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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第3編 我等の生活談義 第5回

2007年11月09日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

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戦中・戦後の食糧消費統制
1940年には、砂糖、塩、醤油が配給制になり、1941年4月から東京、大阪、名古屋、京都、神戸、横浜の六大都市において、米穀の一人一日二合三勺(330グラム)の配給が行なわれました。当時の日本人の中等程度の勤労作業を行う成年の米の消費量は、一日430~500グラム(三合~三合五勺)とされております。この配給量のみでは、約二割も少ないもので、外食、混食、代用食等何等かの方法によって補給しなければ食糧不足となる状況でした。

配給開始当時は、開戦直前であり配給量を補給する食品の入手もまだ比較的余裕がありました。しかし、開戦後の1942年7月には、主要食糧の国家管理体制の強化が施行され、食糧管理法にもとづいて「中央食糧営団」が東京に設けられて、米穀・内地米は政府が農家からすべてを供出・買上げ、外米は政府が輸・移入を行ない、直営配給所を通じて消費者に配給が行なわれました。

また、麦類(大麦、小麦、裸麦)は政府が農家からすべてを買い上げて、これを業者に依託して精麦あるいは乾麺、乾パン、小麦粉などに加工し、一般消費者には米の代替品として配給を行ないました。甘藷、馬鈴薯も、すべてを買い取り、このうち副食物用は青果会社に売り渡し、また主食物として総合配給に加える必要のある場合には、一般消費者に配給が行なわれました。

配給内容の低下
1939年12月の米穀搗精等制限令の施行によって消費節減のため、お米は七分づきを強制されたので、配給米の内容は当初七分づきでしたが、1940年の夏ごろには京浜、阪神などの大都市においては、外米の混入率が50%から70~80%にも及びました。
1942年8月には米の変わりに乾麺が一般家庭に配給され、同10月には配給米に仏印産のひき割玉蜀黍の混入が実施されました。

1943年に入ると配給米は五分づきとなり、代用食に馬鈴薯や小麦粉、乾パンが配給されるようになり、さらに、大豆10%、外米20%、稿米20%、内地米50%が米に混ぜて配給されるようになりました。その配給米も、二分づきとなり、大政翼賛会の指導のもとに玄米食普及の国民運動が展開されました。

さらに、雑穀の主食代替による「綜合配給制」が実施され、同年秋の甘藷の収穫期からは甘藷が、同年冬以降においては脱脂大豆(大豆粕)も代替食糧に加わり、1944年度からは穀粉もこれに加わりました。
代用食の混合率は、1943年度には10~20%程度でありましたが、1944年度には30~40%以上と増加されました。

1945年にはいると食糧事情は極度に窮迫化し、混合割合が増加し6月ごろの東京都における状況は、お米五割に大豆、食用粉等の代替物五割から、さらに食糧事情の逼迫でお米四割に玉蜀黍、高梁当の代替物六割となり、7月ごろになると実際の混合率は70%以上となり人間が生活していくには、ヤミの食糧の購入量がかなり必要となり、善良な国民は悪性なインフレに見舞われ、耐乏生活の生き地獄を味わらされたのです。

しかも、ついに主食配給量そのものの10%削減が7、8月に実施され、8月15日の終戦に至ったのです。
戦後も、飢餓地獄は続き、1947年10月に東京地方裁判所刑事部判事の山口良忠氏は、闇物資を拒否して配給食糧だけの清節を通し、栄養失調で餓死すると云う事件が起こり、現在の衣食住が満ち足りた時代のいまの人には信じられないような、多くの凄惨な事が起こりました。(日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働者状態 法政大学大原社会問題研究所編 1964年発行 出典)


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) 我等の生活談義 第5回

主食の配給とヤミ値
日華事変初まっての後、十五年の初め頃までは、兵隊さんのおかげです、兵隊さん御苦労さまで、其の慰問袋に、缶入りのエァーシップ、ドロップス、純綿の越中や手拭で袋に包んで、格家庭が供出する程の余裕、物資があったのである。
あ〃あ〃、あの時代にもう一ぺんなってくれんかなと、長大息するのは、我れ一人ではあるまい。今日只今は夢の夢である。

主食の米麦が営団の手で配給されるようになったのは何時からか記憶にない。企業合同、なんでもかんでも統制流行のトップを切ったものと思う。初め二合三勺、十八年の夏頃のヤミ米が一升四円位の時迄は、外食券なしでも、どこの食堂でもめしは喰べられた。汽車弁あり、そば、うどん、天丼、うな丼ありで、狸の腹鼓迄行かんでも先ず腹をすかして歩く必要はまずなかった。亦今日のように腰弁で歩く必要もなかった。「給仕、今日は僕もり二つ」とどなって居られた。

其のヤミも翌年は二十円から三十円と飛び、更に五、六十円と飛躍し、宿やに行こうが、温泉に行こうがお米持参。通勤から、どこに行くにも持弁。今日此頃は三俵一万円の、一升百円のと、上海の話かと思うと東京のヤミ程の話であり、我々には手も足も出ぬ。米の二十倍から二十五倍はまだよしとするも、生鮮食料の野菜、魚の百倍余の暴騰には悲鳴を挙げざるを得ない。

一皿四十銭の当時の切身の魚は十五円から二十円、一盛十銭の茄子やきうりがお安く致しましての十円から十五円、水密、夏みかん一ヶ十円、ぶどう、桜桃一粒五十銭、一銭か二銭で買った子供の「飴」がなんと十円。おどろき、桃の木、さんしょの木である。

去る三月、お母ぁからおばあさんのへそくり迄まき上げて一旦収縮した日銀券も、百五十億から八月一日には既に五百億円をを突破した。此の勢いで毎日々々日銀の窓口から二億、三億と云う札束が、速射砲のように吐き出され、年末には一千億円を突破するだろうと思う。

戦争中、ヤレ国債だ、ヤレ定額だと、隣組の何時も物議の種の貯金、それが今日毎月の生活費と引出される。竹の子生活である。物交の品はなくなる、貯蓄はつきてなくなる。たとへ現在の五百円の枠をはずされても、今では、使い果たして二歩も残らぬ実情なのである。

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