K&A

kan-haruの日記

風景・風物詩(B3) 夏の風物詩 川崎大師風鈴市

2006年07月31日 | 風景・風物詩
初詣りで有名な川崎大師の風鈴市も第11回目の開催で、夏の風物詩として定着してきたようです。今年は、7月19日から23日まで開催され、初日は雨模様にたたかれ人出もいま一歩のようですが、22日は空模様も何とかもちそうなので午後久しぶりに風鈴市に出かけてみました。
風鈴市には、全国47都道府県から760種類の2万4千個の風鈴が揃い、川崎大師オリジナル「厄除だるま風鈴」を初めとして、様々な色・形の風鈴が並び、風鈴の材料もガラス、陶器、金属、石、炭などのほか、変り種として水晶、プラチナ、金、銀製の風鈴も出品されていました。

川崎大師は、京浜急行電鉄本線の京急川崎駅から支線の大師線に乗り換え、川崎大師駅で下車して、駅前の厄除け門から表参道のお店をみながら進むと大師入り口門で、そこを右折すると仲見世通りです。仲見世通りの両側には、大師名物のトントコ飴きり包丁の音を響かせている飴屋さんを初めとして、くずもち屋、ダルマ屋さんなどのお店が軒を連なって賑わっており、その先が川崎大師の大山門です。


大山門をくぐって境内に入ると、左側広場が風鈴市の会場で奥に八角五重塔が見えます。
正面の本堂には、多数の参詣客で混雑しておりましたが、お賽銭をあげお参りした後、風鈴市見物です。

風鈴市
風鈴市には、全国から様々な形のものや、種々の材料で作られたものなどの珍しい風鈴が見られました。(風鈴市風景1風景2風景3)
全国47からの760種類の風鈴から、変わった風鈴の百顔を並べてみました。

・川崎厄除けだるまのオリジナル風鈴
川崎大師は、厄除け大師として有名でだるまが名物です。そのだるまの顔を現した愛嬌のある紅白のオリジナルだるまが出品されております。
(大師オリジナル風鈴オリジナル風鈴説明)

・風鈴の沙汰も金次第
風鈴の世界もかね次第です。田中貴金属が銘を銀座風鈴と打って貴金属製の風鈴を出品しておりました。(ぷらちな風鈴金の風鈴銀の風鈴金・銀だるま風鈴)

・さまざまな形の風鈴
風鈴市には、くじらなどのさまざまな形の風鈴が出ておりました。ローカル色豊かな風鈴のオンパレードです。(秋田御殿まり風鈴山口ふぐ風鈴高知くじら風鈴青森花笠風鈴東京つりしのぶ風鈴静岡竹干筋風鈴)

・さまざまな材料により作成の風鈴
風鈴市の風鈴には、貴金属性のほかに思わぬ材料を使用した風鈴が出品されておりました。(茨城石の風鈴大阪被せガラス風鈴福岡上野焼風鈴熊本天草藍の風鈴奈良瑠璃風鈴)

川崎大師
通称の川崎大師は、真言宗智山派・大本山金剛山金乗院平間寺と云い、昔から厄除け大師として、霊験あらたかなことで有名な関東の名刹で、千葉の成田山新勝寺、東京多摩の高尾山薬王院とともに、関東三山として名を知られております。
大治3年(1128年)に開創され、開基は尊賢上人、創建功徳主は平間兼乗氏で、現在の管首は、第44世の中興第1世橋隆天大僧正であります。
川崎大師のご本尊は、1,220年前にご誕生になり、全国に真言密教を広められた弘法大師空海上人が祀られております。
川崎大師は、私宅の菩提寺と同一宗派であり、毎年の初詣りは近くでもあり、家族は皆お守りとお札を昔から受けております。

大本堂
現在の本堂は、昭和39年(1964年)に平安朝の建築様式を模した鉄骨、鉄筋、コンクリート造りの総建坪997㎡、高さ25.5mの大伽藍です。

大山門
川崎大師開創350年記念の昭和52年(1977年)に落成した、堂塔伽藍を囲う総域結界の総門です。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(6月分掲載Indexへ)
<前回 風景・風物詩(B2) 夏の風物詩 浅草ほおずき市 その2 へ
次回 風景・風物詩(B4) 江戸三大祭 富岡八幡例大祭(その1) へ>
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倉澤杏菜 ベルリン芸術大学留学記念 ピアノリサイタル

2006年07月26日 | イベント
7月20日午後7時より、カワイミュージックショップ青山2階パウゼで、ベルリン芸術大学留学を記念して、倉澤杏菜ピアノリサイタルが開かれました。
倉澤杏菜さんとは、お父さんがコンピュータ情報処理のお仕事に長く携わっておられる方で、一緒にコンソーシアムで勉強していることが縁で、ピアノリサイタルやアルス五重奏団コンサートなどを鑑賞させて頂いております。

今回のピアノリサイタルは、今春桐朋学園大学音楽学部を卒業されて、10月より国立ベルリン芸術大学に留学されることになり、それを記念してのリサイタル講演です。
カワイミュージックショップ青山の開場は午後6時30分でしたが、入場券は完売で開場まもなく席はいっぱいとなりました。
プログラムは、午後7時丁度に開演され、前半最初の演奏曲は杏菜さんの思い入れの モーツアルトのきらきら星変奏曲「ああ、ママに言うわ」による 12の変奏曲 ハ長調 K.265 から始まり、次いでショパンのポロネーズ、ノクターン、バラードと続き、素晴らしい演奏に魅了しました。

休憩時間に、お父さんとの会話では、演奏が始まりだんだんと調子が出てきていると、目を細めておられました。
後半は、高度な演奏曲でスクリャービンのピアノソナタとラフマニノフの変奏曲で、19年ものピアノ生活の成果の演奏には、大変に感銘しました。
プログラムの演奏が終了すると、アンコールの拍手の鳴り止まないなか、トルコ行進曲など数曲のアンコールで感銘のうちにピアノリサイタルの演奏は終了しましたが、その後にオマケの演出がありました。

倉澤杏菜さんは、リサイタルの翌日の21日は、実は22歳のお誕生日でした。そこで、カワイミュージックショップの粋な計らいで、ミニお誕生祝いが開かれ、杏菜さんの恩師のピアノ伴奏で誕生祝いの歌を斉唱し、ケーキのキャンドルを消す催しなどで、ベルリン芸術大学留学記念に相応しいピアノリサイタルを堪能させて頂き感動しました。


倉澤杏菜さんは、7月28日にドイツに向けて出発です。ベルリンでは、健康に留意し3年間芸術の真髄を極め、日本に戻り音楽界で貢献されることを期待しております。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(6月分掲載Indexへ)
<前回 土と木とメルヘンな鉛筆画のぬくもり三彩展を鑑賞 へ
次回 イベント(4) 東京都美術館 第61回日本書道美術院「教育部展」 へ>
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大森町界隈あれこれ(L31) 大森町の社寺 ささやかに鎮座する貴船(貴菅)神社

2006年07月25日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
大森には、国道に面している神社が数多くありますが、中でも、大森町に位置する貴船(貴菅)神社は、第一京浜国道の本宿の路傍にただずむ小さな小さな神社です。
こじんまりとした境内で、7月の21、22日に盆踊り大会が開催され、翌日の23日に役員さん方があと片付けをしてるところ訪れてみました。貴船(貴菅)神社(地図参照)は、京急の大森町駅から、第一京浜国道を南下して5分足らずの所にあります。

貴船(貴菅)神社
通りに面した鳥居をくぐると、左手に水屋 があり、正面が社殿で前に可愛い狛犬が鎮座しており、右手に お稲荷さん が祀ってあるだけのあっさりとした神社です。
貴船(貴菅)神社説明版の略縁起を見ると、御祭神は、貴船神社には高龗神(たかおかみのかみ)・菅原道真公が祀られ、稲荷神社には宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと) が祀られております。

由書では、創建の年代は明らかではない。江戸時代には大森村のうち東海道に面した本宿の鎮守であった。明治42年7月東海道をはさんで当社の真向かいに祀られていた菅原神社を合祀した。その後、昭和に入って、貴菅神社と俗称する様になったとあります。
祭神の高龗神は、伊邪郡岐命の御子にして、水を司る神であり、神霊を授け給う産土神である。農業、漁業、航海、醸造等をはじめ、各種生産富貴の神として、又、干ばつに際しては雨乞いが行われる等、常に御神徳広大である。菅原道真公は、分道の大祖、文学詩歌の霊神であり、金世、文芸教育の興隆につれて、文教の祖神としての崇敬いよいよ厚く、又、火防の神としても神威嚇々たるものがある。宇迦之御魂命は、稲魂として、万民豊楽の神霊と称え、広く商売繁昌の守護神と敬愛されている。

神社の社殿は唐破風向拝付瓦葺・入母屋造りで昭和27年(1952年)竣工のもので、鳥居は石造・明神型で大正14年建之、狛犬は石造で大正4年建之、神狐像は石造で昭和2年建之とあまり歴史を有さない、比較的新しい神社であります。氏子の戸数も本宿町会の一町会のみの住民だけですので、大森の神社では最も小さい神社であります。
神社の例大祭は、八月最終の土・日曜日に定めれており機会があれば、その模様を日記で紹介したいと思います。


狭い境内がさらに狭くなる
この神社には、将来に問題を抱えているのです。盆踊り大会のあと片付けをしていた役員さんのお話では、神社に面した第一京浜国道が五年後には道幅が拡幅されて、境内を削られることが決まっているとのことです。現在、第一京浜国道は神社の北側近くまでは、道路の拡幅が済んでおり、神社から南側の拡幅工事がこれから開始する予定なのです。それによれば、神社境内はおよそ半分(地図赤線参照)となりますので、将来神社を他に移転するか、狭い境内に二階建ての社屋にするか、他の神社と合祀するなど神社の存続を決めることになります。神社の役員さんでなくても、頭の痛い問題です。
貴船(貴菅)神社の航空写真

ちなみに、貴船(貴菅)神社の執務を行っておられる神主さんは、諏訪神社(大森町界隈あれこれ(20) 大森町の社寺(1) 諏訪神社その1~3 日記参照)と、貴船神社(大森町界隈あれこれ(L30) 大森町の社寺 巌正寺の水止め舞 日記記載の巌正寺の東南裏手近く)の神主と兼務執務されておりますので、大森町の神社は仲良しの兄弟と云えます。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(6月分掲載Indexへ)
<前回 大森町界隈あれこれ(L30) 大森町の社寺 巌正寺の水止め舞 へ
次回 大森町界隈あれこれ(L32) 大森町の社寺 谷戸三輪神社秋の例祭 へ>
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大森町界隈あれこれ(L30) 大森町の社寺 巌正寺の水止め舞

2006年07月23日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
大森町の社寺の中には、母校の大森第一小学校の東裏手の羽田通りに面して、開創が文永2年(1272年)と大変古い「柳紀山巌正寺(ゴンショウジ)」(地図参照)と云うお寺があります。
この、巌正寺では毎年、盂蘭盆会(うらぼんえ)の七月十四日の午後、六百八十年以上続く都の無形民族文化財に指定されている、「水止舞」(みずとめまい)が演じられます。

大森第一小学校生時代の戦前・戦中の頃の住まいは、巌正寺と目と鼻の先の大森警察署の産業道路の対面(地図参照赤丸印)に住んでおり、戦後から現在の住まいは京浜急行の大森町駅近傍にすんで都合65年になりますが、一度は見たいと思いながらなぜか「水止舞」を見に行ったことはありませんでした。
そこで、今年は地元郷土の無形民族文化財に指定されている「水止舞」を、ブログに掲載したいと七月十四日の午後、巌正寺に出かけました。巌正寺へは、自宅近くの大森町駅から、第一京浜国道の交差点を渡り、城南信用金庫前を直進して産業道路の交差点に出ます。産業道路の交差点から南方に大森第一小学校校舎が見えますが、交差点を渡りさらに直進すると羽田通りと交差します。交差した羽田通りを右折して南下すると、左手が巌正寺で大森町駅から徒歩10分ほどです。

巌正寺
巌正寺の門前には、「水止舞の寺」の石碑があります。門の二階にある梵鐘は、安永元年(1772年)に地元の人たちによって造られ、地元の講中の存在を感じさせます。また、羽田街道沿いにあることから、戦前は大いに賑わいボロ市が立ったと云われております。
巌正寺水止舞保存協力会などの資料によりますと、巌正寺の由来は、住職と檀家は鎌倉幕府第六代執権職の北条長時の一族郎党で、長時の一番下の弟・時千代が巌正寺を開基した法円上人で、伯父の巌正寺第一世法円から継いだ第二世法蜜上人は、文永4年(1274年)北条茂候の子として生まれ、18歳より高野山で真言密教を学んだとあります。
一族郎党で流れてきたからか、住職と檀家の関係は密接で、この代から密教系の天台宗から浄土真宗に宗旨替えして、妻帯できるようになった住職の子孫が代々お寺を継ぎ、大森の住民の安心(仏教用語で「仏に帰依して心に疑いを持たない」の意)を願ってきたとあります。

羽田通り
大森町には、旧東海道が大森本町二丁目交番付近から、大森東二丁目の大森警察署前交差点までの通称「三原通り」(現在の美原通り)として、往時の幅員と面影を残して現存しております。
「三原通り」の「三原」は、大森村小字名の北原・仲原・南原に由来します。
羽田通り(羽田道)は、旧東海道(美原通り)から内川橋際で分かれ、羽田方面に至る道です。分岐点付近に、歌舞伎でもでてくる「駿河屋」という旅籠屋があったことから、「するがや通り」とも云われます。内川橋際から大鳥居交差点までで、産業通りができるまでは、羽田でとれた魚などを運ぶ生活道路であったそうです。

水止舞
由来
大森村の地域は、多摩川の河口付近が埋め立てられる前は、寺近くまで海岸線がせまっていた事がうかがえます。多摩川の最下流に位置し、古くから水害に苦しめられていた地域です。戦後の1949年頃に住居を大森町駅付近に移したころでも、地面を30cm程度掘ると、泥水がしみ出すという土地柄で昔は水はけが悪く、水害に悩まされておりましたが、いつ頃からか高度成長時代には、1m以上掘っても水は染み出さなくなりました。しかし、二年後の元亨三年(1323年)には、「数十日間雨降り止むことなく田畑はことごとく海となり人びとは難儀して他国に逃げるものも数多く」あり、長雨が法蜜上人の雨乞い祈祷のせいだと恨む農民まででてきた。そこで上人は、三頭の龍像を彫って「水止」と命名し、それを農民達にかぶらせて舞を舞いわせ、太鼓を叩かせ、法螺貝を吹かせたところ、黒雲は消えて太陽が姿を現したという。喜んだ人々により「寺に水止舞を奉納するならわしとなり、その後天変地変の度に水止舞を奉納し霊験をあらたかにした」とあります。

大森村の地域は、多摩川の河口付近が埋め立てられる前は、寺近くまで海岸線がせまっていた事がうかがえます。多摩川の最下流に位置し、古くから水害に苦しめられていた地域です。戦後の1949年頃に住居を大森町駅付近に移したころでも、地面を30cm程度掘ると、泥水がしみ出すという土地柄で昔は水はけが悪く、水害に悩まされておりましたが、いつ頃からか高度成長時代には、1m以上掘っても水は染み出さなくなりました。

水止舞奉納
水止舞は、大森東中学校の校門前から午後一時スタートの「道行き」(龍神の練り行列)から始まります。
行列の先導は、とぐろに見立てた七五三縄状の太いわらでグルグル巻きにされた、法螺貝を持った若者二人(雄雌の龍神)で、高らかに吹き鳴らす法螺貝は龍の咆哮である。龍神は、大勢の男たちに担がれて移動し、その後を竹筒を持ち扇をかざした警護役の少年たち、次に笛師連そして、花笠をかぶった花籠(けこ)二人が「ささら」(竹製の楽器)打ち鳴らしながら続き、隊列の最後は、舞で主役を勤める三匹の獅子たちであります。(笛師連、花籠、三匹の獅子たち)
行列は、数メートル進むごとに立ち止り、先頭の龍神にはバケツの水が容赦なく掛けられ、近くの信者や見物人にも水が浴びせられる。
龍神に掛ける水は、龍神を元気づかせる雨で、その度に法螺貝を吹き鳴らすのも、喜んで雄叫びを上げているところなのです。


寺に着くと、嫌がる龍神を無理やり舞台上に担ぎ上げて、ほどいたわらを舞台の周囲に巡らすと水止舞奉納の準備が完了です。
水止舞は、花籠二人を従えた赤い面の雄獅子と黒い面の若獅子、金の面の雌獅子による舞で、初めは牡丹の花(花籠)が咲き乱れる中で雄獅子だけが舞い、次いで雄獅子と若獅子による「出羽の舞」、その後には、三匹の獅子で舞う「トーヒャロ」、雌獅子を奪い合う「雌獅子隠し」などと続きます。

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風景・風物詩(B2) 夏の風物詩 浅草ほおずき市 その2

2006年07月21日 | 風景・風物詩
ほうずき市露店
観音さまのお参りを済ませてから、ほおずき市の露天を一巡りしました。露天の人気者は、千成りほおずきですが、現在は丹波ほおずきが主流となり、春先から江戸川などで栽培されます。
浅草ほおずき市は、観音堂の境内に立ち、本堂の両側から裏手の広場にかけてほおずき露天、金魚屋、風鈴、虫籠、燈籠等の商い店が400以上も並びます。例年では、ほおずき市の頃ともなれば梅雨もあけて急に夏らしくなるのですが、今年の7月9日はまだ梅雨は明けきらずに朝から曇り模様でしたが、日曜日にあたりましたので午前中から人出は多い(ほおずき市風景1風景2)ようでした。午後からは、浴衣がけの散歩がてらの人達で賑うことでしょう。
今は、あまり見られなくなりましたが、女の子がほうずきの赤い実をやわらかくもんで、種をぬき、水で洗って苦味をとり口にふくんで鳴らすのを見て、感心した記憶も遠い昔の想い出です。


浅草のれん会のホームページ「ほおずき市」をみると、ほおずき市は江戸時代は赤玉蜀黍(あかとうもろこし)を売る市だったそうです。この時期特有のモノの雷から守るには、雷と反し雷を除けるとされる赤い色・そして種実の多い植物が一番良いとされ赤玉蜀黍となったようです。しかし、明治のある年に不作の年があり、一軒の玉蜀黍屋も出なかったので、その年参詣客の要望で雷除けのお札(赤く描かれたお札に竹と言う組み合わせ)と玉蜀黍に変わる赤くて種のいっぱいあるほおずきが売られるようになったとあります。

浅草神社
浅草寺境内のほおずき市の露天の東側に接して、通称「三社様」・「三社権現」で親しまれている浅草神社があります。
五月の第3週の金・土・日曜日に行われる例祭は三社祭といい、江戸三大祭の一つとされております。

浅草神社の起源は、漁師兄弟(檜前浜成・武成)が隅田川で漁をしていたところ仏像が投網の中にかかり、土師真中知から観音像であると教えられて、真中知の自宅を寺としたのが浅草寺(日記その1参照)の始まりであります。真中知の歿後、真中知の子の夢に観音菩薩が現れ、そのお告げに従って真中知・真中知の歿後、真中知の子の夢に観音菩薩が現れ、そのお告げに従って真中知・浜成・武成を神として祀ったのが当社の起源であるとしている。を神として祀ったのが当社の起源であるとしています。
実際には、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて、三人の子孫が祖先を神として祀ったものであると考えられているとしております。この三人の霊をもって「三社権現」と称されるようになりました。

現在の社殿は、徳川家光の寄進で慶安2年(1649年)に再建されたもので、先に焼失した「浅草東照宮」に祀られていた「徳川家康」が合祀されました。
明治の神仏分離により浅草寺とは別法人になり、明治元年(1868年)に三社明神社に改称、明治6年(1874年)に現在の浅草神社に改称されました。昭和36年(1961年)に拝殿・幣殿・本殿が国の重要文化財に指定されました。
神明型の石造りの大鳥居は、明治18年(1885年)に信者より寄進されたものです。浅草神社の狛犬は、かなりの大型で、天保七年(1836年)の石工の田町文五郎の作といわれてます。

人力車
三社様を参詣して、混雑を避け仲見世の裏道を通り雷門に出ると、沢山の人力車が観光の客待をしておりました。
人力車は、それまでの駕籠に替わって、明治から大正時代に徒歩よりも高速な移動手段として用いられた人を輸送する手軽な交通手段として急速に普及しましたが、最近では、各地の観光地で元気な若者が人力車を引いて近辺の観光案内をしてくれます。
とは云うものの、年配者にとってはなかなか乗り難いもので、2年ほど前に小樽での乗車体験が前にも後にも唯一のものです。

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風景・風物詩(B2) 夏の風物詩 浅草ほおずき市 その1

2006年07月19日 | 風景・風物詩
浅草ほおずき市
入谷の朝顔まつりに続き、7月9~10日は浅草のほおずき市が夏の風物詩第2段として浅草寺境内にて開かれました。今年も、昨年に引き続き7月9日にほおずき市に出かけ、浅草寺に参詣して四万六千日のご利益を授かってきました。
ほおずき市には、自宅から京浜急行と都営地下鉄に乗り継いで、乗り換えなしのおよそ35分で都営浅草駅です。浅草寺境内を一巡(地図参照)して、ほおずき市の観光をしました。

雷門
都営浅草駅を上がり路地から大通りに出て、右側吾妻橋とは反対方向に左折すると雷門が見えてきます。土曜日でしたので朝から大変な人込みで、雷門の前は東京で最も人気のある観光地ですので記念撮影などで混雑しておりました。
雷門は、最初は浅草寺の総門として天慶5年 (942年)に建てられましたが、火災による焼失し、その後寛永12年(1635年)徳川家光により建立された門は、右に「風神」左に「雷神」を安置して「風雷神門」と呼ばれ、略して雷門で親しまれております。慶応元年(1865年)に再度の火災に遭って以来、昭和35年(1960年)に現在の鉄筋コンクリート製で再建されるまでの百年近く存在しておりませんでした。

雷門には、上部に右書の「金龍山」の扁額が掛けられ、正面に「雷門」と書かれたおなじみの大きな提灯が下がっております。大提灯を仲見世側から見ると、「風雷神門」と書かれてあります。また、風神・雷神像は慶応元年の罹災で頭部を残して消失し、明治7年(1874年) 塩川蓮玉氏により補刻されたとあります。風神・雷神像の裏側(仲見世側)には、昭和53年(1978年)に寄贈された「天竜像」と「金竜像」が安置されております。


仲見世
雷門をくぐると、すぐ仲見世です。
生い立ちから現在までを「仲見世の歴史」から抜粋
徳川家康が江戸幕府を開いて江戸の人口が増え、浅草寺への参拝客も一層賑わいました。
それにつれ、浅草寺境内の掃除の賦役を課せられていた近くの人々に対し、境内や参道上に出店営業の特権が与えられ、これが仲見世の始まりで、元禄、享保(1688~1735)の頃といわれてます。
大正12年(1923年)の関東大震災により壊滅し、同14年に現在の鉄筋コンクリート造り、桃山風朱塗りの堂々たる商店街に生まれ変わり、昭和20年(1945年)の戦災で内部は全部焼失しましたが、仲見世の人々の努力により復興しました。

現在の仲見世には東側に54店、西側に35店、合計89店の店舗があり、長さは約250メートルで、美しい統一看板と四季折々の装飾が石畳に映え、雷門をくぐった海外からのお客さまは、みごとな日本的情緒に満足し感嘆します。

宝蔵門
仲見世の後ろが宝蔵門(仁王門)ですが、現在修復工事中により門全体が工事幕で覆われており、姿を見せておりませんでしたので工事中の門は素通りでした。

五重の塔
五重塔は、天慶5年(942年)に平公雅によって本堂の東南側に建立されたが、火災による焼失後、慶安元年(1648年)徳川家光により再建、その後戦災で焼失し、昭和48年(1673年)参道を挟んで反対側、本堂の西南に再建されました。
五重の塔は、塔を囲む回廊式の建物(塔院)の上に建てられていますので、地上からは六層ということになり、下から仰ぎ見ると一層の屋根が高く見えます。

浅草寺本堂
浅草寺は聖観音宗の総本山で、東京では最古の寺で山号は金龍山と称し、通称浅草観音で親しまれています。また、東京都内では、唯一の坂東三十三所観音霊場の札所(13番)であります。

浅草寺の起こりは、「浅草寺縁起」によりますと、推古天皇36年(628年) に漁師の檜前兄弟が江戸浦(現在の駒形橋下流)で漁労中、一体の仏像を投網の中に得て、豪族であった土師中知に見せると、聖観世音菩薩の尊像であることを知り、中知は自ら出家し屋敷を寺に改めて深く帰依したと伝えられる。これが浅草寺の草創の縁起とあります。
本堂の本尊には聖観世音菩薩像が祀られており、大化元年(645年)に勝海上人が「秘仏」と定められ、やがて平安時代の初期、比叡山の3世天台座主、慈覚大師が、この秘仏に模して「お前立」(秘仏の代わりに人々が拝むための像)のご本尊(現在のご開帳仏)を謹刻されました。

浅草寺は、草創以来焼失と再建を繰り返し、江戸幕府第三代将軍家光により慶安2年(1649年)に再建され、享保6年(1721年)に大修復が行われるなど、度々修復を繰り返してきましたが、明治40年(1907年)「国宝」に指定されました。その後、関東大震災をも無事に免れましたが、昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲で戦災炎上しました。しかし、ご本尊は前もって観音堂の真下地中3メートルのところに、青銅製の「天水鉢」を埋め、その中へ安置されていましたので安泰でありました。
消失した本堂は、戦後の昭和26年(1951年)復興に着手して、昭和33年81958年)に再建落慶しました。

本殿中央には本尊を安置する間口4.5メートル、高さ6メートルの宮殿(「厨子」)があり、宮殿内部は前の間と奥の間に分かれ、奥の間に秘仏本尊、前の間には「お前立ち」の観音像が安置されております。信徒が拝することができるのは「お前立ち」像のみで、秘仏本尊像は公開されることはない。宮殿の左右には脇侍の梵天・帝釈天像、堂内後方左右には不動明王像と愛染明王像が安置されております。

四万六千日
ほおずき市が行われる7月9、10日は、この日に参詣すると四万六千日分のご利益があるとされております。
四万六千日を年数になおしますと百二十六年に近い年数になります。人間が心身に気をつけ、病気や事故にあわなければ、人間はこのぐらい長生きでき、一生を無病息災で過ごせるようにと願った数字と伝えられております。

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風景・風物詩(B1) 夏の風物詩 入谷の朝顔市

2006年07月17日 | 風景・風物詩
入谷の朝顔まつり
入谷の朝顔まつりは、例年7月6~8日に台東区入谷鬼子母神(真源寺)の周辺で開かれ下町の夏の風物詩として定着しています。今年は、7月8日の朝何年か振りかで出かけ、矢車咲きの鉢植えを求めてきました。朝顔市は、真源寺境内と寺院前の言問通りに100軒余りの出店が並び、朝5時頃から夜通し行われ、混雑時には人の行き来ができないほど賑わい、朝顔の鉢は約12万鉢ほど売れるようです。朝顔まつりとして、言問通りの寺院の反対側には、100軒余りの露店が軒を連ねてまつりを盛り上げています。


入谷には、先ず自宅を七時半頃出て、京浜急行を人形町でメトロ日比谷線に乗り継いで入谷まで45分程で着きます。入谷駅の地下から上がると、国道4号線と言問通りの交差点(地図参照)に入谷朝顔まつりのゲートがあり、もう朝顔の鉢を提げて帰る人達がちらほら見えます。
入谷朝顔まつりは、朝顔市の露店が真源寺境内と言問通り寺院側の交差点からおよそ200mほど続き、色とりどりの朝顔が並べられております。

鬼子母神
言問通りの朝顔市の露店を少し進みますと、「おそれ入谷の鬼子母神」で有名な真源寺(しんげんじ)があります。先ずは、鬼子母神のお参りに手を合わせ、朝顔市の間だけ朝顔の造花の付いた身体安全の御守(トップのポスター写真上に写ってあります)が授与されておりますので、御守を火打ち石でカチカチと切って授けてまいりました。また、鬼子母神の境内には、朝顔市に因んだ浮世絵や団扇などを販売しておりました。
入谷鬼子母神は、日融が1659年に当地に法華宗本門流の寺院を開山したもので、江戸三大鬼子母神の一つとして、また、下谷七福神の一つとして有名であり、入谷鬼子母神の由来を「入谷散歩道」から拝借すると次の様に記載されてあります。
鬼子母神は鬼神般闍迦(はんしか)の妻でインド仏教上の女神のひとりであり性質凶暴で子供を奪い取っては食べてしまう悪心であったが釈迦は鬼子母神の末子を隠し、子を失う悲しみを実感させ改心させたという。以後、「小児の神」として児女を守る善神となり、安産・子育の守護神として信仰されるようになった。入谷鬼子母神では、子育の善神になったという由来からつののない「鬼」の字を使っている。

朝顔市露店風景
鬼子母神のお参りを済ませ、露店(風景1風景2風景3)を物色しながら朝顔の品定めをしました。
朝顔市の露店には色とりどりで、青、紫、赤、白などのほか、混色のもの、斑(ふ)が入ったものや曜(よう)部分に白い筋の入った曜白系のものがあり、また花の形も大輪からミニ、キキョウ咲きのものもあります。葉も緑のものや、薄緑の斑の入ったものなど、新種や珍種が見られどれを選ぶか迷いましたが、今年人気の矢車咲きを選びました。
最終日土曜日の朝顔市でしたが、まだ朝早いうちでしたので露店の言問通りも交通規制を行っておりませんでしたが、午後からは大変に込合ったのではないかと思います。

朝顔話題
入谷の朝顔についての解説が、入谷中央商店街振興組合のホームページに掲載されておりますのでご参照下さい。
また、朝顔市に出される朝顔は、関東近県から集荷されますが、江戸川区産業振興課農産係のホームページによりますと、市に出荷される朝顔は約10万鉢といわれ、約7万鉢の朝顔が江戸川区で生産・出荷されています。朝顔市に向け4月中旬に種をまき、1ヵ月後、苗の状態になったところで、1鉢に4色の朝顔が咲くように植え付けます。5月に入り根付いたころに「あんどん」を差込み「つる巻き」や「花摘み」の作業をしながら最高の状態で出荷されます。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(6月分掲載Indexへ)
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風景・風物詩(A1) 東京百景 山の上ホテルとその周辺(その3)

2006年07月15日 | 風景・風物詩
駿河台から神保町へ
駿河台は台地であるので坂道が多い。ちなみに、明大通りから山の上ホテルまでの坂道は、吉郎坂という名が付いています。坂道の石の標識は、山の上ホテルとその周辺(その1)掲載写真「山の上ホテルの案内板」(再掲)の歩道左側の奥の植え込み付近にあります。

錦華坂
山の上ホテルからの帰途は、ホテル右手を散策しながら進むと錦華坂(付近地図参照)です。
錦華坂は、錦華公園の脇にある標識の説明では、次のようです。
名称は坂下に錦華小学校があるからです。この坂は大正13年(1924)8月政府による区画整理委員会の議決により新しく作られたものです。「議決要綱の三」には ”南甲賀町より袋町三番地を横断して裏猿楽町二番地先錦華小公園東側に通ずる六米道路を新設す”とあります。

お茶の水小学校
錦華坂を下り、錦華公園を周るとお茶の水小学校・幼稚園が見えます。
お茶の水小学校の前身の錦華小学校は、平成5年4月に近隣の小川小学校、西神田小学校と統合され「千代田区立お茶の水小学校」となりました。
錦華小学校の変遷は、明治6年(1873)5月、久松学校として開校。その後錦坊学校、錦華学校、錦華尋常高等小学校、錦華尋常小学校、錦華小学校と改称しました。
現在、お茶の水小学校には、孫が在学中です。さすが、お茶の水小学校は、先輩夏目漱石ゆかりの学校で、一年次には漱石の小説「坊ちゃん」、「我輩は猫である」などのさわりを暗唱して発表しております。

夏目漱石文学碑
お茶の水小学校の校庭の外に夏目漱石文学碑があります。 
・夏目漱石(186~1916)
錦華小学校第104回卒業生の卒業記念として、夏目漱石の略歴から
漱石の父、夏目直克が明治初期に第4大区(今の錦町、小川町、西神田と文京区の殆どと早稲田のあたりまで含む)の区長をしていた。また、樋口一葉の父則義と東京府で同僚だったそうだ。
漱石が錦華小学校に転校したのは明治11年。「一っ橋」は当時一ッ橋にあった府立一中、現在の東京都立日比谷高等学校である。

靖国通り裏の飲食店街
お茶の水小学校を周回し錦華通りを右折すると細い路地裏が、神保町の靖国通り裏の飲食店街である。白山通りに出る中間点の四つ角に「こんごう庵 神保町店」があり、山の上ホテルで開催した東京都異業種交流会H11メトロ暑気払い後の希望者による2次会で、はな金を過ごしました。

東京都異業種交流会H11メトロ
東京都異業種交流会とは、地方独立行政法人東京都立産業技術研究センターが異業種交流事業(異業種交流グループ)は、異なる業種・分野(たとえば、電子機器製造業、機械加工業、情報処理業)の人々が、新たなビジネスチャンスの創造、発見のために相互の経営、技術ノウハウ等を持ち寄って交流する”場”を提供しています。
”東京都異業種交流グループ”は、昭和59年に初めて募集、設立され、以来毎年1又は2グループが設立されてきました。設立年度の翌年からは、グループが自主的な運営、独自の活動を行っています。

東京都異業種交流会H11メトロ」は、平成11年に設立されたグループで、会員数が18名でWebに共有のグループサイトを設けて毎月定例活動を開いております。H11メトロ暑気払いは、毎年7月に恒例で開催しており、今年は山の上ホテル本館2階の宴会場で開催しました。
なお、H11メトロには分科会「XML応用研究会」があり、ビジネスをインターネットとコミュニケーションを活用して、経営改革に供するための研究・学習会を毎月開催しております。皆様の参加を、お待ちしております。

H11メトロ暑気払い (於山の上ホテル 平成18年7月7日 拡1拡2)

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風景・風物詩(A1) 東京百景 山の上ホテルとその周辺(その2)

2006年07月13日 | 風景・風物詩
駿河台周辺駆けめぐり(周辺地図参照再掲)
山の上ホテルを始めとして、その周辺には歴史的な建造物や学校が多く存在し、新刊・古書店街、スポーツ店、楽器店などが数多立ち並ぶ文教的色彩の濃い特色のある町並みで、その中からの駿河台周辺に絞り、スポットをあてて駆けめぐりしてみました。
明大通りは、駿河台下から御茶ノ水駅方面に向かうと緩やかな坂道となっており、御茶ノ水駅前の神田川のてっぺんを通る、駿河台と本郷を結ぶ橋が御茶ノ水橋です。
神田川は、江戸時代に本郷台地を切削して作られた人工の運河で、左岸と右岸は地続きの神田山と呼ばれていました。

御茶ノ水駅
「御茶ノ水駅」は、神田川南岸沿いにJR御茶ノ水駅があり、明大通りに面した御茶ノ水橋口と本郷通り側の聖橋口があります。また、神田川北岸にはメトロ丸の内線の御茶ノ水駅があり、両線の乗り換え通路は「御茶ノ水橋」(聖橋から見た御茶ノ水橋)を渡って利用します。
御茶ノ水駅は、JRが中央線と総武線の2線とメトロ丸の内線が、神田川上で3線が立体交差をしている珍しい構造で、鉄道ファンを引き付けるところです。しかし、鉄道ファンには残念ですが、御茶ノ水駅から目と鼻の先にあった交通博物館は、2006年5月14日をもって惜しまれおながら閉館しました。お別れの「さよなら交通博物館」には、行きたかったのですが、混雑等で行きそびれてしまいました。

お茶の水の石碑
JR御茶ノ水橋口駅前の交番脇に、「お茶の水の石碑」があり「お茶の水の由来を記した碑」があります。碑のあるこのあたりは西駿河台と呼ばれ、そのいわれの「説明版」が建っています。
・お茶の水由来石碑(石碑文抜粋)
慶長の昔、この邊(あた)り神田山の麓(ふもと)に高林寺(こうりんじ)という禅寺があった。ある時 寺の庭より良い水がわき出るので 将軍秀忠公に差し上げたところ お茶に用いられて 大変良い水だとお褒(ほ)めの言葉を戴(いただ)いた。それから毎日この水を差し上げる様になり この寺を お茶の水高林寺 と呼ばれ、この辺(あた)りをお茶の水と云うようになった。

湯島聖堂
御茶ノ水橋を本郷側に渡り、秋葉原方向に進むと道路は聖橋の下を潜る立体交差になっており、聖橋を潜る手前に石段がありそれを登ると本郷通りにでます。湯島聖堂は、本郷通りに面したこんもりとした森にあり、元禄3年(1690年)、五代将軍徳川綱吉によって建てられた「孔子廟」、「神農廟」と昌平坂学問所跡で、大正11年(1922年)に国の史跡に指定されました。
湯島聖堂の由来(抜粋)
湯島聖堂と孔子
孔子は二千五百年ほど前に中国魯の国に生まれ、その教え「儒教」は東洋の人々に大きな影響を与えました。儒学に傾倒した徳川五代将軍徳川綱吉は、この地に「湯島聖堂」を創建、孔子を祀る「大成殿」や「学舎」を建て、聖堂は創建316年を迎えています。
昌平坂学問所跡
寛政9年(1797年)幕府は学舎の敷地を拡げ、孔子の生まれた地名をとって、「昌平坂学問所」を開きました。学問所は、明治維新に至るまで70年間、官立の大学として江戸時代の文教センターの役割を果たしました。
明治維新により、聖堂は新政府の所管となり、明治4年に文部省が設置され、国立博物館(今の上野)や東京師範学校(今の筑波大)(今のお茶の水女子大)が置かれ、近代教育発祥の地となりました。
現在の湯島聖堂
もとの聖堂は、4回もの江戸の大火で焼失し、大正12年の関東大震災でも焼失し、昭和10年(1935年)に鉄筋コンクリート造りで再建したものです。ただし、入徳門は、寛永元年(1704年)に建てられたものがそのまま残っており、貴重な文化財となっております。

聖橋
湯島聖堂から、本郷通りを南に進み神田川とJR線を跨いでいる橋が「聖橋」(御茶ノ水橋から見た聖橋)です。聖橋際に由来の碑があり、聖橋南の駿河台のニコライ堂と本郷の湯島聖堂の二つの「聖」なる建物の間のかかる橋というのが「聖橋」の名の由来で、公募により決まったとのことだそうです。聖橋の建設は、建築家・山田守(1894-1966)が昭和2年(1927年)に落成したものです。

ニコライ堂
ニコライ堂は、正式名称を「日本 ハリストス正教会東京復活大聖堂」というロシア正教の教会の建物で、明治24年(1891年)落成した。1992年に石造りで大聖堂の修復が開始され、9年をかけて完成し、日本の国の重要文化財として始めての石造の文化財となりました。日本ハリストス正教会は、1861年に聖ニコライ大主教が函館のロシア領事館付の司祭として日本に来たときが始まりです。

50年前のわが学びや明治大学
明大キャンパスの変遷
前回日記で記述の様に、昭和31年(1956年)に卒業した明大工学部(写真再掲)は、周辺地図(再掲)に記載の様に本郷通りの駿河台東地区に孤立してありました。工学部時代には駿河台西のキャンパス群とは離れていたため、11号館にあった「電気磁気」実験室での実験の時や、明大記念館の地下にあった体育館での体育実技の時くらいしか縁がありませんでした。
昭和31年撮影の駿河台キャンパスの展望写真と、同一場所の現在の駿河台キャンパスを比べて見ると、明大記念会館跡にリバティタワーが建ち、明大通りに面していた白亜の大学院校舎跡には、通りよりバックした位置にアカデミーコモンが建てられ、キャンパスが時代と共にまったく大きく変化しております。
なお、明大工学部は、生田校舎に移転して1989年には理工学部が設置されました。

昭和31年撮影の駿河台キャンパス

明治大学記念館
明治大学記念館は、明治大学創立30周年記念の1911年10月に落成したものです。
80有余年の永き学びやの役目を果たした記念館は、老朽化により1995年11月11日「さよならDay」を持って壊されました。
この記念館の跡には、1998年9月の創立120周年記念館リバティタワーが建てられました。建物頂上部に緑のドームをつくり、低層部にも旧建物のイメージ像を残しました。また、23階中央に位置する岸本辰雄記念ホールには、旧記念館の記念遺品であるステンドグラスとエンジェル及び玄関外灯が再現されており、歴史を物語る品々が展示されています。
また、2004年1月にはアカデミーコモンが竣工しました。アカデミーコモンには、大学史展示室があり、古賀政男の使用したギターが展示されています。
元工学部が建っていた附近
工学部への通学路は、御茶ノ水駅の聖橋口から右にニコライ堂を見て、本郷通りを靖国通り交差点に出るちょっと手前の進行左側にありました。当時は、現在の様に高いビルが林立しておりませんでしたので、ビルの陰に隠れることも無く本郷通りからは青銅の丸屋根がどこからも良く眺められました。
当時の本郷通りは、明大通りの様な華やかな商店街はなく、自動車も殆ど走っておらず大通りにもかかわらず、いつも閑散としておりました。50年経過した工学部校舎跡地の目標がうる覚えですが、跡地と思われるところに建てられているビルを撮影してみました。
明大キャンパスの遥かなる青春時代
工学部通学時代は、やっと戦後の復興期で資材や資源もまだ乏しい時代でしたので、時たま校舎が停電に遭い授業が行えなく休講となりました。そのまま家に帰るのも何か中途半端な気持ちとなり、当時の大衆娯楽である映画館にと足が進みました。
また、「電気磁気」実験のパートナーの同組であったメンバー6名とは、息が合いよく行動を共にしました。卒業後も、登山やスキーに出かけたりして、今では遥かなる青春時代が懐かしく想い出されます。
50年後の現在も毎年秋に一泊の旅行を伴にしておりますが、全員が健在ではないのが残念です。

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風景・風物詩(A1) 東京百景 山の上ホテルとその周辺(その1)

2006年07月11日 | 風景・風物詩
7月7日に東京都異業種交流会H11メトロ(後述 その3)の恒例の暑気払いは、御茶ノ水の山の上ホテルの本館2階の宴会場で開催しました。
Kan-haru日記新登場のカテゴリー「風景・風物詩」の東京百景としてトップを飾るには、この「山の上ホテル」は絵になり、とても素晴しく大変相応しいホテルです。今回は、山の上ホテルの雰囲気などに触れて見ます。


ホテルの所在地は、JR御茶ノ水駅から駿河台下の靖国通りに交わる明大通りの中程にある、明大のリバティタワーとアカデミーコモンの高層校舎に挟まれた所(周辺地図参照)にあります。明大通りから山の上ホテルへは、山の上ホテルの案内板のある坂道を登りつめて、周囲では最も高所の奥まった丘の上に立地した佇まいで、高層23階のリバティタワーアカデミーコモンに隣接していても、静かな環境には変わりなく、こじんまりしたホテルのあちこちに、素敵なアートや調度品がみつかるのも、時間がゆっくりと過ぎている昭和の時代にタイムスリップしたような居心地のよさを肌で感じます。

山の上ホテルの本館は、坂道を上り詰めた突き当たりにあり、道を挟んだ右手前に別館が建っております。米軍に接収されていた時の愛称「ヒルトップ」が、山の上ホテルの名前の由来で、建物にも掲示されてます。
本館1階にある「てんぷらと和食の山の上」は、創業時から「天麩羅屋」を引きついており気心の知れた人とカウンターに並んで、揚げたてのてんぷらをいただくのは通には乙なものです。
土曜日の昼下がりは、「コーヒーパーラー ヒルトップ」に三々五々年配のご婦人方が集まり、絵柄が違うコーヒーカップでコーヒーを味あいながら、落ち着いた雰囲気の中で昔の想い出話しにひと時を過ごすのに席が占められます。

私が明大工学部に通っていた頃は昭和27年(1952年)で、当時はまだ山の上ホテルは存在していませんでした。工学部は、周辺地図に示す様に駿河台からは秋葉原寄りの本郷通りに面した靖国通りの近くにありましたので、通学路はJR御茶ノ水駅の聖橋口からニコライ堂を見ながらの登校であり、しかも、当時の学生にとってはホテルには無縁な境遇でした。しかし、山の上ホテルは地形学的に見て、明治大学とは隣組の関係です。工学部出身のため文化人とは縁が遠いのですが、かって文化人が愛した山の上ホテルのバー「 ノンノン」や「モンモン」で、洋酒を楽しむ至福の時間が作れればいいなぁーと夢を見ております。

山の上ホテルの生い立ち
「山の上ホテル」の基になる建屋建築は、ホテルの資料によると、昭和12年(1937年)に建築家ウイリアム・メレル・ヴォーリス(米国人)氏の設計で、財団法人日本生活協会により、佐藤新興生活館「生活改善のための活動」の女性を対象にした欧米のマナーを啓蒙する施設として作られた、日本建築学会の重要建築に指定されております。
戦後建物は、米軍に接収され「ヒルトップ」の愛称で呼ばれて、陸軍婦人部隊の宿舎として使用されていました。
山の上ホテルの開業
昭和29年(1954年)、故吉田俊男社長により山の上ホテルが開業し、池波正太郎、山口瞳、三島由紀夫、松本清張、遠藤周作…そのほか、ここで筆をとった文学者や文化人たちに愛されてきたことでよく知られています。
「山の上ホテル」の魅力はよく、いぶし銀のような、と形容されます。作家たちが飽くことなく利用し続けてきた理由も、出版社が近かったという以上に、そのあたりにあったのでしょう。
山の上ホテル別館
昭和45年(1970年)に、本館の向かい側に別館を建築して、館内、客室に酸素とマイナスイオンを補給して、五感で「軽井沢の空気」を味わうことができる雰囲気にしてあります。
山の上ホテル本館改築
昭和45年(1970年)に、創業時からあった天麩羅屋の小屋を本館に移動されました。
現在、ロビーの周りにある煉瓦と並行してその上にある陶器の飾りは改築前のままにして、輸入桜を使用のロビーには、お得意様であった池波正太郎氏や山口瞳氏の絵が飾られております。

山の上ホテル物語 常盤新平著から
・東京の眞中にかういう静かな夜があるとは思わなかった。設備も清潔を極め、サービスもまだ素人っぽい処が実にいい。ねがわくは、ここが有名になりすぎたり、はやりすぎたりしませんやうに。三島由紀夫
・毎年、旧盆のころに夫人とともに一週間ほど山の上ホテルで休息をとっていた山口瞳にとって、このホテルが「一番」であった。〈一番だというのは一番上等だという意味ではない。一番好きだと言ったほうがいいかもしれない〉
・池波正太郎はことのほか山の上ホテルを「気持ちのよい宿」としてその晩年にしばしば利用し、ここでエッセーを書き、画を描き、神田神保町界隈を散策した。また、いかにもこの作家らしく、宿泊費用の預金通帳をホテルにあずけておいた。その通帳からホテルが引き落とすのである。

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大森町界隈あれこれ(K33) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第4回)

2006年07月09日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
東京大空襲の記録資料(8)
今回も、「海野十三敗戦日記」抜粋を記す。

八月十一日の日記から
○ 今日は宿題を検討する予定なりしが、それよりもソ連の参戦、原子爆弾のことの方が重大となったので、このことを検討する。
八月十二日の日記から
○ 朝、英(夫人)と相談する。私としてはいろいろの場合を説明し、いろいろの手段を話した。その結果、やはり一家死ぬと決定した。
 いかなる条件を付したかわからぬが、国体護持の一点を条件とするものらしいことが、新聞面の情報局総裁談などからうかがわれる。
八月十三日の日記から
○ 十日米英、首都において緊急会議開催と、朝刊が報じている。和平申し入れが討議されているものと思われる。
八月十四日の日記から
○ 万事終わる。
八月十五日の日記から
○ 本日正午、いっさい決まる(玉音放送)恐懼の至りなり。ただ無念。
しかし私は負けたつもりはない。三千年来磨いてきた日本人は負けたりするものではない。
○ 今夜一同死ぬつもりなりしが、忙しくてすっかり疲れ、家族一同ゆっくりと顔見合すいとまもなし。よって、明日は最後の団欒してから、夜に入りて死のうと思いたり。
 くたくたになりて眠る。
八月十六日の日記から
○ 死の第二手段、夜に入るも入手出来ず、焦虜す。妻と共に泣く。明夜こそ、第三手段にて達せんとす。

玉音放送 (Wikipedia玉音放送から)
昭和20年(1945年)8月14日、御前会議においてポツダム宣言受諾が決定され、これを受けて同日夜大東亜戦争終結ノ詔書(通称:終戦の詔書)が発布された。これを昭和天皇が肉声によって朗読したものを録音し、翌日正午よりラジオ放送する事で国民に対して敗戦、降伏を広く告げる事とした。当時より、敗戦の象徴的事象として考えられてきた。


若山武義氏の手記(1946年記述) 第3編「終戦前後(目黒にて)」第4回
ソ連に対する宣戦布告と結論
さあ、一億時宗だ。日蓮にでもなんにでもなれの命令に違いないと飛び立つばかりである。
 翌十五日、「読売報知」に何か重大放送の記事があるかと探して見た
 ○ 大本営発表 八月十三日十七時
   我が潜水部隊ハ八月十二日夕刻沖縄東南海面ニ於テ大型水上機母艦ヲ攻撃、之ヲ撃沈セリ
 ○ 大本営発表 八月十四日十時三十分
   我ガ航空部隊ハ八月十三日午後鹿島灘東方二十五里ニ於テ航空母艦四隻ヲ基幹トスル敵機動部隊ノ一群ヲ
   捕捉攻撃シ航空母艦一隻 巡洋艦一隻ヲ大破炎上セシメタ
即ち悪天候を冒して我が特攻隊出撃の戦果である。いよいよ我が軍の迎撃が本格化して来たな、と判断した。

一方ソ連は朝鮮雄基、海拉蘭で我が関東軍と激戦を報じ、特に羅津及樺太に新上陸を開始せり、とある。
裏面には、「出撃を待つ我が新鋭荒鷲群」と題し、基地に、出撃命令一下まさに羽ばたきせんとする新型荒鷲数百機の威容を誇る写真である。
隣組集まって、なけなしの頭をしぼっての判断は、これ等新聞記事よりして、この重大放送を
  ソ連に対する宣戦布告
と結論したのである。

日本開闢以来の玉音放送
八月十五日朝のニュースで、本日正午
  天皇陛下御直々に御放送遊ばされる
旨繰返しての放送である。
いよいよ来る処まで来たのである。先にイタリヤ倒れ、ドイツ壊滅し、我が国は全世界を相手に孤軍奮闘、今やソ連に宣戦し、最後の力戦に、一億の民に親しくこの国難に一層の奮励を望ませ給う重大放送であらう事と推想したのである。
我が隣組でも、なるべく早くごはんをたべて集まりましょうと打合せ、一番調子のよい高田さんのラヂオを廊下に持ち出し、服装を改め整列して、静粛に時間を待った。
天子さまの御言葉を承る、何事か知らぬがとにかくお国の運命に関する重大なる事を御自ら我々庶民に追う仰せ給う、ただ何となく緊張するのみである。

 正午
 「天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、畏くもおんみずから、大詔を宣わらせ給うことになりました、これより謹しみて玉音を御送り申します」
国家「君が代」が静かにマイクを流れる。やがて
 詔書
 御玉音で仰せ給う、この時からラヂオの調子が急に悪くなって、全身の神経を耳に集めたが、いらいらして調節してもよく聞こえぬ。ただ
  非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セント欲シ
  朕ガ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応ゼシルニ至レル
  堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ビ難キヲ忍ビ以テ万世ノ為メニ太平ヲ開カント欲ス
の処は力強く仰せ給わりハッキリと判ったが、あとは残念ながらわかりかねた。
 御玉音が終って再び「君が代」。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(6月分掲載Indexへ)
前回 大森町界隈あれこれ(K32) 手記第3編 終戦前後目黒にて(第3回) 
次回 大森町界隈あれこれ(K34) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第5回) へ
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大森町界隈あれこれ(K32) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第3回)

2006年07月07日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
東京大空襲の記録資料(7)
若山武義氏の手記に同期して、今回も「海野十三敗戦日記」を見ていきます。

八月九日(その一) の日記から
○ 去る八月六日午前八時過ぎ、広島へ侵入したB29少数機は、新型爆弾を投下し、相当の被害を見たと大本営発表があった。これは落下傘をつけたもので、五、六百メートル上空で信管が働き、爆発する。非常に大きな音を発し、垂直風圧が地上のものに対して働くばかりか、熱線を発して灼く。日本家屋は倒壊し、それによる被害者は少なくなかった。熱線は、身体の露出部に糜爛を生じ、また薄いシャツや硝子は透過して、熱作用を及ぼすのである。

八月九日(その二) の日記から
○ 「今九日午前零時より北満及朝鮮国境をソ連軍が越境し侵入し来り、その飛行機は満州及朝鮮に入り分散銃撃を加えた。わが軍は目下自衛のため、交戦中なり」とラジオ放送が伝えた。
ああ久しいかな懸案状態の日ソ関係、遂に此処に至る。それと知って、私は五分ばかり頭がふらついた。もうこれ以上の悪事態は起こり得ない。これはいよいよぼやぼやしていられないぞという緊張感がしめつける。

○ 夕刻七時のニュース放送。「ソ連モロトフ人民委員は昨夜モスクワ駐在の佐藤大使に対し、ソ連は九日より対日戦闘状態に入る旨の伝達方を要請した」由。事はかくして決したのである。
これに対し、わが大本営は、交戦状態に入りしを云うるのみにて、寂として声なしというか、静かなる事林の如しというか......
とにかく最悪の事態は遂に来たのである。これも運命であろう。二千六百年つづいた大日本帝国の首都東京が、敵を四囲より迎えて、いかに勇戦して果てるか、それを途中迄、われらこの目で見られるのである。
 最後の御奉公を致さん。

八月十日の日記から
○ 今朝の新聞に、去る八月六日広島市に投弾された新型爆弾に関する米大統領トルーマンの演説が出ている。それによると右の爆弾は「原子爆弾」だという事である。
 あの破壊力と、あの熱線輻射とから推察して、私は多分それに近いものか、または原子爆弾の第一号であると思っていた。
......
 戦争は終結だ。

原子爆弾 (Wikipedia原子爆弾から)
広島市:1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分。原子爆弾リトルボーイは、第33代アメリカ合衆国大統領、ハリー・S・トルーマンの原子爆弾投下への決意(トルーマンの日記に7月25日夜投下決意の記載あり)により発した大統領命令を受けたB-29(エノラ・ゲイ)によって投下された。爆心地は、市街地中心部の細工町の広島県産業奨励館の東約200メートルで、爆心地から1.2kmの範囲では8月6日中に50%の人が死亡し、1945年12月末までに14万人が死亡したと推定されている。
長崎市:1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分。原子爆弾ファットマンが、B-29(ボックスカー)によって市北部に位置する松山町171番地のテニスコート上空に投下された。即死は推定3万5千名で、最終的には7万名以上が死亡した。

ソ連参戦 (Wikipediaヤルタ会談から)
1945年2月にソ連クリミア半島のヤルタで行われた、ルーズベルト(米)、チャーチル(英)、スターリン(ソ連)による首脳会談(ヤルタ協定)の極東密約で、ルーズベルトは、千島列島をソ連に引き渡すことを条件に、ソ連の対日参戦を求め、これが協定の形にまとめられた。協定では、ドイツ降伏の2~3ヵ月後にソ連が日本との戦争に参戦すること、樺太(サハリン)南部をソ連に返還すること、千島列島をソ連に引き渡すことなどが決められた。
ソ連は、ドイツ降伏3ヵ月後に日本に宣戦布告。広島に原爆投下されても、なおも抵抗を続けていた日本軍は、ソ連参戦の翌日にポツダム宣言受諾を決めた。


若山武義氏の手記(1946年記述) 第3編「終戦前後(目黒にて)」第3回
原子爆弾投下
我々庶民は、新聞、雑誌、ラヂオ以外に世間の様子は皆目わからないが、こうした新聞記事によって、最後の五分の必勝の信念は疑わない、必ず近いうちに痛快な快勝に勇壮な軍艦マーチを聞く事を夢にまで待って居るのであるが、反面亦不安少なしとせぬ。負けるも運命だ、勝つのも運命なら、一つ、一か八かと大勝負をして我々を一刻も早くあきらめさせて貰いたいなと云う焦慮が現れる事もある。

毎日の様にB29から宣伝ビラが散布される。手に持つな、読むな、届け出ろと云われても、好奇心で読まざるを得ぬ。届けは面倒だから手軽に焼いてしもう。デマは聞きたくもないけれど乱れ飛ぶ。八月に入るとデマとばかり想わぬ事もある。処に広島、長崎に投下された爆弾は世にも恐るべき原子爆弾と知って驚愕した。
初めは、公の発表は、新型は新型でも大したものではないとあったけれど、科学に殆ど無知な我々でも、マッチ函一つで戦闘艦を粉々にする威力があると何時かの貴族院の田中舘博士の演説を思い出さぬ訳にはゆかぬ。

  ピカッ! ドカン!
と来たら、逃げようがかくれようが一巻の終りである。どうせ人間一度は死ぬんだ、まさか百年とは生きられない、あとやさきに死ぬより、親子諸共死ぬのである、おまけにそれも隣組のみんなといっしょなら、地獄に行っても淋しくはないとヤセ我慢は云うものの、どうにもならぬ恐怖。それからは夜中の警報にも起きない、ねたまんま、このままドカンと来た方が本望だ位に、あきらめられぬとあきらめてしまった。

ソ連参戦
  そこにソ連の宣戦
畜生やりやがったな、ただむざむざとくたばるのもおもしろくない、こうなったら暴れるだけ暴れて死にたいもんだ。本当に生か死の 
  大号令が出そうなものだ
なと、期待したものは我れ一人ではあるまい。必ず大号令の出るものと予期した八月十四日晩
 「明日重大放送がある」
との予告である。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(6月分掲載Indexへ)
前回 大森町界隈あれこれ(K30) 手記第3編 終戦前後目黒にて(第2回) 
次回 大森町界隈あれこれ(K33) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第4回) 
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大森町界隈あれこれ(K31) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第2回)

2006年07月05日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
前回の日記(7月3日)にもちょっと触れましたが、北朝鮮が懸念していた弾道ミサイルを7月5日未明から続けさまに6発を日本海に向けて発射しました。
世界の平和にキナ臭いにおいが漂い初めました。kan-haru日記のカテゴリー「大森町界隈あれこれ 空襲」シリーズの若山武義氏手記のこの日記は、ご遺族のご提供による悲惨な戦争の戦災体験を赤裸々に記述されたもので、貴重な記録を関連資料とともに編集して掲載しております。
このシリーズ掲載の理由は、私が国民学校(今の小学校)時代に望まない学童疎開などの戦争体験を受けた者として平和の尊さを誰よりも認識しており、戦争を知らない世代が80%を超え風化しつつある現在、平和の守りを後世に語り継ぐ必要があると考えて連載しております。
今回の連載を交えて、今までに次の連載を掲載してあります。この記事に触れお読みになられ方は、お知り合いにご紹介を頂き、二度と過ちを繰り返さないで平和の継続が維持できることを希望しております。
 ・東京大空襲~あれから61年~(その1、2) まえがき
 ・大森町界隈あれこれ 鎮魂! 大森町大空襲(第1~11回) 若山武義氏手記第1編
 ・大森町界隈あれこれ 手記第2編 戦災日誌中野にて(第1~7回)
 ・大森町界隈あれこれ 手記第3編 終戦前後目黒にて(第1回~)  連載継続中

東京大空襲の記録資料(6)
大空襲記録資料は、前々回に続き「海野十三敗戦日記」について紹介します。
空襲都日記(第一部)は、五月一、二日の日記にて終了となり、五月三日から「降伏日記(空襲都日記第二部)」となります。
若山武義氏の手記と同期して、海野十三降伏日記(空襲都日記第二部)から抜粋し記述してみます。
六月十日の日記から
「四月十六日以後一ヵ月間は、沖縄作戦を有利に導くため戦略爆撃を主として、九州、四国方面の航空基地、あるいは航空機工場を目標としていたが、五月十四日以降再び大都市無差別爆撃を開始し、戦略的効果をねらうに至り、五月十四日、十七日名古屋に、二十三、二十五日東京、二十九日横浜に来襲した。

四月十六日から五月三十一日までの空襲で、皇居、赤坂離宮、大宮御所も災厄を受けたが、大宮御所の場合は夜間爆撃とはいえ、月明の中で広大な御苑の樹林、芝生のほとんど全部が焼けただれるほどに焼夷弾を投下したことは、単なる無差別爆撃でなく特別な意図を抱く行為であることは明らかである。」

七月十四日の日記から
○沖縄は去月二十日を以って地上部隊が玉砕し、二十六日にはそれが発表された。「天王山だ、天目山だ、これこそ本土決戦も関が原だ」といわれた沖縄が失陥したのだ。国民は、もう駄目だという失望と、いつ敵が上陸して来るか、明日か、明後日か、という不安に駆りたてられている。

当局はそれに困ってか、沖縄は天王山でも関が原でもなかった。そんなに重要ではない。出血作戦こそわが狙うところである――という風に宣伝内容を変えてもみたが、これはかえって国民の反感と憤慨とを買った。そんならなぜ初めに天王山だ、関が原だといったのだと、いいたくなるわけだ。

沖縄戦
沖縄戦については、沖縄市ホームページの「平和の発信都市 那覇市」内の「沖縄戦の概説」で沖縄戦の概要が見られます。
それによると、沖縄戦は、1945年の3月下旬から8月までの戦いをいい、1944年10月10日に空襲があり、旧那覇市街の90%が消失し首里城の司令部も焼ける。司令部が首里陥落目前に、南部に撤退したため、多くの住民が戦闘に巻き込まれた。沖縄戦の主戦場は、南部ではなく、米軍の上陸地点から首里城までが主戦場であり、この間10キロを進むのに50日かかり、日本兵の死者は1日あたり千人以上にのぼり、10万人の主戦力守備軍の7割の兵力を失う、太平洋戦争で最も激しい戦いでありました。


若山武義氏の手記(1946年記述) 第3編「終戦前後(目黒にて)」第2回
鈴木内閣誕生
大命は日清、日露歴戦の勇将の鈴木大将に降下し新に首相の印綬をおびて登場したのである。洵に無色透明な人格者、なるほど此の人でなくては、此の危機に軍にも官にもにらみのきく人は他にあるまい。政治はきらいと我がままを云わせられぬ程度危急の時局である。
忠誠至純の人柄に先ず我々は安心したのである。東条内閣の如き暴政は為ないし、小磯内閣の如き愚政は致すまい。鈴木老提督の下に全国民初めて結束し得ると。

而して、其の初の臨時議会の施策演説に首相として
「今日、アメリカは我に対し無条件降伏を揚言して居る、かくの如きは、正に我が国体を破壊し、我が民族を滅亡せしむるものである、我々としては今一段の努力である、敵国内の情勢の動向を推し、又国際情勢の機微を察するに、我々としては、ただ此の際、あくまでも戦い抜く事が、戦椗への最も手近なる方法である」、と
 阿南陸相は更に勇敢に
 「今日に於いて、勝利を疑い遲疑する人は、勝利を信ぜざる人である、勝利を信ぜざる人は、勝利を自ら放棄する人である、戦局の推移誠に不利の時、必勝を不動の信念として、我等は国民に告ぐるものである」と
 米内海相曰く
 「最後の勝利は、総力を結集して、最後の五分間を最もよく戦い抜きたるもののみが獲得する」と
「最後の五分」は開戦以来、聞きあきる程聞いた言葉であるが、今日此の情勢は、真実なる意味のこもる五分である。平凡な言葉ではあるが、今日一徳一心、茲に最後の五分を頑張り抜かねばならぬ時が刻々到来しつつある此際、ただただ我々は政府を信じ、其の指揮命令に忠実に服従するより他に道はないのである。

敵の空襲は益々激烈となる。敵の機動部隊は我が本土近海を暴れ廻る。如何に沖縄を失い此の上は本土決戦となるにしても、無抵抗主義なのかと国民がいらいらして来た。此の事に付き内閣記者団が鈴木首相に
 「アメリカの我が本土に対する機動部隊の艦砲射撃、B29の熾烈なる空襲に対し、積極的な対戦を為して貰いたいとの気持ちが国民の中に見受けられる」
との質問に対し、首相は
 「参謀、軍令両総長から、軍としては策する所があるので、其の考えの下に作戦をしているのだから、今暫く見ていて頂きたいとの事である。故に私も国民の思惑に係わる事なく、作戦遂行に最善を尽くされたいと意見を申した次第である、国民諸君に於かれても、軍をしてこの力強き作戦に後掲の憂いなく遂行出来る様御協力を切望する」と。

敵の空襲は益々激烈となる。敵の機動部隊は我が本土近海を暴れ廻る。如何に沖縄を失い此の上は本土決戦となるにしても、無抵抗主義なのかと国民がいらいらして来た。此の事に付き内閣記者団が鈴木首相に
 「アメリカの我が本土に対する機動部隊の艦砲射撃、B29の熾烈なる空襲に対し、積極的な対戦を為して貰いたいとの気持ちが国民の中に見受けられる」
との質問に対し、首相は
 「参謀、軍令両総長から、軍としては策する所があるので、其の考えの下に作戦をしているのだから、今暫く見ていて頂きたいとの事である。故に私も国民の思惑に係わる事なく、作戦遂行に最善を尽くされたいと意見を申した次第である、国民諸君に於かれても、軍をしてこの力強き作戦に後掲の憂いなく遂行出来る様御協力を切望する」と。

沖縄陥落
敵の空襲は益々激烈となる。敵の機動部隊は我が本土近海を暴れ廻る。如何に沖縄を失い此の上は本土決戦となるにしても、無抵抗主義なのかと国民がいらいらして来た。此の事に付き内閣記者団が鈴木首相に
 「アメリカの我が本土に対する機動部隊の艦砲射撃、B29の熾烈なる空襲に対し、積極的な対戦を為して貰いたいとの気持ちが国民の中に見受けられる」
との質問に対し、首相は
 「参謀、軍令両総長から、軍としては策する所があるので、其の考えの下に作戦をしているのだから、今暫く見ていて頂きたいとの事である。故に私も国民の思惑に係わる事なく、作戦遂行に最善を尽くされたいと意見を申した次第である、国民諸君に於かれても、軍をしてこの力強き作戦に後掲の憂いなく遂行出来る様御協力を切望する」と。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(6月分掲載Indexへ)
前回 大森町界隈あれこれ(K30) 手記第3編 終戦前後目黒にて(第1回) 
次回 大森町界隈あれこれ(K32) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第3回) 
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大森町界隈あれこれ(K30) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第1回)

2006年07月03日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
東京大空襲の記録資料(5)
若山武義氏手記は、これまで次の2編の手記を連載して参りました。
 ・大森町界隈あれこれ 鎮魂! 大森町大空襲 第1回~第11回
 ・大森町界隈あれこれ 手記第2編 戦災日誌中野にて 第1回~第7回
大森町と中野の2ヶ所で戦災にあい住まいは灰燼にきしました。今回からタイトル記載の「手記第3編 終戦前後目黒にて」を掲載します。第3編は、アメリカの空襲はますます熾烈を極め、敗戦色が濃厚となって行く中、庶民は必勝の信念を疑わず政府を信じ忠実に服従して竹槍で立ち向かう気概を持つが、原子爆弾の投下、ソ連の参戦、1945年8月15日の天皇陛下の玉音放送で終戦を迎え、そして戦後の混乱期を体験する一庶民として翻弄された様子がありありと記述されております。

私も、この時期を国民学校(現在の小学校)生として茨城・栃木県で疎開生活を送り、大森町での空襲には直接遭遇しませんでしたが、若山武義氏の手記を読むと、東京の空襲での死傷者が21万5千人以上、戦災家屋が82万3千以上、羅災人口301万4千人以上の悲惨な被害を蒙った何と無謀な戦争に突入したのでしょうか。国民のあずかり知らぬところで戦争が始まり、「赤紙」一枚で戦前に繰り出され、残酷な戦禍の犠牲を強いられたのは罪のない庶民です。今後、この様な過ちを二度と絶対繰り返してはならないのです。最近、北朝鮮ではテボドン2号の発射準備をしているきな臭いニュースが伝えられているなか是非、この若山武義氏の手記に触れられた方は、平和の維持の継続を願うために皆様に紹介して語り継いで頂きたいのです。

なお、「大森町界隈あれこれ 手記第2編 戦災日誌中野にて(第5回6回7回)」で紹介記載しました、作家海野十三(うんの じゅうざ)氏の見た東京大空襲の記録「海野十三敗戦日記」に付きましては、次回の「東京大空襲の記録資料」にても記述して参りますが、「青空文庫」の「海野十三敗戦日記」からダウンロードして読むことができます。今、すぐ読みたい場合には、ここをクリックすると読むことができます。


若山武義氏の手記(1946年記述) 第3編「終戦前後(目黒にて)」第1回
熾烈な横浜爆撃から地方都市爆撃に指向
サイパン、テニヤン、グァムの三島を結ぶ敵空軍の基地は益々強化され、敵将ルーメーが豪語せる如く、総兵力を挙げて、大阪、神戸、名古屋、静岡を徹底的に爆撃してより、息をもつかせず、B29 五百五十機の大編隊で五月二十五日夜帝都に来襲、畏くも宮城、大宮御所を初め都内に極めて広範囲に亘り爆撃を加え、我等も亦中野にて再度の戦災に合うたのである。
更に五月二十九日早朝、硫黄島を基地とするP51百機を伴うB29 五百機のかってなき大編隊で、それ迄は殆ど無疵同様の横浜を爆撃し、一瞬に廃墟と化せしめた。敵ながら恐るべき威力である。

三十日朝中野の町会に戦災見舞品をとりに行くと「電報が来てる筈ですよ」との事で、多数の信書からさがし出した一通の電報は
  「応募、三十日、横須賀に往く、後頼む、大森」
あっと驚いた。祖国の危急に召され、妻子七人を残して征途に就く、義弟の心情を想う。此の厳しき戦争の現実に直面して、今更何を考え、何を案じようや、我等も亦竹槍とって戦うべき時が正しく来たのであると、電報をにぎり意気悲壮に興奮するのみである。
敵は横浜を一挙に灰燼にして後は、地方都市爆撃に指向し、虱つぶしに威力を振るう。毎日毎夜空襲警報が、二度、三度発令されぬ日とてはなくなった程頻繁激化し此の間十数種の宣伝ビラを散布、軍民離間策に、国民の厭戦思想喚起に、執拗なる宣伝を開始し始めたのである。

本土への艦砲射撃開始により竹槍で対抗
これと表裏して、一方敵の機動部隊は、いよいよ我が本土に近接し、大胆不敵にも、北は室蘭、釜石、日立、帝都の玄関先き外房州白浜まで艦砲射撃を加へ、我々には頗る苦手である厄介千万な艦上機を飛ばして、帝都周辺を毎日のように波状攻撃して来たのである。
最後のこの一戦で勝期をつかむ事と予期せし沖縄戦も、もろくも茲に攻略せられ、いよいよ本土決戦、文字通り真に皇国の興廃を賭する、奴隷か死の関頭に立ち、今や全国に大量に動員され、本土到る処要塞化、国民総決起、総訓練、いよいよ我等の竹槍の秋となったのである。

東条暴政軍閥内閣がサイパン失陥で退却し、朝鮮の虎小磯内閣を組織し、する事為す事後手ばかり、レイテ天王山の掛声だけは名調子でも、木炭自動車と批判され、国民の期待に反し硫黄島失陥で辞職を余儀なくされた。さて、誰れ、何人が此の危機重なる難局負荷の重責の任に当たるであろうかと、全国民の関心を茲に集めたのである。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(6月分掲載Indexへ)
前回 大森町界隈あれこれ(29) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第7回) 
次回 大森町界隈あれこれ(K31) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第2回) 
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番外編 カテゴリー別ブログ記事の通番付与方法変更 [付 kan-haruの日記6月月間INDEX]

2006年07月01日 | INDEX
K&A kan-haruの日記の月間INDEXは、毎月1日付けで掲載しております。
K&A kan-haruの日記も、カテゴリーが増加し、カテゴリー毎に充実して日記の連載も増してきております。

日記には、カテゴリー毎に連番号の一意の通番を付与し、整理しております。
「大森町界隈あれこれ」シリーズのカテゴリーは、複数のサブタイトルを持っておりますが、サブタイトルとは関係なく一意の通番を付けています。このため、サブタイトル毎の日記の通番は、連続性がなく飛番号となり、日記の繋がりが判りにくくなっております。

これより、7月1日付けの日記から、「大森町界隈あれこれ」のカテゴリー通番の付与を、サブタイトル毎に異なるアルファベット1文字と数字連番を組み合わせた形とします。連番数字は、6月までの日記との連続性を配慮して「大森町界隈あれこれ」シリーズのカテゴリーの通番は、アルファベット+30番から付与します。

kan-haruの日記 6月 月間カテゴリ別INDEX
INDEX上の日記をクリックすると、当該ページが表示されます。INDEXに戻る場合には、ブラウザのメニューの「戻る」をクリックします。

[大森町界隈あれこれ 大森町大空襲] 連載20回掲載
東京大空襲~あれから61年~(その1) まえがき3月10日
東京大空襲~あれから61年~(その2) まえがき3月11日
大森町界隈あれこれ(8) 鎮魂! 大森町大空襲(第1回)  初回4月13日
(9)第2回、(10)第3回、(11)第4回、(12)第5回、(13)第6回、(14)第7回、(15)第8回、(16)第9回、(17)第10回、(18)第11回、
大森町界隈あれこれ(19) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第1回)  第2編初回5月25日
大森町界隈あれこれ(23) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第2回)  5月25日
大森町界隈あれこれ(25) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第3回)  6月8日
大森町界隈あれこれ(26) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第4回)  6月11日
大森町界隈あれこれ(27) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第5回)  6月13日
大森町界隈あれこれ(28) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第6回)  6月18日
大森町界隈あれこれ(29) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第7回)  6月20日

[大森町界隈あれこれ 大森町に65年] 連載6回掲載
大森町界隈あれこれ(1) 大森町に住んで65年!(その1)  初回3月19日
(2)その2、(3)その3、(4)その4、(6)その5、(7)その6、

[大森町界隈あれこれ 大森町の社寺] 連載4回掲載
大森町界隈あれこれ(20) 大森町の社寺(1) 諏訪神社その1 初回5月28日
 (21)諏訪神社その2、(22)諏訪神社その3、
大森町界隈あれこれ(24) 大森町の社寺(2) 浅間神社 6月6日

[大森町界隈あれこれ 大森海苔物語] 連載1回掲載
大森町界隈あれこれ(5) 大森海苔物語(1) プロローグ  初回4月3日

[小さな旅] 連載10回掲載
小さな旅(1) 秩父長瀞の蝋梅と火祭り 初回3月12日
(2)菩提寺墓参、(3)清澄庭園・深川江戸資料館、(4)京都日帰り桜・花見 その1、
(4)その2、(4)その3、(4)その4、
小さな旅(5) 旧古河庭園 6月15日
小さな旅(6) 矢切の散歩道(野菊の墓) その1 6月27日
小さな旅(6) 矢切の散歩道(野菊の墓) その2 6月29日

[イベント] 連載2回掲載
春の花とアルス五重奏団コンサート 初回4月11日
  土と木とメルヘンな鉛筆画のぬくもり三彩展を鑑賞、

[IT] 連載4回掲載
パソコンは、いつでもまともに動くとは限らない  初回4月21日
 パソコンは突然に機嫌が悪くなる、
トラブル多頻発で、奮闘に追われる我が家のパソコン その1 6月22日
トラブル多頻発で、奮闘に追われる我が家のパソコン その2 6月25日

[秋葉原界隈] 連載5回掲載
秋葉原界隈(その1)  初回3月9日
  秋葉原界隈その2、秋葉原界隈その3、続・秋葉原界隈(1)秋葉原クロスフィールド完成、
  続・秋葉原界隈(2) 秋葉原UDXに昔懐かしい「須田町食堂」が、

[Weblog] 連載1回掲載
kan-haruのgooブログ日記 初回3月8日

[INDEX]
番外編 ブログ記事の参照地図を拡大して見る方法 [付 kan-haruの日記3月月間INDEX] 初回4月1日
  4月月間INDEX、
番外編 カテゴリー別のブログ記事を連続して読むには [付 kan-haruの日記5月月間INDEX] 6月1日

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(6月分掲載Indexへ)
前月 kan-haruの日記5月月間INDEX 
次月 kan-haruの日記7月月間INDEX 
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