K&A

kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第1回

2007年02月12日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

< 総合INDEX へ

悲惨な太平洋戦争
今から62年前の3月10日の未明には、太平洋戦争による東京大空襲により、B29爆撃機約300機による低空絨緞爆撃による焼夷弾1,700トン、爆弾6個による2時間半にわたる爆撃で、本所、深川、浅草を中心とした住宅蜜集地の27万個の家屋が焼失し、亡くなった人は10万人を超えた世界史に残る大空襲を受けました。

太平洋戦争での東京の初空襲は、1942年4月18日にB25爆撃機による奇襲攻撃により、39名の犠牲者がでました。それ以来、本格的な1944年11月24日から1945年8月15日(終戦日)に至るまでの、延べ100回に及ぶ焼夷弾を中心とした市街地爆撃により、4月城南、城北、5月山の手、8月八王子と大規模爆撃が進められ市街地は焼け野原となりました。
空襲により、1941年(開戦時)に687万人の東京区部の人口が、終戦時には253万人に激減したとの記録があります(「東京大空襲~あれから61年~(その1)」参照)。

若山武義氏の大空襲体験手記
今日、日本人の10人のうち8人が戦争を知らない世代となり、大森空襲などの戦争の資料も殆ど残っておらず、戦争の悲惨な被害を語り継ぐ人も大変少なくなり、時代とともに風化してきました。私たち年代のものが記憶のうすれないうちに次の世代に伝えておく必要性を感じていた折、私の父と同じ勤務先に勤めておりました、若山 武義さんが1955年に書かれた手記で、大森町大空襲から戦後の混乱期の記録が克明に記述された貴重な資料が、ご遺族の石川様宅に保管されておりました。
この手記を、ご遺族のご好意により本ブログに掲載することとなり、
  1 大森町界隈あれこれ 鎮魂! 大森町大空襲(第1編) 11回連載
  2 大森町界隈あれこれ 手記第2編 戦災日誌中野編 7回連載
  3 大森町界隈あれこれ 手記第3編 戦前戦後目黒にて 9回連載
の戦時編の3編27回に亘り、解説付きで掲載を既に完結(2006年8月31日)しております。

若山武義氏の戦時編の手記で記載の1945年8月15日には、人間殺戮とも言える物量爆撃の低空大空襲、ソ連の参戦、広島・長崎への原子爆弾による洗礼などに抗しきれず、日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏を迎えました。
軍部、官部の無知・無謀な大戦により大日本帝国が壊滅し、敗戦を迎えた日本国民は、食うことに精一杯の大変に悲惨な生活を味わらされることになりました。

若山武義氏手記続編「戦後史編」
若山武義氏の手記は、述べ100頁にも及び、8月15日の終戦から後も1946年11月23日まで手記が続けられた、戦後一年余りの一市民が見聞した貴重な敗戦体験記を、掲載させて頂きます。

昭和20年代の史記は、殆ど無しに等しいもので大変に貴重な記録資料であり、史実を知ることも重要なことです。
これから連載をしていく若山武義氏の戦後史手記と、掲載完結の戦後編手記を目にとめられた方は、ご関心をお持ちの方にご紹介して戴ければ、無知で開戦した悲惨な戦争記録を知り、平和の尊さを少しでもご理解願えれば、手記を書かれた若山武義氏とご遺族の方のご意思が活きて参ります。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) マッカーサーの進駐 第1回

進駐軍に学ぶ
マッカーサー元帥は連合国最高司令官と厚木に飛来し、我が本土に一歩を印し
 「メルボルン-東京、其の道は誠に遠かった。」
と。百敗に屈せず、最後の土俵際に踏み止まってから、戦勢攻守地位を変え、連戦連捷、遂に我が国を屈伏、無条件降伏せしめたのである。
我が軍は中国軍と八年の久しきに亘り戦ったけれど、遂に勝つことは出来なかった。マッカーサー元帥の率いるアメリカ軍と二年九ヶ月戦って完敗したのである。

我が山下将軍は、シンガポールを攻略して、入城式はロンドンでやると称して、直ちに戦没勇士の慰霊祭を行うた。これに呼応して、海軍報道部長は「観艦式はニューヨーク沖で」と放送して、我等を迂頂天に嬉しがらせたものだ。
其の当時の我が戦捷の勢いでは、何人も必ず実現するものと信じたのに、無理もなし、今は夢の話である。今や戦に敗れて何が残る。焼け放題焼けて惨憺たる此の帝都の有様を見ただけでも情けない。無謀な戦争をやったものだと悲憤せざるを得ぬもの私一人ではあるまい。

進駐軍アメリカの兵隊さんは総じて明朗闊達、極めて無邪気で、親しみこそ出来るが、負けて悔しいと思う処がさらさらないから不思議だ。何が故に、此の人達相手に、米鬼だの鬼畜だのと罵り、尊い血を流して殺し合わねばならぬ戦争をやった理由がどこにあったのかと、今改めて思わざるを得ない。
其の日常の生活も、物のゆたかな処で育った故か、我々の如きコセコセした処がない。総じて教養の程度も相当距離があるし、形式ばった処がない。仕事は仕事、休息は休息とはっきりする。すべて、社会的亦団体的訓練に洗練された能率であり、徹底した仕事振りである。

彼我の差は効率的機動力
一番驚かされた事は、横浜から厚木までの送油管工事を二日間で仕上げた工事振りである。その周到なる計画と所要物資の豊富、あらゆる機械、器具を自由自在に駆使し、其の無駄のない、最高能力発揮の実行力に驚いたのである。
この工事は、精強を誇った我が工兵さんにしても及び付くまい。況や我がお役所仕事なら、測量だけでも半年、それから書類を作成して、予算がどうの、何がどうので、判コならべるだけでも半ヶ年かかる、三年かかってもどうかと思うと或る人の批評は、我々も尤もと思う。
横浜市が、戦災焼跡整地に、三千人を動員して三日掛りでやっと仕上げた。処が同じ面積の土地を、アメリカの兵隊さんは、只一人で操縦する巨大な機械三台で鼻歌謡い、業卷を衛えながら、押し廻しへし廻し、どんな障害物、焼金庫であらうと何であらうと、メリメリと地下に押し込んで一日仕事、翌日は早速建築だ。一台一人で三千人力である。

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(1月分掲載Indexへ)
カテゴリー別Index 大森町界隈あれこれ 戦後史編手記 第1編総目次
次回 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第2回 へ>
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« kan-haru日記 大森町界隈あれ... | トップ | 小さな旅(9) 梅祭り 府中市郷... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

大森町界隈あれこれ 戦後史」カテゴリの最新記事