K&A

kan-haruの日記

小さな旅(4) 京都桜・日帰り花見 その1

2006年04月30日 | 小さな旅
現在、桜前線は北上し、青森の弘前公園のソメイヨシノが開花したようで、連休の後半には満開を迎えるようです。
最近の気候は異常気象の影響か、東京の開花は2番目に早く3月21日で、4月を迎えずに満開となりました。東京周辺以外では、例年通りか、やや遅めに咲きだしました。
大森町の近所でも公園に行けば満開の桜が見られるのですが、例年東京以外での花見は欠かさず、ツアーなどを利用したりして出かけております。しかし、ツアーは前もって申し込みが必要なため、なかなか満開の予想が立てられず、花見場所ではまだ開花前であったり、咲き終えた後で、がっかりするのが通例です。

今年の桜・花見は、昨年4月29日に出かけた、秩父市羊山公園の芝桜が満開宣言の当日に当たり味を占め、京都日帰りの花見を決め天気予報もまずまずの4月9日に出かけました。
当日は、日曜のため新幹線も満席で花見の人出が予想されましたので、京都桜・花見の行き先は名所を避けて、小型タクシーを借り切った運転手さんに穴場を紹介して貰い、洛東から洛北、洛西と周回して京の桜を満喫してきました。
しかし、周回に折角の京都の桜・花見ですので、一ヶ所は名所中の名所の円山公園周辺も散策しました花見紀行です。

紀行には、コメントが記述できる「Yahoo!地図情報」で周回の花見場所を示し、多くの写真や資料情報を引用し、Web 2.0には近づけませんがその気持ちで書いてみます。本文中の下線が引いてある部分の記述文は、地図や写真、資料を表しております。
これらを参照して見る場合には、下線付き文の上にマウスをあててクリックすることにより、インターネット エクスプローラが開いて当該の資料が表示されます。資料から日記に戻る場合には、エクスプローラの上部にあるメニューバーの「戻る」をマウスでクリックすることにより戻ります。
また、表示した地図を含めた資料を拡大して見たい場合には、日記タイトルのここをクリックして「番外編 ブログ記事の参照地図を拡大して見る方法」に、ブログ記事の参照地図などを拡大して見る方法を記載してありますので、参照して下さい。

洛東 円山公園、祇園白川の桜
円山公園
先ずは、京都駅から東大路通りを北上して、京都四條河原町にある元和年間(1600年代)に公許された南座の横を通り、京都桜の名所随一の円山公園と祇園白川(地図参照)へと向かいました。
円山公園(地図赤印)は、回遊式の日本庭園を中心とした周辺に、料亭や茶店が点在し、枝垂れ桜のシンボルの「祇園枝垂桜」を中心とし、染井吉野、山桜に八重桜が八百本以上咲き揃う名勝です。

桜は見頃を迎えておりましたが、花見の人出は、まだ10時を少し回ったところですので、日曜にしては混雑が少ないようでした。昼過ぎには、人で埋まると思われますが、京都桜の名所の神社・仏閣や公園はあちこちにあり、しかも敷地が広いですから、東京に比し花見の人出もゆとりがあるようです。
花見の次は、円山公園から西方にある名所地の祇園白川の桜に向かいます。

祇園白川
町並保存地区に指定された祇園白川の界隈(地図緑印)は、石畳の道にお茶屋や料理屋が連なり、白川にかかる京情緒あふれる橋と、角地にある辰巳稲荷付近の川畔に植えられた枝垂れ桜や染井吉野は見ごろを迎えておりました。
この祇園新橋界隈では、夕方になると桜と艶を競う舞妓や芸妓が辰巳稲荷にお参りして出かける姿は、祇園独特の風情があります。日曜日の昼下がりに、舞妓風の姿で通るのを見かけますが、本物でなく観光向けの代物です。

石畳の道にお茶屋や料理屋が連なる祇園白川の界隈

舞妓さんに会うには、お茶屋さんの紹介が必要で、一般には「一見さんお断り」が多く、予算もかなりかかるので、観光には京舞の鑑賞がお勧めです。
京舞は、明治5年(1872年)に京都博覧会が開かれ、その余興として舞妓・芸妓を揃えて「舞い」を披露しようと考え出されたのがその始まりといわれています。
この京舞のおどりは毎年、京都五花街と呼ばれる「祇園甲部・宮川町・上七軒・先斗町・祇園東」で行われていますが、唯一「祇園東」だけは秋のみの公演となっており、春の開催はありません。
祇園に後ろ髪を惹かれながら、次の桜の高野川畔に向かいます。

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大森町界隈あれこれ(12) 鎮魂!大森町大空襲(第5回)

2006年04月27日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
東京大空襲の記録資料(1) 根津山小さな追悼会10周年記念文集についてその3
4月23日の午後、池袋で前の会社のOB会を開くということで、やや早めに家を出て根津山小さな追悼会が執り行われた「南池袋公園」に足を伸ばしました。
南池袋公園は、池袋駅東口の繁華街の駅前通りを東に10分ほどのところにあり、昭和26年(1951年)11月に開園した豊島区では2番目に大きい公園です。

大正時代には、池袋駅東口グリーン大通りを挟んだ11万5千平方メートルほどの根津山と呼ばれる雑木林だったそうです。戦争中に大きな防空壕が数か所作られ、4月13日の空襲で炎を逃れて根津山に非難した多くの人が助かったと云われております。この時の大空襲では741名の方が亡くなり、焼死体を根津山の西に位置する南池袋公園(当時 雑司が谷公園)周辺に仮埋葬されたといわれます。(4・13根津山小さな追悼会10周年記念文集から)


追悼碑にデザインされた矢島勝昭氏画集の防空壕
南池袋公園には、多くの犠牲者の冥福を祈るため、根津山追悼会の委員の方が碑文・デザインを草案した「豊島区空襲犠牲者哀悼の碑」、平成7年8月に建立されました。
戦争の痕を残す碑は、恒久の平和を願う碑文、追悼会委員の矢島勝昭氏が描いた根津山の防空壕と豊島区周辺の灰燼被害を示した地図がデザインされてます。
犠牲者の碑に冥福を祈り、公園を後にしました。


若山武義氏の手記(1946年記述) 「戦災日誌(大森にて)」第4回
3月9日の夜から10日朝に於ける本所、深川、浅草に亘る、今迄になき大規模な絨緞大爆撃、空前の強風にあおわれ、死傷算なく、全く其の惨害、関東大震災の幾層倍ぞや。
震災で焼け残った浅草の観音さまも、遂に跡もかたもなく、其の惨悲筆紙の尽すところではない。

建物疎開
サイパン失陥後は、帝都空襲必死だ位は、我々素人でも予期して居った。されば其の当時なら余裕と時間があったのであるから、充分建物疎開をして居ったなら、此の惨害も、受けるとしても相当阻止し得たのでないかと思う。然るに3月17日遂に硫黄島失陥した翌18日、城南3区即ち品川、大森、蒲田、京浜電鉄沿線両側外数十線路の強制疎開の発令だ。
其の説明としては、「鶴見、川崎、蒲田、大森は精密工業地帯である。万一ここが戦災にあっては戦力の上にも由々しき大事である、故に万難を拝して強制疎開を実施するものである」と。


疎開前の会社事務所(1941年頃)
なんだ今頃、敵が土足で玄関にとぐろ巻いているではないか、呆れもするし腹も立つけれど、これが小磯さんの所轄強力政治なのであろう。
   一切政府と軍を信頼せよ
との事に、我々庶民は一言の抗議も批判も許されぬ。泣く子と地頭に勝たれぬ民衆は、羊の如く従順で且つ盲目である。必ず勝つ戦争だ、泣き言や愚痴は禁物だと一切あきらめてしまった。強制疎開は24日迄、間引疎開は30日迄と云う訳。何十万の人々、戦災で家のないのに何処に落付く事かと、全く足許から鳥の飛び立つ騒ぎである。

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大森町界隈あれこれ(11) 鎮魂!大森町大空襲(第4回)

2006年04月25日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
東京大空襲の記録資料(1) 根津山小さな追悼会10周年記念文集についてその2
前回の資料紹介で掲載しました空襲の記録文集「4・13根津山小さな追悼会 ―10周年記念文集― 私たちの街に大きな空襲があった」の入手を希望し申込みにより、4月22日に郵送にて届きました。

早速、手にしたところ、表紙や本文中の随所に花のイラストで意匠された、明るくて品のある本文が80ページの文集で、やや厚めの用紙を使用し長期保存に配慮された装丁の素敵な文庫本です。一見、はじめこれが61年前に東京大空襲で悲惨な被災体験を綴った追悼の文集かなと思ったほどです。
ページを開くと、空襲当時の年齢が5~7才の幼児から軍需工場に勤労奉仕として通っていた14~17才女学生までの方々が、爆撃により身内の親兄弟を亡くされたり、焼夷弾の火炎の中で火傷や怪我をしたり、家屋や生活品の何もかも焼き尽くされたりの凄惨な体験記の寄稿が20編ほどと、「4・13根津山小さな追悼会実行委員」の矢島勝昭さんの画かれた「画集 二十世紀の情景」の中から選ばれた戦時中の情景を描画した挿絵とイラストが挿入されており、東京空襲時代当時のイメージが見られまます。

当時、私は国民学校の6年生で学童疎開のため東京大空襲は直接には体験しませんでしたが、空襲を実体験した方しか言い尽くせない悲惨な文集の記憶は、見る者の胸を締め付け、戦時を過ごした者には、戦争は二度と繰り返してはならないと願っております。
それ以上に、文集を寄稿された方々と、4・13根津山小さな追悼会実行委員の方々は、戦争の悲惨さを語り、戦争を知らない者に平和の尊さを訴えております。
幸に、戦争非体験の方の寄稿もみられ、風化の空襲記録が語り告がれる兆しもありますが、戦争の知らない方には、戦争の欠けらもない今日、是非文集を読んで頂き戦争の悲劇を繰り返さないように務めて貰いたい気持ちで一杯です。
このテリトリーの若山武義氏の手記「鎮魂!大森町大空襲」も、戦争の無意味を少しでも伝えられたらの思いで記載しています。


若山武義氏の手記(1946年記述) 「戦災日誌(大森にて)」第3回

大吹雪の空襲


当時の隣組風景その1 写真は手記記事とは関係ありません。
先ず防火群長の方は田中さんと伊藤さんにお任せして、組長の方は関井さんとやることになって、一つ重荷はなくなったと安心して居られぬ程事態が急迫してきた。それは今迄は、敵機の来襲は晴天の時に限られた、故に「今夜は雨だから来ませんなと安心出来たが、敵は如何なる新装置を発明したものか、雨が降ろうが雪が降ろうがおかまいなしにやって来るので閉口した。
晴れた日や月夜なら敵機の動向がわかるから「あっちだ」、「こっちだ」と安、不安がはっきりするけれども、曇天や雨では、音はすれども姿は見えず、などと呑気の事を云うては居れない。特に夜間は探照灯の閃光で其の方向を知るより外なく心細さ、真に不安限りなしだ。
「各防火群の皆様、防火水桶に水がはって居ります、万一の場合支障なき様に」と注意されるまでもなく、みんな其の都度氷割りだ。拙宅のスタンドは京浜国道と羽田国道の分岐点で、四方見透しがきくから、自然に防空関係者が来る。向う隣組長徳丸さん、杉本群長さんの威勢のよい号令、こちらは関井さん、小林さん、伊藤さんと来る。解除になってホット安心、御苦労さん、御休みなさいと挨拶してお互いは別れて就寝する。
当時の隣組風景その2 写真は手記記事とは関係ありません。

敵は一挙に来襲して来た後は、毎日毎夜、二度、三度偵察に来る。一機だからとて油断も出来ないし、馬鹿にも出来ない。所轄敵の神経戦だ。やっと解除になって寝たかと思うと、亦ブーだ。本当に又かとうんざりする程、腹が立つ程来襲が煩繁になって来た。
特に、2月25日の夜、大吹雪の晩の来襲に、本郷、神田、下谷、浅草にわたる大爆撃の時、この大雪の戦災に焼け出された人々の苦難、困惑如何ばかりかとおもう時、真に断腸の思いだ。戦災はお互いだ、今日は人の身、明日は我が身である。ただただ怪我あやまちのないようにと神に祈るより外なく。猛烈な吹雪にふるえながら手に汗をにぎり、ただ忘然と見て忮むより外ない。

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土と木とメルヘンな鉛筆画のぬくもり三彩展を鑑賞

2006年04月23日 | イベント
4月20日から23日まで、経堂のギャラリー カタカタで若き新進気鋭の陶芸家、木工製品手造家具・玩具の創作家とメルヘンチックな色鉛筆画のアート達が組んで、「ぬくもり三彩展」を開催しました。
色鉛筆画のアートは、古くからの仕事で知り合いの高橋さんのご子息の奥様で、展示会のご案内を頂きましたので22日の午後、芸術品を鑑賞してきました。

会場のある小田急線沿線の経堂方面は、何故か今まで馴染みが薄いところで初めて降りる駅で、新宿から急行電車で3駅目のかなり大きな駅です。現在駅は、改良工事を行なっているため、交番が隠れて見えず会場に向かう案内図のすずらん通りが判りにくく、一つ手前の道を進みドトールを右折して行きましたので、若干時間がかかりましたが、カタカタには5時少し前に到着しました。


「ぬくもり三彩展」の会場では、出品者と鑑賞者が意気あいあいと談笑中で、若きアート達の意気込みを感じました。


出品者と鑑賞者が意気あいあい
展示品は、完成の域に到達するには今後のさらなる精進が必要ですが、ぬくもりをテーマにした若さの創造力は発揮されており、テリトリーの異なる三彩の出品物の間には違和感が無く、まさに案内テーマが唱える通り、つちのぬくもり、木のぬくもり、自然の素材を活かした作品にかわいいイラストが花を添えるぬくもりのコラボレーション展そのものでした。

1時間とたっぷり展示品を鑑賞し、お茶をご馳走になりぬくもりを味わった後、孫のお土産に、木製のパズル国産ぶな製のお盆メルヘンな色鉛筆画を求めて帰路につきました。

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パソコンは、いつでもまともに動くとは限らない

2006年04月21日 | ITと技術
わが家のパソコン
今日では、パソコンのネットへの常時接続が日常となり、メールやWebアクセスが出来ないと支障をきたす時代となりました。
数日前に、いつも長時間稼動させて使用しているパソコンが、1両日に亘る短時間内に複数のトラブルが重なって正しく動かなくなりました。現在、まだ完全には回復しておらず、若干の不便さはありますが、何とか運用出来るようになりましたが、1度にいろいろと障害が重なるとパニック状態になります。そのトラブルの状況と、修復への対応の狼狽ぶりの報告記です。

自宅で動作しているパソコンは、古いがデスクトップ パソコンが3台とノートブック パソコンが1台あり、全てのパソコンはLANで接続し、WebにはBフレッツの光回線でブログなどインターネットにアクセスしております。
自宅は狭いので、液晶モニタ1台でキーボードとマウスを切り替えて使用し、全てのパソコンにはインターネットを接続してあります。プリンタやCD-RWとDVD Writerなどは何れかのパソコンに実装してありますので、パソコンの作業により切り替えて使ってます。

パソコンも古くなると元気が無くなる
パソコンも古くなると人間と同じで元気が無くなり、だんだんと動きが健全でなくなってくる様です。一番古いデスクトップはかれこれ7年を経過し、一番新しいノートブックでも4年経っております。

パソコンの1台は、2ヶ月程前に原因はわかりませんが、LANには接続しますがWebに接続できなくなり、対応調査に要する時間が取れないため、現在運転休止中です。
このような状態の時に、メールアクセスのために平常使用しているパソコンのOutlook Expressが動作中に突然おかしくなり、受信トレイの受信メールが消去されるというアクシデントに見舞われました。とりあえず、別のパソコンでOutlook Expressのメール受信が行えるように環境を設定して、受信が正常に行えることを確認しました。
ウイルス対応については、神経質くらいにWindows Updateやウイルスパタン チェックを行っておりますので、問題はない筈です。
Outlook Expressでの受信メールは、プロバイダのサーバーからWebメールのHotmailへの転送処理をしており、1年以上の使用でトラブルの発生がありませんでしたので、消去されたメールは会社に出てから転送による受信メールを見れば良いと楽観しておりました。

トラブル奮戦記
しかし、翌日会社のパソコンでHotmailをアクセスして見ると、転送のメールは受信してありませんで、Hotmail宛の直通メールが数通受信しているのみです。
会社のパソコンには、Outlook Express環境の装備がないので、調査できないため急遽帰宅して、プロバイダのカストマーセンターに電話して、動作テストを行いましたが見かけ上メールの送受信は、プロバイダとしては異常は見られませんでした。

最近Web上で、各種のいろいろなサービスが受けられ大変便利に享受しておりますが、これらのサービスは、トラブルに対してのカストマーセンターに電話での即日対応のサービスは無く、メールによる対応のみのため回答メールを待つシステムのため、何時返事がくるのかが不安となります。
Outlook Expressのトラブルが発生した直前に、実はこの記述ブログのテンプレートの表示が崩れた表示となり、こちらもメールの問い合わせ中というトラブルに遭遇しておりました。

さて次の日、会社にでてHotmailをアクセスして見ると、消去された以降のプロバイダのサーバーからのメールが正常に転送されており、そこに2ヶ所からのトラブル回答メールもきておりました。転送トラブルは、原因不明のまま自然回復で、異常表示の方も回答指示に従い同時に解決しましたので、結果をセンター宛にメールを出しました。
ところが、まだこれですべての解決したわけではなく、上述のトラブル以外の別のプロバイダでのダイヤル回線のメール接続も使用しており、別のパソコンでのモデム接続がうまく設定できずに保留中であり、Web接続の出来ないパソコンの調査対応も残っているのです。
さらに、集中トラブルの対応のため業務作業が遅延して滞貨しており、パニック気味の奮戦記でした。

次回 パソコンは突然に機嫌が悪くなる 
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大森町界隈あれこれ(10) 鎮魂!大森町大空襲(第3回)

2006年04月18日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
東京大空襲の記録資料(1)根津山小さな追悼会10周年記念文集についてその1
毎年、東京空襲が激しかった3、4月には大空襲の記録資料が出されております。
61年前の4月13日に真夜中から未明にかけ、B29編隊330機による爆撃により、城北大空襲被災を受け、豊島区の死者741人、全焼家屋3万4千戸、被災者16万1千6百有余人というもので、鎮魂の願いとともに、もう二度と戦禍に町を晒たくないという平和への祈念をこめて、戦後50年目の1996年4月13日から毎年心ある人々が寄り合い、ささやかに小さな追悼会を続けてきました。
今年は11回目で、根津山(豊島区南池袋公園)で「4・13根津山小さな追悼会」が開かれました。
「小さな追悼会」の実行委員会では、10周年を記念して会の呼び掛けでご寄稿された空襲被災体験を掲載した文集の「4・13根津山小さな追悼会 ―10周年記念文集― 私たちの街に大きな空襲があった」を発行しました。文集はA4判80ページで500部作成し、希望者に実費配布するほか、区立図書館にも置かれる予定。
追悼会では、ぜひ一人でも多くの方々にお読みいただき、これからの平和について考え、かつて起きた取り返しのつかない戦争を二度と繰り返す事なく平和への希望の道を切り開く社会であるよう、身近でできることからはじめるきっかけにしてもらえたら…と呼び掛けております。


若山武義氏の手記(1946年記述) 「戦災日誌(大森にて)」第2回

戦時下最後の新年会
明けて20年(1945年)の元旦になった。
それでも、大森の美原通りの商店街は、昨年程でなくとも、お正月らしいお飾りではあるが、例年のようなよっぱらいのないお正月である。いくらアメリカの鬼でも、お正月三ヶ日はお休みだから、鬼の来ぬ間の洗濯と、我が隣組の新年常会を開く事にし、三日の晩拙宅で開催した。
当夜集まった人々は、喜多さん、小林さん、中田さん、田中さん、関井さん、伊東さんの御夫婦連、伊藤さん、お母さん、子供さん連と隣組全員総動員である。例年の通り御酒肴持参、例によって例の通り賑やかな事、なごやかな事、毎日毎夜顔見合わせて生活しているのだが、こうゆう席上は亦格別、歓談歓語尽きず、とにかく戦局が急迫して来たので非常時態の打合わせもすまし、且つ組長で防火群長を兼ねる事は至難だからとの理由から、防火群長は帰還勇士の田中義雄さんに、副群長は土地っ子の伊藤利雄さんに決定、楽しみの恒例の福引に子供連を喜ばせ、一同歓を尽して散会した。
昨年の新年常会の余興には、喜多さん、伊東さん御夫婦の夫唱婦随の謡いと音曲、みんな隠し芸やら表芸やらで賑やかであったが、然し本年は戦局の緊迫下、新年常会もどうかと思うたに、無事終了して何よりであった。

前回 大森町界隈あれこれ(9) 鎮魂!大森町大空襲(第2回) 
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大森町界隈あれこれ(9) 鎮魂!大森町大空襲(第2回)

2006年04月15日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
鎮魂!大森町大空襲の追憶記録
大森町大空襲により大森町近辺が61年前の4月15日の今日、爆弾と焼夷弾爆撃により殆どが焼き尽くされました。この大戦で、肉親や財産を失ったり、戦場であるいは戦場と区別がつかない銃後において、大変苦しく、つらい体験をお持ちの方々が現在も沢山おられます。

しかし、戦争が終わって、今日の経済的繁栄により暮らしが豊かになり、戦争体験のない世代が殆どになり、大森町大空襲の悲惨な思い出が風化して薄らいでおります。
二度と過ちを繰り返さないために、戦争の悲惨さや、平和の尊さについて、後世に語り継ぐ必要があると考え、ご遺族石川様のご好意によるご提供により、今回より連載で若山武義氏(没1972年10月27日 東北出身)の遺稿の貴重な手記(1946年1月記述)を無修正で原文のまま掲載して、大森町大空襲時の記録を追憶していきます。
若山武義氏が手記で大森町大空襲を体験した実在の場所は、「大森町界隈あれこれ(1) 大森町に住んで65年!(その1)」(2006年3月19日掲載ブログ)の掲載住居地図(再掲)のB地区が勤務先本社であり、A地区が出先の大森町事務所で後に強制疎開(第1回記事参照)で取り壊されました。大森町事務所の二階は、疎開前まで私の住んでいた居住宅であります。


若山武義氏の手記(1945年記述) 「戦災日誌(大森にて)」第1回

B29帝都上空に初見参
昭和19年(1944年)11月1日と2日と引き続き、涙を呑んで失陥せるサイパン島を基地とせるB29の巨体が帝都上空に初見参したのであった。前年4月18日の空襲は全く予期せぬ出来事で、被害を受けた一部の人を除いては、何が何だか半信半疑であり、学童を機銃掃射をなしたる鬼畜の行為にただ憤慨したのである。
今日は、サイパンの基地が整備されたら来襲必至である事は予想はして居ったが、こんなに早く来るとは思はなかっただけ、全く不意を衝かれ、帝都民の周章狼狽沙汰の限りであった。
国運を賭する戦争に無関心な若き女性のある一部、銀座街道を華美な長袖をひらめかしてブラックに対し「決戦下長い袖はお切りなさい」と、カードを突きつけた有閑オセッカイ女史の忠告に、本当に御世話さまと笑殺した女性群も、今は云わず語らず戦時型のモンペイに防空頭巾と型式だけは先ず整った。我等男子は鉄兜を背にゲートル巻き、初めて前線もなく銃後もない戦時生活に突入せざるを得ぬ事となった。さもなくともいとど混雑の電車に、背中の鉄兜がこれこそ本当の鉢合せをなし、ゴツンゴツンと怪音を発し、押し込みへしこみ、遂にビリビリと窓硝子を破る珍風景は、この時よりぞ始まりける。

東京空襲の幕開け
敵もさるもの、偵察は頗る慎重を極め、11月下旬初めて編隊を組んで来襲、荏原区始め二、三ヶ所初爆撃を為してから、暫時其の戦法も本格化し、来る時間もだんだん短縮、機数も逐次増加して来たのである。
いよいよ戦はこれからだ、サア来い来れ、と都民も緊張して来て、灯火管制も先ず先ず完全の域に、お互いに注意せずとも、すむようになった。
12月になってから、敵機は毎夜、九時、十二時~或いは二時か三時と、定期便に十分といとわずに飛来して来る。其の都度警報のサイレンが物凄くいやな怪音を吹鳴する。
隣組の警報伝達がだんだん手際よくなる。三分間のサイレンの泣く中に完全に灯火が消え、防空の仕度が出来上がる。習うより慣れろで
   電灯消せ
なんて野暮な黄色い声でどなる必要がなくなった。
大晦日の晩は、年末の借金取しか、敵さん御丁寧にも三度御越しになって、浅草の一部が相当の火災であった。

前回 大森町界隈あれこれ(8) 鎮魂!大森町大空襲(第1回) 
次回 大森町界隈あれこれ(10) 鎮魂!大森町大空襲(第3回) 
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大森町界隈あれこれ(8) 鎮魂!大森町大空襲(第1回)

2006年04月13日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
大森大空襲
大森町大空襲も61年が経過し、日本人の10人のうち8人が戦争を知らない世代となり、大森空襲などの戦争の資料も殆ど残っておらず、戦争の悲惨な被害を語り継ぐ人も大変少なくなり、時代とともに風化してきた今、私たち年代のものが記憶のうすれないうちに次の世代に伝えておく必要性から、今回より「大森町界隈あれこれ 鎮魂!大森町大空襲」編を連載してまいります。

大戦での東京大空襲については、2006年3月11、12日付の日記「東京大空襲~あれから61年~」(その1)および(その2)で掲載しました通り、1942年4月18日の東京初空襲以来、延べ99回に及ぶ焼夷弾を中心とした爆撃により市街地は焼け野原となりました。
1945年3月10日の大空襲では、本所、深川、浅草を中心とした住宅蜜集地の27万個の家屋が焼失し、亡くなった人は10万人を超えて最大の被害を被りました。
丁度、61年前の4月15日は、大森大空襲により大森町近辺が、5月29日には大森駅付近が多量の爆弾と焼夷弾爆撃により殆どが焼き尽くされ、灰燼に帰しました。

戦争と疎開
日本の配色が濃くなってきた、空襲に備えて1943年12月の閣議「都市疎開実施要綱」できめられ、1944年に延焼を防ぐために空き地をつくるための強制的に建物を壊す強制疎開が始まり、次いで1944年3月に閣議決定の「一般疎開実施要綱」で人員疎開の方針が示され、老齢者や児童・学童の縁故疎開が打ち出されました。
同年6月には、本土空襲が切迫してきたので、「帝都学童集団疎開実施要綱」が出され、国民学校初等科(現在の小学校)三年から六年までの、約20万人の学童を地方に疎開させると云う計画でした。
大森区と蒲田区(大田区)では、同年7~8月中に45校の約2万人の小学3~6年生が、静岡県や富山県への集団疎開を実施しました。

私は、5年生であり縁故疎開を選び、最初は母と共に母方の実家の隣町である茨城県岩瀬町の借間に移住し、途中から栃木県芳賀郡の遠い親類の農家に居候疎開生活をしました。
戦争末期の疎開生活には、あまり楽しくないいろいろの話題が沢山ありますが、本題とは外れますので割愛します。
疎開直前の住まいは、ブログ開始の最初のページに記載してある地図(再掲)の国道15号三叉路の大森警察署の向かい側にあり、一階が父の勤務事務所(疎開前の私、事務所前にて)でその二階が住まいでした。この近辺一帯の建物は、縁故疎開に行ってから暫らく経て強制疎開により壊されました。

したがって、疎開先での戦時体験はあるのですが、大森町大空襲の体験はありません。
しかし、幸いにして、「大森町界隈あれこれ 鎮魂!大森町大空襲」編を連載するに当り、父と同じ勤務先に勤めておられた、若山 武義さんが1955年に書かれた100ページにわたる手記が残されておりました。それには、大森町大空襲から戦後の混乱期の記録が克明に記述された貴重な資料で、ご遺族の石川様のご好意によるご提供により、「鎮魂!大森町大空襲」を連載させて頂くことになりました。

前回 「東京大空襲~あれから61年~」(その2)
次回 大森町界隈あれこれ(9) 鎮魂!大森町大空襲(第2回) 

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春の花とアルス五重奏団コンサート

2006年04月11日 | イベント
春の花
4月は春爛漫、春の花は桜が代表してまさに花盛りです。
今年は気象の関係で東京地方では、桜の開花が例年に比しかなり早く見られ、3月中に満開となりました。そのためか、めずらしく関東の茨城県水戸偕楽園では、桜と桃と梅が同時に観賞できたと伝えられております。
東京の桜は、これから八重桜などの遅咲きの桜が見頃となりますが、今週には京都・奈良近辺でソメイヨシノが満開を迎え、これ以後桜前線が北上し日本全国でお花見のシーズンです。


満開のしだれ桃
我が家では、何時ごろからか桜としだれ桃の木があり、しだれ桃が満開を迎えました。このしだれ桃は、1つの木に白とピンクと赤色の花が開く変わったものです。そのためか、道筋の通りすがりの方が、しだれ桃の前で立ち止まり、しばし観賞されて行かれる方が多いのです。
1本の木で3種類の花が咲く色の割合は、2本の木により異なり、また年によっても変わります。成熟した樹は平均に赤色の花が多く、そこに白色の花が混じりますが、今年は赤色が優勢のようです。若樹のほうは、白色が優勢の中にピンクが混じり、赤色の花とともに3色混合で開いて見せてくれます。

アルス五重奏団コンサート
4月8日、18時から東京調布市の調布文化会館たづくりの「くすのきホール」で、Ars(アルス) 五重奏団コンサートが開催され鑑賞してきました。アルスは、ラテン語で「芸術」と云う意味だそうです。

アルス五重奏団コンサートには、倉澤杏菜さんがピアノ演奏で出演されております。
倉澤さんとは、お父さんがコンピュータ情報処理のお仕事に長く携わっておられる方で、一緒にコンソーシアムで勉強していることで縁があります。
クラシック音楽は好きで、昨年開催の倉澤杏菜さんのピアノリサイタルにも鑑賞させて貰いました。3月には倉澤さん出演のコンサートがありましたが、入場券を入手し楽しみにしてましたが、急な来客で鑑賞できませんでした。

コンサートのプログラムは、第1部がソロと第2部の室内楽で構成され、演奏曲目と演奏者はプログラム記載の内容で、それぞれ5人がこれまでの技を磨いた若さ溢れる演奏を披露されて、聴衆がこれからの成長を期待しての熱烈なアンコールにより、樋口佳菜子さん編曲のオリジナル版のラフマニノフ/ヴァカリーズ(Rachmaninoff/Vocalise)とピアソラ リベル タンゴ(Piazzolla Liber Tango)の2曲を演奏されました。

若手音楽家の演奏は爽やかで活力があり、聴衆に大きな感銘を与ました。鑑賞者に安らぎを与え、見る者の心身を癒すことで、我が家の春の木とだぶって印象を受けました。しだれ桃も、若樹も成熟した樹も、一輪一輪の3色の花びらを精一杯咲き誇る様は、まさに今日の若き演奏者そのものです。

今後の、アルス五重奏団コンサート演奏会は、新潟、仙台と2回目の東京公演が予定されております。若き明日の演奏家は、張り切って次の公演に備えております。入場料は、千円です。是非演奏会を鑑賞して感銘を受け、声援を贈ってください。

倉澤杏菜さんのプロフィルは、2006年3月に桐朋学園大学音楽部を卒業し、10月より国立ベルリン芸術大学留学の予定。02年第5回ルービンシュタイン国際ピアノコンクールでディプロ マ並びに個人賞、ショパン賞受賞。04年第9回浜松国際ピアノアカデミー参加。

次回 土と木とメルヘンな鉛筆画のぬくもり三彩展を鑑賞 
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大森町界隈あれこれ(7) 大森町に住んで65年!(その6)

2006年04月09日 | 大森町界隈あれこれ 65年
JR大森駅付近の発展
東海道線の開通にあたり大森村の住民は、村の中心に鉄道が通るのを反対したため、大森町の西端を通る路線となり、現在のJR大森駅は大森区のはずれの北端に開設されました。
かっては、京浜国道の三叉路にあった大森区役所は、庁舎を現在の「大田文化の森」と呼ばれる場所に移転しました。昭和22年(1947年)には大森区と蒲田区が合併し、大森区役所は大田区役所となり、昭和36年(1961年)まで庁舎がありました。その後の大田区役所庁舎は、蒲田駅東口近くの場所に移転しました。
一般に、交通の便利な駅の近くから文化・経済の中心として発展していくのが歴史の流れです。JR大森駅の開設により、時代とともに大森の中心は、大森町から大森駅へと移って行きました。その歴史の変遷を、見てみましょう。
出典:大田の史話 大田区史編さん委員会 1988年、写された大田区 ~懐かしい・まちとくらし~ 大田区立郷土博物館 1992年2月15日発行

東海道線開通
明治政府は、文明開化のさきがけとして、近代的交通機関である鉄道を建設することとなり、明治2年(1869年)英国から外債を得て着手しました。
初めの計画では、東海道の街道筋にそって品川から大森の海岸を通って川崎に出る予定でしたが、大森町の人々は大きな鉄の車にものすごい勢いで走られたら、稲の朝露が落ちて実りが悪くなるとか、馬車やかごの乗り手がなくなって街道がさびれると云って反対しました。したがって、当初の路線をやむをえず、当時の人家の少ない淋しいところであった、山王から新井宿、蒲田の水田の中を通る現在の路線となりました。
明治5年(1872年)5月に東京と横浜間を日本最初の陸蒸気が運転を始めたのが、東海道線のスタートで、東京(新橋)と横浜の間に、品川、川崎、鶴見および神奈川の四駅だけでした。

大森駅の開設
東海道線の開通前から、山王に鉄道建設の英国人技師の住宅がありましたので、鉄道開通後に現在の大森駅の南寄りに休憩所を作り、必要に応じて手を上げて列車を止めて乗り降りをしたそうです。
そのうち、不便なので休憩所を駅にすることになり、当時付近の人家は少ないし、新井宿の駅名では通りが悪いので駅から1キロも離れているのですが、「大森」の名をとり大森区最初の停車場が明治9年(1876年)にできました。
「汽笛一声新橋を はやわが汽車は離れたり 梅に名をえし大森を すぐれば早やも川崎の 大師河原は程近し 急げや電気の道すぐに....」
当時の鉄道唱歌(大和田建樹 1902年)にも歌えわれる、大森の梅の名所は大森八景園(1884年開園)だと云われ、東京郊外の名所としてしられております。
大森駅の開設により交通の便が良いこれらの地が、東海道線が全通する明治22年(1889年)頃になると、山王台地に政治家、実業家、高級官吏、将校などの住宅や別荘が建ちはじめました。明治37年(1904年)に蒲田駅ができ、近距離列車が通じるようになると、次第に住宅が増えてきました。
大森駅西口出改札所ができたのは大正2年(1913年)で、東口と西口が跨線橋でつながり乗客には便利となりました。大正4年(1915年)には、東京・横浜間に電車が運転され、地域の発展に一層拍車がかかりました。大正期後半になると、都市化の波が郊外に及び、いち早く住宅地に変貌しました。
このように、地形的には大森町の隣接地の新井宿と不入斗の両字であった所に開設して、名目的に命名された「大森駅」の周辺が、「軒先貸して母屋をとられる」形で「大森」の中心地となり、開発が進み経済・文化は大森町から大森駅周辺へと移って行ったのです。


大森駅西口

前回 大森町に住んで65年!(その5)  
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大森町界隈あれこれ(6) 大森町に住んで65年!(その5)

2006年04月06日 | 大森町界隈あれこれ 65年
昭和8年(1933年)頃の町名は大森町
昭和8年(1933年)発行の大森区の地図(PDF地図版)を見ると、現在の環七通りは当然のことながら存在しておりません。町名は、「大森町」で一丁目から九丁目まであります。
戦時中の昭和16年(1941年) 頃の町名は、「大森」の一丁目から九丁目までと、戦前の大森町から「町」の字がとられました。
1933年の大森町の地図では、京浜国道の三叉路には大森区役所があり、内川近くの旧東海道の美原通りには大森警察署があり、近辺には複数の映画館や劇場がみられ、大森の中心街をなしておりました。

大森の由来
大森とはいつ頃から云われはじめたかについては、「大田区の歩み」や「大田区史年表」などより抜粋すると、文政8年(1825年)の「新編武蔵風土記編稿」内に「奉寄 大慈恩寺武蔵国六郷保大森郷陸奥五郎跡事、右六十六基之為・・・・」と古文書に書かれているものの他、文明12年(1408年)に大田道灌が上洛の時に大森というもりの陰に休らひて詠んだ「平安紀行」に「大森の木の下かげのすゞしさにしるもしらぬも立どまりけり」とあります。
地名の起こりは、諸説があり明確には断定できませんが、大きな森林を地名と考えるのが妥当のようです。

大森の経緯
大森は、室町時代に六郷殿の所領であり、その治下に入り代官の支配下にありました。
六郷領大森村は、不入斗村、新井宿村、堤方村、北蒲田村、糀谷村、品川湾に囲まれた広大な地域であったため、元禄8年に、東大森三〇〇軒、西大森二〇〇軒、北大森一八〇軒の三村に分割されました。
慶応4年、徳川が去り官軍が江戸城に入域により、大森地区は武蔵県となり旧代官の支配下に置かれました。
明治元年に武蔵県は東京と改称され、同4年東京府が発足し統一国家の形成と共に大森の三村は、再び統一され荏原郡大森村(PDF地図版)(出典:明治14年第5号測板 東京府武蔵国荏原郡大森村 (財)日本地図センター発行)となりました。
当時の大森村は、海苔養殖と田んぼのまったくの農村漁村でした。その後、次第に市街地化が進み、明治30年に大森村は、東京市大森町となりました。
昭和7年(1932年)に隣接五郡と併合し、大東京市が誕生した時に大森区となりました。掲載の地図は、大森区が出来た時の初めての貴重な地図です。出典:大田の史話その2 東京都大田区発行 大田区史編さん委員 昭和63年3月
戦後、昭和23年(1948年)に大森区と蒲田区が合併して、今日の大田区大森となりました。

わが街の大森町駅
京浜急行電鉄は、関東では最も古い歴史を有する鉄道で、明治32年に六郷橋のたもとから川崎大師間の2キロを、参詣客を運ぶために敷いたのが始まりです。
明治34年に、六郷から蒲田、大森町を通り大森海岸から西に折れて、東海道線の大森駅へと結ばれました。同38年に、北品川へと延びて神奈川間が開通しました。
その後、昭和12年(1937年)に大森海岸と大森駅間の支線は撤収されました。
現在の「大森町」駅は、開通時には山谷駅として開設されましたが、昭和20年(1945年)の空襲で焼失のため廃止されていましたが、昭和27年(1952年)に「大森町」駅と改名され再開しました。


写真 大森町駅西口

前回 大森町に住んで65年!(その4)
次回 大森町に住んで65年!(その6) 
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大森町界隈あれこれ(5) 大森海苔物語(1) プロローグ

2006年04月03日 | 大森町界隈あれこれ 海苔
はじめに
わが大森町は、歴史のある日本一の海苔生産地でありましたが、東京湾の埋め立て事業により、1963年に漁業権が放棄され、大森周辺での海苔生産の幕が退かれました。
海苔の生産は、冬の季節産業で11月下旬から今頃の3月一杯まで、海苔取りと、天日乾燥場一杯に海苔干しの作業が毎日行われ、大森町の冬の風物詩でした。
品川・大森で採れる浅草海苔の歴史は古く、寛永15年(1638年)の書物「俳諧誌毛吹草」に浅草海苔と品川海苔が登場し、かつての生産量が日本一の大森海苔物語を、カテゴリーに「大森町界隈あれこれ 大森海苔物語」編を設け、順次記載していく予定です。

大森町で初の大森「のり祭り」
4月2日の日曜日に、「大森本場乾海苔問屋協同組合」(地図)の主催で大森町の中央部にある大森海苔会館で、初めての「のり祭り」が開かれました。これから毎年4月の第1日曜日に開かれることになりました。
海苔の歴史は古く、海苔の養殖は行われなくなりましたが、現在でも大森には海苔問屋が沢山存在しています。これは、昔から大森の地で活躍していた海苔問屋が、今でも古くからの海苔の伝統を受け継ぎ、各地の産地から海苔の買い付けや海苔加工の活躍をしているからです。
東京で海苔問屋の多い地区町村は、大田区の59社で一番多くあります。その他には、品川区8社、中央区16社、台東区13社、江東区9社などの計154社があります。
海苔問屋で結成した組合は、全国各地にありますが、大森町にも「大森本場乾海苔問屋協同組合」があり、大田区と品川区の海苔問屋の67社が加盟しています。
今回の「のり祭り」には、海苔問屋15社が参加して開かれました。自宅から会場まで徒歩10分足らずの所が会場ですので、ぶらりと覗いてきました。会場では、出展掲示物(パネル1パネル2)の他「海苔すき」体験や「海苔干し」見本、各産地の「海苔」食べ比べなどが行われていました。

大森町は、かつては日本一の海苔生産地
かつての大森から羽田、お台場にかけての一帯は、海苔の一大産地で、戦前には東京湾の海苔が全国生産量の7割を占めていたこともありました。
その中で、江戸時代から明治初期に至る海苔養殖漁場の規模は、わが大森町の規模はダントツであり、東京府勧業課編の「東京捕魚採藻図録」(明治15年刊)によると、明治13年(1880年)では、東京全海苔漁場が約42万417坪のうち、大森村の漁場は約19万3050坪(45.9%)を占め、2位の南品川宿地域が約8万6886坪(20.6%)で、次いで大井村・不入斗村地域が約6万3361坪(15%)、糀谷村・羽田村地域が約7万7118坪(18.3%)との記録が残っております。出典:大田区海苔物語 大田区立郷土博物館 1993年3月25日発行

[INDEX] 2007年3月カテゴリー別月間目次
次回 大森町界隈あれこれ 大森海苔物語 のり祭り へ>
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番外編 ブログ記事の参照地図を拡大して見る方法 [付 kan-haruの日記3月月間INDEX]

2006年04月01日 | INDEX
ブログ記事の参照地図を拡大して見る方法
インターネット エクスプローラ(IE 6.0)により、ブログ記事内の参照地図を拡大して見るには、次の方法で行います。
大森町界隈あれこれ(4) 大森町に住んで65年!(その4)(3月30日掲載)を例にして、記事内の参照地図を拡大して見る方法を、説明図により説明します。次に示す説明図を、順次開いてください。説明図からブログに戻る場合には、説明図のメニューバーの「戻る」メニューを押してください。

①ここをクリック(説明図1)すると、3月30日掲載日記の記事内参照地図の場所「地図1」が見られます。
②ここをクリック(説明図2)すると、①の「地図1」上をクリックすることにより、表示された地図のイメージが見られます。表示地図の文字情報は、地図が小さいため全く読めません。
③ここをクリック(説明図3)すると、②で表示された地図を拡大表示するため、マウスを地図表示外部から、地図表示部上に移動すると左上部と右下部にアイコンが表示されます。右下部の図拡大表示アイコンのボタンを押すことにより、拡大表示されます。
④ここをクリック(説明図4)すると、③で表示の地図が拡大して表示されます。拡大表示地図では、住所町名や番地などの地図情報がはっきりと読めます。また、拡大して画面上に表示されていない部分は、スクロールバーの調節により表示されます。

なお、参照地図の拡大表示は、kan-haruの日記全てのブログ記事上で有効です。

kan-haruの日記 3月月間カテゴリ別INDEX
INDEX上の日記をクリックすると、当該ページが表示されます。INDEXに戻る場合には、ブラウザのメニューの「戻る」をクリックします。

[大森町界隈あれこれ 大森町に65年]
大森町界隈あれこれ(1) 大森町に住んで65年!(その1)  3月19日
大森町界隈あれこれ(2) 大森町に住んで65年!(その2)  3月21日
大森町界隈あれこれ(3) 大森町に住んで65年!(その3)  3月23日
大森町界隈あれこれ(4) 大森町に住んで65年!(その4)  3月30日
[小さな旅]
秩父長瀞の蝋梅と火祭り 3月12日
小さな旅 菩提寺 3月26日
清澄庭園・深川江戸資料館 3月28日
[秋葉原界隈]
秋葉原界隈(その1)  3月9日
秋葉原界隈(その2)  3月9日
秋葉原界隈(その3)  3月9日
続・秋葉原界隈(1) 秋葉原クロスフィールド完成 3月14日
続・秋葉原界隈(2) 秋葉原UDXに昔懐かしい「須田町食堂」が 3月16日
[Weblog]
kan-haruのgooブログ日記 3月8日
[大森町界隈あれこれ 大森町大空襲]
東京大空襲~あれから61年~(その1)  3月10日
東京大空襲~あれから61年~(その2)  3月11日


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