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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第8回

2007年04月17日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

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終戦直後の平和島捕虜収容所
前回に記述した平和島の前身となる小島にあった、連合国側の捕虜を収容する東京捕虜収容所の資料が、Web上で見つかりましたので紹介します。
資料には、「鳥飼行博研究室 東海大学教養学部人間環境学科社会環境課程」ホームページの中の「連合軍捕虜と日本軍捕虜の運命:POW」内に、貴重な「戦後の大森収容所(1945年8月29-30日ごろ撮影)」と:「戦後,大森収容所で米軍に解放された英米軍捕虜(1945年8月29-30日撮影);東京俘虜収容所本所」の写真と関連の記事が掲載されております。

今、思うと1945年4月15日の大森町大空襲の爆撃により大森町の大半は戦災して灰燼に帰しましたが、東京湾沿いの特殊鋼と大森ガス会社が焼けずに無疵であったのは、東京捕虜収容所がその北方の延長上(再掲地図参照)にあることで、友軍が収容されている場所の爆撃を避けたためではと考えられます。
3月10日の台東・江東区の徹底的な民家の爆撃は、東京の下町中に軍需工場が潜んでいるための攻撃であると云われております。このことから、軍需工場の特殊鋼とインフラのガス会社の格好の爆撃目標を外すことは考えられず、捕虜収容所への被害を及ぼすのを避けるため、両工場への爆撃を行わなかったのです。

・戦後再興時の平和島
東京都は、戦後の新しい港湾施設建設を目指し1950年に「港湾法」を制定し港湾計画を策定しました。これにより、勝島の整備や平和島の埋め立て工事が再開されました。
1960年頃の航空写真によると、勝島の競馬場施設と平和島の競艇場施設の姿が見られます。まだこの頃の平和島の面積は、1967年竣工で完成した時点(竣工面積:1,176,588㎡)の5分の1程度であり、大森町の海岸線は、やや大きくなった平和島の埋め立て部分を除き、4月1日にオープンの「大森ふるさとの浜辺公園」(「大森町界隈あれこれ 大森町風景 オープンの大森ふるさとの浜辺公園」参照)が東京湾沿岸でありました。

まだ1960年のころには、東京湾の大森海苔養殖は生産が行われておりましたが、平和島の埋め立てが進んだ1962年には、海苔漁場は埋め立てられ海苔生産は終わり(「大森町界隈あれこれ 大森海苔物語 のり祭り」参照)ました。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) マッカーサーの進駐 第8回

アメリカの指摘
右の文の内「彼等は国家の運命をかけて大賭博をやり」から「全国民に自殺を強要して己が罪をおおわんとして居る」の一句であるが、ポツダム宣言受諾の御前会議に、軍部は本土決戦を最後迄、御聖断の下るまで譲らず、あく迄強硬に主張したその真意なのである。
我が国民は、今日迄、最後の決戦は必勝の信念で、何もかにも我慢もし辛抱もして来たのである。此の敵の新兵器、恐るべき原子爆弾を封殺し更に一層強力な、一瞬に敵兵何百万でも撃滅し得る丈の新科学兵器が我が手にあっての上の主張なのかである。
仮に百万の米兵上陸しても、我れに迎え撃つ精鋭三百万、武器こそ劣れ共、本土防衛の力戦は元冠以上たるは勿論、一対一なら真実絶対不敗であろう。然しアメリカは犠牲の多い上陸作戦には応ぜず、徹頭徹尾爆撃と原子爆弾投下の科学戦に出たら、之に対応するだけの準備があっての上最後迄本土決戦を主張するのであったのか。

あればよし、なくての主張なら、アメリカの紙片の指摘する通り、大賭博であり、己が罪をおおわんとする為め全国民に全自殺を強要したものと断定せぬばならぬのである。茲に

 御聖断にある終戦の大詔は我等国民にとっては真の神風であった。
 とにかく、日米親善はぺルリ提督浦賀来航以来の我が国是であったのである。
此の日米親善に最善渾身の努力を尽されし故萌藤アメリカ大使の逝去を哀悼し、其の遺霊を巡洋艦にて我が国遠葬されたのはアメリカの国なのである。

日本は四等国か五等国
この戦争中、我が海軍の特殊潜航艇は遥かに遠くシドニーを襲撃した。襲撃の目的を達し戦死を遂げた四勇士に対し、豪州海軍はその勇敢なる名誉の戦死に海軍葬を以って懇篤なる弔意を表し、其の遺骨を我が引き揚げの官民に託したのも記憶に新たな処である。
かくの如き、武士道の神髄とする崇高博愛の歴史は我々祖先にも数々あった事は、故新渡戸博士の「英文武士道」に説きつくされてある。
然るに、今次の戦争に於いて我が同胞は、中国初め到る処に人道に反する悪逆無道何の罪なき無辜の民を殺椋行為如何に多かりしぞ、謝するに辞なく詫びるに言葉なしである。
戦争の敗因、科学の貧困、それもあろう。資源の不足、これも当然であろう。消耗の対する生産の不足、これも重大であった。然し兵力に於いては決して不足ではなかったと云う。
戦う精神に於いては遜色なく、寧ろ優位であったと云うではないか。
我が同胞は
 人としての道義を忘れた。祖先の武士道の精神をすっかり忘れた。
これが唯一の敗因であるとの賀川先生の言に、我々は今更この点を深思させられる。
マッカーサー元帥が我が国を四等国か五等国と指摘したのは、道義の低下を云うたものであろうかと思うのである。

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2 コメント

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堂々たる国家回復はまだか (さきもりの代弁者)
2013-08-08 00:06:08
 降伏の意思を表明できないでいるとそれもまた自国民の生命損傷が起きていた時代、古人は様々な判断を強いられたのは思いに深くとどめなければならないが、これが戦争の永久放棄には直接繋がらないのも次世代に伝えてゆくべきだ。
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堂々たる国家回復はまだか (さきもりの代弁者) (kan-haru)
2013-08-08 16:08:08
さきもりの代弁者さん はじめまして

先の大戦で小学生時代に戦争の悲惨さを味わい、戦後の食糧難を生き延びた身には、
戦争の永久放棄を望みます。

しかし、尖閣諸島には中国船が領海内に侵入を続け、竹島には韓国が占有しています。

武力を用いずに問題を解決するには、国民の知恵が必要です。
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