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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第3回

2007年02月25日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

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学童疎開
学童疎開とは、大戦末期において米軍による本土爆撃に備え、大都市の国民学校初等科学童をより安全な地域に一時移住さることを云います。当初は、個人的な縁故疎開が原則でしたが、1944年(昭和19年)6月30日付の閣議決定「学童疎開促進要綱」により、縁故疎開に依り難い国民学校初等科(現在の小学校)3年生から6年生の学童の集団疎開を実施したのです。
その後、1945年(昭和20年)3月に、激化する本土空襲に対処して、「学童疎開強化要綱」を閣議決定し、国民学校初等科3年生以上の全員疎開と1・2年生の縁故疎開・集団疎開を強力に推進し、「根こそぎ疎開」を実施し8都市の41万1,360人の集団疎開が行われました。なお、この時高等科の児童についても、可能なかぎり縁故疎開をすすめました。
5月には、B29爆撃で92都市焦土化の拡大により、危険地帯からの再疎開・未疎開の中小都市も学童疎開が実施されました。

私の疎開体験は、「大森町界隈あれこれ(8) 鎮魂!大森町大空襲(第1回)参照」と「大森町界隈あれこれ(K35) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第6回)参照」に触れておりますが、縁故疎開で1944年に茨城県岩瀬町の借間で母と疎開生活に入り、その後栃木県の遠い親戚の農家にお世話になり、もう一組の疎開の親子との三世帯の共同生活の体験をしました。疎開生活の惨めさは、いまだに忘れることが出来ないもにで、触れたくない想いが強いため疎開記録は現時点では残さないことにしております。

疎開の引き揚げ
1945年8月の無条件降伏による敗戦で、東京都では学童集団疎開を昭和21年3月まで継続する方針を示しました。
学童集団疎開の引き揚げの第一陣は、10月10日に東京に到着し、11月末までには大部分が帰京しました。翌年3月には、神田・日本橋・京橋区などの集団疎開学童が帰京しました。私は、前回記述の通り夏休み中に帰京しました。

戦後の国民学校通学環境
帰京後の国民学校は、大森六丁目の通学区である大森第一国民学校が、1945年4月15日の大森町大空襲の爆撃により戦災して灰燼(「大森町界隈あれこれ(15) 鎮魂!大森町大空襲(第8回) 」参照)に帰しましたので、戦災を辛うじて免れた隣接の大森一丁目にある大森第五国民学校を間借りして授業が行われました。
仮住まいの住居からの通学(地図再掲参照)は、周辺住宅20世帯ばかりの焼け残り地域の住居⑩から、内川⑲を渡り美原通り(現三原通り)⑧の内川橋⑳脇を京浜国道(現第一京浜国道)②の合流点まで北上して、右折すると東京湾に接したところに大森第五国民学校⑫があります。

当時の通学路の環境は、日本特殊鋼⑱と大森瓦斯会社⑰の両社が大きな戦災に会わず建物が残り、入新井第五国民学校⑮から北部の街区も、戦災を免れて住居が残ることができました。
地図の白色部分は全て灰燼により焼け野原で、入新井第五国民学校⑮から南部の澤田通り(現環七通り)④の南北、京浜国道②の東西、産業通り③の東西や内川の南北は、蒲田から六郷に至るまで建物は何も無く、京浜電鉄(現京浜急行)①の大森山谷(現大森町)駅⑦も戦災で消失しました。
毎日の通学路は、見渡しが良い焼け野原を見ながらの通学で、時たまアメリカ軍のジープやトラックがスピードを出して京浜国道を通過するという、今では想像もつかない何とも異常な時代でした。とにかく、9月から戦後の国民学校新学期がこのようにして始まりました。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) マッカーサーの進駐 第3回

民主主義
進駐軍では将官級の人でも一人で自らジープを運転して、兵隊さんに伍して疾走して居る。我が閣下級なら必ず副官がつき、専門の運転手が運転してる。途中で閣下が居ようが、上官が居ようが、アメリカの兵隊さんは敬礼一つするではない。平気で嬉々として談笑して居る。
然し公式の時は別だ。全く秩序整然として美事である。愛敬に充ちた欣然たる態度で敬礼をする。無秩序のようで秩序あり、これが形式にこだわらぬ本式の民主主義であろう。我が一つ星の兵隊さん、たまさかの休みの外出は、同僚は勿論星一つ兄貴にも、シャチホコたって敬礼する、右を見ても左を見ても挙手注目の仕通しであり、分秒の油断もすきもない。うっかり忘れたら大変、公衆の面前であろうがなんであろう共、ビンタの制裁である。初年兵はビンタのもらい通し、二年兵になって、今度は兄貴となって初年兵をなさけのビンタで教育する。

彼我の差
今は解体してなくなったが、世界に精強を誇った皇軍は、此のような不文の制裁制度がなくては、其の階級と秩序を維持する事が出来なかったと今更ながら不思議に思う。之に反しジープにガールを同乗させて疾走するアメリカ兵と比較して国民性の相違とばかり片付けられぬものがあると思う。
総て能率的な速度、働く時は真剣に働く、遊びと休憩は徹底的に、其の生活は僅かの無駄がない。平等の内に秩序あり、差別の内に平等あり、我等真に今後学ぶべき処あまりにも多い。

進駐軍としてアメリカの兵隊さんに来てもらった事は一番我等は幸福であった。「民主主義は輿論の政治である。菓子にせば、カステーラあり、栗まんあり、羊かんありである。全体主義は英雄も統制主義である。ビスケットであり、乾パンである」とある人の言である。ファッショのムッソリニーもろくも朽木の如く倒れ、梟雄ヒットラーのナチスも、順調の時は真に東西南北を敵にして、破竹の勢華々しく戦ったが、大勢に抗しかね、遂に首都ベルリンに悲惨にも矢盡き刀折れ、其の最後は悲壮であった。我が英雄東條閣下は、輿論を無視し、人情を無視し。統制の為め統制し、所轄自暴自棄、自殺し損ねて今囹圄の身となり、戦犯の首隗として世紀の審判を受けつつある。

戦時中は、民衆は全く見ざる、聞かざる、云わざるの三猿主義であった。「物云えば唇寒し秋の風」処の沙汰ではない、強烈な圧制である。議会人に中野正剛先生のような剛骨の士が今三、四十人もあってくれたら、負ける戦争にしてももっと立派な負け方があった事と思う。特に「太平洋の橋」と自任して終生日米親善に尽くされた新渡戸博士、野口博士等々御健在であってくれたらと、今更痛感漢されるものである。

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