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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 京急蒲田駅付近(第12回その1)

2008年08月31日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2008

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京急蒲田駅構内の高架化工事
京急蒲田駅構内では、4組のジョイントベンチャーが分担して第3~5、7工区の高架化工事を行っており、広大なエリアに2階部分の高架橋から建設を進めておりますが、最終完成時には本線と空港線の上下線に分けて3階建ての高架駅となります。
京急蒲田駅構内の高架化工事の広大で複雑な高架駅橋の構造は、俯瞰的に全体的を見渡せることができません。したがって、高架駅橋の工事進捗の様子を見るのは、京急蒲田駅上下線ホームからと、駅周辺の道路からの観察となります。今回は、8月23、27と28日に見てきました。

 京急蒲田駅南部の高架駅橋構造(高架橋駅構造模型拡大図)

・京急蒲田駅北端部の高架橋工事
京急蒲田駅北端の梅屋敷第4踏切道(補助36号線)の北端に接してクリーム色の、まだ2階部分のみの高架橋が建てられています(高架化 京急蒲田駅付近(第10回)参照)。この高架橋は、その北側に第2工区担当が建設済みのグレー色3階建ての高架橋と接続します。
また、このクリーム色の高架橋は、同第4踏切道南の第3工区担当の高架駅橋と補助36号線を跨ぐ鉄橋で接続されます。

 梅屋敷第4踏切道付近の上り線路部の高架橋(:踏切道北側の2階部の高架橋、:踏切道から見た京急蒲田高架駅橋)

補助36号線道路から見る2階部の京急蒲田駅橋は、丸鋼管脚柱を中心として左右の突起部が上り線路の踏切を跨ぐ鉄橋を架ける位置で、右側が本線上り線路で、左側が空港線上り線路の様です。踏切端で建設中の高架橋上の本線上り線路の位置は、現在の地上運航の本線上りホームより西側の外部に位置しており、駅ホーム中心となる丸鋼管脚柱の位置は現在の上りホーム付近の上空にあたたり、空港線上り線路は現在運航の本線上下線の上空位置にあります。

 高架橋建設中の上り本線高架橋(拡大)

京急蒲田駅ホーム外部からホーム北端部付近までの、2階部本線上り線の高架橋の外観が駅西口道路の呑川付近から見られる様になり、最終が3階建て高架駅橋ですので丈夫にがっちりとした骨格で構築されています。

 京急蒲田西口道路から見た上り高架橋(拡大)

一方、空港線の上り線路部の高架橋は、高架化 京急蒲田駅付近(第11回)で、ホームから見た写真を記載していますが、この部分の高架橋は橋上が塞がれているため構造が良く分かりません。

 ホームから見た京急蒲田駅北部高架橋(拡大)

・京急蒲田駅中央部の高架橋工事
京急蒲田駅ホーム中央部から見た工事状況は、同じように高架駅橋が橋上で塞がれているため築造が見えず、進捗している筈の工事が高架化 京急蒲田駅付近(第11回)で掲示のものとは変化がありませんが、今回は視野角度を変えて写真を撮ってみました。

 京急蒲田駅ホーム中央部から見た高架橋(拡大)

・京急蒲田駅南部の高架橋工事
第4工区の京急蒲田駅ホーム南部から見た工事状況は、高架橋の工事が進行中で、骨格の一部が露出状態であるため、高架橋上の線路走行のコースが見えました。

  京急蒲田駅ホーム南部から見た高架橋1(拡大)

現行路線の上空を通る空港線線路は、左にカーブして第1京浜国道上を渡り、羽田空港方向へ東進して進みますが、横浜方面との乗り入れのため上り本線へも分岐交差をします。
駅南部の高架橋の梁桁の骨格は、緩やかに左に折れた形状で築造されているのが見え、また横浜方面への進行ルートも構築されています。

 京急蒲田駅ホーム南部から見た高架橋2(拡大)

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イベント 羽田空港滑走路工事 4本目滑走路建設工事現場を見渡せるD滑走路の見学

2008年08月29日 | イベント
kan-haru blog 2008 

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羽田空港D滑走路見学
現在、東京国際(羽田)空港では、4本目の滑走路となるD滑走路の新設工事を平成19年3月30日から羽田空港南側で進めています。国土交通省関東地方整備局 東京空港整備事務所では、D滑走路の建設工事を一人でも多くの人に知って貰うことを目的に、平成19年3月に工事現場を見渡せるD滑走路展望台を開設して、同年7月から一般公開をしました。

一般公開のD滑走路展望台への見学者は、平成20年のゴールデンウイークには1万人を突破し、8月18日には1万5千人を突破しました。この間の訪問者は国土交通省の記者発表によると、月曜日の休館日を除く開館日には平均50人が訪れ、月に約1200人の訪問があったと発表されています。
D滑走路展望台への見学は、個人1人でも参加が出来ます。特に平成20年3月から第2、第4日曜日の午前と午後の2回にわたりD滑走路展望台見学会が開催され、羽田空港第2ターミナル1階バス停 第4番乗り場から無料送迎バスが出て、約1時間の所要コースで、展望台を見学して第2ターミナル2階バス停に戻ります。

 第2ターミナル4番バス停の見学送迎バス

見学の申し込みは、参加日の前々日の金曜日までに電話で申し込みをして、50人の定員で締切です。8月10日の日曜日に個人で申し込みをして、午前10時30分発の見学会に参加してきました。

 D滑走路展望台へのバスコース

羽田空港の今昔
現在、国内約50の空港と結ばれ、1日約420便が就航し、平成18年度には、国内航空旅客数の約6割にあたる6,526万人が利用し、貨物取扱量が約70万トンで、32万7千回の離着陸の実績を有しています。
1984年から2007年(昭和59年から平成19年)にかけて、空港施設を大規模に沖合へ新たに展開する「東京国際空港沖合展開事業」が行われ、現在、さらなる航空需要に対応するための「東京国際空港再拡張事業」を進めてられています。

空港の開港は、1931年(昭和6年)8月にわが国初の国営民間航空専用空港「東京飛行場」として、面積53haに延長300m、幅15m滑走路1本を設けてスタートしました。1938、9年(昭和13、14年)にかけて、延長800m、幅80mの最初の拡張工事が行われ滑走路が2本整備されました。終戦後、進駐軍に接収され、1958年(昭和33年)7月に全面返還されました。1964年から1971年(昭和39年から46年)にかけ、3本の滑走路を有する羽田空港となり、成田空港の開港に伴い1978年(昭和53年)に、中華航空を除く国際線が移転し国内線空港としての役割を担うことになりました。

D滑走路展望台の見学
今回の見学の参加者は10数名で、羽田空港第2ターミナル1階の路線バス停の第4番乗り場に、15分前に集合し申し込み名簿を確認して出発です。D滑走路展望台へは、環8通りからそれて空港端の道路を多摩川へと進み、トンネルを抜けるとすぐに3階仮設建物の屋上の展望台に到着です。

 D滑走路展望台から望む空港周辺の風景

展望台からの展望は、川崎のアクアライン入口が近くに見えましたが、薄曇りのため海ホタルは見えませんでしたが、この展望台から見る着陸態勢の飛行機は、空港内で最も近くで見られる場所なので迫力がありました。

 D滑走路の建設工事内容説明板(:D滑走路構造説明、:桟橋部構造説明、:接続部構造説明)

見学は、2階の説明室で映写により羽田空港の概要を見て、3階資料室の床に描かれた空港地図や資料により説明を受け、最後に屋上の展望台から説明を聞きながらD滑走路工事の状況を見学しました。展望台の正面からは、桟橋部の工事状況が見られ、左手には桟橋接続部の工事の行われている状況を視察してきました。

 説明室および資料室でのD滑走路工事概要説明

D滑走路建設工事の進行状況
D滑走路建設工事は、平成21年度の完成予定を目指して、365日24時間の工事が進められており、現在は、桟橋部の滑走路の土台となる鋼製ジャケットが次々に据え付けており、埋立/桟橋接続部では鋼管矢板打設が完了して、継ぎ手処理工や中詰め工へと作業が移っています。

 桟橋部工事現場の建設状況(写真拡大)

また、埋立部では捨石マウンドやケーソンが出現して、護岸延長4,500mのうち約3,000mが海上に姿を現しています。

 接続部工事現場の建設状況(写真拡大)

見学を終えてから第2ターミナルの展望台へ上がり、変わりゆく羽田空港を実感してきました。工事中の新管制塔の高さは、約116mであり世界では3番目の高さだそうです。

 第2ターミナル展望台から見た変貌する羽田空港(左:第2ターミナルの展望台、:D滑走路埋立部、:工事中の新管制塔)

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大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 梅屋敷駅付近(第11回)

2008年08月27日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2008

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第1号工事機の分解
前回の高架化梅屋敷付近(第10回)掲載では第1号工事機による工事は、7月18日には大森町第4踏切(梅屋敷商店街通り踏切)北側で下り線側の基礎杭打設工事を行っていました。
基礎工事が終了した7月21日の1号工事機の場所は、第1京浜国道と京急本線線路間に設けられているヤードの工事通路南側(7月23日撮影写真参照)に移動されていました。
8月9日には、工事機が同ヤードの工事通路の北側まで移動して、工事機南面の下り側の基礎杭打設工事用の窓が分解して取り外されていました。

 梅屋敷駅構内の基礎工事を終えた1号工事機(:下り側基礎工事中の工事機(再掲0718撮影)、:基礎工事を終えて移動した工事機0723撮影、:下り側工事窓が分解された工事機0809撮影)

その後の同18日には、1号工事機南面の上り側の基礎杭打設工事用の窓も分解して取り外されていました。
さらに、同23日には、工事機南面の中央部の囲い枠部も取り外され、工事機クレーンが丸見えの露出状態に分解されました。この分解は、1号工事機の役目が終了したためように思われすが、状況の推移を見ていかないと分かりません。

 分解が進む1号工事機(:上り側工事窓が分解された工事機0818撮影、:中央の囲い枠部も取り外された工事機0823撮影、:北面も全て取り外されて丸裸の工事機0827撮影)

第2号工事機の工事進捗
第2号工事機による高架橋の構築は進展し、8月9日には梅屋敷第1踏切の間近かまでせまり、同23日には同踏切道の南面に達しました。

 梅屋敷第1踏切に接近した2号工事機(:梅屋敷第1踏切にかなり接近した2号工事機 、:梅屋敷第1踏切に接した2号工事機)

同第2踏切北の丸型鋼管脚柱の高架橋より北方側に築造の高架橋は、鉄筋コンクリートの脚柱による高架橋であり、2号工事機近接位置の高架橋までスラブが完成しており、高架橋の脇囲いの仕上げ工事を進めているようです。この辺の工事状況は、工事囲い塀で覆われているため、下り線の3階高架への昇り傾斜の高架橋の建設状況を見ることができません。

 2号工事機による高架橋築造(写真拡大)

梅屋敷第2・第3踏切間の高架橋工事
8月23日に見た時には、梅屋敷公園隣接の3階建て高架橋の築造は進展し、3連の高架橋間の2階と3階部の連結橋が繋がり、連続した高架橋へと工事が進んでいました。
この部分の高架橋は、2、3階部の各高架線路が京急蒲田駅ホームから複線で敷かれ、梅屋敷第3踏切付近では2本の線路が接近し、同第2踏切付近では1本ずつの線路に合体する構造の高架橋で、かつ3階高架橋は同第1踏切付近では上下線と一緒に並び、2階上下線の高架橋へと降りる複雑な構造で造られます。

 梅屋敷公園際の高架橋(:梅屋敷第3踏切道間の高架橋、:梅屋敷第3踏切付近から見た公園際高架橋 、:第1京浜国道歩道橋から見た公園際高架橋 )

同第2踏切付近では、踏切を挟んで北側と南側に築造されている高架橋間の2階部に、踏切を跨ぐ上り線用のオレンジ色の鉄橋が架けられていました。この踏切道は、線路との交差が直角では無いため、踏切道に接した両側の高架橋間の幅が広く開いて建てられているため、鉄橋の長さは道幅よりかなり長く架けられています。

 梅屋敷第2踏切上架設の鉄橋(:梅屋敷第2踏切道に架設の上り線2階部鉄橋、:踏切道南側高架橋に架設の鉄橋、:踏切道北側高架橋に架設の鉄橋)

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ITと技術 地図情報コンテンツ Googleマップのストリートビューをブログで使用して見る(第1回)

2008年08月25日 | ITと技術
kan-haru blog 2008 ストリートビュー国立競技場入口(図拡大表示)

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地図情報
現在、インターネットで見られる地図には、Googleマップ、Yahoo!地図、MSN Live Search Maps、goo地図、エキサイト地図、livedoor地図情報、ゼンリン地図、AOL地図情報、ALPS地図、国土地理院基盤地図情報など様々な地図情報が提供されており、地図情報サービスには一般地図、航空写真、昭和時代地図、古地図など種々の形式の地図コンテンツが参照でき、大変に便利です。

これらの様々な地図情報サービスの中で、最近Googleマップが日本でも8月5日からストリートビューのサービスを開始したことをご存じの方も多いと思います。
このストリートビューサービスのコンテンツは、Googleマップの「ストリートビュー」釦を押すと地図の青枠が示されて、表示したい場所の道路上に人形のアイコンを置くと、そこの場所の景色が見られて、視野方向矢印釦で周囲360度を見渡すことができ、地図上の矢印釦か矢印キーを移動するとナビゲートができます。

 ストリートビュー機能

これまでのブログ掲載記事は、各所の風景・景色、情景などを地図と写真のコンテンツを使用して説明していましたが、掲載の写真では事物の被写体にフォーカスした撮影となり、周辺との関連が分からないか、または、写真の撮影そのものをカットしていました。新たなストリートビューのコンテンツを使用すると、位置・場所と情景が一体で把握でき、説明がより理解し易く表現できます。
今回は、今まで投稿の掲載記事から、ストリートビューのコンテンツをブログに加えて説明すると、どのように変化し情報が豊に機能するかを実験して見ました。

ストリートビューでの風景リンク表示
先ず実験のために、「風景・風物詩 東京の花火 明治神宮外苑を彩る光と音の競演」(8月19日掲載)には、すでにストリートビューのコンテンツ風景をリンクしてあります。
ブログ掲載記事上でのストリートビューのリンク表示の箇所を、以下の青色のコピー文で示めしてあります。

開場は17時ですので、大森町からは都営地下鉄浅草線大門で乗り換えて、大江戸線国立競技場駅には16時半頃着いて、 国立競技場入口 の自由席券入場列の後尾に並びました。

先ずは、コンテンツでこの国立競技場入口の風景を見てみましょう。上記青色文の下線の付いた「国立競技場入口」の文字上をクリックすると、本ブログ上からもストリートビューコンテンツを、国立競技場入口の写真が地図と共に表示されます(表示見本:トップ写真参照)。花火見物時には行列に並ぶのが先で、とてもここの写真などを撮影する暇がありません。

ストリートビューの写真は、全画面表示の操作で画面いっぱいに広げることができ、写真内の左上の2つの視野方向矢印キーを操作すると、国立競技場入口の周囲360度を見渡すことができます。また、写真内の「都道41号線」の東または西の矢印マークをクリックすると、東西に写真が移動します。大変便利な機能を有し、記事の風景概要の説明には非常に適したコンテンツです。
さらに、地図上の人形コンテンツを、移動させるとその周辺の風景を見ることができます。

ストリートビューの機能
ストリートビューの写真は、コンテンツの「印刷」釦を押すことにより印刷が行えます。印刷には、ストリートビューのみとストリートビューと地図の両方を印刷できる機能があります(ストリートビューのみの印刷画面 この表示画面から印刷の実行ができます)。
また、「送信」釦により第3者にこのストリートビューコンテンツの地図情報の共有アドレスをメールにて通知できます。

 共有情報アドレス送信機能

コンテンツの情報共有は、「リンク」釦を押すとURLアドレスと、HTML情報によりサイトに地図の埋め込みができます。

 リンク機能

「印刷」、「送信」、「リンク」の各釦は、トップ拡大写真を参照して下さい。

・問題点
しかし、ストリートビューのコンテンツの問題点としては、情報の更新時期が不明で最新の情報とは異なる場合があることです。それに、まだサービス開始エリアが少なく、見られない箇所もかなりあります。
さらに、撮影された情報には個人情報上での問題もありそうなので、掲載にはかなりの注意が必要なようです。

また、日本ではサービス開始がされたばかりで、メンテナンスに遭遇する機会があり、その時は写真画面が真っ暗な表示となりますので、日時を置いてから実行する必要があります。
今後は、ストリートビューはブログのコンテンツ情報に有用ですので、吟味しながら活用して行きたいと思います。

過去に掲載中ブログ記事をストリートビューで見る
8月21日掲載「風景・風物詩 深川八幡宮水かけ祭 神輿55基連合渡御の3年に1度の本祭り」ブログの掲載写真の中から、選択した場所のストリートビューコンテンツをリンクしましたので、下線付き写真と下線付きコンテンツをクリックして見比べてみましょう。
1 「清めの水」が浴びせて神輿と担ぎ手を清める水かけ祭り写真1左コンテンツ風景
2 54ヵ町会の町会神輿渡御写真中コンテンツ風景
3 永代通りの連合渡御写真左コンテンツ風景
4 永代通りの連合渡御写真中コンテンツ風景

次に、見物取材で撮影を行わなかった風景のストリートビューコンテンツを見ます。
深川八幡宮水かけ祭に出かけた電車路線の東西線門前仲町駅出入口の風景
1 往路出口2
2 復路出口4

以上ですが、取材では意識・無意識に係わらず写真の撮影をカットする場合が多々あります。このような時には、ストリートビューコンテンツの写真が利用できると大変に便利です。1回目の実験を通して、皆さんのご意見、ご感想などがございましたらコメントにお寄せ下さい。

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大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 糀谷駅付近(第4回)

2008年08月23日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2008

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糀谷高架駅橋工事の進捗
糀谷駅構内の高架化工事は、何回にも分けての線路やホームの移設が済み、高架橋の築造が本格に進展し始めました。
駅構内高架橋の建設は、西方の京急蒲田(空)第4踏切側と東方の糀谷第1踏切側との2方向から進んでいます。ホーム中央部以東の高架駅橋の幅員は、北側方向に幅広く構成される形体の様で、駅施設の構造が現段階ではまだよく見えてません。

 4月6日に行われた糀谷第1踏切道付近上り線路移設と付帯工事(再掲)

また、糀谷第1踏切以東の下り傾斜高架橋の建設は、まだ準備工事の段階で、構築物の姿は現われていません。
前回からは、1ヶ月を経過しましたので、8月22日に高架化工事の様子を見に行きました。

京急蒲田(空)第4踏切側の高架橋工事
京急蒲田(空)第4踏切側の上下線路の間の高架橋脚は、かなり以前から5本の橋脚が建てられておりました。
上り線路の移設が、2007年11月18日に旧下り線路の位置まで移設され、それにより上りホームが北方に移動して、駅南側の区道との間を整理してスペースが確保されました。
2008年7月5日に、この上りホーム外南側にやっと上り側の高架橋脚が建ち、4本柱1対の高架橋が築造されました。同16日には、上り側のホーム外に建てられた高架橋脚は3本となりました(高架化 糀谷駅付近(第3回)参照)。

8月22日には、上り側ホーム外の高架橋脚は合計5脚が建ち、6本柱2面の高架橋にはスラブが付き、4脚目の橋脚間には縦横と中間の梁桁が構築されており、5脚目はまだ橋脚柱のみの状態でした。ここまでの高架橋の幅員は、京急蒲田(空)第4踏切側西方の第7工区が築造の高架橋と同一の幅で構築してあります。
上下線間の5脚目の橋脚の北側には、他の橋脚とは異なり突起部の突き出し部が付けられています。

 5本柱高架橋脚までの高架橋幅員は標準幅で築造(:跨線橋から見た高架駅橋俯瞰、:上りホームから見た上下線路間の高架橋脚、:下りホームから見た高架橋脚)

5脚目以東のホーム中央部の高架駅橋は、下りホームの上に以前から堅牢な構造で築造されている橋桁までの間と幅員が広く造られるようですが、詳細構造は判りません。

 京急蒲田(空)第4踏切側の高架橋(:蒲田4踏切から見た2面完成の高架駅橋 、:区道から見た第3面の梁桁進行の高架橋脚 、:上りホームから見た高架駅橋) 

糀谷第1踏切側の高架橋工事
糀谷第1踏切側の高架化工事も、京急蒲田(空)第4踏切側と同様に、上り線路の移設による駅南側の区道との間のスペースに、7月16日に3本の高架橋脚柱が建てられました。
8月22日には、このうち2対の高架橋脚柱と下りホーム上の橋桁間に横桁梁が付けられていました。なお、下りホーム上の橋桁には、工事用の足場が組まれています。

 糀谷第1踏切側の高架橋1(:下りホームから見た第1踏切側の高架橋、:区道から見た高架橋、:足場が組まれた下りホーム上の高架駅橋梁桁)

この横桁梁の中間の高架橋の幅員の位置に、丸い橋脚が嵌められる穴が付いていますが、穴の下は仮線下り線路にかかっています。

  高架駅橋の横桁梁(:高架駅橋の横桁梁、:跨線橋から見た高架駅橋の横桁梁、:標準幅員の箇所に付けられた橋脚柱穴)

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風景・風物詩 深川八幡宮水かけ祭 神輿55基連合渡御の3年に1度の本祭り

2008年08月21日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2008

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深川八幡宮水かけ祭
連日のうだる様な暑さのなか、深川の富岡八幡宮水かけ祭は、神輿が通る沿道の町会祭礼社務所やお店、住民などから、神輿と担ぎ手を清めるための「清めの水」を浴びせられることが醍醐味ですが、生憎と今年の本祭り連合渡御の8月17日日曜日に限り曇り空の涼しい日で午後からは雨天となり、江戸三大祭りの熱気にマッチした水かけ祭りには似合かない日となりました。しかし、3年に1度の本祭りで、しかも、町会神輿の連合渡御には、平泉の世界文化遺産登録を祈念しての神輿が特別参加して、55基の神輿が連なりましたので、午前中に見に行きました。

富岡八幡宮の例祭は、2006年に二の宮神輿の渡御を見ておりますが、御由緒、日本一の黄金大神輿などと共に祭りの模様をその時のブログに掲載(「風景・風物詩(B4) 江戸三大祭 富岡八幡例大祭(その1、2)」)してありますのでご参照ください。

3年に一度の神輿連合渡御
江戸三大祭りの一つの深川八幡祭りは、徳川時代から続いていると云われる由緒あるお祭りです。3年に一度の本祭りでは54ヵ町会の町会神輿が、列を組み氏子町会を練り歩く連合渡御が行われます。特に、今年は初めて県外の平泉の神輿も参加しました。

 神輿連合渡御駒番

神輿連合渡御の順路は、富岡八幡宮前を先頭神輿が7時30分に出発し、再後の神輿が出るのは9時頃となります。永代通りを東へ進み、大門通りを北に折れて江戸資料館通りを西に曲がり、清澄公園から清州橋通に出て墨田川を渡り南に進みます。そこから、日本橋箱崎町を経て新川で昼食休憩後、再び永代通りに出て永代橋を渡り、八幡宮前への到着が13時頃となる渡御コースです。

 神輿連合渡御が進む永代通り深川不動参道入り口付近(写真拡大)

深川八幡宮神輿連合渡御の見物には、大森町から都営浅草線日本橋駅で東西線に乗り換え、門前仲町駅の八幡宮に近い前方の出口から出ると、近雑のため1番出口は閉鎖中で、2番出口の永代通りの深川不動の参道入り口とは反対方向の歩道に出てからの見物で2時少し前でした。

 「清めの水」が浴びせて神輿と担ぎ手を清める水かけ祭り1(写真拡大)

永代通りには、八幡宮前へと進む町会の連合渡御神輿行列の見物者で一杯です。着いたところが、八幡宮と反対の側なので神社に向かう術がないので、神輿渡御の見物に徹して神輿が対面して進んでくる清澄通り交差点方向へと歩き、あちこちで「清めの水」を浴びせている光景を見ながら交差点を渡りました。

 「清めの水」が浴びせて神輿と担ぎ手を清める水かけ祭り2(写真拡大)  

水かけには、町会消防隊のホースで放水の水の洗礼もあり、当日の陽気では水を浴びても乾かず寒さを感じた夏祭りでした。

 54ヵ町会の町会神輿渡御(写真拡大)

過去の八幡宮の例祭の写真で、永代通りが見物人で道一杯の混雑な風景を見ましたが、17日は天候のせいか歩行車道を歩くのは楽に進める状態でした。

 永代通りの連合渡御(写真拡大)

渡御神輿の見物は、永代通り仲町一の町会祭例社務所前で引き返し、清澄通り交差点角の地下鉄門前仲町の4番出口から大江戸線で、大門経由で帰宅しました。

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風景・風物詩 東京の花火 明治神宮外苑を彩る光と音の競演

2008年08月19日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2008

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花火大会
夏の風物詩はなんと云っても花火で、最近7、8月に全国で開催される花火大会の数は大変に増えており、開催地により特色のある花火の観賞ができます。
多くの花火大会も、その中で知名度の高い大会は、歴史のある隅田川の花火大会と、長尺物を打ち上げる長岡花火が群をぬいています。

花火観賞には殆ど出かけていないのですが、最近見に行った花火大会はブログ開始時の2006年に、一度は見たいと思っていた正三尺玉を打ち上げる長岡の花火大会(「旅ものがたり 長岡花火大会と奥只見・八海山 その1、2」参照)が再近の見物です。

過去の花火見物といえばかなり古く、1950~70年代に両国花火を数回見たことと、現在は中止の丸子多摩川花火大会に、その後には いたばし花火大会、茅ヶ崎花火大会、大田区平和都市宣言記念「花火の祭典」に出かけた程度です。

今年の7月20日の午後、横浜みなとみらい万葉倶楽部に出かけたところ、埠頭方向に沢山の浴衣姿のペアーやグループが移動しており、横浜開港記念みなと祭国際花火大会であることに気が付きました。この雰囲気を見て、当日の花火の見物はできませんでしたので、夏の風物詩花火大会の感触を味わいたくなり、8月に入って開催の都心の花火大会のなかで、7日開催の神宮外苑花火大会か、10日開催の東京湾大華火大会のどちらかを観賞することにしました。

 神宮外苑花火大会(右:国立競技場客席配置図)

神宮外苑花火大会の見物
間際の花火大会参加ですので、入場券は東京湾大華火大会の入場整理券は無くなっており、神宮外苑花火大会も指定席券は売り切れで、自由席券は多少残っていました。
神宮外苑の見物席は、神宮球場、国立競技場、秩父宮ラグビー場、神宮軟式球場の三会場です。入場券は、まだ入ったことのない国立競技場を選択して、インターネットで申し込み、セブンイレブンで受け取りました。

 8月7日入場の明治神宮外苑花火大会の国立競技場

開場は17時ですので、大森町からは都営地下鉄浅草線大門で乗り換えて、大江戸線国立競技場駅には16時半頃着いて、国立競技場入口の自由席券入場列の後尾に並びました。
入場は、指定席券の観客から入り始め、自由席入場の行列は後方のため座席位置はホーム側で、バックスタンドの近くとなりました。客席の位置は、入口通路から昇り降りをしない通路前面の席を選びましたので、グランド面からは1/3位の高さのところです。


国立競技場では18時30分から、Berryz工房、℃-ute、Buono! 他のゲスト出演のアトラクションがありましたが、自由席からは仮設舞台の出演者の姿は豆粒で、表示ボードの大画面を振りかえって見えるだけなので、音声の歌声を聞くだけで時間の経過が大変長く感じました。


当日の天気は、薄曇りの晴れで気温が高く、満員の会場の熱気で蒸し暑い日でしたが、日が暮れて来て、競技場のバックグランドの競技場と無人の観客席への放水により、少しばかり涼風が感じられてきました。薄暗くなり、競技場の間引いたライトが点火されると、周囲の空はすっかり暗くなりました。


19時30分になり、最初の花火が打ち上げ開始され、連発して切れ目なく花火が開き観客席から歓声があがりました。当日の花火は、1万発がうたいの打ち上げですが、号数の最大が4号玉なので開く輪が小さいのを、多数の同時打ち上げにより繕うのですが、尺玉の大輪には敵わず豪華さがなくやや期待外れでした。ただ、打ち上げ音だけが大きく、さらにそれが競技場の観客席に反射して、花火の打ち上げ音は大変と賑やかでありました。
ただ、花火大会では、多量に打ち上げの花火の彩のあやと、周囲にこだまする音は、会場に来た者だけが実感できます。


20時30分に打ち上げが終わり16万の人が一斉に帰りますので、混雑を避けるため20分前には会場を出て、国立競技場駅から帰宅しました。
都心の花火を見ての感想は、大輪が天空いっぱいに開き、色が変化する尺玉の花火のお腹に響く打ち上げ音の感触が醍醐味であるとの感じ方は、4号玉以下の連発打ち上げのスマートさやテクニックを理解できない古い感覚なのでしょうか。


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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第4編 配給生活談義 第1回

2008年08月17日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2008

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昭和戦後史 第3編までの若山武義氏の手記の解説では、断片的にその時々の戦中・戦後の参考情報を記載しておりましたが、昭和戦後史 第4編の連載に当たり戦前から戦後時代にかけての大森町や疎開先での生活について、60数年を経ているの記憶は殆んど失念していますが、出来る限り想い出して経過順に整理して記録していきます。

千住から大森町への転入
大森町への転入は、1936年(昭和12年)の3、4月頃、東京都足立区千住寿町35番地から当時の大森区大森6丁目2654番地(拡大地図参照)に越して来ました。転入地は、父が勤務先の第1京浜国道から分岐した産業通りのすぐ先にありました。当時は大森区役所(現在の大森警察署)ビルの向かいに面した木造2階建ての1階が会社事務所兼社宅で、その1階の和室と台所に2階の和室が大森町での最初の住居地となりました。

 昭和16年大森区大森町地図と大森町会社事務所兼社宅(大森町拡大地図および転入地付近詳細地図)

大森町は大森区の中心地
このあたりの地形は、第1京浜国道と産業道路とのロータリーの付いた分岐点であり、この分岐点から北北東に旧東海道の三原通りが分岐しています。分岐点の南側は、国道が旧東海道上に敷設されて第1京浜国道となりました。当時は、まだ第2京浜国道は、存在していません。
分岐点北の旧東海道の三原通りを通らずに、第1京浜国道が分離して造られたのは、昭和初期以前には大森町一帯は大森区の中心地で賑わいを見せており、三原通り商店街は大森地区の繁華街で古くからの暖簾のある多数の商店が密集していたので、新設国道がルートを避けて造られました。

昔の大森は海苔の一大生産地
また、大森地区は江戸時代以前から、養殖海苔の一大生産地であり、1964年の東京オリンピックの間際までは生産を続け、海苔の品質は随一を誇り昔はお上に献上した実績があり、今日でも大森にはかなり多くの海苔問屋があり、高品質の海苔の加工・出荷が行われています。大田区には、東西に流れ東京湾に注ぐ3河川の内川、呑川、六郷(多摩)川があり、川の上流から流れてくる栄養分の含まれた水が、東京湾で養殖の海苔の生育に好適な環境で生産に恵まれていたのです。

このように、昭和初期の大森町は大森区の中心街であり、劇場、映画館や金融機関、商店や工場が連ねてあったところでした。なお、現在の第1京浜国道際の大森警察署は、三原通りにありました。
また、大森町を南北に貫通して運行する京浜急行電鉄の大森町駅は、戦前には山谷から大森山谷駅と称しており、環7通り際の平和島駅を元は学校裏駅と称していました。当時は、環7通りは未だ貫通していなく、第1京浜国道で終点の澤田通りと呼んでいました。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) 配給生活談義 第1回

ヤミ生活
過般、食糧メーデーの時、赤旗を立てて押しかけた連中と食糧管理局の役人との押問答。「配給の二合一勺で生活してる」と答弁に苦しむ御役人、聞く方も聞く方だ。答弁する御役人も役目の上にさぞつらかろ。然らばこの十日、二十日、約一ヶ月の遅配、欠配に此の人方は何たべて居るだろうか、まさか空気と水とのみとは考えられない。或は、御役人と我々の量目は、同じ二合一勺でも量り方が違うのかしら、とにかく算術では割り出せない問題である。
お偉い方々は、家来眷族が唯々諾々と、セッセと運ぶから、お芋の煮えたも御存じあるまい。全くおうらやましい限りである。
去る四月の総選挙に、千人が千人の候補者は、「主食三合配給断行」と主張し、声をからしてどなった。但し己れが天下をとったら必ず三合配給するとは云わなかったから、ただ提灯をつけただけに過ぎない。
嘘も偽りもない、一日働くに四苦八苦、今日迄配給以外の物資で生きて来た事は事実である。大臣も、議員も、役人も、赤旗かついで純綿のおにぎりほゝばった人達も、共に云わず共に語らず。公然の秘密か、なんと称するか知らんが不思議の事である。
首相の宮様の仰せられし如く、我等国民は、ひそかにヤミでなければ生活出来ない事をよも否定する人はあるまい。

食糧供出
そこで昨年は空前の不作で四千万石を割ったとの公表である。供出以外に、日々夜々蟻の運ぶ如く汗を流して運んだ数量は、この四千万石の内に含まれてるのか、それとも落穂なのか。落穂としては、あまりにも莫大な数量と推想される。こゝで先ず生産農家、指導者の代表意見を聞くとしよう。

○ 第一に、我が郷土の上野南郷村長曰く
泥田の中の味を知らない役人には、この農民の気持を、素直に供出に持って行く「コツ」
を御存知ない。私はつくづく役人の頭の悪さを残念に思う。そこで、私は百姓の事は、増産も供出も村の自治体にまかせ、農民の自治性に訴えよと叫ばずに居られない。
 従来も政府は、すべての施策は目先の手しかうてなかった。農民も目先の利潤には敏いが、将来の見透しが利かない。これでは、陽と陽で相反発し合うばかりではないか。どちらか陰にならねば呼吸がピッタリしない。して見れば、実際作るのは百姓だから、当然百姓に自主性をもたせ、国家は受け身の立場になれば、百姓はぎりぎり一杯の手持ち残してさらけ出してしまう事請合だ。
 納得させて百姓の愛国心に訴えるのだ

 もう百姓は、お上の腹はすっかり判って居る。笛や太鼓では踊りはしない。
 もう一つは供出の値段だ。いも七貫匁割当てになったが、米がないので一貫匁喰べてしまった。そうして、一貫匁五円余りで買って来て供出した処、全部七貫匁の供出代金が五円に足りなかったと云う。こんな馬鹿の事を強いるから、百姓も自分を守る事に努力するが当然である。農家は米を作って喰べて余りを売って生計を立てる。だから、放っておいてもどうせ出すものを「出せ出せ」というたでは、殻を固くしてしまうばかりではないか。この心理は、心理学者にでも研究してもろう必要がある。
 亦私個人の考であるが、百%の割当てを九十%にして、残りを自由販売にさせる案だ。勿論無茶な闇値は禁止してやらせたら、滑らかに供出されて、生産意欲がぐんと向上すると思う
と。

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大森町界隈あれこれ 終戦63年によせて 悲惨な戦争体験を忘れずに平和の持続を祈願する

2008年08月15日 | 大森町界隈あれこれ 65年
kan-haru blog 2008

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終戦63年を迎える
8月15日は終戦63年で、ブログを記述してから3回目の終戦の日を迎えます。
63年前の1945年(昭和20年)8月15日は、朝から太陽が照りつけ暑い日でした。当時は12歳の小学6年生で、疎開先の栃木県の国民学校(現在の小学校)の校庭に集合して、ラジオの前で昭和天皇の玉音放送を聞いたのですが、その頃のラジオの性能では声が全員に届かないため何の放送かも分からず、放送終了後の解散により帰宅して敗戦を知った(「大森町界隈あれこれ 手記第3編 終戦前後目黒にて(第6回)」2006年8月15日掲載参照)のです。


 東京大空襲で焼け野原となった亀戸天神付近(東京大空襲・戦災資料センター出展2006.4.22承認)

当時国民は、日本は戦争には絶対負けない国であるとの統治者の暗示を全員が信じ込まされて、多くの国民が戦地に召集され多数の戦死者を出す大きな被害を受け、戦中・戦後の生活ではまさに餓死寸前の状態にまで追い込まされたのです。
戦争の体験は、父が大森に転入したのが1937年(昭和12年)で、それ以来現在まで大森の住民として過ごし、1941年に大森町で無知無謀な戦争に突入し東京大空襲の戦災や戦闘機による機銃掃射にも遭い、物資不足の耐乏生活を強いられ、その間小学4年から卒業寸前までは学童疎開生活を体験しました。戦後の生活も戦中に劣らずの悲惨なその日暮らしで、食糧難での配給のみの食事を摂り餓死者も出て、国民全体が栄養失調寸前という凄惨な生活をおくりました。

大森町周辺戦災空中写真(国土地理院公開空中写真から、USA-M371-83東京都大田区2倍画像 1947年(昭和22年)米軍撮影)

終戦63年後の現在、戦争体験世代である65歳以上の人口は、2006年の総務省統計局『国勢調査結果』統計によると20.5%であり、戦争を体験して悲惨な目にあった国民は10人に2人のみの少数となりました。最近、女子大で昭和史の授業時の学習の学生や、あるご子息のW大学院生を靖国神社の遊就館に連れて行った際に、若い人は「日本がアメリカと戦争したことを知らなかった」という話題を知り、大変なショックを受けました。


 東京大空襲被災の10万5千人の遺骨が納骨堂に納められている東京慰霊堂

幸い、これまで日本は戦後から、なんとか平和を維持してきましたが、これからの世代も日本が平和を持続させて行くには戦争の悲惨さを知り、かっての日本の軍国主義やドイツのヒットラーなどの様な無知な統治者の暗示を受け、国民を戦争へと駆り立たされない様に、戦争の無謀さを知り惑わされない強い信念を持つことです。
それには、先ず日本の一般国民が終戦の年の8月の原爆の洗礼を受けたことや、3月の東京大空襲無差別爆撃で1夜にして死者10万人の死者を出した戦災の事実を知り、国民を不幸に落としいれる悲惨な戦争を繰り返さずに、平和の尊さを知り、平和の持続を強く願う気持ちを持つことが必要です。


 戦時中の大森町6丁目隣組防空演習風景

若山武義氏の悲惨な戦災体験の手記
kan-haru日記ブログは、2006年3月から開始しましたが、投稿の内容は記録記事を主体に掲載することを目的で始まり現在に至っており、若山氏の戦災体験手記を基にした実記録記事と、大森町が中心にある交通機関の京浜急行の高架化工事の歴史的記録記事の2項目を主テーマとして、その他大森町界隈の様々な出来事や、大森町以外での記録の他、見学記、イベント報告、旅行記などを纏めて掲載しています。

大戦記録記事のブログを始めた理由は、私の父の勤務先の同僚の若山武義氏が、戦中に大森、中野、目黒などで東京大空襲の戦災被害を受け、戦後の食糧難・物資不足の生活などの貴重な記録の手記が残されており、遺族の方からこれをブログに掲載して貰えないかとの話がありましたので、10人に8人が戦争を知らない世代の方々に、日本が無知・無謀な戦争に突入して大衆国民に悲惨な目に遭された出来事を、若山氏ご遺族の趣旨と私自身の戦争体験者として、あの忌まわしい戦争記録の断片の少しでも語り告げられればとの強い思いから掲載を始めました。

若山氏の手記は第三者個人の記録記事です。そこで、kan-haru日記にその手記の転記転載の掲載のみでは、個人ブログの目的趣旨に沿わないので、連載掲載の方法として個人の戦争体験や関連情報などを収集して解説記事を毎回作成し、それと実録の手記記事を組み合わせた形で掲載を始めており、現在もまだ未完で連載を継続中です。

・若山武義氏手記構成
若山武義氏の貴重な戦争体験の手記(原本写真)と解説付きの戦中・戦後の実録記事掲載は、戦争編と戦後史編で構成してあります。
戦争編は、第1編 鎮魂! 大森町大空襲 が11回連載、第2編 戦災日誌中野編 が7回連載、第3編 戦前戦後目黒にて が9回連載で終了しています。
戦後史編は、第1編 太平洋戦争の終結 が8回連載、第2編 天皇制の問題集 6回連載、第3編 我等の生活談義 6回連載で継続中です。

戦争編と戦後史編に掲載の記事には、若山氏の東京大空襲の悲惨な爆撃戦災体験や惨めな戦後生活の貴重な実体験の手記と、これらに関する解説記事用に集めた情報が記録してあります。まだ、未完ですので記録掲載を続けていきます。
是非、次に記載の総目次を検索して、戦争の実記録記事に触れて頂き、ご関心をお持ちでしたら口伝えに紹介して下さいますようお願い致します。
特に、1945~46年(昭和20~21年)頃の戦後直後の記録手記は殆んど無い記録史で、大変貴重な実録の手記記事です。

戦争編 第1編 総目次
戦争編 第2編 総目次
戦争編 第3編 総目次
戦後史編 第1編、第2編、第3編 総目次

・その他の世界大戦関係記事
kan-haru日記では、以上記載の通り戦争を語り継ぎたいとの目的が一つにありますので、時代経過の節目の折りに開催された戦争関連のイベントなどにも参加して記事を掲載しております。ご参考まで、その目次を以下に記載させて頂きます。

・戦争関連のイベント記事
 イベント あれから62年「東京大空襲を語り継ぐ集い」 2007年3月19日
 イベント 63年前の東京大空襲傷痕 浅草、本所、深川の戦跡をめぐり平和を祈願する その1~4 2008年3月14日

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大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第21回その2-2)

2008年08月13日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2008

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・見えてきた大森町高架駅橋脚の平面形状
7月29日には、工事機上に保管中であった「くの字状」の駅ホーム橋脚用の桁梁が、高架橋の上下ホーム部上に付けられました。駅ホーム橋の桁梁が付くと、大森町駅高架ホームの平面形状の姿が、明確に見えてきました。上りホームの西側サイトの端は、元ゑびす市場前の区道の上まで張り出しており、東サイトの端も民家すれすれまで接近しています。

 「くの字状」上下線駅ホーム橋脚の桁梁取り付け(:下りホーム橋脚桁梁取り付け(奥)、:上りホーム橋脚桁梁取り付け、:大森町高架駅橋脚俯瞰撮影)

7月30日には、高架橋建築資材が搬入され、同31日には第2個目の高架駅橋脚の縦梁間に9小間の補強の小間梁が付けられました。

 補強小間梁が付けられた高架駅橋脚(:高架駅橋脚用建築資材の荷揚げ、:9小間の補強小間梁が付けられた高架駅橋脚)

8月1日には、第2個目の高架駅橋脚の上り下り線の縦梁と駅ホーム用桁梁間にも補強の小間梁が付けられました。これにより、第2高架駅橋脚の骨格の建築組立は終わりました。

 第2高架駅橋脚骨格の建築組立終了(:下りホーム桁梁間補強小間梁取り付け、:上りホーム桁梁間補強小間梁取り付け、:大森町高架駅橋脚俯瞰撮影)

・第2号工事機の移設
8月6、7日には、3番目の高架駅橋脚を築造するため、第2号工事機の移設準備が始まり、大森町駅ホームの仮屋根の取り外しが行われ、8日に工事機を移設しました。また、第2高架駅橋脚には、スラブ用の板が張られました。

 第2高架駅橋脚が完了により2号工事機移設(写真拡大)

内川橋梁付近の高架仮線敷設
平和島高架駅の環7鉄橋から下りはじめ平和島第5踏切手前で地上に降りる傾斜高架橋部の高架化本工事のため、傾斜橋の本線上り線の脇に沿って仮線敷設工事を行っています。
この仮線敷設工事の7月6日現在の進行状況は、内川南岸から始まる4組構成工型鋼鉄の仮線鉄橋架設が、高架化 大森町駅付近(第20回その3)に掲載の内川橋梁上り仮線敷設図(再掲参照)で見ると、南岸の仮橋脚(KP19)から敷設され、内川の上を越えて北岸の区道上に建つ仮橋脚(KP18)を通り、同区道上に建つ次の仮橋脚(KP17)までの中途にある、緑色の仮支え脚による仮架設が行われていました。

 内川を渡る仮線鉄橋

7月12日の仮線敷設は、仮橋脚(KP17)の中途までの4組構成工型鋼鉄の仮線鉄橋架設の内、2組の工型鋼鉄鉄橋が仮橋脚(KP17)まで延びて繋がりました。

 仮線鉄橋の半分が仮橋脚(KP17)まで架設(写真拡大)

仮線鉄橋架設の仮橋脚(KP17)の延長先の仮橋脚(KP16-1、2)の建設場所は、本線の傾斜高架橋の側壁が削られてい部分で、ここの区道を平成21年12月まで車両を通行止めにして工事を行います。

 高架橋側壁が削られている所に仮線架橋脚が建てられる(:車両通行止め告知板、:側壁の削られて場所に仮橋脚を建てる)

残る2組の工型鋼鉄鉄橋が仮橋脚(KP17)まで延長して架設されたのは7月18日で、まだ緑色仮支え脚は外されていませんでした。仮橋脚(KP16-1、2)の建設場所の本線の傾斜高架橋下では、高架化本工事の準備が進められています。

 本線傾斜高架橋の高架仮線敷設工事(:仮橋脚(KP17)まで架設の仮線、:仮橋脚(KP16-1、2)付近の高架化工事)

7月31日には仮線鉄橋の架設は、内川南岸の仮橋脚(KP19)から始まり、内川北岸の仮橋脚(KP18)を経て、区道上の仮橋脚(KP17)まで架けられて緑色の仮支え脚も外されました。また、仮橋脚(KP16-1、2)の先の本線高架橋部と仮線鉄橋が接続される箇所の工事準備が開始されていました。

 KP19仮橋脚からKP17仮橋脚まで架設の仮線鉄橋(:KP17-18仮橋脚付近の仮線鉄橋、:本線と仮線接続部付近の高架橋)

第1号工事機の変身
8月6日に大森町第1踏切を越えて大森記念病院南へと移設した第1号工事機は、同9日から工事を着手しましたが、これまでと同様に基礎杭打設工事を行うのではなく、同第1踏切から第3踏切間では高架橋築造の工事へと変身しました。

 1号工事機による高架橋築造工事(:8月9日撮影、:10日撮影、:12日撮影)

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大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第21回その2-1)

2008年08月11日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2008 高架駅橋脚の下で停車中のありがとうギャラリー号

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大森町高架駅橋脚の構造
2号工事機による大森町高架駅橋脚築造の構造をみると、5月21日に2対4本の橋脚が建ち大森町ホーム上に最初の高架駅橋 (「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第19回その2)」参照) が出来ました。この高架駅橋を、これまでの大森町駅ホーム北部に建築済みの高架橋と比べると、脚柱もやや太い様な感じで、橋脚の桁梁やメッシュ状の横梁も多くがっちりした構造です。また、高架駅橋ですので、2対の橋脚柱の上りと下りホーム側には横梁を突きだして、その上にホーム建屋の外壁設置用の桁梁が張られています。この桁梁は、下りホームに比し、上りホーム側が若干幅が広くなっています。

 第1高架駅橋脚の駅ホーム用桁梁(:0606撮影の第1高架駅橋脚、:橋脚下り駅ホーム用桁梁、:橋脚上り駅ホーム用桁梁)

その後の7月3日には第3対目の橋脚柱が建ち、その柱の外側には駅ホーム築造用の長く突き出した横梁が付けられて、第2と第3対間の橋脚柱の間に駅ホーム築造の桁梁(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第20回その2)」参照) が張られ、駅ホームの輪郭が見えてきました。駅ホーム北部の形状は上下ホームが対照形でなく、この間のホーム桁梁を見ると下りホームの奥行幅は、地形の関係からか上りより狭い形状をしています。

 第2と第3対橋脚柱間の駅ホーム築造桁梁(:0706撮影の第2・3対橋脚柱間の駅ホーム築造桁梁、:上り駅ホーム築造桁梁 、:下り駅ホーム築造桁梁 )

・2号工事機による大森町高架駅橋脚築造の進展
第2号工事機の移動後の12日には、上下ホームに第4対目となる橋脚柱が2本建てられました。

 第4対目となる橋脚柱(:第4対目下り橋脚柱、:第4対目上り・下り橋脚柱、:第4対目上り橋脚柱)

16日には、重量物運搬車が駅橋脚用の縦梁が運搬され、第3と第4対の橋脚柱が縦・横梁で連結され、第2個目の高架駅橋脚の骨格が姿を見せました。

 第3-4対橋脚柱構成の第2高架駅橋脚(:駅橋脚用縦梁の搬入、:第3-4対橋脚柱の第2高架駅橋脚)

第2個目の高架駅橋脚には、18日に第3-4対橋脚の横梁間を結ぶ補強の縦梁2本が運搬され、そのうち1本が下りホーム寄りに取り付けられました。また、20日には、第4対目の駅橋脚の上下のホーム側に長く突き出したホーム構築用の桁が付けられました。

 構築が進む第2個目高架駅橋脚(1)(:第3-4対橋脚横梁間用の縦梁搬入、:搬入縦梁1本を取付け、1本を工事機に保管 、:第4対橋脚柱(奥)の両外に長い突出し桁が付く)

7月23日には、「くの字状」の駅ホーム用の桁梁建築鋼材が重量物運搬車で運ばれて工事機上に保管されました。2号工事機上に保管中であった、第2個目の高架駅橋脚の横梁間を結ぶ補強縦梁が、26日に取り付けられました。

 構築が進む第2個目高架駅橋脚(2)(:くの字状の駅ホーム用桁梁搬入、:保管中の縦梁を上り側に取付け)

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大森町界隈あれこれ 夏のイベント 大森町商店街サマーフェスティバル、大森町町会盆踊り他

2008年08月09日 | 大森町界隈あれこれ イベント
kan-haru blog 2008 

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大森町界隈周辺では、いろいろな夏のイベントが盛んで、今年も大森町商店街のサマーフェスティバル、大森町町会の盆踊り大会、大森東福祉園まつりなどが行われました。

大森町商店街のサマーフェスティバル2008
大森町商店街のサマーフェスティバル2008
例年7月の日曜日に大森町商店街の大森町共栄会では、サマーフェスティバルを開催しており、今年は20日の15時から行われ、17時少し前に見に行きました。

今年のサマーフェスティバルを見ると、恒例の18時からの阿波踊りが「くすのき連」の一連のみとなりました。2007年の舞舞連や西児童館の子供達などによる総勢120人出場の阿波踊り(「大森町界隈あれこれ 大森町共栄会 2007年サマーフェスティバル」参照)から見ると淋しくなりました。
また、2006年には、7月と8月の2回にわたりフェスティバル(「大森町界隈あれこれ 大森町商店街 サマーフェスティバル」参照)を開催し、7月には「くすのき連」、舞舞連、西児童館の子供達の阿波踊りが見られ、8月の2回目には地元大森町や近隣町会および踊りの会と一般参加など総勢600人が参加する、流し踊りが東邦医大前から大森町商店街を練り歩き、大森随一の流し踊りを誇っていました。

 大森町サマーフェスティバル2008チラシ(写真拡大)

全国的に個人商店の元気が失せておりますが、大森町商店街もその限りでは無く、現実の姿として経緯を記録に留めておきます。

 閉店間際ではあるが子供客が少なく寂しい露天風景

大森町サマーフェスティバルの売り物は、子供にクワガタ虫が当たる抽選会が人気のイベントです。昨年までは孫も貰って喜んでいましたが、今年は5時の抽選会の開始時には参加定員に達してなく、放送スピーカーで呼びかけておりました。混雑回避のため、前宣伝を行いませんがちょっと予想外れの状況です。

 クワガタ虫抽選会風景(左写真拡大)

毎年のフェスティバルでは、大東京信用組合前での明治大学ニューウェーブジャズオーケストラの演奏があり、手がたく人気を集めファンが最後まで軽快なジャズ演奏を聞きいっていました。

 明治大学ニューウェーブジャズオーケストラ演奏

恒例のくすのき連の年期の入った阿波踊りには、700mの商店街に見物客が出て、毎年楽しみに来る常連客で一杯です。

 年期の入ったくすのき連阿波踊り

大森町町会の盆踊り大会
大森町界隈の夏の風物詩には、長年行われている行事の一つとして大森西公園で開催する大森三丁目連合町会の「盆踊り大会」があります。盆踊り大会は、毎年7月下旬に行われ、今年は25、26日の両日催かれましたので、26日に見てきました。
盆踊り大会には、町会近隣の方々が夕涼みがてら見物に参加して、テーブルでビールを傾けながら、親睦・交流を図ります。会場には、やきそばやかき氷などの模擬店なども出店して、子供の参加者にはジュースなどが配られ、盆踊りの合い間には小学生の太鼓演奏などのアトラクションもあります。

 大森三丁目連合町会「盆踊り大会」

大森東福祉園まつり
大森西3丁目には大田福祉作業所がありますが、東隣の大森東1丁目に大森東福祉園(大森東1-36-7 地図参照)があります。大田福祉作業所では、昨年の10月7日に第33回大田福祉作業所ふれあい祭り(「大森町界隈あれこれ ニュース 大森町周辺の秋のイベント(2007.10.14)」参照)が開かれました。
大森東福祉園では、7月6日に第24回大森東福祉園まつりが開催されましたので見てきました。

 大森東福祉園まつり

大森東福祉園は、重度の障害者が生まれ育ったこの地で暮らし続けられるように支援する大田区立の施設で、知的障害のある方の社会的自立を目指して、生活、作業、健康、余暇等の日中活動の場を提供して支援が行われます。
福祉園まつりでは、園内のくすのき広場の舞台でおはやしや、マジックショー、つばさ高校の吹奏楽演奏などのステージショーがあり、ヨーヨー釣りなどの模擬店の出店、ゲームコーナーと食道・喫茶の他に、祭りの呼び物のバザーには多数の近隣の人が押しかけて盛況でした。

 大森東福祉園まつり風景(上左:開会式、上中:おはやし、上右:バザー風景、下:模擬店)

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大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第21回その1-2)

2008年08月07日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2008

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大森町第1踏切の車両および歩行者の通行止め
京急高架化工事による7月21、25日の大森町第1踏切の歩行者通行止めは3回目であり、1回目は2007年5月26に大森町駅付近の下り線線路を第1京浜国道方の東側へ約1.5mの移設(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第7回)」参照)をした時で、2回目は同年6月17日に同様に上り線路を1.5m移設(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第8回)」参照)時に行われました。

・7月21日の歩行者の通行止め工事
線路移設工事で歩行者通行止めの時には、路地ごとに警備員が歩行者を規制して大森町第1踏切に近づけず、工事の状況は見られませんでした。
今回の7月21日の通行止めでは路地の警備員の配置は無く、歩行者通行止めの直前に大森町駅西側商店街通りの交通止柵の前で、工事状況の様子を見てきました。
通行止め直前の7月22日0時頃には、大森町第1踏切付近には数十人の作業員が集結し、工事作業トラック2台が第1京浜国道から商店街通りに入り、踏切の線路を挟んで工事を開始しました。
 
 大森町商店街通りの通行止め工事(左:商店街通りの交通止柵、:工事作業トラックがバックで入る、:踏切を挟んで工事を行う工事車)

工事は、踏切道の両側に設けられた工事機移動用レール設置溝(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第20回その4)」参照)上の赤色の通路塞ぎ板を開けて、その溝内に作業車で運ばれた移動レールが設置されましたので、工事機の移動を待ってみましたが、この日は移動の準備作業のみで終了しました。

 大森町第1踏切交通止めの工事(左・中:工事機移動レールの据え付け、右:工事機が移動せずに通行止め解除)

・第1号工事機の踏切越え移設
7月25日の歩行者交通止め時の工事機の移動作業は、21日と同様に2台の作業車で運搬してきた工事機移動用レールを溝内に設置して、1号工事機移動の準備が行われましたので商店街に通じる路地から工事を見てきました。

 1号工事機の移設作業(写真拡大) 

工事機移動のための準備が整った26日午前2時過ぎに、工事機の移動が始まり大森町第1踏切道上を通過して越えて行きました。

 大森町第1踏切を越える工事機(写真拡大)

大森町第1踏切道南際まで移動した第1号工事機は、先ず踏切を越えての暫定場所に移設されましたが、これからは同第1-3踏切間の基礎杭打設工事に携わるための準備に入ります。

 大森町第1踏切を越えた第1号工事機(写真拡大)

工事機の移動後は、大森町第1踏切道両サイドの工事機移動用の線路の溝は復元され、駅西口出入口の出札機の後ろが広くなりました。また、工事機は、さらなる移動に備えてレールが敷かれています。

 工事機移動後の大森町駅(写真拡大)

・基礎杭打設工事開始に向けて工事機移設
8月6日には、次の区間の基礎杭打設工事開始に向けて、第1号工事機が大森記念病院南へ移設されました。
 
 第1-3踏切間基礎工事へ向けての工事機移設

大森町駅周辺状況
7月17日から大森町駅商店街のほのぼの通りに面したゑびすヤードの幅が縮小され、臨時自転車駐車場がオープンしました。

 臨時自転車駐車場オープン

また、このほのぼの通りの商店街(大森町駅周辺商店街地図参照)では田肥電器とナンカ堂北店の間の商店が閉鎖され、店が取り壊されました。

 ほのぼの通り商店街(左:田肥電器、中:取り壊された商店、右:ナンカ堂北店)

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大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町駅付近(第21回その1-1)

2008年08月05日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2008

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ホーム上の基礎杭打設工事を終了した第1号工事機
第1工区の第1号工事機は、2007年10月下旬に品川方から大森町駅ホームの北端に移設してホーム上の基礎杭打設工事が開始され、2008年7月下旬に大森町第1踏切南側に移動するまでの9ヶ月間に亘り、駅ホーム上の高架駅化の基礎工事が行われました。
この間、ホーム上の工事のため、終電車終了後から初電までの時間帯での作業で、基礎杭打設には終電後に仮ホーム板、駅舎壁や仮屋根、駅設備施設を取り外したり、また移動をしてからの工事となり、初電までに復元させるため、実作業時間は2時間程度で行うという厳しい条件の工事です。
今回は、7月5日に下り線東出入り口脇の基礎杭打設工事が完了した後、大森町駅構内から抜けて大森町第1踏切を渡って移動する1号工事機を追ってみました。

ホーム上の基礎杭打設工事を終了した第1号工事機
大森町駅ホーム上の基礎工事を終了した工事機は、先ず7月7日に工事機上に設けてあった基礎杭打設資材の基礎鋼管および基礎杭鉄筋筒枠などを保存して保管するための資材保管枠の撤去が行われました。

 1号工事機資材保管枠の撤去作業(左写真拡大)

続いて7日から19日にかけ、駅ホーム上の基礎杭打設工事で使用していた工事機械や機材などの不要となった工事資材を1号工事機の上から線路上に降ろして、工事機の移動の準備が進められました。

 ホーム上の基礎杭打設工事完了で撤去される工事機械や機材(:7日撮影、:8日撮影、:14日撮影)

・1号工事機移動準備
7月16日には、大森町第1踏切が7月21日から8月2日までの期間中の車両通行止めのお知らせのポスターや案内板が置かれ、特に21日と25日は歩行者も通行止めを行うとの通知であり、この日に1号工事機が同踏切を越えて移動することが示されました。また、16日終電車後には、工事機移動の準備作業が行われました。

 1号工事機移動の準備(:大森町第1踏切通行止めのお知らせ、中・右:上下線ホームで工事機移動の準備作業)

通行止めの通知ポスターが貼られて、16日以後には多数の工事車を動員して1号工事機移動の準備工事が開始されました。既に、大森町駅西口改札機の位置を、工事機の移動に対応して移され、駅ホームの仮屋根の取り外しなども行われました。

 工事車を動員しての1号工事機移動の準備(:上りホーム側の工事機移動準備、:下りホーム側の工事機移動準備)

18日に工事機移動の準備作業状況を見に行くと、大森町駅西口出入口に車両通行止めのお知らせの案内板が立てられており、終電後には上下線両ホーム仮屋根の取り外しの作業を行い、1号工事機南前面に建つ電車架線電柱の取り外しも行います。

 工事機移動準備作業(:通行止めお知らせ案内板掲示、:ホーム仮屋根の仮除去、:工事機前面の電車架線電柱の仮移動が必要)

・1号工事機のプレ移動
19日の終電車通過後には、前日までに工事機移動の準備が完了していましたので、未明の午前1時過ぎ頃から工事機の踏切越えの前段のプレ移動が開始されました。移動する前には駅西側のナンカ堂の建屋が工事機の影にあり見えませんでしたが、工事機が移動するにしたがいナンカ堂の壁が見えてきて、工事機は午前2時半前には大森町第1踏切道上の北面まで進みました。

 1号工事機の踏切越え移設前段のプレ移動(:プレ移動前の工事機、:移動によりナンカ堂が見える、:工事機プレ移動が終了)

第1号工事機は、プレ移動で大森町第1踏切道の手前まで南下して、交通止めの通知に示されているように、21日または25日の歩行者通行止めの日に踏切を越えての移動待ちとなりました。なお、20日未明には、工事機プレ移動のため除去されたホーム仮屋根などの復元が行われました。

 プレ移動で大森町第1踏切道北面まで移動の工事機(写真拡大)

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イベント 国立印刷局 1億円紙幣札束の重量を実感できる国立印刷局滝野川工場

2008年08月03日 | イベント
kan-haru blog 2008 

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国立印刷局滝野川工場
6月11日の午後、所属している東京都異業種交流会H11メトロの見学会で、日本の紙幣・切手・旅券・郵便貯金通帳・証券類・政府刊行物などの印刷を行っている、独立行政法人国立印刷局滝野川工場を見てきました。

滝野川工場(北区西ヶ原2-3-15 地図参照)は、メトロ南北線西ヶ原駅から徒歩5分、またはJR上中里駅から徒歩10分で、本郷通り(都道455号)の正門前に集合して、午後1時からの見学です。工場の見学は、2週間前までの予約により、月曜から金曜までの9、10、13、14時から約1時間半で、毎回1人から60人程度の見学ができます。
なお、工場内の写真撮影は、展示館の一部と庭の鳳凰像の前の2ヶ所を除き、撮影禁止です。

滝野川工場の正門は電動扉で開閉し、門内の正面通路には車両の通行を停止させるため上下動する鋼鉄棒を備え、さすが紙幣などの重要な印刷工場ですので厳重なセキュリティ態勢です。

 国立印刷局滝野川工場正門

独立行政法人国立印刷局
国立印刷局は、東京港区に本局を置き、虎ノ門、滝野川、王子、小田原、静岡、彦根、岡山の7工場を運営して、職員の身分は国家公務員とされています。

印刷局の沿革(*)は、1871 年(明治4年)に大蔵省紙幣司として創設され、紙幣寮と改称されました。翌年に太政官正院印書局に改称し紙幣国産化の取組が行われるとともに証券類、郵便切手の製造、活版印刷等の印刷・製紙業務を行い、1877年(明治10年)に大蔵省紙幣局として国産第1号の国立銀行紙幣(新券)1円の製造を開始、1898年(明治31年)には統合印刷局(内閣所管の外局)として官報を発行しました。
1943年(昭和18年)からは大蔵省関連の印刷局となり、2001年には財務省関連の印刷局に移り、平成15年に現在の独立行政法人国立印刷局となりました。平成20年4月1日現在の役職員数は、役員7名、職員4,834名です。

 P字状建屋の国立印刷局滝野川工場

滝野川工場見学
滝野川工場の業務は、日本銀行券、国債、収入印紙、その他諸証券類の製造を行っています。見学は、正門の通路をまっすぐに工場建物に向かって進み、工場手前で左側に曲がると右奥に鳳凰像が見えます。その左手建屋の説明ホールで先ず映像を観賞してから、各自のお札を出してルーペで拡大しながらじっくりと偽造防止技術の説明や、お札に印刷されている記番号の説明などを聞きました。

 国立印刷局滝野川工場見学集合写真

国立印刷局が有している有益な偽造防止技術(*)には、お札を斜めから見ると別の画像が現れるLine View、見る角度を変えると光沢を持った複数の画像が現れるMetallic View、コピー機で複写すると肉眼で見えない文字や画像が出現するCopy Check、微小な文字により画線を構成し画像を表現するマイクロ文字や、特殊な形状の網点により画像を表現する特殊形状スクリーンなどがあります。

お札に印刷の記番号は、「アルファベット1文字+6桁の数字+アルファベット1文字」で、使いきるとアルファベットが2文字となります。数字は、000001~900000までを使います。

次の工場見学は、P字状建屋の工場の2階通路の窓からの見物です。印刷の工程(*)は、印刷するお札の原図を工芸官が筆により絵の具で超繊細な技術で図柄を画き、それを高度な技術を持った工芸官が専用器具で彫刻して原版を作ります。
原版から印刷用の製版を作り、国立印刷局が開発した銀行券印刷機で印刷します。次に、偽造防止技術の1つのホログラムを貼り、お札の管理の記番号が印刷され、1万円紙幣20枚が印刷された大判の紙幣ができます。これを、裁断して検査し、1000枚束にして日本銀行に納入されます。

 1億円紙幣の実物重量を実感する

工場見学後には、別棟の資料館で国内外の古いお札や、偽造防止技術のホログラム、特殊発行インキ、すき入れバーパターン、マイクロ文字などの紹介展示物を見てから、最後に1億円の大判の札束を持ち上げて10Kgの重量を実感した後、中庭の鳳凰像の前で見学記念の集合写真を撮りました。
鳳凰は、明治に発行した紙幣に鳳凰の図を採用して以来、現在の1万円札の裏模様になっており、国立印刷局のシンボルです。

 国立印刷局シンボルの鳳凰像

見学後、メトロで後楽園に出て恒例の懇親会で喉を潤おして解散しました。

注:この見学記は、国立印刷局ホームページにリンクしており、*印情報は、「国立印刷局ホームページから転載」しています。

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