
kan-haru blog 2007
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信州天馬侠
終戦後の学校の授業で一番に困ったのは、先生方でそれまで教えていた戦意高揚の教科書に墨を塗り、中身が無くなり生徒に教える教材がないのである。
修身・国史・地理の教科書は、殆ど全ての部分がそのまま教えることが出来なくなり、後に教科書が回収されたのです。
そこで、年配の確かお名前が臼田先生と呼ばれていたと思ったのですが、はっきりとした記憶ではありません。ともかく生徒に教える教材が無くて困っていた先生が、ある日に本を持参して教壇に上がり、これから本を読んで聞かせるからと言って読み始めた図書の名前は、「信州天馬侠」でした。
「信州天馬侠」は、大正末期から昭和の初めにかけての「少年倶楽部」の躍進期の中心的な読み物として掲載された吉川英治著の少年小説で、当時は子供と共に大人にもこの小説に熱狂したそうで、今日でも大衆児童文学として力を保ちつづけております。最近の出版は、吉川英治歴史時代文庫『信州天馬侠 (一)~(三)』が講談社から2005年6月15日第14刷が発行されております。

小説の粗筋は、織田・徳川の連合軍に滅ぼされた武田勝頼の遺子・伊那丸が、忠義の士に護られて、健気にもお家の再興をはかる。しかし、戦国群雄の圧力の前には....波乱万丈。
と云う筋書きのもので、物語の面白さと先生の朗読の上手さにひかれ、生徒は全員わくわくして聞き入ったことでその好評さに、来る日も来る日も連日の講演により学校に行くのが楽しかったことが想いおこされます。
当時の、戦争末期には文学書など読もうものなら、贅沢は敵だと言われた時代であり、戦争が終わった直後には物資の欠乏時代で本などは手に入り難い状況でした。戦争中は、勤労奉仕だの鍛錬だので、読書には全く縁が無く文化的なものには飢えておりましたので、「信州天馬侠」の朗読には新鮮な感激を味わせて貰いました。
朗読は、かなりの期間続きましたが小説の最後まで進まぬまま、朗読中止の挨拶もなく取り止めとなりました。理由は、確か先生の転勤であったのではないかと思います。あの、戦争でぎすぎすとした時代に、小学6年生にとっては、涼風の一服の清々しい気持ちに導かれ、今でもはっきりと想い出され、終戦直後の荒んだ時代の良き一コマです。
最近、本屋で「信州天馬侠」の文庫本の宣伝を見かけましたので、懐かしく早速入手しました。

若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) マッカーサーの進駐 第5回
政務と統師不一致
小磯内閣が成立した直後「政務と統師の吻合」と云う、今迄見た事も聞いた事もない吻合と云う熟語を宣言した。すると、さては今迄、国運を賭する大戦争中、大事の大事の政務と統師が一致して居らなかったと思うた。成る程東條は首相として陸軍大臣を兼ね、更に人物の貧困が、或は東條さんでは相手が悪いのでなり手がないのか、欲張って参謀総長迄やったのである。超人間、千手観音さまの生れ変りの英雄なのかと思うた。夫れで東條内閣は政務と統師不一致、かみ合せざる処で辞職したのかと判断した。
鈴木内閣となって、統師と国務は渾然一体であると説明した。態、当然の事を殊更改めて説明するから、之ては小磯も渾然一体となりかねて辞職したものと思はれた。
我々庶民とした処で生活の順調の時は、夫婦仲も「戦線に異常なし」である。然し此の頃のようにインフレで財布失調の時代になると、夫婦のいがみ合いは朝晩常例となる。戦争も勝ち戦さの時は、渾然一体吻合もするけれど、負けるとなると、渾然も吻合も思うようにはならぬは当然である。殆ど独裁政治、議会は無気力である。
此の時、此の際、真に
時宗か、秀吉のような大英雄ここに生まれ来て
アケスケ、ボロをさらけ出し、真の国難に処し、我等に一大号令をかけてくれぬかと痛切に思わざるを得なかった。負けは負けと、はっきり率直に聞かして貰ったらそれこそ死か奴隷かの境だ、非力の者と雖も三.五人の真力を出す事は不可能ではあるまいと思う。
何事に付けても、あまりにも国民を信用しない
右に法律、法令、左に権力を握り、不可能を可能に、二二が五とせよと神がかりに命令されても、我々は下手にも動けず、上手にも動けず、さわらぬ神にたたりなしと、出すべき力も本土決戦に出すと出し惜しみをしつつ敗戦となったのである。
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信州天馬侠
終戦後の学校の授業で一番に困ったのは、先生方でそれまで教えていた戦意高揚の教科書に墨を塗り、中身が無くなり生徒に教える教材がないのである。
修身・国史・地理の教科書は、殆ど全ての部分がそのまま教えることが出来なくなり、後に教科書が回収されたのです。
そこで、年配の確かお名前が臼田先生と呼ばれていたと思ったのですが、はっきりとした記憶ではありません。ともかく生徒に教える教材が無くて困っていた先生が、ある日に本を持参して教壇に上がり、これから本を読んで聞かせるからと言って読み始めた図書の名前は、「信州天馬侠」でした。
「信州天馬侠」は、大正末期から昭和の初めにかけての「少年倶楽部」の躍進期の中心的な読み物として掲載された吉川英治著の少年小説で、当時は子供と共に大人にもこの小説に熱狂したそうで、今日でも大衆児童文学として力を保ちつづけております。最近の出版は、吉川英治歴史時代文庫『信州天馬侠 (一)~(三)』が講談社から2005年6月15日第14刷が発行されております。

小説の粗筋は、織田・徳川の連合軍に滅ぼされた武田勝頼の遺子・伊那丸が、忠義の士に護られて、健気にもお家の再興をはかる。しかし、戦国群雄の圧力の前には....波乱万丈。
と云う筋書きのもので、物語の面白さと先生の朗読の上手さにひかれ、生徒は全員わくわくして聞き入ったことでその好評さに、来る日も来る日も連日の講演により学校に行くのが楽しかったことが想いおこされます。
当時の、戦争末期には文学書など読もうものなら、贅沢は敵だと言われた時代であり、戦争が終わった直後には物資の欠乏時代で本などは手に入り難い状況でした。戦争中は、勤労奉仕だの鍛錬だので、読書には全く縁が無く文化的なものには飢えておりましたので、「信州天馬侠」の朗読には新鮮な感激を味わせて貰いました。
朗読は、かなりの期間続きましたが小説の最後まで進まぬまま、朗読中止の挨拶もなく取り止めとなりました。理由は、確か先生の転勤であったのではないかと思います。あの、戦争でぎすぎすとした時代に、小学6年生にとっては、涼風の一服の清々しい気持ちに導かれ、今でもはっきりと想い出され、終戦直後の荒んだ時代の良き一コマです。
最近、本屋で「信州天馬侠」の文庫本の宣伝を見かけましたので、懐かしく早速入手しました。

若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) マッカーサーの進駐 第5回
政務と統師不一致
小磯内閣が成立した直後「政務と統師の吻合」と云う、今迄見た事も聞いた事もない吻合と云う熟語を宣言した。すると、さては今迄、国運を賭する大戦争中、大事の大事の政務と統師が一致して居らなかったと思うた。成る程東條は首相として陸軍大臣を兼ね、更に人物の貧困が、或は東條さんでは相手が悪いのでなり手がないのか、欲張って参謀総長迄やったのである。超人間、千手観音さまの生れ変りの英雄なのかと思うた。夫れで東條内閣は政務と統師不一致、かみ合せざる処で辞職したのかと判断した。
鈴木内閣となって、統師と国務は渾然一体であると説明した。態、当然の事を殊更改めて説明するから、之ては小磯も渾然一体となりかねて辞職したものと思はれた。
我々庶民とした処で生活の順調の時は、夫婦仲も「戦線に異常なし」である。然し此の頃のようにインフレで財布失調の時代になると、夫婦のいがみ合いは朝晩常例となる。戦争も勝ち戦さの時は、渾然一体吻合もするけれど、負けるとなると、渾然も吻合も思うようにはならぬは当然である。殆ど独裁政治、議会は無気力である。
此の時、此の際、真に
時宗か、秀吉のような大英雄ここに生まれ来て
アケスケ、ボロをさらけ出し、真の国難に処し、我等に一大号令をかけてくれぬかと痛切に思わざるを得なかった。負けは負けと、はっきり率直に聞かして貰ったらそれこそ死か奴隷かの境だ、非力の者と雖も三.五人の真力を出す事は不可能ではあるまいと思う。
何事に付けても、あまりにも国民を信用しない
右に法律、法令、左に権力を握り、不可能を可能に、二二が五とせよと神がかりに命令されても、我々は下手にも動けず、上手にも動けず、さわらぬ神にたたりなしと、出すべき力も本土決戦に出すと出し惜しみをしつつ敗戦となったのである。
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