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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 貴船神社

2007年05月30日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
kan-haru blog 2007

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5月の19、20日は、貴船神社(大田区大森東3-9-19)のご祭礼が行われ賑わいを見せておりました。19日の昼の一時、貴船神社の祭り風景を見てきました。

貴船神社は、世界大戦終戦直後に疎開先から戻り、焼け野原の東京での仮住居地(「大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第3回」参照)で4年ほど暮らした時代の氏神様でありました。また、疎開前には母校の大森第一国民(小)学校正門から東方に向い、するがや通り(羽田街道)から厳正寺脇を経て数分のところが神社(地図参照)ですので、時折学校から出かけていました。
幼稚園に入園前の頃から学童疎開をするまでの間の大森町住居は、大一小学校が接する産業道路の北方の大森警察署に対面した国道沿いにありましたので、そこでの氏子の諏訪神社より近い貴船神社(氏子自冶会)の方へ良く遊びに行った縁りの神社でした。

        南入口              東入口         奉納掲示板の裏側が西入口

貴船神社は、T字形の境内(境内参照)で東西と南の3か所から入れ、南向きの本殿の前には小さな太鼓橋が架かっており、子供には人気の場所でした。
昔から貴船神社の周辺は、のり養殖の漁師業の方を中心として、沢山住んでいた地域ですので、都会というよりは地方の漁村という感じの街でした。したがって、戦後の何も無いころの貴船神社のお祭りには、地元の青年団が稽古した素人芝居を演じると周辺の住民で埋まり、当時唯一の娯楽として楽しんだ時代であり、懐かしくも哀調のある想い出深い神社でした。


貴船神社
大森町駅から貴船神社(地図参照)には、駅東口から第一京浜国道(15号)を渡り、東へ直進すると産業道路(131号)に出ますので横断します。さらに東進すると「するがや通り(羽田街道)」に出ます。そこを右折して南下しますと、直ぐ厳正寺(「大森町界隈あれこれ(L30) 大森町の社寺 巌正寺の水止め舞」参照)が左に見えます。厳正寺のはずれの石塀に沿った細い路地を左折し、突き当たりを右に折れさらにカーブすると貴船神社の西口に到着で、およそ10分程の距離です。

貴船神社の前社殿は、1813年(文化10年)に建立された大森村の村社で、旧別当は蜜乗院、祭神は高龗神です。社伝によると、1266年(文永3年)に厳正寺の開山法円の篤信者で、鎌倉の田中大夫が同寺建立の時に同道して、捧持した氏神の熊野社を貴船神社の末社にしたと云われます。
また、貴船神社は、厳正寺の二世法蜜の祈雨、止雨にも関係したと伝えられており、かなりの古社と推定されます。羽田街道沿いにあり江戸・明治・大正と・昭和と参詣者が絶えなかったと云われております。


前社殿は、関東大震災により倒壊し、現在の本殿は1955年(昭和30年)に一間社流造りで建立したものです。境内には、昭和期の大森地区の漁業興廃に関する各種の記念碑があります。
特に、1964年(昭和39年)に貴船神社と諏訪神社(「大森町界隈あれこれ(21) 大森町の社寺(1) 諏訪神社その2」参照)に建立された漁業納畢之碑は、江戸時代より前から、海苔漁業を営んできた大森海苔漁場の埋め立てにより、東京オリンピックを境に終焉を迎えた記念の碑です。

両境内の碑文は同様の銘文であり、貴船神社の碑文を示します。
漁業納畢之碑
徳川時代に入って天和貞享の頃より大森に海苔製造が始められ、正徳五年、時の幕府に御膳海苔を上納、は初めて海苔場が確定、本格的海苔製造の華が開いた。
明治初年有栖川宮大総督の御用金仰付に対し全大森村漁民と共に当時としては破格の金五千両を献上、明治維新の大業を翼賛した美挙により新たに海苔場弐万参千五百坪を免許され、官軍場の名をもって今日に及んでいる。
かくして漁業は歳を追うて盛となり、とりわけ海苔製造業は本場海苔として日本国中に大森の名を高らしめた。

碑文から読み取れるように、大森村の人々は政治・経済体制の変化に対して、積極的に新時代を先取りする途を選び、献金により官軍場を獲得し、先祖代々血と汗で築いてきた広大な海苔養殖場と、海苔業界の指導的地位の維持と発展を期することに努力してきたのです。

貴船神社ご祭礼


ご祭礼は、案内によると大曳き太鼓巡業、祭礼パレードやカラオケが2日間にわたり行われました。残念ながら大森東睦会の神輿は見られませんでしたが、想い出の神社の夏祭りのひと時を懐かしく、楽しく過ごすことができました。


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大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第6回)

2007年05月28日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
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大森町駅臨時改札口の開設
既報(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第4回) 」参照)の通り、5月21日月曜日の午前7~9時から、上りホームの混雑緩和のため臨時改札口が開設され、当分の間土日を除いての利用が開始されました。

初日の午前8時過ぎに、その利用状況を見てみました。
この時間帯の臨時改札機の利用客は、大森町駅下車の大森学園高等学校生が大半で、大森町商店街踏切の混雑緩和には全く役に立たないのです。この改札口は、大森学園高等学校生の下車のためには、上り通勤客で混雑する改札西口を通らなくて済みますので、若干の効果はあります。

  オープンした臨時改札口     改札入り口    ホームから見た臨時改札口

ただし、およそ90%に近い上り通勤客には、東方向から踏み切りを渡って改札西口から乗車するため、全くその混雑緩和にはなりません。
また、狭いホーム幅の混雑緩和も、臨時改札口が西口改札口の近い位置にあるため、乗車客と降車客との「ぶつかり」が、この僅かな部分では緩和されますが、全体の朝の通勤客の混雑の緩和としては効果がありません。

 踏切を待つ上り通勤客    道路に入ってきたトラック  トラックにより通勤客が通れない

抜本的な混雑緩和には、第4回で記述した通り、午前7~9時の間は大森町商店街通りの車両交通規制と踏み切り内の道幅を広くすることが必要です。
第4回記述の後で、人に云われて気が付いたのですが、午前7~9時の間は大森町商店街通りの交通規制がとられていたのです。したがって、これを守らせることの実行をすればよいのです。ただ、交通規制の案内板は、小さのいで気付かなければ見落としてしまいます。夕方の交通規制時刻には、通りの入り口に大きな黄色の交通止めの看板を出しますので、車は入れません。朝も、同様に実行して車を規制する必要があります。

     大森町入り口        入口で交通規制が見えない  目前で交通規制が見える

大森町駅線路移動の準備
大森町駅下り線路が高架化工事のため、5月26日から東方向に1.5m移動することになっており、そのための準備工事が進んでおります。
先ずは、大森町駅東口出札機が商店街通りに面した、元駅売店の奥にあった駅事務室側面に移設しました。実は、移設出札機の場所は、1945年の戦災で営業停止となった大森山谷駅を改称して、1952年(昭和27年)12月に大森町駅として営業再開した時に建てられた斬新なデザインとして好評な駅舎の出札機の場所に戻ったのです。昔の大森町駅を知っている人にとっては、間口が狭められましたが想い出懐かしい出札機の位置です。何時しか、駅売店ができて移動されたのです。

  下り線路の移動準備       大森町東口出札機の移設     踏み入り警報機の移設

また、営業再開時からあった、東口踏み切り警報機を1.5m第一京浜国道側に移設され、下りホームと電車架線の移動の準備も整いました。
板張りの仮ホームと屋根は、何時でも1.5m削れる様に用意され、ホームの上の黄色線もバックの位置にすでに貼られており、上を黒色で覆ってあります。
電車架線の移動の準備も、架線電柱を建替えて交換し、架線をシフトして簡単に移せる構造にしてあります。
線路の移動は、大森町駅の開闢以来の歴史に残る大工事となります。

  下りホームの切取準備    ホーム屋根の切取準備   電車架線の移動準備

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大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 梅屋敷駅付近(第2回)

2007年05月26日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2007

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梅屋敷駅改札口移設
大田区報の既報の通り、5月19日の始発から、梅屋敷駅の下り線改札口(第一京浜側)とトイレを約20m横浜方面に移設(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 梅屋敷駅付近(第1回)」参照)されました。
その、改札口移設の模様を記録のため、19日に取材してきました。
長年慣れ親しんできた、今までの梅屋敷駅東口の写真(2006年9月撮影)と、5月19日に撮影したトップ掲載の梅屋敷駅写真と比較してみて下さい。これからは、高架化工事により、二度とは見られない貴重な駅風景となりました。

梅屋敷駅下りホームを下車すると、先ず真新しい移設の改札機がホームの東側に向って出入りするように設置されています。また、改札口から京急蒲田よりの移設の駅事務室の隣側に、トイレが新設されております。

  写真説明:ホーム東側に改札機が移設され、トイレも駅事務所の先に移りました。
  元の改札機は、ホームの大森町駅寄りに直進し階段を下りると改札口で直ぐ駅前
  通りに出られました。

改札口を出ると右側が駅事務室で、その先に出札機が設けられております。大森町駅では駅売店が閉鎖されて無くなり不便となとなりましたが、梅屋敷駅では改札口の突き当たりに移設されて存続しております。

改札機を出てからの駅の出口には、駅売店前でいったんUターンしてホーム方向に向かい、柵で仕切られた旧ホーム上を右折します。右折後、ホーム石段を下り元の撤去された改札口跡を出ると、梅屋敷商店街通りに出られます。
移設の改札口から駅出口への通路は、まるで迷路に迷い込んだみたいです。

  写真説明:駅出口には、改札口を出てからUターンし、柵で仕切られた元ホーム上を
  通り、駅階段を降りて、旧改札機跡を通過して出られます。

梅屋敷商店街通りから、梅屋敷駅東口を眺めると、元の出札機、改札機は撤去され、駅売店が移動しました(トップ写真)。梅屋敷駅の売店は、移設可能な場所が確保されたので残りましたが、大森町駅の売店は線路の移動により、移設場所が取れず廃止され不便を感じております。

梅屋敷駅の線路も、お知らせは未だ出ておりませんが、高架化工事のため大森町駅と同様に東方向に移動されるため、梅屋敷商店街通りの踏み切りの警報機が、既に第一京浜国道側に移動されております。

 写真説明:梅屋敷商店街通から大森町駅方面を望む
 踏切警報機と電車架線が、線路移動に対して対応済み 

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小さな旅 久里浜 くりはま花の国 その2

2007年05月24日 | 小さな旅
kan-haru blog 2007

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くりはま花の国には、その1で記載のポピー園と並んで人気のハーブ園の他、アーチェリー、エアライフル、パークゴルフ、冒険ランドに足湯などの施設があります。
アーチェリー・エアライフル、パークゴルフは有料ですが、ゴジラの滑り台ほかアスレチックなどがある冒険ランドは無料であり、さらにこの4月1日から130種約3万株のハーブを栽培しているハーブ園とハーブ園内にある足湯(湯足里)が無料となりました。
その他の施設には、展望台がある芝生広場、各県の木を集めた県木の広場、樹木園、つばき園などがあり、園内には汽車型のフラワートレイン(1回乗車大人200円、こども100円)が、ポピーの混雑時期には3台でフル運行しておりました。

冒険ランド
冒険ランドへは、ポピーが咲き誇るポピー園から木製の大きな階段を上ると、フラワートレインと併用の尾根伝いの遊歩道に出ます。この辺の遊歩道は、花の国の最高地点でポピー園が一望に見渡せ、うす曇で霞んでおりましたが遠く久里浜の市街地が眺められます。

  ポピー園展望(拡大)
遊歩道のカーブ地点には、フラワートレインの最初の停留場があります。そこから遊歩道は緩やかな坂道を下り、程なくカーブを切ったところで展望が開け、右手にゴジラが現われ「冒険ランド」です。

冒険の国の入り口のゴジラの滑り台は、図体の高さが7mもある大型のゴジラで、ゴジラの滑り台は2代目であるとのことです。初代のゴジラの滑り台は、観音崎多々羅浜に1958年に建てられ、風化により1975年に取り壊されたそうです。
ゴジラの隣の球形の遊具は、シーズン中の土・日・祝日に登場する「ふわふわ」クッションです。孫は、ゴジラの滑り台やふわふわは見向きもせず、巨大ローラー滑り台、つり橋、冒険砦などの木製大型遊具でひと時を遊んでから、フラワートレインでハーブ園に向かいました。

                          冒険の国
ハーブ園

      ガウラ(拡大)       ユリオプシステイジー(拡大)    メドーセージ (拡大)

130種3万株のハーブを栽培している関東エリア有数のハーブ園前停留場で、フラワートレインを降りてハーブの香りを楽しみました。

アポンビューラベンダー(拡大)        (拡大)        マーシュウッドラベンダー(拡大)

ハーブ園には、ラベンダーを初め、ローズマリー、ミントや多種多様なハーブが植えられております。ラベンダーの見ごろは、6、7月であり、この頃には紫色の絨毯を敷きつめたように咲き誇り、手に触れたり、香りを楽しめハーブの魅力が満喫できるようです。

マーシュウッドラベンダー(拡大)        (拡大)              (拡大)

ただ、残念なことには、園内のハーブレストラン<ロスマリネス>、フレッシュベーカリー<オリーブ>、バーベキューガーデン<フラワーヒル>、ハーブショップ<ヘルバ>、売店<コスモス館、冒険ランド売店、ハーブ園内売店>が、平成19年1月より当面の間休業しており、楽しみにしていたハーブアイスクリームを味わったり、休憩・休息場が利用できないのが、ちょいと寂しい感じでした。

孫達は、ハーブ園のリラックスゾーンにある足湯に浸った後、ハーブ園からフラワートレインを利用して帰路に着きました。

         足湯のあるリラックスゾーン

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小さな旅 久里浜 くりはま花の国 その1

2007年05月22日 | 小さな旅
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うす曇りの子供の日午後、孫家族と一緒に足の便が良く、比較的混雑していないと思われる三浦半島久里浜の「くりはま花の国」に見頃をむかえたポピーとハーブを見に行きました。

くりはま花の国
ポピー祭りが開催(4月21日~6月3日)されている「くりはま花の国」(横須賀市神明町1 地図参照)は、1981年(昭和56年)に面積が572,005㎡の土地を無償譲与され、当初久里浜緑地として開設し、1988年(昭和63年)にコスモス園を開園、平成3年からはポピー園もスタートしました。コスモス・ポピーの栽培面積は、約23,000㎡と広大で年2回花が楽しめ、平成2年に「くりはま花の国」と改称して、年間50万もの入園者があります。
くりはま花の国には、京浜急行大森町から京急久里浜駅で下車して徒歩15分で、第一駐車場のある入場口に到着です。入場料は、無料で月曜が休みです。

ポピー園
入口を入ると、なだらかな丘の見渡す一帯がポピー園で、まずはオレンジ色を主体としたハナビシソウが迎えてくれ、白に赤の混ざったポピーはまさに壮観です。
ハナビシソウは、カリフォルニア原産のケシ科の植物で,英名はカリフォルニア・ポピー California poppy、色は白、黄、橙、紅、桃もあります。和名の花菱草は,花の形が「花菱紋」に似ているからだそうです。

       写真拡大             写真拡大                写真拡大

坂地のポピー園を上って行くと右側には、入口発着所からの専用路を行き来するフラワートレインが見られます。中央には、ポピー園来園記念の歓迎盤があり、この週辺のポピーは6月に見頃を迎える花畑で、まだ咲いてなくこれからです。

     写真拡大 

その間隙を縫って開き始めた紅色とピンクの花びらの大きいシャーレイポピーは、見事な姿を見せておりました。
シャーレイポピーは、ヨーロッパ原産のケシ科の一年草で、ヒナゲシや虞美人草とも云われます。

       写真拡大             写真拡大                写真拡大

ポピー園の中間地点左手の山には見事な山藤が見られ、畑には青と白のコントラストで織りなしたヤグルマキクも、見ごろを迎えるばかりでした。
ヤグルマキクは、ユーラシア大陸、北アメリカ原産のキク科で、花の形が鯉のぼりの竿の先に付ける矢車に似ていることから付けられております。

       写真拡大               写真拡大         

傾斜畑のポピー園の最上部には、薄青色の可憐なネモフィラが一面に花を付けており見事でした。
ネモフィラは、カリフォルニア原産のハゼリソウ科の一年草で、その花の色からるりからくさ(瑠璃唐草)という名前でも呼ばれています。

       写真拡大               写真拡大             写真拡大

これで、ポピー園の花を十分と楽しみましたので、階段を昇り次の施設の冒険ランドとハープ園に向います。
ハープ園は、ポピー園と並ぶ花の国の目玉です。ハープ園の入園料は4月1日から無料となり、併設の足の湯まで無料となりました。

                                              写真拡大

ポピーの花摘
ポピー祭りは6月3日が最終日で、この日の14~16時にはポピーの花摘みが行われ、入場自由で参加費は無料小雨決行です。参加者は、軍手、ハサミ、ビニール袋等を持参することになっております。ポピーの花摘みが終了した後にポピー園は閉園となります。

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小さな旅 立川 国営昭和記念公園

2007年05月20日 | 小さな旅
kan-haru blog 2007

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ゴールデンウイーク
ゴールデンウイークに孫が泊りがけで遊びに来たので、天候に恵まれた4日に立川の昭和記念公園に出かけてみました。
今年のゴールデンウイーク9日間の人出は、昨年より159万人上回った6618万人だったと新聞に報道されておりました。人出のトップは福岡「博多どんたく港まつり」210万人、次いで青森「弘前さくらまつり」202万人、広島「ひろしまフラワーフェスティバル」158万人、秋田「角館の桜まつり」106万人の順であったようです。

国営昭和記念公園
昭和記念公園(東京都立川市緑町3173 航空写真参照)は、昭和天皇の在位50年を記念して1983年に立川飛行場跡地に建設された、敷地が148.7hで東京ディズニーランドの3倍の面積をもつ広大な国営公園です。
公園の入園料は、一般が400円、小中学生が80円です。4日に出かけてみて知りましたが、無料開園日があり、4月29、30日、5月4、5日、10月1、15日が無料で入れます。

公園のある立川には、京浜急行大森町から京急川崎を経て、JR川崎から南部線で行き、立川口から入園しました。当日は、無料開園日でしたので、チケットを並んで購入する必要がなく、その分時間が有効に使えるので得をした気分でした。
昭和記念公園は、森のゾーン、広場のゾーン、水のゾーン、展示施設ゾーンとみどりの文化ゾーンの5つのエリアがあります。
公園では、3月31日から5月27日の期間中に、キューケンホフ公園(オランダ、リッセ市)の園長を長年務められたヘンクN.T.コスター氏に監修の「フラワーフェスティバル2007」が行われておりました。ゴールデンウイークの時期の花は、ポピーの丘でネモフィラ、リナリア、ヤグルマギク(60万株)とシャーレーポピー(20万株)が見頃であると出ておりました。

公園の広さは広大で、とても1日では見きれません。4日は、朝出かけるのがゆっくりしていたので到着は12時を過ぎており、ポピーの丘は公園の北端にあり遠いことと、5日には家族と久里浜ポピー公園に行く約束がありましたので、今回は花見を見送りました。
昭和記念公園には立川口から入園し、入るとカナールで大小5つの噴水と、園路周辺に敷きつめられた舗石が全長200mの端正なただずまいです。
カナールの左側にはドッグランがあり、飼い主さんが愛犬と共に楽しく過ごせる空間で、愛犬を連れた沢山の人が見られました。


ドッグランの先には、立川口サイクリングセンターがあり、自転車を借りる人で長蛇の行列でした。サイクリングは総延長14kmの自転車専用道路で、園内各所に専用パーキングがあります。各施設への移動にも便利ですが、ここを横目でみてふれあい広場に向かいました。
展示施設ゾーンのふれあい広場は、一面を芝生に被われ、なだらかに小高くなったふれあいの場で、日差しが強いので縁の木陰で持参のお弁当を広げました。ふれあい広場には、ロッジ風レストランがあります。
ふれあい広場には、園内を一周するパークトレイン(園内バス)の停留場がありますが、降車する人がいなければ乗車できないので、混雑を見越して乗るつもりはありませんでした。


食後に、広場でボールとバットを買い暫くボール遊びをして、ふれあいの橋を渡り水のゾーンへと向かい、水鳥の池には好天で水の恋しい季節を迎えたボートで一杯の風景を散策しながら眺めて、今回は昭和記念公園の一端をかすめただけで帰路につき西立川からJR青梅線で立川に向かい、往路の逆コースで帰宅しました。帰宅後、1日早い菖蒲湯で孫もご機嫌で疲れを癒しました。


昭和記念公園は、イベントも多く開催され一年中花や植物が観賞でき、11月のいちょう並木はとてもきれいです。
特に平成17年11月に一部が開園したみどりの文化ゾーンの昭和天皇記念館では特別展示(昭和天皇と戦後の地方巡幸-赤ベンツとお召列車)が開催(平成19年3月20日(火)~平成20年2月17日(日))されておりますので、機会を作って行ってみたいと思っております。

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イベント タイムスリップした趣きあるお部屋「花みち」で開催の異業種交流会

2007年05月17日 | イベント
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東京都異業種交流会
東京都異業種交流会H11メトロの5月例会は、11日18時から会場を文京区白山1-14-2の「花みち」で開催されました。
東京都異業種交流会H11メトロは、地方独立行政法人東京都立産業技術研究センターが異業種交流事業(異業種交流グループ)が毎年募集している東京都異業種交流会のグループで、平成11年に設立されWebに共有のグループサイトを設けて毎月定例活動を開いております(「風景・風物詩(A1) 東京百景 山の上ホテルとその周辺(その3)」参照)。

H11メトロの活動は、5月が新年度で新役員が専任され、例会で平成19年の活動計画が策定されました。
また、H11メトロには分科会のXML応用研究会があり、そこでは研究用の専用のサーバーマシンを保有し、毎月の活動を積極的に進めており最近の活動テーマとしては、会員企業においての「Web 2.0 時代におけるIT活用は如何にあるべきか」を実践的な学習で継続的に勧めており、その学習は第55回を数えております。

フリースペース 趣きあるお部屋「花みち」
H11メトロの開催会場の選定は、毎回役員の頭を悩ませます。
ところが、交流会例会開催会場も探せばあるもので、新年度の役員さんが見つけた文京区白山のフリースペース「花みち」は、安くて、交通の便も良いうえ、大変と赴きの深い大正年代に建てられた純和風のお部屋なのです。
まず料金ですが、14畳のお部屋の場合1部屋で1時間当たり800円(18~23時まで)です。
場所は、都営地下鉄三田線白山駅から徒歩5分の位置にあり、新宿から約30分で「花みち」に着きます。

部屋の付帯設備は、座卓の他、ホワイトボード、冷蔵庫、ポット・急須や湯のみ等の食器、などが利用できますが、建物の全館が禁煙であることは、歴史資産的な建造物であるので仕方がないでしょう。
それと、懇親会の使用として、お弁当やビールなどの飲食物がフリーに持ち込めるので、小宴会には不自由しません。

      花みち玄関            花みち玄関端             花みち襖

「花みち」は大正・昭和時代の待合茶屋
白山を歩くと古い木造建築が建ち並び、ほかとは違いなんとも味のある佇まいです。
文京区白山は、明治時代には三業地で花街のあった場所で、「花みち」も置き屋から芸者を呼び、料理屋から料理を調達して、待合茶屋として使われていた、大変と趣きのある建物で、各お部屋も花街独特の只住まいの雰囲気を持っております。

   お部屋の掛軸         茶屋の四畳半の間         茶屋のお部屋への階段
 
大正時代には、250人もの芸子さんがいたといわれております。
お部屋に入ると、掛け軸や行灯、欄間・障子など雰囲気から、今にも芸者さんが来るような錯覚におちいります。
なお、白山の由来は、白山神社が鎮座していたことからと云われております。

交流会恒例の懇親会
異業種交流会の例会が、滞こうりなく終り、仕出し屋の弁当とビール、酒などを取り寄せて、恒例の懇親会が行われました。

               懇親会の乾杯

懇親会後は、艶のある雰囲気の場所から、日頃から邦楽に深く傾注されているTさん、Sさんのお二人の横笛の演奏が公開され、厭が上にも「花みち」独特の雰囲気を盛り上げ、交流会出席の全員が何時しか待合茶屋の世界にタイムスリップしたようでした。

                趣のあるお部屋の雰囲気を盛り上げた横笛演奏
 
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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第2編 天皇制の問題集 第2回

2007年05月15日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

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総選挙
戦後最初の総選挙は1946年(昭和21年)4月10日に行われた。これは前年12月17日の選挙法改正で20歳以上の男女が投票権を得て、はじめての選挙であった。女性作家の生田花世の文章を使った選挙ポスターも、女性の投票を呼びかけている。
選挙を前に政党の再編も進んだが、1946年(昭和21年)1月4日のGHQによる公職追放令により、共産党以外の既成政党、とりわけ旧翼賛議員を中心としていた進歩党は大きな打撃を受けた。選挙の結果は、鳩山一郎率いる自由党が第一党となり、また39人の女性議員が初めて誕生した。そして鳩山の追放後、自由党総裁を継いだ吉田茂が進歩党との連立内閣を組織することとなった。東洋経済新報社社長であった石橋湛山もこの選挙で自由党から立候補し、落選したが大蔵大臣として入閣を果たした。なお、第1回の参議院の選挙は翌年の4月20日に実施された。

戦後最初の総選挙における有権者数及び投票率
選挙当日有権者数(人)  36,878,420 
投票者数(人)  26,582,175
投票率(%)  72.08 (男 78.52、女 66.97)


            戦後最初の総選挙ポスター

 



若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) 天皇制の問題集 第2回

我等の天子さま
今回の総選挙に当たり、産業、金融、地主等富裕階級の代表たる自由、進歩の両党は、自己の地盤を守る為め当然現状維持の天皇制絶対支持を一枚看板にしたのである。群小小会派及び無所属も国民大衆の心理をつかんで、天皇制に関する限り、自由、進歩と同一歩調であった。
社会党は、天皇の大権を大幅に縮小の上の天皇制を主張し、共産党は親の仇のように天皇制打倒を一本槍にしたが、大衆の気持ち察してか、野坂氏は「天皇制とは軍、官、財、これ等の閥と警察閥の一聯の政治組織を天皇制と称するので、之を徹底的に打倒する。天皇と皇室とは別である」と訂正したのである。
実際戦争中迄、御幸の際は、憲兵、巡査の垣、最戒裡に御通過なさるのである。まるで善良な国民を乱臣、賊子扱いで隔離する。

 皇室は特権階級のみの皇室ではないのである。
かく、戦争迄は特権階級の為にあまりにも利用された。所轄奃龍の袖に巧妙隠れて天下に号令したのである。
血盟団。五・一五、神兵隊、二・二六事件と血なまぐさき一連の思想は、要するに君民一如を邪魔する時の軍、官、財閥の排除を目的とし決行されたのである。
靖国神社大祭に御親拝の陛下の御写真は、御尊容神々しく拝されるけれど、龍顔なんとなくともらせ給うよう拝され申す。然して、御親拝を奉迎する遺族は、老も若きも、妻も子も、感激の涙と共に手を合せ拝して居る。
子を、夫を、父を、御国に捧げて、御奉公出来た事を心から真実の感激、偽りなき涙である。

敗戦となって此の信念は動揺したであろうか、否、みじんもゆるぎないのである。
天皇の詔書に現御神たることを否定された陛下は、セビロにソフトの平服で、戦災地から復興途上の産業施設、農村に御巡幸になって、親しく庶民に伍して、老婆にも、無邪気な子供にも親しく御言葉を賜り、亦申上げる事にうなずきさせ給う。新宿にては、御巡幸に熱狂せる民衆は、警戒制御を突破して陛下の御身辺に集り、期せずして純真な万歳を絶叫したのである。これでこそ、特権階級から取戻した、我々民族の心から敬愛申上げる事の出来る我等の
 天子さま
である。

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大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 梅屋敷駅付近(第1回)

2007年05月13日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
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高架工事により梅屋敷駅改札口移設
平成19年5月11日号の大田区報に、「京浜急行線連続立体交差の工事に伴い、梅屋敷駅の下り線改札口(第一京浜側)が変わります。」と掲載されておりました。
それによると、5月19日の始発から、梅屋敷駅の下り線改札口(第一京浜側)とトイレを約20m横浜方面に移設します。上り線改札口は従来どおり利用できます。とのお知らせがでておりました。
早速、移設により無くなる上り線改札口の姿を記録して置くため、5月13日に出かけてきました。

梅屋敷駅
梅屋敷駅(大田区蒲田2-28-1)は、梅屋敷公園(「大森町界隈あれこれ(N32) 大森町風景 梅屋敷公園」参照)の下車駅で、1901年(明治34年)2月に開業し、当時は東海道の道路上にあったが、1923年(大正12年)4月に専用軌道に移転しました。

                  梅屋敷駅東口

梅屋敷駅は、大森町駅の隣接駅で京急蒲田駅との中間にある、普通列車のみ停車する小さな駅で、ホ―ムの長さが僅か4両編成しか止まれない本線唯一の最短の駅です。京急の普通列車の編成は、4両編成と6両編成があり、6両編成の場合には上り下りとも、蒲田方向にホームを外れて2両分が停車し、ドアを開閉しないのです。
知らないお客は、停車前に車掌のアナウンスがあるので、急いでドアが開く4両の列車に移動して下車するのです。

                 4両編成しか止まれない本線唯一の最短駅

梅屋敷駅は、地形上ホームが長く取れませんので、構内踏切が設けられないため大森町駅のような踏切の撤去(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第3回)」参照)はありません。

          約20m蒲田よりに移設する改札口

改札口移設
改札口の移設は、説明図によると、現在の駅事務室とトイレのある後ろ(蒲田方向)のホーム東側に改札口、仮駅事務所とトイレを仮設して、現在のホーム石段を登って東側から改札機を通る形態になります。

                  移設前の梅屋敷駅東口改札口 

改札口の移動の目的は、大森町駅同様に、梅屋敷駅上に高架橋を架設するために、現状の京急線線路を東側に移動するために行われます。
これに伴い、梅屋敷駅近辺では電車線路の移動に備えて、電源の架線が上り、下り共すでに張られております。

        移動に備えて架線が施かれている線路       高架化工事脇で新築のビル
何れにしましても、高架化工事はピッチが上がり始めております。
・※記事中の誤記を訂正しました(2007.06.02)

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大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第5回)

2007年05月10日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
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現存駅舎上の高架橋架設準備工事
第4回記載の大森町駅構内踏切撤去(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第4回)」参照)により、朝の混雑がひどくなったため、上り線ホームの中間にラッシュアワー時だけ開ける臨時改札口を設けるという案内と、一緒に回った回覧板には、いよいよ高架橋を構築する基礎の工事に入るために、京急の上下線電車の線路を東に1.5m移設するというお知らせの案内です。

線路移設の準備
京急線線路の移設は、大森町駅上に高架橋を架設に、現状の線路構内の敷地幅を広く必要とするために、現状通行の線路を仮に東側に移設し、西側線路敷地内に隙間を空けるためです。
その準備として、下りホームの階段と改札機を東方向に移動(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第3回)」参照)しました。これにより、下りホームにあったトイレも移設が済み、現在のホームを東側に広げる準備と、ホーム上の屋根の建替を進めております。
      
            図1 現況線路図

線路移設ステップ1の手順
先ず、線路の移設は下り線側から行い(図2参照)、その予定は5月27日の日曜日に行われます。工事の手順は、終電車が過ぎてから下りホームの位置を、東側方向に1.5m幅を削ります。同時に、線路を移動と電車の架線も移動します。さらに、大森町商店街通りの大森町第1踏切りを8mから9.5m長の延長を、午前0時半頃から4時半までの4時間で仕上げる工事が行われます。
このため、駅のホームは組み立て式で、板が台の上に乗せてあるだけの簡易ホームですが、昼間のラッシュ時間の乗客を捌き、電車の通らない時間帯にはホームを外して、工事車や建設器具を運んでおり、大変な工事を進めております。

        図2 ステップ1工事線路図

短時間での、中々大変な屋外工事ですので進捗も思うようには行かないケースも出てくると思われます。工事の進行を見ていると、その大変さが判ります。一例を挙げると、線路移設のため、ホーム屋根の建替えを品川方面から進めて半分ほど完了してから、次に川崎方面からの建替えが進み、今一歩で屋根の結合が行われる段階まで進行したのですが、なぜか、折角の川崎方向の屋根が撤去されたのです。撤去の理由は、判かりませんが工事の大変さは理解できます。

線路移設ステップ2の手順
ステップ2の移設工事(図3参照)は6月17日日曜日に行い、上り線路を東側に1.5m移設する工事で、下り線と同様に線路と架線を移動して、ホームを1.5m張出す工事と踏切り長を9.5mから8mに短縮する作業を、電車が通らない間に行います。また、上りホームの屋根工事も、続けて行われます。

        図3 ステップ2工事線路図

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大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第4回)

2007年05月08日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
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大森町駅構内踏切撤去
前回の第3回(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第3回)」参照)で記載の京急高架化工事進捗のための大森町駅構内踏切の撤去から、丁度10日が経過しました。
構内踏切撤去によりもたらしたものは、通路が半分となったため、朝の通勤・通学のラッシュ時の混雑がかなり酷いものとなりました。そこで、前回の記事で工事期間が短期でないので、何らかの対応策の必要性を訴えました。

構内踏切撤去による混雑対応策
そこで、昨日、町会からの回覧板を見ると、京急高架化工事に伴う2件のお知らせの通知でした。
通知の1つは、正に構内踏切撤去による混雑の対応策でした。その対応策は、図に示すように上りホームに臨時の改札口を設けるというものです。
改札口は、駅に近接して洋品を販売している「ナンカ堂」の裏の立ち退き (「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第1回その1)」参照)になった空き地から入る改札口を新設するというものです。


踏切撤去による混雑は、たしかに朝の上りのラッシュ時であり、相当なものです。
対応策のお知らせを見ると、“京急蒲田駅付近連続立体交差事業の進捗に伴い、朝ラッシュ時の混雑対策として臨時改札口を開設します。“とあり、開設の期間は平成19年5月中から当分の間の7~9時の間とあります。

では、これで混雑が解消するかですが、NOなのです。
たしかに、改札口が増えれば、西口に到達した人がホームに入り易くはなりますが、混雑の解消には役に立たないのです。

通勤客の流れ
その理由は、朝の通勤・通学客の流れは上り電車への乗車が断然多く、しかもその殆どが第一京浜国道側から大森町商店街通りの踏み切りを渡って上りホームへと進むのです。
構内踏切が撤去される前には、上りホームへの人の流れは大森町駅東口改札機を通り、踏み切りを渡っておりました。

大森町駅商店街通りの車の通行は、第一京浜国道から西方向への一方通行ですが、道幅が5mと狭く中型トラックが走ると、人の流れは車の両側の隙間に2~3列で双方向に進むのです。しかも、最近は自転車通行も多く、双方向に行き来する自転車も割り込んできます。
その上、10分間に8本もの電車が通り、踏み切り空かずの時間はかなりあります。この間に、在来には構内踏切を上り方向に渡る人の待ちが20人ほど溜まります。
しかし、この待ちの人の移動は、構内踏切ですので車や自転車の妨害がなく、一方向に比較的流れ良く渡れます。

ところが、商店街の踏切りは、遮断待ちの車の列、双方向の自転車通行と、車の脇のわずかの隙間を自転車を避けながらの通行ですので、通勤客はとてもスムースに流れることが出来ないのです。
構内踏切は、人の流れには大変な効力を備えていました。それを無視した踏切撤去は、当然無理が生じるのです。

なぜ、踏切撤去を行ったのかは、2枚目の回覧版通知により判りましたが、これについては、次回で触れます。
兎も角、朝の混雑解消の対応をする必要があります。その1として、通勤時間の朝7~9時の間の車と自転車を通行止めにして、人の流れを少しでも良くすることです。これは、現在、夕方の16~18時の間には車の通行止めを実施しているのですから、問題はない筈です。
第2の対応策ですが、商店街通りの踏切りの線路上部分を、両側におよそ1.5倍ほど拡幅して、ピーク時の人の流れを構内踏切撤去分の代替を設ける案です。
踏切り遮断機の幅は、5mですが踏切り部分を7.5mに膨らますと、人は容易に横方向に移動しながら進むので、流れが良くなります。第2案の実施には、若干問題がありますが、高架工事の前倒し進捗のためには必要です。

戦前から大森町駅の利用者している者の提言です。事故の起きない内に解消して貰いたいとの願いです。

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大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第3回)

2007年05月06日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
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高架工事により大森町駅の変貌
京浜急行の高架化工事も、いよいよ段取りの準備が徐徐に進んできました。今回は、構内踏切の撤去(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第2回)参照」)と、東口、西口のそれぞれの改札口の移動の工事の後の模様を見ていただきます。

踏み切り撤去と改札口の移設工事は、4月28日土曜日の終電車が通過してから始まり、29日の初電通過までに終了させる必要があります。

               構内踏切撤去              構内踏切撤去前撮影

撤去と改札口の移設の工事の概要を、第2回で記述の案内図から見ると、西口の方はホーム寄りに2mほど移動させるだけですが、現在の改札機はICカードのPASMOとSUICAの乗車カードを使用しているので、付帯の電気工事もあります。

                  約2mホーム方向に移動した改札機

東口の工事は、西口より大変で駅事務所を約半分のスペースに縮小して、既に撤去済みのトイレの跡をホームへ上がる石段を設置して、改札機を約9mほど新設の石段の前に移設します。それと、29日の工事後にみて気が付いたのですが、ホームへの石段のさらに東側にスロープの通路が設けられました。

改札機移動の大森町駅東口 駅事務所後方に移動の改札機 改札機の右側にスロープ新設

工事が終了した後の大森町駅の変貌振りは大きく、長年慣れた駅からはがらりと変わったのです。
高架化工事の完成まで、7、8年ほど要することと思いますが、最近の大森町駅の朝の通勤ラッシュの時間は益々混雑がひどくなってきました。それと、上り下りの電車の本数が10分間に8本も通過するのです。
踏み切りの開閉時間も、長い時間待たされることが多いのです。ここで構内踏切が閉鎖となったので、通勤・通学客が踏み切りを越えて乗降りする数が構外踏み切りの一本となったため、渡る客が倍増し大混雑の形相を示しております。
短期間ならまだしも、長期にわたるのですから、何らかの対応策が必要なようです。

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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第2編 天皇制の問題集 第1回

2007年05月03日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

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若山武義氏の手記も、今回から昭和戦後史の第2編に入ります。1945年(昭和20年)代の終戦直後の記録は非常に少なく、大変貴重な戦後史の資料です。
 戦後史第1編 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第1~8回

若山氏の手記は、大戦の大空襲の戦災に遭遇された空襲編の3編も掲載済であります。是非この貴重な記録を閲読して頂き、お知り合いの皆様方にもご紹介願えれば、記述者におかれましても満足されるのではと思います。
 戦災日誌第1編 大森町界隈あれこれ(8) 鎮魂!大森町大空襲(第1~11回) 
 戦災日誌第2編 大森町界隈あれこれ(19) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第1~7回)
 戦災日誌第3編 大森町界隈あれこれ(K30) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第1~9回) 
 
終戦の詔書
終戦の詔書は、天皇の大権に基づいてポツダム宣言受諾に関する勅旨を国民に宣布した文書で、1945年(昭和20年)8月14日発布され、これにより戦争終結が公式に表明されました。同日、天皇は詔書を録音し、その内容は翌15日正午にラジオ放送を通じて広く国民に報じられました。
これが、玉音放送(「大森町界隈あれこれ(K33) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第4回)」参照)であり放送の時間は正味4分10秒間であったと記録されております。
放送時間が正午を選んだのは、最も聴取率が高い時間帯であったからと云われております。当日は、学生・生徒は学校に、町会隣組は隣組単位に集合してラジオ放送を聞いたのですが、当時のラジオは性能上多数の人に聞かせるものはありませんでしたので、大部分の人は放送内容を聞くことができない状況でした。
終戦の詔書の内容を国民が見たのは、翌日の新聞記事でした。

終戦の詔書は、国立公文書館で所蔵されております。

詔書の全文テキスト文書は、国立図書館の電子展示会「日本国憲法の誕生」資料内の資料と解説・第1章 戦争終結と憲法改正の始動「終戦の詔書(クリック)」で閲覧できます。



若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) 天皇制の問題集 第1回

終戦の詔書

昭和20年八月十四日終戦の詔書に
 朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激
 スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ
 朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ
 将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコ
 トヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ

と仰せ給うて、敗戦に虚脱せる国民に其の進むべき道を宣示し給うた。更に元旦の詔書に、明治天皇開国五箇条の御誓文により新たに国運を開かせ給う旨を仰せられて
 朕ハ爾臣民ト共二在リ常二利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス朕ト爾臣民トノ間ノ紐帯ハ終始相互
 ノ信頼トニ結バレ単ナル神話ト伝説ニヨリテ生ゼルモノニ非ズ

と、天皇の現御神たる事を御否定遊ばされ
 朕ハ我ガ国民ガ時難二躍起シ当面ノ困苦克服ノ為メ二、又産業文運振興ノ為勇住センコトヲ希念ス。
 我ガ国民ガ其ノ公民生活ニ於テ団結シ、相倚リ相扶ケ寛容相許スノ気風ヲ作興スルニ於テハ、能ク
 至高ノ伝統ニ恥ヂザル真贋ヲ発揮スルニ至ラン斯ノ如キハ実ニ我国民ガ人類ノ福祉ト向上ノ為、絶
 大ナル貢献ヲ為ス所以ナルヲ疑ハザルナリ
 一年ノ計ハ年頭ニ在リ朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ自ラ奮ヒ自ラ励マシ、以テ此
 ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ  

敗戦後の新日本建設に付き懇篤に我等の向かうべき道を宣示し給うたのである。
 戦争華やかなりし頃、如何なる点が不敬であったのか所轄「天皇機関説」にて篤学の学者、思想家、の連中が学園より追放され、自由主義者と共に囹圄の人となった人々も相当あったのである。
「皇室に対する国民の感情は宗教以上の信仰である」と、クルーアメリカ大使初め我国に長く滞在した欧米人の皆一致して断定された通り、学問や理屈で説明の出来ぬ感情なのである。
 天皇制に対して、学者の学問的解釈に対し、ただ
  神聖にして犯すべからず
として、何が故に神聖であるかは、学問的にも倫理的にも説明されない。只、国民衆庶の牢固熱烈なる信仰を特権階級に利用され戦争となり敗戦となっあ今日、言論の自由から批判の対象となったのは当然である。

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番外編 カテゴリー別ブログ記事の検索と見方 [付 kan-haruの日記4月月間INDEX]

2007年05月01日 | INDEX
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  大森町界隈あれこれ カテゴリー別目次

 1 大森町界隈あれこれ 大森町に住んで65年!
 2 大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記 総目次
  2-1 大森町界隈あれこれ 鎮魂! 大森町大空襲 (第1編)
      付 東京大空襲 ~あれから61年~
  2-2 大森町界隈あれこれ 手記第2編 戦災日誌中野編
  2-3 大森町界隈あれこれ 手記第3編 戦前戦後目黒にて
 3 大森町界隈あれこれ 戦後編若山武義氏手記 総目次
  3-1 大森町界隈あれこれ 戦後史編手記 第1編総目次
  ■ 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第7回 4月10日
  ■ 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第8回 4月17日
 4 大森町界隈あれこれ 大森町の社寺
  ■ 大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 大林寺 4月19日
 5 大森町界隈あれこれ 大森町商店街
 6 大森町界隈あれこれ 大森海苔
  ■ 大森町界隈あれこれ 大森海苔物語 のり祭り 4月8日
 7 大森町界隈あれこれ 京浜急行
  ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第2回) 4月26日
  ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 京急蒲田駅付近(第2回) 4月29日
 8 大森町界隈あれこれ 大森町風景
  ■ 大森町界隈あれこれ 大森町風景 オープンの大森ふるさとの浜辺公園 4月5日
  ■ 大森町界隈あれこれ 風景 満開の八重桜の穴場平和島流通センター 4月15日
 9 大森町界隈あれこれ イベント
  ■ 大森町界隈あれこれ イベント 平和の森公園フィールドアスレチック 4月12日
10 大森町界隈あれこれ 大森町学びや

  一般 カテゴリー別目次

21 風景・風物詩 総目次
  ■ 風景・風物詩(B16) 花見 サクラ前線に合わせて花見のハシゴ 4月3日
22 小さな旅 総目次
23 旅ものがたり 総目次
24 秋葉原界隈 総目次
25 イベント 総目次
  ■ イベント 東京の港と海の情報基地 「東京みなと館」 4月22日
  ■ イベント 船に関する知識の宝庫 「船の科学館」 4月24日
26 ITと技術 総目次
27 Weblog 総目次
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