております。
食べ物屋さんをよそ目にして、毎年購入している神宮館の暦を買って帰りました。

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イベント(9) キリン横浜ビアビレッジ見学

2006年11月07日 | イベント
東京都H11異業種交流会分科会の研究会では、月1回集まりITの勉強会を開いてますが、秋の陽気の良い一日を屋外で過ごそうと、懇親をかねて10月22日の日曜日にキリン横浜ビアビレッジ見学の課外研究会を開きました。

生麦事件碑の前を通りキリン横浜ビアビレッジへ
当日は天気に恵まれ、京浜急行電鉄の生麦駅に11時に5人が集合し、キリン横浜ビアビレッジ(キリンビール株式会社 横浜工場 横浜市鶴見区生麦1-17-1)に向かって(地図参照)第一京浜国道を渡り、さらに進むと旧東海道に出るのでそこを左折して進むと、第一京浜国道と合流する少し手前の左方に「生麦事件碑」(横浜市鶴見区生麦1-17-1)が見えてきます。


生麦事件は、1862年(文久2年)8月21日、薩摩藩主の父・島津久光の行列が生麦村を通行中、馬に乗って行列に紛れ込んだ4人の外国人の1人、英国商人リチャードソンが警護の武士に斬り殺され、賠償問題から薩英戦争にまで発展した事件です。
生麦事件碑は、1883年(明治16年)、鶴見の黒川荘三がリチャードソンの死を悼み、事件の風化を防ぐために私費を投じ建立したものです。
碑の脇の看板には、「石碑が老朽化しています。線香はご遠慮ください」とあり、殺害されたリチャードソンへの焼香が、いまも続いていることを窺わせます。

パブブルワリー「スプリングバレー」
第一京浜国道に面したウエルカムゲートを潜ると、キリン横浜ビアビレッジの構内であり、エントランスプラザで13時30分からのキリンビール 横浜工場の見学手続を済ませ、見学までにたっぷりある時間を最初の楽しみである、併設の明治初期のビール醸造所をイメージして建てられた、赤レンガの建物のパブブルワリー「スプリングバレー」で、季節ごとに製造して、その季節だけでしか飲めない個性豊かなシーズンビールのオリジナルビール9種類と、通年販売の2種類のオリジナルビールを、先ずはそれぞれに味わいました。


定番ビールは、本格派のピルスナービール「スプリングバレー」でドイツの伝統的な製造法を忠実に守り、モルトと水とホップだけで作ったビールと、ほのかに甘くまろやかな濃色ビール「デュンケル」でドイツのミュンヘンの黒ビールそのままのコクのある味わいのビールに、シーズンビールは明治時代に横浜で醸造されたビールで「横浜ビヤザケ」と呼ばれていたもので、文明開花当時の味を再現したものです。
工場の見学時間まで、古いビール醸造設備の展示や、実際に稼動している小型のビール醸造設備をガラス越しに見ながら、作りたてのおいしいビールを味わいたっぷりと堪能しました。


横浜工場見学
横浜工場見学(ブルワリーツアー)は、撮影禁止ですので雰囲気をお伝えします。
ブルワリーツアーは、ビールの歴史を学び、原料に触れ、ビールのできるまでを楽しめる、発見と体験の時間です。
申し込み時間毎の見学者グループの一団を、美人の正・副のガイドさんの案内により進み、原料展示コーナーでは、麦芽を手にとって確かめたり、ホップの香りを実際に嗅いだりしながら、仕込み、発酵・貯蔵、ろ過、パッケージング、出荷までの工程によりビールが出来上がるまでを学びます。
最後に出来立てのビールを、試飲コーナーで試飲して終了です。

旧東海道老舗の蕎麦処吉田家
キリン横浜ビアビレッジでは、ビールに始まりビールで終わり、食事をとってない事に気付き、京浜急行電鉄の生麦から各駅停車で20分ほどの立会川駅で降り、旧東海道の品川宿の近くの立会川蕎麦処吉田家(東京都品川区東大井2-15-13)に寄り、そば焼酎ともりそばで日本通の食によりシメました。
立会川駅を降りると、何と駅前に坂本竜馬の銅像がありました。自宅の大森町駅からは、品川寄りの3駅先ですが、普段は降りる機会が殆ど無いため気が付きませんでした。
立会川周辺の宅地造成地で、1853年のペリー来航を機に土佐藩が建てた浜川砲台の石と見られる20数個の石が発見され、当時、江戸で剣術の修行中だった竜馬も警護にあたったとされるそうで、その関係で高知市から寄贈されたとのことです。

蕎麦処吉田家のそばは、見た目はやや白いのですが、つなぎを一切使わないそば粉十割の手打ちで、さらりとした蕎麦つゆはとてもお美味しいく、一度食べると忘れられない老舗の味です。
吉田家は、東海道品川宿の外れ、鮫洲に1856年(安政3年)に営業していた記録が鮫洲八幡神社の石灯籠の台座に刻まれています。現在の吉田家は大正元年に鮫洲吉田家の分店として隣町である東大井(旧名 北濱川)の地に開店しました(吉田家の歩み)。

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イベント(8) 明治大学 ホームカミングデー(その2)

2006年11月05日 | イベント
リバティタワー エントランスホール

ホームカミングデー午後の部
ホームカミングデー(明治大学キャンパス航空写真)午後の行事は盛り沢山で、公開講座では北野大理工学部教授の「お節介、やせ我慢、勿体ない~母の訓え」、熊崎勝彦法科大学院客員教授の「時代と特捜検察」やパネルディスカッション「我が青春~明治魂とオリンピック~」などがあり、アトラクションでは明大が誇るマンドリン倶楽部などの現役学生音楽団体7団体の演奏会に、一日体験学習会と明大スポーツ写真展などで終日楽しめました。

午前の開会式が終了して、リバティタワー前の広場に来て見ると、明大グッズの販売や物産展の模擬店が出ており、特設会場で神田囃子保存会(東京都無形文化財)による神田囃子で、“校友のための駿台祭”を賑やかに盛り上げておりました。
神田囃子が出てきたのは、化政期[1800年頃]に作曲された清元『神田祭』の中に、神田囃子の名が出て来るが、果して、この頃からであろうか定かではありません。
今日、伝承されている『江戸の囃子』は、『五人囃子』といって(大太鼓・締め太鼓× 2・笛〔篠笛〕・鉦)を以って一組としています。


リバティタワー内エントランスホールに入ると、2階通路階段上には「明治大学グリークラブ」が勢ぞろい して、男性合唱により祭りを盛り上げておりました。2階の陽だまり広場では、ドリンクコーナーが開いており、おつまみと缶ビール、日本酒やソフトドリンクが福引あたり券か購入して飲めました。陽だまり広場は初めてで、サービスにドリンク券を頂きましたが、昼時で食事をとるため「お食事マップ」を見て、時間があまりないのため明大通りと三省堂前の靖国通りに抜ける小道にある小さな食堂で軽い昼食をとりました。

現役学生音楽団体の演奏会
午後の催しを見るためリバティタワーに戻り、1Fのリバティホールを覗くと「明治大学ビッグ・サンズ・ソサエティ・オーケストラ」によるジャズの演奏をしており、立ち聴きしてから23Fの岸本辰雄記念ホールを覗くと「明治大学交響楽団」が演奏しておりましたので、少しずつ聴きかじりのハシゴをしました。
両楽団とも素晴らしい演奏をしており、普段は母校の音楽団体の演奏会を聴く機会がないので、午後の楽しみは創設が古く歴史のある現役学生音楽団体7団体の一同に会した演奏が聴ける合同発表会の「M-Naviコンサート」を聴くことにして、開会式を行なったアカデミーホールへと向かいました。日ごろの学生諸君の練習の成果を、存分に聴かせて貰いました。

・明治大学ハーモニカ・ソサエティ
明治大学ハーモニカ・ソサエティは、ハーモニカを主体としたビッグバンドで、吹奏楽とバンドを足して2で割ったような感じです。ポップス、ロック、フュージョン、 クラシックからジャズまでどんな曲でも演奏します。部員数は、全学年合わせて70人程です。
活動は、定期演奏会の他、年に一度春に四大学(早稲田、中央、立教)ジョイントコンサートも行います。
・明治大学グリークラブ
明治大学グリークラブは1949年に明治大学交響楽団合唱部が組織した、明治大学合唱団(混声)に由来します。当時学内に男声合唱団がなかったことや、部員の増加などにより男声部独立の気運が高まり、1958年秋、日本一の男声合唱団を目指して百人近い明大生が集まり「明治大学グリークラブ」が誕生しました。現在の部員は、一部・二部の文系学部生構成のおよそ40名です。
・明治大学ギターアンサンブルAmity
明治大学ギターアンサンブルAmityは、1964年の創部で合奏用のクラシックギターを用いて、バロック音楽、ポップスや映画音楽などを演奏します。部員数は、全学年合わせて60人を超えております。活動は、定期演奏会の他、毎年6月に五大学(青山学院、東洋、法政、早稲田)の関東学生ギター連盟定期演奏会を行います。
・明治大学マンドリン倶楽部
明治大学マンドリン倶楽部は、大正12年の春6人のマンドリン・ギター愛好家によって創設され、大正13年の第1回演奏会では予科1年生の古賀政男先生がセカンドマンドリンのしんがりでした。その後、主将になられた古賀先生は、明大マンドリン倶楽部独自のカラーを創造され、以来「何でも弾いてやろう」というフロンティア精神が底流となりました。定期演奏会において古賀政男先生作曲の「影を慕ひて」等を発表し、当時の暗い社会に大反響を呼び一躍明治大学マンドリン倶楽部の名は全国的なものとなりました。
レパートリーは、クラシック、童謡・民謡歌謡曲等の日本の音楽、やラテン・フュージョン・ロック等のあらゆるジャンルと幅を持ち、常に新しい音楽を取り入れようと挑戦しています。

50年前に記念館で古賀政男先生が演奏に加わって聴いた、明治大学マンドリン倶楽部のマンドリンとギターが奏でる「影を慕ひて」は、素晴らしいの一語で今でもその感銘は深く残っております。その演奏会の時にも、童謡歌手の古賀さと子が明治大学マンドリン倶楽部の伴奏で「ねこふんじゃった」の独唱を聴いて、常に新しいジャンルに挑戦するという試みに新鮮さを感じました。そのイメージが今日まで続いており、マンドリン倶楽部の演奏を大変楽しみにしておりました。


しかし、半世紀を経過して聴いたリバティタワーでの演奏は、常に新しいジャンルに挑戦するという試みは感じられましたが、抱いていたイメージとは大きく変わっておりました。今回の演奏でも、いろいろな曲の演奏能力の高さは素晴らしいものでしたが、何故か打楽器の効果音が大きく目立ち、本来のマンドリンが織り成して醸し出す美しい音色がうずもれており、昔受けた感銘とはかけ離れた印象でこれも時代の相違かなと感じました。
ただ、先輩に聞かせるために理工学部生の指揮者のサービス精神は旺盛で、観客席まで入っての指揮振りには拍手です。

マンドリン倶楽部の演奏は、リバティタワーの他にリバティホールでも、中村美津子が古賀メロディを歌う新しいジャンル挑戦の演奏があるので、聴きに行きましたが超満員で音楽を聴く雰囲気でないため、再び「M-Naviコンサート」を聴くため戻りました。
・明治大学ビッグ・サンズ・ソサエティ・オーケストラ
明治大学ビッグ・サンズ・ソサエティ・オーケストラは、明治大学軽音楽クラブ内のジャズ・ビッグバンドとして1961年に活動を開始し、1989年にクラブから独立しました。現在の部員は、約50名で、活動は、年度のリサイタルの他、毎年8月に行われる山野楽器主催のYAMANO BIG BAND JAZZ CONTESTに参加しております。
・KLAVIER
KLAVIERは、1989年に創設の明治大学ピアノサークルで、クラシックを中心に、ポップス、ジャズや他楽器とのアンサンブルも取り入れております。現在の会員は、約50名で、活動は、毎年の定期演奏会と東京六大学ピアノ連盟の演奏活動を行っております。
ホームカミングデーへは、今回が初参加です。
・明治大学交響楽団
明治大学交響楽団は、新交響楽団(現NHK交響楽団)創立メンバーの一人である尾原勝吉によって創設され83年を迎えました。1923年の第1回以来、毎年1回の定期演奏会の他、入学・卒業式の式典演奏などの多彩な活動を行っております。現在の団員は、150名を越すオーケストラサークルです。

半世紀ぶりの学びやへのホームカミング
ホームカミングデーで半世紀ぶりにわが学びやへ招待して貰い、現在のキャンパスや施設に触れさせて頂き、さらに多数の教授や理事長などにお目にかかれ、現役学生の活動を目の当たりにして、遥か昔の学生時代を想い出しました。
午後の行事が全て終了し、アカデミーホールを降りるエスカレータから夕日に輝くニコライ堂が見えて、50年前の工学部への通学は、御茶ノ水駅の聖橋口から右にニコライ堂を見て、本郷通りを靖国通り交差点に出るちょっと手前の進行左側に校舎がありましたので(「風景・風物詩(A1) 東京百景 山の上ホテルとその周辺(その2)」参照)、とても懐かしく思いました。
節目の年に、ホームカミングデーにご招待頂き感謝しております。

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イベント(8) 明治大学 ホームカミングデー(その1)

2006年11月03日 | イベント
第9回明治大学ホームカミングデー
10月15日の日曜日は天候にも恵まれ、第9回明治大学ホームカミングデーが開催されました。
ホームカミングデーは、母校と交友の連携強化、交友同士の親睦をはかり、昨今のキャンパスの変わり様を卒業生に知って貰うため、毎年秋に開く、明治大学が主催する“校友のための駿台祭”なのです。今年のホームカミングデーは、毎年の卒業十年目ごとの交友を招待し、第九回開催にあたり、昭和31年卒(卒後50年目)、昭和41年卒、昭和51年卒、昭和61年卒、平成8年卒の約28,700名が招待校友だったが、このうち約2,200名が出席の回答を寄せたとの報告がありました。

校友のための駿台祭
今年は、数えてみると卒後50年目にあたり、母校からホームカミングデーの「招待状」が送られてきましたので、出席の通知を出して第九回明治大学ホームカミングデーに行ってきました。ホームカミングデーへの参加者は、今までの最高だそうで、大盛況の“校友のための駿台祭”に参加した模様をまとめてみました。
ホームカミングデーは、午前にアカデミーホールで開会式が行われ、午後はリバティタワーを中心に各種催しが行われました。さまざまなアトラクションや公開講演会に、校友なら誰でも参加でき楽しむことができます。

変貌する明治大学キャンパス
1881年(明治14年)1月17日、若き青年法律家であった、岸本辰雄、宮城浩蔵、矢代操によって明治法律学校として創立し、1920年(大正9年)4月1日の大学令による明治大学となりました。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災では、壊滅的な大打撃を被ったが、教職員、学生・校友により復旧・復興に当たり、1928年(昭和3年)4月21日には記念館(大学創立30周年記念の1911年10月に落成)で復興の式典を挙行できるまでになりました。明治大学では、当初から卒業生を交友と呼んでおります。戦後、1949年(昭和24年)2月21日、新制「明治大学」として認可され、新たな出発をしました。
2001年(平成13年)11月1日には創立120周年を刻み有数の私立大学として発展しております。
卒業生数は、資料によると新制大学卒業の1950年(昭和25年)から2004年(平成16年)までの一、二部学部(短大を除く)で375,657名を数えます。

近年の駿河台の明治大学のキャンパスは大きく変貌し、記念館跡には地上23階・地下3階の「リバティタワー」が1998年9月に竣工し、白亜の旧大学院校舎跡には2004年4月に「アカデミーコモン」が完成しております。
50年前の駿河台キャンパス(「風景・風物詩(A1) 東京百景 山の上ホテルとその周辺(その2)」 50年前のわが学びや明治大学参照)は、卒業年の1956年(昭和31年)に撮影した駿河台キャンパス(再掲)で見られるように、明治通りに面して記念館と大学院校舎が明治大学のイメージであったのです。
記念館が、老朽化により1995年11月11日「さよならDay」を持って壊さた以前の地方在住の卒業生で、今日まで在京する機会の無かったホームカミングデーの参加者は、昔の古臭い教室と比較して施設の素晴らしさに驚いたと思われます。

ホームカミングデー午前の部
10時から開始の開会式に参加するため、アカデミーコモンで受付を済ますと、記念品の「懐中時計」やホームカミングデーの行事などが書かれた立派な冊子の入った手提げの紙袋を頂きました。
・福引抽選券大当たり
エントランス付近では恒例の福引抽選券を発売していましたので1枚購入してみました。福引券は、1枚千円で空クジなしの、「図書カード」、「ドリンクコーナー利用券」または「博物館特製ポストカード」がその場で貰えるというもので、売上金が「岸本辰雄記念奨学基金」に積み立てることを知り、開会式会場内で、福引券を2枚追加して購入すると、1枚が「大当たり」で今はやりの日帰り温泉の入浴券5枚を貰いました。さらに、その上本抽選で時計が当たり、図書カード2枚とともに福引抽選券ではつきについていました。

・開会式
開会式は、1,200名収容の 3階アカデミーホールで行われました。アカデミーホールは、3~6Fに座席を設けた大講堂で、平山郁夫画伯の「マルコ・ポーロ当方見聞行」の緞帳など、明治大学として初の立派な講堂を設けたものだと感心しました。

アカデミーホールの緞帳

まずは、創立以来の約5万人に及ぶ校友の物故者に対し黙祷から始まり、開会式演壇の左手には納谷学長を初めとして、各学部長と招待者の卒業年度の交友代表者(写真1)が参列し、右手には主催者の理事長を初めとする役員や校友会役員などが列席して行われました。
式次第は、望月友貴アナウンス研究会の司会で、開会の辞が井上崇通運営委員長、主催者挨拶が長吉泉理事長式辞が納谷廣美学長、祝辞が青木信樹校友会会長と続き、各卒業学年度代表(1956年卒横溝正子、1966年卒青柳勝栄、1976年卒笹田学、1986年卒山本篤、1996年卒磯田雄大の諸氏で、写真1の前列の右から2番目より順に左に向かい並んで列席)の挨拶と各学部長の挨拶がありました。

続いて、駿河台キャンパスの対面の小川町校舎跡に、今秋の12月竣工予定で建設が進められている校友会活動拠点となる「紫紺館」の紹介があり、完成すると5、6階にはレストランやバーラウンジが出来、交友、教職員、学生がゆっくりとくつろげるとのことです。


開会式の締めとして、明治大学応援団の指揮による校歌斉唱を明治大学交響楽団の伴奏で行い、森久副通運営委員長による閉会の辞で滞こうりなく終了しました。

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番外編 カテゴリー別ブログ記事の検索と見方 [付 kan-haruの日記10月月間INDEX]

2006年11月01日 | INDEX
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ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その1)  9月18日 再掲
ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その2)  9月17日 再掲
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[大森町界隈あれこれ 大森町大空襲] 連載29回掲載完結
カテゴリーの「大森町界隈あれこれ 大森町大空襲」の若山武義氏の手記(第1~3編)は完結しましたので、大森町界隈あれこれ 空襲篇手記 目次を掲載しました。
総目次には、記事に関連する写真、地図や図をリンクして掲載してありますので、小百科事典的にご利用になれます。
[総目次]
大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記 総目次 1/3 9月6日再掲
大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記 総目次 2/3 9月6日再掲
大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記 総目次 3/3 9月5日再掲

東京大空襲~あれから61年~(その1) まえがき3月10日
+東京大空襲~あれから61年~(その2)
大森町界隈あれこれ(8) 鎮魂! 大森町大空襲(第1回)  初回4月13日
+(9)第2回、+(10)第3回、+(11)第4回、+(12)第5回、+(13)第6回、+(14)第7回、+(15)第8回、+(16)第9回、+(17)第10回、+(18)第11回、
大森町界隈あれこれ(19) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第1回) 第2編初回5月25日
+(23)第2回、+(25)第3回、+(26)第4回、+(27)第5回、+(28)第6回、 +(29)第7回
大森町界隈あれこれ(K30) 手記第3編 終戦前後目黒にて(第1回) 第3編初回7月3日
+(K31)第2回、+(K32)第3回、+(K33)第4回、+(K34)第5回、+(K35)第6回、+(K36)第7回、+ (K37)第8回、+(K38)最終回、

[大森町界隈あれこれ 大森町に65年] 連載6回掲載
大森町界隈あれこれ(1) 大森町に住んで65年!(その1)  初回3月19日
+(2)その2、+(3)その3、+(4)その4、+(6)その5、+(7)その6、

[大森町界隈あれこれ 大森町の社寺] 連載9回掲載
大森町界隈あれこれ(20) 大森町の社寺(1) 諏訪神社その1 初回5月28日
+(21)諏訪神社その2、+(22)諏訪神社その3、 +(24)浅間神社、+(L30) 巌正寺の水止め舞、 +(L31) ささやかに鎮座する貴船(貴菅)神社、+(L32) 大森町の社寺 谷戸三輪神社秋の例祭、+(L33) 大森町の社寺 大森神社(寄来神社)、
大森町界隈あれこれ(L34) 大森町の社寺 堀の内三輪神社 10月11日

[大森町界隈あれこれ 大森町商店街] 連載3回掲載
大森町界隈あれこれ(M30) 大森町商店街 大森町サマーフェスティバル 初回8月5日
+(M31) 大森町商店街 ミハラ通り夜店フェスティバル
大森町界隈あれこれ(M32) 大森町商店街 京急高架化で大変貌 ラーメン屋さん閉店第一号 10月3日

[大森町界隈あれこれ 大森海苔物語] 連載1回掲載
大森町界隈あれこれ(5) 大森海苔物語(1) プロローグ   初回4月3日

[大森町界隈あれこれ 京浜急行] 連載2回掲載
大森町界隈あれこれ(P30) 京浜急行 京浜急行の高架化(その1)  初回8月9日
+(P31) 京急歴史(1) 大森海岸と大森間に電車が走る(その1)

[大森町界隈あれこれ 大森町風景] 連載3回掲載
大森町界隈あれこれ(N30) 大森町風景 大森ふるさとの浜辺公園の砂浜開放 初回8月7日
+(N31) 旧東海道(三原通り) その1、+(N32) 梅屋敷公園

[風景・風物詩] 連載14回掲載
[東京百景]
風景・風物詩(A1) 東京百景 山の上ホテルとその周辺(その1)  初回7月11日
+(A1) 山の上ホテルとその周辺その2、その3
[夏の風物詩]
風景・風物詩(B1) 夏の風物詩 入谷の朝顔市 初回7月17日
+(B2) 浅草ほおずき市 その1、その2、+(B3) 川崎大師風鈴市、+(B4) 江戸三大祭 富岡八幡例大祭(その1)、(その2)、+(B5) 日比谷公園丸の内音頭盆踊り大会、 +(B6) ヨコハマカーニバル ハマこい踊り、+ (B7) 浅草サンバカーニバル、+(B8) 高円寺阿波踊り
[秋の風物詩]
風景・風物詩(B9) 秋の風物詩 池上本門寺のお会式 10月16日

[小さな旅] 連載10回掲載
小さな旅(1) 秩父長瀞の蝋梅と火祭り 初回3月12日
+(2)菩提寺墓参、+(3)清澄庭園・深川江戸資料館、+(4)京都日帰り桜・花見 その1、その2、その3、その4、+ (5)旧古河庭園、+ (6)矢切の散歩道(野菊の墓) その1、その2
小さな旅(7) 日本一大きい牛久の大仏 10月13日 

[旅ものがたり] 連載6回掲載
旅ものがたり おわら風の盆と上高地(その1) 初回10月5日
旅ものがたり おわら風の盆と上高地(その2) 10月7日
旅ものがたり おわら風の盆と上高地(その3) 10月9日
旅ものがたり(2) 土湯温泉、二本松菊人形の一泊旅行(その1) 10月28日
旅ものがたり(2) 土湯温泉、二本松菊人形の一泊旅行(その2) 10月29日
旅ものがたり(2) 土湯温泉、二本松菊人形の一泊旅行(その3) 10月31日

[秋葉原界隈] 連載5回掲載
秋葉原界隈(その1)  初回3月9日
 +秋葉原界隈その2、+秋葉原界隈その3、+続・秋葉原界隈(1)秋葉原クロスフィールド完成、+続・秋葉原界隈(2) 秋葉原UDXに昔懐かしい「須田町食堂」が、

[イベント] 連載9回掲載
春の花とアルス五重奏団コンサート 初回4月11日
+土と木とメルヘンな鉛筆画のぬくもり三彩展を鑑賞、 +倉澤杏菜 ベルリン芸術大学留学記念 ピアノリサイタル、+ (4) 東京都美術館 第61回日本書道美術院「教育部展」、+ (5) 歌舞伎座観劇 秀山祭九月大歌舞伎夜の部、 +(6) 運動会 お茶の水小学校運動会、
イベント(7) 大森駅開業130周年(その1) 10月20日
イベント(7) 大森駅開業130周年(その2) 10月22日
イベント(7) 大森駅開業130周年(その3) 10月24日

[ITと技術] 連載6回掲載
パソコンは、いつでもまともに動くとは限らない  初回4月21日
+パソコンは突然に機嫌が悪くなる、+トラブル多頻発で奮闘に追われる我が家のパソコン その1、その2、+地球シミュレータ(海洋研究開発機構横浜研究所) 見学
がすてなーに 東京ガスの科学館見学 10月18日

[Weblog] 連載1回掲載
kan-haruのgooブログ日記 初回3月8日

[INDEX]
番外編 ブログ記事の参照地図を拡大して見る方法 [付 kan-haruの日記3月月間INDEX] 初回4月1日
+4月月間INDEX、+5月月間INDEX、+6月月間INDEX、+7月月間INDEX、+8月月間INDEX、+9月月間INDEX、
・番外編 カテゴリー別ブログ記事の検索と見方 [付 kan-haruの日記10月月間INDEX] 11月1日

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