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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第3編 我等の生活談義 第4回

2007年11月07日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

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戦前・戦後の飢餓地獄
1941年(昭和16年)に戦争に突入してから、政府が定めた一日一人主食米二合三勺の配給は、生存に必要な最低限度の食糧でしたが、東京大空襲のあった昭和20年3月以降の配給は遅配・欠配が続きました。
東京では敗戦の直前の6月には、3ヶ月間も配給がとまり、まさに飢餓地獄に陥りました。

しかも、主食食糧の配給品は、米・麦はほとんど無く、代用食と称し高粱(こうりゃん)、とうもろこし、脱脂大豆(豆粕)や煮ても柔らかくならないさつま芋などです。
それも同年7月には、生存最低限な食量配給がさらに削られて、二合一勺となりました。

配給は、主食だけでなく、生活必需品のすべてが配給制で、調味料の塩、醤油、菜種油も配給品でこれらも欠配続きです。特に、砂糖の配給は昭和19年から停止されておりました。
たばこや酒も配給で、二級合成酒が一家庭二合と決められていましたが、遅配・欠配でありました。

8月の終戦を迎えても、配給は改善されるどころかますます劣悪となり、主食配給に食べられない芋がらなどが配られた時もありました。
ともかく、大変な食糧難の時代で、飢餓は昭和22年頃まで続きました。
連合軍は、最初には放置しておりましたが、後になり大変だと援助することになり、国外から食糧が入ってきましたが、初めの頃は主食配給品には、キューバ糖やオレンジ缶ジュースなどが見られました。

これも、だんだんとコンビーフ、コーン、ハム、ソーセージ缶や混じりけのない食パンなどが配給になり、食糧飢餓からやっと改善れてきたのです。
副食の魚の配給も、戦時中には漁獲しなかったので豊漁で、東京ではすけそう鱈がしばらくの間タンパク源となりました。

当時、少量のお米の配給もありましたが、まったくの玄米であり、そのままでは食べ難いので、各家庭では配給のお米を一升瓶にいれ、篠竹棒で突っいて多少でも白米にして食べたのです。
終戦直後は、焼け野原で土地が空いており、自給の食糧生産に励み焼け灰により収穫もよく、食糧不足の足しにしたり、ヤミの買い出しなどの努力により、何とか切り抜けたのです。

しかし、物資不足は、食糧以外の全製品にわたり、昭和24年に焼け跡の土地を借りてバラックを建てたのですが、建築材が配給で窓のガラスもしばらく入らず、板貼りの状態で大変な時代でした。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) 我等の生活談義 第4回

インフレ生活
前大戦のドイツ、現在のハンガリー、莨一本買うのに我々は千円紙幣を出す様になった時は、石橋さんの云う本当のインフレかも知れぬが、そうなったら日本の破滅だ。
現在丸公さえ、昭和12年からの騰貴指数は十一倍七分五厘、ヤミの十八年十二月から現在迄の騰貴平均指数(砂糖の如き我々に不必要なものを除き)二十四倍五分である。祖国再建に生きて働くには、配給以外に三分ノ一以上殆ど半数のヤミ物資を必要とするのである。それが大部分主食と生鮮食料品の補給にかぎられるのである。勿論おでんやでヤミ酒一杯のむ余裕のないギリギリの苦しみなのである。

今日の五百円生活、此の基準は、十年前から十倍の諸物価値上りを見ての算出である。相当生活物資の出廻る事を予想しての事であると云う説明である。前記の通り丸公さえ十一倍七分五厘である。配給だけの生活なら稍々十分であろうけれ共、ヤミ物資と云うものの勘定を入れぬお上の算盤なのである。

十年前の社会生活世相
なる程、十年前は、たしかに東京市民三人位の生活で所得五十円なら、細々ながら貯蓄も出来、ゆかたの一枚位は毎年変えたのは事実である。但し、但しですよ、当時の社会生活の世相は次の如くであった。

もり、かけ、とうふ、湯銭が仲よく五銭、安食堂で定食三品付十銭から十五銭、酒屋、魚屋、八百屋の御用聞きがうるさい程来る。銀ブラがえりに明治製菓あたりでミルクの香りのよい御自慢のコーヒー一杯十銭、而も角砂糖がきれいな容器に山程出して置いて入れほうだい、お好みのままの御接待である。今日は帝劇、明日は三越、各デパートは商品珍品山と積み、食堂は亦競争で珍味佳肴を華麗にならべて食欲をそそり、休憩室に入れば、可愛いガールさんのすすめるお茶はのみほうだい、マーク入りのマッチは使いほうだい、おかえりには二ツ三ツたもとに無断頂戴してかえるから買う必要がない。

デパートの屋上から東京を見渡してみる。先ず御婦人方の虎やの羊かん、夜の梅、栄太郎の甘納豆、風月のカステーラ、塩瀬の梅干、岡野のもなかとならべて立てれば数限りない。兎に角、御自慢の味を看板にして売ってくれた。我々にした所で、飲むと食うのには事かかぬ。南は橋善、天金、浅草では松喜、ちんや、牛山盛りの米久、財布の軽い時は吉原土手まで足をのばしてけとばしや、たまさか思い出しては金万のふぐのひれ酒、到る処、粋な小料理、江戸前御料理、乙な姉さんの御酌でも鎌足公一枚で沢山。いよいよ苦しい時は風呂帰りに屋台のおでんやでコップ二、三杯ひっかけて、お好みおでん三ツ四ツ、おまけに茶めし二、三杯かっこんでも、ギザ二枚で事足りた。

新婚の夫婦、めしたくのは七面倒なりと仰せ遊ばして、何もかも仕出しや、煮しめやで事足り、箸一本持って居なくとも不自由のなかった時節である。

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