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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第6回

2007年03月29日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

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終戦直後のカルシウム源
この4月1日には、大森町の中央部を西から東に流れる内川河口付近に「大森ふるさとの浜辺公園」(「大森町界隈あれこれ(N30) 大森町風景 大森ふるさとの浜辺公園の砂浜開放」参照)がオープンします。
内川河口は、このブログの第2、3回で記述してある通り、戦後疎開から戻ってきた時の大森ガス会社横の事務所跡の仮住居(再掲地図⑩参照)でありました。戦災後の再掲地図で見るように大森町の大空襲時(「大森町界隈あれこれ(15) 鎮魂!大森町大空襲(第8回) 」参照)には、ガス会社と内川対岸の日本特殊鋼と並んだ大工場が辛うじて戦災から免れたため、それに挟まれたガス会社沿いの路地周辺に面した10数軒の建物が焼け残りましたので、取りあえずの戦後の仮住居が確保されたのです。

昔の大森町は海岸淵
大森ふるさとの浜辺公園の場所は、62年前の小学6年の後半から中学3年まで(「大森町学びや もりこう会の集い(その1~4)」参照)の間過ごした仮住居と隣接した所縁のある場所で、そこに何と大森ふるさとの浜辺公園が出来るとは誠に隔世の感があります。
当時は、内川河口が東京湾の沿岸であったのですが、東京オリンピックが開催された頃には、埋め立てにより海岸線は遥か数キロ先となっております。
大田区、品川区の第一京浜国道(国道15号線)沿いにはところどころ旧東海道が残っておりま、昔はその旧東海道(品川区)は海岸線に沿って通っておりました。また、京浜電車(現在の京浜急行電鉄)の大森海岸駅付近の海岸には、大森大海水浴場(「大森町界隈あれこれ(3) 大森町に住んで65年!(その3)」参照)があったのです。

昔の大森は江戸前の宝庫


開園予定の大森ふるさとの浜辺公園は、かっての大森海岸を再現した入江や干潟の浜辺で磯遊びを楽しむ憩いの場所となります。戦前は、大森近辺の東京湾は魚介類の宝庫で、江戸前と云えばこの辺で採れたあなご、はぜ、蝦蛄や蛎はすし種の一級品でした。また、江戸時代以前からの浅草海苔の一大養殖場で、現在も大森町に続く加工技術により作られている乾海苔の味は、他では追従が出来ません。

戦争末期には漁業が行えなかったため、終戦の時には東京湾の魚介類は殖えておりました。大森ふるさとの浜辺公園になる前の海浜では、ハゼの宝庫で小学6年の秋には、小一時間足らずで100~150匹も釣れる大漁でした。潮の良いときをみてはぜつりに精を出し、ハラワタを出し天日干しをして、正月までのカルシウム源として貴重な食材でした。

当時は、非常な食料難で食料は配給制で、本来主食は穀物なのですが一粒も配給にならず、キューバ糖や芋がらが代用品という大変深刻な時代でした。魚の配給も、たまに配られる時は何時も「すけそうだら」ばかりで、ハゼは高級な食材でした。
ハゼ釣り餌の「ごかい」は、干潮時には仮住居の脇の露出したヘドロに膝まで浸かると幾らでもとれました。
何時の時代でも、海は自然の宝庫です。開園の大森ふるさとの浜辺公園は、平和の維持を願い大切にして行きたいと思います。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) マッカーサーの進駐 第5回
巧みなアメリカの宣伝
茲にアメリカの散布した宣伝ビラの二、三を記録して置こう。
初めのうちは好奇心であった。何を書いてやがるかと読むには読んでも、待って居たら一寸来いで、先ず当分おてんとうさまをおがむ事が出来ないから、みんな焼き捨ててしまったが、読みての上の我等の当時の心境は
  軍民離間策 厭戦思想喚起の文句
と判断し、いくら戦争は敗退の上敗退でも、こんな事に迷うものかと冷笑して居ったのである。ただ然し
  洗練された其の文章と美事な筆跡
には感嘆の外なかった。其の内、通俗的でよく講談で知られた「鍋島の猫騒動」の一節を持ち出し、麗人お豊の方が化猫にのどを喰いつかれ悲鳴を上げている図を画き、説明して曰く

「この化猫は、国民の生血を吸っている軍閥である。軍閥は本国より遮断されている何十万と云う若者を無意味に犠牲にして居る。又国内の人民に必要な衣食薬品の供給を怠り、国家を衰微に導いて居る。
かみ殺された美しいお豊の方は、軍閥が破壊した立憲政体に相当し、明治大帝の御命令にそむいて、軍部は政治に口ばしを入れ、彼等は国家を守るより、寧ろ滅亡の窮地に陥れた。
最後にこの化猫は忠義な伊藤宗太と云う武士に皮をはがれ、村人に追いまくられころされた。」

これは再び平和と繁栄を取り戻す為めに忠義な日本人は、
  天皇陛下並に国民を惑わした軍部を滅せ、
と。陛下と国民と軍部とを別にしている。然し単なるこの物語を利用するなど、敵も中々さるもの、軍民離間の宣伝はたしかにうまいものだと感心したのは当時の事である。

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