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kan-haruの日記

小さな旅 後楽園天然温泉 ラクーア

2007年07月31日 | 小さな旅
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東京ドーム SpaLaQua
7月21日午後、小川町に出かける用事ができましたので、その前の午前の時間を利用して後楽園天然温泉 ラクーアに寄ってみました。
ラクーア(東京都文京区春日1-3)は、以前孫を連れて行った後楽園遊園地がいつの間にか入園無料のフリーゲートとなり、2003年5月から会社帰りに立ち寄ることができるような都市型レジャー施設に生まれ変わりました。
ラクーアには、スパ施設、商業施設、遊戯施設などと共に南半分に残った後楽園遊園地施設の東京ドームシティアトラクションズがあります。遊戯施設には、ジェットコースター、センターレスの大観覧車、ウォータースライダー、水上メリーゴーランドなどがあります。
大森町から後楽園には、都営浅草線の三田駅で都営三田線に乗り継ぐと1時間足らずで、天然温泉のある東京ドームシティです。

 ウォータースライダー    水上メリーゴーランド        トランポリン

スパ ラクーア(Spa LaQua)
スパ施設のスパ ラクーアは、後楽園遊園地の北側に建てられたラクーアビルの5~9階にあります。ビルの1~4階は商業施設で、飲食店と物販の68店舗が入居しているショップとレストラン街です。
スパ ラクーアの天然温泉は、2001年6月に地下1,700mの鉱脈から湧き出た温泉を使用して、6階のスパゾーンに男女別の露天風呂、屋内大浴槽とマッサージ効果のあるアトラクションバス、各種サウナの施設を揃えて2003年からオープンしました。
天然温泉の泉質は、ナトリウム-塩化物強塩温泉(高張性・中性・温泉)で、キレイな琥珀色をした塩化物強塩温泉です。

スパ ラクーアのスパゾーンには、ビルの1階からラクーア専用のエレベータで6階で降りると、正面の大水槽の右の入口から入って靴を脱ぎフロントで、手続きをしてリストバンドを受取入館すると、すぐ左が男性で、右が女性用のロッカー室です。
ロッカー室の奥が天然温泉のスパ ラクーアに通じておりますので、さっそく入浴してみました。
スパ ラクーアの温泉は、都心のビル内の設備であるため内湯と露天風呂共に、のびのびとした解放感がなく、箱庭に閉じ込められたような感じがしたのは、直前に郊外のスパが続きましたので当然なのでしょうか。

   スパ ラクーア専用エレベータ   大水槽のあるスパ ラクーア入り口

しかし、天然温泉だけあり、ゆったりとお湯に浸かり、座湯のバブル ピットのジェット流により体の疲労が取れ、すっかりとリラックスすることができました。
ビル内の温泉ですが、露天風呂には配置などの工夫が施されており、それなりの感じは得られました。

               露天風呂                  

風呂上がりのリラックス
温泉の入浴ですっかり疲労がとれて軽くなったので、5階の和風ダイニング酣で和食の昼食を楽しみました。また、フロァーには、ラウンジ バーやラウンジ カフェがあり、そこで軽食やドリンク類も楽しめます。
食後には、奥にある様々なエステがあり、そこで体を揉み解してもらい、奥にある約170席のリクライニングチェアの快適なスペースで食休みを、仮眠して所要の時間まで過ごしました。

        内湯            バブル ピット       リクライニングチェア

ヒーリング バーデ
スパ ラクーアの8~9階には2006年4月に開設されたヒーリング バーデがあり、男女が専用ウエアを着用し一緒にくつろげる低温サウナ施設ができ、そこではデッキチェアやベッドでリラックスできる、大人のムードが楽しめるリラクセーションが別料金で利用できます。
スパ ラクーアの感想は、都心にあって都会生活の喧噪を逃れて気軽に癒しが一時的に求められる空間であって、心身共に一時的にせよ癒せられる空気の良い郊外の日帰りスパとは若干異なるように感じられました。

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小さな旅 サイボク天然温泉 まきばの湯

2007年07月29日 | 小さな旅
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まきばの湯は種豚牧場跡地の温泉
昨年、母校のホームカミングデー(「イベント(8) 明治大学 ホームカミングデー(その1) 」参照)の福引抽選券で「まきばの湯」の入浴券が当たり持っておりましたので、7月8日に行ってみました。
サイボク天然温泉 まきばの湯(埼玉県日高市下大谷沢546 地図参照)は、ハムやソーセージ工場を持つ株式会社サイボクハムが、2004年にオープンした食と健康の理想郷を目指した日帰り温泉施設です。

温泉施設(施設図参照)は、広大な牧場跡に源泉かけ流しの内湯と露天風呂に温泉レストランを備えた温泉館を中心に、ハム・ソーセージ工場産直のミートショップ、レストラン、ミートピアハウス、カフェテリア、地元農産物直売の楽農広場などの建物の他、パークゴルフ場やアスレチックなどの広場が備わっております。

サイボク天然温泉への足周りは、西武新宿線「狭山市駅」から西武バス(17分乗車)または、東武東上線「鶴ヶ島駅」から東武バス(25分乗車)で「サイボクまきばの湯」行きに乗ると玄関前が終点です。当日は、往路は西部で、復路は東部を利用しましたが、バスの便数は1時間に1本程度と少ないので、調べておく必要があります。

サイボク天然温泉
温泉の建物は、洒落た洋館風の2階建て(館内マップ参照)で、受付フロントで入館証を受け取ると、館内正面は温泉百花(ショップ)がありドイツで金メダル受賞のウインナーやハム、温泉たまごなどを売っています。館の右側は、緑の自然庭園に面した温泉レストランで、朝出るのがもたついたことで昼時のため入って昼食としました。
まきばの湯は、建物の左手通路のミニ・ギャラリーを通り奥に花鳥の湯と風月の湯があり、1週間毎に男女を入れ替える方式で、当日は風月の湯が男性用でした。
このほか、別料金で予約制の天然薬石ミネラル浴の石の湯があり、2階には軽食やお休み処の和室大広間とマッサージ室があります。

風月の湯
サイボク天然温泉は、種豚牧場の跡地で2002年に温泉掘削に成功して、地下2000mにある温泉母岩を流れる湯脈から湧出した源泉です。湧出量毎分922リットルもあり、源泉温度40.6℃で、総成分量が7016mg/kgで水素イオン濃度がPH8.1のナトリウム-塩化物泉(弱アルカリ性低性温泉)の泉質であるそうです。
「天然温泉看板」(平成15年4月より、(社) 日本温泉協会審査機構による審査を行いその結果を表示制度)には、「まきばの湯(内湯)」「花鳥の湯(展望風呂)」「風月の湯(展望風呂)」審査項目5項目が最高ランクで示されていました。

効能を謳っている天然温泉をあじわうことで、風月の湯に入浴しました。
風呂場に入ると、子豚像の源泉かけ湯が出迎えてくれ、かけ流しの内湯まきばの湯に先ず浸かりました。内湯に並んで秩父伏流水の真湯のマッサージ浴は、心地良いジェットで体をほぐしてくれました。また、内湯には、足湯と高温遠赤サウナと水風呂があります。

   かけ湯           まきばの湯          マッサージ浴・腰掛足湯
 
風月の湯の露天風呂には、中央に大露天風呂がありゆったりとかけ流しの湯に浸かり、左手には源泉50%、真湯50%流水歩行路があり足つぼ効果と歩行浴が味わえました。
右手には、ミスト方式の低温サウナと真湯のたる湯があり情緒が味わえます。
先の高台には、霧を間欠的に吹き出す霧の浮き舟、源泉かけ流しの展望風呂の風月の湯、隠れ湯、洞窟風呂・観天の湯などのいろいろな露天風呂を堪能しました。

     大露天風呂           歩行浴              たる湯

    風月の湯            霧の浮舟               洞窟風呂 

温泉建物外の散策
風呂上り後、2階和室大広間で暫く休息してから、温泉館を出て日曜日のため大変混雑している、温泉併設のイベント会場を歩いてみました。
農産物直売の楽農ひろばでの野菜産直には、地元近郊の人々が車で訪れ、朝取りの新鮮で安い農産物を求めていました。

  大人気の産直品売り場      ミートショップ          レストラン

本店ミートショップでは、牧場産直の精肉やハム・ソーセージ、手作りパンなどのサイボクオリジナル食品などを販売していました。お土産に、ドイツ金メダル受賞のソーセージを買ってみました。

              イベント広場                   ひょうたん池

イベント広場には、大きなレストランサイボクやトントンハウス、アスレチックなど子供が喜ぶ施設もあり、カフェテリアなどの露天風食べ物屋で焼きウインナー、溶岩熱焼きあげ肉、もつ煮などが食べられ、1日ゆっくりと楽しめます。

      りんご園            トントンハウス        アスレチック        
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小さな旅 観音埼 海洋深層水風呂のSPASSO

2007年07月27日 | 小さな旅
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観音崎灯台
観音崎へは、大森町から京浜急行電鉄で一直線に浦賀駅まで1時間半足らずの行程であり、孫が来ていたので朝ゆっくりの出発で、7月1日に出かけてきました。
観音崎の突端の高さ約40mの断崖には、1869年(明治2年)にわが国最初の洋式灯台として造られた観音崎灯台で知られており、学校の遠足(1947年の観音崎遠足写真)の定番コースとなっておりました。
現在の灯台は3代目で、1925年(大正14年)に完成し、高さ19m、光度14万カンデラ、光達距離は37kmであり、1日1000隻に及ぶ大小の船の航海の安全を担っております。

SPASSOへのアクセス
海洋深層水風呂SPASSO(神奈川県横須賀市走水2丁目観音崎京急ホテル内 地図航空写真参照)へは、今年の4月28日に横須賀(観音崎)美術館が観音崎公園にオープンしましたので、バスの利用が便利となりました。また、運行期間限定の観音崎~猿島~三笠間の海のルートも利用できます。

京浜急行電鉄終点の浦賀駅からのバス利用は、駅1番乗り場で観音崎行きにのると終点下車徒歩5分です。また、期間限定で運行が行われている急行バスを利用すると、美術館前下車で道を挟んだ斜め前がSPASSOです。
1つ手前の馬堀海岸駅からは、駅1番乗り場から観音崎行きに乗り「観音崎京急ホテル」前で下車でSPASSOです。

  外国の感じの東京湾       横須賀美術館       観音崎灯台

海洋深層水風呂SPASSO
SPASSOに到着したのは、昼をまわっておりましたので、レストラン「浜木綿」でのランチバイキングと入館料がセットになっている、Spa & lunch plan の日帰りパックにより、レストランの大きな窓から大小の行き交う船をみながらのお昼を取りました。
SPASSOは、平成15年の完成で建物は新しく綺麗で、海辺の芝庭のチェアーに腰掛けて、東京湾の船を眺めていると、まるで外国に来たみたいな感じがします。

食事が済み、海洋深層水のお風呂は2階にあり、時間を決めて男女別のお風呂に入りました。男性用の内湯の眺望大風呂は、雄大なパノラマ風の海の景色を眺めながらの入浴で体を心地よく温めてくれます。バイブラバスによりジェットノズルからの勢い良い水圧が、首、肩、足を中心に心地よい刺激を与えてくれ、さらにバイブラ寝湯によるジェットと気泡により身体のツボをほどよく刺激してもらうと、心も体も癒されて最高の気分です。

眺望露天風呂は、目前に広がる海と空をゆっくりと眺めてくつろぎ、寝湯に浸かってリラックスの気分を味わえます。その他、男湯には高温サウナやかけ湯と、-10℃のクーリングルームがあります。

   内湯の眺望大風呂       眺望露天風呂           高温サウナ

女性の湯には、男湯と同様に眺望内風呂と、三浦沖海洋深層水眺望露天風呂と寝湯が在り、その他に眺望が絶対の露天のかめ湯があり、シェープアップバス、ホワイトシルキーイオンバス、海洋深層水ミストサウナなどのバスがあります。

     眺望内風呂         シェープアップバス     眺望露天風呂と寝湯

観音崎公園散策
三浦沖海洋深層水のお風呂ですっかりと体が温まりましたので、一休みしてからSPASSOを出て帰りの時間まで海風に当たりながら、観音崎公園を散策しました。
日曜で混雑している横須賀美術館を対面に見ながら灯台に向かって進みますと、観音崎海水浴場のよしず張りのお店にも沢山の飲食客が入り賑わっておりました。
道路に沿った板張りの木道を進むと、店は開いておりませんでしたが「観音崎レストハウス」で、路線バスの終点の観音崎停留所です。

                                       まだ満開のあじさい

観音崎公園の案内板の前に、散歩にオウムを連れて来ていた方から、孫が触れせて貰い珍しい体験をしました。
この辺の地形は、海と山による公園であじさいの木も沢山在り、北側斜面では花がまだ開いておりました。公園の広場はキャンプ場になっており、沢山のグループがリクレーションを楽しんでおりました。
孫も、暫く海のかにや小魚などを採ったりして楽しんだ後、バスで馬堀海岸経由で帰宅しました。

                   オウムを抱えて大満足

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大森町界隈あれこれ 大森町共栄会 2007年サマーフェスティバル

2007年07月25日 | 大森町界隈あれこれ イベント
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大森町サマーフェスティバル
大森町商店街(共栄会)では、毎年恒例の2007年大森町サマーフェスティバルを、真夏日の7月22日日曜日に開催しました。孫が夏休みに入り泊りがけで遊びに来ていたので、夕刻にぶらりと見に行ってきました。


昨年のサマーフェスティバル(「大森町界隈あれこれ(M30) 大森町商店街 大森町サマーフェスティバル」参照)までは、8月に入るとサマーフェスティバル第2弾として、約600人が参加する恒例の流し踊りが、大森町駅から大森町商店街を東邦医大通りまで練り歩いたのでしたが、何故か今年は中止となりました。

サマーフェスティバルの催し
縁日の出し物は、15時15分から大東京信用組合前の特設舞台で、地元児童館の子供達のソーラン踊り、四次元太鼓(太鼓番社中)、三輪ふれあい太鼓、真夏のジャズ演奏(明治大学ニューウェーブジャズオーケストラ)などが出演しました。
18時からは、西児童館の子供達、舞舞連(ブログ「からだで感じる」阿波踊りから)と大田区くすのき連の約120人の阿波踊りが、大森町商店街通り(地図再掲参照)を東邦医大通りからスタートして、大森町駅付近までの約700mを2時間をたっぷりと息のあった踊りを見せて錬り歩きました。


縁日は、商店街の中程で焼きそばやカキ氷、ポップコーンや景品が当たるくじ引きのゲームコーナや玉すくいなどが設置され、買い物やゲームの参加には1枚100円の「もりも券」が必要です。また、商店街の商店では、サマーフェスティバル商品としておもちゃなどを売っており、孫は買い付けのお茶屋さんの「小坂園」で花火などを買って、おまけを貰い喜んでおりました。
また、商店街中央のセブン・イレブンでは、16時から1人5個までのパンをどれでも1個50円で売り出しを行い、沢山の人が行列して買い求め、短時間で売れきれる人気でした。


クワガタ虫の抽選会
孫がくじ引きや玉すくいなどで遊んでいると、共栄会よりサマーフェスティバルの放送があり、それによると「16時20分から、共栄会館前でクワガタ虫が当たる抽選会を行いますので、お集まり下さい」との放送が入りました。
2006年のサマーフェスティバルではクワガタ虫を貰ってましたが、今年は話題に上がって無くクワガタのイベントは行わないものと思っていたところに放送があり、孫がそれを聞き大喜びして共栄会館へと跳んで行きました。

昨年の抽選方法は、ジャンケンの勝ち抜き戦で当ったのですが、今年は回転式の抽選方式により、赤色の玉は外れでボトル入りのお茶が貰えます。黄色の玉が出ると13人にクワガタ虫のつがいが貰えますので、もりも券を渡して抽選の列に並びました。
抽選が始まり、早いうちに女の子2人が当選しましたが、その後暫くは赤球が続き、孫の番が来て抽選器を回すと黄色の玉で、なんと2年連続してクワガタを貰え喜び勇んで家に向かいましたが、当たった興奮からかのどが渇いて途中カキ氷を食べながら帰りました。


今年のサマーフェスティバルも、孫にとっては大変楽しいものであり、地元の人も沢山見にきてすっかり定着した夏の風物詩の祭りとなり、小さくても楽しい大森町の休日でした。

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大森町界隈あれこれ 国道拡幅により現境内での貴船(貴菅)神社盆踊り大会

2007年07月23日 | 大森町界隈あれこれ イベント
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貴菅神社盆踊り大会
第一京浜国道の本宿の脇にただずむ貴船(貴菅)神社では、例年通り7月21、22日に境内で盆踊り大会が開催されました。
昨年神社を訪ねたのは、盆踊り大会が済んだ翌日の役員さんが跡片付けをしている時でしたので、今年は盆踊りが開催している7月21日金曜日の夕食を済ませた20時頃に行って見ました。

現境内での盆踊り
貴船(貴菅)神社(大田区大森西5-27-7)は、前回のブログ(「大森町界隈あれこれ(L31) 大森町の社寺 ささやかに鎮座する貴船(貴菅)神社」参照)記載にある通り第一京浜国道(国道15号)に接しているので、決定済みの道路が拡幅されると現在の境内が縮小されるため、神社裏側の路地先の空き地へ移動することを町会で検討をしている様です。
そのため、例年開催の現境内での恒例の盆踊りの実施は工事立ち退きまでとなり、以降は移転場所での盆踊り大会となります。

盆踊り大会
貴管神社の氏子は、本宿町会の一つの町会の纏まりのある地域ですので、現境内での盆踊り大会も、いつか先には移設される本殿横の馴染みの深い小さな広場で、例年のように多数参加して開催されました。

  (拡大1)          (拡大2)          (拡大3)本殿横での盆踊り

盆踊りは、21、22日共19時から21時まで天気にも恵まれ、町内の皆んな揃って納涼盆踊りが、何時もの本殿横広場で繰り広げられました。この場所での、踊りの様子を想い出の記録として残しました。

  (拡大1)          (拡大2)          (拡大3)現境内最後の盆踊り

第一京浜国道の拡幅

 第一京浜拡幅前の貴管神社(拡大)   貴管神社境内の第一京浜拡幅予定(拡大)

現在、第一京浜国道は、東京都都市計画道路(幹線街路放射第19号線)による拡幅工事を、大森町駅付近から多摩堤通りまでの区間の1190mの工事計画で、幅員は約35~50mに広げることで進められてます。

        東京都都市計画道路(幹線街路放射第19号線)拡幅工事 再掲

間(あい)の宿
品川宿と川崎宿の中間に当たる東海道の大森には、馬子人足の休息のために立場茶屋(「大森町界隈あれこれ(N31) 大森町風景 旧東海道(三原通り) その1」参照)が設けられ、旅行者の増加に伴いそれらの人々にも供せられ、間(あい)の宿とも呼ばれました。立場は、東大森村の貴管神社付近の谷戸(やと)の立場と雑色村の花の立場(現在の六郷二丁目、仲六郷二丁目付近)の二か所にありました。
立場には、馬子人足の溜場や、旅行者の休息のための煮売茶屋がありました。後になって、歩行不能となった旅行者に、宿泊を提供する煮売茶屋がでてきたので、宿駅を保護するために煮売茶屋の旅籠行為と、立場付近の村民による馬による運送業務の禁止令がだされました。
しかし、1820年頃の江戸後期には、東海道は相当数の社寺参詣者が通行して、大森の間(あい)の宿ではかなりの旅籠の類似行為が行なわれていたと云われてます。

貴管神社は、江戸時代には大森村のうち東海道に面した本宿の鎮守であり、明治42年7月東海道をはさんで当社の真向かいに祀られていた菅原神社を合祀した神社です。
旧東海道は、1922年(大正11年)に第一京浜国道の建設が行われ、谷戸では国道の東端面が旧東海道に沿って造られましたので、鳥居の建之が大正14年と銘打っておりますので、この時点で境内の整理の造作が行われたものと思われます。
今回の第一京浜国道の拡幅は、85年振りの工事で境内の縮小が時代の要請で進められております。

最後に、神社の例大祭は、八月最終の土・日曜日に定めれておりますので、現境内でのお祭りの記録も残して置きたいと思っております。

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ITと技術 Web 2.0時代のIT Webデスクトップに触れてみる

2007年07月21日 | ITと技術
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Webデスクトップ
前回のブログ「ITと技術 Web 2.0時代のパソコン活用のヒント」では、全てのデータをWebに置くと、自宅、会社や出先でのいずれのパソコン上で業務処理が行えるのがWeb 2.0時代の特徴であると紹介しました。
Web 2.0時代のIT技術の進歩はめざましいものがあり、Web上にパソコンのデスクトップが置けるようになりました。デスクトップがWebに置けると云うことは、インターネットが繋がる場所では、種類の異なるパソコンを同じ動作環境として使うことが出来ることになります。

これにより、自宅でやりかけの仕事を途中で中断して、やりかけのデータをデスクトップまたは、前回説明のWeb上にデータを保存してパソコンの電源を切り停止させます。
次に会社または出先のパソコンで、中断した業務処理を継続して行いたい場合には、パソコンを起動しWebデスクトップを立ち上げて、保存しておいたデータを継続して使い、作業の続きを行うことができます。これは、先の自宅での作業の環境状態をWebデスクトップが保存して停止しますので、他の場所の別のパソコンでWebデスクトップを立ち上げると、作業を中止した時点の環境が維持されていますので、仕事の続きが行えるのです。

「gooラボ」ウェブデスクトップ実験
WebデスクトップのことをWeb OSとも呼ばれ、現在20を超えた評価品(β版と呼ぶ)が出ていると云われてます。
このWebデスクトップが、gooブログのNTTレゾナントとNTTコミュニケーションズにて共同で、3月15日から9月までの6ヶ月間にわたり「gooラボ」サイトを使用して、ウェブデスクトップの実験を開始しております。
このウェブデスクトップ実験には、goo IDを保有していれば誰でも参加できますので、新規加入をせずに参加できますので、Web OSと云われる新技術に触れて見ました。

・ウェブデスクトップを使ってみる
先ず、NTTコミュニケーションズの「ウェブデスクトップ実験」サイトページに入り、「利用の流れを見る」や「特長を詳しく見る」などの説明や利用規約を見てから、「すぐに使ってみる」のボタンを押して入ります。
ログイン画面がでますのでログインをすると、ダイアログボックスが表示されてウェブデスクトップのダウンロードが開始されます。


ダウンロードが終了すると、ウェブデスクトップの壁紙が表示された後、ウェブデスクトップの画面が表示されます。一番最初にウェブデスクトップを起動した時には、デスクトップ環境を作成し、二回目以降は作成した環境を継続します。


二回目以降の動作で表示されたウェブデスクトップには、これまでの動作環境が残っておりますので、以前の作業で使用していた保存ファイルを、「ファイル管理」ダイアログボックス上に出すことが出来ます。保存のファイルは、パソコン上にダウンロードしたり消去したりが行えます。なお、ファイルは表示されている以外の、別の保存中のファイルを全て呼び出すこともでき、またパソコン側のファイルの新たなアップロードもできます。

次に、「サーチ」ダイアログボックス内の入力欄に、「kann-haru日記」とキーインして「検索」ボタンを押すと、「WEB」画面に検索結果が表示されます。


検索結果の項目を選びクリックすると、「WEB」画面に検索したブログ画面が表示されます。


また、「WEBメール」画面を開くと、現在受信中のメールボックスが表示されますので、メールを開いたり送信などを行うことができます。
その他、OCNメニューの「フォットフレンド」などのサービスなども利用できます。

現在、Web 2.0時代に突入しており、パソコンの活用環境はますます急ピッチで進化して参ります。このブログでは今後、Web 2.0時代のITに関して、いろいろと見て参りたいと思います。

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ITと技術 Web 2.0時代のパソコン活用のヒント

2007年07月19日 | ITと技術
kan-haru blog 2007

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Web 2.0時代のパソコン活用
07月17日の18時から、私の所属する部会の情報化研究会で、第366回目の開催という大変と古くから続く例会があり、そこで「Web 2.0時代の業務事務所でのIT活用」という趣旨の講演を行いました。
講演を行うに当り、先立ってWeb 2.0の話題を探るため本屋を覘くと、「実践 Web 2.0 BOOK」(インプレスジャパン 2007年7月1日刊)の本の帯書きに、「メールも予定表も企画書もすべてのデータをWeb上に置こう!」という、Web 2.0的活用方法が書いてあるのが目に付きました。

Webにデータを置く
Webにデータを置くことは、既にかなり以前から実施しておりましたので、講演のレジメに自宅、会社、外出先で業務を継続して行っている実施例を示すことにしました。
普及したブロードバンドでインターネットに接続できる環境にパソコンが接続できれば、いつでも、どこでもWebをアクセスして置いてあるデータを使うことが出来ることであり、自宅のディスクトップ パソコンでも、外出先での無線LANに接続のノートパソコンでも、会社や顧客先のパソコンでも、場所と距離を問わずにWebに置いたデータを常に使用してパソコンでの業務が行えることになるのです。

・gooブログWebデータ領域
パソコンにデータを置く手近な例としては、このgooブログ自体が先ずWebに置くデータそのもので、テキストの保存容量は無制限です。ブログのデータを編集したり投稿したりの作業は、インターネットに接続できるパソコンであれば、どこでも行うことができます。
ブログには、静止画・写真、動画などの画像表示データをアップする領域があり、これもWebに置くデータです。このブログは、goo ラボのブログであり、画像をアップロードできる領域の大きさは、無料版は3ギガバイトであり、有料のブログアドバンス利用時(月額200円税込み)には1テラバイト(1024ギガバイト)の領域でWebにデータを置くことが出来ます。


また、Webメールのgooメールもインターネットでどこでもアクセスが出来、Webにデータを置く領域となります。無料版のメールボックスの容量は25MBで、1通あたりのメールサイズは10MBであり、添付ファイルは20個まで送信できます。有料のgooメールアドバンスパッケージ(月額290円税込みで、上記のブログアドバンスも利用できます)では、メールボックスの容量は2000MBとなります。

・Windows Live Hotmailの Webデータ領域
長年使用してきた、マイクロソフトのWebメールのHotmailは、今年からWindows Live Hotmailとなりました。無料版のメールボックスの容量は2GBで、有料版(年額 2,520 円 税込)のメールボックスの容量は4GBのWebデータ領域として使用でき、送信できる添付ファイルの容量も大きくなります。


・Yahoo! Briefcaseの Webデータ領域
Yahoo! Briefcaseは、Web上に置くデータ領域で、無料版は保存容量が300MBで1回にアップロードできる容量は5MBです。有料のプレミアム会員(月額 294 円 税込) は保存容量が1GBで1回にアップロードできる容量は20MBです。さらに、プレミアム会員では、フォト/ブリーフケースの容量があわせて最大2GBまで使用できます。


これから、Web 2.0時代に突入です。Webデータ領域を有効に活用して、さらにWeb 2.0の ITの享受が出来るように学習を心がけて行きたいと思っています。

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大森町界隈あれこれ お盆歳時記 大森町のお盆、先祖供養

2007年07月17日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2007 わらの牛と馬

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お盆行事
東京では、7月13~16日にお盆を迎えます。地方では、農作業の関係などにより8月13~16日に行われるのが一般的となり、東京の企業に勤務者はその時期の夏休みに合わせて故郷に帰り、先祖供養をするのが長い間の風習となってきました。
このお盆の正式名は、「盂蘭盆会」(うらぼんえ)といい、お釈迦様の弟子の目連が地獄に堕ちた母親を救い出すため、僧侶に食事を振る舞い、供養したという説話が起源だといわれています。それ以来、ご先祖を大切にする人々は、目蓮尊者のように7月15日にお盆供養を行うようになりました。

今年のお盆は、14~16日が土日・祝日と重なり3連休となりましたが、生憎なことに7月としては観測史上最強勢力の台風4号が、14日午後2時ごろ鹿児島県の大隅半島に上陸、高知県の足摺岬付近を北東に進み、15日夕には千葉県銚子市南東の太平洋を時速55キロで東に進み、本州から遠ざかりましたが、お天気は気になります。
毎年めぐってくるお盆は、ご先祖さまが帰ってくるお盆で、普段離れている家族や親類が来てお線香を上げて先祖を供養する日ですが、天候はさほど心配したほどではありませんでした。

         仏壇              正面:御本尊の大日如来、左:位牌
お盆の準備
大森に住んでからのお盆供養は、欠かしたことはありません。
お盆を迎えるには、先ず3、4日前に仏壇を清掃し、ご先祖様が喜んで帰っていただくように精霊棚(しょうろうだな)の準備をします。
精霊棚は、ご先祖様を供養する特別の祭壇で、一般に仏壇の前などに小卓などを利用して台を作り、台の上には真菰筵(まこもむしろ)や蓮の葉を敷き、仏壇から本尊さまとお位牌を移し中心にすえて、故人の好物やお供物、お灯明、盆花(ミソハギ・ききょう・おみなえし・なでしこ・ほうずき)などをお供えし飾り付けします。それに、ナスの牛やキュウリの馬を作ったり、四隅に笹竹を立てて十六ささげ(実のなるもの)を下げます。また、小鉢やどんぶりなどに、閼伽水(あかすい)と呼ばれる供養の水を入れ、ミソハギやシキビの小枝などで精霊棚にそそぎかけて拝みます。
精霊棚に飾る物は、お盆が近くなると、花屋さんや八百屋さんの店先にはいろいろな材料が見うけられるようになります。

 左:生花立に花を活け、上段にはほおずきを吊るす
 中:精霊棚にはゴザを敷き、線香入れ、香炉、ローソク立、リンなどを置き、先祖の好
   物の果物やソーメンを供える
 右:はすの葉にはキュウリとナスを細かく切りお米を入れ、供養の水を入れたミソハギ
   やシキビの小枝などを供える

大森町のお盆供養
東京の一般的の家庭では、本格的な精霊棚を飾る代わりにお仏壇の引き出しに精霊棚を設け、真菰(まこも)のゴザを敷き霊座上に精霊棚と同様に盆飾りをして、ご先祖様をお迎えします。
昔は、おがらか割り箸で四本の足をつけたナスの牛やキュウリの馬を飾りました。これは、先祖の霊がキュウリの馬に乗って一刻も早くこの世に帰り、ナスの牛に乗ってゆっくりあの世に戻っていくようにと言ういい伝えから作られるものですが、現在は、わら細工で出来た馬と牛に代わってきました。
13日の「盆の入り」から16日の「盆明け」までは、精霊棚に「霊供膳」と故人の好物だったものを添えて供えます。

仏壇の前には、ご住職さんをお迎えして読経をするためのお経台を置きます。
我が家の菩提樹は、茨城県古河市の神宮寺ですので、毎年14日にはご住職さんが東京の檀家を廻って読経して戴いておりましたが、昨年からご高齢のため出てこられなくなりました。

・迎え火

 左:玄関先でほうらくの素焼きの皿の上のおがらに火を点ける
 中:仏壇のロウソクを準備 
 右:迎え火を炊く

普通は、13日の夕方にお墓参りをしてするのですが、菩提樹が遠方のため毎年8月の月遅れのお盆と、春・秋の彼岸に日帰りで墓参りをして掃除をして来ます。
「迎え盆」は、13日の夕方にお寺から火を家に持ち帰ることが出来ませんので、我が家では玄関先で焙烙(ほうらく)の素焼きの皿の上でおがらを焚いて、ご先祖様を迎えます。おがらの火でろうそくを灯して、仏壇に共へてお線香を上げます。

 左:おがらの火でロウソクを点灯
 中左:ロウソク点灯
 中右:ロウソクからお線香を灯す
 右:お盆に帰って来たご先祖様

・親戚縁者の供養
今年は連休により、13日に長男夫妻、14日に池袋の親類、15日に次男一家、16日に親類の方が連日線香を上げに参り、先祖を偲びご馳走を囲み歓談して供養して頂きました。
・送り火

 左:送り火を点けるローソク
 中:庭の門前で送り火の準備
 右:仏壇のロウソクの火で送り火を点ける

16日の夕刻、庭の門前で仏壇から灯したろうそくで、焙烙のお皿でおがらに送り火を焚いて、帰り道を照らして先祖の精霊をあの世にお見送りします。

 左:先祖の帰り道を照らす送り火
 中:送り火の火種で仏壇の線香を灯す
 右:送り火の火渡りで無病息災家内安全を祈願

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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第2編 天皇制の問題集 第6回

2007年07月15日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

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昭和の風景
「昭和 写真の1945~1989」の写真展の主要写真を掲載して、その時代背景を写真史的に担当の学芸士が解説したガイドブックに、「昭和の風景」(東京都写真美術館編 新潮社)があります。
「昭和の風景」の書籍も写真展と同じく、同名のタイトルで第1部から第4部に分けて編集してあります。
本の帯書きに、「敗戦、占領下のどん底から這い上がり、高度成長を遂げ、そしてバブルまで――激動の昭和に生きた写真家たちは、ファインダーに何を見、印画紙に何を焼き付けようとしたのか?」とあり、「貧しくとも活気と希望にあふれていた昭和」の美術館所蔵の名作で辿る、写真昭和史と紹介しています。


希望と活気のある社会
帯書きに書いてある通り大東亜戦争を生き抜き、終戦のどん底から這い上がり、昭和30年代の復興期に入ると誰でもが、貧しいけれども何となく希望があり、気力を持って過ごせた時代でした。この頃を生き抜いた世代には、現在の物資は豊富で科学が非常に進歩した今の生活は、何か幸せを感ぜず、生きがいも見出せず、物が無く貧しくとも張り合いが持てた昭和30年代とは、何が違うのか考えてしまいます。

当時中学生の秋に赤い羽根共同募金の第1回活動で、手作りのボール箱製募金箱を持って、電車の出札口付近で街頭活動を行うと殆どの人がつり銭を募金して呉れ、忽ち予定金額を超えましたので最後の頃は、赤い羽根を消化させるため金額に係わらず渡したことの思い出があります。
戦後の生活は、全員が食料難で物資が無く貧しいどん底の状態でしたが、人心は自分より貧しいひとには助け合う気持ちが強く、それが募金に現れておりました。
戦争中の軍と官に騙されていた国民は、この様な状況から自分たちで何とか脱皮しようとの考えを持っての生活が活気に繋がり、昭和30年代に至り戦後の復興が見えてきた時で、まだ貧しいながらも希望に燃えておりました。

戦後のどん底生活
若山武義氏の手記は、次回から編を移して昭和21年9月に記した、当時のどん底時代の生活記録の「我等の生活談義」編の貴重な情報を掲載します。
昭和20、21年頃には、「昭和 写真の1945~1989」の写真展や「昭和の風景」の図書で見られる通り、巷には私と同年の浮浪児が溢れ、当時の省電都内各駅近くには闇市の露天が繁盛していました。

学習用品の買い物のため、運転数が少ない超満員の電車に乗降りするには窓からの出入りで、車体の前後部面にある僅かの突起部に足を乗せ、窓の柱に手をかけてホームまで移動するという命がけの荒業も行う必要もありました。また、当時の電車には、車両の先頭か後ろを区切って、米軍専用車が付いており、のうのうと数人程度の乗車を見ても羨ましい気持ちは持ちましたが、何故か癪に障る気持ちは起きませんでした。
「昭和の風景」を閲読すると、当時12歳の頃の想いが走馬灯のように駆け巡りました。これからも、若山武義氏の手記の進展と共に、昭和20年代の数少ない記録解説を記載します。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) 天皇制の問題集 第6回

満州国建国の実相
先きにシンガポール攻略の際、無条件降伏をイエスかノーかと英将に大喝一声せる山下将軍も、比島に於いて勝敗所を異にし、遂に比島軍事裁判に於いて死刑を宣告されしに対し、マッカーサー元帥の裁決は、真に武士道の真髄として感激せざるを得ぬ。

 「軍人というものは、敵であれ味方であれ、弱者と武装せざるものを保護するのが本務である。若し軍人に寄せられたこの神聖なる信倚に背反するならば、それは軍人に寄せられた尊敬を冒涜するに止まらず国際社会の構想を脅かす事になる」
然して
 「摩下部隊が祖国、敵国及人類に対する自らの責任を果さず軍人としての信義に侼ったものである」
と断じて、何等か情状酌量すべきものを見出さんとして意見を再検討せるも遂に此の死刑の判決に同意を遺憾ながらせざるを得ぬという趣旨である。

本間中将と共に、部下の人道を無視せる残虐行為の責任を問われたのであるが、殊に此の裁判に、遥々マニラ迄飛んで行き、夫君の為め其の証人台に立った本間中将夫人の心情は、まさに世紀の悲劇である。
日華事変に、南京初め至る処、人として為すまじき悪逆無道、続々として立つ幾多の証人によって実証され、真に慄然たり。

此の鬼畜に等しき、神を恐れざる悪業を為したるものは我が同胞なのである。更に運命の人として証人台に立った元満州国皇帝溥儀氏は「皇帝は一切の自由を奪われたロボットに過ぎず。妻は日本人に毒殺された」と憤然として述べ、満廷を驚かせ、全世界驚かせた。
かっての我等の生命線、王道楽士、満州国建国の其の実相はかくの如きものであったのであろうか、今日初めて我々はこれを知ったのである。

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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第2編 天皇制の問題集 第5回

2007年07月13日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

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昭和の風景「昭和 写真の1945~1989」展
前回記載の「昭和 写真の1945~1989」展開催の東京都写真美術館(目黒区三田1-13-3)は、恵比寿のガーデンプレス内にあり、開館時間は10:00~18:00(木・金は20:00まで)で月曜日と年末年始が休館です。美術館の展示室は、常設コーナーはなく1階ホールでは映画や人形アニメなどの演劇などの催しの会場です。
写真の展示会場は、2、3階の展示室とB1階の映像展示室があり、各会場はテーマ別の写真を展示しており、テーマー毎に個別料金を払って入場します。

    東京都写真美術館       美術館3階展示室入り口

「昭和 写真の1945~1989」展は、3階展示室で第1部から第4部までの期間を区切っての開催で、入場料は一般が500円、学生が400円、中高生・65歳以上が250円の他、第1部から第4部の通し券もあります。
第1部は終了し、現在第2部が開催されておりますが、若山武義氏の手記に合わせて第1部の「オキュパイド・ジャパン(占領下の日本)」で展示されていた写真を振り返って見ていくことにします。

第1部の写真展示構成は、[パート1]「廃墟――焦土からの出発」が27作品、[パート2]「オキュパイド・ジャパン――闇市・P.X.・女性」が36作品、[パート3]「解放――エロスとリアル」が40作品、[パート4]「復興――『戦後』という風景」が22作品の鑑賞ができました。
このうち、手記の年代の昭和20~23年に写した写真は、[パート1]が26点、[パート2]が26点、[パート3]が23点、[パート4]がなしで、計75作品もの貴重な記録が見られました。

手記第5回の極東国際軍事裁判に関しての写真には、作品番号49「東京裁判」木村伊兵衛作1948年(昭和23年)の出展がありました。
若山氏の手記にもあります様に、1946年(昭和21年)の元旦に新聞各紙に掲載された、いわゆる「人間宣言」の昭和天皇詔書で年があけました。1月4日にGHQから「侵略支持者」などに公職追放指令が出されました。5月3日には、東條英機元首相などのA級戦犯28人が出廷して極東国際軍事裁判(東京裁判)の審理が始まり、2年半後の昭和23年11月12日に判決を言い渡して終了しました。
木村氏の写真は、昭和23年に撮影したもので、被告たちの姿をユーモラスに描き出されております。
今後、若山氏の手記の解説には、「昭和 写真の1945~1989」展の資料を参照していきます。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) 天皇制の問題集 第5回

極東国際軍事裁判
南原帝大総長は、「学者としての信念を、切なる憂国の気持ちを以って述べたままである」と。洵に我等国民の総意をのべて呉れられたものと思う。
陛下に一切の責任を負わせ、国民に塗炭の苦しみを興えたる戦争責任者、「国民を欺瞞し之れを世界征服の挙に出ずるの過誤を犯さしめたる」かっての軍国の指導者達は、今東京の極東国際軍事裁判の公判に全世界の視聴を集め開延されつつある。その真相は新聞にラヂオに、日々これを知って唖然とするのみである。

 自存自衛の戦にあらずして、真に侵略戦争である乎。
然し我が国は明治維新以来其の人口逐年増加し、当時三千五百万人位だったのが五千万人となり、六千万、七千万となった。狭い日本に住みあきたと、逐次北米に南米に移民となり、日露戦争後は、満州に進出し、生きんが為めに必死の努力を続けたのが事実である。然るに先ずアメリカが我が移民を禁し、これが南米各地に波及した為めに、遂に我が過剰人口は勢い満州、朝鮮に進出せざるを得ず、一方国内の軽工業勃興、低賃金、長時間労働により生産されたる綿布及び雑貨の市場たる中国より日貨排斥を受け、全世界相手の輸出貿易も到る処関税の障壁に阻止された。
此の国際的〆め出しは、国内的には未曾有の混乱をまき起こし、即ち大正の中頃から昭和にかけての農村極度の窮乏、街に失業者の氾濫、加うるに赤之に跳躍し、人心の不安の絶頂の秋、茲に満州事変起り、日華事変に発展、遂に大東亜戦争迄止まるなく、今日の破目となったのである。

今日迄公開せられたる証拠及証人の陳述は、正に軍閥の侵略戦争である。何が故に、我が民族の生存の為め、この当然なる主張を武力に訴えず平和的に出来なかったものであろうか。
何が故に世界から総スカンの〆め出しをくったのか、今後の新日本建設に、来るべき国際貿易参加に、十二分の反省を要する処であるが、とにかく、此の裁判に当り、我が民族の生存上武力に訴えた理由を、被告となった東條氏初め御身等の名誉の為めにも、明瞭に我々国民の得心の行く様に堂々と所信を述べて頂きたい。今や「まないたに乗った鯉」である以上。
其の起訴状に対し被告として各々其の無罪を主張した上にも、此の裁判は洵に公平無私である。夫にしても、かっての敵国人に、国境と恩讐を超え、真摯に弁護の労をとるアメリカの人々の「爾の敵を愛せ」を実践せらるる、真実に感激せざるを得ぬのである。

捕虜虐待事件の横浜初め各地の裁判に於ても、各事件毎にアメリカ人の弁護人がつき、罪を憎んで人を憎まずか、熱心に、真に涙ぐましき努力を為されつつある。この悪逆無道の人道に反したかっての敵国人の行為に、アメリカ人として弁護に立ってくれる崇高博愛、其の裁判の至公至平、真摯熱心なる弁護、これが本当に民主主義の真姿なのであると思う。

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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第2編 天皇制の問題集 第4回

2007年07月11日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

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「昭和 写真の1945~1989」展
東京都写真美術館で、「昭和 写真の1945~1989」展が開催されました。
戦後の日本はさまざまな変化を遂げ、焼け野原からの復興と人びとの生活の変化がありました。写真の展示構成は、東京都写真美術館の収蔵作品の中から、戦後の「昭和」を象徴する約600点の写真を選び時代別の4期に分け、第1部では、戦争の惨禍の後、占領下におかれていた昭和20年代を舞台に、新しい価値観を持ってこの時代をとらえた「オキュパイド・ジャパン(占領下の日本)」が、5月12日から6月24日までの期間開催されました。

丁度、若山武義氏の手記も、昭和戦後史を掲載中でもあり、昭和20年代の写真展はあまりなく関心がありましたので、期間中の6月23日に見てきました。
なお、この写真展の開催は、現在第2部の「ヒーロー・ヒロインの時代」では、力道山から長島茂雄、吉永小百合など、エネルギーにみちあふれた昭和30~40年代のヒーロー・ヒロインの姿を通じ、この時代を表現した展示が6月30日から8月19日まで開催中です。

また、第3部「高度成長期」昭和30~40年代 Part.2 が、8月25日~10月14日に開催され、第4部「オイルショックからバブルへ」昭和50年代以降 が10月20日~12月9日まで開催されます。

・写真展から見る「廃墟の時代」の想い
第1部の写真展示は、[パート1]「廃墟――焦土からの出発」の写真が27点あり、展示の写真の前に立つと、当時実体験の悲惨な姿が眼の前にありありと浮かんできて、しばしもの想いいに耽りました。
展示作品の中に、「敗戦の日の太陽、高田」(1945年8月15日)撮影の写真がありました。この写真を見て、すぐに、若山武義氏手記の、大森町大空襲爆撃で逃げまどって土手の上で、翌朝見た太陽の印象「ああ、深紅の太陽」(「大森町界隈あれこれ(15) 鎮魂!大森町大空襲(第9回)」参照)が浮かんできました。地球上で、どんなことがあっても、太陽はいつも同じ姿を見せます。
1945年8月15日は、関東は快晴で暑い太陽がじりじりと照り付ける中、私は疎開先の国民学校の校庭に集合して玉音放送を聞き、その時の照り付ける太陽が忘れられない記憶です。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) 天皇制の問題集 第4回

政治法律上の責任なし、道徳的に責任あり

しかも陛下に最後の叡才がないわけではなかった。日本が存亡の最後の関頭に立ち至った時、国民を滅亡の渕から救うため、御一身を以ってポツダム宣言の受諾を宣明されたと云うことは、私共にまだ生々しいことである。今次の大戦において、陛下に政治上、法律上の責任のないことは明白である。しかし、御聖代においてかくの如き大戦が起り、しかも開国以来完全なる敗北で国民を悲惨な状態に陥し入れたことについては、宗祖に対し、また国民に対し、道徳的、精神的な責任を最も強く感じていられるのはけだし陛下であらうと私は拝察する。諸臣は臣節を弁えず、責任をとらず、その中にあって陛下がその御自覚を持たるることは、けだし我国至高の道徳の表明であって、我々が国民の中心として皇室を尊崇して来た所以であり、今後祖国の再建の精神的礎石は一にそれにかけられているからである。
このことを更に十分に御自覚遊ばされ、静かに苦悩に堪えられて、この歴史的混乱の時代を、憲法の改正へ、更に能うべくんば平和条約の締結へと御躬ら尊き義務を果たされてあることを私は拝察し、陛下の御心事に涙なきを得ないのである。

「自由の国」の建設
降伏後八ヶ月半、連合軍の指令下とは云え、いかに多くの変革が今上陛下の時代において行われつつあることであろうか。我々は戦の敗れたことを悲しむよりも、新しい日本の胎動を瞠目して待つものである。然してそれは陛下本来の御意思、亦国民本来の要望の実現に外ならぬ。即ち平和国家、高遠な理想を自覚した文化国家の創設。再び大権の名に隠れて国民の自由と批判を猱 する余地と危険の見出されぬ民主国家。もはや人が人により抑制と圧迫を加えらるることなき「自由の国」の建設である。

これ、世界に伍して恥ずるなき完全なものまでこの国を高めんとする君民一致の悲願に外ならぬ。この為には、古きが故に保持されると云うのではなく、むしろ進んで惜しみなく放棄せんとして、これを御自身事実の上に証明されつつあるのか陛下であろうと存じ上げる。そこにいささかの不自然さもない。
近く新憲法が制定されよう。あくまだポツダム宣言の條章に従い、日本国民の自由の意志の表現によって出来たものでなければならぬ。今迄の大権の中の多くのものが削られても、なほ、日本国家構成の最高の実現、日本国民統合の象徴として、天皇は永久に維持されなければならぬ。
それは単なる天皇制護持ではないのである。我国の長い歴史において、民族の結合の本源においてそれを支持して来たものである。それは、君主主義対民主主義という対立を超え、一君万民、国民共同体そのものの本質としてである。

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風景・風物詩 旧東海道品川宿 タイムスリップまち歩き北品川宿(その4)

2007年07月09日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2007

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養願寺と虚空蔵横丁
大変と古い履物店の丸屋(地図案内図2参照)から旧東海道を南に進むと、養願寺に入る「虚空蔵横丁」に出ますので、その横丁を養願寺に向います。
養願寺(品川区北品川2-3-12)は、横町の道に面してすぐ右の本堂に通じており、山門も境内と云える場所もありません。1299年の開創と伝えられており、品川有形文化財になっている、銅造阿弥陀如来立像(1192年)、木造不動三尊像(1658年)が安置されてます。本堂に続いて「虚空蔵堂」があり、「品川の虚空蔵さま」と呼ばれて親しまれてきました。
虚空蔵尊(養願寺)は、東海七福神の布袋さまで、毎年4月7日と11月7日の大祭に開帳され、毎月7の付く日には縁日が開かれます。

      養願寺本堂          本堂提灯         仏像説明板


   虚空蔵横丁説明板        虚空蔵横丁道標

一心寺
一心寺(品川区北品川2-4-18) は、養願寺と顔を合わせる形になっており、養願寺から横丁を30mほど戻った旧東海道の道を挟んだ場所にある、成田山分身の不動明王が本尊で、「品川の不動さま」として知られた寺です。
1854年(徳安政2年)に大老職の井伊直弼公が縁起により、江戸台場の中心である品川宿において"鎮護日本" 、 "開国条約"、"宿場町民の繁栄安泰"の願いと霊験の悟りを元に開山され、町民代表によって建立されたと云われております。本堂は1884年(明治17年)に火事焼失しましたが、再建されて古くから延命・商売の神様と信仰されておりました。

      一心寺               一心寺本堂             一心寺由来

以前は、補陀落山 海晏寺(品川区南品川5-16-22)が江戸三十三観音札所でしたが、平成4年から一心寺が札所となりました。

                江戸三十三観音札所

竹屋横町と正徳寺
一心寺をから南に進むとすぐ「竹屋横町」で、目黒川本流(現在のなぎさ通り)に至る横町で、1800年ごろ品川宿を描いた『東海道分間延絵図』に記載がありますが、地名の由来については不明です。

   竹屋横町説明版           正徳寺            正徳寺山門          

正徳寺(品川区北品川2-7-26)には、竹屋横町から斜め先の参道を進むと山門で、入ると本堂が目に付き、境内には大きなイチョウの木があります。
浄土真宗・大谷派で1296年に僧 春応が開創したと伝えられており、幕末の住職の日記55册が保存されております。

東海道品川宿本陣跡
正徳寺参道を旧東海道に戻り、南に進むと東海道品川宿跡の聖跡公園です。

  東海道品川宿本陣跡説明版  品川宿本陣跡石標   本陣跡・聖跡公園説明版   

品川宿本陣跡(品川区北品川2-7-21)は、江戸時代に大名が宿泊する本陣を置いたところです。
幕府は、1635年(寛永12年)の武家諸法度で参勤交代を義務づけました。毎年下向する勅使・院使、あるいは将軍名代の大名や高家に、公用の旅行者などが加わり東海道の各宿を通ったので、品川宿は江戸に一番近い宿場なので、通行量が最も多かったところです。

・聖跡公園
1868年(慶応4年)に江戸を東京と改称する詔が出て、江戸は東京と定められ、改元が行われて明治元年となりました。改元により、天皇の京都から東京への行幸の第一回目が行なわれました。

 聖跡公園入り口     聖跡公園     御聖蹟説明版 

総勢3300人余りの大行列は、9月20日に京都を出発し、10月12日に川崎宿で昼食をとり、大森梅屋敷(「大森町界隈あれこれ 大森町風景 梅屋敷公園」参照)で休息後、午後3時頃に品川宿本陣に到着し、入り口に「行在所」と書いた高札を建てて宿泊しました。
翌年、天皇は再び東幸し、3月27日に品川宿に宿泊、東京城を改めて皇城と定め、東京遷都が行なわれ、2回の天皇の東幸によって、品川宿は周辺の村々とともに新しい時代の夜明けを実感しました。(品川歴史館から引用)

聖跡公園を後にして、北馬場通りを西に進み第一京浜国道に突き当たると、対面は大神輿の渡御が行われた品川神社(「風景・風物詩 天王祭 品川神社例祭(その1~2)参照」)です。
品川神社の「品川富士」は、1869年(明治2年)に品川宿内の富士信仰の講が築いたもので、江戸時代は品川沖の江戸湾から房州半島を一望する景勝地だったのです。
品川神社の前は、京浜急行電鉄の「新馬場駅」の北馬場口です。新馬場駅は、昔「北馬場駅」と「南馬場駅」の2つの駅を合体したものです。
旧の南馬場駅から青物横町にかけての、目黒川南岸は「南品川宿」として栄えておりました。第2編として、南品川宿編の掲載を予定しております。

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風景・風物詩 旧東海道品川宿 タイムスリップまち歩き北品川宿(その3)

2007年07月07日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2007

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法善寺
品海公園(地図案内図参照)から旧東海道を下ると直ぐ法善寺の参道で、参道を進むと法善寺正門脇に「品川小学校発祥之地」の石碑が建っています。
品川区で一番古い小学校の「 品川小学校」は、1874年(明治7年)に法禅寺で、それまでの私塾を引き継ぐ形で開かれました。 開校当時の名前は「第二中学区第六番小学品川学校」でした。

     法善寺正門      品川小学校発祥の石碑     法善寺本堂

法善寺(品川区北品川2-2-14)は、1384年の開創と云われ、本堂の等身大の本尊「阿弥陀如来坐像」は1705年(宝永2年)の安阿弥末流大仏師、大部の作であり、造高29センチの「法然上人坐像」は、室町時代から鎌倉時代の作者不明の像で品川区指定有形文化財です。

また、文化財の縦180、横157.5センチの釈迦誕生の絵「紙本着色釈尊誕生変相図」は神田宗庭貞信(1765~1800)の作で、神江戸期を通じ上野寛永寺の絵画役を務めた絵所で、貞信はその七世です。縦228.5、横127.5センチの「紙本着色地獄変相図」は、地獄での亡者の様相と阿弥陀如来の救済の情景を描いた絵で、品川宿で旅籠屋を営んでいた田村屋清七の筆になるもので、1828年(文政11年)に寄進されたもので品川区指定有形文化財です。
本堂の右には、結婚50周年を記念に奉納の布袋尊の石像(トップ写真)が鎮座してます。

・流民叢塚碑
1838年(天保4年)の天保大飢饉では多くの餓死者を出し、品川宿には農村などから流浪してくる者が多く、病や飢餓でたおれる人を法禅寺と海蔵寺に葬られました。
「流民叢塚碑」は、なくなった人たちを祀る供養塔であり、初めは円墳状の塚で、1871年(明治4年)に塚の上に、流民叢塚碑が立てられました。1934年(昭和9年)の境内整備の折、コンクリート製の納骨堂が建てられ、その上に碑が置かれました。

   流民叢塚碑説明板     流民叢塚碑     法善寺板碑説明板      古石仏

・法禅寺板碑(付 法禅寺遺墳碑)
板碑は、鎌倉時代から戦国時代にかけて造られた石造の供養塔で、関東を中心に広く分布しております。品川台場の築造の折りに、品川御殿山から宝篋印塔・五輪塔とともに出土したものの一部で、破片を含めて総数121基あります。
遺墳碑はその時の由来を記しており、最も古い板碑は1308年(徳治3年)で、最も新しいのは1490年(延徳2年)の銘が確認されています。

  法善寺末社         杉森稲荷鳥居     杉森稲荷社        

・大イチョウ
本堂の左手に品川区指定天然記念物の幹囲り3.4m、高さ25mで、推定樹齢400年の雌樹の大イチョウがあります。

    法善寺とイチョウ     樹齢400のイチョウ    法善寺のイチョウ説明板  

溜屋横丁と丸屋
溜屋横町は、法禅寺の斜め前から海岸へ出る横町で、利田新地へ渡る鳥海橋(後の品海橋)に海岸線で通じる横町です。

    溜屋横町説明板         丸屋丸屋履物店

溜屋横町から約100mくらいの旧東海道の右側に、大変歴史が古い丸屋履物店があります。
趣味の履物の丸屋(品川区北品川2-3-7)は、1865年(慶応元年)からの老舗で、現在のお店の建物は何時ごろ建てたのかは分からないほど古く、下駄や草履などの和物の履物を売っております。一人がやっと通れる路地を挟んだ隣のお店も、丸屋に劣らず大変古い建物のお店で、北品川の旧東海道沿いには古い建物のお店がかなり見かけられ、昔の感触が味わえます。

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風景・風物詩 旧東海道品川宿 タイムスリップまち歩き北品川宿(その2)

2007年07月05日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2007 京急普通電車の旅① 北品川・新馬場編(拡大)

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利田(かがた)神社と鯨塚
北品川宿(地図案内図参照)の台場横町を八ッ山通りへ進むと、北品川から立会川にかけての町並みは古い家を、あちこちで見かけます。陸続きの御殿山下台場に下って行く横町を、台場横町と呼んでいます。

   台場横丁説明板        横町の古い家1           横町の古い家2 

八ッ山通りに面した品川浦公園に接して利田神社があります。
利田神社(品川区北品川1-7-17)は、1626年(寛永3年)に、東海寺の沢庵和尚が弁財天を勧請したのが始まりといわれており、洲崎の弁財天と呼ばれて漁師町の守護神として祀られていました。歌川広重の「名所江戸百景」に、弁天堂が描かれております。


       利田神社              神社正門          神社本殿

利田神社にある鯨塚は、1798年(寛政10年)に江戸・品川沖に迷い込んだ体長17mほどの鯨を、品川州崎の漁師たちが総出で捕らえ、骨を埋めて葬って石碑が建てられておりす。当時の騒動を伝えた「かわら版」の写しが残されており、江戸市中で評判となり見物人が押しかけたそうです。時の将軍徳川家斉にも、芝の浜御殿(現在の浜離宮庭園)の沖まで鯨を曳いて行き、将軍に供覧したと云われております。

    利田神社の鯨塚          利田新地説明板    品川浦公園に接する船だまり

御殿山下台場(砲台)跡
御殿山下台場(砲台)跡へは、利田神社の前の路地を海寄りに進みますと台場小学校があり、この小学校の敷地を含めた陸続きの五角形の地形が砲台跡です。小学校の正門の脇に、台場跡から見つかった石垣を使って記念碑が建てられました。石垣の上に建つ灯台は、1870年(明治3年)に第二台場に造られた、日本で3番目の洋式灯台「品川灯台」を模したものです。実物の品川灯台は、重要文化財として愛知県犬山市の明治村に移設されています。

御殿山下砲台は、1853年(嘉永6年)に米国のペリーが4隻の黒船を率い、日本に開国を求め浦賀に来ましたので、江戸を守るため徳川幕府は品川沖から深川洲崎にかけて11の台場を作ることにしました。このうち、五つの台場は完成しましたが、残りは着工にも至りませんでしたので、陸続きの五角形の砲台を造り、これが御殿山下砲台です。
現在は、周囲が埋め立てられ姿を消しましたが、台場の輪郭は道として残りましたので、位置と形を知ることができます。台場小学校の敷地は、台場の半分程の面積を占めてます。

  御殿山下砲台跡説明板   砲台跡記念碑灯台      台場小学校

・黒門横町
御殿山下砲台跡を後にして、もと来た道を八ツ山通りに戻り台場横丁の南側に幅の狭い名も無い路地がありましたので、そこを突き抜けて旧東海道に戻りました。
この路地の交差点と台場横丁の交差点との中間点に第一京浜国道に抜ける横町があります。
この通りは、旧東海道から東海寺に至る道で「東海寺大門通り」と呼んでいました。寺の入口に黒塗りの大門があったことから「黒門横町」と呼ばれるようになりました。

品海公園「品川宿の松」
北品川宿まち歩きの次の行き先の法善寺に向う途中左手の品海公園(品川区北品川1-30)に、「品川宿 日本橋より二里・川崎宿へ二里半」の石標が建っており、日本橋から二里にあたります。
品川宿は東海道五十三次の最初の宿場町であり、旅人は品川宿を経由して西を目指し、また家路についた事から「東海道の玄関口」として栄え、宿内の家屋は1600軒、人口7000人の規模で賑わっていました。
2000年に品海公園を改修した記念に品川宿から寄付された松を、「街道松」として植樹しました。

    品川宿説明板   日本橋から二里の石標

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風景・風物詩 旧東海道品川宿 タイムスリップまち歩き北品川宿(その1)

2007年07月03日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2007

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北品川宿
大神輿が渡御(「風景・風物詩 天王祭 品川神社例祭(その1、2)」)した第一京浜国道沿いの品川神社からおよそ200m海岸よりに、並行して旧東海道が通っています。
京浜急行電鉄北品川駅から新馬場を経て青物横丁に至る旧東海道の周辺一帯は、江戸時代には日本橋に始まる東海道五十三次の第一番目の宿場町で、江戸の町人たちはこの品川宿で知人と旅の別れを惜しんだ昔を偲んで、先ずは北品川から新馬場までの北品川宿(地図案内図参照)を6月30日に歩いてみました。

北品川駅は第一京浜国道に接しており、南に進み踏切を渡る通りは「清水横丁」で、その先が江戸時代から同じ道幅の旧東海道につながっています。このあたりの町名や古いお社が路地に佇むのをみると江戸そのもので、百軒の旅籠が集まる宿場町へのタイムスリップです。
清水横丁の奥には『江戸名所図会』に磯の清水として紹介される名水の井戸があったと伝えられています。
・土蔵相模跡
旧東海道に突きあたると「土蔵相模跡」の石碑があります。この土蔵相模の大妓楼で、1862年(文久2年)に高杉晋作、伊東博文らが密議して英国公使館の焼き打ちを実行して幕末の歴史の舞台となったところです。

土蔵相模跡石碑  土蔵相模跡説明板     土蔵相模のあった場所

・問答河岸の碑
旧東海道を左折して品川方向に進むと、土・日・祝日の昼間のみ「品川名物堂」(あぶりや連)を借りて開いているしながわ観光協会案内所があります。ここでは、品川宿に関する資料がおいてあり、マップや刊行物が手に入ります。この案内所の辻向かいに「問答河岸の碑」があり、旧東海道のすぐ先が海であった時代に、徳川家光と沢庵が禅問答をしたところと云われています。

品川宿入り口石票 問等河岸跡石碑

・品川浦
問答河岸の碑の横丁の路地を進み八ツ山通りにでると、屋形船や釣り船のふなだまりの品川浦で乗船場が沢山あり、以前は漁師まちとして水揚げを誇り栄えていたところです。この水辺は、かっての目黒川の河口であり、荏原神社の北側を流れていたと云われます。

 品川浦ふなだまり拡大           拡大              拡大

・善福寺(北品川1-28-9)
八ツ山通りから横丁の路地をぬけ、再び旧東海道に入り左折すると他の横丁より広い大横丁にかかります。大横丁をすぎると、右手に善福寺の参道がみえるので善福寺の山門を潜る。この寺の始まりは1294年と古く、宗派は一遍上人がひらいた時宗寺院です。

    山門           本堂       本堂竜の彫り物      本堂こて絵 

本堂正面には、伊豆長八の作の漆喰壁に施された鏝絵で、見事な竜が描かれている。長八は、幕末から明治初期に活躍した左官工であり、1815年(文化12年)伊豆国松崎村明地に生まれ、生来の手先きの器用さから同村の左官棟梁関仁助のもとに弟子入りし、19才のとき江戸へ出て絵を狩野派の喜多武清に学びました。
かたわら彫塑の技を修めてこれを左官の業に応用し、漆喰を以て絵を画き或は彫塑して華麗な色彩を施し、新機軸をひらいてついに長八独特の芸術が完成しました。

   こて絵その1      こて絵その2    石造念仏供養塔  石造念仏供養塔説明板          

墓地の入口には、1658年(万治元年)造立の念仏供養塔があります。供養等は、笠塔婆型の塔で、当時の住職の想阿の指導のもとに、念仏講の人々が死後の往生菩薩を生前に祈り、供養などの善行を積むことを意識して造立したもので、江戸初期の民間信仰の資料として貴重なものです。
善福寺を拝観して、山門を旧東海道に戻り、台場横丁を通り八ッ山通り際の利田(かがた)神社に向かいました。

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