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kan-haruの日記

小さな旅 紫陽花 開成町あじさい祭り その2

2007年06月29日 | 小さな旅
kan-haru blog 2007

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あじさい祭り会場
あじさい祭りの会場(地図参照)は、バス亭を降り県道712号を渡り道を斜めに進むと、道幅の広いあぜ道の「あじさい通り」です。あぜ道の両側の道端には色とりどりの紫陽花が大輪の花を付けて咲き誇っております。あぜ道は、会場中央の縦道の「あじさい通り」と平行して何本もあり、それに直行したあぜ道も何本かあり、これらのあぜ道の全てに樹齢20年のあじさいが植えられてます。

あじさい通り(前回ブログその1参照)には、食事処あじさいがあり、休憩所は公園や広場が要所にあります。会場のほぼ中央を左右に通るあぜ道は、「したしみ通り」と呼びそこを左手に行くとメイン会場の「あじさい公園」で、いろいろとイベントが行われてます。
あじさいの里を彩る人気のあじさいは、あぜ道の要所に植栽されており、「クラウン」は花付きがよく、鮮やかな青空をイメージしたガクアジサイで「あじさい通り」の人気の花であり、「したしみ通り」先のあぜ道で見られます。

メイン会場あじさい公園 ふるさとの野菜売店

「したしみ通り」の圧巻のあじさいは、花弁は小さいが真っ白く大きな手まりとなる「アナベル」(前回ブログその1参照)で、ライトアップが行われます。
「せせらぎ通り」に進むと、水路がありその両側にもあじさいが植えてあり、この辺では、葉がカシワの形をしてピラミッド形の花を付ける「柏葉」と、雨にうたれると美しさが一層と輝く「城ヶ崎」が見られます。

イベント会場では、一日中郷土芸能が競演され、木陰に用意された椅子に掛けて「足柄ばやし保存会」の古典太鼓や、「相模人形芝居足柄座」の一体の人形を三人で操る芝居見物をしていたところ、田圃を吹き抜ける涼風が寒いくらいに感じて、都会のアスファルトジャングルでの熱風になれた者にとっては、田舎の自然の風は天然クーラーであることを思い出させてくれました。

                             イベント会場  田圃の涼風は天然クーラー

熱演が続く郷土芸能を後にして水路沿いのせせらぎ通り」を会場出口に向かいました。あじさい祭りのあじさいは、「ガクアジサイ」、「手まり」、「伊豆の華」や休憩処では鉢植えの各種のあじさいの観賞ができます。

 あぜ道のあじさい  水路両岸のあじさい   見頃のあじさい

これだけの広い所で、いろいろな沢山のあじさいに癒され、水路で虹のしぶきを浴びて、会場口のアーチを潜り来た時と逆コースで帰路に着きました。

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小さな旅 紫陽花 開成町あじさい祭り その1

2007年06月27日 | 小さな旅
kan-haru blog 2007

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あじさい祭り
今年の開成町のあじさい祭りは、第20回を迎え6月9~17日に開成あじさいの里で開かれました。天気に恵まれた6月17日の「あじさい祭り」の最終日に見に行きました。

 あじさい通り拡大    あじさい通り拡大      食事処       食事処内部     

開成町のあじさい祭りは、1980年(昭和55年)頃から上島、金井島、岡野地区の約21ヘクタールのほ場整備を進め、水田、畑、農道、用排水路を整備し、1985年には総延長約10.6キロの農道、水路沿いに町の花あじさい5千株を植栽しました。3年後の1928年に9千人の観光客を集めて第1回「あじさい祭り」が始まりました。
平成11年には、全国農業協同組合中央会主催の美しい日本の村景観コンテストで、優秀賞の「あじさいの花あふれる田園風景」に選ばれ、22万8千人を超える観光客が訪れました。
平成18年には、寒風と遅霜であじさいが壊滅状態に見舞われましたが、今年の第20回「あじさい祭り」では5千株のあじさいが咲き誇っておりました。(あじさい瓦版から)

                            せせらぎ通り拡大     あじさい橋

会場の開成町あじさいの里へは、大森町から京浜急行横浜駅で乗り換えJRの小田原駅に行き、小田急に乗り継いで新松田駅で下車しました。駅前には、ちょうど停車中の箱根登山バスの関本行きに乗り、あじさいの里下車で徒歩1分であじさい祭りの会場のあぜ道です。
あぜ道の道幅は、思っていたより広く道の両端にあじさいの花が植えられており、20年経過の樹はかなり大きく、大輪の見頃の花を一面につけて開いており壮観でした。
会場は、田圃と畑ですので遮るものがなく、会場のあぜ道の遠くまで身透せ雄大な景観でした。

したしみ通りのアナベル

天気にも恵まれ、観光客の人出も多くあぜ道によっては繁華街なみの花見の行列が続いておりました。中央のあじさい通り端の温室を利用した食事処で軽い昼食を取り休息後、したしみ通りを行くと両側に大輪の純白のアナベルが満開に花を咲かせ、とても見事でした。
素晴らしい花を観賞しながら、メイン会場のあじさい公園に向かいました。

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大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第8回)

2007年06月25日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2007

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大森町駅付近の上り線路移動工事
京浜急行の大森町付近の高架化工事(第一工区)は、高架橋基礎杭工事などのために、電車線路を第一京浜国道側に移動する工事が行われております。
下り線路の移動工事(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第7回)」参照)は、去る5月26日の終電後に在来位置から第一京浜国道方向に、約1.5m移動させる工事で、既に完了しています。
残る上り線路の移動工事は、快晴の6月19日に約1.5m移動工事が行われ、ホーム幅の伸延と共に20日未明の初電時には完了しました。

工事進捗状況
まず線路の移動の準備として、移動をする線路の道床の砂利は前日までに、砂利代替え物を詰めた多数の白い小袋に置き換えられます。23時を過ぎると、車の交通を停止して踏切の横断通行部分を撤去して線路のみの状態にします。終電が過ぎると道路、路地の要所には交通整備員を配置され、人の移動も完全に遮断し線路移動の工事が始まります。

             踏切から品川方面を望む   踏切から蒲田方面を望む

歴史に残る工事ですので、その模様を見たいと思ったのですが、工事近辺の線路際は塀で囲まれ近ずけないので、そこで駅ホームの僅かな隙間からの工事人の動きと、休憩中の工事関連者との対話から工事を推測してみました。

    終電前ホーム               踏切の横断通行部分を撤去

線路移動の工事者の規模は、大半の人数を占める3組構成の線路工手、移動した線路の調整設定と道床の固定、線路移動による駅ホーム拡張工事者、踏切上の道路除去および復旧の工事者、電車架線の移設工事者とそれらの監督者群などで200人以上の大工事です。
線路の移動は、1組が2、30人ほどで鉄棒を持って一列に並んで、品川方向の線路移動の開始場所から移動終了場所の蒲田方向へと掛け声をかけて、線路を少しずつずらしながらカニの横ばい的に進み、3組の工手が間隔を置いて線路移動箇所を巡回して繰り返し、線路を1.5m移動させます。

     線路移動作業員(仮設ホーム隙間から見る)

線路移動完了の功罪
線路移動の工事は、予定が広域に及びますので天候の晴雨に係わらず行うことになっており、工事当日は絶好の後天に恵まれ、工事監督者の話では工事進行進捗は作業効率が上がり良好と喜んでおりました。工事は、始発電車までには終了しました。今後の残りの工事は、踏切道路の最終仕上げと上り側踏切遮断機の移設を待つのみとなりました。
線路が移動されたところで、上りホームの殆んどの箇所の幅員が1.5m拡幅されました。その結果は、線路移動前の朝の通勤タイムのホーム混雑はひどい状態にあり、電車到着を待つ通勤客により一杯で、後から来た人はホームの品川方向への移動で難儀しておりましたが、ホーム幅拡幅によりこの混雑が緩和されました。

   移動した線路(左)         移動した線路(右)          移動した架線

しかし、大森町駅の朝の通勤時間帯の商店街踏切の混雑ぶりは、構内踏切の閉鎖(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第2回)」参照)により引き起こされているもので、その対策として駅ホーム西側に臨時改札口(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第6回)」参照)が設けられましたが、混雑緩和の役には立っておりません。そのため、朝の最混雑時に4人もの警備員を踏切に張り付けて交通整理にあたっていますが、遮断機が閉まるのを抑える程度で混雑緩和に寄与しておりません。
これについては、車の完全交通禁止の対策などを試行することが必要です。

平和島から大森町まで線路を走る
隣接の平和島駅は、1970年(昭和45年)に環状7号線との立体交差化により、鈴ヶ森間の高架化が完成して高架駅となりました。それまでは、大森町駅とは地上で線路は結ばれていましたが、高架駅になり線路は高架橋から降りる形態となり37年経過しました。これから、大森町駅が高架駅に変わると、線路は高架橋で結ばれることとなります。

そこで、高架化になる前の6月9日に、平和島駅から大森町駅付近の約1.5m移動した線路(地図参照)までを普通電車で走ってみました。

 ①平和島下り退避線(左)ホームに入線する普通電車(拡大)
 ②本線・退避線のポイント上で環七通りの先の道路鉄橋を渡り、坂を降り始めるところ(拡大)
 ③線路はかなり降りてきて、二番目の道路鉄橋が見えてきたところ(拡大)
 ④線路はかなり下り、地上数メートルの内川鉄橋が見えてきたところ(拡大)


 ⑤線路は地上に降り、マルエツ前の通りの踏切(拡大)
 ⑥大森町駅付近最初に出来上がりの高架橋部分を潜るところ(拡大)
 ⑦大森町駅ホーム後部のホーム屋根が無いところで線路移動済み(拡大)
 ⑧大森町駅ホーム中部のホーム屋根があるところで線路移動済み(拡大)

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風景・風物詩 天王祭 品川神社例祭 (その2)

2007年06月23日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2007

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品川神社本殿
浅間神社付近から境内には、沢山の露天が出ており、そこから鳥居を二つ潜ると正面が品川神社本殿です。本殿直前にある石造鳥居は、1648年(慶安元年)に三代将軍徳川家光公の側近の堀田正盛の奉納で、上野東照宮に次いで都内では二番目に古いもので、石造水船(水盤)と共に奉納され品川区指定の有形文化財(建造物)です。

  石造鳥居          品川神社本殿     

現在の社殿は、大東亜戦争では戦火を免れましたが、老朽化により1964年(昭和39年)に新築され、境内には阿那稲荷社上社・下社、御嶽神社、浅間神社、道祖神社(石祠)等の末社と神楽殿があります。末社の浅間神社の参道に置かれている石造燈篭(写真再掲)は、慶安元年に亀岡政重(石工)と後藤光利(装剣具彫刻工)が寄進したもので、品川区指定の有形文化財(建造物)です。

   阿那稲荷社


                  石造水船(水盤)   宝物殿正面安置が葵神輿

御由緒
1187年(文治3年)に、源頼朝公が安房国洲崎明神の「天比理乃命」をお迎えして、海上交通安全と祈願成就を祈られたのを創始とします。
鎌倉時代末期の1319年(元応元年)に、二階堂道蘊公が「宇賀之売命(お稲荷様)」を、室町時代中期の1478年(文明10年)に、太田道灌公が「素盞鳴尊(天王様)」をそれぞれお祀りしました。
1600年(慶長5年)に、徳川家康公が関が原の戦いの出陣の際に参拝して戦勝を祈願され、その後の祈願成就の御礼に「天下一嘗の面」などを奉納されました。
1637年(寛永14年)に、三代将軍徳川家光公により東海寺が建立され、当社が鎮守と定められ「御修復所」となり、1694年(元禄7年)、1850年(嘉永3年)と二度の社殿焼失の際には、時の将軍の命により再建が行われる等、徳川家の庇護を受けました。
1868年(明治元年)には、明治天皇が新都東京の安寧と国家の繁栄を祈願されるため、当社を含む十社が「准勅祭神社」と定められました。

宝物殿
本殿の左に宝物殿があり、例大祭、正月、ゴールデンウィーク、11月の土・日・祝日、神社の祭典日に入場無料で公開され、葵の神輿や書軸、文書、面などの文化財が展示されております。

葵神輿
嘉永年間に徳川家光公の奉納で、江戸時代初期に作られた貴重な神輿で屋上に鳳凰を置き、胴の前部が唐戸で他の三面が牡丹唐草文毛彫の金銅板で飾り、屋根は立花文の型押しの金銅板で覆い、三葉葵の紋を四方に打ち出した神輿で、品川区指定の有形文化財(工芸品)です。明治時代に、勝海舟が「葵神輿」と名付けました。
宝物殿には、葵神輿の台棒金具が公開展示されています。

神輿の渡御の準備
神社をお参りし、宝物殿を見学してから境内の北側にある坂の参道を降ると、竜の彫り物の鳥居の左右の広場で、9日に行う町内神輿の連合渡御の惣町神輿と、10日に行われる宮神輿連合渡御の大・中神輿の準備をしておりました。

                        大神輿

皇室に御慶事のあった年に渡御する「大神輿(通称・千貫神輿)」は、1884年(明治17年)の奉納の神輿で、例年に渡御する「中神輿」は1924年(大正13年)に奉納された神輿です。
大・中の神輿の台座には穴が無く、担ぎ棒の台座下部には凹部が付けられていて、鳳凰と蕨手と担ぎ棒を太い綱で締め上げて固定します。

       中神輿          連合渡御の惣町神輿

渡御は、神輿の脇に大拍子を付け「品川拍子」を打ちながら行いますので、台座の下の縦棒は二本のみで、担ぎ手は前後に付けられた横棒を担ぎます。
渡御の神輿には、徳川家康公の奉納の「天下一嘗の面」の御神面を屋根に付け、「品川拍子」の拍子によって、お神輿の進行に緩急をつけたり、上げ下ろしが行われます。
・天下一嘗の面(国常立尊面・赤面さま)
徳川家康公の奉納で、室町時代の中期の作とみられ、江戸時代中頃の疫病が流行した時、「この面を神輿に付け町々を廻れば苦しみから救うぞ」との神様のお告げがあり、六月の例大祭にこの面をお神輿につけて渡御し、無病息災・幸福招来を祈願します。
・品川拍子
品川拍子は、「大拍子」と呼ばれる締め太鼓と、篠笛によって奏されます。起源は江戸時代初期の神輿奉納の時と伝えられており、現在伝承のものは明治時代中頃に、品川神社太太神楽と祭り囃子を加味して作曲したもので、「品川拍子保存笛睦会」会員により伝承されており、品川区指定の無形民族文化財(風俗習慣)です。

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風景・風物詩 天王祭 品川神社例祭(その1)

2007年06月21日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2007 写真拡大

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大・中神輿の渡御
品川神社の天王祭は、6月8~10日に行われました。今年の例祭は、秋篠宮悠仁親王ご誕生を祝い6年振りに本社大神輿渡御をし、毎年例祭で担いでる中神輿と揃っての合同渡御はめったに見られないお祭りにあたりました。

     大神輿説明拡大         中神輿説明拡大

北の天王祭と南の天王祭
品川神社(品川区北品川3-7-15 航空写真参照)は、京浜急行高架の新馬場駅を品川方向に進むとすぐ、第一京浜国道沿いの小高いところに鎮座しており、毎日の通勤電車の中から何時も眺めて通る見慣れた神社なのです。神社の正面には、53段の急な石段と左手に富士塚が目につきます。

   品川神社正面参道    急な石段の参道   神輿渡御が通る石段

京急の新馬場駅(1976年高架統合)は、高架になる前は北馬場駅と南馬場駅とで独立しておりました。
東海道五十三次第一の宿場として栄えた品川宿は、北品川宿と南品川宿に分かれておりました。現在、荏原神社(品川区北品川2-30-28)の南を流れる目黒川は、昔は神社の北側を流れており、この目黒川を挟んで、北と南で二分する一大勢力ともいえるそれぞれの地元の鎮守として信仰を集めた品川神社と荏原神社の例大祭が、「北の天王祭」(6月第2週)と「南の天王祭」(6月第1週)が金・土・日曜日にかけて盛大に行われます。

品川神社
品川神社は、何十年と何時も眺めて見慣れた神社なのですが、実は一度もお参りしたことがありません。品川神社の例祭には「おいらん道中」が見られることで知られており、何年かぶりの大・中神輿の渡御を楽しみにしておりましたが、残念なことに当日急な用事ができ6月9日の午前中だけのとんぼ帰りで品川神社をお参りし、お祭りのさわりだけに触れてきました。
品川神社のお参りは、柱に竜が巻きついた彫り物の鳥居を潜り、急な石段を登ると最初の踊り場の左手に、富士塚への登山道があります。富士塚に登ると、富士山に登ったのと同じご利益があるとのことで、登山してみることにしました。

富士塚
富士塚は、品川富士とも呼ばれ、富士山を信仰する富士講(北品川の丸嘉講)の人々が、富士山を遥拝する場所として1869年(明治2年)に造った人造の山です。その後、1922年(大正11年)に、第一京浜国道の建設のため西に数十メートル移動して、現在の場所に再建されたものです。
現在も毎年7月1日に「山開き行事」を行い、丸嘉講の人々は塚のふもとの浅間神社に、行衣の白装束で集まり、富士塚に登山して遥拝を行い、この富士塚は品川区指定の有形民族文化財であり、富士塚山開きは品川区指定の無形民族文化財に登録されてます。

  富士塚登山口      一合目石碑      登山道の石碑      四合目石碑    

今まで各社の富士講に登りましたが、品川富士は最も大きくて石碑が沢山建てられており、大変立派な富士山でした。頂上は、東面は海岸線でしたので、昔は遮るものが無く東京湾の遠望は絶景であったことが伺えます。現在では、天王州のビル群が一望です。

      五合目        六合目石碑   品川富士頂上からの展望

富士塚には、裏側にも登山道があり、そこを下山すると末社の富士浅間神社です。浅間神社を進むと品川神社境内の参道に繋がっています。

   富士塚裏の下山道       富士浅間神社      浅間神社から品川神社境内へ    

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大森町界隈あれこれ 大森町風景 梅屋敷公園京急高架化工事その後(第2回)

2007年06月19日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2007

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高架工事で占有された梅屋敷公園
梅屋敷公園の南口に来てみると、京急高架工事のため思ったより広く占有され、公園の内部が無粋な白い高い囲いの塀のため、景観の雰囲気が無粋な姿に変わり果てていました。
これでは、文政年間に「和中散」の売薬所の庭に梅の名木を集めて休み茶屋を開いたといわれ、広さも一時は1万平方メートルあり、広重の浮世絵にも描かれた梅屋敷はまるで形無しです。
明治維新後には、明治天皇が9回も行幸され、公園の名前にも「聖跡」が冠せられ聖跡蒲田梅屋敷公園と呼ばれています。
京急工事の占有以前の広さはおよそ4300平方メートルでしたが、思いのほか広範囲の占有(航空写真再掲 占有赤枠)であり、多数の梅の木も取り囲まれてました。


国道の拡幅でさらに削られる梅屋敷公園
梅屋敷公園は、旧東海道に接しており、昔の街道の幅は6mほどで現在の第一京浜国道の東端側面の位置にありました。1918年(大正7年)に国道の拡幅と、西側に京浜電鉄の開通により、公園はその都度狭められてきました。
現在、第一京浜国道は、東京都都市計画道路(幹線街路放射第19号線)による拡幅工事を、大森町駅付近から多摩堤通りまでの区間の1190mの工事計画で、幅員は約35~50mに広げることで進められてます。
この工事によりさらに削られて、梅屋敷公園(航空写真黄線道路拡幅 再掲)の分化遺産は消滅の運命にあります。


道路に面した境内を削られる近隣の神社
第一京浜国道の拡幅は、道の西側方向のみが広げられ、道路に面した公園の敷地や神社の境内がその都度削られてきました。第一京浜国道の西側道路に面した大森町近辺の神社には、盤井神社(大森北2丁目)、大森神社(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 大森神社(寄来神社)」参照)、貴菅神社(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 ささやかに鎮座する貴船(貴菅)神社」参照)などの諸社があり、これらのお社では道路拡張の都度境内が削られました。また、幹線街路放射第19号線拡幅工事により、境内がさらに削られる貴菅神社では、本殿を移して遷座する大きな問題を抱えております。


梅屋敷公園の昔の面影
工事で占有(航空写真赤枠内 再掲)の柵内の撮影は出来ませんが、2006年9月20日付けブログ(「大森町界隈あれこれ 大森町風景 梅屋敷公園」参照)で掲載していない公園の面影を求めててみました。
梅屋敷公園には、昔を示す「里程標」(復元)、狂歌堂真顔の歌碑(復元)、山本久蔵の句碑(復元)などの多数の石碑が残っております。

  里程標      山本久蔵句碑  狂歌堂真顔歌碑      歌碑説明板   

里程標の案内板には、「昔、梅屋敷山本家の門の傍に自然石の里程標の石碑がありました。
その高さは1メートルほどでその表面には、
 距日本橋三里十八丁 蒲田村山本屋
と刻されていたと伝えれています。木戸孝允、伊藤博文らが梅屋敷で新年宴会を開いた際、二人が合作した一幅中の木戸孝允の画にも描かれていました。戦後里程標は姿を消しましたが、資料をもとに復元しました。」と説明があります。

山本久蔵の句碑の案内板は、説明の文字が消滅して判読ができませんでした。

梅屋敷公園スポーツ施設
梅屋敷公園には、大田区のスポーツ施設として大田区体育館弓道場と相撲場があり、土曜日で両施設共に熱心な練習風景が見られました。




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大森町界隈あれこれ 大森町風景 梅屋敷公園京急高架化工事その後(第1回)

2007年06月17日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2007

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梅屋敷公園付近の高架化工事
京浜急行の高架化工事も急ピッチで、高架橋の架設準備が進んできました。
梅屋敷公園付近の高架化工事に伴い歴史ある文化遺産の姿を記録するため、昨年9月16日に梅屋敷公園を探索(「大森町界隈あれこれ(N32) 大森町風景 梅屋敷公園」参照)し、情報を集めました。

梅屋敷公園付近の高架橋の架設準備もかなり進展し、公園の一部を平成23年12月まで占有(公園の一部占有のお知らせ)して工事を行うため、かなりのスペースにわたり塀が設けられ、一般の利用が出来なくなることのお知らせがありました。
その状況を取材するため、前回から8ヶ月経過の5月19日に梅屋敷公園付近を探訪しました。

梅屋敷公園付近から多摩堤通り間の高架橋
先ず、梅屋敷公園付近の高架橋の架設状況を見るため、梅屋敷から京急本線沿いに多摩堤通りまで歩いてみました。歩いたコース(地図参照)は、梅屋敷駅から第一京浜国道に出て南下し、6輌編成の各駅停車の2輌のドアーを開けられない(ドアカット)理由の梅屋敷第1踏切(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 梅屋敷駅付近(第1回)」参照)を渡り、京急本線の西側通路を進みながら高架橋の架設状況を見てきました。

梅屋敷第2踏切(梅屋敷公園北側)付近の線路は、カーブ緩和のため下り線が平成17年12月に、上り線が平成18年2月に第一京浜国道側に約3mほど移動されております。

 左:梅屋敷第2踏切(地図①)から京急蒲田方面を望む(クリックで拡大)
 中:梅屋敷第2踏切(地図①)から梅屋敷駅方面を望む(クリックで拡大)
 右:梅屋敷第4踏切付近(地図②)から京急蒲田方面を望む(クリックで拡大)

梅屋敷第3踏切(梅屋敷公園南側)付近から梅屋敷第4踏切(多摩堤通り)の間では、部分的に高架橋の架設が進んでおり、この付近は京急蒲田駅に近く蒲田駅の高架化(「大森町界隈あれこれ(P32) 京浜急行の高架化 京急蒲田駅付近(第1回その3) 」参照)は上下線を別個にした2階建てで架設されるので、この付近の高架橋もその延長で2階建ての高架橋です。

 左:梅屋敷第4踏切付近(地図②)から京急蒲田方面を望む(クリックで拡大)
 中左・中右・右:梅屋敷第4踏切(地図②)から梅屋敷方面を望む(右クリックで拡大)


 左:第一京浜国道(地図④)から高架橋を望む(クリックで拡大)
 中:第一京浜国道(地図④)から高架橋を望む(クリックで拡大)
 右:梅屋敷第3踏切(地図⑤)から京急蒲田方面を望む(クリックで拡大)

文化遺産の消滅
梅屋敷第4踏切を渡り第一京浜国道に出て北上し、梅屋敷公園南側(梅屋敷第3踏切付近)から公園に入りました。公園の入り口付近は、高架化工事のための占有が思った以上に広く(梅屋敷公園航空写真参照)取られ柵が施され、柵内には貴重な文化遺産の複数の石碑が取り込められ、しかも工事のための建屋まで作られてました。

 左:高架化工事のため柵で占有された文化遺産の石碑(クリックで拡大)
 中:公園南口は工事のため人がやっと通れる程度に狭められた(クリックで拡大)
 右:工事のためかなりのエリアが占有され味気のない風情となった公園(クリックで拡大)

如何に、交通緩和のための公共事業とはいえ、文化遺産の保護の配慮を犠牲にした工事は寂しい感じです。特に、無形の文化遺産は、なくなれば二度と再現できません。このようにして、歴史的貴重な遺産は徐々に消えていきます。

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ITと技術 横浜火力発電所とキリン横浜ビアビレッジ見学 その3

2007年06月15日 | ITと技術
kan-haru blog 2007

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排熱回収ボイラー俯瞰
横浜火力発電所のACC発電設備の航空写真を見ると、巨大なタービン本館から7、8号系列各4基の排熱回収ボイラーの配列配置と、そこから高さ200mの排気塔まで導かれている排気道のレイアウトがよく分かります。

 左:タービン本館からの排熱を処理する排熱回収ボイラー(クリックで拡大)
 中:7号系列排熱回収ボイラーから排気筒への排気導管(クリックで拡大)
 右:排熱回収ボイラーからの排気を放出する7号系列排気塔口(クリックで拡大) 

ACC発電設備見学
展望塔の見学を終え、貸切バスでタービン本館、排熱回収ボイラーとツインタワーを一周する形でトウィニー・シアターに隣接した中央操作室に行きました。
中央操作室では、見学説明員の案内により見学を行い、先ず最初にACC発電の仕組みの説明を聞きました。
発電原理は、ジェット機エンジンと同じ構造のガスタービン内で、圧縮空気とともに天然ガスを燃やして発電機を回転させ、さらにその排気ガスを排熱回収ボイラーに送り、その熱で蒸気をつくります。作った蒸気でさらにタービンを回転させ、ガスタービンの回転と合わせて発電機を回して発電します。
蒸気タービンは、高圧、中圧、低圧の3種類のタービンで構成されており、ACC発電機の熱効率は49%もあり、在来の汽力発電の40%と比較するとかなりの効率です。このうち熱再利用の蒸気による熱効率は1%が寄与しているとのことです。

 左:ACC発電の仕組みの説明パネル(クリックで拡大)
 中:タービン本館の発電設備模型(クリックで拡大)
 右:ガスタービン、蒸気タービン、発電機模型(クリックで拡大)

タービン本館見学
ACC発電の仕組みや発電設備の構造を理解した後、タービン本館で発電設備の中枢機能のガスタービン、排熱の再利用で回転する蒸気タービンと発電機を見学しました。7、8号系列の8基の発電設備が稼動している、戦艦大和がすっぽりと入る建屋はさすが大きく壮観でした。

 左:8号系列の発電設備(クリックで拡大)
 中:7号系列の発電設備(クリックで拡大)
 右:発電設備の左方から発電機、中央円筒系は高圧・中圧・低圧蒸気タービン、右方箱状はガスタービン(クリックで拡大)

中央操作室見学
タービン本館とT字状につながっている中央操作室は、横浜火力設備を集中監視制御を行う中枢設備で、24時間体制で運用しております。中央監視室の映像は、撮影禁止のため横浜火力発電所ホームページから引用しました。
火力発電所の目的は、電力の供給がピーク需要時間に限られ日中のみの発電となります。見学時間は、ちょうど15時頃で8号系列の1、3、4号機の3基が稼働しておりました。電力の需要の年間のピークは、横浜火力発電所管内では7、8月の夏季が最大となります。

 左・中:ACC発電設備の発電量表示盤
 右:中央監視室(東電から引用)

キリン横浜ビアビレッジ見学
火力発電所の見学を終え、貸切バスにてキリン横浜ビアビレッジを見学しました。
キリン横浜ビアビレッジは、昨年10月22日に異業種交流会分科会の有志で見学(「イベント(9) キリン横浜ビアビレッジ見学」参照)をしたところで、今回2回目の見学です。
横浜で生まれたキリンビールは、2007年2月23日に創立100周年を迎え工場見学施設をリニューアルし、ブルワリーツアーガイドがビールの製造工程(原料、仕込み、発酵・貯蔵、ろ過、パッケージング)の案内で見学します。工場内は、撮影禁止のため写真掲載はありません。


前回の見学は、休日に行ったので工場ラインは停止してましたので、平日の今回は期待してたのですが、またも停止でガッカリしました。
麦芽やホップに触れたり、まだアルコールになっていない麦汁を試飲し、工場の環境への取り組みなどを聞いたりして、1人2毎渡された券で出来たてのビールを試飲して見学が終了です。
見学後、希望者による構内レストランのビアポートで折紙付き、最高レベルの状態
のビールで懇親しました。

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ITと技術 横浜火力発電所とキリン横浜ビアビレッジ見学 その2

2007年06月13日 | ITと技術
kan-haru blog 2007 写真:タワーを下から見上げる(拡大)

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タワー展望台見学
トゥイニー・シアターでの映像説明を見てから2班に分かれての見学で、展望台を先に見学する組となりツインタワー8号までの移動は貸切バスで向かいました。
発電所の構内は広大なため見学者や職員の移動は歩行では行けません。職員の移動は、車または自転車を利用しているそうです。
ツインタワーは、7、8号系列の排熱回収ボイラーからの排ガスを脱硝装置により、窒素酸化物を低減させた後の排気のため、高さ200mの2基のタワーにそれぞれ4本の煙突を束ねた巨大な排気塔で、四季折々に調和して合わせたライトアップにより東京湾のシンボルになっております。

 左:8号系列タワー脇から見た在来型排気塔(クリックで拡大)
 中:8号系列タワー脇から見た7号系列タワー(クリックで拡大)
 右:展望室エレベーター

展望室は、8号系列のタワーの高さ180mのところに展望室が設けられており、4本の煙突の隙間の東西南北の位置に4室設けられており、中央部にエレベータと展望室間の通路があります。
午前中の強い雨はおさまりましたが、まだ雨雲が残っており遠望はできませんでしたが、まず東側の展望室から時計回りに30分ほど巡回して眺望を楽しみました。

 左:タワー展望室
 中:円筒壁は煙突の周囲、通路の奥は展望室
 右:タワー煙突の製造銘板(クリックで拡大)

・東側展望風景
東側展望室から東北東を望むと、川崎市の京浜運河沿いに石油、LNG基地が点在し、その先に天気が良ければ東京国際空港が見られます。目を東に向けると、扇島の東京ガスや扇島火力発電所が見られます。東南東の眼下には、首都高速湾岸線の華麗なつばさ大橋が見られ、晴れていればその先にアクララインの橋梁が見えます。

 左:東芝西分工場、横浜市環境事業局 ふれーゆから扇島火力発電所右先端を望む(クリックで拡大)
 中:扇島東京ガス方面を望む(クリックで拡大)
 右:首都高速湾岸線つばさ大橋(クリックで拡大)

・南側展望風景
南側展望室から運河の対岸を見ると埋立面積は322haの大黒ふ頭で、横浜港の公共施設における取扱貨物量の約44%を取り扱う横浜港最大の近代的ふ頭です。真南の辺に、在来型発電設備の排気塔の先端が見え排気の白い煙が立ちのぼってます。埋立地の西端には、大黒ジャンクションがありそこから横浜ベイブリッジで横浜繁華街に繋がり、また首都高速神奈川5号大黒線が鶴見区の1号横羽線と結ばれています。

 左:つばさ大橋に結ばれている対岸の大黒ふ頭(クリックで拡大)
 中:南真正面に見える展望塔とほぼ同じ高さの在来型排気塔(クリックで拡大)
 右:大黒ふ頭の西端の大黒ジャンクションと横浜ベイブリッジ(クリックで拡大)

・西北側展望風景
南側展望室からの展望は、西空が生憎と厚い雲に閉ざされ視界が悪く見えませんでした。天気が良ければ、山下埠頭、大桟橋ふ頭、赤レンガ倉庫、ランドマークタワーから、横浜・神奈川の市街地が一望できるところです。
また、7号系列のタワーのはるか先に鶴見の総持寺の屋根が見えます。屋根の大きさより、本堂はかなり大きな建屋であることが、窺えます。

 左:山下埠頭方面を望む(クリックで拡大)
 右:総持寺方面を望む(クリックで拡大)

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ITと技術 横浜火力発電所とキリン横浜ビアビレッジ見学 その1

2007年06月11日 | ITと技術
kan-haru blog 2007

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雨の横浜火力発電所見学
5月17日の午後1時から、所属する部会の見学会で、東京電力横浜火力発電所とキリン横浜ビアビレッジ(地図参照)の見学をしてきました。
当日は、貸切バスにて横浜火力発電所に向かいましたが、前日からの激しい雨が降り続き、発電所正門玄関前に着いた時には、土砂降りの中を駆け込んで入るという状態でした。しかし、映像による設備の紹介を見ている間に雨はほとんど降りやんで、遠望は望めませんが横浜港周辺までなら見られる程度に回復してきました。

発電所設備
東京電力横浜火力発電所(横浜市鶴見区大黒町11-1)は、JR鶴見駅からバスで20分の距離で、鶴見川沿岸の埋め立て地の先端にある敷地面積が、横浜スタジアム16個分の約45万平方メートルの巨大なところに、1963年(昭和38年)から稼動の従来型の発電出力が52.5万KWの汽力発電5、6号機(1~4号機は廃止)と、発電出力が280万KWのACC(改良型コンバインドサイクル)発電設備の7、8号系列の発電設備の新旧システムを組み合わせた発電所です。
発電所の広い構内の約25%を占める緑地には、月毎に咲く草木が植えられており、環境保全の施設が設けられております。


                      横浜火力発電所全景(クリック拡大)

汽力発電設備
従来型の汽力発電5、6号機(見学対象外 発電所全景参照)は、発電所正門から入って右手の構内通路に接して発電設備棟があり、手前から奥に向って廃棄された1~4号発電設備の設置跡があり、その後ろ奥に稼働中の5、6号機があります。手前の5号発電設備は、1964年稼働で出力が17.5万KWの東芝製三相交流同期発電機と3流排気式復水型タービン(50/s回転)が設置されています。奥側の5号発電設備は、1968年稼働で出力が35.0万KWの東芝製三相交流同期発電機と4流排気式再熱復水型タービンが設置されています。

発電設備棟の右手裏には、石川島播磨重工業製のボイラー(発生蒸気566℃、16.6Mpa)を設置した棟があり、その先にツインタワーの展望塔(180m)と同じ高さ程度ある集合排気塔が建っております。
汽力発電設備の燃料は、川崎市東扇島火力発電所LNG基地から送られてくる液化天然ガスと原油を使用します。原油は、構内の貯蔵タンクに貯蔵されています。

  従来型汽力発電設備棟と集合排気塔   ツインタワー脇から見た集合排気塔  

ACC(Advanced Combined Cycle)発電設備
ACC発電は、汽力発電とガスタービン発電を組み合わせた発電方式で、単独の汽力発電と比べると49%と熱効率が高いのが特徴です。
発電設備(発電所全景参照)は、発電所正門から入って左がトゥイニー・シアターで、奥が中央操作室です。その後ろの8個の変圧器群の先に、巨大なタービン本館があり、左側半分に7号系列、右半分に8号系列の高圧・中圧蒸気タービン、低圧蒸気タービンと発電機の両系列合わせて8機が、戦艦大和がすっぽり入るタービンフロワーに納まっています。
発電機は、7、8号系列共GE社製の8機の横軸円筒回転界磁型三相交流発電機(35X4軸 =140万KW X 2系列)が、平成8~10年に営業運転を開始しております。

両系列の蒸気タービンは、GE社製の三圧再熱複流排気復水式で、排熱回収ボイラーからの蒸気の力で回転しています。
タービン本館の後ろ側に8棟の排熱回収ボイラー棟があり、航空機用のジェットエンジンと同じ構造のGE社製の開放単純サイクル一軸型のガスタービンを、圧縮空気中で燃料を燃やして強力な膨張力でタービンを回します。ガスタービンからの排気熱(600℃)を利用して排熱回収ボイラーが蒸気を作り、蒸気タービンに送ります。排熱回収ボイラーは、7号系列が東芝製で、8号系列が日立製の加熱回収三圧再熱自然循環式のボイラーです。
中央操作室では、発電システムの各プロセスを監視して、集中制御を行います。

         排熱回収ボイラー模型(7号系列東芝製、8号系列日立製)
発電所見学
今回の発電所見学は、先ず映像による紹介が30分ほどあり、その後2版に分かれ発電設備とタワー展望室の見学を行い、タワー展望から先に見学しました。

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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第2編 天皇制の問題集 第3回

2007年06月09日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

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日本国憲法
日本の現憲法が成立したのは、1946年11月3日で、施行日は翌47年5月3日です。
当時の政府は、ポツダム宣言の要求に従うには、基本的人権の尊重をより強化するよう憲法を改正しなければダメだという程度の認識は持っておりました。
GHQは、憲法改正を必要としながらも、改正は日本のイニシアティブで行われるべきだと考えており、1945年10月、憲法改正、人権確保のための五大改革を当時の幣原喜重郎首相に要求し、同首相は松本烝治国務大臣を長とする憲法問題調査委員会を設置し、改正案づくりにとりかかりました。

1946年2月1日、毎日新聞が憲法問題調査委員会のつくった草案を掲載し、それを見たGHQは、予想とはかけかけ離れて天皇を主権者とし明治憲法と殆ど変わらないものなので、日本国政府につくらせるわけにはいかないと決断しました。
2月3日、民生局長のホイットニー准将に象徴天皇、戦争放棄、封建制は意思の三原則に基づくGHQ草案をつくるよう指示し、秘密裏のに作業が進められました。
何も知らない日本政府は2月8日、改正案をGHQに提出しましたが、これを握り潰して、13日に日本政府に政府案の拒否を告げ、同時にホイットニー草案が渡されました。これが現在の日本国憲法となったのです。

日本政府は絶対権力者であるGHQの指示に従うしか方法はなく、GHQ草案をを日本文に訳し、日本が自主的に作成した形をとって、3月6日に公表したのです。新憲法制定の手続きは、大日本帝国憲法の改正という形式を踏んで、枢密院に諮詢し可決、次に帝国議会に提出し、若干の修正後、衆議院、貴族院で可決、11月3日に公布されました。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) 天皇制の問題集 第3回

 無智な山奥の老婆は
天子さまも戦さに負けておいたわしい。東條の奴らにくたらしいたらないぞ、無智と云われようが、無批判と罵られようが、我々庶民は戦争に対する責任は絶対に陛下にはないと信ずるものである。
日本国民を欺瞞し、之をして世界征服の挙に出ずるの過誤を犯させしめたる者の権力及勢力

即ち、かっての我が国の指導者である現在の戦争犯罪人の一連を心から憎まざるを得ぬ。

 日露戦争の時
  明治天皇御製
   四方の海みなはらからと思ふ世に
     など波風のたちさわくらむ

この御製の翻訳を読んだ当時のアメリカ大統領閣下は、明治天皇は真の平和愛好者であるとし、日露和平に協力せられたる由に聞く。
今回の戦争開始の御前会議に、今上陛下は右御製を御読み上げになり
 朕は常にこの御製を拝誦して、故大帝の平和愛好の御精神を紹述せんと努めて居るものである。
と宣せ給うた旨、故近衛公の手記にある。
近く憲法も改正される今日、こうした特権階級、虎の威を借る柧共の再び生まぬように天皇制の改正は出来ぬものであろうか。

これに対し、全国民の真意を吐露せるものとして、南原帝大総長は、本年の天長節式典で「天長節に際して」として大要左のような講演をせられたのである。
  
 ○悲壮なる御命運
  我が国歴史始まって以来、今上陛下ほど最も多事多難な時代に、最も悲壮な運命を担われた方はないと申してypかろう。
  御即位後、幾多の不祥事件、五・一五、二・二六等重大なる事件、更に満州事変、支那事変、そうして、遂に太平洋戦争に突入したのである。
  一個の人として、何よりも平和を愛せられ、立憲国の君主としては国民の意志の総てを尊重せられ、およそ独裁あるいは英雄的な王者型ではあらせられぬこの天皇の時代に、この重大なる戦乱の起こった事は、何としても日本民族の悲劇的な運命と云わねばならぬ。
 天皇の英断が、なぜこうした事件を止めることが出来なかったと云う嘆声を発する者もあるが、あの專暴の限りを尽くした軍閥、これに迎合した超国家主義者の力の前に、重臣等が之を阻止し得ず、歴代の内閣が却って之を支持してこれに参加し、国民の唯一の代表機関たる議会が付和雷同し、言論機関迄がこれを謳歌しておるその中で、この事を天皇に要望するのは、不可能を要求し奉ることと同じ事である。

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大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 浅間神社例祭

2007年06月07日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
kan-haru blog 2007

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浅間神社
好天に恵まれた6月2、3日は、浅間神社(せんげんじんじゃ)の例祭でした。
浅間神社(大森西2-2-7 地図参照)は、環七通りに面してありますが、昔は沢田村の鎮守様で1716-1736年の享保年間に富士山本宮浅間神社を勧請した神社であり、鳥居の傍には冨士講の記念石碑があります。
浅間神社の由来(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺(2) 浅間神社」参照)によりますと、1918年(大正7年)に耕地整理のため移転し、その後また、氏子の増加と道路拡張のため1940年(昭和15年) 現在地に遷座したといわれております。


例祭前の道草
大森町駅から商店街通りを西に、さわやか信用金庫の四つ角を右折して北に直進すると左手の大森学園高(「大森町界隈あれこれ 大森町学びや もりこう会の集い(その1)」参照)の前に、「おもちゃの病院」のプラカードを生徒が掲げて立っておりましたので、興味を持ちちょっと寄道しました。
おもちゃの病院は、エントランスの上階の多目的スペースで実施しており、ちょうど修理中のおもちゃが直ったところに遭遇し、待っていた子供が喜んで修復したおもちゃ動かしておりました。
修理を行う生徒に聞いてみたところ、「故障のおもちゃの部品が入手できないのが悩みです」と言っていました。


例祭の露天出店数は大森町随一
「おもちゃの病院」の寄り道を早々に退散し、例祭へと向かいました。内川を渡り右手に氏神様の諏訪神社(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 諏訪神社例祭」参照)の脇を抜けて直進し、環七通りが見える傍に沢田東町会神酒所があります。


浅間神社の氏子は、大森北六丁目沢田町会、大森沢田西町会、大森西二丁目三和会、大森沢田東町会の各地域が氏子会となっております。
環七通りに出ると歩道の角から露天が立ち並び、東邦医大通りの角まで隙間なく続き、神社境内の露天と合わせると、大森町の神社例祭の露天数では最大の出店を誇ります。
例祭初日の夜は、奉納演芸があり遅くまで大変と賑わい、明かりに灯された夜店はどことなく哀愁が漂いお祭りの気分を盛り立てます。


大森町以外の大田区の露天の出店数の多い祭事には、池上本門寺のお会式(「風景・風物詩(B9) 秋の風物詩 池上本門寺のお会式」参照)や、大森鷲神社の酉の市(「風景・風物詩(B10) 秋の風物詩 酉の市 大森鷲神社」参照)などは、特に群を抜いております。

浅間神社の神輿と太鼓曳き巡行
例祭2日目は、神輿と太鼓曳きの巡行です。浅間神社は、東京では名うての交通量が激しい環七通りに接しております。神輿と太鼓曳きは、神社からの宮出しと宮入の巡行は環七通りがメインとなりますので、通りが空いている日曜日に行われます。


浅間神社の神苑内には、浅間(あさま)幼稚園があります。例祭の2台の太鼓曳きには、幼稚園児をはじめとして、沢山の幼児や児童が参加して、とても賑やかでした。


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大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第7回)

2007年06月05日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2007

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大森町駅付近の下り線路移動工事
大森町駅付近の高架化工事も高架橋建設を目指してたけなわとなり、5月26日の深夜から27日の未明にかけて、終電後から初電までの電車が動かない僅かな時間を利用して、下り線の線路を東方に約1.5m移動する大工事(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第6回) 」参照)が行われました。

工事により、大森町商店街通りは、自動車とバイクが22時30分から5時30分まで、自転車と歩行者が24時20分から4時40分まで全面通行止として、その間の通行者は迂回図に従って通ることになります。
21時頃から、踏切近くの要所要所の道路・路地には、交通整理員が張り付いて通行の誘導が行われました。
線路を移動させる工事作業者は、22時ころまでに10~20人の班構成に分れて、三々五々とおよそ百数十人ほどの作業者が深夜の工事現場に集結しました。この日は、東京中から交通工事のベテランが集まった様です。


線路移動の準備
下り線路の移動は、大森町駅ホーム北方から商店街通り踏切南方までのおよそ300mほどの区間の線路を、枕木をつけたままの形態で人海的に動かすのです。今回は、交通遮断しての深夜作業のため線路移動の模様の取材観察は見に行きませんでした。

線路の移動には、その準備が必要であり、これまでの記事の中で何回も触れておりますが、まずホームの位置をずらす必要から改札機の移設が行われ、駅事務所・出札機とトイレを移し駅売店を閉鎖しました。また、ホームを削り取るためホーム屋根の付け替えとホームへの階段通路が移されました。
電車の線路を移動するため、電車架線を支える架線電柱も付け替えられ、線路脇の信号機や制御装置収納の制御盤と、踏切警報機と遮断機が移設され線路移動の準備が26日までに整いました。


線路移動工事
線路移動工事は、終電車の通過の後、最初に商店街通り踏切道の路盤を撤去すると共に、ホームを1.5m切断する作業が行われました。
今回は、直接には見られませんでしたが線路の移動は、軌道路盤を整備してから行われ、27日の初電は支障なく運行されました。

   移動前(26日)の線路(左側)     移動後(27日)の線路(左側) 

   移動前(26日)の線路(右側)     移動後(27日)の線路(右側)

次回は、6月17日に上り線路の移動工事が行われる予定ですので、何とか取材の都合をつけて直接見たいと思っております。

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毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(5月分掲載Indexへ)
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大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 諏訪神社例祭

2007年06月03日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
kan-haru blog 2007

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夏日で快晴の5月26、27日は、氏神様の諏訪神社の例祭でした。

諏訪神社氏子
諏訪神社(大田区大森西2-23-6)は、大森三丁目連合町会と大森山谷自治会の地域が氏子会となっております。1949年から居住している私宅の現住所は、大森三丁目連合町会ですので諏訪神社が氏神様です。大森町には、戦前の昭和13年頃から大戦時の学童疎開までの間にも、現在の大森東二丁目に居住しておりましたので、諏訪神社の氏子でした。
ただ、終戦後は大森町周辺一体は焼け野原で、疎開から引き揚げの仮住居は、現住所の大森東二丁目に一時期居りましたので、その間の氏子は貴船神社(前回ブログ参照)でした。

          快晴に恵まれた例祭(文政七年と刻まれた鳥居)

諏訪神社との触れ合い
大森町に住んで66年の間、貴船神社の氏神様が、戦時下の悲惨な生活時代から、現在の平和な時代までの家族の成長を見守って頂いたのですが、幼少年期の戦時体験や疎開などで、我々年代は現在のような楽しいお祭りの体験などはできなかったのです。
戦時中の諏訪神社祭礼風景として、町会の人気者の床屋さんが少しでも子どもたちを喜ばそうと、違法を知らずに自作の樽神輿を作り、祭礼当日神社に担ぎ込んだ貴重な写真が、一年前のブログに掲載(「大森町界隈あれこれ(22) 大森町の社寺(1) 諏訪神社その3」参照)してあります。戦時下の影響を受けって暗い生活でしたが、隣組の付き合いでは下町の人情は残っており、いまでは遠い昔のノスタルジアな、ちょっと悲しい想い出の一コマです。

戦後の復興期の社会にでてからの時代は、仕事の忙しさにより神社との接触は殆ど縁が無い状態でした。その頃は、まだ国も個人も貧しく余裕の無い時代でした。
1965年(昭和40年)代に入ると、日本もやっと成長が始まり、暮らしが少し豊かになってきましたが、諏訪神社では大人神輿の担ぎ手がいなく、地方に神輿を寄付した経緯もあります。ある年の子供神輿巡行に、例年の休憩場が使用できず、自宅の庭を臨時に使用したことが有り、お神輿が庭に入ってきたと孫が大喜した記録も上記ブログに掲載してあります。

                        ちびっ子お囃子連

諏訪神社の由来と漁業納畢之碑
諏訪神社の由来についても、昨年のブログ「大森町界隈あれこれ(22) 大森町の社寺(1) 諏訪神社その1」に掲載してありますので参照してください。

大森町では、1964年 (昭和39年)に、 300年にわたる海苔養殖業に幕をおろすこととなり、その終焉を記念して「漁業納畢之碑」を、諏訪神社と貴船神社に建てられ、諏訪神社の碑についての経緯と碑文が上記ブログで見られます。
また、貴船神社の漁業納畢之碑については、貴船神社(前回ブログ参照)に掲載してあります。

                          大繁盛の露天

諏訪神社例祭
今年の例祭は、快晴の夏日に迎え例年より参詣人は多かった様です。例祭の模様を2日にわたりスナップしました。
大森西三丁目町会では、太鼓曳きと子供神輿のパレードが、お囃子車を先頭にして、町内を一巡しました。

                    大森西三丁目町会パレード

大森山谷自治会パレードは、27日の午後お囃子車の先導で、大人神輿、子供神輿と太鼓曳きが、旧東海道、羽田街道(するがや通り)を通り町内を一巡しました。


                  旧東海道を往く大森山谷自治会パレード

あっ! 大人神輿が大森警察署に入りました。続いて子供神輿も警察署に入りました。パレードで交通違反を起こして、お神輿が逮捕されたのかな。
おめでたい例祭に何としたことかと思っていると、警察のお偉いさんと共に、手締めがはじまりました。
なんだ、警察署も諏訪神社の氏子なんだ。これは、大森山谷自治会恒例のパレード終了の手締めの儀式でありました。


                  大森警察署内に入る大人神輿


                  大森警察署内に入る子供神輿        
奉納演芸
奉納演芸は、諏訪神社の恒例の催しで、2日間にわたり開催されます。
初日には、日中にちびっ子お囃子の演奏から始まり、夕方からシニアのコーラスと踊りに、カラオケ大会とあり、2日目には踊りを楽しめます。
特に、今年はコラボからちびっ子の、よさこいソーラン踊りの飛び入りの出演があり、人気を博しておりました。

                   奉納チビッコよさこいソーラン踊り


                    奉納演芸シニア大会

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番外編 カテゴリー別ブログ記事の検索と見方 [付 kan-haruの日記6月月間INDEX]

2007年06月01日 | INDEX
kan-haru blog 2007

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ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その1)  2007年1月30日 更新
ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その2)  2007年1月22日更新
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番外編 ブログ記事の参照地図を拡大して見る方法 [付 kan-haruの日記3月月間INDEX] 2006年4月1日

  大森町界隈あれこれ カテゴリー別目次

 1 大森町界隈あれこれ 大森町に住んで65年!
 2 大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記 総目次
  2-1 大森町界隈あれこれ 鎮魂! 大森町大空襲 (第1編)
      付 東京大空襲 ~あれから61年~
  2-2 大森町界隈あれこれ 手記第2編 戦災日誌中野編
  2-3 大森町界隈あれこれ 手記第3編 戦前戦後目黒にて
 3 大森町界隈あれこれ 戦後編若山武義氏手記 総目次
  3-1 大森町界隈あれこれ 戦後史編手記 第1編総目次
  3-2 大森町界隈あれこれ 戦後史編手記 第2編総目次
  ■ 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第2編 天皇制の問題集 第1回 5月3日
  ■ 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第2編 天皇制の問題集 第2回 5月15日
 4 大森町界隈あれこれ 大森町の社寺
  ■ 大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 貴船神社 5月30日
 5 大森町界隈あれこれ 大森町商店街
 6 大森町界隈あれこれ 大森海苔
 7 大森町界隈あれこれ 京浜急行
  ■ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第3回) 5月6日
  ■ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第4回) 5月8日
  ■ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第5回) 5月10日
  ■ 京浜急行の高架化 梅屋敷駅付近(第1回) 5月13日
  ■ 京浜急行の高架化 梅屋敷駅付近(第2回) 5月26日
  ■ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第6回) 5月28日
 8 大森町界隈あれこれ 大森町風景
 9 大森町界隈あれこれ イベント
10 大森町界隈あれこれ 大森町学びや

  一般 カテゴリー別目次

21 風景・風物詩 総目次
22 小さな旅 総目次
  ■ 小さな旅 立川 国営昭和記念公園 5月20日
  ■ 小さな旅 久里浜 くりはま花の国 その1 5月22日
  ■ 小さな旅 久里浜 くりはま花の国 その2 5月24日
23 旅ものがたり 総目次
24 秋葉原界隈 総目次
25 イベント 総目次
  ■ イベント タイムスリップした趣きあるお部屋「花みち」で開催の異業種交流会 5月17日
26 ITと技術 総目次
27 Weblog 総目次

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