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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ(K35) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第6回)

2006年08月15日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
疎開先で終戦を迎える
61年前の8月15日は、朝から快晴でじりじりと照りつける暑いなか重大放送があるとのことで、学童縁故疎開先での当時六年生であった栃木県芳賀郡物部村国民学校(現二宮町立物部小学校)からの召集があり、正午前に校庭に全校生徒が整立して玉音放送を聞きました。
当時のラジオの性能は、現在の拡声装置のように全校生徒全員にはっきりと音声が届き、話の内容が伝わると云うものではなく、家庭用のラジオより若干音が大きいかなと思われる程度のもので、ラジオ体操の伴奏を聴くのがやっとの物でした。

玉音放送
玉音放送は、天皇陛下のお言葉であることは承知しておりましたが、列の後列の方に並んでおりましたので、何をしゃべっているのか全く聞き取れないうちに終了解散となり、はだしで疎開先の3家族が居候の遠い親戚の家に戻りました。
それまでは戦局がおかしいとは感じておりましたが、負けるとは思ってもおりませんでしたので、家に戻るまでは終戦を知りませんでした。家に戻ると、回りの大人たちは殆んどお喋りをしておりませんでしたが、玉音放送が終戦を告げるものであったことが分かりました。玉音放送を聴いた物部村国民学校は、二度目の疎開先の通学した学校です。
(国立国会図書館ウエブサイト)
終戦の詔書(玉音放送)

縁故疎開
最初の疎開先は、隣県の母の実家のある茨城県西茨城郡青柳に接した、水戸線(小山-友部間)岩瀬町の駅前通りから旧道を右折した傍の家作を、縁故をたよりに一間を借りて、母と2人の間借り疎開生活が始まりました。
学童疎開は、当初個人的な縁故疎開を原則としましたが、本土が米軍の長距離大型爆撃機B29の航続距離圏に入るに及んで、急きょ1944年6月30日付閣議決定「学童疎開促進要綱」にもとづき、縁故疎開に依り難い国民学校初等科(現在の小学校)3年生から6年生の学童の集団疎開が実施されました。

1945年3月に入り、激化する一方の本土空襲に対処して、「学童疎開強化要綱」を閣議決定し、国民学校初等科3年生以上の全員疎開と1・2年生の縁故疎開・集団疎開を強力に推進する「根こそぎ疎開」が実施されました。
また、学童疎開の徹底と併せて本土決戦に備え、千葉、茨城、静岡、和歌山県等太平洋沿岸部の集団疎開学童は、より遠隔の地である青森、岩手、秋田、富山、島根、滋賀県等への再疎開が実施されました。
これにより、P51艦載機による機銃掃射などをさけるため、茨城県の町内から栃木県の農業地帯へと再疎開(地図参照)して、玉音放送を聞いたのが物部村国民学校なのです。

疎開先の岩瀬では、町外れの岩瀬第二国民学校までのおよそ2Kmの通学路を、ちびた運動靴で通学しましたが、物部村国民学校での通学は、一変して約700mを素裸足で通いました。岩瀬と物部とは、わずか10数Kmしか離れておりませんが、幹線道路もなく田園地帯の田圃であるため、上空にはP51の姿はありませんでしたが、生活環境がかなり異なりました。出征兵士で戦場に取られた留守宅に出かけ、田の草採りや農家のお手伝いなど、地元の子は当たり前に精を出して働きましたが、東京育ちの未経験者には立ち往生でした。
疎開生活は、縁故疎開では疎開先との複雑な人間関係、食糧不足、言葉や習慣の違い、いじめ等に悩み、集団疎開では少国民錬成の場としての厳しい規律・上下関係、空腹、食べ物を巡る葛藤、いじめ、蚤・虱等に悩まされ、幼い学童の心に消し難い傷痕を残しました。
61年前を振り返りますと平和を維持し、家族が離れ離れの生活で、幼い体で慣れない風習に暮らす疎開生活は、二度としたくないと強い思いを抱いております。


若山武義氏の手記(1946年記述) 第3編「終戦前後(目黒にて)」第6回
ポツダム宣言 
其の発表された全文のうちで我等が一番直接関心を持つ(前後するが)
 我等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ、又ハ国民ヲシテ滅亡セシメントスル意図ヲ有スルモノニアラザルモ、我等の採勢ヲ虐待スル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニタイシテハ厳重ナル処罰ヲ加エラルベシ
これで、負けたら我等の死か奴隷かとの考は先ず解消し安心であるが、戦争責任者に対しては当然以上当然である。
 日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障害ヲ除去スヘシ、言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立サルベシ

これで今次の戦争は、民主主義と全体主義の戦であるとの点が我々にも初めてうなづける。のみならず、今日迄、御無理御尤も、無理が通れば道理がひっこむ、長いものにはまかれろ、泣く子と地頭には勝たれぬ、見ざる、聞かざる、云わざるの、今日迄の我々の生活そのもが、真実の奴隷生活ではなかったかと初めて気がついた。戦争に負けると奴隷にされると耳にたこの出来る程きかされた処が我々庶民は無自覚にも、知らず知らずに、軍、官、財閥の奴隷生活を今日迄強制されて来たのではなかったか、如何に戦争中とは云え。
 日本軍隊ハ完全ニ武装解除セラレタ後、各自ノ家庭ニ復帰シ、平和的且ツ生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ

これが、我等の敵は日本国民ではない、好戦的日本軍閥であると区別した所以である。
 日本国ハ、ソノ経済ヲ支持シ且ツ公平ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムガ如キ産業ハ維持スル事ヲ許サルベシ、但シ日本国ヲシテ戦争ノ為メ再軍備ヲ為ス事ヲ得セシムルガ如キ産業ハ此ノ限リニ非ズ
 右目的ノ為ノ原料ノ入手ヲ許可サルベシ、日本国ハ将来世界貿易ヘノ参加を許サルベシ。
敗戦の上は賠償は当然の責務である。今は朝鮮、満州、台湾、樺太を衰失し、国土は徳川時代に狭められ、資源の貧困、八千万の人を養うに足りぬ。

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