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K&A

kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ(L33) 大森町の社寺 大森神社(寄来神社)

2006年09月28日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
大森神社(大田区大森北6-32-12 地図航空写真参照)は、京浜急行電鉄平和島駅から第一京浜国道沿いを北に約2分ほどのところに鎮座しております。境内は、第一京浜国道に面し、裏は京浜急行電鉄に挟まれた奥行きの狭い神社で、鉄道と国道の敷設工事の時に削られたのではと思われます。
大森神社は、大森村の旧東海道三原通り(「大森町界隈あれこれ(N31) 大森町風景 旧東海道(三原通り) その1」参照)の鎮守様で、昔は寄来大明神 寄来神社と称し、1886に現在の大森神社に変わりました。御祭神は、久久能智命(くくのちのみこと)が祀られておりす。


大森神社は、第一京浜国道に面して大小の鳥居が二つ並んで建立しており、向かって右側が本殿で、左側は末社です。大鳥居の左には手水舎があり、その脇には百度石が置いてあります。本殿脇には、御神木が植えられており、狛犬はないが大森魚市場から寄進された立派な青銅の燈籠があります。

大森魚市場
「東京市史稿」によると、江戸時代に付近の漁師が魚貝類を持ち寄り商売したのが始まりといわれ、1880年(明治13年)9月4日に大森魚市場の開設が許可されるたと記録が残っております。
慶長年間、江戸八辻ヶ原(今の神田須田町あたり)に始まった青果市場をもととして発展した神田市場。昭和11年蒲田配給所(蒲田分場)とともに開場した荏原市場と共に、平成元年に、この3市場1分場が統合され、新たに東京都中央卸売大田市場として生まれ変わりました。
大森魚市場のあったところは、現在は大森スポーツセンター(大森本町2-2-5 地図参照)となり、大田区の公共施設として利用されています。

大森神社例祭
大森神社の例祭日は、隔年の9月14日(神社式典)に近い土日に執り行われ、本祭りの時は美原通りの氏子町会毎(「大森町界隈あれこれ(M31) 大森町商店街 ミハラ通り夜店フェスティバル」参照)に神輿の渡御りや山車が繰り出され賑やかなお祭りが行われますが、今年は陰祭りに当たり、9月17日の日曜日に大森本町二丁目仲町町会だけの、美原通りを交通止めして子供神輿山車だけでの質素な仲町会祭が行われました。大元の大森神社は、ひっそりとして、お祭りの雰囲気は何もありませんでした。
仲町会祭風景1

・本祭り
平成17年の本祭りは、盛大に行われ、その祭り風景をWebで覗いて見ました。
大森本町北町会には、昭和初期に製作された一尺八寸の総彫神輿と平成14年に旧大森魚市場から奉納された二尺三寸の神輿があります。子供神輿は中神輿と小神輿があります。
また、昭和八年製作の北町の太鼓山車があり、天狗様が上に乗り彫刻が立派な城南地区でも有数の山車で、大祭時に子供連が曳きます。

由緒
旧東大森村三原の鎮守で寄来大明神と称していた。創建年代は不詳だが、1720年(享保5年)再建時の棟札に、1616年(元和2年)に社殿を改築したとの記述がある。
社伝によれば、ある時、黄金色に輝く御神体がこの地の浜に流れ着いた。里人は非常に畏れて沖へと流したが、再び浜に帰ってきた。これを三度繰り返して、三度戻ってきたため、神意がこの地にあることを悟り、寄来大明神として祀ったという。
1868年(明治元年)神祇伯・白川資訓王より「大森神社」の社号と額面を賜る。1932年(昭和7年)東京市への編入にあたり、寄来神社の社号を正式に大森神社と改めた。1945年(昭和20年)米軍の無差別爆撃により社殿焼失。1963年(昭和38年)再建された。

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イベント(6) 運動会 お茶の水小学校運動会

2006年09月26日 | イベント
9月24日は、朝から絶好の秋日和の天候に恵まれて、孫の通っているお茶の水小学校で第14回目の運動会が開催されました。今時の運動会は、どんなものかを見るために、京急大森町駅から三田駅で都営三田線に乗り換えて、9時頃神保町駅に着きました。

夏目漱石が通った学校
お茶の水小学校(「風景・風物詩(A1) 東京百景 山の上ホテルとその周辺(その3)」参照) 運動会は、平成5年4月に近隣の小川小学校、西神田小学校と夏目漱石が通った錦華小学校が統合された小学校です。
錦華小学校は、1873年(明治6年) 第4中学区第二番小学校、久松学校と称して開港し、1972年(昭和47年)に皇太子・妃殿下を迎え創立100周年記念式典挙行(記念碑)し、今年は錦華小学校通算第133回の運動会にあたります。小川小学校は、1900年(明治33年) 東京市西小川尋常小学校と称して開港し、今年は小川小学校通算第107回の運動会にあたります。また、西神田小学校は、1903年(明治36年) 東京市西小川尋常小学校と称して開港し、今年は西神田小学校通算第104回の運動会にあたり歴史ある運動会なのです。

優勝旗・優勝杯のある運動会
運動会のプログラムを見ると、歴史ある夏目漱石が通った学校の運動会だけあって、何と開会式では国旗掲揚と優勝旗・優勝杯の返還があり、昨年優勝の赤組から返還されました。
運動会は、全校児童数は少ないため、クラスは白組と赤組だけですが、プログラム22項目のうち、演技・体操や幼稚園児などの競技を除く14種目が対抗競技で、優勝を競います。
応援団の応援合戦もあり、対抗意識を盛り挙げており、対抗戦出場の選手は皆真剣に力を発揮して競技に参加しておりますので、観戦していても気持ちの良い雰囲気でした。対抗競技の得点は、競技毎に積算して得点掲示板に表示されますが、特に午後の対抗競技では終盤3競技からは得点表示を伏せて、対抗の関心を高めて、全競技が終了してから総得点の発表があります。
平成18年度運動会の競技は、710対631で白組が優勝し、優勝旗優勝杯を手にしました。

運動会競技風景


見学に見えた父兄や家族は、出場しているわが子の成績に一喜一憂するとともに、対抗競技では紅白に分かれて手に汗を握り応援して楽しんでおりました。
めざせ、ゴール!!はしって!まわって!ひっぱって!疾風怒涛まっすぐはしろうゴールはそこだ波乗りライダーTerminer on beaut'e進め、トルネード思いをたくしてゴーゴーかけっこ戦国お茶の水 夏の陣かけめぐる青春大玉送り
併設の幼稚園児の微笑ましい可愛い演技に声援を送ったり、組体操や演技種目に感心したりして、好天の長閑な運動会風景の秋の一時を過ごしてきました。
カリブのかいぞくたち元気いっぱい!太陽にとどけ!和太鼓

夏目漱石 – Wikipedia

夏目漱石と錦華小学校
お茶の水小学校の敷地のわきには夏目漱石の碑があり、錦華小学校第104回卒業生の卒業記念に建てた碑には、
“吾輩は猫である 名前はまだ無い
明治11年 夏目漱石 錦華に学ぶ“
と刻まれております。また、夏目漱石の略歴には、
“先輩 夏目漱石 略歴
慶應3年11月6日、牛込に生る。金之助と命名。市ヶ谷小學校に入學後、錦華小學校に轉ず。同校卒業後一っ橋に入り、業を卒へずして退き、二松學舎に入りて漢學を學ぶ。(大正6年「新小説」より)“
と書いてあります。
お茶の水小学校には、残念ながら漱石のエピソードや成績表などゆかりの品や資料類も戦争で焼失して残っていないのです。

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イベント(5) 歌舞伎座観劇 秀山祭九月大歌舞伎夜の部

2006年09月23日 | イベント
毎年母校では、歌舞伎観劇会の催しがあり、今年は9月10日に秀山祭九月大歌舞伎の夜の部を見てきました。観劇会は、お弁当が付いて一般料金より若干お安く鑑賞でき、イヤホンガイドの使用料も割引となります。
歌舞伎は、飛び切りのファンではないのですが、毎年定められた予定の催しですので、ほとんど毎年見ております。
歌舞伎座の座席は、抽選で決められますので、どこの席にあたるかは当日までのお楽しみです。今年の座席は、二階の西桟敷席後方の11-3と4の席が割り当てとなり、ここは花道がまったく見えないところであり、誠に残念でした。これは、抽選ですので仕方のないことで、次回は良い席が取れますようにと期待しました。

九月観劇の「秀山祭九月大歌舞伎」は、初代中村吉右衛門の生誕120年を記念して、俳名「秀山」を採ってのお祭りの興行です。



菊畑
観劇夜の部の公演は、午後四時半からの開演で、秋に相応しく最初の演題が『菊畑』(一幕)です。
菊畑は、文耕堂、長谷川千四の作で、1731年(享保16年)に大阪竹本座初演の、全五段の浄瑠璃『鬼一法眼三略巻』(外題)の三段目の通称であり、三略巻とは“六韜三略巻(りくとうさんりゃくのまき)”(虎の巻)であるとのことです。
みごとな菊が咲き乱れる、吉岡鬼一法眼(左團次)の館の庭の場面の幕開きで鬼一が花壇の菊を眺めます。鬼一は、源義朝の家臣だった吉岡三兄弟の長兄で、今は訳あって平家側に与しています。

実は三男の鬼三太(幸四郎)である奴の知恵内と、主君牛若丸(染五郎)の奴の虎蔵は、鬼一が秘蔵する兵法の虎の巻を入手するために、鬼一館の奉公人になりすまします。そして、知恵内を弟の鬼三太と悟った鬼一が、心底を窺おうと虎蔵を杖で折檻をするようにと命じる場面は、見所の一つです。そして、虎蔵と知恵内が庭に残り、今宵の内に虎の巻を奪い取ろうとの相談するところは、義太夫に合わせた作品随一の眼目となります。
虎蔵に想いを寄せる鬼一の娘皆鶴姫(芝雀)は、二人の素性を知ってしまいます。そこへ湛海(歌六)が現れ、二人の正体を清盛に注進すると言うので、牛若丸はその湛海をあっけなく切り殺します。

皆鶴姫が、知恵内に牛若丸との恋の取り持ちを頼み、菊の花を使ってかき口説く場面は、皆鶴姫の見せ場です。そして牛若丸、鬼三太に皆鶴姫が協力して密かに巻物を奪うことを打ち合わせるのだった。
美しい菊畑を背景に、若衆の虎蔵、凛々しい繻子奴の鬼三太、可憐な赤姫の皆鶴姫、そして座頭の風格の鬼一法眼。歌舞伎の典型的な役柄が揃った、濃厚な義太夫狂言です。

幕間
次の演題との幕間に、配られた幕の内弁当の夕食を取りました。桟敷席には、座席の前にテーブルが付いておりますので、お弁当を食べたり、荷物を置くのには大変重宝しました。幕間に場内の土産物店を物見しました。

籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)
二番目の演目『籠釣瓶花街酔醒』(四幕七場)は、佐野次郎左衛門が、吉原の遊女八ツ橋は殺害したという事件は、享保年間に実際に起こった事件とされていますが、歌舞伎の題材として取り上げられた中での決定版で、作者は河竹黙阿弥の高弟・三世河竹新七です。この作品の初演は、1888年(明治21年)初代市川左団次、五代目中村歌右衛門により東京千歳座で公演されました。
序幕は、絢爛たる花魁道中の様子が見どころで、八ツ橋(福助)が花道の付け際での、下男の治六(歌昇)と吉原を訪れた下野の絹商人次郎左衛門(吉右衛門)に婉然と微笑む場面が眼目なのですが、今回の座席は花道が全く見えずに誠に残念至極でした。

二幕目は、廓に通い詰め身請け話もまとまろうとしていた次郎左衛門の変貌ぶりが、笑いを誘います。
三幕目は、八ツ橋の情夫繁山栄之丞(梅玉)の横やりが入り、突然八ツ橋から愛想づかしをされてしまう場面が見どころで、次郎左衛門の切羽詰まった気持ちを聞かせる「花魁 そりゃあんまりそでなかろうぜ」台詞は最大の見せ場です。
大詰めは、一刀のもとに八ツ橋が切られる凄惨な殺しの場面ですが、満座の中で八ツ橋から恥辱を受けた恨みを晴らそうとやって来た次郎左衛門が、村正作の妖刀・籠釣瓶を手に八ツ橋を斬り籠釣瓶の斬れ味に簡単し、殺害後の表情と名台詞「籠釣瓶はよく切れるなぁ…」は、歌舞伎の美学をみせてくれます。
秀山祭の名作には、このほか立花屋女房おきつ(東蔵)、九重(芝雀)、立花屋長兵衛(幸四郎)の豪華配役での、初代中村吉右衛門生誕120年記念の出し物でした。

鬼揃紅葉狩(おにぞろいもみじがり)
三番目の『鬼揃紅葉狩』は、萩原雪夫作の舞踊作品であり、1960年(昭和35年)の歌舞伎座で六世中村歌右衛門の更科の前、二世市川猿之助の維茂の配役で初演されたものです。
秋も盛りの信濃の国・戸隠山中に雪郎太(松江)と月郎吾(種太郎)の2人の従者を連れた余吾将軍平維茂(信二郎)が紅葉狩から館に帰ろうとするところに、四人の待女(吉之助宗之助吉弥高麗蔵)を従えた実は戸隠山の鬼女の更科の前(染五郎)がやって来たので、維茂は邪魔をしないように立ち去ろうとする。

すると、更科の前は維茂主従を呼び止め、酒宴を開いて紅葉を愛でようと誘われ、盃を傾け始めると、更科の前や待女が舞を披露する。維茂たちのうたた寝を確かめると、戸隠山に住む鬼女たちは姿を消すのである。
そこへ維茂主従を救うため、八幡神の差し向けで現れたのは、男山八幡の末社の神千秋彦(広太郎)、百秋彦(隼人)、千春女(廣松)、百春彦(玉太郎)で、維茂主従の目を覚まさせようと舞を舞い、姿を消す。
その、威徳で目を覚ました維茂主従は、山奥に入り古塚の辺りまでくると、戸隠山の鬼女とそれに従う眷族(吉之助宗之助吉弥高麗蔵)たちが現れ、維茂主従に襲いかかるが、やがて維茂たちの武勇には敵わず退治されるという、歌舞伎舞踊です。

初代吉右衛門
初代吉右衛門(家系図)は、九代目市川團十郎の芸風を継承して時代物役者として古格を伝えた第一人者でありました。さらに独自の深い解釈を加え、現在上演される多くの型を作りあげ、ことに役の心情を表現する台詞の巧さ、調子のよさは特筆されるものがあり、昭和歌舞伎を代表する名優として多くの功績を残しました。

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大森町界隈あれこれ(N32) 大森町風景 梅屋敷公園

2006年09月20日 | 大森町界隈あれこれ 風景
京浜急行電鉄大森町駅の南隣の梅屋敷駅から第一京浜国道にでて、蒲田方向に歩くと数分で大田区体育館と対面して梅屋敷公園(蒲田3-25-6)(地図参照)があります。
梅屋敷は、旧東海道の三原通り(「大森町界隈あれこれ(N31) 大森町風景 旧東海道(三原通り) その1」参照)から谷戸(「大森町界隈あれこれ(L32) 大森町の社寺 谷戸三輪神社秋の例祭」参照)、梅屋敷にかけた一体が間(あい)の宿として賑わい、江戸時代の旅人にとって休息地で、和中散を売る店や茶屋が開かれ、大森名物の麦わら細工も密接な関係があります。したがいまして、地域的には大森村に隣接した蒲田地区の蒲田村ですが、梅屋敷公園については大森町界隈の大森町風景としました。

梅屋敷の歴史
梅屋敷(梅屋敷由来説明板)は、1820年(文政)の初め頃、和中散を商い(梅屋敷と和中散売薬所跡 大田区文化財1975年3月19日指定)山本忠左衛門の子孫の久三郎が、街道の両側に跨る約3千坪の庭園に梅を植え、休み茶屋も設けて酒肴をだしたので、遊興や見物人が集まり賑わったと云われてます。花時には、見事で広重の江戸名所百景に画かれております。


この地域は、古くから梅の栽培が盛んで、品質もよく梅干や梅びしを江戸の人に供給されたと云います。
梅屋敷には、徳川将軍家慶が、鷹狩りの途中に立ち寄り、明治天皇や大正天皇が休息され庭園はますます整備されました。
大田区の1988年(昭和63年)「明治天皇と梅屋敷」の説明板によると、梅屋敷には1868年(明治元年)から1897(明治30年)の間に天皇の九度の行幸がありました。天皇はことのほか梅屋敷の風致を好まれ、1873年(明治6年)3月6日のご観梅のときには小梅一株をみずからお手植なされ、この梅は仙粧梅と称されて後に人々に愛されたといわれています。その後、1933年(昭和8年)史蹟として保存指定を受け、1938年(昭和13年)に東京市へ寄付され、現在に至っています。

梅屋敷公園周辺の環境変化
1818年(大正7年)に、京浜国道の拡幅工事のため、公園の東側が削られ縮小されました。また、同じ頃京浜電車が梅屋敷公園の西側を通ることになり、西側も縮小され往時の面影は無くなりました。
1928年(昭和13年)には、東京市に寄贈されて一般公園として公開され、戦後は都から区に移管され区の小公園となりました。
さらに、歴史は繰り返すで今日現在も、京浜急行電鉄の高架化工事( 「大森町界隈あれこれ(P30) 京浜急行 京浜急行の高架化(その1)」参照)で、さらなる梅屋敷公園の西側の削減が行われ、工事が開始しております。
また、第一京浜国道の拡幅工事も開始され、公園の東側も削減されると梅屋敷公園の歴史文化は消える運命にあります。

消え往く梅屋敷公園を見る
昔、栄えた梅屋敷公園には、いろいろな石碑や名残がまだ少し残っておりますので、大森町界隈の歴史の面影が消えない前にと、9月16日に散策しました。
先述のように、梅屋敷公園は京急梅屋敷駅の近くですが、大森町駅から10数分の距離ですので、昔の間(あい)の宿の面影を辿り、常夜灯の置かれていたと云う谷戸や、第一京浜工事と京急高架化工事の状況を見ながら歩いてみました。

梅屋敷近辺(地図参照)には、第一京浜国道を渡り産業通り方向に進むと、堀の内三輪神社と蜜薬院があります。堀の内三輪神社(大森中3-17-15)は、1923年(大正12年)の関東大震災で、常夜灯灯篭が倒壊して破損し、東海道を拡幅して第一京浜国道が建設の時に移転して一時的に安置された神社です(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 堀の内三輪神社」掲載予定)。
蜜乗院(大森中2-17-5)は、大森の乾海苔を1670(宝永)年間に作り出した野口六郎左衛門の墓と、1868年(明治初年)にこの寺で私塾を開き、貴船(現大一)、寄来(現開桜)小学校の校長を歴任した山口琢磨の懐徳碑があります(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 蜜乗院」掲載予定)。

梅屋敷公園は、第一京浜国道に二ヶ所の入口と南側路地入口の三ヶ所があり、第一京浜国道南側の入口には「明治天皇行幸所蒲田梅屋敷」の石碑が建っております。
京急高架化工事前の梅屋敷公園(空中写真)には、昔の名残で梅の木がかなり植えられておりましたが、工事があまり進まないうちに昔の面影を見ておきましょう。
公園の中央には、池があり藤棚の下では風流に尺八を奏でる人や憩いの談笑する人で、公園の潤いを感じました。また、小滝から清流を受ける池があり、梅屋敷に相応しい梅の木も結構あり、古い石碑(石碑1石碑2)も何個か見られました。
また、公園に隣接した大田区体育館弓道場では、何人かの練習風景も見られました。

梅屋敷公園にかかる京急高架化と第一京浜国道工事
しかし、京浜急行電鉄の高架化工事は一部開始されており、閑散であった公園の一部が工事の囲いで無残にも引き裂かれ、その中には多くの梅の木(工事現場内の梅1)が見られました。

さらに、未だ工事が始まっておりませんが、近々第一京浜国道の拡幅工事が始まると、写真で見たのどかな歴史ある公園は、姿を消すのみです。歴史の文化を簡単に抹消するのは、元に戻すことはできないのです。何か、侘びしい思いをしながら帰ってきました。

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ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その1)

2006年09月18日 | ようこそ kan-haru日記へ
・2013年11月18日5版

< 総合INDEX へ

ようこそ K&A kan-haru 日記へお越し頂きまして、有難うございます。

日記索引の INDEX をリニューアルしましたので、日記の全記事を索引できます。
kan-haru 日記では、記事索引のために「< 総合INDEX へ」をクリックして、「カテゴリー別総合目次(全日記INDEX)」へ進み、目次記載のカテゴリー項目を選択すると、当該の「カテゴリー毎の目次」を表示します。

カテゴリー毎の目次は、常時更新を行っておりますが、当該カテゴリーの第1回から最新の掲載記事まで一望して索引することができます。
また、日記の検索・索引が複数の方法で行えますので、「kan-haru日記 おしらせ 目次構成のリニューアルにより索引・検索が簡単で便利になりました」(←ここをクリックして)参照してください。 (2013年11月18日)

1 日記について
kan-haru 日記は、2006年3月8日に掲載開始からの登録が1400編を超え、掲載の写真、地図や資料などが非常に多数に達しています。(2013年11月18日現在)
日記の形式は、記録誌的な志向で掲載してあり、何時でも、何時まででも、また電子百科辞典的に検索して参考資料としてご利用ができます。
日記は、多様なテーマでカテゴリーも多数に分かれており、掲載も順不同に登録してあり閲覧頂くには、kan-haru 日記の見方についてのルールをご理解頂く必要があり、以下に目次などのガイダンスを記載しました。

日記の掲載の趣旨
kan-haru のは、大森町に65年間住んで、その想い出を風化させないために大森町に特化した、「大森町界隈あれこれ」についての記事を、豊富な写真、地図、資料と共に記録誌風に残すことを、テーマの一つとして記述してあります。
大森町の記録の中には、筆者の父の同僚でありました若山武義氏が、1946年の終戦翌年に記述した手記「戦災日誌」を、ご遺族のご好意の提供により一つのテーマとして掲載してあります。私の少年時代に遭遇した大森町大空襲の悲惨な体験と無知な戦争の記録は、今や、戦争を知らない人が80%を超え、風化した戦争を語り継ぎ平和の維持を願うため、実在した貴重な記録でありますので、解説と共に手記を掲載しました。掲載の手記は、「戦災編」と「戦後編」を、解説記事と共に完結連載しました。

日記の二つ目のテーマとしては、筆者が住んでいる大森町の周辺以外の地域の大田区、東京を初めとした全ての地域で筆者が触れた風土記、風景・風物詩、旅、イベント、見学記などを日記と記録誌風に、豊富な写真、地図、資料を付けて掲載してあります。

また日記は、Web時代のコミュニケーションとしての有用なツールでありますので、今後は記録誌日記の形態での掲載の他に、ブログの利・応用活用を進化した発想で、新たなコンテンツの創作にチャレンジし、次のテーマとして掲載して見たいと思っております。

2 日記の目次について
日記の目次構成は、「大森町界隈あれこれ」と大森町を除く全般の記録記事および「その他」のテーマ(カテゴリー)別の構成を示した「カテゴリー別総目次」と、テーマ毎の掲載記事を示した「カテゴリー毎目次」および、毎月1日付け掲載の「前月登録日記目次」から成ってます。以下にカテゴリー別の総目次項目とその概要を示してありますので、ご参考にして下さい。目次をクリックしますとテーマ(カテゴリー)毎の目次が表示されます。
「前月登録日記目次」は、前月登録日記項目と共にカテゴリー覧の総目次から、上記の「カテゴリー毎INDEX」に連携しますので、そのカテゴリーの第1回掲載から最新の掲載記事までを常時索引できます。

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選択して表示されたページから、元の表示ページに戻るには、表示ブラウザのメニューバーの「戻る」をクリックすることにより、元のページが表示されます。

[目次]
2-1 大森町界隈あれこれ
 
 1 大森町界隈あれこれ 大森町に住んで65年 目次 (連載完結)
 大森町に住みついたのは昭和13年(1938年)で、居住場所は国道15号(第一京浜)と三叉路分岐した、国道131号(産業道路)の大森警察署に面した処が、父の勤務先事務所で、その2階が大森町でのはじめての社宅住まいとなりました。日記はその1からその6までの6編の連載です。
 2 大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記 総目次 (連載完結)
  2-1 大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記 総目次1/3
 若山武義氏の第1編 鎮魂! 大森町大空襲の手記で、東京大空襲~あれから61年~の日記連載2編と、大森町大空襲の戦災体験の手記11編の連載です。
 3 大森町界隈あれこれ 戦後編若山武義氏手記 総目次
  3-1 大森町界隈あれこれ 戦後史編手記 第1~4編総目次
 昭和戦後史の太平洋戦争の終結、天皇制の問題集、我らの生活談義および配給生活談義の手記21編の連載です。
 4 大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 目次 (連載中)
氏子の諏訪神社を初めとした、大森町に鎮座する寺社についての由来や例祭および戦前の例祭写真、神輿が自宅に来訪、大森警察署に神輿珍入などの他、道路拡幅工事のため境内の縮小問題等のトピックス記事などの記事で、連載継続中です。
 5 大森町界隈あれこれ 大森町商店街 目次 (連載中)
 大森町商店街のサマーフェスティバルや美原通り夜店フェスティバルを探訪した印象記録などで、大森町にある商店街の抱える問題点に触れられればと、連載継続中です。
 6 大森町界隈あれこれ 大森海苔物語 目次 (連載中)
 かって大森町は、歴史のある日本一の海苔生産地でありましたが、東京湾の埋め立て事業により、1963年に漁業権が放棄され、大森周辺での海苔生産の幕が退かれました。
 その歴史的名残で、現在でも「大森本場乾海苔問屋協同組合」があり、大田区と品川区の海苔問屋の67社が加盟しています。筆者の路地を挟んだ隣家は、海苔生産業を営んでおりまして、毎年冬場には海苔の天日乾しの風物詩が見られました。現在、海苔の生産に関する情報は風化寸前ですので、歴史ある海苔生産の情報を少しでも残せたらと、連載の継続を試みます。
 7 大森町界隈あれこれ 京浜急行 目次 (連載中)
現在、大森町の中心を通る京浜急行電鉄は、大森町住民の交通の要として重要な基幹交通です。かって、大森村は、大森の繁華街として大変賑わっておりましたが、東海道線の開通にあたり大森村の住民は、村の中心に鉄道が通るのを反対したため、大森町の西端を通る路線となり、大森駅は大森村の隣接地の新井宿と不入斗の両字であった所に開設され、「大森駅」と命名されました。その後、「軒先貸して母屋をとられる」形で、「大森駅」の周辺が、「大森」の中心地となり、開発が進み経済・文化は大森町から大森駅周辺へと移って行ったのです。
 東海道線が開通した後大森町を京浜電車が走るのは、約30年後の1901年に六郷橋と東海道線の大森間が開通しました。
 現在の京浜急行電鉄では、京浜急行本線の平和島から六郷土手までと、同支線の京急蒲田から大鳥居までの区間の連続立体交差化を進めております。この間の高架化工事は、大森町沿線周辺を初めとして、今後大変貌を遂げます。カテゴリーの京浜急行のブログは、これから、大変貌の記録を掲載し、連載して行きます。
 8 大森町界隈あれこれ 大森町風景 目次2006~2012年版 2013年版 (連載中)
大森町風景では、旧東海道(三原通り)の様な文化財的な古い風景と、大森ふるさとの浜辺公園の様な古き良き大森海岸を想い起こそうとの発想で2007年4月にオープンします。大森町風景では、古き風景・風物詩と次の世代の新しい風景を取り混ぜて、連載して行きます。
 9 大森町界隈あれこれ イベント 目次2006~2009年版2010年版2011年版2012~2013年版 (連載中)
 大森町で開催の「ポレポレエコまつり」や「OTAふれあいフェスタ」などのイベント参加記事を連載して行きます。 (1月30日)
 10 大森町界隈あれこれ 大森町学びや 目次 (連載中)
、 筆者は、幼稚園、小学校(国民学校)、中学校(旧制、新制)、高等学校と全ての学校は、大田区の大森町の学びやで勉強してきました。大森町での、戦前、戦中(疎開学童を含む)、戦後の各時代の学生生活の記録を纏めてみたいと思います。

2-2 大森町の以外での体験記録あれこれ
 21 風景・風物詩 総目次 (連載中)
 江戸の三大祭りや、高円寺の阿波踊り、朝顔市・ほをずき市の夏の風物詩や山の上ホテルでの異業種交流会暑気払いなどの見物や参加の記録を、関連資料を付加して掲載し、連載して行きます。
 22 小さな旅 総目次 (連載中)
京都日帰り・桜花見、秩父長瀞の蝋梅と火渡り、清澄庭園・江戸資料館、旧古川庭園、矢切の散歩道(野菊の墓)などの小旅行記で、連載して行きます。
 23 旅ものがたり 総目次2010~2013年版 (連載中)
 家族・兄弟、学友たちとの国内宿泊旅行記の掲載しております。九州旅行、土湯や草津温泉、越中おわらの旅などを掲載中です。
 24 秋葉原界隈 総目次 (連載中)
秋葉原は、2005年3月に「秋葉原ダイビル」が、2006年3月に「秋葉原ク ロスフィールド」がオープンし、2005年8月には、「つくばエクスプレス」が開通し、さらに2005年9月には「ヨドバシカメラ」が開店して大きく変貌しました。
 秋葉原電気街との付き合いは、ラジオ少年として中学2年生(19 47年)時代から電気部品店街を物色した頃から始まり、電気街が幾 多の変遷で変革した中、通信機製造メーカー時代の電気部品調達 や、ソフトハウス時代の開発用パソコンやソフトウェアの調達な ど、現代に至るまで半世紀以上も続き、縁が深く馴染みの多い歴史のある想い出の街です。
「秋葉原ダイビル」、「秋葉原クロスフィールド」、「ヨドバシカメラ」も仕事や個人的に関係のある施設です。また、筆者が所属している組織の例会の会場も、秋葉原の近くにあり、秋葉原は少年時代から現在に至るまで関係が続いており、何かと日記掲載の機会がある街で、連載して行きます。
 25 イベント 総目次 (連載中)
若き新進気鋭の陶芸家、木工製品手造家具・玩具の創作家とメルヘンチックな色鉛筆画のアート達が組んで、「ぬくもり三彩展」、倉澤杏菜のベルリン芸術大学留学を記念ピアノリサイタルや日本書道美術院「教育部展」などの見学記や鑑賞記を掲載しており、連載して行きます。
 26 ITと技術 総目次 (連載中)
 スーパーコンピュータの地球シミュレータ(海洋研究開発機構横浜研究所) 見学記やパソコンのトラブル遭遇記を掲載しており、連載して行きます。
 27 Weblog 総目次 (連載中)
 kan-haru 日記に絡む記事を掲載します。

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ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その2)

2006年09月17日 | ようこそ kan-haru日記へ
・2007年1月22日Ⅱ版

日記索引の INDEX をリニューアルしましたので、常に簡単に日記の全記事を索引できるようになりました。
kan-haru 日記索引のための INDEX を整備中であり、「kan-haru 日記総目次(全日記INDEX)」と「カテゴリー別総目次(カテゴリー毎INDEX)」を新設しております。
全日記INDEXは、日記のカテゴリーの索引用でカテゴリー名を選択しますと、そのカテゴリーの総目次(カテゴリー毎INDEX)に進みます。カテゴリー毎INDEXは、常時更新を行っておりますので、そのカテゴリーの第1回掲載の記事から最新の掲載記事まで一望して索引することができます。(1月22日)

3 カテゴリーから日記を見る
kan-haru の日記の左欄のカテゴリー欄には、日記を項目別に種分けした一覧が掲載されております。
カテゴリー欄には、日記を項目分けしたカテゴリーが記述してあり、カテゴリー名の後ろの括弧数字は参照時点の日記・記事の登録数を示してあります。
カテゴリー欄先頭の「ようこそ kan-haru日記へ(3)」は、現在閲覧中の記事のカテゴリーを示しており、そこをクリックすると、3編の記事のトップページ「ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その1)」が表示されます。その1の記事を進めて行くと、その後には「ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その2)」が続いており、その後には同様に「ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その3)」が表示されます。

したがいまして、カテゴリー欄から閲覧したいカテゴリー名の日記・記事を見ることができます。
例として、カテゴリー欄の「大森町界隈あれこれ 空襲(29)」をクリックして開いてみますと、「大森町界隈あれこれ(K38) 手記第3編 終戦前後目黒にて (最終回)」のカテゴリー名の最後に登録(2006年8月31日)したページが表示されます。
表示先頭ページの後ろには、その前の2006年8月29日登録の日記・記事が続き、登録日の逆順に新しいものから古い記事へと続いて表示されます。一番最後には、2006年6月4日登録の日記・記事が表示されております。

このようにカテゴリー欄から閲覧の場合は、「大森町界隈あれこれ 空襲(29)」カテゴリーの29編の日記・記事の全てが表示されません。しかも、連載記事の昇順表示でありませんので、長編の連載記事の閲覧には適しておりません。
しかし、短編や単独の記事および最新の日記・記事を閲覧するのには、便利です。
長編連載記事や日記・記事項目の目次構成を見たい場合には、「ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その1)」の2項「目次」から項目別(カテゴリー別)の詳細目次を参照して、日記・記事を1編毎に閲覧することができます。
なお、詳細目次の整備には、若干の日時を必要としますので、ご了承ください。


(左)カテゴリー  (右)最近のエントリー

・一覧閲覧表示と単独(1編毎) 閲覧表示との違い(共通)
カテゴリー欄からカテゴリー名の日記・記事を閲覧した表示画面は、画面トップの表示図が右端に小型画面で表示されます。
日記・記事を単独(1編毎)表示するには、記事トップのタイトルバー上のタイトル文字の上でクリックしると、画面トップの右端に表示されていた画面が、中央に拡大して表示され、記事が単編の単独(1編毎)表示となります。


(上)一覧閲覧表示と(下)単独閲覧表示

・閲覧日記・記事のリンク(共通)
閲覧表示記事の最後尾には、閲覧日記・記事のリンクが記載されており、リンクの「毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(8月分掲載Indexへ)」をクリックすることにより、当該月先月の日記・記事の月間INDEXが単独で「」表示されます。
リンクの「<前回 大森町界隈あれこれ(K35) 手記第3編 終戦前後目黒にて(第6回) へ」の下線付き文字をクリックすると、現在表示のカテゴリー項目の記事の前回掲載のページが単独表示で表示されます。また、リンクの「次回 大森町界隈あれこれ(K37) 手記第3編 終戦前後目黒にて(第8回) へ>」の下線付き文字をクリックすると、現在表示のカテゴリー項目の記事の次回掲載のページが単独表示で表示されます。


閲覧日記・記事のリンク

なお、リンクに「<前回 ・・・・」がない記事は、当該記事がそのカテゴリー項目の先頭(開始)ページを示します。また、「次回 ・・・・」がない記事は、当該記事がそのカテゴリー項目の最終ページであるか、まだ、次回のページが登録されていないことを示します。

4 最近のエントリーから日記を見る
kan-haru の日記の左欄のカテゴリー欄には、最近のエントリーが掲載されており、一番上から登録順に登録した最新10件の日記・記事が記載されております。
最近のエントリーに掲載の日記・記事を見る場合には、閲覧の記事をクリックすると、選択ページの記事が単独表示で閲覧ができます。

5 カレンダーから日記を見る
kan-haru の日記の左欄のカレンダー欄には、カレンダーの表示月の下線付きの日付け文字の日に、日記・記事の登録があることを示してあります。
登録日をクリックすると、当該日に登録された日記・記事が単独表示で閲覧ができます。なお、同日に複数の日記・記事が登録されている場合には、複数の記事が一覧表示されます。
カレンダーを、前月または翌月に変える場合には、「前月」または「翌月」をクリックすると、指定の月のカレンダーが表示されます。


(左) カレンダーから日記を見る (右)過去の記事から日記を見る

6 過去の記事から日記を見る
kan-haru の日記の左欄の過去の記事欄には、記事を登録開始し始めた「年月」から、現在の「年月」までのが表示されております。
過去の「年月」をクリックすると、指定の年月のカレンダーが表示され、該当月の登録最終日から、月初めの登録初日までの日付けの逆順に、カテゴリーに関係なく指定年月に登録した日記・記事が、一覧表示されまので過去の記事の閲覧ができます。

7 INDEX(月間目次)から日記を見る
毎月1日付け掲載の「K&A kan-haruの日記の月間INDEX」は、07年2月からリニューアルし、前月登録日記項目と共にカテゴリー覧の総目次から、上記の「カテゴリー別総目次(カテゴリー毎INDEX)」に連携しますので、そのカテゴリーの第1回掲載の記事から最新の掲載記事までを常時索引できます。(1月22日)

kan-haru の日記のカテゴリー欄のINDEXをクリックすると、毎月1日付け掲載の「K&A kan-haruの日記の月間INDEX」が一覧表示されます。
月間INDEXは、前月の一ヶ月間に掲載した日記・記事の目次をカテゴリー別に記載してありますので、閲覧したい目次項目をクリックすると、当該ページの記事が表示します。

月間INDEXのカテゴリー別目次は、掲載日時の昇順に記載してあります。また、連載記事の場合には、該当月に関係なく初回(第一回)記事の目次項目も記載してありますので、連載記事先頭から閲覧できます。次回の閲覧は、先述の日記・記事最終欄のリンクの「次回 ・・・・」をクリックすることにより、連続して続きを閲覧することができます。

また、月間INDEXは、先述のカレンダーから指定月の「1日」をクリックすることにより、該当月の「月間INDEX」を、単独表示で閲覧ができます。

< 「kan-haru 日記総目次(全日記INDEX)」 へ
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ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その3)

2006年09月17日 | ようこそ kan-haru日記へ
準備中
しばらくお待ちください。

8 検索からkan-haruの日記を見る
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大森町界隈あれこれ(L32) 大森町の社寺 谷戸三輪神社秋の例祭

2006年09月15日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
9月2、3日の第1土・日曜日は、谷戸三輪神社のお祭りでした。
谷戸三輪神社(大森西5-18-1)は、京急大森町駅の大森町商店街通りから一本南側の通りにあり、通りは大森西図書館に面しております。神社(地図参照)に行くのには、大森町駅西口の商店街通りから京急線路脇に沿って路地を南下すると、すぐ右に斜めに折れる道に出ますので、その道を進むと左手に三輪神社境内の大きな木と鳥居が見えてきます。

谷戸三輪神社の変遷
昔、谷戸三輪神社のある大森西4、5丁目や大森中1、2丁目付近は、西大森村谷戸と呼ばれ、品川宿と川崎宿の中間にあったので、馬子人足や旅人の休息のために立場茶屋(間の宿とも云う)が設けられました(「大森町界隈あれこれ(N31) 大森町風景 旧東海道(三原通り) その1」参照)。
谷戸三輪神社は、西大森村谷戸の鎮守様として村人の崇敬を集めましたが、1874年(明治7年)の神仏分離令により社号を三輪神社と改めたと由緒にあります。また、三輪神社は、太平洋戦争の大森町空襲(「大森町界隈あれこれ 鎮魂!大森町大空襲(第1~11回)」参照)で消失しましたが、戦後氏子の努力により再建し、1954年(昭和29年)に宗教法人三輪神社となりました。


神社本殿には、祭神 大国主命(おおくにぬしのみこと) が祀られております。
末社稲荷社には、江戸末期の創祀で、祭神 宇迦之御魂命が祀られております。

谷戸三輪神社周辺
三輪神社は、大森三輪、鶴渡、邦西の三町会が氏子であり、丁度大森三輪町会の北の境が大森町商店街通り(「大森町界隈あれこれ(M30) 大森町商店街 大森町サマーフェスティバル」参照)に接しており、商店街通りの北側は大森三丁目町会(諏訪神社)で商店街の南と北とで氏神様が別れております。
谷戸三輪神社の通りの周辺には、三輪公園と大森西図書館(地図参照)があります。この公園では、祭りの夕方になりますと、神輿を担いだ人や地元氏子の方が集まり大勢でお祝いの酒宴が行われる慣わしとなってます。

常夜灯
公園に隣接した大森西図書館(5-2-13)の入り口の横には、大田区文化財に指定された常夜灯が置かれてあります。この常夜灯は、説明によると、江戸後期に東海道筋に通行人の目印として、大森村を中心に近郷、江戸、川崎などの富士講の人々が、谷戸の交番(大森中1-18)付近の天神社前の旧東海道に建てられた(地図参照)と云えられてます。
1923年(大正12年)の関東大震災では、灯篭が倒壊して破損し、その後東海道を拡幅して第一京浜国道が建設の時に、堀の内三輪神社(大森中3-17-15)に移転されました。現在の常夜灯は、1986年(昭和61年)に太平洋戦争戦災で失われた、火袋と笠石を修復し灯篭として復元したものです。

谷戸三輪神社神輿渡御り
3日の日曜日には、東邦医大通りの交通を止めて、神輿渡御りが行われました。残念ながら、大人神輿の渡御りを見に行くことができませんでしたので、前日2日の子供神輿(子供神輿1)と山車曳き(山車1)を見てきました。
どこでも見られる祭り風景ですが、神楽殿では お囃子が賑やかに祭りを盛り上げ、神輿を担ぎ終えた子供たち がお菓子を貰いはしゃいでいる光景は、和やかなものです。

谷戸三輪神社由緒
住吉、鎌倉時代幕府の家人、此地を領せし故、谷戸の地名興りしと謂れます。口碑、伝承に因れば、此集落の西端れ杜木立のうちに氏神さまを祀りたる小祠ありしが、江戸時代の初期の頃、地震、洪水など天災地変相次で起りし故、里人ら相計り、当時、出雲信仰が朝野の崇敬を集むる時勢に鑑み、里人らもまた、深く信仰する大黒さま(大国主命)を勧請し、諸災祓除五穀豊饒の願いをこめて、堂字を改め、第六天社と称え奉ったとされます。
比頃、谷戸は二十数戸と覚しき辺鄙の里に過ぎざりしが、人々の信仰心厚く、夙し早くから社殿を整備し、之を宜く護持した別当寺は蜜乗院大森寺でありました。

爾来、幾星霜ともなく西大森村の鎮守として人々の崇敬を集め、里言葉にて、“でえろくさま”と、親しみ称え奉り、また、数尠ない北向きの社としてもその名が知られ、文化文政時代の御社殿は、間口二間、奥行九尺と古書に記されております。
時代降って、明治維新に際しては、神仏分離令の布告、神社明微化の機運に伴い、明治七年、社号を三輪神社と改め奉りましたが、此頃の氏子は四十二戸、二百三十六人でありました。更に時移り、太平洋戦争中、空襲に因り、全社殿を消失しましたが、氏子一同宜く再建に努め、また、戦後の宗教改革に当り、宗教法人の承認を受け、昭和二十九年宗教法人三輪神社と改りました御末社、稲荷社は年代不詳ながら江戸末期の創祀と伝えられ、祭神は宇迦之御魂命と称え奉り、宇迦はウカ(食)にして食物一切を司さどる霊験あらたかな庶民の守護神であります。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(8月分掲載Indexへ)
<前回 大森町界隈あれこれ(L31) 大森町の社寺 ささやかに鎮座する貴船(貴菅)神社 へ
次回 大森町界隈あれこれ(L33) 大森町の社寺 大森神社(寄来神社) へ>
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大森町界隈あれこれ(N31) 大森町風景 旧東海道(三原通り) その1

2006年09月13日 | 大森町界隈あれこれ 風景
三原通り商店街

現在、旧東海道(三原通り)が第一京浜国道とは別個に独立して存在しているのはどうしてかを追い、旧東海道の面影を辿りました。


徳川幕府時代の東海道の整備
徳川幕府時代の1601年(慶長6年)に道路網整備を行い、この時東海道の要所要所に人馬の常備を義務つけた宿駅が配置され、江戸から一番目の宿駅として品川宿が置かれ、その次の宿として神奈川宿が置かれました。その後、1615年か1627年頃川崎宿が置かれることになりました。
東海道の利用者は、京・大阪に赴く旅行者のほか、川崎大師、池上本門寺や古川薬師などの江戸近郊の名所旧跡、社寺を廻る日帰りあるいは一、二泊宿泊の旅行者も多く通行しました。

立場茶屋
品川宿と川崎宿の中間に当たる品川や大森には、立場茶屋が設けられました。当初、立場茶屋は、馬子人足の休息のために設けられましたが、旅行者の増加に伴って、これらの人びとの利用にも供されるようになり、この立場茶屋を間(あい)の宿とも呼ばれました。大森の立場は、三原通りの南約500m付近の東大森村の谷戸(やと)の立場(現在の大森中二丁目、西六丁目付近 地図参照)がありました。大田区には、このほか雑色村の花の立場(現在の六郷二丁目、仲六郷二丁目付近)の二か所の立場茶屋がありました。
 東海道
立場には、馬子人足の溜場や、旅行者の休息のための煮売茶屋がありました。後になって、歩行不能となった旅行者に、宿泊を提供する煮売茶屋がでてきたので、宿駅を保護するために煮売茶屋の旅籠行為と、立場付近の村民による馬による運送業務の禁止令がだされました。しかし、1820年頃の江戸後期には、東海道は相当数の社寺参詣者が通行して、大森の間(あい)の宿ではかなりの旅籠の類似行為が行なわれていたと見られております。
(出展 大田の史話その2 大田区史編纂委員会編集 昭和63年3月発行)

三原通りの繁華街の生い立ち
三原通り周辺の大森村は、大部分は田畑でしたが、海辺では塩も生産し、1733年(亨保18年)には海苔の生産地としての記録があります。

海苔採り
東海道利用者は、相当数の社寺参詣者も通行するようになり、川崎大師、池上本門寺や古川薬師などの江戸近郊の名所旧跡、社寺を廻る日帰りあるいは一、二泊宿泊の旅行者も増えてきました。旅行者の休息のための煮売茶屋では、名産の海苔茶漬を出す茶屋も多くありました。江戸時代の後期には、歩行不能となった旅行者に、宿泊を提供する煮売茶屋もでてきました。

旅行者の増加に伴ってこれらの人びとでとても賑わい、三原通りは人家や商家が増加してきました。三原通りの名前(石碑)は、旧東海道のうち北原、中原、南原の三つをまとめて総称したもので、現在旧東海道は美原通りと呼ばれております。
この頃の三原通りは、城南では北品川と大井三ツ又とともに大変な賑わいを見せるようになってきました。

大森村商店街の誕生
・『海苔の松尾』は1669年に創業し、御膳海苔を将軍家に献上した歴史を持ち、江戸前の大森産の海苔をつくり、三原通りに開業しました。現在まで240年に亘り、三原通りで開業(大田区大森東1-6-3)を続けている大老舗です。
・1711年頃には、谷戸(やと)の間(あい)の宿には、和中散を売る老舗の『梅木堂』が開業し、東海道沿いの大森村では和中散を売る店が3軒あったと云われております。
・1783年頃には、『麦わら細工』が、江戸中期頃から作られた麦わらを編んで作る細工もので、大林寺の12世日好により、村民の困窮を救うために始められたと云い、「海苔」、「和中散」と共に東海道の名産として有名な土産物として喜ばれたと云われております。
 麦わら細工

・1715年に、元祖甚三郎が駿府駿河の国安倍川のほとりより、三原通りに出て『駿河屋』の屋号で開業し、東海道を往来する旅人の疲れを癒す為、一辺の餅に特製のみつと黄名粉をかけ、茶を添え、旅情を慰める茶店ができました。駿河屋は、代々甚三郎という名を継いできました。しかし、明治の後期に八代目甚三郎が主に餅を扱っている事から餅甚という名に改め、現在も、和菓子店として、名代のあべ川餅をお勧めの餅菓子として営業を続けている老舗です。
・現存する三原通りの商店には、三浦屋提灯店もまた、江戸時代から続く伝統的な店です。手書きで丹念に江戸文字を書く提灯は、主に祭りや婚礼用のもの。絵馬や駒札に文字を書くこともでき、勘亭流、行書体、楷書などの文字を巧みに使い分ける仕事は、江戸時代からの流れをくむ昔懐かしい、今も昔も職人気質のお店です。

和中散(わちゅうさん)
江戸時代に、食傷の薬として有名な売薬である。時には万能薬とも宣伝されました。草創の地は近江国栗太郡六地蔵村の梅木で、東海道の草津宿に近い間の宿の地の利と、和中散の薬効から、「梅木の和中散」として諸国に流布しました。
1711年頃、大森の南原で『梅木堂』は開業して、その後、忠左衛門が譲り受け北蒲田村に移転しました。忠左右衛門の子である久三郎の代に、庭に梅木を集めて休み茶屋を開き、これが今も残る『梅屋敷』です。
麦わら細工
1783年(天明3年)大森の麦わら細工職人は、第10代徳川家冶将軍の前で麦わら細工の製作を御覧に入れました。
その後麦わら細工は、東海道土産として盛んに作られ、旅人の土産として大変好評でした。最盛期は明治時代から昭和時代の前期の頃でしたが、しかし、大森では戦後作る人が全く姿を消してしまいました。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(8月分掲載Indexへ)
<前回 大森町界隈あれこれ(N30) 大森町風景 大森ふるさとの浜辺公園の砂浜開放 へ
次回 大森町界隈あれこれ(N32) 大森町風景 梅屋敷公園 へ>
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大森町界隈あれこれ(M31) 大森町商店街 ミハラ通り夜店フェスティバル

2006年09月11日 | 大森町界隈あれこれ 商店街
学校の夏休みも終わり近くなった8月26日の午後5時30分から開かれた、旧東海道の美原通りで開催の「第15回夜店フェスティバル」を見に行きました。
美原通りは、昔昭和30年代以前には大森町近辺では、大変賑わいをみせた商店街であり、6の付く日には夜店が出て夕食後の散歩をかねての見物で、混雑していたことが想い出されます。

美原通り
1918年(大正7年)の第一京浜国道建設工事では、 旧東海道を拡幅して国道を敷設しましたが、当時の旧東海道の三原通りは商店街でありましたので、ここの道幅を拡張するのを避けて脇に通りを新設しましたので、現在も旧東海道のおもかげを残しており、通りの名前は美原通りと改称されました。この旧東海道(美原通り)は、1976年(昭和51年)2月25日に大田区文化財として指定されました。
なお、旧東海道(三原通り) のおもかげについては、「大森町界隈あれこれ(N31) 大森町風景 旧東海道(三原通り) 」に記載してあります。

美原通りのある場所(美原通り地図赤線参照)は、美原通り南端の第一京浜国道(国道15号)との分岐点は、京急大森町駅傍の大森警察署付近の国道15号と産業道路(国道131号)の国道三叉路に接した四叉路の形態(大森東1-4付近)で結ばれております。美原通り北端の第一京浜国道(国道15号)との分岐点は、京浜急行の平和島駅から約400m北の東京マラソン大会の折り返し点近くの、大森第五小学校通学路付近(大森本町2-1付近)で結ばれており、美原通りの延長距離はおよそ1000mほどです。

ミハラ通り夜店フェスティバル
第15回夜店フェスティバルは、昔からの恒例で6の付く日の8月26日の土曜日の午後5時30分から9時まで、ミハラ通り仲町商店会と北町商店会の主催(後援:大森本町北町会、大森本町二丁目仲町会、夜店フェスティバル実行委員会)で開催され、かって商店街として栄えた時代の夜店の郷愁と夏休みの想い出のため、沢山の人が見にきておりました。
地名の美原通りは、旧東海道時代には三原通りと読んでいたため、商店会ではどちらの名前でも通じるように「ミハラ通り」と称しているのでしょうか、美原通りの街頭にはカタカナ名で表示されてます。
京急の大森町駅から美原通り(美原通り地図参照)へは、駅から第一京浜国道に出て立体交差の終端の交差点を渡り、国道を北上して大森警察署前を通過すると産業道路との国道の三叉路に出ます。この国道三叉路の第一京浜国道右側の延長上に、幅員の狭い美原通り(旧京浜国道)が四叉路上に接しているのが見えます。産業道路を渡ると、大森町駅からはおよそ5分で美原通りの入り口です。

夜店フェスティバルの開催されているミハラ通り仲町商店会と北町商店会(ミハラ通り北町・仲町商店会地図参照)は、美原通りのほぼ中間を横断している環七通りより北側にあります。
この商店会には、京急平和島駅から第一京浜国道を横断して、路地を進むと1分で北町と仲町商店会の中間点に出ます。

夜店フェスティバルでの買い物は、予め前売り券を購入しておき(若干の当日売り券有り)、その券で購入する仕組みとなっています。
夜店で購入できる食べ物には、ジュース、ポップコーン、ラムネ、綿あめ、かき氷、いそべ焼き、アンズ飴、フランク、みそおでん、チョコバナナ、ソース焼餅、焼トーモロコシ、焼そば、お好み焼きなどが並んでおりました。
また、購入できるオモチャやゲームには、ヨーヨー、穴あけ、お菓子つり、おもちゃすくい、スーパーボールすくい、ボール当て、風船わり、射的輪なげ、ストラックアウトなど盛りだくさんで子供を中心に群がっておりました。


夜店は、南北のゲート間で開かれており、端から端を見て帰りましたが、地域の子供たちにとって夏休み最後のイベントで楽しい思い出となったことでしょう。
最近、繁華街は別として、地域や地方では町中を沢山の子供が歩く姿が見られなくなりました。少子化や老齢化の影響と思われますが、子供も大人も容易く集まれる健全なイベントや海浜公園などの場所の確保が必要なようです。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(8月分掲載Indexへ)
<前回 大森町界隈あれこれ(M30) 大森町商店街 大森町サマーフェスティバル へ
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風景・風物詩(B8) 夏の風物詩 高円寺阿波踊り

2006年09月08日 | 風景・風物詩
写真 中央演舞場をスタートする連
高円寺の阿波踊りは、1957年(昭和32年)に現在の高円寺パル商店街振興組合に青年部が誕生し、その記念に四国徳島の郷土芸能の阿波踊りを初めたのが最初で、今年第50回を迎える歴史のあるイベントであるが、高円寺の阿波踊りの歴史によると、第一回目は、阿波踊りの経験者がいなく民謡の先生に教わり、おはやしもチンドン屋に頼み、演奏されたの「佐渡おけさ」のリズムで、高円寺らしさをと「高円寺ばか踊り」と称して、高円寺駅から宝橋までの約250メートルを踊り、踊り手は1連33人で、観客は2日で4千人であったと云われております。

第50回高円寺阿波踊り
今年は、第50回高円寺阿波踊りで、毎年8月最終土、日の2日間開催されます。
8月27日の日曜日に、高円寺阿波踊りを見に行きました。
JR高円寺駅南北商店街、および高南通りに設置された9カ所の演舞場で、約188団体(連)、約12,000人の踊り手が、軽快なお囃子を奏で、踊ります。見物客120万人あまりを動員するその規模は、徳島に次いで第2位の規模を誇ります。
高円寺阿波踊りの演舞場は、連が踊る演舞は細く長いことが条件ですので、すべて一般道や商店街の道路が利用され、JR 高円寺駅南口にほど近い高南通りの中央演舞場、東京高円寺阿波おどり発祥の地であるパル商店街のパル演舞場などの9演舞場で行われます。

阿波踊り見物場所の確保
浅草サンバカーニバルでは、パレードが開始されてから到着したため見る場所の確保ができず、目前での踊りの見物ができなかったのに懲りて、JR 高円寺駅に着いたのは約1時間ほど前に着きました。高円寺駅は、電車が到着するたびに人の流れの列で物すごい混雑でした。駅を出ると、帰りの切符の手配のため、乗車券売り場は長蛇の列でしたが、SUICAを利用しておりますので、切符の心配は無用です。
そこで、場所取りのため先ずは駅の近くから物色を始めました。中央演舞場の高南通りの左側は、桟敷席が設けられているので一般者は入れませんので、通り右側に場所をとりたいと思いましたが、歩行者一方通行になっているため通りは進めません。
高円寺阿波踊りの見物は、今回で2度目ですが、前回はかなり以前のことで様子も異なっておりましたが、パル演舞場付近で見物したことを思い出して、高南通りを渡りパル商店街通りの1本手前のワキ道を南下し、途中の路地を左折して高南通りに出ました。

中央演舞場付近の見物場所確保
高南通りは、まだ南下できましたので進み、中央演舞場近くの開始1時間前の見物客の様子は、三列が前方に立っておりましたが、取敢えず四列目でも見られそうな様子ですので見物場所と決めました。
しばらくすると、午後5時半過ぎころから沿道の車道に沿って見物用のゴザを敷き始めました。ゴザが開放になり、それまで立っていた三列の見物客はゴザ席に座りましたので、立ち見客の最前列に位置して見物することが出来ました。


この場所(中央演舞場本部)は、毎年大会オープニングのテープカットが行われる中央演舞場で、高円寺南4丁目交差点付近から、駅方向へ向かって踊りが進みます。ここの演舞場を踊るために1年間練習を重ね、一番気合いを入れて踊る踊り子も少なくなく、高円寺阿波踊りの見物の特等席で、スタートの瞬間から阿波踊りを堪能しました。
(写真1写真2写真3写真4外人も仲間提灯曲芸)
開始後1時間を経過ころから、ゴザ席も空いてきましたので、立ち見も少々疲れてきましたので、座ってみました。しかし、座っての見物は、立ち見の全広角視野とは異なりやや見にくいのですが、前日の浅草サンバ見物とは異なり贅沢に阿波踊りを堪能し、途中の午後8時ころ帰宅しましたので道路も電車もそれほどの混雑なく楽な見物ができました。

第50回大会(2006年)各賞受賞連は、NPO法人東京高円寺阿波おどり振興協会の発表によると、東京都知事賞が練馬喜多町ぽんぽこ連、杉並区長賞が山形んだず連、都議会議長賞が新枠連などでした。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(8月分掲載Indexへ)
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大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記 総目次 1/3

2006年09月06日 | 大森町界隈あれこれ 空襲編手記 目次
  大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記 総目次1/3

大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記の第1編 鎮魂! 大森町大空襲の総目次です。
 ・印の右項目下線付き文字が各回の掲載日記を示しますので、クリックすると該当ページの日記に移動します。表示先の日記から目次に戻る場合は、ブラウザの「戻る」をクリックして戻ります。
 各日記の下部の下線付き文字は、各日記に対応した写真、図、リンクなどの資料を掲載してあります。おのおのの資料名をクリックすると、資料が表示されます。表示先の資料から目次に戻る場合は、ブラウザの「戻る」をクリックして戻ります。

   
東京大空襲~あれから61年~(その1)  2006-03-10
 浅草・東本願寺周辺の戦災写真東京大空襲・戦災資料センター
東京大空襲~あれから61年~(その2)  2006-03-11
 日本地図センター地図見本(東京区部焼失区域図)、東京大空襲・戦災資料センター


   
大森町界隈あれこれ(8) 鎮魂!大森町大空襲(第1回)    2006-04-13
 疎開直前の住居場所疎開前の筆者
大森町界隈あれこれ(9) 鎮魂!大森町大空襲(第2回)    2006-04-15
若山武義氏の手記(1945年記述) 「戦災日誌(大森にて)」第1回
 手記著者故若山武義氏の遺影手記オリジナル原本手記著者の当時の勤務先本社と事務所場所
大森町界隈あれこれ(10) 鎮魂!大森町大空襲(第3回)    2006-04-18
若山武義氏の手記(1945年記述) 「戦災日誌(大森にて)」第2回
 根津山(豊島区南池袋公園)で「4・13根津山小さな追悼会」(平成18年4月13日)
大森町界隈あれこれ(11) 鎮魂!大森町大空襲(第4回)    2006-04-25
若山武義氏の手記(1945年記述) 「戦災日誌(大森にて)」第3回
 戦時下の隣組風景その1戦時下の隣組風景その2
大森町界隈あれこれ(12) 鎮魂!大森町大空襲(第5回)    2006-04-27
若山武義氏の手記(1945年記述) 「戦災日誌(大森にて)」第4回
 根津山小さな追悼会が執り行われた「南池袋公園」南池袋公園案内図追悼碑にデザインされた矢島勝昭氏画集の防空壕
豊島区空襲犠牲者哀悼の碑恒久の平和を願う碑文疎開前の会社事務所(1941年頃)
大森町界隈あれこれ(13) 鎮魂!大森町大空襲(第6回)    2006-05-09
若山武義氏の手記(1945年記述) 「戦災日誌(大森にて)」第5回
 1947年7月9日撮影の高度1,524mからの大森町上空の航空写真(国土地理院)
大森町界隈あれこれ(14) 鎮魂!大森町大空襲(第7回)    2006-05-11
若山武義氏の手記(1945年記述) 「戦災日誌(大森にて)」第6回
 「東京大森海岸 僕の戦争」(2005年筑摩書房発刊)著者小関智弘氏の戦災体験した場所
大森町界隈あれこれ(15) 鎮魂!大森町大空襲(第8回)    2006-05-14
若山武義氏の手記(1945年記述) 「戦災日誌(大森にて)」第7回
 大森・蒲田戦災地図美原通リ大森警察署前三叉路の立体交差ロータリー交差点の機能ロータリー交差点の写真例
大森町界隈あれこれ(16) 鎮魂!大森町大空襲(第9回)    2006-05-16
若山武義氏の手記(1945年記述) 「戦災日誌(大森にて)」第8回
 1947年7月9日撮影の高度1,524mからの大森町上空の航空写真(標準画像 国土地理院)
大森町界隈あれこれ(17) 鎮魂!大森町大空襲(第10回)   2006-05-18
若山武義氏の手記(1945年記述) 「戦災日誌(大森にて)」第9回
 京浜国道夫婦橋付近地図ロータリーから呑川までの避難説明地図六郷橋から第一京浜国道の焼野原防空演習火はたき防空頭巾にモンペ
大森町界隈あれこれ(18) 鎮魂!大森町大空襲(第11回)   2006-05-21
若山武義氏の手記(1945年記述) 「戦災日誌(大森にて)」第10回
 現大森第一小学校大森尋常第一小学校校章(1920年制定)、旧呑川と新呑川地図

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大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記 総目次2/3

2006年09月06日 | 大森町界隈あれこれ 空襲編手記 目次
  大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記 総目次2/3

大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記の第2編 手記第2編 戦災日誌中野にての総目次です。
 ・印の右項目下線付き文字が各回の掲載日記を示しますので、クリックすると該当ページの日記に移動します。表示先の日記から目次に戻る場合は、ブラウザの「戻る」をクリックして戻ります。
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大森町界隈あれこれ(19) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第1回) 2006-05-25
 若山武義氏の手記(1946年記述)  第2編「戦災日誌(中野にて)」 第1回
 避難説明地図旧大森区の東側半分の焼失被害地域天神橋から亀戸方面を望む
大森町界隈あれこれ(23) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第2回) 2006-06-04
 若山武義氏の手記(1946年記述)  第2編「戦災日誌(中野にて)」 第2回
 <グラフィック・レポート>東京大空襲の全記録 岩波書店
大森町界隈あれこれ(25) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第3回) 2006-06-08
 若山武義氏の手記(1946年記述)  第2編「戦災日誌(中野にて)」 第3回
 「戦後60年 写真で語り継ぐ平和の願い」北区発行、「戦後60年-写真で語り継ぐ平和の願い」のホームページ
大森町界隈あれこれ(26) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第4回) 2006-06-11
 若山武義氏の手記(1946年記述)  第2編「戦災日誌(中野にて)」 第4回
 「戦後60年 写真で語り継ぐ平和の願い」昭和63年北区編集・発行
大森町界隈あれこれ(27) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第5回) 2006-06-13
 若山武義氏の手記(1946年記述)  第2編「戦災日誌(中野にて)」 第5回
 「海野十三敗戦日記」海野 十三 (著), 橋本 哲男 (編集)中央公論新社
大森町界隈あれこれ(28) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第6回) 2006-06-18
 若山武義氏の手記(1946年記述)  第2編「戦災日誌(中野にて)」 第6回
大森町界隈あれこれ(29) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第7回) 2006-06-20
 若山武義氏の手記(1946年記述)  第2編「戦災日誌(中野にて)」 第7回

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2006年09月05日 | 大森町界隈あれこれ 空襲編手記 目次
  大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記 総目次3/3

大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記の第3編 終戦前後目黒にての総目次です。
 ・印の右項目下線付き文字が各回の掲載日記を示しますので、クリックすると該当ページの日記に移動します。表示先の日記から目次に戻る場合は、ブラウザの「戻る」をクリックして戻ります。
 各日記の下部の下線付き文字は、各日記に対応した写真、図、リンクなどの資料を掲載してあります。おのおのの資料名をクリックすると、資料が表示されます。表示先の資料から目次に戻る場合は、ブラウザの「戻る」をクリックして戻ります。
  
   
大森町界隈あれこれ(K30) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第1回)   2006-07-03
 若山武義氏の手記(1946年記述)  第3編「終戦前後(目黒にて)」 第1回
 青空文庫海野十三敗戦日記
大森町界隈あれこれ(K31) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第2回)   2006-07-05
 若山武義氏の手記(1946年記述)  第3編「終戦前後(目黒にて)」 第2回
 平和の発信都市 那覇市
大森町界隈あれこれ(K32) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第3回)   2006-07-07
 若山武義氏の手記(1946年記述)  第3編「終戦前後(目黒にて)」 第3回
 原子爆弾(Wikipedia)、ヤルタ会談(Wikipedia)
大森町界隈あれこれ(K33) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第4回)   2006-07-09
 若山武義氏の手記(1946年記述)  第3編「終戦前後(目黒にて)」 第4回
 玉音放送(Wikipedia)


大森町界隈あれこれ(K34) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第5回)   2006-08-13
 若山武義氏の手記(1946年記述)  第3編「終戦前後(目黒にて)」 第5回
 ポツダム宣言カイロ宣言(国立国会図書館ウエブサイト)
大森町界隈あれこれ(K35) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第6回)   2006-08-15
 若山武義氏の手記(1946年記述)  第3編「終戦前後(目黒にて)」 第6回
 終戦の詔書(玉音放送) (国立国会図書館ウエブサイト)、疎開地図
大森町界隈あれこれ(K36) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第7回)   2006-08-27
 若山武義氏の手記(1946年記述)  第3編「終戦前後(目黒にて)」 第7回
 降伏文書調印に関する詔書1945年9月2日降伏文書(国立国会図書館ウエブサイト)
大森町界隈あれこれ(K37) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第8回)   2006-08-29
 若山武義氏の手記(1946年記述)  第3編「終戦前後(目黒にて)」 第8回
 北区全域のイラスト マップ上の軍需施設の写真と記事北区平和マップ、、「子どもの世界でとらえた戦争と平和 終戦50年」北区平成8年3月15日発行、
大森町界隈あれこれ(K38) 手記第3編 終戦前後目黒にて (最終回)   2006-08-31
 若山武義氏の手記(1946年記述)  第3編「終戦前後(目黒にて)」 最終回

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風景・風物詩(B7) 夏の風物詩 浅草サンバカーニバル

2006年09月02日 | 風景・風物詩
浅草サンバカーニバル
昭和30年代後半から40年にかけて、当時の内山台東区長と浅草喜劇俳優の故・伴淳三郎氏が、浅草の新しいイメージをつくるものとして、ブラジルのサンバカーニバルを浅草のお祭りとして取り入れることを提案。これをきっかけに、地域の観光や商店街の活性化を目的として、1981年に始まった「浅草サンバカーニバル」は、毎年8月の最終土曜日に行われます。

「第26回浅草サンバカーニバル」は8月26日に開催されパレードには、全国の企業、学校の33チーム約4500人が参加しました。パレードは、午後1時半から馬道通り~雷門通りを、大きな羽飾りなどをつけたきらびやかな衣装のダンサーたちが、陽気なサンバのリズムに乗って次々と繰り出し情熱的な踊りを披露、浅草はラテンムード一色となります。
「浅草サンバカーニバル」のサンバも、夏の風物詩として定着し、約50万人の見物人で埋まりラテンリズムを堪能しました。

パレードが見られない
26日は午後1時過ぎに家を出て、京浜急行から直通の都営1号線で浅草にサンバカーニバルを見に行きました。浅草駅に着くと乗客の大半が下車して、カーニバルへと向かう見物客につれて雷門前へ出ると、雷門通りはパレードが開始されており大変な混雑で、とてもサンバの踊りを見物できる状態ではありませんでした。なにしろ、パレードが通る馬道通り~雷門通りの距離800mに、50万人の見物客が見物するのです。サンバの踊りは、見に行くのがが遅かったので五~六重の人垣の最後列から垣間見るほかありませんが、パレードが通る道路は殆ど見えない状況でした。

そこで、少しでもサンバの踊りの雰囲気でも味わおうと、雷門通りをゴール方向に進もうとしましたが、見物客で歩道がいっぱいで通行困難なため、雷門通りに並行した裏道を歩いて、パレードのゴールよりやや先にたどり着きましたが、そこでも見物人が三~四重の人垣でしたが、パレードの進む道路は見られました。しかし、ゴールの跡ですので、サンバの踊りを見ることができませんでしたが、パレードの踊りを終えた踊り子や車の通過がやっと見ることができた状況でした。

これより、浅草サンバカーニバルは、他のイベントに比べると、サンバの踊りが公開して見られる場所がかなり短い割りに、見物者の数が多いことから、雰囲気を少しでも味わって見物するためには、遅くてもカーニバル開始の1時間以上前に見物する場所を確保することの必要を悟りました。
しかし、26日の天候は曇り勝ちで若干涼しめでしたが、例年のこの時期は暑さが厳しいことが多く、長時間に亘り暑いなか席待ちするのが耐えられる人以外は見物ができないことになります。

それでも、せっかくサンバの踊りの雰囲気を味わいに来たのですから、サンバの踊りと踊りの済んだダンサー(写真1写真2写真3)の一部を写真に撮り、早々と退散しました。


つくばエクスプレスに初乗り
帰路は、せっかく国際通りそばにおりましたので、開通一周年を迎えたところの「つくばエクスプレス」に初乗りして秋葉原に出て、JR線にて品川経由で京急に乗り継いで帰りました。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(8月分掲載Indexへ)
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