kan-haru blog 2007
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5月の19、20日は、貴船神社(大田区大森東3-9-19)のご祭礼が行われ賑わいを見せておりました。19日の昼の一時、貴船神社の祭り風景を見てきました。
貴船神社は、世界大戦終戦直後に疎開先から戻り、焼け野原の東京での仮住居地(「大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第3回」参照)で4年ほど暮らした時代の氏神様でありました。また、疎開前には母校の大森第一国民(小)学校正門から東方に向い、するがや通り(羽田街道)から厳正寺脇を経て数分のところが神社(地図参照)ですので、時折学校から出かけていました。
幼稚園に入園前の頃から学童疎開をするまでの間の大森町住居は、大一小学校が接する産業道路の北方の大森警察署に対面した国道沿いにありましたので、そこでの氏子の諏訪神社より近い貴船神社(氏子自冶会)の方へ良く遊びに行った縁りの神社でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/f7/70f20281cce41289c686d5b007c8e1cf.jpg)
南入口 東入口 奉納掲示板の裏側が西入口
貴船神社は、T字形の境内(境内参照)で東西と南の3か所から入れ、南向きの本殿の前には小さな太鼓橋が架かっており、子供には人気の場所でした。
昔から貴船神社の周辺は、のり養殖の漁師業の方を中心として、沢山住んでいた地域ですので、都会というよりは地方の漁村という感じの街でした。したがって、戦後の何も無いころの貴船神社のお祭りには、地元の青年団が稽古した素人芝居を演じると周辺の住民で埋まり、当時唯一の娯楽として楽しんだ時代であり、懐かしくも哀調のある想い出深い神社でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/aa/3168cf5710db2d8f1960277b8d311c62.jpg)
貴船神社
大森町駅から貴船神社(地図参照)には、駅東口から第一京浜国道(15号)を渡り、東へ直進すると産業道路(131号)に出ますので横断します。さらに東進すると「するがや通り(羽田街道)」に出ます。そこを右折して南下しますと、直ぐ厳正寺(「大森町界隈あれこれ(L30) 大森町の社寺 巌正寺の水止め舞」参照)が左に見えます。厳正寺のはずれの石塀に沿った細い路地を左折し、突き当たりを右に折れさらにカーブすると貴船神社の西口に到着で、およそ10分程の距離です。
貴船神社の前社殿は、1813年(文化10年)に建立された大森村の村社で、旧別当は蜜乗院、祭神は高龗神です。社伝によると、1266年(文永3年)に厳正寺の開山法円の篤信者で、鎌倉の田中大夫が同寺建立の時に同道して、捧持した氏神の熊野社を貴船神社の末社にしたと云われます。
また、貴船神社は、厳正寺の二世法蜜の祈雨、止雨にも関係したと伝えられており、かなりの古社と推定されます。羽田街道沿いにあり江戸・明治・大正と・昭和と参詣者が絶えなかったと云われております。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/43/3c44b6df7296ecb71ceb0de0e4e68f1a.jpg)
前社殿は、関東大震災により倒壊し、現在の本殿は1955年(昭和30年)に一間社流造りで建立したものです。境内には、昭和期の大森地区の漁業興廃に関する各種の記念碑があります。
特に、1964年(昭和39年)に貴船神社と諏訪神社(「大森町界隈あれこれ(21) 大森町の社寺(1) 諏訪神社その2」参照)に建立された漁業納畢之碑は、江戸時代より前から、海苔漁業を営んできた大森海苔漁場の埋め立てにより、東京オリンピックを境に終焉を迎えた記念の碑です。
両境内の碑文は同様の銘文であり、貴船神社の碑文を示します。
漁業納畢之碑
徳川時代に入って天和貞享の頃より大森に海苔製造が始められ、正徳五年、時の幕府に御膳海苔を上納、は初めて海苔場が確定、本格的海苔製造の華が開いた。
明治初年有栖川宮大総督の御用金仰付に対し全大森村漁民と共に当時としては破格の金五千両を献上、明治維新の大業を翼賛した美挙により新たに海苔場弐万参千五百坪を免許され、官軍場の名をもって今日に及んでいる。
かくして漁業は歳を追うて盛となり、とりわけ海苔製造業は本場海苔として日本国中に大森の名を高らしめた。
碑文から読み取れるように、大森村の人々は政治・経済体制の変化に対して、積極的に新時代を先取りする途を選び、献金により官軍場を獲得し、先祖代々血と汗で築いてきた広大な海苔養殖場と、海苔業界の指導的地位の維持と発展を期することに努力してきたのです。
貴船神社ご祭礼
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/04/4a4fd786e7447a5e942577af4566c027.jpg)
ご祭礼は、案内によると大曳き太鼓巡業、祭礼パレードやカラオケが2日間にわたり行われました。残念ながら大森東睦会の神輿は見られませんでしたが、想い出の神社の夏祭りのひと時を懐かしく、楽しく過ごすことができました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/2d/7ec0cd90482e93aaf53d27208c81e776.jpg)
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毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(4月分掲載Indexへ)
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5月の19、20日は、貴船神社(大田区大森東3-9-19)のご祭礼が行われ賑わいを見せておりました。19日の昼の一時、貴船神社の祭り風景を見てきました。
貴船神社は、世界大戦終戦直後に疎開先から戻り、焼け野原の東京での仮住居地(「大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第3回」参照)で4年ほど暮らした時代の氏神様でありました。また、疎開前には母校の大森第一国民(小)学校正門から東方に向い、するがや通り(羽田街道)から厳正寺脇を経て数分のところが神社(地図参照)ですので、時折学校から出かけていました。
幼稚園に入園前の頃から学童疎開をするまでの間の大森町住居は、大一小学校が接する産業道路の北方の大森警察署に対面した国道沿いにありましたので、そこでの氏子の諏訪神社より近い貴船神社(氏子自冶会)の方へ良く遊びに行った縁りの神社でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/f7/70f20281cce41289c686d5b007c8e1cf.jpg)
南入口 東入口 奉納掲示板の裏側が西入口
貴船神社は、T字形の境内(境内参照)で東西と南の3か所から入れ、南向きの本殿の前には小さな太鼓橋が架かっており、子供には人気の場所でした。
昔から貴船神社の周辺は、のり養殖の漁師業の方を中心として、沢山住んでいた地域ですので、都会というよりは地方の漁村という感じの街でした。したがって、戦後の何も無いころの貴船神社のお祭りには、地元の青年団が稽古した素人芝居を演じると周辺の住民で埋まり、当時唯一の娯楽として楽しんだ時代であり、懐かしくも哀調のある想い出深い神社でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/aa/3168cf5710db2d8f1960277b8d311c62.jpg)
貴船神社
大森町駅から貴船神社(地図参照)には、駅東口から第一京浜国道(15号)を渡り、東へ直進すると産業道路(131号)に出ますので横断します。さらに東進すると「するがや通り(羽田街道)」に出ます。そこを右折して南下しますと、直ぐ厳正寺(「大森町界隈あれこれ(L30) 大森町の社寺 巌正寺の水止め舞」参照)が左に見えます。厳正寺のはずれの石塀に沿った細い路地を左折し、突き当たりを右に折れさらにカーブすると貴船神社の西口に到着で、およそ10分程の距離です。
貴船神社の前社殿は、1813年(文化10年)に建立された大森村の村社で、旧別当は蜜乗院、祭神は高龗神です。社伝によると、1266年(文永3年)に厳正寺の開山法円の篤信者で、鎌倉の田中大夫が同寺建立の時に同道して、捧持した氏神の熊野社を貴船神社の末社にしたと云われます。
また、貴船神社は、厳正寺の二世法蜜の祈雨、止雨にも関係したと伝えられており、かなりの古社と推定されます。羽田街道沿いにあり江戸・明治・大正と・昭和と参詣者が絶えなかったと云われております。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/43/3c44b6df7296ecb71ceb0de0e4e68f1a.jpg)
前社殿は、関東大震災により倒壊し、現在の本殿は1955年(昭和30年)に一間社流造りで建立したものです。境内には、昭和期の大森地区の漁業興廃に関する各種の記念碑があります。
特に、1964年(昭和39年)に貴船神社と諏訪神社(「大森町界隈あれこれ(21) 大森町の社寺(1) 諏訪神社その2」参照)に建立された漁業納畢之碑は、江戸時代より前から、海苔漁業を営んできた大森海苔漁場の埋め立てにより、東京オリンピックを境に終焉を迎えた記念の碑です。
両境内の碑文は同様の銘文であり、貴船神社の碑文を示します。
漁業納畢之碑
徳川時代に入って天和貞享の頃より大森に海苔製造が始められ、正徳五年、時の幕府に御膳海苔を上納、は初めて海苔場が確定、本格的海苔製造の華が開いた。
明治初年有栖川宮大総督の御用金仰付に対し全大森村漁民と共に当時としては破格の金五千両を献上、明治維新の大業を翼賛した美挙により新たに海苔場弐万参千五百坪を免許され、官軍場の名をもって今日に及んでいる。
かくして漁業は歳を追うて盛となり、とりわけ海苔製造業は本場海苔として日本国中に大森の名を高らしめた。
碑文から読み取れるように、大森村の人々は政治・経済体制の変化に対して、積極的に新時代を先取りする途を選び、献金により官軍場を獲得し、先祖代々血と汗で築いてきた広大な海苔養殖場と、海苔業界の指導的地位の維持と発展を期することに努力してきたのです。
貴船神社ご祭礼
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/04/4a4fd786e7447a5e942577af4566c027.jpg)
ご祭礼は、案内によると大曳き太鼓巡業、祭礼パレードやカラオケが2日間にわたり行われました。残念ながら大森東睦会の神輿は見られませんでしたが、想い出の神社の夏祭りのひと時を懐かしく、楽しく過ごすことができました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/2d/7ec0cd90482e93aaf53d27208c81e776.jpg)
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