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kan-haruの日記

風景・風物詩 秋の歳時記お彼岸 城下町古河の菩提樹お墓参りと周辺散策 その1

2007年09月29日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2007

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彼岸の先祖供養
今年の秋の歳時記お彼岸は、秋分の日の9月23日が「中日(ちゅうにち) 」で、前後3日間の20日の「彼岸入」から26日の「彼岸の明け」までが秋彼岸です。
同様に、春分の日を中心に7日間を春の彼岸と云います。
春分の日、秋分の日は、昼と夜の長さが同じで太陽が真西に沈みます。真西には極楽浄土があるという仏教説から、先祖の霊を供養する仏事が行われるならわしとなり、この時期にはお寺では七日間に渡って彼岸会(ひがんえ)が行われます。
彼岸とは、仏教でいう俗世界に対する佛の世界のことで、現世に対してあちら側という意味です。

家庭では先祖の霊を供養するためにお彼岸の前に仏壇、仏具を綺麗にして、お花やお供物を供えますが、お盆の時のように決まった行事や飾り付け(「大森町界隈あれこれ お盆歳時記 大森町のお盆、先祖供養」参照)はありませんが、一般には家族でお墓参りに出かけて先祖供養をすることが多いようです。
仏壇のお供え物は、一般に秋にはお萩と呼ぶぼた餅を供えます。この名前のいわれは、季節の花に関係しており、秋には萩を、春には牡丹をたとえています。

古河の菩提樹お墓参り
菩提樹のお墓参りは、法事、月遅れのお盆と春・秋の彼岸にはなるべく都合をつけて、家族で先祖の供養を心がけています。今年の彼岸には、彼岸入りの20日にお参りしてきました。
菩提樹は、埼玉と栃木との県境に近い茨城県古河(こが)市にある神宮寺(「小さな旅(2) 菩提寺墓参」参照)で、JR宇都宮線の古河駅まで1時間のところです。

神宮寺(古河市横山町1-1-11)へは、駅前の28階のアプリKOGAの横を北に進み、広場のある道を左折すると県道261号線と交差するので、そのまま直進すると右手の石塀が神宮寺境内(地図赤線航空写真参照)です。
神宮寺の境内に入ると、右側は檀家用の広い駐車場になっており、ここは以前には由緒ある太田屋旅館があったところで廃業により神宮寺で引き取りました。本堂は、参道を進んだ正面にあります。

 日光街道に面した神宮寺     神宮寺正門              本堂

・神宮寺由緒
この寺は、1446年(文安3年) に良宥上人の開基で、もとは鎌倉にありました。1455年(享徳4年)に帰衣が深かった関東公方足利成氏が幕府の追討を受け、鎌倉から古河城に移り古河公方と称し、守り本尊である十一面観音菩薩像を良宥上人が守護してともに古河に移り、古河城中の観音寺曲輪を賜り建立し心城院と称し、後に十一面観音菩薩を雀神社の本地仏とし境内の観音堂に祀られました。

1620年(元和6年)に、城主奥平美作守忠昌が城増築のため町割りをした際、現在地に移って真龍山心城院神宮寺と称しました。1688年(貞享5年)に類火に遭い寺宝、縁起等を焼失しましたが、1691年(元禄4年)に再建されました。
本尊の不動明王とは別にある十一面観音座像は、もともとは、雀神社の境内の観音堂にまつられていましたが、1869年(明治2年)に神仏習合が禁止されて神宮寺に戻されました。
その後、1915年(大正4年)には解体しその古材を使用して大改修をし、平成3年には床修理工事を行い土台を強固にして、平成12年には屋根の瓦を新しく葺き替えて現在に至っております。

        (拡大)

・本尊、宗派
 宗派:本山 長谷寺、真言宗豊山派
 本尊:大日如来

・神宮寺の黒松
神宮寺の庫裏の入り口にある黒松は、古河城から移築したもので樹齢が400年以上経ており、樹高が5.50m、幹周りが1.36mあります。庫裏を建替えるまえの木造の家屋の縁側から眺めた黒松は見事なものでした。この、黒松は、お墓参りの都度出迎えてくれ、400年もの間神宮寺を見守ってきた歴世の松です。

        (拡大)             (拡大)               (拡大)

・お墓参り
お墓は、本堂のすぐ裏手にあり、そこは先祖が本堂から遠いと寂しいからと近くを選びました。
元のお墓は、沢山の墓石があり平成10年に整理して、先祖代々のお墓とし、向きをも方向の良い東向きにして現在に至っております。

お墓参りは、彼岸中であればいつ行ってもかまいません。用意するものは生花、線香、ロウソク、御供物、マッチ、数珠などで、遠方から参りますので手桶とひしゃくはお寺に保管してある、他の檀家の方のものを借用します。


お墓参りの手順ですが、まず墓の掃除(周囲の雑草、お墓のよごれ)、生花・御供物を供えます。次いで線香に火をつけ供え、手桶の水を墓石にかけます。その後しゃがんで合掌し一礼、という手順で行います。


ふだんは忙しくていけないお墓参りですが、家族そろってお参りしましょう。お墓のご先祖様は、“よく来たね“と喜び、帰りには”また来ます“と帰れば心が休まります。


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大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 大森神社2007年秋の例祭 その2

2007年09月27日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
kan-haru blog 2007

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三原通りの想い出
三原通りは、その昔品川宿と川崎宿の中間にあり、間(あい)の宿として立場茶屋(「大森町風景 旧東海道(三原通り) その1」参照)が置かれ、商店街としてたいへんな賑わいを見せておりました。その1に写真掲載の餅甚は享保年間の創業で、また環七通り交差点にある海苔の松尾は寛文年間の創業といわれております。

1904年(明治37年)の日露戦争の終わった頃から、三原通りでは毎日縁日が開かれるようになり、海苔の養殖が盛んで今の大森スポーツセンターの前は大森魚市場があり、魚問屋、呉服屋、陶器屋、菓子屋や本屋などの専門店が立ち並び、大正・昭和初期が最盛期でした。
第一次世界大戦を契機に工業の発展が進み、今の大森東団地のところに1915年(大正4年)に日本特殊鋼ができました。

戦前までは毎日夜店が出ていましたが、戦後は6の日に縁日が出て暫く続きましたが、15年ほど前からは時代の世相が変わり今では年1回開催のミハラ通り夜店フェスティバル(「大森町界隈あれこれ 大森町商店街 ミハラ通り夜店フェスティバル」参照)のみとなりました。

・わたり蟹の澤田屋
その頃の三原通りには、映画館や寄席があり、当時は東京湾ではわたり蟹が採れ、海沿いにはかに料理の澤田屋もあり、大衆的な料理で東京近郊から沢山の客で大繁盛してました。世界大戦の初期の頃に父に連れられて、わたり蟹料理の塩茹でを一度食べに行った記憶がおぼろげに残っております。澤田屋は、当時環七通りを澤田通りと呼び第一京浜国道の突き当たりが終点であり、その先は三原通りを越えると数百mで東京湾の海岸線でそこに料亭がありました。

当時の大森では、わたり蟹は割と大衆的な食材で、澤田屋は戦災で焼失したため第一京浜国道沿いに店を開いた澤田屋第一イン大森(現在は無い)において、1987年(昭和62年)の家事の祝い事の祝膳にわたり蟹を配善できたのが最後で、翌年の祝い事ではわたり蟹にはお目にかかれなくなりました。

町会神輿の渡御
大森神社の各町会の神輿は、メインの16日13時からの流し踊りと町会連合神輿渡御の祭りパレードの巡回の他、15、16日と各町会が思い思いに三原通りを中心に神輿の巡回が行われました。
・子供神輿
大森本町二丁目仲町会では、15日14時半過ぎに子供神輿と曳き太鼓の巡回が行われ、三原通り(旧東海道)の中原を南に進み、環七通りを渡り南原(東一丁目町会)から各町会を練り歩きました。


・女性神輿
大森東一丁目町会では、16日16時から恒例の女性神輿の出御です。神酒所は、元日本特殊鋼跡にできた東一丁目団地に通じる道路沿いにあり、神輿を担ぐ華やかな女性連で一杯です。
時間がくると、出御の手拍子をとり神輿に肩が入り、神輿が立ちあがりました。締め太鼓と篠笛は町会の子供たちによる品川拍子での巡回です。担ぎ手の出で立ちは、浴衣に白足袋の草履履きの優雅な神輿渡御です。町会の長老の話では、以前には大人の神輿を担いだとのことです。


南原だけでなく女性神輿は北原でも出御します。その模様をWeb(北睦Com)から参照しました。
女性神輿1女性神輿2

・大森本町北町会神輿
恒例の連合神輿渡御が済んで一休み後の17時頃北町会に行ってみると、神酒所前の三原通り上に神輿が最後の巡回のため待機しており、待ちかねた様に担ぎ手が集まりました。
宮納めのため、祭りを惜しんで北睦の神輿が締め太鼓と一人の篠笛による品川拍子で担ぎ納めの巡回をしました。


・大森本町二丁目仲町会神輿
17時半少し前に第一京浜国道の京浜急行電鉄平和島駅前を通りかかると、丁度待ち合わせしたかのように仲町会の神輿が、宮納めのため三原通りから通じている横丁より向かってきました。
仲町会の神輿も、城南前で第一国道に出ると神輿を差し上げて、馬に載せて暫く待機です。仲町会神輿は、担ぎ棒の横棒が丸太を使用しており、他の町会神輿が角棒の担ぎ棒とは異なり変わっています。


・大森東一丁目町会神輿
17時半に東一丁目団地に通ずる道の南原の神酒所に向かうと、東一丁目町会と東一丁目団地の神輿が連合で渡御(写真上)してきました。
東一丁目の神輿は、城南前で神酒所まで進み神輿を差し上げて、馬に載せて待機(写真中)しました。
東一丁目団地の神輿は、江戸前で信号機の所でユータンして、最後のもみあげを行い(写真下)ながら団地に向かいました。


・お祭りパレード
お祭りパレードは見られませんでしたので、その模様をWeb(祭歳時記と北睦Com)から参照しました。
仲睦北睦流し踊り1流し踊り2

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大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 大森神社2007年秋の例祭 その1

2007年09月25日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
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大森神社(寄来神社)例祭
京浜急行電鉄平和島駅近くの第一京浜国道沿いの大森神社(寄来神社)(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 大森神社(寄来神社)」参照)では、今年の例祭は本祭りで9月14日から16日にかけて行われ、新地、北原、仲原と南原の4町会の氏子の神輿五基が旧東海道の三原通り(「大森町界隈あれこれ 大森町風景 旧東海道(三原通り) その1」参照)を流し踊りの先導で連合渡御を行いました。

例祭は、14日11時から式典が行われ、15日は子供神輿や曳き太鼓のほか女性神輿など各町会毎に思い思いの出御が行われ、最終日の16日は13時から三原通りで祭礼パレードが行われます。
三原通り(地図参照)の名前(石碑)は、旧東海道のうち北原、中原、南原の三つをまとめて総称したものです。町会(町会区分図参照)は、大森本町北町会(北原)、大森本町二丁目仲町会(中原)、大森東一丁目町会(南原)の3町会に大森本町二丁目新地町会(新地)が加わり、さらに戦後大森東一丁目に団地ができたので大森東一丁目団地自冶会が誕生しました。


連合渡御
祭礼パレードの連合渡御(祭歳時記より参照)は、4町会の大神輿に自冶会の神輿が加わり5基で、大森スポーツセンターを出発して、南原まで城南神輿と江戸神輿の両方の渡御が見られます。
江戸神輿は、神田祭、深川八幡祭(「風景・風物詩(B4) 江戸三大祭 富岡八幡例大祭(その2)」参照)、三社祭など江戸の祭りでの神輿渡御の担ぎ方で、担ぎ手が全員前を向き掛け声にあわせて足並みを揃え調子よく担ぎます。鳳凰が舞っている姿はとても優雅で美しいものです。谷戸三輪神社(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 谷戸三輪神社2007年秋の例祭」参照)や糀谷祭り(「風景・風物詩 糀谷祭 糀谷神社・浜竹天祖神社・西仲天祖神社の宮神輿連合渡御」参照)は江戸前です。

これに対して城南神輿は、担ぎ棒が横に組まれ、左右の担ぎ手は神輿をはさんで向かい合い、進行方向は横になるため担ぎ手は蟹歩きになります。担ぎ手に気合が入ってくると激しく体を揺すり、神輿の左右のバランスは微妙になり蛇行しながら神輿が進みます。とても荒々しく勇壮な担ぎ方です。また、城南神輿の特徴としては、神輿の胴に神楽で使う大拍子(桶胴の締め太鼓) が括り付けられ、この締め太鼓と篠笛に合わせて担ぎます。同じ城南神輿でも大拍子が前向に付いたものと後ろ向きのものがあり、また篠笛の吹き手も神輿により、多人数で吹くものと一人で吹くものがあります。山王熊野神社(「風景・風物詩 山王熊野神社 歴史ある鎮守の森の大神輿池上通り渡御」参照)や磐井神社(「大森町の社寺 磐井神社 大森町北端にある鈴石伝説の磐井神社夏祭り その2」参照)は城南前であり、品川区、大田区、世田谷区の限られた地域で渡御されています。

各町会神酒所巡り
連合渡御の時間帯は、都合が付かないため15日の午後と16日の16時過ぎにかけての時間に、各町会の神酒所や町会詰め所(地図参照)を回り、お祭りの雰囲気を取材してきました。
先ず最初に、大森神社の様子を見に行きましたが、境内はもぬけの殻でお祭りにつきものの露天はおろか、人っ子一人いませんでした。
昔は、お祭りと言うと神社境内には沢山の露天が出て、子供が大勢取り巻いているのが祭りの風景でしたが、糀谷祭りや穴守稲荷の献灯祭でも風船売りの露天が1店のみで、今回のお祭りでも三原通りに同じおじさんの風船売りが出ているのみでした。


・大森本町北町会
大森本町北町会地域の大森神社から第一京浜国道をやや北上して信号機の横断歩道を渡り三原通りに入りました。北町会には、大森第五小学がありますが、そこに疎開先から引き上げてきた直後は戦災で消失した当時の大森第一国民学校(小学校)が間借りしていたところで、三原通りは通学路でした。
北町会のお囃子殿、神酒所、神輿置き場は三原通り東側に沿って並んでありました。

                                      現大森第五小学校
・大森本町二丁目仲町会
大森本町二丁目仲町会は、北町会の大森スポーツセンターより南側で、道路での町会境界は無く老舗の餅菓子屋の大黒屋のある辺り(町会区分図参照)です。昨年の陰祭りでは、子供神輿を出しました。


・大森東一丁目町会
大森東一丁目町会は、ほぼ環七通りを境に南側の内川までの地域です。大戦中は、東端に軍需工場の特殊鋼があり、その空き地に団地ができ大森東一丁目団地自冶会があります。内川から南側は、諏訪神社の氏子町会(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 諏訪神社例祭」参照)です。

                     老舗提灯三浦屋         老舗餅菓子餅甚

・大森本町二丁目新地町会
大森本町二丁目新地町会は、仲町会の東側で対面は平和の森公園ですが、大戦直後の頃は東京湾に面しており、貸しボートを漕ぐことができた時代もありました。

                                    新地から見た大五小学校

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イベント 目黒のさんま 第12回目黒のさんま祭り

2007年09月23日 | イベント
kan-haru blog 2007

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9月に入ると寒流が日本列島の南部まで張り出し、冷たい水を好むさんま(秋刀魚)が北海道から三陸沖に産卵のため群をなして南下してきます。
三陸沖にかかる頃の今時分のさんまは、エサを十分に食べて太り、脂肪もグンと増えて栄養価の高いおいしいサンマになります。
1955年(昭和30年)頃の東京の夕餉のおかずは、七輪に炭を熾してさんまを強火の遠火で焼き、団扇(うちわ)であおぎながら、煙を身にからませて燻蒸(くんじょう)するように焼き上げ、落ちた脂肪から火を立てないように、煙を上手に魚にからめながら焼き上げるとグンと美味しくなり、秋の味覚として欠かせない庶民の味でした。

目黒のさんま
海にも面していない目黒でなぜさんまなのかは、実は落語の中の話なのです。
江戸時代、お殿様がお供を連れて、江戸郊外の名所、目黒不動尊近辺へ鷹狩りに出かけられました。久しぶりの遠乗りでお腹が空いたお殿様、目黒の茶店で夕食を所望しました。急なことで用意のなかった茶店の主人は自家の惣菜に買っておいたサンマを焼いてお出ししました。

お殿様は目黒で食べたさんまの旨さが忘れられず、城に戻ってさんまを所望しました。
お城の料理方は、さんまを油抜き・骨抜きにして蒸し、食べやすいようにしてお出ししました。
それを食べたお殿様は、ちっともおいしく感じられず、「この魚、いずこで仕入れたか」、「はあ、日本橋は魚河岸にございます」、「なに魚河岸?、さんまは目黒に限る」と言う話です。

目黒のさんま祭り
お殿様ではなくても、サンマは焼きたての「ジュ~ッ」というアツアツが最高の味です。
ところが、目黒駅近辺で、炭火で焼きたてのアツアツの三陸直送のさんま5000匹を、産地直送の「すだち」と「だいこおろし」で食べさせるという、2ヶ所の独自開催で別々の本家争いの目黒さんま祭りが開かれました。
さんま祭りに訪れた人は、そんな「ご当地争い」はどこ吹く風で、サンマをほおばり、旬の味覚を堪能していました。
・第12回目黒のさんま祭り
第12回目黒のさんま祭りは、品川区のJR目黒駅東側の目黒駅前商店街振興組合(品川区上大崎2)が9月9日の日曜日に開催(品川区協賛)しました。場所(地図参照)は、目黒通りの誕生八幡神社を中心とした周辺一体で開かれ、岩手県宮古漁港直送の新鮮なさんま5,000匹を、その場で炭火焼きにして、徳島県神山町産の豊潤すだちを10,000個と、栃木県黒磯市高林直送の大根を使った大根おろしも用意され、来場者に無料で振る舞われました。

「目黒のさんま祭り」が開かれたのは1996年からで、例年15,000人以上のお客さんが集まる人気のイベントです。第3回までは、鮮度の良い宮古産のさんまを築地で仕入れておりました。このことに感動し岩手県宮古市から、平成11年の第4回よりさんまを無料で提供するようになり、毎年5000匹の新鮮なさんまが、前日の水揚げから翌朝までの間に一気に目黒まで運ばれてきます。

・第31回目黒SUNまつり
第31回目黒SUNまつり(第12回さんま祭り)は、第31回目黒区民まつり実行委員会が9月16日の日曜日に開催(目黒区・目黒区教育委員会後援)しました。
場所は、目黒駅西口から目黒通りを西に進み、目黒川の目黒新橋から北側の両岸(地図参照)の各会場(会場案内図参照)で行われました。
当日は、午後から池袋での会合がありましたので、以前から興味を持っておりました「目黒のさんま」のイベントを、午前中に見に行きました。

さんまの行列
目黒から権之助坂を下ると、10時半頃には目黒新橋上にさんまの引換券を貰う列が並んでおりました。その列は、目黒川の右岸のさんま祭り会場を先頭として、目黒川を渡り左岸通りを行列して、列の後尾は目黒新橋から2つ先の橋まで達して(地図茶色線参照)おりました。10時10分から開始の炭火焼きさんまの配布から、わずかの間の行列の凄まじさをみて、「目黒のさんま」のイベントの人気にまず驚きました。


行列しても、とても午前中にはさんまには有りつけないと諦めて、目黒川左岸を目黒区民センターへと進み、1つ先の橋を渡りさんま祭り田道広場公園の会場に入り、5000匹ものさんまの炭火焼きの模様を見学しました。当日の行列は、過去最高の人が集まり2kmの列ができたとのことです。


気仙沼のさんま
目黒SUNまつりのさんまは、宮城県気仙沼のさんまで、さんまを焼いたり、すり身汁を作る気仙沼のスタッフの80人は全てボランティアです。前日土曜の夜10時に気仙沼をバス2台で出発し、約500kmの道程を経て当日の朝6時に目黒に到着です。


祭を盛り上げて、終われば観光もせず、夕方6時には家族の待つ気仙沼に向けてバスで帰り、気仙沼に着いたのが翌日の午前2時とのことです。「目黒のさんま」祭りのため、本当にご苦労様です。


目黒SUNまつり
あまりの人出に圧倒され、目黒川の道端の石垣に腰掛けて休んでいると、年配者が脇に座りさんまを食べてきたかを聞かれたので、行列の多さに諦めたというと、その方は6時20分に着いてさんまを食べてきたとのことで、さんまを食べるためには遅くても8時までに列に並ぶことが必要のようです。


午後の集まりに出かけるため、SUNまつりを行っている会場を通り抜けて、来たときと逆行して目黒川沿いに目黒駅に戻りました。

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イベント 歌舞伎座観劇 第二回秀山祭九月大歌舞伎夜の部

2007年09月21日 | イベント
kan-haru blog 2007

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母校明大の恒例の歌舞伎観劇会の催しがあり、今年も9月9日に第二回秀山祭九月大歌舞伎の夜の部を見てきました。観劇会は、お弁当が付いて一般料金より若干お安く鑑賞でき、イヤホンガイドの使用料も割引となります。

齧り付きの席の観劇
座席は、抽選で決まりますが、今年は大当たりで一階の一番前の中央の1-19と20が当たり、いわゆる齧り付きの席で、なかなか普通では入手が困難な特等席でした。


昨年は、生憎と花道が見えない席でしたので、ブログ(「イベント(5) 歌舞伎座観劇 秀山祭九月大歌舞伎夜の部」参照)に今年はと願いをこめたのですが、それが何と、今回の出し物の「阿古屋琴責」では、玉三郎の琴、三味線、胡弓の独奏と唄が眼前で鑑賞できるとは思ってもおりませんでした。

     花道から見た齧り付きの席       齧り付きの席から見た舞台の目線 

玉三郎の演じる拷問代わりの演奏場面は、三曲の楽器を弾き語りながら景清に対する深い思慕の描写を演じる役どころの場面で、演奏の楽器と唄の声が直接生のまま届き、心情細やかな表現を演出しながらの名演技を、齧り付きの席から鑑賞をすることができて大いに感激し堪能できました。特に、歌舞伎での日本独自の胡弓演奏を初めて聞きましたが、玉三郎の名演奏で胡弓独特の哀調ある音と、西洋楽器のバイオリン演奏の様に弓を自在に操っての変化のある日本伝統の弦楽奏は初めてであり、何ともいえない魅力を感じ心底惹きつけられました。

第二回秀山祭
秀山は、初代中村吉右衛門の俳名で、昨秋生誕百二十年を記念して第一回の「秀山祭九月大歌舞伎」が上演されました。今年は、特に年紀とは関係なく、初代吉右衛門が9月に命日を迎え53年になり、第一回秀山祭の評判が良かったので、初代ゆかりの演目を揃えて第二回が開催されました。

夜の部演目
夜の部の公演は午後四時半からの開演で、出し物は初代吉右衛門が得意とした加藤清正物から秀山十種の「二条城の清正」と、坂東玉三郎の「壇浦兜軍規」に新古演劇十種の「身替座禅」が演じられました。

                     夜の部演目(拡大)

・壇浦兜軍規
壇浦兜軍規は、作者が文耕堂、長谷川千四で1732年(享保17年)に大阪・竹本座で初演された、全五段の時代浄瑠璃です。歌舞伎では、同じ年に移され上演されました。
壇浦兜軍規(阿古屋)のあらすじは、五条坂の遊女阿古屋(玉三郎)が、平家滅亡の後姿をくらまして源頼朝の命を狙う、平家の悪七兵衛景清に愛と命を捧げた源平もので、阿古やに景清の行方を尋問しているが何もしらないと言い張るので、裁きを執り行うため堀川御所に連れてこらえました。

堀川御所では、代官の智仁溢れる秩父庄司次郎重忠(吉右衛門)と、助役の私心を挟む人物の岩永左衛門致連(段四郎)が出御する。
当代吉右衛門が初役で勤める重忠は典型的な白塗りの生締めの捌き役で、一方の岩永左衛門は眉毛が仕掛けで動くように作られた赤面で、二人の人形遣いによる人形振りで滑稽な役どころを演じ、せりふは浄瑠璃が語ります。眉毛を吊り上げる演技では、観客の爆笑が沸きました。
重忠の郎党の榛沢六郎(染五郎)が、裁く阿古屋を連れてきたことを言上します。

やがて、この作品の最初の見所の捕手達に囲まれて、五条坂随一の遊女の風格を見せて、豪華絢爛な刺繍の衣装でのきらびやかな花道登場の場面は圧巻でした。
景清の行方を白状させようと、重忠は阿古屋を諭すが、景清の行方を知っていればすぐ白状していると言い、知らないことが信じて貰えないのであれば、いっそ殺してくれと身を投げ出す場面で袖を広げる姿の美しさは素晴らしいものでした。

そこで、重忠は拷問にかけて見極めようと、眼目の場面で責め道具の琴、三味線、胡弓が運ばれ、演奏するようにと命じます。
ここからは、初の阿古屋は歌舞伎を見ているよりも音楽劇の演奏といった錯覚で鑑賞し、鮮烈な印象を受けました。

       責め道具の琴、三味線、胡弓の演奏場面(ホームページから出典)

まず、最初は琴で、蕗組の唱歌を舞台下手の長唄と合奏し、景清との馴れ初めとその別れを唄います。玉三郎の唄は、心情を演じながらの美しい声で、平成9年の初演以来7回を重ね誠に素晴らしいものでした。

次いで三味線では、班女の故事を唄い、景清との逢瀬は人目を忍ぶもので、その別れも僅かに一言交わすだけであったと、長唄との合奏で唄います。
胡弓の演奏では、望月の一節を用いて景清との縁のはかなさを訴えます。今まで、日本古来の胡弓の演奏には縁が無く、江戸時代初期に三味線を小型に改造した胡弓は、弓を弾いて弦を鳴らす楽器なので、バイオリンと同様な変化のある演奏ができ、幻想的な音色が奏でられることが玉三郎の演奏により初めて聴かせて頂ました。

重忠は、一糸乱れず演奏した阿古屋には、言葉に嘘がないと情けある裁きを下し、阿古屋は感謝しながら堀川御所を後にしました。

・身替座禅
新古演劇十種の身替座禅は、岡村柿紅の鷺流の狂言を題材にした処女作です。1910年(明治43年)に下谷二長町の市村座で初演されたポピュラーな演題で、これまで数多く公演されております。あらすじは、右京(団十郎)が玉の井(左団次)を言い含めて、太郎冠者(染五郎)に身代わりの座禅をさせ花子のもとへ向かい、一夜の楽しみから戻ると身代わりが露見して、玉の井が座禅を被り待ち受けており、追い回されて幕になります。
身替座禅は、これで二度目の鑑賞になりますが、間近でみる右京と玉の井の演技の立会いは、大変迫力がありました。

・二条城の清正
秀山十種二条城の清正は、初代吉右衛門の懇望により小説家の吉田絃二郎の書き下ろしたもので、1933年(昭和8年)に東京劇場で初演されました。
二条城の清正は、二幕三場で当代の吉右衛門の加藤清正役で上演されます。第一幕清正の館では、病を患いながら命を賭けて秀頼を守ろうとする清正の姿を見せ、第二幕第一場の二条城大広間では、策略をめぐらせる徳川家康(左団次)、本多佐渡守(段四郎)主従と秀頼(福助)を必死に守ろうとする清正との腹の探りあいが見所です。第二幕第二場の淀川御座船の上では、清正が秀頼を狙う徳川の手の者を防ぎながら御座船で淀川をくだり、病中を押しての忠勤に感謝する主従の間柄を越えた結びつきを見せる場面であり、清正が秀頼の幼少期を述懐し、秀頼が爺と慕うやり取りの随一の見せ場を最前列で感激して鑑賞させて頂きました。

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風景・風物詩 糀谷祭 糀谷神社・浜竹天祖神社・西仲天祖神社の宮神輿連合渡御

2007年09月19日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2007

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糀谷祭
9月は、1年でお祭りが最も多く、秋祭りを向かえると収穫期です。今夏の猛暑は記録的で、残暑の厳しい9月8、9日には、阿波おどりが行われた糀谷(「風景・風物詩 阿波踊り 第33回糀谷阿波おどり大会」参照)界隈で、隣接する三神社の宮神輿が連合渡御する糀谷祭りが行われました。

連合渡御する糀谷の三神社(地図参照)は、京浜急行電鉄空港線の糀谷駅北側の西糀谷3、4丁目に並んで鎮座する、西仲天祖神社(大田区西糀谷4-9-17)、糀谷神社(大田区西糀谷4-7-18)と浜竹天祖神社(大田区西糀谷3-19-18)の3氏子町会の合同祭で、羽田神社(大田区本羽田3-9-12)の兼務社です。

宮神輿連合渡御
各社は、8日が宵宮で11時から式典が行われ、18から21時まで各町会を渡御します。9日は12時半からの式典後、東京で唯一の宮神輿連合渡御が、村守稲荷神社(大田区東糀谷4-3-6)を出発して産業道路を渡り、西糀谷3丁目交差点を経て西糀谷4丁目交差点付近までの道路を、各神輿に100人ほどの担ぎ手により威勢よくパレードするので、見に行きました。

糀谷祭り連合パレードは、お囃子の車に続き子供神輿が先陣です。


三社とも祭神が天照皇大神の連合神輿渡御の先頭は、西仲天祖神社で神輿の台座は二尺六寸(77)で、儀宝珠を載せた唐破風軒屋根の胴羽目木彫で勾欄造りが特徴であり、1977年(昭和52年)に浅草・宮本重義の作です。

                                          (拡大)

二番手の宮神輿は、浜竹天祖神社で神輿の台座は二尺三寸(70)で、延軒屋根の胴羽目木彫で勾欄造りが特徴の同じく浅草・宮本重義の1935年(昭和10年)の作です。

                                          (拡大)

しんがりは糀谷神社で、神輿の台座は二尺八寸(85)で、大唐破風軒屋根の胴羽目木彫で勾欄造りが特徴の三社とも同じく浅草・宮本重義の1976年(昭和51年)の作です。

                        (拡大)

神輿が通り過ぎると祭りも終え、秋の出迎えです。秋祭りの時期は、何か裏悲しく物寂しい思いがするのは季節のせいでしょうか。


糀谷祭りの仲良し三神社
糀谷連合祭りの仲良し兼務社の三神社を、糀谷駅に近いところから順にお参りしてきました。


・西仲天祖神社


京急の糀谷駅を降りて環八通り側の商店街通りとは、反対の北側の道路をおよそ150mほど直進(地図参照)すると四つ角です。そこを右折すると通りに面して西仲天祖神社の鳥居が見えます。本殿に並んで、末社のお稲荷様が鎮座しております。
西仲天祖神社に到着した時は、丁度連合渡御に合わせて子供神輿の出御の準備をしておりました。兼務社の天神様は、お祭りでしたが一つの露天も出てなく、入り口に神社の幟と本殿に国旗が掲揚してあるだけの寂しい雰囲気でした。


・糀谷神社


糀谷神社は、西仲天祖神社前の道路を東に200m弱進むと、同じ様に道路に面して鳥居が見えます。
丁度着いた時は時間が悪く、子供神輿など出払った後で、人一いないも抜けの殻でした。神社には、西仲天神と同様に入り口に神社の幟と本殿に国旗が掲揚してあるだけでした。

・浜竹天祖神社


浜竹天祖神社は、糀谷神社前の通りを東に進み、産業道路に出る前の糀谷中学横の四つ角を南に曲がり、二つ目の四つ角を東に行くとすぐ道路に面して鳥居が見えます。
この辺一帯の道路には、しめなわが飾られお祭りの雰囲気が感じられます。神社境内には、祭り提灯が沢山吊るされ、本殿には神社の高張り提灯が出され、20店ほどの露天が出店しておりました。やっと、ここで祭りの露天にめぐり合えました。三社の合同祭りなので、仲良し神社のどこかの一社が持ちまわりで、祭り役を受け持ちしているような感じです。
浜竹天神でも、丁度着いた時には連合渡御に合わせて子供神輿の出御の準備をしておりました。


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風景・風物詩 池上松涛園 西郷隆盛・勝海舟の江戸城開場会見の名園 その2

2007年09月17日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2007

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小堀遠州名園の名山
庭園の坂道を登っていくと、「松月亭」からの道と合流して高度が増してきて、森林がうっすらとした深山の山登りの赴きで、枯山水の滝もあり廻りが見渡せません。山道は、右にカーブを切り低木となり見晴らしが良くなると、庭園の最も高い所の前方に家が見えてくるという、小堀遠州ならではの素晴らしい名山の情景を設計した大庭園です。

 石灯籠の奥に松月亭の床几が覗く

小堀遠州の茶室を偲ぶ
小堀遠州は、1579年(天正7年)近江国(滋賀県)小堀村に生まれ、優れた茶道家であり、遠州流の創始者でもあります。遠州流は、江戸時代初期の大名で、茶人として有名な小堀遠州を流祖とする武家茶道の代表的な流儀で、大名茶道とも呼ばれ400年の歴史をもち、格式のある茶道として今日まで受け継がれています。
小堀遠州は、庭園に4ヶ所の茶室を設けましたが、戦災で全て消失してしまいました。茶道家の小堀遠州が建てた茶室の位置場所は作られた時のままであり、今は無い格式高い茶室の面影が偲ばれます。

・茶室 松月亭
深山の山道を登ってきましたので、松月亭には寄りませんでしたが、松涛園の茶室の一つで、庭の西の小高い見晴らしの良い場所の「あずまや」で、茶会では立礼席として使用され、床几などを配して60名の席が作れます。

  浄庵(拡大)            (拡大)                (拡大) 

・茶室 浄庵
浄庵は庭園の茶室では一番高いところにあり、西郷隆盛・勝海舟が会見した「あずまや」のあった跡に建てたもので、平成4年4月に完成したものです。
国賓などを接遇できる茶室は、法華思想である「水」にちなみ、「浄庵」と命名されました。

         浄庵(拡大)                (拡大)

松涛園の石碑、石灯籠群
松涛園の要所には、多くの石灯籠や石碑などが庭に風格をそなえて見られます。

・橋本雅邦の筆塚
浄庵の高台から東に進むと石塀に囲まれた、橋本雅邦(がほう)が使用した画筆を収めた見事な九層の高い「雅邦の筆塚」にでます。筆塚は、狩野派の由緒が深い本門寺に雅邦の門人が1922年(大正11年)に建立したものです。
橋本雅邦は、1835年(天保六年)に武蔵国(埼玉県)川越藩の御用絵師、狩野一門の橋本養邦の長男として江戸木挽町で生まれ、七歳のころから父に絵の手ほどきを受け、狩野勝川院雅信の門弟となりました。

 雅邦の筆塚(拡大)                            (拡大)

1884年にフェノロサの知遇を得、以後岡倉天心らと日本画革新の運動を推進し、東京美術学校教授となり、日本美術院を興し天心とともに、横山大観・菱田春草・下村観山・川合玉堂ら多くの逸材を育てました。画風は、和漢の古画を広く学び、穏健で格調の高い作品が多く、1908年(明治41年)東京・本郷竜岡町の自宅で、七十四歳で没しました。

・西郷隆盛と勝海舟会見の碑
筆塚の高台からの池上東方の遠望を眺めながら、直線に下る4段階の石段を1階降りると、池泉に平行してる坂道があり、そこを進むと西郷隆盛と勝海舟会見の碑があります。
西郷隆盛と勝海舟会見の松涛園の説明板を見ると、石碑は西郷隆盛の甥にあたる西郷従徳の揮毫で1941年(昭和16年)に建てられたもので、本門寺には倒幕軍の本陣が置かれていた。1868年(慶應4年)3月の倒幕軍の江戸城攻撃の前に主席参謀の西郷と幕府軍の勝が、現在の浄庵のところにあった「あずまや」で会見し、江戸城無血開場の交渉を行ったとあります。

 会見の碑(拡大)         (拡大)                 (拡大)

しかし、勝海舟に関する文書などでは、1868年(明治元年)3月13日、14日に、幕府軍勝海舟と倒幕軍西郷隆盛は、現在の田町に所在した江戸薩摩藩邸で会談を重ね、その結果4月11日、江戸城は無血開城により新政府軍に引き渡されたとの記述も見られ、種々の説があります。

・其角の句碑
西郷・勝会見の碑のつづらおりを進むと、其角の碑があります。十四、五歳で芭蕉に入門し、芭蕉門下十哲の首位として活躍した、建立の経緯が不祥な榎本(宝井)其角の碑を右に見て石段を降りると池泉の傍です。

・茶室 鈍庵

        鈍庵              (拡大)             (拡大)

池泉に沿って進むと、やきもの師の鈍阿が邸内に建てた建築材が全て栗材の四畳半板敷きの茶室が左に見え、自らの名にちなんで付けた茶室の「鈍庵」で、平成2年に寄贈されました。

        根庵                                   (拡大)

大野鈍阿(1885-1995)は、岐阜県に生まれ品川に出て、28歳の時益田鈍翁の大邸宅碧雲台に誘いを受け、碧雲台の一隅に住まいを与えられました。鈍翁の名器を手本に技量を磨き、鈍翁の号の一字をとり鈍阿の名で、鈍翁のお庭焼きのやきもの師となりました。

      根庵(拡大)            (拡大)              (拡大)  

・茶室 根庵

      根庵(拡大)            (拡大)
 
茶室鈍庵から進むと先に八畳間の茶室二間の「根庵」があります。大野鈍阿の住まいであった建物を「根庵」と名ずけ、「鈍庵」とともに裏千家から寄贈されました。

         (拡大)                (拡大) 

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風景・風物詩 池上松涛園 西郷隆盛・勝海舟の江戸城開場会見の名園 その1

2007年09月15日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2007

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池上松涛園(しょうとうえん)一般公開
池上松涛園(東京都旧跡)は、本門寺の奥庭として、約4000坪の渓流と池を回遊する池泉回遊式庭園で、茶道と京都桂離宮の造園で有名な、桃山期から江戸時代に活躍した小堀遠州(1579~1647)によって作られたと伝えられています。
松涛園は、普段は朗峰会館ロビーからの眺めだけで園内に入れませんが、年一度の9月に一般公開され、今年は9月3日~9日の期間に公開されましたので、6日に行ってきました。
6日は、丁度台風9号が神奈川県に上陸した日の前日でしたので、雨が降ったり止んだりの不安定な天気でしたが、運よく園内を散策している間は雨に遭わずに見学ができました。

                                        朗峰会館

池上松涛園へのアクセス(地図参照)は、お会式で有名な池上本門寺(「風景・風物詩(B9) 秋の風物詩 池上本門寺のお会式」参照)大堂裏側の客殿・寺務所の道を右に進み、突き当たりを左折して北奥(境内図参照)にある朗峰会館(東京都大田区池上1-2-1)の裏手にあります。
池上本門寺(東京都大田区池上1-1-1)の参道階段には、東急池上線「池上駅」を下車して参道を徒歩10分のところです。JR「大森駅」からは、池上駅方面行きの東急バスで、池上通りの「本門寺前」で下車して徒歩5分のところです。
戦災を免れた元禄年間建立の総門(大田区文化財)を潜り、加藤清正寄進と云われる別称「此経難持坂(しきょうなんじさか)」(大田区文化財)の96段の石段を登り、正面の山門を潜ると本門寺の大堂です。

      総門(拡大)        此経難持坂(拡大)         山門(拡大)

池上本門寺は、1945年(昭和20年)4月15日の世界大戦の大森・蒲田大空襲の戦災(「大森町界隈あれこれ(15) 鎮魂!大森町大空襲(第7~10回)」参照)では、五重の塔、宝塔、総門などの一部分の建物を残しただけで焼失しました。
松涛園も伝来の茶室の全てが失われましたが、宗祖700年の遠忌の事業で修築されて、平成3年5月に落慶しました。

朗峰会館には、講堂・結婚式場・宴会場・団体参拝の宿泊・休憩施設・駐車場などの設備があり、みやげもの販売やレストラン・喫茶店には、松涛園を望みながら懐石料理を楽しめる「花むら」とフランス料理と手作りケーキのカフェレストラン「Hanamura」があります。

松涛園散策
朗峰会館で、松涛園一般公開入園の手続きをして、係りの人から庭の道が滑りますから気付けてとの注意を受け入り口から入園すると、松涛園(案内図-1航空写真参照)正面は大きく開けた池泉です。

 松涛園池泉①位置(拡大)  松涛園池泉②位置(拡大)   松涛園池泉説明(拡大)

・池泉
自然の窪地に作庭された大きな池泉は、豊富な地下水からの湧き水であり、沢山の緋鯉が池一杯に泳いでいます。池には、洲浜、織部井戸、船付場、鶴島、亀島、魚見岩、太鼓橋などが配されております。

 松涛園池泉③位置(拡大)  松涛園池泉④位置(拡大) 松涛園太鼓橋⑤位置(拡大)    

案内図(松涛園案内図-1参照)に従い、散策は時計廻りに左手から進みました。小堀遠州作の名園を楽ししんで、池泉に沿って鶴島、亀島など眺めながら行くと、右手の石灯籠の枝道に太鼓橋が架かる枯れ山水は、海に見立てた池に川がながれ込む風景を巧みに見せております。

松涛園太鼓橋⑥位置(拡大) 松涛園枯山水⑦位置(拡大) 松涛園枯山水⑧位置(拡大) 

道を折れずに山手方向に直進すると、本門寺名物の精進アイスで休憩が出来る「松月亭」に行く分かれ道がありますが、雨模様も気になりましたのでそこに寄らずに直進すると枯れ山水の川は沢となり沢渡りが見えます。

松涛園沢渡り⑨位置(拡大) 松涛園沢渡り⑩位置(拡大) 松涛園松月亭⑪位置(拡大)

ここから庭園の道は登り坂となり、木が茂った山へと入って行き、池泉とはお別れです。

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風景・風物詩 山王熊野神社 歴史ある鎮守の森の大神輿池上通り渡御

2007年09月13日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2007

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山王熊野神社
JR大森駅西口の池上通り右手の山王台地にある山王熊野神社(大田区山王3-43-11)は、今年は本祭りで8月31日から9月2日まで行われ、2日には池上通りの春日橋交差点からくらやみ坂下までを車両を通行止めして大神輿の渡御が行われました。2日には、お祭りパレードが15時過ぎから始まりましたので見てきました。


山王神社(地図参照)へは、大森駅西口の池上通りを5分ほど進むと、大森郵便局の対面に大きな「新井宿義民六人衆霊地参道」の常夜灯が建てられている四つ角を右に曲がると、突き当たりに、農民が父母の墓という名目で建てた義民六人衆の墓のある日蓮宗法光山善慶寺があります。

     善慶寺参道              新井宿義民六人衆説明板

善慶寺の裏山に当たる台地は、池上通り西北の八景坂(やけいさか)から馬込にかけて入り組んだ台地の地形が、ちょうど拳のようにはり出した形で善慶寺の先まで延びています。

                善慶寺             熊野神社参道は善慶寺境内から

山王神社のこんもりと茂った鎮守の森の池上参道は、この善慶寺の境内を通り裏手の石段を登った台地の上にあります。

                 鎮守の森の熊野神社参道

この台地を木原山とか陣屋山と呼ばれ、江戸時代には新井宿村という農村で、村の領主木原氏の陣屋と屋敷が置かれていました。木原山は、万葉集にも詠まれた荒藺ヶ崎の旧蹟とも伝えられております。
山王神社社伝によると、1615~24年(元和年間)に領主・木原木工允により屋敷内に建立されたと伝えられておりますが、幕府の大工頭をつとめた木原氏が担当した日光東照宮の余材で本殿を造営したのは、1636年(寛永13年)であるとも云われております。

                      熊野神社本殿

大田区内の神社建築では、最も古いものです。また、境内東口の鳥居は寛政8年建立と記され、 区内で2番目に古いものです。
木原氏の元の姓を鈴木といい、紀伊の熊野社に仕えた一族であることから、熊野信仰を新井宿村に持ち込んだといってよいでしょう。
なお、1608年(慶長13年)2月に上棟された、池上本門寺の五重塔は木原方の建築です。

                       熊野神社境内

山王熊野神社大神輿の渡御
熊野神社大祭の初日の8月31日は、18時半から中神輿の御霊遷しが行われ出御し、22時に御仮屋に納められました。
9月1日は、10時から式典を行い、13時から曳き太鼓と一緒に子供神輿が巡行しました。
3日目の9月2日は、14時に神社からの坂を下るため、担ぎの横棒を交換した大神輿が出御して、15時15分から池上通りをスタートするお祭りパレードの出発点の春日橋交差点近くのガス会社前に勢揃いしました。

        池上通りお祭りパレードの曳き太鼓・子供神輿・山王囃子

・池上通り
今の池上通りは、1937年(昭和12年)に出来た道で、大森駅から大森郵便局あたりまで古い池上道を使い、そこから東急池上駅までは新しく新道が造られました。
古い池上道は、大森郵便局あたりから西側をほぼ並行する裏道を通り、池上本門寺あたりは門前町の雰囲気を残す街道でした。
古い池上道(平間街道)は、古い東海道の本道であり、奥州街道とも相州鎌倉街道(鎌倉古道) とも呼ばれたが、徳川家康が海沿いの街道を整備してから脇道となり以降「池上街道」と称されました。

          池上通りお祭りパレードの高張り提灯・猿田彦・手古舞

・お祭りパレード
お祭りパレードは、先頭に曳き太鼓に子供神輿から始まり、山王囃子にリトルリーグメンバーの高張り提灯が続き、そして猿田彦と手古舞が大神輿を先導します。
熊野神社の大神輿は、祭神が伊邪那岐命で、台座が三尺(91cm)の大正14年の製造、製作者は大井町・大竹で、銅葺きの大振りの延軒屋根の勾欄造りが特徴であり、品川拍子で担ぎます。

       神官のお祓いの済んだ神酒所前では神輿を差し上げてご挨拶

大森郵便局付近のガス会社前を出発したパレードは、最初のダイシンデパートの神酒所前で休憩します。大神輿はお神酒所前では、神輿を差し上げてご挨拶をして、木が入り屈んで神輿を馬にのせます。

        (拡大)             (拡大)               (拡大)

神輿の渡御は、池上通りの道幅一杯を使って、横笛と括り太鼓の品川拍子で神輿を左右に「おいさ」「おいさ」と右へ押し、左に押し戻しながら前進して行きます。
次の神酒所で神輿を差し上げて、池上通りのくらやみ坂下で折り返し、大神輿の宮入は19時40分です。

        (拡大)             (拡大)               (拡大)

パレードの最後は、山王女性連の踊りが登場します。


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大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 谷戸三輪神社2007年秋の例祭

2007年09月11日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
kan-haru blog 2007

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三輪神社例祭
三輪神社の秋の例祭は、9月の第一土・日曜日と定めており、今年は1、2日が例祭で、昨年は都合でお神輿を見られませんでしたので、今回は17時から宮神輿の出御を1日に見てきました。


京急大森町駅の大森町商店街通りから一本南側の通りにある、谷戸三輪神社(大森西5-18-1 地図参照)は、昔西大森村谷戸と呼ばれ、品川宿と川崎宿の中間にあったので、馬子人足や旅人の休息のために立場茶屋(間の宿とも云う)が設けられ、谷戸の鎮守様として村人の崇敬を集めておりましたが、1874年(明治7年)により社号を三輪神社と改めたと云われ、世界大戦の戦災で消失し再建された神社(「大森町界隈あれこれ(L32) 大森町の社寺 谷戸三輪神社秋の例祭」2006年参照)です。

                 大森西5丁目4番地先の祭囃子

三輪神社氏子の町会の大森三輪、鶴渡、邦西の地域は、氏子の南北の北限が京浜急行電鉄の大森町駅から東西に伸びる「大森町商店街通り」(大森西5丁目)からで、南限は同電鉄の梅屋敷駅から東西に伸びる「ぷらもーる梅屋敷」商店街(大森西6丁目)までの間の広い地域に亘ります。
氏子の東端は、大森中1丁目の27~29番地が氏子の貴管神社(「大森町の社寺 貴管神社 国道拡幅により本殿移動を要する社の夏祭り」参照)境内のある町会地区を除き第一京浜国道から、西端はJR東海道本線に接した大森西4丁目と7丁目の広範な氏子を擁しております。

   谷戸三輪神社氏子の大森三輪、鶴渡、邦西町会の地域地図(拡大)

宮神輿渡御
子供神輿と山車は、1日が13時、2日が15時に神社前から出発です。
宮神輿の渡御は、1日が17時に神社を出御して、大森町商店街通り、ぷらもーる梅屋敷、鶴渡公園、大森第三小学校横などを練り歩いて、20時半に三輪公園で宮納めです。
16時半頃には、境内や神社前の道路には沢山の神輿を担ぐ人が集まり一杯です。最近は、神輿を担ぐ女性の方の参加も目だってきており、時代の流れです。

                 神官による神輿宮出の儀(拡大)        (拡大)

17時になり、神楽殿前の境内で出立つの儀式が始まり、まず神官による神輿の宮出のお払いが済んだ後、地元町会代表の挨拶があり大森西4~7丁目の各町会代表の紹介が行われました。次いで、地元三輪会会長から渡御の神輿の担ぎ方についての注意があり、お神酒を振舞われて最初の担ぎ手が神輿の周囲に付きました。
担ぎ手全員の手拍子で宮出の準備が整い、神輿が持ち上げられました。三輪会の担ぎ手は、直接担がずに、神輿の前後や周囲の警護役に付きました。

                お神酒で清め神輿出立つの手拍子

神輿の宮出は先頭を神社側に向けたまま本殿前に進み祈願をして、参道上で神輿を半周させて鳥居方向に向きを変え、静かに灯篭、狛犬の間を抜けて狭い鳥居を注意して神社前の道路を東方向に出ました。
いよいよ、宮神輿の渡御です。三輪神社の宮神輿は、打ち出し模様の吹き返しを大きく立ち上げた、延軒屋根の勾欄造りです。祭神は大国主命で、台座が二尺四寸(73cm)の行徳・浅子周慶の作で製造年度は不明です。

                神殿に宮出を祈願して神輿の出初

神社を出立した神輿は、大森西5丁目4番地先の祭囃子を奏でている四つ角を左折して、大森町商店街通りに出て右折し、セブンイレブンの前を通りさわやか信金大森西支店の四つ角で右折して南下し、ぷらもーる梅屋敷を通り、鶴渡公園から大森第三小学校などを巡り、20時半に三輪公園での宮納めの長丁場の渡御です。

                鳥居を潜り3時間半に亘る渡御

渡御の2日目は、13時に大森西7丁目公園の邦西御仮屋を出て、大森町商店街通り、東邦医大通りなどを巡り17時に宮入です。両日とも、三輪神社で18時から演芸大会が開かれました。

                大森町商店街通りを渡御する宮神輿

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大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第9回)

2007年09月09日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2007 大田区画街路第3号線

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大森町第1踏切りの混雑緩和
京浜急行の大森町付近の高架化工事も、本線鉄道の上下線線路の移動工事が済み、それにより大森町商店街通りの踏切り(大森町第1踏切り)部分の道幅が拡幅されましたので、構内踏切りが4月28日に廃止(「京浜急行の高架化 大森町駅付近(第3回)」参照)された直後から悩まされた朝の通勤ラッシュの踏切りの大混雑がやっと収まりました。

         踏切りの路幅を拡幅し朝の通勤ラッシュから開放される

構内踏切りの廃止での混雑発生は、朝の通勤時間の乗客の流れが第一京浜国道方面から、ほとんどが上り方面電車を利用するために起こりました。構内踏切りは、通勤客の流れに添い上りの乗車客の専用となっていたのです。
踏切りが無くなり、10分間に上下8本の電車で遮断され、西から東への歩道客と双方向に進む自転車、さらに東から西へのトラックが加わり、ほとんど身動きできない状態(「京浜急行の高架化 大森町駅付近(第4回)」参照)となりました。

京急では、混雑の対応を朝だけ開く臨時改札口が上りホームを設置することになり、5月21日に開設(「京浜急行の高架化 大森町駅付近(第6回)」参照)されましたが、混雑の緩和にはなりませんでした。そこで、踏切りの遮断機傍に、事故防止に4人の整理員が立ちました。

一方高架化工事のため、5月27日に下り線路を東に1.5m移設(「京浜急行の高架化 大森町駅付近(第7回)」参照)し、さらに、6月17日に上り線路を東に1.5m移設(「京浜急行の高架化 大森町駅付近(第8回)」参照)しました。
これにより、踏み切りが固定されて、踏切りの路幅を拡幅しラッシュから開放されたのです。

大田区街路第3号線と京急付属街路第1号線
大森町駅付近の京急高架化に関連する道路の拡幅工事には、大森町商店街通りを拡幅する大田区画街路第3号線と京急本線西側の平行道路拡幅の都市高速鉄道京浜急行電鉄本線付属街路第1号線があります。
・大田区画街路第3号線
大田区画街路第3号線(事業認可 大田区 平成14年3月27日 東京都告示第341号)は、大森町駅東口から第一京浜国道までの大森町商店街通りの延長63mを、幅員13mに拡幅(街路第3号線関連図参照)する工事です。
この拡幅により、大森町商店街の第一京浜国道寄りの商店10数店が削られることになります。すでに、昨年10月に中華料理「三光軒」と同建屋内の不動産の「長沼不動産」が閉店(「大森町商店街 京急高架化で大変貌 ラーメン屋さん閉店第一号」参照)して立ち退いて(関連図①参照)おります。


8月下旬になると、関連道路の立ち退きの第3号として、商店街通り北側の第一京浜国道から「すき家」のすぐ隣の2軒目にある「大森町銘酒コーナー」が閉店し、商店を取り壊され(関連図③参照)ました。
道路の拡幅工事とはいえ、商店街のお店が歯の抜けたように消えていくと、長年馴染んだ街の姿が変わって一抹の寂しさが募って参ります。このブログでは、街の想い出として留めておき、変わる前の姿の記録を、少しでも残して置きたいと思います。

                 大森町銘酒コーナー立ち退き

・都市高速鉄道京浜急行電鉄本線付属街路第1号線
都市高速鉄道京浜急行電鉄本線付属街路第1号線は、大田区大森西3丁目の内川から京浜急行電鉄本線線路西側に沿って大森町駅までを幅員6mの道路が新設され、また、駅前の大森記念病院脇から大森西5丁目の本宿交番横の通り(大森町第3踏切)までの道路が幅員6mに拡幅され、総延長が760mの道路(事業認可 東京都 平成14年3月27日 関東地方整備局告示第145号)が誕生します。


付属街路第1号線はまた、大森町駅前西側周辺の144m間の通称「ほのぼの通り」が、両側を拡幅して幅員13mの道路(事業認可 大田区 平成14年3月27日 東京都告示第342号)となります。これにより、ほのぼの通りの商店の元ゑびす市場、元三吉野と100円ショップが閉店(「大森町界隈あれこれ 大森町商店街 京急高架化でラーメン屋さん閉店第一号のその後(2)」参照) して取り壊されて(関連図②参照)おります。

    ほのぼの通り          ナンカ堂前         大森記念病院横

駅前の大森記念病院脇から大森西5丁目の本宿交番横の通りまでの拡幅される第1号線道路(付属街路第1号線図参照)は、今年の春頃から住居を取り壊して立ち退きが進みはじめ、最近の様子を8月26日に視察しました。長年の住居が無くなることは、大変うら寂しい思いです。

       都市高速鉄道京浜急行電鉄本線付属街路第1号線立ち退き
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風景・風物詩 穴守稲荷 涼しげな行灯に照らされながら晩夏の献灯祭と輪踊り

2007年09月07日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2007

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羽田恒例の神事 献灯祭
今年は日本列島が74年ぶりの猛暑に見舞われたなかで、ようやく晩夏を迎えた8月24日金曜日、25日土曜日の2日間にわたって、東京羽田の穴守稲荷神社で神事の「献灯祭」が開催され初日は18時より祭典が催され、その後行灯に灯明が灯されました。
行灯は、家内安全や商売繁盛、交通安全などの願いを託して事前に申し込んで奉納します。
普段は闇夜に紛れている神社参道が、「献灯祭」では厳かな光に包まれる光景は趣深く、19時から境内で輪踊り(盆踊り)が行われ、残暑の夕涼みをかねて25日に見に行きました。

穴守稲荷神社(東京都大田区羽田5-2-7)(「風景・風物詩(B15) 初詣風物詩 穴守稲荷神社」参照)は、京浜急行電鉄の京急蒲田駅から支線空港線の3駅目の穴守駅下車徒歩5分ほどで参道(地図参照)です。

献灯の行灯
参道の鳥居に着いたのは、午後6時を少し過ぎた頃で辺りはまだ明るく境内がよく見渡せました。献灯の行灯(配置図参照)は、参道の左通路に沿っていっぱいに2列に並べられている276個(A,B)の大型の行灯が先ず目に付きました。

 参道鳥居の特大型行灯   参道通路の行灯(拡大)   参道通路の行灯(拡大)

境内に飾られた行灯は、大型行灯が本殿への通路の両脇に2列120個(C,D)が並べられ、小型行灯は境内の通路に2列90個(a,b)と、本殿の横に48個(e)、さらに手水舎の奥に60個(配置f)が並び、豪華な絵や文字の大小の行灯がとても華やかに目だちます。

 参道山門の特大型行灯   社務所前通路の行灯    穴守駅前の行灯(拡大)

献灯祭の行灯は、この他に特大行灯3個が参道の鳥居と、山門、本殿および社務所に2基ずつ飾られております。また、京浜急行の穴守駅の構内に10個の小型行灯と、駅前に44個の行灯を含めて、総数が800個にのぼる豪快華麗な羽田の風物詩です。

・行灯の点灯

                       行灯の点灯

18時20分頃から、神官や役員の方などにより行灯をロウソクによる点灯が始まりました。ロウソクで点灯する行灯は、本殿と社務所の4基の特大型行灯(L)と大型行灯(A~D)の400個に小型行灯(a~d)の150個が続々と点されていきます。
鳥居と山門の5基の特大型行灯(E,F)と小型行灯(e,f)の100個は、電気の点灯で明かりが灯されます。

 奉納の行灯を点灯(拡大)

奥宮参拝
穴守稲荷神社は、世界大戦までは現在の羽田空港の敷地内にありましたが、終戦により駐留アメリカ陸軍の命令により48時間以内の強制退去を命ぜられ、1948年に現在地で仮社殿により復興した不遇のお稲荷さんなのです。

夏目漱石の「我輩は猫である」にも登場した穴守稲荷は、明治・大正時代には歓楽地で参道にはおびただしい数の鳥居と茶店、土産物店などが立ち並ぶ盛況でした。
小学生時代に行った昔の穴守稲荷の築山は、かなり大きかったとの記憶があります。行灯の灯が映えるのには若干の時間がありますので、かなり薄暗くなってきましたが奥之宮社殿と本殿の間を通り、現在のお稲荷さんの築山に登ってお参りしてきました。

                   築山に登って末社の参拝

美しく輝く境内の行灯と輪踊り
神楽殿前の広場の輪踊りの櫓の提灯の明かりが目立ってくると、行灯の灯は幻想の世界を誘い、昼の暑さを忘れさせる晩夏の一風の涼剤です。
輪踊りの始まる19時になると、辺りはすっかりと暮れ、行灯の明かりが映えて「献灯祭」も高潮を迎え参拝客で混んできました。

                   幻想的に輝く境内の行灯

輪踊りは、昔から羽田では土地に伝わる目出度い席で必ず唄われる羽田節で始まりました。
 “お背戸に蔵が 七棟まえ 七棟まえの蔵よりも 親が大切”
 “目出度いものは 芋でそよ 袖長く葉広く 子供あまたに”
 “羽田ではやる お穴さま 朝参りや 晩には利益さずかる”


各町会婦人部の方々で始まった輪踊りも、時間がたつにつれ近隣の踊りの好きな男性、女性陣も加わり、行灯の灯りにつつまれて子供も参加して輪が膨らんできました。


20時になり踊りの休憩時間には、穴守神社13人の雅楽部メンバーによる笙、篳篥、横笛などによる雅楽の演奏が神楽殿で演奏され、「献灯祭」を幽玄の世界へと導き、長かった夏の終わりを告げる風物詩でした。

           穴守神社雅楽部の演奏         参道山門の特大行灯(拡大)

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大森町の社寺 磐井神社 大森町北端にある鈴石伝説の磐井神社夏祭り その2

2007年09月05日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
kan-haru blog 2007 文人の石碑群 

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鈴石伝説
磐井神社の霊宝に、鈴ヶ森の地名の由来となった「鈴石」があります。
鈴石の縁起は、幕命によって編術した山岡浚明の「武蔵志料」や大橋方長編の「武蔵演路」、岩井和三郎の「入新井町史」などの由来などによると、同工異曲に伝えられており、その要旨は、『神功皇后が長門国豊浦に舟を止めたとき、真砂の上に一つの神石があった。この神石を応神天皇誕生のとき産室に置かれた。その後、筑前国香椎宮へ納め置かれた。欽明天皇が豊前国宇佐宮に八幡大神を鎮座したときそこへ遷され、聖武天皇の時代に石川朝臣が宇佐宮へ奉幣のときに神勅によってこの石を授けられた。その後嫡孫の中宮大夫中納言豊人が武蔵国の国司として下向し荏原郡多摩川に居住し、この石を磐井神社に奉納した。石は鶏卵の形で色は青く、打つと鈴の音がしたので、鈴石といわれた。この石が磐井神社に鎮座したので、神社の地を鈴石森というようになった。』

・鈴ヶ森
品川区の旧東海道と第一京浜国道が交差する狭い三角地帯が、江戸時代に奥州街道の浅草小塚原と並んで、1651年(慶安4年)に間口40間(74m)、奥行き9間(16.2m)という広さの二大刑場が開設され、1870年(明治3年)まで使われていた東海道品川宿はずれの、大井海岸ふちに置かれた仕置場が鈴ヶ森という名前で知られている刑場跡です。
大森の不入斗村(いりやまずむら)にある磐井神社の別称を、鈴石伝説から鈴ヶ森八幡宮と呼び、地理的には隣接の品川区大井村の処刑場付近一体も含めて、鈴ヶ森と称したものと思われます。

磐井神社境内文人の石碑群

   烏石の碑(拡大)  狸筆塚の石碑(拡大)

本社殿の右奥に石碑群(トップ写真参照)があり、この中に文人の石碑群が4基あります。この4基の石碑(大田区文化財)は、かって弁天池周辺にありましたが、神社の境内整備に伴って現在の場所に移されました。
石碑群の本殿側左端にある烏石(うせき)碑は、1741年 (元文6年)3月に松下烏石が磐井神社に烏石を奉達した由来を刻したものです。烏石は、山型の自然石の上部に、墨絵の烏(からす)のような模様があるのでこう名付けられ、鈴石とともに社務所に展示(非公開)されております。
この石は、もと鷹石とよばれて麻布の古川辺にあったものを、文人の松下烏石(葛辰)が磐井神社に移し、名を改めて自分の号をとり、烏石と称したのだといわれております。

竹岡先生書学碑(拡大) たい筆塚の石(拡大)   江戸文人石碑群説明板(拡大)

烏石碑の左隣から順に、1786年(天命6年)の狸筆塚の石碑、1796年(寛政8年)の竹岡先生書学碑、1809年(文化6年)のたい筆塚の石で、いずれも文人たちが使用済みの古筆を埋め、その供養塚に建てた記念碑です。

磐井神社末社
境内の文人の石碑群の右手手前の神楽殿の横には、末社の海豊稲荷神社が合祀されています。

      神楽殿          末社海豊稲荷神社    柵で囲われた笠島弁天社
     
また、境内社務所の左手には柵で囲われた場所に池があり、池の中央の島には末社の笠島弁天社が祀られております。

          池の中央の島には末社の笠島弁天社が祀られている

笠島弁天社は、しょうしゃな社ですが東海七福神の弁財天で、鳥居、手水舎と石灯籠が整っており、大正期の社殿の柱には木彫りの獅子が見られます。

  笠島弁天社殿 東海七福神の弁財天石碑        

磐井神社夏祭り

          夏祭りの磐井神社本殿

磐井神社の2007年の夏祭りは陰まつりにあたり、8月3~5日に行われ町内神輿は、向睦、北六南睦と八幡睦の三町会で渡御しました。

 町会に戻る神輿        神社に戻って着た神輿

5日に、八幡睦の神輿が磐井神社に宮入りの様子を見てきました。

                 宮入りの神輿

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大森町の社寺 磐井神社 大森町北端にある鈴石伝説の磐井神社夏祭り その1

2007年09月03日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
kan-haru blog 2007 再三の第一京浜国道拡幅で削られた境内

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歴史のある磐井神社(いわいじんじゃ)
磐井神社(大田区大森北2-20-8 地図参照)は、京浜電鉄大森海岸駅(「京急歴史(1) 大森海岸と大森間に電車が走る(その1)」参照)から5分ほど南へ第一京浜国道に接した、大森町北端にある大変歴史の古い神社です。
磐井神社前の第一京浜国道東側には平和島競艇場があり、世界大戦終戦の1945年(昭和20年)頃より以前には東京湾の海岸線でした。

         磐井神社地図(拡大)             磐井神社境内図(拡大)

磐井神社の創記は、849年(嘉祥2年)の「続日本後期」に“奉授武蔵国伊波比神従五位下”とあり、859年(貞観元年)の「三代実録」に“武蔵国従五位下磐井神列官社”の記述が見られます。また、磐井神社の名は、927年(延長5年)にまとめられた全国の神社の一覧の延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)に記術によると、式内社(10世紀初頭には朝廷から官社として認識されていた神社全国2861社)に、東海道武蔵国荏原郡に磐井神社と薭田神社の二座の名があります。

式内社の社格には、神社の重要度や社勢によって定められた大社と小社があります。また、幣帛の受け方により、神祇官から幣帛を受ける官幣社と、国司から幣帛を受ける国幣社とに分けられております。
薭田神社の座には、(薭田神社大田区蒲田)、御田八幡神社(港区三田)、六郷神社(大田区東六郷)、八幡神社(大田区久が原)の四社があり、二座の神社の社格は国幣小社に属しております。

1590年(天正18年)に徳川家康が江戸下向の際に磐井神社に参詣しており、五代将軍綱吉は1689年(元禄2年)に参詣の折、磐井神社を幕府の祈願所としたと伝われております。

磐井神社の祭神は、1812年(文化9年)の「社伝略記」に、神座正面が応神天皇、左が大己貴命、仲哀天皇、右が神功皇后、姫大神とあります。
1732年(享保17年)の「江戸砂子温故名跡誌」の記述に、天正年中に山城國男山八幡宮から八幡大神を移遷して鈴森八幡宮と称したとあります。

磐井神社境内
国道などの主要道路に接している神社は、その道路が拡幅されると何れも境内を削られる(「大森町の社寺 貴管神社 国道拡幅により現境内で最後の夏祭り」参照)ことになり、磐井神社もその定めに従ってきました。

・戦災に遭った大イチョウ

            第一京浜国道拡幅で境内が削られた磐井神社

現在の境内(磐井神社境内図参照)は、第一京浜国道に接した鳥居をくぐると正面が本殿で、右手に手水舎があります。境内に入ると、左右にイチョウの大木があり、いずれも樹齢が300年以上で、樹高が16mほどで、幹周りは手水舎側のイチョウが4.9m、もう一方が3.5mあり、このイチョウには黒焦げの痕があります。

                         樹齢300年、幹周り4.9mの大イチョウ

イチョウの焼け痕は、1945年4月15日の世界大戦の大森町大空襲の戦災(「大森町界隈あれこれ(15) 鎮魂!大森町大空襲(第7~10回)」参照)の時期に被ったもので、この時に磐井神社の本殿も戦火に遭い消失しました。本殿は1954年9月に再建され、1972年5月に社務所が新築されました。

1954年戦火で再建の本殿   1972年新築の社務所 新築記念碑(拡大) 

・磐井の井戸
鳥居の外の第一京浜国道の歩道に、大田区文化財の磐井の井戸(磐井神社境内図参照)があります。この井戸のある場所は、昔は磐井神社の境内であり、1965年(昭和40年)の国道拡幅時に歩道上にかろうじて残されました。

 磐井の井戸は鳥居の外 歩道の磐井の井戸(拡大) 大田区文化財磐井の井戸(拡大)

昔の旧東海道は、現在の第一京浜国道の東寄りの歩道上に幅員6~7mの道幅であり、北側では北品川(「風景・風物詩 旧東海道品川宿 タイムスリップまち歩き北品川宿(その1~4)」参照)から鈴ヶ森処刑場跡付近までの旧東海道と結ばれ、南側では大森本町二丁目の大森スポーツセンター付近から大森東二丁目の大森警察署付近を通る三原通り(「大森町風景 旧東海道(三原通り) その1」参照)と結ばれております。
旧東海道時代には、磐井神社の東の沖合いの海浜までが境内であったとも云われております。

第一京浜国道は、旧東海道を西側に現国道幅のおよそ1/2の幅員に拡幅して、1918年(大正七年)に完成しました。その後、再三にわたり拡幅が進められ、1965年(昭和40年)に現在の幅員の国道となりました。

当時境内にあった磐井の井戸は、大田区の文化財であり、「日本総国風土記」の「武蔵の国風土記」の社名の由来の記載によると、『社のほとりにある磐井という井戸は、祈る者の願いが妄願であれば水は変じて塩味となり、正直であれば清水となる。近国の人々はこれを奇瑞とし、病者に飲ませると効験まさに神の如く、たちまちに病気が癒えたので、これを薬水とよんだという。』。
この伝説は、伴信友(1775~1846)の「神名帳考証」などで広く知られるようになったと云われています。

この井戸を調べてみると地下に大きな岩盤が存在し、その岩盤を掘りぬいたもので、海辺にありながら岩間から湧き出る水は真水であり、東海道筋にあたっており、往き交う人々の乾きを癒し、名水として知れわたり神水、薬水の伝説がうまれたものと思われるとあります(大田の史話その2より)。

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番外編 カテゴリー別ブログ記事の検索と見方 [付 kan-haruの日記9月月間INDEX]

2007年09月01日 | INDEX
kan-haru blog 2007

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ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その1)  2007年1月30日 更新
ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その2)  2007年1月22日更新
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番外編 ブログ記事の参照地図を拡大して見る方法 [付 kan-haruの日記3月月間INDEX] 2006年4月1日

  大森町界隈あれこれ カテゴリー別目次
■印覧の8月掲載項目以外の目次は、下記の項番に付記された下線付きのカテゴリー項目を選択すると、当該カテゴリーの掲載当初から現在日時点までの全記事の目次が見られます。

 1 大森町界隈あれこれ 大森町に住んで65年!
 2 大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記 総目次
  2-1 大森町界隈あれこれ 鎮魂! 大森町大空襲 (第1編)
      付 東京大空襲 ~あれから61年~
  2-2 大森町界隈あれこれ 手記第2編 戦災日誌中野編
  2-3 大森町界隈あれこれ 手記第3編 戦前戦後目黒にて
 3 大森町界隈あれこれ 戦後編若山武義氏手記 総目次
  3-1 大森町界隈あれこれ 戦後史編手記 第1編総目次
  3-2 大森町界隈あれこれ 戦後史編手記 第2編総目次
  3-3 大森町界隈あれこれ 戦後史編手記 第3編総目次
  ■ 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第3編 我等の生活談義 第1回 8月17日
  ■ 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第3編 我等の生活談義 第2回 8月20日
  ■ 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第3編 我等の生活談義 第3回 8月22日
 4 大森町界隈あれこれ 大森町の社寺
  ■ 大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 貴管神社 国道拡幅により現境内で最後の夏祭り 8月30日
 5 大森町界隈あれこれ 大森町商店街
 6 大森町界隈あれこれ 大森海苔
 7 大森町界隈あれこれ 京浜急行
 8 大森町界隈あれこれ 大森町風景
 9 大森町界隈あれこれ イベント
10 大森町界隈あれこれ 大森町学びや

  一般 カテゴリー別目次

21 風景・風物詩 総目次
  ■ 風景・風物詩 阿波踊り 第33回糀谷商店街阿波おどり大会 8月26日
22 小さな旅 総目次
23 旅ものがたり 総目次
  ■ 旅ものがたり 長岡花火大会と奥只見・八海山 その1 8月8日
  ■ 旅ものがたり 長岡花火大会と奥只見・八海山 その2 8月10日
  ■ 旅ものがたり 長岡花火大会と奥只見・八海山 その3 8月12日
  ■ 旅ものがたり 長岡花火大会と奥只見・八海山 その4 8月15日
24 秋葉原界隈 総目次
25 イベント 総目次
  ■ イベント 江戸東京博物館 大鉄道博覧会 8月4日
  ■ イベント 江戸東京博物館 江戸時代の東京を見る 8月6日
  ■ イベント 東京芝とうふ屋うかい 異業種交流会H11メトロ恒例の暑気払い 8月24日
  ■ イベント 東京都美術館 第62回日本書道美術院「教育部展」 8月28日
26 ITと技術 総目次
27 Weblog 総目次

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