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kan-haruの日記

イベント 江戸東京博物館 幕末の絵師狩野一信が描く100幅の五百羅漢図を見るその3

2011年05月30日 | イベント
kan-haru blog 2011 第83幅部分拡大  

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その2に続き、展示された第11幅からの五百羅漢図の各場面を観賞して回ると、第81~90幅の「さまざまな天災、人災からの救済を表す場面」で地震や台風・洪水などの天災・人災が描かれており、大変とショックを受けました。東日本大地震は、五百羅漢図の時代から変わることなく地震、津波の天災により大災害を被りました。さらに今日では放射能の人災の災害が新たに加わりました。これを契機に復興を図り、さらに人智を尽くして天災から守り、人災をなくすことを明日の日本のために進めなければなりません。

第11~20幅
第11~20幅の「自ら懺悔し、出家者や異教徒を教化する場面」は、第11、12幅が「授戒」で僧になろうとする人に戒律を授ける場面、第13、14幅が「布薩」で羅漢達の反省会の場面、第15、16幅が「論議」で羅漢達の議論の場面、第17、18幅が「剃度」で仏門に入る少年を剃髪する場面、第19、20幅が「伏外道」で異教徒の外道を力ずくで入信させる場面が描かれています。ここまでの、第20幅までが五百羅漢図のプロローグです。

 第11幅部分拡大(第11幅 授戒)

第21~40幅
第21~40幅の「生前の罪により巡る地獄など六道から救済する場面」は六道輪廻の描写で、第21~24幅が「六道 地獄」で地獄の描写は一信がもっとも意気を込めて筆を走らせた場面であり、第25~28幅が「六道 鬼趣」で餓鬼道を描いた場面、第29、30幅が「六道 畜生」で畜生道を描いた場面、第31、32幅が「六道 修羅」で阿修羅道を描いた場面、第33~36幅が「六道 人」で人道を描いた場面、第37~40幅が「六道 天」で人道を描いた場面が描かれています。この第21~40幅は「第1部」であり、六道 地獄の絵は恐ろしいほど迫力のある絵で、ざっと見て歩きましたがここまででかなり疲れがでてきました。

 第22・23幅部分拡大(左:第22幅六道 地獄、右第23幅六道 地獄)

第41~50幅
第41~50幅の「12の衣食住に関する欲を取り除く修行の場面」は「第2部」でここからの羅漢図はさらに凄みが増していきます。第41、42幅が「十二頭陀 阿蘭若」で羅漢たちが仏像を彫ったり、数珠を作っているところを描いており、一信が西洋画法に傾斜していき、透視遠近法的な表現になっています。第43~50幅は、「十二頭陀 常乞食、次第乞食、節食之分、中後不飲漿 一座食 節量食、衲衣、但三衣、冢間樹下、路地常座」で羅漢達の托鉢や裁縫、洗濯と路地修業が描かれています。第45、49、50幅では陰影法を駆使して一信の独創的な表現法を生み出しています。

 第45・49幅十二頭陀(左:第45幅十二頭陀 節食之分、右:第49幅十二頭陀 冢間樹下)  

第51~60幅
第51~60幅の「神通力を発揮する場面」は「神通」で羅漢達の超能力の神通力を描いており、突飛な発想で羅漢の頭から水が噴き出したり、羅漢が顔の皮を剥ぎ観音菩薩であることを示したり、鏡面から放たれる釈迦のビーム(その2部分拡大参照)を描いたりの突飛な構想はここで終わり、「第2部」のハイライトである。

 第51・55幅部分拡大(左:第51幅神通、右:第55幅神通)

第61~70幅
第61~70幅の「禽獣たちを手なづける場面」は、「禽獣」を描きここから「第3部」です。ここでは、さまざまの動物を手なずける描写が見られます。

 第69幅部分拡大(第69幅 禽獣) 

第71~74幅
第71~74幅の「竜宮に招かれ、供養を受ける場面」は、「龍供」で羅漢達が竜宮に行き歓待を受ける描写で、これまでの羅漢図と比較すると人物が小さくなり、弟子の一純の関与する割合がたかまっています。

 第71・74幅龍供(左:第71幅龍供、右:第74幅龍供) 

第75~80幅
第75~80幅の「仏像や舎利を洗い、寺院を建立する場面」は、「洗仏等、洗舎利、堂伽藍」では釈迦誕生の場面、寺院建立の場面が描かれている。

 第80幅部分拡大(第80副堂伽藍) 

第81~90幅
第81~90幅の「さまざまな天災、人災からの救済を表す場面」は、「七難 震、風、羅刹、悪鬼、刀杖、賊、枷鎖、盗」では、地震の場面、台風による洪水の場面、親子に襲いかかる羅刹・悪鬼・兵士の戦い・盗賊・裁き・盗賊等を羅漢がビームで懲らしめる場面が描かれており、第80幅までの画面と異なり背景は全て真っ黒に塗りこめられている。地震、洪水など、今でも変わらぬ辛い光景には恐ろしく感じます。

 第81・83幅七難(左:第81幅七難 震、右:第83幅七難 風) 

第91~100幅
第91~100幅の「須弥山のまわりにある4つの大陸を巡る場面」は、「四州 南、東、西、北」では、仏教の世界観で外周に位置する東西南北の「洲」のありさまを描いています。
一信は、91幅を描きはじめたころにはすっかり弱っており、96幅まで描いたところで没しました。残りの4幅は、下絵をもとに妻と弟子が補作したとされている。第95幅までと第96幅以降の五百羅漢図の画質は背景図を簡略され、なんとなく見栄えがしなくなった感じです。(増上寺秘蔵の壁画五百羅漢幕末の絵師狩野一信から)

 第93・99幅四州(左:第93幅四州 南、右:第99幅四州 北) 

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イベント 江戸東京博物館 幕末の絵師狩野一信が描く100幅の五百羅漢図を見るその2

2011年05月28日 | イベント
kan-haru blog 2011 第5幅「名相」部分拡大 

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狩野一信の五百羅漢図
羅漢図は、単体の羅漢と釈迦を描いたものや、十六羅漢図や十八羅漢図が見られます。一信は、1幅に5ずつ100幅で計500人の五百羅漢図を描く構想をたてました。絵の大きさは、高さが約172cmで、幅が約85cmの人の背丈ほどの画面いっぱいに、羅漢たちの修行や日常の姿、衆生を救済する様子が、その弟子、供養者とともに極彩色で描かれています。
一信は、約10年間の年月を五百羅漢図の製作に費やし、その間他の作品は殆ど描いていないようですが、96福まで描き終えた数え年の48歳で病没し、残りの4幅は妻の妙安と弟子の一純らによって完成させ、1863年(文久3年)に増上寺に奉納されました(特別展五百羅漢ホームページから)。

 第57幅神通の部分拡大(釈迦の鏡面からのビーム)

・江戸東京博物館1階展示室
一信の五百羅漢図は、江戸東京博物館(墨田区横網1-4-1)の1階展示室で展示され、寺外ではじめて秘蔵の仏画 100 幅を一挙公開しています。また、同展の展示には、100幅の五百羅漢図と共に、成田山新勝寺が所蔵する「釈迦文殊普賢四天王十大弟子図」(427×543cm)(その1参照)の超大作と「十六羅漢図」が特別出品されている外に、東京国立博物館所蔵の「五百羅漢図」の縮小版の模写を増上寺本と並べて比較展示され、さらに大信寺(港区三田四丁目7-20)と大松寺(港区三田4-1-38)に所蔵される下絵類を展示して、制作過程の検証をしています。

 江戸東京博物館(写真拡大)

1階展示室の展示会場もパートごとにさまざまに工夫されており、背丈ほどの大画面を詳細に近距離で見られる特別ケースで、対となる羅漢図を2幅ずつ独立に並べて展示したり、観客が絵を見る位置をぐるりと取り囲む円形会場など羅漢図を観賞するのに適した配置や照明なども考えられています。

 五百羅漢展示会場(:展示会場、:明治学院大学教授山下裕二氏の画像解説コーナー)

・五百羅漢図構成
一信の五百羅漢図の展示を予備知識なく観賞したので、整理のため一信の五百羅漢図カタログにより整理をしてみました。それによると、一信が五百羅漢図の製作に着手したのは、1854年(嘉永7年)であり、第1から8幅は「名相」であり羅漢たちの日常生活を描く場面で、第9、10幅は「欲室」であるが、名相にふくめて五百羅漢図を10場面に構成してあります。

 五百羅漢図構成

一信の最初に描いた第1・2幅の五百羅漢図を真近で見た印象は、繊細に描かれた描写や極彩色の表現などが、一信の独特の発想の表現の世界であると感じました。第1・2幅では、羅漢たちや童子たちの日常生活が描かれています。
第5幅(トップ図参照)は、海浜に机を構えて、いまだ仏法に帰依していない異国人の人々を教化する姿が描かれています。

 第1・2幅(左:第1幅名相、右:第2幅名相、トップ図:第5幅名相) 

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イベント 江戸東京博物館 幕末の絵師狩野一信が描く100幅の五百羅漢図を見るその1

2011年05月26日 | イベント
kan-haru blog 2011 五百羅漢展カタログ

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特別展五百羅漢
江戸東京博物館で開催の法然上人八百年御忌奉賛「五百羅漢-増上寺秘蔵の仏画 幕末の絵師狩野一信」の特別展は、当初3月15日から展示される予定であったが、直前の東日本震災のため延期となり4月29日から7月3日まで仏画が一挙に100幅公開されるとの報道ありましたので、5月4日に浅草に用事のついでに両国に寄り道して見てきました。
展示会の入場料は、五百羅漢図の特別券が大人1300円で、大学生と専門学校生1040円、高校生・中学生・小学生および65歳以上650円です。その他、常設展との共通券があります。
特別展の主催は、公益財団法人東京都歴史文化財団 東京都江戸東京博物館、大本山増上寺、日本経済新聞社の3社で、協賛がCOLOR KINETIC JAPAN、三菱レイヨン、リリカラの3社に、監修が明治学院大学教授山下裕二氏により行われてます。

 特別展五百羅漢

増上寺
特別展主催の増上寺(港区芝公園4-7-35)は、1393年(明徳4年)に浄土宗第八祖西誉聖聰上人によって開かれました。浄土宗の七大本山の一つで、大本山のご本尊は阿弥陀如来が祀られており、三縁山広度院増上寺と呼ばれます。大殿は、世界大戦で戦災に遭い1974年(昭和49年)に、大本山の念仏の根本道場としてあらゆる儀式法要が行えるよう設計で、大殿が再建されました。

 増上寺1(20070330写真拡大)

安土桃山時代に、徳川家康公が関東の地を治めるようになってまもなくの1590年(天正18年)に徳川家の菩提寺として増上寺が選ばれました。家康公がときの住職源誉存応上人に深く帰依したため、と伝えられています。
1598年(慶長3年)には、現在の芝の地に移転しました。江戸幕府の成立後には、家康公の手厚い保護もあり、増上寺の寺運は大隆盛へと向かって行きました。
家康公は、1616年(元和2年)に、増上寺にて葬儀を行うようにとの遺言を残し、75歳で歿しました。増上寺には、二代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十二代家慶公、十四代家茂公の、六人の将軍の墓所がもうけられています。
増上寺の表門は大門で、中門にあたる三解脱門は、徳川幕府の助成により幕府大工頭・中井正清とその配下により建立され、増上寺が江戸の初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建造物で、1622年(元和8年)に再建され、国の重要文化財に指定されています。三解脱門とは、三つの煩悩「むさぼり、いかり、おろかさ」を解脱する門のことです。二階内部には、釈迦三尊像と十六羅漢像(非公開)が安置されています。黒門は、元は御成門交差点付近にあり、増上寺方丈の表門であった旧方丈門で、三代将軍家光公が寄進・建立され、1648~1652(慶安年間)に建立されたもので、1980年(昭和55年)に当山通用門として日比谷通り沿いに移築しました。

 増上寺2(:三解脱門、:黒門20070330)  

五百羅漢
羅漢とは、釈迦の滅後釈迦の残した法を、修行を積んで悟りに達したものの称号です。
五百羅漢とは、中国で盛んであった羅漢信仰が日本に伝わり、江戸の中期以降には各地で様々な五百羅漢の木彫り、石像が制作されるようになりました。五百羅漢を訪ねれば、いまは亡き大切な人に対面できるという信仰が広がりました。また、五百羅漢の製作には、想像を絶する時間と労力が必要なことから、ひたすら打ち込んで造る、造像の功徳に対する願いも反映されて、羅漢ブームともいえる現象が起こりました(特別展五百羅漢ホームページから)。
現在、目黒にある五百羅漢寺(目黒区下目黒3-20-11)は、昔は1695年(元禄8年)に松雲元慶禅師により本所に創建された黄檗宗の寺院でありました。禅師は、1684~88年(貞享年間)に江戸へ出て、1691年(元禄4年)から木造羅漢像を彫り始めて、1695年(元禄8年)に将軍徳川綱吉から天恩山五百阿羅漢寺の寺号と六千坪余の寺地を賜り、ここに独力で彫像した羅漢像など536体を安置しました。象先禅師は、1713年(正徳3年)に3代住持となり、1726年(享保11年)に本殿、東西羅漢堂、三匝堂からなる大伽藍を建立しました。
1855年(安政2年)に起きた安政大地震では、東西羅漢堂が倒壊するなど大被害を受けました。明治に入り寺は衰退して、1887年(明治20年)には本所緑町(墨田区緑4丁目)に移転して、さらに1890年(明治23年)には現在地の目黒に再移転しました。

 本所五百羅漢寺 江戸名所図会から

狩野一信
狩野一信(1816~63)は、幕末の江戸に生きた15世紀から19世紀までの400年間続いた狩野派の最後を飾る異色な絵師で、一部の専門家には高い評価を受けてきましたが、一般的には殆ど知られていませんでした。
一信は幼い頃、幕府表絵師の狩野章信に入門し、12歳の頃に師は没し、以後は独学で絵を極め、増上寺の五百羅漢図100幅の入魂の」大作を遺し、寺院とうの要望に応えていました。一信の画風は、狩野派の伝統に加え、当時日本に伝わった洋風の陰影法、遠近法を積極的に取り入れて、強烈な表現意欲により常識を突き抜けた絵画表現技術を独力で磨き上げて、当時の不安な時代の空気を反映した、新たな宗教観にもとずく絵を残しました(特別展五百羅漢ホームページから)。
1816年(文化13年)に、江戸本所林町(墨田区立川)に骨董商の次男として生まれ、通称は豊次郎と名乗り、絵を好んだ一信を神田豊島町の提等琳派の絵師に学ばせ、その後四条派や土佐派の画風を学び、絵師狩野直信の幼名を受けて一信を名乗りました。その後、表絵師の猿屋町代地狩野家5代目狩野素川章信に入門したと云われています。
一信は20代半ばで、両国橋で易者の逸見舎人と出会い、婿入りしてその娘のやすと結婚をする。同居の義父の後妻と折り合いが悪く家を飛び出し、一信とやす夫婦は住居を転々として、貧しい状況にありました。1841年(天保12年)に小網町の大火で類焼し全財産を失い、増上寺の子院・源興院に仮寓する。
辛酸を舐めていたが、ようやく1847年(弘化4年)に金竜山浅草寺の絵馬「牛若丸と弁慶」を描く機会に恵まれて奉納し、さらに、1858年(安政5年)に成田山新勝寺不動堂の壁画を描く仕事得て奉納している(増上寺秘蔵の壁画五百羅漢幕末の絵師狩野一信から)。

 釈迦文殊普賢四天王十大弟子図(成田山新勝寺) 

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大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編[ビデオ特集編](第16回その4)

2011年05月22日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2011 第8工区下り線仮高架橋築造工事現場 
    
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第5工区(続)
・京急蒲田第6~9踏切間旧下り線線路跡工事ビデオ特集
京急蒲田第9踏切付近から第6踏切付近までを、上り線列車に乗り旧下り線線路跡の下り線高架橋の築造工事2景を撮影しました。その1は、上り線普通列車の先頭車両から京急蒲田駅方向に進む前進画面(5月13日撮影)であり、その2は、蒲田駅方向に進む上り線普通列車の後尾車両から工事現場の後進画面(5月21日撮影)で撮影したものです。

京急蒲田第6-9踏切間周辺の下り線高架橋築造現場(5月13、21日).wmv


[クリックすると、京急蒲田第6-9踏切間周辺の下り線高架橋築造現場を先頭車窓からの前進風景と後尾車窓からの後進風景で見られます]

第6工区
・雑色高架駅の下り線ホーム工事
雑色高架駅の下り線ホーム工事の工程は、エスカレータ、エレベータおよび階段の据え付け工事が行われる予定です。

 工事を待つ下り高架ホーム(:右側下りホームにエスカレ―タの設置工事待ち、:右側下りホームにエレベ―タの設置工事待ち、:左側下りホームに階段の設置工事待ち0520)

下り線高架ホームの工事のためには、地上の旧上り線線路跡上に仮下り線ホームを設置して、現用の下り線ホームと駅舎を移設して撤去する必要があり、その工事の準備が今後着手されます。また、雑色駅での節電対策は、ホーム照明灯の消灯とエスカレータの停止が行われていますが、エスカレータの運転は、平日のラッシュ時の午前7時から9時を除いた時間と、土日と祝日は終日停止されています。

 雑色高架下のホーム工事(:旧上り線線路跡に仮下りホームを設置し在来駅舎・ホームの移設撤去、:エスカレータの停止案内0520)

・六郷附近の下り線仮高架橋築造工事
下り線仮高架橋築造工事は、雑色第4踏切南方の旧上り線傾斜高架橋付近で、橋脚柱建立の基礎工事が長期に継続して行われています。

 下り線仮高架橋築造工事現場([0513]・[0520]写真拡大)

<ビデオ特集>
5月20日に、下り普通列車に乗り先頭車両から、雑色第4踏切附近から雑色第5ガード附近までの下り線仮高架橋築造現場を撮影したビデオです。

雑色第4踏切南方の下り線仮高架橋築造現場0520.wmv


[クリックすると、雑色第4踏切先の下り線高架橋築造現場を先頭車窓からの前進風景が見られます]

第8工区
・糀谷高架駅橋下の工事
5月17日に見ると糀谷高架駅橋下東端部では、地中の基礎工事が行なわれ、同20日には工事は西方に移動して行われていました。

 高架駅橋下の地中基礎工事(:高架駅橋下東端部での地中基礎工事0517、:高架駅橋下の基礎工事は西方に移動する0520)

・下り線高架橋築造工事(糀谷第1踏切西側構内)
5月13日に見ると、糀谷第1踏切西側構内に黒粉砂を搬入して、平らにならして固めていました。同17日には、踏切西側構内の平滑固定化が終了し、20日には作業枠の削が外されていました。同時に、糀谷第1踏切西側脇には、下り線高架橋築造の最初の橋脚柱と桁梁が建立されていました。

 糀谷第1踏切西側構内の工事が進む(左上中上右上:黒粉砂を搬入し平滑固着作業0513、左下:平滑固着作業が終了し作業枠の削を撤去、中下右下:下り線高架橋築造の最初の橋脚柱が建立する0520)

・下り線高架橋築造工事(糀谷第1踏切東側傾斜高架橋)
糀谷第1踏切東側傾斜高架橋の築造準備工事は、5月13日に見ると盛土部から糀谷第1踏切東側まで、連日して基礎工事が行われています。

 糀谷第1踏切東側傾斜高架橋の基礎工事は進む(:盛土部の基礎工事、:傾斜高架橋部の基礎工事0513、:傾斜高架橋部の基礎工事0520)

<ビデオ特集>
5月20日に、糀谷第1踏切西側脇に初の橋脚柱が建立された下り線高架橋築造工事現場のビデを2方向から撮影しました。その1は、糀谷駅から品川方面発の下りエアポート列車に乗り先頭車両から工事現場を見たもので、その2は大鳥居駅から横浜方面行きのりエアポート列車に乗り先頭車両から工事現場を見た工事現場の映像です。

糀谷第1-2踏切間周辺の下り線高架橋築造現場0520.wmv


[クリックすると、糀谷駅と糀谷第2踏切間周辺の下り線高架橋築造現場を糀谷駅発と糀谷着のエアポートライナー列車の先頭車窓からの2風景を見られます]

第1工区
<ビデオ特集>
内川から北方周辺の下り線仮高架橋工事の新橋脚台P-18の基礎工事(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第16回その2)」参照)を静止画と間違えてビデオ撮影したもので、非常に短時間ですが貴重な映像記録です。

内川北岸下り線仮高架橋橋脚台基礎工事0521.wmv


[クリックすると、内川北岸下り線仮高架橋橋脚台築造の地中の基礎工事を見られます]

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・毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(5月分掲Indexへ)
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次回 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第17回その1)
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大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第16回その3)

2011年05月20日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2011 京急蒲田第2踏切脇の高架橋柱に足場の組立5月17日
    
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第2工区工事
・上り線梅屋敷駅ホーム跡工事
前回は、旧上り線梅屋敷駅ホーム跡では高架駅橋下の高架工事の準備作業を行っていました。

 旧上り線梅屋敷駅ホームの高架駅橋下の高架工事の準備作業(0406写真拡大)

5月9日には梅屋敷第1踏切北側では、区道に面した区切り戸を開いて、旧上り線線路とホーム跡の基礎工事をしていました。

 旧上り線路跡の第1踏切北1-2橋脚間の基礎工事(0509写真拡大)

同日の工事は、梅屋敷第1踏切に接した北方の第1と第2橋脚間の補強の地中梁の設置の基礎工事です。

 第1踏切北1-2橋脚間の補強地中梁設置の基礎工事(0509写真拡大)

5月13日に見ると、梅屋敷第1踏切から北方の第3と第4橋脚間の補強の地中梁の設置準備工事を行っていました。

 第1踏切北3-4橋脚間地中梁設置の基礎工事(0513写真拡大)

第3、4工区工事
・京急蒲田高架駅設備工事
高架駅橋の2階下部の駅コンコース階の桁枠の組立工事は5月11日にみると、前回4月の状況から殆ど進展は見られません。

 高架駅橋の2階下部の駅コンコース階(0511写真拡大)

第5工区工事
・京急蒲田第2~5元踏切間旧下り線線路跡工事
5月17日に見ると、京急蒲田第2~5元踏切間旧下り線線路跡の工事は、高架橋間の補強の地下梁の工事を継続して続けており、かなりの区間が出来上がってきた様です。

 第2~5元踏切間の旧下り線線路跡工事(左上中上右上左下中下右下0517写真拡大)

・京急蒲田第6~9踏切間旧下り線線路跡工事
前回は京急蒲田第6踏切跡南側では、夜間に交通止めして旧下り線線路跡の下り線傾斜高架橋の築造工事を行っていました。5月17日に見ると、傾斜高架橋の築造の工事が進展していました。
 
 京急蒲田第6踏切跡南側の傾斜高架橋築造工事(0517写真拡大)

同17日には京急蒲田ヤード付近の傾斜高架橋の築造工事も、進展していました。

 蒲田ヤード附近の傾斜高架橋築造工事(0517写真拡大)

また、京急蒲田ヤード南側の高架橋築造工事と共に、京急蒲田第8踏切跡北側と南側の傾斜高架橋の築造の工事は、南側では前回は高架橋脚柱が建立された状態で橋脚間の補強基礎工事が行われていましたが、同17日には足場の組立が進んでいました。

 蒲田ヤード南方から第8踏切跡付近の傾斜高架橋築造工事(左上中上:蒲田ヤード南方の傾斜高架橋築造工事、右上左下:第8踏切跡北側の傾斜高架橋築造工事、中下右下:第8踏切跡南側の傾斜高架橋築造足場の組立0517)

同日には、蒲田消防署裏側の高架橋築造工事は橋脚柱が建立の状態で前回と進展はありませんが、消防暑南方の足場の組立は進んでいます。

 蒲田消防署西側の傾斜高架橋の築造工事現場(:第8踏切跡南側の傾斜高架橋築造足場の組立、:消防署西側の工事現場は前回と進まず、:消防署南方の足場組立は進展しています0517)

また、京急蒲田第9踏切跡北側に下り線高架橋築造の工事も進展しています。

 第9踏切跡北側の高架橋築造工事現場(0517写真拡大)

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大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第16回その2)

2011年05月17日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2011 下り線列車の左は仮下りホームで、右は在来ホーム   

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大森町駅下り線高架ホームの準備工事(続)
・旧上り線線路跡の仮下り線大森町駅ホーム工事
前回までには、地上の仮下り線大森町駅ホームの築造は大森町駅南端と北端に、それぞれ1/4の区間長のホームが造られていました。
旧上り線線路跡の仮下り線大森町駅ホームの築造工事は、終電電車が終了した夜間工事で行います。夜間工事を行う大森町駅東側面を見ると、始発まで工事の明かりが漏れています。5月7日の終電終了後の0時50分頃、夜間工事の模様を大森町第1踏切から見てきました。

 大森町駅仮下りホーム築造の夜間工事(左上中上右上左下中下右下0507写真拡大)

同日の昼間に、夜間工事により築造された仮下り線ホームを見ると、板張りを終えた南端部の北側は、ホーム台の縦桁梁が取り付けられていました。

 ホーム台に縦桁梁が取り付けられる(0507写真拡大)

仮下り線ホームの板張りとホーム塀が完成の北端部の南側は、ホーム台の横桁梁が組立てられていました。

 ホーム台が組立てられる(0507写真拡大)

同9日に見ると、仮下り線ホームの南端部の北側のホーム台には床垂木が付けられ、北端部の南側はホーム台の縦桁梁が設置されていました。

 下り線仮ホームの築造が進む(:南端部の北側のホーム台には床垂木が付けられる、:北端部南側にはホーム台が組立られる0509)

同11日にみると仮下り線大森町駅ホームは、ホーム床が張り付けを完了して、ホーム壁取り付け柱組立とホーム照明灯の取付工事が行われていました。

 着々と築造が進む仮下り線大森町駅ホーム(:ホーム床の張り付けが完了、:ホーム板塀の取付柱の組立、:ホーム照明灯の取付0511)

同13日には、仮ホームの背面にホーム壁の取り付けが進み、ホーム上には黄色安全ラインの取り付けが行われていました。

 築造が完成に向けて進む仮下り線大森町駅ホーム(・中:ホーム塀の取付、:黄色安全ラインの引き線作業0513)

仮下り線大森町駅ホームの築造工事は、同17日には完成に向けて工事が進んでおり、14日に改札口が移設された旧大森町駅西口の撤去工事と、仮下り線ホームと新上り線改札口を結ぶ通路設置の工事が始まりました。

 完成に向けて工事中の仮下り線大森町駅ホーム(:完成に向けて工事する仮下り線大森町駅ホーム0517、:大森町西口閉鎖と仮下り線ホーム連絡通路工事0516)

下り線仮高架橋築造工事
・内川から北方周辺の仮高架橋工事
前回には、内川から北方周辺の仮高架橋築造の工事現場では、旧上り線線路跡の地盤の基礎工事を行っており、下り線仮高架橋築造の橋脚柱は新橋脚台(新P-17~19)の上に建立されます。
4月24日に見ると、内川北岸の旧上り線内川橋梁橋脚の北側では、下り線仮高架橋築造の新橋脚台P-18の基礎工事が行われていました。

 新P-18橋脚台築造の基礎工事(0424写真拡大)

同5月16日には新橋脚台P-18の基礎工事は、平らな底部となり、そこには4本の丸穴形が見えます。新橋脚台P-18の構造は、他の新橋脚台(新P-15~17)とは異なる形態の様です。

 新橋脚台P-18の基礎工事が進む(0516写真拡大)

内川から北方周辺の仮高架橋工事現場付近のケーブル線群を、配管に整理して内川越えを、在来下り線の内川橋梁の桁鋼側面に取付られています。

 ケーブル群を配管で整理する(写真拡大)

・内川南岸周辺の仮高架橋工事
旧上り内川南岸橋梁橋脚南方から平和島第5踏切北側高架橋の北方の下り線仮高架橋築造工事現場では、高架橋脚柱建立のため基礎工事が進められています。
5月16日に見ると、高架橋脚柱建立のため山留めの基礎工事を進めています。

 内川南岸下り線仮高架橋築造の基礎工事(写真拡大)

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大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第16回その1)

2011年05月15日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2011 終電通過後の大森町駅西口改札の移設工事5月14日   

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第1工区工事
第1工区工事は、内川付近の下り線高架橋築造工事の準備と、大森町駅下り線高架ホームの工事準備を進めています。

大森町駅下り線高架ホームの工事準備
・上り線大森町駅改札口移設
大森町駅下り線高架ホームの階段、エスカレータおよびエレベータの据え付け工事には、地上下り線在来ホームと駅舎の撤去が必要です。そのため、大森町駅西口改札口の隣に、仮駅舎と仮改札口の建屋の準備と、旧上り線上に仮下り線ホームの設置が進められています。

 改札口移設前の大森町駅西口(:大森町駅仮駅舎0509、:大森町駅仮改札口移設場所0511、:移設前の大森町駅西口0513)

これにより、最初の工程は大森町駅西口改札口を閉鎖して、その西側に上り線の仮改札口の移設が、5月14日に行われました。

 大森町駅上りホーム移設案内

大森町駅は、1901年(明治34年)に「山谷」として開業し、1945年(昭和20年)に大森山谷は大空襲で被災して廃止されたが、1952年(昭和27年)に大森町駅として再開しました。1982年昭和57年には、6輌停車ホームに延伸し大森町駅は東・西口の駅となりました。それまで使用していた、構内踏切は高架化工事に伴い閉鎖され、大森町駅は上下線ホーム改札口となりました。それまで使用していた、構内踏切は高架化工事に伴い閉鎖(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第2回)」参照)されました。

 高架化により変わりゆく大森町駅(:移設前の大森町駅西口改札機、:閉鎖予定の大森町東口0513)

上り線の仮改札口の移設の準備は、同13日に仮駅舎の仮改札口と上り線連絡仮通路との間の仕切り壁の撤去が行なわれました。

 大森町駅仮改札口の移設準備(:大森町駅仮改札口の移設前の仕切り壁、:移設工事で大森町駅仮改札口後ろの仕切壁を撤去0513)

同改札口は、同13日の終電後に大森町駅西口の改札機と出札機を取り外して、仮駅舎に移設の工事が行われました。

 大森町駅西口の撤去工事(:大森町駅西口改札機の移設工事、:大森町駅西口改札機・出札機の移設工事、:大森町駅西口出札機の移設工事0514)

取り外された西口の改札機と出札機を、仮駅舎に移動して移設設置の工事が行われました。

 大森町駅仮駅舎へ改札機・出札機の移設工事(0514写真拡大)

移設の改札口は、当初は上り線の改札口ですが、旧上り線上に設置の仮下り線ホームの使用開始時には、併用改札口となります。

 始発から使用された大森町駅上り改札口(0514写真拡大)

上り線高架ホームから、長い仮通路を経て移設設改札口から降りてみます。同14日には、大森町駅西口(大森町上り線口)は閉鎖されました。

 移設された上り線改札口(:大森町高架駅から上り線改札口に降りる、:閉鎖された大森駅西口0514)

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小さな旅 600畳の大藤 天然記念物指定樹齢145年を越える大藤棚のあしかがフラワーパークその2

2011年05月13日 | 小さな旅
kan-haru blog 2011 むらさき藤
            
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あしかがフラワーパークのふじ
あしかがフラワーパークには、300本のふじが植栽されています。メインゲートから大藤、白藤のトンネルと八重黒龍藤の大棚を辿る園内通路を進むと、うす紅"、"むらさき"、"白"の各種の藤が見ごろを迎え、見事に咲き揃っています。
フジは、日本、北アメリカ、東アジアに自生し、ノダフジとヤマフジの2種が日本固有種です。
ノダフジは、木に巻きついて登り蔓の巻き方は右巻きで樹冠に広がり、かなり太くなるツル性の木で、花は紫色で花序は長くしだれて20センチメートルから80センチメートルに達し、本州・四国・九州の温帯から暖帯に分布しています。野田藤の名は、フジの名所であった大阪市福島区野田にちなんで、植物学者の牧野富太郎により命名されるきっかけとなりました。

 むらさき藤(写真拡大)

ヤマフジは、他の木に巻きついて大きく成長し、蔓の巻き方は左巻きで、花は淡紫色で花序はノダフジに比較して短く、本州西部・四国・九州の山地に自生するが、鑑賞用に栽培することもあります。白藤は、白い花の咲くフジで、ヤマフジの園芸品種の一種。

 白藤(写真拡大)

八重藤は、野田藤系の黒龍藤の突然変異と言われる八重黒龍藤です。

 八重藤(写真拡大)

一才藤として園芸用に流通する鉢があり、樹高50センチメートルくらいの、鉢植えや盆栽にして愉しむための一才物のフジで、花枝はしだれるが、支柱は不要です。

 一才藤(写真拡大) 

・うすべに藤
八重黒龍藤の棚から右に進むと、バラの島に渡るうすべに橋がかかっています。うすべに橋の上の棚には、最初に咲くうす紅藤が満開に咲いています。

 うすべに藤1(写真拡大)

うすべに藤は、4月下旬頃に開花し始め、最も早く咲き出します。5月5日には満開の盛りです。

 うすべに藤2(写真拡大)

・きばな藤のトンネル
バラの島には、きばな藤のトンネルがありますが、5月5日にはまだ咲いていませんでした。あしかがフラワーパークのホームページから、見ごろを迎えた5月13日のきばな藤のトンネルを見てみましょう。

 きばな藤のトンネル(:まだ咲いていないきばな藤5月5日、:きばな藤の説明写真、:フラワーパークのホームページ5月13日から)

・クルメツツジと藤の路
きばな藤のトンネから古代蓮の池の左岸の路を進むと、クルメツツジと藤の路で藤の花とツツジや各種色とりどりの花との競演です。

 クルメツツジと藤の路(:クルメツツジと藤の路、:池の左岸の路は藤の花とツツジの競演、:藤の花とツツジの競演)

古代蓮の池には、色とりどりの水上花壇が浮かんでいます。

 色とりどりの水上花壇(写真拡大)

・野田の長藤棚
古代蓮の池上の連絡橋路を渡り、西ゲートに近い野田の長藤を見ると満開の大藤棚で、樹齢140年の藤は圧巻です。

 野田の大長藤棚1
(写真拡大)

大藤は1996年2月にこの地に移植され、幹廻りが3.95mで、南北が30mに、東西が34.5mに展開して、花房は1.8mあり見頃を迎えています。

 野田の大長藤棚2
(写真拡大) 

見事な大長藤を見て、メインゲートから反対の西ゲートまで来ましたので、自然池の右岸の園路をメインゲート方向に戻り、白藤の滝やむらさきスクリーンを見ながら、「軽食あじさい」で昼食をとり、残りの時間を通っていない園路をゆっくりと花を眺めながら歩き、ショッピングハウスでお土産を買い、帰路はシャトルバスで足利市駅から特急で浅草に帰りました。

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小さな旅 600畳の大藤 天然記念物指定樹齢145年を越える大藤棚のあしかがフラワーパークその1

2011年05月11日 | 小さな旅
kan-haru blog 2011 大藤            
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5月ゴールデンウイークに咲き誇る花といえば、つつじとふじです。つつじの観賞は、神木山等覚院(つつじ寺)(「風景・風物誌 つつじと森林浴 神木山等覚院(つつじ寺)と県立東高根森林公園」参照)と館林のつつじが岡公園(「小さな旅 世界一のつつじと鯉のぼり 館林のつつじが岡公園と文福茶釜の茂林寺に芝桜の遊覧その1、2」参照)と2年続けて見に行っています。藤の観賞は10年以上も前に、亀戸天神の藤を見ただけです。
天然記念物 600畳の大藤と盛んに宣伝しているので、ゴールデンウイーク5月5日の子供の日に館林の先のあしかがフラワーパークに大藤を見に行きました。

あしかがフラワーパーク

東武伊勢崎線による館林方面の旅は2年振りで、足利への往復は連休中ですので座席が確保できる特急を利用して、往路は浅草発9時40分のりょうもう7号を利用しました。浅草を出て10時54分足利市に到着すると、祝祭日の駅前にはあしかがフラワーパーク行きのシャトルバスが待っており、20分でフラワーパークの駐車場へと運んでくれます。

 フラワーパーク地図

駐車場から県道67号を渡り、メゾン緑の森の細い道を進み、突き当りを右に曲がりJR両毛線のガードを潜るとあしかがフラワーパークのメインゲートです。

 フラワーパーク・パンフレット

あしかがフラワーパーク(栃木県足利市迫間607)は、早川農園が1996年2月に大藤4本を現在地に移植し、1997年(平成9年)の春に開園しました。開園時間と入園料は、季節や花の咲き具合により変動し、5月5日の入園料は7:00~17:30までが大人1700円、子供800円で、17:30~21:00までが大人1500円、子供700円です。足利市駅に置いてあるパンフレットには、100円引き券が付いています。

 フラワーパーク入園券

入場ゲート前の花壇は、満開の季節のふじの花が盛り沢山で迎えてくれています。

 入場ゲート

当日の天候は薄曇りで気温はやや低めですが、風が無く園内を歩くのには絶好の花見日和でした。

 園内施設

ゲートを入り、フラワーステージの右側の園路を見事なふじの花を見ながら進みました。

 園内フラワーステージ右側の道を進む(左:園内を気が向くままに進む、右:三叉路に出ると左手は大藤)

・大藤
栃木県指定天然記念物の野田九尺藤の大藤棚は満開を迎えたところです。樹齢145年でたたみ600畳に広がった大藤は見事なものです。

 大藤1(写真拡大)

足利の藤(野田の九尺藤)は、足利市朝倉町の早川農園で育成され、1996年2月に移植された時は50畳であり、現在は幹廻りが4.05mで、南北が36.3mに、東西が33.4mに拡大して、花房の最長が1.8mあります。

 大藤2(写真拡大)

・白藤のトンネル
大藤の右側は白藤のトンネルです。5日は白藤のトンネルの白藤は、見ごろにはまだ少し早いようです。白藤は、樹齢が80~90年で、1997年の開園時に庭木仕立てのフジ25本を左右に植えてトンネルを造作したものです。白藤のトンネルは、長さが76.5mあり、高さが2.7mで、花房が50cmです。

 白藤のトンネル(写真拡大)

なお、白藤のトンネルの左側面の白藤は、トンネル棚の藤の花より開いておりました。藤の花の咲く順序は、"うす紅"に始まり、"むらさき"、"白"から"きばな"に移り行きます。

 トンネルの外側の白藤(写真拡大)

・八重黒龍藤
白藤のトンネルを左にそれてモネの池に沿って進むと、池の突き当りに大変珍しい八重咲の栃木県指定天然記念物の八重黒龍藤の棚があります。遠方から見る藤の姿はブドウ棚の様に見えます。

 八重黒龍藤1(写真拡大)

大藤と同時に1996年移植され、樹齢は140年で、現在500畳の広さの花を付けています。現在は幹廻りが2.5mで、南北が34.5mに、東西が25.4mに拡大して、花房が30cmあります。

 八重黒龍藤2(写真拡大)

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大森町界隈あれこれ 大森町学びや 60年前の高校時代の関西修学旅行を追想するその3

2011年05月09日 | 大森町界隈あれこれ 大森町学びや
kan-haru blog 2011 加茂川            

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第2日目の旅行行程(3)
石山寺、三井寺のある琵琶湖西南の大津は、修学旅行の栞に「昔の滋賀の都(天智弘文帝)のあった所で、“さざ波や滋賀の都はあれにしを昔ながらの山桜かな”(平忠度)、今(1951年当時)は人絹工業の盛んな所である」と書かれています。大津での次の見学の行き先は、京阪電気鉄道石山坂本線(石山寺-坂本間14.1km)の終点駅の坂本駅で、比叡山の麓の日吉神社から、山を登り延暦寺へと向かいます(第2、3日行程地図参照)。

 日吉神社、延暦寺、比叡山地図

・日吉神社
日吉神社は、修学旅行の栞に「崇神天皇の世創建、大山咋命を祀る、延暦寺の鎮守神と定めた。叡山の僧徒が当社の御輿をかつぎだして朝廷に強訴した事は有名である。日吉造という特別の建築である」と書かれています。日吉神社へは、京阪電気鉄道坂本駅を下車して、通りを西に進み早尾神社を右に曲がり、大宮川にかかる二宮橋脇の橋を渡り直進すると大山咋神を祀る東本宮で、大宮橋を渡ると大己貴神(大国主神)を祀る西本宮へ向かいます。日吉大社(滋賀県大津市坂本5丁目1-1)は、西本宮と東本宮を中心に、400,000m²の広大な境内を持ち、東本宮は崇神天皇7年に牛尾神社の里宮として創祀されたものと伝えられています。最澄が比叡山上に延暦寺を建立し、比叡山の地主神である当社を、天台宗・延暦寺の守護神として崇敬しました。1571年(元亀2年)に、織田信長の比叡山焼き討ちにより日吉大社も灰燼に帰し、現在見られる建造物は安土桃山時代以降に再建されたものです。
東本宮本殿は、1595年(文禄4年)の建立で、建築形式は西本宮本殿に似ており、昭和初期までは「大神神社本殿」と呼ばれていました。

 東本宮本殿(左)と本殿背面(右)

西本宮本殿は、1586年(天正14年)の建立で、檜皮葺きの屋根形式は「日吉造」と云い日吉大社特有のものです。正面から見ると入母屋造に見えるが、背面中央の庇部分の軒を切り上げ、この部分が垂直に断ち切られたような形態(縋破風)になっているのが特色です。

 西宮楼門(左)と西本靄本殿(右)

・延暦寺
日吉神社を見学して早尾神社に戻ると、その先の延暦寺学園比叡山高等学校の角は、比叡山鉄道坂本ケーブルのケーブル坂本駅です。坂本ケーブルは、1927年(昭和2年)に開業、1945年(昭和20年)に旅客営業を休止し、1946年(昭和21年)に運行が再開されました。延暦寺には、坂本ケーブルで高低差が484 mで、延長は2,025 mを登りケーブル延暦寺駅から、標高848mの比叡山全域を境内とする次の見学の延暦寺です。
修学旅行の栞に延暦寺は「延暦年間、僧最澄の開祖した寺で天台宗の本山。盛時には三千余りの僧坊を有し、僧兵を蓄え其の勢力は、後白河法王をして「山法師」と嘆を発せしめた程であった。平安以後の名僧は皆ここで修行を積んだものである。大講堂、戒檀院、弁慶の力水、叡山最初の道場で「消えずの灯」輝いている」と書かれています。
延暦寺(滋賀県大津市坂本本町4220)へは、ケーブル延暦寺駅を降りて坂道を登って行きます。延暦寺までの途中で、眼下に琵琶湖が見ます。当時は、現在の様にデジカメなど無く、カメラは大変と貴重なものでした。旧友のY君のお父さんはカメラ関係のお仕事で、カメラを持参してきましたので、修学旅行初めての写真の琵琶湖風景を写しました。当時のカメラは、フイルムのため撮影枚数にも制限がありました。

 延暦寺より琵琶湖を望む(Y君持参のカメラで60年前の昭和26年11月27日撮影 拡大)

U字形の坂道を上がり詰めたところから、左に曲がり直線の階段を下りると比叡山延暦寺本堂(根本中道)です。

 根本中道S君[左]Y君[右](Y君のカメラで筆者が撮影拡大S261127)

根本中堂(国宝)は、最澄が建立した一乗止観院の後身であり、全山の総本堂です。織田信長の焼き討ち後、徳川家光によって1642年(寛永18年) 再建され、中央の厨子には最澄自作の本尊薬師如来像が祀られており、厨子前の三つの灯籠は、最澄が灯した灯明を継いで来たもので、1200年間、消えることなく灯り続けている「不滅の法灯」です。

 根本中堂

根本中堂から戻り右に曲がると大講堂で、1634年(寛永11年)の建物ですが、1951年(昭和26年)に火災にあい、現在の建物は1964年(昭和39年)に比叡山東麓・坂本にある東照宮の讃仏堂を移築したものです。大講堂の西側の丘の上に建つのは戒壇院で、最澄(伝教大師)が建立すべく心血を注がれた天台宗の僧侶に大乗戒を授ける、比叡山中で最も重要なお堂です。最澄が生きている間には許可が出ず、1年後に後継者の義真(初代天台座主)により最初の大乗戒が授けられ、5年後に創建されました。現在の建物は1678年(延宝6年)に再建されたもので、内陣に得戒和尚、釈迦牟尼仏と文殊・弥勒の両菩薩が祀られています。

 大講堂(左)と戒壇院(右)

・京都入り
延暦寺の見学が済み、薄曇りですが幸いと天気には恵まれ、これからピクニック気分で叡山越えですが、ここで持参の3食目の弁当で昼食です。食事が済み夜行の寝不足と疲れを癒して、これから京都入りして1泊目の旅館の宿泊です。比叡山の登山道を、叡山ケ-ブルのケーブル比叡駅までの下り道を行進です。叡山ケ-ブルは、1925年(大正14年)に京都電燈が叡山鋼索線として八瀬(当時は西塔橋駅)とケーブル比叡(当時は四明ヶ嶽駅)間の高低差が561mで、延長は1.3k mを開業し、1944年(昭和19年) に大戦で休止し、1946年(昭和21年) に運行を再開しました。
ケーブルを降りると、京都市左京区にある叡山電鉄叡山本線の終着駅の八瀬(やせ)比叡山口駅から出町柳駅まで乗車して、そこから京阪電気鉄道で当時は路面駅の三条京阪駅までの乗車です。京都での宿泊は三条通りに面したいろは館です。現在は、同場所にいろは旅館とホテル・イロハが営業しています。旅館の夕食までには、若干の時間がありましたので、高校生には牛若丸で有名な五条大橋まで散策にでかけましたが、三条大橋のほうが立派でした。

 三条通りのいろは館(左)と五条大橋(右)(昭和26年11月27日撮影)

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大森町界隈あれこれ 大森町学びや 60年前の高校時代の関西修学旅行を追想するその2

2011年05月06日 | 大森町界隈あれこれ 大森町学びや
kan-haru blog 2011 紫式部源氏の間           

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第2日目の旅行行程(2)
1951年の修学旅行は、当時は大森高等学校(新制高校)の昼夜間3年生との合同旅行であり、引率は佐成先生と島田先生の総勢36名でした。石山駅を降りて石山寺への歩行行程は、石山寺の開門が午前8時であるので、琵琶湖(瀬田川)周辺の風景を楽しみながら持参の2つ目のお弁当を公園で開いて朝食をとりました。

 石山寺付近地図

・石山寺
修学旅行の栞に書かれた石山寺には、「観音をほおむる源氏の間、観月亭等見るところが多い、全山書かれた 山を以ってたたれ石山寺の名がある」とあります。
開門を待って、1190年(建久元年)の建立の瓦葺きで入母屋造の参道入り口の東大門を入り、修学旅行最初の寺社見学です。東大門からまっすぐに伸びる境内の参道を進むと、石山寺(滋賀県大津市石山寺1-1-1)は、開基は良弁で747年(天平19年)の創建の東寺真言宗の寺で、寺院は山の上に建ち、本堂へは石段の参道を登って行きます。石段を登ると右手に1773年(安永2年)に建立の兜跋毘沙門天を本尊とした毘沙門堂で、正面には国の天記念物に指定の珪灰石という巨大な岩盤があり、「石山」という名称はこの硅灰石に由来しています。毘沙門堂の対面には硅灰石の崖にせり出しで慶長期に建つ蓮如堂があります。

 石山寺東大門(左)と珪灰石と多宝塔(右)

蓮如堂の右に並んで建つのは本堂(国宝)で、1078年(承暦2年)の火災焼失後、1096年(永長元年)に再建されたもので、本尊は木造如意輪観音半跏像で、厨子に納められている秘仏です。本堂の構造は、正面が7柱間隔で奥行きが4柱間隔の「正堂(しょうどう)」と、正面が9柱間隔で奥行が4柱間隔の傾斜地に建つ懸造りの「礼堂(らいどう)」の2つの寄棟造建物の間を、奥行が1柱間隔の「会の間」で結んだ複合建築です。

 石山寺本堂(左)と懸造り霊堂(右)

会の間の東端は、「紫式部源氏の間」と称され、執筆中の紫式部の像が安置されています。
珪灰石の脇の石段を登ると多宝塔があり、1194年(建久5年)の建立で内部には快慶作の大日如来像を安置し、滋賀県下最古の建築です。後白河上皇の行幸に際して建てられたといわれる月見亭は、多宝塔の先を進み最奥の高台にあり、そこからはるかに琵琶湖を望みながら眺める」瀬田川の風景は絶景です(フォト蔵、西国第十三番石光山石山寺、日本隅々の旅全国観光名所巡り&グルメ日記参照)。

 源氏の間(左)と月見亭(右)

・三井寺
修学旅行の栞に書かれた2つめの見学場所の三井寺には、「弘文天祖帝の御所跡を寺とした、この智証大師の時、大いに栄え一時八百坊の像徒を蓄え、延暦寺と勢力を争った」とあります。
三井寺(大津市園城寺町246)は、正式には「長等山園城寺(おんじょうじ)」といい、天台寺門宗の総本山で、山号を「長等山(ながらさん)」と称し、開基(創立者)は大友与多王、本尊は弥勒菩薩であり、日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三箇所観音霊場の第14番札所であります。また、近江八景の1つである「三井の晩鐘」で知られています。
石山寺からは京阪電気鉄道石山坂本線の起点駅の石山寺駅で乗車して、三井寺駅で下車します。2つ目の三井寺の参拝は、三井寺駅からは反時計廻りに周遊して、信号を左折して広大な境内地北端にある大門(仁王門)から入ります。

 三井寺拝観見学地図

仁王門は、もと近江の常楽寺(滋賀県湖南市)にあった門を1601年(慶長6年)に徳川家康が寄進したもので、室町時代の1451年(宝徳3年)の建立と推定されています。大門を入って金堂に至る道の右側にある釈迦堂は、16世紀末 (天正年間)造営の御所清涼殿を下賜され移築したものと伝えられています。

 大門(左)と釈迦堂(右)

金堂(国宝)は、三井寺再興を許可した豊臣秀吉の遺志により、高台院が1599年(慶長4年)に再建した、入母屋造、檜皮葺きの和様仏堂です。金堂の左手前にある「三井の晩鐘」で知られる梵鐘を吊る鐘堂です。この梵鐘は1602年(慶長7年)の鋳造で、日本三名鐘に数えられています。

 金堂(左)と晩鐘(右)

三重塔は、鎌倉時代末期から室町時代初期の建築で、奈良県の比曽寺にあった塔を豊臣秀吉が伏見城に移築したものを、1601年(慶長6年)に徳川家康が再度移築させたもの。毘沙門堂は、1616年(元和2年)の建立と伝えられている観音堂の近くにある小堂です。

 三重塔(左)と毘沙門堂(右)

・琵琶湖疏水
三井寺を見学した後に、境内を出て塀沿いに南下して三井寺の下を流れる、第1流水の琵琶湖疏水のトンネルを見学しました。琵琶湖疏水とは、琵琶湖の湖水を、三井寺の下を通り京都市へ通ずるために作られた水路(疏水)で、禁門の変で市中の大半が焼け、明治維新と東京奠都に伴い京都市は人口が減少し産業も衰退したため、第3代京都府知事の北垣国道が灌漑、上水道、水運、水車の動力を目的とした琵琶湖疏水を計画。主任技術者として、大学を卒業したばかりの田邉朔郎を任じ設計監督にあたらせて、第1疏水は1885年(明治18年)に着工し、1890年(明治23年)に大津市三保ヶ崎から、鴨川合流点までと蹴上から分岐する疏水分線が完成しました。
琵琶湖疏水のトンネルを見てから、トンネルにに流れる第1流水路に沿って京阪電気鉄道石山坂本線の三井寺駅に戻り、次の見学先の比叡山へと京阪電気鉄道終点の坂本駅まで乗車しました。

 三井寺の境内の下を流れる琵琶湖疏水とトンネル入り口

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大森町界隈あれこれ 大森町学びや 60年前の高校時代の関西修学旅行を追想するその1

2011年05月03日 | 大森町界隈あれこれ 大森町学びや
kan-haru blog 2011 歌川広重 近江八景之内(保永堂板)石山秋月          

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60年前の高校修学旅行
物入れを整理していると、茶色にやけたざら紙の「修学旅行の栞 (しおり) 1951. もりこう」と書かれたガリ版摺りの冊子が出てきました。このしおりは、今から丁度60年前の1951年(昭和26年)に高校3年生の修学旅行用に、大森工業高等学校で作ってくれた学習資料で、大変と懐かしい思いで読み耽りました。丁度60年前の修学旅行の想い出がよみがえってきました。
高校は工業系の学校ですが、当時の校長は以前に関西に住まわれており文化や歴史の造詣が深く、文科系の学習科目が少ない生徒にこれを機会に歴史文化を伝えようと、修学旅行の1月前から週の1、2回を割いて特別の講義をして頂いた時の副読本でした。

 60年前のガリ版擦りの修学旅行の栞

今昔の高校修学旅行
・米持参の修学旅行
60年前の旅行と今日の旅行を比べると、いろいろと違いがあり当時はアナログ的な旅行であり、現在はデジタル時代です。ここで、当時のアナログ的修学旅行を、現在のデジタルに変換して追想してみたいと思います。
60年前の1951年は世界大戦終戦からまだ6年目で、1940年(昭和 15年)に開始された米や麦などの主要食糧の配給・消費規制は太平洋戦争と敗戦後に強化され、1941年にはこの配給量の不足分を補う為のパン、ウドン、ソバなどの食料品の入手も可能でしたが、その後日常生活に欠かせない生活物資はすべて配給制となり、主食の米に次いで調味料、魚介類、肉はもとより野菜まで、口に入る物は全て配給制度に組み込まれたので、余分な食料品の入手ができなくなりました。
1943年に主食の配給は二合七勺から二合五勺に減らし、戦局はまったく絶望的となり満州や朝鮮からの食糧輸送路も切断されて1945年5月には二合三勺に減り、同7月には二合一勺(297グラム)に減少しました。戦後の同8月には、物資は無く食糧難で配給の時代が続き国民の食糧不足は極度に深刻化し、生きるためのヤミの買い出しが激増しました。
飲食物は国鉄(現在のJR)の駅前の露天の闇市では闇料金で売っていましたが、学生や生徒は近づけないところです。この時代に修学旅行などで旅館に宿泊する場合には、主食配給のお米を持参する時代が戦後も10年以上にわたり続きました。半世紀前の修学旅行では、3泊の旅館に米一升六合五勺を持参して、その他に弁当が第1日目の夜食と第2日目の朝・昼食用の3食の他、第六日目の朝食代が徴収されました。
その後も、高校修学旅行の4年後の大学研修旅行でも米を持参して、社会人となり仲間と登山で山小屋に泊まるにも当時は米持参で余計な荷物を担いで歩いたのです。1981年になり、やっと配給制度が無くなりました。

 米穀通帳(昭和16年の出来事1941から)

・列車は夜行鈍行の3等車
関西への修学旅行の行程は、京都、奈良、吉野の旅館に泊まり、往復は2泊の車中泊で、1951年10月26日(金)の14時28分発の3等鈍行列車は門司行きであったと思います。
当時の3等級列車の3等車とは現在の普通車のことであり、2等車とは今のグリーン車で、1等車は日本の国鉄時代に、東海道本線・山陽本線の特別急行列車の最後尾にオープンな展望デッキを設けた展望車が接続され、1960年まで使用された一等客専用の列車でした。ちなみに、1956年の東京~大阪間の運賃・料金は、1等が4160円で、 2等 が2080 円で、3等が870円ですが、修学旅行は学生割引の運賃が適用されました。また、当時の物価は、白米(10Kg)765円、そば20円、あんパン12円、山手線初乗10円で、大工の手間賃が730円、教員の初任給は7800円でした。

 当時と同系の3等普通列車

当時の夜行鈍行の3等列車には複数校の修学旅行校が乗り合わせた混成列車で、列車の照明は白熱電球であり、座席シートの背もたれは木製で垂直でしたが、若い時代でしたので垂直でも苦痛は感じませんでした。東京駅を出発して2時間半を過ぎた頃、3食分持参した弁当の1つを開けて、初めての列車に揺られながらの夕食をとりました。
当時の東海道本線は東京~米原間で電化されており、米原~京都間の電化の開通は1956年(昭和31年)11月でした。

 3等鈍行列車は垂直な木製背もたれのシート

往路の列車は東京駅を14時28分に発車して、第2日目の下車駅の石山駅には3時40分着で13時間12分の乗車の鈍行夜行列車です。なんとこの時代は、大阪までは特急でも8時間半もかかっていました。シートが同じ生徒同士は、会話をしたりふざけあったり、鈍行で停車する駅の風景を眺めたりして、やっと下車駅の石山駅に着きました。当時は100キロほどの遠足・旅行には、夜行列車を利用していましたので、夜の列車には慣れていました。
次に掲載の時刻表は、修学旅行の前年のものですのでダイヤが若干異なりますが、参考にみて下さい。復路は、10月30日(火)の22時12分神戸駅を乗車して、第6日目の13時54分に東京駅への帰着でした。

 1950年の東海道本線時刻表(門司行き夜行列車部時刻表拡大)

第2日目の旅行行程
東京発の夜行列車で10月27日に滋賀県石山駅に、まだ夜が明けない3時40分に到着して第2日目の旅行行程のスタートです。

 東海道本線石山駅

修学旅行の栞を開くと、下車した石山の近くの琵琶湖は、日本一の大湖で琵琶の形に似ているので、この名がある。滋賀県の中央に位し、湖岸に史跡や名勝があると記されています。
この琵琶湖の南部の風景は、江戸時代には日本を代表する名勝・景勝として屏風、絵巻、浮世絵版画、工芸等に広く描かれるようになり、中国の瀟湘八景と離れた日本の名所そのものとして、近江八景の地位を確立してきました。近江八景とは、「石山の秋月」「瀬田の夕照」「粟津の晴嵐」「矢橋の帰帆」「三井の晩鐘」「唐崎の夜雨」「堅田の落雁」「比良の暮雪」の八景を指します。

 近江八景

最初の目標地は「石山の秋月」で有名な石山寺までの徒歩遠足で、先ずはだんだんと夜が明けてくる道を琵琶湖に流れる瀬田川沿いに南に進み、石山寺門前へと向かいます。

 第1~3日の行程の石山寺、比叡山、京都、宇治山田方面地図

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番外編カテゴリー別ブログ記事の検索と見方 5月INDEX

2011年05月01日 | INDEX
kan-haru blog 2011 5月1日32版

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K&A kan-haruの日記の月間INDEXは、毎月1日付けで掲載しており前月の登録記事の即時検索のほか、カテゴリー別の登録記事の全て(2006年3月から最新まで)の検索ができます。

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ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その1)  2007年1月30日 更新
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番外編 ブログ記事の参照地図を拡大して見る方法 [付 kan-haruの日記3月月間INDEX] 2006年4月1日

  大森町界隈あれこれ カテゴリー別目次
■印覧の11年4月掲載項目以外の目次は、下記の項番に付記された下線付きのカテゴリー項目を選択すると、当該カテゴリーの掲載当初から現在日時点までの目次が見られます。

 1 大森町界隈あれこれ 大森町に住んで65年!
 2 大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記 総目次
  2-1 大森町界隈あれこれ 鎮魂! 大森町大空襲 (第1編)
      付 東京大空襲 ~あれから61年~
  2-2 大森町界隈あれこれ 手記第2編 戦災日誌中野編
  2-3 大森町界隈あれこれ 手記第3編 戦前戦後目黒にて
 3 大森町界隈あれこれ 戦後編若山武義氏手記 総目次
  3-1 大森町界隈あれこれ 戦後史編手記 第1~4編総目次
 4 大森町界隈あれこれ 大森町の社寺
 5 大森町界隈あれこれ 大森町商店街
 6 大森町界隈あれこれ 大森海苔
 7 大森町界隈あれこれ 京浜急行関連
  ◇ 2006・2007年版2008年前期版2008年中期版2008年後期版2009年前期版2009年中期版2009年中Ⅱ期版2009年後期版2010年前期版2010年前Ⅱ期版2010年中期版2010年後期版2011年前期版
 8 大森町界隈あれこれ 大森町風景
 ■ 大森町界隈あれこれ 満開の季節 大森町界隈の公園・道路・庭先に春爛漫に咲く桜・桃その1 4月10日
 ■ 大森町界隈あれこれ 満開の季節 大森町界隈の公園・道路・庭先に春爛漫に咲く桜・桃その2 4月13日
 9 大森町界隈あれこれ イベント  
 ■ 大森町界隈あれこれ Luz大森 JR大森駅徒歩3分に都市型商業施設がオープン 4月7日
 ■ 大森町界隈あれこれ ニュース 大森町周辺の春のイベント(2011.4.29号) 4月29日
10 大森町界隈あれこれ 大森町学びや
 
  大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 サブ・カテゴリー別目次

11 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 Sub INDEX
  ◇ 関連側道高架化全工区下り線工事2011年版高架化全工区下り線工事2010年版全工区統合2009年版全工区統合2010年版、大森町付近工区:2006・2007年版2008年版2009年版梅屋敷付近工区、京急蒲田付近工区:2006~2008年版2009年版雑色付近工区糀谷付近工区
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第14回その5) 4月2日 
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第14回その6) 4月4日
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第15回その1) 4月17日
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第15回その2) 4月19日
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第15回その3) 4月23日
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第15回その4) 4月25日
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第15回その5) 4月27日

  一般 カテゴリー別目次

21 風景・風物詩 総目次
  ◇ 2006・2007年版2007・2008年版2008~2010年版2010~2011年版 
 ■ 風景・風物詩 小金井公園 江戸名所玉川上水の桜から日本さくら名所100選の小金井公園の桜 4月15日
22 小さな旅 総目次
  ◇ 2006~2009年版2009~2011年版
23 旅ものがたり 総目次
24 秋葉原界隈 総目次
25 イベント 総目次
  ◇ 2006・2007年版2008年版2009・2010年版2010・2011年版
26 ITと技術 総目次
 ■ ITと技術 鉄道模型造り 1年6か月をかけて完成の里山ジオラマを見る 4月21日
27 Weblog 総目次

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