K&A

kan-haruの日記

イベント ビジネスと物産 異業種交流機会創出のビジネスフェアと地元の銘品に感動の物産展その1

2011年06月29日 | イベント
kan-haru blog 2011 ビジネスフェア会場風景

< 総合INDEX へ

大田区産業プラザPIO(大田区南蒲田1-20-20)での展示会には年に数回訪れますが、今回の「第7回ビジネスフェア」と「第2回物産展」は今年に入り2回目の見学です。1回目の見学は3月11日の、「第2回試作市場2011」と「『地図展 In おおた』~空から見た国際都市大田~」で、ほぼ見学が終わった頃地図展会場内で東日本大震災に遭遇(「イベント 展示会で東北・太平洋沿岸地震に遭遇 大田産業プラザで試作市場と地図展 その1~4」参照)しました。

「第7回ビジネスフェア」と「第2回物産展」
「第7回ビジネスフェア」と「第2回物産展」の併合展は、さわやか信用金庫の主催で、経済産業省 関東経済産業局、独立行政法人中小企業基盤整備機構 関東支部、東京商工会議所 大田支部、社団法人 東京都信用金庫協会、東京新聞、信金中央金庫の後援で6月17日午前10時 ~ 午後 4時まで開催されましたので見てきました。

 展示会パンフレット

展示会場の1階大展示ホールは、両会場を2つに分けPIO入り口の手前がビジネスフェア展示場で、奥が物産展会場です。

 ビジネスフェアと物産展会場(:大田区産業プラザPIO、:展示会場[左]ビジネスフェア・[右]物産展入口、:ミス物産展)

両会場のレイアウトは、展示コマが背中合せで分離しており、展示場の広さはビジネスフェアが2/3の66コマで、物産展が51コマの1/3の割合で両展示場間は自由に行き来ができます。

 展示会場図(展示会場拡大図)

・ビジネスフェア
併合展示の会場の手前のビジネスフェア入口には10時半頃到着して、正面受付で受付を済ませて名札をさげて、会場を時計回りに見学開始です。
ビジネスフェアの開催テーマは、中小企業の持つ商品・サービス・技術等を展示、ご紹介(販売も可)いただくとともに、ビジネスマッチングの機会創出を目指とあります。 
ビジネスフェアの展示会場は、不動産・建設関連企業ゾーン、コンサルゾーン、製造業関連企業ゾーン、IT関連企業ゾーン、流通・サービス関連企業ゾーンの業種別の5ゾーンに66コマの展示場があり、会場中央にはマッチングスペースとプレゼンテーション会場が設けられています。会場の見学者は、時間が早いせいか割合と空いていました。

 ビジネスフェア展示場(:ビジネスフェア受付場、:マッチングスペース、:プレゼンテーション会場)

展示製品を見てまず目についたのは、不動産・建設関連企業ゾーンのコーナー5番で時節柄の製品である節電対策・LED・省エネ改修工事製品です。次いで右に曲がると怪獣が陳列で目立った製造業関連企業ゾーンコーナー26の真空ポンプと蒸着技術製品があり、展示コーナーを半周した製造業コーナー16には時節商品の放射線を遮蔽および減衰させる塗料や蓄光塗料製品が見られました。

 ビジネスフェア展示コーナー1(:時節商品の節電対策・LED・省エネ商品展示、:真空ポンプ製品・真空装置設計販売、:初公開展示の放射線の遮蔽・減衰塗料)

会場奧のIT関連企業ゾーンコーナー1番には、LCDが9面のフルHDマルチスクリーン、離れていても身近に会話が出来る「どこでも窓」などのシステム製品が見られ、コンサルゾーンには大田区産業振興協会、東京商工会議所、東京都立産業技術研究センター、東京大学産学連携本部の他に8の団体、企業が出展していました。

 ビジネスフェア展示コーナー2(:マルチスクリーンとはなれて会話ができるシステム製品、:コンサルゾーンの大田区産業振興協会、:コンサルゾーンの東京商工会議所大田支部)

・イベント
第7回ビジネスフェアのイベントの基調講演は、「壁を破る発想法」の演題で、講師を佐藤満氏 元日本ゼネラルモーターズ(株)代表取締役社長により、2階小展示ホールで午前11時 ~ 午後12時30分に開催されました。

 基調講演会場

また、プレゼンテーションのイベントが午後12時40分から1階大展示ホールのプレゼンテーション会場において、株式会社環境材料エンジニアリング他8社が参加して行われました。

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(6月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index イベント総目次 2010・2011年版2009・2010年版2008年版2006・2007年版
<前回 イベント 東京国立博物館 手塚治虫の漫画と仏像でたどる釈迦の生涯「ブッダ展」その3 へ
次回 イベント ビジネスと物産 異業種交流機会創出のビジネスフェアと地元の銘品に感動の物産展その2
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編[大森町駅の変遷](第18回その2)

2011年06月26日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2011 高架橋脚柱建立鋼材   
    
< 総合INDEX へ

大森町高架駅工事(続)
・上りホームに臨時改札口開設
大森町駅構内踏切が2007年3月29日に閉鎖されたため、翌日の朝の通勤時間帯には大森町第1踏切は、通勤客により大変な混雑で人の流れが滞りましたので、踏切の混雑緩和を期待して同5月21日月曜日の午前7~9時から、上りホームの中間に臨時改札口が開設され土日を除いての利用が開始されました。しかし、朝の通勤客の流れの大半は、第1京浜国道側から第1踏切をわたり、西口改札口から上りホームに進む客のため、午前8時過ぎの臨時改札口はがら空きの状態です。

 上りホームの混雑緩和のため臨時改札口開設

・下り線線路の移設
大森町高架駅橋築造のため、在来線路を第1京浜国道側へ1.5mの移動が必要となり、既にその1で記述の改札機とスロープなどの移動は行われており、同年5月26日に下り側線路の移設が行われました。線路の移設により出札機を、1952年(昭和27年)12月に大森町駅として営業再開した時に建てられた駅舎の出札機の場所に戻され、踏切警報機も移動(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第6回)」参照)されました。

 下り線線路の移設による東口改札口の改造(左:東口改札口通路の幅員縮幅、中:出札機移動、右:踏切警報機移動)

下り線路の移動は、同年5月26日の終電通過後に行われ、ホームおよびホーム屋根の削り取が行われました。

 下り線路東方に1.5m移動(左:線路移動前、中:踏切北方の移動線路、右:踏切南方の移動線路)

・上り線線路の移設
上り線路の移動は、同年6月19日の終電通過後に行われ、ホームおよびホーム屋根の拡幅(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第8回)」参照)が行われました。

 上り線路東方に1.5m移動(左:線路移動前、中:踏切北方の移動線路、右:踏切南方の移動線路)

上り線線路の移設が終了した後、通勤時に混雑していた大森町第1踏切道路の踏切部の北側の幅員が拡幅(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第9回)」参照)され、やっと通勤客の流れがスムースとなり混雑が収まりました。

 踏切部の北側の幅員が拡幅され混雑が収まる(左:踏切道拡幅前、中・右:踏切道拡幅後)

・大森町高架駅築造工事
在来の大森町地上駅の諸改造が済み高架駅築造の準備が整いましたので、それまで平和島第5踏切南側から進められていた高架橋築造工事の工事機が南下して、同年10月からは工事機が大森町駅ホーム上で高架駅築造工事が開始(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第10回)」参照)されます。

 大森町駅の高架駅の築造工事が始まる(左:大森町駅北方に築造された高架橋、中・右:大森町ホーム上の高架駅築造工事の1号工事機)

同年11月には、上り線大森町駅の西口は、上り線路が東方に移動したため東側にスペースが生じ、そこに出札機を移動して改札機も横1列に並べて設置(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第11回その1)」参照)しました。

 大森町駅西口の改造(左:線路移動で出札機右側に空きスペースができる、中:出札機を空きスペースに移動、右:出札機移動のスペースに改札機3台を並べて設置)

列車を運行しながらの高架橋の築造は、2台が組になった工事機により工事を分担して行われます。2007年10月には1号工事機は大森町駅ホーム上で基礎工事が始まり、2号工事機は大森町駅北方で高架橋の築造工事(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第11回その2)」参照)が行われています。

 高架橋築造の1・2号工事機(左:高架橋築造は2組の工事機により分担工事、中・右:2号工事機は大森町駅北方で高架橋の築造工事)

工事機の分担は、先頭の1号工事機は高架橋橋柱の埋め込み穴を掘り込み、穴にライナーを挿入してその中に基礎杭鉄筋筒枠を入れ、コンクリート打ち込みの基礎杭築造工事を行います。後続の2号工事機は、高架橋柱を建立して桁架設で高架橋の骨格築造に、スラブ・地覆い築造(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 梅屋敷駅付近(第5回)」参照)が行われます。

 1・2号工事機械の工事作業役割分担

2008年1月16日には、1号工事機は大森町駅ホーム北端で基礎杭工事を行い、2号工事機は大森町駅北方で高架橋の築造工事(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第12回)」参照)が行われています。

 高架橋築造の1・2号工事機(左:1・2号工事機により大森町高架駅橋築造工事開始、中・右:大森町駅北方で高架橋築造中の2号工事機)

< 総合INDEX へ
・毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(6月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index 大森町界隈あれこれ 京浜急行関連総目次 : 2011年前期版
サブ・カテゴリー別Index : 高架化全工区下り線工事2011年版  へ
<前回 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編[大森町駅の変遷](第18回その1)
次回 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第19回その1)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編[大森町駅の変遷](第18回その1)

2011年06月24日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2011 閉鎖される直前の下りホーム改札口6月18日  
    
< 総合INDEX へ

高架化工事に伴い、6月19日に在来下り線地上ホームが旧上り線線路上に設置した仮設ホームに移設し旧下り線改札口が閉鎖され、5月に閉鎖された旧上り線改札口と共に、戦災で焼けてから1952年(昭和27年)に大森町駅として再開以来の改札口は幕を閉じました。

 閉鎖された旧大森町駅上下改札口(:閉鎖された大森町駅上り改札口0514、:閉鎖された大森町駅下り改札口0619)

・京急の品川―川崎間開通
京急の前身の大師電気鉄道は、六郷橋と川崎大師間(2.0km)の営業を、1899年(明治32年)1月21日に開始しました。

 六郷橋ー川崎大師間営業の大師電気鉄道(京浜急行80年の歩みから)

社名を京浜電気鉄道に変更し、1901年(明治34年)2月1日に六郷橋と大森停車場間(7.2km)の営業が開始され、軌道は六郷川を渡り旧東海道上は併用軌道で北上し、八幡(現大森海岸)で左折し専用軌道で大森停車場(「大森町界隈あれこれ 京急歴史(1) 大森海岸と大森間に電車が走る(その1)」参照) まで開通しました。

 八幡(大森海岸)と大森停車場間に1901年営業の専用線路(京浜急行80年の歩みから)

旧東海道上の併用軌道は、道幅の狭いところは拡幅し、大部分が単線軌道であったが、道幅の広いところでは道路の中央部に敷設され、狭いところでは山側に敷設されたようです。
翌1902年(明治35年)6月28日に、蒲田と稲荷橋(穴守)間(3.0km)の営業を開始し、同年9月1日に六郷橋と川崎間(1.0km)の営業を開始しました。1904年(明治37年)5月8日に大森海岸と八ッ山橋(品川) 間(4.3km)の営業を開始し、同時に大森海岸と学校裏(平和島)間を専用軌道で敷設しました。また、1906年(明治39年)8月には、大森海岸と品川間の複線工事が竣工しました。同年10月1日には、梅屋敷と山谷の間から学校裏付近間および、雑色と川崎間の専用軌道が開通しました。大森山谷と六郷土手間が専用軌道で開通したのは、1923年大正12年4月1日です。さらに、1910年(明治43年)8月には蒲田と稲荷橋(穴守)間の複線工事が竣工しました。

 1901年開通の大森停留場のループ線(京浜急行80年の歩みから)

・大森町駅の歴史
1906年(明治39年)には、山谷駅は現存の位置にありましたが、戦前の1935年(昭和10年)代までは、ホームの場所は上り線が踏切の南側にあり、下り線は現在地(踏切北側)にありました。ホームの場所が上下線共踏切の北側にあった戦時中の1945年(昭和20年)4月15日に、大森山谷駅は戦災で焼失し閉鎖となり、戦後1949年(昭和24年)6月30日に大森山谷駅は一旦廃止となりました。

 戦災で焼失し閉鎖の大森山谷駅(京浜急行80年の歩みから)

戦後の復興が進み、1952年(昭和27年)12月15日に、東口の下り線を改札として上り線には構内踏切を通路とした大森町駅としての営業を再開しました。

 大森町駅としての営業を再開したモダンな駅舎(京浜急行80年の歩みから)

1982年(昭和57年)3月には、6輌編成停車ホームに伸延しました。1984年(昭和59年)12月には、再開時に建設された下り線駅舎がモダンな駅舎として改築されました。その後、通勤客の急増により上り線側に臨時改札口を設置されましたが、1998年(平成10年)秋に終日営業の西口が設けられました。

・大森町高架駅工事
京急の高架化工事は、第Ⅰ期が蒲田駅構内において平成12年から着工を開始し、平成20年の第Ⅱ期工事では平和島~梅屋敷間上り本線仮線工事が施工されます。大森町高架駅工事の変遷を追ってみます。
大森町高架駅の工事は、2007年3月28日に大森町駅利用者にとり馴染みの深い駅売店が、高架化工事のため閉鎖(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第1回)」参照)されました。

 大森町駅売店の閉鎖(左:閉鎖前の駅売店、右:閉鎖後の駅売店070328)

翌29日には、大森町駅の上りと下り線を結ぶ構内踏切を閉鎖して乗り降りは、上りと下りのそれぞれの改札口から入・出場することになりました。

 大森町駅構内踏切の撤去(左:大森町駅構内踏切、中・右:撤去された構内踏切070329)

上り(西口)改札口は、3列横並び配置の改札機が現在の位置からホーム寄りに2m移動され、出札機も移設されます。

 上り(西口)改札口の改札機・出札機の移動(左:改札機の移動、右:出札機の移動070329)

また、下り(東口)の改札口の3列横並びの改札機の移動は、閉鎖の駅売店跡に約半分のスペースに縮小した仮駅事務所を設けて、取り壊した元の駅事務所とトイレの跡の後ろ側に、ホームへ上がる石段とスロープを新設し、駅入り口から9m後退した場所に移設(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第3回)」参照)されました。

 下り(東口)の改札口の仮駅事務所・改札機などの移動(左:トイレ・駅事務所の取壊し、中:仮駅事務所の移動、右:改札機の移動070329)
 
大森町駅構内踏切の撤去後は、大森町第1踏切の通路幅が半減状態になったため、朝の通勤・通学のラッシュ時の混雑がかなりひどい(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第4回)」参照)ものとなり、踏切が閉まると渡るのに時間がかかり、トラックがくると通勤客が通れず、踏切が開いてもなかなか吐けない状態となりましたので、京急側では上りホーム側に臨時改札口が開設することになりました。

 通勤時に大混雑の大森町第1踏切通路(左:踏切が閉じるとすぐに人が溜まる、中:トラックがくると人のいる場所がない、右:踏切が開いてもなかなか吐けない)

< 総合INDEX へ
・毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(6月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index 大森町界隈あれこれ 京浜急行関連総目次 : 2011年前期版
サブ・カテゴリー別Index : 高架化全工区下り線工事2011年版  へ
<前回 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編[大森町ホーム移設編](第17回その4)
次回 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編[大森町駅の変遷](第18回その2)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編[大森町ホーム移設編](第17回その4)

2011年06月22日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2011 下り高架駅ホームの工事のため取り壊される旧下り線地上ホーム  
    
< 総合INDEX へ

第1工区工事(続)
・大森町駅在来下り線駅舎・ホームの移設・閉鎖
2011年(平成23年)6月19日には、大森町駅在来下り線ホームが仮設ホームに移設して、下り線駅舎・ホームが閉鎖されました。下り線改札口と駅舎の閉鎖は、戦後の営業再開以来59年目でのことであり、駅開業以来110年目の出来事です。
在来下り線ホームの仮設ホームは、同19日始発列車からの使用にあわせて準備が進められ、同17日には仮設ホームには駅名板などが取り付けられました。

 移設に備える下り線ホーム(:移設前日の新旧ホーム0618、:移設準備が整った下り線仮設ホーム0617)

下りホーム移設前日の、終電後に撤去される駅舎・事務室、改札機を見納めてしておきました。

 移設当日の下りホーム改札口(:移設当日の下りホーム改札口、:移設当日の下り駅舎事務室、:移設前の下り線改札機0618) 

下りホーム移設前最後の、終電車の到着風景です。

 移設前最後の下りホーム風景(:移設前の終電を待つ下りホーム、:移設前最後の終電到着の下りホーム、:最後の終電降車客が下り改札を出る0618)

終電車が通過した後には、待機していた多数の作業員が分担して、下りホームの移設工事を行い、大森町駅の改札は商店街通りの西側の、高架駅改札口と共通となりました。

 終電通過後の下り線ホーム移設工事開始(左上中上右上左下中下右下0619写真拡大)

同19日を迎え、それまで59年間にわたり開いていた下り線側の駅舎は幕をとじました。

 59年の歴史の幕を閉じた下り線改札口(0619写真拡大)

また、戦災で営業停止された下り線ホームは、戦前から運用されていました。

 閉鎖された下り線ホーム(写真拡大)

下りホーム移設後の大森町駅改札口は、5月13日に開設した上り高架駅ホームの改札口(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第16回その1)」参照)と共用で、出札機が計3台、改札機が計5台と共に駅舎事務所が移設されました。

 下り線ホーム移設後の大森町駅新改札口(:大森町駅新改札口の増設された出札機、:大森町駅新改札口横の駅舎事務室、:大森町駅新改札口の増設された改札機0619)

大森町駅新改札口を入ると、上り線高架ホームへは直進して、エスカレータ、エレベータまたは階段で昇ります。下り線ホームへは改札口から右に曲がり、左手のスロープを上るとホームです。

 大森町駅新改札口からホームへの通路(:改札機を入り上りホームへは直進し、下りホームへは右に曲がる、:下りホームへの通路は右に曲がり左のスロープを進む、:スロープを上ると右側が下り線ホーム0619)

旧上り線地上線路上に移設された下り線ホームは、ゆったりとしており使い易いようですが、電力節約により薄暗いのは止むお得ません。

 移設後の新下り線ホーム(:移設後の新下り線ホーム、:快速列車が通過の新下り線ホーム、:普通列車到着の新下り線ホーム0619)

6月19日に下り線ホームが移設されましたので、平和島駅から大森町駅間を普通列車に乗り、大森町駅の新下り線ホームで下車する模様を撮影しました。

平和島ー大森町(地上線路)(下りホーム移設).wmv


[クリックすると、普通列車で平和島駅を発車し大森町駅の移設された下り新ホームに到着し、ホームに下車して発車列車を見送るまでの模様が見られます]

< 総合INDEX へ
・毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(6月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index 大森町界隈あれこれ 京浜急行関連総目次 : 2011年前期版
・ サブ・カテゴリー別Index : 高架化全工区下り線工事2011年版  へ
<前回 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第17回その3)
次回 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編[大森町駅の変遷](第18回その1)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第17回その3)

2011年06月19日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2011 高架橋築造のクレーン  
    
< 総合INDEX へ

第8工区
・糀谷高架駅橋下の工事
前回には、糀谷高架駅橋下では地中の基礎工事が行なわれており、6月14日に見ると高架橋下の整理工事が行われていました。

 高架駅橋下の整理工事(0614写真拡大)

・下り線高架橋築造工事(糀谷第1踏切西側構内)
5月20日に糀谷第1踏切脇に、1本目の下り線高架橋築造の横梁付きの橋脚柱が建立されました。同30日には、橋脚柱が2本建立され縦横の梁が組まれていました。

 橋脚柱2本が建立し縦・横梁が組まれる(左上中上右上左下中下右下0530写真拡大)

6月18日に見ると、糀谷第1踏切西側構内の下り線高架橋築造工事用のクレーンが設置されていました。

 橋脚柱梁上に高架橋築造工事用のクレーンを設置1(0619写真拡大)

工事クレーンの設置は、同構内に建立された2本目の橋脚柱の梁の上に設置されています。

 橋脚柱梁上に高架橋築造工事用のクレーンを設置2(0618写真拡大)

・下り線高架橋築造工事(糀谷第1踏切東側傾斜高架橋)
前回記述時には、第1踏切東側では下り線高架橋築造の基礎工事が行われていました。
5月30日に見ると、第1踏切東側では高架橋脚柱の建立のため、深く土堀して準備が進められていました。橋脚柱の建立のところには、ライナーが埋め込まれています。

 高架橋橋脚柱建立の基礎工事(0530写真拡大)

また、同日には1本の高架橋脚柱が建立され、2本目の橋脚柱の建立のため足場が築かれています。6月3日には、3本の高架橋脚柱が建立されています。

 橋脚柱の建立が始まる(:1本目の橋脚柱が建立され2本目の足場が組まれる0530、:3本目の橋脚柱が建立される0603)

同14日に見ると、3本建立の高架橋脚柱は傾斜高架橋の背丈に合わされています。

 3本の高架橋脚柱が勢ぞろい(:高架橋脚柱の建立の基礎工事が進む、:3本建立の高架橋脚柱の丈が延びる0614)

同19日に見ると、建立の高架橋脚柱の下部にはコンクリート打ちが行われていました。

 建立の高架橋脚柱の下部にコンクリート打ちが行われる(写真拡大)

・下り線高架橋盛土部築造工事
前回の記述では盛土部築造工事は開始されており、5月20日から6月19日までの間に走行列車から撮影により見て、高架橋盛土部築造の工事の進展を観察しました。

 下り線高架橋盛土部築造工事(左上[0520]・中上[0530]・右上[0603]・左下[0614]・中下右下[0619]写真拡大)

< 総合INDEX へ
・毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(6月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index 大森町界隈あれこれ 京浜急行関連総目次 : 2011年前期版
・ サブ・カテゴリー別Index : 高架化全工区下り線工事2011年版  へ
<前回 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第17回その2)
次回 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編[大森町ホーム移設編](第17回その4)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第17回その2)

2011年06月17日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2011 蒲田消防署西側の上り線高架橋工事現場 
    
< 総合INDEX へ

第3、4工区工事
・京急蒲田高架駅設備工事
高架駅橋の2階下部の駅コンコース階の床桁枠の組立工事は、前回記述時から見ると殆ど進展がないようです。

 コンコース階床桁枠の組立工事(0614写真拡大)

第5工区工事
・京急蒲田第2~5元踏切間旧下り線線路跡工事
6月14日に見ると、京急蒲田第2~5元踏切間旧下り線線路跡の工事は、高架橋の橋柱間の補強の地下梁の工事が継続して続けられています。

 高架橋の橋柱間補強の地下梁の工事(左上中上右上左下中下右下0615写真拡大)

・京急蒲田第6~9踏切間旧下り線線路跡工事
京急蒲田第6~9踏切間では、元第6踏切の高架橋が3階の高さで、第9踏切の高架橋が2階の高さであり、下り線用の傾斜高架橋の築造工事が進められています。京急蒲田ヤード南端部では高架橋の高さは徐々に低くなっています。

 京急蒲田第6踏切跡南方の下り線高架橋築造工事(:第6踏切跡南側下り線高架橋築造工事、:京急蒲田ヤード中央部下り線高架橋築造工事、:京急蒲田ヤード南部下り線高架橋築造工事0615)

6月15日に見ると、蒲田ヤード南の下り線高架橋築造工事現場から京急蒲田元第8踏切付近の傾斜高架橋では、作業員が多数工事にかかっていました。元第8踏切跡付近での下り線傾斜高架橋の高さは、上り線の2階高架橋の高さとの差はあまりなくなっています。

 ヤード南方から元第8踏切間の下り線高架橋築造工事(:ヤード南方の下り線高架橋築造工事、:ヤードと第8踏切間の下り線高架橋築造工事、:元第8踏切跡南北の下り線高架橋築造工事0615)

元第8踏切跡南側の築造中の高架橋は、蒲田消防署の西北に接しています。その南側の消防署西南に接した高架橋の工事は、前回にはまだ橋脚柱が建ち始めたところで遅れていましたが、15日に見ると、足場が築かれ、高架橋の築造が進んできました。

 蒲田消防署に接する下り線高架橋の築造工事(:元第8踏切跡南の下り線高架橋築造工事、:元第8踏切跡南高架橋のその南方の高架橋築造工事0615)

同日には、蒲田消防署南側に接する突き当り路地の南側の高架橋の築造工事は、足場と工事覆いが外され、京急蒲田第6~9踏切間で最も早く高架橋の姿がお目見えしました。この高架橋は、上り線高架橋とほぼ同じ高さとなっています。

 消防署南側行き止まり道路先に最も早く姿を見せた下り高架橋(0615写真拡大)

同日の京急蒲田第9踏切から見た、下り線高架橋築造の工事は進展しています。

 第9踏切から見た下り線高架橋工事(左・中・右0615写真拡大)

京急蒲田第9踏切付近から第6踏切付近までを、6月15日に上り線列車に乗り旧下り線線路跡の下り線高架橋の築造工事現景を撮影しました。

京急蒲田第9-6踏切間110615.wmv


[クリックすると、京急蒲田第6-9踏切間周辺の下り線高架橋築造現場を先頭車窓からの前進風景を見られます]

< 総合INDEX へ
・毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(6月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index 大森町界隈あれこれ 京浜急行関連総目次 : 2011年前期版
・ サブ・カテゴリー別Index : 高架化全工区下り線工事2011年版  へ
<前回 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第17回その1)
次回 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第17回その3)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第17回その1)

2011年06月15日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2011 内川北岸の新橋脚台P-18築造基礎工事
    
< 総合INDEX へ

第1工区工事
前回の記述時には、大森町駅西口改札口が西寄りの仮設の改札口に移設しました。

大森町駅下り線高架ホームの工事準備
・大森町駅下り線仮設ホームに移設
大森町駅下り線高架ホームの階段、エスカレータおよびエレベータの据え付け工事には、地上下り線在来ホームと駅舎の撤去が必要となり、これまでに旧上り線線路跡に下り線大森町駅仮設ホームの工事を行っていました。6月に入り、下り線大森町駅仮設ホームの工事は仕上げ段階で、地上下り線ホームとしての移設は間もなくです。

 地上下り線仮設ホームの工事完了間近か([0531]・[0603]・[0614]写真拡大)

6月14日に見ると、同19日始発列車から大森町駅下りホームの移設のお知らせが掲示されていました。それによると、旧上り線線路跡に仮設したホームを下りホーム(図ピンク部)として使用し、これまで、1952年(昭和27年)営業再開して以来の在来下りホームと現駅事務室(図黄部)は、撤去され姿を消します。新たな下りホームの改札は、前回記述の西口改札から移設の新改札口(図グレー部)と共用し、下りホームへは改札を入り右に曲がりスロープを昇ります。なお、新駅事務室は改札口の西側に新たに仮設(図グレー部)されました。

 大森町駅下りホームの移設のお知らせ

大森町第1踏切から見た、移設の新大森町駅下りホーム(左側)と撤去が予定される在来下りホーム(右側)。

 移設の大森町駅下り線新ホーム(:移設の新大森町駅下りホームへの通路、:移設下りホーム[左]と在来ホーム[右]、:移設の下り線ホーム0615)

・上り線高架ホームエスカレータの運用開始
大森町駅の上り線高架ホームエスカレータの工事は5月に完成し、6月に入り運用開始されましたが、電力節電のため12時から15時までの間は運転が停止となります。

 運用が開始された上り線高架ホームエスカレータ(0610写真拡大)

下り線仮高架橋築造工事
・内川から北方周辺の仮高架橋工事
前回には、内川北岸の橋梁橋脚の基礎工事が行われており、その新橋脚台P-18は4脚の橋脚で構成されています。
5月31日に橋脚台P-18の基礎工事を見ると、クレーン車を稼働して橋脚鉄柱の埋め込み穴にライナーの挿入が行われたようです。

 新橋脚台P-18の基礎工事1(0531写真拡大)

6月14日に橋脚台P-18の基礎工事を見ると、工事機を稼働してライナーの挿入と橋脚鋼材の埋め込みの工事を行っていました。

 新橋脚台P-18の基礎工事2(左上中上右上左下:新橋脚台P-18の基礎工事、中下右下:ライナーと橋脚鋼材)

同15日には橋脚台P-18の基礎工事現場には、ミキサー車が次々と来て橋脚鋼材の埋め込み場所にコンクリートの打ち込みが行われていました。

 新橋脚台P-18のコンクリート打ち込み工事(写真拡大)

・内川南岸周辺の仮高架橋工事
前回には、旧上り内川南岸橋梁橋脚南方から平和島第5踏切北側高架橋の北方の下り線仮高架橋築造工事現場では、高架橋脚柱建立のため基礎工事が進められています。
5月31日にはクレーン車を稼働して基礎工事が行われ、6月14日には工事車により橋脚柱建立の基礎工事が進められているようです。

 内川南岸の仮高架橋築造基礎工事(:0531、:工事車を駆動して高架橋脚柱の建立準備工事0614)

< 総合INDEX へ
・毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(6月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index 大森町界隈あれこれ 京浜急行関連総目次 : 2011年前期版
・ サブ・カテゴリー別Index : 高架化全工区下り線工事2011年版  へ
<前回 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編[ビデオ特集編](第16回その4)
次回 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第17回その2)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イベント 東京国立博物館 手塚治虫の漫画と仏像でたどる釈迦の生涯「ブッダ展」その3

2011年06月13日 | イベント
kan-haru blog 2011 「ブッダ」直筆原稿 手治虫漫画全集 ブッダ第9巻表紙画
    
< 総合INDEX へ

展示の見どころ(続)
手塚「ブッダ」の展示の見どころの後半は、ブッダが悟りを開いてから、仏陀としての悟り内容を説法で伝え、80歳で入滅して涅槃にいたったと伝えられている場面です。

・悟り
ブッダは、苦行など長い修行を終え、村娘のスジャータから乳粥を受け衰えた体力の回復をはかり、沐浴して体を清め、悟りを開くまでブッダガヤーにあるピッパラ樹のもとで不動の瞑想に入りました。そこに魔王マーラの軍勢がブッダを邪魔しようと限りを尽くしたが、ブッダを屈することができず、ブッダが35歳のとき最上の完全な悟りを開いたと伝えられています。
「仏立像」は、すでに神格化された仏陀像となっているが、表情、姿態は神々しく成道後のブッダの姿を端的に象徴しています。

 悟り

 
写真左:「仏立像」(パキスタン・ペシャワール、クシャーン朝2-3世紀)東京国立博物館蔵 片岩、高さ111.2cm
写真中:「ブッダ」直筆原稿 手塚治虫漫画全集 ブッダ第8巻表紙画
写真右:「ブッダ」直筆原稿 1977年希望の友1月号

・説法
成道を達成したブッダは、神々から祝福を受け、その徳を讃えられるが、そのまま49日間にわたり瞑想を続け悟りの奥義を吟味したといわれる。瞑想を終えると、ブラフマン(梵天)の勧めにより、悟りの内容を伝えることを決意して、バラナシ郊外のサールナートの鹿野園へ向かい、かっての5人の修行の前で初めて説法を行ったと伝えられている。
「仏座像」は、与願、施無畏という印を結んで仏陀の広大な法力を示す仏像。

 説法


写真左上:仏伝図「初転法輪」(パキスタン・ガンダーラ、クシャーン朝2-3世紀)山梨・平山邦夫シルクロード美術館蔵 片岩、65.0cm×75.0cm
写真中上:「精舎」(パキスタン・ガンダーラ、クシャーン朝2-3世紀)東京国立博物館蔵 片岩、高さ17.5cm
写真右上:「仏座像」(重要文化財、法隆寺献納宝物) 東京国立博物館蔵 銅製鍍金、高さ30.8cm、飛鳥時代7世紀
写真左下:「ブッダ」直筆原稿 手塚治虫漫画全集 ブッダ第11巻表紙画
写真中下:ブッダ「コミックコム」 1980年12月号
写真右下:ブッダ「コミックコム」 1983年5月号

・瞑想
ブッダは、各地で説法を行い、教えを広めていく中にあっても、絶えず瞑想を繰り返していたと伝えられています。手ブッダの中では、最後の旅に出る前に、霊鷲山の岩陰で瞑想に耽る場面があります。
「仏座像」は、カンボジアのアンコール期の石彫で、ブッダの瞑想中に龍王が表れて、ブッダを守護する光景を現しています。

 瞑想


写真左:「仏座像」(カンボジア・アンコールトム、アンコール期12世紀)東京国立博物館蔵 砂岩、高さ65.2cm
写真中:「ブッダ」直筆原稿 手塚治虫漫画全集 ブッダ第12巻表紙画
写真右: ブッダ「コミックトム」 1983年12月号

・行脚
ブッダが霊鷲山を離れて最後の行脚の旅を続けえる途中、弟子の阿難陀に教えを説き、後事を託す場面があります。
「伝釈迦仏倚像」は、中国から伝わった形式の仏像で、北斉から隋、初唐期の作風の仏陀の姿である。

 行脚


写真左:「伝釈迦仏倚像」(重要文化財)東京・深大寺蔵 銅製鍍金、高さ83.9cm、飛鳥時代7世紀
写真中:「ブッダ」直筆原稿 手塚治虫漫画全集 ブッダ第13巻表紙画
写真右:「希望コミックス ブッダ」 14巻

・涅槃
ブッダは、最晩年マガダ国首都ラージャガハの近くの廟に滞在していた時、3カ月後に入滅することを宣言した。入滅の日が近づくと、クシナガラのサーラ樹の林に向かい、2本のサーラ樹のもとに、北を枕にして寝床を用意させ、右脇を下にして横たわったと云う。弟子の阿難陀に数々の教えを説き終わると、500人の弟子たちに見守られながら禅定に入り、2月15日80歳で涅槃に至りました。

 涅槃


写真上:「仏涅槃像」(重要文化財)奈良・岡寺蔵 木・漆箔、幅150.0cm、鎌倉時代13世紀
写真下左:仏伝図「納棺」(パキスタン・ガンダーラ、クシャーン朝2-3世紀)山梨・平山郁夫シルクロード美術館蔵 片岩、48.0cm×49.0cm
写真下中:「ブッダ」直筆原稿 手塚治虫漫画全集 ブッダ第14巻表紙画
写真下右:「希望コミックス ブッダ」 14巻

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(6月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index イベント総目次 2010・2011年版2009・2010年版2008年版2006・2007年版
<前回 イベント 東京国立博物館 手塚治虫の漫画と仏像でたどる釈迦の生涯「ブッダ展」その2 へ
次回 イベント ビジネスと物産 異業種交流機会創出のビジネスフェアと地元の銘品に感動の物産展その1
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イベント 東京国立博物館 手塚治虫の漫画と仏像でたどる釈迦の生涯「ブッダ展」その2

2011年06月11日 | イベント
kan-haru blog 2011 「ブッダ」直筆原稿 手治虫漫画全集 ブッダ第7巻表紙画 
    
< 総合INDEX へ

ブッダ展示会場
ブッダ展は、 “漫画の神様”手治虫が独自の解釈で、晩年に10 年以上の歳月をかけて描いた漫画「ブッダ」(14巻)の物語を展開して、仏教の開祖で“釈迦”、“仏”、“ゴーダマ・ブッダ”等と呼ばれる釈迦族の王子、シッダールタの生涯を、直筆原画52 点と、重要文化財を含むガンダーラや日本の美しい仏像約20 点を展示してブッダの生涯をたどり、「生命の尊さ」を問いかけた企画展です。

展示の見どころ
・誕生
いまから2500 年ほど前、ブッダとなるシッダールタは、その母・摩耶(マーヤ)が出産のため故郷へ戻る途中のヒマラヤ山麓にあるちいさな林苑で、摩耶の右脇下から生まれ、釈迦族の王子としてこの世に生を受けました。誕生後、ただちに歩いて天地を指差すなど、すでに奇跡的な事跡に彩られていた。

 ブッダの誕生


写真左上:摩耶夫人及び天人像(重要文化財・法隆寺献納宝物) 東京国立博物館
4躯、銅製鍍金、摩耶夫人:像高16.6cm・天人像:像高12.5-13.0 cm、飛鳥時代7世紀
ルンビニー苑にて摩耶夫人が無憂樹の花枝を折ろうとするや釈迦が腋下から誕生したとの仏伝中の一場面を造形化したもので,この種の立体的な群像としては希有の作例。1078年(承暦2年)に橘寺から法隆寺に移された小金銅仏群のひとつである可能性が高い。
写真左下:摩耶夫人像(ブッダの誕生)
写真右:誕生釈迦仏像(重要文化財) 大報恩寺・京都
快慶の弟子行快作の鎌倉時代の彫刻で、誕生仏としては大型、細身の銅像で、像高16.6cmである。下半身をおおう裳の襞を、写実的に畳んでいる点や清凉寺式釈迦像の様な縄目状の髪に造っている点も、この時代の特色を良く表わしている。蓮の葉を裏返した荷葉座と、呼ばれる台座上に立つが、これも当初のものと思われる。
釈迦は麻耶夫人の右腋下から生れや、七歩あゆみ、右手を挙げて天を指差し、左手を下げて地を指差し、「天上天下唯我独尊」といったと伝えられている。
写真中下:「ブッダ」直筆原稿 手治虫漫画全集、ブッダ第2巻表紙画

・結婚
ブッダが生まれて7日目に、母・摩耶(マーヤ)が死去し、その後マーヤの妹に養育されたと伝えられている。シャカ族の王子として生まれジッダルダと名付けられ、武芸、天文、祭祀、文学などの帝王学の教育を受けた。17歳で、第1妃のヤショダラ妃を迎えた。

 結婚


写真左:仏伝図「酒を飲む男女」(パキスタン・ガンダーラ、クシャーン朝2-3世紀)東京国立博物館蔵 41.5×39.0cm
写真中:「ブッダ」直筆原稿 手治虫漫画全集 ブッダ第4巻表紙画
写真右:「ブッダ」直筆原稿 1974年希望の友3月号

・苦悩
シッダールタは王子として、贅沢で何不自由のない生活を送ったが、幼少時に弱肉強食の世を知り、人生に悩む苦悩の日々を送り、その迷いの世界から解脱するために、29 歳で出家を決意する。

 ブッダの苦悩

 
写真左:「菩薩半跏思惟像」(重要文化財、法隆寺献納宝物) 東京国立博物館蔵 銅製鍍金、像高22.0cm、飛鳥時代7世紀
写真中:「ブッダ」直筆原稿 手治虫漫画全集 ブッダ第3巻表紙画
写真右:「ブッダ」直筆原稿 1974年希望の友3月号、「四門出遊」の場面

・出家
ブッダは、「四門出遊」を経験することにより出家の欲求を高め、人の欲望の空しさを感じ、出家の意思を固めた伝えられている。出家を決意したブッダは、ある夜、場内が寝静まったころあいをみはかり、愛馬カンタンにまたがり、カピランヴァストウ城を後にして、近隣の諸国を通過して、アナヴァマーに辿り着きました。そこで、宮中の華やかな衣装を脱ぎ捨て、修業の生活に入っていきました。この時、ブッダは29歳であったと伝えられている。

 出家


写真左:「菩薩立像」(パキスタン・ガンダーラ、クシャーン朝2-3世紀)東京国立博物館蔵
ブッダの王子時代の姿をモデルとした最初期の菩薩像で、豊かな髪を結い、豪華な装身具で、身を飾り、サンダルを履くのは、当時の王侯貴族の装いを反映したもので、後の菩薩像の原型がよく示されています。
写真中:「ブッダ」直筆原稿 手治虫漫画全集 ブッダ第5巻表紙画
写真右:「ブッダ」直筆原稿 1974年希望の友8月号

・苦行
ブッダは出家後、宗教上の重要拠点のヴァイシャリーの都を目指して修業の旅を続け、そこで高名な修行者に師事して教えを受けました。その後、マガダ国の首都ラジャーガハに行き、名高い修行者のもとで修行を行いました。最高権威者の修行を終えると、さらにナイランジャナー河の近くで、さらに激しい修行に入るが、悟りの境地は遠く、苦行に没頭する。

 苦行


写真左:「出山釈迦立像」南北朝時代14世紀、木・金泥塗、高さ96.3cm、奈良国立博物館蔵
写真中:「ブッダ」直筆原稿 手治虫漫画全集 ブッダ第6巻表紙画
写真右:「ブッダ」直筆原稿 1975年希望の友11月号

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(6月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index イベント総目次 2010・2011年版2009・2010年版2008年版2006・2007年版
<前回 イベント 東京国立博物館 手塚治虫の漫画と仏像でたどる釈迦の生涯「ブッダ展」その1 へ
次回 イベント イベント 東京国立博物館 手塚治虫の漫画と仏像でたどる釈迦の生涯「ブッダ展」その3
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イベント 東京国立博物館 手塚治虫の漫画と仏像でたどる釈迦の生涯「ブッダ展」その1

2011年06月09日 | イベント
kan-haru blog 2011 ブッダ (第1巻) (潮ビジュアル文庫)
    
< 総合INDEX へ

特別展「手塚治虫のブッダ展」
手塚治虫のブッダ展は、東京国立博物館本館特別5室(台東区上野公園13-9)で4 月26 日から6 月26 日まで開催され、5月25日に見てきました。博物館本館の特別5室は、1階の大階段裏に吹き抜けの広大な空間をもつ展示室で、過去には数々の名品の展示場にあてられてきた特別展の会場です。
ブッダ展の主催は、東京国立博物館、東映、TBS、後援が文化庁、読売新聞社で、協力が手プロダクション、日本通運、(財)全日本仏教会、ニトリ、カラーキネティクスジャパンにより開催され、展示会の観覧料が一般800円で、大学生が600円、高校生が400円で、中学生以下は無料です。

 手塚治虫のブッダ展会場(:ブッダ展開催の国立博物館本館、:国立博物館本館特別5室会場、:手塚治虫の漫画ブッダ)

展示作品は、漫画「ブッダ」の手塚治虫の直筆原画52 点と、重要文化財を含むガンダーラや日本の博物館、寺院貯蔵の美しい仏像約20 点によってブッダの生涯をたどる、漫画と仏像による展示会史上初の試みです。

 ブッダ展パンフレット(左)と入場券(右)

手塚治虫
手塚治虫は1928年(昭和3年)11月3日に、大阪府豊能郡豊中町(現在の豊中市)に、父・手塚粲と母・文子の長男として生まれました。明治節に生まれたことから「明治」にちなんで、本名は「治」と名づけられました。

 手塚治虫氏

治虫は幼い頃から見様見真似で漫画を描くようになり、特に小学4・5年生頃漫画に熱中し、ノートに漫画を描いて学校に持っていった時に教師に取り上げられ、職員室で回し読みされ漫画を描くことを黙認される、クラスでも一目置かれるようになりました。
戦時中の1941年(昭和16年)に、大阪府立北野中学校(現在の大阪府立北野高等学校)に入学し、戦時中の修業年限短縮により北野中学を1945年3月に4年で卒業。同年6月、勤労奉仕監視哨中に大阪大空襲に遭遇して、頭上で焼夷弾が投下されるも九死に一生を得る空襲体験をして、後に『紙の砦』(1974年)や『どついたれ』(1979年 - 1980年)などの自伝的作品の中にその様子が描かれています。
1945年7月、手塚は試験を受けて戦争の長期化に伴い軍医速成のために臨時に付設された、大阪帝国大学附属医学専門部に入学し、1951年に医学専門部を卒業して、大阪大学医学部附属病院で1年間インターンを務め、1953年7月に国家試験を受けて医師免許を取得しています。
1950年(昭和25年)11月より漫画マニア誌『漫画少年』(学童社)にて『ジャングル大帝』の連載を開始し、翌1951年には『鉄腕アトム』(1952年 - )の前身となる『アトム大使』を『少年』(光文社)に連載するなど多数の雑誌で連載を始め、この年には目ぼしい少年漫画誌のほとんどで手塚の漫画が開始されることになりました。

 鉄腕アトム、ジャングル大帝マンガ 

手塚はもともとアニメーションに強い情熱を持っており、アニメーション制作は念願の仕事であり、1961年(昭和36年)に手塚プロダクション動画部を設立し、アニメーション『ある街角の物語』を制作、この作品でブルーリボン賞や文部省芸術祭奨励賞など数々の賞を受賞する。翌1962年に「虫プロダクション」に改名し、続いて日本初のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』の制作に取り掛かり、1967年(昭和42年)には原作『ジャングル大帝』が第28回ヴェネツィア国際映画祭サンマルコ銀獅子賞を受賞しました。

 鉄腕アトム、ジャングル大帝アニメ

手塚は自ら「冬の時代」であったと回想して、1968年から1973年を作家としての窮地に立たされ、1973年に経営者となっていた虫プロ商事、虫プロダクションが倒産しました。
しかし、1973年に『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)で連載開始された『ブラック・ジャック』は、手塚を代表するヒット作へと成長していくことになり、さらに1974年『週刊少年マガジン』(講談社)連載の『三つ目がとおる』もヒットし、手塚は本格的復活を遂げることになりました。1977年時点で、手塚は『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』『火の鳥』『ユニコ』『MW』と6つの連載を抱えていました。文庫本ブームに伴い手塚の過去の作品も続々と再刊されており、さらに同年6月からの講談社『手塚治虫漫画全集』刊行によって、手塚は「漫画の第一人者」、「漫画の神様」という評価を確かなものになりました。
1988年11月、上海でのアニメーションフェスティバルからの帰国と同時に体調の悪化により入院し胃癌と判明し、1989年(平成元年)2月9日に死去しました。

 「ブッダ」マンガ

仏陀
仏教を開いた釈迦ただ一人を仏陀とする。しかし初期の経典でも燃燈仏や過去七仏など仏陀の存在を説いたものもあり、またジャイナ教の文献にはマハーヴィーラを「ブッダ」と呼んだ形跡があることなどから、古代インドの限られた地域社会の共通認識としては既に仏陀が存在したことを示している。
多くの仏教の宗派では、「ブッダ(仏陀)」は釈迦だけを指す場合が多く、悟りを得た人物を意味する場合は阿羅漢など別の呼び名が使われる。(Wikipedia)

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(6月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index イベント総目次 2010・2011年版2009・2010年版2008年版2006・2007年版
<前回 イベント 東京国立博物館 江戸三座の役者28図を描いてデビューし10カ月で姿を消した東州斎写楽を見るその2 へ
次回 イベント イベント 東京国立博物館 手塚治虫の漫画と仏像でたどる釈迦の生涯「ブッダ展」その2
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大森町界隈あれこれ 大震災で自粛の夏の例祭 神輿自粛の浅間神社と例大祭式典のみ斎行の諏訪神社

2011年06月07日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2011 大森沢田東町会のお囃子会
   
< 総合INDEX へ

大地震で夏の例祭自粛
今年の夏の例祭は東日本大震災により、下谷神社・神田明神・浅草神社・鳥越神社などの下町を代表するお江戸神輿で有名な神社の神輿渡御が中止になりました。神輿渡御が中止の神田明神や浅草神社では、神職や氏子らが神前で例大祭式典を実施し、被災地の復興祈願が行われました。
一方で、品川神社では東日本大震災復興祈願して、6月3日19時から宵宮・祭典を執り行い、4日14時から子供神輿の連合渡御と16時から大人神輿の連合渡御が行われ、5日は神幸祭で8時に鳳輦の出社と本社惣町神輿を宮出し、13時30分から本社惣町神輿の渡御が行われ(「風景・風物詩 天王祭 品川神社例祭2008とおいらん道中(その1)」参照)ました。

・浅間神社例祭
大森町界隈の浅間神社(大森西2-2-7)での夏の例大祭は、地震の自粛として神社神輿と山車の巡行は中止し、6月4日(土)に宵宮祭りを執行し、5日(日)10時に例大祭式典を執行し、両日の18時から奉納演芸大会が開催されました。

 浅間神社例大祭ポスター

浅間神社の由来によりますと、1918年(大正7年)に耕地整理のため移転し、その後また、氏子の増加と道路拡張のため1940年(昭和15年) に現在地の環7通り沿いに遷座したといわれております。

 例祭参詣(写真拡大)

快晴で汗ばむ4日に見に行くと、大森町の神社例祭の露天数では最大の出店を誇り、神社前の環7通りの歩道と神社境内には露天(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 浅間神社例祭」2007参照)が立並んでいます。

 環7通りに立並ぶ露天(写真拡大)

環7通りの歩道は狭いので、食べ物屋やお面・おもちゃなどを主体とした露天がびっしりと店を連ねています。

 大森町最大の出店を誇る環7歩道の露天(写真拡大) 

境内では遊ぶ場所がとれるので、金魚すくい、型抜き、射的、輪投げ、スマートボール、ゲーム釣りなどの出店が、子供たちには遊び心をくすぐり、大人には哀愁を誘うのがお祭りの露天です。

 境内はゲーム感覚の出店の露天が立ち並ぶ(写真拡大)

今年の例祭は山車の巡行は中止となりましたので、毎年山車を引いてくれる子供たちに配っていたおもちゃの代わりに、沢田東町会と沢田睦会の2か所で子供の楽しみとしておもちゃのくじ引き会が5日に行われました。

 山車の巡行中止によりおもちゃくじ引き会を行う(写真拡大)

浅間神社の夏の例祭の子供会と達人連のお囃子を、4、5の両日にわたり撮影しました。

浅間神社お囃子連2011年6月.wmv


[クリックすると、子供会と達人連のお囃子が見られます]

・諏訪神社
諏訪神社の夏の例祭(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 諏訪神社2009年例祭」参照)は5月最後の週の土日に行われますが、今年は東日本大震災により例祭を自粛し、5月29日に神職や氏子らが神前で例大祭式典のみを実施しました。
記録はありませんが、世界大戦により例祭(戦時中の諏訪神社例祭写真「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 諏訪神社その3」参照)が中止となり、戦後の復興により例祭が再開された後では例大祭式典のみのお祭りは初めてのことと思われます。今年の5月28、29日は雨に祟われて、被災地で災害に遭われた方のご冥福を祈り、今後の復興を祈願をして誠に寂しく悲しい例祭となりました。諏訪神社では、お祭りに奉納された金額の一部を東日本大震災の義捐金としてお送りしました。

 例大祭式典のみの2011年春の例祭(写真拡大)

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(6月分掲Indexへ)
カテゴリー別Index 大森町界隈あれこれ 大森町風景別総目次
<前回 大森町界隈あれこれ 満開の季節 大森町界隈の公園・道路・庭先に春爛漫に咲く桜・桃その2 へ
次回 大森町界隈あれこれ 新年を準備の大森町周辺の風景・風物 年末・年始の商店と氏子諏訪神社を歩く
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イベント 東京国立博物館 江戸三座の役者28図を描いてデビューし10カ月で姿を消した東州斎写楽を見るその2

2011年06月05日 | イベント
kan-haru blog 2011 写楽第1期「初代大谷徳次の奴袖助」   

< 総合INDEX へ

写楽展示会場
・プロローグ
錦絵に殆ど接していない者にとって接しやすい錦絵は、芝居に取材して描かれた役者の上半身をクローズアップして描いた個性的な役者の似顔絵の大首絵の雲母摺りの作品です。
プロローグでの展示は、写楽の作品のイメージに馴染みの「市川鰕蔵の竹村定之進」1794年(寛政6年)5月 オランダ・アムステルダム国立美術館蔵 大判錦絵や「初代大谷徳次の奴袖助」などと共に、男女を組み合わせた雲母摺背景の二人立ち姿図の「三代目市川高麗蔵の亀屋忠兵衛と初代中山富三郎の新町のけいせい梅川」イギリス・大英博物館蔵 大判錦絵や「三代目佐野川市松の祇園町の白人おなよと市川富右衛門の蟹坂藤馬」の大判錦絵などが見られます。

 「市川鰕蔵の竹村定之進」(左)と「三代目市川高麗蔵の亀屋忠兵衛と初代中山富三郎の新町のけいせい梅川」

・写楽以前の役者絵
このコーナーでは、写楽登場以前の芝居絵を概観します。男性によって演じられるようになった初期歌舞伎から菱川師宣の「歌舞伎図屏風」に描かれた元禄歌舞伎の時代を経て、写楽登場までの約150年間を、鳥居清倍、一筆斎文調、勝川春章・春好・春英やその他の4絵師により役者がどのように描かれてきたかを見ます。

 勝川春好筆「三代目市川高麗像蔵の平宗盛」1789年(寛政元年)

・写楽を生み出した蔦屋重三郎
版元蔦屋は、雲母摺りの美人大首絵を喜多川歌麿に制作させて、美人画の歌麿と役者絵の写楽を分担させた蔦屋重三郎を探ります。ここでは、歌麿の美人大首絵の10作品と、栄松斎長喜の美人画などが観賞できます。

 喜多川歌麿筆「婦人相学十躰ポペンを吹く娘」1973年頃

・写楽とライバルたち
写楽と同じ芝居の同じ役に取材した歌川豊国、勝川春英らの作品を比較してみます。

 東洲斎写楽(左)と歌川豊国(右)筆「二代目坂東三津五郎」

・版の比較
同じ図柄で落款(らっかん)の位置や役者の紋が違っている作品や、保存状態が良く色のきれいな作品などを、同図柄の2枚を比べて見るコーナーです。

 「三代目瀬川菊之丞の田辺文蔵女房おしず」フランス、ギメ東洋美術館(左)、東京国立博物館(右)

・写楽の全貌
写楽の全貌は、この展示会のメインのコーナーであり、全146図と考えられる写楽の版画を、海外からも多くの作品を借りて142図が揃いました。10か月に描いた写楽の作品を題材とした芝居の上演順に、第1期から第4期に分けて展示しています。
第1期
1794年(寛政6年)5月にデビューを飾った都座、河原崎座と桐座の三座に取材した役者絵大首絵の大判錦絵が28枚が展示されています。いずれも傑作揃いで、デビュー仕立ての絵師の勢いがあります。

 「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」

第2期
1794年(寛政6年)7月の都座、8月の河原崎座と桐座に取材した役者絵全身像の大判錦絵が8図と細判錦絵30図が展示されています。

 「「二代目瀬川富三郎のけいせい遠山と初代市川栗蔵の義若丸」

第3期
1794年(寛政6年)11月の河原崎座、都座、桐座に取材した役者絵と、閏11月の都座、桐座に取材した役者絵の間判錦絵11図、細判錦絵47図の他、役者追善絵の間判錦絵2図と、相撲絵大判錦絵3図、細判錦絵1図が展示されています。第2期に続いて全身像が主体であるが、無背景の地潰しでは無く小道具や情景が描き込まれています。

 「三代目沢村宗十郎の孔雀三郎なり平」

第4期
1795年(寛政7年)正月都座、桐座に取材した役者絵の細判錦絵10図の他、相撲絵大判錦絵2図が展示されています。第4期の作品は舞台上の芝居であることを意識させるような説明的な背景が描かれている。

 「市川鰕蔵の工藤左衛門祐経」

・写楽の残影
写楽の影響は後世に残り、十返舎一九が著作の挿絵に写楽画を描き込んだり、浮世絵師栄松齋長喜が「四代目松本幸四郎の肴屋五郎兵衛」を団扇にして高島おひさに持たせたりして、写楽が筆を絶った後も影響力が残りました。

 歌川国政筆「市川鰕蔵の薄井荒太郎貞光に扮しての暫」

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(6月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index イベント総目次 2010・2011年版2009・2010年版2008年版2006・2007年版
<前回 イベント 東京国立博物館 江戸三座の役者28図を描いてデビューし10カ月で姿を消した東州斎写楽を見るその1 へ
次回 イベント イベント 東京国立博物館 手塚治虫の漫画と仏像でたどる釈迦の生涯「ブッダ展」その1
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イベント 東京国立博物館 江戸三座の役者28図を描いてデビューし10カ月で姿を消した東州斎写楽を見るその1

2011年06月03日 | イベント
kan-haru blog 2011 写楽カタログ   

< 総合INDEX へ

特別展写楽
特別展写楽は、東京国立博物館平成館(台東区上野公園13-9)で当初2011年4月5日から5月15日に開催を予定していましたが、東日本大震災に伴い5月1日から6月12日の開催に会期が変更されました。

 特別展写楽(:東京国立博物館、:東京国立博物館平成館写楽展)

特別展の主催は、東京国立博物館、東京新聞、NHK、NHKプモーションで、協力が国際浮世絵学会、後援が文化庁、協賛が日本写真印刷、みずほ銀行、三井物産で、輸送協力が日本航空により行われます。展示会の観覧料が大人1500円で、大学生が1200円、高校生が900円で、中学生以下は無料です。

 東京国立博物館平成館写楽展(写真拡大)

特別展写楽は、東洲斎写楽が1794年(寛政6年)5月に、江戸三座の役者の浮世絵28図を一度に出版して登場、翌年1月までに140図以上を残して忽然と姿をけした絵師で、写楽版画の全貌と、同時代の他の浮世絵師の作品と比較して、写楽作品を紹介する展示会で、浮世絵の数と質において空前絶後の規模でありますので、5月25日に見てきました。

 写楽展パンフレットと入場券

・展示会場
写楽の展示会場には、平成館の入り口を入り左側のエスカレータで昇るとすぐ左が第1会場の入り口です。展示会場のレイアウトは、最初の展示会場が「プロローグ」で、次の展示場1が「写楽以前の役者絵」です。以下展示場2が「写楽を生み出した蔦屋重三郎」と続き、3の展示場が「写楽とライバルたち」、展示場4が「版の比較」の展示コーナーで会場の半分を回りました。

 写楽展展示会場1(:写楽展展示場には左側のエスカレータで上がる、:エスカレータを上ると左側が第1会場入り口、:写楽展展示場案内図)

外にでると中央広場に写楽オリジナルグッズコーナーがあります。グッズコーナーの先は、展示会場の右半分で第2会場の入り口です。第2会場を入ってすぐの展示場5はメインの「写楽の全貌」で、第一期から第四期の展示場が続きます。次の展示場6には「相撲絵など」が展示されており、ここで出口で右側のエスカレータを降りて特別展写楽を見終わります。

  写楽展展示会場2(:写楽オリジナルグッズコーナー、:平成館右側の第2会場入り口、:展示場から右側のエスカレータで降りると出口)

東洲斎写楽
東洲斎写楽についてを写楽カタログから拾うと、写楽という絵師は確かに居て、寛政6年5月から翌年の芝居を題材として、140を超える図を描いていた。写楽作品はすべて蔦屋重三郎の店から出版された。絵の発表時期は4期に分けられており、第1期が寛政6年5月(28枚、全て大版の黒雲母摺大首絵)に大々的にデビューをし、第2期が寛政6年7月・8月(二人立ちの役者全身像7枚、楽屋頭取口上の図1枚、細絵30枚)、第3期が寛政6年11月・閏11月(顔見世狂言を描いたもの44枚、間版大首絵10枚、追善絵2枚)、第4期(春狂言を描いたもの、相撲絵を交える)が寛政7年1・2月とされています。
写楽の代表作とされるものは大首絵の第1期の作品で、後になるほど精細を欠き、作品の品質は劣っており、前期(1、2期)と後期(3、4期)で作風が異なることから、別人が描いていたとする説もあります。
『江戸名所図会』などで知られる考証家・斎藤月岑が1844年に記した『増補浮世絵類考』には、写楽は俗称斎藤十郎兵衛で、八丁堀に住む「阿州侯(阿波徳島藩の蜂須賀家)の能役者」であるという記述があります。
能役者の公式名簿である『猿楽分限帖』や『重修猿楽伝記』の記述には、斎藤家は与右衛門と十郎兵衛を交互に名乗る喜多流の能役者で、1810年(文化7年)に斎藤十郎兵衛が49歳で生存していたことがわかり、さらに、4.埼玉県越谷市の浄土真宗本願寺派今日山法光寺の過去帳に「八丁堀地蔵橋 阿州殿御内 斎藤十良(郎)兵衛」が1820年(文政3年)3月7日に58歳で死去し、千住にて火葬されたとの記録があり、阿波出身の斎藤十郎兵という人物が八丁堀地蔵橋に住んでいたことが確認されています。

 写楽パンフレットから

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(6月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index イベント総目次 2010・2011年版2009・2010年版2008年版2006・2007年版
<前回 イベント 江戸東京博物館 幕末の絵師狩野一信が描く100幅の五百羅漢図を見るその3 へ
次回 イベント 東京国立博物館 江戸三座の役者28図を描いてデビューし10カ月で姿を消した東州斎写楽を見るその2
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

番外編カテゴリー別ブログ記事の検索と見方 6月INDEX

2011年06月01日 | INDEX
kan-haru blog 2011 6月1日33版

< 総合INDEX へ

K&A kan-haruの日記の月間INDEXは、毎月1日付けで掲載しており前月の登録記事の即時検索のほか、カテゴリー別の登録記事の全て(2006年3月から最新まで)の検索ができます。

[K&A kan-haru 日記の見方について]
ブログ左覧のガイド板「カテゴリー」には、kan-haru日記のカテゴリー名とカテゴリー毎の記事登録数が掲載されております。
総合目次は、この月間INDEXと統合しており、同一のカテゴリー別目次を併用しております。
「ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について」は、この日記を見るためのガイダンスを記載してあります。
kan-haru日記 カテゴリー別総合目次(全日記INDEX)
ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その1)  2007年1月30日 更新
ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その2)  2007年1月22日更新

[ブックマーク からカテゴリー別目次を見る]
ブログ左覧のガイド板の「ブックマーク」のカテゴリーを選択するとカテゴリー別の目次が見られます。

[閲覧日記のページから総合目次を見るには]
各閲覧日記の先頭または後尾に記載の"< 総合INDEX へ" からも最新の目次が見られます。

[ブログ記事内の参照地図・写真などを拡大して見るには]
次の2006年3月月間INDEXに方法が記載してありますので、参照して下さい。
番外編 ブログ記事の参照地図を拡大して見る方法 [付 kan-haruの日記3月月間INDEX] 2006年4月1日

  大森町界隈あれこれ カテゴリー別目次
■印覧の11年5月掲載項目以外の目次は、下記の項番に付記された下線付きのカテゴリー項目を選択すると、当該カテゴリーの掲載当初から現在日時点までの目次が見られます。

 1 大森町界隈あれこれ 大森町に住んで65年!
 2 大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記 総目次
  2-1 大森町界隈あれこれ 鎮魂! 大森町大空襲 (第1編)
      付 東京大空襲 ~あれから61年~
  2-2 大森町界隈あれこれ 手記第2編 戦災日誌中野編
  2-3 大森町界隈あれこれ 手記第3編 戦前戦後目黒にて
 3 大森町界隈あれこれ 戦後編若山武義氏手記 総目次
  3-1 大森町界隈あれこれ 戦後史編手記 第1~4編総目次
 4 大森町界隈あれこれ 大森町の社寺
 5 大森町界隈あれこれ 大森町商店街
 6 大森町界隈あれこれ 大森海苔
 7 大森町界隈あれこれ 京浜急行関連
  ◇ 2006・2007年版2008年前期版2008年中期版2008年後期版2009年前期版2009年中期版2009年中Ⅱ期版2009年後期版2010年前期版2010年前Ⅱ期版2010年中期版2010年後期版2011年前期版
 8 大森町界隈あれこれ 大森町風景
 9 大森町界隈あれこれ イベント  
10 大森町界隈あれこれ 大森町学びや
 ■ 大森町界隈あれこれ 大森町学びや 60年前の高校時代の関西修学旅行を追想するその1 5月3日
 ■ 大森町界隈あれこれ 大森町学びや 60年前の高校時代の関西修学旅行を追想するその2 5月6日
 ■ 大森町界隈あれこれ 大森町学びや 60年前の高校時代の関西修学旅行を追想するその3 5月9日
 
  大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 サブ・カテゴリー別目次

11 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 Sub INDEX
  ◇ 関連側道高架化全工区下り線工事2011年版高架化全工区下り線工事2010年版全工区統合2009年版全工区統合2010年版、大森町付近工区:2006・2007年版2008年版2009年版梅屋敷付近工区、京急蒲田付近工区:2006~2008年版2009年版雑色付近工区糀谷付近工区
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第16回その1) 5月15日 
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第16回その2) 5月17日
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第16回その3) 5月20日

  一般 カテゴリー別目次

21 風景・風物詩 総目次
  ◇ 2006・2007年版2007・2008年版2008~2010年版2010~2011年版 
22 小さな旅 総目次
  ◇ 2006~2009年版2009~2011年版
 ■ 小さな旅 600畳の大藤 天然記念物指定樹齢145年を越える大藤棚のあしかがフラワーパークその1 5月11日
 ■ 小さな旅 600畳の大藤 天然記念物指定樹齢145年を越える大藤棚のあしかがフラワーパークその2 5月13日
23 旅ものがたり 総目次
24 秋葉原界隈 総目次
25 イベント 総目次
  ◇ 2006・2007年版2008年版2009・2010年版2010・2011年版
 ■ イベント 江戸東京博物館 幕末の絵師狩野一信が描く100幅の五百羅漢図を見るその1 5月26日
 ■ イベント 江戸東京博物館 幕末の絵師狩野一信が描く100幅の五百羅漢図を見るその2 5月28日
 ■ イベント 江戸東京博物館 幕末の絵師狩野一信が描く100幅の五百羅漢図を見るその3 5月30日
26 ITと技術 総目次
27 Weblog 総目次

< 総合INDEX へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする