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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ 梅ちゃん先生時代の大森学園 終戦翌年に旧制中学の入学を迎えた混乱期の学び舎時代(3)

2012年08月04日 | 大森町界隈あれこれ 大森町学びや
kan-haru blog 2012 東京空襲により焦土と化した下町(wikipediaから)        

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第二次世界大戦突入
1939年(昭和14年)9月1日、ドイツ軍がポーランドへの侵攻が第二次世界大戦の始まりで、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告し、1940年に日独伊三国軍事同盟を結成して、1941年(昭和16年)12月8日に日本は真珠湾攻撃を行ってアメリカ・イギリスに宣戦布告し第二次世界大戦に突入しました。

 真珠湾攻撃に向かう零式艦上戦闘機(wikipediaから)

戦局は、1942年4月18日に空母ホーネットから発進した米陸軍の双発爆撃機ノースアメリカン B-25による東京への初空襲があり、日本軍戦闘機に追われて飛んでいく姿が報道されました。同年5月珊瑚海海戦までは有利に進行しましたが、同年6月のミッドウェー海戦では、日本海軍機動部隊の主力正規空母4隻と300機以上の艦載機を一挙に失い、太平洋戦争の転換点となりました。
1943年には、日本の前線が大きく伸びたため、兵士の補給や兵器の生産、軍需物資の補給に困難が生じてきて、日本軍は次第に後退を余儀なくされていきました。

 昭和17年東京への初空襲の双発爆撃機B-25(wikipediaから)

・金属供出
世界大戦の戦局の悪化で、武器生産に必要な金属資源の不足を補うため、1944年(昭和19年)9月には東京都で金属非常回収工作隊が結成され、全ての役所と国民学校・中学校の暖房器機から二宮尊徳像まで回収対象となり、家庭の鍋釜・箪笥の取手・蚊張の釣手・店の看板なども回収されました。また、同年11月には「まだ出し足らぬ家庭鉱」のスローガンのもと回収が強行され、火箸・花器・仏具・窓格子・金銀杯・時計側鎖・煙・置物・指輪・ネクタイピン・バックルに至るまで回収されました。宗教施設でも例外なく寺の梵鐘が供出され、地方鉄道の複線の線路も対象となり複線の鉄道線路が単線となりました。さらに、戦勝記念の銅像や、戦没者慰霊のために献納された砲弾等の鉄製品も全て供出されました。

 金物供出(左:昭和16年9月に供出された犬山高等女学校の門、右:昭和17年9月に供出された小諸市本町すずらん灯)

・学童疎開
政府は1944年(昭和19年)6月、閣議により学童疎開促進要項を決定し、疎開区域の東京都の区部、横浜市、川崎市、名古屋市、大阪市、尼崎市、神戸市、と門司、小倉、戸畑、若松、八幡の各市にある3年生以上の国民学校初等科の子どもたちを疎開させることになりました。学童疎開の実施は、縁故疎開が原則で、縁故疎開ができないものは集団疎開が行われました。さらに、1945年(昭和20年)3月からは疎開政策が徹底化され、1、2年の児童もふくむ全員疎開が目標となり、敗戦までに集団疎開した児童は約45万人に達しました。
集団疎開の疎開先は農村部の寺院や旅館などで、集団生活では、食糧難や親元を離れた生活不安や、農村との生活習慣の違いなどでいろいろな混乱がおきました。大森第1国民学校の疎開先は、当初静岡県でしたが、戦局が悪くなり富山県に移りました。

 調布の昌翁寺に来た赤坂区の青南国民学校の学童疎開児(調布市立中央図書館から)

筆者は5年生で、縁故疎開を選択し、最初は筑波山の北方の茨城県の岩瀬町に間借りして、岩瀬第2国民学校に縁故の縁で近隣の仲間と下駄履きで通いました。

 縁故疎開地説明図

やがて、日本本土決戦の戦闘準備の陣地構築のため、日本陸軍の戦闘部隊が派遣され岩瀬第2国民学校に寄宿しました。一方、特攻隊百里基地(現在の茨城空港)には米艦隊が接近し、鹿島灘沖よりグラマンP-51戦闘機などか襲来するようになり、国民学校の校庭に機銃掃射が浴びせられ、校庭横の森影に避難をするようになりました。

 縁故疎開最初の茨城県岩瀬町の岩瀬第2国民学校

翌年、岩瀬からあまり距離は離れていませんが、栃木県物部村の親類の家に移り、物部国民学校に家から素足で通い、学校に付くと留守家族の農家に出向き田の草取りの勤労奉仕をしました。

 縁故疎開の2番目は栃木県物井の物部国民学校

・大森町大空襲
1944年7月にサイパン島が、同年8月にテニアン島とグアム島が連合軍に占領され、大型爆撃機の発着可能な滑走路を建設し、日本の東北地方北部と北海道を除く、ほぼ全土がB-29の航続距離内に入り、本土空襲の脅威を受けるようになり、同11月24日には111機のB-29が東京の中島飛行機武蔵野製作所を爆撃し、本土空襲が本格化しました。1945年2月までの爆撃は、毎回70-80機程度を出撃させ、東京や名古屋の軍需工場や港湾施設を目標とした通常爆弾による高高度の戦略爆撃が続けられました。1945年2月25日の爆撃では、229機が出撃して、爆撃目標を市街地とし使用弾種の9割を焼夷弾により、神田駅を中心に広範囲が焼失しました。同年3月10日には、325機のB-29爆撃で、夜間に超低高度で木造家屋が多数密集する、浅草・江東の下町の市街地を焼夷弾攻撃して焼き尽くしました。

 焼夷弾を投下するB-29戦略爆撃機 (wikipediaから)

爆撃は、その後も続き、4月13日には王子・赤羽地区を中心とした城北地域が、翌15日には大森・蒲田地区を中心とした城南地域が空襲を(「大森町界隈あれこれ 大森町大空襲から67年 ガス会社、特殊鋼、森ヶ崎一帯を除いて一面の焼け野原その1」参照)受け、約22万戸もの家屋が焼失しました。また、父と職場が一緒の同僚の若山武義氏が産業通り際の勤務地を守り、爆撃に遭遇して被災に会い命からがら森が崎に逃げた生々しい手記(「大森町界隈あれこれ 鎮魂!大森町大空襲(第6~11回)」参考)をご参照下さい。
大森町大空襲の被災現場写真は、石川光陽氏の撮影された1942年(昭和17年)8月18日の東京初空襲から、1945年(昭和20年)5月25日の山の手地区空襲までの間の東京空襲の有様を地上からの被災現場写真を撮影して編集発行した、「<グラフィック・レポート>東京大空襲の全記録」岩波書店1992年3月10日発行の図書が、現存する唯一の貴重な記録資料です。同書の大森町大空襲の被災現場写真(4月16日撮影)には、(1)大田区大森6丁目付近の焼け跡1(同書115ページ掲載)、(2)大森警察署前で配給の乾パンを積み込む(同書115ページ掲載)、(3)大田区大森6丁目付近の焼け跡2(同書116ページ掲載)、(4)大田区大森3丁目付近(同書117ページ掲載)、(5)蒲田警察署前通り(同書116ページ掲載)などの学童疎開前に目の当たりにした所の瓦礫の山となった被災現場写真の掲載説明(「大森町界隈あれこれ(23) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第2回)」参照)が記述されておりますので、ご覧ください。

・第2次世界大戦敗戦
夏休みの1945年(昭和20年)8月15日正午に物部国民学校に集合するようにとの召集により集まると、真夏の暑いかんかん照りの校庭に生徒を並ばせ、小型のラジオの放送を聞かせられました。この放送が、天皇の肉声により日本の全国民に日本が戦争に負けたというNHKラジオ放送ですが、ラジオの傍にいる僅かの者しか放送は聞くことができず、終了後の解散で帰ってから、家族から戦争に負けたと知らされました。敗戦により、同年9月頃に東京に帰りました。終戦により集団疎開からの引き揚げは、空襲で親や家を失しなった児童も多く、敗戦から3カ月を経過した1945年(昭和20年)11月になりました。

 降伏文書に調印する日本全権の重光葵外務大臣 (wikipediaから)

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大森町界隈あれこれ 梅ちゃん先生時代の大森学園 終戦翌年に旧制中学の入学を迎えた混乱期の学び舎時代(2)

2012年07月29日 | 大森町界隈あれこれ 大森町学びや
kan-haru blog 2012 内川上流から見たガスタンク       

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NHK連続ドラマの「梅ちゃん先生」がスタートした、1945年(昭和20年)8月15日の終戦前には、学童疎開で茨城県・栃木県の国民(小)学校に通っていました。疎開先での国民学校では戦時教育で、ほぼ毎日、田んぼで草とりや山に入ったりして、まともな勉強をした記憶がありません。今回は、大森町に転居して住み始めてから、大戦により学童疎開をするまでの、大森町での生活(説明地図1に居住の時代)を追ってから、疎開時代の大森町から隔離した時間を飛ばして、疎開地から東京に引き揚げた後の、梅ちゃん先生時代の背景の大森町(説明地図8に居住の時代)での生活を追って、大森町の変遷を見てみます。

 戦中・戦後の大森町説明地図

戦時経済下の大森町
1938年(昭和13年)に大森町に転入して、産業通りの大森区役所筋向いの会社事務所(地図1)の2階が大森町の住民としての最初の住居です。

 事務所2階が大森町転居の住居(左・中:昭和13年頃、右:昭和18年頃)

住居前産業通りの筋向いには、迷彩色を施した大森区役所(地図2)が聳えており、1940年(昭和15年)に区役所が移転して、美原通りにあった大森警察署(地図4)が移ってきました。産業通りは、北方で第1京浜国道と美原通りとの4差路交差点で結ばれており、その4差路の交差点中央には1944年(昭和19年)までは丸いロータリーが設けられており、中央は草地でバッタやトンボが飛んでおり、こっそりと学童仲間での遊び場でした。

 迷彩色の大森警察署(大森区役所)(左:昭和45年頃、右上:昭和45年頃、右下:昭和55年頃)

大森区役所の北隣は、大森消防署(地図3)があり火の見櫓が立ち、常時火の番が見張りをしていました。

 大森消防署(左上:ラジオ体操昭和17年頃、左下:大森警察署屋上から4差路の交差点を望む昭和36年頃、右:ラジオ体操昭和17年頃)

昔の大森町には、古くから設立の日本特殊鋼や東京ガス会社があり、ガスタンクが見える街として通っております。住居2階の物干し台から東方を見ると、2基のガスタンクが見え右側は閉鎖式のタンクで、左側にはオープン式のタンクが見え、このタンクは毎日朝は満杯で、夕方は消費した姿を現しています。

 東京ガス会社のガスタンク(左:昭和30年頃、右:戦前)

大森町の美原通りや第1京浜国道および澤田通りに沿った京浜急行の学校裏(平和島)駅や山谷(大森町)駅付近には、映画館・会館(地図A)および魚市場(地図9)などがあり、大森区の中心街でした。なお、当時は澤田通りは第1京浜国道が終点であり、春日橋で国鉄線とは立体交叉をしており、今日の環7通りの前身です。また、学校裏駅は戦後、環7通りの北方に移転しました。

 学校裏駅と澤田通り(左:学校裏駅昭和34年、右:澤田通りは第1京浜国道で終点昭和29年)

1939年(昭和14年)に氏子の諏訪神社(地図5)隣の日新幼稚園(地図6)に入り、翌1940年に大森第1小学校(地図7)に入学し、当時は、人口が多く新入生は男児が3組、女児が3組の編成で、1組の人員も写真に示す様な大人数で、1年2組に入学しました。2年生から戦時体制が強まり国民学校令が施行されて、大森第1国民学校と名前が変わりました。

 諏訪神社隣の日新幼稚園(左:遠足に出発、右:園内で相撲大会昭和14年)

当時の国民学校の目的は、「國民學校ハ皇國ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ國民ノ基礎的錬成ヲ為ス」ことでありました。1941年(昭和16年)12月8日に世界大戦に突入し、戦局が落ち目となった1944年(昭和19年)に産業道路の防火帯にかかる建築物を撤去する建物疎開(強制疎開)により転居となり、東京ガス大森工場裏の同社事務所に移り仮住居(地図8)としました。日本政府は同年8月に連合国軍による本土空襲の可能性が高まり、「縁故者への疎開」と学校毎の集団疎開(学校疎開)の学童疎開が行われたので、茨城県岩瀬町に縁故疎開をしました。

 大森第1小学校入学(筆者後列左から5番目)

戦時中の日本は、日中戦争長期化によって物資欠乏により、1938年(昭和13年)4月に公布された国家総動員法が制定され、広く生活必需品が配給制になり、特に市民生活に大きな影響を与えた綿衣料品の切符配給制は1939年(昭和14年)に始まりました。この年を最後に、街のお菓子屋さんでチョコレートが店から姿を消し、始めのうちは色も形も味もすっかりと変わった、チョコレートの紛い品が登場しましたが、それも姿を消しました。街の食堂での食事は、数に限りのある代用品の食事が食券が無いとたべられません。
世界大戦ではますます日常生活物資の不足を招き、1940年(昭和15年)に砂糖とマッチが、1941年(昭和16年)に主食である米穀・小麦粉が、1942年(昭和17年)には味噌・醤油などが切符配給制となりました。小学2年生になると、ゴムが不足して柔らかなゴムまりが、クラスで抽選で配給され当たりましたが、いつの間にかとられて無くなりました。
戦争の激化は生活必需物資の生産力が不足し、配給量自体も不足し、その後すべての生活物資は闇で購入する以外は手に入らない時代となり、市民は食料の買い出しに行かざるを得ない状態でした。

 配給切符・通帳(左:衣料切符、中:米穀通帳、右:家庭用塩購入券)

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大森町界隈あれこれ 梅ちゃん先生時代の大森学園 終戦翌年に旧制中学の入学を迎えた混乱期の学び舎時代(1)

2012年07月16日 | 大森町界隈あれこれ 大森町学びや
kan-haru blog 2012 0727一部変更      

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大森学園同窓会
平成24年度大森学園同窓会(大田区大森西3-2-12)もりこう会の総会が6月30日午後4時から、教室棟3階会議室で開催され、同5時半から懇親会が教室棟8階パノラマラウンジで開催されましたので、出席しました。
総会では、大谷会長挨拶、畑澤学校長挨拶の後、平成25年度からの会報発行の改正、会則の改正、役員改選などが行われ、会員の承認で成立しました。

 もりこう会総会(写真拡大)

懇親会
総会終了後、パノラマラウンジにて懇親会が行われ、勝島広報委員長の開会の辞、安達教頭先生の挨拶に続き、乾杯後近況報告や懐かしい懇談の輪ができ盛り上がりました。

 懇親会風景(左上・中上右上左下中下右下写真拡大)

今年は、もりこう会会報VOL.42の卒業生便りに、「NHK連続テレビ小説『梅ちゃん先生』時代のもりこう」をタイトルとした記事の投稿がありました。それらをきっかけに本年度の同窓会では、梅ちゃん先生コーナーを作ることになり、興味をお持ちの同窓会員の方多数がパンフレットをお持ち帰りになりました。

 梅ちゃん先生関連パンフレット(:NHKステラ[梅ちゃん先生]、:梅ちゃん先生蒲田マップ大田観光協会、:梅ちゃん先生イベント情報大田観光協会)

会報「もりこう」投稿記事
もりこうへの投稿記事の「NHK連続テレビ小説『梅ちゃん先生』時代のもりこう」は、4月2日から放映開始の2012年度上半期に、NHKが総合テレビジョンとBSで放送する連続テレビ小説・第86シリーズの作品が、第二次世界大戦末期の空襲(京浜空襲昭和20年4月15日)により焦土となった東京都蒲田区を物語の出発点とし、下村梅子が(学制改革前の)旧制医学専門学校に入学し、地域の人たちの支えによって町医者となって、戦後占領期から高度経済成長期を生きていくという物語です。梅ちゃん先生が通っていた女子医専のモデルは、昔は大森第三尋常小学校に隣接していました。
投稿記事は、昭和20年8月15日世界大戦が終戦の年の秋に学童疎開から、東京に引き揚げて東京ガス大森工場裏の寄合所帯の住宅に仮住いして、爆撃で灰燼の母校大森第1国民学校が大森第5国民学校に居候した中で通学し、翌年3月に卒業証書も成績書の授与も無く卒業しました。そして、同年4月に焼失のため大森9丁目の元山中電機工場跡の5年生旧制中学の大森工業学校の電気科に入学して、東京ガス大森工場裏からガス会社に沿って運河沿いに、旧呑み川を渡り5~6人の学友と通学しました。

 (左:もりこう会報表紙、右:投稿記事の一部[投稿記事PDF])

では、終戦の秋に東京に引き揚げ、ガス会社裏の仮住居に生活を構えた頃の、梅ちゃん先生の時代の背景の大森町の様子がどんな状況であったかを説明地図にて再現すると、入新井の一部に住宅が残存する他は見渡す限りの焼け跡で、蒲田付近まで見渡せました。工場は、東京ガス会社大森工場と日本特殊鋼は爆撃が避けられて無事でした。学校関係では、大森第5国民学校が唯一焼け残りました。京急の駅は、沢田通り(現環7通りの一部)の南側にあった学校裏(現平和島)駅、大森山谷(現大森町)駅とも焼失しましたが、学校裏駅は現在の平和島駅の場所にバラック駅で営業再開しました。なお、戦前の住居地は、戦中に建物強制疎開により取り壊されました。
捕虜収容所は、戦中には連合軍の捕虜を収容していましたが、戦後は日本の戦争犯罪者が収容されていました。

 昭和20年4月の爆撃で焼け野原の大森町北部周辺説明図

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大森町界隈あれこれ 大森町学びや 60年前の高校時代の関西修学旅行を追想するその3

2011年05月09日 | 大森町界隈あれこれ 大森町学びや
kan-haru blog 2011 加茂川            

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第2日目の旅行行程(3)
石山寺、三井寺のある琵琶湖西南の大津は、修学旅行の栞に「昔の滋賀の都(天智弘文帝)のあった所で、“さざ波や滋賀の都はあれにしを昔ながらの山桜かな”(平忠度)、今(1951年当時)は人絹工業の盛んな所である」と書かれています。大津での次の見学の行き先は、京阪電気鉄道石山坂本線(石山寺-坂本間14.1km)の終点駅の坂本駅で、比叡山の麓の日吉神社から、山を登り延暦寺へと向かいます(第2、3日行程地図参照)。

 日吉神社、延暦寺、比叡山地図

・日吉神社
日吉神社は、修学旅行の栞に「崇神天皇の世創建、大山咋命を祀る、延暦寺の鎮守神と定めた。叡山の僧徒が当社の御輿をかつぎだして朝廷に強訴した事は有名である。日吉造という特別の建築である」と書かれています。日吉神社へは、京阪電気鉄道坂本駅を下車して、通りを西に進み早尾神社を右に曲がり、大宮川にかかる二宮橋脇の橋を渡り直進すると大山咋神を祀る東本宮で、大宮橋を渡ると大己貴神(大国主神)を祀る西本宮へ向かいます。日吉大社(滋賀県大津市坂本5丁目1-1)は、西本宮と東本宮を中心に、400,000m²の広大な境内を持ち、東本宮は崇神天皇7年に牛尾神社の里宮として創祀されたものと伝えられています。最澄が比叡山上に延暦寺を建立し、比叡山の地主神である当社を、天台宗・延暦寺の守護神として崇敬しました。1571年(元亀2年)に、織田信長の比叡山焼き討ちにより日吉大社も灰燼に帰し、現在見られる建造物は安土桃山時代以降に再建されたものです。
東本宮本殿は、1595年(文禄4年)の建立で、建築形式は西本宮本殿に似ており、昭和初期までは「大神神社本殿」と呼ばれていました。

 東本宮本殿(左)と本殿背面(右)

西本宮本殿は、1586年(天正14年)の建立で、檜皮葺きの屋根形式は「日吉造」と云い日吉大社特有のものです。正面から見ると入母屋造に見えるが、背面中央の庇部分の軒を切り上げ、この部分が垂直に断ち切られたような形態(縋破風)になっているのが特色です。

 西宮楼門(左)と西本靄本殿(右)

・延暦寺
日吉神社を見学して早尾神社に戻ると、その先の延暦寺学園比叡山高等学校の角は、比叡山鉄道坂本ケーブルのケーブル坂本駅です。坂本ケーブルは、1927年(昭和2年)に開業、1945年(昭和20年)に旅客営業を休止し、1946年(昭和21年)に運行が再開されました。延暦寺には、坂本ケーブルで高低差が484 mで、延長は2,025 mを登りケーブル延暦寺駅から、標高848mの比叡山全域を境内とする次の見学の延暦寺です。
修学旅行の栞に延暦寺は「延暦年間、僧最澄の開祖した寺で天台宗の本山。盛時には三千余りの僧坊を有し、僧兵を蓄え其の勢力は、後白河法王をして「山法師」と嘆を発せしめた程であった。平安以後の名僧は皆ここで修行を積んだものである。大講堂、戒檀院、弁慶の力水、叡山最初の道場で「消えずの灯」輝いている」と書かれています。
延暦寺(滋賀県大津市坂本本町4220)へは、ケーブル延暦寺駅を降りて坂道を登って行きます。延暦寺までの途中で、眼下に琵琶湖が見ます。当時は、現在の様にデジカメなど無く、カメラは大変と貴重なものでした。旧友のY君のお父さんはカメラ関係のお仕事で、カメラを持参してきましたので、修学旅行初めての写真の琵琶湖風景を写しました。当時のカメラは、フイルムのため撮影枚数にも制限がありました。

 延暦寺より琵琶湖を望む(Y君持参のカメラで60年前の昭和26年11月27日撮影 拡大)

U字形の坂道を上がり詰めたところから、左に曲がり直線の階段を下りると比叡山延暦寺本堂(根本中道)です。

 根本中道S君[左]Y君[右](Y君のカメラで筆者が撮影拡大S261127)

根本中堂(国宝)は、最澄が建立した一乗止観院の後身であり、全山の総本堂です。織田信長の焼き討ち後、徳川家光によって1642年(寛永18年) 再建され、中央の厨子には最澄自作の本尊薬師如来像が祀られており、厨子前の三つの灯籠は、最澄が灯した灯明を継いで来たもので、1200年間、消えることなく灯り続けている「不滅の法灯」です。

 根本中堂

根本中堂から戻り右に曲がると大講堂で、1634年(寛永11年)の建物ですが、1951年(昭和26年)に火災にあい、現在の建物は1964年(昭和39年)に比叡山東麓・坂本にある東照宮の讃仏堂を移築したものです。大講堂の西側の丘の上に建つのは戒壇院で、最澄(伝教大師)が建立すべく心血を注がれた天台宗の僧侶に大乗戒を授ける、比叡山中で最も重要なお堂です。最澄が生きている間には許可が出ず、1年後に後継者の義真(初代天台座主)により最初の大乗戒が授けられ、5年後に創建されました。現在の建物は1678年(延宝6年)に再建されたもので、内陣に得戒和尚、釈迦牟尼仏と文殊・弥勒の両菩薩が祀られています。

 大講堂(左)と戒壇院(右)

・京都入り
延暦寺の見学が済み、薄曇りですが幸いと天気には恵まれ、これからピクニック気分で叡山越えですが、ここで持参の3食目の弁当で昼食です。食事が済み夜行の寝不足と疲れを癒して、これから京都入りして1泊目の旅館の宿泊です。比叡山の登山道を、叡山ケ-ブルのケーブル比叡駅までの下り道を行進です。叡山ケ-ブルは、1925年(大正14年)に京都電燈が叡山鋼索線として八瀬(当時は西塔橋駅)とケーブル比叡(当時は四明ヶ嶽駅)間の高低差が561mで、延長は1.3k mを開業し、1944年(昭和19年) に大戦で休止し、1946年(昭和21年) に運行を再開しました。
ケーブルを降りると、京都市左京区にある叡山電鉄叡山本線の終着駅の八瀬(やせ)比叡山口駅から出町柳駅まで乗車して、そこから京阪電気鉄道で当時は路面駅の三条京阪駅までの乗車です。京都での宿泊は三条通りに面したいろは館です。現在は、同場所にいろは旅館とホテル・イロハが営業しています。旅館の夕食までには、若干の時間がありましたので、高校生には牛若丸で有名な五条大橋まで散策にでかけましたが、三条大橋のほうが立派でした。

 三条通りのいろは館(左)と五条大橋(右)(昭和26年11月27日撮影)

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大森町界隈あれこれ 大森町学びや 60年前の高校時代の関西修学旅行を追想するその2

2011年05月06日 | 大森町界隈あれこれ 大森町学びや
kan-haru blog 2011 紫式部源氏の間           

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第2日目の旅行行程(2)
1951年の修学旅行は、当時は大森高等学校(新制高校)の昼夜間3年生との合同旅行であり、引率は佐成先生と島田先生の総勢36名でした。石山駅を降りて石山寺への歩行行程は、石山寺の開門が午前8時であるので、琵琶湖(瀬田川)周辺の風景を楽しみながら持参の2つ目のお弁当を公園で開いて朝食をとりました。

 石山寺付近地図

・石山寺
修学旅行の栞に書かれた石山寺には、「観音をほおむる源氏の間、観月亭等見るところが多い、全山書かれた 山を以ってたたれ石山寺の名がある」とあります。
開門を待って、1190年(建久元年)の建立の瓦葺きで入母屋造の参道入り口の東大門を入り、修学旅行最初の寺社見学です。東大門からまっすぐに伸びる境内の参道を進むと、石山寺(滋賀県大津市石山寺1-1-1)は、開基は良弁で747年(天平19年)の創建の東寺真言宗の寺で、寺院は山の上に建ち、本堂へは石段の参道を登って行きます。石段を登ると右手に1773年(安永2年)に建立の兜跋毘沙門天を本尊とした毘沙門堂で、正面には国の天記念物に指定の珪灰石という巨大な岩盤があり、「石山」という名称はこの硅灰石に由来しています。毘沙門堂の対面には硅灰石の崖にせり出しで慶長期に建つ蓮如堂があります。

 石山寺東大門(左)と珪灰石と多宝塔(右)

蓮如堂の右に並んで建つのは本堂(国宝)で、1078年(承暦2年)の火災焼失後、1096年(永長元年)に再建されたもので、本尊は木造如意輪観音半跏像で、厨子に納められている秘仏です。本堂の構造は、正面が7柱間隔で奥行きが4柱間隔の「正堂(しょうどう)」と、正面が9柱間隔で奥行が4柱間隔の傾斜地に建つ懸造りの「礼堂(らいどう)」の2つの寄棟造建物の間を、奥行が1柱間隔の「会の間」で結んだ複合建築です。

 石山寺本堂(左)と懸造り霊堂(右)

会の間の東端は、「紫式部源氏の間」と称され、執筆中の紫式部の像が安置されています。
珪灰石の脇の石段を登ると多宝塔があり、1194年(建久5年)の建立で内部には快慶作の大日如来像を安置し、滋賀県下最古の建築です。後白河上皇の行幸に際して建てられたといわれる月見亭は、多宝塔の先を進み最奥の高台にあり、そこからはるかに琵琶湖を望みながら眺める」瀬田川の風景は絶景です(フォト蔵、西国第十三番石光山石山寺、日本隅々の旅全国観光名所巡り&グルメ日記参照)。

 源氏の間(左)と月見亭(右)

・三井寺
修学旅行の栞に書かれた2つめの見学場所の三井寺には、「弘文天祖帝の御所跡を寺とした、この智証大師の時、大いに栄え一時八百坊の像徒を蓄え、延暦寺と勢力を争った」とあります。
三井寺(大津市園城寺町246)は、正式には「長等山園城寺(おんじょうじ)」といい、天台寺門宗の総本山で、山号を「長等山(ながらさん)」と称し、開基(創立者)は大友与多王、本尊は弥勒菩薩であり、日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三箇所観音霊場の第14番札所であります。また、近江八景の1つである「三井の晩鐘」で知られています。
石山寺からは京阪電気鉄道石山坂本線の起点駅の石山寺駅で乗車して、三井寺駅で下車します。2つ目の三井寺の参拝は、三井寺駅からは反時計廻りに周遊して、信号を左折して広大な境内地北端にある大門(仁王門)から入ります。

 三井寺拝観見学地図

仁王門は、もと近江の常楽寺(滋賀県湖南市)にあった門を1601年(慶長6年)に徳川家康が寄進したもので、室町時代の1451年(宝徳3年)の建立と推定されています。大門を入って金堂に至る道の右側にある釈迦堂は、16世紀末 (天正年間)造営の御所清涼殿を下賜され移築したものと伝えられています。

 大門(左)と釈迦堂(右)

金堂(国宝)は、三井寺再興を許可した豊臣秀吉の遺志により、高台院が1599年(慶長4年)に再建した、入母屋造、檜皮葺きの和様仏堂です。金堂の左手前にある「三井の晩鐘」で知られる梵鐘を吊る鐘堂です。この梵鐘は1602年(慶長7年)の鋳造で、日本三名鐘に数えられています。

 金堂(左)と晩鐘(右)

三重塔は、鎌倉時代末期から室町時代初期の建築で、奈良県の比曽寺にあった塔を豊臣秀吉が伏見城に移築したものを、1601年(慶長6年)に徳川家康が再度移築させたもの。毘沙門堂は、1616年(元和2年)の建立と伝えられている観音堂の近くにある小堂です。

 三重塔(左)と毘沙門堂(右)

・琵琶湖疏水
三井寺を見学した後に、境内を出て塀沿いに南下して三井寺の下を流れる、第1流水の琵琶湖疏水のトンネルを見学しました。琵琶湖疏水とは、琵琶湖の湖水を、三井寺の下を通り京都市へ通ずるために作られた水路(疏水)で、禁門の変で市中の大半が焼け、明治維新と東京奠都に伴い京都市は人口が減少し産業も衰退したため、第3代京都府知事の北垣国道が灌漑、上水道、水運、水車の動力を目的とした琵琶湖疏水を計画。主任技術者として、大学を卒業したばかりの田邉朔郎を任じ設計監督にあたらせて、第1疏水は1885年(明治18年)に着工し、1890年(明治23年)に大津市三保ヶ崎から、鴨川合流点までと蹴上から分岐する疏水分線が完成しました。
琵琶湖疏水のトンネルを見てから、トンネルにに流れる第1流水路に沿って京阪電気鉄道石山坂本線の三井寺駅に戻り、次の見学先の比叡山へと京阪電気鉄道終点の坂本駅まで乗車しました。

 三井寺の境内の下を流れる琵琶湖疏水とトンネル入り口

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大森町界隈あれこれ 大森町学びや 60年前の高校時代の関西修学旅行を追想するその1

2011年05月03日 | 大森町界隈あれこれ 大森町学びや
kan-haru blog 2011 歌川広重 近江八景之内(保永堂板)石山秋月          

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60年前の高校修学旅行
物入れを整理していると、茶色にやけたざら紙の「修学旅行の栞 (しおり) 1951. もりこう」と書かれたガリ版摺りの冊子が出てきました。このしおりは、今から丁度60年前の1951年(昭和26年)に高校3年生の修学旅行用に、大森工業高等学校で作ってくれた学習資料で、大変と懐かしい思いで読み耽りました。丁度60年前の修学旅行の想い出がよみがえってきました。
高校は工業系の学校ですが、当時の校長は以前に関西に住まわれており文化や歴史の造詣が深く、文科系の学習科目が少ない生徒にこれを機会に歴史文化を伝えようと、修学旅行の1月前から週の1、2回を割いて特別の講義をして頂いた時の副読本でした。

 60年前のガリ版擦りの修学旅行の栞

今昔の高校修学旅行
・米持参の修学旅行
60年前の旅行と今日の旅行を比べると、いろいろと違いがあり当時はアナログ的な旅行であり、現在はデジタル時代です。ここで、当時のアナログ的修学旅行を、現在のデジタルに変換して追想してみたいと思います。
60年前の1951年は世界大戦終戦からまだ6年目で、1940年(昭和 15年)に開始された米や麦などの主要食糧の配給・消費規制は太平洋戦争と敗戦後に強化され、1941年にはこの配給量の不足分を補う為のパン、ウドン、ソバなどの食料品の入手も可能でしたが、その後日常生活に欠かせない生活物資はすべて配給制となり、主食の米に次いで調味料、魚介類、肉はもとより野菜まで、口に入る物は全て配給制度に組み込まれたので、余分な食料品の入手ができなくなりました。
1943年に主食の配給は二合七勺から二合五勺に減らし、戦局はまったく絶望的となり満州や朝鮮からの食糧輸送路も切断されて1945年5月には二合三勺に減り、同7月には二合一勺(297グラム)に減少しました。戦後の同8月には、物資は無く食糧難で配給の時代が続き国民の食糧不足は極度に深刻化し、生きるためのヤミの買い出しが激増しました。
飲食物は国鉄(現在のJR)の駅前の露天の闇市では闇料金で売っていましたが、学生や生徒は近づけないところです。この時代に修学旅行などで旅館に宿泊する場合には、主食配給のお米を持参する時代が戦後も10年以上にわたり続きました。半世紀前の修学旅行では、3泊の旅館に米一升六合五勺を持参して、その他に弁当が第1日目の夜食と第2日目の朝・昼食用の3食の他、第六日目の朝食代が徴収されました。
その後も、高校修学旅行の4年後の大学研修旅行でも米を持参して、社会人となり仲間と登山で山小屋に泊まるにも当時は米持参で余計な荷物を担いで歩いたのです。1981年になり、やっと配給制度が無くなりました。

 米穀通帳(昭和16年の出来事1941から)

・列車は夜行鈍行の3等車
関西への修学旅行の行程は、京都、奈良、吉野の旅館に泊まり、往復は2泊の車中泊で、1951年10月26日(金)の14時28分発の3等鈍行列車は門司行きであったと思います。
当時の3等級列車の3等車とは現在の普通車のことであり、2等車とは今のグリーン車で、1等車は日本の国鉄時代に、東海道本線・山陽本線の特別急行列車の最後尾にオープンな展望デッキを設けた展望車が接続され、1960年まで使用された一等客専用の列車でした。ちなみに、1956年の東京~大阪間の運賃・料金は、1等が4160円で、 2等 が2080 円で、3等が870円ですが、修学旅行は学生割引の運賃が適用されました。また、当時の物価は、白米(10Kg)765円、そば20円、あんパン12円、山手線初乗10円で、大工の手間賃が730円、教員の初任給は7800円でした。

 当時と同系の3等普通列車

当時の夜行鈍行の3等列車には複数校の修学旅行校が乗り合わせた混成列車で、列車の照明は白熱電球であり、座席シートの背もたれは木製で垂直でしたが、若い時代でしたので垂直でも苦痛は感じませんでした。東京駅を出発して2時間半を過ぎた頃、3食分持参した弁当の1つを開けて、初めての列車に揺られながらの夕食をとりました。
当時の東海道本線は東京~米原間で電化されており、米原~京都間の電化の開通は1956年(昭和31年)11月でした。

 3等鈍行列車は垂直な木製背もたれのシート

往路の列車は東京駅を14時28分に発車して、第2日目の下車駅の石山駅には3時40分着で13時間12分の乗車の鈍行夜行列車です。なんとこの時代は、大阪までは特急でも8時間半もかかっていました。シートが同じ生徒同士は、会話をしたりふざけあったり、鈍行で停車する駅の風景を眺めたりして、やっと下車駅の石山駅に着きました。当時は100キロほどの遠足・旅行には、夜行列車を利用していましたので、夜の列車には慣れていました。
次に掲載の時刻表は、修学旅行の前年のものですのでダイヤが若干異なりますが、参考にみて下さい。復路は、10月30日(火)の22時12分神戸駅を乗車して、第6日目の13時54分に東京駅への帰着でした。

 1950年の東海道本線時刻表(門司行き夜行列車部時刻表拡大)

第2日目の旅行行程
東京発の夜行列車で10月27日に滋賀県石山駅に、まだ夜が明けない3時40分に到着して第2日目の旅行行程のスタートです。

 東海道本線石山駅

修学旅行の栞を開くと、下車した石山の近くの琵琶湖は、日本一の大湖で琵琶の形に似ているので、この名がある。滋賀県の中央に位し、湖岸に史跡や名勝があると記されています。
この琵琶湖の南部の風景は、江戸時代には日本を代表する名勝・景勝として屏風、絵巻、浮世絵版画、工芸等に広く描かれるようになり、中国の瀟湘八景と離れた日本の名所そのものとして、近江八景の地位を確立してきました。近江八景とは、「石山の秋月」「瀬田の夕照」「粟津の晴嵐」「矢橋の帰帆」「三井の晩鐘」「唐崎の夜雨」「堅田の落雁」「比良の暮雪」の八景を指します。

 近江八景

最初の目標地は「石山の秋月」で有名な石山寺までの徒歩遠足で、先ずはだんだんと夜が明けてくる道を琵琶湖に流れる瀬田川沿いに南に進み、石山寺門前へと向かいます。

 第1~3日の行程の石山寺、比叡山、京都、宇治山田方面地図

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大森町界隈あれこれ 大森学園創立70周年 徒弟学校から戦後焼跡工場仮校舎の歴史を追う(第2回その2)

2009年11月22日 | 大森町界隈あれこれ 大森町学びや
kan-haru blog 2009 大森機械工業徒弟学校の誕生  

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今回は、大森機械工業徒弟委員会がスタートして徒弟学校の創立へと向けて進む姿を追ってみます。

・徒弟委員会による徒弟の共同募集
徒弟委員会は創立後間もなく、徒弟の共同募集の準備にとりかかり、幸い職業紹介所当局からの勧奨も得られたので,これに力を得て結束して画期的な募集方法をとることになりました。
共同募集に当っては,雇用,教育,福利等に関する条件を一定にすることが根本問題なので業者間で討議し,募集人員は各工場別の調査によって概数を調べ、職業紹介所との折衝で諒解をえられて,総計750人の徒弟の共同募集を開始しました。

 生徒応募者数

共同募集について、「大森機械工業徒弟委員会とその事業 大内経雄 財団法人協調会 社会政策時報第230号」には次のように書いてあります。
「共同募集人員の750名に対し、1100名の応募者があり好候件づくしの大工場のそれを凌駕するような成績を示し、応募者の資質は体格や学業においては優秀者揃いであり、募集費の予算は1人当たり15円が10円以内と、従来の業者各個の募集費用に比し非常に少ない費用で済み、東北関東の全域に亘り募集ができた。
また、さらに身体検査では、各地の医療組合病院所属の医師による診断がえられたことは特記する事項である」と書かれています。

 共同募集 大森機械工業徒弟委員会とその事業 大内経雄から

応募者の詮衝は、昭和13年2月22日から3月13日までに終了しましたが,厳重なる詮衝の結果760名の合格者を得ました。併しその中で実際に4月に就職した者は500名に過ぎませんでした。これは、勧誘により他に転じた者,家庭の事情その他の理由で志望を変更した者等により,募集が如何に困難であることかが窺われます。

・共同募集徒弟の配分
共同募集で募集した合格者の配分には、種々困難な問題を配慮して行われたが、その方法について大内経雄は次のように書いてあります。
「徒弟委員会は同志会を母体にして組織されたが、同志会の全員が会員になったのでは無く、態度不鮮明な業者や徒弟を託すには不適当な業者も見受けられるので、厳密な工場調査を行い、適格な65工場に配分した。配分の基準は採用者の体格、学業成績に応じた3クラスに分け、同府県人を1工場に2人以上配分し、工場の仕事の性質に応じて体格と知能の特性を適応し、それに工場主の指導力などを斟酌按配して公平を期した」とあります。

 徒弟の配分 大森機械工業徒弟委員会とその事業 大内経雄から

・大森機械工業徒弟学校の設立
合格者の工場配属を決定するに先立ち、1939年4月5日に明治神宮外苑日本青年会館に一同を集め、徒弟委員会経営の大森機械工業徒弟学校入校式が挙行されました。
入学式には、多数の来賓並に生徒父兄の前で東京職業紹介所長の立会の許に、「大森機械工業徒弟委員会徒弟雇傭斡旋並二養成教育二関スル協定書」に、雇傭者ならびに被雇傭者代表(保護者代表)が署名調印をして、厳粛なる宣誓を行った入学式式が開催されました。

 明治神宮外苑日本青年会館における徒弟学校入学式

協定書は、わが国はじめての団体雇用協定であり21条からなっており、雇傭関係については雇傭期間を5年として理由なくして解雇、退職ができず、雇傭条件に紛議を生じた時には協議の上東京府職業課及東京職業紹介所の承認を得ること。待遇に関しては、雇傭者は養成教育中の被雇傭者の1年生5円、2年生6円、3年生9円、4年生12円、5年生15円の月額手当を支給し、養成教育中の被雇傭者の衣食及教育は無料支給又は貸与する。
養護については、被雇傭者中の保護職工の就業時間は10時間とし、止むを得ざる場合は11時間とするが、徒弟学校に於ける学科及教練の時数はその中に含めるものとする。寄宿舎の設備のない工場のための共同寄宿舎を委員会にて設置して利用するものとする。
養成教育については、被雇傭者は大森機械工業徒弟学校に全部収容して、その教育を受けるものとする。教育の都合上、就業時間を中断することがある。徒弟学校は青年学校令および技能者養成令に準拠して、特定の時数を学科,教練に当てるものとする。教育に要する費用は雇傭者の負担とする。
といった協定で、この徒弟学校は5年制の当時の学制の青年学校に準拠した教育訓練を受けられ、勤労学生を希望する者には画期的なものでありました。

 大森機械工業徒弟委員会徒弟雇傭斡旋並ニ養成教育ニ関スル協定書(拡大参照)

・徒弟学校校舎建設の大幅遅延
徒弟学校の入学式が挙行されましたが、まだ徒弟学校の共同施設の徒弟学校教室、共同寄宿舎と栄養食共同施設の建設が大幅に遅れて、大森区3丁目283番地に350坪の土地を買収し、850坪を借り受けた建設予定地には建物は何も無く、ただ「大森機械工業徒弟学校建築予定地」の棒杭が1本建っているのみでした。
共同施設の建築は、「戦時下、技術員・技能工養成の緒局面 原正敏」の資料によると、「建築設計に当っては、帝大教授工学博士岸田日出刀氏の御高弟前川国雄氏に依頼し、漸く別図の如き案を得るに至ったが、2月下旬同氏の事務所の事故のため、同氏の推薦による山口文造氏が同案を引き継いで設計されることとなった。同案は大体に於て委貞会の根本趣旨を具現したものとして我々の支持を得たのである。詳細な設計を3月下旬に完了し,直ちに建築に着手する予定である。」とあり、徒弟学校の新校舎は大幅な遅延でのスタートとなりました。
これに対して、当時の徒弟学校校長であった米沢勇作大森学園理事長は、随想集に「創立の頃」の追想を書かれております。

 米沢勇作大森学園理事長の随想集から「創立の頃」(拡大参照)

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大森町界隈あれこれ 大森学園創立70周年 徒弟学校から戦後焼跡工場仮校舎の歴史を追う(第2回その1)

2009年11月20日 | 大森町界隈あれこれ 大森町学びや
kan-haru blog 2009 

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大森学園の創立
大森学園創立の1939年(昭和14年)の時代背景は、第1回その2で記述した様に満州事変(1931年)が勃発し、1937年の盧溝橋事件で日中が交戦して日中戦争に突入し、1941年には真珠湾を攻撃して大東亜戦争が勃発し戦争が拡大しました。1945年8月8日にソ連が参戦し、同15日に日本はポツダム宣言を受諾して降伏文書に調印しました。
今から70年前の大森の機械工場産業では、政府が日中戦争の拡大に伴って重工業化を進めるとともに徴兵の強化とあいまって、政府の指示により大企業が熟練工の確保に努めることになり、国営化の職業紹介所を通さないで大量の労働者を募集することができなくなりました。
これにより大森町の中小工場群では、国策により生産力拡充の要請のため工場の新設拡張が相次いだため、少年工の需要が数倍に膨れましたが、職業紹介所では官営工場、大規模軍需工場の大量募集に忙殺され、大森町の中小規模工場の要求を充たすことができず、さらに大規模工場では好条件な募集条件での雇用により、中小商工業者は大変不利な状況となり大きな打撃を受けました。

 「米沢勇作理事長随想集」と「山崎正男先生の追憶」転記

徒弟学校の誕生
こうしたなか、1926年頃より大森駅から蒲田駅を走る省線(現JR京浜東北線)と学校裏駅(現平和島駅)から京浜蒲田駅(現京急蒲田駅)を走る京浜電気鉄道(現京浜急行電鉄)間の大森町の海岸寄りの細長い地域内に、次第に中小の機械工場が多く集まるようになりました。こうした工場群が相寄って組織をしたのが、大森機械工業同志会があり、1938年末の調査では約150の工場が集中し、大半の工場が大工場の下請け加工をしており、従業員総数が約3,000人で1工場あたりの従業員の平均が20人の規模でした。
折からの生産力拡充政策で労働力の払底を招き、工作機械が工場で遊んでいる状況となり、新規採用の募集や熟練工への育成をどうするかを同志会で検討して、大森機械工業徒弟委員会を創立し大森機械工業徒弟学校の誕生へと進むのです。

 「大森機械工業徒弟学校の誕生と終焉」と「大森機械工業徒弟委員会とその事業」資料

大森学園創立70周年の誕生となった徒弟学校の発足から戦後の焼け跡仮校舎までの歴史を、大森学園理事長 米沢正倫氏よりご提供を受けた諸資料の「戦時下、技術員・技能工養成の緒局面(Ⅰ)―大森機械工業徒弟学校の誕生と終焉― 原正敏 千葉大学教育学部研究紀要 第36巻第2部別刷 昭和63年2月発行」 1)、「大森機械工業徒弟委員会とその事業 大内経雄 財団法人協調会 社会政策時報第230号別刷 昭和14年11月」 2)、「米沢勇作随想集 学校法人大森学園 大森工業高等学校 平成5年9月10日発行」 3)、「現職員回想 追憶 山崎正男 三十周年記念誌から転写」 4)および、「70年の軌跡~創立70周年記念~ 大森学園高等学校DVD ギャラリー」 5)から見て記していきます。

・大森機械工業徒弟委員会の成立
労働力払底により工場の工作機械が休転している状況から、その対策に中小機械業者は悩み腐心していました。こうした差し迫った問題に同志会業者は寄ると触ると、目前の労力不足の補充だけでなく、毎年恒常的に新規採用する少年工の募集と職業訓練をどうするのかを話し合っていました。
これに対して、かってから徒弟養成問題を研究していた、財団法人協調会と日本技術教育協会が同志会に問題解決の具体案を示して実行の考慮を求めました。

 徒弟学校誕生まで(70年の軌跡DVDから)

その解決案には、同志会を母体とした徒弟委員会を設け、業者が協同して徒弟の募集をし、保護教育を行うというもので、条件は賃金、労働時間、積立金、徒弟終了後の待遇は一定にするというものでした。この案に対して同志会では賛意を示し、その実現に移り7社が発起人となり徒弟委員会の設立に向けて奔走しました。

 徒弟委員会発起人メンバー(70年の軌跡DVDから)

徒弟委員会設立の趣旨を見て、大森町近隣の工場主は賛同して62工場の参加加盟を得て、1938年(昭和13年)12月15日に大森機械工業徒弟委員会の創立を見ることになりました。

 徒弟学校委員会加盟工場(70年の軌跡DVDから)

これにより大森機械工業徒弟委員会がスタートして、大森学園母体創立の大森機械工業徒弟学校の設立に進みますが、発起人の1人で富士見製作所経営者の米沢勇作氏は、初代の徒弟学校校長を務め、1941年(昭和16年)に大森工業学校が設立されてから初代理事長に就任し、戦後の混乱、困窮期を乗り越えて現在の大森学園を築かれました。現大森学園理知長の米沢正倫氏は初代理事長のお子さんで、後を継がれ70周年の創立を迎えたのです。創立70周年を記念して、70年の軌跡に書かれているDVDの徒弟学校についての感慨を抜粋してみましたので参照してください。

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大森町界隈あれこれ 大森学園創立70周年 徒弟学校から戦後焼跡工場仮校舎の歴史を追う(第1回その2)

2009年11月09日 | 大森町界隈あれこれ 大森町学びや
kan-haru blog 2009 

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大森学園創立時の時代背景
大森学園70年前の大森機械工業徒弟学校創立を理解するため、当時の時代背景を知る必要があり、「転換期における地域社会と生活の変容」1)、「工場まちの探検ガイド」2)などの資料から探ってみました。
・大森の工業化
1904年(明治37年)の日清・日露戦争の経験により軍需工業の強化の要請が高まり、近隣の区の機械金属工業の下請け工場の必要性が強まってきました。
大森では1908年(明治41年)に現大森東3-28に東京瓦斯大森製造所の建設許可がおりてからが、工業化の出発点と考えられます。なお、大森町での電灯の点灯は早く、1901年(明治34年)に京浜電気鉄道により配電供給がされていました。

 明治41年頃の東京瓦斯大森工場(工場まちの探検ガイド 大田区立郷土博物館出典)

既に隣の品川区では、1869年(明治2年)にビール製造所(現東大井3)が設立され、1873年(明治6年)ガラス製造会社が目黒川沿いに建設され、後に製薬会社の三共となり品川の工業化の核となりました。
1906年(明治39年)には後の明治製糖となった製糖会社が多摩川沿いに設立され、翌年には後の東芝となった東京電気が現川崎市堀川町に工事部を設置したほか、1913年(大正2年)に富士紡績が久根崎付近に工場用地を購入し、工業化は品川から多摩川を越えて川崎に渡りました。当時大森の工業化の遅れは、伝統的な海苔養殖業が盛んで漁民や海苔業者が海を汚す工場建設に反対していた点にあります。
品川区と川崎が工業地として足場を固めつつある時に、大森では時代の流れに抗しきれず、特に品川区からの影響が強く、工場の新設・転入が活発化してきました。


1914年(大正2年)に第一次世界大戦が起こり、政府は国防的見地から工業化を進めるため1919年(大正8年)に「都市計画法」を公布して、現大田区域も1922年(大正11年)の公告により計画区域に含まれることになりました。また、1925年(大正14年)の「東京都市計画区域内商業地域、工業地域内特別地区及住居地域指定ノ件」の告示によって、大森町の全部と入新井町の一部が工業地帯に指定されました。
その後、1923年(大正12年)に関東大震災が発生し、東京の旧市区内の被害は甚大でありました。「市街地建築物法」などで旧市区内での復旧を見合わせた多くの工業企業家達が、旧市区にも近く比較的に震災被害の少ない大森の工場地帯に移転してきました。

 関東大震災後の工場数と人口の変移(左:町別工場数の変移[大田区立郷土博物館出典]、右:大田区の人口の変遷[大田区史より])

また、第一次世界大戦を経て軍需産業強化の声とともに、軍需工場として周辺に高度加工技術を波及させた日本特殊鋼(1915年設立大森東)や新潟鉄工所(1918年設立蒲田)などの、大・中規模の企業が次々と建設され、さらに、地域整備が進んだことにより、1930年(昭和5年)に東京計器、1937年(昭和12年)に三菱重工が大田区で操業を開始しました。

 昭和9年の大森東の日本特殊鋼(工場まちの探検ガイド 大田区立郷土博物館出典)

これらの企業は加工組み立て型で、工作機械・専用機械・測定機器の資本財中心のリーディングカンパニーの親会社となり、大森には中小工場が下請け工場群として集積してきました。大田区の工場数集積の伸びは飛躍的で、1930年(昭和5年)から1936年(昭11年)の短期間に大森では4倍近く、蒲田では8倍近くに増大しました。
なお、交通インフラの整備も進み、1927年(昭和2年)には第1京浜国道が完成し、1931年(昭和6年)には羽田飛行場が完成し、人口も急増してきました。
この時期は、金融恐慌の時代でしたが、1931年(昭和6年)には東京市の工業生産額が、大阪市を抜いて全国一となりました。

昭和10年代に入り、次第に戦争突入へと向かう日本は、工場(こうば)の町である大森のモノ作り工場から兵器工場へと変貌していき、兵器の生産によって仕事は忙しく活気付きました。大田区の軍需事業所は、東京都内の四分の一が集まり、人材の需要も高くなり仕事を求める人々が大森に集まり、人口が増えてきました。大戦に突入する前の、この頃の京浜急行の大森山谷駅(現大森町駅)の周辺には、沢山の銀行や金融機関が建ち並び、映画館や劇場も多く見られ、現大森警察署の場所には大森区役所があり、大森区の中心街でした。旧東海道の三原通りには夜店が沢山出て、日本特殊鋼管の職工さん達が夜遅くまで出歩き、大変賑わっていました。

 工場数と人口増加の実数(大田区立郷土博物館出典)

・大森機械工業徒弟学校
この急速に工業化の進む時代に生きる軍需拡張の大森工場地帯では、地方出身、特に東北地方出身の多くの少年工達が働くようになりました。大森の中小工場経営者の62社により意欲を出して、これらの少年工達に教育の場を与え、産業の後継者を育成することを目的として1939年(昭和14年)に大森機械工業徒弟学校が創立されました。
徒弟学校は、高等小学校卒を入学資格とし、生徒は昼間には62の加盟工場の従業員として働き、学費は工場側の負担で夜は学校へ通い修業年限は3年です。徒弟学校生の募集は共同募集により、就職先は委員会が加盟工場に振り分けました。
当時は、工業系の学校が少ないことや、雇い主の無理解で働きながら学校へ通うということが難しい時代で、この大森町の工場経営者達の工業化に対する熱意や、ネットワークの先取りは意気を感じさせられます。

1942年(昭和17年)になると、財団法人大森工業学校の設立が認可されて、夜間部は大森機械工業徒弟学校生徒中の希望者を試験の上入学させ、昼間部は一般の尋常小学校卒の生徒を受け入れるように制度を改められました。

 大森・蒲田の中規模・大規模機械工場集中地域図(工場まちの探検ガイド 大田区立郷土博物館出典)

その後、1945年(昭和20年)4月15日の大森町大空襲の爆撃により大森工業学校は全焼したため、戦後の森が崎の工場跡の仮校舎での授業が始まり、現校地への工場棟移築の校舎再開(1948年3月)と苦難の道を歩むのですが、1950年(昭和25年)の朝鮮戦争の特需により我が国の工業も活気付きました。
これらの中小工場で高い加工技術を身につけた多くの職人達が、大戦後の大田区で独立創業して、中小企業による一大集積地を形成し大森のものつくりの地域技術を蓄積してきました。

脚注
1) 「転換期における地域社会と生活の変容PART<3>」 第3章 大森西地区(大田区大森西1丁目~7丁目)  浦野正樹+「産業と地域」研究会編 [発行] 早稲田大学地域社会と危機管理研究所/早稲田大学文学部社会学研究室 2001年3月31日
2) 「工場まちの探検ガイド」 [編集・発行]大田区立郷土博物館 1994年7月3日発行

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大森町界隈あれこれ 大森学園創立70周年 徒弟学校から戦後焼跡工場仮校舎の歴史を追う(第1回その1)

2009年11月07日 | 大森町界隈あれこれ 大森町学びや
kan-haru blog 2009 

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創立70周年記念行事
わが学びやの大森学園高等学校(大田区大森西3-2-12)では今年創立70周年を迎えて、数々の記念の行事が行われました。
5月23日にはグランドプリンスホテル新高輪「飛天の間」で、約500名を招待して行われた大森学園創立70周年祝賀会に、参加させて頂きました。

 大森学園創立70周年祝賀会(写真拡大)

6月27日に大田区産業プラザ(PIO)で開催した創立70周年記念総会・祝賀会は、約250名が参加して午前の記念総会には写真家・須山貴史(昭和56年電気科卒)さんの講演「海からの贈り物」がありました。

 海の祝祭日(須山貴史著)

午後からの祝賀会では恩師の須田恵吉先生の乾杯の音頭で祝杯が始まり、大森はやし会の祝舞やブラスバンド演奏などで盛会に執り行われました。

 創立70周年記念総会・祝賀会(左上:須山貴史氏の講演、中上:鏡開き、右上:須田恵吉先生の乾杯の音頭、左下:昭和27年卒業生、中下:祝舞、右下:ブラスバンド演奏)

創立70周年の出来事
大森学園では地元に密着した行事に参加したりして地域との共生活動を行っており、これは他校では見られない実践行事です。
9月27日には、恒例の学園祭が開催され地域の人も見学に訪れていました。会場には、長期間ボランティア活動を続けている「おもちゃの病院」とタイなどに送る車いすの点検整備活動を見せていました。10月31日には車いす修理会が行われ、OBなど110名が参加して23台の車いすを送りました。

 大森学園祭(:おもちゃの病院、:車いす修理)

これに関連して、今年創立70周年を迎えた大森学園に相応しく、長期のボランティア教育活動が認められて、「第58回読売教育賞」最優秀賞を受賞して、7月17日に表彰状と記念盾が授与されました。

 第58回読売教育賞受賞(地域社会教育活動最優秀賞 ヨミウリ・オンライン)

11月1日には、大森学園ふちの内川の対岸にあるこらぼ大森グラウンドで地域イベント恒例の「ポレポレECOまつり」に模型部・将棋部メンバーや生徒会から参加して、まつり後の片付けなどの様々なボランティア活動に地域住民が感謝しています。

 ポレポレECOまつり(写真拡大)

大森学園70年の歴史
今年は大森学園70周年の節目を迎えましたが、現在は立派な新校舎が完成して活動期を謳歌していますが、70年前に現大森学園理事長米沢正倫氏のお父さんの米沢勇作氏が、大森地区の中小機械工場の協力による大森機械工業徒弟学校創立の生みの苦しみと共に、その後の1941年(昭和16年)の世界大戦により終戦の年の1945年(昭和20年)の大森大空襲の戦災で校舎が全焼し、森が崎の工場焼け跡での仮校舎時代の苦難の時代を経て今日があるのです。

・戦前時代
私が大森町に住み始めたのは、1948年(昭和13年)に父の転勤により勤務事務所の2階に転居して以来、途中の2年間程戦局の悪化により学童疎開で茨城と栃木で過ごした以外は大森の住民として過ごしました。
大森町に移り住んで翌年の1949年(昭和14年)4月に、当時は諏訪神社の横にあった日新幼稚園に通園することになり、住宅のあった当時大森区役所前の産業通りから、内川橋を渡って北岸を京浜急行線の踏切を越えて見た内川の不自然な人工的な直線の印象は今でも鮮明に残っています。
奇しくも幼稚園に入園の年が、対岸の内川南岸で大森機械工業徒弟学校の創立を迎えた時ですが、その折には年令的にまだ大森学園とは関係がありませんでした。

 大森工業学校校舎(大森学園70年の軌跡DVDから)

・戦後時代
大森学園との縁は、終戦の翌年(昭和21年)の国民学校(小学校)卒業による進学によるもので、敗戦の日本は物資・食糧の何もかもが欠乏しており、電車通学は困難であるため、戦後住まいの大森ガス会社横の仮住居から程近い森が崎仮校舎で授業を行っていた、旧制大森工業学校に入学しました。
翌1947年(昭和22年)の学生改革により、小中高教育は6・3・3制の制度となり、2学年目から大森学園中学校の私立新制中学生に編入されました。新制高校は、大森工業高等学校の校名となりました。
1949年(昭和24年)に大森工業高等学校の電気通信科に入学し、1952年(昭和27年)3月に卒業しました。この間の中学、高校時代の記録は当ブログ記事に詳しく記載してあります。(「大森町学びや もりこう会の集い(その1~4)」参照)
また、大森町の4月15日の大空襲の状況は、当ブログの若山武義氏の手記に詳しく記載(「大森町界隈あれこれ(12) 鎮魂!大森町大空襲(第6~9回)」参照)してあります。

 森が崎仮校舎(大森学園70年の軌跡DVDから)

・大森学園生い立ちの記録
大森町の中心を東西に流れる内川沿いにある、いまの大森学園の生い立ちとなる大森機械工業徒弟学校創立に係わる資料を、理事長の米沢正倫氏からお借りすることが出来ましたので70周年を期に、大森学園創設から徒弟学校の終焉までの歴史を次回から紐解いてみたいと思いますので応援願います。

 大森機械徒弟学校資料

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大森町界隈あれこれ 大森町学びや もりこう会の集い(その4)

2006年11月17日 | 大森町界隈あれこれ 大森町学びや
大森工業高等学校校舎から南方面に広がる海苔乾し場(1952年)
(出展:工場まちの探検ガイド 大田区立郷土博物館)

大森工業高等学校の歴史(4)
・大森工業高等学校時代
終戦の翌年の1946年(昭和21年)に、旧制中学校の大森工業学校に入学したのですが、1947年(昭和22年)の学校制度の改革により、新制の大森学園中学校に半ば強制的に編入された新制中学を卒業しました。
中学からの進級校は、同年の学制改革により新設された新制高等学校への入学となります。
新制高校の大森工業高等学校は、1947年(昭和22年)に森ヶ崎で開校し、2年後の1949年に戦災で焼失した大森町の元大森工業学校の古巣の地に、廃工場の建物を移築して取りあえずの復興を叶えてスタートした大森工業高等学校へ入学しました。

この頃、1948年(昭和23年)、日本のインフレ抑制と経済自立のため、「経済安定九原則」がGHQにより指令されドッジによって推進されました。この政策により、インフレは収束したものの、同時に中小企業の倒産、失業、労働情勢悪化など深刻な不況を招く結果となりました。
学校の移転により、大森第四小学校の学域では無くなりましたので委託生徒は二年間で打ち切り、新制中学の大森学園中学校は一般から募集を行いましたが、不況のため応募者が少なく学校経営も苦しい時代でした。
その後、1950年(昭和25年)6月25日、南北朝鮮境界38度線で北朝鮮軍と韓国軍との間に戦闘が開始され、始まった朝鮮戦争は日本経済を一変しました。アメリカ占領下にあった日本は、直ちにアメリカ軍の緊急物資調達計画に繰り入れられて、朝鮮地域国連軍とアメリカ軍の軍用資材の発注を受けることになり、いわゆる朝鮮特需を迎えたのが日本の立ち直りのきっかけとなったのです。

大森工業高等学校卒業記念(完成したばかりの実習工場) 筆者:前から2列目の右から4番目

こうした在校生徒が少ない中で、大森工業高等学校を卒業しましたが、まだ不況から脱していない状況では、名も無い私立中学への応募は堪えきらず、大森学園中学校は廃校となり、新制中学の卒業校は存在していないのです。

・当時の大森町付近の風景
自宅の住居も、1949年に現大森町駅近くに土地を借り、そこに2間の平屋のバラック小屋を建てて仮の集合住宅から移り住み、戦後の生活をはじめたところでした。
当時の住居の周辺の状況は、京浜急行電鉄の大森町駅(当時は大森山谷駅と称してました)が1945年4月15日の大森町の空襲戦禍により焼失(「大森町界隈あれこれ(6) 大森町に住んで65年!(その5)」参照)して以来営業停止のままで、駅周辺にはバラックが10戸ほどの焼け野原の風景(「大森町界隈あれこれ(13) 鎮魂!大森町大空襲(第6回)大森町上空付近の航空写真(国土地理院) および「大森町界隈あれこれ(14) 鎮魂!大森町大空襲(第7回)1946年航空写真を元に作成の大森・入新井付近戦災地図参照)でした。

大森町駅の営業再開は、平和条約発効の年の1952年(昭和27年)12月15日ですが、戦災からそれまでは下り線のホームだけの残骸を曝しておりました。1952年頃になると、戦後の復興が進み、数キロほど離れた下丸子付近の多摩川べりで花火大会が開かれるようになり、まだ営業前の駅ホームの上から花火が遠望できるという、今では信じられないような風景でありました。
当時の大森警察署は、1931年(昭和6年)に大森町役場として3階のビルが建てられ、その後大森区役所として使われておりましたが、1941年(昭和16年)に区役所が大田区中央に移転したため、警視庁の大森警察署の庁舎となりました。この建物は、大森では最も大きなビルで、1986年(昭和61年)に解体されるまでは大森のシンボルでした。1939年から疎開までの間は、産業通りを隔てた警察のまん前に居住し、戦後のバラック建ての住居も大森警察の近くで、この古ぼけたビルは今でも瞼に浮かんでくるほど懐かしい建物でした。

戦後の食料難で、バラックの周囲の焼け野原には、食うために野菜などの自作をしましたが、焼け跡の灰が良い肥料となり、何でも良く育ち多少の自給自足になった思い出があります。
一方の伝統産業である海苔養殖業は、戦後の復興が進むと共に増産が行われ、1950年代初(昭和26、27年頃)には、戦前の最高レベルまで回復しました。それに伴い、海苔乾しが戦前の台乾しの方式(その2参照)から枠乾し方式(その3参照)に代わってきたため、広い空き地を使用しないでも海苔乾しができるため、大森町の海苔養殖業がそれまでは呑川沿岸の森ヶ崎周辺で生産していたものを、大森町の内陸の各所にある空き地を求めて進出し、特に内川に近いところのあちこちに海苔乾し風景(トップ写真)が見られるようになりました。

関西修学旅行京都 筆者:最後列の右から5番目
関西修学旅行奈良 筆者:後列の右から8番目
十国峠遠足(1950年) 筆者:後列の左から4番目

もりこう会の集い(その1参照)に出席して、60年前の中学、高校をふり返ると真に感無量です。また、大森町周辺も、景観が大きく変わろうとしております。歴史をふり返り、風化しつつある記録を残すことは、大変な意義があります。
今後、先に若山武義氏の大森町空襲の記録手記の掲載の続編として、大森町界隈の戦後編を掲載する予定にしております。

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大森町界隈あれこれ 大森町学びや もりこう会の集い(その3)

2006年11月15日 | 大森町界隈あれこれ 大森町学びや
海苔枠乾し 戦後急速に普及した障子の桟状の木枠に海苔簀を
掛けて乾す方式で、持ち運びが便利で道端でも河岸でも乾せる。
(出展:大田区海苔物語 大田区立郷土博物館)

大森工業高等学校の歴史(3)
・大森工業学校から大森学園中学校へ
1945年(昭和20年)8月の終戦によってわが国は連合国軍の占領下におかれ、国政がすべて占領行政のもとにあって行なわれていました。この間各分野にわたり改革の実施が要請され、教育改革は特に重要なものとされました。
連合国軍最高司令部は、戦時教育体制を根本から改めるために1946年(昭和21年)1月、教育使節団の派遣を本国へ要請し、民間情報教育局にはアメリカ教育界の専門家が多数来日して、その助言・指導のもとで教育改革が進められました。
この教育改革により、「教育基本法」が制定され「学校教育法」、「社会教育法」、「教育委員会法」などの立法が行なわれ、戦後教育の体制をつくりあげる基本規定となりました。
これにより学校制度の改革は、基本となる学校体系を六・三・三・四の編制に改めると云う大改正となりました。

これにより、六年制初等教育の戦時下の国民学校は小学校に改名し、新制度へは問題なく移行が進みました。
しかし、1872年(明治5年)以来我が国の学校制度は、初等教育の小学校は、尋常小学六年と高等小学二年の八年制を実施しており、中等教育の五年制の中学校(旧制中学)に進学する者は小学六年卒業で入学する制度でした。
改革の三年制の新制中学校には、それまでの国民学校高等科と定時制の青年学校の二学年生と、さらに中等学校(旧制中学)の二、三年生を編入することとなり、文部省内には三年制の中学校をただちに創設することは、多くの困難が明らかなため、改革には年数をかけて徐々に行なうようにする意見が強かったのでした。
しかし、総司令部側の強い意見で、六・三制の新制中学校を1947年(昭和22年)の春から実施を強行することになりました。

また、六・三・三制の新制高等学校には、旧制中学(中学校、高等女学校、実業学校)の四、五年生を編入した三年制高等学校に改めましたので、切替えには中学設置のような困難な問題はありませんでした。
この学校制度改革より、旧制実業学校の大森工業学校は、新制中学の大森学園中学校を新設すると共に、大森工業学校は新制高校の大森工業高等学校と、二校の私立新制中学と新制高等学校がスタートしたのです。
なお、大森工業学校は、大森機械工業徒弟学校の流れを汲んだ学校で、夜学部がありましたが、新制の大森工業高等学校も昼間働いて学ぶ生徒のため夜学部は継続しました。

無理やり大森学園中学に編入
この改革により、旧制実業学校に入学したのであるが、一年後には有無を言わさずに無条件に私立の新制中学生に編成されたのです。新学制の新制中学では、職業科目は無く普通科となり、折角電気を勉強しようと入学したのですが、強制的な学制改革により翻弄されたのです。
ただ、新制中学の改革年に学校の近くに住む、電気に詳しい新入の先生が来られ、放課後その先生の家に有志が詰めかけ、ラジオの製作に没頭しておりました。中学2年生の頃に、ラジオ部品などの電気部品などを販売していた露店街が、須田町交差点付近から秋葉原に店を構えた電気店街(「秋葉原界隈(その1)」参照)が誕生したのです。
これが、社会に出て、技術志向に進むきっかけになりました。

大森工業学校一年生遠足 鎌倉鶴岡八幡宮 筆者:前から4列目の右から5番目
大森学園中学校二年生遠足 観音崎灯台 筆者:最後列の左から4番目

新制中学の一年生は、中学校の新設が困難であるため、大森学園中学校の近くにある大森第四小学校(大森町学びやマップ再掲 マップ⑦参照)卒業生のクラスの一部を、大田区からの委託を受けて二年継続して預かったのです。
したがって、当初大森学園中学校は、新制中学に志願して入学した訳でない二、三年生の結果的の志望学制と、委託学制の色分けされた生徒構成の学校となりました。これも、学校制度改革の強制実施の過度期の歴史です。
委託学制が入ったお陰で、やっと机と椅子はどうやら調達されましたが、その他の学校教育の設備は殆ど無い戦後の混乱の中での授業風景でした。

戦後一年が経ち、一面の焼け野原の中で、いち早く復興したのは漁業でありました。敗戦後の混乱で、誰もが物資欠乏に苦しんでいましたが、生きるためにはまず食べなくてはならないのです。
空襲によって工場、人口、家屋ともに激減していたため、工場排水や家庭排水など、ほぼゼロに近く、終戦当時の海は明治末期くらいの状態にまで水質が回復し魚介類は豊富でした。
そうした資源の回復と、折からの食糧難のために、漁民の再興復帰への意欲はいっそうかき立てられましたが、伝統産業である海苔養殖業は、ある程度の道具(海苔舟、竹ヒビなど)が必要なこともあり、終戦後、すぐに再開するのは困難でありました。まずは、現金収入に結びつく磯物取りが中心でありました。
戦中から1947年(昭和22年)にかけて低落の一途をたどった養殖海苔生産も、1948年(昭和23年)から反転に転じ、その後回復へと向かいました。

この頃大森学園中学校、大森工業高等学校は、1948年の春に森ヶ崎の仮校舎の工場建屋を購入して、古巣の現大森学園高等学校に念願の校舎を建てて再建し、新校舎で新制中学校を卒業しました。

大森学園中学校卒業記念 筆者:前から4列目の右から2番目

また、時を同じくして仮住まいの共同住宅から、現大森町駅の近くに平屋のバラック建て住居に移転し、今日までの居住宅となっております。

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大森町界隈あれこれ 大森町学びや もりこう会の集い(その2)

2006年11月13日 | 大森町界隈あれこれ 大森町学びや
昭和大東京百図絵版画 大森・海苔乾し 1937年(昭和12年) 小泉発巳男
大田区立郷土博物館所蔵

大森工業高等学校の歴史(2)
・大森工業学校入学前
1945年(昭和20年)の終戦により縁故疎開先の栃木県から東京に引き上げてきて、暫くは東京ガス大森工場裏にあった、父の元勤務先の事務所を改造した共同住宅に仮住まい(「大森町界隈あれこれ(N30) 大森町風景 大森ふるさとの浜辺公園の砂浜開放」および大森町学びやマップ④以下マップと称します 参照)をしました。
仮住まいの住宅からの通学学区は、疎開前の居住宅(マップ①)から通学していたのと同じ学校の大森第一国民学校(マップ③)ですので、そこへ転校しましたが4月15日の大森町大空襲で全焼のため、大森第五国民学校(マップ⑤)の校舎に間借りしての授業でした。

当時の国民学校は、戦時下の1941年(昭和16年)の学制改革により、入学時の東京市大森第一尋常小学校から東京市大森第一国民学校と改称され、さらに東京都制に移り東京都大森第一国民学校となり、戦後混乱の1946年(昭和21年)3月に間借り校舎で卒業証書も貰えず卒業したのです。

大森第一国民学校卒業記念(間借りの第五国民学校にて) 筆者:前から3列目の左端

現在の東京都大田区立大森第一小学校は、同年4月15日の学制改革で改称されたのです。この様に、小学校で3回の学制改革により校名が変わりましたが、これからも何回かの学制改革により、校名がその都度改名されてきました。

・大森工業学校時代
大森工業学校入学は、当時終戦直後の混乱期の真っ只中であり、中等学校制度(1943年中等学校令の5年制)の中学入学校の選別は大変な時代でした。
まずは、戦時下の小学校では、疎開や戦時教練などに追われまともな勉強が行われていない中、しかも通学のための交通機関も戦災被害の復興が進んでいない状況でありました。しかも、日本が初めての敗戦にあい、食うや食わずの状態で将来の展望が全く見えない状況では、進学校の選別は困難でした。
そこで、戦災で焼けた大森工業学校が森ヶ先の工場跡地で開校(マップ⑥)しているのを知り、仮住まいの住居から僅かの時間で徒歩通学ができることと、大戦で彼我の技術力の差を目の当たりに見せ付けられ工業が重要であることの単純な理由から、進学校として決めたのです。

当時の大森工業学校は、電気科と機械科の実業学校でありましたが、何せ戦災で焼け跡の工場での仮住まいであり、教室は荒削りの板で仕切り階下は土の土間のままで、当初は机と椅子が全く無く各自が鉄板をコの字上に曲げたものを椅子代わりとしての授業風景で、昔の寺子屋よりお粗末なものでした。当然、工業過程の機械や電気の実習教室は無しの授業でしたが、徐々に机と椅子は補充されてきました。
しかし、大森工業学校は、大森機械工業徒弟学校の流れを受け継いでおりましたので、昼間働いている人のため夜間部も開校しておりました。

終戦直後の工場跡地である大森工業学校周辺では、1年前までは兵器を作っていた中小工場で、焼け残りの機械や資材で、ナベ、カマ、弁当箱などを作ったり、空き地を耕作して野菜などを作るのが精一杯の状況でした。
また、この辺では、江戸時代より前から養殖海苔の大生産地でありましたので、終戦により増産が開始され、大森工業学校脇の現在では旧呑川緑地帯となっている呑川には、海苔採りに使う海苔船が沢山繋留(出展:大田区海苔物語 大田区立郷土博物館)され、川岸の海苔漁師の畑には台乾しの海苔乾場が冬季の間見られました。
当時の風景は、学校傍の呑川に汐見橋があり、トップに掲載の戦前の版画とそっくりな風景であり、戦争でぎすぎすした心が和んだのを覚えております。その後、台乾しの海苔乾場は、海苔生産効率のため、枠乾し場に代わって行きました。

大森工業学校入学時代には、周囲で見られた台乾しの海苔乾場風景
(出展:大田区海苔物語 大田区立郷土博物館)

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大森町界隈あれこれ 大森町学びや もりこう会の集い(その1)

2006年11月11日 | 大森町界隈あれこれ 大森町学びや
大森町には幼稚園入園前から現在まで居住しており、幼稚園から高校までの学びやは、大森町にある学校に通学しました。大森町には、専攻したい大学が存在しませんので、初めて区外の学びやに通学し、先日卒業半世紀を経た母校のホームカミングデー(「イベント(8) 明治大学 ホームカミングデー(その1~2)」参照)に招待されたところです。
もりこう会とは、戦後の学制改革で新制中学・高校に変わって、大森工業高等学校となり、その交友会の卒業同窓会のことを云います。「もりこう」は、大森工業を詰めて称した略号なのです。

学校改革
大森学園高等学校は、少子化の影響と共に大学進学率の向上による普通科志向による志願者の減少傾向により、平成17年より工業科と併設して普通科募集が始まり校名が改称されたのです。これに伴い、同年老朽した校舎の建替えにより8階建ての第一期の新校舎が落成し、今年のもりこう会では第二期のイベントホールが完成していました。


引き続き、創立70周年を迎える平成19年までに、体育館などの第三期工事が継続して行われます。
第二期工事までに完成した校舎を見ますと、何と贅沢で立派な施設であると感心し驚くばかりでした。先の大学母校のリバティタワーやアカデミーホールの施設も全く同様ですが、社会の変遷による教育経営が破綻に結び付かないようにと、学校当事者のご努力には頭の下がる思いがします。

もりこう会の集い
もりこう会の集いの案内がきましたので、10月28日に会場の大森学園高等学校(東京都大田区大森西3-2-12 地図参照)に参加しました。
もりこう会受付のある新校舎のエントランスホールには、男女共学の制服見本が展示してあり、また、国内で行われている大会に毎年参加している自動車部の出場カーも展示してありました。
もりこう会開始前の時間を利用して、昨年新校舎を見学しましたので、今年はイベントホールを見学しました。われわれの学生時代には考えられず、思ってもみない立派なホールでした。


同窓会は、式次第に従い進行しましたが、役員が入れ替わりましたので、質疑応答にもたつきがありましたが、来年度の予算案審議も無事に終了して懇親会に移りました。
もりこう会閉会後、恒例の二次会を同期生と京浜急行蒲田駅近くの店で一献を傾けて散会しました。

大森工業高等学校の歴史(1)
・創設期
大森工業高等学校は、1938年(昭和13年)に大森・蒲田地区の中小機械工場経営者の有志よって、大森機械工業徒弟委員会が発足して、地方(特に東北地方)出身の少年工達に教育の場を与え、後継者の育成を目的として、1939年(昭和14年)に創立した大森機械工業徒弟学校が前身となります。
大森機械工業徒弟学校は、高等小学校卒が入学資格で修業年が3年で、生徒は昼間加盟工場で働き、学費を負担してもらい夜間に学校に通ったのです。
この時代は、学校が少なく雇い主の無理解などにより、働きながら学校に通うことが難しい状態であった中で、多くの経営者が学校を創立したことは、工業化の熱意によるもので、後の大森がものつくりの工場ネットワークの源となったものと思われます。

・大森工業学校の設立
1942年(昭和17年)財団法人大森工業学校の設立が認可され、夜間部は大森機械工業徒弟学校生徒中の希望者を試験の上入学させ、昼間の部は一般の尋常小学校卒の生徒を受け入れるなど、制度が改められました。
1943年 (昭和18年)の学制改革「中等学校令」により、新しい中等学校制度が実施され、中学校、実業学校および女子中学校が一つの学校制度として統一されました。

・大森工業学校の戦災
1945年(昭和20年)4月15日の大森町の空襲(「大森町界隈あれこれ(14) 鎮魂!大森町大空襲(第7~9回)」参照)により、校舎は全焼し学校再建は困難を極め、解散の声も聞かれました。
しかし、米沢現理事長(懇親会にて右から2人目)のお父さんである当時の理事長、米澤勇作氏は、日本の早急な工業再興と工業教育の必要性を考え、大森では焼け残った森ヶ崎の工場を借りて学校を再建させました。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(10月分掲載Indexへ)
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