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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 京急蒲田駅付近(第2回)

2007年04月29日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2007

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京浜急行蒲田駅の高架工事(「大森町界隈あれこれ(P32) 京浜急行の高架化 京急蒲田駅付近(第1回その1~3)参照」)は、支線の空港線も交えて本線と立体交差の複雑な工事ですので、早くから着手しておりますがポスターでも見られる様に大変な工事で進捗もかなりかかるようです。蒲田駅の工事の進展をルポのため、4月21日に川崎に出かけたついでに途中下車して見てきました。

その後の蒲田駅ホーム上の工事進捗状況
第1回で記述した下り本線の線路を、第一京浜国道寄りに移設する前まで使用していた元下り線の2番線ホームは、完全に撤去されておりました。この部分は、電車が通りませんので、高架橋を構築するための基礎工事がフル回転で進行しております。

    元下り線の2番線ホーム上の高架化工事(川崎方面)

    元下り線の2番線ホーム上の高架化工事(品川方面)

本線上り線ホームと下り線・空港線ホームのそれぞれのホーム上の高架橋工事は、昨年12月の時点の状況と殆ど変化っておりませんでした。

    本線下りホーム(品川方面を望む)             (川崎方面を望む)  

空港線ホーム(品川方面を望む)  (空港方面を望む)

情報コーナー
昨年12月の前回ルポでは、時間の都合で見られませんでしたが、今回は京急蒲田駅跨線橋上の東口改札口出口付近にある、「京急蒲田駅付近連続立体交差事業情報コーナー」も見てきました。

     京急蒲田駅付近連続立体交差事業情報コーナー

情報コーナーには、京急本線の大森町駅付近から六郷土手駅付近までと、支線の空港線の大鳥居駅付近までの大型のT字型の立体模型を中心備えてあり、さらに高架線路構造模型の他、ディスプレイ表示による京急高架工事の詳しい説明画面パネルや、工事に関する各種の説明パネルと共に、工事開始の鍬入れ式の写真と使用した鍬が展示してあります。

                 ディスプレイ表示説明画面パネル

環八通りの仮立体架橋の工事
昨年12月の前回ルポの時廻った、環八通りの仮立体架橋の工事現場は、今回は廻れませんでしたので、川崎への下り電車内から見ましたが、前回時より架橋仮設が進んで増えておりました。
この部分の仮立体架橋は、実際の立体架橋完成までには時間が掛かるため、仮の立体橋を並行して設けるもので、珍しい工事でありますので次回にルポを行います。

立体工事の駅は、全部で七駅ありますので廻るのはなかなか大変です。大森町駅付近の工事を重点として記録して行き、次いで京急蒲田駅付近と隣接の梅屋敷駅付近の工事記録をなるべく多く採ることとし、雑色駅付近と糀谷・穴守稲荷駅付近の工事の記録は出来るだけ採って行きたいと思っております。

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大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第2回)

2007年04月26日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2007 おしらせ案内拡大

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大森町駅が高架化工事のために模様替え
京浜急行電鉄の高架化工事もピッチが上ってきましたが、電車を止めないで行いますので工事の仕方は、われわれが想像していた以上に大変であることが分かってきました。電車の通行中には出来ない工事は、終電が過ぎた後から初電までの間に、ホームや仕切りを外してからの作業となり、電車が動くまでには外したホームを戻しておく必要があるのです。

こうした中での工事で、高架橋を大森町駅の上に構築するため、「大森町駅改札口の位置変更及び構内踏切の閉鎖」のお知らせ(おしらせ案内参照)が貼り出されてありました。
また、この二、三日前頃から、各駅停車の電車が大森町駅に着く直前に、車掌さんが構内踏切の閉鎖のお知らせのアナウンスが行われ始めました。
大森町駅の通勤・通学時間帯の乗り降りは、隣接の平和島駅や梅屋敷駅とを比較すると、大森学園高校(「大森町学びや もりこう会の集い(その1~4)」参照)生徒の通学がありますので、かなり混雑するのです。

大森町駅構内踏切閉鎖
説明図によりますと高架化工事のため、29日の日曜日から大森町駅の上りと下り線を結ぶ構内踏切を閉鎖して乗り降りは、上りと下りのそれぞれの改札口から入・出場することになり、改札口の位置をずらして移設されます。

  構内踏切(品川方面を見る)   構内踏切(川崎方面を見る)    東口改札入口

上り(西口)改札口は、3列横並び配置の現在の位置からホーム寄りに2m移動されるようです。改札口の移動は現在の形態の3列横並びの配置ではなく、混雑解消のためか二段に配置し1列の改札口をホームの近くに置き、ホームから一段ずらした形態で2列の改札口を移動するようです。

    東口改札出口           西口改札入口          西口改札出口

また、下り(東口)の3列横並びの改札口の移動はもっと大掛かりで、閉鎖の駅売店(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第1回その1)」参照)跡に仮駅事務所を設けて、取り壊した元の駅事務所とトイレの跡の後ろ側にホームへ上がる石段を新設し、駅入り口から9m後退した場所に移設されるようです。

   閉鎖された構内トイレ      移設された構内トイレ  高架橋に触れ建直しの住宅

本線付属街路第1号線の工事関係
京浜急行の高架化工事に伴い京浜電鉄本線西側に沿った、内川から放射34号線道路の間に幅員6mの「本線付属街路第1号線」の区道(「大森町界隈あれこれ 大森町商店街 京急高架化でラーメン屋さん閉店第一号のその後(2)」参照)ができます。
それに伴い、道路に掛かる住居や建物は立ち退きとなり、元ゑびす市場、元三吉野と100円ショップの建物は取り壊しはすでに終わっております。

         本線付属街路第1号線区道に掛かり立ち退いた商店・住宅

この道路整備のため、駅前の大森記念病院も道路拡張のため、病院の一部を立ち退くことになります。現在、病院から南方にあたたる道路際の住宅では、歯が欠けたように部分的に立ち退きが始まっております。

        マンション工事(07/04/08)

長年住み慣れた町並みが代わって行くのは、真に寂し思いがします。それにしても、開かずの踏み切りを減らすための決断ですが、京浜急行高架化と第一京浜国道拡張により、両側から切り取られる梅屋敷公園(「大森町界隈あれこれ 大森町風景 梅屋敷公園」参照)のような江戸時代からの貴重な文化遺産を、簡単に絶やしても良いのかは大きな問題です。

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イベント 船に関する知識の宝庫 「船の科学館」

2007年04月24日 | イベント
kan-haru blog 2007

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科学館・技術館
新交通「ゆりかごめ」に乗ると、船の科学館駅前に大型客船が停泊しているかのような偉容な姿の「船の科学館」が大変に目立っております。
船の科学館が完成したのは、かなり古く今から33年も前の1974年(昭和49年)7月の海の記念日に一般公開されました、戦後では同年4月に開館した「科学技術館」と並ぶ老舗の技術館です。
東京にある科学館の先輩は上野にある「国立科学博物館」ですが、老舗の博物館だけあり1871年(明治4年10月)に文部省博物局の観覧施設として湯島聖堂内に博物館を設置され、1877年(明治10年1月)に上野山内に教育博物館として竣工し創立年としております。
最近の新しい科学館としては、船の科学館と通りが連なっている青海の「日本科学未来館」が2001年7月の開館です。

船の科学館
船の科学館の最初の見学は、開館も間もない子供が小学生の頃ですので、およそ30年も前のことです。科学館や科学博物館の見学は、行って見たいのですがなかなか行く機会が得られないのが実情で、小学生の子供がいれば一緒に出かけるのが精々です。今回は、春休みに小学生の孫が遊びにきましたので、青海の「東京のみなと館」(「イベント 東京の港と海の情報基地 「東京みなと館」」参照 地図再掲)を見た後に、子と孫の3世代に亘る歴史的な船の科学館の見物を行いました。


・1階(一部地下1階)展示場
船の科学館(東京都品川区東八潮3-1 地図拡大地図参照)は、ゆりかごめの船の科学館駅から広場を通り6万トン級の客船を模して建てた船腹あたりの科学館入口に入ると、自動券売機で入館料(一般が700円、18歳以下が400円)を払い、自動改札機を通り入館すると1階展示場の「シンボルホール」です。
科学館の開館時間は10時から17時まで、休館は年末年始と月曜日(祝日の場合は翌日)が休館です。
ホール中央には日本独自の造船技術によって建造された江戸時代の船"樽廻船"が展示してあります。続く「船のあゆみ」では丸木舟から、帆船、汽船そして超電導電磁推進船まで、船の発達の歴史を紹介しています。
船の仕組みの紹介では、船を動かす日本で、はじめて開発された舶用大型ディーゼル機関の実験機や、各種の機関やスクリュープロペラなどが展示してあります。


船の建造を見るために、造船所パノラマ模型、21,000重量トン貨物船の実物ブロック、鋼材の実物サンプルなど船の造るための様々の姿でわかりやすく展示してあります。
地下1階には、海との共存を考えるため、海底、海中、海上における海洋開発の姿をパノラマ模型で紹介し、深海艇のしんかい2000模型などが展示してあります。

・2階展示場
2階展示場には、「東京のみなと館」で見た船がものを運ぶ海運や、東京港を例にとり、模型と映像で東京港の過去、現在、未来についての展示の他、漁船の活躍、船舶航行の安全のための海上保安庁の業務、海上自衛隊の役割と潜水艦コーナーでは、潜水のしくみや潜望鏡の模擬体験ができます。また、人間と海との接点をさらに近いものにするためのマリンレジャーやマリンスポーツを紹介しております。

・3階展示場
海上保安庁の東京港内交通管制室は、東京都に出入りする船舶(500総トン以上)は、年間でおよそ20.000隻にものぼり、これらの船舶が安全に航行できるよう、出入航の航行管制と海上交通情報の提供をします。東京港内には、この管制室を含む7個所の信号所があり、すべての信号はこの管制室よりコントロールされています。
和船コーナーでは、江戸時代の経済を飛躍的に発展させた海運の主力である弁才船を中心に、古代から中世、近世へと、その時代の経済的・風土的条件に対応して独自に発達した和船の歴史を展示紹介しています。
マリタイム サルーンでは柳原良平氏のイラストによる、船の歴史年表を眺めながらご休憩ができます。

ラジコン船コーナーには、有料(1回100円)ですが13隻もの客船、貨物船、潜水艦、自衛艦、黒船、巡視船などさまざまなラジコン船の操縦で船長になった気分になれます。ここを訪れた子供たちは、皆すっかり船長気分となり、何回も操縦して楽しんでおりました。
この他、6階コーナーには、操船を試すことのできる操船シミュレーションや模擬ブリッジに各種航海用機器を可動状態で展示してあります。

・展望室
地上高さ70mの展望室からは、東京港内を行き来するさまざまな船はもちろんのこと、360度の視界で東京港の全貌と臨海副都心と大東京の街並みを見渡すことができます。しかし、当日は残念ながら、曇天で見晴らしは今一歩(フジテレビを望むレインボーブリッジを望む)でした。

屋外展示場


船の科学館の屋外展示場には、南極観測で活躍した宗谷、1965年(昭和40年)に就航し青函トンネル完成までの22にわたって活躍した羊蹄丸、灯台やプロペラなど10点の展示品が並んでおりますが、時間の都合により「宗谷」の船内を一巡して帰りました。


今回は、午前中に「東京のみなと館」を見学して東京港についての情報を学んでおいてから「船の科学館」をみましたので、一層理解が深まりました。みなと館と科学館は、およそ徒歩10分ほどの距離ですので、時間に余裕のおありの方は、両方の見学をお勧めします。

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イベント 東京の港と海の情報基地 「東京みなと館」

2007年04月22日 | イベント
kan-haru blog 2007

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東京みなと館
東京港とは、東京に長く住んでおりますがあまり縁がなく、よくニュースで「南極観測船が晴海ふ頭から出港」などと聞いたり、首都圏と北海道、四国、九州などを海路で結ぶカーフェリー航路は東京港フェリー埠頭から運行されており、夏になると人気の東京湾クルーズの東京ヴァンテアンクルーズは竹芝から出ている程度の知識しかありません。
横浜港といえば大さん橋埠頭が代表的な埠頭ですが、東京港の貨物埠頭はどこにあるのかは分かりません。そこで、春休みに小学生の孫と東京港について調べようと、前に行った「大江戸温泉物語(「小さな旅(8) 大江戸温泉物語 ドクターフィッシュ」参照) (地図再掲)」の近くにある、新交通「ゆりかもめ」テレコムセンター駅傍の東京都港湾振興協会「東京みなと館」(青海フロンティアビル20階 東京都江東区青海2-43 地図参照)に行きました。

展示会場からの展望
東京みなと館は、パンフレット(拡大参照)に記載のように青海フロンティアビルのエレベータで最上の20階に上がると目の前に受付がありますので、入館料(一般が200円、小・中学生が100円)を払い入館すると、展示会場は地上100mにありますので、周囲の前面ガラス張りの展望窓から眼下の東京港などのワイドな眺望を眺めながら、展示体験ができます。

当日は、残念ながら雨模様で遠望の眺望は霞んで見られませんでしたが、眼下の東京港などは展望できました。すぐ下のコンテナふ頭では巨大なコンテナ船が停泊し、クレーンでダイナミックに荷役をしていました。
一周すると、臨海副都心が一望で有明のビックサイトから観覧車、そしてお台場、フジテレビ、レインボーブリッジから日本科学未来館船の科学館、とまるで展示模型でも見るようでした。
なお、東京みなと館の開館時間は9時30分から17時30分まで、休館は年末年始と月曜日(祝日の場合は翌日)が休館です。

展示施設
展示施設は、反時計周りに5の展示ゾーンに区切られておりますので、各ゾーンを見てみます。
・東京港のあゆみ
東京港のあゆみゾーンには、江戸期から現在までの東京港の歴史に関して、新川河岸の大型模型や、東京港の成立、埋立地の記録写真などが展示されております。
東京港はかつて江戸湊と呼ばれ、大都市江戸を支える水運の要衝として発展してきました。


・東京港の姿
東京港の姿では、衛星や上空から見た東京港の特徴や魅力を写真や映像で展示されております。
大戦開始の昭和16年には、外国貿易港として開港しました。
・国際貿易港東京港
国際貿易港東京には、国際コンテナ物流模型と新大井コンテナ埠頭(ふとう)模型や、国際的な物流基地としての役割とともにこれからの東京港の長期構想などの説明が展示されています。
首都圏4千万の人々の生産と消費を支える海の玄関として、コンテナ輸送革新に取り組みわが国を代表する国際貿易港として発展を続けています。
・東京港の都市づくり
東京港の都市づくりでは、東京港の都市施設や臨海副都心の魅力についてを、地図模型などのより展示してあります。
東京港は古く江戸期から海面を埋立て市街地を形成してきました。いま、東京港埋立地の中心部で「臨海副都心」の開発が進行し、お台場地区を中心に賑わいあるまちが形成されつつあります。
・臨海副都心開発計画
臨海副都心開発計画では、臨海副都心の全貌の大型模型により、開発計画の解説がしめされております。

 写真説明:開館10周年記念「ボトルシップ特別展示」、平成18年12月20日(水)から平成19年5月31日(木)まで展示。5人の講師のみなさんが心をこめて造った自慢のボトルシップ約50作品。

東京港
東京港の埠頭(埠頭の位置)には、「江戸湊」と呼ばれていた昔から、人々の生活に必要な品物が国内各地から運ばれて、コンテナ埠頭、内貿埠頭、客船ターミナル、その他の埠頭などが東京湾の各地に点在しております。
・コンテナ埠頭
東京港のコンテナ埠頭は、東京みなと館の足元に見える「青海コンテナ埠頭」が、大型コンテナターミナルで4バースがフル稼動中の埠頭を初めとして、わが国を代表する「大井コンテナ埠頭」は全長2300mの直線岸壁で70000トン級の超大型コンテナ船7隻が同時に接岸できます。
「品川コンテナ埠頭」は、1967年(昭和42年)にオープンした日本で最初のコンテナふ頭で、東京都が直接管理運営する公共コンテナふ頭です。
・内貿埠頭
内貿埠頭は、首都圏最大の国内海上輸送の拠点として、北は北海道、南は四国、九州、沖縄の主要港と定期航路で結ばれ、私たちの消費・生産活動に必要な食料品や紙類、鉄鋼、自動車などが入出貨されています。
「日の出埠頭」は、1925年(大正14年)に完成した東京港で最も古い埠頭で、業務、商業施設等の立地を進めるとともに、貨客船ふ頭としての整備を行う予定です。「芝浦埠頭」都心に近い在来船主体の内貿雑貨ふ頭です。「品川内貿埠頭」は、北海道と東京港を結ぶ定期航路の基地で、ローロー船が接岸し、新聞巻取紙、自動車、諸雑貨を取り扱っています。
その他の内貿埠頭には、「フレイリー埠頭」、「辰巳埠頭」、「10・15号地埠頭」などがあります。
・晴海客船ターミナル
東京港は客船の発着基地として優れた立地条件を有しており、晴海ふ頭において、首都東京の海の玄関にふさわしい平成3年5月にオープンした「晴海客船ターミナル」では、数々の豪華客船を迎えており、「竹芝客船ターミナル」では夏に人気の東京湾クルーズ船なども出港しております。

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大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 大林寺

2007年04月19日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
kan-haru blog 2007

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花まつり
4月8日は、お釈迦様の誕生日です。
釈迦は紀元前5世紀頃、現在のネパールにいた釈迦族に生まれ、灌仏会(かんぶつえ)は、釈迦の誕生を祝う行事で、別名を花まつりと云い毎年4月8日に行われます。
釈迦誕生の時に、龍が天から飛来して、香湯(ソーマ、アムリタ)をそそいだという故事に基づくものです。
ソーマ:ヴェーダなどのインド神話上で、神々の飲料とされるある植物の液汁。
アムリタ:インド神話に登場する神秘的な飲料の名で、飲む者に不死を与えるとされる。乳海攪拌によって醸造された。(Wikipediaから)

日本では、様々な草花で飾った花御堂(はなみどう)を作って、その中に灌仏桶を置き、甘茶を満たします。誕生仏の像をその中央に安置し、柄杓で像に甘茶をかけて祝います。
甘茶は参拝者にもふるまわれ、甘茶で習字をすれば上達すると言われたり、害虫よけのまじないを作ったりもしたと云われます。

                              花御堂(写真拡大)

大林寺
大森町界隈の大林寺(大田区大森中2-7-19)では、毎年花祭りを行っており、遠い昔の戦時中の小学生の頃花祭りに行き、甘茶をふるまって貰ったことを思い出して、午後、京浜急行電鉄大森町駅から徒歩10分の大林寺(地図参照)に行ってみました。

大林寺は、日蓮宗長亨山薬王院で池上本門寺の旧末寺です。
寺伝によると、もとは真言宗であったが、1488年(長亨2年)海徳阿闍梨日位を迎えて改宗したといわれます。七世日了は、1573~92年(天正の頃)七面大天女を境内に祀り、大森の七面様とよばれ、戦前まで縁日には大変にぎわいましたが、戦災で堂宇を消失して再興されておりません。
一二世日好は、1716~36年(享保期)に、村民の窮乏をのぞくため副業として麦藁細工を村民に教えて、製品を近くの東海道筋で土産物として販売させて困窮を救ったと伝えられてます。それ以来、麦藁細工は大森村の名物として広く知れわたりましたが、現在では継承されず麦藁細工を作れなくなっております。

         正門                本堂                 遠景 

池上道道標
1729年(享保14年)に、大森村の甲子講という日蓮宗の信者たちが建てたもので、もと池上本門寺に至る道は、東海道から今の京急梅屋敷駅あたりで分かれていました。この道標は、その分かれ道に建てられていました。
池上道道標は、高さが1.62mの大きな道しるべであり、正面は鬚題目と「池上道」と刻しており、側面には「一五町で品川へいきぬけ」と書かれています。
これは、池上本門寺を参詣してから、品川宿へ行けることを示したものです。
現在は、現在は東海道の工事などにより、大林寺境内に移されており、区指定の文化財になっております。

                                     左 池上道道標

三面大黒天画像
着彩の紙本画の三面大黒天画像は、1564年(永禄7年)戦国武将の武田道遙軒野信綱の作品であります。武田道遙軒野信綱は、武田信玄の弟で、1582年(天正10年)に織田信長に滅ぼされましたが、絵が大林寺にどのように伝えられたのかはわかりません。

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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第8回

2007年04月17日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

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終戦直後の平和島捕虜収容所
前回に記述した平和島の前身となる小島にあった、連合国側の捕虜を収容する東京捕虜収容所の資料が、Web上で見つかりましたので紹介します。
資料には、「鳥飼行博研究室 東海大学教養学部人間環境学科社会環境課程」ホームページの中の「連合軍捕虜と日本軍捕虜の運命:POW」内に、貴重な「戦後の大森収容所(1945年8月29-30日ごろ撮影)」と:「戦後,大森収容所で米軍に解放された英米軍捕虜(1945年8月29-30日撮影);東京俘虜収容所本所」の写真と関連の記事が掲載されております。

今、思うと1945年4月15日の大森町大空襲の爆撃により大森町の大半は戦災して灰燼に帰しましたが、東京湾沿いの特殊鋼と大森ガス会社が焼けずに無疵であったのは、東京捕虜収容所がその北方の延長上(再掲地図参照)にあることで、友軍が収容されている場所の爆撃を避けたためではと考えられます。
3月10日の台東・江東区の徹底的な民家の爆撃は、東京の下町中に軍需工場が潜んでいるための攻撃であると云われております。このことから、軍需工場の特殊鋼とインフラのガス会社の格好の爆撃目標を外すことは考えられず、捕虜収容所への被害を及ぼすのを避けるため、両工場への爆撃を行わなかったのです。

・戦後再興時の平和島
東京都は、戦後の新しい港湾施設建設を目指し1950年に「港湾法」を制定し港湾計画を策定しました。これにより、勝島の整備や平和島の埋め立て工事が再開されました。
1960年頃の航空写真によると、勝島の競馬場施設と平和島の競艇場施設の姿が見られます。まだこの頃の平和島の面積は、1967年竣工で完成した時点(竣工面積:1,176,588㎡)の5分の1程度であり、大森町の海岸線は、やや大きくなった平和島の埋め立て部分を除き、4月1日にオープンの「大森ふるさとの浜辺公園」(「大森町界隈あれこれ 大森町風景 オープンの大森ふるさとの浜辺公園」参照)が東京湾沿岸でありました。

まだ1960年のころには、東京湾の大森海苔養殖は生産が行われておりましたが、平和島の埋め立てが進んだ1962年には、海苔漁場は埋め立てられ海苔生産は終わり(「大森町界隈あれこれ 大森海苔物語 のり祭り」参照)ました。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) マッカーサーの進駐 第8回

アメリカの指摘
右の文の内「彼等は国家の運命をかけて大賭博をやり」から「全国民に自殺を強要して己が罪をおおわんとして居る」の一句であるが、ポツダム宣言受諾の御前会議に、軍部は本土決戦を最後迄、御聖断の下るまで譲らず、あく迄強硬に主張したその真意なのである。
我が国民は、今日迄、最後の決戦は必勝の信念で、何もかにも我慢もし辛抱もして来たのである。此の敵の新兵器、恐るべき原子爆弾を封殺し更に一層強力な、一瞬に敵兵何百万でも撃滅し得る丈の新科学兵器が我が手にあっての上の主張なのかである。
仮に百万の米兵上陸しても、我れに迎え撃つ精鋭三百万、武器こそ劣れ共、本土防衛の力戦は元冠以上たるは勿論、一対一なら真実絶対不敗であろう。然しアメリカは犠牲の多い上陸作戦には応ぜず、徹頭徹尾爆撃と原子爆弾投下の科学戦に出たら、之に対応するだけの準備があっての上最後迄本土決戦を主張するのであったのか。

あればよし、なくての主張なら、アメリカの紙片の指摘する通り、大賭博であり、己が罪をおおわんとする為め全国民に全自殺を強要したものと断定せぬばならぬのである。茲に

 御聖断にある終戦の大詔は我等国民にとっては真の神風であった。
 とにかく、日米親善はぺルリ提督浦賀来航以来の我が国是であったのである。
此の日米親善に最善渾身の努力を尽されし故萌藤アメリカ大使の逝去を哀悼し、其の遺霊を巡洋艦にて我が国遠葬されたのはアメリカの国なのである。

日本は四等国か五等国
この戦争中、我が海軍の特殊潜航艇は遥かに遠くシドニーを襲撃した。襲撃の目的を達し戦死を遂げた四勇士に対し、豪州海軍はその勇敢なる名誉の戦死に海軍葬を以って懇篤なる弔意を表し、其の遺骨を我が引き揚げの官民に託したのも記憶に新たな処である。
かくの如き、武士道の神髄とする崇高博愛の歴史は我々祖先にも数々あった事は、故新渡戸博士の「英文武士道」に説きつくされてある。
然るに、今次の戦争に於いて我が同胞は、中国初め到る処に人道に反する悪逆無道何の罪なき無辜の民を殺椋行為如何に多かりしぞ、謝するに辞なく詫びるに言葉なしである。
戦争の敗因、科学の貧困、それもあろう。資源の不足、これも当然であろう。消耗の対する生産の不足、これも重大であった。然し兵力に於いては決して不足ではなかったと云う。
戦う精神に於いては遜色なく、寧ろ優位であったと云うではないか。
我が同胞は
 人としての道義を忘れた。祖先の武士道の精神をすっかり忘れた。
これが唯一の敗因であるとの賀川先生の言に、我々は今更この点を深思させられる。
マッカーサー元帥が我が国を四等国か五等国と指摘したのは、道義の低下を云うたものであろうかと思うのである。

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大森町界隈あれこれ 風景 満開の八重桜の穴場平和島流通センター

2007年04月15日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2007 庭で初めて開花した八重桜

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4月14日の夕刊各紙に、首相主催の「桜を見る会」が14日の午前東京新宿御苑で、1万1千人を招待して満開の八重桜を楽しんだと出ておりました。
東京のソメイヨシノはもう葉桜になって(「風景・風物詩(B16) 花見 サクラ前線に合わせて花見のハシゴ」参照)しまいました。

東京流通センター
今は八重桜の季節です。新聞の八重桜を見る記事をみて、3年前平和島に行った時に八重桜並木のあることを思い出して、4月15日の午後に時間の都合をつけて平和島流通センターの八重桜を見に行きました。
平和島流通センターは、平和島のほぼ中央にあり正式呼び名は東京流通センター(TRC 東京都大田区平和島6-1-1 地図参照)と云い、展示会、商談受注会、セミナーの展示場・会議室を提供しております。流通センターには、京浜急行電鉄平和島駅からバスで5分または東京モノレールの流通センター前で下車します。
流通センターは、流通センター前に東ゲートの入り口があり、ゲートの北側には第一・第二の展示場とセンタービルがあります。ゲートの南側には巨大な建物の物流ビルのA・B棟があります。

八重桜並木
東京流通センターの広大な敷地の周囲には、非常に沢山の数の八重桜が間断なく植えられており、その桜並木は今頃の時期に満開となり見事な景観を見せてくれます。
沢山の八重桜が流通センターの周囲に植えられていますが、桜がセンターの巨大な建物の影に隠れる形であることと、センター周囲の道路を一巡して歩行しながら花見しか出来ないのです。
しかし、東ゲート付近には僅かですが、芝生が植えられてベンチが置いてありますので、休憩は可能です。
したがって、沢山の八重桜がありますが、広場に座って花見が出来ないため、一般にはあまり存在を知られておらず、花見の客は来ません。地元の知っている者が八重桜を楽しんでおります。そのため、ちょっと八重桜を見るだけであれば穴場です。


流通センターの八重桜
流通センターの周囲に植えられている八重桜は、殆どが関山<かんざん>で濃いピンクの花で遠くから目立ちます。
東口のゲート脇には、かなりの年数の鬱金<うこん>の桜が一本植えられております。

                           写真拡大

また、敷地のところどころには、普賢象<ふげんぞう>の八重桜が薄いピンク色の花を付けております。

   写真拡大           写真拡大

満開の八重桜は、花びらの枚数が沢山あり、目の良い保養になりました。

       写真拡大             写真拡大               写真拡大

生憎とこの日は、流通センターのビルが電源保守のため、建物が閉鎖しており残念ながらコーヒーショップも営業してませんので、流通センターの周囲を一巡して八重桜を堪能した後、JRの大森駅までタクシーで行き、お茶は大森駅の駅ビルで一服しました。

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大森町界隈あれこれ イベント 平和の森公園フィールドアスレチック

2007年04月12日 | 大森町界隈あれこれ イベント
kan-haru blog 2007

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春休みで孫が遊びにきたので、平和島にある平和の森公園の大田区立フィールドアスレチック(大田区平和の森公園2-1 )に4月1日に行きました。

平和の森公園
フィールドアスレチックのある平和の森公園(地図参照)は、大森本町と平和島との間の接触面に位置したところの、以前には運河であった埋め立て地にあります。このため、平和の森公園は、南北に細長い形状の公園であります。
平和の森公園は、中央に環七通りが通っておりますので、南北の2つに分離しております。
北側の公園は、平和島競艇場が北端で、この公園の少し離れた東側にある平和島公園(地図参照)とともに競艇場などを会場として、毎年11月の土・日の2日間にわたり区民がつどい、楽しみ、ふれあえる「OTAふれあいフェスタ」(「大森町界隈あれこれ イベント(2) OTAふれあいフェスタ(その1~2)」参照)が開催されます。 

平和の森公園には、京浜急行電鉄の平和島駅の東側に降り第一京浜国道を渡り、環七通りを東に進むと大森消防署が見えます。消防署の角の環七通りの北側には公園環七北口が、南側には公園環七南口がありますので、南口から入りますとフィールドアスレチックのある南側の平和の森公園です。

フィールドアスレチック
フィールドアスレチックは、休園日が年末年始と月曜日で、開園時間は9:30から15:00までですが、16:30が退場時間となります。入園料は、小・中学生が100円、高校生以上が360円で、内部施設として男・女更衣室と休憩所があります。園内は飲食禁止ですが、休憩所では飲み物の自販機が利用できます。

  種目左から:①貝塚発掘、②磐井の井戸探検、③三原通り歩き、④森が崎鉱泉もぐり

フィールドアスレチックのコースは、全部で45の種目がありなかなか整っております。小学生の孫とは何回か来ておりますが、毎回張り切ってチャレンジしており、設備も随時補修されているようで破損箇所は見当たないようです。コース内には、2個所の水飲み・休憩所とトイレが設置されております。

  種目左から:①森が崎鉱泉もぐり、②旧中原街道横断、③洗足池もぐり

45種目のコースは、小学低学年では難しいものもありますが、高学年や中学生では全種目がチャレンジできます。しかし、種目は体力のある高学年であれば容易いとは限らず、就学前の重心が低い幼児のほうが難なくこなせるものがあります。また、重心が高いと思わずバランスを崩して、池に嵌りこみそうになり、それがアスレチックの面白さです。
コースのチャレンジは、種目毎に出来た場合は5点、出来なかった場合には0点とし、合計得点で成果を表します。
アスレチックの参加は、春休みでしたので幼児から中学生までが沢山来ておりましたが、なかなかマナーが良く追い越したり、列を崩すことなく順番待ちをして熱心にチャレンジしておりました。

  種目左から:①新田めぐり、②多摩川横断、③羽田の渡し

アスレチックの種目は、大田区が設置しましたので地元大田の地域・歴史・風物にマッチしたネーミングが付けられており、何個かのユニークな種目名を見てみましょう。

  種目左から:①矢口の渡し、②六郷横断、③丸子の渡し

水止舞に挑戦:1429年(永享元年)の旱魃の時に、雨乞いしたところ、雨が多く降りすぎてこまったので、獅子舞をして龍神をこらしめ、雨を止める祈りをしたのが厳正寺の由来といわれます(「大森町界隈あれこれ(L30) 大森町の社寺 巌正寺の水止め舞」参照)。
三原通りあるき:大森の美原通りは、通称三原通りといわれる旧東海道にあたりますが、往時の幅員を比較的残している街道筋として都内でも貴重です(「大森町界隈あれこれ(N31) 大森町風景 旧東海道(三原通り) その1」参照)。
海苔ひびつたい:1715年(正徳5年)から1839年(天保10年)に到る海苔ひび場(養殖場)をめぐる野口家保管の4冊の史料から、大森、糀谷、羽田の海苔採取業の歴史をうかがい知ることができます(「大森町界隈あれこれ 大森海苔物語 のり祭り」参照)。
梅屋敷でひと休み:梅屋敷公園は、1817年頃(文政年間の初め)に、和中散売薬所の店主が庭に梅の木の名木を集めて東海道を往来する旅人相手の休み茶屋を開いた屋敷跡の一部です(「大森町界隈あれこれ(N32) 大森町風景 梅屋敷公園」参照)。

アスレチックに挑戦して自己採点により今年はじめて出来た種目が増え、約1時間30分ほどで回って満足した孫は、ゴールゲートで高々とサインして帰宅しました。

  種目左から:①狛犬を撫でよう、②郷倉渡り、③土器まわり、④ゴールゲートでVサイン

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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第7回

2007年04月10日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

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戦後の大森町 その1
・終戦直後の住居地周辺の様子
疎開から引き揚げた1945年(昭和20年)秋頃の仮住まい付近の地域はどんな様子であったのかを、同年9月に米軍が撮影した空中写真から、陸測1万分之1地形図(1937年)を参考にして日本地形社が作成した、戦災復興院の大森5千分之1地図(1946年12月仮製版)を元にして、当時の記憶を元に編集した住居地周辺地図(地図参照)から再現してみます。なお、地図の文字が読みにくい場合には、地図を拡大(「番外編 ブログ記事の参照地図を拡大して見る方法 [付 kan-haruの日記3月月間INDEX] 」参照)して見てください。

・大森町の殆どは焼け野原
地図の大半の道路部以外が空白の部分は、1945年4月15日の大森町大空襲で焼け野原となった所を示します。地図上から見ると焼け残った部分は、地図東南部の東京ガス大森工場、日本特殊鋼とその両工場に挟まれた、引き揚げ後の暫定居住地付近の十数戸の住宅と、大森第五国民学校を含む近辺の若干の住宅の外、入新井一、二、四丁目の帯状の住宅と、捕虜収容所(後述)の島だけが僅かに戦災を免れたのでした。
東京急行京浜線(現京浜急行電鉄)の大森山谷駅は焼失のため暫くは営業停止が続きました。沢田通りとあるのは現在の環七通りのことで、当時は第一京浜国道で止まっておりました。
学校裏駅(現平和島駅)は、地図に示す通り当初は沢田通りの南側にありましたが、戦中の1943年に現在地の平和島駅の場所に移転されておりました。

・終戦時の東京湾海岸線
東京湾の海岸線は、東京ガス大森工場、日本特殊鋼の東側が海岸線であり、大森第五国民学校は海に接しておりました。
当時の東京湾の湾岸線を、米軍が1947年4月14日に高度6,705mから撮影した標準・縮小サイズ(撮影縮尺:1/43,740)の航空写真(国土地理院 標準縮小写真)と共に、小島部付近をトリミングした写真を掲載しました。当時のこれらの航空写真をみると、1939年の東京港修築事業による京浜第1区の埋立工事が開始された、現在大井競馬場のある品川区の勝島が、大戦による物資欠乏による工事が打ち切られるまでの一部完成した埋め立ての島の姿が見られます。

・当時の平和島は捕虜収容所の小島であった
大森第五国民学校の対岸には、防潮堤に接して小島(地図航空写真参照)が見えます。この小島は、勝島と同様に東京港修築事業京浜第2区の埋立工事により僅かな面積の埋め立てが進みましたが、物資欠乏で工事が中止となりました。
この埋立工事第2区の小島は、戦時中はアメリカなどの連合国側の捕虜を収容する東京捕虜収容所でありました。戦後は、一時東条英機ら戦犯の一時収容所になっておりました。
このような経緯から、平和への祈りを込めて「平和島」と呼ばれるようになりそのまま地名になりました。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) マッカーサーの進駐 第7回
アメリカの宣伝ビラ
敗戦の今日、なる程、満州事変以来政党の無気力に乗じ、官僚と組んで総ゆる政治に乗り出し、軍人にあらずんば人でないと云う程の勢いであった。勝てば官軍、負くれば賊となる、負けたら理も非となる故に、邪が非でも戦は捷たねばならぬ。歴史は後から創作出来るけれど、さりとて無名の師は許されぬ。邪は正に捷たざるは千古の金言である。
極東軍事国際裁判に被告となっている、かっての我が国の戦争指導者達である処の御歴々の人々よ。

  一将功なって万骨枯るる
の一句を御承知ない事はあるまい。このアメリカの宣伝ビラに対し、今日の我等は真に感慨無量である。
更に次ぎは、御紋章を中央にし、祟神天皇の践柞の御詔敇を掲げ、其の裏面に解説して曰く

  この詔こそ帝国永遠の真理である。然し現在の閣僚は帝国を安泰ならしめる大任を果たして
  居ない。彼等は平和を愛好せらるる陛下と国民との間に介在し、平和に対する上位下達、下
  位上達を阻害して居る。彼等は国家の運命をかけて大賭博をやり、完全に失敗しながら切腹
  して責任をとろうともせず、逆に国民に全国的自投を強要して己が罪をおおわんとして居る。
 
  日本には平和を欲する人が沢山ある。憲法に明示する権利により諸氏は陛下に直訴すべきで
  ある。彼等に国家と破滅させてはならない。
  軍閥が滅びた時は、雄略天皇の詔に「今宇内一衆の如く百姓堵に安んじ四夷叛くなく是れ天
  意の然らしむる処なり」と仰せられた様に、国家の再び栄える日を見る事が出来るであろう。

と。今日迄夢のように忘れて居た古事記の講義を先き様から承るのである。

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大森町界隈あれこれ 大森海苔物語 のり祭り

2007年04月08日 | 大森町界隈あれこれ 海苔
kan-haru blog 2007

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のり祭り
毎年4月の第1日曜日に開催している恒例行事の「海苔のふるさと 本場大森品川問屋 のり祭り」は、今年は「大森ふるさとの浜辺公園」のオープンの日と同日の4月1に行われましたので、午前中に行ってきました。
のり祭りの目玉は、昨年(「大森町界隈あれこれ(5) 大森海苔物語(1) プロローグ」参照)と同様に「海苔すき」体験と「全国海苔産地あて」食べ比べです。のり祭りは、大森本場乾海苔問屋組合の主催で、大森町近くの大森海苔会館(大田区大森中1-6-5 地図参照)で行われます。


かって、大森は海苔一大産地
「のり祭り」で展示してあるパネルで、かって日本一であった大森海苔の栄光を見てみましょう。
・海苔養殖の始まり
「海苔」という言葉は、およそ1300年前の最初の法律書「大宝律令」と平安時代の辞典「倭名類緊鈔(わみょうるいじゅうしょう)」に登場し、海苔は朝廷への貢物としてあげられています。
海苔養殖は、品川にある徳川家に献上する魚の生簀の”そだ”に、海苔がついているのを偶然見つけたことから、品川・大森を中心とする東京湾で養殖がはじまったと考えられています。

・江戸幕府と大森海苔
品川・大森村で生産された最上級品の海苔を「御膳海苔」と呼ばれ、将軍家と菩提寺の寛永寺と徳川御三家に納められておりました。幕府へ納めた海苔の量はおよそ9000リットルで、その多くは大森村の商人が担っており、権威と名誉を誇っていました。
江戸幕府倒壊後は、大森では新政府軍に5000両を献上して「御膳海苔」の継続を願い出て、大森村は新たな漁場を獲得し、それをきっかけに、東京湾沿岸で海苔養殖が活発になりました。


・大森から伝わった海苔つくり
江戸時代の後期の頃、大森で海苔を仕入れて各地で行商した諏訪の商人が、海苔生産に適した入江を見つけ、大森から生産技術をとり入れたり、生産者を招いたりして、全国各地へ海苔つくりが伝わりました。


・大森海苔養殖の終焉
大森海苔の生産量は、江戸時代から明治にかけ海苔養殖は衰えることがなく、その地位は第二次世界大戦まで不動でした。しかし、戦後の高度成長により水質汚染や東京湾の埋め立て計画により、漁場環境は悪化の一途を辿り、1962年(昭和37年)に漁業権を放棄し海苔の養殖が終わりました。

海苔すき
四角形の干し海苔を製造する作業を「海苔すき」と云います。毎年のり祭りのイベントとして「海苔すき」の体験が行われます。
「海苔すき」は、作業場に置かれた流し台の上に水切の「簀の子」を敷き、その上に海苔簀を重ねます。そこに干し海苔の大きさの付け枠を載せ、流し台の脇に水と混ぜた刻んだ生海苔を入れた付け樽から付け升ですくい、簀の上においた付け枠に投げる要領で一気に注ぎます。
注いだ海苔の水が引ききらぬ内に枠を揺らし簀に平均に広げて、水が簀を通して流れ落ちて海苔が簀に落ち着いてから、枠を外して簀を水切りの横桟へ立てかけて一枚の海苔すきが終了です。

                   海苔すき                     海苔天日乾し

海苔すきは、早朝に行い台乾しで天日乾燥をして取り込み、はがし板で乾し海苔を押さえて簀からはがして海苔の完成です。

海苔のたべくらべ
「のり祭り」のイベントには、有明、静岡、千葉産の乾し海苔を食べ比べて、産地を当てる催しも行われ、春休みで遊びにきていた孫がぴたりと当てて賞品を貰って喜んでいました。
会場には、海苔の問屋さんが並んで各種の海苔を販売しておりました。
「のり祭り」の会場を一巡して、アンケートに答えて携帯ストラップを貰って帰りました。

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大森町界隈あれこれ 大森町風景 オープンの大森ふるさとの浜辺公園

2007年04月05日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2007

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今年の4月1日は日曜日で、昔懐かしい所縁の場所に「大森ふるさとの浜辺公園」がオープンしましたので午後から行ってみました。
「大森ふるさとの浜辺公園」は、昨年の8月6日に工事中の砂浜を一般に公開されましたが、一日前の5日に様子を見に行ってみました(「大森町界隈あれこれ(N30) 大森町風景 大森ふるさとの浜辺公園の砂浜開放」参照)が砂浜には入れませんでした。
大森ふるさとの浜辺公園は、大森町の中心を流れる内川の河口を埋め立て浜辺が造られました。

浜辺公園はゆかりの場所
この内川の河口は、大変所縁のある所で、今から62年前の世界大戦の終戦により学童疎開から引き上げてきて、焼け残った会社事務所を改造し複数世帯で共同住宅として、戦後初めて住み着いた感慨深い場所(地図再掲)(「大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第6回」参照)なのです。
元東京ガス大森ガス工場の東側の通称「ガス裏」と呼ばれていた、以前の東京湾の海岸線であった所を埋め立て、人工の砂浜には小豆島の白砂を運んで造られたのが大森ふるさとの浜辺公園です。現在の東京湾の海岸線は、平和島、昭和島、城南島で埋め立てられ数キロも離れた遥か先となっており、浜辺公園は運河に造られたのです。

浜辺公園の沖合いの大森で採れた浅草海苔の歴史は古く、寛永15年(1638年)の書物に登場した海苔は、東京湾の埋め立て事業により1963年に漁業権が放棄され、大森周辺での海苔生産の幕が退かれました。
また、江戸時代の東海道は、海岸線に沿っており、戦前の大森海岸には海水浴場(「大森町界隈あれこれ(3) 大森町に住んで65年!(その3)」参照)がありました。

大森ふるさとの浜辺公園
大田区では、海と川の結節点である特色を生かして、緑豊かな親水空間を整備し約 5.0haの公園・緑地を確保し、砂浜、魚つり施設を設け、人が海に触れられる接点を回復することを目的として、人工海浜・人工干潟(1.4ha)・人工磯・魚つり護岸・覆砂等の工事を、埋立工事金額 60億円の規模で大田区単独事業として完成しました。
将来には、海苔博物館を作る計画もあるそうです。

      (拡大写真)             (拡大写真)               (拡大写真)

大森ふるさとの浜辺公園には、京浜急行電鉄の大森町駅か平和島駅から徒歩で行く(地図参照)こととなります。
先ず、大森町駅からは東口で下車し国道15号線(第一京浜国道)の交差点を渡り、直進し国道131号線(産業道路)の交差点も渡りさらに進むと、道路がやや北東方向に向きそこを直進するとジャックニクラス・ゴルフ練習場 (元大森ガス会社) の塀に出ますので左折し、塀の切れたところを右折して内川河口で右折すると浜辺公園に到着で、およそ15分の距離です。

      (拡大写真)             (拡大写真)               (拡大写真)

4月1日の天気は、うす曇りで心地よい風が吹いており、絶好の散策日和でした。先ず、感激したのは、それまで思ってもいなかった磯の心地よい香りがするのです。都心の人口砂浜とは思えない、磯の香りが戻ってきたのは嬉しいことでした。
砂浜は、400mにわたり岸辺には一面に芝が植え付けてあり、松などの植林のある人を和ませる空間です。隣のベンチに越しかけている方も、同じような感想を語っておりました。
開園には、沢山の人が来ており、子供達は波打ち際に入ったり、凧揚げしたりで楽しんでおりました。また、海辺では大森青べかカヌークラブの主催で、E-ボートやカヤックの乗船体験が行われておりました。
夏から秋には、海が馴染み昔のようにハゼ釣りが楽しめることを期待したいものです。

      (拡大写真)             (拡大写真)               (拡大写真)

帰りは、内川を跨いて新設された浜辺橋を渡り、内川沿いに進み大森東小学校を廻って美原通りへ出て北進すると環七通りです。第一京浜国道の交差点から京浜急行の平和島の高架駅が見えます。

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風景・風物詩(B16) 花見 サクラ前線に合わせて花見のハシゴ

2007年04月03日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2007

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東京のサクラ開花
今年の東京のサクラ開花予報は、3月20日で満開が29日と報じられていました。
しかし、今年の東京地方の天気は安定せず、29日の夜から朝にかけて雨がふり、日中からは晴れましたが、30日から1日にかけての日中は薄曇、夜間はところによりにわか雨模様で、特に1日は28度を越す夏日かと思えば、翌2日は10度以上も気温が乱高下するという落ち着いて花見ができる陽気ではありませんでした。

それでも桜前線はどんどん北上し、東京のサクラも満開に咲き誇っておりましたが、3日は肌寒い雨模様で花が散り始めてきました。このように今年の東京は、天気が安定しないこともあり、昨年の京都日帰り桜見物(「小さな旅(4) 京都桜・日帰り花見 その1~4」参照)のような花見をしませんでしたが、その代わり都内を出歩いた折に何箇所かの桜の在る場所に立寄り、通りすがりの花の観賞をしてきました。

紫紺館 フォレタス椿山荘

お茶の水に出向いた折、丁度昼時でしたので完成間もない明大交友会紫紺館(地図参照)内のレストランのフォレタス椿山荘に寄ってみました。レストランは、5階にありゴージャスな設計のエントランスホールからエレベータで上ると、さすがは椿山荘経営の落ち着いた雰囲気のお店であり、駿河台キャンパスを望むテーブルで先ずは花より団子をと、一流の味のランチメニューを楽しみ、近くのお茶の水小学校の桜を観てきました。

通りすがりの花の観賞
・お茶の水小学校の桜
明治大学の裏の錦華公園と接した、夏目漱石が学んだお茶の水小学校(千代田区猿楽町1-1-1 地図参照)(「イベント(11) 展覧会 お茶の水小学校展覧会(その1~4)」参照)の校庭に面した道路沿いの桜が、31日にはほぼ満開でした。


・開桜小学校の桜
大森町の内川に沿ってある開桜小学校(大田区大森西2-26-3 地図参照)は、私が通った大森第一小学校と共に大森では最も古く開校した兄弟校で、両校は親子で通学した縁のある学校です。
開桜小学校では、3月31日に第3回「花まつり」が行なわれました。花まつりは、地域教育連絡協議会委員が実行委員となり、地域の方や保護者が集まり、校庭で桜と花壇のチューリップを阿波踊り、太鼓、お囃子、お神輿などの催しと模擬店を出して子供達とふれあいを深める催しで、人気のある地域交流ですが都合が悪く参加できませんでした。
開桜小学校の桜は、校庭南側の内川沿いと東側校舎の道路沿いに植えられておりますが、30日にはほぼ満開でした。


・大森西交通公園の桜
大森西交通公園(大田区大森西3-4-19 地図参照)は、大森町のほぼ中央にあり京急大森町駅から徒歩5分ほどの距離で、公園の殆どがサイクリングコースになっており、横断歩道があり信号機や警報機を設置し、小学生以下の児童に自転車、ゴーカート、豆自動車、三輪車等を貸し出して遊びながら交通規則を学べるように作られております。
公園の西面と南面には桜が植えられており、地元地域の町会住民などがお花見の会を開き、人気のスポットであり、30日には見頃でした。


・増上寺近辺の桜
増上寺(港区芝公園4-7-35 地図参照)は、浄土宗 大本山(ご本尊 阿弥陀如来)で三縁山広度院増上寺が正式の呼称です。江戸時代の初め源誉存応が徳川家康の帰依を受け、大伽藍が造営され以後徳川家の菩提寺となりました。戦災によって三門・経蔵・黒門は消失を免れましたが、霊廟は焼失し、1974年(昭和49年)に大本堂などを整備して完成しました。


増上寺の近辺には、御成門交差点付近には芝公園があり、大門付近には芝大神宮(1005年(寛弘2年)創建、「芝明神だらだら祭り」として知られている)(地図参照)があり、近辺の桜は30日には見頃でした。

        御成門付近の桜              芝大明神の桜

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2007年04月01日 | INDEX
kan-haru blog 2007

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K&A kan-haruの日記の月間INDEXは、毎月1日付けで掲載しており前月の登録記事の即時検索のほか、カテゴリー別の登録記事の全ての検索ができます。

[K&A kan-haru 日記の見方について]
ブログ左覧のガイド板「カテゴリー」には、kan-haru日記のカテゴリー名とカテゴリー毎の記事登録数が掲載されております。
カテゴリー名の「ようこそ kan-haru日記へ」欄内には、次に示す日記の総合目次と日記を見るためのガイダンスが掲載してあります。
総合目次は、この月間INDEXと統合しており、同一のカテゴリー別目次を併用しております。
「ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について」は、この日記を見るためのガイダンスを記載してあります。日記の見方について (その1)の解説には、カテゴリー別の概要説明と共に、カテゴリー項目からは当該カテゴリーの第1回登録記事から最終・最新の登録までの全ての記事の索引が行えるようにカテゴリー別INDEXと結合してあります。
kan-haru日記 カテゴリー別総合目次(全日記INDEX)
ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その1)  2007年1月30日 更新
ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その2)  2007年1月22日更新
・ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その3) (未完)

[ブックマーク からカテゴリー別目次を見る]
ブログ左覧のガイド板の「ブックマーク」に、カテゴリー別目次を登録しました。カテゴリーを選択することによりカテゴリー別の目次が見られます。

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[ブログ記事内の参照地図・写真などを拡大して見るには]
次の2006年3月月間INDEXに方法が記載してありますので、参照して下さい。
番外編 ブログ記事の参照地図を拡大して見る方法 [付 kan-haruの日記3月月間INDEX] 2006年4月1日

  大森町界隈あれこれ カテゴリー別目次

 1 大森町界隈あれこれ 大森町に住んで65年!
 2 大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記 総目次
  2-1 大森町界隈あれこれ 鎮魂! 大森町大空襲 (第1編)
      付 東京大空襲 ~あれから61年~
  2-2 大森町界隈あれこれ 手記第2編 戦災日誌中野編
  2-3 大森町界隈あれこれ 手記第3編 戦前戦後目黒にて
 3 大森町界隈あれこれ 戦後編若山武義氏手記 総目次
  3-1 大森町界隈あれこれ 戦後史編手記 第1編総目次
  ■ 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第4回 3月13日
  ■ 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第5回 3月21日
  ■ 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第6回 3月29日
 4 大森町界隈あれこれ 大森町の社寺
 5 大森町界隈あれこれ 大森町商店街
  ■ 大森町界隈あれこれ 大森町商店街 京急高架化でラーメン屋さん閉店第一号のその後 (1)  3月27日
  ■ 大森町界隈あれこれ 大森町商店街 京急高架化でラーメン屋さん閉店第一号のその後 (2)  3月29日
 6 大森町界隈あれこれ 大森海苔
 7 大森町界隈あれこれ 京浜急行
  ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第1回その1)  3月31日
 8 大森町界隈あれこれ 大森町風景
 9 大森町界隈あれこれ イベント
10 大森町界隈あれこれ 大森町学びや

  一般 カテゴリー別目次

21 風景・風物詩 総目次
22 小さな旅 総目次
  ■ 小さな旅(10) すみだ郷土文化資料館と墨田川江戸流しびな 3月5日
  ■ 小さな旅(11) 雛のつるし飾りまつりと河津桜まつり その1 3月15日
  ■ 小さな旅(11) 雛のつるし飾りまつりと河津桜まつり その2 3月17日
  ■ 小さな旅(12) 茨城古河 桃まつり 3月27日
23 旅ものがたり 総目次
24 秋葉原界隈 総目次
25 イベント 総目次
  ■ イベント(14) 外国人邦楽演奏 インターナショナル邦楽の集い その1  3月9日
  ■ イベント(14) 外国人邦楽演奏 インターナショナル邦楽の集い その2  3月11日
  ■ イベント(15) あれから62年「東京大空襲を語り継ぐ集い」 3月19日
26 ITと技術 総目次
  ■ ITと技術(8) 新技術ソフトで6千冊の青空文庫HTML図書を新電子本で読んでみる(2) 3月3日
27 Weblog 総目次
  ■ kan-haru日記もおかげさまで1周年を迎えました 3月7日
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コメント
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