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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第1回その1)

2007年03月31日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2007

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大森町駅付近の高架化工事
京浜急行電鉄の大森町駅付近の高架化工事も、工事に絡む周辺の建物もかなり立ち退きが進み(「大森町界隈あれこれ 大森町商店街 京急高架化でラーメン屋さん閉店第一号のその後 (1)(2)」参照)、工事もやっとピッチを上げ始めたようです。

          閉鎖された駅売店                  閉鎖前の駅売店

3月28日は、大森町駅利用者にとり馴染みの深い駅売店が、高架化工事のため閉鎖されました。また、大森町駅西側の元ゑびす市場と軒を連ねていた、100円ショップと三吉野商店が30日には壊されました。
さらに、大森町駅東側のホーム北端部に隣接していた3棟の住宅も、階数を増やして建て直しを行い、2棟は既に完成し、残る1棟は建物の外観の姿を現したところです。

  (写真左・中)壊された100円ショップと三吉野商店
  (写真右)前方はホームに隣接のため建て直しの住宅 

建物オーナーのマンション工事
元ラーメン屋さんの建物オーナーの私宅が立ち退きのため、取り壊したアパートの後に9階建てのマンションを新築して上階に住むそうで、その工事も進んでおります。
マンションの設計図によると、1階がエントランスホールなどの共通フロワーで、2~7階が各階6戸のワンルームマンション、8・9階がオーナーの居宅の建築面積が約202㎡の建物で、商店街通りに僅か3mの間口で接しているのと、土地の分類が商業地域であるので総建坪1405㎡のマンションが建つのです。

  (写真左)建物オーナーのマンション工事 (07/02/12)
  (写真中)基礎コンクリート杭
  (写真右)基礎杭埋め込み (07/02/20)

このマンションの工事環境は、土地の東側に幅員1.8mの区道が南北に通つているのと、その区道の中間に丁字型に幅員1.8mの都道が直交している奥まった場所で、9階建てのマンションを建設するには周囲への影響はかなり及ぼす環境です。特に、建築機材や材料を搬入する商店街通りは、朝晩の通勤時間帯は歩道は人で埋まり、夕刻の買い物客の混雑時には車の交通止めの規制をしている所です。

  (写真左・中)基礎堀削工事 (07/03/04)
  (写真右)基礎コンクリート流し (07/03/10)                

この環境でマンションの工事が、およそ1年の期間をかけて始まっております。工事の模様を、今後このブログで追って行きたいと思います。

  (写真左)基礎コンクリート流し
  (写真中)基礎鉄筋工事
  (写真右)タワークレーン設置 (07/03/20)

大森町駅の姿はどうなる
大森町駅のホームに係わる工事は、掲示板を見ると6月から着手の予定と出ております。では、完成後の大森町駅はどんな姿になるのかは、3月1~31日までの期間に「新しく生まれ変わる大森町駅の色彩等に関するアンケート調査」を募集して、色彩計画の参考とするようです。果たして、高架化工事が完成した時の大森町駅の姿と、大森町駅商店街の模様はどの様に変貌するのかが、全く見えない状況です。
戦前、戦中、終戦後の混乱期を経て、バブル時代から21世紀を迎え大森町で66年を過ごした回り灯籠は、また大きく変貌を迎える節目となります。

高架化工事と第一京浜国道の拡幅や付帯側道が完成すると、28箇所の踏み切りが解消し交通渋滞が解消するとありますが、環八と一国道の踏み切りが無くなり、二つの国道の立体交差により渋滞は解消されます。
大森町駅前から第一京浜国道までの大森町商店街通りが拡幅され、広場や側道が整備されると、新たな大森町商店街がどのように変革するのでしょうか。魅力ある街つくりへの改革へとつながることを期待したいものです。

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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第6回

2007年03月29日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

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終戦直後のカルシウム源
この4月1日には、大森町の中央部を西から東に流れる内川河口付近に「大森ふるさとの浜辺公園」(「大森町界隈あれこれ(N30) 大森町風景 大森ふるさとの浜辺公園の砂浜開放」参照)がオープンします。
内川河口は、このブログの第2、3回で記述してある通り、戦後疎開から戻ってきた時の大森ガス会社横の事務所跡の仮住居(再掲地図⑩参照)でありました。戦災後の再掲地図で見るように大森町の大空襲時(「大森町界隈あれこれ(15) 鎮魂!大森町大空襲(第8回) 」参照)には、ガス会社と内川対岸の日本特殊鋼と並んだ大工場が辛うじて戦災から免れたため、それに挟まれたガス会社沿いの路地周辺に面した10数軒の建物が焼け残りましたので、取りあえずの戦後の仮住居が確保されたのです。

昔の大森町は海岸淵
大森ふるさとの浜辺公園の場所は、62年前の小学6年の後半から中学3年まで(「大森町学びや もりこう会の集い(その1~4)」参照)の間過ごした仮住居と隣接した所縁のある場所で、そこに何と大森ふるさとの浜辺公園が出来るとは誠に隔世の感があります。
当時は、内川河口が東京湾の沿岸であったのですが、東京オリンピックが開催された頃には、埋め立てにより海岸線は遥か数キロ先となっております。
大田区、品川区の第一京浜国道(国道15号線)沿いにはところどころ旧東海道が残っておりま、昔はその旧東海道(品川区)は海岸線に沿って通っておりました。また、京浜電車(現在の京浜急行電鉄)の大森海岸駅付近の海岸には、大森大海水浴場(「大森町界隈あれこれ(3) 大森町に住んで65年!(その3)」参照)があったのです。

昔の大森は江戸前の宝庫


開園予定の大森ふるさとの浜辺公園は、かっての大森海岸を再現した入江や干潟の浜辺で磯遊びを楽しむ憩いの場所となります。戦前は、大森近辺の東京湾は魚介類の宝庫で、江戸前と云えばこの辺で採れたあなご、はぜ、蝦蛄や蛎はすし種の一級品でした。また、江戸時代以前からの浅草海苔の一大養殖場で、現在も大森町に続く加工技術により作られている乾海苔の味は、他では追従が出来ません。

戦争末期には漁業が行えなかったため、終戦の時には東京湾の魚介類は殖えておりました。大森ふるさとの浜辺公園になる前の海浜では、ハゼの宝庫で小学6年の秋には、小一時間足らずで100~150匹も釣れる大漁でした。潮の良いときをみてはぜつりに精を出し、ハラワタを出し天日干しをして、正月までのカルシウム源として貴重な食材でした。

当時は、非常な食料難で食料は配給制で、本来主食は穀物なのですが一粒も配給にならず、キューバ糖や芋がらが代用品という大変深刻な時代でした。魚の配給も、たまに配られる時は何時も「すけそうだら」ばかりで、ハゼは高級な食材でした。
ハゼ釣り餌の「ごかい」は、干潮時には仮住居の脇の露出したヘドロに膝まで浸かると幾らでもとれました。
何時の時代でも、海は自然の宝庫です。開園の大森ふるさとの浜辺公園は、平和の維持を願い大切にして行きたいと思います。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) マッカーサーの進駐 第5回
巧みなアメリカの宣伝
茲にアメリカの散布した宣伝ビラの二、三を記録して置こう。
初めのうちは好奇心であった。何を書いてやがるかと読むには読んでも、待って居たら一寸来いで、先ず当分おてんとうさまをおがむ事が出来ないから、みんな焼き捨ててしまったが、読みての上の我等の当時の心境は
  軍民離間策 厭戦思想喚起の文句
と判断し、いくら戦争は敗退の上敗退でも、こんな事に迷うものかと冷笑して居ったのである。ただ然し
  洗練された其の文章と美事な筆跡
には感嘆の外なかった。其の内、通俗的でよく講談で知られた「鍋島の猫騒動」の一節を持ち出し、麗人お豊の方が化猫にのどを喰いつかれ悲鳴を上げている図を画き、説明して曰く

「この化猫は、国民の生血を吸っている軍閥である。軍閥は本国より遮断されている何十万と云う若者を無意味に犠牲にして居る。又国内の人民に必要な衣食薬品の供給を怠り、国家を衰微に導いて居る。
かみ殺された美しいお豊の方は、軍閥が破壊した立憲政体に相当し、明治大帝の御命令にそむいて、軍部は政治に口ばしを入れ、彼等は国家を守るより、寧ろ滅亡の窮地に陥れた。
最後にこの化猫は忠義な伊藤宗太と云う武士に皮をはがれ、村人に追いまくられころされた。」

これは再び平和と繁栄を取り戻す為めに忠義な日本人は、
  天皇陛下並に国民を惑わした軍部を滅せ、
と。陛下と国民と軍部とを別にしている。然し単なるこの物語を利用するなど、敵も中々さるもの、軍民離間の宣伝はたしかにうまいものだと感心したのは当時の事である。

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小さな旅(12) 茨城古河 桃まつり

2007年03月27日 | 小さな旅
kan-haru blog 2007 

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古河市
茨城県の古河(こが)市には、菩提寺の神宮寺があり毎年春夏のお彼岸の中日と月遅れのお盆には先祖のお墓参りに行きます。昨年は、ブログを書き始めて間もなくの3月21日に行っております(「小さな旅(2) 菩提寺墓参」参照)。古河市はJR宇都宮線で上野から利根川を越え丁度1時間の距離にあり、古い城下町で市内にはお寺の数が多く、古河歴史博物館、鷹見泉石記念館、古河文学館、篆刻美術館(国登録有形文化財)と日本歴史小説家の永井路子が古河高等女学校(現古河第二高等学校)時代に住んでいた家などがある歴史と文学の街(地図参照)です。

桃まつり
利根川に近い古河市の南端の日光街道を西に折れたところに、四季折々に美しい花が咲く25ヘクタールにもおよぶ広大な古河総合公園があります。春に咲く桃は、矢口、立源平、シダレ源平、菊桃、寿星桃の5種類の約2000本の花桃が植えられております。

    (拡大写真)          (拡大写真)                (拡大写真)

毎年3月20日から4月5日まで開催されている「桃まつり」は、1976年(昭和51年) より開催されており、古河を代表するまつりのひとつです。
昨年は、お彼岸には咲いておりませんでしたが、今年は暖冬の影響で昨年より2週間早い3月2日に開花が確認さました。今までに、お彼岸中に花が見られるのは、3回目になります。

      (拡大写真)             (拡大写真)               (拡大写真)

そこで、今年は古河駅からタクシーを拾い、お墓参りの間待機してもらい、古河総合公園の裏口へと向かいました。総合公園の裏口から入るのは今回が初めてであり、「桃まつり」が知れてきたことで、表口の日光街道は2車線で混雑を避けるため、路線バスも裏口の発着になっておりました。実際は、裏通りも道は狭く、見物の車が渋滞しておりましたが、さすがはタクシーの運転手手馴れたもので、裏通りをさらに周り路して到着しました。
運転手さんにとっては、1年に1度の稼ぎ時です、渋滞でもたもたしていられないのです。


総合公園の裏口に入ると、右手の広場に古河市観光協会事業物産販売出店協会の30店の露店で花見用のやきそばやおでん、飲み物などの飲食物を販売しており、軽い昼食を兼ねた食べ物を行列して買い求めました。いつでも花見は、花より団子の仕入れが先になります。
裏から入るのは初めてですが、広場の奥では熱気球(バルーン)で20~30mの体験搭乗が千円でできますが、1時間待ちということで諦めました。広場のメインステージでは、古河吹奏楽団の演奏の準備が行われておりました。団子は仕入れましたので、2000本ある桃林の中の見頃の場所に敷物を敷いて、早速の花見の開始です。花見の場所には、サブステージで演奏をしている琴と尺八の合奏の曲が流れており、花見にマッチした雰囲気です。
桃の花の先具合は、未だ満開少し前の状態でしたが、前2回の時は完全な満開に当たり、周囲全面が真っ赤でその時には大変感動しました。


桃の花見と団子を十分と堪能しましたので、公園内の築山や鯉のぼりに菜の花などを見て、桃むすめとぬいぐるみに別れを告げ、路線バスで古河駅に戻り帰路に着きました。


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大森町界隈あれこれ 大森町商店街 京急高架化でラーメン屋さん閉店第一号のその後 (2)

2007年03月25日 | 大森町界隈あれこれ 商店街
kan-haru blog 2007 写真:ゑびす市場

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大森町付近の京急高架化工事
京浜急行の大森町付近の高架化工事は、第Ⅱ期工事として平和島から雑色までと、京急蒲田から大鳥居までの主に北側をすべて高架化したうえで、環八先行立体の本設化も含め高架化(「大森町界隈あれこれ(P30) 京浜急行 京浜急行の高架化(その1)」、「大森町界隈あれこれ(P32) 京浜急行の高架化 京急蒲田駅付近(第1回その1~3)」参照)が進められております(高架化工事の区間説明図の赤色部)。また、区間説明図の緑色で示されている、本線付属街路第1~5号線(京急本線西側沿い)と空港線付属街路第1、2号線(京急空港線北側沿い)の幅員6mの新設道路の付帯工事も含まれます。

大森町駅付近の京急高架化工事の進捗状況


大森町駅近傍の京急高架化関連工事は、京急本線の高架化工事に必要とする拡幅部は緑色で、本線付属街路第1号線部(内川から放射34号線道路間、区間説明図参照)は青色で、大田区画街路第3号線(第一京浜国道から京急本線踏み切りまでと、京急本線西側大森町駅スペース部分)は朱色で示してあり、これらの色に係る部分の箇所の土地および建物は徴発されます。
これにより、次の再掲図に示された緑色に係る借家、アパート2棟と元ラーメン屋さんの建物は壊されました。この他、再掲図に見られる元アパートの隣接の物置も、現在は壊されております。
さらに、再掲図に示す借家の区道を挟んだ北側の線路脇に沿った3棟の住宅も緑色に係り、そのうち2棟は取り壊して建て替えを行い、残る1棟も建て替え工事中です。

再掲図 商店街の閉店が続く大森町駅近傍 朱色は取り壊しが行われた商店

・高架化による大森町商店街の閉店2~4号
京急本線西側に沿った大森町商店街は、本線付属街路第1号線部の工事に係り、再掲図に示す元ゑびす市場が取り壊し商店第2号となり、元三吉野と100円ショップが続いて取り壊しの準備を進めております。

     ①(拡大写真)            ②(拡大写真)            ③(拡大写真)
  説明:①~③元ゑびす市場の取り壊し

元ゑびす市場は、戦後間もない頃には野菜、魚介、肉屋、乾物、惣菜、お茶、花屋や日用品などの小売業者が集まり、駅前の便利な場所に店を出して販売する形態で、近所の住民は一箇所で惣菜などが集まるため便利に利用され、一時は人気の小売方式でありました。その後、規模の大きい小売店、コンビニ、スーパーなどの品揃えの豊富な小売店の登場により、人気が離散し閉店状態にありました。
元三吉野と100円ショップも、市場と同様にお惣菜やおにぎりの販売でしたが、駅近くの便利な場所柄で、一時は人気があり繁盛しておりましたが、市場と同様に新たな小売形態に押されぎみになりました。

     ①(拡大写真)            ②(拡大写真)            ③(拡大写真)
  説明:①~③元元三吉野と100円ショップの取り壊しとその掲示

大森町駅の高架化工事の進捗模様

   ①(拡大写真)            ②(拡大写真)            ③(拡大写真)
  説明:①②大森町駅北方の部分的な高架橋、③踏み切りの電線跨線のゲート  

大森町駅の高架化工事も、周囲の立ち退きにより工事準備が進んでおります。先ず、大森町駅北方には、部分的に高架橋が出現しております。高架化工事は、電車を動かしたまま行いますので、駅ホームの隣接部分の工事の準備として、ホームは板張りとして、下部は支え部以外を空洞としてあります。これは、ホーム周囲の工事を、深夜の電車運転が休止の時間帯に、ホームの板と周囲壁を取り外し、線路側から工事車と工事材を搬入して工事を進めるために行われるのです。

     ①(拡大写真)            ②(拡大写真)            ③(拡大写真)
  説明:①大森町駅停車の下り電車、②大森町駅停車の上り電車、③ホームは板張りで下部は空洞

次に、電車運行に必要な電力線や各種の電線を、踏み切りと交差させるため、ケーブルの橋渡しのためのゲートが建てられました。また、電車に電力供給のき電線を吊るす、既存の電柱ポールは、高架橋を建てるのには適した場所にはありません。そのため、工事の邪魔にならない位置に、電柱の移設準備が進められております。

     ①(拡大写真)            ②(拡大写真)
  説明:①②在来のき電線ポール(緑色)は工事の妨げになるため移設ポール(金属無地)が設置された

これから、高架化工事に伴う周辺の変化と、工事の方法に関しての記録のため、随時にルポして行きます。

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大森町界隈あれこれ 大森町商店街 京急高架化でラーメン屋さん閉店第一号のその後 (1)

2007年03月23日 | 大森町界隈あれこれ 商店街
kan-haru blog 2007 閉店第一号のラーメン屋さんは取り壊されました

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現在、大森町駅付近の京浜急行電鉄高架化工事(「大森町界隈あれこれ(P30) 京浜急行 京浜急行の高架化(その1)」、「大森町界隈あれこれ(P32) 京浜急行の高架化 京急蒲田駅付近(第1回その1~3)」参照)も急ピッチで進められております。
閉店のラーメン屋さんのその後は、商店建屋のオーナー宅も京急に隣接しており一部が立ち退きのためマンションを新築することになりました。そこで、大森町商店街に連なっていた元ラーメン店跡の建物を取り壊し、マンション一階の商店への入り口として使用する形に変貌し、その関連工事が現在進行しております。

京急高架化工事のため、大森町近傍の商店立ち退きの取り壊しが第二号、第三号と続いており、大森町駅西側に近接している「ゑびす市場」の取り壊しがほぼ終わり、隣接の個人商店「三吉野」などが閉店して、近々取り壊しにかかるようです。
今後、高架化工事により変貌していく京浜急行電鉄沿線と第一京浜国道の拡幅ならびに立体化の模様を随時記録していきます。

ラーメン屋さんの閉店から取り壊しまで
今回は、ラーメン屋さんの閉店からそれに続く大森町駅付近の商店取り壊し第二号と京急大森町駅の立体化工事の模様をルポしてみました。

     商店街の閉店が続く大森町駅近傍 朱色は取り壊しが行われた商店

・元ラーメン店建屋オーナーのマンション建設
元ラーメン店建屋オーナー私宅が高架化工事のため一部が削られるため、敷地(地図青色枠)にマンションを建てその上階に住むこととなり、そのためオーナーの敷地内にあったラーメン店三光軒(「大森町商店街 京急高架化で大変貌 ラーメン屋さん閉店第一号」参照)、アパート、借家の取り壊しが行われ、現在マンションの建設が始められております。
オーナー保有の敷地は、南北に細長い形態で東面に接している区道の幅員が1.8mと狭いため、マンション建築のため建材、機材の運搬には幅員3.6mの大森町商店街通りを利用する必要から、そこに占めていた元ラーメン店建屋の撤去が行われました。

     ①(拡大写真)            ②(拡大写真)            ③(拡大写真)
  説明:①元三光軒、②元長沼不動産、③元三光軒跡地

・オーナー所有敷地内の建物撤去

     ①(拡大写真)            ②(拡大写真)            ③(拡大写真)
  説明:①元長沼不動産と区道、②・③元アパート

敷地内の建物の撤去は4棟あり、私宅の北側の借家の軽量鉄骨の建屋から取り壊し始め、南側のラーメン店建屋、アパート2棟は木造でしたので、全て壊し終えたのは殆んど同時でした。建屋は無くなりましたが、敷地東南端の大森町商店街通りに電柱があり、これを移動しないとマンション建設の工事車が入れません。そこで、電柱を西寄りに移設しましたが、その工事は想像していた以上に大変なものでした。

     ①(拡大写真)            ②(拡大写真)            ③(拡大写真)
  説明:①取壊される元アパート、②取壊し建屋の廃材除去、③整地された取壊し終了の跡


  ①(拡大写真)       ②(拡大写真)            ③(拡大写真)
  説明:①取り壊し中の貸し家、②・③取り壊しがおわった貸し家

・電柱の移動工事
電柱の移動には、電力と通信で共用されている電柱であるので、準備には柱状変圧器の取り付けと第一京浜国道の地下化配電線からの接続が行われ、電柱を使用している電話線、光通信ケーブル、ケーブルテレビの同軸ケーブルや宣伝・伝達用の放送ケーブルなどの移設工事が必要です。次に、新たな電柱へ電気を止めないで配電線を移すことの準備が、交通量の少ない深夜に行われます。

  ①(拡大写真)       ②(拡大写真)       ③(拡大写真)       ④(拡大写真)
  説明:①元三光軒角にあった電柱、②電柱移動の準備工事、③金属製新電柱を設置、     ④元のコンクリート製電柱の撤去準備工事  

全ての電線が新たな電柱にすげ替えが完了したところで、電柱の撤収作業を日曜日の昼間に行なわれました。電柱の周囲に穴を掘りましたが、商店街通りの狭い場所のため長い電柱のままでは、クレーンで引き上げてそのまま横にすることは出来ません。
そこで、電柱を切断して移動しやすくするため、地上2.5mほどの位置で電柱の周囲をハンマーで叩き、全外周のコンクリートを除去して電柱の鉄筋を露出し、ガスバーナーで切断してから電柱の上部を撤去し、下部はクレーンで引き上げ電柱の移設は終了です。
この間の作業日数は、昼夜間で5日程要し撤収費が相当額かかることが分かりました。

  ①(拡大写真)       ②(拡大写真)       ③(拡大写真)       ④(拡大写真)
  説明:①~④コンクリート製電柱は切断して除去されました

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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第5回

2007年03月21日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

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信州天馬侠
終戦後の学校の授業で一番に困ったのは、先生方でそれまで教えていた戦意高揚の教科書に墨を塗り、中身が無くなり生徒に教える教材がないのである。
修身・国史・地理の教科書は、殆ど全ての部分がそのまま教えることが出来なくなり、後に教科書が回収されたのです。
そこで、年配の確かお名前が臼田先生と呼ばれていたと思ったのですが、はっきりとした記憶ではありません。ともかく生徒に教える教材が無くて困っていた先生が、ある日に本を持参して教壇に上がり、これから本を読んで聞かせるからと言って読み始めた図書の名前は、「信州天馬侠」でした。

「信州天馬侠」は、大正末期から昭和の初めにかけての「少年倶楽部」の躍進期の中心的な読み物として掲載された吉川英治著の少年小説で、当時は子供と共に大人にもこの小説に熱狂したそうで、今日でも大衆児童文学として力を保ちつづけております。最近の出版は、吉川英治歴史時代文庫『信州天馬侠 (一)~(三)』が講談社から2005年6月15日第14刷が発行されております。


小説の粗筋は、織田・徳川の連合軍に滅ぼされた武田勝頼の遺子・伊那丸が、忠義の士に護られて、健気にもお家の再興をはかる。しかし、戦国群雄の圧力の前には....波乱万丈。
と云う筋書きのもので、物語の面白さと先生の朗読の上手さにひかれ、生徒は全員わくわくして聞き入ったことでその好評さに、来る日も来る日も連日の講演により学校に行くのが楽しかったことが想いおこされます。

当時の、戦争末期には文学書など読もうものなら、贅沢は敵だと言われた時代であり、戦争が終わった直後には物資の欠乏時代で本などは手に入り難い状況でした。戦争中は、勤労奉仕だの鍛錬だので、読書には全く縁が無く文化的なものには飢えておりましたので、「信州天馬侠」の朗読には新鮮な感激を味わせて貰いました。

朗読は、かなりの期間続きましたが小説の最後まで進まぬまま、朗読中止の挨拶もなく取り止めとなりました。理由は、確か先生の転勤であったのではないかと思います。あの、戦争でぎすぎすとした時代に、小学6年生にとっては、涼風の一服の清々しい気持ちに導かれ、今でもはっきりと想い出され、終戦直後の荒んだ時代の良き一コマです。
最近、本屋で「信州天馬侠」の文庫本の宣伝を見かけましたので、懐かしく早速入手しました。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) マッカーサーの進駐 第5回

政務と統師不一致
小磯内閣が成立した直後「政務と統師の吻合」と云う、今迄見た事も聞いた事もない吻合と云う熟語を宣言した。すると、さては今迄、国運を賭する大戦争中、大事の大事の政務と統師が一致して居らなかったと思うた。成る程東條は首相として陸軍大臣を兼ね、更に人物の貧困が、或は東條さんでは相手が悪いのでなり手がないのか、欲張って参謀総長迄やったのである。超人間、千手観音さまの生れ変りの英雄なのかと思うた。夫れで東條内閣は政務と統師不一致、かみ合せざる処で辞職したのかと判断した。
鈴木内閣となって、統師と国務は渾然一体であると説明した。態、当然の事を殊更改めて説明するから、之ては小磯も渾然一体となりかねて辞職したものと思はれた。

我々庶民とした処で生活の順調の時は、夫婦仲も「戦線に異常なし」である。然し此の頃のようにインフレで財布失調の時代になると、夫婦のいがみ合いは朝晩常例となる。戦争も勝ち戦さの時は、渾然一体吻合もするけれど、負けるとなると、渾然も吻合も思うようにはならぬは当然である。殆ど独裁政治、議会は無気力である。
此の時、此の際、真に
  時宗か、秀吉のような大英雄ここに生まれ来て
アケスケ、ボロをさらけ出し、真の国難に処し、我等に一大号令をかけてくれぬかと痛切に思わざるを得なかった。負けは負けと、はっきり率直に聞かして貰ったらそれこそ死か奴隷かの境だ、非力の者と雖も三.五人の真力を出す事は不可能ではあるまいと思う。
  何事に付けても、あまりにも国民を信用しない
右に法律、法令、左に権力を握り、不可能を可能に、二二が五とせよと神がかりに命令されても、我々は下手にも動けず、上手にも動けず、さわらぬ神にたたりなしと、出すべき力も本土決戦に出すと出し惜しみをしつつ敗戦となったのである。

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イベント(15) あれから62年「東京大空襲を語り継ぐ集い」

2007年03月19日 | イベント
kan-haru blog 2007

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62年前、本所・深川で一夜にして十万人が犠牲となったとされる東京大空襲の戦災に遭ったのは3月10日で、毎年この頃に台東区、墨田区、江東区などの各地では戦災の法要が営まれ、東京空襲に関するイベントの資料展や戦争を語り継ぐ催しなどが開催されます。
墨田区のすみだ郷土文化資料館では、空襲体験を自ら描いた企画展、「東京空襲を描く人々‐空襲体験者の記憶と表現‐」(「小さな旅(10) すみだ郷土文化資料館と墨田川江戸流しびな」参照)が4月15日まで開催しております。

東京大空襲資料展
今年の東京大空襲62年の3月10日は土曜日にあたりましたので、台東区の浅草公会堂での「東京大空襲資料展」(東京大空襲犠牲者追悼・記念資料展実行委員会主催)と、江東区の亀戸のカメリアホールでの「東京大空襲を語り継ぐ集い」(東京大空襲・戦災資料センター実行委員会主催)に行ってきました。この日は訪問者の約束があり、大森町を出たのは11時30分頃となり、浅草公会堂に着いたのは12時半を廻っておりましたので、「東京大空襲資料展」は30分足らずの見物でした。

   会場の浅草公会堂                  浅草公会堂ギャラリー

東京大空襲資料展の初めは、台東区が東京空襲被災41周年にあたる1986年(昭和61年)に東京大空襲犠牲者追悼碑を建立し、その翌々年の1988年(昭和63年)の3月10、11日に第一回(被災四十三周年)資料展[第一回東京大空襲資料展]が浅草公会堂ギャラリーで公開されたとあります。第一回資料展では、台東区三筋町の焼け残った電柱、大空襲惨状の写真、戦時中の国民生活を示す物品や資料などを展示し、1120名が入場したようです。

今年の「東京大空襲資料展」は、3月8日から11日まで開催され、第一回資料展から19年を経過し被災62周年になり、資料展の副題が「ふたたび惨禍を繰り返さないために」とありますが、戦争を知らない世代が増えております。このブログでも、悲惨な戦争を語り継ぐ目的で「大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記」の連載29回完結の記事を掲載しており、現在は後編の「戦後編若山武義氏手記」の連載を解説の記事を付けて掲載中です。口コミで皆様へお伝え頂き、二度と愚かな戦争を繰り返さないように、平和の持続を望んでおります。

 被災体験者の空襲体験談                大空襲惨状の写真

空襲資料展を見たのは今回が始めてですが、資料展の会場では私と同年代の被災体験者の方が、空襲の悲惨な惨状を語り継いておられました。展示品には、大空襲惨状の写真、体験画、被害の統計データや刊行物資料、当時の国民家庭の居間を模したセットや銃後を守る国民の国防着姿の人体模型など、色々と沢山の展示品が出ておりました。

   混雑の資料展会場                東京大空襲当時の再現セット

東京大空襲を語り継ぐ集い
午後1時30分の開始の東京大空襲を語り継ぐ集いには約600人の参加があり、浅草公会堂からタクシーで着いた時には開場しており、亀戸カメリアプラザ3階のカメリアホールへの入場は満員となっておりました。ホールへ入場できない人は、2階の椅子を並べた第2会場で、投影スクリンと音声中継による画像表示で見る形式での集いの参加となり、ここもすぐ満員となりました。しかし、この会場の音声中継の整備が悪く、最初は画像のみで音声が中継されず、ハープ演奏番組の途中から音が伝わり始めましたが、すぐ音声が途絶え「空襲体験を語る 二瓶治代さん」のお話の殆どが聞くことができませんでした。
これに対して、主催者側の不備の説明が全く無く、参加費を払っているのですから、一言のお詫びがあって然りと思います。

会場のカメリアプラザ  混雑する集いの受付   70代・80代の参加者で満員の第2会場

このため舞台での生の出演の模様を撮影できないため、とりあえずスクリンの映写画面を撮影した写真の掲載であり、大変不鮮明ですが会場の雰囲気を見て下さい。
集いの第1部では、先ず八木ご夫妻の鎮魂のハープ演奏があり、続いて「残虐非道な戦争体験は子どもたちに絶対にさせたくない」と訴えた、空襲当時に八歳だった二瓶治代さんが、自身の体験の報告でしたが、音声が通じず残念ながら東京大空襲の語りがほとんど聞けませんでした。

スクリンの映写で見る第2会場   鎮魂のハープ演奏    空襲被災を語る戦争体験者 
 
次に、都立葛飾野高校と芝商業高校の生徒らが、被害者の体験談を元に自分たちでつくった紙芝居があり、修学旅行で徳島県の北島中学生が戦災資料センターを訪れて学んで作成したビデオレターと、江東区第五小学3年生の「社会」で学んだ戦争についての感想が述べられました。

高校生の戦災紙芝居 小学生が学んだ戦争報告 早乙女勝元さん挨拶 井上ひさしさん講演

第2部では、東京大空襲・戦災資料センター館長の早乙女勝元さんの挨拶と、作家の井上ひさしさんが講演しました。講演のなかで、空襲を指揮した米軍のカーチス・ルメイ司令官に日本が戦後、勲章を与えた事について「なんて馬鹿げたこと」と云い、「戦争で死ぬのは私たちのような普通の人。偉い人は死なない。あらゆる戦争に大義や正義はありません」と語りました。

・東京大空襲訴訟
62年前、約10万人の命が奪われた東京大空襲の被災者や遺族112人が、国に総額12億3200万円の損害賠償と謝罪を求める集団訴訟を3月9日、東京地裁に空襲被害を受けた民間人として初の集団訴訟を起こしました。
東京大空襲訴訟に触れている「写真で伝える東京大空襲の傷あと・生き証人」鈴木賢士著 高文研社2007年3月1日発行 1700円を、同世代の著者と同じように戦争体験者としての思い入れから、浅草公会堂で購入してきました。

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小さな旅(11) 雛のつるし飾りまつりと河津桜まつり その2

2007年03月17日 | 小さな旅
kan-haru blog 2007

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伊豆バイオパーク
「文化公園雛の館」を後にして、貸切タクシーで11時30分には伊豆バイオパークに着き、入場券売り場でJR日帰りプランのチケットを見せて、パークの入場券を貰いました。
入場券には、げんなり寿司善の昼食券とサファリバス券が付いております。

伊豆バイオパーク(東伊豆町稲取3344 地図参照)は、伊豆稲取から国道135号を進み稲取高校で左折して稲取高原へと向かい、バスで約10分の距離にあります。
園内マップを見ると、16000平方メートルの敷地内に「アニマルゾーン」、「スポーツゾーン」と「プレイゾーン」の3つのゾーンがあり、アニマルゾーンには30種、約1000本の梅があり、2月3日~3月11日の期間中梅まつりを開催し、稲取地区伝統の雛のつるし飾りを展示中との宣伝をしております。

パークは子供騙しの遊園地の感がありますが、なにしろここに入らないと昼食にありつけませんので、日帰りプランで来ると皆寄ることになります。天気の良い春の一日を、時間を忘れ子供に返ってバイオパークを一巡し、良い空気を吸って過ごすのも健康的です。
入園ゲートを入るとすぐ目の前で、お汁粉の無料サービスをしており、水鳥の池にはつがいのペリカンが珍しく羽根を広げて羽ばたいて出迎えてくれました。

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池の湖畔に昼食場の水上レストランがありますが、朝食が列車の中での駅弁でしたので、先ずはパークを一巡の探索からです。レストランの先からサファリバスに乗り、点在している動物の間を縫いながら巡回して降りると「わくわくふれあい広場」で、カットした3本100円の人参の餌を買い、草食動物とふれあって見ました。

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「アニマルゾーン」の周囲の道を反時計回りに進むと、梅園の入り口の前の展示館があり雛のつるし飾りを展示してあり、暖冬で早く咲いたので葉の出始めた梅園の梅を見ながらレストランに戻り、昼食を取りお茶を飲んで一休みしました。

   (拡大写真)            (拡大写真)

レストランは、つるし雛と河津桜を見物の客さんが、昼食を食べに次から次へと間断なく出入りして込み合っておりました。昼食を済ませ、13時26分発の満員の路線バスで、もと来た伊豆稲取に戻りました。

・風力発電機
伊豆バイオパークから望む対面の山に3基の風力発電機が見えます。この風力発電機は、静岡県の自治体(静岡県東伊豆町役場)としては初めての風車の複数機同時建設のもので、地球温暖化防止(二酸化炭素削減)、観光資源化と売電収入の確保を目的として作られたもので、平成15年12月から発電を開始しております。効果としては、本風力発電施設によって発電が見込まれる年間513万kwhの電力は、火力発電所に換算するとドラム缶にして6,040本の化石燃料を節約し、1,897tの二酸化炭素の削減効果をもたらすと称してます。


稲取温泉観光
伊豆急河津行きの14時17分出発までには若干時間がありましたので、伊豆稲取の駅前の商店の手作りつるし飾りを販売しているお店を覗いて見ました。どの店にも、個性のあるつるし飾りが沢山飾ってあり、ここでのウインドウショッピングも楽しめました。

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稲取温泉観光協会では、観光客の減少に歯止めをかけるため「事務局長」を公募し、シングルマザーの渡邊さんが選ばれて4月から任期につくという、最近話題になった観光地です。話題ついでにもう一つ、伊豆バイオパークの入園利用客が平成3年度の約50万人をピークに17年度は約19万人に落ち込むなど激減のため、沿線レジャー施設として建設された伊豆急行が他の観光レジャー4事業と共に、札幌市の加森観光(加森公人社長)へ5月中旬に経営譲渡するとの発表ニュースを産経新聞でみかけました。最近、各地でのテーマパークの衰退が見られるようです。

河津桜
河津桜は、花が大きくピンク色なのが特徴で、緋寒桜と早咲き大島桜の自然交配種と考えられています。1975年(昭和50年)4月に町の木として指定されました。
河津桜の原木は、伊豆急河津駅から天城山へ向かって1.2kmの地点、河津町田中の飯田氏宅の庭にあります。2007年現在の樹齢約60年、樹高約10m、樹巾約10m、幹周約115cmです。
原木は、飯田氏が1955年(昭和30年)頃、偶然発見したさくらの苗を、庭に植えたもので、1966年(昭和41年)から開花が見られ、1月下旬頃から淡紅色の花が約1ヶ月にわたって咲き続けたと云われております。

「河津桜並木」は、河津駅近辺の河口から峰温泉までの河津川沿いに約3km続いております。今年の河津桜開花状況は、河津桜の原木は2月3日に1分咲きとなり、川原の河津桜は2月中旬ころ4分咲きからそろそろ見頃の時期に入り、27日にはところどころ葉が出てきたとのニュースでした。3月3日は、見頃を過ぎており葉が多くなっておりましたが、5日まで夜桜まつりを行っており、川原の通りは相当の人込みでした。

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河津桜の花見は2度目で、前回は平成12年2月23日に見頃の時期に見ており、今回は雛のつるし飾りを見るのが目的でしたので、前回を思い出して菜の花が咲く河津川沿いの沢山露天が並んでいる道(地図参照)を散策しました。河津桜の中の遅咲きの木は葉も多く無く、観光客もそれに群がって写真を撮っておりました。喫茶店で一休みして、17時12分発の踊り子号で帰路につき品川駅で下車しました。

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小さな旅(11) 雛のつるし飾りまつりと河津桜まつり その1

2007年03月15日 | 小さな旅
kan-haru blog 2007

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今年のひな祭りの3月3日は土曜日にあたり、伊豆稲取温泉のつるし雛を前から見たいと思っていたので、2月10日から3月10日までの期間実施の往復JRの日帰りプランの「河津桜&雛のつるし飾りまつり」を申し込み出かけてきました。なお、稲取の雛のつるし飾りまつりは、3月31日まで開催しております。
日帰りコースには、稲取を先に廻るのと河津を先に回る2コースがありましたが、稲取を先に行くこととし東京8時発の特急踊り子号を予約しました。

稲取の雛のつるし飾りまつり
当日は、天気が良く10時05分には伊豆稲取駅に着きました。このコース(地図参照)には、伊豆バイオパークでの昼食がセットになっておりますが、昼には時間が早いのでつるし飾りを先に見ることにし、タクシーを1時間予約して雛の館から回りました。
・雛のつるし飾り
雛の和細工のさげ物の風習は、パンフレットによると、九州柳川地区、山形酒田地区、伊豆稲取地区の三地区が由来、文献等、つるし飾りの資料が現存しており、日本三大つるし飾りと言われています。古老のお話によると、江戸時代においてはお雛様を購入できるような裕福な家庭はまれで、せめて代わりに、愛する子供や孫の為に手作りの雛飾りで初節句を祝おうという、切ない親心から生まれたのが稲取の雛のつるし飾りまつりの発祥の由来と伝えられています。
つるし雛は、猿っこ、柿、唐がらし、座布団、這い子人形など数10種類ある各人形には「いわれ」があり、成長への願いを込めてお飾りが色鮮やかに、愛情あふれる手作りのつるし飾りで、雛壇のまわりにあふれています。
地元の文化の継承から始まった「雛のつるし飾り」も、今年で10周年を迎え毎年20万人以上の人が訪れるという、春の風物詩です。

・雛の館めぐり
稲取温泉の雛の館は、5箇所(地図参照)にあり、先ずは稲取漁港の海の近くのメイン会場の「むかい庵」のつるし雛の見物から始め、観光バスで来た団体客で込み合っておりましたが、会場に入ると沢山の赤一面の雛人形の周囲につるし雛があふれており、その華やかさに圧倒されました。

    (拡大写真)          (拡大写真)                (拡大写真)

つぎの館は、稲取の中央部の町並みの狭い路地にある「なぷらとと」のつるし雛を見ました。ここは、団体バスが入れないので最初の混雑した館とは異なり、観客は我々だけでしたので、ゆっくりと鑑賞することができました。その上、つるし雛人形の前で何枚もの写真撮影のサービスをして貰いました。

      (拡大写真)             (拡大写真)               (拡大写真)

たっぷりと鑑賞した後、3箇所目の館は広い公園内にある増築された「文化公園雛の館」に行き、雛人形の周囲に飾りつけてあるつるし雛以外にも、非常に沢山のつるし雛がつるされてありました

      (拡大写真)                 (拡大写真)             (拡大写真)

また、この会場では、第一回雛のつるし飾りコンテストが開かれており、運よく3月3日の1日だけ開催の人間が衣裳を付け雛壇に上がる、ジャンボ雛祭り(トップ写真)が行われておりました。

      (拡大写真)           入賞作品(拡大写真)     コンテスト入賞授与

3つの雛の館を回りますと、少しばかり食傷ぎみを感じましたが、雛人形とつるし雛の赤一色に触れると暖かみが感じられ、古き日本文化の良さが伝わります。
つるし飾りまつりを堪能しましたので、昼食会場の伊豆バイオパークに向かいました。

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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第4回

2007年03月13日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

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墨塗り教科書
疎開から戻り東京での戦後の授業は、終戦により混乱を極めておりました。
1945年(昭和20年)8月の終戦でわが国の教育は転換をせまられ、教科書について大きく変革を求められ、9月20日に文部省は「終戦ニ伴フ教科用図書取扱方ニ関スル件」の次官通牒をだし、国定五期教科書の戦時色の濃い教材の全部あるいは部分的修正削除を指示しました。これにより「墨ぬり」や「切り取り」が実施されました。先ず、この文部次官通牒は、10月2日連合国軍最高指令官総司令部による指令「日本教育制度ニ対スル管理政策」以前のもので、文部省が独自の判断で自主的に行ったものでした。

国民学校の教科書は「国体の本義」「臣民の道」を基調にして日本民族の優秀性を誇示し、国家主義・軍国主義を強くだして戦意の高揚を図っていた。米国政府は日本の教科書を「軍国主義・国家主義的観念を執拗に織り込んで生徒に課し、このような観念を生徒に植え込むのもの」とし、12月31日に内容のひどい修身・国史・地理の回収を指示しました。これにより、文部省は1946.年1月11日に修身・国史・地理の授業停止を命ずることの指令を発し、2月から教科書の回収がはじまりました。
しかし、それらの教科書を急に切りかえることは至難であったので、軍国色の強い個所はこれまで教えてきた教師が指示して、教えをうけた児童が自分の手で墨を塗るという作業が進められました。

教科書の墨塗りは、担任の先生は習字道具を出して墨を塗るように指示して、『国語の教科書を出しなさい、進駐軍の命令で今使っている本の中で戦争のことが書いてある部分を消すから、先生の言う所に墨をぬって読めないようにしなさい』というようなことを言って、今まで絶対に正しいと信じ、落書きもしなかった教科書を墨で塗りつぶした時代があったのです。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) マッカーサーの進駐 第4回
戦意昂揚の宣伝標語
勝った勝ったで有頂天であったし、負けても撤收、玉砕である、最後は必ず勝つのであるから、我一人位怠けた処で戦局にさしさわりあるまいと思いもした。それについても、戦争中アメリカの散布した軍民離間、戦意喪失の宣伝ビラと、我が方の戦意昂揚の為の街頭宣伝ビラを茲にひろって見よう。

近衛さんの新体制運動華かなりし頃の
  大政翼賛 臣道実践
はたしかに当時の人心にピッタしでうけ、全国を風靡したものである。林さんの
  滅私奉公
これも林さんの人柄らしい申分であるが、御題目と云うだけに何の迫力もない。又平沼さんの逃げ口上、所轄「複雑怪奇」は平沼さんの性格其のままである。
戦争中は新語制作に寧日なしであったが、二、三記憶に残るもののうちから
  撃ちてし止まん
神武天皇の御製から持って来ただけ、全国に一番流行したであろう。応召の際の日の丸に第一に書いたものである。全くこれ以上のものはなかった。あとは無駄で必要なしだった。

それから後は平凡駄作「一億一心」、「一億総体当り」。
議会の開院式の敬語に、「憤激を新たにし」と仰せ給うたので、すぐ「一億総憤激総厥起運動」となった。国民精神総動員なんかの空念仏よりは、敬語から来ただけに「ピリッ」とした。それは今迄憤激が足りず、敵がい心がたしかに足りなかった。
  もう一機、もう一艦
いよいよ苦しくなって来て、我々国民が怠けてるような御叱りである。一機や一艦で、戦勢を牛を馬に乗り換えるようになまやさしいものとは誰れしも思わん。最後の勝は本土決戦の秋と思うて居たからである。
  何が何でもやりぬくぞ
に至っては、何人の傑作か知らんが。ない、ない、ない盡しの物資不足の時に街頭に仰々しくペタペタ張り出されたが、やりぬきたい人だけやりぬけよと、口には出さぬが、馬鹿馬鹿しさに腹も立たない。殊に学童の懸賞に
  欲しがりません、勝つまでは  
に至っては、敗戦の今日惨めとして云う言葉もない。こう云う標語の濫発で、戦意が昂揚され、生産が能率を挙げると御思召し遊ばされたのであろうか、御伺い申上げたい処である。

これ等に対しアメリカはただ一語
  真珠湾をわすれるな
の一本槍で、開戦から終戦まで、ただこれだけでアメリカ全国民が結束し、全世界に武器、弾薬を供給し、我が国に撃沈撃破されても、より以上倍以上補給充足、遂に我が国を屈伏せしめたのである。

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イベント(14) 外国人邦楽演奏 インターナショナル邦楽の集い その2

2007年03月11日 | イベント
kan-haru blog 2007

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第一部の演奏が済み、10分の休憩をはさんで第二部の開演です。
・第二部
三谷(尺八)
三谷は中京所伝の曲で、ブルース ヒューバナーさんの独奏です。奏者のブルース さんは、1983年に来日し、外国人として初めて東京芸術大学邦楽課修士課程尺八専攻を修了し、琴古流尺八演奏会では好評をはくし、現在日本の学校で音楽講師を勤められております。

            三谷                         砧三章

砧三章(箏曲合奏)
砧三章は、沢井忠夫の作曲で、第一章と第三章はリズムの絡みと流れを軽快に表現し、二章では謡曲「砧」をテーマに、秋の終りの寒々とした季節感、三連音による虫の声等などドラマチックに表現する演奏曲です。奏者のカーテイス パターソンさんは、1986年に来日し、外国人として初めてNHK邦楽技能者育成会を卒業、沢井忠夫に師事。現在、邦楽教育・指導で幅の広い世界を目指しています。

橋弁慶(仕舞)橋弁慶は、「五条橋に少年が現れて不思議な早業で人を斬り回る」ことを聞いた弁慶は、少年を討ち取ってやろうと夜更けを待つ。牛若が今宵を最後と五条橋で人が通るのを待つと、鎧に身を固めた弁慶が大長刀を担いで現れる。すれ違いざまに弁慶の長刀の柄元を蹴上げて戦いを挑む。激闘の末に弁慶は牛若の秘術に降参した弁慶は、主従の契りを結ぶという演題を、ご子息と息の合った仕舞を熱演されました。


元禄花見踊&娘七種(長唄)
プロの長唄の囃子方のリードに頼りながら、代田インターナショナル長唄会の生徒さん達の半年間の稽古の成果の発表です。演技は、元禄の頃上野の山での花見を題材にした、1878年の八世杵屋正治郎作曲の元禄花見踊りと、春の七種を打つ曽我狂言を題材にした、1767年の二世杵屋六三郎作曲の娘七種からの抜粋で、唄9人(うち外国人3人)、三味線10人(外国人6人)、笛2人(外国人1人)、小鼓、大鼓、太鼓が各1人の大人数の演奏です。外国人にとっては、長唄を謡うのは大変難しいのではと思いました。長唄では、豊嶋さんは三味線での登場でした。

          (拡大写真)

かごめ、京の大仏、通りゃんせ、越後獅子(篠笛合奏)
ポピュラーな曲での篠笛合奏には、福原寛先生指導による演奏で、笛10人(うち外国人7人)、唄、三味線、太鼓が各2人と、大太鼓、当り鉦が各1人の大合奏です。豊嶋さんは笛と太鼓の2種の楽器での演奏をこなしました。


山月抄(笛独奏)
山月抄は、中島敦の短編小説「山月記」から想を得て作曲したものを、福原寛先生の前半を篠笛一管で、後半を能管一管で自作自演の素晴らしい演奏で聞かせて頂きました。福原寛先生は、東京芸術大学音楽学部邦楽科卒業で、人間国宝福原流宗家四世寶山左衛門に師事し、現在国立音楽大学講師を勤められております。
篠笛(しのぶえ)は、古来より伝わる横笛で、大和時代にはすでに使われていたようで、しの竹から作られます。現在では歌舞伎、長唄、浄瑠璃などの伝統芸能の伴奏としても広く活躍しており、最もポピュラーな横笛(竹笛)です。能管(のうかん)は、能の囃子で使われる横笛で、能笛(のうてき)とも云います。能の成立した室町時代に作られました。歌舞伎の伴奏楽器として三味線音楽に取り入れられ、現在は幅広く用いられております。


鶴亀(長唄)
鶴亀は、1851年十世杵屋六三郎の作曲で、観世流の謡曲「鶴亀」の歌詞を殆どそのままとってあり、わずか千代のためしの一節に相違がある曲で、婚礼などのご祝儀物として良く演じられます。第二部最後の演題で、唄6人、三味線7人(うち外国人3人)、笛、小鼓、大鼓、太鼓、箏が各1人と林千恵先生の林流家元の門下3人の立方が加わってのお目出度い演出です。邦楽は、楽器を演奏する囃方と踊り手の演技をする人を立方(たちかた)と云います。林千恵先生は、17歳で林流家元となり、東京芸術大学音楽学部邦楽科卒業で、現在「林千枝リサイタル」で古典と創作の両面で注目を集めております。豊嶋さんは三味線で出演しました。

       (拡大写真)             (拡大写真)

フィナレー
第二部の演奏が終わり、出演者全員が舞台に登場して、代田インターナショナル長唄会の西村真琴先生のご挨拶があり、先生方が演奏する笛、三味線、小鼓、太鼓などの囃方と林千恵先生の立方によるアンコールが演出され演奏会の幕が閉じました。


会館を後にして、鑑賞を共にした異業種交流会のメンバーで、邦楽の出演者の熱演と、大入り満員の会場の熱気により乾いた喉を潤すため、表参道でビールを傾け解散しました。

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イベント(14) 外国人邦楽演奏 インターナショナル邦楽の集い その1

2007年03月09日 | イベント
kan-haru blog 2007

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3月4日に、南青山の銕仙会(てっせんかい)能楽研修所(東京都港区南青山4-21-29)で第6回インターナショナル邦楽の集いが開催され、今年の演奏は素晴らしく3時間たっぷりと鑑賞をさせて頂きました。

インターナショナル邦楽の集いは、代田インターナショナル長唄会の主催によるもので、日本に留学中の外国人が邦楽に魅せられてボランティアのプロの先生の指導を受け練習を重ね、三味線、笛、小鼓、唄、仕舞など一人が複数の器楽演奏や唄・踊りを発表するもので、日本人顔負けの古典芸を理解し身に付け、日本人の仲間と一緒に共演して競います。

インターナショナル邦楽の集いには、前回開催の本願寺のプディストホール、東中野の梅若能楽学院に次いで、今回で三回目の鑑賞になります。
この集いとの繋がりは、異業種交流会のメンバーの豊嶋さんが、邦楽が堪能で以前から代田インターナショナル長唄会の稽古に参加して、インターナショナル邦楽の集いで発表を行っており、演奏を紹介して頂いたのが縁で、毎回楽しく鑑賞させて頂き、異業種交流会のメンバーも6人が見にきました。

会場は、午後二時半の開場前から入場の行列が続き、演奏時には満員の盛況で、この邦楽の集いが指導のプロの先生方の共演と、外国人と競演の日本人出演者の熱心な演奏が人気を呼んでいる様です。今年の演奏は、昨年と比べ外国人の演技が充実していることと、プロの先生の独演が行われ、演奏は大変素晴らしいものでした。
なお、当日配られたプログラムパンフレット入場券のデザインは、演奏者の豊嶋さんがデザインの職を活かしてお手の物で作られた様で、素晴らしい出来で演奏会に花を添えております。

演奏会
演奏会のプログラムは、第一部と第二部の2部構成での演奏です。演奏会の司会は、出演者の外国人と日本人が2、3人で組んで、演奏曲の紹介を英語と日本語で行います。インターナショナルらしく、紹介の言語は母国語だけでなく、外国人も日本語で行います。これは、当然日本古典の芸能を行うのですから、日本語が判らなければ芸が身に付きません。

・第一部
末広狩(長唄)
1854年の狂言から得た古典の曲で、唄、三味線、笛、小鼓、大鼓、太鼓の総勢30名(外国人16名)の出演で、中々の壮観でした。三味線には代田インターナショナル長唄会の西村真琴先生が出演し、豊嶋さんは小鼓での出演でした。

           (拡大写真)

箏、尺八合奏
箏がカーテイス パターソンさん、尺八がブルース ヒューバナーさんで共に達人のプロの先生で、前回の演奏会で感銘を受けました。日本人で敵う者はいない程の領域の演奏家で、今回両先生が演奏のCDを購入して、サインをして貰いました。
合奏曲は、奏者のカーテイス パターソンさん作曲のゴーイングホーム他でした。


屋島、羽衣、江口、安宅(仕舞)
仕舞とは、能の曲の見所の部分を5~10分ほどにして、能面や能装束を着けずに紋付袴を着て、囃子もなしで、地謡だけをバックに舞う能の演奏形態です。出演は、仕舞が能楽師ぬえ(八田達弥先生)社中の4人と地謡3人です。

  左から屋島、羽衣、江口、安宅

なお、仕舞4演題の前に、プログラムに無い番外として、先生の可愛いご子息による仕舞(演題を聞き漏らしました)が演じられました。


小督、松風、班女(仕舞)
外国人出演の仕舞で、八田達弥先生が指導して小督がJenniferさん(香港)、松風がAnnekeさん(ドイツ)、班女がClaytonさん(ニュージーランド)で、地謡が先生ほか2名の出演です。

  左から小督、松風、班女

小鍛冶(長唄)
第一部の最後長唄の小鍛冶は、1832年初演された五変化の一曲で、唄、三味線、笛、小鼓、大鼓、太鼓の総勢25名(外国人10名)の出演で、豊嶋さんは小鼓での出演でした。

           (拡大写真)

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kan-haru日記もおかげさまで1周年を迎えました

2007年03月07日 | Weblog
kan-haru blog 2007 「39プレゼント応募」

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gooブログは3月9日で3周年! おめでとうございます。
おかげさまで、gooブログ3周年と期を一にして、kan-haru日記も3月8日で1周年を迎えることとなりました。

2006年3月8日にブログ初投稿以来、本日の投稿にて193件を数え2日に1件のペースで進んでまいりました。日記には、写真、地図、資料などの画像、2,243枚を登録してあります。
これまでに、11,863のアクセスと44,615件の閲覧数を頂き、沢山の方にご覧を賜り誠にありがとうございます。

大森町界隈あれこれ
大森町に居住してから、戦前・戦中・戦後の途中の学童疎開の期間を除いて66年を過ごし、思い入れの深いところでありますので、「大森町界隈あれこれ」には8つのカテゴリーを設けブログの主題として構成しています。
現在、住居の傍の京浜急行電鉄の高架化工事が進められており、完成すると大森町駅をはじめとして、沿線周囲の街区は大きく変貌します。今後、「大森町界隈あれこれ 京浜急行」では、京急の高架化工事の状況を記録して、街区の変化を捉えてまいります。


世界大戦の戦中・戦後史
少年時代に世界大戦を過ごした悲惨な想い出は鮮烈で、特にブログ開始時期に当たる62年前の1945年3月10日の本所、深川、浅草を中心とした東京大空襲では10万人を超えた方が亡くなられました。現在、戦争を知らない世代の方が80%を超えております。
たまたま私の父の同僚である、若山武義氏が東京大空襲の戦災に遭遇した際記録した手記が保存されており、ご遺族のご好意によりブログへの掲載を了承して頂けましたので、これまでに「大森町界隈あれこれ 空襲編手記」のカテゴリーに解説を付けた手記29回連載を完了して掲載中です。
さらに、同手記の続編を「大森町界隈あれこれ 戦後史」のカテゴリーに、解説を付けて世界大戦戦後史の記録の連載を開始しております。
戦争の歴史を語り告ぐ大戦記録が、kan-haru日記の二つ目の構成テーマです。


首都圏に住んでのあれこれ
首都圏では、あちこちで様々なイベントが開催されております。
展覧会や催ようしものの鑑賞記・見学記、小さな旅・風景風物詩、旅ものがたりなどのあれこれの雑記記録が三つ目の構成テーマとして掲載しております。
また最近、IT技術の進歩も著しく、Web 2.0などの言葉も流行しております。ITに絡む活用などの記述も少しずつ増やして行きたいと考えております。


kan-haru日記総目次
kan-haru日記も掲載が増え、カテゴリー数も19を数えるに至りました。
日記を検索するに当たり、今年に入り目次の整備を進め全日記項目の目次を掲載しております。この「kan-haru日記 総合目次」は、最近の日記内の巻頭と巻末に記載のリンク「総合INDEX へ」をクリックしますとカテゴリー目次が開きます。カテゴリー目次内のカテゴリーを選択してクリックしますと、そのカテゴリー目次が開きますので項目を選択すると日記のページが開きます。この目次は、参照時点での最新の日記まで掲載してあります。

なお、目次は、kan-haru日記左欄の「カテゴリー板」の「ようこそ kan-haru日記へ」からも開けます。
今後とも、kan-haru日記をよろしくお願い致します。

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小さな旅(10) すみだ郷土文化資料館と墨田川江戸流しびな

2007年03月05日 | 小さな旅
kan-haru blog 2007

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桃の節句
3月3日の雛祭りは、平安時代には高貴な生まれの女の子の厄除けと健康祈願のお祝いとして「桃の節句」が行われ、庶民の間にも定着してきたお祝いです。
日本には大変古く平安時代から五節句(人日・上巳・端午・七夕・重陽)があり、この行事は貴族の間で、それぞれ季節の節目の身のけがれを祓う大切な行事でした。その中の「上巳(じょうし)の節句」が後に「桃の節句」となりました。

上巳の節句の日に人々は野山に出て薬草を摘み、その薬草で体のけがれを祓って健康と厄除けを願いました。この行事が、後に宮中の紙の着せかえ人形で遊ぶ「ひいな遊び」と融合し、自分の災厄を代わりに引き受けさせた紙人形を川に流す「流し雛」へと発展してきました。 室町時代になるとこの節句は3月3日に定着し、やがて紙の雛ではなく豪華なお雛さまを飾って宮中で盛大にお祝いするようになりました。その行事が宮中から武家社会へと広がり、さらに裕福な商家や名主の家庭へと広がり、今の雛祭りの原型となっていきました。

2月25日の日曜日に、吾妻橋際の隅田公園のテラス沿いで12時から、子どもの災厄を紙や草木で作った人形に託し、川や海に流して祓い清め、子どもの無病息災を願う江戸流し雛が行われ、対岸にあるすみだ郷土文化資料館には、「芥川家旧蔵雛人形」が3月14日まで展示されてますので見に行って(地図参照)きました。

すみだ郷土文化資料館
すみだ郷土文化資料館(東京都墨田区向島2-3-5)へは、大森町からは京浜急行電鉄と都営浅草線乗り入れ直通で本所吾妻橋駅にて下車して、墨田公園脇を北上し徒歩約8分です。
資料館は、1998年(平成10年)に開館し5階建ての1~3階が展示資料室で、1階は古代から現代までの墨田区の歴史の流れを知ることのできる資料や刊行物や墨田区の歴史のライブラリーが展示してあり、このフロアーで「芥川家旧蔵雛人形」は展示されておりました。入館料は、個人が100円で、団体が80円です。
資料館は、撮影禁止のため雛人形や展示資料はホームページでリンクしてあります。


・芥川家旧蔵雛人形
芥川家旧蔵雛人形は、作家・芥川龍之介の妻、文(ふみ)が所有していたもので、文の初節句〔1901年(明治34年)〕の際に購入されました。明治時代に多いといわれる小ぶりの雛人形ですが、ひとつひとつが精巧なつくりで、人形の表情は穏やかで味わいがあります。
平成16年に芥川家より龍之介にゆかりのある墨田区へ寄贈され、平成17年2月1日に墨田区登録有形文化財となりました(すみだ郷土文化資料館資料より)。

2階の展示コーナーには、隅田川を中心に、すみだの文化・風俗・文学の資料が展示してあり、「墨堤のにぎわい」コーナーには、花見でにぎわう明治末年の墨堤をジオラマ模型で再現してあり、照明と音響による臨場感あふれる演出を行い、コンピューターマルチメディアソフト「墨堤そぞろ歩き」が組み込まれていて、コンピューター画面の中で、模型の登場人物の話を聞きながら、あたかも当時の墨堤を歩いているような体験ができるようになっております。

3階の企画展では、「東京空襲を描く人々‐空襲体験者の記憶と表現‐」を4月15日まで開催しております。
62年前の1945年(昭和20年)3月10日には、このあたり一帯の本所・深川では東京大空襲での戦災により、10万人の市民が亡くなりました。

資料館では、『以前企画展で東京空襲体験者がご自身の空襲体験を自ら描いた絵画を募集し、資料館に寄せられた体験画は、それぞれ体験者の重く苛酷な記憶が表現されており、絵を見る者の心を強く揺さぶるものがあります。体験者の方々の絵には、別に多くの方々が、「デッサン」や「下絵」など、自らの記憶を確かめ、ご自身だけの記録にする目的で絵を描いておられました。「デッサン」や「下絵」には、体験者だけがもつ空襲の「記憶」が第三者への伝達を目的とした「表現」にいたるまでに辿る、体験者の「心の軌跡」を体験者の「心の軌跡」を推察することもできるでしょう。
展示の企画展では、「完成作品」と共に「デッサン」「下絵」も展示されており、空襲体験者が記憶の中に抱える深い心の傷を知り、空襲体験をめぐる世代間の認識のギャップを少しでも埋めることができれば幸いです。』とあります。
少しでも多くの人が、3月10日の悲惨な戦災体験を知り、戦争を語り継ぎ平和の有難さを願いたいと思います。資料館では、平成15年に募集した体験画集「あの日を忘れない 描かれた東京大空襲」監修すみだ郷土文化資料館を1階ライブラリーで発売しております。

牛島神社
牛島神社(牛御前社)は、墨田公園に接して鎮座され、立ち寄って参拝してきました。
神社に伝わる縁起書によると、貞観二年(八六〇年)慈覚大師が御神託によって須佐之男命を郷土守護神として勧請して創祀し後、天之穂日命を祀り、ついで清和天皇の第七皇子貞辰親王がこの地でなくなられたのを、大師の弟子良本阿闇梨がその神霊を併せてお祀りし『王子権現』と称しました。

関東大震災後に現在の位置に移されました。東京大空襲での類焼も免れ東都随一といわれる総桧権現造りの社殿は昔のままの姿をみせており、狛犬と並んで左右一対の神牛(狛牛)が奉納されています。

    本殿(写真拡大)           狛犬(写真拡大)          狛牛(写真拡大)

・撫で牛(青銅製)
江戸時代から庶民に親しまれた「撫で牛」(なでうし)が祀られています。この牛の像は、牛御前または牛嶋という神社の名称に由来して作られたもので、1825年(文政8年)ごろ奉納されたといわれています。

2月25日は友引でお日柄も良く、お宮参りのご親族の方がお参りに見えられておりました。

    お宮詣り(写真拡大)        撫で牛(写真拡大)       撫で牛説明板(写真拡大)

江戸流し雛
日本古来の伝統行事の流し雛は、子どもの災厄を紙や草木で作った人形に託し、川や海に流して祓い清め、子どもの無病息災を願う日本古来の伝統行事で、台東区では江戸流し雛振興会が、1986年(昭和61年)から実施され第22回目の江戸流し雛です。
一般参加者約1500人をはじめ、花柳界の半玉さんのスタイルに倣った「振袖さん」4人や地元の幼稚園児・保育園児などが参加し、ひな人形を川に流す4基の流し台の前に並び、12時にハト形風船を放って流しびなが開始されました。
天気が良くうすら寒い陽気でしたが、赤色の欄干の吾妻橋上は、大勢の見物人で一杯でした。


流し雛見物の後は、雷門付近で昼食を取って帰路に、お日柄も良く先頭に提灯を掲げて式を挙げられた夫婦と親族の人力車のおめでたい行列が見られました。


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ITと技術(8) 新技術ソフトで6千冊の青空文庫HTML図書を新電子本で読んでみる(2)

2007年03月03日 | ITと技術
kan-haru blog 2007

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青空文庫を読むのに必要なソフトウェア
青空文庫などシンプルHTMLを読むためには、Windows Vista専用ドキュメント・ビュアーのソフトウェアが必要で、イースト株式会社が開発した「Xamler01」を使用して、青空文庫のホームページ記述(HTMLファイル形式)の図書を、電子本に編集して文字サイズを変えたり、本の体裁の段組を読みやすい形態に変えて、ページめくりにより読むことが出来ます。ソフトは、現在イースト株式会社が無料で提供しており、同社のホームページからダウンロードして使用することが出来ます。

このソフトは、Windows VistaのGUI アプリケーション記述言語のXAML(eXtensible Application Markup Language)(Wikipedia)のXML フォーマットの新技術を使用した文書表示のプログラムです。
「Xamler01」は、Windows Vistaで動作させるのが原則ですが、OSがWindows XP SP2およびWindows 2003 Server SP1でも、「Microsoft .NET Framework 3.0 再頒布可能パッケージ」をインストールすることにより動作させることができます。
ただし、電子本に表示されるフォントは、Windows Vistaがメイリオ(Wikipedia)と呼ばれる新形式のフォントで表示されますが、他のOSで表示されるのは従来の形式のフォントとなります。

ソフトウェアのダウンロードとインストール
「Xamler01」と「Microsoft .NET Framework 3.0 再頒布可能パッケージ」のダウンロードとインストールは、イースト株式会社のホームページ(次世代Windows体験サイト ここをクリックで開きます)から、そこに記述の指示にしたがって行います。

青空文庫を読んでみる
・「Xamler01」を起動して本を読む
保存した「Xamler01.exe」をクリックすると、「開いている – セキュリティの警告」のダイアログボックスが開きます。ダイアログボックスの「実行」ボタンを押すと、専用ビュアーが開いて先ず青空文庫の芥川龍之介「羅生門」が表示(表示1)されます。ビュアー右下段にある段組変更ボタンや文字サイズ変更バーを操作すると、表示の段組や文字の大きさ(表示6)が変わります。本のページめくりは、ビュアー下段にあるページ表示部にある横向き三角をクリックしてページを進めたり、戻したりすることができます。

・青空文庫の「海野十三敗戦日記」を読む
図書カード:No.1255 の「海野十三敗戦日記」のHTMLのURL(表示2)は、次の通りです。
URL http://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/1255_6571.html

    表示1(写真拡大)        表示2(写真拡大)          表示3(写真拡大)

URLをコピーして、ビュアー上段の「青空文庫(HTML)のURL:」欄に記入させます。
ビュアー上段の「読込み」ボタンを押すと、「海野十三敗戦日記」の青空文庫の図書が電子本形式で閲覧できます。
ビュアーの「青空文庫(HTML)のURL:」欄に、青空文庫のURLを記入すると、6000の収納の図書が読めます(表示3、4、5)。

    表示4(写真拡大)         表示5(写真拡大)          表示6(写真拡大)

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