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kan-haruの日記

イベント 東京藝術大学大学美術館 鶯谷から上野まで古寺・古建築を巡り夏目漱石の美術世界展を見るその5

2013年08月29日 | イベント
kan-haru blog 2013 人形供養碑     

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昔を追い上野の山の散策
東京藝術大学大学美術館で、夏目漱石の文化と美術に関する展示会を観賞したので、往時の寛永寺跡の面影を忍んで、上野の山を散策し130周年を迎えた上野駅を見て帰宅しました。
かっての寛永寺は約30万5千坪の寺地を有しており、寛永時代に現東京国立博物館敷地に寛永寺本坊が建立され、元禄時代に今の上野公園大噴水のあるあたりに本堂の根本中堂が完成し、清水観音堂、不忍池辯天堂、 五重塔、開山堂、大仏殿などの伽藍が競い立っていました。上野の山は、幕末の慶応4年に彰義隊の戦の戦場となり、根本中堂をはじめ主要な堂宇は焼失し寛永寺は、明治政府によって境内地が没収されました(その1参照)。

 上野戦争(左:上野戦跡 平凡社「鹿鳴館秘蔵写真帖」よりWikipedia Link、右:上野戦争の図(本能寺合戦之図) 歌川芳盛 明治2年Wikipedia Link)

・上野恩賜公園の変遷
明治政府によって没収され寛永寺の境内地の変遷を追うと、1873年(明治6年)に太政官布達で、上野の山一帯を日本最初の公園に指定され、1876年(明治9年)に東京府から内務省博物局に移管され、1882年(明治15年)には上野動物園が開園しました。1890年(明治23年)にはうえの公園が宮内庁に移管され、1923年(大正13年) 東京市に下賜され上野恩賜公園となりました。

 上野恩賜公園散策地図

・上野の森を歩く
東京藝術大学大学美術館を後に、都道452号を東京国立博物館正門前に戻ると、平成24年に道路南側に接した竹の台広場には、東京都が新名所の噴水を完成させました。竹の台の名前は、噴水のあるあたりに寛永寺の根本中堂が建立されており、正面の両側には、竹の台(うてな)が配置されていたことにより竹の台と称しています。

 上野恩賜公園噴水(㈱ウォーターデザインLink)

噴水のところで右折し上野の森を縦断して進むと、右側に花園稲荷神社(台東区上野公園4-17)の鳥居が見えてきます。創祀の年月は不祥で、1654年(承応3年)に天海大僧正の弟子、本覺院の住僧、晃海僧正が廃絶していたお社を再建し上野の山の守護神とし倉稲魂命を祀られています。幕末には彰義隊の戦では激戦地となり、1873年(明治6年)に再興され、花園稲荷と改名し社殿も南面にて造営され神苑も一新されました。花園稲荷神社に接して五條天神社があり、創建は伝景行天皇朝の時期で、幾度か社地を転々とした後、1928年(昭和3年)に現在地に遷座され、祭神は大己貴命、少彦名命、菅原道真公が祀られています。(「風景・風物詩 初詣風物詩 上野五條天神社、不忍池弁天堂と飯田橋東京大神宮」参照)

 花園稲荷神社と五條天神社(左:花園稲荷神社0823、右:五條天神社20090104)

神社を後に進むと、左方に天海僧正毛髪塔が見えてきます。天海大僧正は、1643年(寛永20年)10月2日に百八歳で示寂(じじゃく)され、諡号(しごう)は慈眼大師と称します。墓所は日光山輪王寺に造られ、寛永寺には弟子の晃海(こうかい)が供養塔を建立し、後に伝来していた毛髪を納めた宝塔を建立され、都指定旧跡です。

 天海僧正毛髪塔(0823)

宝塔を先に進むと、博士王仁碑が二基建立されています。王仁博士は「古事記」によると、古墳時代の前半に渡来して、「論語」・「千字文」を伝えた学者であり、後に帰化したとされており、その子孫は文筆をもって朝廷に仕えたといわれます。「博士王仁碑」の二基は、1940年(昭和15年)と1941年(昭和16年)に建立されました。

 博士王仁碑(0823)

・清水観音堂
天海僧正は上野の山に寛永寺を建立時に、天台宗の最高権威だった比叡山延暦寺をモデルとしました。
清水観音堂(国指定重要文化財)は、1631 年(寛永8年)に上野の山の中ほどの摺鉢山(東京文化会館西側の岡)に、京都の清水観音堂がモデルにして建てられた寛永寺の伽藍の一つです。本堂正面を舞台づくりとし、不忍池の景色を眺められるようにしました。

 舞台づくりの清水観音堂(0823)

その後の1694 年(元禄7年)に清水観音堂は、上野忍ケ岡にあった幕府学問所の焼失跡の現在地に移り、上野の山に現存する創建年次の明確な最古の建造物です。本尊は、比叡山の恵心僧都の作といわれる千手観音菩薩(国指定重要文化財)が祀られています。本堂は、安永年間に改築されたが、上野の戦争、大正大震災などいく度かの災火の難をまぬがれて残された、歴史をかいくぐった貴重な建物です。

 清水観音堂(左:花園稲荷神社方から見た観音堂、右:観音堂正面0823)

本堂内右手前には、座布団の上に「びんずる尊者」が御安置されており、昔からおびんずる様の体を触って、その手で自分の体を撫でると、病気が治って頭も良くなり、節々の痛みも軽くなるといわれ、深く信仰されています。また、堂内に掲げてある絵馬や額も寛政、天明期の古いもので、平家物語にちなんだ「盛久危難の図」「千手観音」などがあり、明治期の画家五姓田芳柳の描いた「上野戦争図」も人目をひきます。

清水観音堂の舞台の前には、江戸時代の浮世絵師、歌川広重が描いた名所江戸百景「上野清水堂不忍池」と「上野山内月の松」が、約150年振りに復活しました。

 歌川広重 名所江戸百景(左:上野清水堂不忍池1856年(安政3年)、右:上野山内月の松1857年(安政4年))

「月の松」は、明治初期の台風で消失したままとなっていたが、2013年1月17日に除幕式が行われ、3月には公園整備事業の一環として月の松の下にある桜を移設して、月の松から不忍池弁天堂が見えるように整えられました。

 清水観音堂と「月の松」(0823)

しかし、名所江戸百景の「上野山内月の松」の絵は、不忍池の中島弁財天に下りる石段の直線上にこの松があり、月の松の円形中に遠く本郷台の町並みを覗かせるという構図をとり、中島弁財天は右下に見えます。

 約150年振りに復活した「月の松」(0823)

なお、清水観音堂では、毎年9月25日は人形供養大法要が行われます。人形供養は、本堂右壇に御安置する「子育観音」に、人々が心願成就のお礼としてお子様の身代わりを奉納し御供養したことが始まりで、今日では心の安らぎを得たり愛情を注いできた人形を、報恩供養するようになったのが人形供養大法要で、人形を回向し供養の碑(Top写真参照)が建てられました。

 人形供養大法要施行の看板(0823)

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毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(8月分掲Indexへ)
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イベント 東京藝術大学大学美術館 鶯谷から上野まで古寺・古建築を巡り夏目漱石の美術世界展を見るその4

2013年08月25日 | イベント
kan-haru blog 2013 橋口五葉「吾輩ハ猫デアル」続編装幀画稿       

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夏目漱石の美術世界展(続)
・第3章 文学作品と美術「草枕」「三四郎」「それから」「門」
このコーナーでの展示絵画は、漱石の代表作の「草枕」「三四郎」「それから」「門」に登場する数々の漱石美術の世界の絵19点が見られました。
草枕(明治39年発表)」(←ここをクリック「青空文庫」)
山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通とおせば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高こうじると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟とった時、詩が生れて、画が出来る。
与謝蕪村「山林曳駒図」18世紀(江戸)
与謝 蕪村は、享保元年(1716年) に摂津国東成郡毛馬村 (大阪市都島区毛馬町)に生まれ、20歳の頃江戸に下り早野巴人に師事し俳諧を学ぶ。松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人であり、江戸俳諧中興の祖といわれる。また、俳画の創始者で、写実的で絵画的な発句を得意とした、江戸時代中期の俳人、画家。

三四郎(明治41年発表)」(←ここをクリック「青空文庫」)
「ちょっと御覧なさい」と美禰子が小さな声で言う。三四郎は及び腰になって、画帖の上へ顔を出した。美禰子の髪あたまで香水のにおいがする。絵はマーメイドの図である。裸体の女の腰から下が魚になって、魚の胴がぐるりと腰を回って、向こう側に尾だけ出ている。女は長い髪を櫛くしですきながら、すき余ったのを手に受けながら、こっちを向いている。背景は広い海である。
「人魚マーメイド」
「人魚マーメイド」
頭をすりつけた二人は同じ事をささやいた。

ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス 「人魚」 1900年
ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスは、1849年に両親共に画家でローマに生まれ、5歳のときに、ヴィクトリア&アルバート美術館の近くのサウス・ケンジントンに引っ越し、父・ウィリアムの元で学んでいました。初期の作品は、ローレンス・アルマ=タデマとフレデリック・レイトンに影響を受けた古典的なものでした。

 ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス 「人魚」 

それから(明治42年発表)」(←ここをクリック「青空文庫」)
父の御蔭おかげで、代助は多少斯道このみちに好悪こうおを有もてる様になつてゐた。兄も同様の原因から、画家の名前位は心得てゐた。たゞし、此方このほうは掛物の前まへに立つて、はあ仇英だね、はあ応挙だねと云ふ丈であつた。
円山応挙「花卉鳥獣人物図 山中乗馬図」1773年(安永2年)
円山応挙は、1733年(享保18年)に丹波国桑田郡穴太村(現・京都府亀岡市)の農家に生まれ、10代の後半には京へ出て、狩野探幽の流れを引く鶴沢派の画家石田幽汀の門に入っている。1766年(明和3年)から「応挙」を名乗り「円山派」の祖であり、「写生」を重視した親しみやすい画風が特色である。

門(明治43年発表)」(←ここをクリック「青空文庫」)
父は正月になると、きっとこの屏風を薄暗い蔵くらの中から出して、玄関の仕切りに立てて、その前へ紫檀したんの角かくな名刺入を置いて、年賀を受けたものである。その時はめでたいからと云うので、客間の床とこには必ず虎の双幅を懸かけた。これは岸駒じゃない岸岱がんたいだと父が宗助に云って聞かせた事があるのを、宗助はいまだに記憶していた。この虎の画には墨が着いていた。虎が舌を出して谷の水を呑のんでいる鼻柱が少し汚けがされたのを、父は苛気にして、宗助を見るたびに、御前ここへ墨を塗った事を覚えているか、これは御前の小さい時分の悪戯だぞと云って、おかしいような恨しいような一種の表情をした。
岸駒「虎図」(「龍虎図」双幅のうち左幅) 19世紀(江戸)
岸駒(がんく)は、1756年(宝暦6年)に加賀国金沢(現、石川県金沢市)で生まれる。1784年(天明4年)有栖川宮家の近習となり、同家の御学問所の障壁画を描く。1806年(文化6年)に藩主の招きで金沢に赴き、二の丸御殿に障壁画を描いて故郷に錦を飾った。江戸時代の画家で迫力ある虎の絵を得意としていた岸派の祖である。

 左:与謝蕪村「山林曳駒図」、中:円山応挙「山中乗馬図」、右:岸駒「虎図」

・第4章 漱石と同時代美術
第4章からの展示室は大学美術館地下2階会場で、エレベータで降ります。

 夏目漱石の美術世界展地下2階展示会場

漱石は、1912年(大正元年)の「第6回文展」を見て、東京朝日新聞に「文芸と芸術」という批評をだしました。「文芸と芸術」は、「漱石の芸術論」、「文展日本画評」と「洋画・彫塑評」のタイトルで連載しました。このコーナーでは、「文芸と芸術」で記された関連の絵30数点が展示されていました。
「次の室の一番初めには二枚折の屏風があった。其屏風はべた一面枝だらけであった。夫が面白かった。」(「ゆきぞら」についての「文芸と芸術」の記述)
佐野一星 「ゆきぞら」 1912年(大正元年)
佐野一星は、1894年(明治27年)に京都に生まれる。1912 年(明治45年)に京都市立美術工芸学校卒業し、1915年(大正4年)に京都市立絵画専門学校卒業して研究科に進み,1917年に修了した。1912 年(大正元年)の第6回文展に美術工芸学校卒業作品の「ゆきぞら」が初入選して褒状となり、1915 年(大正4年)の第9回文展にも《雪の日》が入選した。

 佐野一星「ゆきぞら」

「此荒涼たる背景に対して、自分は何の詩興をも催さない事を断言する」と言いながらも、「それでも此画には奥行きがあるのである。さうして其奥行きは凡て此一疋の牛の、寂寞として野原の中に立ってゐる態度から出るのである。牛は沈んでゐる。もっと鋭く云えば、何か考えてゐる」(「うすれび」についての「文芸と芸術」の記述)
坂本繁二郎 「うすれび」 1912年(大正元年)
坂本繁二郎は、1882年(明治15年)に福岡県久留米市に生まれる。10歳になると、地元久留米在住の画家・森三美に師事して絵を学び、高等小学校に上がる頃には、絵の腕前は相当なもので、「神童」と持てはやされた。1907年(明治40年)『北茂安村』が第1回文展に入選している。1912年(大正2年)第6回文展に出品した『うすれ日』は、夏目漱石が高く評価したことで知られている。1914年(大正3年)には二科会創立に参加。1921年(大正10年)に渡仏し、シャルル・ゲランに師事し、1924年帰国して教理で終生九州で制作を続けた。

 坂本繁二郎「うすれび」

・第5章 親交の画家たち
このコーナでは、漱石が書物などで知った作家・作品ともに、漱石本の挿画や装幀で親交の浅井忠、中村不折、橋口五葉などと、絵画の師の津田青楓および、漱石が晩年作品を愛した安井曾太郎らの絵画24点が展示されていました。
「津田君の画には技巧がないと共に、人の意を迎へたり、世に媚びたりする態度がどこにも見えません。一直線に自分の芸術的良心に命令された通り動いて行く丈です」
津田青楓 「桃源図」 1921年(大正10年)
津田青楓は、1880年(年)に華道家で去風流家元の西川一葉の息子として京都市中京区押小路に生まれ、はじめ四条派の升川友広に日本画を師事し、1897年に谷口香嶠に日本画を師事しました。1899年に関西美術院に入学し、浅井忠と鹿子木孟郎に日本画と洋画を師事しました。1907年から農商務省海外実業実習生として安井曾太郎と共にパリに留学し、アカデミー・ジュリアンにてジャン=ポール・ローランスに師事し、アールヌーヴォーの影響を受けました。1909年に帰朝し、1929年、京都市東山区清閑寺霊山町に津田洋画塾を開き、のち転向して二科会から脱退し、洋画から日本画に転じる。漱石に油絵を教えた他、漱石の『虞美人草』『道草』や森田草平の『十字街』などの装丁を手がけました。

 左:津田青楓「桃源図」、右:夏目漱石「あかざと黒猫」(第6章)

・第6章 漱石自筆の作品
このコーナでは、漱石子供の頃から絵を見るのが好きで、ロンドン留学中は息抜きに観劇と美術館通いをし、帰国後は門弟などに自作の水彩絵ハガキを送り、同時代の多くの画家たちと親交をもち、東西の美術についての知識と見識を養いました。1911年(明治44年)に、フランス帰りの青年画家・津田青楓と親交をはじめ、青楓宛ての手紙に、
「私は生涯に一枚でいゝから人が見て難有い絵を描いて見たい山水でも動物でも花鳥でも構わない只崇高で難有い気持ちのする奴を描いて死にたいと思ひます文展に出る日本画のやうなものはかけてもかきおたくはありません・・・・・・・
夏目漱石 「あかざと黒猫」1914年(大正3年)
庭のあかざの下で休む眼光鋭い黒猫で、胡麻油の鍋に落ちテラテラで漱石の原稿用紙に寝そべった漱石家三代目の猫である。熊か狸に見えるが、まわりの木賊もあかざも藍墨が軽やかに描かれている。(絵は第5章に併記参照)
夏目漱石 「山上有山図」 1912年(大正元年)
「行人」を連載始める時期に、漱石が南画風山水に凝りはじめた最初の作の一つで、青い二重の山のかなたに薄墨で高山のシルエットを配した構図はなかなかのものです。

 夏目漱石 「山上有山図」

・第7章 装幀と挿画
このコーナでは、近代様式製本の漱石本の装幀は、「吾輩ハ猫デアル」から「門」までは橋口五葉がてがけ、「こころ」「硝子戸の中」が漱石の自装で、「道草」「明暗」など晩年の作が津田青楓の装幀とわけられます。
橋口五葉 [装幀] 「行人」 1914年(大正3年)
表紙の部分が紙で、背を包む部分が皮で作られ、鳥や魚、植物の文様で描かれ、木版画部分は烏瓜と猫のモチーフにより、中央・南アジア風を出している。

 橋口五葉[装幀]「行人」

夏目漱石 [装幀] 「こゝろ」 1914年(大正3年)
「装幀の事は今迄専門家にばかり依頼してゐたのだが、今度はふとした動機から自分で遣って見る気になって、箱、表紙、見返し、扉及び奥附の模様及び題字、朱印、検印ともに、悉く自分で考案して自分で描いた」
扉絵も漱石が描き、岩陰に寄り添うように座り込んだ隠者が渦を巻く雲を眺めている。朱色の小篆(しょうてん)に「心」を添えている。

 夏目漱石[装幀]「こゝろ」(左:函の装幀原画、右:扉二の装填画稿)

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イベント 東京藝術大学大学美術館 鶯谷から上野まで古寺・古建築を巡り夏目漱石の美術世界展を見るその3

2013年08月21日 | イベント
kan-haru blog 2013       

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東京藝術大学大学美術館
東京芸術大学美術学部の前身の東京美術学校では、収蔵品を展示するために1929年(昭和4年)に赤煉瓦造の「陳列館」が建てられ、1935年(昭和10年)に白壁、瓦葺で城郭風の「正木記念館」を建設されました。正木記念館は1901年(明治34年)から1932年(昭和7年)まで校長を務めた正木直彦を記念して建てられ、これらの展示館は1970年(昭和45年)東京芸術大学芸術資料館という名称で一般向けにも開館し、展覧会開催中は学外の人も自由に観覧できるようになりました。1998年(平成10年)に芸術資料館は、東京藝術大学大学美術館と改称し、翌1999年にミュージアムショップやカフェテリアを備えた新館が完成しました。
6月28日には鶯谷駅から寛永寺開山堂に寄り、都道452号の道路沿いの古建築を探索しながら東京藝術大学美術部正門より構内に入り、同大美術館で開催の「夏目漱石の美術世界展」を観賞しました。

 夏目漱石の美術世界展図録

・夏目漱石の美術世界展
夏目漱石の美術世界展は、東京藝術大学大学美術館で5月14日から7月7日までの期間に、午前10時~午後5時まで開催され、毎週月曜日が休館です。同展は、東京藝術大学、東京新聞、NHK、NHKプロモーションの主催で、ブリティッシュ・カウンシルおよび新宿区が後援で、岩波書店、神奈川近代文学館、KLMオランダ航空、日本航空の協力で開催し、観覧料は、一般が1,500円で、 高校・大学生が1,000円で、中学生以下は無料です。

 夏目漱石の美術世界展入場券

夏目漱石の美術世界展の内容は、文豪・夏目漱石の作品に登場する古今東西の名画を集め、夏目漱石の美術世界を読み解こうとするものです。展示会で大集合した名画は、名作「坊っちゃん」の会話に登場するターナーや、「こゝろ」のエンディングに深く関わる渡辺崋山の絶筆や、漱石が特に好んだというラファエル前派のロセッティやミレイの代表作などなどと、日本のみならず世界中から集められた名画が並び、当時革新的なデザインで注目を集めた「吾輩は猫である」の装幀本や、漱石自身が描いた珍しい山水画などが登場します。
展示会の展示構成は、序章「吾輩が見た漱石と美術」から始まり、第7章「装幀と挿画」までの八章構成です。展示会場は、展示品の序章から第3章までの作品は大学美術館3階会場に、第4章から第7章までの作品は同地下2階展示会場に展示されています。

 夏目漱石の美術世界展3階展示会場

・序章「吾輩が見た漱石と美術」
序章コーナーの展示作品は、猫の「吾輩」が漱石と美術の関わりをまとめています。夏目漱石は、1867年(慶応3年)に牛込馬場下の町名主の家に生まれ、1895年(明治28年)に中学校の英語教師として松山に赴き、「坊っちやん」の素材を得ました。1900年(明治33年) 官命を受け、英語研究のために2年余りイギリスに留学しました。帰国後、創作活動をはじめて、処女作の「吾輩は猫である」を1905年(明治38年) を執筆しました。
岡本一平は、1886年(明治19年)に函館生まれ、東京美術学校西洋画科を卒業して、和田英作に師事し初めは美術装置の仕事などをしていたが、夏目漱石に認められて朝日新聞社に入社しました。同紙を中心に漫画、漫文形式の作品を数多く発表し、大正期の漫画界をリードしました。「漱石先生」の絵は、漱石先生が愛用の紫檀の小机に向かってちょこんと座り、火鉢と猫を両脇にしたユーモラスに描かれた漫画です。
橋口五葉は、1881年(明治14年)鹿児島市に生まれ、1899年に上京し橋本雅邦に日本画を学びますが、洋画に転じて東京美術学校へ進み、油絵修業のかたわら図案にも才を発揮して、1905年には『吾輩ハ猫デアル』で装幀家としてデビューしました。以後アール・ヌーヴォーを基調とした優美な装本の数々を世に送りました。

 岡本一平の漱石先生(左)と橋口五葉の「吾輩ハ猫デアル」の中編扉の装幀(右)

朝倉文夫は、1883年(明治16年)に大分県大野郡上井田村(現豊後大野市)に生まれ、1902年(明治35年)に東京で彫刻家として活躍していた兄・渡辺長男を頼って上京し、彫塑に魅せられて翌年東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻選科に入学、寸暇を惜しんで彫塑制作に没頭しました。1921年(大正10年)に東京美術学校の教授に就任、ライバルと称された高村光太郎と並んで日本美術界の重鎮でありました。朝倉は、猫をこよなく愛して、野性味を失わない神秘性などに魅力を感じ「吊るされた猫」1909年(明治42年)、「よく獲たり」1946年(昭和21年)などの作品を残した。

 朝倉文夫の「つるされた猫」 

・第1章 漱石文学と西洋美術
1900年に英国に行った漱石は、美術について関心と理解を持っており、早速ナポリの博物館、パリでの万国博、ロンドンでの各地の博物館を訪れて英文学研究とともに美術研究に熱中しました。
漱石文学と西洋美術のコーナーでは、イギリス留学中の美術体験の知識・資料を記している漱石文学作品内に出てくる、西洋美術の画家の作品の展示が見られます。
坊ちゃん」(←ここをクリック「青空文庫」)
「あの松を見たまえ、幹が真直まっすぐで、上が傘かさのように開いてターナーの画にありそうだね」と赤シャツが野だに云うと、野だは「全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と心得顔である。....

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー「金枝」1834
1775年、ロンドンのコヴェント・ガーデンに生まれる。13歳の時、風景画家トーマス・マートンに弟子入りし絵画の基礎を学び、1年ほど修業したターナーはロイヤル・アカデミー附属美術学校に入学。1819年にイタリアに旅行し、明るい陽光と色彩に魅せられたターナーは特にヴェネツィアの街を愛し、その後も何度もこの街を訪れ多くのスケッチを残しています。また、ターナーはフランス、スイス、イタリアなどヨーロッパ各地を旅行して多数の風景写生のスケッチも残しています。
「金枝」は、ジェームズ・フレイザーの『金枝篇』の冒頭に掲げられた作品で、その書物はこの作品を足がかりに、永い永い思索の旅に出ます。

 ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー「金枝」1834

薤露考」(←ここをクリック「青空文庫」)
ありのままなる浮世を見ず、鏡に写る浮世のみを見るシャロットの女は高き台うてなの中に只一人住む。活いける世を鏡の裡うちにのみ知る者に、面おもてを合わす友のあるべき由なし。

ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス「シャロットの女」1894年
1849年、両親共に画家の子として、ローマに生まれる。1870年に英国王立美術院に入り、初期の作品のテーマは、ローレンス・アルマ=タデマとフレデリック・レイトンに影響を受けた古典的なものでありました。1874年25歳のとき、ジョンは古典的な寓意画 『眠りと異母兄弟の死』を英国王立美術院の夏の展示会で発表し、この絵はとても好評であったため、毎年英国王立美術院の展示会に招かれました。
「シャロットの女」は、アーサー王物語の登場人物・騎士ランスロットの愛を得られぬことを知った悲しみのあまりに死を選ぶ乙女を描いた作品です。

 ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス「シャロットの女」1894

・第2章 漱石文学と古美術
漱石は、子供の頃家に50幅以上の絵があり、眺めるのが好きであったようです。漱石の日本美術は、雪舟以降の水墨画、狩野派や円山派などの江戸時代の絵に関心があった様です。
虞美人草」(←ここをクリック「青空文庫」)
長押作りに重い釘隠しを打って、動かぬ春の床には、常信の雲龍の図を奥深く描けてある。薄黒く墨を流した絹の色を、角に取り巻く紋緞子の藍に、寂びたる時代は、象牙の軸さへも落ち付いている。

狩野常信「昇竜・妙音菩薩・降龍」17-18世紀
狩野常信は、1636年(寛永13年)江戸木挽町に生まれ、父狩野尚信が没した1650年(慶安3年)に狩野派を継ぎ、後に家綱に仕えた御用絵師。狩野元信・狩野永徳・狩野探幽とともに四大家の一人とされ高く評価されてきた。
「昇竜・妙音菩薩・降龍」は、「虞美人草」に狩野常信の作品についての記載に近い作品です。3幅対の水墨画で、中央に崖の上で琵琶を弾く菩薩が描かれ、左幅・右幅には雲間から顔を覗かせる昇龍と降龍が描かれています。気品ある菩薩と迫力ある龍が対比的で、濃淡による表現が絶妙です。

 狩野常信「昇竜・妙音菩薩・降龍」17-18世紀

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イベント 東京藝術大学大学美術館 鶯谷から上野まで古寺・古建築を巡り夏目漱石の美術世界展を見るその2

2013年08月16日 | イベント
kan-haru blog 2013 東京藝術大学美術館Wikipedia      

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東京国立博物館付近の古建築
開山堂の山門を出ると都道452号の道路で、その都道を西北に進むと道路右側は国立博物館の正門前です。都道452号の道路沿いには古建築が林立しており、「夏目漱石の美術世界展」展示の観賞前に少し寄り道して、古建築を眺めていきます。ただし、古建築の1つの東京藝術大学上野キャンパスは、都道北側に音楽学部があり、南側に美術学部がありますが、「夏目漱石の美術世界展」展示の東京藝術大学大学美術館は美術学部内にありますので、今回は北側キャンパスの音楽学部は割愛とします。

 東京都道452号周辺地図

・東京国立博物館
1872年(明治5年)に日本最初の「博覧会」が湯島聖堂大成殿で開催され、入場券には「文部省博物館」と明記されており、これが日本の「博物館」の始まりです。「文部省博物館」は1873年(明治6年)に太政官正院の「博覧会事務局」に併合され、湯島から内山下町(現在の東京都千代田区内幸町)に移転し、この年は4月15日から博覧会が開かれました。
1877年(明治10年)に上野の寛永寺本坊跡地(現東京国立博物館敷地)で第1回内国勧業博覧会が開催され、展示館の1つである「美術館」は日本で最初に「美術館」と称した建物と云われています。1881年(明治14年)に、寛永寺本坊跡地にイギリス人建築家ジョサイア・コンドルの設計による煉瓦造2階建の本館が完成し、第2回内国勧業博覧会の展示館として使用された後、翌1882年(明治15年)から博物館の本館として使用され、第1回内国勧業博覧会の際に建てられた「美術館」の建物も新博物館の「2号館」として活用されましたが、博物館内に新たな美術館を建造することとなり、宮廷建築家片山東熊の設計で1901年に着工、7年後の1908年に竣工し、翌1909年に美術館は表慶館と名付けられて開館しました。
1923年(大正12年)の関東大震災で本館・2号館共に損壊し、博物館は表慶館のみで展示されました。本館の復興建設は1932年(昭和7年)に着工し、1938年(昭和12年)に開館したのが、現存する東京国立博物館本館(重要文化財 台東区上野公園13番9号)です。(「イベント 東京国立博物館 手塚治虫の漫画と仏像でたどる釈迦の生涯「ブッダ展」その1」参照)
新館は、1968年(昭和43年)に東洋館が、1984年(昭和59年)に資料館が、1999年(平成11年)に平成館(「イベント 東京国立博物館 江戸三座の役者28図を描いてデビューし10カ月で姿を消した東州斎写楽を見るその1」参照)が開館しています。

東京国立博物館正面口の先を進むと、都道に面して因幡の国の大名因州池田屋式表門(黒門 国の重要文化財)が、丸の内の藩邸から1892年(明治25年)に芝高輪台町の常宮御殿の表門として移建され、1954年(昭和29年)修理を加えて移築したもので、屋根は入母屋造、門の左右に向唐破風造の番所を備えており、江戸時代末期の大名屋敷表門として格式高い姿を見せています。

 東京国立博物館(:東京国立博物館本館20110525、右:因州池田屋式表門Wikipedia)

・黒田記念館
東京国立博物館先の交差点を渡った右側に建つ古建築は、黒田清輝(1866-1924)記念館です。黒田記念館は、日本近代洋画の父黒田清輝が、1924年(大正13年)に没する際、遺産の一部を美術の奨励事業に役立てるよう遺言し、これをうけて1928年(昭和3年)に竣工しました。記念館には、1930年((昭和5年))に美術に関する学術的調査研究と研究資料の収集を目的として美術研究所(東京文化財研究所の前身)が設置されました。2007年(平成19年)に独立行政法人文化財研究所と独立行政法人国立博物館が統合し、新たに独立行政法人国立文化財機構が設置された組織改編により、黒田記念館は東京国立博物館に移管されました。
記念館の設計は岡田信一郎によるもので、建物全体がスクラッチタイルでおおわれ、正面には黒光りする大きなドアがあり重厚な印象を受ける建物で、正面2階部分には、3つのアーチ窓を両側から挟んで列柱が並ぶルネッサンス風様式です。半地下階付の鉄筋コンクリート造2階建の建物です。

 黒田記念館(左・右写真拡大 黒田記念館HPから)

・旧東京音楽学校奏楽堂
東京音楽学校(現東京藝術大学音楽学部)の施設だった旧東京音楽学校奏楽堂は、文部技官山口半六と久留正道の設計と音響設計 が上原六四郎により、1890年(明治23年)に日本初のオーディトリウム(演奏会場)として、木造地上2階建ての桟瓦葺で建てられました。1987年(昭和62年)に台東区に移管され、東京国立博物館先交差点対面の現在の地(台東区上野公園8-43)に移築保存されて、1988年(昭和63年)に重要文化財として指定されています。

 旧東京音楽学校奏楽堂(写真拡大0628)

・東京藝術大学の古建築
東京国立博物館先交差点の対角線の東京藝術大学の角の、青銅の「東京藝術大學」の名札が掛かっている門は旧美術学校、旧音楽学校の旧正門です。旧正門を入った建物は正木記念館で、東京美術学校の校長を32年間の長期にわたって在任した第5代校長正木直彦の功績を顕彰するため1935年(昭和10年)に建てられました。設計は岡田信一郎門下の金沢庸治で、白の漆喰壁、入母屋の瓦屋根は日本の伝統美術を評価してきた美術学校の姿勢を反映しています。

 東京藝術大学美術学部の古建築物1(:移転された旧正門0628、右:正木記念館 東京都市整備局HPから)

正木記念館沿いに先に進むと鬼瓦屋根をいただく山門を思わせる門があり、それが明治時代の本館玄関です。玄関を入ると右側に、東京藝術大学旧東京美術学校玄関があり、設計は鳥海他郎・大澤三之助・古宇田實により1913年(大正2年)建築され、1972年(昭和47年)の東京藝術大学本館取り壊しの際、玄関部分のみ現在の正木記念館中庭に移築したものです。
 旧東京美術学校玄関(左:玄関表面 東京都市整備局HPから、:玄関裏面 0628)

玄関を入り、その左側には、沼田一雅が1936年(昭和11年)に製作した陶造の「正木直彦先生像」が置かれています。屋外中庭には、ロダンの「青銅時代」のブロンズ像が置かれています。

 玄関を入って見られる像(:正木直彦先生像、:ロダンの「青銅時代」ブロンズ像0628)

美術学部の門を入ってすぐ左側の建物が陳列館は、1929年(昭和4年)に竣工した西洋風の展示館で、設計したのは岡田信一郎で、スクラッチタイル、トスカナ式の飾り柱、天窓があります。岡田信一郎は、大阪中之島中央公会堂(大正7年)、鳩山一郎邸(鳩山会館、大正12年)、歌舞伎座(大正13年)、明治生命館(昭和9年:重要文化財)などを設計しました。これらは用途が全く異なる分野の建物で、 “様式建築の鬼才”と呼ばれ高く評価されています。

 旧東京美術学校陳列館(:陳列館0628、右:陳列館前に設置の皇居二重橋の旧飾燈 台東区文化ガイドブックから)

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イベント 東京藝術大学大学美術館 鶯谷から上野まで古寺・古建築を巡り夏目漱石の美術世界展を見るその1

2013年08月12日 | イベント
kan-haru blog 2013 「夏目漱石の美術世界展」看板     

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上野の山散策し「夏目漱石の美術世界展」を見る
東京藝術大学大学美術館では、「夏目漱石の美術世界展」を 5月14日~7月7日まで開催しておりました。近代日本を代表する文豪の夏目漱石(1867-1916)が、日本美術やイギリス美術に造詣が深く、作品のなかにもしばしば言及されていますが、この展示会では漱石の文学作品や美術批評に登場する画家、作品を可能なかぎり集めて、伊藤若冲、渡辺崋山、ターナー、ミレイ、青木繁、黒田清輝、横山大観といった古今東西の画家たちの作品を、漱石の眼を通して見直してみる試みの展示会であるとのこといなので、興味を持ち6月28日に見てきました。

 「夏目漱石の美術世界展」パンフレット

上野は、美術館や博物館が多くしばしば訪れますが、殆ど上野駅から目的の展示館に直行して、展示物を観賞して自宅に戻る行程でした。今回は、「夏目漱石の美術世界展」の観賞時間を多少詰めて、上野の山を若干散策して古寺・古建築を巡るコースを取り、鶯谷から出発して、上野の山を縦断してみました。

 東京藝術大学大学美術館展示観賞と上野の山巡り地図

・東叡山寛永寺と開山堂
鶯谷駅から忍岡中学校沿いに坂を昇り、突き当りを右折して直進すると上野中学校の先に東叡山寛永寺根本中堂(台東区上野桜木1-14-11)があります。現在の根本中堂は、1879年(明治12年)に川越の喜多院本地堂を山内子院の大慈院の地に移築し再建されたものが現在の寛永寺です。寛永寺根本中堂の御本尊は、伝教大師最澄上人の御自刻とされる薬師瑠璃光如来像(国指定重要文化財)を秘仏としてお祀りしてあります。
今回は、時間の関係で根本中堂には寄らずに、鶯谷駅からの道を突き当りで左折して、寛永寺子院本覚院(台東区上野公園16-22)角を右折して進むと、その先は寛永寺開山堂両大師堂(台東区上野公園14-5)で横門から入りました。開山堂の創建は、1644 年(正保元年)ですが、1868年(慶応4年)の上野戦争では焼け残ったが、1989年(平成元年)に火災に遭い、1781年(天明元年)再建の開山堂と寛政4年(1792年)再建の本堂が焼失しました。現在のお堂は平成5年に再建されたもので、東叡山の開山である慈眼大師天海大僧正をお祀りしているお堂であり、また天海僧正が尊崇していた慈恵大師良源大僧正もお祀りしているところから、通称は両大師と呼ばれていますが、宗派が天台宗で、山号が東叡山で寺院名は輪王寺と称します。
輪王寺はもと寛永寺の伽藍の一部で、開山堂または慈眼堂と称されていました。境内西側に本堂(1993年再建)、東側に輪王殿があります。

 開山堂両大師堂(:開山堂両大師堂山門、:開山堂本堂)

輪王殿の手前には西隣の東京国立博物館敷地から移築した寛永寺旧本坊表門(重要文化財)が建っています。寛永寺旧本坊表門は、切妻造り本瓦葺、潜門付きの薬医門であり、通称・黒門と称します。現在の東京国立博物館の敷地は、もと寛永寺の本坊であり、黒門はその正面にあった門です。1882年(明治15年)に、東京国立博物館の前身である帝室博物館が上野公園に移転・開館した際にその正門として使用されました。関東大震災の後博物館改築に伴い、1937(年昭和12年)に寛永寺に返還され現在地に移築されて、門扉には上野戦争の際の弾痕があります。1946年(昭和21年)11月29日に、重要文化財(国指定)指定にされました。1989年(平成元年)の火災の際には、焼失をまぬがれました。
本堂前の鐘楼に懸かる梵鐘は、1651年(慶安4年)の製作で、本堂前の参道左右の銅燈籠はもと上野の大猷院(徳川家光)霊廟に奉納されたものです。

 開山堂境内の文化遺跡(:寛永寺旧本坊表門、:銅燈籠と鐘楼)

・江戸時代の寛永寺
上野の山の徳川家建立の寛永寺の歴史を、少し辿って見ます。
徳川家の菩提寺は、家康が関東の地を治めるようになった、1590年(天正18年)に増上寺が選ばれました。増上寺は、1393年(明徳4年)に浄土宗第八祖酉誉聖聰上人によって、武蔵国豊島郷貝塚(現在の千代田区平河町から麹町にかけての土地と伝えられている)に開かれ、1598年(慶長3年)には現在の芝の地に移転しました。
徳川家建立の寛永寺は、現在の上野公園の2倍の面積の約30万5千坪の寺地を有していた云われます。寛永寺の建立は、1622年(元和8年)に江戸幕府2代将軍徳川秀忠公と、当時の天台宗の高僧・天海大僧正は一大寺院の建立を発願しました。秀忠公の隠居後の1625年(寛永2年)の3代将軍徳川家光公の時に今の東京国立博物館の敷地に本坊が建立されました。

 寛永寺古地図(Wikipediaから)

京の比叡山に対し、「東の比叡山」という意味で山号を「東叡山」とし、当時の年号をとって寺号を「寛永寺」としました。1654年(承応3年)に後水尾天皇第3皇子・守澄法親王が入寺して以後は、代々皇族が御門主を務め「輪王寺宮」と尊称され、絶大な宗教的権威をもっていました。

 寛永寺錦絵(Wikipediaから)

その後、堂塔の整備に数十年をかけ、1698年(元禄11年)の5代将軍徳川綱吉公の時、今の上野公園大噴水のあるあたりに本堂の、間口45.5メートル、奥行42メートル、高さ32メートルという規模の根本中堂が完成しました。さらに清水観音堂、不忍池辯天堂、 五重塔、開山堂、大仏殿などの伽藍が競い立ち、子院も各大名の寄進により三十六坊を数えました。やがて徳川将軍家の菩提寺も兼ねて歴代将軍の霊廟も造営されました。
上野の山は、幕末の1868年(慶応4年)に彰義隊の戦の戦場となり、根本中堂をはじめ主要な堂宇は焼失しました。寛永寺は、明治政府によって境内地が没収されましたが、1879年(明治12年)には寛永寺の復興が認められ、現在地に川越喜多院より本地堂を移築し、山内本地堂の用材も加えて、根本中堂として再建されました。また1885年(明治18年)には、輪王寺門跡の門室号が下賜され、天台宗の高僧を輪王寺門跡門主として寛永寺に迎え再出発し、伝教大師作の本尊薬師如来や東山天皇御宸筆「瑠璃殿」の勅額は、戦争の中を無事に運び出され、現在の根本中堂に安置されています。

 歌麿二代喜多川歌麿「新版浮世絵上野東叡山之図」(寛永寺HPから)

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大森町界隈あれこれ ニュース 大森町周辺の夏のイベント(2013年7月号)

2013年08月07日 | 大森町界隈あれこれ イベント

kan-haru blog 2013Ⅱ版0808 大森町サマーフェスティバル2013看板 更新動画を追加Ⅱ版2014.8.7      

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○ 大森町サマーフェスティバル2013
例年開催の大森町商店街恒例のサマーフェスティバル2013が7月28日の日曜日に開催されましたので、見てきました。大森町サマーフェスティバルは、2013大森町共栄会主催で、城南信用金庫、さわやか信用金庫、大東京信用組合の共賛で、毎年7月の最終日曜日に開催されます。

 大森町サマーフェスティバル パンフレット

サマーフェスティバルの開始は11時からで、子供が喜ぶ縁日、ゲームやふれあい移動動物園が開かれ、クワガタが当たるゲームも行われて、さわやか信金前の広場では宝釣り大会などのゲームに子供がむらがっていました。

 さわやか信用金庫前の賑わうイベント会場(写真拡大0728)

14時から開店の縁日では、焼きそば、フランクフルト、かき氷やドリンクの露店は大繁盛で、準備した品は底をついたようです。

 サマーフェスティバル露天は大繁盛(写真拡大0728)

サマーフェスティバルでは、18店の参加商店の店頭で特売や催しが行われ、パチンコ店のピーランドでは、店頭にジャンボパチンコ機がおかれました。

 サマーフェスティバル参加店頭では特売や催しが行われる(写真拡大0728)

サマーフェスティバルでの演芸は、14時から大森町共栄会通り中央部のユアーズ・パーキングの広場で、大森第3小学校児童のよさこいソーランが披露されました。

 よさこいソーラン(大森第3小学児童)(写真拡大0728)

よさこいソーランの後は、引き続いてお馴染みのふれあいコドモクラブの和太鼓が演奏(和太鼓演奏動画は収録)が行われました。

 和太鼓演奏(ふれあいこどもクラブ)(写真拡大0728)

メインの大東京信用組合前の仮設舞台では、14時からは大森学園のブラスバンドの演奏(大森学園側の申し入れにより動画は未収録)が行われました。15時からは今回はじめて参加のストリートダンス(チームK)が、かな、あずさ、テル、マリ、圭のチームにより、仮設舞台で行われました。16時からはポップスバンドThe234のライブの演奏(The234ライブは動画収録)が行われました。

 大東京信用組合前仮設舞台でのライブ)(:ポップスバンドThe234ライブ、:大森学園高校ブラスバンド演奏0728)

サマーフェスティバル2013の動画収録は、大森町共栄会通りユアーズ・パーキンでの和太鼓(ふれあいこどもクラブ)の演奏と、大東京信用組合前の仮設舞台でのThe234ポップスバンドのライブ演奏を撮影しました。

大森町サマーフェスティバル2013


[クリックすると、和太鼓とライブ演奏が見られます。]

動画をご覧頂けない方は、「大森町サマーフェスティバル2013」(←をクリック)すると別画面で掲示されている動画でご覧いただけます。Ⅱ版2014.8.7

大森町サマーフェスティバル2013のエンディングは、くすのき連(大田区職員)と大森町阿波踊りの会(地元有志)により、恒例の阿波踊りが18時に東邦医大通りをスタートして、大森町駅まで練り歩き大森町の夏祭りの幕を閉じました。

○ 大森西三丁目大寿会第一クラブ定例会・誕生会
諏訪神社諏訪会館(大田区大森西2-23-6)で、7月22日に大田区老人クラブ連合会大森西三丁目大寿会第一クラブの7月期の定例会・誕生会が12時より開催されましたので出席しました。定例会は役員幹事の司会により開会の辞で開始され、会長の挨拶後副会長により誕生者の紹介があり、乾杯の後お弁当を食べながらの歓談です。
今回の定例会・誕生会の特別出し物としては、ふれあいコドモクラブの特別参加により和太鼓の演奏会が行われました。ふれあいコドモクラブは、4歳から大学生で構成されており、今年で11年を経過し、地域ではイベントに出場して大変人気があります。

 ふれあいこどもクラブによる和太鼓演奏風景1(:太鼓演奏のセッティング、:老人会での和太鼓演奏メンバー0722)

老人クラブでの和太鼓の演奏者は、最年少者から中学生までのメンバーですが、太鼓は初めて老人会の参加者には巧演奏が披露され、アンコールの声がかかり人気がありました。

 ふれあいこどもクラブによる和太鼓演奏風景2(左上中上右上左下中下右下:0722)

定例会・誕生会に初出演の、ふれあいコドモクラブの和太鼓演奏の熱演を撮影しました。

大森西三丁目大寿会第一クラブ定例会・誕生会201307


[クリックすると、定例会・誕生会での和太鼓演奏が見られます。]

動画をご覧頂けない方は、「大森西三丁目大寿会第一クラブ定例会・誕生会201307」(←をクリック)すると別画面で掲示されている動画でご覧いただけます。Ⅱ版2014.8.7

太鼓の演奏が終わった後は、参加者による恒例の余興タイムです。トップは、大寿会第一クラブ合唱メンバーによる合唱が披露され、続いて喉に自身のある参加者の歌声が時間一杯まで響き、江戸一本〆で解散です。

 大寿会第一クラブ合唱メンバーによる余興の歌声(写真拡大0722)

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大森西三丁目大寿会第一クラブ定例会・誕生会201307

2013年08月07日 | ようこそ kan-haru日記へ

kan-haru blog 2014

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動画の「スタート」ボタンを押すと、動画が見られます。

大森西三丁目大寿会第一クラブ定例会・誕生会201307

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大森町サマーフェスティバル2013

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番外編カテゴリー別ブログ記事の検索と見方 8月INDEX

2013年08月01日 | INDEX

kan-haru blog 2013 8月1日60版

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kan-haruの日記の月間INDEXは、毎月1日付けで掲載しており前月の登録記事検索のほか、カテゴリー別の登録記事の2006年3月から最新までの検索ができます。

K&A kan-haru 日記の見方について(←ここをクリックして参照してください。)

  大森町界隈あれこれ カテゴリー別目次
■印覧の13年8月掲載項目以外の目次は、下記の項番に付記された下線付きのカテゴリー項目を選択すると、当該カテゴリーの掲載当初から現在日時点までの目次が見られます。

 1 大森町界隈あれこれ 大森町に住んで65年!
 2 大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記 総目次
  2-1 大森町界隈あれこれ 鎮魂! 大森町大空襲 (第1編)
      付 東京大空襲 ~あれから61年~
  2-2 大森町界隈あれこれ 手記第2編 戦災日誌中野編
  2-3 大森町界隈あれこれ 手記第3編 戦前戦後目黒にて
 3 大森町界隈あれこれ 戦後編若山武義氏手記 総目次
  3-1 大森町界隈あれこれ 戦後史編手記 第1~4編総目次
 4 大森町界隈あれこれ 大森町の社寺
 5 大森町界隈あれこれ 大森町商店街
 6 大森町界隈あれこれ 大森海苔
 7 大森町界隈あれこれ 京浜急行関連
  ◇ 2006・2007年版2008年前期版2008年中期版2008年後期版2009年前期版2009年中期版2009年中Ⅱ期版2009年後期版2010年前期版2010年前Ⅱ期版2010年中期版2010年後期版2011年前期版2011年後期版2012年前期版2012年後期版2012年後期(2)版2013年前期版2013年中期版
 8 大森町界隈あれこれ 大森町風景
  ◇ 2006~2012年版2013年版
 9 大森町界隈あれこれ イベント 目次
  ◇ 2006~2009年期版2010年版2011~2012年版2013年版 
10 大森町界隈あれこれ 大森町学びや

  大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 サブ・カテゴリー別目次

11 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 Sub INDEX
  ◇ 関連側道高架化 全工区下り線工事2012年後期版高架化全工区下り線工事2012年前期版高架化全工区下り線工事2011年後期版高架化全工区下り線工事2011年前期版高架化全工区下り線工事2010年版全工区統合2009年版全工区統合2010年版、大森町付近工区:2006・2007年版2008年版2009年版梅屋敷付近工区、京急蒲田付近工区:2006~2008年版2009年版雑色付近工区糀谷付近工区
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 高架化事業完了工事梅屋敷駅編(第3回その1) 7月4日
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 高架化事業完了工事梅屋敷駅編(第3回その2) 7月7日
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 高架化事業完了工事雑色駅編(第3回) 7月10日
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 高架化事業完了工事糀谷駅編(第3回) 7月14日

  一般 カテゴリー別目次

21 風景・風物詩 総目次
  ◇ 2006・2007年版2007・2008年版2008~2010年版2010~2013年版 
22 小さな旅 総目次
  ◇ 2006~2009年版2009~2011年版
23 旅ものがたり 総目次
2006~2011年版2010~2013年版
24 秋葉原界隈 総目次
25 イベント 総目次
  ◇ 2006・2007年版2008年版2009・2010年版2011年版2012年版2013年版
 ■ イベント 日本銀行本館 辰野金吾の設計による旧館の堅固な建物の中央銀行の金庫、営業所や史料展示室を見学 7月19日
 ■ イベント 貨幣博物館 古貨幣研究家の田中啓文氏の銭幣館コレクションを日本銀行に寄贈し誕生した博物館 7月23日
 ■ イベント イベント 江戸東京博物館 各派の江戸絵画作品を蒐集展示したファインバーグ・コレクション展その1 7月27日
 ■ イベント イベント 江戸東京博物館 各派の江戸絵画作品を蒐集展示したファインバーグ・コレクション展その2 7月31日
26 ITと技術 総目次
◇ 2006~2011年版2012年版
27 Weblog 総目次

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