K&A

kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第16回その2)

2008年03月30日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2008

< 総合INDEX へ

工事資材運搬車と工事車
京急終電車が通過後の3月11日0時過ぎに大森町第1踏切を渡る機会があり、この時に大森町駅上高架化工事の作業で使用している、工事専用の資材運搬車や工事作業車を見ることができましたので記録してきました。
・道路・線路両用運搬車
専用の運搬車は、普通の運搬トラックのタイヤ走行の形状に付加して、鉄製車輪を備えた4+4輪のトラックで、道路上と線路上の何れでも走行ができるものです。
トラックの走行は、道路を踏切上の線路中心点で直角に停車して、車体からジャッキを突き出してトラックを持ち上げます。次に、トラックを線路と平行になる様に回転させて、鉄製車輪をタイヤより先の位置まで出して、その車輪を線路にはめて走行します。

線路で直角に停車(写真拡大) 線路と平行に回転(写真拡大) 線路上を鉄輪で走行(写真拡大) 

・工事専用車
高架化工事の専用工事車として、線路上を走行する青色塗装のシャベルカーと線路の先では黄色塗装の工事車が作業をしていました。

作業中の各工事車(写真拡大) 鉄輪シャベルカー(写真拡大) 作業中の両用運搬車(写真拡大)

駅設備工事
大森町駅上のホームの屋根は、工事1号機南下移設と同日の17日に、さらなる工事機の移設に備えて上下線のホーム屋根の幅を削る工事が行われました。

 ホーム屋根幅削除工事      工事機移設に備えてホーム屋根幅削除

3月23日には、上りホームの工事中であったスロープ通路が完成し、西口改札通路は以前と比較してかなりゆったりとなりました。

 西口上りホームのスロープ通路

環7鉄橋と大森町第5踏切間の高架化工事
大森町第5踏切西側から、内川南岸までの線路沿いの住宅が立ち退き、高架化工事の準備が開始されました。

 大森町第5踏切西線路際から内川南岸までの工事準備

3月26日には、内川に架かる内川橋梁の南岸で仮線敷設用と思われる工事を行なっていました。

 内川橋梁南岸高架仮線工事    (3月24日撮影)     (写真拡大3月29日撮影)

また、同時に内川橋梁の北岸でも仮線敷設工事を行っていましたが、この部分の延長は道路上であり、道路西に面した私有地と思われる所も工事が進められており、高架橋建設はどの様に進められるのか興味のある個所です。

 内川橋梁北岸高架仮線工事    (3月24日撮影)     (写真拡大3月28日撮影)

また、内川橋梁から環7鉄橋までの坂道高架橋の下でも、工事が進んでいます。高架工事は、高架橋下の現場の大半は幕や塀で囲われており、時折の工事車や機械の使用する時の僅かな時間に隙間から見られる程度です。内川近辺の高架橋下では、高架橋築造の基礎を、地下深く掘って構築していました。

 坂道高架橋下の高架橋基礎工事 (内川近辺 3月28日撮影)

坂道高架橋中間付近の高架橋下の工事でも、基礎工事を行っており、この基礎の上に坂道高架橋を外して新規の高架橋橋脚を建設するようです。

 坂道高架橋下の高架橋基礎工事 (坂道高架橋中間付近 3月24日撮影)

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(3月分掲載Indexへ)
カテゴリー別Index 大森町界隈あれこれ 京浜急行関連総目次
<前回 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第16回その1) へ
次回 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 梅屋敷駅付近(第7回) へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第16回その1)

2008年03月28日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2008

< 総合INDEX へ

大森町駅上高架化工事状況
3月中旬から下旬にかけての第1工区大森町駅周辺の高架化工事状況の近況を纏めました。
・1号工事機
大森町駅上の高架化工事機械は、3月2日には2機とも駅ホーム上に移設されてから、駅ホーム部の基礎杭の築造が進み、3月17日には工事1号機が駅西口「ほのぼの通り」の田肥電器の前まで南下しました。

  3月12日工事機位置             3月17日工事1号機位置

この基礎杭の築造には、地下に埋め込まれる大口径で長尺の基礎杭鋼管と基礎杭鉄筋筒枠が使用されます。

       1・2号工事機械の工事作業役割分担(第2工区説明図から再掲)

基礎杭鋼管が立退き住宅跡空地に、基礎杭鉄筋筒枠は大森町第1踏切そばの線路脇と工事機上に、工事に備えて一時保管されております。

 立退跡地の基礎杭鋼管  線路脇の基礎杭鉄筒筋枠 工事機上の基礎杭鉄筋筒枠

・基礎杭鋼管と鉄筋筒枠の地中挿入工事
高架橋建設における橋脚建立の基礎杭築造には、先ず橋脚建立部所を、先端に切削回転カッターを付けた工事機械を、クレーンで支えながら鋼管または鉄筋筒枠を埋込む深さまで穴を掘ります。
次に、杭施工機で基礎杭鋼管または基礎杭鉄筋筒枠をクレーンで支えて地中に挿入して、コンクリーで固定するようです。写真は、3月23日の下りホームでの工事の模様です。

橋脚部穴あけ工事(拡大) 基礎杭鋼管を杭穴に(拡大) 基礎杭鋼管の地中挿入(拡大) 3月23日撮影

基礎杭鉄筋筒枠の地中挿入は、工事が深夜のため確認できませんが、見ていた時間中では同一の橋脚部の穴に、3本の筒枠を地中挿入してましたので、それ以上の本数を埋め込むようです。写真は、3月27日の上りホームでの工事の模様です。

基礎杭鉄筋筒枠を杭穴に(左拡大) 基礎杭鉄筋筒枠の地中挿入(中拡大右拡大) 3月27日撮影

高架橋築造工事
・2号工事機
大森町駅ホームまでの高架橋の架設は、3月23日には第4高架橋からホーム方向に4本の橋脚が建てられ、同26日には線路に平行な2本の橋桁が付けられると共に、第3と第4高架橋間に渡り連絡通路が設けられました。
また、工事2号機も同日にホームを南下して、駅西口「ほのぼの通り」の北端付近に移設されました。

1、2号工事機位置(3月26日)   2号工事機位置    第4高架橋架設状況(3月23日)    

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(3月分掲載Indexへ)
カテゴリー別Index 大森町界隈あれこれ 京浜急行関連総目次
<前回 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 糀谷駅付近(第1回) へ
次回 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第16回その2) へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大田区界隈 第1京浜国道立体交差工事 南蒲田立体交差事業現場見学会 その3

2008年03月26日 | 大森町界隈あれこれ イベント
kan-haru blog 2008

< 総合INDEX へ

擁壁区間の工事
擁壁区間の工事は、南蒲田交差点より品川側工事を五洋株式会社が施工を行い、2007年4月から蒲田立体擁壁その1工事が開始され、昨年末からの工程では立体工事が始まりました。工程には、U型擁壁工事部の上に路面覆工を支持するためのH型鋼を建て込む中間杭工、地下を掘るために圧入鋼矢板の壁で土を押さえる鋼矢板工、鋼矢板同様に土を押さえるH形鋼を建込む地中連続壁工などがあります。
2月23日の見学時点では、U型擁壁部の鋼矢板工の施工を行っていました。

            擁壁区間の工事

・擁壁区間工事の見学
トンネル工事を見た後、工事昇降口現場から北側品川方向へと道を挟んで隔てた、移動式クレーンが稼働している工事現場(地図参照)へと向かい、途中で先に擁壁区間工事を見学したB班グループとすれ違いました。
トンネル工事は横浜方面下り道路を見ましたが、擁壁工事は品川側U型擁壁の品川方面上り道路での見学です。工事現場は、第2石井ビル(9階)と12階建て茶系色ビルが並ぶやや南方向のU型擁壁の西面工事です。

 トンネル工事現場から擁壁区間工事現場へ移動

工事に使用する鋼矢板は、工事現場の途中に置いてありましたが、幅60cm、長さは8.5m~16.5mのものを使用します。鋼矢板は移動式クレーンで吊上げて、油圧式圧入機(サイレントパイラー)で、写真の形状をした鋼矢板を交互に反転させて圧入します。
鋼矢板の圧入の周囲の水は水道水を注入したもので、これにより鋼矢板が入り易くなるそうです。

         工事場の土を押える鋼矢板            油圧式圧入機     

油圧式圧入機の鋼矢板の圧入は、思ったより早い速度で鋼矢板が圧入されました。圧入開始の写真左上から写真右下までの圧入に要した時間は、約6分でした。

鋼矢板圧入(14:08撮影)                           (写真右14:10撮影)


  鋼矢板圧入(14:11撮影)                      (写真右14:14撮影)

鋼矢板の圧入の位置は、レーザーにより鋼矢板に当てて位置決めを行います。

      鋼矢板を定位置まで圧入    レーザで位置決め(黄丸内の赤点:レーザー光)

鋼矢板が所定の位置まで圧入が進んだ時点で、見学を終えて「なんかまふれあい館」に戻りA、B班が揃ったところで質疑応答を行い見学が終了しました。

  なんかまふれあい館 工事状況が見られるライブカメラ ふれあい館での工事説明

見学して見て、建設工事機械の進歩の速さには感心しました。昔は、鋼矢板の押し込みは単気筒エンジンのようなディーゼル・ハンマーでの打撃や、振動を与えて地中に強制的に押し込むバイブロ・ハンマーなどが使われており、工事の周辺では騒音や振動で悩まされたのですが、油圧式圧入機では騒音や振動がありませんので、住民密集地域での工事も容易となりました。
また、見学のトンネル工事とU型擁壁工事での、直接作業要員は両者合わせて10数人程度という少人数であるのも驚きでした。

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(3月分掲載Indexへ)
カテゴリー別Index 大森町界隈あれこれ イベント総目次
<前回 大田区界隈 第1京浜国道立体交差工事 南蒲田立体交差事業現場見学会 その2 へ
次回 大森町界隈あれこれ イベント 龍子記念館「桜芥子図襖」特別公開と龍子公園を見る その1 へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大田区界隈 第1京浜国道立体交差工事 南蒲田立体交差事業現場見学会 その2

2008年03月24日 | 大森町界隈あれこれ イベント
kan-haru blog 2008

< 総合INDEX へ

蒲田立体交差工事概要
蒲田立体交差は、完成イメージ図で見るように南北に走る第1京浜国道の上を、環8通りが東西に走ります。
この蒲田立体交差工事は、第1京浜国道が環8通りの下を通るトンネル部分63mのBOX区間の工事と、トンネル出入り口から品川方向と横浜方向のそれぞれの地上部までの坂道のU型擁壁区間の工事が約0.5kmあります。

     蒲田立体交差      蒲田立体交差縦断面図(国交省川崎国道事務所から)     
トンネル区間の工事
トンネル区間の工事は、株式会社竹中土木が施工を行い、まず2004年から2006年3月までは、道路切廻し、連続地中壁工、中間杭工、路面覆工などの蒲田立体その1工事(蒲田立体その1工事概要参照)を行いました。
その1工事に続いて、2006年4月から現在まで、堀削・山留架設、躯体構築・山留撤去、舗装復旧などの蒲田立体その2工事(蒲田立体その2工事方法参照)により、63mのトンネルを5つのブロックに分けて堀削して、見学時の2月23日には、B1からB4ブロックまでのトンネル工事は終了しており、南端のB5ブロックのトンネル部の頂版部の施工が済んだところで、まだ1段山留めが取り除かれていない状態でした。

         蒲田立体交差工事              トンネル工事のブロック
           
・トンネル工事の見学
見学A班のグループは、最初にトンネル区間工事を見学するため、「なんかまふれあい館」を出て環8通りの横断歩道を渡り、通りに面した工事現場に入り工事昇降口から階段降りて、地下に入った所はB1ブロックの川崎方面下り方向のトンネル部です。

   トンネル工事現場昇降口(左写真中写真拡大)    トンネル上の路面覆工鋼材

B1ブロックのトンネルの北部は、立体交差トンネルの品川側開口部でこれより外がU型擁壁区間となります。この部分は、現在はまだ堀削が行われてなく、土の上は第1京浜国道で車が走っています。トンネルに土が崩れないように、縦鋼材による中間杭と横鋼材による山留めと壁により塞いであります。

 品川側トンネル開口部の山留め

トンネル部の上には、中間杭工でのH型鋼の杭で支えた上に路面覆工の鋼材が敷いてあり、その上に交差点部の道路が通っています。

 トンネル工事を支える中間杭のH型鋼

見学は、トンネル南端のB5ブロック手前まで進み、まだ一次山留めが除去されていないB5ブロックトンネルの工事状況を見ました。

 一次山留めが除去されていないB5ブロックトンネル

トンネルは、上りと下り線道路の堺がコンクリート壁で仕切られていますが、一部の壁を一時的に外して反対車線のトンネルが見られるようになっていました。

   壁を外したところから見られる反対車線トンネル    見学中のA班グループ

B5ブロック見学から戻る途中で、A班グループの記念写真を撮り(蒲田立体その2工事ニュース参照)、地上に上がりました。

          見学記念撮影(A班)         見学記念撮影(A班)川国ニュースから

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(3月分掲載Indexへ)
カテゴリー別Index 大森町界隈あれこれ イベント総目次
<前回 大田区界隈 第1京浜国道立体交差工事 南蒲田立体交差事業現場見学会 その1 へ
次回 大田区界隈 第1京浜国道立体交差工事 南蒲田立体交差事業現場見学会 その3 へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大田区界隈 第1京浜国道立体交差工事 南蒲田立体交差事業現場見学会 その1

2008年03月22日 | 大森町界隈あれこれ イベント
kan-haru blog 2008

< 総合INDEX へ

第1京浜国道南蒲田立体交差事業
南蒲田立体交差事業は、南蒲田交差点の渋滞解消をめざし、京急の連続立体事業と連携しながら、第1京浜国道が環八通りの下を潜る立体工事を行い、交差点の通過時間をゼロとし、地域の抜け道通過車両を減少させ、京急蒲田駅や東口駅前広場整備など環境の改善を図る事業です。
工事は、国土交通省関東地方整備局川埼国道事務所の管轄で、平成16年5月に起工式が行われ立体化事業が始動しています。

   南蒲田交差点地図(地図拡大)

・蒲田立体交差事業見学
川埼国道事務所では、蒲田立体交差事業の見える化を図り、「今を見る現場見学会」の募集があり、応募して2月23日に見てきました。
見学会は、午前と午後の2回開かれ、南蒲田の環八踏切(京急蒲田第5踏切)脇の「なんかまふれあい館」に午後1時に集合しました。

   京急蒲田第5踏切      なんかまふれあい館  なんかまふれあい館展示場   

見学はまず、2階の会議場で蒲田立体交差事業の概要説明を聞いた後、見学者をA班とB班の2班に分かれて現場工事説明用受信機を各自携行しての現場見学です。A班は交差点北東側の工事現場から環八通りのアンダーパスとなる第1京浜国道工事の地下に入り交差点のBOX区間を見学し、地上に戻りU型擁壁区間の地下を掘るために土を押さえる鋼矢板の圧入工事を見ました。

        蒲田立体交差事業の概要説明            見学グループ

大田区界隈の主要道路交差点
第1京浜国道の大田区界隈の主要道路の交差は4道路があり、東京都市計画道路幹線街路環状第7号線(環七通り 大森東交差点)と国道131号(大森警察署前交差点)の2道路は立体交差していますが、東京都道311号環状八号線(環八通り 南蒲田交差点)と東京都道11号大田調布線(多摩堤通り 東蒲田二丁目交差点)の2道路は平面交差で交差しています。
・南蒲田交差点
この南蒲田交差点の平面交差点の交通状況は、平成14年12月の調査では、第1京浜国道の川崎方向への交通量が約1万4千台/日で渋滞が1770mの14分待ちで、品川方向への交通量が約1万2千台/日で渋滞が2560mの22分待ちです。環八通りの羽田空港方向への交通量が約1万8千台/日で渋滞が1980mの24分待ちで、高井戸方向への交通量が約1万3千台/日で渋滞が560mの18分待ちです。
この交差点では、京浜急行空港線と京浜急行本線の2か所に近接して踏切があるため、慢性的な渋滞が発生しています。

 南蒲田交差点

第1京浜国道
第1京浜国道は、現在中央区日本橋から神奈川県横浜市神奈川区に至る延長約29kmの国道で、江戸時代の東海道のルートであり、箱根駅伝のコースとして知られています。
ルートは、港区から京浜急行電鉄に寄り添う形で大森町を南北に縦断しているメイン国道であり、1952年(昭和27年)以前は国道1号であったが、以降は国道36号であった第2京浜国道が国道1号に変更され、第1京浜国道が一般国道15号と変更されました。
地元では、先に出来た第1京浜国道を「いちこく」と呼び、第2京浜国道の国道1号を「にこく」と称呼しています。

 第1京浜国道(国道15号)

環八通り
環八通りは、大田区羽田空港から世田谷区、杉並区、練馬区、板橋区を経由して北区に至る環状の都道です。環八の構想は、1927年(昭和2年)に東京市の計画に含まれていたが凍結され、戦後の1946年(昭和21年)戦災地復興計画で決定されたが、1956年(昭和31年)に着工され瀬田交差点近くの既存の僅かな区間の道路が拡幅した程度でありました。
1965年(昭和40年)に第3京浜道路が開通した頃から、沿線の宅地化が進み自家用車の普及で交通需要が急増し、地価の急増で用地取得が進まず工期がかさみ、一部を地下ルートにするなど大幅に完工が遅れ、平成18年5月に最後まで残った練馬区のトンネルと交差点が供用され、着工から50年で全線が開通した道路です。

 環8通りと京急蒲田第5踏切

京急電鉄の主要道路踏切
京浜急行電鉄本線と支線空港線と大田区界隈の主要4道路が交差する踏切には、第1京浜国道が京急蒲田駅からカーブしてすぐ交差する京急蒲田空港線第1踏切があります。この踏切は、先述の箱根駅伝通過時のアキレス腱であり、去る2月11日20時過ぎに羽田空港行き8輌編成の列車に大型トレーラが衝突し、翌朝まで電車と国道が交通止となった事故が発生しました。
環八通りは、第1京浜国道の南蒲田交差点から約200mのところに京浜急行本線の京急蒲田第5踏切があり、平日は上り下りの各電車が6百数十本以上通過しています。

 京急蒲田空港第1踏切

京浜急行連続立体交差事業
京浜急行電鉄本線の平和島駅から六郷土手駅までの事業区間4.7kmと、空港線の京急蒲田駅から大鳥居駅間の事業区間1.3kmの区間を、連続的に立体交差化する事業が進められています。
京浜急行連続立体交差事業については、高架化工事の記録を区間ごとに区切ってブログに掲載中ですので、次に示す工事および周辺関連の記録記事を参照して下さい。
大森町界隈あれこれ 京浜急行関連総目次

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(3月分掲載Indexへ)
カテゴリー別Index 大森町界隈あれこれ イベント総目次
<前回 大森町界隈の風景 大森町駅付近の正月年始風景 へ
次回 大田区界隈 第1京浜国道立体交差工事 南蒲田立体交差事業現場見学会 その2 へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イベント 63年前の東京大空襲傷痕 浅草、本所、深川の戦跡をめぐり平和を祈願する その4

2008年03月20日 | イベント
kan-haru blog 2008

< 総合INDEX へ

東京都慰霊堂
墨田区役所の「平和のオブジェ」で平和を祈念した後、本所の戦跡めぐりは東京都慰霊堂に向かい、吾妻橋1丁目停留所から門33系統都バスにて石原1丁目停留所で下車しました。
東京都慰霊堂(墨田区横網2-3-25 地図参照)は、清澄通りと蔵前橋通りの交差点に面した、横網町(よこあみまち)公園内にあり、関東大震災と大東京空襲のメモリアルパークです。

    都立横網町公園(拡大図)

関東大震災
公園は、東京市が1922年(大正11年)に陸軍被服廠の移転に伴い、跡地を買収し公園の造成を進めている最中の翌年の9月1日に関東大震災に遭遇しました。
震災で東京下町から火気が立ち町中が火の海になり、逃げ回る人々には被服廠跡地は広い敷地であり格好の非難場所でした。当初は火の気もそれほど近づいておらず、遠くに煙が見える程度で、ここまで火災が来るとは思えない状態なので、非難をした人たちが自宅に戻り家財道具や布団等を大八車で運び込み、人と荷物で埋め尽くされました。
やがて、火の粉が非難した人々の頭上に舞うようになり、布団などに着火して持ち込んだ荷物が燃え出し、人も物も全て灰と化して犠牲者の数は東京市全体の死亡者の半数以上の3万8千人程度が死亡したとされています。

・震災記念堂
1930年(昭和5年)に、震災の死亡者の霊を祀る震災記念堂として創建され、身元不明の犠牲者約6万人の遺骨が納められました。また、翌年には震災復興記念館が建てられました。
本堂は、伊東忠太氏の設計によるもので、寺院風の建築となっており、200坪の講堂を持っています。その奥には三重塔があり、塔の高さは約41mで、基部は納骨堂となっています。

 慰霊堂(震災記念堂 写真拡大)  三重塔(写真拡大)      講堂(写真拡大)  

・震災遭難児童弔魂像
震災遭難児童弔魂像は、地震災害に遭い死亡した小学校児童約5千人の死を悼み、当時の学校長等が中心となって寄贈した弔魂碑です。現在の弔魂像は、第二次世界大戦で金属回収を受け撤去され台座だけが残されていましたが、1961年(昭和36年)に作者の小倉右一郎氏の高弟である、津上昌平、山畑阿利一の両氏によって、往時の群像を模して再建されたものです。

幽冥鐘
震災の悲惨な凶報が伝わった中国では、杭州西湖の招賢寺及び上海麦根路の玉仏寺で念仏法要が営まれて、幽冥鐘一隻を鋳造し、この鐘声の功徳によって永らく幽都の苦を免れることを宣言しました。その後、震災情報が日を経るに従い甚大であることが明らかになり、この梵鐘の寄贈を申し出て震災記念堂に安置することになりました。

  震災遭難児童弔魂像        幽冥鐘     関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑      
・関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑
関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑は、関東大震災の混乱のなかで、あやまった策動と流言蜚語のため朝鮮人が尊い生命を奪われました。この不幸な出来事をくりかえさないように願って建てられた碑です。

東京大空襲で再び東京は焦土と化す
第二次世界大戦における、1944、5年(昭和19、20年)の一連の空襲により、再び東京は焦土と化し、関東大震災を超える7万7千人あまりが死亡しました。1948年より、各地に仮埋葬された身元不明の遺骨を納骨堂に改葬し、戦災者整葬事業が完了した1951年に「東京都慰霊堂」と改称され、10万5千人の遺骨が納められ、仏教各宗により祭祀されています。
講堂の祭壇には、震災死亡者、空襲死亡者の霊をそれぞれ合祀した大きな位牌が2基祀られており、3月10日と9月1日に慰霊法要が行われています。

 慰霊堂由来記(写真拡大)        納骨堂         震災復興記念館

講堂の左の壁には、石川光陽氏の撮影した3月10日の東京大空襲の写真が掲げられており、右の壁には洋画家徳永柳洲氏が関東大震災の実況を、門人と力を合わせて描かれた油絵が掲げられて展示されてます。

・東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑
東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑は、東京都が「東京の大空襲犠牲者を追悼し平和を願う会」の募金を、建設経費の一部に充てて平成11年に建設の取り組みが開始されました。碑の斜面を覆う花は生命を象徴して、碑の中には、東京空襲犠牲者名簿を納めており、平成19年現在78、097名を「東京染小紋」の伝統工芸品の表紙の名簿に記載してあります。

             東京都慰霊堂  右:東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑

墨田区の都慰霊堂では、3月10日に遺族らが参列して春季慰霊大法要が行われ、常陸宮ご夫妻や遺族らが焼香しました。都では、この日を「平和の日」と定めています。

東京大空襲・戦災資料センター
次の戦跡めぐりの目的地は、東京都慰霊堂から、大江戸線の両国駅より清澄白河駅まで行き、秋26系都バスに乗り継いで北砂1丁目で降りて、大空襲で大きな戦災を蒙った旧深川の地にある東京大空襲・戦災資料センター(江東区北砂1-5-4)の見学です。
戦災資料センターは、今回の訪問で3回目ですが、昨年3月に増築が行われ展示が充実したセンターを是非見たいと予定していたのですが、たまたま戦跡めぐりのコースに組み込まれておりましたので、目的が実現しました。

      東京大空襲・戦災資料センター正面入口        2階展示室

東京大空襲・戦災資料センターの見学コースは、増築で倍に広くなった2階展示室で東京大空襲のビデオを見てから、同コーナーの壁面には空襲を描いたさまざまな絵画や被災地図、日本空襲の写真などが見られます。3階の資料・展示保管室では、実際に投下された焼夷弾や空襲の被災品、体験者の手記・写真、戦時下の文書などが、東京大空襲の実相を伝えています。また、「戦争と子どもたち」の部屋には、戦中教育や学童疎開などをテーマにした資料が見られ、灯火管制下の暮らしぶりを再現した部屋などが展示してあります。

                戦災資料センター2、3階展示室

63年前の3月10日の東京大空襲の傷痕を、浅草、本所、深川と広範囲な地域を初めて、1日を費やしてめぐって見て、如何にこの空襲の被害が大規模であり、10万人もの罪の無い一般市民を殺戮した戦争は大変と悲惨なものと強く感じ、戦争の悲劇を風化してはならず、平和の持続を希望したいと願います。

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(3月分掲載Indexへ)
カテゴリー別Index イベント総目次 2007・2008年版2006・2007年版
<前回 イベント 63年前の東京大空襲傷痕 浅草、本所、深川の戦跡をめぐり平和を祈願する その3 へ
次回 イベント 子供の日東京ドーム 巨人―阪神戦観戦 へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イベント 63年前の東京大空襲傷痕 浅草、本所、深川の戦跡をめぐり平和を祈願する その3

2008年03月18日 | イベント
kan-haru blog 2008

< 総合INDEX へ

淡島堂の周辺
猛火にあった大イチョウから浅草寺本堂に向かうと、沙竭羅龍王像の銅像が立つ手水舎があります。この銅像は、高村光雲仏師で1903年(明治36年)に東京市が境内の噴水池に造献したものです。
本堂前を横切って西に進むと、右方に平成6年に、浅草寺中興開山慈覚大師生誕千二百年を記念して建立された影向堂(ようごどう)が見えます。影向堂には、聖観音菩薩像と十二支生まれのご本尊八体が祀られております。
影向堂の隣には、同じく平成6年に移された、薬師如来像を本尊とし、ほかに十二神将像が安置されている橋本薬師堂があります。薬師堂の建物は、浅草寺境内に現存する堂では浅草神社の社殿と同時代のもので、六角堂や二天門につぐ古い木造建築物です。

   浅草寺本堂手水舎         影向堂            橋本薬師堂

・淡島堂
橋本薬師堂の先に淡島堂があり、このお堂の建物は、1945年(昭和20年)3月の空襲によって焼失した浅草寺本堂に代わって仮本堂として建てられ、1958年(昭和33年)に現在の本堂が復興するまで浅草の役に立ってきました。浅草寺本堂は、落慶50周年記念で10月1日から11月25日まで2008浅草大観光祭りが行われます。

その後、影向堂として一時期二天門の近くに移築されていましたが、現在は淡島堂として現在地に移されました。
淡島堂のご本尊は、「阿弥陀如来」のほかに淡島明神の本地仏として「虚空蔵菩薩」、子授けのご利益があるとされる「地蔵菩薩」と共に元日本橋白木屋から移設した「白木観音」、フィリピンレイテ島での戦没者を供養する「レイテ観音」などが祀られています。

   淡島堂(写真拡大)       本堂(写真拡大)   淡島明神と白木観音(写真拡大)

淡島堂では、2月8日に針供養が行われ、江戸元禄年間(1688~1704)に紀伊国(和歌山県)加太の淡島明神を勧請したもので、ご祭神は「少彦名命(すくなひこなのみこと)」で針才天女とも言われ、裁縫技能の守護神として広く信仰されました。
1958年(昭和33年)の観音本堂再建を記念して建立した写経供養塔には、毎年4月から10月の間伝法院で行われる写経と各家庭で写経された「般若心経」「観音経」を10月28日に納めます。脇にある石灯籠は、「胎内くぐりの灯籠」と称して享保年代に造立したものです。

      針供養塔           写経供養塔       胎内くぐりの灯籠

・天水桶で戦火を免れた観音さま
太平洋戦争が激しくなってきた1943年(昭和18年)11月18日の夜、淡島堂本堂の左手前に大きな天水桶が置かれ、これに浅草寺ご本尊の観音さまを厨子ごと奉安して本堂の地中深く納められました。戦後の1947年(昭和22年)に掘りあげてその無事が確認され、観音さまは戦火を免れました。

・浅草大平和塔
浅草大平和塔は、旧浅草区111町会で戦災にあい亡くなられた1万人余りの霊を慰め、平和を祈願するために、浅草寺信徒、町会やその他の団体の努力により、1963年(昭和38年)に建立され、塔には清水谷恭順貫首の「和」の揮毫が掲げられ、台座にはノーベル賞受賞者湯川秀樹氏の筆による「みたまよ とこしえに 安らかに、われら守らん 世界の和」と刻まれています。淡島堂では、毎年3月10日に大平和塔戦災殉難者法要が行なわれます。

    浅草大平和塔               建設趣意書(写真拡大)

東京大空襲の追悼と平和祈念折鶴の「平和のオブジェ」
浅草大平和塔で平和を祈念して、淡島堂から木馬亭前の奥山おまいりみちを通り、公園本通り商店街を南下し、浅草寺を一巡した伝法院通りと浅草六区通りの交差点を通過して、新仲見世通りに面したファミリーレストランの浅草じゅらく(台東区浅草1-23-9)で昼食休憩をとりました。浅草じゅらくは、20年ほど前に遠来のお客さんと、2階の席で食事をした懐かしいお店です。

      木馬亭       浅草寺を一巡した伝法院通り     浅草じゅらく 

・15万羽の折鶴で作られた平和のオブジェ
午後の戦跡めぐりは、吾妻橋を渡った旧本所の墨田区役所(墨田区吾妻橋1-23-20 地図参照)の1階に、同区が東京大空襲で亡くなった約2万7千人の追悼と平和を祈念して、毎年製作している「平和のオブジェ」壁画を見に行きました。

平和のオブジェは、1992年からボランティアらによって毎年制作しており、今年のオブジェは高さ約12メートル、幅約8メートルもあり、テーマは「平和」-とどけ世界へ宇宙へ が題材の壁画で、ツルが地球から宇宙へ飛び立っていく様子をデザインしたものです。
「折り鶴」そのものを題材にしたのは初めてのもので、区民らが作った約15万羽の折り鶴を重ね合わせて作られており、3月3日に完成しました。
3月10日に、お披露目式とともに平和祈念コンサートが開かれました。

平和のオブジェ(拡大写真)  今までのオブジェ       墨田区役所イベント  

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(3月分掲載Indexへ)
カテゴリー別Index イベント総目次 2007・2008年版2006・2007年版
<前回 イベント 63年前の東京大空襲傷痕 浅草、本所、深川の戦跡をめぐり平和を祈願する その2 へ
次回 イベント 63年前の東京大空襲傷痕 浅草、本所、深川の戦跡をめぐり平和を祈願する その4 へ>
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イベント 63年前の東京大空襲傷痕 浅草、本所、深川の戦跡をめぐり平和を祈願する その2

2008年03月16日 | イベント
kan-haru blog 2008

< 総合INDEX へ

板橋九条の会「東京大空襲、被害地の跡を訪ねる」に参加
戦跡めぐりのグループが11時に出発ということで、浅草公会堂に10時40分頃着いてから20分足らずで「東京大空襲資料展」を切り上げて、飛び入り参加で「平和 憲法九条」の幟について行きました。

伝法院通りの戦跡
先ずは、浅草公会堂を出ると江戸の趣向を凝らした伝法院通りで、正面の門を閉ざした伝法院を左に曲がり、隣にある鎮護堂(ちんごどう)に向かいました。
伝法院は非公開で、門の奥には江戸中期に建てられた浅草寺の本坊があり、客殿・玄関・没者の間は安永年間の建築で、山内二十四ケ寺の住職の修行道場です。

   伝法院(写真拡大)       鎮護堂(写真拡大)    伝法院の鎮守様(写真拡大)

・鎮護堂
鎮護堂(台東区浅草2-3-1)は、伝法院の鎮守様で通称「お狸さま」と呼ばれ、浅草寺境内に住みついた狸の乱行を鎮めるため、浅草寺用人の大橋亘が貫首唯我韶舜と相談して邸内に祀ったことが始まりで、1883年(明治16年)に伝法院内に移転して再建したとあります。現在の本殿は、1920年(大正2年)に再建されたもので、境内には水子地蔵尊や幇間塚、たぬきの置物があり、柵越しに小堀遠州の作と言われる伝法院の庭園を垣間見ることができます。
境内の公孫樹(いちょう)は、推定樹齢が4、5百年で、3月15日の東京大空襲の時焼夷弾を浴びながら、猛火から鎮護堂を守ったと云われる神木で、今でも当時の焼け跡が残っています。

     水子地蔵尊       焼夷弾を浴びたイチョウ     伝法院の庭園

鎮護堂からは地口行灯(じぐちあんどん)を飾ってある街路灯で知られた伝法院通りに戻り、浅草公会堂横を通って浅草中央通りの角にある、今人気の創業明治20年の「大黒家」天麩羅の行列を横目で眺めながら、仲見世通りの正面では浅草寺の宝蔵門です。

   浅草公会堂横     「大黒家」地口行灯街路灯が見える    宝蔵門

浅草寺境内戦跡
宝蔵門右手前境内には、東京大空襲で亡くなられた多くの人を慰霊する、戦災地蔵尊が沢山鎮座しています。
・平和地蔵尊
平和地蔵尊は、二尊仏手前の宝蔵門寄にあり、1949年(昭和24年)に東京大空襲で亡くなった人達の霊を慰め、世界の平和を祈念して龍郷定雄氏が私財を投じて建立したものです。
二尊仏は、右が観世音菩薩、左が勢至菩薩で1687年(貞享4年)に藤原正儀が鋳造し、江戸伊勢町の成井善三郎商店の番頭高瀬善兵衛が、主家の報恩菩提のため寄進したものです。

       二尊仏              平和地蔵尊(右写真拡大)

・母子地蔵尊
平和地蔵尊の奥にある母子地蔵尊は、第2次世界大戦末期に、中国東北部(旧満州)で逃避行の末に日本人20万人以上が死亡し、生き別れて死亡した母子の霊を慰めるため、その体験者の漫画家9人が発起人となり、ちばてつや氏がデザインして平成9年に建立されました。

                       母子地蔵尊(右写真拡大)                                
・焼け焦げた銀杏の巨木
宝蔵門の東横の境内には、樹齢が推定800年の大イチョウがあり、東京大空襲では猛火に遭い、大きな裂け目の内に残る炭化の痕は黒焦げになりながらも生き続け、平和の尊さを訴えております。イチョウは、火に強い木で、境内には被災の公孫樹が10本ほどあります。

  猛火に遭った大イチョウ  (写真拡大)     (写真拡大)        (写真拡大)

被災の大公孫樹の周辺には、浅草神社(トップ写真参照)と二天門があり戦火を免れました。二天門は、1642年(寛永19年)に焼失した浅草東照宮の随身門で、俗に「矢大神門」と呼ばれて1618年(元和4年)に東照宮を浅草寺境内に勧請した際に建てられた、重要文化財指定です。
浅草神社は、浅草寺の観音様が浅草浦で網にかかり見つけた兄弟と、それを尊い聖観世音菩薩の尊像と見てお祀りした土師仲知の三人をお祀りしたのが「三社権現社」で、今の浅草神社です。入口の石造りの大鳥居は1885年(明治18年)に、氏子中により寄進されたもので、本殿は三代将軍徳川家光公が、1649年 (慶安2年)に浅草寺本堂と同時に建てた、江戸時代初期の代表的な権現造りの建築様式で、重要文化財指定です。

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(3月分掲載Indexへ)
カテゴリー別Index イベント総目次 2007・2008年版2006・2007年版
<前回 イベント 63年前の東京大空襲傷痕 浅草、本所、深川の戦跡をめぐり平和を祈願する その1 へ
次回 イベント 63年前の東京大空襲傷痕 浅草、本所、深川の戦跡をめぐり平和を祈願する その3 へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イベント 63年前の東京大空襲傷痕 浅草、本所、深川の戦跡をめぐり平和を祈願する その1

2008年03月14日 | イベント
kan-haru blog 2008

< 総合INDEX へ

東京大空襲
今年も、63年前の1945年3月10日に10万人余りの命を奪った世界大戦大空襲惨禍の日が回ってきました。
東京空襲は、初めは軍事施設への爆撃が主でしたが、1945年に入ると無差別攻撃で一般市民への爆撃が連日行われるようになり、1月27日に東京の中心部の銀座、有楽町界隈が白昼の爆撃で多数の死者がでました。

戦争の末期の3月10日深夜には、東京下町の浅草(台東区)、本所(墨田区)、深川(江東区)、日本橋(中央区)地区の木造家屋に、B29戦略爆撃機325機が1万3千発のナパーム焼夷弾による継続爆撃で、計画的な人家密集地域への武器を持たない一般住民大量殺傷の爆撃により、火炎の海となり焦土と化し、死者10万人余り、負傷者11万人余り、焼失家屋100万戸以上という惨劇を受けました。

 亀戸付近の焼け跡(天神橋から亀戸方面を望む) 拡大写真 2006年4月22日掲載承認

大森町界隈でも、無残な4月15日の無差別爆撃により、第1京浜国道沿いに多摩川の六郷橋から、現在の平和島付近まで見渡す限りの焼け野原の焦土と化しました。

 大森町付近焼け野原米軍撮影航空写真 1947年7月9日撮影(国土地理院) 
 大森町界隈あれこれ 鎮魂!大森町大空襲(第5回) 縮小画像写真リンク掲載参照
 大森町界隈あれこれ 鎮魂!大森町大空襲(第9回) 標準画像写真リンク掲載参照

私の父の同僚である、若山武義氏が東京大空襲の戦災に遭遇した際記録した手記が保存されており、わが街大森町、中野、目黒の各地で戦災に遭遇した貴重な記録を、ご遺族のご好意によりkan-haruブログへ解説を付けて掲載しております。
現在、戦争を知らない世代の方が80%を超えております。手記には空襲編と戦後史編に別れて編集しています。戦争の歴史を語り告ぐ貴重な世界大戦の記録であり、次に記載の目次からアクセスして是非目を通して頂きたいと願っております。
・手記目次
 1 大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記 総目次1/3 (第1~11回)
 2 大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記 総目次2/3 (第1~7回)
 3 大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記 総目次3/3 (第1~9回)
 4 大森町界隈あれこれ 戦後史編手記 第1~3編カテゴリー総目次 掲載連載中

戦争を語り継ぐ
毎年、3月10日の東京大空襲の時期がくると、各地で追悼式や資料展、戦争を語り継ぐ催しなどが開催されます。
東京大空襲・戦災資料センターでは3月8日に、同区亀戸文化センターのカメリアホールで「東京大空襲を語り継ぐつどい」が開催され400名が参加しました。つどいでは、両親と妹を亡くした橋本代志子さんが当時の体験を話され、脚本家の小山内美江子さんも親しい友人を失った母や、父が犠牲となった友人のことなどを話され戦争の悲惨さを訴えられました。つどいは、昨年も3月10日に開催(「イベント あれから62年「東京大空襲を語り継ぐ集い」参照)されて参加してきました。今年は、都合により行けませんでした。

東京大空襲資料展

 浅草公会堂ギャラリー東京大空襲資料展

東京大空襲資料展は、被災43周年の1988年(昭和63年)の3月10、11日に[第一回東京大空襲資料展]が浅草公会堂ギャラリー(台東区浅草1-38-6)で開催され、被災63周年の今年は第一回資料展から20年を経過した資料展(主催 東京大空襲犠牲者追悼・記念資料展実行委員会)で、3月8日から11日の午前10時~午後5時まで開催されました。

 資料展会場(写真拡大)

昨年は、3月10日に見に行きましたが、時間の都合がつかずに僅か30分足らずの見学でした。今年は、時間をたっぷりとって資料展のイベント「浅草戦跡めぐり」に参加して、東京大空襲の傷痕や平和を願う人たちが建立した史跡を巡る予定で、3月9日に資料展を見に行きました。

 資料展イベント「浅草戦跡めぐり」 (拡大写真)

・東京板橋九条の会に飛入しての戦跡めぐり
浅草戦跡めぐりの参加には、東京大空襲資料展実行委員会と「台東九条の会」が共同作成した、200円で頒布の「浅草戦跡マップ」が必要とあります。
浅草公会堂ギャラリーの入り口ホールには、白地に「平和 憲法九条」と書かれた幟を持った人が目立つ様に立っておりましたので、てっきりと「浅草戦跡めぐり」の案内掛の方と早合点して、他の主催での東京大空襲資料展を見学に来ていたグループに付いて行き、思い違いの飛び入り参加の戦跡めぐりとなりました。間違えた会は東京板橋の九条の会で、「東京大空襲、被害地の跡を訪ねる」の催しの皆様でした。

    写真拡大            写真拡大

九条の会の皆様には、大変なご迷惑をお掛けしお世話になりましたが、お蔭様で浅草寺周辺から、東京都慰霊堂、東京大空襲・戦災資料センターと広範な戦跡めぐりを案内して頂き、楽しく見学させて貰えました。九条の会の皆様には、飛び入り参入にも関わらずに歓迎して頂き大変有難うございました。

 九条の会「東京大空襲、被害地の跡を訪ねる」の集い

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(3月分掲載Indexへ)
カテゴリー別Index イベント総目次 2007・2008年版2006・2007年版
<前回 イベント 鉄道博物館 交通博物館(須田町)から鉄道博物館(さいたま市)への進化 その3 へ
次回 イベント 63年前の東京大空襲傷痕 浅草、本所、深川の戦跡をめぐり平和を祈願する その2 へ>
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 糀谷駅付近(第1回)

2008年03月12日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2008

< 総合INDEX へ

糀谷駅
糀谷駅(大田区西糀谷4-13-19)は、1902年(明治35年)6月に京急の羽田支線として蒲田~稲荷橋間の開通と同時に開業しました。1945年の空襲で戦災にあい仮設駅で開業していましたが、1953年に建て替えられ倍の広さになりました。
平成3年には、狭いホームを改良し跨線橋を設置して6両ホームになりました。平成6年に、都営方面直通乗り入れにより8両ホームに延伸されました。このように、改良が繰替えされた狭い糀谷駅(2004年撮影)は、ホームがカーブを画いた駅となってます。

糀谷駅付近の高架化工事
京急蒲田寄りの京急蒲田(空)第4踏切付近(地図参照)から、大鳥居駅の地下線路に入る糀谷第3踏み切付近までの第8工区(工事工区図参照)で、戸田・馬淵・三井住友建設JVの担当です。
糀谷駅の高架駅の建設には、在来駅の地形構成の整理が必要であり、ホームの移設などが行われていました。この区間の高架化の進捗を見るため、糀谷駅と高架橋建設の線路沿いの環8通りを大鳥居駅まで、3月8日に見に行きました。これにより、京急高架化工事の全工区を踏破しました。

            糀谷駅南口改札口             糀谷駅中央改札口

・糀谷高架駅橋脚建設
京急蒲田(空)第4踏切から東側が第8工区の分担で、糀谷高架駅橋脚の工事は同踏切から上下線の線路の間に、現在一列5脚の柱が建設されています。

  糀谷高架駅橋脚(左写真中写真右写真拡大)

また、同踏切を挟んでの第7工区の工事現場には、その延長上に塗装色の異なる一列3脚の高架橋脚が建設されており、その先には建設済み高架橋が見えます。

 跨線橋から見た工事現場          第7工区から見た高架橋脚

この高架橋脚は、2007年3月の空港線下り線移設後に、乗り降りした旧下りホームのあった場所に建設されたものです。下り線路の移設は、下りホームを拡幅して跨線橋階段を後方に移設して行われました。
この移設ホームの上には、高架橋駅建設の橋脚が建設されているのが見られます。

                 下りホーム上の高架橋駅橋脚

・上り線路の移設
2007年11月18日には、旧下り線路移設の位置まで上り線路が移設され、上り跨線橋の羽田方向の階段が閉鎖されました。また、上りホーム南側の部分は、削り取り撤去作業が進められています。

            2007年11月18日に行われた上り線路の移設

・糀谷第1踏切道上の上下線路移設
糀谷第1踏切では、3月2日に踏切道上の下り線路が、およそ1路線幅分が北方向に移設されました。

  3月1日までの踏切道   3月2日の下り線路移設の踏切道(中写真右写真拡大)

引き続いて、4月12日の予定で、上り線路がおよそ1路線幅分が北方向に移設されることになっています。

3月1日までの上下線線路  3月2日の下り線路移設  4月12日予定上り線路移設

糀谷第1踏切から第3踏切までの高架化工事
糀谷第1踏切から環8通りに出ると、京急空港線と環8通りは並行して大鳥居駅まで進みます。ゆるいカーブを過ぎた西糀谷4丁目交差点付近までは、京急線路の両側には工事の囲いがしてあり、工事ヤードが構築されています。
そこから先は、まだ高架化工事の準備も見られませんが、このあたりの高架橋は下り坂道となります。糀谷第2踏切は、人のみの通行ができる踏切道で、バイクも通行止めとなっています。糀谷第3踏切の先からは、大鳥居地下駅への下り線路となります。

西糀谷4丁目の工事ヤード    糀谷第2踏切    糀谷第3踏切から見た大鳥居駅方 

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(3月分掲載Indexへ)
カテゴリー別Index 大森町界隈あれこれ 京浜急行関連総目次
<前回 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 雑色駅付近(第2回) へ
次回 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第16回その1) へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

gooブログ4周年おめでとうございます kan-haru日記もおかげさまで2周年を迎えました

2008年03月10日 | Weblog
kan-haru blog 2008

< 総合INDEX へ

gooブログは3月9日に4周年を迎え、おめでとうございます。
おかげさまで、kan-haru日記も3月8日で2周年を迎えることとなりました。

2006年にブログ初投稿以来、2周年目の投稿で385件を数えます。日記用の画像ファイルには、写真、地図、資料などの静止画像、6,381枚を登録してあります。
これまでに、50,482のアクセスと144,566件の閲覧数を頂き、沢山の方にご覧を賜り誠にありがとうございます。

kan-haru日記は、1939年(昭和14年)から大森町に住みはじめて、途中世界大戦の学童疎開で2年弱地方での疎開生活中を除いて67年になりますので、日記の主テーマは「大森町界隈あれこれ」に8つのカテゴリーを設けて記録を中心に掲載しています。特に、世界大戦と京急高架化工事のカテゴリー記録をメインテーマとし、そのほか大森町の風景・風物、社寺、イベント、歴史などの記録を掲載しています。

世界大戦の戦中・戦後の記録

         東京都慰霊堂

63年前の1945年3月10日は、本所、深川、浅草を中心とした東京大空襲では10万人を超えた方が亡くなられました。私の父の同僚である、若山武義氏が東京大空襲の戦災に遭遇した際記録した手記が保存されており、ご遺族のご好意によりブログへ解説を付けて掲載しております。現在、「大森町界隈あれこれ 空襲編手記」の29編が掲載済みで、後編の「大森町界隈あれこれ 戦後史手記」の20編が掲載済みで、さらに残りを連載中です。
現在、戦争を知らない世代の方が80%を超えております。手記の空襲編と戦後史編は、戦争の歴史を語り告ぐ貴重な世界大戦の記録であり、是非目を通して頂きたいと願っております。

京浜急行電鉄高架化工事の記録

        大森町駅高架化工事

現在、住居の傍の京浜急行電鉄では、平和島駅と六郷土手駅間と、空港線の大鳥居駅間で高架化工事が進められており、完成すると大森町駅をはじめとして、沿線周囲の街区は大きく変貌します。
高架化が完成すると、第1京浜国道、環8通りの踏切が無くなり交通渋滞が解消されます。しかし、そのためには、貴重な文化財等が失われる負の面もあります。
ブログでは、高架化工事の全区間を、大森町と接続しているので、「大森町界隈あれこれ 京急関連」のカテゴリーにて、工事記録を掲載しております。この工事記録は、8工区の工事区間を、大森町駅、梅屋敷駅、京急蒲田駅、雑色駅と糀谷駅付近に区分けして、現在36編を掲載しており、工事進展の周期に合わせて連載して行きます。

首都圏に住んでのあれこれ

 筑波宇宙センター日本実験棟「きぼう」実機

首都圏では、あちこちで様々なイベントが開催されております。
展覧会や催ようしものの鑑賞記・見学記、小さな旅・風景風物詩、旅ものがたりなどのあれこれの雑記記録が三つ目の構成テーマとして掲載しております。
また最近、IT技術の進歩も著しく、Web 2.0などの言葉も流行しております。ITに絡む活用などの記述も少しずつ増やしており、「eTax確定申告奮戦記」(仮題)などの掲載も予定しております。

kan-haru日記総目次
kan-haru日記も掲載が増え、カテゴリーも多いためkan-haru日記総目次を掲載し、登録記事の検索を容易に行える様にしています。kan-haru日記総目次は、各日記のトップとラストに記載の「< 総合INDEX へ」をクリックすると総目次が開きます。
日記総目次には、全カテゴリーの総目次が記載されていますので、検索希望のカテゴリー項目をクリックすると、当該カテゴリーの全項目の目次が開きますので、希望の記事をクリックして日記を閲覧することができます。
この日記総目次は、新たな日記を登録掲載の都度更新しておりますので、2006年3月第1回投稿記事から、2008年の最新登録の記事まで、全ての日記の索引が何時でも行えます。

=========================
gooブログからあなたに39 応募
 ①クイズの答え:ブログモバイル
 ②どちらのプレゼントがほしいか:デジタル一眼レフ

< 総合INDEX へ

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 雑色駅付近(第2回)

2008年03月09日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2008

< 総合INDEX へ

雑色駅から六郷駅間高架化工事
第6工区(工事工区図参照)の高架化工事区間は、雑色駅北の蒲田第9踏切付近から六郷土手駅までの約1.5kmが担当区間です。前回(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 雑色駅付近(第1回)」参照)に続いて、雑色駅の南から六郷土手駅までの高架化工事の進展を2月27日に見てきました。

六郷土手駅は、南側の多摩川(六郷川)に架かる六郷川橋梁が1971、2年に新橋梁に切り替えられて、駅が移設され駅南端が六郷川橋梁に接した高架駅です。

 六郷川橋梁に接した六郷土手駅

六郷土手駅から本線線路は下り坂となり、雑色第4踏切(地図参照)手前で地上の線路となります。


・下り坂線路部の工事状況
下り坂に係る線路の高架化工事関連としては、従来使用の架線柱が切断されて、下り側の片張り支柱の架線柱に交換されており、上り線路は第1京浜国道側に移設されています。

 片張り架線柱に交換(拡大)                    坂部線路を移設(拡大)

坂部の上り線路は、移設された上り線の山側に並行した仮線を設けて高架化への切り替えが進められるようです。

・雑色第4踏切南側の工事状況
雑色第4踏切南側から坂部の線路までの地上部分には、6脚柱の高架橋の建設が終了しており、この高架橋の山側には高架化への切り替えのための仮線部の架橋が、道路上にはみ出して設けられています。

 道路にはみ出す仮線架橋部(拡大)

なお、雑色第4踏切上の高架部はまだ設けられておりません。

・雑色第4踏切北側から第3踏切南側までの工事状況
第4踏切から第3踏切間には5組の高架橋が完成しておりますが、まだ高架橋間の連絡橋はできておりません。仮線架橋は、第4踏切北側の最初の高架橋で合流するように納まっています。

                                   仮線架橋部の合流(拡大)

・第3踏切北側から第1踏切までの工事状況
第3踏切北側では、第2号工事機により4脚柱の高架橋が建設途中です。


第2踏切南側の数10m先に移設した第1号工事機で基礎杭を構築中です。


第2踏切北側から第1踏切までの工事は未着手ですが、第1踏切南側下り線に仮引込み線を設けて、高架橋の柱、梁、スラブなどを揚重架設するための重量物運搬車の待機場所が設けてあります。

                                 雑色駅北の工事機位置(2月27日)

雑色駅北部付近
雑色駅北の蒲田第9踏切北部にある第1、2号の工事機は、前回1月14日(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 雑色駅付近(第1回)」参照)に見た位置からそれぞれが南に移設して工事が進められておりますので、次回に掲載します。

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(3月分掲載Indexへ)
カテゴリー別Index 大森町界隈あれこれ 京浜急行関連総目次
<前回 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 京急蒲田駅付近(第7回) へ
次回 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 糀谷駅付近(第1回) へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 京急蒲田駅付近(第7回)

2008年03月07日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2008

< 総合INDEX へ

京急蒲田駅西口移設
京急蒲田駅西口は、連続立体交差化工事の進捗に伴い、平成20年2月24日日曜日の始発から元西口改札から約15m北方に移設し、今まで使用していた西口改札は使用中止となりました。京急蒲田駅西口移設について、移設前日の2月23日と移設後の同27日に見てきました。

 出典:お知らせ 京急蒲田駅西口改札が変わります(2008/2/14日京急発表)から

京急蒲田駅西口は、1965年に上下線のホーム間に跨線橋を新設し、跨線橋階段下を利用した京急蒲田西口が開設しました。

 元3番ホーム跨線橋下を利用した京急蒲田西口(写真拡大07年11月撮影)

高架化工事の進捗とともに、跨線橋を施設の元本線3番線ホームが第1京浜国道側に移設された時点には、京急蒲田駅西口は暫定的に跨線橋階段下の以前からの西口改札を利用しておりました。

 本線3番線ホーム移設後の仮蒲田駅西口(写真拡大07年12月撮影)

新西口改札は、京急蒲田高架駅を建設するために、元本線3番線ホームを撤去する必要上、本線移設3番線ホームから直接に西口改札に出られるように新設されました。

 新蒲田駅西口(3番線ホーム)  新蒲田駅西口(入口)     閉鎖された旧西口

環八通り先行立体交差高架橋に線路
移設ホームを通過する本線上り線路は、4月を予定として暫定的に環八通り先行立体交差高架橋と結ばれ、本線の上り片線のみですが環八通りと立体交差となります。

 立体交差高架橋敷設線路 本線・空港線分岐上り線路  工事中の上り線路路肩

現在、蒲田新西口が開設しましたので、元本線3番線ホームと跨線橋の撤去作業が進められております。また、現3番線ホームの南端では、上り線路と環八通り先行立体交差高架橋間を結ぶ線路のルート工事が進められております。

 元本線3番線ホーム跡

なお、環八通り先行立体交差高架橋の敷設線路は、ほぼ完了しています。

 京急蒲田駅新西口近辺

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(3月分掲載Indexへ)
カテゴリー別Index 大森町界隈あれこれ 京浜急行関連総目次
<前回 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第15回) へ
次回 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 雑色駅付近(第2回) へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第15回)

2008年03月05日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2008

< 総合INDEX へ

工事機械2台が一緒に大森町駅ホームに上陸
このところ、大森町駅構内付近の高架化工事がピッチを上げて進み、工事機械の移設の南下が早まり、ついに1、2号の工事機械が2台とも大森町ホーム上に上陸しました。

 3月2日現在の大森町駅北部の高架橋完成状況

先ず、基礎杭を施工する1号工事機械は、2月27日に駅西口「ほのぼの通り」の北端の元ゑびす市場があった付近の対面にあたる「なんか堂」北店前まで南下して移設されました。

 2月13日1号工事機位置   2月27日工事機位置(中:1号工事機、右:2号工事機)

次いで、3月2日には、高架橋の柱、梁、スラブなどを揚重架設する2号工事機械が南下し、大森町駅ホーム北部に移設され、2台の工事機で同時にホーム上での構内関連工事が開始されました。

 3月2日2号工事機位置     2台の工事機が共に駅ホーム上に移設される

大森町駅西口駅舎改修
大森町駅西口駅舎では、上り線線路が第1京浜国道側に1.5m移設(「京浜急行の高架化 大森町駅付近(第5回)」参照)されたことにより、ホーム幅員が拡張され券売機が移動(「京浜急行の高架化 大森町駅付近(第11回その1)」参照)でき、改札口が広くなったので、ホーム西壁際にスロープを取り付ける工事が行われております。これにより、構内踏切の撤去(「京浜急行の高架化 大森町駅付近(第4回)」参照)後の大森町第1踏切道の幅員の拡張(「京浜急行の高架化 大森町駅付近(第9回)」参照)とともに、西口駅設備は今までよりゆったりとなります。

 大森町西口ホームのスロープ工事

大森町高架架設駅建設の準備


大森町高架上駅の建設にかかる住宅が立ち退き、跡地が整地され高架駅の建設の準備が始められ、高架駅建設のスペースが確保されましたので、2台の工事機による駅部の高架橋の工事がこれから進んで行きます。

  立ち退き家屋取り壊し              家屋取り壊し跡

これにより、住宅のため狭められていた下り線ホームが拡幅できるようになり、ホーム建屋屋根部の柱を新設して建築が始まります。

 大森町高架駅下りホーム建築現場 

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(3月分掲載Indexへ)
カテゴリー別Index 大森町界隈あれこれ 京浜急行関連総目次総
<前回 わが街の京浜急行110周年記念 大正~昭和を再現した「ありがとうギャラリー号」に乗る へ
次回 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 京急蒲田駅付近(第7回) へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わが街の京浜急行110周年記念 大正~昭和を再現した「ありがとうギャラリー号」に乗る

2008年03月03日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2008

< 総合INDEX へ

京急創立110周年
京浜急行電鉄の前身は、1898年2月25日に「大師電気鉄道」が創立しました。翌年の1月21日に、関東で初めての電車が六郷橋から大師間を走り、同4月25日に社名を「京浜電気鉄道」に変更しました。
京浜急行電鉄では、創立110周年記念日のイベントとして、2月25日から1000形6両編成列車(1309編成)を昭和20~30年代の車両の「赤色と黄色」に、1000形4両列車(1321編成)を大正から昭和初期の車両の「えんじ色」に塗装し、それぞれ1年間にわたり運行されます。

創立記念当日は、午後0時半から品川駅で、1951年(昭和26年)に登場し1985年(昭和61年)に廃車になった「500形」の赤と黄色で模した、1000形の「ありがとうギャラリー号」のお披露目をしました。車内には、応募した300点の絵や写真を展示してあります。この、1309編成の列車は、主に京急本線を普通列車で運転されます。
また、午前10時10分から京急川崎駅で、1924年(大正13年)から約40年間活躍した「デ51形」を模した「京急110年の歴史ギャラリー号」お披露目をしました。車内には、京急110年の歴史を振り返る写真を展示してあります。この、1321編成の列車は、主に大師線で運転されます。

 六郷鉄橋を渡って来る赤と黄色の1309編成列車
 
昔の塗装再現の電車が大森町を走る
通知ポスターにより24日から京急蒲田駅西口が変わる(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 京急蒲田駅付近(第6回その1)」参照)とのことなので、その視察のため2月27日の昼過ぎに大森町駅の下りホームに行きました。その時、反対の上り線には、丁度昔の塗装に扮した1309編成普通電車の「ありがとうギャラリー号」が発車するところでした。残念ながら、その雄姿をカメラに納めることは間に合いませんでしたが、品川からの折り返しの電車が見られることを楽しみに、京急蒲田駅に出かけました。

京急蒲田駅では、新しく移設した西口の模様を見て、京急蒲田第2踏切から第1京浜国道に回り、京急蒲田駅東口から下り電車で京急川崎駅に向かいました。京急蒲田駅西口の様子については、京浜急行の高架化 京急蒲田駅付近(第7回)に掲載の予定です。

・1309編成普通電車に乗る
京急蒲田駅から京急川崎駅に向かったのは、同駅で1309編成普通電車が見られ、さらに大師線で1321編成の列車を見ることが出来るかもとの期待で行きました。
京急川崎駅の下りホームで待機していると、13時40分過ぎに赤と黄色で塗装した1309編成の列車が六郷鉄橋を渡り、進んで来るのが見えました。この列車は、金沢文庫行きの普通電車での運行でしたので乗車しました。

京急川崎到着の1309列車 生麦で退避の1309列車 神奈川新町到着の1309列車

六郷鉄橋を遠くから走ってくる、赤と黄色の1309編成のラッピング電車を一目見た瞬間は、タイムスリップした感じを受けました。しかし、段々と接近してきた列車を傍で見ると、昔の電車に慣れ親しんだ者には面影とは遠いものです。大きな違いは、車体の形状が異なるのは措いても、色彩が現在の塗装が艶出しであるのに対して、昔は艶がなくそのため色調が淡い感じでした。
イメージが異なると言っても仕方がありません。それよりも、大森町界隈では、高架化工事が進展して大きく変革が進む中で、これから1年間にわたり本線沿線を走る、昔のイメージの列車の姿に接すると、なにかと郷愁が漂い安らぎを感じられそうで楽しみです。

 1309列車内のありがとう電車ギャラリー

赤と黄色の列車は途中、生麦駅で「快特電車」の退避待ちをしての運行で、車内に展示してある応募の写真や絵などを観賞しながら神奈川新町まで来ました。

 1309列車内のありがとう電車ギャラリー

・1321編成列車に出会う
神奈川新町駅に入ると、駅山側の留置線に停車中の1321編成「京急110年の歴史ギャラリー号」が見えましたので、1309編成普通電車を降りて上りホームに行き写真をとりました。一目見ての印象は、木製のドアーを表現して見せておりますが、昔のイメージを出そうと苦労してのラッピングで、何とか「えんじ色」の電車を再現させているようです。
50歳以下の昔の電車のイメージを知らない人には、昔はこんな色の電車が走っていたのかとの認識を持たせることができます。

 神奈川新町駅留置線に停車中の1321編成列車(拡大写真)

110周年記念乗車券
京浜急行電鉄では、創立110周年記念として「京浜急行電鉄創立110周年記念乗車券」を2月25日に京急前駅で限定発売しました。
記念乗車券は、全72駅の初乗り乗車券と、本線と6支線の7線の片道乗車券の合計金額が11,000円で、豪華な専用台紙にセットしたものです。

 京浜急行電鉄創立110周年記念乗車券

「なぎさ」京急創立110周年記念特別号
創立110周年を記念して、25日に、沿線情報誌「なぎさ」京急創立110周年記念特別号を発行しました。記念特別号は、通常より16ページ増の40ページの拡大版で、8万部を発行しました。
内容の一部の「1+10のニュースに見る京急の110年」には、昔の写真、記念きっぷ、宣伝ポスター、沿線の写真等を紹介しながら、京急の110年を年代ごとに紹介しています。なお、この「なぎさ」は、京急のホームページでも公開されています。

その他、「京急110年の歩み」パネル&グッズ展が2月25日から5月25日まで、各駅で実施されます。

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(3月分掲載Indexへ)
カテゴリー別Index 大森町界隈あれこれ 京浜急行関連総目次
<前回 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 京急蒲田駅付近(第6回その2) へ
次回 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第15回) へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする