K&A

kan-haruの日記

小さな旅 奥久慈ドライブ 北茨城奥久慈下野宮寿昌庵で会席料理と三村りんご園でのりんご狩りその2

2015年12月13日 | 小さな旅

kan-haru blog 2015 三村りんご園

りんご狩りに県道22号線を進む
里美のかかし祭りを見終えて、国道349号を進むと県道22号との分岐交差点にでるので、県道に左折して奥久慈のりんご園へと向かいます。

 県道22号・国道461・118号説明図
 
県道22号に入ると上下境界線のないくねった山道で、しばらく進むと以前に来た黒田りんご園の近くの県道22号線の終端の交差点で、日立市と日光市を結ぶ国道461号と県道33号線と合流します。       県道22号を国道461号へと進む (左:県道22号、:以前りんご狩りに来た黒田農園付近、:県道22号終端の国道461号交差点) 

交差点から国道461号を走ると袋田の滝への分岐路を右に見て、進むと以前に宿泊をしたことのある袋田温泉思い出浪漫館のまえを通過し、さらに進むと交差点に出て水戸市からの国道118号と合流して久慈川沿いに大子温泉方向に進みます。

 国道461号を国道118へと進む
(:袋田の滝への分岐路:袋田温泉思い出浪漫館:国道461号線終端点の国道118号との合流点)

日本三大滝の一つの袋田の滝と大子温泉(ホテル奥久慈館箔)には、2007年に同窓旧友たちの旅で(「旅ものがたり 同窓旧友たちの旅 袋田の滝と大子温泉 その1その2」参照)訪れています。

大子市街を抜けると国道118号はほぼ北上し、久慈川を渡ると水郡線を跨ぎしばらく進むと、大子町大字大子を起点とする県道28号大子那須線の交差点にかかります。県道28号との交差点を左折すると茨城県と福島県の県境にある、茨城県最高峰の標高1,021.8mの八溝山(やみぞさん)に達します。
     
  久慈川・水郡線を渡り国道118号を北上し下野宮へと進む(左:久慈川を渡る、中:水郡線を跨ぎ、右:久慈川支流を渡り県道28号交差点へ) 

八溝山の主峰の北麓には久慈川の源流があり、八合目の南麓には久慈川支流の八溝川の源流である八溝川湧水群があります。古来よりの信仰の山でもあり、山頂に豊作祈願の神である八溝嶺神社(やみぞみねじんじゃ)が、八合目には坂東三十三箇所の二十一番札所である日輪寺(にちりんじ)があります。八溝山の名は、八つの谷に分かれた山容から空海(弘法大師)が命名したと伝えられていわれています。二十一番札所には、坂東三十三箇所巡りのため、1999年(平成11年)11月5日にお参りに行っています。八溝山の山頂までは、舗装された林道(八溝林道、および八溝山線林道)が通じており、自動車で山頂まで上がることができます。

国道118号は、県道28号の交差点を過ぎると右にカーブして、りんご狩りの目的地の三村観光りんご園前に到着です。時間は昼時なのでりんご園の対面にある、奥久慈会席の「寿昌庵けん坊」で予約の昼食を頂きました。 

 昼食はりんご園前の寿昌庵けん坊へ (左:寿昌庵けん坊まであと200m、中:けんぼ坊入口路、右:けんぼう駐車場1122)

寿昌庵けん坊(茨城県久慈郡大子町下野宮2072-1)は、奥久慈地場産の会席のお店です。お部屋はテーブル席の個室で、奥久慈の山菜きのこ常陸牛奥久慈しゃも野菜川魚など地元陶芸の器で料理を盛り付けてあります。

 「寿昌庵けん坊」での昼食 
(上・左下・中下・右下:1122) 

昼食後、いよいよ道路を隔てた「三村りんご園」でのりんご狩りです。りんご狩りは、入園料が1人350円でりんご園での指定のリンゴの木から自由にもぎ取りができます。採ったりんごは、目方で買い取る方式です。

   「三村りんご園」でのりんご狩り
(左上・中上・右上・左下・中下・右下:1122)

りんご狩りが終了して、お土産のりんごを求めたので帰路につきます。帰路は、往路に来た国道118号を袋田まで戻り、国道461号の交差点ではそのまま直進して国道118号で進み、下菅谷の長男宅で夕食をご馳走になり、勝田まで送って頂き20時21分発の特急ひたちで品川に22時53分に帰着しました。

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(12月INDEXへ)
カテゴリー別Index 小さな旅総目次 2010~2015年版2006~2009年版 へ
<前回  小さな旅 奥久慈ドライブ 北茨城奥久慈下野宮寿昌庵で会席料理と三村りんご園でのりんご狩りその1

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さな旅 奥久慈ドライブ 北茨城奥久慈下野宮寿昌庵で会席料理と三村りんご園でのりんご狩りその1

2015年12月05日 | 小さな旅

kan-haru blog 2015 里美のかかし祭り

茨城県下菅谷に住んでいる長男夫婦からの誘いにより、晩秋の11月22日(日)に東京に住む私たち3人とともに久しぶりに奥久慈のりんご狩りに行ってきました。大森町を7時10分頃に出て、上野駅8時30分発常磐線特急ときわ53号に乗り、勝田駅に9時55分に到着です。改札を出ると、長男夫妻の好意により5人がゆったりと座れるレンターカーを借りて出迎えて頂きました。

 

いよいよ、久方ぶりの晩秋の北茨城ドライブです。まずは、海を見てから山に行こうとの提案により、孫が幼稚園に通った懐かしい「ひたちなか」の街を東へと進行し。国道245号を突っ切り国営ひたち海浜公園に出ます。

 清浄石付近海岸

そこから、ひたち海浜公園の西側の県道247号線を弓なりに進み、県道265号交差点を右に折れ海岸へと進むと、県道6号となり海岸線に沿って南に進むと中世代白亜紀層の地域へでます。夏では考えられないガラ空の駐車場で車を降り太平洋の水平線を久方振りに眺めました。

 清浄石付近海岸で一休み(左・・右:1122)

中世代白亜紀層
車を降りた磯崎から平磯までの海岸は、傾斜した白亜系那珂湊層群の岩礁が連続して分布しております。これはおよそ8,000万年前頃の大陸棚斜面において形成された砂岩泥岩互層が、その後の隆起に伴って緩やかに傾斜し、さらに、礫岩、砂岩、泥岩からなる岩石のうち、軟らかい部分が海食によって削られ、「鬼の洗濯板」状になったものです。清浄石以南の海岸330m²の地域が、茨城県指定天然記念物に指定されています。

白亜系那珂湊層群岩礁の海岸を見てから、10時40分頃に目的地の奥久慈へと向かい、西へと進み国道349号線に入り、往路は水郡線と並行して北に進みます。長男夫妻の家がある下菅谷を通過すると常磐自動車道を潜りさらに北上を続け、20分ほどで国道傍にある「花と緑のガーデンセンター」に着き休憩をとりました。

  花と緑のガーデンセンター
(左・中:花と緑のガーデンセンター、右:常磐自動車道を潜る1122)

ガーデンセンターで休憩後、市街地を抜けて2車線の国道349号線を1時間20分ほど北進すると、国道461号交差点で、そこから間もなく里美ふれあい館のイベント広場に到着し、「かかし祭」が開催(会期10月24日~11月28日)されていましたので、10年ほど前にも訪れて懐かしい想い出のあるイベントを見学しました。

 里美かかし祭りポスター 
(←クリックで拡大)

「かかし祭」は、毎年11月上旬に「さとみ秋の味覚祭」と同時に、里美ふれあい館のメイン会場で開催され、会場中を埋め尽くすかかしたちは、いずれも一般の人たちからコンクール形式で応募を募ったオリジナル作品です。毎回、オリジナリティ豊かで、面白い表情のかかしが数多く寄せられて、自然を誇る里美地区らしさが感じられて、何か温かくて懐かしい感じのするイベントです。

 里美かかし祭り 
(左上・中上右上左下中下右下:1122)

童心に返って「かかし祭り」を楽しんでから、12時15分に奥久慈の下野宮の「りんご園」に向け国道349号線を出発です。349号線の片側1車線道路は、左右の山が近くに接近し、しばらくすると県道22号線交差点となり、そこを左折して大子・袋田の滝方面に進みます、国道は2車線でしたが、県道22号はさらに幅員が狭くなり上下線区切りのない2車線の山道です。

  りんご園には国道と別れて県道22号の山道へ
(左:間もなくりんご園に向かう県道22号交差点、中:県道22号交差点、右:県道22号は上下境界線なしの2車線山道道路1122)

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(12月INDEXへ)
カテゴリー別Index 小さな旅総目次 2010~2015年版2006~2009年版 へ
<前回 小さな旅 樹齢1200年国内最古 周囲10メートルの根元を持つ国内最大級の藤を見るその2
次回 小さな旅 奥久慈ドライブ 北茨城奥久慈下野宮寿昌庵で会席料理と三村りんご園でのりんご狩りその2

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さな旅 樹齢1200年国内最古 周囲10メートルの根元を持つ国内最大級の藤を見るその2

2014年05月10日 | 小さな旅

kan-haru blog 2014 藤花園の東南の食事処・売店

< 
総合INDEX へ

牛島の藤
藤花園のパンフレットによると牛島の藤は、山藤に似ているが、つるは右巻で無毛である。この種の藤は、本州・四国・九州の山地にあるが、牛島の藤は優秀な園芸の変種で、花色は藤紫で、花房の長さは長いもので2メートルに達し、見ごろは4月下旬から5月上旬とあります。

 藤花園パンフレット

昭和を代表する抒情詩人とされる三好達治(19001964)は、牛島の藤がお気にりで、晩年、仲間たちと連れだって毎年のように粕壁(現、春日部)の藤を見に訪れていたといわれてます。

 牛島の藤
(写真拡大0503)

・藤花園回遊
臥竜梅の藤棚の裏を北方に進むと緋鯉の泳ぐ池があり、池端には樹齢500年の赤松が植えられています。

 池の畔の樹齢500年の赤松(写真拡大0503)

藤花園の池の縁から藤棚の裏を北方から見ると、樹齢1200年と600年の大きな藤棚に世界一を感じられます。

 北方から臥竜梅の藤棚を見る(写真拡大0503)

池に添って北に進む道辺には、いろいろな花を観賞できます。藤花園の北縁にはお休み処があり、テーブルと椅子が設けられたおり、ここで周囲の花木を見ながら一休みします。

 藤花園には各種の花が咲いています(
写真拡大0503)

庭園の散策路には、色とりどりの花が華やかに、落ち着いた古木の藤の花をひきたてています。

 藤花園に咲く色とりどりの花(左上中上右上左下中下右下:0503)

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(2月分掲示INDEXへ)
カテゴリー別Index 小さな旅総目次 2010~2014年版2006~2009年版
<前回 小さな旅 樹齢1200年国内最古 周囲10メートルの根元を持つ国内最大級の藤を見るその1
次回 
小さな旅 奥久慈ドライブ 北茨城奥久慈下野宮寿昌庵で会席料理と三村りんご園でのりんご狩りその1

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さな旅 樹齢1200年国内最古 周囲10メートルの根元を持つ国内最大級の藤を見るその1

2014年05月06日 | 小さな旅

kan-haru blog 2014 樹齢1200年の藤の花房

< 総合INDEX へ

5月に咲き誇る花は、つつじと藤です。2011年にあしかがフラワーパークの藤(「小さな旅 600畳の大藤 天然記念物指定樹齢145年を越える大藤棚のあしかがフラワーパークその1、2」)の観賞を想い出して、5月3日に樹齢1200年余り国内最大級の牛島の藤を見に行きました。

牛島の藤花園
牛島の藤花園(埼玉県春日部市牛島786)は、京急大森町駅からは品川駅で都営浅草線に乗り継ぎ押上駅にて、東武浅草ツリーラインの急行に乗り春日部駅で、東武野田線に乗り換えて藤の牛島駅を下車すると、10号道を北上し徒歩10分ほどで牛島の藤です。


 牛島の藤「藤花園」

平成26年度の藤花園の開園は、4月19日から5月8日までの期間中の8時~18時までです。入園料は、大人が1,000円(30名以上1割引)で、4歳以上小学生までが500円です。
 
 牛島の藤入場券 

藤花園の説明には、「当園は元真言宗連花院の境内なりしを明治7年当寺の住職藤岡好三氏其の筋へ出願なし、廃寺となり爾来所有者変わり現在にいたる、また、人々の言伝えによると1200余年前、弘法大師お手植えの藤とも聞きおよぶ。」とあり、蓮花院という寺は今の藤花園のことです。また、春日部市教育委員会は藤の伝説として、「むかし、柳原で農家の娘が長い間病気で苦しんでいた。旅僧から娘の病気に生垣の中にある藤を寺に納めるとよくなるといわれたので、藤を寺の境内に移し植えたところ病気は治ったという。この寺は蓮花院といわれ今はないが、藤だけが残されてそのあとをしのばせている。」と説明しています。
2万平方メートルの敷地内には、大小色ちがいのフジや中島、池、そしてアヤメ、ツツジ、五百余年の老松などを擁する庭園です。
 
 牛島のふじ藤花園絵葉書

牛島の藤は、1928年 (昭和3年) 01月18日に国の天然記念物に指定され、また、1955年 (昭和30年)08月22日には特別天然記念物に指定され、さらに、平成元年には新日本名木百選にも指定されており、入り口の石柱には文化財を大切にと記されています。
 
 
藤花園入門口(:藤花園正門、:文化財を大切に石柱、特別天然記念物牛島の藤正門0503)


門を入ると、左側に藤の花の案内板があり、それによると牛島の藤は、九尺藤・野田藤で、色は薄紫で最も長い花房は約2メートルとあります。案内板の右側には、樹齢600年の楠の奥に天然記念物牛島之藤の石柱が建立されています。
 
 藤の花の案内板と天然記念物の石柱(:藤の花案内板:天然記念物牛島の藤の石柱と楠0503)

牛島の藤には、創業文化5年の世界鷹小山家グループ小山景一氏経営の各銘醸庫より寄贈の酒粕を毎年寒肥として施肥しているので、見事な花房の活動力の源泉となっているとの説明版に記載されています。
 
  
樹齢1200年(左)と600年(右)の藤棚1(樹齢1200年(左)と600年(右)の藤棚樹齢1200年の藤の木藤に酒粕寒肥を施しているとの記載の説明板0503)

樹齢1200年の長寿の藤の大きな根回りには感嘆です。また、1200年もの長きにわたり咲き誇る植物の寿命の長さには驚くばかりです。

  
樹齢1200年と600年の藤棚(左上樹齢1200年の藤中上右上樹齢600年の藤左下中下右下樹齢1200年の藤の花房)

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(2月分掲示INDEXへ)
カテゴリー別Index 小さな旅総目次 2010~2014年版2006~2009年版
<前回 小さな旅 湯河原梅林 遺跡のある「鍛冶屋」地区に崖崩れ対策として植えた4000本の梅林で観梅
次回 小さな旅 樹齢1200年国内最古 周囲10メートルの根元を持つ国内最大級の藤を見るその2

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さな旅 湯河原梅林 遺跡のある「鍛冶屋」地区に崖崩れ対策として植えた4000本の梅林で観梅

2014年03月26日 | 小さな旅

kan-haru blog 2014 幕山をバックにした湯河原の梅 

< 総合INDEX へ

湯河原梅林
今年の冬は例年に比し寒い陽気でしたが、季節と共に梅の時期をむかえましたので、大森から比較的交通の便の良い湯河原梅林に、閉園間際の3月16日に出かけました。
湯河原梅林は、ロッククライミングとしても親しまれている湯河原駅から北東の幕山の山肌のすそ野の幕山公園(神奈川県足柄下郡湯河原町鍛冶屋)に、紅梅、白梅、約4000本の梅の花が彩る梅林の名所で、平成8年に開園して春の観光名所として知られるようになりました。平成18年から開催を始めた湯河原梅林「梅の宴」の期間中は、梅林入園料は有料となり、料金は中学生を除く大人が200円です。今年の「梅の宴」の開園期間は、平成26年2月8日(土)から3月16日(日)までの午前9時から16時までで、特に3月1日(土)から3月9日(日)までの18時から20時30分までの時間には、ライトアップが行われました。

 湯河原梅林入園券

・湯河原駅
大森町から湯河原梅林へのコースは、京浜急行で横浜駅にて東海道線に乗換えてから1時間15分ほどで着きます。湯河原駅を降りると、駅前広場に「土肥公並夫人像」が建っているのが見られます。JR湯河原駅周辺は、かつて土肥実平が屋敷を構えた地で、今でも「土肥」の地名が残されており、駅前広場に館跡碑と、実平夫妻の銅像が建てられています。
土肥氏の領地はこの近辺だけでなく、小田原市内にも及び、実平の嫡男・遠平は、現在の小田原市内にあった早川荘からとった小早川を名字とし、また小田原に城を築いています。のち、遠平の嫡流は相模の領地を継いで「土肥」を名乗り、庶流は安芸の領地を継いで「小早川」を氏としました(湯河原町から)。

 土肥実平公並夫人像と由来

湯河原駅背後の城山山腹には実平が建立した土肥氏菩提寺・城願寺があり、境内には土肥実平・遠平父子の木像、土肥氏一族の墓地や、七騎堂などがあり石橋山合戦に敗れた源頼朝主従七人の武者像が安置されています。毎年4月の第一日曜日(今年は、4月6日)の土肥祭・源頼朝旗挙げ武者行列が開催され、七騎堂の堂内が公開されます。

 源頼朝旗揚げ武者パレードのパンフレット

湯河原梅園
湯河原梅園の「梅の宴」の開催期間中は、湯河原駅から臨時直通の箱根登山バスが、幕山公園バス停(第1駐車場)まで所要時間(約15分)で運行され、運賃は大人250円です。湯河原梅林へは新崎川をさかのぼって、終点の幕山公園バス停で下車するとすぐです。閉園のまじかの日曜日でしたのでバスは満員でしたが、途中での乗り降りは少なく乗用車の渋滞をしり目に、時間通りの到着です。

 湯河原梅林地図

バスを降りて湯河原梅梅林へは道路を西方に進むと新崎川にかかり、幕山橋から展望すると前面の幕山の裾野一面が梅林です。橋の袂には、「正宗屋敷跡と製鉄遺跡」の説明版が建てられてあり、これによると『昔正宗屋敷跡と呼ばれ金山堂が祀られていましたが、関東大地震により壊滅的な被害を受け瑞應寺屋敷内に移転しました。平成16年試掘したところ多量の鉄滓が出土して、調査により西暦940年~985年頃(平安時代中期頃)の遺物と分析され、古代製鉄が営まれていたことがわかりました。』(湯河原町教育委員会から)

 幕山橋の袂は「正宗屋敷跡と製鉄遺跡」のあった場所(左:幕山橋、:遺跡説明板)

新崎川を渡ると前面の幕山の斜面裾野は、鍛冶屋の人達が植えた紅梅、白梅、約4000本の梅の花が彩る湯河原梅林です。 

 幕山の斜面裾野は紅梅、白梅、約4000本の湯河原梅林 

梅林に向かって進むと、先に管理棟が見えてきます。その付近の幕山梅林の上には大岩が姿を見せます。

 湯河原梅林幕山の大岩

管理棟の前に進むと、幕山梅林がま近かに見られて最も絶景です。

 管理棟前のU字曲がり道路付近梅林の眺めは絶景

管理棟付近の梅林と梅の木は、盛りを過ぎたとはいえ見事な眺めです。

 管理棟近くで見た梅林と梅の木

管理棟には休憩で人が群がり、広場の出店も開店していました。閉園前日の湯河原梅林は、暖かく天気に恵まれ絶好の観梅に恵まれました。帰路は、きた道を混雑のバスに揺られて立ちんぼで駅に戻り、駅前で昼食をとり「干物」、「かまぼこ」とお決まりのお土産を求めて帰りました。

 管理棟と公演広場梅の宴の出店

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(2月分掲示INDEXへ)
カテゴリー別Index 小さな旅総目次 2009~2011年版2006~2009年版
<前回 小さな旅 牧の原温泉 開通の印西牧の原駅前の満開のコスモスを想い出してヒーリングヴィラ印西へ
次回 小さな旅 樹齢1200年国内最古 周囲10メートルの根元を持つ国内最大級の藤を見るその1 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さな旅 牧の原温泉 開通の印西牧の原駅前の満開のコスモスを想い出してヒーリングヴィラ印西へ

2011年10月16日 | 小さな旅

kan-haru blog 2011 アロマ風呂 
            
< 総合INDEX へ

印西牧の原のコスモス
以前の1995年(平成7年)に開通した年の10月に北総開発鉄道印西牧の原駅を訪れた時に、駅前の南面に咲き誇るコスモスの見事さを思い出して、あのコスモスをもう1度見たいと思い、3連休の最終日の10月10日にヒーリングヴィラ印西を目的として印西牧の原駅に出かけました。印西牧の原の北総線には、京成・都営・京急線の4線が相互乗り入れ運転をしているので、大森町からは乗り換えなしの直通で行けます。
印西牧の原駅を降りると南北の広場間に屋根つきの大型陸橋が結び、駅周辺は高層建築と大型マンションが目白押しで、16年前のコスモス畑はかけらもなく、ビッグホップガーデンモール印西の大型商業施設ができており、アドベンチャ―パークや観覧車がある一大リゾートとなっており時代の移り変わりを目の当りにしました。

 印西牧の原駅(:印西牧の原駅入り口、:印西牧の原駅改札出口、:印西牧の原駅南北通路)

それでも駅前には、コスモスの丘牧の原公園まで80mの案内板がありましたので、そのまま進んで行きました。牧の原公園の入り口には案内板があり、前日の8、9日に第15回コスモス・里山まつりが開催された後で閑散としてました。

 牧の原公園(:牧の原公園入口、:コスモス里山まつり案内板、:コスモスの丘)

公園はまつりの後で閑散としていましたが、コスモスを見ようと公園内に入ると、広いコスモスの丘にボランティアが種蒔きした200万本と云われるコスモスの花は背丈が低く、16年前の雰囲気とは異なる風景でした。それでも、色とりどりのコスモスの花に心が癒されました。

 コスモスの丘(左上中上右上左下中下右下写真拡大)

ヒーリングヴィラ印西
今回は、コスモスを思い出して印西牧野原に来ましたが、牧の原に日帰り温泉があることを知りお湯に浸かるのも楽しみの目的でした。このブログでも、今までに大江戸温泉観音埼 海洋深層水風呂のSPASSOサイボク天然温泉 まきばの湯後楽園天然温泉 ラクーア笛吹市一宮ももの里温泉名栗温泉などの記事を投稿してあります。

ヒーリングヴィラ印西(千葉県印西市草深字原2131)は、印西牧野原北口バス停車場を左にはいるとすぐ牧の原温泉の入り口で、牧の原MOREの一角にあります。
ヒーリングヴィラとは、案内によると温泉(お風呂)だけの「安らぎ=癒し」でなく、スーパー銭湯、日帰り温泉施設よりも付加価値があり、テーマ型温浴施設よりも日常的な利用しやすさがあり、温泉施設の進化した形態でもある新しい都市型の癒しの空間を提供するとあります。

 ヒーリングヴィラ印西パンフレット

ヒーリングヴィラ印西の1階フロア―(ここをクリックするとフロアーガイドが見られます)の入り口を入ると左手が玄関で、シューズロッカーに下履きを格納し、そのキーをフロントAに持参して入館手続気をします。入館料は、中学生以上が1,500円で、3歳から小学生までが1,000円ですが、ヒーリングヴィラ印西のホームページから割引券を印刷して持参すると150円引きとなります。営業時間は10時から22時となっており、年中無休です。
入館手続きが済みキーと館内着、タオルを受け取ったら、入館男女別のロッカールームで館内着に着かえて荷物をキー番号のロッカーに入れてから、昼食時間帯なので1階フロア―奥にあるアジアンキッチンLで、有機・特別栽培の食材による約60種のメニューのランチを90分の時間制約付きで食しました。ランチの料金は、土・日・祝日は平日よりも300円高く、1,800円でした。

昼食後の食休みとして、軽く館内を探索してから温泉に浸かることにしました。アジアンキッチンを出るとすぐ左側には、4セットのテーブルと椅子が置かれた屋外吹き抜けのセンターコートBがあり、その周囲3方が足湯になっています。

 3方が足湯のセンターコート(写真拡大)

2階フロア― (ここをクリックするとフロアーガイドが見られます)に上がると、レディスエリアには女性専用の仮眠室Pと低岩盤欲Mとエステルームがあり、男性専用の仮眠室Nの他リラクセーションエリアには、ボディケア、ヒーリング、足つぼ、整体・骨盤矯正などのリフレッシュルームがあり、予約制で利用ができます。

1階に戻り、センターコートの奥にはサウナエリアG(ここをクリックするとサウナガイドが見られます) には8種類の着衣サウナがあり、広さが50畳ほどの「麦飯浴サウナ」には熱した麦飯石が部屋の中央部に移動して登場し、麦飯石の近くは90度で、壁際では55度のサウナ施設で、家族や友人、カップルが楽しめるコミュニケーションの空間です。
「麦飯浴サウナ」の壁に沿って周囲には、「サンゴ浴サウナ」「マグマ浴サウナ」「硫黄浴サウナ」があります。

 サウナエリア(左・中:麦飯浴サウナ、右:マグマ浴サウナ)

また、「麦飯浴サウナ」の奥のドアの外には、休憩用の椅子が置かれた、18度の「冷風サウナ」Hとマイナス2度の「霧サウナ」があります。
「冷風サウナ」の屋外には、歩行浴が出来る「足湯」Iがあります。サウナエリアを戻り左側のセンターコートの先には池があり、その奥にはカイライジャパンJがあり現在休業中です。

 冷風サウナと足湯(左:冷風サウナ、中・右:足湯)

ヒーリングヴィラの天然温泉
食休みもできたので、温泉に浸ることにします。天然温泉には、男性スパエリア(ここをクリックすると男性スパエリアガイドが見られます)と女性スパエリア"(ここをクリックすると女性スパエリアガイドが見られます)があります。
早速、ロッカールームに戻り館内着を脱いで浴室Dに入り内湯の循環方式のパノラマ風呂に入浴します。天然温泉の泉質は、ナトリウム-塩化物強塩温泉で、泉温は摂氏36.1度、湧出量が390リットル/分で、適応症は神経痛、筋肉痛、関節痛、慢性消火器病、慢性皮膚炎などです。
吹き抜けの天井の大型内風呂で温まったら、外に出ると露天風呂Cです。露天風呂で入り口の脇にあるのが井戸水かけ流し方式の備長炭水風呂で、サウナ後の入浴が効果的です。水風呂の先には、かけ流し方式のヒーリング風呂で、滝からのマイナスイオン効果が楽しめます。

 露天風呂1(左:パノラマ風呂、中:備長炭水風呂、右:ヒーリング風呂)

その左は循環方式のリラックス風呂で、浴槽の中のイスに腰掛けてくつろげます。リラックス風呂に浴槽が繋がっているバリ風呂は、レリーフ(浮彫)やサンセットストーンを使用し、バリの風情を演出してあります。その左側の高台には、かけ流し方式のガゼボ風呂で、掛け流しが楽しめます。その風呂の南側には、かけ流し方式のゲンセン風呂で、牧の原温泉の元湯でぬる湯です。

 露天風呂2(左:奥がリラックス風呂で手前がバリ風呂、中:ガゼボ風呂、右:ゲンセン風呂)

その風呂の南側には、かけ流し方式のアロマ風呂でアロマテラピー効果で心身共にリラックスできるお風呂です。坂を下った循環方式のステップ風呂は、水深110cmの風呂で立ったままの足裏刺激効果を楽しめます。
露天風呂を上り、内湯に戻ると右側には麦飯蒸釜のサウナ風呂とかけ湯があります。これだけの温泉には、温泉好きな人でも入り切れません。何とか、一巡しましたが飛ばし飛ばしの入浴で切り上げました。湯上りには、センターコート前のヒーリングカフェで飲み物を買い、テーブルで寛いで温泉に堪能して、北総鉄道の印西牧の原駅から羽田空港行きの直通電車で帰宅しました。今回の印西牧の原駅は16年振りの小さな旅で、時の変化を大きく感じました。

 露天風呂3(左:アロマ風呂、中:中央の四角形がステップ風呂、右:池)

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(10月分掲Indexへ)
カテゴリー別Index 小さな旅総目次 2009~2011年版2006~2009年版
<前回 小さな旅 600畳の大藤 天然記念物指定樹齢145年を越える大藤棚のあしかがフラワーパークその2 へ
次回 小さな旅 湯河原梅林 遺跡のある「鍛冶屋」地区に崖崩れ対策として植えた4000本の梅林で観梅

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さな旅 600畳の大藤 天然記念物指定樹齢145年を越える大藤棚のあしかがフラワーパークその2

2011年05月13日 | 小さな旅
kan-haru blog 2011 むらさき藤
            
< 総合INDEX へ

あしかがフラワーパークのふじ
あしかがフラワーパークには、300本のふじが植栽されています。メインゲートから大藤、白藤のトンネルと八重黒龍藤の大棚を辿る園内通路を進むと、うす紅"、"むらさき"、"白"の各種の藤が見ごろを迎え、見事に咲き揃っています。
フジは、日本、北アメリカ、東アジアに自生し、ノダフジとヤマフジの2種が日本固有種です。
ノダフジは、木に巻きついて登り蔓の巻き方は右巻きで樹冠に広がり、かなり太くなるツル性の木で、花は紫色で花序は長くしだれて20センチメートルから80センチメートルに達し、本州・四国・九州の温帯から暖帯に分布しています。野田藤の名は、フジの名所であった大阪市福島区野田にちなんで、植物学者の牧野富太郎により命名されるきっかけとなりました。

 むらさき藤(写真拡大)

ヤマフジは、他の木に巻きついて大きく成長し、蔓の巻き方は左巻きで、花は淡紫色で花序はノダフジに比較して短く、本州西部・四国・九州の山地に自生するが、鑑賞用に栽培することもあります。白藤は、白い花の咲くフジで、ヤマフジの園芸品種の一種。

 白藤(写真拡大)

八重藤は、野田藤系の黒龍藤の突然変異と言われる八重黒龍藤です。

 八重藤(写真拡大)

一才藤として園芸用に流通する鉢があり、樹高50センチメートルくらいの、鉢植えや盆栽にして愉しむための一才物のフジで、花枝はしだれるが、支柱は不要です。

 一才藤(写真拡大) 

・うすべに藤
八重黒龍藤の棚から右に進むと、バラの島に渡るうすべに橋がかかっています。うすべに橋の上の棚には、最初に咲くうす紅藤が満開に咲いています。

 うすべに藤1(写真拡大)

うすべに藤は、4月下旬頃に開花し始め、最も早く咲き出します。5月5日には満開の盛りです。

 うすべに藤2(写真拡大)

・きばな藤のトンネル
バラの島には、きばな藤のトンネルがありますが、5月5日にはまだ咲いていませんでした。あしかがフラワーパークのホームページから、見ごろを迎えた5月13日のきばな藤のトンネルを見てみましょう。

 きばな藤のトンネル(:まだ咲いていないきばな藤5月5日、:きばな藤の説明写真、:フラワーパークのホームページ5月13日から)

・クルメツツジと藤の路
きばな藤のトンネから古代蓮の池の左岸の路を進むと、クルメツツジと藤の路で藤の花とツツジや各種色とりどりの花との競演です。

 クルメツツジと藤の路(:クルメツツジと藤の路、:池の左岸の路は藤の花とツツジの競演、:藤の花とツツジの競演)

古代蓮の池には、色とりどりの水上花壇が浮かんでいます。

 色とりどりの水上花壇(写真拡大)

・野田の長藤棚
古代蓮の池上の連絡橋路を渡り、西ゲートに近い野田の長藤を見ると満開の大藤棚で、樹齢140年の藤は圧巻です。

 野田の大長藤棚1
(写真拡大)

大藤は1996年2月にこの地に移植され、幹廻りが3.95mで、南北が30mに、東西が34.5mに展開して、花房は1.8mあり見頃を迎えています。

 野田の大長藤棚2
(写真拡大) 

見事な大長藤を見て、メインゲートから反対の西ゲートまで来ましたので、自然池の右岸の園路をメインゲート方向に戻り、白藤の滝やむらさきスクリーンを見ながら、「軽食あじさい」で昼食をとり、残りの時間を通っていない園路をゆっくりと花を眺めながら歩き、ショッピングハウスでお土産を買い、帰路はシャトルバスで足利市駅から特急で浅草に帰りました。

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(5月分掲Indexへ)
カテゴリー別Index 小さな旅総目次 2009~2011年版2006~2009年版
<前回 小さな旅 600畳の大藤 天然記念物指定樹齢145年を越える大藤棚のあしかがフラワーパークその1 へ
次回 小さな旅 牧の原温泉 開通の印西牧の原駅前の満開のコスモスを想い出してヒーリングヴィラ印西へ へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さな旅 600畳の大藤 天然記念物指定樹齢145年を越える大藤棚のあしかがフラワーパークその1

2011年05月11日 | 小さな旅
kan-haru blog 2011 大藤            
< 総合INDEX へ

5月ゴールデンウイークに咲き誇る花といえば、つつじとふじです。つつじの観賞は、神木山等覚院(つつじ寺)(「風景・風物誌 つつじと森林浴 神木山等覚院(つつじ寺)と県立東高根森林公園」参照)と館林のつつじが岡公園(「小さな旅 世界一のつつじと鯉のぼり 館林のつつじが岡公園と文福茶釜の茂林寺に芝桜の遊覧その1、2」参照)と2年続けて見に行っています。藤の観賞は10年以上も前に、亀戸天神の藤を見ただけです。
天然記念物 600畳の大藤と盛んに宣伝しているので、ゴールデンウイーク5月5日の子供の日に館林の先のあしかがフラワーパークに大藤を見に行きました。

あしかがフラワーパーク

東武伊勢崎線による館林方面の旅は2年振りで、足利への往復は連休中ですので座席が確保できる特急を利用して、往路は浅草発9時40分のりょうもう7号を利用しました。浅草を出て10時54分足利市に到着すると、祝祭日の駅前にはあしかがフラワーパーク行きのシャトルバスが待っており、20分でフラワーパークの駐車場へと運んでくれます。

 フラワーパーク地図

駐車場から県道67号を渡り、メゾン緑の森の細い道を進み、突き当りを右に曲がりJR両毛線のガードを潜るとあしかがフラワーパークのメインゲートです。

 フラワーパーク・パンフレット

あしかがフラワーパーク(栃木県足利市迫間607)は、早川農園が1996年2月に大藤4本を現在地に移植し、1997年(平成9年)の春に開園しました。開園時間と入園料は、季節や花の咲き具合により変動し、5月5日の入園料は7:00~17:30までが大人1700円、子供800円で、17:30~21:00までが大人1500円、子供700円です。足利市駅に置いてあるパンフレットには、100円引き券が付いています。

 フラワーパーク入園券

入場ゲート前の花壇は、満開の季節のふじの花が盛り沢山で迎えてくれています。

 入場ゲート

当日の天候は薄曇りで気温はやや低めですが、風が無く園内を歩くのには絶好の花見日和でした。

 園内施設

ゲートを入り、フラワーステージの右側の園路を見事なふじの花を見ながら進みました。

 園内フラワーステージ右側の道を進む(左:園内を気が向くままに進む、右:三叉路に出ると左手は大藤)

・大藤
栃木県指定天然記念物の野田九尺藤の大藤棚は満開を迎えたところです。樹齢145年でたたみ600畳に広がった大藤は見事なものです。

 大藤1(写真拡大)

足利の藤(野田の九尺藤)は、足利市朝倉町の早川農園で育成され、1996年2月に移植された時は50畳であり、現在は幹廻りが4.05mで、南北が36.3mに、東西が33.4mに拡大して、花房の最長が1.8mあります。

 大藤2(写真拡大)

・白藤のトンネル
大藤の右側は白藤のトンネルです。5日は白藤のトンネルの白藤は、見ごろにはまだ少し早いようです。白藤は、樹齢が80~90年で、1997年の開園時に庭木仕立てのフジ25本を左右に植えてトンネルを造作したものです。白藤のトンネルは、長さが76.5mあり、高さが2.7mで、花房が50cmです。

 白藤のトンネル(写真拡大)

なお、白藤のトンネルの左側面の白藤は、トンネル棚の藤の花より開いておりました。藤の花の咲く順序は、"うす紅"に始まり、"むらさき"、"白"から"きばな"に移り行きます。

 トンネルの外側の白藤(写真拡大)

・八重黒龍藤
白藤のトンネルを左にそれてモネの池に沿って進むと、池の突き当りに大変珍しい八重咲の栃木県指定天然記念物の八重黒龍藤の棚があります。遠方から見る藤の姿はブドウ棚の様に見えます。

 八重黒龍藤1(写真拡大)

大藤と同時に1996年移植され、樹齢は140年で、現在500畳の広さの花を付けています。現在は幹廻りが2.5mで、南北が34.5mに、東西が25.4mに拡大して、花房が30cmあります。

 八重黒龍藤2(写真拡大)

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(5月分掲Indexへ)
カテゴリー別Index 小さな旅総目次 2009~2011年版2006~2009年版
<前回 小さな旅 勝海舟 牛島で修行し赤坂・洗足池と移り、西郷と会見で江戸無血開城戦禍から救う その2 へ
次回 小さな旅 600畳の大藤 天然記念物指定樹齢145年を越える大藤棚のあしかがフラワーパークその2
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さな旅 勝海舟 牛島で修行し赤坂・洗足池と移り、西郷と会見で江戸無血開城戦禍から救う その2

2010年07月05日 | 小さな旅
kan-haru blog 2010 池上本門寺松濤園の西郷・勝会見の碑 

< 総合INDEX へ

勝海舟は本所の牛島神社で剣術の稽古に励み、18歳で禅を弘福寺で学び、1845年(弘化2年) 23歳で赤坂溜池の筑前黒田藩邸に通って永井青崖について蘭学を学び、同年岡野孫一郎の養女民子(砥目氏の娘)と結婚しました。
翌1846年(弘化3年)に、所帯を持ったことを機に本所(墨田区)から赤坂田町に転居して、活動の場を移し赤坂(港区)で終生を過ごしました。晩年には葛飾区東四ツ木一丁目と洗足池畔の大田区南千束一丁目に別邸を設け、墓は別邸そばの洗足池に面して造られました。

 赤坂に住居の3か所の勝海舟邸江戸地図(①:最初に本所から転居した借家、②:長崎から江戸に戻った2度目の赤坂元氷川町邸、③:静岡より帰京して元旗本屋敷を買い取った3度目の邸宅 goo今井谷六本木赤坂萬延二年景山致恭図)

勝海舟の銅像
・墨田区役所
江戸本所亀沢町で生誕した勝海舟のゆかりの地の墨田区では、墨田区役所内に勝海舟コーナーを設け、勝海舟の偉業を称え、墨田区民の皆さんを中心に「海舟の功績を後世に残すために全身像を建てよう」という機運が高まり、全国規模で賛同者から銅像建設のための募金が集められ、銅像が市民グループ「勝海舟の銅像を建てる会」により建立されています。墨田区役所には、所用の際の5月6日に立ち寄って見ました。
墨田区役所(墨田区吾妻橋1-23-20)では、毎年3月10日を前に東京大空襲の犠牲者への追悼と平和への祈りを込めて、ボランティアの協力で作られた折り鶴約13万羽の「平和のオブジェ」が、ロビーの壁面(高さ約13メートル、幅約7.5メートル)に飾られます。また、ロビーには現在建設が進められている東京スカイツリーの模型が置かれてあります。

 墨田区役所(:墨田区役所、:墨田区役所平和のオブジェ、:墨田区役所スカイツリーの模型)

区役所の1階展示室には、歴史的文化的な観光資源としての勝海舟銅像について普及・PRを図るとともに、勝海舟の事積等を紹介することを目的に、勝海舟コーナーが開設されており、咸臨丸模型(縮尺1/50)、銅像レプリカやパネルなどが展示されています。

 勝海舟コーナー(:勝海舟銅像と咸臨丸レプリカ、:勝・西郷会見、:パネル展示)

勝海舟の銅像は、生誕180年を迎えた2003年7月21日に区役所のうるおい広場に建てられ、除幕式が行われました。建立のきっかけは、鵜沢義行・日大名誉教授が平成11年に区教委主催で開いた「墨田区と勝海舟」講座で、「江戸を戦火から救い、今日の東京の発展と近代日本の舵取りをした。銅像がないのは寂しい」と話した講演後、約20人の聴衆が像建立の寄付を申し出たのが発端で、その後「勝海舟の銅像を建てる会」立ち上がり800人以上から約4900万円の寄付が集まりました。銅像は、地元で育った彫刻家の木内礼智・東京家政大名誉教授が制作し、高さは255㎝で江戸城無血開城の時の40代当時の勝を描いたものです。

 勝海舟銅像(写真拡大)

赤坂での勝海舟
赤坂に移ってからの勝海舟の活動を年表から拾うと、23歳で所帯を持った勝海舟は、赤坂田町中通り(現赤坂3-13-2のみすじ通り)の借家に住み、当初は日蘭辞書(ツーフハルマ)の筆書を2部作り、1部は売却した。28歳で私塾を開き蘭学と西洋兵学を教えました。
・赤坂元氷川町邸時代
33歳の1855年(安政2年)に長崎海軍伝習を命じられ長崎に向かい、翌年には講武所砲術師範役となり咸臨丸で航海などをして、1859年(安政6年)37歳で江戸に戻り赤坂元氷川町に転居しました(「小さな旅 竜馬と赤坂 竜馬の足跡を追い赤坂本氷川坂の勝海舟邸跡を歩く(その2)」参照)。
江戸に戻るとアメリカ派遣を命じられ、38歳の1860年(万延元年)の正月13日に咸臨丸で品川を出航して2月25日にサンフランシスコに到着する。同3月18日にサンフランシスコを出航して5月に江戸に帰りました。1862年(文久2年)軍艦操練所頭取となり、このころ海舟を刺殺しようとして訪れた坂本龍馬などに、世界情勢を説いて決意を変えさせて門下生として育て、明治維新への流れに重要な転機を与えることになったのもこの邸宅でした。42歳の1864年(元治元年)に軍艦奉行となり、従五位下安房守に叙せられる。
1866年(慶応2年)8月に、一橋慶喜より長州藩との休戦を調停する密命を受け、安芸宮島で長州藩広沢真臣らと会談して休戦を協定する。1868年(慶応4年)の46歳で陸軍総裁となるも、免じられて軍事取扱いを命じられました。

・勝海舟と西郷隆盛の会見
1868年(慶応4年)、官軍が江戸総攻撃を3月15日に予定するなか、第一回の会談は徳川側の勝海舟が高輪の薩摩藩邸(現港区高輪三丁目のホテルパシフィック)を訪ね、東征軍参謀の西郷隆盛と会見し、江戸城開城の手筈と徳川宗家の今後などについての交渉が行われました。

 高輪の薩摩藩邸

第二回の会談は三田海岸の薩摩藩邸屋敷の表側にある民家(現港区五丁目の三菱自動車ビル)で行われました。

 薩摩藩蔵屋敷と薩摩藩田町藩邸江戸地図

この結果、江戸無血開城が決定され、戦火から江戸の町と百万市民の生命を救うことができました。
この会談の後も戌辰戦争は続いたが、勝海舟は、旧幕府方が新政府に抵抗することは反対だった。その理由は,一旦は戦術的勝利を収めても、戦略的勝利を得るのは困難であると考え、内戦が長引けばイギリスが支援する新政府方と、フランスが支援する旧幕府方で、国内が二分される恐れがあること等が理由である。(墨田区勝海舟コーナーから)

 西郷・勝会見の地(左上:三菱自動車ビル前の西郷・勝会見の地碑、中上:西郷・勝会見の地碑の裏面、右上:西郷・勝会見の図、左下:西郷・勝会見の地説明案内、中下:JR田町駅の西郷・勝会見の図、右下:JR田町駅の西郷・勝会見の説明板)

同4月11日に江戸城の引き渡しが行われました。この時の会見の場所が、池上本門寺の松涛園であるとの説があります(「風景・風物詩 池上松涛園 西郷隆盛・勝海舟の江戸城開場会見の名園 その2」参照)。石碑は西郷隆盛の甥にあたる西郷従徳の揮毫で1941年(昭和16年)に建てられたものです。
同9月8日に改元して明治元年となり、10月に東京を離れて駿府に向かう。

 池上本門寺松濤園案内図

・赤坂氷川町4邸宅
1869年(明治2年)に安房守を安芳と改め、安芳を本名とする。1872年(明治5年)の50歳の時静岡より帰京して、赤坂氷川町4(現赤坂6-6-14)元旗本屋敷を買い取った邸宅に移転しました(「小さな旅 竜馬と赤坂 竜馬の足跡を追い赤坂本氷川坂の勝海舟邸跡を歩く(その1)」参照)。
1879年(明治12年)57歳の時、木下川浄光寺境内に西郷隆盛追悼の自筆の碑を建立し、後に洗足池の別宅の傍に移設する(「小さな旅 大田区と竜馬 池畔に別荘を構え勝海舟墓所のある洗足池を歩く その2」参照)。
1883年(明治16年)に西郷隆盛の名誉回復運動を行い、翌年に西郷隆盛の名誉を回復する。
65歳の1887年(明治20年)に伯爵となり華族に列する。1891年(明治24年)に洗足池畔に別邸を建築して洗足軒と名付けました。
1899年(明治32年)1月19日に77歳で赤坂の自宅で死去し青山墓地で葬儀が行われ、同25日に洗足池畔の墓地(「小さな旅 大田区と竜馬 池畔に別荘を構え勝海舟墓所のある洗足池を歩く その1」参照)に葬られました。

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(7月分掲Indexへ)
カテゴリー別Index 小さな旅総目次 2009・2010年版2006~2009年版
<前回 小さな旅 勝海舟 牛島で修行し赤坂・洗足池と移り、西郷と会見で江戸無血開城戦禍から救う その1 へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さな旅 勝海舟 牛島で修行し赤坂・洗足池と移り、西郷と会見で江戸無血開城戦禍から救う その1

2010年07月03日 | 小さな旅
kan-haru blog 2010 墨堤常夜燈  

< 総合INDEX へ

龍馬シリーズも立会川、赤坂、洗足池と進み、今回は本所で生誕した勝海舟が向島で剣術と禅の修業し、三田の薩摩藩蔵屋敷で西郷と会見した場所までを追ってみました。

勝生誕の地
勝海舟は、1823年(文政6年)に江戸本所亀沢町で、父小吉の実家の旗本の男谷家で誕生し、勝家に養子に出され24歳までは本所入江町で暮らしていました。西郷吉之助書の『勝海舟生誕之地』の碑は、両国公園(墨田区両国4-25) 内に建立されています。碑文には、「勝海舟先生は幼名を麟太郎と稱し文政6年1月晦日この地男谷家邸内に生まる。剣は島田虎之助に師事し蘭學海洋術を學び安政7年咸臨丸艦長として渡米す。明治元年3月13日高輪薩摩邸に於いて西郷隆盛と會談。官軍の江戸進撃を中止させ江戸百萬の庶民を戰禍より救い東京都繁栄の基礎となせり。明治32年1月19日赤坂氷川の自邸に於いて歿す。明治百年を記念しこの碑を建つ」と書いてあります。(「小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その4」参照)。

 勝海舟生誕地と居住地(goo地図(江戸切絵図)嘉永新鐫本所絵図から再掲)

・勝海舟の胸像
1774 年(安永3年)5月11日に、下総之国葛飾郡本所横川町の旗本能勢筑前守頼直の江戸下屋敷内に創建した能勢妙見堂(墨田区本所4-6-14)は、勝海舟の胸像が建立されています。この能勢妙見堂は、子母澤寛の小説では、「勝海舟こと幼き勝麟太郎が九つの時、狂犬に襲われ、睾丸の片方を食いちぎられ、医師さえ諦めた、生死を彷徨う息子を、父、勝小吉が能勢妙見堂で水垢離をして祈り、三日三晩抱きしめて、体温を上げ続けて、どうにか助けたとあります。」(「小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その5」参照)。

 能勢屋敷妙見堂江戸地図(goo地図(江戸切絵図)嘉永新鐫本所絵図から再掲)

・弘福寺
勝海舟は、実父小吉の本家で従兄弟の男谷精一郎の道場で、後に精一郎の高弟島田虎之助の道場(浅草新堀)に住み込んで剣術習い、夜は牛島神社で寒稽古に励み、直心影流の免許皆伝となりました。また、師匠の虎之助の勧めにより弘福寺で禅も学びました。
海舟が稽古に励んだ牛嶋神社は、本所の総鎮守で創建は860 (貞観2年)と伝えられ、墨堤常夜灯の下の大銀杏のある場所(向島須崎町)にありました。現在は、関東大震災後の隅田堤の拡張により1932年(昭和7年)に墨堤常夜灯から500m南の現在地に移動しました(「小さな旅すみだ郷土文化資料館と墨田川江戸流しびな」参照)。

 弘福寺江戸地図(goo地図(江戸切絵図)安政新判隅田川向嶋絵図から)

今まで隅田川のすみだ郷土文化資料館より北方の弘福寺付近は歩いたことがなかったので、7月1日に勝海舟に因んで墨堤常夜灯などの墨堤の史跡と桜橋から見たスカイツリーを眺めながら散策してきました。弘福寺へは、都営浅草駅から江戸通りを進み、言問橋を渡り牛嶋神社の北の水戸街道の手前の道を北進して三囲神社脇を通り、向島5丁目に入ると右側に中国風の重層の建築は唐様の山門の弘福寺です。

 弘福寺付近地図

弘福寺(墨田区向島5-3-2)は、東京都墨田区にある黄檗宗(おうばくしゅう)の大本山である宇治の黄檗山万福寺の末寺で, 1673年(延宝2年)に名僧鉄牛禅寺(てつぎゅうぜんじ)によって創建したと伝えられている日蓮宗で、本尊は釈迦如来が祀られています。

 弘福寺(写真拡大)

堂宇は関東大震災で焼失し、現在の建物は1933年(昭和8年)に再建されたものです。弘福寺の鐘楼にかかる梵鐘は、高さ117.0センチメートル、口径63.4センチメートルで1688年(貞享5年)6月に鋳造されたもので、『江戸名所図会』などにも登場するよく知られた梵鐘です。

 堂宇(:本堂、:鐘楼) 

境内の祠には、「咳の爺婆尊」と呼ばれる二つの石像が並び、修行中の風外禅師が、父母の姿を彫って孝養した石像と云われ、「風外」という作者名から風邪に効くと言われるようになり、ぜんそくや咳を治すという信仰が生まれました。

 爺婆尊(写真拡大)

・長命寺の桜餅
弘福寺の隣の長命寺(墨田区向島5-4-4)は、隅田川七福神の弁財天が祀られています。三代将軍徳川家光が、鷹狩にて腹痛に見舞われた際、寺内の井戸水で薬を服用し快癒しました。これにより井戸水は長命水の名を授けられ、寺号も長命寺となりました。長命寺は言問幼稚園が併設され、正門はウイクデーの園児の在園時間帯は入りにくい雰囲気でしたので、歌碑、俳句碑等の石碑が沢山あるのですが参拝は見送りとしました。
長命寺の桜餅(墨田区向島5-1-14)は、1717年(享保2年)初代山本新六が隅田川土手の桜の葉を集め、塩漬けにして桜餅を考案、向島の名跡長命寺の門前にて売り始めてそれから二百八十年余、隅田堤の桜と共に名物となりました。通常の桜餅は、桜の葉1枚をですが、長命寺の桜餅の桜の葉は3枚使用します。

 長命寺(:長命寺、:長命寺桜もち)

・野口雨情の文学碑
長命寺から墨堤に出ると、野口雨情の文学碑があり、碑には「都鳥さへ夜長のころは水に歌書く夢も見る」とあり、墨田区の立札の解説には
「ここに刻まれた都鳥の詩は、日本童謡民謡の先駆、巨匠野口雨情氏が、昭和8年、門下生の詩謡集の序詞執筆のため当地に来遊の折、唱われたものである。東京都民の心のふるさとである隅田川ぞいを飾るにふさわしい作品として、記念碑に刻し、永遠に保存する。 昭和63年10月9日 墨田区」とあります。

 野口雨情の文学碑

・墨堤植桜之碑
1877年(明治20年)に建てられた約3メートルの巨大な石碑です。向島に在住した榎本武揚揮毫による篆額、浜邨大■(はまむらたいかい)の文と撰によります。当初、この碑は言問亭(現言問団子)の西南の岸辺に建てられましたが、水害等のために1896年(明治29年)8月に現在の位置に移されました。
墨堤は、『江戸名所花暦』に「江戸第一の花の名所」と称された桜の景勝地です。堤に初めて桜を植えた来歴から大水による被害、地元住民たちの植桜による墨堤の再生などを含めた墨堤の歴史と、今後末永く保存し、顕彰したい願いが朗々と刻まれています。明治時代始めに、桜の樹齢である60年から70年までに重なり桜が枯れたため、この状況を憂えた大倉喜八郎が、その再生を成島柳北に呼びかけ、一千本の桜を植えました。これがきっかけとなり、安田善次郎などの財界人をはじめ村人までもがひとつとなり、石碑の建立が成し遂げられました。(すみだウエブサイトから)

 墨堤植桜之碑(:墨堤植桜之碑説明)

・墨堤常夜燈
この常夜燈は、1871年(明治4年)に牛嶋神社の氏子たちによって奉納されたものです。対岸の料亭も含めて、料亭29軒、個人50名以上の名前が刻まれています。この中には、当時有名だった料亭の植半・八百松・武蔵屋を始め、現在も続く駒形どぜう・言問団子・長命寺の桜餅なども名を連ねています。建立以降、三度の改築・修繕を経て今日に姿をとどめています。
かつては牛嶋神社の境内地、土手から神社へ下る坂の入口に建てられたようです。隅田川を往来する川舟のための灯台としてその安全を祈るとともに、墨堤の燈明も兼ねていました。関東大震災の後、牛嶋神社が移転したため、常夜燈だけが元の位置のまま今日まで残りました。
石燈籠としては琴柱(ことじ)形の脚部をもつ独特の形で、明治時代の画家たちは、好んで墨堤の桜と常夜燈を組み合せることで、向島の風情を描き出していました。(すみだウエブサイトから)

 墨堤常夜燈(:墨堤常夜燈説明)

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(7月分掲Indexへ)
カテゴリー別Index 小さな旅総目次 2009・2010年版2006~2009年版
<前回 小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その5 へ
次回 小さな旅 勝海舟 牛島で修行し赤坂・洗足池と移り、西郷と会見で江戸無血開城戦禍から救う その2 へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その5

2010年06月28日 | 小さな旅
kan-haru blog 2010 東京都復興記念館  

< 総合INDEX へ

最終回その5では、JR両国駅北側の史跡を散策しました。先ずは、歴史的に古い順に回り、勝海舟の病気平癒のため父小吉が水ごりをとった能勢妙見堂から開始します。

 両国北側散策地図

能勢妙見堂
能勢妙見堂(墨田区本所4-6-14)は、大阪能勢妙見山の別院として、1774 年(安永3年)5月11日に、下総之国葛飾郡本所横川町の旗本能勢筑前守頼直の江戸下屋敷内に創建して、妙見堂を建立して摂津ノ国妙見山より妙見尊像を分祀したものです。妙見堂は、大震災で大伽藍が焼失し境内を縮小して1930年(昭和5年)に再建がなったが、戦災により堂が再び灰燼に帰し1968年(昭和43年)に地元町内有志の浄財により復興しました。二度の火災により宝物は焼失しましたが、妙見尊像は難をのがれて御内陣に奉安されています。境内に鴎大善神の祠があり、その能勢の黒札は、江戸時代より魔よけの御守としてとして有名です。

 能勢屋敷妙見堂江戸地図

本堂に掲げてある略縁起には、勝海舟の父小吉が開運勝利のため水行をとって、祈願した経緯が書かれています。
能勢妙見堂へは、JR両国駅から清澄通りを北に進み蔵前橋通りを曲がり東に向かう、三ッ目通り交差点で北に進み、本所4丁目交差点の道路を右に曲がり3つめの交差点の左角が妙見堂の山門です。

 能勢妙見堂山門(写真拡大)

山門を潜ると左に能勢の黒札を授与する鷗稲荷大善神が祭祀されています。本堂を挟んで水神堂と手水舎があります。

 妙見堂境内(:かもめ稲荷、:水神堂、:手水舎)

中央本堂に吊るされている提灯には妙見山別院とあり、本殿前には阿吽の蹲踞の姿勢狛犬があるが、奉献年や石工名など不明です。毎年2月15日には正中山大荒行像出仕水行国禱会が行われます。

 本堂と狛犬(写真拡大)

稲荷堂の左の南側の塀の近くには、勝海舟晩年の胸像が建てられています。胸像の説明板には、『勝海舟九歳の時大怪我の際妙見大士の御利生により九死に一生を得その後開運出世を祈って大願成就した由縁の妙見堂の開創二百年を迎へ海舟翁の偉業を永く後生に伝えるため地元有志に仍ってこの胸像が建てられた 昭和四十九年五月十二日』と書かれてあります。

 勝海舟胸像(写真拡大)

復興記念館
・関東大震災
横網公園(墨田区横網2-3)は、もともと陸軍被服廠のあった場所で、1923年(大正11年)に陸軍から東京市が譲り受け公園の工事を進めていたおり、1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が発生し、更地になっていたため本所周辺の関東大震災の被災者が大勢避難していたところに、火災旋風により火の粉が運び込まれた家財道具などに飛び火し、炎の竜巻になって瞬く間に燃え広がり、3万8千人もの人々が焼死した場所です。震災による行方不明者を除く死亡者が確認できたのが東京市内で7万4千人であるので、この狭い公園の一角だけでその半数以上のを占めた大災害でした。
震災復興記念館は、関東大震災からの復興事業を記念するために、 震災記念堂(現:東京都慰霊堂)の付帯施設として建設されたもので、 1930年(昭和5年)9月に起工し、1931年(昭和6年)4月竣工、 1933年(昭和8年)8月に東京市に寄贈されました。
震災復興記念堂内には、当初陳列室を設けて被害品などを展示する予定でしたが、1929年(昭和4年)に帝都復興博覧会の開催で多くの資料が集まり、計画を変更して記念館の建設となりました。戦後に、戦災遭難者のご遺骨が慰霊堂に奉安されましたので、復興事業に関する諸資料を保存展示するとともに、 戦災関係の資料なども陳列されています。

 「関東大震災」小冊子

復興記念館へは、JR両国駅から清澄通りを北に進み、横網公園を入ると公園の北側にあります。

 復興記念館(写真拡大)

記念館の入館は無料で、1階が震災当時の記録写真や被害写真などが陳列されており、2階には絵画・帝都復興展での展示模型・復興資料の他、戦災関係資料・写真や各地の地震災害写真などが展示されています。

 記念館展示室(写真拡大)

なお、関東大震災の各地災害写真が、国立科学博物館のネットの「国立科学博物館地震資料館」の「関東大地震写真」で公開されておりますので、ご参照下さい。公開写真の本所・深川方面の本所安田邸跡の写真は、東京都復興記念館でこの立木とトタン板をそのままに保存されています。

 復興記念館で保存の立木とトタン板[左]と大震災時の撮影写真[右]

慰霊堂
・太平洋戦争大空襲
慰霊堂(墨田区横網2-3)は復興記念館の南にあり、関東大震災の後東京市内の災害の最も悲惨であった被服廠跡に、遭難者のご遺骨を納める霊堂として建てられ、「震災記念堂」と名付けられ、毎年9月1日の震災記念日に慰霊法要を執り行ってきました。
ところが、1944年の冬から首都東京は、太平洋戦争の大空襲により終戦までに延べ102回の爆撃により、処置した遺体の数は10万5千体を越え、不明のものを加えるとさらに大きな数にのぼります。

 「東京大空襲の記録」小冊子

関東大震災は突如として起こった天災でしたが、1945年3月10日の江東、墨田、台東、中央の下町各区空襲では、2時間半の絨毯爆撃で大小18万9590個の油脂焼夷弾による、市街地無差別攻撃により8万3千人の人が生命を失いました。4月15日には大森、蒲田の城南地区が空襲を受け、5月24日には中野、杉並などが焼野原と化しました。
大森地区の空襲被害の記録は、このブログの若山武義氏の手記を掲載してありますので、ご閲覧下さい。また、「63年前の東京大空襲傷痕 浅草、本所、深川の戦跡をめぐり平和を祈願する その1~4」の慰霊堂祈願の記事や、「東京大空襲資料展 64年前の3月10日は無差別爆撃で浅草、本所、深川の下町が大惨禍」の記事を掲載してありますのでご参照ください。
戦後、都内各地に仮埋葬されていた遭難者のご遺骨をこの堂に奉安し、1951年9月に名称を「東京都慰霊堂」と改め、空爆による被害が最も大きかった昭和20年3月10日の惨禍を偲び、毎年3月10日にも慰霊大法要が行われるようになりました。

 東京都慰霊堂(写真拡大)

・墨田電話局慰霊碑
三ツ目通りに面したNTT石原ビルの庭に、白い慰霊碑が立っています。1958年(昭和33年)3月10日に建立されたこの碑は、大空襲の夜に業火の中で最後まで電話交換の職務を遂行した殉職者を慰霊しています。当時の電話交換手は主に十代から二十代の若い女性でしたが、爆撃下でも重要な通信施設を守り抜くよう軍から要請されていたため、周囲が火に包まれても職場を放棄せず、最後までブレストと呼ばれる送受器を握り続けて殉職しました。
「由来
この慰霊碑は、昭和二十年三月十日未明の大空襲により当地一帯が焼野原と化した際、電話局も全焼し前夜から勤務していた十五歳を最年少とする電話交換手二十八名及び男子職員三名が最後まで職場を守り殉職された。職員の霊と、関東大震災において殉職された男子職員二名の霊を慰めるとともに、二度とこのような悲劇の起こらないことを祈願して昭和三十三年三月十日に建立されました。
慰霊碑右手前には吉川英治氏の自筆による碑文があります。
 昭和五十九年三月十日  墨田電話局」

 墨田電話局慰霊碑(写真拡大)

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(6月分掲Indexへ)
カテゴリー別Index 小さな旅総目次 2009・2010年版2006~2009年版
<前回 小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その4 へ
次回 小さな旅 勝海舟 牛島で修行し赤坂・洗足池と移り、西郷と会見で江戸無血開城戦禍から救う その1 へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その4

2010年06月25日 | 小さな旅
kan-haru blog 2010 勝海舟の生誕記念碑のある両国公園 

< 総合INDEX へ

今回その4では、前回までの回向院、旧国技館および吉良邸跡に続いて、両国東西に通る京葉道路と南に並行した竪川に挟まれた史跡の町を、さらに歩いて周りました。

 両国旧跡説明地図

小林一茶の旧居跡
小林一茶の旧居跡(墨田区緑1-3-4)付近は、1661年(寛文元年)に茶屋長意の拝領地となりましたが、すぐに上地された後の1687年(元禄元年に)に再度拝領地となりました。そして1694年(元禄7年)に御米蔵入堀常凌請負人拝領地が加わりましたが、1697年(元禄10年)に深川元町・六軒堀代地となって、初めて相生町5丁目(現墨田区緑1)と呼ぶようになりました。
小林一茶は、相生町5丁目に1804年(文化元年)から、祖母の33回忌に故郷に帰るまでの5年ほどを過ごしていました。
一茶は、1763年(宝暦13年) 信濃北部の北国街道柏原宿(現長野県上水内郡信濃町大字柏原)の農家に生まれ、本名を弥太郎といいました。3歳の時に母が亡くし、義母には馴染めず江戸へ奉公に出されました。奉公先を点々とかえながら、20歳を過ぎたころに、俳句の道をめざし、葛飾派三世の溝口素丸、二六庵小林竹阿、今日庵森田元夢らに師事して学びました。一茶は、江戸蔵前の札差夏目成美の句会に入って指導をうける一方、房総の知人・門人を訪ねて俳句を指導し、生計をたてました。貧乏と隣り合わせのくらしでしたが、俳人としての一茶の評価は高まっていきました。
一茶の住んでいた旧居跡へは、吉良邸跡の四つ角を南に進み、突き当りの道を左に曲がり、清澄通りを越えて行くと道路角の右側に小林一茶の標識が建っています。
標識の一面には、『一茶は、宝暦十三年(一七六三)五月、柏原宿(長野県信濃町)で、農家の長男として生まれました。十五歳の時、江戸へ出てきて苦労を重ねながら、一流の俳人となります。「我と来て遊べや親のない雀」の句等、人々に愛される独特な句風でした』とあり、反対の面には『彼の二十九年に及ぶ江戸生活の中で、文化元年(一八〇四)から足掛け五年間住んだこの相生町の借家が一番安定したすまいでした。故あって帰郷している間に他人に貸されてしまい、その後は、再び弟子や後援者の家を泊まり歩く漂泊の身となります。 昭和六十五年 墨田区』とあります。

 小林一茶の旧居跡(左写真拡大)

勝海舟生誕の地
勝海舟は、1823年(文政6年)に江戸本所亀沢町で、父小吉の実家の旗本の男谷家で誕生しました。本名は義邦ですが、幼名および通称は麟太郎と呼ばれていました。父小吉は三男であるため、男谷家から勝家に養子に出されました。勝家は小普請組という無役で小身の旗本でした。

 勝海舟生誕の地(goo地図(江戸切絵図)嘉永新鐫本所絵図から)

勝海舟生誕の地へは小林一茶の旧居跡から戻り、清澄通りを越えて2本目の通りの4つ角を右に曲がり進むと両国公園があり、公園内の東側に勝海舟の生誕記念碑がひっそりと建てられています。

 勝海舟生誕之地(:勝海舟生誕之地の碑、:由来碑、:勝海舟生誕の地説明板)

生家の男谷家で7歳まで過ごした後は、24歳で赤坂へ転居するまでは本所入江町(現在の墨田区緑4-24)で暮らしました。

 勝海舟生誕地と居住地(goo地図(江戸切絵図)嘉永新鐫本所絵図から)

芥川龍之介生育の地
芥川龍之介は、1892年(明治25年)3月1日に東京市京橋区入船町8丁目(現中央区明石町)に牛乳屋を営む新原敏三、フクの長男として生まれました。生後7ヵ月後頃に母が精神に異常をきたしたため、東京市本所区小泉町15番地(両国3-21-14)にある母の実家の芥川家に預けられ、伯母フキに養育されて、11歳の時に母が亡くなりました。翌年に叔父芥川道章(フクの実兄)の養子となり芥川姓を名乗ることになりました。
芥川家は代々江戸城の御数寄屋衆を勤めた旧家でした。道章は俳句や盆栽に親しむとともに、南画をたしなみ、また一家をあげて一中節を習い、歌舞伎を観る等、江戸趣味の濃い家庭でした。
龍之助は1897年(明治30年)に江東(えひがし)小学校(両国小学校) 付属幼稚園に入り、1905年(明治38年)小学校を卒業し高等科2年を修了。東京府立第三中学校(現両国高校)に入学しました。処女作の『大川の水』は江戸情緒が残るこの地で育ったことと深い係わりを示すものです。

 芥川龍之介生育の地(本所区小泉町15番地goo明治時代地図)

芥川龍之介生育の地は、京葉道路北側のサンクスの前に「芥川龍之介生育の地」の案内があります。

 芥川龍之介生育の地(写真拡大)

芥川龍之介が通った両国小学校(両国4-26-6)の正門前の道に面した角に芥川龍之介文学碑が建っています。碑には「杜子春」の一説が刻まれています。
『―――お前はもう仙人になりたいといふ望も持ってゐまい。
大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。
ではお前はこれから後、何になったら好いと思ふな。」
「何になっても、人間らしい、正直な暮らしをするつもりです。」
杜子春の聲には今までにない晴れ晴れした調子が罩(こも)つてゐました。
「杜子春」より』

 芥川龍之介文学碑(:文学碑、:両国小学校を訪れた日は授業参観日でした)

時津風部屋
両国周辺には相撲部屋が17を数えます。今回の散策エリアの中にも、芥川龍之介文学碑の道沿いに並んで時津風部屋があります。最近、野球賭博恐喝で警視庁の調査が行われており、7月の名古屋場所の開催が未定であるという不祥事が発生しており、国技と称している両国相撲界隈が影を落としています。今回の散策で時津風部屋の前を通りましたので、写真のみ掲載します。

 時津風部屋(写真拡大)

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(6月分掲Indexへ)
カテゴリー別Index 小さな旅総目次 2009・2010年版2006~2009年版
<前回 小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その3 へ
次回 小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その5 へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その3

2010年06月22日 | 小さな旅
kan-haru blog 2010 本所松阪町跡石碑 

< 総合INDEX へ

旧国技館跡
回向院の表門に戻り京葉通りに出ると、その東隣にはオフィス棟・住宅棟・スポーツ棟の3棟からなる複合施設で、劇場・ギャラリー・飲食店にスポーツジムなどがある「両国シティコア」があります。回向院表門付近の柵塀外側の両国シティコア内に、ひっそりと旧国技館跡の高札が建っています。

 現「両国シティコア」の旧国技館跡(旧国技館跡は現在「両国シティコア」:、:旧国技館跡の高札、:旧国技館跡の説明板)

昔は、両国シティコアの敷地は回向院の境内であり、1768年 (明和5年)から76年間にわたり勧進相撲興行(その2参照)が行われていました。江戸時代の本所回向院の全国有名寺院の出開帳は人々を集め、隅田川の花火大会は夏の風物詩として江戸っ子を賑わせました。江戸が首都としての機能が高まり力士を抱える大名の多くが江戸詰めとなり、江戸相撲も民衆が集う両国で頻繁に行われるようになり、谷風・小野川時代、雷電時代の人気を得て、両国は江戸相撲の代名詞となりました。

 回向院境内の勧進相撲

徳川幕府が倒れて、相撲協会は江戸時代の旧弊を改め角界の近代化に努め、それまでは相撲のできる常設館がなく、野天の仮小屋で『蒙御免晴天十日間』という立看板で回向院の境内で、順延しながらのんびりと行っていました。
常設館建設の念願は、1906年(明治39年)の年一月場所後に具体化し、同年6月に28万円の巨費を投じて回向院境内で着工して、1909年(明治42年)5月に竣工し、同年6月に開館式が行われました。
旧国技館は、日本銀行や東京駅などを手掛けた有名な辰野金吾博士と葛西万司氏との共同設計で、千五百坪の敷地内に九百六坪五合の建坪に半楕円形の鉄骨を合掌させて直径約二百尺(60m余)、高さ八十尺(24m位)の円形の屋根のデザインで、館内の北正面に貴賓席を設け、一般観覧席は土間から四階までの席がありました。国技館の命名は、開館式の案内状に「相撲は日本の国技なり」と書いたことで、当時の年寄尾車(元大関・大戸平)提案した「国技館」となりました。

79 国技館
79 国技館 posted by (C)ヤスフロンティア
 明治44年新橋堂発行(東京市京橋区出雲町1)東京名所絵ハガキ フォト蔵 

東京新名所となった旧国技館は、失火により1917年(大正6年)と1923年(大正12年)の関東大震災で全焼しその都度再建されたが、1944年(昭和19年)の空襲により3度も焼失しました。 戦後は米軍に接収され、返還後は日大講堂として利用されていましたが、1983年(昭和58年)に解体されました。

 旧国技館と日大講堂

吉良邸跡
吉良邸跡は回向院から京葉道路を東に向かい、交差点を南に折れて交差点を左に進むと、十字路の左角のなまこ壁に囲まれた本所松坂町公園が吉良邸跡(両国3-13-9)です。

 吉良邸跡地図

本所松坂町公園は、1934年(昭和9年)3月地元両国3丁目町会有志が発起人となり、旧吉良邸内“吉良の首洗い井戸”を中心に土地を購入し、東京市に寄付したものです。2550坪と広大だった吉良家上屋敷の約86分の1のミニチュアながら、なまこ壁が往時をしのばせます。

 吉良邸跡(:吉良邸跡入り口、:赤穂義士遺跡吉良邸跡石碑、:本所松坂町公園由来説明版)

吉良邸は、浅野匠頭守による殿中刃傷事件の後の1701年(元禄14年)9月3日に吉良上野介義央が当地を拝領して建設された吉良家の上屋敷で、義士の討入りがあって没収されたのが元禄16年2月4日ですから、吉良家の上屋敷となっていたのは、前後1年半に満たない短期間でした。

 吉良邸周辺古地図(goo地図(江戸切絵図)嘉永新鐫本所絵図から)

吉良邸屋敷の表門は東側で裏門は西側に位置し、福井県のホームページ「ふくいの足跡マップ⑪吉良邸跡(隣接:福井藩本多家江戸屋敷)」によると、隣接の北側には板塀で囲った福井藩本多家江戸屋敷1650坪の拝領屋敷と、旗本土屋家屋敷2500坪の抱屋敷があり、道を挟んだ東側には鳥居家と旗本・牧野家の屋敷があったようです。
同ホームページによると、北側に隣接して屋敷を有していた、越前松平家家老の本多孫太郎の邸宅では、討ち入りの夜には初めは火事かと思ったが、火の手が見えないので討ち入りと察し、提灯を掲げお上に届け出た(出典:江赤見聞記)と資料にあるとのことです。

 吉良邸隣接屋敷概略図

吉良邸跡の本所松坂町公園の入り口を入ると、西側の手前の角に松坂稲荷大明神が鎮座(写真中の幟り左方)しています。松坂稲荷は、もと兼春稲荷と称し吉良邸内にあったもので、さらに古く、この地がまだ宅地開発される以前から、この周辺の土地に祀られていたものです。写真中の小さな碑は吉良上野介義央公の追慕碑で、同右に吉良家家臣二十士の碑があり清水一学を含め吉良側は16人が事件で命を落としています。西側の奥には「首洗い井戸」があり、上野介の首を洗ったと伝えられています。

 本所松坂町公園内部1(:吉良邸跡高札、:吉良上野公の追慕碑(左)と吉良家二十士の碑(右)、:首洗いの井戸)

公園内部の周囲の壁には、吉良邸討ち入りに関する書類や錦絵などの資料が、額縁にして提示されています。

 本所松坂町公園内部2(:公園内部の塀には四十七士に関する資料の額が提示、:仇入り引き上げの義士団錦絵、:)

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(6月分掲Indexへ)
カテゴリー別Index 小さな旅総目次 2009・2010年版2006~2009年版
<前回 小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その2 へ
次回 小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その4 へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その2

2010年06月20日 | 小さな旅
kan-haru blog 2010 

< 総合INDEX へ

回向院
回向院(墨田区両国2-8-10)は、JR両国駅を降りて駅前通りを南に進むと両国橋が架かっている京葉道路に出て対面が回向院表門です(両国駅周辺地図赤印②参照)。

 回向院表門(:表門、:表門扁額、:回向院案内板)

かっての回向院には観音堂や鎮守堂、太師堂などが建立され、数多くの尊像が安置されていましたが、その後の関東大震災や世界大戦等により木彫の諸尊像はことごとく焼失し、現在では石仏、銅仏等の諸尊像のみが残されています。

 回向院現在地図

・開創
回向院が建てられたのは、今からおよそ350年前におきた1657年 (明暦3年)の大火(その1参照)での死者は、延焼が早く混乱して風下に逃げた群衆が飛び火による風下の火災に挟まれ逃げ場を失い多くの命が奪われたり、道路や空き地に避難民が持ち出した荷物に火の粉が吹き付け着火して多くの人が巻き込まれて焼死したり、火災で橋が落ちて川岸に追い込められて川に飛び込んで凍死したり餓死者も多かったと記録さている。死者数については、「むさしあぶみ」、「本所回向院記」、「山鹿素行年譜」などには10万人台と書いてあり、「上杉年譜」、「天亮吾妻鑑」、「明暦三丁酉日記」には3万7千人余りとしており、「元延実録」ではこの中間の6万8千余人とあげています。

 回向院江戸時代地図(goo地図(江戸切絵図)嘉永新鐫本所絵図から)

大火後に牛島新田(現墨田区両国)に葬られた死者数は6万3430余人のほか、漂着した死体が4654人と記されています。(中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会の「1657 明暦の江戸大火報告書」(平成16年3月)から)。
幕府は、焼死者の埋葬をすることにして、増上寺に命じて本所牛島新田に埋葬地を設け、死骸を船で運んで供養を行ないました。
また将軍家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸、当院の現在地に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。このとき、阿弥陀如来を本尊としてお念仏を行じる御堂が建てられたのが諸宗山無縁寺回向院の歴史の始まりです。
それ以来回向院には毎月18、19日の両日、江戸市中から追悼の者が訪れるようになり、境内堂宇に安置された観世音菩薩や弁財天などが江戸庶民に尊崇されることとなり、様々な巡拝の札所となり、また江戸中期からは、その地の利が尊ばれて全国の有名寺社の秘仏秘像の開帳される寺院として、境内は毎年のように参詣する人々で殷賑をきわめました。

 江戸名所図絵「回向院」境内図

・災害供養塔
回向院は一見隆盛一途をたどったかのように受とれますが、その後度重なる地震や大火に被害をこうむり、明治の廃仏毀釈、1923年(大正12年)の大震災では境内の堂宇は灰燼に帰し、更には1945年(昭和20年)第二次大戦下の大空襲によって再び焼失など、幾度かの存亡の危機に立たされましたが、檀信徒の浄信にささえられ歴代住職は、由緒あるこの寺院の法灯の絶えぬよう骨を惜しまず身を砕き、その度ごとに一大危機を乗り切ることが出来ました。

 明暦大火・天明地震・大震災横死者等供養塔(:明暦大火横死者等供養塔説明板、:明暦大火横死者等供養塔、:大震災横死者の墓と天明地震横死者の供養塔)

・著名人の墓
境内には著名人の墓として、江戸歌舞伎元祖の猿若(中村)勘三郎や竹本義太夫などが見られます。竹本義太夫は義太夫節の創始者で近松門左衛門と組み、それまでの浄瑠璃を義太夫として完成させました。義太夫ファンの大岡育造東京議会議長が1918年(大正7年)に立てた追悼墓であり、歴代の竹本義太夫の墓も一帯にあります。

 著名人の墓(:猿若勘三郎の墓、:竹本義太夫の墓)

・鼠小僧のお墓
時代劇で義賊として活躍するねずみ小僧は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷から千両箱を盗み、町民の長屋に小判をそっと置いて立ち去ったといわれ、その信仰は江戸時代より盛んでした。長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りに持つ風習が当時より盛んで、現在も特に合格祈願に来る受験生方が後を絶ちません。
特に、最近では多くの若いペアーが次々に沢山訪れ墓石を削る人が増え、回向院のホームページで掲示(年代不明)のねずみ小僧のお墓の写真と比べると、削られた量から見てお守りを求める人の多さに驚かされます。

 鼠小僧の墓(左上・中上:鼠小僧の墓、右上:回向院ホームページ写真(年代不明)、左下中下右下:お守りに求めて鼠小僧の墓のお前立ちを削る参詣者)

・水子塚と塩地蔵
回向院の水子塚は、1793年(寛政5年) に陽の目をみずに葬られた水子の霊を供養するため老中松平定信の命によって造立されたもので、水子供養の発祥とされています。
また回向院は、庶民信仰の関わりを称する像として地蔵菩薩があり、右手に錫杖、左手に宝珠を持たれ、参詣者は願い事が成就すると塩を供えたことから、「塩地蔵」と呼ばれ親しまれてきました。

 水子塚と塩地蔵(:水子塚、:塩地蔵)

・動物供養
境内広場の左手には馬頭観音堂があります。開創間もない頃、将軍家綱公の愛馬が死亡しその骸を回向院に葬ることになり、その供養をする為、回向院二世信誉貞存上人は馬頭堂を建て自らが鑿をとって刻した馬頭観世音菩薩像安置しました。
回向院は成り立ちが、人間はもちろん、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くものでありますので、境内には、猫の報恩伝説で知られる「猫塚」1816 年(文化13年)があります。

 馬頭観音堂と猫塚(:馬頭観音堂、:猫の恩返し(猫塚))

また、「唐犬八之塚」1866年(慶応2年)や義太夫協会の「犬猫供養塔」、飼鳥獣商協同組合の「小鳥供養塔」、邦楽器商組合の「犬猫供養塔」など、さまざまな動物の慰霊碑、供養碑があり、諸動物の供養が行われています。

 動物供養(写真拡大)

・力塚と回向院相撲
日本の国技である相撲は、江戸時代は主として公共社会事業の資金集めのための勧進相撲興行の形態をとっており、回向院境内で初めて行われたのは1768年 (明和5年)のことで、寛政年間を経て文政年間にいたるまで相撲興行の中心は回向院とされてきました。1833 年(天保4年)になると回向院の興行は春秋二回が定場所となり、1909年(明治42年)の旧両国国技館が完成するまでの76年間は、「回向院相撲の時代」が続いたのです。力塚の碑は、1936年(昭和11年)に相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊の為に建立したものですが、その後も新弟子たちが力を授かるよう祈願する碑として、現在も相撲が回向院とのつながりを示す象徴になっています。

 力塚(写真拡大)

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(6月分掲Indexへ)
カテゴリー別Index 小さな旅総目次 2009・2010年版2006~2009年版
<前回 小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その1 へ
次回 小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その3 へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その1

2010年06月17日 | 小さな旅
kan-haru blog 2010 

< 総合INDEX へ

歴史が残る両国界隈
梅雨の合間をぬって、6月13、15日に、勝海舟の生誕地の本所(両国)を訪れて両国周辺を歩いてみました。
その両国の発展の歴史は古く、江戸がほぼ全滅し10万人余りの命が奪われた1657年(明暦3年)の振袖火事がきっかけで、幕府は牛嶋南部に焼死者を葬り回向院を建てて、市街地復興に着手し、1659年(万治2年)には隅田川に両国橋を架け、市中に防火堤や火除地を設けました。その計画で武家屋敷などの移転先に選ばれたのが現在の墨田区本所で、本所奉行を中心に、竪川・大横川・南北割下水の開さくや区画を進めて、武家屋敷を主とする市街となり、江戸の一部となりました。赤穂浪士が本所の吉良屋敷を襲い、上野介義央を討ったのが1702年(元禄15年)でした。
この時代の1717年(享保2年)には八代将軍吉宗が隅田川堤に桜100本を植樹し、1733年(享保18年)には水神祭で花火をあげて両国川開きの始まりです。また、1781年(天明元年)に本所回向院で、大相撲が開催されました。この隅田川の両国橋は眺望納涼の場として賑わい、花火が行われ、両岸橋詰の広小路では見世物小屋が繁盛し、少し上流には相撲小屋もあり、行き会うひとで賑わいが江戸一番の繁華街となりました。
両国に誕生した、墨堤の桜、隅田川の花火、国技館の相撲は、いまでも時代を越えて全国の人々に親しまれています。

 両国駅周辺地図(すみだ観光協会パンフレットから)

・隅田川
隅田川は、東京都北区の新岩淵水門で荒川から分岐し、新河岸川・石神井川・神田川・日本橋川などの支流河川を合わせ、東京湾に注ぐ全長23.5kmの一級河川です。
隅田川は元々入間川の下流部であり、下総国と武蔵国の国境でありおました。1629年(寛永6年)の荒川瀬替えにより荒川の本流となり、洪水を防ぐ為に明治末期から昭和初期にかけて岩淵水門から河口までの荒川放水路が建設され、1965年の政令で荒川と呼ばれていますが、分岐点である岩淵水門より下流は俗称であった「隅田川」に改称されました。

 隅田川(写真拡大)

・両国橋
1659年(万治2年)に千住大橋に続いて隅田川に2番目に架橋された、長さ94間(約200m)、幅4間(8m) の橋で、名称は当初「大橋」と名付けられていましたが、西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていたことから俗に両国橋と呼ばれており、1693年(元禄6年)に新大橋が架橋されると正式名称となりました。
両国橋は流出や焼落、破損により何度も架け替えがなされ、西洋風の九十六間(約210m)の橋であったが、木橋としては1875年(明治8年)12月の架け替えが最後でした。この木橋は1897年(明治30年)の花火大会の最中に、群集の重みに耐え切れず10mにわたって欄干が崩落し死傷者は十数名にもおよび、明治の世に入ってからの事故ということで、20mほど下流に1904年(明治37年)に鉄橋として生まれ変わりました。長さ164.5m、幅24.5m曲弦トラス3連桁橋であり、関東大震災では大きな損傷も無く生き残ったが、他の隅田川橋梁群の復旧工事に合わせて、1932年(昭和7年)に、橋長 164.5m、幅員 24.0mの3径間ゲルバー式鋼鈑桁橋に架け替えられました。

 両国橋(:1875年完成の最後の木橋時代の両国橋[両国橋Wikipedia東京名所絵葉書から出典]写真拡大)

・両国駅
1894年(明治27年)に私鉄の総武鉄道が、佐倉駅と本所(錦糸町)駅間が開通し、本所から両国橋までの沿線は既に市街地になっており高架線が条件で、結局煉瓦造りの橋脚の上に鉄桁を載せた形状の高架橋を約1.5 kmに渡って建設して、日本の鉄道で最初の単線の高架区間で両国橋駅を開業する事になり、1906年(明治39年)に複線化されました。1907年(明治40年)には、総武鉄道が国有化されて国鉄となり、1931年(昭和6年)に正式に「両国駅」(墨田区横網1-3)へ改称されました。

 両国駅(写真拡大)

今年の3月から列車の運行を止めた3番線ホームでは、最近「駅コン」と呼ばれるコンサート演奏が開かれるようになり、丁度13日には和楽太鼓の演奏が行われていました。観客は3番線ホームに並べられた椅子に座って楽しむか、2番線ホームから電車の到着まで見ることができます。

 3番線ホームでの和楽太鼓の演奏(写真拡大)

明暦の大火
明暦の大火の概要を中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会の「1657 明暦の江戸大火報告書」(平成16年3月)を見ると、以下に示す様です。
・最初の火災
明暦の大火は、1657年(明暦3年)1月18日から19日(太陽暦3月2、3日)にかけて発生、延焼した3件の大規模火災の総称で、1件目は北西の強風時の18日午後2時頃本郷丸山の本妙寺から出火し、湯島方面から駿河台に燃え広がり湯島天神、神田明神、東本願寺と延焼し、駿河台の大名邸宅から鎌倉河岸へと燃え広がった。神田明神からの飛び火は、村松町、材木町と延焼し、柳原から泉橋までを焦土化した。駿河台の火は二手にわかれ、一つは誓願寺を迂回して進み、もう一つは須田町から鍛冶町、白銀を南下した。
夕刻から風が西へと変わり、鎌倉河岸の火が飛び火して鞘町から東に延焼して伊勢町より江戸橋付近で川を越え、茅場町まで延焼し、さらに東へと燃え移り八丁堀も焼け、霊厳島へ延焼して霊厳寺に逃げ込んだ9600人の命を奪った。霊厳寺の火は停泊していた舟に燃え移り、海を隔てた佃島や石川島に達した。

 3か所から出火した火災の推定延焼経路(黒木喬「明暦の大火」、講談社1977出典)

強い西風にあおられて向島八幡宮も焼失し、あっというまに吉原から堀江町も延焼した。
火に追い立てられた群衆の巨大な流れが浅草に殺到している時、一時おさまっていた柳原の火が再び燃え始めて誓願寺に飛び火し、近くの大名小路を延焼するとともに、数十の寺院に延焼して小伝馬町方面からの火と合流し、数万の群集を飲み込んでいった。
午後8時になっても風は衰えず、海岸に並んでいる諸大名の屋敷を灰とし、川を一気に越えて牛島新田の農家を焼き払い、翌日の午前2時過ぎに延長約5.3kmに及ぶ火災も鎮火した。

 主な大名屋敷の存在場所(黒木喬「明暦の大火」、講談社1977出典)

・2件目火災
2件目は前日に続いて19日午前10時頃小石川鷹匠町付近から出火し、水戸藩の屋敷を焼き、飯田町から市谷、番町を延焼し、天守閣にも燃え移り、常盤橋内の大名屋敷、鍛冶橋の諸大名邸、旗本屋敷を焼き尽くした。午後4時頃北風から西風に変わり、八重洲河岸、中橋に延焼し、火は南の新橋、木挽町に達し、東は材木町、水谷町まで延び、海岸では多くの船も焼失した。逃げまどう群衆は焼け落ちた橋などにより逃げ場を失い命を失う。

 炎の中を逃げまどう人々(「むさしあぶみ」日本髄筆大成第3期6、吉川弘文館出展)

・3件目の火災
3件目は19日夜、風が北から西へと変わり始めたころ麹町の町家から出火し、延焼して大名屋敷約50を焼失し、さらに西の丸下の屋敷多数が全焼し、桜田から芝浦海岸にぬけ鎮火した。

 明暦大火の延焼被害地域図(竹内吉平「火との斗い(江戸時代編)-消防戦術のルーツをたどる」、近代消防社出典)

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(6月分掲Indexへ)
カテゴリー別Index 小さな旅総目次 2009・2010年版2006~2009年版
<前回 小さな旅 大田区と竜馬 池畔に別荘を構え勝海舟墓所のある洗足池を歩く その2 へ
次回 小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その2 へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする