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kan-haruの日記

イベント 江戸東京博物館 各派の江戸絵画作品を蒐集展示したファインバーグ・コレクション展その2

2013年07月31日 | イベント
kan-haru blog 2013 池玉瀾「風竹図扇面」      

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ファインバーグ・コレクション展(続)
・第3章 写生と装飾の融合 円山四条派
円山四条派は、江戸後期から京都で有名になった円山応挙を祖とする円山派と、呉春を祖とする四条派を合わせた呼び名です。
円山派は、江戸中期京都に興った円山応挙を祖とする画派で、琳派など日本伝統の装飾画法に、沈銓の写生画風や、西洋画の写実技法を加味して清新な画風を開いた。画家に長沢蘆雪、源、山口素絢らがいる。
四条派は、江戸時代中期頃、呉春(松村月渓)を祖とし、呉春が蕪村から学んだ文人画(南画)を基礎とし、応挙の写生画風を取り入れ、独自の形で発展させ四条派を作り上げ、弟子の岡本豊彦や松村景文らが発展させ、京都画壇の一大派閥となりました。
展示の「第3章 写生と装飾の融合 円山四条派」コーナーでは、円山応挙に共鳴して呉春と共に興した円山四条派は隆盛を極め、彼らの画家は物の形や実景を写す本質的なものでは無く、装飾的な効果を追いもとめたもので、これらの写実的な装飾絵画は、富を得た庶民層が生活空間の美化を実現する対象として願わしいものでした。
丹波国桑名郡の農家に生まれて、狩野派の石田幽汀に入門し絵の勉強を始め、30代で円満院門主祐の庇護を得て古画の模写に励むかたわら、人体その他の写生を行い画域を広げ、写実性と装飾性を融合した写生画を確立して全国に影響を与えた円山応挙(まるやまおうきょ)の「孔雀牡丹図」絹本着色1幅(前後期展示)は、36歳の作で大きな尾を上へ振り上げて後ろを振り返る、一羽のオスの孔雀が描かれています。

 円山応挙「孔雀牡丹図」(江戸時代/ 1768年(明和5年))

呉春(ごしゅん)は京都金座の役人の家に生まれ、大西酔月に画を学び、後に与謝蕪村の門人となって俳諧と画を学びました。寛政元年ころ円山応挙に接近し、蕪村風の南画様式に円山派の画風を取り入れて、感情ある画風を確立しました。呉春とその一門の多くが四条付近に住んいたので四条派と呼ばれています。左幅には上部に月のかかった梅樹が右下へと枝を下ろし、右幅では下から上へと真っ直ぐに伸ばした梅の枝に雪が積もる風景を描いています。

 呉春「雪月花図」(江戸時代/ 19世紀)

森狙仙(もりそせん)は大阪に生まれ、狩野派の勝部如春斎の門人となり、猿や鹿の観察に励み動物の写生で写実的画風を確立しました。「滝に松樹遊猿図」紙本淡彩2幅対(前後期展示)は還暦以降の作で、左幅では画面左下から立ち上がる大きな松の枝先で5頭の猿がさまざまな姿態を見せている。右幅には左幅から伸びる松枝の一部と背後の滝のみが描かれた構図である。

 森狙仙「滝に松樹遊猿図」(江戸時代/ 19世紀)

・第4章 大胆な発想と型破りな造形 奇想派
徳川幕府の武家支配の時代にあっては、現状を保守する姿勢こそが正しくて、革新を求める態度は危険視され、忌避されました。美術界にあっても同様に、武家に寄生する権威的な存在は、新たな画風の展開に消極的でした。一方で経済的な力を増した庶民層は、自分たちの文化や美術を育てるようになり、斬新な個性の登場を待望するようになり、大胆な発想、表現上では従来試みなかった型破りな造形を、積極的に歓迎されました。
江戸の狩野派中枢に反発した狩野山雪や、伊藤若冲、曾我蕭白、長沢蘆雪らの画家はみな、文化的な環境の京都に活躍し、次代の主流となっていた保守的な美術思潮に異を唱え、反発して、奇想に発した個性的な造形は、今日、正統的な創造として高く評価されています。
伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)は、京都錦小路に面する青物問屋に生まれ家業を継いで、40歳で隠居して画業に没頭し、約10年間かけて製作した「動植綬絵」30幅の代表作がある。「菊図」紙本淡彩3幅対(前後期展示)は1幅ずつ異なる菊を描き、右幅は上へと伸びる茎が懸垂し先端は細い線で1枚1枚の花びらを描いた花房を付けている。左幅では上へと伸びる茎に大きな花びらの花を付けている。両画とも花びらの輪郭を墨線で描き、内側は彩色せずに紙の白色を活かして花房部を浮き上がらせています。中幅の背景も暗くして上へと真っ直ぐに伸びる3種類の菊を描いています。

 伊藤若冲「菊図」(江戸時代/ 19世紀)

葛蛇玉(かつじゅぎょく)は大阪の浄土真宗の寺・玉泉寺の四代目・宗琳の次男として生まれ、鯉の絵を得意としたため「鯉翁」と呼ばれ、江戸時代中期の絵師である。「鯉図」絹本着色 1 幅(前後期展示)は、左右に迫る土手の水面に桜の花びらが5枚浮かび、水中に泳いでる鯉の先の花びらを飲もうとして、体をよじっている構図の画です。

 葛蛇玉「鯉図」(江戸時代/ 19世紀)

曾我蕭白(そがしょうはく)は京都の商家に生まれ、家業をやめて絵師になり高田敬輔に師事し、刷毛などを使った大胆な筆使いと奇抜な構図の作品を描きます。「宇治川合戦図屏風」紙本着色6曲1隻(前後期展示)は、「平家物語」の一節で中央の武士は梶原源太景季で跨る馬は源頼朝より授かった名馬磨墨である。右の馬も同じく頼朝より授かった名馬生唼に跨る武士は佐々木四郎高綱である。

 曾我蕭白「宇治川合戦図屏風」(江戸時代/ 18世紀)

長沢蘆雪(ながさわろせつ)は淀藩士の上杉和左衛門の子として生まれ、円山応挙に弟子入りする。各地に出向き障壁画を残し、大胆な筆致の水墨画や彩色画を多く残す。左の「梅・薔薇に群取図」1幅(前期展示)は、咲き誇る梅と薔薇の枝に鸚哥、ほおじろ、雀など34羽の鳥が集まっている。右の「藤に群雀図」1幅(前期展示)には左下から伸びる藤の蔓に17羽の雀が描かれています。

 長沢蘆雪 左:「梅・薔薇に群取図」、右:「藤に群雀図」(江戸時代/ 18世紀)

・第5章 都市生活の美化、理想化 浮世絵
桃山時代から江戸時代初期に京都で流行した風俗画は、やがて新しい権力の所在地になった江戸にその場を移し、浮世絵という新しいジャンルによって受け継がれていくことになります。 浮世絵は木版による版画を表現手段として大衆化していきますが、絵筆で一点一点制作するいわゆる肉筆画も、一部の富裕層に好まれ、盛んに描かれたものでした。遊郭や芝居小屋など遊興の地に取材して、都市生活の華やぎを美しく理想化して表す一方で、説話や物語、あるいは芸能で親しい故事人物も描いています。
礒田湖龍斎(いそだこりゅうさい)は、神田小川町の旗本土屋家の浪人で両国薬研堀に住居する。明和前期より鈴木春信風の美人画を描き,柱絵にもすぐれた構図感覚をみせた。安永期には重厚感ある独自の美人画風を確立し、錦絵に大判サイズを定着させた。安永末ごろに法橋に叙せられ,以後は肉筆画に専念した。「松風村雨図」絹本墨画金泥3幅対(前後期展示)は、中央に平安時代に須磨に蟄居を命じられた在原行平を貴族の装束で描き、左右に行平に恋した須磨の美人姉妹を描いた作品です。

 礒田湖龍斎「松風村雨図」(江戸時代/ 18世紀)

歌川広重(うたがわひろしげ)は江戸の定火消同心の武家に生まれ、歌川豊広に入門して浮世絵師になり、天保期に名所絵で世間に認められ、「東海道五拾三次之内」や「名所江戸百景」hざ代表作である。「墨田河畔春遊図」1幅(前期展示)は、遠景の筑波山と、桜の季節の隅田川の渡し場付近を描き、簡単な屋根と腰掛がが描かれているが、名物の草餅を食べさせる茶屋である。

 歌川広重「墨田河畔春遊図」(江戸時代/ 19世紀)

葛飾北斎(かつしかほくさい)は江戸に生まれ、勝川派の勝川春草に入門し、後に勝川派を離れ肉筆画、挿絵、絵手本、錦絵と勢力的に活躍した。「北斎漫画」、「富嶽三十六景」シリーズは世界的に評価されている。「源頼政の鵺退治図」絹本着色1幅(前後期展示)は「平家物語」で語られる「鵺退治」に武将源頼政が弓を引いている姿を描いたものです。

 葛飾北斎「源頼政の鵺退治図」(江戸時代/ 19世紀)

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イベント 江戸東京博物館 各派の江戸絵画作品を蒐集展示したファインバーグ・コレクション展その1

2013年07月27日 | イベント
kan-haru blog 2013 ファインバーグ・コレクション展江戸絵画の奇跡図録     

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ファインバーグ・コレクション展
「ファインバーグ・コレクション展江戸絵画の奇跡」は、江戸東京博物館(墨田区横網1-4-1)1階会場で博物館開催20周年記念として、前期は5月21日~6月16日、後期は6月18日~7月15日までの午前9時30分~午後5時30分(土曜日は午後7時30分まで)開催され、休館日は、毎週月曜日で、主催は公益財団法人東京都歴史文化財団、東京都江戸東京博物館、読売新聞社、美術館連絡協議会で、協賛はライオン、清水建設、大日本印刷、損保ジャパンで、協力が全日本空輸で開催されます。

 ファインバーグ・コレクション展パンフレット

観覧料は、特別展専用の一般が1,300円、大学生・専門学校生が1,040円、中学生・高校生・小学生・65歳以上が650円です。前期開催の6月6日に見てきました。

 ファインバーグ・コレクション展江戸絵画の奇跡入場券

・第1章 日本美のふるさと 琳派
ファインバーグ・コレクション展は、ロバート&ベッツィー・ファインバーグ夫妻が40年かけて蒐集した江戸時代の絵画の中から選び抜かれた90点余りを、前後期にわけて5章構成で展示替えをして紹介されています。展示作品の屏風や襖などの江戸時代の江戸絵25の絵師と筆者不詳の2作品が展示(展示リスト参照)されています。
展示の「第1章 日本美のふるさと 琳派」のコーナーでは、17世紀初頭日本の古典美術を復興しようとする機運が高まり装飾性に優れた、新しい日本的な絵画を創成した、琳派創始者の京都の町人俵屋宗達(たわらやそうたつ)の「虎図」(前後期展示)は、日本では生息していない虎を、琳派が特徴のやわらかな曲線で優しく描写した紙本墨画から始まります。

 俵屋宗達「虎図」(江戸時代/ 17 世紀)

19世紀初頭の尾形光琳に琳派の画風を学んだ酒井抱一の「12ヶ月花鳥図」12幅絹本着色(前後期展示)のうち「5月」の立葵・紫陽花・に蜻蛉は、琳派の画家たちが繰り返し描かれた題材です。

 酒井抱一の「12ヶ月花鳥図」の「5月」(江戸時代/ 19 世紀)

抱一に学んだ江戸の商家出身の鈴木其一(すずききいつ)の「群鶴図屏風」紙本金地着色2曲1双(前後期展示)は、琳派の画家たちが描き継がれた、金地の背景に水流の配置と渦巻状の水紋に真っ直ぐ向いた2羽の鶴は、光琳の画を踏襲しています。

 鈴木其一「群鶴図屏風」(江戸時代/ 19 世紀)

・第2章 中国文化へのあこがれ 文人画
「第2章 中国文化へのあこがれ 文人画」のコーナーでは、武家の知識人によってうながされた日本文人画の歩みは、町人や農民出身の池大雅や与謝蕪村などの庶民によっても受け継がれ、日本人独特の感性をのびやかに発揮し、新鮮な美の領域を開拓されてきました。
中国の文化や舶来の画譜から文人画法を学んだ、京都西陣生まれの池大雅(いけのたいが)の「孟嘉落帽・東坡戴笠図屏風」紙本墨画淡彩6曲1 双(前後期展示)は、中国の高土2人のかぶり物にまつわる故事を描いた屏風画で、左隻は東晋の孟嘉の逸話を描いたもので、右隻は北宋の蘇軾のエピソードを描いたものです。

 池大雅「孟嘉落帽・東坡戴笠図屏風」(江戸時代/ 18 世紀)

大阪郊外の農家に生まれ、独学で絵画を学んだ与謝蕪村(よさぶそん)の「寒林山水図屏風」紙本金地墨画2 曲1 隻(前後期展示)は、蕪村には珍しい金箔の地に冬枯れして寒々しい山中風景が水墨のみで描かれている。展示の作品は、2曲の屏風に仕立てられているが、左右の両端に引手の跡があり、当初は戸棚の小襖であったのが分かります。

 与謝蕪村「寒林山水図屏風」(江戸時代/ 18 世紀)

江戸に生まれ、狩野派や大和絵、琳派および中国画などの諸派の画を学び、西洋の遠近法の画などを製作している谷文晁(たにぶんちょう)の「秋夜名月図」絹本墨画1 幅(前後期展示)は、縦82.8cm×横168cmの大画面には、左に墨の外隈によって絹地が白く抜かれた大きな月が浮かび、右下方から葦が伸びあっている図を水墨によって描かれています。この画には、「文晁図書」と刻した大きな印が捺されており、文晁が款記の下文字と合わせて画面のバランスが巧妙に採られているいることと共に、襖絵や屏風画と共に江戸時代の一幅の絵画も大画面であることを、展示作品を見て認識しました。

 谷文晁「秋夜名月図」(江戸時代/1817年(文化14年) )

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イベント 貨幣博物館 古貨幣研究家の田中啓文氏の銭幣館コレクションを日本銀行に寄贈し誕生した博物館

2013年07月23日 | イベント
kan-haru blog 2013 日本銀行金融研究所貨幣博物館    

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日本銀行貨幣博物館
日本銀行金融研究所貨幣博物館(中央区日本橋本石町1丁目3-1)は、日本銀行旧館の筋向いにあり、7月16日に見学してきました。

 日本銀行旧館(2)の対面の建物が日本銀行貨幣博物館(1) 

日本銀行金融研究所は、1982年(昭和57年)10月に日本銀行創立百周年を記念して、日本銀行の内部組織の1つとして金融経済の理論、制度、歴史の研究等を行う目的で設立されました。
日本銀行金融研究所貨幣博物館では、貨幣に関する歴史的、文化的な資料を収集・保管し、それらの調査研究を進めつつ、広く一般に公開しています。その収集資料は、明治末期からの古貨幣収集家・研究家であった田中啓文氏が収集した銭幣館コレクションです。同氏は、わが国の古代から近代にいたる貨幣だけでなく、中国を中心とする東アジアの貨幣や、貨幣に関するさまざまな資料を10万点を収集していました。その収集資料が展示・保管されていた博物館が銭幣館では、戦局が悪化した1944年(昭和19年)に、戦火による喪失を避けるため、収集資料は日本銀行に寄贈されました。
寄贈された資料などをより広く公開するため、日本銀行創立100周年(1982年(昭和57年))を記念して1985年(昭和60年)11月に日本銀行金融研究所の2階に貨幣博物館を開館しました。博物館の入館は、入場料が無料で、開館は9時30分~16時30分で、月曜日、祝日、年末年始が休館です。

 貨幣博物館入り口(左:貨幣博物館、右:貨幣博物館入り口0716)

・貨幣博物館展示
貨幣博物館建物入り口を入り階段を2階へ上がると博物館で、展示会場には左側の出入り口を入って時計回りに閲覧します。博物館の出入り口の外部ロビーのみは写真がとれますが、展示会場内部は写真の撮影は禁止です。撮影可コーナーには、1億円の重さ体験と石貨が展示されています。石貨は、西太平洋のヤップ島で貨幣として使用され、大きなものは直径が3.6mにも達すると説明にありました。

 撮影可コーナーの展示品(左:一億円を持ってみませんか、右:石貨0716)

貨幣博物館は2013年5月16日~2014年3月30日の期間中は、「おかねの材料とつくりかた」をテーマ展として、お金はどんな材料から、どのようにつくられてきたのか、特定の金属を人々に広く行きわたる「お金」に変えていく方法を、先人たちはどのような知恵を用い、工夫をこらしてきたかの足跡をテーマにして約4,000点の資料が展示されています。

 貨幣博物館会場レイアウト

展示室に入ると、時計回りに進み最初の8世紀以前「古代」のコーナーでは、「物々交換から物品貨幣へ」と題して貨幣の誕生を示し、8世紀以降には「我が国における貨幣発行の開始」として、和銅開珎、富本銭、皇朝銭などが展示されています。

 和同開珎(中国の貨幣を見本に銀銭と銅銭が鋳造された 日本銀行貨幣博物館絵葉書から)

次は12世紀以降の「中世」コーナーで、「中国銭の使用」をテーマに渡来銭の展示があります。
16世紀以降の「近世」コーナーでは、16世紀の「江戸時代幣制の芽生え」では金銀貨や分銅金が展示されています。

 大判と銀板(左:天正大判 秀吉が彫金師後藤家に造らせた五三の桐の刻印が押された最初の大判、右:博多御紅葉銀 秀吉が軍資金として造らせた銀板 日本銀行貨幣博物館絵葉書から)

17世紀の「独自の幣制の成立」では徳川幕府制定の貨幣、わが国や中国・ヨーロッパでの紙幣発行がおこなわれました。

 わが国最古の紙幣「山田羽書」(伊勢山田地方で商人がつり銭の代わりに発行した預かり証で、紙幣として流通した 日本銀行貨幣博物館絵葉書から)

また、この時期には両替商が発達し、それに関する資料展示されています。

 分銅金と天秤(左:両替商の天秤・分銅 江戸時代には重さが価値を表す秤量銀貨を用いたので欠かせない道具である、右:分銅金 戦時の蓄えとして鋳造された100匁の金塊 日本銀行貨幣博物館絵葉書から)

17~19世紀の「幣制の安定と動揺」では幕府発行の貨幣、金銀銅の流出、各種貨幣の改鋳や幕末期の幕府札・藩札・地方貨幣に関する資料が展示されています。

 枝銭と天保小判五十両包み(左:枝銭 鋳型に銅を流し込み取り出した銭貨が樹枝状なので枝銭と呼ばれる、右:天保小判五十両包み 小判五十両を施封したもので包み紙の上書きが信用されたため開封せずにそのまま使用した 日本銀行貨幣博物館絵葉書から)

「近現代」コーナーでは、明治初期の幣制混乱[明治元年~]、円の誕生[明治4年~]では新通貨条例を制定し金1.5gを1円とした新貨幣を発行しました。

 新貨条例による貨幣(日本銀行金融研究所貨幣博物館> 常設展示> 常設展示図録> 近現代から)

欧州先進国の中央銀行制度にならって日本銀行を設立[明治15年~]し、明治18年に1円銀貨と引き換えられる兌換券の日本銀行最初の「大黒札」の銀行券を発行しました。

 最初の日本銀行券「大黒札」(日本銀行金融研究所貨幣博物館> 常設展示> 常設展示図録> 近現代から)

その後、金本位制度から管理通貨制度へ[大正6年~]のテーマには、アメリカなどに追随して金の輸出を禁止して昭和5年に再開したが、昭和6年イギリスが金本位制を離脱したため、再び金の輸出を禁止し、日本銀行券の兌換は停止されました。
「さまざまな貨幣」コーナーには、石貨、変った素材の貨幣、変った形の金属貨幣、緊急貨幣、大形の紙幣などが展示されてあります。

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イベント 日本銀行本館 辰野金吾の設計による旧館の堅固な建物の中央銀行の金庫、営業所や史料展示室を見学

2013年07月19日 | イベント
kan-haru blog 2013 日本銀行落成之図 明治29年に完成した日本銀行落成式(日本銀行絵葉書から)    

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日本銀行本店
H11異業種交流会メンバーの恒例行事により、6月3日にわが国の中央銀行である日本銀行本店の旧館を見学してきました。同会の以前の金融関係の見学会には、国立印刷局滝野川工場(「イベント 国立印刷局 1億円紙幣札束の重量を実感できる国立印刷局滝野川工場」参照)があります。

 日本銀行本店案内図

・日本銀行の創業
日本銀行は、わが国の中央銀行として、銀行券を発行し、通貨及び金融の調節を行い、「物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資すること」を目的として、1882年(明治15年) 10月10日の創業当時には永代橋際(現中央区日本橋箱崎町1番地)で業務(創業当時の本店営業所扉絵1(←ここをクリック):日本銀行百年史(第1巻)から*1)を開始しました。
日本銀行は認可法人であり、資本金は1億円と日本銀行法により定められており、そのうち55,045千円(平成17年3月末現在)は政府の出資であり、残りは民間等の出資となっています。なお、日本銀行法では、「日本銀行の資本金のうち政府からの出資の額は、五千五百万円を下回ってはならない。」と定められています。

・金座に移転の日本銀行
創業した店舗は、手狭なうえ、都心からやや遠かったこともあり、開業の翌年には早くも店舗の移転が決定され、江戸時代から東海道、中山道、奥州街道、日光街道、甲州街道の 5街道の起点で、交通の要所であり、江戸時代から両替商が軒を連ねていた関係で、江戸時代に金貨製造の金座があった日本橋(中央区日本橋本石町2−1−1)を移転先として選び、設計者は、東京駅、旧両国国技館などの設計も手がけた建築学界の第一人者であった辰野金吾博士が手がけました。

 金座絵巻:文政年間の金座における小判製造過程(日本銀行絵葉書から)

建築様式は、バロック様式の柱や丸屋根と規則正しく並ぶ窓などのルネッサンス様式を取り入れた「ネオ・バロック建築」で、ベルギーの中央銀行を模範に設計したと言われ、1890年(明治23年)9月に着工し、建物の外装は、1891年(明治24年)の濃尾大地震の被害から、総石造りは無理であるとの判断から、積み上げたレンガの上に、外装材として石を積み上げるという方法に変更し、地階と1階は厚い花崗岩、2階と 3階が薄い安山岩により建物の軽量化を図り、1896年(明治29年)2月に竣工(移転した頃の本店営業所扉絵2(←ここをクリック):日本銀行百年史(第1巻)から*1)しました。

*1 日本銀行の概要 日本銀行百年史(第1巻) (日本銀行ホームページ)

・日本銀行の震災災害
1923年(大正12年)の関東大震災では、建物自体はびくともしませんでしたが、近隣の火災が日本銀行におよび、丸屋根は焼け(←ここをクリック)てしまい、現在のものはその後復元したものです。
日本銀行は、1942年(昭和17年)2月に日本銀行法が制定され、戦後数次に亘って部分的な改正が行われ、1949年(昭和24年)6月の改正では、最高意思決定機関として政策委員会を設置することが定められました。1974年(昭和49年)2月5日には、日本銀行本店の旧館は国の重要文化財に指定されました。
1997年(平成9年) 6月、「独立性」と「透明性」という2つの理念の下に、日本銀行法は全面改正されました。

 本店本館(日本銀行絵葉書から)

・旧館見学
H11異業種交流会メンバーの見学会は、14時45分に西門に集合してから、入り口の警備員さんに見学を告げて通用門を入ると中庭です。

 日本銀行旧館西門と南門(左:旧館西門、右:旧館南門0603)

中庭を抜けて丸屋根中央の玄関を入ると天井にはシャンデリアがあり、見学記念品売り場がある広場で本日の見学者の集合場所です。時間が来ると数名の女性案内人により、見学の注意により、これより先は撮影禁止なので、バックをコインロッカーに入れて、探知機を通りホールに入り説明のビデオを見ます。

 日本銀行旧館の玄関(左:西門を入って玄関に向かう、右:正面から見た玄関0603)

これから2斑に分かれて女性案内人の説明によるコース見学です。当日のコースとは若干異なりますが、日本銀行ホームページのバーチャル見学ツアーのコースに順じて説明します。先ずは、1階の旧営業所(←ここをクリック)で以前の日本銀行の窓口があったところです。
エレベータで地下1階に進むと地下金庫の入り口で、金庫は明治29年から平成16年6月まで、108年間使われていました。地下金庫の扉は、米国製で、厚さは90センチ、重さは扉が15トン、外わくが10トンあり、地下金庫がひろげられた1932年(昭和7年)に取付けられました。

 旧館地下金庫外扉(日本銀行絵葉書から)

次に、昭和初期に日本で2番目に設置され、その後改装されていますが、古典的雰囲気が漂う大型のエレベータ(←ここをクリック)に乗り2階に上がります。
2階の赤じゅうたん廊下の白い壁の両側には、初代からの歴代総裁(←ここをクリック)の巨大な油絵の肖像画が展示してあります。現在の肖像画は、関東大震災時に焼失したため、その後再製されたものです。

 歴代総裁の肖像画(日本銀行絵葉書から)

次に2階の丸屋根の史料展示室(←ここをクリック)には、日本銀行の歴史を示す金や銀塊を量る大きな天秤、日本銀行に火災などがあったときに集まる駆付人夫のはっぴや照明用の提灯、および業務の始業・終業に打ち鳴らしていた拍子木や、日銀で1961~69年(昭和36年~44年)代に使用していた貴重な品々が展示されていました。
1937~40年(昭和12~19年)には、丸屋根の下の八角形の部屋を総裁室に利用しており、第15代結城総裁が使用していた当時の机と椅子(←ここをクリック)が再現展示してあります。
2階から降りる鉄製の階段(←ここをクリック)は、明治29年に英国から取り寄せたものといわれており、段差が低く段数が多いことと、手すりの美しい模様が特徴です。
最後に、ホールに戻りレクチュアーがあり見学終了です。昔、日本銀行に来るお客様は、馬車などでお金を運んでおり、中庭が荷物の積みおろしに利用されていたので、馬の水飲み場があります。

 日本銀行中庭(左:馬の水呑み場、右:見学記念写真0603)

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大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 高架化事業完了工事糀谷駅編(第3回)

2013年07月14日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2013 糀谷第1踏切跡東方の工事シートの一部が外される(7月13日)        

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糀谷駅高架化事業完了工事
現在の糀谷高架駅橋の下り線高架ホームへの連絡通路は、旧地上駅間の連絡跨線橋で使用していた階段とエレベータを若干補修して、高架下りホームへの仮設連絡エレベータと仮設連絡階段として使用しています。仮設連絡エレベータと仮設連絡階段の設置の経緯は、これまで記述の糀谷駅高架化工事の記事(糀谷駅高架化工事目録編参照)をご覧ください。

 糀谷駅構内説明図

そのため、仮設エレベータと階段は、下り線高架ホームから張り出した位置に設置してあるため、この個所の高架橋桁梁部は延長してあり、高架仮設橋柱で正常位置から外側に建立されています。

 糀谷駅の下り線側高架橋伸延部の仮設高架橋柱(:下り線高架ホームへの仮設階段と仮設高架橋柱、:旧下り地上ホーム通路と仮設高架橋柱0713)

・下り線高架ホーム完成への修復工事
今後は、仮設下り線高架ホームから本来の正式な下り線高架ホームへの修復工事がお行われます。まず、修復工事の手始めは、架設の高架橋柱を撤去するために、旧地上下り線道床個所へ正規の高架橋柱の建立工事を行います。

 糀谷駅高架駅橋の正規高架橋への修復の説明(:糀谷駅高架駅橋の正規高架橋底部(肌色)と仮設高架橋底部(青色)の構成、:正規高架橋への修復時の高架橋柱建立位置、:糀谷駅の仮設延伸高架橋の説明図0522)

5月22日に見ると、旧地上下り線道床個所へ正規の高架橋柱の建立をするために、基礎杭の埋め込み工事を行っている説明図が掲示されていました。

 正規高架橋柱建立の基礎工事説明図

7月13日に基礎杭の埋め込み工事を行っている現場を見ると、旧下り線地上道床跡の正規高架橋柱建立のラインには、橋脚柱間の補強地中梁設置用の縦溝が切削され、正規高架橋柱の建立位置には基礎杭の埋め込み工事が完了していました。

 正規高架橋柱建立の基礎工事(:旧下り線地上道床跡に地中梁築造用の溝掘り、:正規高架橋柱建立の基礎杭受け0713)

・糀谷駅西方高架下の基礎工事
前回記述時には、京急蒲田空第4踏切方の高架駅橋下では、高架橋脚柱間に縦列の溝を構築して、高架橋補強の地中梁の築造の基礎工事を行っていました。
5月22日に見ると、京急蒲田空第4踏切方の高架駅橋下では、仮設下り線高架橋ホームほうで、縦列溝の基礎工事を行っていました。

 高架駅橋柱間の補強用地中梁構築の縦溝掘り基礎工事(:高架橋補強の縦溝掘りの基礎工事、:縦溝掘りの基礎工事、:縦溝堀の土砂運搬車0522)

高架駅橋柱間の縦列溝を6月23日に見ると、溝の底部にコンクリートが打たれていました。

 縦堀溝の底にコンクリートが打たれる(写真拡大0623)

7月13日に高架駅橋脚柱間の縦横列溝を見ると、脚柱間の地中補強を施す準備工事を行いつつ、地中補強を施された高架駅橋脚柱間の縦横列溝の埋戻し工事が、今後行われます。

 高架橋柱縦横間の地中補強工事(:高架橋柱縦横間に地中補強を施す準備、:橋脚柱間の地中補強作業0713)

・糀谷第1踏切跡東方の完了化工事
糀谷第1踏切跡高架橋上から東方にかけての高架橋は、5月22日に見ると工事シートで覆われていました。

 糀谷第1踏切跡高架橋から東方の工事(写真拡大0522)

7月13日に糀谷第1踏切跡高架橋を北面から見ると、工事シートの外端から高欄が付けられているのが見えました。

 糀谷第1踏切跡高架橋上北面に高欄が付く(写真拡大0713)

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大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 高架化事業完了工事雑色駅編(第3回)

2013年07月10日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2013 右側に下り線の本高架橋を築造       

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雑色駅高架化事業完了工事
雑色駅は、中央口改札口と西口改札口から出入りして、上下線高架ホームへの連絡通路は、上り線方の地上通路を直進して右側のエスカレータ、エレベータまたは階段通路で上り線高架ホームに連絡し、また、左側の上下線連絡通路の先のエレベータまたは階段通路で上り線高架ホームに連絡します。なお、現在下り線のエスカレータは未設置であり、前回記述時と変化は有りません。

 雑色駅構内説明図

・高架駅橋下基礎工事
高架駅橋下の中央改札口から石段を昇る地上旧下り線ホームと連絡通路までの上下線の道床跡は、前回記述時にはホーム最北端部の中央改札口駅舎屋根に接続の一部を残して、上下線連絡通路付近までは完全に撤去されて平地化されています。
5月22日に見ると、平地化された高架駅橋下には、工事機により鋼矢板を埋め込み土留の工事をしており、雑色駅駅舎築造の基礎工事が行われていました。

 雑色高架駅橋下の基礎工事(左上中上右上左下中下右下:0522)

7月2日には、改札口から上下線連絡通路までの、下り線の高架橋柱間の補強地中梁の施工の準備工事が行われていました。

 高架橋柱間補強地中梁施工の基礎工事1(写真拡大0702)

下り線エスカレータの施行工事は、高架駅橋下の基礎工事が終わってからとなります。

 高架橋柱間補強地中梁施工の基礎工事2(写真拡大0702)

同2日に上下線連絡通路の南方の、上下線地上ホームは取壊し撤去され、道床も平地化されています。

 上下線連絡通路南方の地上上下線ホームと道床の跡(写真拡大0702)

・六郷土手付近下り線高架橋の築造
雑色第4踏切南方の六郷土手付近の高架化工事は、これまで、同踏切南方から盛土部とその先の傾斜高架橋梁の取壊し撤去をお粉ってきました。同第4踏切南方から六郷土手駅北方鉄橋間には、高架上り線が仮設高架橋で仮運行し、高架下り線が本線上り高架橋上を仮運行しています。
今後は、取壊し撤去された盛土部と傾斜高架橋梁跡に、本線下り高架橋の築造工事が行われます。6月23日に、雑色第4踏切南方の本線下り高架橋の築造工事が行われる北端部を見てきました。

 雑色第4踏切から見た下り線高架橋築造の北端部(:雑色第4踏切から見た下り線高架橋築造場所、:左側の空き場所に下り線本高架橋を築造する、:中央は下り線列車が仮運行している上り線本高架橋0623)

同日盛土部が撤去された、宝珠院横の本線下り高架橋の築造工事現場を見ました。

 宝珠院横の下り線本高架橋の築造現場(:宝珠院横の完了した下り線高架橋の南端部、:宝珠院横の下り線高架橋築造現場、:宝珠院横から南方の高架橋築造現場を見る0623)

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大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 高架化事業完了工事梅屋敷駅編(第3回その2)

2013年07月07日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2013 下り高架ホームへのエレベータ      

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・梅屋敷改札口通路の変更(続)
梅屋敷旧下り線改札口が5月26日に閉鎖され、上下線高架橋への連絡通路は、梅屋敷上り線改札口からのみとなりました。同27日に見ると、旧下り線改札口への階段口とスロープ口ともチェーンで封鎖され、同改札外にあった多目的トイレも閉鎖されています。

 改札口変更図

旧下り線改札口の閉鎖により、下り線高架ホームエレべ―タへの通路は、上下線改札口を入り、上り線ホームエレベータの脇の左折通路(その1トップ図参照)を進むと、下り線ホームエレベータに通じます。同下り線エレベータは、乗降り口をホームから地上に変更され、乗車方向も従来と反対の南向きとなりました。

 下り線高架ホームへのエレベータ通路(左上:上下線改札口、中上:上下線改札口内より、右上:上下線高架ホームへの通路、左下:上り線エレベータ横を左に曲がると下り線エレベータ通路、中下:下り線高架ホームへのエレべ―タ、右下:下り線高架ホームエレベータへの通路0527)

梅屋敷駅高架ホームへのエスカレータ通路は、現時点では階段・エスカレータ通路の中階の踊り場と高架ホーム間にのみ設置してあります。上下線改札口から下り線の階段・エスカレータ通路の踊り場までの連絡路は、下り線高架ホームエレべ―タ通路の前を先に進み、トイレの先の仮設階段を昇り、上り線階段・エスカレータ通路の踊り場に進むと、下り線階段・エスカレータ通路踊り場までの下り線連絡通路が同26日に開設されました。

 下り線高架ホームへの連絡通路(:左上り線ホームへのエスカレ―タ通路、右下り線踊り場への連絡通路、:上り線側から連絡の下り線への踊り場間通路、:左下り線踊り場への連絡通路、右上り線ホームへの階段通路0527)

上りの線階段・エスカレータ通路の踊り場から、通路を下り線の階段・エスカレータ通路の踊り場に進むと、右側には下り線高架ホームへの階段通路があり、左側には同エスカレータ通路があります。

 下り線階段・エスカレータ踊り場から出口への連絡通路(:左下り線ホームへの階段通路、右出口への連絡通路、:下り線踊り場から出口への踊り場間連絡通路、:左出口への連絡通路、右下り線ホームへのエスカレ―タ通路0527)

6月1日に閉鎖中の旧下り線梅屋敷駅改札口を見ると、階段口は網塀により囲われて閉鎖されており、スロープ口はチェーンにて閉鎖されており、多目的トイレも閉鎖されていました。

 閉鎖の梅屋敷駅旧下り線改札口を見る(:旧下り線改札口の階段口は網枠により閉鎖、:網枠により閉鎖の階段口はシャッターも閉じられている、:スロープ口はチェーンで閉鎖中0601)

誘導員がいなくなった、旧下り線梅屋敷駅改札口閉鎖1週間後の梅屋敷駅の、上下線改札口への誘導案内板を見ると、記載無や取外し忘れがみられました。

 梅屋敷駅上下線改札口へ誘導の案内板(写真拡大0601)

7月2日に見ると、旧下り線梅屋敷駅スロープ口が開かれており、多目的トイレご利用のお客様はお入り下さいの案内が掲示してありました。

 旧下り線改札の梅屋敷駅多目的トイレ(左上中上右上:旧下り線改札のスロープ口が開き多目的トイレの利用が可となる、左下中下・右下:梅屋敷駅多目的トイレオープン0702)

・梅屋敷駅高架下の準備工事
7月2日に梅屋敷第1踏切跡から見ると、高架橋柱の周囲に鋼矢板を埋め込み土留の工事が見られ、高架橋柱の補強地中梁設置の準備工事が開始されたようです。

 梅屋敷駅高架橋下の準備工事(写真拡大0702)

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大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 高架化事業完了工事梅屋敷駅編(第3回その1)

2013年07月04日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2013 旧上り改札からの下り線高架エレベータへの通路      

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梅屋敷駅高架化事業完了工事
前回記述時には、梅屋敷駅の上下線高架ホームへはそれぞれの上下線の単独改札口より入場し、エレベータを利用するか仮設階段で踊り場まで昇ってからエスカレータまたは階段通路で高架ホームに上ります。下り線の改札口は、階段またはスロープを昇り改札を入ると旧地上下りホーム上の通路から高架ホームへ出て、上り線の改札口は入ると地上通路から高架ホームにでます。

 梅屋敷駅の改札口と高架ホームへの通路(:梅屋敷駅改札口は上下線が単独、:下り線エレベータ口は旧地上ホームの北側から、:エスカレータへは改札から仮設階段で踊り場まで上ってから0425)

・下り線改札口の閉鎖
5月に入ると、下り線改札口の変更のお知らせが掲示され、同25日で下り線改札口が閉鎖され、下り線高架ホームへのエレベータ通路は、上り線側エレベータ横から地上の仮通路が設けられます。これにより下り線高架ホームへのエレベータは、地上まで下げられ出入り口が南側と変更され、下り高架ホームへのエスカレータと階段への通路は、上り線高架ホームへのエスカレータと階段への仮設階段を踊り場まで上がり、下り線高架ホームへの仮設階段を閉鎖し、上下線踊り場間を仮設通路により連絡されました。なお、旧下り線改札前の多機能トイレは使用できると案内されました。

 下り線改札口の変更案内

同13日に見ると、上下線高架ホームへのエスカレータと階段への通路の踊り場間に、下り線改札口の閉鎖のために仮設通路が架橋されていました。

 梅屋敷駅上下線踊り場間仮設連絡通路橋(:大森町第4踏切から見た上下線踊り場間仮設通路の架橋、:梅屋敷第1踏切から見た上下線踊り場間仮設通路の架橋0513)

下り線改札口から入り、仮設階段でエスカレータと階段の踊り場通路の中間に、上下線踊り場間を結ぶ踊り場通路が架橋されており、通路には閉鎖網で塞がれていました。

 下り高架ホームへのエスカレータと階段への踊り場通路に上下線踊り場間連絡の通路を架橋(写真拡大0513)

踊り場から上下線踊り場間を結ぶ踊り場通路架橋工事を見ると、架設の踊り場通路は白板塀で囲われ、白板塀の外側は完成工事のためスペースが確保されています。完成時には、踊り場通路の北側は、踊り場から地上に降りるエスカレータと階段が設置され、南側は踊り場通路の仕切り塀が築造されます。

 梅屋敷駅の踊り場通路の架橋工事(左上:下り線側から見る踊り場架橋通路、中上:踊り場架橋通路は白板塀で囲われている、右上:下り線側の踊り場接続箇所を見る、左下:踊り場通路の白板塀外には工事用スペースを確保、中下右下:上り線側から踊り場通路を見る0513)

下り線改札口の変更に伴い、1923年4月に道路上から専用軌道に移転した梅屋敷駅下り線駅舎は5月25日の終電後に閉鎖されます。同日に、左側が石段入り口で、右側がスロープ口で、珍しく多機能トイレが改札口外側にある構造の梅屋敷駅旧地上下りホームを見納めしておきました。

 5月25日で閉鎖される梅屋敷駅下り線改札口(左上中上:閉鎖される梅屋敷駅下り線改札口、右上:梅屋敷下り線改札口、左下:多機能トイレが下り線の改札口外側にある梅屋敷駅、中下右下:エレベータ出入り口は一巡して北側から昇る0525)

25日が最後の下り線踊り場階段通路を、下り線改札口を入り仮設階段を昇り、エスカレータと階段の踊り場通路まで昇ってみました。

 25日が最後の下り線踊り場階段通路(左上中上右上左下中下右下:0525)

同日見ると、下り線改札口の変更により26日から使用される、上下線高架橋へのエレベータ間通路の開設の突貫工事を行なっていました。

 上下線高架橋へのエレベータ間通路築造工事(写真拡大0525)

・梅屋敷改札口通路の変更
5月26日には、梅屋敷旧下り線改札口が閉鎖され、上下線高架橋への連絡通路は、梅屋敷上り線改札口からのみに統一されました。

 梅屋敷駅構内説明図

5月27日に見ると、梅屋敷旧下り線改札口が閉鎖されていました。

 旧下り線改札口は閉鎖され旧上り線改札口のみとなる(:閉鎖された旧下り線改札口、:梅屋敷改札は旧上り線改札のみとなる0527)

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番外編カテゴリー別ブログ記事の検索と見方 7月INDEX

2013年07月01日 | INDEX

kan-haru blog 2013 7月1日59版

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kan-haruの日記の月間INDEXは、毎月1日付けで掲載しており前月の登録記事検索のほか、カテゴリー別の登録記事の2006年3月から最新までの検索ができます。

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  2-3 大森町界隈あれこれ 手記第3編 戦前戦後目黒にて
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  大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 サブ・カテゴリー別目次

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  ◇ 関連側道高架化 全工区下り線工事2012年後期版高架化全工区下り線工事2012年前期版高架化全工区下り線工事2011年後期版高架化全工区下り線工事2011年前期版高架化全工区下り線工事2010年版全工区統合2009年版全工区統合2010年版、大森町付近工区:2006・2007年版2008年版2009年版梅屋敷付近工区、京急蒲田付近工区:2006~2008年版2009年版雑色付近工区糀谷付近工区
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 高架化事業完了工事大森町駅編(第4回その1) 6月14日
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 高架化事業完了工事大森町駅編(第4回その2) 6月17日
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 高架化事業完了工事大森町駅編(第4回その3) 6月20日
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 高架化事業完了工事京急蒲田駅編(第3回その1) 6月23日
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 高架化事業完了工事京急蒲田駅編(第3回その2) 6月27日 
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 高架化事業完了工事京急蒲田駅編(第3回その3) 6月27日

  一般 カテゴリー別目次

21 風景・風物詩 総目次
  ◇ 2006・2007年版2007・2008年版2008~2010年版2010~2013年版 
22 小さな旅 総目次
  ◇ 2006~2009年版2009~2011年版
23 旅ものがたり 総目次
2006~2011年版2010~2013年版
24 秋葉原界隈 総目次
25 イベント 総目次
 ■  イベント 生誕120年木村荘八展 東京ステーションギャラリーで昭和の東京の油絵と小説の挿絵を見るその2 6月4日
 ■  イベント 生誕120年木村荘八展 東京ステーションギャラリーで昭和の東京の油絵と小説の挿絵を見るその3 6月8日
 ■  イベント 生誕120年木村荘八展 東京ステーションギャラリーで昭和の東京の油絵と小説の挿絵を見るその4 6月11日
  ◇ 2006・2007年版2008年版2009・2010年版2011年版2012年版2013年版
26 ITと技術 総目次
◇ 2006~2011年版2012年版
27 Weblog 総目次

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