K&A

kan-haruの日記

風景・風物詩 夏の風物詩 幼児期に住んだ入谷の小野照崎神社と朝顔まつりその2

2015年07月29日 | 風景・風物詩

kan-haru blog 2015 

入谷の朝顔市
小野照崎神社から朝顔まつりが開かれている入谷鬼子母神へは、通りを一つ隔てた言問通りの入谷交差点を渡ります。入谷の朝顔市は、例年七夕の前後3日間(7月6日、7日、8日)開催されますが、7日に久しぶりに小野照崎神社を参詣してから鬼子母神(真源寺 台東区下谷1-12-16)にもお詣りしました。しかし、前回の朝顔まつりに行った2008年は、主要国首脳会議(洞爺湖サミット)の開催のため、第60回朝顔市の開催日が7月18、19日、20日(「風景・風物誌 夏の風物詩 入谷の朝顔市2008」参照)に変更されました。

 小野照崎神社から言問通りへ (左:小野照崎神社から言問通りに向かう路地裏通り、右:昭和・言問通り交差点)

入谷の交差点には、昭和31年7月に、下谷観光連盟が建立した「入谷朝顔発祥之地碑」と「入谷乾山窯元之碑」があります。「入谷朝顔発祥之地碑」は、鬼子母神の辺りは江戸末期から朝顔栽培が盛んだったところで、境内を中心に朝顔市がたち、早朝から夜遅くまで賑わって、全国的に有名になった入谷の朝顔を顕彰した碑です。「入谷乾山窯元之碑」は、入谷の地は古くから農閑期を利用して土器の製造の盛んなところであり、名陶工といわれた尾形乾山は、1731 年(享保16年)69歳の頃に江戸に下り、寛永寺領入谷の鬼子母神の前あたりに窯を築いて晩年を送りました。そして81歳で没するまで江戸に在住し陶器や絵画の制作に手腕を発揮したことを顕彰して建立されました。 

 
言問通りを横断して朝顔祭りへ (左:言問通りを横断して朝顔祭りへ、右:「入谷朝顔発祥之地碑」と「入谷乾山窯元之碑」)

今年の朝顔まつりは、66年目を迎え例年通り入谷鬼子母神から言問通りに120数軒の朝顔業者の朝顔約12万鉢が並び、毎年40万人の人出で賑わいを見せています。

 賑わう朝顔市露店(左・右:約12万鉢が並ぶ朝顔市露店)

入谷鬼子母神 
入谷の鬼子母神は、仏立山法華宗本門流の寺院で真源寺といい、1659年(万治2年)に光長寺20世・日融が当地に法華宗本門流の寺院を開山して鬼子母神を祀っています。鬼子母神は仏教の守護神であり、明治以前は神も仏もいっしょに祀られていましたが、神仏分雛により独立しましたが、鬼子母神はいわゆる神様ではないということで、そのまま真源寺に残されました。地口の「恐れ入谷の鬼子母人、びっくり下谷の広徳寺・・・」は、「恐れ入りやした」の「いりや」を地名の「入谷」に掛け、同地にある「鬼子母神」を続けたもので、「恐れ入りました」をしゃれて言ったもので、「びっくりした」は「びっくり下谷」と地名の「下谷」に掛けた言葉遊びです。
 
 朝顔市の鬼子母神境内1 
(左:人で一杯の境内、右:境内に並ぶ朝顔鉢)

それほど広くない真源寺境内には、沢山の朝顔鉢が並び、多くの参詣人で一杯です。真源寺をお参りして、大と小の朝顔のお札を頂いてきました。

 大小の朝顔のお札 

朝顔市は真源寺境内での鉢植えと、露店の鉢植えが12万鉢並び、立派な鉢植えの朝顔は5千円からで、一般の朝顔鉢は2008年の朝顔市と同値の2千円でしたので、何時ものように一鉢購入しました。

  朝顔祭りの朝顔売り場
(左:真源寺境内の朝顔売り場、右:朝顔市露店の朝顔売り場)

また、境内の郵便局出店で記念の朝顔市とほおずき市の上野記念切手を購入して、金鳥が配る朝顔市の団扇を貰って入谷駅から地下鉄で帰宅しました。

 
朝顔市で入手した記念切手と団扇

 今年購入の朝顔は矢車鉢で、購入の翌日から元気に毎日花を付け、楽しんで観賞をしています。
  連日花を付ける朝顔市で購入の鉢

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(6月INDEXへ)
・カテゴリー別Index 風景・風物詩 カテゴリー別総目次 2011~2015年版2010~2013年版2008~2010年版2007・2008年版2006・2007年版 へ
<前回 風景・風物詩 夏の風物詩 幼児期に住んだ入谷の小野照崎神社と朝顔まつりその1 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風景・風物詩 夏の風物詩 幼児期に住んだ入谷の小野照崎神社と朝顔まつりその1

2015年07月23日 | 風景・風物詩

kan-haru blog 2015 祈願絵馬

入谷の朝顔
入谷は、台東区の町名で、幼児期の4才の頃一時住んだことがある町であり、台東区北部の下谷地域に属します。入谷の歴史は、昔は豊島郡坂本村の一部であり、江戸時代末期・明治時代に入ってから朝顔栽培が盛んになり、入谷朝顔市が開かれる場所として有名になりました。朝顔市の入谷鬼子母神も旧入谷町にあり、現在は下谷(坂本)です。

 入谷鬼子母神と小野照崎神社

小野照崎神社
下谷に住んでいたすまいのそばには、小野照さまと呼ばれた小野照崎神社(台東区下谷2丁目13番14号)があり、懐かしく思い朝顔市を見がてら、77年ぶりの7月7日に小野照さまを参拝しました。小野照さまは、樋口一葉の「たけくらべ」にでてきます。
小野照崎神社へのアクセスは、東京地下鉄日比谷線の入谷駅4番口から出て、道路を西方に進むと3分ほどで神社正門の鳥居です。

 小野照崎神社正門(左:正門、右:正門鳥居)

鳥居を潜ると左に手水舎があり、右手に社務所のある参道を進むと、社務所の奥に参道と並行向きの本殿があります。

 社殿へは鳥居を潜ると左に手水舎、右に社務所前の参道を進む(左:手水舎、右:社務所)

現在の社殿は台東区教育委員会の掲示によると、1866年(寛永2年)の建築であり、関東大震災や東京大空襲などを免れたとあり、都内でも屈指に古い御社殿です。 

 小野照崎神社本殿

小野照崎神社の祭神は、平安初期の漢学者・歌人の小野篁(おののたかむら)で学問・芸能の神様です。

  小野寺崎神社ご社殿(左:ご社殿、右:小野寺崎神社由緒掲示板←ここをクリック)

創期の年代は不明であるが、伝承によれば、篁が上野国司の任期を終えて帰路についた時に、上野照崎(忍岡、現在の上野公園付近)の風光を賞しました。852年(仁寿2年)に篁が亡くなった時に彼の霊を、風光を楽しんだ忍岡に奉祀しました。

 小野照崎神社由緒説明

江戸時代を迎えた、1625年(寛永2年)に、忍岡に東叡山寛永寺の創建にあたり、小野照崎神社を移転することになり、坂本村の長左衛門稲荷社が鎮座していた、現在地に遷しました。なお、一説には、忍岡から孔子聖廟が昌平橋に移った1691年(元禄4年)ころに遷座したのではないかとも云われています。

  小野寺崎神社御朱印

小野照崎神社の境内には、社務所の対面に境内末社が鎮座し、その末社の御嶽神社は御嶽信仰者より古く創建され、江戸末期に琴平神社と、大正9年に三峰神社が合祀されています。境内末社の奥に並んで、日本三大庚申の一つである庚申塚には、11基の搭が祀られており、最古のものは1647年(正保2年)の作であり、青面金剛の搭は大阪四天王寺と同作の霊像で聖徳太子作と伝えられています。

 社務所対面には境内末社と庚申塚が鎮座(左:社務所の対面に境内末社が鎮座、右:境内末社の奥に並ぶ庚申塚)

庚申塚前から参道を西に折れると、小野照崎神社の西口の鳥居で、西口参道の右側には境内末社の稲荷神社は、長左衛門稲荷と称し小野照崎神社遷座前から尊祀されていた古い地主神様です。また、この末社には、昭和29年に織物組合内に奉斎されていた織物神社が合祀されています。
また、庚申塚前から折れずに直進すると、神社神輿蔵に突き当ります。
 例大祭は、3年に一度の5月19日に近い土曜日・日曜日に本祭りが行われ宮神輿渡御が行われますが、2015年は「陰」と呼ばれ5月15日~17日に、氏子15ヶ町の町会神輿が神社まで連合渡御されました。

 庚申塚の先を左に折れると神社の西口で直進すると神輿蔵(左:庚申塚の先を左に折れると神社の西口、右:庚申塚を折れずに直進すると神社神輿蔵)

・富士塚
小野照崎神社の神輿蔵前を右手奥に進むと、幼児の頃おぼろげに覚えていた富士塚があります。
富士塚は模造の富士山で、台東区教育委員会の掲示によると、「武江年表」と同年の頃に、「下谷小野照崎の社地へ、石を畳みて富士山を築く」とあることから、1782年(天明年間)に築山し麓に浅間神社を奉斎し、1828年(文政11年)に大修復がされたと考えられております。境内の”富士山建設之誌碑”によると、坂本の住人で東講先達の山本善光が、入谷の住人で東講講元の大坂屋甚助と協議して築造し、富士山浅間神社の祭神を勧請けしたといいます。東講は富士山信仰の集団で、冨士講の1つで、室町時代末期頃に起こり、江戸時代中期には盛んとなり、江戸をはじめとして冨士講があちこちで結成されました。それにともない、模造富士も多数築かれ、江戸とその近郊の富士塚は、五十有余を数えるにいたりました。ここの富士塚は高さが約5m、直径が約16mで、塚は富士の溶岩でおおわれ、東北側の一部が欠損しているが、原形が翌保存されている貴重な塚で、昭和54年5月21日に、国の重要有形民俗文化財に指定されました。
富士塚は、毎年6月30日と7月1日に限り、一般の登拝に開放し、元気な子供たちの歓声が夏の風物詩です。 

 1782年(天明年間)に築山した富士塚 
(左:山麓に奉斎の浅間神社、右:1782年(天明年間)に築山した富士塚)

懐かしい小野照崎神社の参拝を終えて、社務所でお札、お守りを受け、おみくじをひいてからて朝顔市へと向かいました。
 
 懐かしのお宮でお札、お守りを受け安全祈願をしました

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(6月INDEXへ)
・カテゴリー別Index 風景・風物詩 カテゴリー別総目次 2011~2015年版2010~2013年版2008~2010年版2007・2008年版2006・2007年版 へ
<前回  
風景・風物詩 善光寺出開帳 江戸時代に人気を博した回向院出開帳に行ってきましたその3 
次回  風景・風物詩 夏の風物詩 幼児期に住んだ入谷の小野照崎神社と朝顔まつりその2

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風景・風物詩 善光寺出開帳 江戸時代に人気を博した回向院出開帳に行ってきましたその3

2013年05月24日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2013 善光寺出開帳両国回向院ポスター   

< 総合INDEX へ


・善光寺出品文化財(2)
本堂3階のその他の善光寺出品文化財には、善光寺如来の来歴を記した「絹本着色善光寺縁起絵」および、法要などで打ち鳴らす鉦鼓と呼ばれる大型の吊るし鉦「銅造双盤」や、和宮親子内親王(1846~77)由緒品の「皇女和宮由緒品」には梨子地葵紋蒔絵御文筥、梨子地唐草文蒔絵銀網掛手炙、梨子地菊葵紋散二階棚など10種類の品が展示してありました。
・                ・
                  絹本着色善光寺縁起絵(図はガイドブックから)

・びんずる尊者坐像
本堂3階から1階ロビーに降りると、奥に今回始めて善光寺本堂から外に出たびんずる尊者坐像が鎮座しており、大勢の参詣者が治して頂く願をこめて、復興しゃもじや掌で触れておりました。
・      ・
        びんずる尊者(左:回向院出開帳のびんずる尊者(ガイドブックから)、右:善光寺本堂のびんずる尊者20121031)

また、1階ホールでは、北原香菜子の演奏による薩摩琵琶の奉納演奏が開かれており、満席で入場が出来ませんでした。同ロビーの左側では、善光寺と回向院のご朱印を受け付けており、長い行列待ちをしていました。
・      ・
        本堂1階ロビー(左:善光寺・回向院出開帳ご朱印所、右:左がご朱印所、奥がびんずる尊者坐像)

ご朱印は、善光寺から出開帳御朱印を、回向院から本尊阿弥陀如来と馬頭観世音のご朱印を受けてきました。
・     ・
       善光寺と回向院のご朱印

回向院のご本尊は、阿弥陀如来で、かつては本堂を背にして露天に安置されていた濡仏さまでした。釜屋六右衛門の作で、 1705 年(宝永二年)に安置され、身の丈約250センチ、蓮座約130センチもある大きな銅作りの坐像で、都有形文化財に指定されています。
馬頭観世音は、将軍家綱公の愛馬が死亡しその骸を回向院に葬ることになり、供養をするため、回向院二世信誉貞存上人は馬頭堂を建て自らが鑿をとって刻して安置しました。馬頭観世音菩薩像は、1716~35 年(享保年中)の頃から「江戸三十三観音」に数えられて、回向院は「江戸砂子拾遺」その二十六番札所と記されています。当時のものは災難にあい焼失しましたが、現在でも昭和新撰「江戸三十三所観音参り」での第四番札所として巡拝者で賑わっています。
・      ・
        回向院本尊阿弥陀如来像と馬頭観世音菩薩像(回向院HPから)

本堂の2階では、浮世絵美人画家の鳥居清長(1752~1815)の絵の「江戸の華 浮世絵と回向院展」を開催していました。回向院には、鳥居清長の墓碑があることは知られながらも、度重なる災害によりその所在は不明となっていました。
・      ・
        本堂2階「江戸の華 浮世絵と回向院展」(左:浮世絵展と回向院展への階段口、右:茶見世十景冨ヶ岡 回向院HPから)

回向院のお戒壇巡りは、念仏堂の横を裏手に進み、入り口で係員の説明を聞いた後入ります。お戒壇は、念仏堂の背面に曲がりくねって作られた塀囲いの回廊で、真っ暗な回廊を巡り、出開帳仏背面に懸かる「極楽の錠前」に触れることで、錠前の前におられる出開帳仏と結縁を果たし、極楽往生のお約束をいただく修業です。出てくる時、最初に目にするのが出口から射し込んでいる光で、目の見える尊さと光のありがたさを感じます。
・      ・
        戒壇巡り(左:回向院のお戒壇巡り入口、右:善光寺本堂のお戒壇巡り入口 ガイドブックから)

最後に、善光寺出開帳の回向院参詣の記念に、出開帳授与品頒布所で善光寺のお線香と花絵のろうそくを購入して帰宅につきました。
・      ・
出開帳授与品(左:出開帳授与品頒布所、右:善光寺お線香と花絵のろうそく)

・盛り場両国江戸庶民の行動文化展で見る出開帳
善光寺出開帳両国回向院の開催に関連して、江戸東京博物館(墨田区横網1-4-1)で、4月16日~5月26日まで開催している、「盛り場両国江戸庶民の行動文化」展で回向院の建立と開帳の常設展の展示を、5月15日に見てきました。
・               ・
                 盛り場両国江戸庶民の行動文化展パンフレット

入場料は、一般 が600円、大学生・専門学校生が480円、中学生(都外)・高校生・65歳以上が300円、中学生(都内在学または在住)・小学生・未就学児童が無料です。なお、当日は第3水曜日のシルバーデーにあたり、65歳以上は常設展観覧料が無料となります。
・          ・
            シルバーデー入場券

展示会の第1章は回向院の建立と両国橋の架橋で、ともに1657年(明暦3年)の大火を契機とし、10万8千人の犠牲者をとむらうために本所牛島新田に「万人塚」が設けられ、その後國豊山無縁寺回向院が建立される。両国橋も大火を逃れて避難した人々が焼死もしくは溺死した惨事を受けて、1661年(寛文元年)に架橋されました。
「むさしあぶみ」上・下:文政年間に編集された「御府内寺社備考」によれば、回向院の起立は,明暦大火の後に犠牲者を弔うため与えられた本所牛島新田の50間四方の土地に死骸を埋葬したことにはじまるとしています。その後、寺領は幕府の助成もあって次第に拡張されていき、伽藍も整えられていきます。
「江戸名所図会」十八:回向院は江戸時代には坪数5101坪余りの大寺院として発展していくが、境内みは本堂のほかに鐘楼、馬頭観音堂、一言堂、地蔵堂、蓮池に弁財天などもありました。茶屋なども設けられており、常に多くの参詣者で賑わっていたことがうかがいしれます。馬頭観音は1655~58年(明暦年間)に将軍家綱の愛馬を埋葬するために建立されたといいます。
明暦大火罹災市街の図:火事は19日の深夜に一端は鎮火したが、小石川より出火しました。北西風によって江戸城の天守閣、本丸、二の丸までもが炎上しました。飯田町・市ヶ谷・番町などの江戸城周辺の武家屋敷も延焼し、さらに麹町からも出火して被害は芝口まで拡がりました。死者は10万人余といわれています。なお、この絵画によって木戸の跡がわかり、当時の町の状況を知ることができます。

 第1章回向院の建立と両国橋の架橋(:「むさしあぶみ」上・下、:「江戸名所図会」十八、:明暦大火罹災市街の図)

第3章は、回向院の開帳と相撲興行で、両国橋東詰に位置する回向院では、全国各地の寺院の出開帳がさかんに行なわれました。
・          ・
            相州小田原道了宮両国回向院ニテ開帳参詣乃図 歌川広重/画(江戸東京博物館)

開帳の時期ともなると寺社の宝物を目当てに多くの人々が訪れ、より一層の賑わいをみせました。また、回向院は大相撲の興行場所としても賑わいました。
・        ・
          近世善光寺出開帳一覧

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(5月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index 風景・風物詩 カテゴリー別総目次 2010~2013年版2008~2010年版2007・2008年版2006・2007年版
<前回 風景・風物詩 善光寺出開帳 江戸時代に人気を博した回向院出開帳に行ってきましたその2
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風景・風物詩 善光寺出開帳 江戸時代に人気を博した回向院出開帳に行ってきましたその2

2013年05月21日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2013 善光寺出開帳両国回向院チラシ  

< 総合INDEX へ

出開帳仏
善光寺のご本尊さまは秘仏のため、誰もお姿を拝むことはできませんが、7年に一度のご開帳では、ご本尊の分身仏である前立本尊を拝むことが出来ます。1997年(平成9年)4月のご開帳の参拝には、前立本尊の三尊阿弥陀如来を拝んできました。
江戸時代に善光寺の出開帳は各地で行われ、なかなか参詣に訪れることが出来ない人々のために、今回は東京両国の回向院にも前立本尊さまが出向いて頂き、念仏堂1階に鎮座されます。
・             ・
               回向院に出開帳の前立本尊(図はガイドブックから)

出開帳で開帳される仏様は、善光寺ご開帳の前立本尊とは異なる一光三尊阿弥陀如来さまで、中央が阿弥陀如来さま、向かって右が観音菩薩さま、左が勢至菩薩さまです。回向柱に触れて参道を進むと右側が念仏堂で、1階の正面に出開帳仏に参拝できます。出開帳仏前では、善光寺の両住職による法要が連日執り行われています。出開帳では写真の撮影は禁止なので、公式ガイドブックにより見ることにします。

・被災地からの観世音菩薩
回向院念仏堂2階に上がると、祈りの間に被災地の陸前高田からの菩薩像が安置されています。その被災地の仏像の手前の左端には、7具の善光寺式一光三尊阿弥陀如来像が安置されています。念仏堂1階の本尊として彫られた阿弥陀三尊像は、もともと回向院にあった善光寺式一光三尊阿弥陀如来像を小さく模した木造金箔の御像です。その本尊を原型として金銅仏に造られたのが生まれかわったのが7具の御像で、出開帳が閉幕した後に被災地寺院七箇寺に寄贈されます。
・          ・
            7具の善光寺式一光三尊阿弥陀如来像

今回は出開帳開催の目的が、東日本大震災復幸支縁にあり、祈りの間には、この出開帳のために、東北からお越しになられた仏様が3体安置されています。
先ずは、要害観音堂(陸前高田市気仙町字要谷)は気仙三十三観音霊場の4番札所で、津波によりお堂がどこにあったかさえ分からない状況で、がれきの中から奇跡的に聖観世音菩薩立像が発見されました。お像は砂をかぶっているうえ、手が少々破損しており、仏師に修理を依頼し観音像のクリーニングと、欠損した手の補修、厨子の屋根の復元等を行い以前と変わらぬお姿に復元して、聖観世音菩薩立像が出開帳にお出ましになりました。(ひとさじの会HPから)
・              ・
                木造聖観世音菩薩立像

つぎは、如意山金剛寺(陸前高田市気仙町字町裏29)は気仙三十三観音2番札所で、津波によって本堂や観音堂、庫裏などが破壊され、本尊の如意輪観世音菩薩は泥中より発見され、他の大日如来像や毘沙門天像、不動明王立像、弘法大師像、興教大師像が損傷し、興教大師像以外は修復されました。興教大師像は修復が困難であり、同寺のマツを材料に新たに製作となり、椅子に座り袈裟を身に着け、曲録に座る高さは約85センチの興教大師像も完成ました。同寺からは、如意輪観世音菩薩坐像が出開帳にお出ましになりました。(回向院HPから)
・             ・
               如意輪観世音菩薩坐像(図はガイドブックから)                
海岸山普門寺(陸前高田市米崎町地竹沢181)からは、7万本の松の木が流され、たった一本の松の木が残り、東京藝術大学大学院生によって70センチの大人地蔵2体と50センチの子供地蔵2体の「親子地蔵」を今年4月に制作され、父地蔵の1体は善光寺様に安置された後出開帳にお出ましになり、子地蔵の1体は普門寺からお出ましになりました。(回向院HPから)
・                 ・
                   木造地蔵菩薩立像(おやこ地蔵尊)(図はガイドブックから)

・善光寺出品文化財(1)
念仏堂から3階に上がり、そのまま本堂の3階へ進むと、善光寺出品文化財が展示してあります。入り口では、高村光雲と米原雲海の合作の木造金剛力士立像の阿形・吽形がお出迎えです。現在の善光寺仁王門仁王像の原型です。
・          ・
            木造金剛力士立像(図はガイドブックから)

それから木造聖徳太子立像で、16歳の太子が父帝の病気平癒を願う「孝養太子像」と、約160年間懸けられていた先代の木造鳩字扁額で、輪王寺宮公澄法規王の筆によるもので、文字中に5羽の鳩の姿が見える。
・            ・
              左:木造聖徳太子立像と右:先代の木造鳩字扁額(図はガイドブックから)

次は、木造御三卿座像で、善光寺開山に関わる本田善光(中央)、妻弥生(右)、子息善佐(左)の三人の人物像です。
・        ・
          木造御三卿坐像(図はガイドブックから)

次は木造阿弥陀如来立像で、4年前の解体修理で快慶工房で造られたと指摘されている、安阿弥様の阿弥陀仏です。
・                     ・
                      木造阿弥陀如来立像(図はガイドブックから)

次は銅像釈迦如来涅槃像で、銅製の涅槃像で釈迦が入滅した姿を現しています。
・       ・
         銅像釈迦涅槃像(図はガイドブックから)

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(5月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index 風景・風物詩 カテゴリー別総目次 2010~2013年版2008~2010年版2007・2008年版2006・2007年版
<前回 風景・風物詩 善光寺出開帳 江戸時代に人気を博した回向院出開帳に行ってきましたその1
次回 風景・風物詩 善光寺出開帳 江戸時代に人気を博した回向院出開帳に行ってきましたその3
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風景・風物詩 善光寺出開帳 江戸時代に人気を博した回向院出開帳に行ってきましたその1

2013年05月17日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2013 善光寺出開帳回向院ガイドブック 

< 総合INDEX へ

善光寺詣り
昨秋の渋温泉旅行をした時、東京に帰りすがりの10月31日に久振りに善光寺によってお詣り(「旅ものがたり 善光寺・小布施・渋温泉 北斎が愛した小布施の歴史を追い、渋温泉でくつろぎ善光寺参りその5」参照)をしてきました。その前の善光寺詣りはあんずの花見に行った1997年(平成9年)4月で、この年はご開帳と重なり515万人の人出により本堂内は参詣者で一杯で、お参りするのがやっとの状態でした。

・善光寺ご開帳
善光寺御開帳は7年に1度開催され、人出が多いことで知られています。善光寺の御開帳は50日以上にわたって行われ、2009年(平成21年)の前回のご開帳(「善光寺御開帳2009年信州の旅.com」参照)は673万人の参拝で、1日に平均10万人程度が訪れたことになります。御開帳のシンボルである「回向柱」に触れようとする人は多いので、山門のはるか手前から並ばないと触れません。

 平成21年善光寺ご開帳回向柱のミニチュア(中左中右写真拡大)

善光寺の御本尊は、一光三尊阿弥陀如来は絶対秘仏であり、今までに誰も見たことがありません。ご開帳には、御宝庫に安置されている鎌倉時代に造られた「前立本尊」(重要文化財)を、御本尊の身代わりとして本堂にお移し、厨子の扉を開けて一般の人が参拝できます。「前立本尊」とは、御本尊の前に立たれる分身の仏さまであることからこのように呼ばれ、ご開帳を、「善光寺前立本尊御開帳」と云われます。

・善光寺出開帳両国回向院
出開帳とは、普段参拝ができない寺院の本尊を地方に出向き、一定の期間拝むことができるよう祀ることを云います。江戸時代には寺社が出向き、秘仏や仏様を開帳する「出開帳」が盛んでした。
善光寺の両国回向院での最初の出開帳は、今より350年前の1692年(元禄5年)に行われました。
中でも江戸時代に回向院で行われた善光寺の出開帳は大変な人気で、特に1778 年(安永7年) 出開帳では、60日で1,603万人の参詣があったとも云われています。

 善光寺如来御開帳之図 井両国広小路賑墨田区より

善光寺如来御開帳之図
回向院で六十日間、善光寺が開帳を行った際の様子が示されています。その註釈では「わざわざ信州まで出向いて参詣・結縁しようという者もいるのに、如来様の方から江戸の人々と結縁するために江戸に出てきて下さる。そのありがたさを感得して、参詣するよう」と勧めたもので、上が開帳の図で、下が両国の賑わいを表した図です。

江戸時代から、回向院での出開帳を通じ災害犠牲者の供養を続けてきており、東日本大震災で亡くなられた多くの方々のご供養と被災地の復興支援を目的とし、鎮魂の祈りと「如来様との結縁により復興の光を届けたい」という思いをこめた「復“幸”支“縁”」として収益を震災被災地の復興に充てることで、善光寺御本尊のご分身である出開帳仏を奉じて、4月27日~5月19日にわたり戦後初めての善光寺の回向院出開帳が開催されましたので、4月29日に参詣してきました。

 善光寺出開帳回向院案内図

・・回向院
回向院(都墨田区両国2-8-10)は、JR両国駅を降りて駅前通りを南に進むと両国橋が架かっている京葉道路に出て対面が回向院表門 (「小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その2」参照) です。
回向院の出開帳に参拝するには参拝券が必要であり、表門の東隣の「両国シティコア」の敷地内で販売している「出開帳参拝券」の大人1000円と、「お戒壇巡り券」の大人500円を買うと、善光寺出開帳両国回向院公式ガイドブックが付いてきます。両国シティコアは、昔は回向院の境内であり、1768年(明和5年)から76年間にわたり勧進相撲興行が行われており、また旧国技館跡でありました。

 善光寺出開帳回向院参拝券とお戒壇巡り券

・・回向柱
回向院の山門を潜り、本堂に向かって進むと参道の左側に回向柱が建てられています。1997年
の信州善光寺の参拝の時には、回向柱に触れませんでしたので、先ずは前立本尊に触れるのと同じでありがたい結縁が生まれることなので、滑らかな杉の柱にふれました。

 善光寺出開帳の両国回向院回向柱(:本堂への参道の左側に回向柱が建つ、:回向柱に触れる参詣者、:回向柱は白い善の綱で前立本尊と結ばれている)

回向柱は、信州善光寺における御開帳では、松代藩が現在の本堂建立の際、普請奉行にあたったという縁から、松代町から「回向柱(えこうばしら)」が奉納され、本堂前に立てられます。善光寺出開帳両国回向院での「回向柱」は、陸前高田の矢作町にて、平成25年1月23日に杉の木を伐採し、製材業者村上製材にて製造され贈られました。

 回向柱は本堂の一光三尊阿弥陀如来とを白い善の綱結ばれる(写真拡大)

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(5月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index 風景・風物詩 カテゴリー別総目次 2010~2013年版2008~2010年版2007・2008年版2006・2007年版
<前回 風景・風物詩 羽田国際空港 好天につられ国際ターミナルビル開業から2年半経過の国際空港を見に行く
次回 風景・風物詩 善光寺出開帳 江戸時代に人気を博した回向院出開帳に行ってきましたその2
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風景・風物詩 羽田国際空港 好天につられ国際ターミナルビル開業から2年半経過の国際空港を見に行く

2013年04月03日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2013 正面遥か先にスカイツリーが見える空港を移動する日航機

< 総合INDEX へ

羽田国際空港国際ターミナルビル
今年の桜の満開は、昨年より15日も早い3月22日でしたので、大森町周辺の桜(「大森町界隈あれこれ 例年より早い満開の季節 大森町の公園・道路・庭先に春爛漫に咲く桜・桃」参照)を見に行きました。当日の東京地方の天気は、晴れで最高気温が18.6℃で、南南東の5m/の爽やかな風が吹いた絶好のお花見日和であり、花見の後が昼時になったのでランチを、久しぶりに開業2年5か月を経過した羽田国際空港ターミナルビル(「イベント 羽田空港再国際化 新国際線旅客ターミナルビルオープンと京急、モノレール新駅開業その1その2その3」参照)でとるため京急で羽田空港新国際線ターミナルに行きました。

 羽田空港新国際線ターミナルビル(左上:京急1番線改札口、中上:ターミナルビル2階京急線連絡通路、右上:京急2番線改札口、左下:ターミナルビル内からモノレールを見る、中下右下:ターミナルビル3階0322)

食事処は、ターミナルビル3階の通路を進み、4階の正面江戸舞台両側の江戸小路を入ると、江戸前横町の店舗街、レストラン街にあります。

 江戸舞台と江戸小路の江戸前横丁店舗(:ステージ・江戸舞台、:江戸前横丁店舗0322)

・展望デッキ
羽田空港は、1952年(昭和27)年に米国から返還され、1955年(昭和30)年に日本空港ビルデングターミナルの供用を開始しました。1988年(昭和63年)に新A滑走路が供用開始し、1993年(平成5年)に第1旅客ターミナルの供用が開始しました。続いて1997年(平成9年)に新C滑走路が供用開始し、2000年(平成12年)に新C滑走路が供用開始しました。2004年(平成16年) に第2旅客ターミナルが供用開始し、2010年(平成22年) にD滑走路が完成して新国際線旅客ターミナルが供用開始しました。

 羽田空港滑走路図

ターミナルビル5階に上がると展望デッキに出られます。当日は天気に恵まれて、展望デッキからの展望は絶好な状態で、前方下のエプロン(駐機場)には各航空会社の発着の航空機が多数駐機しており、国内線の第1ターミナルとの中間のA滑走路には、当日の南風の時の着陸はRWY16から侵入し、離陸はRWY34Lから飛び立ちます。第1ターミナルの左方の新管制塔は、D滑走路が見渡せるように2009年10月に完成し、115.7mの日本一の高さがあり現時点で世界でも第3位の高さです。左側の旧管制塔は、高さ77.6mで高さの違いが分かります。 

 羽田国際空港展望デッキからの展望(:羽田国際空港展望デッキ、:デッキから前方を見ると手前に駐機場がありその先にはA滑走路と第1ターミナルが望める、:右の塔は新管制塔で左は旧管制塔0322)

駐機スペースなどがあったターミナルビルの北西端方を眺めると、大型のクレーンや重機が並び、新設建築物の基礎となる工事が大規模に進められており、これは同空港の昼間時間帯の国際線発着枠の年間3万回から6万回への増発に対応し、ターミナルビル本館部を増設するほか、8つの搭乗ゲート・駐機スポットを備えるサテライトを建設するもので、2014年3月末に供用して開始の予定です。

 ターミナルビルの西北方は国際線発着増発に備えて拡張工事が進む(:ターミナルビルの西北方は拡張工事が進む0322、右:国際ターミナルの拡張工事(東京ベイ経済新聞2013年2月撮影))

羽田空港国際線旅客ターミナルに就航している現在の航空会社は、日本の航空会社が全日空(All Nippon Airways)と日本航空(Japan Airlines)の2航空会社で、韓国が2航空会社、中国・台湾が6航空会社、アメリカが3航空会社、イギリス、タイ、マレーシア、インドネシア、シンガポールが各1航空会社の計18社の航空機が発着しています。なお、2013年6月からアラブ首長国連邦の航空会社と、2014年夏季からフランスの航空会社が就航を予定しており、さらにイギリスの航空会社が2014年春より成田から移行を予定しています。

 エプロンに駐機中の各航空会社の航空機(:駐機場のキャセイパシフィック航空Cathay Pacific航空機、:駐機場のチャイナエヤラインChina Airlines航空機、:駐機場の中国国際航空Air China航空機0322)

羽田空港には、A~D滑走路の4本の滑走路があり、滑走路のそれぞれの端部は、飛行機から見てどの方向を向いているのかが、数字によって示されています。例えば、A滑走路を南方面に離陸する場合、北(16R)方向から滑走路に進入するため、進入口には「16R」と呼びます。なお、数字の後の「R」は右(RIGHT)を、「L」は左(LEFT)を表しおり、A滑走路とC滑走路が並行しているため、数字の後に「R」または「L」をつけて区別しています。滑走路の使用は、日中南風時の離陸は北方面へはC滑走路の(16L)で、 南方面へはA滑走路の(16R)であり、着陸は北方面へがD滑走路の(23)で、 南方面へがB滑走路の(22)です。

 A滑走路を運行する各社の航空機(:A滑走路を進む全日空機、:A滑走路のから離陸するスターフライヤー機、:着陸して駐機場に進む日本航空機0322)

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(4月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index 風景・風物詩 カテゴリー別総目次 2010~2013年版2008~2010年版2007・2008年版2006・2007年版
<前回 風景・風物詩 河津桜 開花が遅れた第11回三浦海岸桜まつりを見る
次回 風景・風物詩 善光寺出開帳 江戸時代に人気を博した回向院出開帳に行ってきましたその1
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風景・風物詩 河津桜 開花が遅れた第11回三浦海岸桜まつりを見る

2013年03月24日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2013 三浦海岸桜まつり立て看板        

< 総合INDEX へ

三浦海岸桜まつり
河津桜といえば河津が本場(「小さな旅 雛のつるし飾りまつりと河津桜まつり その2」参照)ですが、首都圏の三浦海岸にも2000年に本家河津町から河津桜を、三浦海岸駅前と小松ヶ池公園までの線路沿いに約1000本譲り受け植樹し、2002年からは中心会場としてテント村を設置し、桜祭りとして取り組んできたとのことです。

 三浦海岸桜まつりポスター 

河津桜は、緋寒桜と早咲き大島桜の自然交配種と云われており淡紅色で、開花してから約1ヵ月かけてゆっくりと満開となるので花見期間が長いのが特徴です。
2003年の三浦海岸河津桜の開花状況を調べると、今年は遅れており2月28日頃に1分咲きとのことなので、はじめは3月14日に花見に行く予定にしていましたが、その後の開花情報では3月8日が満開とありましたので、急遽予定を変更して3月10日に見にいきました。

 ホームから見た三浦海岸駅前桜まつり会場(写真拡大0310)

三浦海岸前の第11回三浦海岸桜まつり会場は、駅東側広場に河津桜が植樹されており、広場南方に沢山の露店が並び商品を物色していました。露天先の広場南端にも河津桜が植樹されています。

 三浦海岸駅前桜まつり会場(写真拡大0310)

三浦海岸駅前のテント村の露店では地元産の野菜、海産物などの物販ブースが営業していました。
 
 三浦海岸駅会場の露天テント村(写真拡大0310)

3月10日の三浦海岸桜まつり会場の河津桜は、丁度満開で最高に見頃の花見となりました。

 満開の三浦駅前河津さくら(写真拡大0310)

河津桜は落葉高木で、樹形は広卵状で樹皮は紫褐色で光沢があり、若枝は褐色、無毛。葉は開花後に展開する成葉は倒卵状楕円形で先は尾状鋭尖形、基部は円形、長さ12.5~16cm、巾6~6.8cmで厚い。縁は単鋸刃だが、重鋸刃が混じり、鋸歯の先は芒状、腺はない。表面は濃緑色、裏面は淡緑色、両面共に無毛。側脈は約10本。葉柄は長さ2~2.2cmで無毛、上部に1対の蜜腺がある。托葉は長く、分岐多い。果実は、ほぼ球形、径0.9~1.3cm、黒紫色に熟し、甘味がある。(河津観光協会HPから)

 三浦駅前の満開の河津さくら1

河津桜の花は径が約3センチと大きくピンク色で、樹皮は平滑艶があり、地上近くで幹が分れ、枝は横に広がる性質があります。(河津観光協会HPから)

 三浦駅前の満開の河津さくら2

会場のベンチに座って休んでいると、気温がどんどん上昇し段々と風が強まってきましたので、小松ヶ池公園に行くのは取りやめて、電車で三崎口まで乗って沿線の河津桜を車窓から眺めることにしました。そのうち、横浜方面の空が暗くなり、煙霧が発生しましたので、そのまま帰路につきました。

 車窓から満開の河津桜を観賞(写真拡大)

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(3月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index 風景・風物詩 カテゴリー別総目次 2010~2013年版2008~2010年版2007・2008年版2006・2007年版
<前回 風景・風物詩 初詣風物詩 川崎大師平間寺初詣2013
次回 風景・風物詩 羽田国際空港 好天につられ国際ターミナルビル開業から2年半経過の国際空港を見に行く
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風景・風物詩 初詣風物詩 川崎大師平間寺初詣2013

2013年02月05日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2013 京急大師線ヘッドマーク2013       

< 総合INDEX へ

川崎大師初詣
大森町に住んで毎年初詣には、川崎大師平間寺は欠かさずお参りに行っています。
川崎大師は、山号が金剛山、院号は金乗院と称して、真言宗智山派の大本山のお寺であり、菩提樹とは武山派との違いはありますが同じ宗派のお寺なので、距離も近いことからなじみ深く、お参りしないと気持ちが良くないのです。

 川崎大師大山門と大本山(:川崎大師大山門、:大山門を潜り境内から大本山を見る)

初詣は、昔は三が日までに参詣するしきたりでしたが、特に初参りの期限の決まりはなく、松の内までに参詣すれば初詣であると云う人もあり、最近では1月中に参拝すれば初詣であるとの考え方もあるようです。昨年の初詣は、都合があり2月12日となってしまいましたが、今年は、1月31日にお参りしてきました。31日は、ウイークデーでしたが、沢山の人が参詣にきており、境内には露天も出ており、猿回しの大道芸が見られました。

 平日でも大道芸や露店が沢山出ている(:1月31日は平日でも露店が沢山出ている、:境内では猿まわしの大道芸が見られる)

大師の初参りには、決まってお参りが済んだら、境内のお札・お守り授け所で身代わりお守りと、災難除け(家内安全)のお札を毎年授けて頂き、昨年のお札やお守りとだるまは、納札堂にお礼の気持ちをこめて納めるのが定番です。参詣が済むと、門前の表参道の土産店でくず餅、厄除・開運だるま、せきどめ飴を、お土産に買います。
川崎大師初参りのブログ記事は。2007年2008年2009年2010年2011年2012年(←クリック)と記載しており、新たな記事は見当たりませんので、今年の初詣は2012年と同じコースをとりましたので、写真のみの掲示としますので、過去の記事を参照願います。
今回は、川崎大師平間寺の宗旨の説明と菩提寺との宗派の違いについて記述しました。

 くず餅とだるまを買うおみやげにくず餅とだるまを買う(:門前のくず餅やさん、:表参道の厄除・開運だるま屋さん)

真言宗
川崎大師や菩提樹の宗派、真言宗について調べてみました。
弘法大師(空海)は、804年(延暦23年)、唐へ留学し「密教を正当に伝承されて」806年(大同元年)帰国しました。弘法大師は、広い視野と的確な識見に基づき、密教の教えを組織的かつ体系的に整備して、真言密教を開宗しました。真言密教は、835年(承和2年)に弘法大師入定、約300年後、興教大師(覚鑁)が真言宗を中興し、1143年(康治2年)の覚鑁の入滅後、専誉僧正と頼瑜僧正が新義真言宗を打ち立て、高野山を中心として18本山に分かれて受け継がれています。

 表参道の何軒かの飴やさんでは飴切音の競演です(写真拡大)

・真言宗智山派
真言宗智山派は、弘法大師(空海)を始祖とし、真言宗中興の祖・興教大師覚鑁(1095年-1144年)を開祖とする新義真言宗と呼ばれる宗派で、1577年(天正5年)に根来山の学頭職となった玄宥(1529年-1605年)が、1585年(天正13年)、秀吉による紀州征伐で焼き滅ぼされた根来山 智積院を、1601年(慶長6年)、徳川家康の許可を受け寺領(豊国神社付属寺院の土地建物)を拝受し復興させたことを端緒に創建されることとなった宗派である。
真言宗智山派の総本山は、智積院(京都市東山区)で、別院は、愛宕薬師真福寺(東京都港区)で、大本山は、成田山新勝寺(成田山・千葉県成田市)と、川崎大師平間寺(川崎大師・神奈川県川崎市川崎区大師町)および高尾山薬王院(高尾山・東京都八王子市高尾町)の三山があります。また、別格本山には、高幡不動金剛寺(高幡不動・東京都日野市)と大須観音宝生院(愛知県名古屋市中区)がある他、旧別格本山3寺と化主出身・隠居寺院の6寺があります。

 総本山五百佛山 根来寺 智積院(Wikipediaから)

・真言宗豊山派
真言宗智山派は、興教大師覚鑁が創始した新義真言宗という同一宗派でありました。真言宗は高野山を中心に教えを広めましたが、平安末期には一時衰退してしまいました。中興の祖、興教大師は弘法大師の教学を復興させ、根来寺を創建されました。根来寺での興教大師の教えは受け継がれ、鎌倉時代には頼瑜僧正によって新義真言宗が成立しました。新義真言宗は根来寺を中心に大変栄えましたが、戦国時代に根来寺は焼き討ちにあって、壊滅状態になり専誉僧正と玄宥僧正という二人のすぐれた学僧が根来寺を離れました。玄宥僧正は京都の智積院で智山派を興し専誉僧正は奈良の長谷寺で豊山派を興しました。豊山派の名は長谷寺の山号「豊山」に由来するものです。江戸時代、長谷寺(奈良県桜井市)は豊山派の総本山として大いに栄えました。一方、関東では豊山の隆光僧正が徳川幕府の厚い信頼を受け、大本山の護国寺(東京都文京区)を建立して江戸の豊山派の一大拠点とし、また、関東一円に多くの豊山派末寺を増やして豊山派寺院の隆盛を築き上げ、通称西新井大師は、山号を五智山と称し、寺名は遍照院總持寺と称する寺院で、空海(弘法大師)が関東巡錫の途中、西新井を通った際に、本尊である観音菩薩の霊託を聞き、本尊の十一面観音を彫り826年(天長3年)に寺院を建立し、川崎大師と共に「関東三大師」の一つとして有名です。

 総本山豊山 神楽院 長谷寺(Wikipediaから)

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(2月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index 風景・風物詩 カテゴリー別総目次 2010~2012年版2008~2010年版2007・2008年版2006・2007年版
<前回 風景・風物詩 小石川後楽園 水戸黄門ゆかりの都心の幽谷の庭園で紅葉狩り
次回 風景・風物詩 河津桜 開花が遅れた第11回三浦海岸桜まつりを見る  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風景・風物詩 小石川後楽園 水戸黄門ゆかりの都心の幽谷の庭園で紅葉狩り

2012年12月25日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2012 内庭        

< 総合INDEX へ

都立の名園・庭園や近県の名園にも、紅葉のスポットが沢山あり、そのうち、モミジの紅葉スポットには、(「六義園東京都庭園美術館および神奈川の名園三渓園などがあります。今年は、都心のなかの名園の小石川後楽園に11月29日に行き、紅葉狩りをしてきました。

小石川後楽園
小石川後楽園(東京都文京区後楽1-6-6)は、六義園とともに江戸の二大庭園にあげられ、文化財保護法の特別史跡及び特別名勝に指定(昭和27年3月)されています。

 小石川後楽園パンフレット

後楽園は1938年(昭和13年)4月に開園して、休園日は年末・年始の12月29日~1月1日で、午前9時~午後5時まで開園し、入園料は一般及び中学生が300円、65歳以上が150円で、小学生以下及び都内の中学生は無料です。また、みどりの日と都民の日は無料となります。

 小石川後楽園入場券

後楽園は、小石川台地の先端の地にあり、江戸時代初期の1629年(寛永6年)に水戸徳川家の祖である徳川頼房が、神田上水の分流を引入れ、江戸の中屋敷の庭として造ったもので、二代藩主の光圀の代に完成した庭園で、作庭には明の儒学者朱舜水の意見をとり入れ、池を中心にした「回遊式築山泉水庭園」には随所に中国名所の名前の景観を配し、「後楽園」とつけられました。

 小石川後楽園マップ

後楽園は、70,847.17平方メートルの面積を有し、4,030本の樹木数があり、光圀が好んだ白梅、紅梅など20種類が2月に咲く梅林が、3月下旬には樹齢約60年の枝垂桜とともに大泉水周囲にある桜を咲かせ、1000平方メートルの花菖蒲田は6月上旬に花が咲く他、内庭の池や蓮池にはスイレンやハスが見られます。また、11月中、下旬に見られる250本のイロハモミジは見事な紅葉です。
後楽園へのアクセスは、東京メトロまたは都営大江戸線の飯田橋駅のC3出口を出て、北方に進むと、小石川後楽園入り口の信号が後楽園の西門です。

 後楽園西門から入り庭園入り口門に進む(左上:小石川後楽園入り口の西門、中上:西門内の入場券売り場前広場、右上左下:西門内の見事な紅葉のモミジ、中下:入場券を求め集会場涵徳亭脇を進む、右下:庭園入り口)

集会所は、後楽園創建時代に造られた萱葺の茶室で、硝子障子のため「ガラスノ茶屋」と呼ばれていたのを、享保年間に林信篤が涵徳亭(かんとくてい)と名づけ、現在の建物は4代目で1986年(昭和61年)に再建したものです。

 涵徳亭付近の紅葉(:涵徳亭中庭の紅葉、:大泉水右手の見事な紅葉)

枝垂桜を左に進むと大堰川(京都の嵐山の下を流れる大堰川にちなんだもの)で、川には京都嵐山の渡月橋の名をとった土橋が架かり、橋の左手には西湖堤(中国の名勝地西湖を模して造られたもの)が見え、橋の先には屏風岩がそびえ、右手の大堰川の突き当りのモミジは紅葉が見事です。

 涵徳亭付近の紅葉(左上:大堰川にかかる渡月橋土橋、中上:橋の左手は西湖堤、右上:対岸にそびえる屏風岩、左下:大堰川先の紅葉が見事なモミジ、中下:西湖堤周辺の紅葉、右下:渡月橋周辺の紅色のモミジ)

渡月橋から戻り、枝垂桜の先方の紅葉林のモミジを見ながら、一つ松(琵琶湖唐崎の一つ松にちなんだもの)付近の大泉水(蓬莱島と徳大寺石を配し、琵琶湖を表現した景色を造り出したもの)の周辺の紅葉風景。

 一つ松付近の風景(:枝垂桜から西方を望んだ紅葉林、:一つ松冬支度の化粧巻、:大泉水に浮かぶ蓬莱島と徳大寺石)

昔の田舎の茶屋のたたずまいの丸屋は、戦災で焼失し昭和41年に復元したもので、周辺のモミジの見どころです。

 丸屋周辺の紅葉(写真拡大)

大泉水を時計廻りに回遊して、紅葉のモミジ狩も半ばです。

 大泉水を時計廻りに回遊(写真拡大)

九八屋は、江戸時代の風流な酒亭を模したもので、戦災で焼失し昭和41年に復元したもので、周辺にも紅葉はみられます。

 九八屋周辺の紅葉(写真拡大)

九八屋の傍に露天のお土産さんが出ており、そこには水戸名物のほし納豆、梅羊羹とのし梅が売っており、茨城に関係ある人には懐かしい食べ物であり買って帰りました。

 大泉水周囲の真赤のモミジ(左上:露天のお土産売店、中上:大泉水周囲の紅葉をバックに建つ灯篭、右上:ガイド案内を聞く紅葉狩グループ、左下中下右下:大泉水周囲の真赤なモミジ群)

最後は、唐門跡、内庭を回って紅葉狩りのエンドです。

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(12月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index 風景・風物詩 カテゴリー別総目次 2010~2012年版2008~2010年版2007・2008年版2006・2007年版
<前回 風景・風物詩 個人邸の菊作り 茨城県笠間菊人形から近くの桜川市の邸宅庭での菊花観賞
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風景・風物詩 個人邸の菊作り 茨城県笠間菊人形から近くの桜川市の邸宅庭での菊花観賞

2012年11月19日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2012 個人邸の菊作り  

< 総合INDEX へ

個人邸の菊花展示観賞
茨城県桜川市の知り合いの農家のご主人から、今年も菊の花が見ごろなりましたとのご招待を頂き、11月7日にJR水戸線の岩瀬駅まで迎えにきて下さいました車で、感激の菊を観賞させて頂きました。

 水戸線岩瀬駅地図

・富谷山(とみやさん)
水戸線岩瀬駅は、宇都宮線小山駅と常磐線友部駅の中間点にあり、岩瀬には戦時中に学童疎開で世話になったところです。
岩瀬駅から北方にそびえている山は、標高が365.1mの富谷山といい、中腹には735年(天平7年) に聖武天皇の勅願により、行基菩薩が開山したと伝えられる富谷観音があり、正しくは施無畏山宝樹院小山寺といい、本尊は十一面観世音菩薩坐像(鉈彫様式による欅材一木造で、平安時代の作)で、茨城県指定文化財(昭和46年10月28日)になっており、不動明王・毘沙門天を脇侍として安置されており、境内には1465 年(寛政6年)に造営された三重塔がある、古くからの山岳仏教の信仰の山です。(茨城県教育委員会 桜川市教育委員会から)

 桜川市の岩瀬駅(左)と富谷山(右) 

・個人邸の菊花観賞
岩瀬駅を降りるとお迎えの車が来ていただいており、富谷山を北に見て東北に県道を進み、真岡市市街地に至る県道との交差点を北に左折すると、すぐ菊花作りの個人邸です。邸宅に着いた時には薄曇りで、東京から小山に来るまでは快晴でしたが、水戸線に乗り岩瀬に近づくにつれ曇り空となりましたが、午後には暖かく快晴となり絶好の花見日和に恵まれました。邸宅の門を入ると、左右に小菊の懸崖作りが並んで出迎えてくれました。

 門を入ると小菊懸崖作りの菊の出迎え)(右写真:庭の通路に並ぶ懸崖作りの菊の列)

庭に入ると正面の納屋の前には、3色の小菊の木付けが置かれていました。木付けの横に並ぶ中央の方が、訪問邸のご主人で菊作りの名人です。

 門を入り正面の納屋の前には3色の小菊の木付け)(左写真:3色の小菊の木付け)

納屋の前の左側が邸宅で、その前には素晴らしい見事な菊花の展示光景で、思わず歓声があがりました。菊つくりの作者から、皆さんこの菊を見ると驚かれるのですよ、と説明して下さいました。

 邸宅前の菊花展示作品(左写真:玄関前菊花展示作品、右写真:前庭菊花展示作品)

これから、じっくりと菊花の観賞です。先ずは、小菊の木付けから見て行きます。どの作品も工夫を凝らして素晴らしい出来栄えです。

 沢山の小菊の木付け(左写真:玄関の白色小菊の木付け、中写真:玄関前の3色菊花の木付け、右写真:前庭の小菊の木付け)

邸宅の前庭は菊花の総合花壇です。ハート型の懸崖は、お孫さんのリクエストでつくられたもので、横幅がかなり広く目立ち他では見ることが出来ないものです。また、総合花壇内にも、庭の植木が多く木付けが沢山見られます。

 前庭は菊花の総合花壇(左写真:菊花の総合花壇、右写真:ハートの懸崖は超大型)

総合花壇の圧巻は、4色小菊の虹の造形です。虹の造形の舞台裏は、4色の小菊の鉢を各段に間隔空けての植え付けの仕掛けであり、このような仕掛けの作品は普通では見られない光景です。

 総合花壇の圧巻は長大な虹の造形4色の菊花(左写真:総合花壇の4色の虹の造形、右上写真右下写真:虹の造形舞台裏)

勿論、大菊の1本仕立ての鉢は、邸宅の窓辺に並んで総合花壇を引き立てています。菊作りは、1年かけて丹精を込めて育てないと、立派な花を付けてくれません。また、2百数十本の菊に、夏の暑い時の水やりは大変な努力が必要です。菊作り作者の、並々ならぬご努力には頭が下がります。素晴らしい菊を見せて頂き、大変に感動し、心に残る一日でした。

 窓際には大菊の仕立ての鉢が並ぶ(左写真右写真)

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(11月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index 風景・風物詩 カテゴリー別総目次 2010~2012年版2008~2010年版2007・2008年版2006・2007年版
<前回 風景・風物詩 さくらとツリーの新名所 満開の桜の間隙から隅田川対岸のツリーを展望する花見
次回 風景・風物詩 小石川後楽園 水戸黄門ゆかりの都心の幽谷の庭園で紅葉狩り
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風景・風物詩 さくらとツリーの新名所 満開の桜の間隙から隅田川対岸のツリーを展望する花見

2012年04月19日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2012 桜もスカイツリーも楽しめる台東区墨田公園        

< 総合INDEX へ

今年の春は低温が続きましたが、都心の桜も3月31日に開花し、4月6日に満開となりましたので、混雑する休日は避けて9日月曜日のウイークディに、東京スカイツリーと桜が一緒に観賞できる台東区墨田公園に行ってみました。

墨田公園
墨田公園は日本さくら名所100選に選定されており、約1キロに渡る隅田川両岸の桜並木は、八代将軍徳川吉宗のはからいにより植えられました。公園内には約700本の桜があり、毎年さくらまつりが開催されています。墨田公園は隅田川の両岸にあり、台東区側の墨田公園は、浅草吾妻橋から桜橋まで続き、区では花の名所づくり事業をすすめており、春の桜、初夏のアジサイ、秋のヒガンバナ、冬の梅など…、四季折々の花が楽しめる公園造りをしており、園内にはスポーツ施設がありスポーツも楽しめます。
墨田区側の墨田公園は、1931年に開園した隅田川東岸に沿った旧水戸藩邸の庭園を生かした公園です。公園から北に墨堤が続き、江戸時代から「墨堤の桜」として親しまれてきた歴史のある桜の名所です。公園北方の桜橋付近の墨堤には初めて桜を植えた来歴などを刻んだ墨堤植桜之碑、川舟のための灯台とともに墨堤の燈明も兼ねた牛嶋神社氏子奉納の墨堤常夜燈や、都鳥の詩が刻まれた野口雨情の文学碑などの歴史的遺産が見られる他、三代将軍徳川家光が薬を服用したと云われる井戸のある長命寺の名物の、1717年(享保2年)初代山本新六が隅田川土手の桜の葉を集め、塩漬けにして桜餅を考案して売り始めてから二百八十年余も続いて、桜の葉を3枚使用している長命寺の桜餅の店があります(「小さな旅 勝海舟 牛島で修行し赤坂・洗足池と移り、西郷と会見で江戸無血開城戦禍から救う その1」参照)。
また、2008年7月に着工し、今年2012年2月29日に竣工して、5月22日に開業する東京スカイツリーは、墨田公園東方の東武鉄道とうきょうスカイツリー駅(元業平橋駅)際にあり、対岸の台東区墨田公園から桜と共に望むツリーは、新たな東京の新名所です。

 台東区・墨田区墨田公園とスカイツリー地図

台東区墨田公園からツリーと桜の観賞
台東区墨田公園には都営浅草線を乗りついで浅草駅を出て、江戸通りの交差点を渡り、吾妻橋際から公園に入ります。丁度、花祭りも終わったウイークディですが、かなりの人出で、花見遊覧船に乗る人の切符売り場は長だの列で、1時間待ちの行列です。

 台東区立墨田公園の入り口(写真拡大)

墨田公園を進むと隅田川の対岸には、アサヒビールのきんとん雲が見え、その先には墨田区役所と東京スカイツリーが並んで見えるスポットです。花見客は、先ずは桜には背を向けて桜観賞よりも、隅田川の対岸を見てスカイツリーの撮影に熱中です。

 対岸のアサヒビールきんとん雲と区役所、スカイツリーに桜(:アサヒビールのきんとん雲、:墨田区役所とスカイツリーが並ぶ、:満開の桜とスカイツリー)

今年は平均気温に達しない日が多く雨も多い中、当日は暖かく快晴で公園の桜は満開に開き、花びらも散ることなく、日本の春の良い季節が訪れました。

 桜満開の墨田公園(写真拡大)

花見は、桜の下に敷物を敷いて座り込み、花を見上げてゆったりと鑑賞するのが一般的な風景です。当日は、公園の花見祭りも前日に終了でしたが、満開の桜にはウイークディにもかかわらずに、沢山の人が集まり敷物に座り花見を楽しんでいました。なお、この公園での花見は、木々や枝の隙間からスカイツリーが眺められるという楽しみが加わりました。

 日本の花見風景(写真拡大)

浅草には水上バスの乗場がありますが、隅田川近辺には多くの遊覧船や屋形船の乗場があります。隅田川での船に乗る見物は花火見物が有名ですが、花見の遊覧も歴史があり大名や豪商などが舟遊びをしたのは江戸時代です。明治維新の後も風流な遊びとして親しまれました。最近も、桜の花見遊覧船も人気があり、特に隅田川ではスカイツリー見物も加わりました。墨田公園から花見遊覧船を眺めると、上り・下りの船が引きも切らずに続いています。

 遊覧船からの花見(写真拡大) 

満開の桜もゆったりと花見を堪能しましたので、帰りは雷門傍の老舗のお店でお土産を買って帰りました。

 浅草雷門の老舗の店(写真拡大)

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(4月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index 風景・風物詩 カテゴリー別総目次 2010~2012年版2008~2010年版2007・2008年版2006・2007年版
<前回 風景・風物詩 初詣風物詩 川崎大師平間寺2012
次回 風景・風物詩 個人邸の菊作り 茨城県笠間菊人形から近くの桜川市の邸宅庭での菊花観賞
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風景・風物詩 初詣風物詩 川崎大師平間寺2012

2012年02月17日 | 風景・風物詩

kan-haru blog 2012動画追加2月18日 大本山 更新動画を追加Ⅱ版2014.8.14  
    
< 総合INDEX へ

川崎大師初詣
川崎大師の平間寺が菩提樹と同じ真言宗智山派で、方向が恵方の川崎大師には親子何代にわたり毎年初詣をしており、このブログには2007年から2011年まで川崎大師の初詣を毎年掲載しています。今年は、事情により1月にはお参りが出来ませんでしたので、2月12日の日曜日にいつもと異なる参詣コースをとり、往路は京急川崎駅から車で大本堂裏手の西解脱門から入り、お参りした後は大山門から仲見世通りを進み、仲見世通り入口から車で京急川崎駅に戻り帰宅しました。当日は、暖かい日差しに恵まれたので、参詣客も結構出ていました。今回は、今まで記述していない情報を記します。

 川崎大師初参り参詣コース 

・西解脱門
川崎大師は、子供の頃から来ていますが、境内は何時も大本堂でお参りして、お札場でお札とお守りを受け、昨年のお札を納経所に収めてのコースであり、時たま境内の中を少し散策する時もありますが、大抵は本堂、お札場、納経所のコースです。ブログをはじめてから、境内内の写真を撮るようになりましたが、見慣れた景色のためじっくりと見ては回らないのが現状です。今回は、珍しく裏門の西解脱門から入りましたので、初めての写真があります。
車は一方通行の裏道を通り抜けて大師裏塀の至真門の前で降り、1978年(昭和53年)に再建立された鉄筋コンクリート造りの門で、信徒会館の南玄関に通じ、薬師殿(平成20年11月落慶)への入り口となっています。
至真門を塀沿いに北に進むと、信徒会館建物の北側にある大師裏門が西解脱門であり、1986年(昭和61年)に建てられた鉄筋コンクリート造りの中世和風様式の門です。建立1周年を記念し第44世・隆天貫首のご揮毫「西解脱門」の縦額が取り付けられました。

 至真門(左)と西解脱門(右)

・しょうづかの婆さん
西解脱門から入ると、大本堂と信徒会館を結ぶ2階の回廊がありますが、その回廊の脇に小さなお堂があり、「しょうづかの婆さん」のお堂で、参詣している人が絶えません。かなり以前に、西解脱門から参詣で出入りしたことがありますが、その時は「しょうづかの婆さん」のお堂があるのは気が付きませんでした。

 しょうづかの婆さんのお堂

・不動堂、稲荷堂、中書院
本堂へは、信徒会館の回廊の下の通路を通り、大本坊との境で参詣路を北に進み、不動堂、稲荷堂、中書院を左に見て大本堂へと進みます。
不動堂は、(明治23年)の創建で、建屋は1964年(昭和39年)に建立されたもので、御本尊・不動尊像は成田山新勝寺御本尊のご分躰・大聖不動明王が奉ってあり、「関東三十六不動霊場第七番札所」です。
稲荷堂は、1945年(昭和20年)4月15日の空襲で唯一焼失を逃れた福徳稲荷堂であり、倉稲魂神といい五穀を司る稲荷様が祀られています。
中書院は、1966年(昭和41年)に落成した2つの茶室を備え庭園には当山に古く伝わる「月の井」があり、客間の「光聚庵」は三笠宮妃殿下の命名で、「心月庵」は茶道裏千家家元千宗室宗匠の命名によるものです。

 川崎大師末社と書院(:不動堂、:稲荷堂、:中書院)

・本堂参拝
1964年(昭和39年)に落慶した大本堂の南口階段から上がり参拝しました。堂内には御本尊厄除弘法大師を中心に、不動明王・愛染明王などの諸仏が奉安されており、本堂内には護摩を受ける信者で何時も一杯です。川崎大師は、「関東八十八ヶ所霊場」と「玉川八十八ヶ所霊場」です。玉川八十八ヶ所霊場は、多摩川沿いの東京都大田区と世田谷区、神奈川県川崎市と横浜市を中心に構成されており、明治時代初期には数多くの巡礼者で賑わいました。大田区の大森町界隈にある密厳院()と密乗院()は、玉川八十八ヶ所霊場です。

 川崎大師大本山(:大本山、:護摩修行で一杯の本堂内、:川崎大師は関東・玉川88ヶ所霊場)

・経蔵、聖徳太子堂
お札場で、新しくお札とお守りを受け、去年の古いお札とお守りおよびだるまは納札殿に収めます。
大本堂前の参詣路の中程にある経蔵は、平成16年大開帳奉修記念事業として落慶され、中国最後の木版大蔵経「乾隆版大蔵経」7240巻が収蔵されています。御本尊は、説法釈迦如来が祀られており、天井には天井画が描かれています。

 経蔵(写真拡大)

経蔵の前のお水屋は、1958年(昭和33年)にご本尊御遷座を記念して奉納された水器です。
経蔵の奥の聖徳太子堂は、1966年(昭和41年)に聖徳太子講並びに諸職人により、奉納された聖徳太子像が奉られたお堂です。

 お水屋・聖徳太子堂・納札殿(写真拡大)

・だるま
今年は、境内の大山門近くの露天でだるまを並べてありましたので、そこでだるまを買いました。その南の境内広場には、沢山の露店が軒を連ねていました。

 境内の露天(:境内のだるま売り露店、:軒を連ねる境内露店)

・大山門
大山門は、開創850年の記念事業として1977年(昭和52年)に建立され、堂塔伽藍をかこう浄域結界の総門で、四方に京都・東寺の国宝尊像を模刻造立した四天王像が奉安されています。

 大山門(:大山門正面、:大本山からみた大山門、:大山門側面)

お参りも済み、古いお札も納めましたので、大山門を潜り仲見世通りで昼食をとり、お土産を見て歩きました。

 仲見世通りのお土産屋さん(:大山門前から見た仲見世通り、:大山門前の久寿餅屋さん、:おまんじゅう屋さん)

大師のお土産屋の店は、だるま店とトントコ飴屋さんの数は沢山あります。とんとこと飴を切る包丁の音をなびかせて、客を呼び込んでいます。お土産は、何時もと同じで、くずもちと咳止め飴を買い、仲見世の出口から車で京急川崎駅経由で帰宅しました。

 トントコ賑やかな飴やさん(写真拡大)

大師名物とんとこ飴切りを撮りました。飴切の音を聞いて下さい。

川崎大師とんとこ飴切の音.wmv

[クリックすると、大師名物のとんとこ飴切りの音を聴けます。]

動画をご覧頂けない方は、「川崎大師とんとこ飴切の音.wmv」(←をクリック)すると別画面で掲示されている動画でご覧いただけます。Ⅱ版2014.8.7

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(2月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index 風景・風物詩 カテゴリー別総目次 2010~2012年版2008~2010年版2007・2008年版2006・2007年版
<前回 風景・風物詩 千躰荒神祭 竃の神様として賑わう海雲寺を久方振りに参詣する
次回 風景・風物詩 さくらとツリーの新名所 満開の桜の間隙から隅田川対岸のツリーを展望する花見

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風景・風物詩 千躰荒神祭 竃の神様として賑わう海雲寺を久方振りに参詣する

2011年12月27日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 護摩堂 2011   
    
< 総合INDEX へ

千躰荒神祭
京浜急行青物横丁駅の東側の線路に沿った路地の塀内には、竈の神様として古くから信仰されている海雲寺(品川区南品川3-5-21)があります。海雲寺では、毎年3月と11月の27、28日に千躰荒神祭が開かれ、火と水を守る竃の神様としてご利益により、江戸時代から関東一円の多くの人々の信仰を得て、今でも荒神祭は参詣客で大変混雑します。前回荒神祭を参詣したのは、2007年11月28日でブログの「風景・風物詩 江戸時代から続く千躰荒神祭 竃の神様として賑わう海雲寺 その1その2」が掲載してあります。
11月に入るとこのブログを見に訪れる方が多く、荒神祭の人気ぶりを今さら伺い知りました。ブログの「風景・風物詩 江戸時代から続く千躰荒神祭 竃の神様として賑わう海雲寺 その1」の閲覧舎数は、下の表の通りです。

 11月ブログ閲覧数

また、検索によりブログを閲覧された方は、下の表の通りです。

 11月ブログ検索による閲覧数

そこで、人気の海雲寺の荒神祭を、4年ぶりの11月27日に参詣してきました。大森町を13時頃出て、青物横丁で下車して駅近くのお蕎麦屋さんで昼食を済ませてから、旧東海道(再掲地図参照)へと進むと、入り口から荒神祭の露天の出店が一杯です。参道を進んだのが、14時を過ぎた午後でしたので、人出の峠は越えたようです。

 荒神祭で露店出店が立ち並ぶ旧東海道参道(:旧東海道の入り口に入ると露店出店が一杯、:旧東海道は青物横町商店街通り、:旧東海道参道は露天出店が立ち並ぶ)

旧東海道を進むと、品川寺の先に海雲寺の参道があります。その参道を曲がり山門をくぐると正面に千躰荒神堂があり、右側には本堂があります。山門内にも沢山の露天の出店がでています。千躰荒神堂に進む庭の右側には、平蔵地蔵(前記ブログその2参照)が建立されています。

 海雲寺参道に入り山門をくぐると正面が千躰荒神堂(:海雲寺参道、:山門、:山門内も露天出店が並ぶ)

荒神祭には、千躰荒神王がご開帳となり、家内安全、火災消除を祈願して大護摩修行が行われます。信者は台所に祀っているお宮を風呂敷に包んで持参し、護摩の火で清めてもらい、新しいお札を頂いて帰りますが、その帰り道では決して寄り道をしてはいけないそうです。

 千体荒神様の参拝(:お札受所、:千躰荒神堂の前、:千躰荒神堂参拝所)

千躰荒神堂では、護摩の受付所で護摩木を受けて願い事を書いて、護摩を焚いて貰うと無病息災などのお願いが叶い、今年は震災の災害が被りましたが、新年は良い年が迎えられます様にお願いができます。

 千躰荒神王護摩祈願(:護摩受付、中:護摩祈願、:龍人王扁額)

荒神様にお願いして参詣が済むと、縁起ものを買ってかえります。昔から縁起ものには、荒神様にお供えする荒神松で、松が火に燃えにくいことから火災安全のお守りです。また、釜おこしは、竈の神様に因んでご飯を炊くお釜を模してあり、「しんしょうおこす、かまおこし」と縁起を担いだものです。そほか、露店には豆板、生姜糖、煎り銀杏、ゆで豆、唐辛子、金柑の砂糖漬けなどが一杯です。おみやげには信者ではないので店に立ち寄り、今回初めて釜おこしと門前のくずもち屋のくずもちに、神宮暦を買って帰りました。

 千体荒神様の縁起もの(:千体荒神松売店、:お釜おこし売店、:釜おこし)

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(12月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index 風景・風物詩 カテゴリー別総目次 2010~2011年版2008~2010年版2007・2008年版2006・2007年版
<前回 風景・風物詩 羽田神社例大祭 復興日本を被災地の皆様へ届けよとヨコタ担ぎで羽田13町内神輿連合渡御
次回 風景・風物詩 初詣風物詩 川崎大師平間寺2012
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風景・風物詩 羽田神社例大祭 復興日本を被災地の皆様へ届けよとヨコタ担ぎで羽田13町内神輿連合渡御

2011年08月03日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2011

< 総合INDEX へ

東日本大震災の災害を被り、これまでは各地では例大祭を自粛しておりましたが、被災地では8月に入ると青森ねぶた祭りを筆頭に東北祭りが繰り広げられています。これからは、「復興日本」をスローガンに被災地に届けようと、羽田神社夏季例大祭「羽田まつり」が開催されましたので、2年振りに見に(「風景・風物詩 羽田神社例大祭 13基の神輿を3千人がヨコタ担ぎで練り歩く町内神輿連合渡御」2009年参照)行きました。

 町内神輿連合渡御ポスター

羽田神社夏季例大祭
羽田神社夏の例大祭は7月最後の土・日曜日に行われ、日曜日には恒例の13町内神輿の連合渡御が、羽田空港弁天橋際広場を午後3時頃出発して、弁天橋を渡り弁天橋バス通りを産業通りまで巡行します。2011年の、13町内神輿の発輿の順序は、前河原、寿会、横町、旭町、稲荷前、仲七、仲羽田、大東、中村、上田、西町、上東、仲東の順に連合渡御が行われます。

 羽田神社神輿連合渡御ルート(再掲)

御輿渡御の31日の日曜日は、薄曇りの日で気温が30度以下で神輿見物には炎天下でなく恵まれました。家を出て、弁天橋バス通りと産業通りに着いたのは15時30分頃で、見学場所は首都高速神奈川1号横羽線下の六間堀公園で見ることにしました。六間堀公園の六間堀は、年(大正10年)に耕地整理のため設けられたもので、南前堀ともつながっていて、漁船の航路や船着場、台風時の避難場所として使われ、幅が六間(約10.8m)あったことから六間堀の名称がついた。1962年(昭和37年)に漁業権が放棄され、昭和40年代には下水道も完備されたことにより、役目を終え埋め立てられました。

 連合御輿渡御見物場所(:御輿渡御見物で一杯の弁天橋バス通り、:見物場所の高速道下六間堀、:六間堀跡)

高速道下の六間堀跡では、大田ケーブルテレビが連合渡御の生中継を15時30分から18時まで行いました。16時頃、連合渡御の行列が進んできました。渡御の先頭部には、神職の後に先導役の猿田彦、山車囃子に続き役員が進み、渡御神輿の先頭の前河原町会の神輿が六間堀跡高速道下でヨコテ担ぎの披露が繰り広げられました。

 羽田神社例祭風景(:先導の山車お囃子、:神輿ヨコテ担ぎ、:羽田まつりのテレビ中継)

神職を先頭に、猿田彦、山車囃子に続く前河原町会の御輿のヨコタ担ぎをビデオに撮影しました。

羽田神社夏の例大祭神輿連合渡御(前河原町会).wmv

[前河原町会神輿のヨコタ担ぎの動画は、画面のボタンを押すとみられます。]

羽田神社例祭神輿の「ヨコタ担ぎ」は独特な担ぎ方で、左右の担ぎ手の一方がしゃがみ、反対側の担ぎ手がはねあがって、神輿を左右に振らしながら担ぐもので勇壮な担ぎ方です。

 各町会神輿(:横町町会神輿、:稲荷前町会神輿、:旭町町会神輿)

羽田空港弁天橋際広場をスタートした神輿は、要所要所で留まり組頭の唄の合図に従い神輿をローリングさせます。神輿の担ぎ方が激しいので、担ぎ手だけで3千人を超し、3万人以上の見物客が訪れる大変賑やかな夏の羽田っこのお祭りです。
13町会の神輿のうち、渡御2番手の寿会町会神輿から、渡御5番手の稲荷前町会神輿までのヨコタ担ぎをビデオに撮影しました。

羽田神社夏の例大祭神輿連合渡御(寿会、横町、旭町、稲荷前町会).wmv

[寿会町会から稲荷前町会神輿のヨコタ担ぎの動画は、画面のボタンを押すとみられます。]

・羽田神社参詣
5町会の神輿のヨコテ担ぎを見てから、羽田神社参詣に向かい参詣してきました。混雑の羽田神社境内を見て、18時少し前に帰りの路につきました。

 羽田神社例祭参詣(左上中上:混雑する羽田神社境内、右上:羽田神社神輿、左下中下右下:祭礼露店風景)
 
・お知らせ
大田ケーブルテレビ(地上11チャネル)では、羽田神社例大祭町内神輿連合渡御のヨコタ担ぎのテレビ放送の再放送を、次の通り行います。
1.8月6日(土) 18時~19時
2.8月7日(日) 11時~12時 および 21時~22時

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(8月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index 風景・風物詩 カテゴリー別総目次 2010~2011年版2008~2010年版2007・2008年版2006・2007年版
<前回 風景・風物詩 小金井公園 江戸名所玉川上水の桜から日本さくら名所100選の小金井公園の桜 へ
次回 風景・風物詩 千躰荒神祭 竃の神様として賑わう海雲寺を久方振りに参詣する
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風景・風物詩 小金井公園 江戸名所玉川上水の桜から日本さくら名所100選の小金井公園の桜

2011年04月15日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2011 近隣の花見客で自転車置き場が満杯
            
総合INDEX へ

東日本大地震に見舞われた今年の東京の桜の満開は4月8日頃です。沈みがちの気分転換にと、以前出かけた日本さくら名所100選の小金井公園の見事な桜を思い出し、4月10日の日曜日に出かけてきました。

小金井公園
小金井公園には大森町からは、一般に中央線武蔵小金井駅から関東バスで小金井街道を北に進み玉川上水を渡り、右折して五日市街道を東に行くと約5分で「江戸東京たてもの園前」で下車します。当日は、満開のお花見日和のため、両街道は交通渋滞で車が進まないことを見越して、武蔵小金井駅からタクシーで街道を避けて、裏通りを渋滞無く玉川上水の南岸の陣屋橋に5分足らずで着きました。

 小金井公園地図

玉川上水は、かつて羽村取水堰で多摩川から取水して江戸市中へ飲料水を供給していた上水であり、上水沿いにはヤマザクラの木が多く植えられ、その「小金井の桜」は評判を得、江戸期から戦前にかけて多くの花見客で賑わい、大正13年に国の名勝に指定されましたが、五日市街道の拡幅で車の交通量が多く見る影が無くなり、現在では桜のメッカは小金井公園に移りました。
玉川上水の陣屋橋を渡り、五日市街道のコンビニで昼食のおにぎりとサンドイッチを買って、江戸東京たてもの園口から小金井公園に入りました。

 陣屋橋を渡り小金井公園に入る(:陣屋橋、:陣屋橋説明板、:陣屋橋を渡り桜並木を行くと小金井公園入口)

都立小金井公園(事務所所在地:小金井市関野町1-13-1)は、1954年(昭和29年)1月に開園し、面積が790,624平方メートルあり、敷地は小金井市と小平市・西東京市・武蔵野市にまたがっており、日比谷公園の4.8倍もあります。桜の名所として有名な園内には約50種類・1,700本の桜が植えられており、桜の園には桜が380本植栽されています。

 小金井公園航空写真

江戸東京たてもの園口に入ると、正面の広場の先には江戸東京たてもの園入り口のビジターセンター(旧光華殿)があり、それをバックにしたソメイヨシノの桜が満開で、花見の人でいっぱいです。

 旧光華殿をバックにした広場の満開のソメイヨシノ(写真拡大)

広場の左右の満開の桜の下には、シートを敷いて沢山の人が花見をしていましたので、手前のベンチに腰かけて花を見ながら購入しておいた昼食を食べ、見事な桜に感嘆し安らぎを頂きました。中央線沿線の花見客は車では渋滞なので、自転車に乗って見に来るので駐輪する場所がありません。

 広場の桜の下は花見客で満杯(写真拡大)

昼食もとり、たっぷりと満開の桜を見物したので、小金井公園の小金井街道側出口の方向にSL展示場を脇に見ながら進みました。SL展示場の保存車両はC57形蒸気機関車とスハフ32形客車が1975年(昭和50年)に設置されたもので、SLは相変わらず人気を占めています。

 SL展示場(写真拡大)

出口に近い「花の園」に植栽の、コヒガンサクラなどの各種の桜や花壇などを見ながら「小金井公園西口」を出て、帰路は西武バスでJR武蔵小金井駅へ向かいましたが、時間が早いせいか渋滞はそれほどでもありませんでした。

 「桜の園」の花(左上:桜の園説明板、中上右上:コヒガン桜、左下中下:桜の園の桜、右下:花壇)

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(4月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index 風景・風物詩 カテゴリー別総目次 2010~2011年版2008~2010年版2007・2008年版2006・2007年版
<前回 風景・風物詩 江戸名所図会の古社 水天宮が相殿で平安時代に創建の古社元神明宮 へ
次回 風景・風物詩 羽田神社例大祭 復興日本を被災地の皆様へ届けよとヨコタ担ぎで羽田13町内神輿連合渡御
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする