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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ(22) 大森町の社寺(1) 諏訪神社その3

2006年05月30日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
ちょっとハメを外した面白くもまたうら悲しいお神輿3題
諏訪神社の今年の神輿の練り歩きは、27日が雨のためお流れとなり、28日は朝方のうち雨が残りましたが午前中には上がり、昼過ぎには日が差してきましたので時間を遅らせて、午後一時からのスタートとなりました。
お祭りには、神輿が付きものです。年一度の楽しいお祭りです、お目出度い行事ですから少し位ハメを外してもよいのではと思います。そこで、今回は、面白くもうら悲しい神輿に関しての話題を3つ記述します。

驚いたな! お神輿がお家に入ってきた
大森西三丁目町会の神輿は、残念ですが子供神輿と曳き太鼓しか無く大変と寂しい。以前は町会で立派な大人神輿を所有していましたが、今から数十年程前には、東京では神輿を担ぐ人がいない時代がありました。そこで、町会では大人神輿を地方に寄付をしてしまった経緯があります。ところが、時代が変わり、最近では神輿を担ぐことに人気がでてきたのです。後の祭りで、今では大人神輿は高価で調達ができません。

そこで、大森三丁目町会の神輿の練り歩きは、子供神輿だけですので、細い路地でも通れます。28日の神輿練り歩きもそうですが、毎年私宅の横の路地を通る様になりました。
 1 私宅横の路地を練り歩く子供神輿(ここをクリック)
私宅の横の路地を通る様になった訳は、御神酒所を出発した神輿は、一巡して御神酒所に戻るまでに数ヶ所の休憩所を設け、菓子や飲み物を配り一休をするのが楽しみなのです。休憩所は、役員の私宅や事務所などを定めて設けます。
14年ほど前に、役員さんの休憩予定場所が改築のため、その年は使用できなくなりました。そこで、その年に限り臨時的に私宅を休憩所に提供することになりました。この日は天気がよく気候も高く、休憩の飲み物には子供たちが大喜びでした。それ以来、子供神輿は私宅横の路地を通る様になったのです。
私宅にお神輿の入ってきたのをみて、孫は「驚いたな! お神輿がお家に入ってきた」と大喜びでした。
 2 私宅に入って来たお神輿(ここをクリック)
 3 庭で休息中のお神輿(ここをクリック)

大森警察署内に平和の神輿珍入
大森三丁目町会と第一京浜国道を挟んだ東隣の大森山谷自冶会には、大人用の神輿があります。28日は、天気も回復しましたので、久し振りに大人神輿の練り歩きを見たいと思い、第一京浜国道で休憩中の大人神輿、子供神輿と曳き太鼓を見学に行きました。
大人の神輿はやや小ぶりで、三社祭りで見る神輿と比べると見劣りしますが、担ぎ手は若い男女が楽しそうに休息しておりました。

休憩が済み、神輿の練り歩きの出発です。どこへ行くのかと見ていると、国道の歩道を大森警察署方面に進みましたので、付いて行きました。
 1 国道を大森警察署に向かって進む神輿(ここをクリック)
警察署前にくると、やおら向きを変えて警察の玄関に入って行き、署員と折衝しておりましたが、ハメを外して署内に珍入です。
 2 警察署内珍入を図る神輿(ここをクリック)
 3 「頼もう」!神輿が入って署内を厄払いに来たぞ(ここをクリック)
続いて、子供神輿も同じ様に中まで乱入という珍ずらしく楽しい光景に出会いました。
 4 子供神輿も警察署内珍入を図る(ここをクリック)
 5 大小の神輿が警察署内で威勢を張る(ここをクリック)
 6 意気揚々と凱旋更新の曳き太鼓(ここをクリック)
これを見て、日本は平和国家で素晴らしいと、気持ちが和らぎました。今年のお祭りは、面白く楽しく、とても素晴らしい諏訪神社例祭でした。

戦時中のうら悲しいちょっとハメを外した樽神輿
小学三年生頃の戦時中の諏訪神社例祭の写真がでてきましたので、ちょっとハメを外した樽神輿事件を思いだしました。
向こう三軒両隣の隣組みに小池理髪店がありました。そこのマスターは、陽気なタイプの朗らかな方でした。戦時中で、世相もやや暗く、子供達もそれを感じてかワンパクさが潜んでいるのを見た小池さんが、子供達を明るくしてあげようとの気持ちで、諏訪神社例祭に合わせて樽神輿の作成を考えました。店が終了してから、夜遅くまで子供達のために連日孤軍奮闘して、素人ながら立派な樽神輿を作りあげたのです。

諏訪神社例祭当日には、借家の私宅の1階事務所跡が空いていたので、まがりなりの御神酒所を用意し、子供達は大喜びで神輿を担いで隣組みの周囲を練り歩きました。
ところが、樽神輿や御神酒所は神社に届けが必要とは露知らず、ただ子供達を喜ばそうとの一心での行為でしたが、神社から待ったがかかりました。
当時は、小学低学年生でしたので、折衝の経緯は定かでありませんが、1枚の残っていた写真は、諏訪神社に神輿を担ぎ参拝した光景のものです。
この戦時中の諏訪神社本殿前での、先端の鳳凰が僅かに見える樽神輿を前にした例祭のスナップ写真の公開は、戦後61年を経過した今日の平和を迎え、ブログで大森町大空襲を連載中でもあり、戦争中の1コマを伝えることも諏訪神社への供養かとの思いで掲載しました。

戦時下の諏訪神社例祭樽神輿

当時は、戦時中でしたが、人々の心は優しく隣組では相携えて行動し、経済的には今より貧しかったのですが、人心の気持ちはずっと豊かであったとの感じが強く残っております。
写真の中の人物は、一番前のお面を付けた得意気の方が小池さんで、左後ろが隣家の佐々木さん、その左後ろが私です。私の左前が同級生の栗原さん、小池さんの後ろが同じく同級生の太田さん、その右隣が太田さんのお兄さん、その右隣が栗原さんのお兄さんです。その他の方は、名前を失念しました。写真に写っている幼馴染の友達は、1年後には疎開で別れ別れとなり、それ以来再開が果たせておりません。写真を見る度に、あまり楽しい想い出のなかった小学生時代の遠い昔を想いおこして、なにか侘びしくもの悲しい感じがするのです。

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大森町界隈あれこれ(21) 大森町の社寺(1) 諏訪神社その2

2006年05月29日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
諏訪神社には、金山神社と云う衛星の神社を持っております。
諏訪神社その2では、金山神社を廻ってみました。

漁業納畢之碑
「漁業納畢(のうひつ)之碑」は、大森海苔の養殖が江戸時代から幕府の許可を得て江戸湾内に漁業を行い、明治時代には漁場を拡大し拡張しつづけました。昭和14年(1939年)には、時局に応じ、京浜運河計画により漁業権の大部分は東京府に買い上げられたが、戦後になって運河計画は白紙となりました。昭和24年(1949年)に新漁業法が成立し、東京湾岸海苔漁業者は再び漁業権が復活しました。
しかし、戦後しばらく続いた大森海苔の伝統は、昭和30年(1955年)代になると、漁業環境は悪化とともに再び東京港の港湾整備計画が浮上して、昭和37年(1962年)12月に東京港の改修と引き換えに、300年にわたる海苔養殖業に幕をおろすこととなり、輝かしい終焉を記念して「漁業納畢之碑」(碑文)が昭和39年(1964年)に建てられたのです。

漁業納畢之碑

諏訪神社周辺は吾が学びやの地
前回にも記述しましたが、子供たちが通学した元大森第二小学校(現開桜小学校)の他に、元大森第六小学校(学童数減少により開桜小学校と統合、跡地は現在大田区区民活動支援施設こらぼ大森として活用)と大森学園(元大森工業高等学校)があり、さらに、戦前に通園した日新幼稚園の跡地は諏訪神社の隣にありました。

前回に続き、諏訪神社参詣の順路(順路図再掲参照)に従い、諏訪神社の境外末社の金山神社に向かいます。諏訪神社の鳥居を出て、南北に走る通路の北方を見ると元大森第六小学校の校舎跡の建物(地図④)が見られます。ここに、入居している「こらぼ大森」については何れ先に記述したいと思います。一方、通路の南方には、日新幼稚園の跡地(地図⑤)は現在住宅が建ち並んでおります。これから進む内川沿いにある金山神社の対岸には、元大森工業高等学校(地図⑥)が見えます。
幼稚園から高等学校時代につきましては、別のカテゴリーの「大森町界隈あれこれ 大森町の学びや」で記述する予定です。

諏訪神社境外末社 金山神社
金山神社は、諏訪神社南方の内川沿いにあり、境外末社として金山彦大神(カナヤマヒコノオオカミ)を祭ってあります。

金山神社の由来
この地は、北条氏以来、数度の古戦場にして、幾多の遺跡と共に、付近諸所に、大小古墳の散在せるも、いつの頃か崩壊して、今は残存せるもの、殆ど稀なり。案じるに、これなる古墳の中には、彼の上代民族にかかわるものあるべきも、あるいはまた、当時の土民が、戦没将士の屍を葬り、塚を築きて、もって、その例を祀りしもの、尠からざるべきは、推定に難からざるべし。
その古墳、今なお原型を存して、今日に到しは、いろいろの神秘的伝説と共に、古来小祠を設けて、金山大神を斉し、もって土民の信仰を結んだため、幸いに、その崩壊をまぬかれた。現に今存在するところの、金山神社古碑は、元禄年間の物たるを見ても暸かなり。
爾来、幾星霜、今や後古墳上は、雑木の繁茂するに任せ、小祠もまた頽廃するに至れしが、隅々、今次大東京市域拡張に当り、本町の有志、神社を中心とする諏訪会を発起し、その事業の一として、墳域を整備し、社祠を改築し、もって古墳を永遠に保存し、敬神の実を挙げんとす。その由来を記して、後代にのこす。
続く

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大森町界隈あれこれ(20) 大森町の社寺(1) 諏訪神社その1

2006年05月28日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
諏訪神社例大祭
5月27、28日は、氏神様の諏訪神社のお祭りでしたが、生憎の空模様で初日は雨にたたられましたが、2日目は天気が回復し午後からは晴れ間が見えてきましたので、両日とも参詣をしてきました。
諏訪神社(大田区大森西2-23-6)は、大森町の中心にある京浜急行本線大森町駅より北方の内川沿いの開桜小学校から北西のところに位置します。

諏訪神社参詣の順路(順路図参照)には、吾が母校や子供たちの通った母校と戦前の幼稚園の跡地などがあります。
27日の12時頃には、雨がほとんど上がったので、先ずはぶらりと大森町商店街の通りにある御神酒所(地図① 1.神殿、2.町会神輿と太鼓車、3.奉納者御芳名板)に奉納しました。
奉納を済ませて、東京信用組合横の路地を北上すると、内川に面して開桜小学校(元大森第二小学校)(地図② 1.内川沿いの開桜小学校、2.開桜小学校正門付近) があり、左折すると諏訪神社の参詣路(諏訪神社鳥居)です。氏神様に参拝して神社御神酒所にも奉納してきました。

諏訪神社正門の鳥居文政七年建立

諏訪神社(地図③)には、1.建御名方神(タケミ ナカタノカミ)を祭る諏訪神社本社と、2.八坂刀賣命(ヤサカ トメノミコト) を祭る諏訪神社下社に、3.宇迦之御魂命(ウカ ノミタマノミコト) を祭る稲荷神社末社の3つの社があります。
また、境内には、貴船神社(大森東3-9-19)と共に両社に輝かしい大森漁業の終焉を記念して4.「漁業納畢之碑」が建てられております。

諏訪神社の由来
諏訪神社の由来を見ると、御鎮座の年代は明らかではないが、その昔、大森海岸袖ヶ浦へ着岸された御神体を、村民が尊崇して、一祠を建立したといわれ、御創建は江戸初期ともいわれているが、区内の社寺の多くが、鎌倉時代を機として、その源を発していることを考えると、更に遡るものと思われる。古老の多くも、この様に語られ、昭和39年(1964年)には、五百年祭が盛大に施行された。
御祭り神の建御名方神は、大国主命の第二子にましまして、風水害や流行病を防ぎ、農耕の神として、又漁業の神としての信仰厚く、特に武神としての誉れ高く、はなはだ霊力強き神として、氏子の敬神の念ますます厚く、神威あらたかに、今日に到っている。

昭和11年(1936年)に村社に定められ、東京府下荏原郡大森村字山谷(東山谷:大森東二丁目、南山谷:大森西三丁目、北山谷:大森西二丁目)の鎮守であった。
現在の御社殿(銅板葺・流れ権現造り)は、平成16年(2004年)に修復された。境内には、文政7年刻の鳥居をはじめ、狛犬、灯篭、手水屋、玉垣、記念碑等が多数建立されている。又、昭和54年(1979年)には、社務所を改築し、続く昭和56年(1981年)には、神楽殿の新築をし、氏子崇敬者一丸となって神慮を畏み、氏神様を心のよりどころとして、豊かな人間生活形成の原点として、いよいよ道の精華を発揮している。

なお、伝承として、境内に一匹の白蛇が住んで、祭礼の時、氏子の多数がお参りして、知らずに白蛇の尾端を踏んだので、古来祭礼には、必ず雨が降ると伝えられている。

雨の祭礼
今年の諏訪神社のお祭りも雨の多い5月で、言い伝えの通り雨模様でした。天気予報の通り27日は雨の週末となり神輿は中止となりましたが、28日は朝方で雨もあがり神輿も繰り出されました。
続く

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大森町界隈あれこれ(19) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第1回)

2006年05月25日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
若山武義氏手記の解説(大森町大空襲) その5
61年前の5月25日は、爆撃機500機の空襲により、中野、四谷、牛込、麹町、赤坂、世田谷他で戦災家屋16万5千、羅災人口62万の被害に遭いました。

・ロータリーから呑川までの避難説明地図
避難説明地図(再掲)は、1945年9月撮影の米国陸軍空中写真で編纂した日本地形社製作の1946年12月仮製版を、㈱之潮が2005年8月8日に複製した大森編と蒲田編の一部を合成接続して大森町付近を作成したものです。地図上の白色部分が多い場所は、爆撃により家屋が焼失した地域で、大森八丁目や九丁目と森ヶ崎上の地域は家屋が密集しており家屋の焼失被害が免れました。
地図上の赤線は、若林武義氏がロータリーから、命からがら逃げ延びた呑川の川端までの経路を推測したものです。大森第一国民学校を経て、家屋の焼失被害の無い大森八丁目まで辿り付くまでは爆撃直後であり、逃げはじめ時にはまだ自宅が延焼する前であることから、大森町爆心地が猛炎寸前で当に危機一髪の避難であったと予想されます。

・爆撃の被害跡
旧大森区の東側半分の焼失被害地域の有様を、1941年大東京大森区詳細復刻古地図に着色(ここをクリック)してみました。それによると、大森町は広域に爆撃され、大森一~七丁目は壊滅的な戦災に遭い、僅か大森八丁目と九丁目(地図欄外)が爆撃から外れ、ガス会社と東京特殊鋼が戦災を免れました。大森町の隣の入新と新井宿の被害は、一部の戦災で済み、東海道線の大森駅西口周辺は広く爆撃から外れておりますのが判ります。
では、空襲爆撃の跡はどのような惨状であったのかを、東京大空襲・戦災資料センター提供の「天神橋から亀戸方面を望む」拡大写真で見ますと、あたり一面見渡す限りの焼け野原の状態が見られます。

手記第2編 紹介
若山武義氏の手記(1946年記述)「戦災日誌(大森にて)」が、前回で終了しました。
大森町大空襲で焼け出された若山氏は、一たん故郷の仙台に帰省してから、仕事のため東京中野の借家仮住まいのため5月23日に上京し、再度の二回目の戦災を体験されました。
今回からも、東京大空襲の悲惨さを語り継いて頂くため、若山武義氏の手記(1946年記述) 第2編の「戦災日誌(中野にて)」を引続き掲載しますので、ご覧下さい。


若山武義氏の手記(1946年記述) 第2編「戦災日誌(中野にて)」第1回
再び東京中野での四世帯同居借家住まい
仙台では師団司令部兵務部勤務の本間さんを訪ねて歓談した。会社で共に働いた本間さんと、曹長さんになった本間さんは全く別の人かと思うた。戦災の体験を語り合うて楽しかった。
仙台に来て見て感じた事は、外見は武装してても警報一つなるでなし、全く外国にでも来たかの様静かである。尤も昨年の暮れ、塩釜の一部が爆撃されたけれども、見ないお化けは恐ろしくないと同様、東京はやられても、まさか仙台迄は来ないと安心している。
墓参をすまし、妻子を連れて上京、中野の借家に一時落付いたものの、先に疎開で移転した橋爪さんと、浅草で戦災の三宅さん、王子で同じく戦災の安田さん父娘と私等四世帯混合同居である。故に帝都に残留せねば生活の出来ぬ我等は、現在帝都に安全な処などあろう筈がないが、再び戦災は覚悟の上で落付く処をさがさねばならぬ。毎日空家さがしである。処で伊藤さんから、久ヶ原に借家が二軒ある、今居る処も日本鋼管の寮になるから、どっちもお互いに借りましょうとの事で、万事伊藤さんに頼んでかえったのが五月二十三日の晩である。

前回 大森町界隈あれこれ(18) 鎮魂!大森町大空襲(第11回) 
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パソコンは突然に機嫌が悪くなる

2006年05月23日 | ITと技術
突然に機嫌が悪くなる
5月21日の日曜日に、午後外出の予定がありましたので、朝早く日課の仕事を行うためメインのパソコンを立ち上げました。
いざ、使用し始めたところカナ・漢字・アルファベットの変換切り替え機能のIMEが動作せず、半角英数字の状態のままで「A」文字上をマウスでクリックしても切り替えが効きません。そこで、再起動のシャットダウンを行っても、何ら変化せず同じ状態でした。

実は、1月ほど前の4月15日に、それまでメインとして使用していた今回とは別のパソコンが、作業中突然に機嫌が悪くなり、メール機能のOutlook Expressの受信トレイに滞留していた受信メールが消去され、Outlook Expressからの送受信が動かないというアクシデントに見舞われました。その時の経緯は、4月21日付けのブログ「パソコンは、いつでもまともに動くとは限らない」に記載してある通りですが、その時にIMEが動作しなくなった今回トラブル発生のパソコンをメインに設定し、Outlook Expressが動作異常のパソコンを整備し直してサブとしての2台体制で運転を行っておりました。

5月21日午前の作業は、取り敢えず2台運転のパソコンを姑息的に分担動作させて凌ぎました。

機嫌が悪いパソコン
今回も、突然に機嫌が悪くなった中古パソコン2台の回復の処置に関しての奮戦奮闘振りをご覧ください。
2台のパソコンのソフト構成は、何れもOSはWindows 2000で、トラブルの起きたIMEはOffice 2000付属のものです。
Office 2000は、Office XP、Office 2003と2世代前の古いオフイスソフトでありますので、数ヶ月ほど前からWordなどのオフイスソフトを起動するたびに、次図に示すようにセキュリティ上の警告メッセージの表示が出ておりましたが、アップデートのインストールするためのCD-ROMが見当たらないので無視しておりました。


悪戦苦闘のパソコン修復
この際、IMEのトラブル回避と何時までも紺屋の白袴では済ませられないので、夕方帰宅後アップデートの契機であると、重い腰を上げてOffise 2003のインストールを開始しました。
Office 2003のインストールは、旧のOffice 2000を削除する条件で行いましたが、インストールの過程で「オンラインで最新のアップデートを行う」を指定したため、思わぬことで手古摺ることになりました。

それは、Office 2003のインストールの工程が済み、オンライン最新アップデートが始まりOffice 2003部分のアップデートが終了した後、Office 2000部分の最新アップデートでCD-ROM挿入を要求されましたが、それに応じられ無くギブアップです。
そこで、四苦八苦の末、何とかオンラインで最新のアップデートを打ち切ることが出来、最終的にOffice 2000を削除して一応の完了です。

これにより、やっとメイン側のパソコンは、オフィスを起動しても警報のアラームは出なくなり、Office 2003付属のIMEも正常に動作するようになり、ライセンス認証も済ませました。
しかし、一難去ってまた一難で、OS付属のアクセサリのペイントの機能が、JPEGの保存が出来なくなったのです。これに対しては、フリーソフトのBMP-JPEGの変換ソフトでも対応が可能ですので、取り敢えずは今まで通りパソコン2台構成のメインマシンとして回復しました。

深夜2台目のパソコン アップデート
この際、深夜作業となりましたが、もう一方のサブマシンの方もOffice 2003にアップデートのインストールを行いました。今回は、前の徹を踏まないように、初めからOffice 2000を削除する条件で、「オンラインで最新のアップデートを行う」を指定せずに実行しました。
ここで、Office 2003にアップデートのインストールは、Office 2000を削除する条件がプログラムを削除するものでは無く、プログラムスタートのメニューを消すだけで、コントロールパネルの「アプリケーションの追加と削除」にはOffice 2000プログラムが残っていることが判明しました。


そこで、Office 2000プログラムを削除して、Office UpdateによりOffice 2003のアップデートを行い、ライセンス認証をしました。
これにより、パソコン2台構成のサブマシンとしてアップデートが完了しました。
なお、不思議なことに今まで出来なかったJPEGの保存機能が、サブマシンのペイントで使えるようになったのです。
結果的には、JPEGの保存機能の動作が、メインとサブマシンと入れ替わっただけですが、Windowsの世界では判らないことが多く、何かあると右往左往が常で、いつも奮闘を余儀なくさせられます。

前回 パソコンは、いつでもまともに動くとは限らない 
次回 トラブル多頻発で、奮闘に追われる我が家のパソコン その1 
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大森町界隈あれこれ(18) 鎮魂!大森町大空襲(第11回)

2006年05月21日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
写真は、現在の旧呑川河口付近

若山武義氏手記の解説 その4
いよいよ、若山武義氏の手記「(戦災日誌大森にて)」も最終回を迎えました。若山氏は、大森大空襲で住居を焼失したため、その後に中野の借家で過ごした戦後までの僅か3ヶ月の間にも、二度目の大空襲被災に遭遇しました。次回から、手記の第2編「(戦災日誌中野にて)」を掲載します。
・大森第一国民学校
前回の「解説 その3」に記述の第一国民学校(現大森第一小学校)は、産業通りに面しており私の母校です。1940年に、小学1年生に入学した時には大森尋常第一小学校(校章1920年制定)と呼んでいましたが、1941年4月から大森第一国民学校と呼び名が替わり、当時軍国主義を目指した改革で、こどもが鍛錬をする場と位置づけられ、国に対する奉仕の心を持った「小国民」の育成を目指していました。
第一国民学校は、4月15日の大森町大空襲の爆撃により全焼し、大森第五国民学校(現大森第五小学校)の教室を借りて、授業をすることになりました。(同時に全焼した、大森第二国民学校戦災の絵資料写真)

しかし、私は学童疎開(縁故疎開)により、茨城県の岩瀬町第二国民学校と、途中から栃木県の物井村物井国民学校に通学しておりましたので、大森第一国民学校の戦災には遭遇しませんでしたが、1945年に疎開から引き上げてきてからは大森第五国民学校に通学したのです。
私の戦前・戦時中・戦後の小学校、国民学校時代についての記録を、「大森町界隈あれこれ 幼稚園から高校までを大森町の学びやで」で記述する予定です。

・呑川
若山武義氏が大森町の住居近くのロータリーで空爆により被災し、命からがら逃げ延びた呑川川端の呑川は、現在は川を埋め立てて旧呑川緑地帯に変遷しております。
呑川の由来を見ると、呑川の水源は、世田谷区内の旧深沢村の南部一帯といわれ、大田区をほぼ縦貫して東京湾にそそいでおります。名前の起こりは、大雨のたびに氾濫し流域の田畑を呑みこんでしまったからとも、または貴重な飲み水であったからともいわれていますが定かではありません。

この呑川は、京浜蒲田の夫婦橋下流付近から東北に蛇行して海にそそいでいるのとは別に1935年、羽田の田畑を一直線に東進して藤兵衛堀に至る新河川(新呑川)を設け、従来の呑川と共に活用されました。(「鎮魂!大森町大空襲(第10回)」トップ掲載地図再掲)
呑川や旧呑川緑地帯および大森町の風物・風景について、「大森町界隈あれこれ 大森町百景」で記述する予定です。



若山武義氏の手記(1946年記述) 「戦災日誌(大森にて)」最終回
鎮魂!大森町大空襲 合掌
ねるだんになったら、田中の良ちゃんが「おうちへかえろうよ」と云い出して中々きかない。
「良ちゃんのおうち、やけてなくなったのよ」「うん、僕のおうちやけちゃった」と云いながら「おうちへかえろうよ」と泣き出した。
翌日、火が全くなくなってからの被害の甚大なのには改めて驚かされた。大森、蒲田の重要工場地域殆ど全滅だ。疎開で建家のとりこわしなんか、莫大な費用と労力を浪費してただ焼いてしまった。本当に無駄な人騒がせと役にも立たぬ疎開をやったもんだ。大本営発表も今迄にない二百機と云う大編隊の波状爆撃で「相当の被害あり」と。
今迄は竹ツッポ焼夷弾しか知らぬ我々は敵の新兵器の大型焼夷弾と爆弾の混合投下で全く驚愕した。之等の新兵器に対しては、玩具に等しポンプや、火叩き、バケツの訓練は何の役にも立たなかった。ただ逃げるに精一杯であった。
二日二晩、喜多さんに厚い御世話になって、小林さんは郷里前橋に、伊藤さんのお母さん、田中さんたちが引続き残り、私は仙台に帰る仕度をした。
此の日の戦災に因り、十全病院経営者田中新一郎殿が御家族と共に防空壕内に於て災死せられたり、茲に深く哀悼し奉る。

前回 大森町界隈あれこれ(17) 鎮魂!大森町大空襲(第10回) 
次回 大森町界隈あれこれ(19) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第1回) 
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大森町界隈あれこれ(17) 鎮魂!大森町大空襲(第10回)

2006年05月18日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
若山武義氏手記の解説 その3
若山武義氏手記(第7回)の大森町爆撃被災状況の記述を抜書きして見ると、
 「とたんに空襲警報となった。
  .....すっかり準備はよいかと組内を一巡してロータリーの前に立つ。
  .....京浜国道夫婦橋(トップ掲載の拡大地図 京浜蒲田付近の呑川に架かる橋)先に猛烈なる大炸裂音と共に一面火の海の火柱がたった。
  .....京浜国道帝銀の前、警備隊と一連に猛炎を吹き上げて来たと同時に、瓦斯会社⑩方面、南は第一国民学校③から十全病院⑨(ロータリー①から呑川⑦までの避難説明地図)に亘り次ぎ次ぎに爆撃され、三方火の海となって迫り来る。

  .....第二、第三次ぎ次ぎの爆撃必至だ。とにかく森ヶ崎⑥(避難説明地図参照)から東海岸に出ようとして、羽田街道②(産業通り 避難説明地図参照)を国民学校の猛火の下をくぐって一散に、一団の人々とかだまりあって駆け出した。
  .....呑川の川端⑤(避難説明地図参照)迄辿り付き、
  .....とにかく森ヶ崎から中の島の方へ行こうと避難の人混みに押しつ押されつ行くと、
  .....何万とゆう人と荷物の波だ。この森ヶ崎には高射砲陣地がある筈、ここが爆撃されたら、被服廠の二の舞となる。
  .....これならうっかり森ヶ崎には行かれないぞ、ここで暫く形勢を見ようと、河の土手に陣どって観望して居た。」とあります。

4月15日の空襲は、午後10時頃からの第1波の爆撃が始まり、16日午前4時頃までの6時間に亘る執拗な波状攻撃により、大森町は壊滅的に破壊されました。その空襲の跡は凄しく、1945年秋に栃木県の学童疎開から引き上げて「学校裏駅」を降りたら、澤田通り(現環七通)付近から南方の京浜蒲田までが見渡せる焼野原で、疎開前に瞼に残っていたびっしりと建並んでいた家屋が跡形もなく焼き尽くされている(六郷橋から第一京浜国道の焼野原を見る)のを目の当たりにして、大きな衝撃を受けました。何と、国民に大きな犠牲を強いる、無茶苦茶な戦争をしたのでしょう。

日頃隣組では、防空演習を繰り返し行い空襲に備えていたのですが、何せ防護の装備が防火用水と火はたき防空頭巾にモンペでは何の役にも立ちません。ただ、身の安全の所に逃げだすのみです。
この日の手記記述者若山氏が命辛辛の避難経路を再現(避難説明地図参照 地図の赤線が避難の予想経路と思われます)して見ました。避難先の呑川の川端は、幸いと産業通りから東側の大森八丁目④と対岸の大森九丁目⑧、森ヶ崎地域は爆撃目標から外れ周囲の建物焼失の被害は免れました。
なお、この日の爆撃で山谷駅⑪(大森町駅)は完全焼失し、昭和27年(1952年)に「大森町」駅と改名され再建されるまでは、7年もの年月がかかりました。  (続く)

防火用水


若山武義氏の手記(1946年記述) 「戦災日誌(大森にて)」第9回
大森町灰燼焼野原、今晩はどこで寝る
焼跡の我が家のスタンドに、我が隣組全員無事に集合した時は本当に嬉しかったのみならずお互いに嬉し涙である。
万一の用意に埋めて置いた米を掘り出し、小林さんの家の焼けてイビツになったお釜に、焼け味噌を持ち出し、御飯を炊いて、お互いにまっくろになった顔と顔を見合わせて、おにぎりを食べたらうまさは一生忘れられぬ味である。
これで、今日やられるか明日やられるかの不安がなくなった。何もかも、惜しげなく、きれいさっぱりと焼いて、これで戦災者の仲間入りが出来たからサバサバしたと笑い合った。だが然し、今晩はどこに行くのか、このまま別れるのかと思うと全く心細い。処へ前組長の喜多さんが見舞いに来られて、みんな揃うて来てくれるようにとの御厚意にあまえ、関井さんだけ目黒の奥さんの実家に、あとは私、小林さん、田中さん、伊藤さん、お母さんともに揃って喜多さんの家にお世話になった。

風呂で昨夜来の辛苦と危機の冷汗を一切洗い流し、炊き立ての御飯に、うまい味噌汁に、本当に蘇生の思いであった。二階に、みんな枕をならべて安心して寝た時は、夜来の死ぬ苦しみはすっとんで忘れ、まるで温泉に団体で行って寝た時と同じようだと朗らかに笑いだした。

前回 大森町界隈あれこれ(16) 鎮魂!大森町大空襲(第9回) 
次回 大森町界隈あれこれ(18) 鎮魂!大森町大空襲(第11回) 
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大森町界隈あれこれ(16) 鎮魂!大森町大空襲(第9回)

2006年05月16日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
若山武義氏手記の解説 その2   写真 1934年の日本特殊鋼
若山武義氏の手記「戦災日誌(大森にて)」第6回(5月11日掲載)の、1945年4月15日の大森町大空襲の記述を見ると、
 「敵機は房総半島南端に集結しつつあり」
 ......とたんに空襲警報となった。
 「敵機は東京湾を西北進しつつあり」
 ......さては横浜か川崎が目標だなと判断した。
 ......あっと思う間もなく、京浜国道夫婦橋先に猛烈なる大炸裂音と共に一面火の海の火柱がたった。
とあります。

日曜日で快晴であった4月15日の大森町大空襲は、手記の記述にもある通り、京浜工業地帯の鶴見、川崎、蒲田、大森が精密工業の中心であることから、資料によりますと米軍は工場を破壊することを作戦として、B29爆撃部隊3航空団の1つが大森の平和島以南から蒲田以北の京浜国道を中央線とした大森町の工場破壊を目標として爆撃が行われ、他の2航空団が現在の川崎市小田、浅田、南渡田町を中心とした工場殲滅の爆撃が行われました。
この空襲で、大森は6万8千戸を焼き尽くし、特に大森町は壊滅的被害(国土交通省公開大森町上空の航空写真縮小画像1947年7月撮影)を蒙りました。川崎は3万5千戸を焼き尽くしました。

なお、大森町上空の航空写真標準画像版は、「大森町界隈あれこれ(13) 鎮魂!大森町大空襲(第6回) 」の「手記を読んで想う」欄の下から5行目記載の「ここをクリック」で見られます。
また、ここをクリックすると、大森・川崎大空襲の米軍作戦資料に関するWeb情報が見られます。   (続く)


若山武義氏の手記(1946年記述) 「戦災日誌(大森にて)」第8回
「ああ、真紅の太陽」
殆ど何万とゆう人と荷物の波だ。この森ヶ崎には高射砲陣地がある筈、若しもここが爆撃されたら、それこそ被服廠の二の舞となる虞れがある。これならうっかり森ヶ崎には行かれないぞ、ここで暫く形勢を見ようと、河の土手に陣どって観望して居た。
此の間、敵機の爆撃は益々熾烈を極め、烈風にあおられる猛炎の火の海。大型焼夷弾は炸裂と共に花火の如き熱焔を吹き上げる。爆弾は轟然炸裂と共に黒煙を天に沖し凄惨とも悲惨とも書くすべを知らぬ。ただ
 「やりやがったな」
と切歯するのみである。午前四時頃、やっと警報解除のサイレンで、やれやれ助かったと安心した。前後約六時間、何ものも残さず燃え盛る。火の手は中々おさまりそうもない。東の空はほのぼのとあけて昇る太陽は真紅であった。

 「ああ、真紅の太陽」
このようなまっかなおてんとうさまは、過ぐる関東大震災の翌朝にあった。私としては生まれて二度目の真紅の太陽、一生に忘れられぬ印象である。

前回 大森町界隈あれこれ(15) 鎮魂!大森町大空襲(第8回) 
次回 大森町界隈あれこれ(17) 鎮魂!大森町大空襲(第10回) 
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大森町界隈あれこれ(15) 鎮魂!大森町大空襲(第8回)

2006年05月14日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
写真は、現在の呑川橋ですが、呑川は埋め立てられ橋の下には川が流れていません。

若山武義氏手記の解説 その1
若山武義氏手記クライマックスに入り、前回「大森町界隈あれこれ(14) 鎮魂!大森町大空襲(第7回)」(5月11日)から、大森町の大空襲の場面が登場して参りました。
手記は、60年も前に記述されたものでありますので、現在の地名とは異なったり、また現在では見られない物や風物が出てきてます。そこで、今回からこれらについての理解をして頂くための解説を、大森・蒲田戦災地図(出典:下記に示す)を元に説明を致します。
(大森・蒲田戦災地図出典:1945年9月撮影の米国陸軍空中写真で編纂した日本地形社製作の1946年12月仮製版を、㈱之潮が2005年8月8日に複製した大森編と蒲田編で手記に関連する部分のイメージを利用して、情報を加味加工編集して合成したものです。)

鎮魂!大森町大空襲(第7回) 手記掲載解説
・ロータリー 
当時の京浜国道と産業道路とそれに美原通リとの交差点(戦災地図大森編参照)は、四叉路で、ロータリー交差点になっておりました。1945年代は、現在のように車社会ではなく、京浜国道のような幹線道路でも、走行車両は大変少なく四叉路で信号機がなくても通行ができる時代でしたので、ロータリー交差点で支障がありませんでした。
国土交通省の説明によると、ロータリー交差点は、1934年に東京都の和田倉門交差点において、我が国で初めて設置されてから、1941年までに43交差点が整備されました。しかしながら、戦後になり、①大型車の通行に支障がある、②信号交差点に比べて交通容量が小さい、③一般に必要面積が広く、用地の確保が困難な市街地では採用が難しい。
等の問題があることから、主要交差点からは姿を消してしまうこととなりました。

その後、車社会の到来により、信号機の交差点では渋滞が慢性化したため、現在では立体交差となり、有名な大森警察署前の交通渋滞情報は解消しました。
ロータリー交差点の機能およびロータリー写真例が、道路設計会社のシビルテックWeb(リンクフリー)に掲載されておりますので、参照して下さい。
ロータリー交差点の機能
・ロータリー交差点の写真例(福岡県八幡区にあるロータリー交差点)
大森町ロータリー交差点の構造は、八幡区のロータリー交差点とは若干構造が異なり、ロータリーが盛り土で一段高くできており、その周囲には人が跨げる程度の高さのコンクリート製土手が築かれておりました。まだ、学童疎開前時代に近所の腕白供達と、ロータリーの土手内に飛んでくるトンボやバッタなどの昆虫採りをした記憶があります。


若山武義氏の手記(1946年記述) 「戦災日誌(大森にて)」第7回
大森町大惨劇
「逃げろ」と云うた、「逃げてくれ」と云うたか、消す処の沙汰ではない。全く四方猛炎に包まれて、平素の覚悟や訓練なんかすっとんでしまって全く周章狼狽、混乱のまま我れ勝ちに安全の処、安全の処と非難するより外なかったのである。
私も一たん我が家に飛び込んで、非常袋に重要書類のみ詰め込んで飛び出した。落ち付こうと思うても落ち付けない。とにかく風の流れはと見ると、東の方からの烈風が吹きつけて、火の粉と煙が身近かに迫り、刻々猛火をあをっている。北、東、南と三方の火の海、僅に西には火がないが、第二、第三次ぎ次ぎの爆撃必至だ。とにかく森ヶ崎から東海岸に出ようとして、羽田街道を国民学校の猛火の下をくぐって一散に、一団の人々とかだまりあって駆け出した。
呑川の川端迄辿り付き、一息ついて蒲田方面を見ると、之れ亦一面火の海、大森をふるかえって見ると、火の手は五ヶ処も六ヶ処も燃え盛る。敵機は波状爆撃に次ぎ次ぎ繰り返し繰り返し爆弾、焼夷弾を投下しているのが明瞭に見られる。とにかく森ヶ崎から中の島の方へ行こうと避難の人混みに押しつ押されつ行くと、背後から突然カン高い女の声で呼ぶ声がする。ふりかえって見ると佐久間君夫妻だ。赤ちゃん背に、着のみ着のまま。疎開でやっと梅屋敷のアパートに落ち着くまもなく今夜の直撃で命からがら逃げて来たとの事。先ずお互いに無事で何よりだと喜んで、励まし励まされつつ森ヶ崎の入り口の処まで来て立ち竦んだ。

前回 大森町界隈あれこれ(14) 鎮魂!大森町大空襲(第7回) 
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大森町界隈あれこれ(14) 鎮魂!大森町大空襲(第7回)

2006年05月11日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
東京大空襲の記録資料(2) 「東京大森海岸 僕の戦争」
東京大空襲の記録資料で大森に関しての資料は大変少ない中で、1933年に大森区入新井(現大田区大森北)で生まれ、51年間町工場の職人さんとして働き、1980年代半ばに芥川賞候補の作家として活躍された小関智弘氏が書き下ろしの「東京大森海岸 僕の戦争」(2005年筑摩書房発刊)は、戦時中軍需工場が集積した大森は空襲の標的になり、機銃掃射に遭い住居も全焼の被災者となった戦中、戦後を少年の目線で振り返り、体験を語り戦争が風化しつつあると懸念して、「戦争は戦場でだけ起こるのではなく、戦争を経験した人が『自分はこうだった』と声を上げることが必要だ」との思いで執筆したとあります。
私と同じ生まれ年である小関智弘氏は、早生まれで学年では1年先輩であるため、1945年の春小学校(当時の国民学校)卒業により、学童疎開から引き上げてきたため、東京大空襲に遭遇されたことになります。私は、運良く東京大空襲時には国民学校6年生の最終学年であり学童疎開先で過ごし、空襲の被災を直接受けることなく免れられたのです。
大森区入新井は、タイトルの「大森町界隈あれこれ」の大森町とは目と鼻の先の所(大森町戦災焼失地図)にあり、自宅から徒歩で約15分の距離しか離れておらず、若山武義氏の手記の1945年4月15日の大森町大空襲で遭われた戦災の体験を、大人と子供の見た光景の記憶は大変貴重な資料です。
手記と作家の描いた書下ろしを合わせて読むと、戦争の一層の虚しさ、悲惨さが伝わってきます。


若山武義氏の手記(1946年記述) 「戦災日誌(大森にて)」第6回
大森町大空襲は蒲田方面から京浜国道沿いに北上爆撃
おやっと思ふと警報発令だ。軍情報は
「敵機は八丈島東南方を西北進しつつあり、本土到達迄約三十分の距離なり」
と。さては来たなと、例の通り仕度を仕直して次の情報を待った。
「敵機は房総半島南端に集結しつつあり」
と。ははあ、それではいつものコースの通り土浦か太田かと判断した。とたんに空襲警報となった。
「各家庭の防火群の皆様、切に激闘を望む」
毎度の事、すっかり準備はよいかと組内を一巡してロータリーの前に立つ。
「敵機は東京湾を西北進しつつあり」
「東京湾を西北進」、さては横浜か川崎が目標だなと判断した。とたんに森ヶ崎から多摩川沿岸の探勝照灯が一勢に閃き出すと共に森ヶ崎の高射砲が轟然とうなり出した。あっと思う間もなく、京浜国道夫婦橋先に猛烈なる大炸裂音と共に一面火の海の火柱がたった。
「アッ、しまった」と思う間に背後に百雷一時に落下する凄猛なる轟音!
アッ、爆弾と直覚して地面にツッ伏した。形容の出来ぬおそろしき轟然炸裂とともに一面火の海。
立ち上がって見ると、京浜国道帝銀の前、田川食堂、赤羽根町会長宅、警備隊と一連に猛炎を吹き上げて来たと同時に、瓦斯会社方面、南は第一国民学校から十全病院に亘り次ぎ次ぎに爆撃され、三方火の海となって迫り来る。
予想に反し、あまりにも予期せぬ恐ろしさにただ顚倒、我が周囲は一瞬に阿鼻叫喚の巷と化し、恐怖に呆然と立ち竦み、名状し難い混乱となった。

前回 大森町界隈あれこれ(13) 鎮魂!大森町大空襲(第6回) 
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大森町界隈あれこれ(13) 鎮魂!大森町大空襲(第6回)

2006年05月09日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
手記を読んで想う
若山武義氏の手記も佳境にはいり、4月13日のB29編隊330機による城北大空襲(根津山小さな追悼会記録資料4月18、25、27日付ブログ参照)による大被災を受け続けさまに、4月15日にそれまで爆撃のなかった大森の工業地帯を目標に、120機の爆撃機の波状攻撃による大森町大空襲の場面がいよいよ登場します。
大森町大空襲による被災は、爆弾14.5トン数、焼夷弾754.4トン数の爆撃によって戦災家屋6万8千4百余り、羅災人口26万3千9百、負傷者1千6百有余人、死者841を出しております。(出典 東京空襲を記録する会作成 図説東京大空襲 河出書房新社から)

手記に出てくる大森第一国民学校の猛火は、学童疎開の直前まで通学していた母校であり、京浜急行の山谷駅(現大森町駅)も爆撃により焼失して1952年の再開まで廃駅でした。
防空壕で亡くなられた方は、手記の若林氏と私の父の勤務先の会社の役員さんで、ムクと云う名の赤毛の大きな犬を飼っておりました。よく夕方になると主人を迎えに先ず大森警察署前の事務所に寄り居ないと、瓦斯会社傍の本社へと迎えに通っておりました。事務所は住宅兼務でそこに住んでおりましたので、晩御飯を食べている時くるとおかずを分けてあげていたのでよく懐いておりました。手記を読み、主人と共に災死に遭ったのは戦争とは云え、悲惨で胸が篤くなります。戦禍で亡なわれた方のご冥福をお祈りし、再び戦争を繰り返さないことを願います。

なお、4月6日のブログのコメントでtakuさんから、1947年7月9日撮影の高度1,524mからの大森町上空の航空写真(国土地理院)を紹介して頂きましたのでここをクリックしてご参照ください。まだ、大森一体は戦災の焼け野原で、若干バラックが散見して見られます。
なお、takuさんから頂いたコメントには、国土地理院の空中写真閲覧サービス(試験公開)の紹介があり、大森以外の航空写真も見られますので、大森町界隈あれこれ(6) 大森町に住んで65年!(その5)コメントをご覧下さい。


若山武義氏の手記(1946年記述) 「戦災日誌(大森にて)」第5回
大森空襲の想定
学童疎開から始まって、今日は足手纏いの老幼婦女子は帝都に残留するなかれだ。金と暇のあるお偉い人々は、田舎に、山奥に、これ等に便乗して御疎開遊ばれる荷物も租界だ。なんだかんだの神田橋ではない。一方兵隊さんが来て家屋取りこわしにかかる。柱をのこで切り、太いロップをかけて、エッサ、ユッサと力まかせにもりもりと引きずリ倒す。
長年寝起きした我が住まいが無残と崩れるのを見て泣き出す幾多の婦人もある。一々気にして居られぬ。日に日に爆撃が強烈になるし、この處帝都は混乱、乱雑、人心不安、戦災者、疎開者を帝都より運び出す汽車の人殺し沙汰、全く地獄の様相である。

四月十三日夜、池袋、大塚、巣鴨、滝野川、田端に亘って相当広範囲に爆撃され、終夜猛炎天を焦がすばかりである。京浜地帯では、今日まで大森、蒲田は被害らしき被害はないから、今度こそこっちの番だぞと不安になって来た。
敵の爆撃は今日迄の経過を見ると、丁度一週間目毎に帝都にやって来る。其の翌日から毎日毎夜、一機、二機、三機戦果偵察に来る。我が頭上四週を偵察し始めたから、こんどは大森はあぶないぞと予感もした。然し十三日に大挙来たのだから、今度は二十日前後だなと想定をして居った。

四月十五日晩、関井さん来訪、疎開後の始末やら爆撃被害の情報を語り合って、九時の時計の音で、それではお明日と辞去された。さて寝ようかなと床をのべると、それ迄我が膝の上に、何時ものように安眠して居た「たま」は手足をのばし、大きなあくびをして、待ってましたとばかり床の中にもぐりこんでしまった。私も帯びをときかけるととたんにブザーが鳴り出した。

前回 大森町界隈あれこれ(12) 鎮魂!大森町大空襲(第5回) 
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小さな旅(4) 京都日帰り桜・花見 その4

2006年05月07日 | 小さな旅
大原野山麓 西国三十三所善峯寺の枝垂れ桜 4月9日紀行第4回
山麓の勝持寺の上ってきた道を戻り、南春日町から灰方を経て大原野小塩町の西国三十三所善峯寺(地図参照緑印)に向かいました。

善峯寺は、勝持寺より高所にあり山道のドライブで灰方からおよそ4キロほどにある、バスなどの大型車が駐車できる第二駐車場までは快適に飛ばしてきましたが、そこでアクシデントに出会いました。
アクシデントは、4月6日午後6時頃、第二駐車場を過ぎ参道口付近の少し先で がけ崩れ が発生し、第一駐車場に向かう道路が通行止めになっていたのです。
そのため、ここまでの花見観賞のように車の門前に直付けの花見は適わなくなり、初めて九十九折の急勾配の歩道「よしみね参道」を息急き切らして登り、やっと善峯寺の山門に辿り着きました。これにより、快適なハイヤーと整備された道路の有難味が切実に分りました。
しかし、山中に創建された寺社は、山麓から歩いて参詣をすることが本来の姿でありますので、参道くらいは息急きを切らして登りませんとご利益を授けて頂けませんことで、気持ちの良い一汗をかきました。

由来によると西国三十三所善峯寺は、1029年に源算上人がこの地に小堂を建て、自作の十一面千手観音をまつられたのに始まります。観音信仰の高まりとともに早くからその霊場として栄え、創建まもない長元七年(1034)に後一条天皇 から「良峯寺」の寺号と聖詠をたまわって以来、歴代天皇の崇敬あつく、中世 には「西山宮」と称する門跡寺院となり、五十あまりもの堂塔を有する大寺院となりました。
しかし、応仁の乱(1467~77)の際に兵火を受けて焼け、現在の諸堂の多くは、江戸時代に徳川五代将 軍綱吉の母である桂昌院の援助によって再建されたものです。
元和七年(1621)再建の多宝塔は、現存最古のもので、重要文化財に指定されています。

深い木立の中にある善峯寺の10万㎡の広い境内(googleサテライト地図参照)は、京都が眼科に見える回遊式庭園で、1692桂昌院によって再建された山門を潜り、正面の観音堂の十一面千手観世音菩薩をお参りして、右手を進むと天然記念物の樹齢600年の五葉松は、さすが「日本一の松」と称するだけあって、必見の松です。「遊龍の松」と呼ばれる松は、枝が横に長く延びていて全長54mありましたが、平成6年に松くい虫のため15mほど切りとられました。松の幹元は太く、枝はまるで龍が遊んでいるように延び脇にある標石は1886年鳥尾中将の書であり、それから先の枝はあまりにも長く、松の先端はカメラの視界外でした。

「遊龍の松」と1705年建立の経堂の先にある枝垂れ桜は、桂昌院お手植えのもみじとの寄せ植えで、花はかなりほころびはじめ、後一週間ほどで満開となる状態でした。
枝垂れ桜を観賞し、つりがね堂、多宝塔、阿弥陀堂や幸福地蔵など歴史ある古寺の諸堂を参観して、心から安らぎを感じました。

枝垂れ桜

また、境内からの京都市街の展望は、うす曇で靄がかかっておりましたが一望でき素晴らしい眺めでした。
善峯寺の古い歴史を感じ、急坂の参道もそれほどの苦労もなく下山し、駐車のハイヤーまで戻り、日帰りの花見を終え帰路につきました。お世話になりましたハイヤーは、帝産観光タクシーで、ドライバーは戸田さんで一日の観光案内を有難うございました。

あとがき
京都日帰りの旅は、実は初めてではなく3回目の日帰りの旅でした。
最初の京都日帰りの旅は、いまから12年前の平成6年11月に周山街道の高雄、槇尾、栂尾の三尾の紅葉名所を歩き、二回目は翌年11月に大原の里の三千院、寂光院を歩きました。この時は、東京から新幹線と京都の路線バスを利用し、目的地一箇所の周回と帰路に洛東の一寺に寄って帰りました。
今回の旅は、久方振りの京都日帰りの旅であり、趣を変えて春の桜・花見とし、観光ハイヤーを利用して複数箇所の桜の観賞を目的として企てましたが、花見時と天候が選べる日帰り旅行は、宿泊の余裕が得られない場合に好適で、混雑が予想される桜・花見で多数の場所を周回するハイヤー利用は最適でした。

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小さな旅(4) 京都日帰り桜・花見 その3

2006年05月05日 | 小さな旅
椿寺地蔵院の椿の花見 4月9日紀行第3回
今宮神社を後にして、西大路通りを南下して北野天満宮の南方向にある西大路一条交差点傍の京都で花見最初のお寺の「散り椿」で有名な洛陽三十三所観音第三十番札所椿寺地蔵院(地図参照)で、満開の椿と枝垂れ桜を観賞しました。

由来によると、椿寺地蔵院(地図緑印)は、726年に行基菩薩が攝津国昆陽野池のほとりに建立した浄土宗昆陽山地蔵院が始まりで、平安時代に衣笠山に移されたが焼失し、1589年足利義満が現在地に再建したとあります。
また、有名な散り椿は、秀吉朝鮮侵略文禄の役の際に加藤清正が朝鮮蔚山(うるさん)城から持ち帰って秀吉に献上したものを、北野大茶会のときに椿寺に献上された初代の椿は枯れ死しました。現在花を咲かせている「散り椿」は、二世椿で樹齢が約百年で書院の前庭で毎年満開の花を見せています。

洛西大原野 花の寺勝持寺の西行桜
地蔵院を出たところで昼時となったので、西大路通りを南下(地図参照)しながら、次の場所の洛西大原野 山里へ行く途中での京都ならでの食事所の心当たりを運転手さんに頼み、寺の門前で精進料理が味わえるというお店に打診してもらったところ、残念ながら廃業したとのことで、そのまま次の目標に向かって西大路通りを西大路九条まで南下(地図参照)しました。

西大路九条で右折し桂川の久世橋を渡り西進し、阪急洛西口を横切り快適なドライブで洛西大原野へと入ってきました。小畑川(地図参照)を渡り、洛西高校のヘリを右折すると、この辺りは竹林が多く竹の子の産地です。
旬の竹の子ご飯を味わうため勝持寺前の「京・洛西ぶへい」(小畑川地図赤印)に直行しましたが、満席のため時間待ち予約をして、花の寺勝持寺」(小畑川地図緑印)へと車で上がって行きました。

花の寺勝持寺は縁起によると、京の西山連峯の麓にあって、小塩山大原院勝持寺と呼ぶ古刹であります。680年に天武天皇の勅により神変大菩薩役の行者が創建したのが始まりで、791年に桓武天皇の勅により伝教大師が堂塔伽藍を再建し、薬師瑠璃光如来を本尊としました。838年に仁明天皇の勅により塔頭四十九院を建立しましたが、応仁の兵火に遭い仁王門を除き焼失しました。現在の建物は乱後に再建されたものとあります。

勝持寺の境内には、染井吉野をはじめとして数種類の桜約450本が見頃をむかえ、1140年に勝持寺で出家した西行が一株の桜を植えて吟愛していた桜を、世人が西行桜と称し、寺を花の寺と呼ぶようになったそうです。

西 行 桜

阿弥陀堂(本堂)と並んだ瑠璃光殿には、重要文化財の薬師如来像本尊と胎内仏、金剛力士像や日光菩薩像・月光菩薩像・十二神将像と西行法師像などが安置されておりました。
境内にある西行桜など数多くの枝垂れ桜米桜など見頃の桜を観賞し、最古の仁王門、不動堂、庫裡や宝物などをゆっくりと見物して、昼食をとりに京・洛西ぶへいに戻りました。

洛西ぶへい
竹の風音を聞きながら、心地良い昼食タイムを、京都西山の竹林に囲まれた味処、洛西ぶへいでこの時期しか食せない、旬の朝採り竹の子を食材にした筍弁当を賞味してきました。
昼食後、京都日帰り桜・花見最後の目的地の西国三十三所第二十番善峯寺へと向かいました。

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小さな旅(4) 京都日帰り桜・花見 その2

2006年05月03日 | 小さな旅
洛東 鴨川から洛北 高野川の桜並木 4月9日紀行第2回
祇園白川の花見の次の行き先は、洛東 鴨川(地図参照)とその上流の洛北 高野川、賀茂川沿い(地図参照)の桜並木で観光タクシーのドライブにより、車中からの花見を楽しみました。
祇園白川から四条通りを西進し、四条大橋で鴨川沿いの川端通に入り北上して、鴨川の桜並木の染井吉野はまもなく満開と云うところでした。
鴨川は、Y字型をしており、京阪の出町柳駅あたりが合流点で、東から流れてくる支流を「高野川」と云い、分岐の西側を流れる川が「賀茂川」で、ドライブは右手の高野川右岸の川端通桜並木道(洛北地図青印)を北上し、車中より花見を堪能しました。

高野川とは、修学院近くで左折して高野橋を渡り北山通りを西進して別れを告げて、西側に分岐した「賀茂川」の桜並木へと向かいました。
北山通りに面した松ヶ崎の住宅街町並みは、旧市街とはすっかり趣きが換わり新興住宅街で京都風情は見られません。しかし、北山通りを進むとすぐ右手に京都の伝統行事五山送り火の一つ「妙法」のうちの「法」の字を点火する松ヶ崎東山(洛北地図赤印)が見えてきます。さらに、北山通りをおよそ1.5キロほど進むと、「妙」の字を点火する松ヶ崎西山(洛北地図緑印)が見えてきます。
妙法を示す文字の位置は、思ったより低いところにあり、京都旧市街から見ると松ヶ崎周辺は高台にあるため、市内から眺めるとよく目立つのではないかかと思いました。

五山送り火は、8月16日午後8時から次々と、京都盆地の周囲の山に「大」「妙法」の字や鳥居、船を形どった火を点火して、精霊送りの盆行事です。送り火百科(京都新聞社出展)によると、妙法送り火は、松ヶ崎西山の「妙」は鎌倉時代末期に日蓮宗の僧日像が妙の字を書き点火したのが起源とされ、「法」は近世初期に始まったと伝えられるとあり、二山による二字形であるが、一山一字形としています。

賀茂川の紅枝垂れ桜並木
北山通りの松ヶ崎東山と松ヶ崎西山の反対の南側にある京都工芸繊維大学には、IT関連の会合に参加出席したことを思い出しながら花見のドライブは進行し、賀茂川に架かる北山大橋を渡り左折して加茂街道(北山大橋から上賀茂橋を経て、御薗橋までの賀茂川の西岸約1キロメートル)に入り、北大路橋までの対岸の紅枝垂れ桜(奇祭地図緑印)は未だ開花したばかりで蕾が満開に備えているところでした。

賀茂川東岸の紅枝垂れ桜の小道は、地元の方が花見を楽しんだところですが、観光客にとりましては、高野川右岸の川端通桜並木道とともに花見の穴場です。
京都では加茂街道と賀茂川に、鴨川と、「かも」がつく漢字が3つありますが、京都に住んでいる人でも混同するそうです。ブログの記述にあたり、東京生まれの者には、大変と間誤付きました。

三大奇祭 やすらい祭り
北大路橋で賀茂川と分かれ、たまたま4月の第2日曜は、京都三大奇祭一つのやすらい祭りが北区の今宮神社(地図参照)で行われることを、ハイヤーの運転手さんが記憶しており、寄り道して祭りの様子を探索するため今宮神社方面に向かいました。
偶然と途中で、今宮神社北にある念仏寺から出発して町内を練り歩く行列に出会いましたので、車中から見物できました。

三大奇祭やすらい祭りの今宮神社

やすらい祭りは、疫病を鎮める祭として始まり、鎮花祭とも呼ばれており町内を練り歩いてから神社に到着後、悪霊を降伏させる儀式が行われるのだそうです。
三大祭りは、やすらい祭りと広隆寺で10月10日に行われる「牛祭」に由岐神社で10月22日に行われる「鞍馬の火祭り」を云います。
東京ではお祭りと云うと、店が出て人が集まるのが一般ですが、今宮神社の境内には入りませんのでわかりませんが、神社周辺には出店などが見当たらず、また練り歩きの行列には見物人はおりませんでした。京都のように、多数ある神社のお祭りは、氏子による信者の熱心な儀式の様です。

今宮神社を後に、西に左大文字送り火の大文字山を見て千本北大路を南下し、京都花見最初のお寺である椿寺地蔵院に向かいます。

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番外編 ブログの参照写真などを拡大して見る方法 [付 kan-haruの日記4月月間INDEX]

2006年05月01日 | INDEX
ブログ記事の参照写真や地図などの見方 (インターネットエクスプローラ IE 6.0の例)
① 下に示しました緑色で記述のブログ文を例に取り、写真を見てみましょう。
本文の中に下線が引かれている文字には、写真、図や資料または外部のインターネットなどと結合するリンクが張られております。
緑色のブログ文例中の下線が引かれている文字の「3月中に満開」には、写真とリンクが張られていますので、下線付き文字上にマウスを当てクリックすると下図に示す様に、ブログとは画面が換わって写真が表示されます。

マウスをクリックして表示された写真例

② 表示された写真からブログに戻るには
上図の表示写真例のインターネットエクスプローラにある、アイコンメニューバーの「戻る」(赤丸表示)をクリックしますと、元のブログのページに戻ります。
③ 実際に緑色で示しました下記のブログ文例の下線付き文字にはリンクが張られておりますので、写真を表示してから続いてブログのページに戻って見ましょう。

[ブログ記事の例]
4月は春爛漫、春の花は桜が代表してまさに花盛りです。
今年は気象の関係で東京地方では、桜の開花が例年に比しかなり早く見られ、3月中に満開となりました。そのためか、めずらしく関東の茨城県水戸偕楽園では、桜と桃と梅が同時に観賞できたと伝えられております。

ブログ記事の参照写真や地図などを拡大して見る方法 (インターネットエクスプローラ IE 6.0の例)
下図に示す様に表示した参照写真や地図などの文字が小さすぎて判読が困難な画面では、表示された画面を拡大して表示することができます。
拡大表示をするには、表示画面上にマウスを暫く置いて待つと、IE 6.0では画面の左上隅と右下隅にアイコンを表示して現れます(下図参照)。
アイコンが表示されたら、右下隅の「拡大・縮小」アイコンをクリックしますと表示画面が拡大表示され、文字をはっきりと読むことができます。

文字が小さすぎて判読が困難な画面例

① 下に示しました緑色で記述のブログ文を例に取り、下線付きの文字「プログラム」をクリックして拡大表示をして見てみましょう。
② 表示されたプログラム上にマウスを暫く置いて、「拡大・縮小」アイコンの表示を待ちます。
③ アイコンが表示されたら、「拡大・縮小」アイコンをクリックするとプログラムが拡大表示して、文字が読み取れます。ブログに戻るには、アイコンメニューバーの「戻る」をクリックします。

[ブログ記事の例]
コンサートのプログラムは、第1部がソロと第2部の室内楽で構成され、演奏曲目と演奏者はプログラム記載の内容で、それぞれ5人がこれまでの技を磨いた若さ溢れる演奏を披露されて、聴衆がこれからの成長を期待しての熱烈なアンコールにより、樋口佳菜子さん


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