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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ 大森町大空襲から67年 ガス会社、特殊鋼、森ヶ崎一帯を除いて一面の焼け野原その1

2012年04月16日 | 大森町界隈あれこれ 65年
kan-haru blog 2012 戦時中の大森6丁目隣組の防火訓練      

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67年前の1945年(昭和20年)4月15日は、世界大戦終戦の同年8月15日の僅か4ヶ月前で、城南地帯が大空襲の洗礼を受けて、焼夷弾・爆弾の波状爆撃により、大森町はガス会社、特殊鋼、森ヶ崎以東と、入新井の一部を除いて壊滅的な被害を蒙り、何も残さずの焼野原となり、それは蒲田地区の六郷川まで及びました。
私は、丁度国民学校(現小学校)の6年生の時であり、終戦後の秋に学童疎開先の栃木から東京に引き揚げて、学校裏(現平和島)駅に降りて見た光景は、津波災害との違いがありますが、1年前の東日本大震災で建物が何も無くなった被災地と全く同じで、暫くは茫然としていました。何も無い焼野原は瞼に焼き付き、一生忘れることが出来ないものです。NHK朝ドラの「梅ちゃん先生」の蒲田の焼け跡画面を見て、再び思い起させられました。
67年を経た4月15日を迎えて、この時期に重要な戦災記録は後々まで多くの人に伝えて置かなければとの思いで、以前に寄せて頂いた父の職場の同僚であった若山武義氏の、大森町大空襲の実体験被爆の手記(「大森町界隈あれこれ 鎮魂!大森町大空襲(第6~9回)」参照)に新たな資料を加え再録して、想い起し広く伝えるために再録編集しました。

 若山武義氏の大森大空襲被爆体験手記現本

東京大空襲
1941年(昭和16年)12月8日に開戦し、東京大空襲は、1942年(昭和17年)4月18日のB25爆撃機による奇襲攻撃の初空襲により、39名の犠牲者がでました。
本格的な空襲は、1944年(昭和19年)11月24日から1945年(昭和20年)8月15日(終戦日)に至るまでの、延べ106回に及ぶ焼夷弾を中心とした市街地爆撃により、同年3月10日未明のB29爆撃機約300機による低空絨緞爆撃による焼夷弾1,700トン、爆弾6個による2時間半にわたる爆撃で、本所、深川、浅草を中心とした住宅蜜集地の27万個の家屋が焼失し、亡くなった人は10万人を超えた世界史に残る大空襲と記録されております。
それに続き、同年4月の城南、城北爆撃、同5月の山の手爆撃と、同8月の八王子と大規模爆撃が進められ市街地は焼け野原となりました。

 東京大空襲で焼け野原となった亀戸天神付近(東京大空襲・戦災資料センター出展2006.4.22承認)

・大森町大空襲
同年4月15日の城南地帯の大空襲は、B29編隊202機が房総半島から東京湾を西北に進み、川崎、大森・蒲田方面の爆撃で、焼失6万8400戸の被害を受けました。同5月29日には大森駅付近が多量の爆弾と焼夷弾爆撃により殆どが焼き尽くされ、大森町の北は磐井神社の南方から、南は六郷土手まで見通せるといった荒涼とした焼け野原となりました。
大森町の空襲では、父と一緒の同僚の若山武義氏が産業通り際の勤務地を守り、爆撃に遭遇して被災に会い命からがら逃げた生々しい手記を再録します。

 大森町上空の戦災後の航空写真(昭和22年)

[大森町大空襲の手記]
4月13日夜、池袋、大塚、巣鴨、滝野川、田端に亘って相当広範囲に爆撃され、終夜猛炎天を焦がすばかりである。京浜地帯では、今日まで大森、蒲田は被害らしき被害はないから、今度こそこっちの番だぞと不安になって来た。
敵の爆撃は今日迄の経過を見ると、丁度一週間目毎に帝都にやって来る。其の翌日から毎日毎夜、一機、二機、三機戦果偵察に来る。我が頭上四週を偵察し始めたから、こんどは大森はあぶないぞと予感もした。然し13日に大挙来たのだから、今度は20日前後だなと想定をして居った。
4月15日晩、関井さん来訪、疎開後の始末やら爆撃被害の情報を語り合って、9時の時計の音で、それではお明日と辞去された。さて寝ようかなと床をのべると、それ迄我が膝の上に、何時ものように安眠して居た「たま」は手足をのばし、大きなあくびをして、待ってましたとばかり床の中にもぐりこんでしまった。私も帯びをときかけるととたんにブザーが鳴り出した。
おやっと思ふと警報発令だ。軍情報は「敵機は八丈島東南方を西北進しつつあり、本土到達迄約30分の距離なり」と。さては来たなと、例の通り仕度を仕直して次の情報を待った。
「敵機は房総半島南端に集結しつつあり」と。ははあ、それではいつものコースの通り土浦か太田かと判断した。とたんに空襲警報となった。「各家庭の防火群の皆様、切に激闘を望む」 毎度の事、すっかり準備はよいかと組内を一巡してロータリーの前に立つ。

 大森町戦災地図1

「敵機は東京湾を西北進しつつあり」。「東京湾を西北進」、さては横浜か川崎が目標だなと判断した。とたんに森ヶ崎から多摩川沿岸の探勝照灯が一勢に閃き出すと共に森ヶ崎の高射砲が轟然とうなり出した。あっと思う間もなく、京浜国道夫婦橋先に猛烈なる大炸裂音と共に一面火の海の火柱がたった。
「アッ、しまった」と思う間に背後に百雷一時に落下する凄猛なる轟音!。アッ、爆弾と直覚して地面にツッ伏した。形容の出来ぬおそろしき轟然炸裂とともに一面火の海。立ち上がって見ると、京浜国道帝銀の前、田川食堂、赤羽根町会長宅、警備隊と一連に猛炎を吹き上げて来たと同時に、瓦斯会社方面、南は第一国民学校から十全病院に亘り次ぎ次ぎに爆撃され、三方火の海となって迫り来る。
予想に反し、あまりにも予期せぬ恐ろしさにただ動転、我が周囲は一瞬に阿鼻叫喚の巷と化し、恐怖に呆然と立ち竦み、名状し難い混乱となった。
「逃げろ」と云うた、「逃げてくれ」と云うたか、消す処の沙汰ではない。全く四方猛炎に包まれて、平素の覚悟や訓練なんかすっとんでしまって全く周章狼狽、混乱のまま我れ勝ちに安全の処、安全の処と非難するより外なかったのである。
私も一たん我が家に飛び込んで、非常袋に重要書類のみ詰め込んで飛び出した。落ち付こうと思うても落ち付けない。とにかく風の流れはと見ると、東の方からの烈風が吹きつけて、火の粉と煙が身近かに迫り、刻々猛火をあをっている。北、東、南と三方の火の海、僅に西には火がないが、第二、第三次ぎ次ぎの爆撃必至だ。とにかく森ヶ崎から東海岸に出ようとして、羽田街道を国民学校の猛火の下をくぐって一散に、一団の人々とかだまりあって駆け出した。

 大森町戦災地図2

呑川の川端迄辿り付き、一息ついて蒲田方面を見ると、之れ亦一面火の海、大森をふりかえって見ると、火の手は五ヶ処も六ヶ処も燃え盛る。敵機は波状爆撃に次ぎ次ぎ繰り返し繰り返し爆弾、焼夷弾を投下しているのが明瞭に見られる。とにかく森ヶ崎から中の島の方へ行こうと避難の人混みに押しつ押されつ行くと、背後から突然カン高い女の声で呼ぶ声がする。ふりかえって見ると佐久間君夫妻だ。赤ちゃん背に、着のみ着のまま。疎開でやっと梅屋敷のアパートに落ち着くまもなく今夜の直撃で命からがら逃げて来たとの事。先ずお互いに無事で何よりだと喜んで、励まし励まされつつ森ヶ崎の入り口の処まで来て立ち竦んだ。
殆ど何万とゆう人と荷物の波だ。この森ヶ崎には高射砲陣地がある筈、若しもここが爆撃されたら、それこそ被服廠の二の舞となる虞れがある。これならうっかり森ヶ崎には行かれないぞ、ここで暫く形勢を見ようと、河の土手に陣どって観望して居た。
此の間、敵機の爆撃は益々熾烈を極め、烈風にあおられる猛炎の火の海。大型焼夷弾は炸裂と共に花火の如き熱焔を吹き上げる。爆弾は轟然炸裂と共に黒煙を天に沖し凄惨とも悲惨とも書くすべを知らぬ。ただ「やりやがったな」と切歯するのみである。午前四時頃、やっと警報解除のサイレンで、やれやれ助かったと安心した。前後約六時間、何ものも残さず燃え盛る。火の手は中々おさまりそうもない。東の空はほのぼのとあけて昇る太陽は真紅であった。

 六郷橋から川崎方第一京浜国道を見る 

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大森町界隈あれこれ 終戦63年によせて 悲惨な戦争体験を忘れずに平和の持続を祈願する

2008年08月15日 | 大森町界隈あれこれ 65年
kan-haru blog 2008

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終戦63年を迎える
8月15日は終戦63年で、ブログを記述してから3回目の終戦の日を迎えます。
63年前の1945年(昭和20年)8月15日は、朝から太陽が照りつけ暑い日でした。当時は12歳の小学6年生で、疎開先の栃木県の国民学校(現在の小学校)の校庭に集合して、ラジオの前で昭和天皇の玉音放送を聞いたのですが、その頃のラジオの性能では声が全員に届かないため何の放送かも分からず、放送終了後の解散により帰宅して敗戦を知った(「大森町界隈あれこれ 手記第3編 終戦前後目黒にて(第6回)」2006年8月15日掲載参照)のです。


 東京大空襲で焼け野原となった亀戸天神付近(東京大空襲・戦災資料センター出展2006.4.22承認)

当時国民は、日本は戦争には絶対負けない国であるとの統治者の暗示を全員が信じ込まされて、多くの国民が戦地に召集され多数の戦死者を出す大きな被害を受け、戦中・戦後の生活ではまさに餓死寸前の状態にまで追い込まされたのです。
戦争の体験は、父が大森に転入したのが1937年(昭和12年)で、それ以来現在まで大森の住民として過ごし、1941年に大森町で無知無謀な戦争に突入し東京大空襲の戦災や戦闘機による機銃掃射にも遭い、物資不足の耐乏生活を強いられ、その間小学4年から卒業寸前までは学童疎開生活を体験しました。戦後の生活も戦中に劣らずの悲惨なその日暮らしで、食糧難での配給のみの食事を摂り餓死者も出て、国民全体が栄養失調寸前という凄惨な生活をおくりました。

大森町周辺戦災空中写真(国土地理院公開空中写真から、USA-M371-83東京都大田区2倍画像 1947年(昭和22年)米軍撮影)

終戦63年後の現在、戦争体験世代である65歳以上の人口は、2006年の総務省統計局『国勢調査結果』統計によると20.5%であり、戦争を体験して悲惨な目にあった国民は10人に2人のみの少数となりました。最近、女子大で昭和史の授業時の学習の学生や、あるご子息のW大学院生を靖国神社の遊就館に連れて行った際に、若い人は「日本がアメリカと戦争したことを知らなかった」という話題を知り、大変なショックを受けました。


 東京大空襲被災の10万5千人の遺骨が納骨堂に納められている東京慰霊堂

幸い、これまで日本は戦後から、なんとか平和を維持してきましたが、これからの世代も日本が平和を持続させて行くには戦争の悲惨さを知り、かっての日本の軍国主義やドイツのヒットラーなどの様な無知な統治者の暗示を受け、国民を戦争へと駆り立たされない様に、戦争の無謀さを知り惑わされない強い信念を持つことです。
それには、先ず日本の一般国民が終戦の年の8月の原爆の洗礼を受けたことや、3月の東京大空襲無差別爆撃で1夜にして死者10万人の死者を出した戦災の事実を知り、国民を不幸に落としいれる悲惨な戦争を繰り返さずに、平和の尊さを知り、平和の持続を強く願う気持ちを持つことが必要です。


 戦時中の大森町6丁目隣組防空演習風景

若山武義氏の悲惨な戦災体験の手記
kan-haru日記ブログは、2006年3月から開始しましたが、投稿の内容は記録記事を主体に掲載することを目的で始まり現在に至っており、若山氏の戦災体験手記を基にした実記録記事と、大森町が中心にある交通機関の京浜急行の高架化工事の歴史的記録記事の2項目を主テーマとして、その他大森町界隈の様々な出来事や、大森町以外での記録の他、見学記、イベント報告、旅行記などを纏めて掲載しています。

大戦記録記事のブログを始めた理由は、私の父の勤務先の同僚の若山武義氏が、戦中に大森、中野、目黒などで東京大空襲の戦災被害を受け、戦後の食糧難・物資不足の生活などの貴重な記録の手記が残されており、遺族の方からこれをブログに掲載して貰えないかとの話がありましたので、10人に8人が戦争を知らない世代の方々に、日本が無知・無謀な戦争に突入して大衆国民に悲惨な目に遭された出来事を、若山氏ご遺族の趣旨と私自身の戦争体験者として、あの忌まわしい戦争記録の断片の少しでも語り告げられればとの強い思いから掲載を始めました。

若山氏の手記は第三者個人の記録記事です。そこで、kan-haru日記にその手記の転記転載の掲載のみでは、個人ブログの目的趣旨に沿わないので、連載掲載の方法として個人の戦争体験や関連情報などを収集して解説記事を毎回作成し、それと実録の手記記事を組み合わせた形で掲載を始めており、現在もまだ未完で連載を継続中です。

・若山武義氏手記構成
若山武義氏の貴重な戦争体験の手記(原本写真)と解説付きの戦中・戦後の実録記事掲載は、戦争編と戦後史編で構成してあります。
戦争編は、第1編 鎮魂! 大森町大空襲 が11回連載、第2編 戦災日誌中野編 が7回連載、第3編 戦前戦後目黒にて が9回連載で終了しています。
戦後史編は、第1編 太平洋戦争の終結 が8回連載、第2編 天皇制の問題集 6回連載、第3編 我等の生活談義 6回連載で継続中です。

戦争編と戦後史編に掲載の記事には、若山氏の東京大空襲の悲惨な爆撃戦災体験や惨めな戦後生活の貴重な実体験の手記と、これらに関する解説記事用に集めた情報が記録してあります。まだ、未完ですので記録掲載を続けていきます。
是非、次に記載の総目次を検索して、戦争の実記録記事に触れて頂き、ご関心をお持ちでしたら口伝えに紹介して下さいますようお願い致します。
特に、1945~46年(昭和20~21年)頃の戦後直後の記録手記は殆んど無い記録史で、大変貴重な実録の手記記事です。

戦争編 第1編 総目次
戦争編 第2編 総目次
戦争編 第3編 総目次
戦後史編 第1編、第2編、第3編 総目次

・その他の世界大戦関係記事
kan-haru日記では、以上記載の通り戦争を語り継ぎたいとの目的が一つにありますので、時代経過の節目の折りに開催された戦争関連のイベントなどにも参加して記事を掲載しております。ご参考まで、その目次を以下に記載させて頂きます。

・戦争関連のイベント記事
 イベント あれから62年「東京大空襲を語り継ぐ集い」 2007年3月19日
 イベント 63年前の東京大空襲傷痕 浅草、本所、深川の戦跡をめぐり平和を祈願する その1~4 2008年3月14日

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大森町界隈あれこれ(7) 大森町に住んで65年!(その6)

2006年04月09日 | 大森町界隈あれこれ 65年
JR大森駅付近の発展
東海道線の開通にあたり大森村の住民は、村の中心に鉄道が通るのを反対したため、大森町の西端を通る路線となり、現在のJR大森駅は大森区のはずれの北端に開設されました。
かっては、京浜国道の三叉路にあった大森区役所は、庁舎を現在の「大田文化の森」と呼ばれる場所に移転しました。昭和22年(1947年)には大森区と蒲田区が合併し、大森区役所は大田区役所となり、昭和36年(1961年)まで庁舎がありました。その後の大田区役所庁舎は、蒲田駅東口近くの場所に移転しました。
一般に、交通の便利な駅の近くから文化・経済の中心として発展していくのが歴史の流れです。JR大森駅の開設により、時代とともに大森の中心は、大森町から大森駅へと移って行きました。その歴史の変遷を、見てみましょう。
出典:大田の史話 大田区史編さん委員会 1988年、写された大田区 ~懐かしい・まちとくらし~ 大田区立郷土博物館 1992年2月15日発行

東海道線開通
明治政府は、文明開化のさきがけとして、近代的交通機関である鉄道を建設することとなり、明治2年(1869年)英国から外債を得て着手しました。
初めの計画では、東海道の街道筋にそって品川から大森の海岸を通って川崎に出る予定でしたが、大森町の人々は大きな鉄の車にものすごい勢いで走られたら、稲の朝露が落ちて実りが悪くなるとか、馬車やかごの乗り手がなくなって街道がさびれると云って反対しました。したがって、当初の路線をやむをえず、当時の人家の少ない淋しいところであった、山王から新井宿、蒲田の水田の中を通る現在の路線となりました。
明治5年(1872年)5月に東京と横浜間を日本最初の陸蒸気が運転を始めたのが、東海道線のスタートで、東京(新橋)と横浜の間に、品川、川崎、鶴見および神奈川の四駅だけでした。

大森駅の開設
東海道線の開通前から、山王に鉄道建設の英国人技師の住宅がありましたので、鉄道開通後に現在の大森駅の南寄りに休憩所を作り、必要に応じて手を上げて列車を止めて乗り降りをしたそうです。
そのうち、不便なので休憩所を駅にすることになり、当時付近の人家は少ないし、新井宿の駅名では通りが悪いので駅から1キロも離れているのですが、「大森」の名をとり大森区最初の停車場が明治9年(1876年)にできました。
「汽笛一声新橋を はやわが汽車は離れたり 梅に名をえし大森を すぐれば早やも川崎の 大師河原は程近し 急げや電気の道すぐに....」
当時の鉄道唱歌(大和田建樹 1902年)にも歌えわれる、大森の梅の名所は大森八景園(1884年開園)だと云われ、東京郊外の名所としてしられております。
大森駅の開設により交通の便が良いこれらの地が、東海道線が全通する明治22年(1889年)頃になると、山王台地に政治家、実業家、高級官吏、将校などの住宅や別荘が建ちはじめました。明治37年(1904年)に蒲田駅ができ、近距離列車が通じるようになると、次第に住宅が増えてきました。
大森駅西口出改札所ができたのは大正2年(1913年)で、東口と西口が跨線橋でつながり乗客には便利となりました。大正4年(1915年)には、東京・横浜間に電車が運転され、地域の発展に一層拍車がかかりました。大正期後半になると、都市化の波が郊外に及び、いち早く住宅地に変貌しました。
このように、地形的には大森町の隣接地の新井宿と不入斗の両字であった所に開設して、名目的に命名された「大森駅」の周辺が、「軒先貸して母屋をとられる」形で「大森」の中心地となり、開発が進み経済・文化は大森町から大森駅周辺へと移って行ったのです。


大森駅西口

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大森町界隈あれこれ(6) 大森町に住んで65年!(その5)

2006年04月06日 | 大森町界隈あれこれ 65年
昭和8年(1933年)頃の町名は大森町
昭和8年(1933年)発行の大森区の地図(PDF地図版)を見ると、現在の環七通りは当然のことながら存在しておりません。町名は、「大森町」で一丁目から九丁目まであります。
戦時中の昭和16年(1941年) 頃の町名は、「大森」の一丁目から九丁目までと、戦前の大森町から「町」の字がとられました。
1933年の大森町の地図では、京浜国道の三叉路には大森区役所があり、内川近くの旧東海道の美原通りには大森警察署があり、近辺には複数の映画館や劇場がみられ、大森の中心街をなしておりました。

大森の由来
大森とはいつ頃から云われはじめたかについては、「大田区の歩み」や「大田区史年表」などより抜粋すると、文政8年(1825年)の「新編武蔵風土記編稿」内に「奉寄 大慈恩寺武蔵国六郷保大森郷陸奥五郎跡事、右六十六基之為・・・・」と古文書に書かれているものの他、文明12年(1408年)に大田道灌が上洛の時に大森というもりの陰に休らひて詠んだ「平安紀行」に「大森の木の下かげのすゞしさにしるもしらぬも立どまりけり」とあります。
地名の起こりは、諸説があり明確には断定できませんが、大きな森林を地名と考えるのが妥当のようです。

大森の経緯
大森は、室町時代に六郷殿の所領であり、その治下に入り代官の支配下にありました。
六郷領大森村は、不入斗村、新井宿村、堤方村、北蒲田村、糀谷村、品川湾に囲まれた広大な地域であったため、元禄8年に、東大森三〇〇軒、西大森二〇〇軒、北大森一八〇軒の三村に分割されました。
慶応4年、徳川が去り官軍が江戸城に入域により、大森地区は武蔵県となり旧代官の支配下に置かれました。
明治元年に武蔵県は東京と改称され、同4年東京府が発足し統一国家の形成と共に大森の三村は、再び統一され荏原郡大森村(PDF地図版)(出典:明治14年第5号測板 東京府武蔵国荏原郡大森村 (財)日本地図センター発行)となりました。
当時の大森村は、海苔養殖と田んぼのまったくの農村漁村でした。その後、次第に市街地化が進み、明治30年に大森村は、東京市大森町となりました。
昭和7年(1932年)に隣接五郡と併合し、大東京市が誕生した時に大森区となりました。掲載の地図は、大森区が出来た時の初めての貴重な地図です。出典:大田の史話その2 東京都大田区発行 大田区史編さん委員 昭和63年3月
戦後、昭和23年(1948年)に大森区と蒲田区が合併して、今日の大田区大森となりました。

わが街の大森町駅
京浜急行電鉄は、関東では最も古い歴史を有する鉄道で、明治32年に六郷橋のたもとから川崎大師間の2キロを、参詣客を運ぶために敷いたのが始まりです。
明治34年に、六郷から蒲田、大森町を通り大森海岸から西に折れて、東海道線の大森駅へと結ばれました。同38年に、北品川へと延びて神奈川間が開通しました。
その後、昭和12年(1937年)に大森海岸と大森駅間の支線は撤収されました。
現在の「大森町」駅は、開通時には山谷駅として開設されましたが、昭和20年(1945年)の空襲で焼失のため廃止されていましたが、昭和27年(1952年)に「大森町」駅と改名され再開しました。


写真 大森町駅西口

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大森町界隈あれこれ(4) 大森町に住んで65年!(その4)

2006年03月30日 | 大森町界隈あれこれ 65年
大森町の変遷
大森町の交通の要所は、大森町の北境で東西に貫通している環七通りと、地勢の中心点で南北に走る国道15号(第一京浜)と国道131号(産業道路)が合流して三叉路を構成しており、さらに大森町の中心部を南北に京浜急行電鉄が縦断しているのが特長です。
現在、三叉路のところに大森警察署がありますが、前回述べたように戦前、戦時中には大森区役所が立地し、隣接して大森消防署が立ち並んでおりました。
また、大森町中心位置の京浜急行電鉄の現「大森町」駅は、戦前、戦時中には「山谷」駅と云われており、隣駅の現「平和島」駅は以前「学校裏」駅と呼ばれており、戦前の学校裏駅は環七通りの南側にありました。
大森町は、戦前、戦時中、戦後の時代とともに大きく変遷してきました。その、変遷の一部を、写真や地図によって見てみましょう。

写真・地図で見る大森町界隈の変遷
写真・図の番号をクリックすると表示します。ブログに戻るには、ブラウザの「戻る」メニューをクリックします。(写真出典:写された大田区 ~懐かしい・まちとくらし~ 大田区立郷土博物館 1992年2月15日発行)

写真1 現在の大森警察署付近(国道15号道路側)
写真2 1961年頃の大森警察署屋上から見たの第一京浜(左)と産業道路(右)の合流点、右の鉄塔は隣接の消防署火の見櫓
写真3 1954年頃の学校裏駅近くの第一京浜と環七通り合流点、当時環七通は合流点が終点でした。国道沿いの建物も、殆どが1,2階の木造建築です。
写真4 1992年頃の写真3と同地点、環七通は平和島埋め立て地に順延しており、第一京浜と立体の大森陸橋が作られました。
写真5 1959年頃の環七通り北側の京浜急行電鉄の学校裏駅。現在は、高架駅となっております。
地図1(PDF地図版) 戦中の大森町地図。
 出典:複刻古地図 地形社編 昭和十六年 大東京三十五区内 大森区詳細図 人文社から抜粋

戦中の大森町は、昭和十六年(1941年)太平洋戦争開戦の年に発行の地形社編の地図により、さまざまな情報が正確に盛り込まれておりますので、当時の大森町の様子を知ることが出来ます。
当時の京浜電車の「山谷」(現、大森町)、「学校裏」(現、平和島)、「八幡」(廃止駅)、「海岸」(現、大森海岸)、「鈴ヶ森」(廃止駅)の駅の変遷や、大森消防署や大森警察署の場所(旧東海道、美原通り)等とともに電気館、大森劇場、日活館の存立が分かります。当時の大森町の丁目名は大森一~九丁目の区画割りになっていました。東京湾には、まだ埋め立て地は無く、海岸駅近くには、大森海水浴場がありました。

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大森町界隈あれこれ(3) 大森町に住んで65年!(その3)

2006年03月23日 | 大森町界隈あれこれ 65年
戦時中の大森町
大森と云うと、東海道線・京浜東北線のJR大森駅が中心とした地域を想定すると思いますが、大森駅は区の北端で品川区境にあり、大森町は再掲の大田区全図の地図(PDF版地図)で見て分かる通り、西の境は東海道線から東側にあり、北境は一部を除き環七通りから南側で、南の境は糀谷・蒲田から北側に位置し、大田区南北の中央部にあります。

戦後(1947年)合併以前の大森町は、馬込・東調布・池上・入新井・大森の5つの町からなる大森区にありました。
大森区時代の戦時中の大森町は、1940年発行・大東京区分図大森区詳細図復刻版よりの大森東部地域分割の入新井・大森地区地図(PDF版地図)で見ると東側は東京湾の海岸線に接しております。
注.Adobe Readerをお持ちの方は、クリックしてPDF版地図を表示すると、地図を自由に拡大してご覧になれます。

地図で入新井の海岸線には、何と大森大海水浴場(写された大田区~懐かしい・まちとくらし~ 大田区立郷土博物館1992年 出典)が見られ、京浜電車(現在の京浜急行電鉄)の海水浴場の傍の駅名は「大森海岸」(現在実存)と云い、現在では東京湾までは遥か2Km以上先まで埋め立てられ、想像も付きません。
現在の大森町の中心にある京浜急行電鉄の駅名は、その名もズバリ「大森町」ですが、当時は「山谷」と称してました。

その他、京浜電車の駅名にはいろいろと変遷があり、「山谷」駅の北隣の駅名は「学校裏」(「平和島」に1961年改正)と呼び、現在の駅が環七の北側に対し南側にありました。学校裏の由来については、別編で記載しますが、駅の傍に大森で最も古い寄木尋常小学校が開校した場所で、その裏側に駅が出来たからです。その後、寄木尋常小学校は、国道131線沿いの大森第一小学校と、内川と云う河川沿いの大森第二小学校に分校しました。
ちなみに、大森第一小学校は私の母校であり、大森第二小学校は子供達の母校です。
また、「学校裏」と「大森海岸」の間に、「八幡」と云う駅が通称八幡通りにありましたが、現在は存在しておりません。

なお、当時の大森警察署は、現在地の国道51号線と国道131線の三叉路の又部では無く、三叉路から分岐の旧東海道の美原通りを北行した、通の右側にありました。
現在の大森警察署所在の場所には、大森区役所があり、付近に電気館、日活館や大森劇場などがあり、戦前の大森町の立地条件は区部の中心街として形勢していたのです。

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大森町界隈あれこれ(2) 大森町に住んで65年!(その2)

2006年03月21日 | 大森町界隈あれこれ 65年
大森町はここ
地勢的に見た現在の東京都大田区大森町の所在場所を、明確に示します。
先ず、ここを大田区全図の地図(PDF版地図)から見て行こう。
注.Adobe Readerをお持ちの方は、クリックしてPDF版地図を表示すると、地図を自由に拡大してご覧になれます。
大田区の位置は、都の区部の南端に位置し、南から西には多摩川をはさんで神奈川県川崎市に接し、北から西にかけては品川・目黒・世田谷の各区に接し、さらに東は東京湾に面しています。
大田区全図の地図(大田区地図帳 東京都大田区 平成10年12月発行)によると、大田区は19の行政地域に分かれております。

大森町はどんな所
わが大森町のエリアは、大森東と大森西の2つの行政地域で構成されております。
大森町の位置は、北から東にかけて入新井行政地域と接し、西にはJRの東海道本線・京浜東北線を境界にし新井宿・池上の各行政地域に接し、南は蒲田東・糀谷・羽田の各行政地域に接しております。
大森町の地形は、東側に接している入新井行政地域の臨海部が埋め立て地として整備される前までは、東京湾に面した平地で海抜は5m以下です。大森町の雰囲気は、住宅や店舗、工場が多く集まった商業・工業地域を形成しており、現状の住居地は商業地域となっております。

大森町の居住地は、大森西三丁目にあり、大森三丁目連合町会に所属しております。
大森町の丁目境界は、ここをクリックして、大森町詳細地図(PDF版地図)を表示すると見られますが、大森東一~五丁目、大森西一~七丁目、大森中一~三丁目、大森南一~五丁目で構成されております。

大田区の名前の由来
昭和22年(1947年)3月に、当時「大森区」と「蒲田区」と呼ばれた地域が合併し誕生したのが大田区の始まりです。大森、蒲田の両方の一字ずつを取って命名されました。
大田区の前身である大森・蒲田の両区は、ともに昭和7年(1932年)10月に、当時の東京市へ隣接する郡町村が編入された際に設置されました。 馬込・東調布・池上・入新井・大森の5つの町が大森区に、矢口・蒲田・六郷・羽田の4つの町が蒲田区になりました。
(大田区タウン 東京都大田区歴史探訪http://www.otaku-town.com/history/から出典)

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大森町界隈あれこれ(1) 大森町に住んで65年!(その1)

2006年03月19日 | 大森町界隈あれこれ 65年
日記を開始して以来10回目の投稿にあたり、大森町に住んで65年となり、ここで、新たなカテゴリの「大森町界隈あれこれ」を新設して、大森町の今昔の連載を進めていきます。

大森町は古く江戸時代から大森海苔の有数な産地で名をはせており、今でも海苔加工産地であることは余り知られておりません。
ブログの5、6回で記述の61年前3月10日の本所、深川、浅草を中心とした東京大空襲では10万人を越える犠牲者がでましたが、1945年4月15日空襲で大森町近辺が焼き尽くされました。

歴史の風化が進み、大森海苔干し風景の風物詩や、戦争を知らない世代が10人中8人とも云われ、今語り継がないと後世に伝わらないとの思いから、「大森町界隈あれこれ」を記述して参ります。
幸いのことに、父と同一勤務先の若山武義氏の戦中、戦後の貴重な手記が保管され残されておりました。遺族の石川清様ご好意のご提供により、先ずは「大森町界隈あれこれ」鎮魂!大森町大空襲編と、次いで大森町の戦後混乱期編の手記を掲載する予定です。

また、「大森町界隈あれこれ」には、今後の大森町の今昔物語として、大森町界隈の歴史や見所、大森町駅付近の京急の変遷と京急高架化工事、蒲蒲線鉄道新線計画、大森町で幼稚園から小学・中学・高校までを通学した学校変遷などなどについても掲載します。

大森町に住んで65年!
大森町に住みついたのは昭和13年(1938年)で、居住場所は住居地図に示す国道15号(第一京浜)の三叉路に分岐した、国道131号(産業道路)の大森警察署に面したA地区が、父の転居勤務先事務所であり、その2階が大森町ではじめての社宅住まいとなりました。
敗戦色が濃くなってきた1944年に学童疎開がはじまり、茨城県と栃木県にある母方の親類の縁故疎開生活で大森町の生活から離れざるを余儀なくされました。
1944年の夏頃、防空上の理由で建物の強制疎開が行われ、大田区では1万2千世帯の家屋が取り壊されました。大森町の社宅も、強制疎開により住居できなくなりました。
1945年8月15日の終戦により、同年秋に一帯が焼け野が原の東京に引き上げましたが、住まいは父の勤務先会社事務所跡(住居地図B地区)に間仕切りした部屋に、居候の生活で再び大森町生活に戻りました。
居候生活は何時までもできないため、昭和24年(1949年)に大森町駅(当時は戦災で消失のため駅は運営休止状態でした)付近に土地を借りて,平屋2間のバラック建ての仮住居に移りました。それ以後同所が、大森町住まいの本拠となり今日まで住んで、65年を経過しました。

大森町って何処
インターネットで大森町(http://www.netoomori.gr.jp/)を検索すると。「大森町(おおもりまち)は秋田県の東南部にあった町町。2005年10月1日に市町村合併で横手市となった。」とあり横手市にあります。
秋田県の大森町と吾が大森町とは姉妹都市を結んでおり、大田区開催のイベントの大森フェスティバルには出店されてます。
では、わが大田区大森町とは何処にあるのでしょうか。地名の変遷などを、次回でご紹介します。

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