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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ(8) 鎮魂!大森町大空襲(第1回)

2006年04月13日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
大森大空襲
大森町大空襲も61年が経過し、日本人の10人のうち8人が戦争を知らない世代となり、大森空襲などの戦争の資料も殆ど残っておらず、戦争の悲惨な被害を語り継ぐ人も大変少なくなり、時代とともに風化してきた今、私たち年代のものが記憶のうすれないうちに次の世代に伝えておく必要性から、今回より「大森町界隈あれこれ 鎮魂!大森町大空襲」編を連載してまいります。

大戦での東京大空襲については、2006年3月11、12日付の日記「東京大空襲~あれから61年~」(その1)および(その2)で掲載しました通り、1942年4月18日の東京初空襲以来、延べ99回に及ぶ焼夷弾を中心とした爆撃により市街地は焼け野原となりました。
1945年3月10日の大空襲では、本所、深川、浅草を中心とした住宅蜜集地の27万個の家屋が焼失し、亡くなった人は10万人を超えて最大の被害を被りました。
丁度、61年前の4月15日は、大森大空襲により大森町近辺が、5月29日には大森駅付近が多量の爆弾と焼夷弾爆撃により殆どが焼き尽くされ、灰燼に帰しました。

戦争と疎開
日本の配色が濃くなってきた、空襲に備えて1943年12月の閣議「都市疎開実施要綱」できめられ、1944年に延焼を防ぐために空き地をつくるための強制的に建物を壊す強制疎開が始まり、次いで1944年3月に閣議決定の「一般疎開実施要綱」で人員疎開の方針が示され、老齢者や児童・学童の縁故疎開が打ち出されました。
同年6月には、本土空襲が切迫してきたので、「帝都学童集団疎開実施要綱」が出され、国民学校初等科(現在の小学校)三年から六年までの、約20万人の学童を地方に疎開させると云う計画でした。
大森区と蒲田区(大田区)では、同年7~8月中に45校の約2万人の小学3~6年生が、静岡県や富山県への集団疎開を実施しました。

私は、5年生であり縁故疎開を選び、最初は母と共に母方の実家の隣町である茨城県岩瀬町の借間に移住し、途中から栃木県芳賀郡の遠い親類の農家に居候疎開生活をしました。
戦争末期の疎開生活には、あまり楽しくないいろいろの話題が沢山ありますが、本題とは外れますので割愛します。
疎開直前の住まいは、ブログ開始の最初のページに記載してある地図(再掲)の国道15号三叉路の大森警察署の向かい側にあり、一階が父の勤務事務所(疎開前の私、事務所前にて)でその二階が住まいでした。この近辺一帯の建物は、縁故疎開に行ってから暫らく経て強制疎開により壊されました。

したがって、疎開先での戦時体験はあるのですが、大森町大空襲の体験はありません。
しかし、幸いにして、「大森町界隈あれこれ 鎮魂!大森町大空襲」編を連載するに当り、父と同じ勤務先に勤めておられた、若山 武義さんが1955年に書かれた100ページにわたる手記が残されておりました。それには、大森町大空襲から戦後の混乱期の記録が克明に記述された貴重な資料で、ご遺族の石川様のご好意によるご提供により、「鎮魂!大森町大空襲」を連載させて頂くことになりました。

前回 「東京大空襲~あれから61年~」(その2)
次回 大森町界隈あれこれ(9) 鎮魂!大森町大空襲(第2回) 

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1 コメント

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東京初空襲 (Shuji Kamano)
2006-04-18 07:39:35
今日は東京初空襲の日です.
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