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kan-haruの日記

旅ものがたり(4) 夏の想い出 九州旅行 その1(博多・唐津)

2006年12月30日 | 旅ものがたり
本年も後僅かで暮れて行きます。今年の想い出としては、7月に家内三姉妹と一緒の阿蘇を尋ねた九州家族旅行があります。阿蘇は以前から是非行ってみたいと思っており、姉妹の一人が九州の直方ですので、それを利用して廻った4泊の夏の想い出を綴った旅ものがたりです。

初日は博多でナイター見物
今年の夏は、梅雨がなかなか明けず九州南部では大雨の被害が続くなか、予て計画中の阿蘇を中心とした観光の出発日となり、前日の九州地方の天気予報によると大雨も治まる模様との報に期待して、7月26日羽田空港発のANA243便の8時30分発の福岡行きで、旅割で予約したチケットを航空券自動販売機で受け取り、チエックインして搭乗しました。客席は、幸い窓際が取れましたので妹が座り、順調に10時30分には博多に着いたところ天候は素晴らしい快晴で、梅雨明け初日を旅先で迎え幸先良い旅行日となりました。

・唐津呼子で活き造りイカの昼食
空港では姉さんの家族が迎えに来ており、レンタカーで佐賀の唐津までをドライブして、イカで有名な呼子(よぶこ)で昼食のご馳走を頂きました。
JR北九州駅長おすすめの「唐津・呼子の烏賊」によると、「唐津・呼子は玄界灘や呼子湾、波戸岬など、海の自然に恵まれ、見た目は小さな港町でも、朝市や名物の烏賊を味わおうと全国各地から観光客がひっきりなしに訪れ、年じゅう賑わっています。 中でも人気は、身が透き通るほど美しく新鮮な烏賊の活き造り。 こりっとした食感ととろけるような甘さをご堪能ください。」とあり、多いに期待が膨らみました。

車は、福岡空港から一路西へと国道202号線を唐津・呼子(佐賀県)へと向かいます(地図参照)。唐津へは、博多湾を右手にして進み、前原市を過ぎると玄界灘の唐津湾に出るので西進します。串崎付近から湾がえぐれておりそれに沿って南下すると、包石付近から佐賀県です。さらに南下して浜崎付近からは、湾底を西進し虹の松原を過ぎると唐津市街に入ります。松浦川を渡り唐津市内を北上して進み、東松浦半島の中央先端の鎮西町中野に入ると呼子港です。呼子港右岸を北上して半島先端のフェリー乗り場の手前が、博多空港からおよそ2時間ばかりのコースで、目的の活き造りイカでブームの火付け役となった河太郎呼子店に到着です。巨大な生け簀からとり出したイカを豪快にすばやくさばいてみせる。刺身は甘く、コリッとした歯ざわり、呼子でないと味わえません。

活き造りイカ(写真拡大)・・・・・・生け簀のイカ(写真拡大)・・・・河太郎呼子店(写真拡大)

・呼子のでかい海の遊園地で海中散歩気分
腹ごしらえの後、玄海灘のでっかい海の一端に振れて見ようと、半島先端から呼子港最奥にある観光遊覧船着場のマリンパル呼子まで戻り、海中展望船ジーラに乗り自然のままに泳ぐ魚たちの姿を間近で観賞し、40分間の海中散歩を味わいました。
水族館の水槽の中を泳ぐ魚とは異なり、自然で生きている海中の魚の姿が観光船の船底の窓から見られて感動して、15時頃呼子を出ました。

海中を泳ぐ魚(写真拡大)・・・・船底の窓から観察(写真拡大)・・・呼子港風景(写真拡大)

・唐津名物松露饅頭                      
唐津を代表するお菓子の一つに、松露(しょうろ)饅頭があります。松露とは、唐津湾の虹の松原付近で、毎年の春・秋に可愛い球形のコロコロとしたキノコができて、そのキノコの名前を云います。松露饅頭は、松露を模って作ったもので、タコ焼きを焼く鉄板のような道具で、直径が2.5cmの球形のサイズの中身が上品な甘みのこし餡をカステラ生地で覆い、ひとつひとつ丁寧に焼き上げられた饅頭です。呼子に来るとき通過した唐津市に、大原老舗の大原松露饅頭店があります。
1850年(嘉永3年)に海産物問屋を営んでいた阿わび屋惣兵衛が、唐津本町に焼き饅頭の店を構えたのが始まりといいますから、今年で創業156年の元祖の商品です。元祖のお饅頭を、お土産に買って帰りました。松露饅頭の焼き方は、ここをクリックすると見られます。

・ヤフードームでナイター観戦
大原老舗を後にして、一路復路を博多のヤフードームまでのドライブで、17半頃球場前に到着しました。試合は、ホークス対千葉ロッテ3連戦の初日で、観覧席は手配をして頂いた一塁側内野指定席です。

アトラクション(写真拡大)・・・・・ホークスの攻撃(写真拡大)・・・ロッテの攻撃(写真拡大)

先発投手は、ロッテが小林宏、ソフトバンクが和田により18時開始で試合が始まり、試合の前半は淡々とした回の進みが速い試合でしたが、中盤5回の裏にソフトバンクが先制点を上げ、7回の攻防は双方無得点で、ロッテが8回の表に追いつき試合は盛り上がりました。

7回の攻防(写真拡大)・・・・・・7回の表終わる(写真拡大)・・・7回の裏の攻撃(写真拡大)

1対1で迎えた9回の裏、1死満塁から代打の松中が救援投手の薮田から、やや深めの右翼犠牲フライを打ち、今季3度目のサヨナラ勝ちで連勝した好試合(打率表)でした。

松中逆転右犠飛(写真拡大)・・勝利の白風船(写真拡大)・・・サヨナラで連勝(写真拡大)

・初日博多の宿はホテルオークラ
ヤフードームの好試合によって球場を出るのをゆっくりしたため、博多方面行きのバスは超満員の行列なので、「よかトピア通り」まで出ると運よくタクシーがうまく拾へたので、初日の宿泊ホテルへと行き先を告げると、「野球を見に来て、ホテルオークラに泊まるお客さんは殆どいないよ」と運転手さんに云われて、多少リッチな気分となりました。
ホテルで今日の行程の疲れを少しほぐしてから、軽い夕食を名物の屋台ラーメンでもと中州を歩いて見ましたがあまり見当たらないので、一般のラーメン店を物色すると「博多長浜ラーメン本舗(名刺)」があり本場の長浜ラーメンを味わいました。
ラーメン店からの帰路は、九州最大の歓楽街を通り(中州地図参照)社会見学をしながらホテルに戻り、初日の旅行の楽しい想い出が残せました(ホテル前にて)。

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大森町界隈あれこれ(P32) 京浜急行の高架化 京急蒲田駅付近(第1回その3)

2006年12月26日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
環八通りの立体交差
京急高架化工事に伴う本線下り2番線ホーム線路の移設工事の状況を、旧多摩堤通り蒲田第2踏み切り付近でじっくりと検分しましたので、次に踏み切りから京急線沿いの通り(地図再掲)を南下しながら、環八通りとの立体化工事の模様を眺めてみました。
京急本線の高架化の工事完了(イメージ参照)は、2016年(平成28年)が予定となっておりますが、環八通りの京急蒲田付近の交通渋滞は都内でもワースト5に入るという最悪の環境です。

そのため、京急高架化の工事は、環八踏み切りの立体化を先行して仮高架橋を架設する工法で進められております。その工法は、最初のステップで上り線が通る仮の高架橋を仮設して環八通りと線路の一つが立体化します。
続いてステップ2で、先ず線路幅が2本分の一階建ての高架橋を架設し、そこに仮高架橋で運行中の上り電車を移設し、空いた仮高架橋に下り電車を運行させて、環八通りとの仮の立体化を一先ず完成させます。
環八通りとの立体化が進んだ後のステップで、一階建ての高架橋の上に下り線の通る二階建ての高架橋を上乗して京急の連続高架化が完成することになります。


旧多摩堤通り京急蒲田第2踏み切りから横浜方面を展望すると、環八通りを跨ぐ仮高架橋の姿を見せておりましたので、環八踏切へと進み通りから先の仮高架橋の工事状況を見ると、一部民家の移転が済んでいませんでした。

・・・・・左写真クリックで拡大・・・・・・・中写真クリックで拡大・・・・・・・・右写真クリックで拡大
左写真:京急蒲田第2踏み切りから横浜方面を見た仮高架橋
中写真:環八踏み切りから品川方面を見た仮高架橋
右写真:環八踏み切りから横浜方面を見た仮高架橋

南蒲田立体化(環八通りと第一京浜国道の立体化)
環八通りは、京急の踏み切りで長時間遮断され、通過しても直ぐ第一京浜国道との平面交差により、交通渋滞に輪をかける状態です。
そこで、この南蒲田の平面交差点を、第一京浜国道がトンネルを潜る方式にして、立体交差をする工事が進められております。現在の工事の進捗状況を見ると、トンネルを造る深さまで堀りながら、掘った場所に土砂が崩れてこない様に山留と呼ばれる鉄製の突っ張りを順次設置する作業が八分通り済んだところです。2007年に入ると、掘った場所にコンクリート構造物を段階的に造りトンネルにしながら山留を撤去して、2008年3月の頃には舗装の復旧工事が終わり、立体化のトンネル部分は完成する工程になっております。

・・・・・左写真クリックで拡大・・・・・・・中写真クリックで拡大・・・・・・・・右写真クリックで拡大
左写真:環八通り踏み切り
中写真:南蒲田(環八通り-第一京浜国道)立体化工事
右写真:南蒲田(環八通り-第一京浜国道)交差点付近

空港線の第一京浜国道踏み切り
空港線は、単線の京急蒲田駅1番線ホームを出ると直ぐ急カーブを曲がって第一京浜国道踏み切りに架かります。この踏み切りが、本線環八通りと共に交通渋滞のワーストに入っており、正月の箱根駅伝でのネックになっている名の知れた踏み切りです。
京急の連続高架化が2016年(平成28年)に完成し、2階建ての立体高架橋により、空港線のホームの複線化と本線の上り・下り線との接続が線路を跨ぐことなく乗り入れが出来るため、その1で記述した都心と横浜方面との相互乗り入れが単純となり、輸送力の増強が行えて将来の羽田空港国際化の拡張に備えられます。

・・・・・左写真クリックで拡大・・・・・・・中写真クリックで拡大・・・・・・・・右写真クリックで拡大
左写真:第一京浜国道踏み切り
中写真:第一京浜国道踏み切りを通る空港線列車
右写真:空港線の高架化工事

呑川
呑川は、世田谷区桜新町付近(東急田園都市線桜新町駅付近)を水源とし、支流は柿の木坂支流、駒沢支流、洗足池からの流れが注ぎ込み、大田区内を西から東へと蛇行しながら流れている二級河川であり、下流は大田区東蒲田付近で旧呑川と新呑川に分流していたが、旧呑川の方は現在埋め立てられ緑道となっております。呑川の第一京浜国道に架かっている橋は夫婦橋と云い、京急本線西側の橋名を「だんじょうばし」などと風流な名前が付けられてます。
1993年(平成5年)の空港線1番ホームを品川寄りに8輌編成に伸延した際に、ホームは呑川の上に跨って設置されました(呑川上の高架化工事)。

多摩堤通りの梅屋敷第4踏み切り
本線下り2番線ホームの移設が完了したので、これより多摩堤通りの梅屋敷第4踏み切り付近の高架化工事が本格的に進められていきます。

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大森町界隈あれこれ(P32) 京浜急行の高架化 京急蒲田駅付近(第1回その2)

2006年12月24日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
京急蒲田駅ホームの変遷
11月26日は、京浜急行電鉄高架化に伴う京急蒲田駅の下り仮線路使用開始の状況を見るため、大森町から下りホームに降車し新たな下り仮線路ホーム(2番線)の光景を眺め、さらに、西側に幕で覆われた前日まで使用していた下りホームを見るため、跨線橋を渡り上りホーム(1番線)より1923年(大正12年)からの長い期間使用されていた元の下り2番線ホームを想い出深く眺めました。

現在位置の京急蒲田駅ホームは、1923年(大正12年)の専用軌道に路線変更されて以来続き、当初は蒲田駅と称し駅舎はホーム1,2番線側の品川寄りに造られ、穴守線(現空港線)は1番線(終点)と共にホームの横浜寄りで本線の上り・下り線にもそれぞれ接続され、大森と穴守間を1,2輌編成で直通運転(「大森町界隈あれこれ(P31) 京急歴史(1) 大森海岸と大森間に電車が走る(その1)」参照)が行われており、1925年(大正14年)に京浜蒲田駅と改称されました。

1945年(昭和20年)4月15日の大森大空襲(「大森町界隈あれこれ(18) 鎮魂!大森町大空襲(第7~11回)」参照)で被災に合い、1946年(昭和21年) の復旧ではホームを4輌編成に伸延し駅舎を横浜方向に移設して、本線の下り線からの空港線への接続線路が廃止されました。
1965年(昭和40年)に本線のホームを8輌編成に伸延すると共に2,3番線間に跨線橋が設けられました。また、空港線への接続をホームの品川寄りに線路を移設する配線変えが行われました。現在の駅名の「京急蒲田」には、1987年(昭和62年)に改称されました。

1993年(平成5年)には、羽田(現天空橋)開業により空港線1番ホームを品川寄りに8輌編成に伸延し、都心より空港線への直通乗り入れが開始されました。これにより、空港線への上下列車を1番線のみの単線で、しかも品川方向へは本線の下りを横断するという難しい運行をすることになりました。
1995年(平成7年)には、本線ホームを横浜寄りに12輌編成に伸延し、さらに、1998年(平成10年)には第2羽田空港が開業し快速特急の停車駅となり、横浜方面からも空港線への直通乗り入れが開始されました。これにより、空港線への接続線路を設けられ、空港線の単線1番ホームは、品川と横浜方面の双方の空港への上下列車が増え、横浜方向からの列車は本線の下りを横断するというさらなる難しい運行をすることになりました。

京急蒲田周辺高架化工事の状況
2001年(平成13年)に高架化工事が開始され、その進捗により第1回の記載に示す通り空港線1番と本線下り2番ホームが、第一京浜国道寄りに約16m移設(イメージ図参照)されたのです。
これに伴う線路の付け替えの模様と、京急蒲田駅周辺の高架に伴う工事の状況を、地図に示すように、京急蒲田駅西口から環八通りまで南下して踏み切りを渡り、第一京浜国道を多摩堤通りまで北上し、さらに梅屋敷第4踏み切りを渡り、線路沿いに呑川の「たんじょうばし」を渡り、元の京急蒲田駅西口までを反時計回りに一巡して見てきました。

・京急蒲田第2踏み切り付近での線路の付け替え工事を見る
本線下り線路は、移設前には旧多摩堤通り京急蒲田第2踏み切りでの上下線の2本の線路は、接近した並行状態に敷かれておりました。

左写真クリックで拡大・・中写真クリックで拡大・・・・・・・右写真クリックで拡大
左写真:京急蒲田第2踏み切り工事説明図
中写真:本線下り線路移設前の状態
右写真:本線下り線路移設前の写真

線路の移動敷設工事の第1ステップは、本線下り2番線ホームが約16m第一京浜側に移動のため、京急蒲田第2踏み切り上の下り線路も移動を要するので、踏み切りの遮断機を第一京浜側に移動を行う。第2ステップは、工事は、元の本線下り線路を切り離し、新下り2番線ホームから新しく線路を敷設する。工事の第3ステップは、空港線1番線ホームから元の下り線への線路を切り離し、新たに1番線ホームから本線下り線の線路を跨いで、在来の本線上り線路と接続する線路を敷設する。この時、空港線の新敷設の線路から、同じく新敷設の本線下り線路と切り替え点を設ける。

・・・・左写真クリックで拡大・・・・・中写真クリックで拡大・・・・・右写真クリックで拡大
左写真:工事第1ステップで踏み切り遮断機の移動
中写真:工事第2ステップで本線下り2番線線路の敷設
右写真:工事第3ステップで空港線と本線接続の線路敷設

線路の移動敷設を写真で見ると、左写真は品川方面を眺望したもので左端線路は本線上り線路であり、左から2番目の線路は切り離された旧本線下り線路と旧空港線との接続の線路であり、左から3番目の線路は空港線と本線上り線路との接続線路で、右端の線路は新2番線ホームと結ぶ本線下り線の線路を示します。中写真は、横浜方面を眺望したもので直線状に敷設されている線路は新2番線ホームと結ぶ本線下り線であり、本線下り線と交差しているのが空港線と本線上り線路との接続線路で、切り離されている線路は旧空港線と旧本線下りと結ばれていた線路です。右写真は、工事が完了した旧多摩堤通り京急蒲田第2踏み切りの光景です。

・・・・左写真クリックで拡大・・・・・・中写真クリックで拡大・・・・・・右写真クリックで拡大
左写真:京急蒲田第2踏み切りから品川方面を眺望した写真
中写真:新下り2番線ホームから横浜方面を眺望した写真
右写真:京急蒲田第2踏み切りの光景

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大森町界隈あれこれ(P32) 京浜急行の高架化 京急蒲田駅付近(第1回その1)

2006年12月22日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
現在、京浜急行電鉄では、大田区内の平和島駅から六郷土手駅までの本線と京急蒲田駅から糀谷までの空港線が高架化(「大森町界隈あれこれ(P30) 京浜急行 京浜急行の高架化(その1)」参照)工事が行われております。
住まいの近くの大森町駅付近の高架化工事も進んでおり、線路に隣接している住宅も、移転(「大森町界隈あれこれ(M32) 大森町商店街 京急高架化で大変貌 ラーメン屋さん閉店第一号」参照)したり、住居の建て替えが行われております。
高架化に伴い、わが大森町界隈の京急線沿いと高架化工事に絡む沿線に沿った町並みは、大きく変貌して行くこととなり、その移り変わりの断片的な記録を継続して残しておきたいと考えております。

京急蒲田駅の運行
この記録は、京浜急行電鉄高架化の最大工事個所である京急蒲田駅の進捗に伴い、11月26日から実施した既設線路移動の下り仮線路使用開始状況を見てきました。
京急蒲田駅は、本線の上り線(3番線)ホームと下り線(2番線)ホームの2本のホームで構成された駅で、下り線ホームの対面側には支線の空港線の単線(1番線)ホームがあるという、本線の品川方面と横浜方面の両方から空港に直通乗入運転を行っている駅としては、非常に単純な構造の駅(11月25日以前の京急蒲田駅付近地図参照)です。

1901年(明治34年)2月1日開通当初は、道路上の停留所でしたが、現在の構造の蒲田1駅は1923年(大正12年)4月1日の路線変更の際に設けられました。
1902年(明治35年)6月28日開通の支線の空港線(元穴守線)は、蒲田と稲荷橋間で運転されましたが、その後穴守まで延長されました。その後は、羽田空港駅まで伸延し、1993年(平成5年)には都心から直通乗り入れが開始され、1998年(平成10年)には横浜方面からも直通運転が開始されました。
直通乗り入れの電車は、都営、京成電鉄、北総鉄道、芝山鉄道と相互乗り入れしておりますので、成田空港と羽田空港間を結ぶ快速長距離電車も運行しております。

このような単純なホーム構成の駅なのに、羽田空港への蒲田駅始発と終着の単線運転電車と共に、都心と横浜方面から直通電車の乗り入れるために、複雑な線路が設けられました。
現在の京急のピーク時の運行ダイヤは、10分間に本線の上り・下り(空港線乗り入れを含む)にそれぞれ快速特急、特急、急行および普通電車の各1本が走る他、空港への乗り入れ以外にも蒲田発着の電車が動いておりますので、75秒に1本以上の割り合いで何れかのホームに電車が停車します。

空港から都心方面への乗り入れの電車は、蒲田駅を出ると本線の下り線路を跨いで上り線路へと進入します。また、横浜方面からの空港駅行きの乗り入れの電車は、本線の下り線路を跨いで空港線の1番ホームへと入ります。それと、支線の空港線のホームは単線ですので、上りまたは下り電車が停車している場合には、出て行くまで待っている必要があります。ラッシュの時間帯には、混雑で乗り降りに時間を要し遅延がちになります。このように電車の運転は、時間的にみると非同期で走るので、上り・下り電車が線路を交差しながらの運行は、当に神業的なダイヤと云えます。

さらに、空港線は、駅を出ると急カーブをして、京急本線に並行して通る、第一京浜国道上を踏み切りで通過します。この踏み切りは、正月2、3日の箱根駅伝が通る第一京浜国道の問題の箇所なのです。

蒲田駅の下り仮線路使用開始
記述したように、蒲田駅のダイヤは神業的なところに、電車を止めることなく高架化を進めるのは非常に難事です。しかも、近くを通る交通量の多い環八通りを、仮の立体交差を儲けながらの工事です。
高架化工事を進めるため、運行の線路を移動しながら行います。先ず、最初の線路の移動は、2005年05月に空港線の1番線ホームを線路の外側に仮設ホームを新設して、第一京浜国道側に約16m移設しました。元の線路上は、2番線ホームと接続した幅の広い仮ホームとなりました。

・・・・左写真クリックで拡大・・・・中写真クリックで拡大・・・・右写真クリックで拡大
左写真:使用終了した元下り2番線ホーム
中写真:上り1番線ホームから見た元下り2番線ホーム
右写真:呑川「だんじょうばし」上から見た元下り2番線ホーム

そして、2度目の今回は、11月25日に本線の下り線を、2005年05月に空港線の旧線路跡に約16m移設し、元の2番線ホームは切り離されました。新たな2番線ホームは、本線下りの12両編成の電車が停車しますので、ホームは伸延されたため、空港線と本線を結ぶ横浜側の線路はそれぞれ引き直しとなり、特に上り線からの接続は下り線を交差した形態となり、旧多摩堤通りの京急蒲田第2踏み切り道までかかることになりました。これにより、第2踏み切りの横浜寄りにあった本線の、上りから下りへの交換線路は使用しなくなりました。

・・左写真クリックで拡大・・・・・中写真クリックで拡大・・・・・・・・右写真クリックで拡大
左写真:新下り2番線ホームから見た高架化工事風景
中写真:新下り2番線ホームから品川方面を展望(左は旧下り2番線ホーム)
右写真:新下り2番線ホームから横浜方面を展望

空港線1番線ホームと移動した下り2番線ホームの幅は、2005年05月の時と同様の幅で狭くなりました。

・・左写真クリックで拡大・・中写真クリックで拡大・・・・・・右写真クリックで拡大
左写真:空港線入線を待つ1番線ホームの乗客(左側下り2番線)
中写真:1番線ホームに入線した羽田空港行きの電車
右写真:窓の外側に見えるカーブした羽田行きの線路と直線の横浜方面の線路

品川側の下り線路は、第一京浜国道側に約16m移設したため、多摩堤通りの梅屋敷第4踏み切りから深くカーブして2番線ホームに入り、空港線にはその先で分岐して1番線ホームに入ります。空港線からの上り線への交換は、今まで通りの第4踏み切りの品川寄りで交換します。

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左写真:多摩堤通りの梅屋敷第4踏み切りから品川方面を望む
中写真:本線都心方面と空港線を乗り入れる直通電車
右写真:多摩堤通りの梅屋敷第4踏み切りから見た下り2番線ホーム(右)と空港1番線ホーム(左)

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風景・風物詩(B12) 師走の風物詩 羽子板市 浅草寺

2006年12月20日 | 風景・風物詩
毎年、12月17日から19日の3日間、浅草観音様の境内で羽子板市が開かれます。
17日は、たまたま日曜日に当たりましたので、昼下がりに羽子板市を見に行きました。今年はこれで、浅草にはほおずき市(「風景・風物詩(B2) 夏の風物詩 浅草ほおずき市 その1~2」参照)、浅草サンバカーニバル(「風景・風物詩(B7) 夏の風物詩 浅草サンバカーニバル」参照)の都合3回目の見物となりました。

浅草は、有数の観光地でありますので、羽子板市のようなイベントと重なると大変な人出です。大森町からは、直通の都営地下鉄線で浅草駅を降りると、雷門までは人の列で切れ目がありません。
正面に「風神」・「雷神」を、仲見世側に「天竜像」・「金竜像」を安置されている馴染みの雷門を潜ると、仲見世のすぐ傍のコーナーで漫画家・芸能人による手書き羽子板30点を展示し、売上金を新潟中越地震被災者へ寄贈するチャリティー羽子板オークションを行っておりました。

羽子板市
仲見世通り は、観音様のお参り と羽子板市を見る人で大変混雑しておりました。
江戸中期頃は、正月用の歳の市は浅草に限られ、浅草寺の縁日は18日でありますので、17、18日両日は歳の最後の縁日として大変な賑わいがあり、この歳の市では羽子板も売られておりました。
この羽子板市の始まりは、今からおよそ300年以上も前の、江戸時代初期の1658年(万治年間)頃と伝われております。

花鳥風月や殿上人、左義長(女の子の初正月祝に、相手の家紋を付けた飾り羽子板を贈る風習があり、金銀箔などで精巧な細工をこらしたもの)を描いた羽子板は、江戸時代後期には、歌舞伎の興隆とともに、役者絵を押絵に用いて取りつけるようになり、人々は自分の 贔屓役者の羽子板を競って買い求め大変な人気があったようです。
明治時代に入り、歌舞伎黄金時代が到来し、九代目団十郎・初代左団次・五代目菊五郎などの名優が登場押し絵や押絵羽子板が江戸工芸・東京の職人芸として完成しました。
羽子板には、観賞用の絢爛豪華なものと、実際に遊ぶための簡素なものとがあり、以前には羽根つきは新春の遊びとして親しまれ、女の子の間で盛んに行われていました。

日本の伝統芸術となった押絵羽子板は、スターのブロマイドの役割をした役者の似顔絵のついたものから、 初正月のお祝いとして贈られた日本舞踊をテ-マとしたものまで様々ですが、今年の羽子板市には話題の人「ハンカチの王子」で親しまれた、早稲田実業の斉藤佑樹投手の羽子板が登場しました。

「ハンカチの王子」羽子板

羽子板市の出店
浅草観音様の境内には、江戸時代のままの情景が展開し、出店は仲見世商店街から宝蔵門付近、宝蔵門から五重塔前付近と宝蔵門から二天門前付近に出店の問屋、小売店、製造元の三者50店が揃い、境内いっぱいの人の波でした。それぞれの出店では、特徴有る押絵羽子板を販売しておりました。

・・・・左写真クリックで拡大・・・・中写真クリックで拡大・・・・右写真クリックで拡大


・・・・左写真クリックで拡大・・・・中写真クリックで拡大・・・・右写真クリックで拡大

また、羽子板市の出店には、カラフルで綺麗な様々の羽根(羽根売店1店2店3店4)が売られており、結構売れておりました。

17日の午後は、風もなく暖かな日に恵まれ、境内の大いちょう の黄葉もまだ散らずに、傍らの沢山の食べ物の出店には、おでんで酒やビールを楽しむ客で込んでおりました。いちょうの木の下では、昔懐かしい「のしいか」やさんの店まで出ており、タイムスリップを味わいました。当にこの光景は、下町である浅草ならでの風情で羽子板と共にノスタルジアに誘われました。

羽子板を飾りつけている、さまざまの出店を一通り見ましたので、ますます込み合ってきた仲見世通りを避けて、仲見世の裏通りを雷門まで辿りました。
雷門の真横にある、和紙・江戸小物・浮世絵など和風雑貨の店の黒田屋本店(店内売り場)で買い物を済ませて出ると、三つ角の浅草文化観光センターのカラクリ時計が金龍踊りを奏でておりました。

江戸時代の羽子板市に触れましたので、久方振りに1801年に創業した「駒形どぜう」に足を延ばし(当日の駒形江戸通りのいちょう並木風景)て、初代が始めたどぜう鍋・どぜう汁を味わい、半日を昔に戻り心和む時を過ごしました。

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風景・風物詩(B11) 冬の風物詩 義士祭 泉岳寺

2006年12月18日 | 風景・風物詩
泉岳寺
12月14日は、大石内蔵助良雄以下の赤穂浪士四十七士が、吉良屋敷に討ち入りして、吉良上野介を討ち果たし、その首を泉岳寺の主君浅野内匠頭の墓前に捧げた討ち入りの日です。
浪士たちは四大名家へお預けとなり、幕府は武士としての体面を重んじた上での切腹を命じ、1703年(元禄16年)2月4日、46人の赤穂浪士はお預かりの大名屋敷で切腹となり、泉岳寺に葬られました。46人が泉岳寺に着いたのは、門前で加盟者のうちただ一人の足軽寺坂吉右衛門を逃がし、ゆかりの者に報告させるためなのです。

泉岳寺(東京都港区高輪2-11-1)は、萬松山・曹洞宗江戸三箇寺で1612年(慶長17年)の江戸幕府初めに外桜田の地に創立されましたが、1641年(寛永18年)の寛永の大火により焼失し、将軍家光の命で、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名により、現在の高輪の地で再建されました。ご本尊は、釈迦如来が祀られております。

殿中刃傷事件を起こした浅野長矩公の墓は、1701年(元禄14年)に建立され、討ち入りをした赤穂義士は1703年(元禄16年)に主君の墓側に葬られております。
泉岳寺では、毎年討ち入りの日は旧暦12月14日(15日未明)でありますが、新暦の12月14日に義士祭を催しております。

雨の義士祭
12月14日の午後6時頃、10数年振りに日本人の心に沁みた年末の風物である夜の義士祭の泉岳寺(地図航空写真参照)に行ってみました。
泉岳寺へは、大森町からは京浜急行電鉄の北端の泉岳寺駅まで直通で行けます。泉岳寺駅は都営地下鉄浅草線(1号線)との合流駅で、押上駅まで都営、京成電鉄、北総鉄道、芝山鉄道と相互乗り入れしております。
泉岳寺駅に着いた頃雨が降り出し、小雨でしたが門前や境内は屋台(風景)が連なり、人出で賑わっておりました。14日の義士祭の日に限り泉岳寺の閉門時間は、22時となっております。

泉岳寺義士祭典修行は、11時に浅野長矩公之墓所で墓前供養を行い、12時に東阿部流献茶式と義士追善供養が本堂で行われますが、一般には非公開です。
泉岳寺駅前の道の坂を上がったところに中門があります。中門は、1836年(天保7年)に再建されたもので、1932年(昭和7年)に大改修されたとあります。中門を潜り先に進むと1832年(天保3年)に再建されたと云われる山門があります。山門の「泉岳寺」の額は、大野約庵の書です。山門を通ると境内には、沢山の屋台が並んでおります。
本堂は、第二次世界大戦の空襲で焼失、1953年(昭和28年)に落成した鎌倉様式の建築です。本堂の「獅子吼」の額(トップ写真)は、「ししく」と読み、お釈迦様の説法のことです。

中門

泉岳寺の義士の墓に通じる道沿いには「主税の梅」「血染めの梅」「瑶池梅」などと名づけられたウメが、今に義士の忠誠を伝えております。
「主税梅」は、1703年に大石主税が松平隠岐守三田屋敷に於ける切腹の書院前庭の梅です。「血染めの梅」は浅野長矩公が田村邸で切腹を命ぜられ、磯田源太夫が介錯の時、血潮がほとばしって傍らの庭石と梅にかかったと言われます。明治39年に田村家移転の時、泉岳寺に移植されたものです。「瑶池梅」は義士の墓守りをした妙梅尼が瑶泉院(浅野長矩公夫人)から頂いた鉢植の梅を地におろしたものでこの名が付けられていると云われております。

首洗井戸は、吉良上野介の首をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したところから呼ばれております。
義士の墓に通じる道には、四十七士墓所の門があり、浅野家の鉄砲洲上屋敷の裏門を移築したと云われてます。
四十七士墓所には、お線香を手向けるため購入しましたが、小雨の中多くの人がお線香を上げる行列しており、待ちの時間がかかりそうなので諦めてお墓の入り口にお線香を上げて戻りました。

帰り道の参道のお土産やさん は、久しぶりで懐かしいので覗いて、昔懐かしい飴を買って帰路につきました。


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ITと技術(6) 迷惑メールとさようなら その2

2006年12月16日 | ITと技術
・新メールアドレスに切り替えるステップ
パソコンのメーラーを、第2アドレスのメールを受信できるように設定します。この場合、プロバイダーの第1アドレスから、別のWebメールや企業メールに転送を行っていた場合には、第1アドレスメールからの転送を止め、第2アドレスメールからの転送への切り替えを行います。メールの転送サービスは、プロバイダーにもより異なりますが、無料のところが多いようですので、活用すると便利です。


・メールアドレス変更の通知
名刺、案内などのメールアドレスを変更して、必要な通知先にメールアドレスの変更を通知します。
第1アドレスから受信のメールに対し、先方にアドレス変更の周知を行います。先方へのアドレス変更は、以外に大変であり、最近メーリングリストなどのメール受信が増加しておりますが、殆んどがアドレス変更には登録のIDとパスワードを使用して変更処理を行わなければ、受信アドレスが変わりません。

IDとパスワードは、常に使用しているものを除き、忘れ易いものです。古くから登録していた、メーリングリストのIDとパスワードなどは、メールが受信し続けていれば普段は使用する必要がないので、忘れるケースが多くなります。
一般には、忘れたIDとパスワードの片鱗を示さないと教えてくれません。その場合でも新たなIDとパスワードが示されることが多く、また、新たに登録を行い第1アドレスにメールを受信すことになりますので、アドレス変更処理は単純には行きません。

また、メールによっては、2~3ヶ月からそれ以上の間隔で受信するものもありますので、短期間にはアドレス変更が行えません。
したがって、アドレス変更のアクションは、最短で3ヶ月以上で、半年とか1年位の十分な期間をとり実施する構えが必要です。

・第2アドレスへのメール受信
アドレス変更が受理されたメールから順次、第2メールアドレスに届きます。第1メールアドレスには、アドレス変更が未完のメールと迷惑メール、スパムメールと共にウイルスメールの受信が継続します。
現在、1年半ほど経過しましたが、第2メールアドレスにはいまだに1通も迷惑、スパム、ウイルスメールを受信せずに済んでおります。これは、大変精神衛生的に良い状態です。

・第1メールアドレスの変更
第1メールアドレスへの受信メールが、迷惑メール類の不要なもののみとなった時点で、プロバイダーによっては、アドレス変更のサービスを行っておりますので、そのアドレスを変更します。
これにより、第1メールアドレスへの受信メールも、数ヶ月経過しましたが、1通も迷惑、スパム、ウイルスメールを受信しなくなりました。
なお、初頭に示した企業メールの例は、現在の受信が迷惑メールのみとなりましたので、これからこのメールの使用を中止して廃止にもって行くところです。

・迷惑メールとの限りなき戦い
これで、企業メールも間もなく迷惑メールとはさよならでき、プロバイダーのメールは迷惑メールとすでにさよならしており、何も手を掛けずに済んでおりますので、かなりの長い期間精神的に落ち着けております。
しかし、この迷惑メールにさよならの状態が長期に亘り何時までも続く保障はありません。何れか先に、第2メールアドレスに迷惑メールが現れた場合には、今度は追加費用を要さないで、上述とは反対に第1メールアドレスへと変更することが出来ますので、またその場合には迷惑メールとの限りなき戦いに挑むこととなります。
ITを積極的に活用するためには、迷惑の排除対策などの努力無しには、この世界を使いこなせないことの認識を持つことが必要です。

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ITと技術(6) 迷惑メールとさようなら その1

2006年12月14日 | ITと技術
現在、日に60通くらいのメールを受信しておりますが、1年ほど前から迷惑メールが急に増えだし、本当に迷惑しております。その反面、ウイルスメールの受信は、大変と少なくなってきております。

迷惑メールの受信状況
現在、メール受信のルートは、プロバイダー契約のメール(有料)、Webメールと企業系のメールを使用しておりますが、アドレスはそれぞれ何個か使用しております。
このうち、迷惑メールに付き纏られたメールは、かなり古くから使用しているプロバイダー系のメールと企業系のメールで、プロバイダー系メールの方は1年以上前から、もうすでに迷惑メールとさようならをしており、企業系のメールも間もなく迷惑メールとさよならをします。

現在、企業系メールの受信状態を見ますと、受信の全部が迷惑メールで埋まっております。では何故迷惑メールの受信をしているのかというのは、3~4日に1通の正常のメールが受信するために受けざるを得ないのです。これには、メールの発信者に対して受信停止あるいは受信アドレスの変更が伝達できれば解決するのですが、これが結構大変であり中々難事なのです。

迷惑メールの回避法
迷惑メールの回避のサービスとしては、メーラーや学習型迷惑メールフィルターのソフトで行ったり、プロバイダーの迷惑・ウイルス防止サービスなどいろいろありますが、それらは受信者側での手間隙がかかった上、完全なものが見当たりません。
あるプロバイダーのサービスの例では、迷惑メールと判断されたメールの件名のトップに[MEIWAKU]と付加されて認識を促すものですが、実際には迷惑メールでないメールに付加されたり、迷惑メールに付加されなかったりで、仕分けの判断がかえって複雑になったりします。

迷惑メールでは無いのに[MEIWAKU]と付けられたメール

あくどい迷惑メールには、こちらのメールアドレスを勝手に発信者メールアドレスとしたメールの受信例もあり、この種メールの発信者アドレスは当てにならず、実在しないアドレスが殆んどなのです。

こちらのメールアドレスを勝手に発信者メールアドレスとした迷惑メール

また、ウイルス回避サービスの判定では、誤判断でウイルスでないメールの添付ファイルを勝手に削除してしまうなど、利用者に迷惑・不便をきたすものもあります。
ウイルスに関しては、ウイルスソフトの使用とWindows Updateを行って、不明なメールを開かなければ、現在はほぼ問題を受けずに済むようになりました。

迷惑メールとさよならするには
迷惑メールの一種のフィッシングメールについては、受信をしないようにすることが必要です。
迷惑メールは、同一内容のメールで、発信アドレスのみを変えたメールや、発信アドレスと件名とを変えたりしたメールの送信を続けますので、トップの記述に示した様に受信メールが迷惑メールで埋めつくされた場合には、そのメールアドレスの使用を廃止して、新アドレスに変更する以外には、今のところ迷惑メールからさようならする手立てがないのが実情です。

とは云うものの、メールアドレスの変更は単純ではありません。
先ず、受信しているメールの発信者全てにアドレス変更をして貰う必要があります。それと、名刺や案内に記載しているメールアドレスを変更することと、名簿や出版物に表記してあるアドレスを見てメールを寄せられる送信者への周知も必要です。

・新メールアドレスの取得
メールアドレスを新たに取得するには、新たなプロバイダーと契約するとか別のWebメールサービスを利用する方法と、同一プロバイダーから第2アドレスを取得する2通りの方法があります。
かなり以前ですが、プロバイダーの都合によりプロバイダーの変更を余儀なくされ、メールアドレスを変へたケースが2回ほどあります。このとき、上述のアドレス変更の周知には相当の期間を要し、およそ1年近くの期限がかかりました。当然、この間は、新旧の2つのアドレスを使用して運用することになります。

このことから、新たなアドレスの取得には、次々とアドレスを変更するわけに行きませんので、安直なメールの選択は考えもので信頼の高いプロバイダーなどを使用すべきです。また、期間長く複数のプロバイダーを利用するには、運用費がかかることと、インターネットのブロードバンドのプロバイダーとの絡みも出てきますので、安易な選択は出来ません。
そこで、迷惑メールとさよならのための新メールアドレスは、上記を勘案して以前の同一プロバイダーから第2アドレスを取得しました。

新メールアドレス獲得には、追加アドレスの使用料が税込み月額で210円程度の負担がかかるのと、第1アドレスを中止することがができないのが条件となります。(つづく)

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大森町界隈あれこれ(M33) 大森町商店街 大森町ウインターフェスティバル!

2006年12月12日 | 大森町界隈あれこれ 商店街
大森町商店街(共栄会)では、クリスマスが近ずいた12月10日(日曜日)の15j時から18時にかけて、恒例の大森町ウインターフェスティバルを開催しました。
大森町商店街(地図再掲)では、7月16日の日曜日と8月3日の金曜日に夏のイベントとして毎年、大森町サマーフェスティバル(「大森町界隈あれこれ(M30) 大森町商店街 大森町サマーフェスティバル」参照)を開催しております。

ウインターフェスティバルには、15時少し前に出かけてみました。
普段購入しているお茶やさんの小坂園でモリモ券を2枚頂き、さらに協賛金で何枚かのモリモ券を得てフェスティバルを覗いてみました。
モリモ券とは、馴染みの商店で貰うか、協賛賛助で百円に付き一枚のモリモ券と呼ぶ、ウインターフェスティバルで当日限りに使える金券で、イベント、食べ物や飲み物の購入に必要とするものです。

大森町ウインターフェスティバルの目玉
今年の大森町ウインターフェスティバルの目玉は、やはり豪華商品が当たるお楽しみ大抽選会で、モリモ券で参加でき1人に付き一枚の番号札を貰えますので、2人で行きましたので黄色の1番と2番の番号札と交換しました。抽選会は、17時30分からです。
もう一つのウインターフェスティバルの目玉として子供たちに配るサンタのお菓子くばりです。サンタクロースからのプレゼントの整理引き換え券の配布は、さわやか信金前などの5ヶで配られますが、大人気で15時前には長い行列ができておりました。

飲食・ゲームコーナー
15時のフェスティバル開始は、オープニングのぬいぐるみの練り歩きからのスタートです。
先ずは、店を開いたばかりの飲食コーナー(おでんその1その2、ソフトドリンクその1その2ポップコーン焼そばなど)とゲームコーナー(射的、輪投げ1輪投げ2くじ引きなど)を覗きながら、大森町共栄会館前の餅つき大会のコーナーへと足を延ばしました。
飲食コーナーの店員は、商店街会や町内会方々の他、ゲームコーナーやフェスティバルのサービスには、大森学園高等学校(「大森町界隈あれこれ 大森町学びや もりこう会の集い(その1~4)参照」)から多数の生徒がきびきびと活動しておりました。
これは、生徒が社会との係わりについての学習と学校を知って貰える、このような地域活動は大変に良いことと思います。


大勢の人込みで賑わう大森町商店街
共栄会館から戻ると、急に人出が多くなり、プレゼントの整理引き換え券を貰った人の交換に長い行列ができ、お菓子の交換が始まりました。
この頃、大森町ウインターフェスティバルはピークに達し、さわやか信用金庫 大森西支店の大森町商店街通りの四つ角は、開闢以来の人出となりました。



ストリートジャズオーケストラ演奏
16時40分から、大東京信用組合 大森支店前の商店街通りで、フェスティバル恒例の明治大学のNew Wave Jazz Orchestra (「イベント(8) 明治大学 ホームカミングデー(その1~2)」参照)によるフレッシュで軽快にクリスマスにちなむ演奏が、ジャズの好きな聴衆を前にして行なわれました(演奏風景その1その2その3その4その5)。


お楽しみ大抽選会風景
ストリートジャズオーケストラの演奏を聴いている内に、大抽選会が行われる17時30分となりますので、抽選会場の大森町共栄会館前へと向かいました。
すでに、抽選場前には沢山の人が集まっており、豪華商品の当たりを待ちかねておりました。予定時間になって、末等商品からの抽選が開始され、抽選箱から引き出した番号札が読みあげられていきました。
周辺から、一番違いだ!、色違いだ!の声が上がり、次々と当たりくじを持った人が商品を貰って喜んでおりました。やがて、「黄色の2番」の声がしたので、番号札の一枚が末等の洗剤セットが当たりました。次々と当選番号が決まって行きましたが、番号札がもう一枚残っておりましたので待っていると、「黄色の1番」の声がしたので2枚とも当たったので嬉しくなりました。

今までのこの種の抽選会では、テッシュペーパーが関の山でしたので、人間って単純なもので、商品が当たると嬉しいものです。しかし、未だ抽選の商品は、末等商品であり、豪華商品の抽選はこれからであるので、人間って勝手なものでもっと後で当たれば良いのにとの思い苦笑してしまいました。寒くなってきましたので、抽選会の盛り上がりを横目にしながら帰宅しました。

ニュース! 大森町商店街オリジナルの秋田純米酒
大森町商店街のオリジナルラベルで、中身が秋田県大森町備前酒造製造の純米酒が数量限定で発売(戸島屋酒店、セブンイレブン大森町店、スリーエフ加賀屋)されました。味はやや辛口で、価格は、720ml 1200円とのことです。
オリジナルラベルのデザインは、大森町の流し踊りと大森町商店街キャラクターのもりもチャンがレイアウトされたもので、他では手に入らない物です。

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旅ものがたり(3) 同窓旧友たちの旅 草津温泉(その2)

2006年12月09日 | 旅ものがたり
つたや旅館
草津温泉つたや旅館(群馬県吾妻郡草津町大字草津69)は、草津温泉バスターミナルから徒歩10分ほどの細い裏通りの静まった処にある、客室が10室のこじんまりとした創業八十余年の老舗旅館ですが、施設は湯畑源泉からの24時間利用可能な掛け流しの温泉以外には何も無く、トイレ・洗面所は外の共通利用という典型的な昔の日本旅館です。

泉質主義の草津温泉にもゆったりと浸かりましたので、6時半に食事を頼んでおきましたので、同窓旧友との宴会です。
並べられたお膳の献立は、お膳が二人で3膳と変わった配膳でした。今まで旅行してきた、熱海、筑波山、石和、水上、裏磐梯、湯河原の献立と比べると旅館ごとに変化があります。
お酒が入りあつい鍋をつっつけば、遠慮気兼ねのない同窓の宴会は盛り上がります。時間の経つのもあっという間でした。
食やすみ後には、二度目の温泉に浸かり、恒例の囲碁会などにより初日の夜は更けました。

西の河原探索
朝食を済ませ、9時に旅館の前で記念写真を撮り、2日目の予定の西の河原の探索(地図参照)へと出発しました。
西の河原へは、前日の散策した湯畑から、お土産やが並ぶ狭い曲がりくねった西の河原通りを、饅頭やが配る食べ比べの温泉饅頭を一個だけ受けとり、あとは避けながら進むと草津片岡鶴太郎美術館の前です。

美術館を過ぎるとすぐ西の河原園地の立て札があり、ここからが西の河原で草津の西側に位置することと、賽の河原の意味の両方から呼ばれています。河原は湯川源流に約600メートルにわたり数十ヶ所から毎分1万5千リットルのお湯が湧き出しており、荒涼とした風景が特徴です。河原の遊歩道は、石畳が敷いてあり歩きやすい道です。


入り口の最初の大きな瑞祥の池も温泉が湧いています。続いて幸いの池があり、すぐ先には瑠璃の池琥珀の池と続いております。
西の河原付近を昔は鬼泉水と呼ばれており、”鬼の茶釜”は河原一帯から湧き出す代表的な温泉湧口で、茶釜が沸騰するように音をたてて湯を噴出していたそうです。今でも、茶釜から溢れて道路の側溝に流れている湯は、手を入れとかなりの高温の温泉です。


茶釜を過ぎると、草津穴守稲荷神社の赤い鳥居が並んでおります。穴守稲荷は、明治40年頃東京の山崎染物店の主人が、草津へ湯治に通い、病気が平癒した記念に信仰していた、東京大田区羽田五丁目に鎮座している穴守稲荷をこの場所に分霊し祀ったとのことで、ご祭神は豊受姫命です。(以下の西の河原風景の解説は草津町教育委員会の説明文から抜粋)

神社の少し先に、明治のころ草津を見出し欧米世界にその存在を知らしめたエルウィン・ベルツ博士と、その同僚でやはり草津を訪れたジュリウス・スクリバ博士の昭和10年に建てられた胸像が道辺に建てられてます。ベルツ博士はドイツ人医学者で、東京帝国大学医学部教授として、1876年(明治9年)に来日してから、滞日30年に及び我が国近代医学の基礎を築かれました。明治11年に草津温泉を訪れ、温泉の優れた効能に魅せられ、高温入浴法(時間湯)を研究テーマとして内外の学会に発表しました。
スクリバ博士は、帝国大学に『内科にベルツ・外科にスクリバあり』といわれた両博士とも無二の親友で、草津町民に無料で診察を施し、町民から深く親しまれました。
帝国大学にあった胸像が戦時中供出れた時に、コンクリートの複製を展示してあったものを、戦後草津町に贈られ、1992年(平成4年)5月に草津町との姉妹都市締結記念事業に立て替えられたものです。


ベルツ博士胸像の傍らに水原秋桜子碑が建っており、俳人水原秋桜子が、胸像にそそぐ秋日和のすがすがしさは、ベルツの心にふれているようだと、草津町の恩人ベルツ博士の遺徳をたたえて詠んだ句碑で、昭和 57年10月21日、ベルツ博士の生誕地であるビーティッヒハイム・ビッシゲン市と草津町の姉妹都市締結20周年祭りの折、除幕建立されました。

西の河原公園の奥には斉藤茂吉碑が建てられており、斉藤茂吉(1882-1953)は山形県金瓶村(現在上山市)に生まれ、ドイツに学び精神医学者、長崎医専教授、東京・青山脳医院長などを歴任したアララギ派の歌人です。現代歌人の最高峰と評価され、文化勲章受賞し、戦後山形県にこもったが、晩年の歌集は頂点に聳える作品といわれております。
草津には、昭和8年9月16日に夫人と共に訪れ、望雲館に宿泊し、そのときの日記には宿から白根山を見たスケッチが残っております。
歌人斎藤茂吉も、草津を愛した一人で、その歌碑には『いずこにも湯が噴きいでて流れゐる 谷間を行けば身はあたたかし』の歌が記されています。

今回の草津温泉旅行での誠に残念だったことは、草津一の総面積が500平方メートルで有名な西の河原大露天風呂が、11/8(水)~12/22(金)まで 改修工事で休館のため、見ることも入ることも出来なかったことです。
残念ですが、西の河原露天風呂(施設)はWebから見ることにしましょう。

戻りは行きに素通りした片岡鶴太郎美術館(Web)が、ご夫人方に売りの最も楽しみとしていた処ですので、恒例により希望の方で見学をしました。
美術館は、1998年12月に開館し、片岡鶴太郎氏が日々の暮らしで感じたものやロケの旅先で出会った魚、花、虫などを題材にした「普段着の絵」の作品が常時約130点展示してあります。

いよいよこれで同窓旧友の草津温泉旅行も終わりが近ずき、途中のお土産店を物色しながら帰路に付き、来たときの西の河原通りとは別のわき道で共同浴場の関の湯の脇を通り、湯畑から旅館に戻り大型タクシーで途中道の駅に寄り浅間酒造のオリジナルの地酒を買って、草津駅発の特急で帰りました。

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旅ものがたり(3) 同窓旧友たちの旅 草津温泉(その1)

2006年12月07日 | 旅ものがたり
同級生旧友との旅
年に何度か宿泊旅行を行っており、今年も親類との夏の阿蘇・由布院旅行(ブログ未完)、兄弟との土湯温泉・二本松菊人形一泊旅行(「旅ものがたり(2) 土湯温泉、二本松菊人形の一泊旅行(その1~3)」参照)、おわら風の盆・上高地の家族旅行(「旅ものがたり おわら風の盆と上高地(その1~3)」参照)と、大学同窓生の旧友夫妻との温泉旅行などが通年の旅行のパターンとなっております。
旧友夫妻達との旅行は、毎年11月に行っており、今年は11月20日の草津温泉の一泊旅行でした。

旧友との縁は、50年前の1956年(昭和31年)に、明治大学工学部を卒業(「イベント(8) 明治大学 ホームカミングデー(その1、2)」参照)した同級生であり、たまたま大学の実験室の授業で同一班に編成の6人組が親しくなり、卒業後もスキーや登山、旅行などに出かけていた仲間達なのです。その後、徐々に会社の仕事も忙しくなるに連れ、一時疎遠となりましたが、やがて定年年代迎えて呑み会を再開して懐旧談に花を咲かせました。
ところが、今から7,8年ほど前に、仲が良かったAさんが突然に逝去されて学友一同悲しみにくれ、寂しさが募りました。これを契機にして、誰言うともなく一年に一度旅行をしようではないかの発言で11月の旅行が開始され、二年目から夫妻の参加となり、現在ではAさんの奥さんも参加して、和気あいあいの楽しい旅行が年中行事となっています。

草津温泉へ
当日は天気が良く草津温泉には、上野駅10時発の草津3号の特急に6名が乗り込み、途中の大宮駅からMYさん夫妻が合流して8名でスタートして、ビール・酒、弁当などを食しながらのお互い遠慮のない打解けた旅の始まりです。
お腹ができたころ、草津駅に到着し下車しましたが、ウイークデーなのにかなりの混雑で、草津温泉行きの臨時バスがでましたが満員で、次のバスまで1時間ほど何もない駅前で待たされました。
待望の今宵の温泉宿は、創業80年の老舗“つたや旅館”の触れ込みで、バス停近くまで番頭さんが迎えにきてくれたのですが、玄関に着くと期待とは異なる感じを持ちましたが、お湯が良ければと部屋に通りました。

湯畑散策
大分以前に、湯畑の傍を観光バスで通過したことはあるのですが、草津温泉での宿泊は今回が初めてなので物見遊山は楽しいものです。
湯畑(湯畑散策地図参照)へは、つたや旅館の前の道を四つ角まで直進し左折し、草津温泉土産の本家ちちや饅頭店の前を通過して、右折して坂道を下ると湯畑の前です。
左手に草津山光泉寺が見えますが、このお寺は奈良時代の名僧・行基が721年に開山し、現在のお寺は奈良県長谷寺の末寺として明治22年に建立されたそうです。。
草津のシンボルの「湯畑」は、毎分4400リットルの湯が湧出する町の一番の源泉です。湯畑を源泉として引いている温泉は多数あり、共同浴場の内10ヶ所も湯畑から引いています。
源泉には、徳川吉宗縁の『お汲上げの湯』が今も残っており、湯の花を沈殿させて採るための木の桶が並ぶ風景は、まさに草津だけの風景です。硫黄の匂いが立ち込める豊富なお湯の流れ落ちる様子は、圧巻です。
湯畑の脇にある足湯専門の温泉には、みんなで裾を捲り上げて、足をお湯に浸しながら時間を過ごせば、隣の人とでもつい話に花が咲いてしまいます。


湯もみ見物
湯畑の縁の熱の湯で、観光用に湯もみのショーを行っておりましたので覗いてみました。
草津温泉の源泉は大変高温で、おおむね50度から90度くらいと言われており、このままでは入浴することはできません。水でうめればよいですが、せっかくの成分までもが薄まってしまいますので、昔から行われていた「湯もみ」によって成分を薄めずに温度を下げるということを行っているのです。
湯船の両脇に数人ずつ立って「湯もみ」の実演と踊りを見せ、観光客の方も「湯もみ」の参加できます。


湯畑の周囲一周の散策を終え、元来た道を旅館へと戻りましたが、来るときは感じませんでしたが、疲れも出てきたのか返りの登りの坂道はきつく感じました。

温泉入浴
散策を終えて疲れを取るため、楽しみにしていた有馬・下呂とともに日本三大名湯と云われる温泉に入りました。
草津の温泉の泉質は、PH2.05の酸性の温泉であり、一円硬貨などは約一週間で消滅してしまうと言うほどの強さだそうです。
温泉の効能は、草津町温泉資料によると、特に源泉は「慢性皮膚病」に良く効くと言われています。対応症には、神経痛、筋肉痛、関節痛、病後回復、疲労回復、健康増進、動脈硬化症、切り傷など20あまりが列挙してありました。
温泉は、24時間入り放題の掛け流しで、やや色の付いた滑らかな肌触りの湯で、とても温まり疲労が取れた感じがしました。
入浴は、食前・食後と朝起きてから入る定着のパターンで温泉に浸かりました。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(11月分掲載Index前へIndex後へ)
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小さな旅(8) 大江戸温泉物語 ドクターフィッシュ

2006年12月05日 | 小さな旅
11月19日はたまたま孫が遊びに来ており、天気が小雨模様でしたので、午後から最近話題になっている「ドクターフィッシュ」がいる大江戸温泉物語に行って見ました。
大森から大江戸温泉物語へ行くには、京浜急行電鉄の青物横丁駅から路線バスによりまっすぐ行けますが、雨降りのためタクシーにて直行しました。青物横丁駅から首都高速湾岸線の海底トンネルを抜け台場から南にすすむと目的の大江戸温泉物語(大江戸温泉物語地図航空写真参照)です。

大江戸温泉物語
入り口に入ると下足番(下駄箱)に履物を入れ、帳場(カウンター)で手続きをしてコード番号の着いた鍵を貰い、館内には浴衣に着替えないと入れないので、越後屋と称する呉服屋造りの店で浴衣を選んで借ります。コード番号のキーは、大江戸温泉物語内で買い物やゲーム、食事などの費用を支払う都度記録されますので、現金での支払いは行なわない方式になっております。
まず、浴衣を借りると館内は暖房で暖かくしてありますので、更衣室で薄い下着の上に浴衣一枚に着替えて、大江戸を模擬した広小路へと進みます。
広小路(館内見取り図参照)の周囲には、食べ物やさんやゲームが沢山並んでおり、奥の中村座は大広間のお座敷になっておりますので、ゆっくりと寛ぐことができます。

広小路の奥は、八百八町へと続いており、沢山の食べ物やさんと、料亭風に作られた日本食の川長があります。二階には、チェアーの置いてある休み処(仮眠室)や、大江戸宿の伊勢やと深川とよぶお座敷などがあります。
ざっと一巡しましたので、待ちかねていた孫がゲーム(手裏剣吹き矢)に興じ大喜びでした。

ドクターフィッシュ体験
ここで、温泉の売りの「ドクターフィッシュ」足湯を体験してみることにしました。足湯は屋外にありますが、雨も殆ど落ちていないので、浴衣の上に上っ張りを掛けて足湯に入りました。日本庭園の全長50mの湯の道内に足裏を刺激する丸石が敷いてあり、人口炭酸泉で男女一緒に入れます。

ドクターフィッシュは、37℃の温水で元気に泳ぎ、皮膚の古い角質をついばいで肌をきれいにしてくれる特殊な魚です。


「ドクターフィッシュ」足湯は、一番奥にあり小屋掛けですので雨には当たらずに入れますので体験してみました。


当日は、雨模様でやや寒かったので、それほど待たずに入れましたが、15分浸かるだけで1,575円也です。足をついばまれると、くすぐったい感じです。

丸内の魚がドクターフィッシュ

温泉
温泉は、地下1,400mから汲み上げた湧出量が240リットル/分の天然温泉で、まろやかな感じのお湯です。お風呂は、「大江戸温泉」と源泉に近い「黄金の湯」に、「百人風呂」とその一角にある「絹の湯」にはマイクロナノバブルで細かな泡を発生させてあります。大浴場の外には、天然の岩肌の感触の露天風呂があり、婦人用には桶風呂があります。
泉質は、ナトリウムと塩素イオンが主要成分で、カルシウム、マグネシウムイオン等も含まれており、神経痛、筋肉痛や病後回復期、疲労回復など様々な症状に効果があると書いてありました。

風呂上りにおそばを食べて腹ごしらいをして、さらにひと時ばかり遊んで温泉を後にしました。楽しい、日帰り温泉でした。

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イベント(11) 展覧会 お茶の水小学校展覧会(その2)

2006年12月03日 | イベント
続 お茶の水小学校展覧会の作品を見る
・2年生作品
図画 新動物図鑑
2年生の図画作品のテーマは、「新動物図鑑」で、この世にいそうでいない珍しい動物を絵にして展示してありました。2年生ともなると、創造性に興味や関心を持ち始める年代で、素晴らしい発想も生まれてきます。作品には、実在の動物の部分を持ってきたり、架空の動物を描いたりで、全く個性のある楽しい作品が並んでおりました。
工作 チャンピオンベルトとメダル
工作の作品テーマは、「チャンピオンベルトとメダル」で、色々あるチャンピオンの中から自分が選んだものを考えて、デザインして王者に相応しいベルトとメダルを作成したと説明にありました。
将来大会で優勝したときに、腰に巻いたり、首からぶら下げたりする希望を持って作成した、自分用の素晴らしいデザインのベルトとメダルでした。


・3年生作品
図画 深海の王様
工作 ユニバーサル・コレクション
架空の宇宙人が地球に舞い降りてきて、地球人との交流を深めるために持参してきたお土産やプレゼントは、何に使うのかよく分かりません。地球より文化が進んでいるので、多分便利なものなのでしょう。3年生のテーマは、宇宙人の持ってきた、架空の宇宙人グッズを、全く創造・工夫をして作って見ようと、チャレンジして生み出された作品が展示されておりました。3年生ともなると、豊かで柔軟な思考がそろそろ出てきておりました。
共同作品 魚の大群

・4年生作品
図画 展示
工作 ただ今通過点1/2
4年生は丁度10才です。20才まであと半分となり、大人になる丁度折り返しとなる地点を通過したところです。4年生の工作のテーマは、1/2の通過点に到達した時のことを記念した物を残そうということで手がけた、焼き物の作品です。
成人してからふり返り、10才の時の想い出の記念品として残る、思い思いの作品が展示されておりました。
工作 寄せ木細工
寄木細工は、現在は箱根・小田原地方の伝統工芸として知られていますが、誕生は駿河(静岡県中部・東部)の地です。江戸後期に、その技法が箱根に伝わり発展しました。その技法を応用した寄木細工風の作品が展示されておりました。
共同作品 どんどん続くよ
共同作品 花ワールド

・5年生作品
図工 化石の詩
太古の昔の物語が見える、そんな化石をイメージした蝋をレリーフ材にして表現して作成したという作品が展示されておりました。
工作 ティーモンスター
最初に偶然できた形からイメージしたモンスターを作り、それを元に自由な形に展開し、さらに肉付けしながら形を作って、不思議な生物のオブジェが展示してました。
家庭 マイクッション
共同作品 画板オブジェ

・6年生作品
図画 朝焼け・夕焼け
工作 熱中する人(展示1展示2展示3)
働く人、運動する人、楽器を演奏する人などの瞬間の動きをとらえ、形や特徴をとらえて表すのは難しいものです。
6年生のテーマは、人の動きや表情をとられて表現してみることに挑戦し、見事に熱中する人を再現した作品が仕上がっておりました。さすが、最高学年の作品です。われわれ、不器用な大人には真似られない創作品が展示されており、感心しました。


工作 名作劇場
物語、映画、テレビなど印象的な場面、感動した場面を立体で表現した作品の展示で、背景から大道具、小道具にいたるまで示されておりました。
家庭 ドリームバッグ 
共同作品 色糸のアート

展覧会を見て
お茶の水小学校の展覧会で感じたことは、作品のテーマが想像性・創作性を中心に据えて製作して行く姿勢をとっており、子供たちに創生意欲を沸き起こすことに向けて纏めていることに感心しました。どの作品をみても、のびのびとテーマに対して立ち向かって制作しているのが感じられ、われわれの小学校生時代とは隔日の感を抱きながら、展示品を楽しく観賞しました。

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番外編 カテゴリー別ブログ記事の検索と見方 [付 kan-haruの日記11月月間INDEX]前

2006年12月01日 | INDEX
K&A kan-haruの日記の月間INDEXは、毎月1日付けで掲載しております。
K&A kan-haruの日記も、カテゴリーが増加し、カテゴリー毎に充実して日記の連載も増してきております。

・カテゴリー毎の日記の初回(先頭)ページは、INDEXの初回欄をクリックすると先頭のページにジャンプして開きます。
・次回のページに進むには、日記ページの末尾の「次回 ・・・・・・ へ>」をクリックしますと進みますので、最終ページまで辿れます。日記が未完で、連載がさらに継続する場合には、「次回 へ>」の記載はありません。
・前のページに進むには、日記ページの末尾の「<前回 ・・・・・・ へ」をクリックします。
・カテゴリー毎の日記の終回(最新)ページを開くには、ブログ左欄のカテゴリー欄の該当カテゴリー上をクリックすると最新ページにジャンプして開きます。

・前月の月間INDEXを見る場合には、日記末尾の「<前月 kan-haruの日記n月月間INDEX へ」をクリックしますと、そのページに進みます。同様に次月の月間INDEXは、「次月 kan-haruの日記”i”月月間INDEX へ>」をクリックしますと表示されます。

また、ブログの参照地図・写真などを拡大して見るには、次の3月月間INDEXに方法が記載してありますので、参照して下さい。
・番外編 ブログ記事の参照地図を拡大して見る方法 [付 kan-haruの日記3月月間INDEX] 4月1日

日記が参照する図、地図、写真や記事は、該当文字に下線が引いてあります。下線の文字をクリックすると、新たなウインドウが開いて図、地図、写真や記事が見られます。日記に戻る場合には、ブラウザのメニューの「戻る」をクリックすると戻ります。

kan-haruの日記 11月 月間カテゴリ別INDEX

INDEX上の下線付き日記をクリックすると、当該ページが表示されます。INDEXに戻る場合には、ブラウザのメニューの「戻る」をクリックします。

[ようこそ kan-haru日記へ]

次の「ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について」、この日記を見るためのガイダンスを記載しておりますのでご覧ください。
ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その1)  9月18日
ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その2)  9月17日
・ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その3) (未完) 9月17日

以下の月間目次には、11月掲載のカテゴリー別の*印日記の目次の記載と共に、カテゴリー毎の日記の先頭の・印の「第1回目」または「その1」の日記にリンクしてありますので、クリックするとその日記に進みます。
「第2回目」または「その2」以降の+印の日記に進む場合には、その日記ページの末尾の「次回 ・・・・・・ へ>」をクリックしますと進みますので、繰り返すことにより最終ページまで辿れます。

[大森町界隈あれこれ 大森町大空襲] 連載29回掲載完結
カテゴリーの「大森町界隈あれこれ 大森町大空襲」の若山武義氏の手記(第1~3編)は完結しましたので、大森町界隈あれこれ 空襲篇手記の全目次を掲載してありますのでご覧ください。
総目次には、記事に関連する写真、地図や図をリンクして掲載してありますので、小百科事典的にご利用になれます。
[総目次]
大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記 総目次 1/3 9月6日
大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記 総目次 2/3 9月6日
大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記 総目次 3/3 9月5日

東京大空襲~あれから61年~(その1) まえがき3月10日
+東京大空襲~あれから61年~(その2)
大森町界隈あれこれ(8) 鎮魂! 大森町大空襲(第1回)  初回4月13日
+(9)第2回、+(10)第3回、+(11)第4回、+(12)第5回、+(13)第6回、+(14)第7回、+(15)第8回、+(16)第9回、+(17)第10回、+(18)第11回、
大森町界隈あれこれ(19) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第1回) 第2編初回5月25日
+(23)第2回、+(25)第3回、+(26)第4回、+(27)第5回、+(28)第6回、 +(29)第7回
大森町界隈あれこれ(K30) 手記第3編 終戦前後目黒にて(第1回) 第3編初回7月3日
+(K31)第2回、+(K32)第3回、+(K33)第4回、+(K34)第5回、+(K35)第6回、+(K36)第7回、+ (K37)第8回、+(K38)最終回、

[大森町界隈あれこれ 大森町に65年] 連載6回掲載
大森町界隈あれこれ(1) 大森町に住んで65年!(その1)  初回3月19日
+(2)その2、+(3)その3、+(4)その4、+(6)その5、+(7)その6、

[大森町界隈あれこれ 大森町の社寺] 連載9回掲載
大森町界隈あれこれ(20) 大森町の社寺(1) 諏訪神社その1 初回5月28日
+(21)諏訪神社その2、+(22)諏訪神社その3、 +(24)浅間神社、+(L30) 巌正寺の水止め舞、 +(L31) ささやかに鎮座する貴船(貴菅)神社、+(L32) 谷戸三輪神社秋の例祭、+(L33) 大森神社(寄来神社)、+(L34) 堀の内三輪神社、

[大森町界隈あれこれ 大森町商店街] 連載3回掲載
大森町界隈あれこれ(M30) 大森町商店街 大森町サマーフェスティバル 初回8月5日
+(M31) ミハラ通り夜店フェスティバル、+(M32) 京急高架化で大変貌 ラーメン屋さん閉店第一号、

[大森町界隈あれこれ 大森海苔物語] 連載1回掲載
大森町界隈あれこれ(5) 大森海苔物語(1) プロローグ   初回4月3日

[大森町界隈あれこれ 京浜急行] 連載2回掲載
大森町界隈あれこれ(P30) 京浜急行 京浜急行の高架化(その1)  初回8月9日
+(P31) 京急歴史(1) 大森海岸と大森間に電車が走る(その1)

[大森町界隈あれこれ 大森町風景] 連載3回掲載
大森町界隈あれこれ(N30) 大森町風景 大森ふるさとの浜辺公園の砂浜開放 初回8月7日
+(N31) 旧東海道(三原通り) その1、+(N32) 梅屋敷公園

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番外編 カテゴリー別ブログ記事の検索と見方 [付 kan-haruの日記11月月間INDEX]後

2006年12月01日 | INDEX
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[大森町界隈あれこれ イベント] 連載3回掲載
大森町界隈あれこれ イベント(1) ポレポレエコまつり 11月22日
大森町界隈あれこれ イベント(2) OTAふれあいフェスタ(その1) 11月24日
大森町界隈あれこれ イベント(2) OTAふれあいフェスタ(その2) 11月26日

[大森町界隈あれこれ 大森町学びや] 連載4回掲載
大森町界隈あれこれ 大森町学びや もりこう会の集い(その1) 11月11日
大森町界隈あれこれ 大森町学びや もりこう会の集い(その2) 11月13日
大森町界隈あれこれ 大森町学びや もりこう会の集い(その3) 11月15日
大森町界隈あれこれ 大森町学びや もりこう会の集い(その4) 11月17日

[風景・風物詩] 連載15回掲載
[東京百景]
風景・風物詩(A1) 東京百景 山の上ホテルとその周辺(その1)  初回7月11日
+(A1) 山の上ホテルとその周辺その2、その3
[夏の風物詩]
・風景・風物詩(B1) 夏の風物詩 入谷の朝顔市 初回7月17日
+(B2) 浅草ほおずき市 その1、その2、+(B3) 川崎大師風鈴市、+(B4) 江戸三大祭 富岡八幡例大祭(その1)、(その2)、+(B5) 日比谷公園丸の内音頭盆踊り大会、 +(B6) ヨコハマカーニバル ハマこい踊り、+ (B7) 浅草サンバカーニバル、+(B8) 高円寺阿波踊り
[秋の風物詩]
+(B9) 秋の風物詩 池上本門寺のお会式
風景・風物詩(B10) 秋の風物詩 酉の市 大森鷲神社 11月9日

[小さな旅] 連載10回掲載
小さな旅(1) 秩父長瀞の蝋梅と火祭り 初回3月12日
+(2)菩提寺墓参、+(3)清澄庭園・深川江戸資料館、+(4)京都日帰り桜・花見 その1、その2、その3、その4、+ (5)旧古河庭園、+ (6)矢切の散歩道(野菊の墓) その1、その2、+(7) 日本一大きい牛久の大仏、

[旅ものがたり] 連載6回掲載
旅ものがたり おわら風の盆と上高地(その1) 初回10月5日
+おわら風の盆と上高地(その2、その3)、+(2) 土湯温泉、二本松菊人形の一泊旅行(その1~その3) 、

[秋葉原界隈] 連載5回掲載
秋葉原界隈(その1)  初回3月9日
+秋葉原界隈その2、+秋葉原界隈その3、+続・秋葉原界隈(1)秋葉原クロスフィールド完成、+続・秋葉原界隈(2) 秋葉原UDXに昔懐かしい「須田町食堂」が、

[イベント] 連載14回掲載
春の花とアルス五重奏団コンサート 初回4月11日
+土と木とメルヘンな鉛筆画のぬくもり三彩展を鑑賞、 +倉澤杏菜 ベルリン芸術大学留学記念 ピアノリサイタル、+ (4) 東京都美術館 第61回日本書道美術院「教育部展」、+ (5) 歌舞伎座観劇 秀山祭九月大歌舞伎夜の部、 +(6) 運動会 お茶の水小学校運動会、+(7) 大森駅開業130周年(その1~その3)、
イベント(8) 明治大学 ホームカミングデー(その1)  11月3日
イベント(8) 明治大学 ホームカミングデー(その2)  11月5日
イベント(9) キリン横浜ビアビレッジ見学 11月7日
イベント(10) 晴海フラワーフェスティバル Infiorata 2006 11月20日
イベント(11) 展覧会 お茶の水小学校展覧会(その1)  11月29日

[ITと技術] 連載6回掲載
パソコンは、いつでもまともに動くとは限らない  初回4月21日
+パソコンは突然に機嫌が悪くなる、+トラブル多頻発で奮闘に追われる我が家のパソコン その1、その2、+地球シミュレータ(海洋研究開発機構横浜研究所) 見学、+がすてなーに 東京ガスの科学館見学、

[Weblog] 連載1回掲載
kan-haruのgooブログ日記 初回3月8日

[INDEX]
番外編 ブログ記事の参照地図を拡大して見る方法 [付 kan-haruの日記3月月間INDEX] 初回4月1日
+4月月間INDEX、+5月月間INDEX、+6月月間INDEX、+7月月間INDEX、+8月月間INDEX、+9月月間INDEX、+10月月間INDEX、
番外編 カテゴリー別ブログ記事の検索と見方 [付 kan-haruの日記11月月間INDEX] 12月1日

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