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kan-haruの日記

大森町の社寺 貴管神社 国道拡幅により本殿移動を要する社の夏祭り

2007年08月30日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
kan-haru blog 2007

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第一京浜国道の拡幅工事
貴管神社(大田区大森西5-27-7)の夏祭りは、8月最後の25日(土曜日)と26日(日曜日)の両日に行われました。
貴管神社(「大森町界隈あれこれ(L31) 大森町の社寺 ささやかに鎮座する貴船(貴菅)神社」参照)は、前面が第一京浜国道(15号線)に接しており、その国道は大森町駅付近から多摩堤通りまでの区間が、東京都都市計画道路(幹線街路放射第19号線)により拡幅されることで工事が進められており、すでに大森町駅付近からエンゼルハイム大森町第二マンション(大田区大森西5-29)までの拡幅が終了しております。

        東京都都市計画道路(幹線街路放射第19号線)拡幅工事 再掲

現在その先の国道沿いにある、ナイルス、エンゼルイン大森とファームストーンの各ビルは、すでに国道拡幅のラインに合わせて建てられており、その前では道路の工事が始められております。

 第一京浜拡幅前の貴管神社(拡大)   貴管神社境内の第一京浜拡幅予定(拡大)

貴管神社の場所
貴管神社は、ファームストーンビルと地続きにあり、1922年(大正11年)に第一京浜国道の建設が行われた状態の位置のままで鎮座しています。
国道の拡幅ラインは、貴管神社本殿と社務所は半分ほどが引っかかり、末社のお稲荷さんは完全にかかります。先の谷戸交番は道路の中に入り、奥の葬儀社の金子会館が前面に出る形になります。

こうした中で、7月21、22日に境内移転前の盆踊り大会(「大森町界隈あれこれ 国道拡幅により現境内での貴船(貴菅)神社盆踊り大会」参照)を開催しました。

貴管神社現境内最後の夏祭り


今後は、国道拡幅工事のため西側の京浜急行電鉄の方向に、 1952年(昭和27年)竣工の本殿と社務所に末社などを移設するか建て替えるかを決定する貴管神社の、例年行事である夏祭りを迎えました。
貴管神社の夏祭りは、例年の様に2日間にわたり氏子出演の夜の演芸が主体で行われ、子供神輿と山車が午前中に町内を巡行しました。


今年は、祭り囃子は小型車搭載の車が国道脇の工事による空き地で、景気をつけて奏でられておりました。露天は境内が狭いので金魚すくい、綿あめとポップコーンにかき氷屋さんのかわいいミニ露天が出てました。


貴管神社夏祭り恒例の演芸大会は、2日間とも19時から21時までで、初日は梅屋敷太鼓、カラオケとおどりにフラダンスの競演で、2日目は盛り沢山でふれあいこどもクラブの太鼓演奏、かっぽれおどり、三味線にうた、合唱、カラオケ、おどりに付け加え昨年と同じく、地元の大森第一小学校校長先生の南京たますだれの披露がありました。

       演芸プログラム:(左)第一日演芸、(右)第二日演芸 (拡大)

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イベント 東京都美術館 第62回日本書道美術院「教育部展」

2007年08月28日 | イベント
kan-haru blog 2007

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8月は書道展シーズン
8月は書道に関する展示会が各地で開催されておりますが、その中で読売新聞社の書道展は最大規模の展示会で、8月24日から9月2日まで国立新美術館の第1会場とサンシャインシテイ(文化会館)を第2会場として開かれる「第24回読売書法展」は、関東を中心とした周辺県の方の出展数が29,506点というスケールの展示です。
この読売書法展は、9月以降は地方の関西展を手始めに、中部、中国、東北、北海道、九州、四国と順次開催されます。

第62回日本書道美術院教育部展
読売の大規模な書道展に驚いたのは、孫が書道塾に通い始めて昨年の東京都美術館に出品し、その日本書道美術院教育部展(「イベント(4) 東京都美術館 第61回日本書道美術院「教育部展」」参照)を見に行ったときに、読売書法展が東京都美術館で同時開催していたので、8月は書道に関する展示会のシーズンであることを知ったのです。

    東京都美術館日本書道美術院教育部展会場

第62回の日本書道美術院教育部展(13~19日東京都美術館地下三階第二彫塑室で開催)には、昨年に続き2回目の出品で優作に入れましたので、当事者は国内におらず孫の従兄弟に当る高校生が遊びに来てましたので一緒に14日に見に行きました。

    第62回日本書道美術院教育部展

主催の財団法人日本書道美術院は、第二次世界大戦後に一番最初に誕生した書道団体であり、毎日新聞社との共催で第52回全国競書大会と併催開催です。

    併催の第52回全国競書大会 

教育部展の出品作品の規定は、例年同様に幼年を含む小学生、中学生と高校生が対象であり、体裁は軸表装にしたものと定められており、今回の出展作品の語句は「一ばん星」でした。

        出展作品「一ばん星」(拡大)       教育部展特別賞入賞作品(拡大)

みんなの書賞作品(拡大)  優作(拡大)      優作(拡大)      優作(拡大)

出展の作品は、みな個性があり、どれものびのびと力強い筆運びで書かれております。特に感心したのは、幼年児の書道でも素晴らしい書き方を見せております。

       (拡大)              (拡大)               (拡大)

日本書道美術院教育部展の出展数は、高校の部が92点、中学の部が138点、小学生の部が822点です。作品の入賞は、特待賞(小学の部1点)、日本書道美術院賞(高校、中学、小学の部各1点)、理事長賞(高校、中学の部各2点、小学の部3点)、毎日新聞社賞(高校、中学の部各3点)、毎日小学生新聞賞(小学の部4点)、全日本書道連盟賞(高校、中学の部各4点、小学の部7点)、高野山金剛峯寺賞(高校の部7点、中学の部9点、小学の部14点)、教育部展特別賞(高校の部13点、中学の部22点、小学の部30点)、みんなの書賞(高校の部28点、中学の部49点、小学の部62点)、特選(高校の部34点、中学の部49点、小学の部83点)です。

 理事長賞受賞作品(拡大) 金剛峯寺賞受賞作品(拡大) 全日本書道連盟賞作品(拡大)        

なお、小学生の部では、特選以下に秀作、優作と佳作が授与され全員に賞状と副賞がおくられます。
全国競書大会の方は、高校・中学・小学の他一般の部漢字・かな・新書芸があり、賞には教育部展と同様に特待賞、日本書道美術院賞、理事長賞、毎日新聞社賞、毎日小学生新聞賞、全日本書道連盟賞、高野山金剛峯寺賞、全国競書大会賞、書道美術特別賞、みんなの書特別賞、書芸文化院賞の各賞があります。

小・中・高校生の素晴らしい出展作品を鑑賞すると心がやすらぎ、芸の奥行きがなんとなく分かるような気持ちになります。
ゆっくりと作品を鑑賞してから、お茶でもと思ったのですが、今年の格別の猛暑で喫茶室が満員のため諦めて帰路につきました。

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風景・風物詩 阿波踊り 第33回糀谷商店街阿波おどり大会

2007年08月26日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2007

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阿波踊り
東京で阿波踊りといえば、8月最終土、日の2日間開催される高円寺阿波おどりで、約70連、約7,000人の踊り手がお囃子を奏で踊り、見物客100万人あまりの規模は、徳島に次いでの規模を誇ります。今年は第51回目の高円寺阿波おどりで、25日と26日に開催されますが、昨年の第50回阿波おどり(「風景・風物詩(B8) 夏の風物詩 高円寺阿波踊り」参照)には、8月27日の日曜日に見に行きました。

阿波踊りは、大田区でも盛んで、各地の盆踊り大会や大森町サマーフェスティバル(「大森町界隈あれこれ 大森町共栄会 2007年サマーフェスティバル」参照)などのイベントなどに必ず阿波踊りが登場します。
阿波踊りの盛んな訳は、大田区には「くすのき連」という東京都大田区役所の踊る阿呆を自負する職員とその関係者でつくる阿波踊りグループがあり、商店街のお祭りや福祉施設のイベントなど、積極的にまちに出て、地域や周辺自治体との交流を深めているのです。
くすのき連は、地元大田区で盛大に行われております糀谷商店街阿波踊り大会に参加し、商店街振興のお役に立とうと、平成2年度に発足いたしました。


糀谷商店街阿波おどり大会
糀谷商店街は、京浜急行電鉄の京急蒲田駅から支線の空港線で1つ目の糀谷駅(地図参照)の南側の環八通りを横断した南北の通りが商店街です。
糀谷商店街阿波おどりは、高円寺阿波おどりから見ると規模は小さいのですが、歴史的には古く今年で33回目を迎え、大田区の夏の風物詩として地域にすっかり定着し、人気のある阿波おどり大会です。
出場の連は、地元のちびっ子連をはじめ11連が参加して8月3、4日の午後7時半から9時半までの二日間開催されましたので、4日の土曜日に見に行きました。


阿波おどりのコース(コース図参照)は、商店街の南端からスタートして商店街通りを北上(コース図緑色線)し、環八通りを横断して踏み切りの終点までを踊りながら進行します。
阿波おどりのコースには、4ヶ所の組おどりを行う場所(第33回阿波おどり大会コース図参照)が設けられており、第1ポイントは商店街南端ゲート付近で、第2ポイントは商店街の肉の大田屋付近、第3ポイントは商店街の大会本部席が設けられているスズキ薬局前、第4ポイントは環八通りを横断した京急踏切までの麻生時計店前で、各連の演技を披露する組おどりが見られます。


おどりのコースを踊り終えた連は、商店街の横道(コース図青色線)の迂回路を通り、商店街の南端のスタート地点へと戻り、太鼓やかねのお囃子に合わせて「ヤットサー、ヤットヤット」の掛け声で、阿波踊りのコースを何度も巡回して観客に披露します。
4日の連には、西糀谷児童館ちび助連(第32回大会優勝)、ゆりかもめ連、中荻中わくわく連(第32回大会準優勝)、荻若連(第32回大会理事長賞)、子六連、くすのき連、大和新橋連、助六連(第32回大会理事長賞)などが登場しました。その他3日には、ひょっとこ連、伍楽連が登場しました。


糀谷商店街阿波踊りは、「踊る阿呆」に「見る阿呆」の日本の独特の夏祭りの風物詩で、ローカル色豊かな連の踊りは、今夏の猛暑のなかの一時を心地よく和ませてくれました。

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イベント 東京芝とうふ屋うかい 異業種交流会H11メトロ恒例の暑気払い

2007年08月24日 | イベント
kan-haru blog 2007

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異業種交流会H11メトロ
異業種交流会H11メトロは、地方独立行政法人東京都立産業技術研究センターが異業種交流事業として毎年募集している東京都異業種交流会グループの中の、平成11年に発足したグループの一つで、毎月交流会または研修会を開催しております。
H11メトロの5月例会の趣きあるお部屋「花みち」で開催の模様を掲載(「イベント タイムスリップした趣きあるお部屋「花みち」で開催の異業種交流会」参照)してあります。

6月の例会は、研修旅行で茨城県結城市にある「つむぎの館」にて浴衣 の絞り染め体験が行われ、参加者は仕立て上がりの浴衣を着て暑気払いに集まる意図でしたが、残念ながら仕立てが遅れて間に会いませんでした。

とうふ屋うかいでの暑気払い
交流会では、毎年暑気払いが行われ、昨年は御茶ノ水の「山の上ホテル」で開催(「風景・風物詩(A1) 東京百景 山の上ホテルとその周辺(その3)」参照)しました。
今年は、8月8日に東京芝の「とうふ屋うかい」で18時より開催しました。


とうふ屋うかい(東京都港区芝公園4-4-13 航空写真参照)は、東京タワーの真下の昔東京タワーボウルがあった所に、2005年9月にオープンした樹齢100年を超える古木が茂り、滝から流れ出るせせらぎの音が響く、閑静なおよそ2000坪の日本庭園に、山形の造り酒屋や新潟の豪農の屋敷を移築した重厚で風格のある木造建築の中で、江戸の食文化を代表する豆腐を主役にした日本料理のコースを食べさせてくれるお店です。


八王子・大和田の銘水で作られる濃厚で滋味深い極上の手作り豆腐を、多彩に楽しませる技と工夫が凝らされた料理を食するお部屋は、炭火で仕上げる中庭の田楽処を中心にして飛騨高山の匠たちにより造りあげられた、伝統ある数寄屋造りの御座席個室が53室と、3部屋の大広間があります。


H11メトロの暑気払いは、門をくぐり、じょうや坂をのぼり、邸内に入ると拭き漆の尺柱の日本建築のホールを通り、蔵造りの建屋の漆塗りの回廊を抜けて二階の大広間で行いました。


風流な江戸の食文化のとうふ料理のお献立には、「花」、「月」と「雪」の御膳が用意されています。

東京タワー見物
H11メトロの暑気払いで交流を暖めて散会ですが、折角東京タワーの足元に来ているのですから、普段見学に訪れる機会が殆どないのでこの際希望者で東京タワーを登ることになりました。
2011年にテレビの地上アナログ放送が終了され、地上デジタル放送への全面移行を契機に、2008年から墨田区押上に新東京タワーの建設が開始され、予定通りに高さ610mの電波塔が2011年に完成すると、放送事業者の設備が全て新東京タワーへ移ってしまうので、それまでの間が東京タワーの見納めとなります。

東京タワー(Wikipedia画像)は、1957年(昭和32年)6月に起工し、わずか1年3ヶ月の1958年(昭和33年)10月に竣工した高さが332.6mで、地上120~125mに2層の展望台と223mのところに特別展望台があります。特別展望台は、当初放送設備・機材置き場に使用されていましたが、1968年(昭和43年)になってオープンされました。
東京タワーは現在でも、自立式鉄塔として、世界最高を保っています。

8日は夏休みに入ったことと、昭和30年代の東京の下町を描いた映画「ALWAYS 三丁目の夕日」に、東京タワーの建設途上のリアルな再現場面が登場し、さらに、別の「東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~」などの映画により東京タワーは、今人気が高まって混雑しています。

・特別展望台
東京タワーに最初に登ったのは、かなり以前でその時は未だ特別展望台がなかった時ですので、今から40年も前になります。2度目に登ったのは、地方からのお客さんを案内した時で、特別展望台は出来ておりましたがそこには登らずで、今まで上がらずでしたので今回初めて登って見ました。

 東京タワー地上120mの展望台の夜景(拡大)

特別展望台へのエレベータは、1台でのピストン輸送でしたので、行列待ちで待たされました。地上223mの展望台の鉄塔の太さは、2層展望台の鉄骨とは比べ物にならない位細いもので、中越地震の後であり若し地震がきたらどうなるのかと、変な予感がよぎりました。
特別展望台の展望は、夜間でしたので遠望が適わず、近辺の夜景も2層展望台からの方が綺麗でしたが、思わぬ見納めの展望台での暑気払いも楽しめました。

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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第3編 我等の生活談義 第3回

2007年08月22日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
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戦後の食料難と労働運動
敗戦の食料不足と、インフレによる物価の高騰での生活苦には、国民は当然ながら労働運動に参加し激化しました。
日本では戦争中から食料品を始め、殆どの品物が配給制となっていました。これは、戦争で若い青年が戦場へ動員され、労働力が不足し生産能力が足りなくなり、空襲によって工場、輸送機関が破壊され、肥料や農機具も不足していたからです。
そこへ、戦地に行っていた人約350万人、外地にいた人約300万人が帰国し、1割近く人口が増えました。

おまけに、1945年の米の収穫は平年の2/3の4千万トンしか穫れず、大変な食料難で配給される食料だけでは餓死してしまうので、闇と言う配給以外のルートで品物を買うことでしのいでいたのです。農家は配給に回す品物を、出来るだけ闇ルートに回す事になり、配給食糧はますます不足となります。
闇で品物を買うのですから、当然高くなり大変なインフレーションになりました。
終戦直後の主食の配給品に、煮ても軟らかくならない甘藷や芋がら、小麦フスマなどが米の代わりに配られたような酷い時代でもありました。
そこで、米国はガリオア資金を日本に貸与し、アメリカで余剰食料品を買い、小麦粉・とうもろこし粉などが主体で米の代わりに配給になりましたが、当時は砂糖やトマト缶ジュースなども米の代わりでした。

サラリーマンの給料は毎月賃上げと言うわけにはいきません。一方物価は毎日のように上がっていきます。闇で食料を買おうとしてもお金がありません。農家ではお金を貰っても、お金の値打ちがどんどん下がるので、代わりの品物を要求します。そこで今まで持っていた着物を持って行き食料を分けて貰いました。1枚づつ着物がはがされていく事から竹の子生活と言いました。

マッカーサーの施政改革として、東久邇終戦処理内閣から引き継いだ幣原首相と会見し、改革指令を出しました。一つは労働組合の奨励であり、又共産党員等政治犯の釈放もあり投獄されていた共産党の指導者が一斉に釈放されました。
それにより労働組合の結成が相次ぎ、10月には各地でストライキが始まり、その要求は賃上げの要求で2倍から5倍という激しいものでした。
会社側ではストライキに対してロックアウトで対抗し、組合員が会社へ入ることを禁止し、ロックアウト期間は賃金を支払わないというものです。そこで組合側は実力で会社に押し入り、経営者の入場を阻止し、かってに会社の機械や原料を使って操業しました。これを組合による生産管理といいます。

1946年4月19日の米寄こせデモでは30万人が参加し、その一部は首相官邸になだれ込み、その鎮圧に占領軍は装甲車を出すほどでした。余りにも行きすぎた闘争にマッカーサーは、集団暴動と呼び警告を発し、6月に政府は「生産管理は正当な争議行動と認めない」と声明を出しました。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) 我等の生活談義 第3回

インフレその2
そこで今度は、政府の公定価格がどれだけ低物価政策に、机上に於て努力しても、其の丸公さえインフレの波に引きずられ、下表の騰貴である。

   ○ 昭和十二年七月日華事変勃発の頃を基準とす



上表の如く丸公さえ、主食の平均十割、生鮮食料の四十割から百割の暴騰である。これに対し、我々勤労階級の待遇は如何程改善されしや、兎の疾走に亀である。故に其の苦痛、生きんが為の言語に絶する。敗戦後インフレは当然でるとは雖も、全く寝ては夢、さめては現実に米櫃のカラカラ不足に泣くのが腹にこたえる。茲に当然、待遇改善に、賃金棒給値上げに結束して要求せざるを得ぬ破目となった。

戦争中は総てなにもかにも弾圧されてきた。敗戦と共に一挙に民主主義、祖国再建は我々勤労者の双肩にあり、天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず、人間は総て能力に於て平等に生活する権利あり、と、茲に
  闘争だ、争議だ、生管だ、
しののめのストライキと、あの手この手の戦術でやっと増給が三倍か五倍である。それでも、一先ず安心と、息つく束の間もあらばこそ、この兔はひるねをせぬ、却って二足も三足も飛躍して、亀さんここまでおいでと手招きして居る。
瞬刻も其の日の生活に安心出来ぬが、我々庶民の姿なのである。

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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第3編 我等の生活談義 第2回

2007年08月20日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
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新円切り替え
第二次世界大戦に敗れた日本経済は、戦争によって国富の約4分の1を失いました。それにより、生産水準も戦前の2~3割にまで落ち込み、大きな痛手を被りました。
そうしたなかで、終戦処理費として巨額の財政支出を出費されたことから、日本経済は激しいインフレに見舞われ、国民生活は極度に窮乏化しました。実際には、1935年(昭和10年)の卸売物価水準を基準として、終戦時には3.5倍、1949年(昭和24年)には208倍を記録するなど、復興期の日本経済はハイパーインフレの渦中にありました。

これにより、政府では1946年(昭和21年)2月に、金融緊急措置令および日本銀行券預入令を公布して、5円以上の日本銀行券を預金や貯金、金銭信託として強制的に金融機関に預入させました。こうして、既存の預金とともに封鎖したうえ、生活費や事業費などに限って新銀行券による払い出しを認める「新円切り替え」という非常措置が実施されました。

金融緊急措置の実施に伴い、金融機関からの預金引き出しは厳重に制限されましたが、一定の生活資金や事業資金については新円での払い出しが認められたため、封鎖預金の払い戻し請求はかなりの金額に達しました。
これにより、日本銀行券発行残高は金融緊急措置実施後1か月のうちに6割にまで縮小したが、その後再び増大しインフレの減速は一時的なものにとどまりました。
これは、マネーサプライ増大にある財政赤字の削減が、進まなかったからでした。

しかし、1948年(昭和23年)に経済安定9原則が連合軍総司令部から発表され、続く翌年には、均衡財政による財政の健全化と、1ドル=360円の単一為替レートの設定を主たる内容とするドッジ・ラインが実施されて、インフレも終止符が打たれました。

・尺貫法
日本では江戸時代から尺貫法が用いられ、1891年に制定された度量衡法により尺・貫を原器により定義し、メートル法も認める体系となり、1921年にメートル法を基本とする度量衡法を改正し国内単位の統一を計り、1951年に度量衡法は廃止され計量法が制定されて、土地・建物を除きメートル法が実地されました。
全面的な実地は1966年のことであるが、現行計量法は1992年に公布されました。
 長さ 1尺 = 30.3cm
 重さ 1貫 = 3.75kg
 容積 1升 = 1.8リットル


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) 我等の生活談義 第2回

インフレその1
一体全体物価はどれ程暴騰したものか、第一お札の方から見る事にしよう。
昭和十二年日華事変の頃は発券高二十億円に過ぎなかったのが、二十年一月百七十億円、七月末二百八十五億円となり、終戦の八月十五日三百三億円、九月四百二十億、本年モラ旋風ストップ六百十八億と三十一倍に膨張したのである。それが新円となってとにかく百五十億円におさまったのである。
処が、ヤミ値は「おさつ」のふくれる通り足並そろえて値上がりしたから面白いのである、然し面白いというのは生産家だけ、配給以外ヤミ生活を強いられている我々勤務消費者は泣きつらに蜂である。

 ○ヤミ値の騰貴率  「主要物資のみ」
              ・二十年十月迄は日銀調査
              ・本年七月は自己調査
              ・最高、最低は主として品質による


上表昨年十月迄の分は、日銀がその職員と関係業者とを動員して、一種目に付き五十から約百の報告を基準にして、其の平均化したものである。十月迄の平均暴騰指数は三十四倍となると。

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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第3編 我等の生活談義 第1回

2007年08月17日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
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玉音放送
62年前の1945年8月15日も、朝からじりじりと照りつける暑さの厳しい最中、疎開先の校庭で正午からの昭和天皇による玉音放送を聞くために召集され、整列したことは決して忘れることが出来ない出来事の記憶でした。
前のブログでも記述しましたが、当時のラジオの性能は、校庭の隅々まで音声が届くものでは無く、前列中央の一部の者しか聞き取れないものでした。放送が終了して、校長先生の「解散」の号令を聞き、何があったのかは帰宅して家に着くまでは戦争終了は分からなかったのです。

当日は朝から「賢き辺りにあっては本日正午から重大発表を行なうので、必ず聴くように」と繰り返しアナウンスされていて、このラジオ放送は国民にとって敗戦の象徴ともいうべき出来事であり大きな衝撃でしたが、当時国民(小学)6年生にとっては事の重大さの理解が深く及ぶものでは無い年齢でした。
疎開先では、米軍の艦載機が飛んで来て、人が動くと機銃掃射で攻撃される日々を送っておりましたが、戦争が終わって機銃掃射も受けなくて済むことと、夜は灯火管制で黒い布で覆っていた照明が明るくなったことが嬉しく感じたことでした。

終戦直後の生活記録
終戦により秋には大森町に引き上げて、戦後生活を送ることになりましたが、悲疎開先での悲惨な生活は終止符をうちましたが、戦後の欠乏生活もそれ以上に大変なものでした。
1945年(昭和20年)代の終戦直後の生活記録は、現在殆ど無いのが現状です。
若山武義氏の大戦の空襲戦災体験から始まる手記は、終戦翌年の11月末まで続き、大変貴重な記録です。
今回から、戦後編の第3編 我等の生活談義を掲載して行きます。是非、周囲の皆様にもお伝え頂き、このような時代もあったことを知って頂けたらと思います。

掲載中の若山武義氏手記
[戦中編 1944年11月~1945年8月]
1 大森町界隈あれこれ 鎮魂!大森町大空襲(第1回第11回)
2 大森町界隈あれこれ 手記第2編 戦災日誌中野にて(第1回第7回)
3 大森町界隈あれこれ 手記第3編 終戦前後目黒にて (第1回第9回) 
[戦後編 1945年9月~1946年11月]
4 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第1回第8回
5 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第2編 天皇制の問題集 第1回第6回
6 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第3編 我等の生活談義 第1回~


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) 我等の生活談義 第1回

政府の配給だけでは生きてゆけぬ
悲しい哉、我々は武士の子ではない、「おなかがすいてもひもじゅうない」とヤセがまんは出来んし、「武士は喰はねど高楊枝」と、庶民にはそのようなき持ちなどあろう筈がない。
「このガキ、なんでめしくわないんだ」と、どなわれどなわれ育って来た今、たべ盛りの子供に「あんまりたべてくれるな」と制限せざるを得ぬ破目なのである。

我々階級は戦争以来、インフレと食料不足に苦しめられ通しである。殊に昨年終戦後、泣きつらに蜂の空前の凶作、満州、朝鮮、台湾を失った今日、主食の不足二千万石、一千万人の餓死者が出るとおどかされ、浅ましくも生きんが為め食物の収奪に無我夢中、昨日の相場は、今日の値段ではない。金のある連中はあるにまかせて大仕掛け、ない者はないで七置き八おき、物交やりくり算段で買いだめしたのである。其の為め、たださえ混雑の人殺し電車、汽車。昨秋の千葉、埼玉の冠水芋買出しの情勢を、為政者はなんと見たか、説明して欲しいものである。

インフレではない、物のキキンであるとは石橋さんの説明である。勿論たしかに其の通りである。金のキセルもつめてのむ莨がなければ用をなさぬ。乞食が小判をだいて餓死するのであるから、まさしく物のキキンである事は其の通りである。生産の昂揚さえせばインフレは消滅する。故に生産振興の生きた金ならどしどし使う。インフレはインフレで克服する、毒には毒を以ってする筆法である。

今茲に腹ペコの我々は、高遠なる論議は其の道の専門家におまかせする。ただ、戦後このインフレの怒涛のなかを、いかに生きて来たか、亦今後一層苦しかるべき生活を、如何に生き抜くべきかを考えるより外に手はないのである。率直に結論を申せば
  政府の配給だけでは生きてゆけぬ
問題はただこれ丈なのである。

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旅ものがたり 長岡花火大会と奥只見・八海山 その4

2007年08月15日 | 旅ものがたり
kan-haru blog 2007

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奥只見湖
奥只見駐車場に着いたのは11時を廻っていましたので、予定より1便遅れの11時30分発の奥只見湖遊覧船に乗るため乗り場に向かいました。
遊覧船(記念乗船券)は、この期間に運航中のファンタジア号での遊覧です。ファンタジア号は、19世紀後半のアメリカ合衆国南部を流れるミシシッピー河を運行していた外輪船をモデルとしてデザインされた遊覧船で、鋼造3階の重量が150トン、300人乗りです。

                       ファンタジア号

周遊コースは、只見湖を尾瀬に通じている只見川に向かって反時計廻りに進み、虚空蔵岩付近で反転して戻る40分のコース(案内図参照)です。空蔵岩には、ダム建設による水没前には虚空蔵菩薩が祀られ、38世帯住民たちの自然信仰の対象として崇められていました。

                      奥只見湖上遊覧

遊覧船で南に向かうと前方には尾瀬の至仏山(2228m)と燧ケ岳(2356)があり、奥只見湖の南端から只見川を遡ると三条ノ滝、尾瀬ヶ原を経て尾瀬沼に辿りつきます。奥只見ダムが完成してから、尾瀬口まで定期船が就航し40分で到着し、そこから尾瀬への沼山峠までバスにより1時間で行けるルートがあります。
昭和30年代には、群馬県の沼田から三平峠を越え、尾瀬沼、尾瀬ヶ原、三条ノ滝を巡り燧ケ岳に登山したのは、遠い昔の想い出の山です。

尾瀬を源流とする只見川は、途中で阿賀野川に合流して日本海に注ぎます。
奥只見湖付近は、豪雪地帯で降雪量の累計は平年で26mもあり、最大積雪の深さは4、5mもあり、大雪の年は6mを超えます。ただし、今年は過去に無く積雪の少ない年であったようです。
なお、奥只見湖を西に進むと、銀山平まで40分で定期船が結ばれており、秋の紅葉シーズンには船便数も多く就航します。
銀山は、1641年(寛永18年)に赤の川(現只見川)で銀鉱山が発見され、1653年(承応2年)に銀山奉公を任命され普請が始められたとあります。銀山街道には宿場(銀山8宿)が置かれ、上田銀山には山中の戸数が約1000軒、寺院が3寺あったといわれ、16891~1705年の期間繁栄して、1713年(正徳3年)に発見後の採掘期間およそ56年で休鉱した。その後、1850年(嘉永3年)に再開され、1910年(明治43年)には鉱山拓殖会社が設立され、入植者を募ったとあります(銀山平温泉のホームぺージから)。

奥只見湖の遊覧を終え、駐車場前の奥只見ターミナルで名物のわっぱ飯の昼食でした。食堂の壁面には、1977年に捕獲した体長が255cm、体重が190kgの巨大な月の輪熊のみごとな毛皮が食事処の壁に飾ってありました。

      奥只見ターミナル       1977年に捕獲された巨大な月の輪熊

奥只見電力館
遊覧船の乗船が予定より遅れたので以降の行程が押せ押せとなり昼食後、希望者のみが奥只見電力館を見ることになり、往復の時間を入れ30分間の慌ただしい見学ですが、折角来たのですから急ぎ足で行ってみました。

 発電機をイメージした電力館        電力館玄関          電源神社

奥只見電力館(新潟県北魚沼郡湯之谷村芋川字大島1317-3)は、船着場と反対方向に坂を登って行く途中に電源神社があり、その先に発電機をイメージした建物が1973年(昭和48年)の創立20周年を記念して電源開発(J-POWER)が設置したものです。

                      電力館展示物

広場には実物の水車があり、館内には奥只見ダムの完成から発電開始までの歩みや、水力発電の仕組みなどの電気・発電・エネルギーに関する展示があります。また、奥只見湖の素晴らしいパノラマを眺めることができます。

電力館からのダム展望(拡大1)    (拡大2)             (拡大3)

なお、地下の奥只見発電所の見学をするには、事前に時間を定めた予約が必要になっています。

八海山ロープウエー
奥只見の駐車場を13時30分に出発して、奥只見シルバーラインの19のトンネルを抜けて小出へともと来た道(奥只見湖付近地図)を戻ります。
なお、シルバーラインの17号(明神)トンネルは、奥只見湖から1670mの地点がT字型の三叉路の分岐点があり、樹海ライン(国道352号)に結ばれ銀山平に出られるように出来ている珍しい構造のトンネルです。
県道50号から国道352号を西へと進み、途中「道の駅ゆのたに」でトイレ休憩を挟み、国道291号を南下(長岡・奥只見・八海山コース地図参照)して、県道214号交差点を左折して行くと八海山(八海山付近地図参照)のロープウエー山麓駅です。

                八海山ロープウエー

八海山は、中の岳(2085m)、越後駒ケ岳(2003m)ともに、新潟県南魚沼市にそびえる越後三山としてその名が知られています。地蔵岳、不動岳、七曜岳、白河岳、釈迦岳、摩利支岳、剣ヶ峰と大日岳(1720m)の岩峰からなる山頂部が象徴の、行者の修行や信仰の山として開山されました。

八海山ロープウエー(記念チケット)は、1983年に六日町八海山スキー場の4人乗りゴンドラでスタートして、平成13年に81人乗りの国内最速(毎秒10m)のロープウエーが建設されました。
時間が押しているので、すぐに15時30分発ロープウエーに乗り八海山四合目の山頂駅(標高1147m)に到着です。山頂駅からは山麓(標高376m)の風景は展望できるのですが、八海山の風貌を見るにはそこから上にある展望台か八海山遥拝場まで行かないと拝むことが出来ないのです。残念ですが、15時50分発のロープウエーで下山です。

     八海山(拡大)

八海山を後にして、越後湯沢発18時発のMAXとき1F340号で東京駅に19時20分に着き、長岡花火、奥只見遊覧船、八海山ロープウエーの旅は全行程は廻りましたが、ツアー恒例の見学時間が足りずの駆け足旅行でした。

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旅ものがたり 長岡花火大会と奥只見・八海山 その3

2007年08月12日 | 旅ものがたり
kan-haru blog 2007

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宿泊ホテルに着いたのは翌日
長岡の打上げ花火に感嘆して会場を出たのは10時少し前でしたが、帰路は一斉ですので通路は詰まりなかなか進めず、1時間ほど要してハイブ長岡のバス駐車場を出たのは11時半をまわっていました。
宿泊の苗場プリンスホテルへは、バスの明かりを消灯して寝みながら一路南下して小出、五日市、越後湯沢を経由(長岡・奥只見・八海山コース地図参照)して、三国街道(国道17号)沿いの苗場スキー場メッカのホテルに着いたのは日の変わった1時半を過ぎていました。部屋割りは6号館6階でしたが、疲れた体を癒すため、大風呂に入ってベッドについたのは3時を廻ってました。

苗場プリンスホテル
苗場プリンスホテル(新潟県南魚沼郡湯沢町三国 苗場プリンスホテル付近地図参照)は、収容力のある大型ホテルで6号館までの1298室あります。苗場山からは離れた筍山にありますが有名な苗場の名前を使用して、苗場国際スキー場を運営し日本一の来場者を誇っています。
翌朝起きてみるとホテル前の駐車場には、花火見学の観光バスがなんと20数台が駐車しており、今更ながら長岡花火の人気振りには驚きました。

  花火ツアーの観光バス   苗場プリンスホテル      ホテルの朝食風景

苗場山(高2145m)は、日本百名山のひとつで、山頂には広い平原があり、小さな池塘が点在しています。そこには、苗のような草が生えて水田のような外観を呈していることが、「苗場山」の山名の由来となっています。苗場山には、昭和30年代に現在の苗場スキー場付近から清津川をさかのぼり、秘湯・赤湯温泉に一泊して昌次新道を登山したことのある懐かしい山です。

奥只見観光
ホテルの朝食は、7時から2ヶ所のレストランでとることになっており、バイキング形式レストランの3号館1階のアゼリアで済ませました。寝不足気味の朝食でしたが、バイキングの通例で、自宅での朝食より沢山食べてしまいます。
奥只見観光の出発は、10時30分発の只見湖周遊船に乗るため、ホテルを9時に出て昨日来た道を2/3ほど戻り、小出(ルート地図参照)から新潟県道50号小出只見線(奥只見湖付近地図参照)に入り、佐梨川を沿うように芋川温泉を抜け東へ20分ほど進むと、上折立で北へ分岐して奥只見シルバーラインです。
シルバーラインの愛称は、かって江戸時代に奥只見地区で銀が産出していたことに因みます。

・奥只見シルバーライン
奥只見シルバーラインは、県道小出奥只見線(県道50号)で奥只見ダム建設の際の工事用として1957年に作られた全長22kmの電源開発の所有道を1969年に譲渡し、1971年から観光路に開放された道路(当初は有料道路で、1977年から無料の県道)です。
上折立から全長22kmの内、18kmの区間が19のトンネルで結ばれており、トンネルまたトンネルで暗闇を走り続け、周囲の景色は全く見られません。

19のトンネルは、1号(折立)トンネルから11号(栃ノ木)トンネルまでは、37.4mから481.1m長の短いトンネルですが、12号(津久ノ岐)トンネルからは15号(蕨沢)、16号(居守沢)トンネルを除き、19号(仕入沢)トンネルの長さが1430m以上と長大のトンネルとなります。特に、17~19号トンネル長は3000m以上あります。
最長の17号(明神)トンネルは、3920mの長さで両側から掘っていったときに測量ミスがあり、1メートルくらいずれた状態で貫通したため、頭上の照明がちょっと曲がっています。

 17号(明神)トンネル内通過    奥只見案内板       奥只見駐車場

この様なトンネルですので、壁も路面もでこぼこの道路幅が5.0メートル位で、天井から水が落ちているという手堀タイプのトンネルで、トンネル内にはカーブもあり車のスピードは50km/hくらいしか走れません。
19号のトンネルを抜けたところが、奥只見ダムでシルバーラインの終点ですが、県道50号はこの先奥只見ダムから更に只見川に沿って北上し、上大鳥橋南詰が終点となっています。
ダムサイトの駐車場には、3軒のお土産屋併営の食堂がありますが、先ずは奥只見ダムを見学しながら湖上の遊覧船の乗船に向かいます。

・奥只見ダム
奥只見ダムは、枝折峠を貫く総延長22kmの道路建設が完成した1957年に、ダムの工事に着手し、1960年には一部湛水を行いながら発電を開始して、1961年7月にダムが完成しました。
只見川最上流部の奥只見ダムは、堤高は157.0mであり重力式コンクリートダムでは日本一であり、全国のダム提では五位の高さです。

     奥只見ダム           ダム堰堤           ダム湖水面

ダムによって出来た人造湖の奥只見湖(銀山湖)の湛水面積の1150haは、全国第4位であり、総貯水量の6億1百万立方メートルは、2007年完成の徳山ダムの6億6千万立方メートルに次いで第2位となりました。


奥只見発電所の完成当初の認可出力は、36万kwでしたが、2003年の増設工事により56万kwとなり日本最大の発電所となりました。
駐車場からダムの堰堤に行くには、ダム端の坂道を登って行くか、ケーブルとモノレールを合わせたようなスロープカー(1回100円)が利用できます。

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旅ものがたり 長岡花火大会と奥只見・八海山 その2

2007年08月10日 | 旅ものがたり
kan-haru blog 2007

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                 21:16 202
長岡花火の歴史
長岡花火は、1879年(明治12年)に千手町八幡社のお祭りに、4、5、7寸の花火を350発打ち上げたのが最初の花火大会と云われ、その後花火技術の向上で尺玉、尺二寸玉が登場し、明治後期には堤防沿いに「桟敷」を設置し、長岡煙火協会が設立され長岡花火が確立されました。1917年(大正6年)に二尺玉、1926年(大正15年)には正三尺玉が登場しました。

    19:49 96        19:50 100       19:50 102        19:54 110 
1938年(昭和13年)には戦局が傾き、花火大会は中止されましたが、戦後の1947年(昭和22年)には戦争で旧市街の殆どが焼き尽くされた8月1、2日を「長岡市戦災復興祭」の名で花火を復活しました。1951年(昭和26年)から8月2、3日に変更して「長岡祭り」と改め、正三尺玉の打上げが復活しました。(長岡祭り協議会より参照)

      19:51 103            19:52 107          19:59 120
8月2日の花火番組
8月2日打上げの大型花火は、番組一覧表に記載の通り正三尺玉2発を筆頭に、二尺玉、10号(一尺玉)、7号、5号にスターマインと45項目の番組に合わせて、2時間で1万発の花火を打ち上げるという絢爛華麗な、正に日本一の豪華な花火大会です。
長岡市の発表によると花火の来場者は、2日が39万人で、3日が40万人とでております。

      20:05 132            20:06 133          20:06 135
番組を見るとその豪華さは、一尺玉(10号)が1分間に10発以上打ち上げる番組が6つもあり、本ブログその1にも記載しましたが、米100俵花火は尺玉を100発も打上げます。
その豪華な模様は、お腹に響く打上げの大音響や広範囲な打上げ場所からの横と縦の壮大な連発・速射の花火は、デジカメの小範囲な映像などでは撮らえることが出来ません。

      20:16 143            20:17 144          20:19 145
花火撮影
何といっても豪華な花火大会の雰囲気を伝えるには、とてもブログでは表現できません。普段花火の撮影チャンスも殆ど無く今回がはじめての撮影で、どの花火がどの番組のものかについても整理できません。
しかし、折角の花火大会ですので、マス席では3脚を構えての撮影は不可でありデジカメの手持ち撮影ですので、変化のあるスターマインの撮影は出来ないため打上げ花火に限定されますが、多少でも雰囲気が感じられればと写真を掲載しました。

                 20:21 153
各撮影写真には、分単位の撮影時間を記載してあります。
当日は、番組表の記載時間より、多少前倒しで打上げが開始されました。そこで、長岡花火ライブラリーに掲載の各種花火の打上げ時間を記載しましたので、参考に対比してみてください。

      20:36 162            20:51 172          20:52 173
花火打上げ
打上げは19時23分から開始され、中越沖地震で亡くなられた人への追悼と、中越地震、中越沖地震からの復興への決意を込めた尺玉がそれぞれ1発づつ打ち上げられました。
20時丁度に超大型ワイドスターマインが打上げられ、ベスビアス大スターマインが20時13分にこれでもか!というくらい連発が続きました。ベスビアス大スターマインは、イタリアの「ベスビアス火山」の大噴火を思わせる豪華なスターマインで、2分間で4、5百発の花火が打上げられます。

                 21:01 182
20時25分に、延長650mの大瀑布のナイアガラと共に待望の正三尺玉が打上げ(地図再掲)られました。直径90cm、重さ300kg、使用火薬が80kgで、600m上空に打ち上げられ650mの大輪の花を咲かせます。写真撮影は、残念ながらうまくいきませんでした。
米百俵花火・尺玉100発は、21時丁度に打ち上げられました。1986年(昭和61年)市制80周年を記念して誕生した花火で、約1秒間隔で10号玉花火を80発打上げたもので、その後毎年1発ずつ増やして、市制100周年で百発になりました。

      21:01 183            21:01 184          21:01 187

21時17分に2発目の正三尺玉が打上げられ、そろそろ花火もクライマックスです。
平成16年に発生した中越大震災から、長生橋から長岡大橋間の全長約1.7km(地図再掲)にわたる超ワイドスターマインの復興祈願花火フェニックスが、21時22分に「ジュピター」の曲に合せて約3分間、6カ所から打ち上げられる不死鳥(フェニックス)の形をした花火などが夜空に舞い上がりました。

      21:16 204            21:17 210          21:17 211
花火師さん有難う
打上げ花火が終了して、花火師さんに有難うの感謝を伝えるため、河川敷から土手で花火を観賞していた観客が、合図と共に一声に携帯やカメラなどのフラッシュを点灯して腕を振りました。その応答に、花火が打ち上げられ花火大会が終了しました。
花火会場から一斉に帰路につきましたが、道が混雑して来るときの倍の時間を要して、ハイブ長岡のバス駐車場に戻り、宿泊地の苗場に出発したのは23時30分を過ぎていました。

     花火師さん有難う         21:21 215

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旅ものがたり 長岡花火大会と奥只見・八海山 その1

2007年08月08日 | 旅ものがたり
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長岡祭り
正三尺玉を打ち上げる長岡の花火を一度は見たいと思っておりましたので、6月の初めにJTB旅物語「長岡花火大会と絶景奥只見遊覧船」8月2日出発のコースに申し込みました。
長岡の花火大会(地図参照)は、毎年8月2、3日の2日間開催されますが、その前日の8月1日は長岡祭り の前夜祭で灯篭流し、悠久太鼓、パレード、大民踊流し、みこしが出て、2、3日にもふれあい広場とわんぱくおまつり広場が開催され賑わいます。

ところが、7月17日に中越地震に見舞われ花火開催中止の声もあがりましたが、被災に逢われた方の追悼と復興を願って開催と決まりました。また、台風4号が近ずいて天候にやきもきさせられましたが、開催日の2日は現地の最高気温が38℃という盛夏を告げる花火日和となりました。

ツアーのコースは、東京13時32分発のMAXとき1F325号で出発し、15時16分に長岡駅に到着して東京より暑い日照りの中をバス駐車場まで歩き、信濃川にほど近い休憩所の「長岡花火お土産物産館2007 inハイブ長岡」(長岡市寺島町315) で一まず休憩です。とにかく長岡に着いたばかりで猛暑の遭遇には、程よくクーラーの利いたハイブ長岡は有難い休憩施設で一息つけました。

                花火までのハイブ長岡でのひと休

ハイブ長岡の1階大展示ホールは、天井の高さが15m、広さが3,481㎡で展示会・見本市等の大規模なイベント向きの施設で、ここのおよそ1/3の場所に椅子・テーブル席が672席と椅子席のみ486席の休憩コーナーが設けられており、2/3の場所は物産店が並びお米、地酒、米菓・銘菓、名産品などを販売し、周囲にはかき氷、生ビール、ドリンク、軽食などの飲食コーナーとなっております。

日本一の長岡花火大会
花火の打ち上げは、19時30分から2時間の予定であり、ハイブ長岡を17時半頃出て信濃川左岸花火会場のテニスコートマス席まで土手上を徒歩で30分ほど歩きます。
途中土手の両脇は、早くから場所取りにきてシートを敷いて花火の打ち上げを待つ人で一杯です。

            花火会場に向かう人と土手で見る人で混雑の信濃川

テニスコートのマス席は、川原にあるかなり広大なテニスコートを縦4列、横12列のブロックに区り、1ブロックはさらに20区画に区切られて、すのこ状の板を上下に合わせた台にビニールシートを敷いた席になっています。一マスの席は、区切られた20区画毎に、6人の定員で表面に長岡花火を印刷デザインした直径40cm位の丸い発泡スチロール製の座布団に座って花火を見るようになっております。

マス席に着いたのは、夕暮れの18時を少し廻っておりましたが、周囲はまだ明るく周辺の左方にある大手大橋と右方にある長生橋などの景色や大勢の花火見物客が詰め掛けて来ている様子が良くわかります。さすが、日の暮れた河原ですので、日中の猛暑とは様変わりで心地よい川風で絶好の花火日和に恵まれました。

                  テニスコートのマス席

テニスコートマス席の入り口ではビールや飲食者を販売しており、夕食の弁当が配られて後は花火の打ち上げを待つばかりです。
マス席は、完売でなく後ろの方は空いており当日売りをしておりました。団体の予約席は定員で一杯に詰められておりましたが、当日の席の方はゆったりとしておりました。


19時を廻ると薄暗くなり、周辺の提灯が明るく目立つと定時刻です。長岡市長や来賓、関係者の挨拶が終わるといよいよ日本一の花火の打ち上げの開始です。


花火の打ち上げは、2、3の両日に正三尺玉が二発ずつと、尺玉が約1秒間隔で百発を連発する米百表花火、信濃川に架かる長生橋と大手大橋の二橋の650mのナイアガラ瀑布が一日に2台見られます。 <その2へ続く>


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イベント 江戸東京博物館 江戸時代の東京を見る

2007年08月06日 | イベント
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江戸東京博物館常設展示室
7月22日の午前中に1階展示会場で開催の大鉄道博覧会を孫と観た後、午後には江戸東京博物館常設展示室に寄りました。
江戸東京博物館は、何年か前に見に来ておりますが、大鉄道博覧会で訪れましたので常設展示の観覧もしてきました。常設展示には、江戸ゾーンの他東京ゾーンの展示もありますが、時間の都合で今回は「江戸ゾーン」だけを見ることにしました。

江戸東京広場

江戸東京博物館の常設展示室観覧料は、小学生以下と都内中学生は無料であり、第3水曜日はシルバーデーと称して65歳以上の人も無料になります。
1階展示室から常設展示室へは、エスカレータかエレベータで3階の江戸東京広場に出られるのですが、孫が以前に来た時に覚えていたJR両国駅から通じている動く歩道から上がりたいと云うので、そこからチケット売り場に行きました。観覧券を購入したところ、第3の土・日曜日はふれあいデーなので半額で、2人での入場が合わせて何と150円で済み大変なサービスを受けました。

6階常設展示室

6階常設展示室へはエレベータでも上がれますが、メインエスカレータで壁面の錦絵の大画面を眺めながら進むと、常設展示室入り口で自動改札機を通り入場すると、5・6階の吹き抜け会場に幅が約8mで再現した「日本橋」を渡る様になってます。
橋上から左手の下を見ると「中村座」の入り口正面の建物で、その演壇では江戸東京寄席の落語を口演しておりました。右手には、今回は見学をスキップの「東京ゾーン」の朝野新聞社の建物の模型が見られます。

   再現した日本橋           中村座             朝野新聞社

日本橋を渡ると「江戸ゾーン」で、武家屋敷と寛永の町人地などの展示が見られます。
      
5階常設展示室



      町人長屋            木工具屋            錦絵屋

      越後屋          賑わう江戸の盛場        商い運搬船

5階常設展示室へはエスカレータで下ると、先ず江戸の棟割長屋で武士の暮らしと町の暮らしを見てから、三井越後屋の大模型で江戸の商業を知り千両箱の重さを体験します。
江戸と結ぶ村と島で江戸時代の人々の暮らしを見て、肥桶担ぎの体験をしてから、江戸の四季と盛り場により文化都市の江戸を知ります。

   千両箱重さ体験       肥桶担ぎ体験       纏担ぎ体験

江戸時代文化の展示物は、沢山来ている外人観覧者には興味のあるコーナーで、同伴の知人からの説明を聞いて関心を示しておりました。
次いでの見ものは、江戸の美の歌舞伎舞台の艶姿を鑑賞し、さらに歌舞伎の東海道四谷怪談の模型による、舞台のからくりの実演が見られます。
同階の「東京コーナー」展示は廻らずに、江戸東京寄席の演芸の続きを見て、ミュージアムショップでお土産を買い、専用出口からエレベータで降りて帰りました。
帰路は、往路とは異なるルートの大江戸線両国駅から都営浅草線大門駅で乗り換えて、京浜急行線の大森町駅に帰りました。

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イベント 江戸東京博物館 大鉄道博覧会

2007年08月04日 | イベント
kan-haru blog 2007 パンフレット拡大

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江戸東京博物館
小学生の孫が夏休みに入り遊びに来ましたので、7月22日に江戸東京博物館で開催中の大鉄道博覧会を見に行ってきました。
江戸東京博物館へは、京浜急行大森町から都営浅草線浅草橋でJR総武線に乗り換えて、両国駅下車で国技館横を通って行きます。大鉄道博覧会は、特別展示の催しものでありますので江戸東京博物館の1階展示室で展示されています。

             大鉄道博覧会(於 江戸東京博物館1階展示会場)

江戸東京博物館(東京都墨田区横綱1-4-1)は、1993年(平成5年)に、失われつつある江戸東京の歴史遺産を守るとともに、東京の歴史と文化をふりかえることによって、未来の東京を考える博物館として開館しました。
博物館の常設展示室は、5階と6階が吹き抜けになった、広さが約9,000㎡の大きな展示室を生かし、綿密な調査研究を踏まえて実物大に復元した大型模型などが展示されており、当時の人びとが、実際に使っていた実物資料も豊富に展示しており、江戸東京の都市と文化、そこに暮らす人びとの生活を楽しみながら学ぶことができます。

大鉄道博覧会
大鉄道博覧会は、副題が“昭和への旅は列車に乗って”で、7月10日(火)~9月9日(日)の期間開催し、7月16日(月・祝)と8月13日(月)を除く毎週月曜日と7月17日(火)は休館です。
入り口を入ると、博多駅の蒸気機関車C59の大写真に出迎えられ、煙を吐いてばく進する動画画面を見ると、昭和30年代の鉄道の黄金期に活躍していた懐かしい交通機関の紹介です。

  蒸気機関車黄金期               黎明期の蒸気機関車

展覧会は、副題のテーマに沿って昭和30年代を中心とした黄金期の鉄道に重点を置き、鉄道発祥の旧新橋停車場跡より出土の双頭レールや、開業以来の姿を伝える歴史的考古的な鉄道展示資料から始まり、黎明期から鉄道を支えたいろいろな名車両の模型で鉄道の歩みが先ず示されておりました。

 鉄道発祥の双頭レール     歴史的な鉄道用品  鉄道通信設備と切符収納器 

鉄道の実物の展示は、100年ぶりに里帰りした走行可能な小型の蒸気機関車として国産最古の「下工弁慶号」と、国産最後の産業用蒸気機関車とされる糸魚川「くろひめ号」のSLは日本の鉄道技術が物語られております。

                   国産最古の「下工弁慶号」

             国産最後の産業用蒸気機関車「くろひめ号」

次いで、旅を楽しむ食堂車のメニューや旅の荷物を運ぶ「赤帽」の資料の展示に、旅の想い出の記憶として、乗車ができる特急「つばめ」の展望デッキの実物大模型で旅の想いでを呼び覚まされます。
また、一部復元の3等寝台車は、成長期のビジネス活動で昭和30年代に使われた3段式ベッドで、下段は座席がベッドに使われ、中段は座席の背もたれを横にしてベッドとし、上段は固定のロフト式のベッドです。両側6人の各段のベッドは周囲をカーテンで囲われての寝台車で、寝過ごさないかと心配したり、列車が停まると目が覚めたりの今思えば、この狭いベットによく寝ていたものだと、懐かしく思われました。

          特急「つばめ」の展望デッキ             3等寝台車

昭和30年代の鉄道による暮らしと社会の様子として、上野駅に上京の中学卒業生の集団就職列車や山手線・中央線の通勤ラッシュに揉まれた乗客の姿は、懐かしくも辛いペーソスの当時の生活が想い起こされます。
昭和30年代の食料不足の時代に、野菜などを担って列車に乗った行商人の荷物の重みを体験する「荷物を担いでみよう」のコーナーでは、約35kgの重みを体験できます。

      酷電通勤ラッシュ          行商人の荷物の重みを体験  

その後、高度成長期を迎え貨物列車が物流を支えた、さまざまな専用用途を持った貨車の模型が当時の貨物輸送の姿を現しております。
現在の列車のシートは、乗り心地を配慮して長時間乗車に配慮されておりますあすが、昭和30年代の修学旅行列車は3人掛けシートでした。

学旅行列車は3人掛けシート 一般シート    リクライニングシート

この様にして昭和を駆けた車両模型300両が一堂に並んで、大ギャラリーに展示されておりますので、鉄道開業から現在に至るまでの歴史を概観しつつ、近代化を支えた日本の鉄道の文化が観られます。

                   昭和を駆けた車両模型

小学生3年生の孫には、鉄道が歩んできた道は多少理解できたと思いますが、この展覧会のテーマの昭和の変遷についてはかなり難解の様でした。
博覧会のテーマとは関係が薄いですが、小学生の関心は鉄道模型のジオラマです。かなり精密に作られた地方鉄道模型のジオラマが展示されておりました。

                   鉄道模型のジオラマ

大鉄道博覧会を見終わりレストランで昼食後、江戸東京博物館の常設館に寄りました。
特別展の当日入場料は、一般1300円、大学・専門学校1040円、小中高生・65歳以上650円であり、特別展と常設展共通券は、一般1520円、大学・専門学校1210円、小中高生・65歳以上760円ですが、都内の小・中学生は650円です。

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番外編 カテゴリー別ブログ記事の検索と見方 [付 kan-haruの日記8月月間INDEX]

2007年08月01日 | INDEX
kan-haru blog 2007

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K&A kan-haruの日記の月間INDEXは、毎月1日付けで掲載しており前月の登録記事の即時検索のほか、カテゴリー別の登録記事の全ての検索ができます。

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ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その1)  2007年1月30日 更新
ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その2)  2007年1月22日更新
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次の2006年3月月間INDEXに方法が記載してありますので、参照して下さい。
番外編 ブログ記事の参照地図を拡大して見る方法 [付 kan-haruの日記3月月間INDEX] 2006年4月1日

  大森町界隈あれこれ カテゴリー別目次
■印覧の7月掲載項目以外の目次は、下記の項番に付記された下線付きのカテゴリー項目を選択すると、当該カテゴリーの掲載当初から現在日時点までの全記事の目次が見られます。

 1 大森町界隈あれこれ 大森町に住んで65年!
 2 大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記 総目次
  2-1 大森町界隈あれこれ 鎮魂! 大森町大空襲 (第1編)
      付 東京大空襲 ~あれから61年~
  2-2 大森町界隈あれこれ 手記第2編 戦災日誌中野編
  2-3 大森町界隈あれこれ 手記第3編 戦前戦後目黒にて
 3 大森町界隈あれこれ 戦後編若山武義氏手記 総目次
  3-1 大森町界隈あれこれ 戦後史編手記 第1編総目次
  3-2 大森町界隈あれこれ 戦後史編手記 第2編総目次
  ■ 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第2編 天皇制の問題集 第4回 7月11日
  ■ 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第2編 天皇制の問題集 第5回 7月13日
  ■ 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第2編 天皇制の問題集 第6回 7月15日
 4 大森町界隈あれこれ 大森町の社寺
 5 大森町界隈あれこれ 大森町商店街
 6 大森町界隈あれこれ 大森海苔
 7 大森町界隈あれこれ 京浜急行
 8 大森町界隈あれこれ 大森町風景
  ■ 大森町界隈あれこれ お盆歳時記 大森町のお盆、先祖供養 7月17日
 9 大森町界隈あれこれ イベント
  ■ 大森町界隈あれこれ 国道拡幅により今年最後の現境内での貴船(貴菅)神社盆踊り
   大会 7月23日
  ■ 大森町界隈あれこれ 大森町共栄会 2007年サマーフェスティバル 7月25日
10 大森町界隈あれこれ 大森町学びや

  一般 カテゴリー別目次

21 風景・風物詩 総目次
  ■ 風景・風物詩 旧東海道品川宿 タイムスリップまち歩き北品川宿(その1) 7月3日
  ■ 風景・風物詩 旧東海道品川宿 タイムスリップまち歩き北品川宿(その2) 7月5日
  ■ 風景・風物詩 旧東海道品川宿 タイムスリップまち歩き北品川宿(その3) 7月7日
  ■ 風景・風物詩 旧東海道品川宿 タイムスリップまち歩き北品川宿(その4) 7月9日
22 小さな旅 総目次
  ■ 小さな旅 観音埼 海洋深層水風呂のSPASSO 7月27日
  ■ 小さな旅 サイボク天然温泉 まきばの湯 7月29日
  ■ 小さな旅 後楽園天然温泉 ラクーア 7月31日
23 旅ものがたり 総目次
24 秋葉原界隈 総目次
25 イベント 総目次
26 ITと技術 総目次
  ■ ITと技術 Web 2.0時代のパソコン活用のヒント 7月19日
  ■ ITと技術 Web 2.0時代のIT Webデスクトップに触れてみる 7月21日
27 Weblog 総目次

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