K&A

kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 谷戸三輪神社2015年秋の例祭夜の神輿渡御

2015年09月11日 | 大森町界隈あれこれ 社寺

kan-haru blog 2015

< 総合INDEX へ

谷戸三輪神社秋の例祭
谷戸三輪神社の例祭は、2006年2007年2008年および2010年の例祭の記事を掲載してありますが、2015年の例祭は高校の後輩が神輿渡御の扇動を行い、家の間近かの大森町商店街通りを練り歩き、19時半過ぎに第1京浜国道で折り返すと聞きましたので、久しぶりに見にいきました。例祭は9月第1の土・日曜に開催され、今年は5、6日に開催されましたので、まず5日の午後に徳川時代には西大森村の小祠の鎮守様であったといわれる、大森町商店街通りに並行した道路添いの谷戸三輪神社にお参りしてきました。

 2015年祭礼ポスター

谷戸の三輪神社は、氏子が大森三輪、鶴渡、邦西の三町会を擁し、地域は南北が大森町商店街通りの南側から、梅屋敷商店街通りの北側までのエリアで、東西が京浜急行電鉄線からJR東海道本線に接した大森西4丁目から7丁目までの地域におよびます。

 谷戸三輪神社氏子の大森三輪、鶴渡、邦西町会の地域地図(再掲)

谷戸の三輪神社へは、大森町駅から西側線路添いに梅屋敷方に進み、斜めに進む右折路に折れて一直線に行くと、2つ目の四つ角を超えると左側が北向き鳥居の神社正門です。

 北向きが正門の三輪神社 
(左・右:0905)

正門を潜ると正面が三輪神社本殿で、奉納するとお守りお札とお神酒が授かります。
 三輪神社本殿と奉納により授かるお守り札とお神酒(左:三輪神社本殿、:奉納授かり品0905) 

神社本殿の右側に神楽殿があり、神楽殿の右側に渡御前の宮神輿が鎮座しています。宮神輿は、打ち出し模様の吹き返しを大きく立ち上げた、延軒屋根の勾欄造りです。祭神は大国主命で、台座が二尺四寸(73cm)の行徳・浅子周慶の作で製造年度は不明ですが歴史あるお神輿です。

 
三輪神社神楽殿と宮神輿(左:神楽殿、:歴史ある宮神輿0905)

三輪神社は、太平洋戦争の空襲により全社殿を消失し、1951年(昭和26年)に氏子により再建されましたたが、老朽化のために、1988年(昭和63年)に現社殿に再建されました。

 三輪神社境内 
(左・右:0905)

5日の三輪地区の子供神輿と山車の渡御は、13時ころに神社前から出発です。なお、子供神輿は三輪地区の他に、鶴渡地区および邦西地区の3地区において、それぞれからも渡御が行われます。

  三輪地区の子供神輿 
(:0905)

子供神輿と山車の渡御は、15時30分頃大森第3小学校の北口門付近で出逢いました。
 
 三輪地区の子供だし渡御 (:0905)

宮神輿の大渡御の渡御は、残念ながら鶴渡と三輪地区の一部で6日に行われます。5日の中神輿の渡御は17時30分に西7丁目公園を出御し、邦西地区を巡行して、大森町商店街通りを東邦医大通りから第1京浜国道までの全区間練り歩いて、20時半に三輪神社に宮納め予定です。
 
 
三輪神社宮神輿夜間渡御1(:0905)

しかし、三輪神社が圧巻の夜間渡御は遅れて、20時を過ぎて大森町駅に到着して、第1京浜国道の中央部までの渡御です。

 三輪神社宮神輿夜間渡御2
(:0905)

国道をユータンした神輿は、三輪神社宮入りへとご帰還の最後の渡御です。

  
三輪神社宮神輿夜間渡御3(:0905)

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(8月INDEXへ)
カテゴリー別Index 大森町の社寺総目次 へ
<前回  大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 修復大人神輿の渡御が行われた諏訪神社2014年例祭その2

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 修復大人神輿の渡御が行われた諏訪神社2014年例祭その2

2014年06月20日 | 大森町界隈あれこれ 社寺

kan-haru blog 2014 大森三丁目連合町会神酒所前での修復神輿渡御(Ⅱ版) 

< 総合INDEX へ

諏訪神社2014年例大祭
諏訪訪神社(大田区大森西2-23-6)は、神社由来(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 諏訪神社その1」参照)によると御鎮座の年代は明らかではないが、祭神は本殿に建御名方神(タケミ ナカタノカミ)を祀り、東京府下荏原郡大森村字山谷(東山谷:大森東二丁目、南山谷:大森西三丁目、北山谷:大森西二丁目)の鎮守様で、境内には文政7年刻の鳥居をはじめ、狛犬、灯篭、手水屋、玉垣、記念碑等が多数建立されています。
また、由来には“伝承として、境内に一匹の白蛇が住んで、祭礼の時、氏子の多数がお参りして、知らずに白蛇の尾端を踏んだので、古来祭礼には、必ず雨が降ると伝えられている。”とあり、祭礼には雨に祟られる歴史があります。
ブログに掲載した過去の例祭の天候を見ると、2006年は初日午前中雨、2007年は快晴で、2008年は初日の夕刻から翌日の午前中が雨、2009年は初日の朝まで雨が降り、2日目の午後3時頃には通り雨に遭い、2012年は快晴に恵まれましたが、言い伝えの通り雨に遭うのが多い様です。

 例祭初日の諏訪神社参道
(:諏訪神社例祭の参道、:例祭の諏訪神社門前の文政7年刻の鳥居、:例祭の諏訪神社境内参道0524)

・祭礼初日
2014年5月24日の祭礼は、言い伝えに反して快晴に恵まれました。
 大森三丁目連合町会神酒所および諏訪神社奉納者氏名板
(:大森三丁目連合町会神酒所、:お囃子連、:諏訪神社奉納者氏名板0524)

祭礼には食べ物、射的、金魚すくい、おもちゃなどの屋台の露店が子供に人気で、諏訪神社の参道や境内には沢山の露店が出店します。

 参道や境内に出店の露店
(:参道露店、:境内露店0524)

諏訪神社の祭礼では、2日間にわたり18時から神楽殿で奉納演芸会が盛大に行われます。

 奉納演芸会
(左上中上右上左下中下右下:0524)

・祭礼2日目
祭礼2日目の5月25日も天気に恵まれ、その1に記載の大森三丁目連合町会修復神輿の初渡御を、諏訪神社の裏門を出て、内川(「大森町界隈あれこれ 内川風景 大森町を流れる昭和の面影 第2回(内川のルーツ)」参照)四之橋を渡り南岸に沿って進み、二之橋で右折して南方に向かい大森町駅の新たな拡幅通りを経て、大森町商店街通りを大森三丁目連合町会神酒所までの渡御を動画で見て下さい。

修復神輿の渡御(諏訪神社裏門から内川四之橋に向かう)

 大森三丁目連合町会神輿渡御が神社裏口を出て内川二之橋へ進む(:神輿渡御神社裏口を出発、:神輿渡御が神社裏口から出る、:神社裏口を出た神輿渡御0525)

修復神輿の渡御(二之橋から四之橋までの内川南岸を進む)

 内川南岸を渡御する西町会神輿
(写真拡大0525)

修復神輿の渡御(四之橋南方に右折して大森町駅商店街通へ進む
)

 内川から大森町駅拡幅通を経て商店街通を渡御(左上中上右上左下中下右下:0525)

修復神輿の渡御(大森町商店街通りの渡御)


 大森町商店街通りを渡御する神輿(写真拡大)

今年は、大森三丁目連合町会例祭で初の修復大人神輿の巡行が行われ、巡行後半の諏訪神社から内川南岸を進み、大森町駅際の拡幅通りを初めて渡御した模様の動画を撮影しましたので、ご覧下さい。

大森西町会神輿修復後の祭礼での初渡御

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(5月分掲示INDEXへ)
カテゴリー別Index 大森町の社寺総目次
<前回 大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 修復大人神輿の渡御が行われた諏訪神社2014年例祭その1
次回 
大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 谷戸三輪神社2015年秋の例祭夜の神輿渡御

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 修復大人神輿の渡御が行われた諏訪神社2014年例祭その1

2014年06月16日 | 大森町界隈あれこれ 社寺

kan-haru blog 2014  修復神輿のお披露目登場(4月27日Ⅱ版)

< 総合INDEX へ

諏訪神社2014年例大祭
氏神様の諏訪神社の例大祭は毎年5月最後の土・日曜日に行われていますが、今年は例大祭の前に大森三丁目連合町会の大人神輿の修復記念初渡御が行われてから、快晴に恵まれた5月24、25日の例大祭に引き継がれた特集記事です。

・大森西町会大人神輿の修復安全祈願
大森三丁目連合町会では大人神輿の渡御は、例大祭で担がれますが、今年は大人神輿の修復が行われましたので、4月27日の吉日に修復祈願を行い記念のお披露目が行なわれました。

 大森三丁目連合
町会大人神輿修復の安全祈願が執り行われた諏訪神社(写真拡大0427)

午前10時には、修復がなった町会神輿を諏訪神社本殿前に鎮座して、町会役員は本殿に上り修復祈願の式典が執り行われました。

 修復安全祈願がを行われる神殿前に鎮座の大森三丁目連合町会神輿(写真拡大0427)

本殿での修復祈願の式典が終わり、参列者一同が神輿の周囲に参列して町会神輿の安全祈願を行いました。

 大森三丁目連合町会修復神輿の安全祈願(写真拡大0427)

神輿の修復安全祈願式典の後は、関係者一同が並んで記念撮影です。

 御輿の修復祈願式典参列者の記念写真撮影(写真拡大0427)

修復安全祈願の最後には、本殿横の境内広場に神輿を移動して、町会関係者が交代で修復神輿の初担ぎでの披露となりました。いよいよ、5月の例祭では、綺麗に修復された神輿の渡御が行われます。

 大森三丁目連合町会修復祈願神輿の初担ぎの披露(写真拡大0427)

大森三丁目町会大人神輿修復安全祈願式の初担ぎ披露動画
神輿初担ぎの動画の模様は、修復安全祈願式典後に境内広場に於いて、関係者一同が交代で初担ぎをして祝し、来る5月の例祭に渡御が行われます。



< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(5月分掲示INDEXへ)
カテゴリー別Index 大森町の社寺総目次
<前回 大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 大人神輿の渡御が行われた諏訪神社2012年例祭その2
次回 大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 修復大人神輿の渡御が行われた諏訪神社2014年例祭その2

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 大人神輿の渡御が行われた諏訪神社2012年例祭その2

2012年06月17日 | 大森町界隈あれこれ 社寺

kan-haru blog 2012 戦後初めての西3丁目町会の大人神輿宮入 更新動画を追加Ⅱ版2014.8.14  

< 総合INDEX へ

例祭2日目
諏訪神社例祭2日目の5月27日には、大森西三丁目町会では大戦後初めての大人神輿の渡御が行われますので、諏訪公園に見に行きました。
午前11時30分頃、大森西交通公園の北方の諏訪公園内では神輿渡御パレード前に、神輿の担ぎ手や曳き太鼓を引く人や町会役員および見物人を前にして、大森はやし会のおかめと獅子がお囃子に合わせて獅子舞を見せていました。

 神輿渡御巡行前の景気つけの獅子舞(写真拡大)

諏訪公園内と車道には、お囃子車、曳き太鼓、子供神輿と大人神輿が勢揃いしており、渡御巡行パレードのスタートを待ちかねています。

 パレードを待つ曳き太鼓と神輿(:パレードを待つお囃子車と曳き太鼓、:パレードを待つ子供神輿と大人神輿、:町会初の渡御巡行を待つ大人神輿)

大森西3丁目町会初の大人神輿渡御で、緊張した関係者が神輿巡行の出発を待って待機しています。

 満を持して大人神輿の初渡御を待つ関係者(写真拡大)

大人神輿初渡御巡行の諏訪公園からのコースは、公園を出て大森西交通公園の横を南に進み、交差点を右折して次の大森学園通りで右折します。大森学園高校前では担ぎ手の生徒を派遣して頂きましたので、玄関前に入り儀礼の担ぎあげをした後、内川の四之橋を渡り諏訪神社裏口から境内に入り、本殿横の広場が帰着のコースです。一方の曳き太鼓、子供神輿の巡行コースの概要は、公園を出て内川の諏訪橋を渡り、開桜小学校脇の区道を進み、京急線脇を通過して内川一之橋を渡り、マルエツ脇を抜けて町会神酒所に帰着です。

 大人神輿渡御巡行コース

定刻になり、いよいよ待望の大人神輿の初渡御巡行で諏訪公園前区道に南を向いて整列し、出発式です。

 大森西3丁目町会大人神輿初渡御の出発前(:大人神輿初渡御出発位置への移動、:大人神輿初渡御の出発式)

出発式が済み、大人神輿の初巡行はお囃子車を先頭に、隣の谷戸三輪神社の神輿係りの方に先導者としての応援を依頼した待望の渡御で、神輿の担ぎ方は「平担ぎ」で、駆け声は「ワッショイ、ワッショイ」です。

 大森西3丁目町会初の大人神輿の巡行スタート(:神輿巡行のお囃子先導車、:神輿の担ぎ方は平担ぎ、:初の大人神輿の渡御)

神輿の担ぎ手は、大森学園高校の女子を含むクラブの生徒で、大人神輿の巡行は元気よく、大森西交通公園の横を交差点に向かい進んでいきます。

 大人神輿巡行は西交通公園の横を進む(写真拡大)

初の大人神輿の巡行は、日曜日のため車の通行量が少なく順調に進み、お世話になった大森学園高校を儀礼訪問して、縁起の良い「担ぎ上げ」を行いました。

 大森学園高校に儀礼訪問の大人神輿(:大森学園交差点を進む大人神輿、:玄関口を失礼します、:大森学園高校前で大人神輿の担ぎ上げ)

大森学園高校脇の内川に架かる四之橋を渡ると、間もなく諏訪神社の裏門です。大人神輿が四之橋を渡るのは、かいびゃく以来初めてのことであると思います。

 大人神輿巡行が初めて渡る内川の四之橋(写真拡大)

四之橋を渡ると、その先は諏訪神社の裏門です。自宅から神社には表門から入りますので、裏門は何時ごろから出来たのかは分かりません。ご存知の方がおられましたら、教えて頂きたくお願い致します。明治初期の古地図を見ると、神社境内の周囲の西側と北側には、創建以降に造られた農業用水の堀川で囲まれていました。

 内川を渡れば諏訪神社裏門はすぐ傍(写真拡大)

さて、昨年は震災により見送りした例祭行事が、今年は快晴の天気に恵まれて、西町会初の大人神輿の巡行は無事に神社裏門から入門して、目出度く宮入しました。

 大人神輿が裏門から入門して宮入(写真拡大)

今年は、大森西3丁目町会で初の大人神輿の巡行を行うとのことで、諏訪公園から宮入までの記録のため、動画を撮影しました。クリックすると、断片的ですが、大人神輿の渡御巡行の模様が見られます。

大森西3丁目町会の初の大人神輿渡御巡行120527.wmv


動画をご覧頂けない方は、「大森西3丁目町会の初の大人神輿渡御巡行120527.wmv」(←をクリック)すると別画面で掲示されている動画でご覧いただけます。Ⅱ
版2014.8.13


< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(6月分掲Indexへ)
カテゴリー別Index 大森町の社寺総目次
<前回 大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 大人神輿の渡御が行われた諏訪神社2012年例祭その1
次回 大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 修復大人神輿の渡御が行われた諏訪神社2014年例祭その1

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 大人神輿の渡御が行われた諏訪神社2012年例祭その1

2012年06月15日 | 大森町界隈あれこれ 社寺

kan-haru blog 2012 修復なった文政七年の鳥居 更新動画を追加Ⅱ版2014.8.14 

< 総合INDEX へ

諏訪神社2012年例大祭
氏神様の諏訪神社の例大祭は毎年5月最後の土・日曜日に行われていますが、昨年は3月11日に発生の東日本大震災のため、例大祭式典のみ斎行して例祭は行われませんでした。(「大森町界隈あれこれ 大震災で自粛の夏の例祭 神輿自粛の浅間神社と例大祭式典のみ斎行の諏訪神社」参照)
前回ブログに記載の諏訪神社例大祭は2009年(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 諏訪神社2009年例祭」参照)であり、今年は快晴に恵まれた5月26、27日に見に行き3年ぶりの例大祭の記事です。

 例大祭ポスター

・町会大人神輿の渡御
今年は大森西3丁目連合町会では大人神輿の渡御が行われという画期的な祭礼となり、はるか昔の戦前に宮神輿があった時以来の大人神輿の渡御です。大人神輿と云っても、新調したわけではなく、2台の子供神輿のうち大きな神輿に、大人用の担ぎ棒をあつらえて付けたものですが、震災後の景気回復を願っての時代に適した神輿です。今までは、大人神輿は無かったので、隣町の谷戸三輪神社の神輿係りの方に先導をお願いして、担ぎ手は地元の大森学園から参加して貰っての渡御です。なお、諏訪神社の氏子町会は、大森西と大森東の町会があり、東町会には戦後に大人神輿と子供神輿が調達されており、地元の大森警察署の中に神輿を担ぎこむ名物の渡御(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 諏訪神社2008年例祭」参照)があります。

 大森西3丁目町会大人神輿の渡御(左:諏訪公園での大人神輿、右:大森西3丁目町会役員)

・祭礼初日
祭礼初日には奉納です。まず大森西3丁目町会が大東京信用組合前に仮設の町会神酒所に奉納金を納めた後、その足で氏子の健勝を守る鎮守様の諏訪神社に行き、お水屋で清めて本殿にお賽銭を入れ神官のお祓いを受け、家内安全・無病息災の祈願をして、神社社務所に奉納金を納めます。

 大森西3丁目町会神酒所(写真拡大)

奉納金は、町会および神社がかかる祭礼・神輿渡御の費用等の一部とするもので、賑やかに楽しい祭りが挙行される様に納めると記念品が頂け奉納芳名板に掲示されます。奉納者には、神酒所内に寄るように案内をされますので、神社社務所の方には上って飲み物とつまみの接待で祭りの役員や先客の人と歓談してきました。

 諏訪神社例大祭奉納(:諏訪神社例祭の表参道、:諏訪神社例祭の本殿、:諏訪神社奉納者芳名掲示板)

・曳き太鼓と子供神輿のパレード
祭礼初日には、大森西三丁目町会の曳き太鼓と子供神輿のパレードが、お囃子車を先頭にして町内を一巡しましたので、午後2時頃交通公園の交差点で動画を撮影しました。クリックすると曳き太鼓と子供神輿のパレードが、交差点を右折して進む風景が見られます。なお、動画の神輿のパレードの後ろに祭礼の景気付けに、神楽殿でちびっ子お囃子連の演ずるお囃子を加えて有ります。

諏訪神社例大祭 曳き太鼓と子供神輿パレード120527.wmv


動画をご覧頂けない方は、「諏訪神社例大祭 曳き太鼓と子供神輿パレード120527.wmv」(←をクリック)すると別画面で掲示されている動画でご覧いただけます。Ⅱ版2014.8.13

諏訪神社例祭では、祭りを盛り上げる屋台の出店数が多く並んで賑わいを見せておりますが、最近では小中学生のお客さんが少なくなっているようです。昔はお祭りの日は朝から夜まで神社に詰め、お小遣いを持った子供や母親に連れられた幼児の歓声で祭り気分が盛りあがっていました。今の現代っ子は祭りにあまり感心を見せず、夕方にはやや盛り上がってきましたが、露店の前は空いており時代の推移が感じられます。

 祭りの出店露天の風景(左上中上右上左下中下右下写真拡大)

・奉納演芸会
初日の午後6時から神楽殿で恒例の奉納演芸が行われ歌と踊りが披露され、今年の出演者は34組がエントリーしています。午後の7時過ぎには毎年沢山の人が見に来て一杯となります。

 諏訪神社祭礼恒例の奉納演芸大会風景(写真拡大)

演芸の幕開けは、地元の老人クラブの大寿会第1・第2クラブの歌と踊りから始まります。

 奉納演芸のプログラムは老人クラブの大寿会第1・第2クラブの歌から(:大寿会第1クラブの歌、:大寿会第2クラブの歌)

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(6月分掲Indexへ)
カテゴリー別Index 大森町の社寺総目次
<前回 大森町界隈あれこれ 諏訪神社 東日本大震災で損傷の鳥居修復なって初午と針供養を迎えるその2
次回 大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 大人神輿の渡御が行われた諏訪神社2012年例祭その2 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大森町界隈あれこれ 諏訪神社 東日本大震災で損傷の鳥居修復なって初午と針供養を迎えるその2

2012年02月22日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
kan-haru blog 2012 二の午祭り    
    
< 総合INDEX へ

諏訪神社の初午祭り・針供養
諏訪神社では、初午祭りの日に針供養を行うのがしきたりになっています。2012年は2月4日が立春で、前日の3日が節分祭にあたり、また同日は初午の日とも合致しましたので、今年の初午祭りは二の午の日の15日に行われました。
・二の午祭り
初午は、本来は旧暦二月の最初の午の日を云うが、現在の新暦では2月の最初の午の日とされています。初午祭は、2月の最初の午の日に行う稲荷社の縁日であり、稲荷社の本社である京都の伏見稲荷大社は、711年(和銅4年・奈良時代)の初午の日に稲荷大神が鎮座されたといわれております。この日をしのび、全国の稲荷神社で盛大にお祭り(初午大祭)が行われます。稲荷は「稲生(いねなり)」が縮まったもので、「稲」の神様「御饌神(みけつがみ)」(食物の神様)を 祀ったものであることから、商売繁盛、五穀豊穣などを祈願します。
もともと初午は、その年の豊作祈願が原型で、それに稲荷信仰が結びついたものであります。その1で記述の様に創建時の諏訪神社の周囲は一面田んぼであり、当時の氏子は豊作を祈願して初午祭を行っていたのでしょう。
諏訪神社では、末社の稲荷社の初午祭を行います。しかし、2012年は前述のように節分祭と重なりましたので、丁度昨年の東日本大震災で破損を被った神社鳥居の修復を終えた後の、2月15日に二の午祭りが午後3時から執り行われました。

 二の午祭り挙行の諏訪神社(20120215)(:鳥居の修復なって二の午祭り、:二の午祭りの伏見稲荷社)

古来は、立春以降の最初の午の日に行われていたこともあり、今年の諏訪神社の初午祭りは偶然に古来の行事と合致したことになります。
二の午祭りは、午後3時に稲荷社前に神社役員と氏子信者が参列して、神官のお祓いと参拝して式典が行われます。

 伏見稲荷神社末社で初午祭(2011年2月8日挙行)

稲荷社での二の午祭りの式典後に、金山神社にて一同参列して針供養式典が行われ、稲荷社に戻り、午後3時30分から稲荷社前に参列してお祓いを受けた方にお菓子を配り、初午際の終了です。

 二の午子供に人気のお菓子配り(左・中・右写真拡大)

・針供養
針供養とは、針を使う仕事を休んで、古くなった針や折れてしまった針を、こんにゃくや豆腐などに刺したり、紙に包んで神社に奉納したり、川に流したりして供養する行事で、関東地方では2月8日、関西地方では12月8日に行われることが多いようです。
昔の女性にとっては、裁縫は重要な仕事の一つであり、大事な針に感謝し、裁縫が上手になるようにと神様にお願いしていました。そこで一生懸命、一緒に働いてきた古くなった針を、楽をして休んでもらうようにと、「事始め」の2月8日または、「事納め」の12月8日に、豆腐やこんにゃくに、古くなった針を刺して針供養をしていたのです。
針供養の式典は初午の式典の終了後に、神官と共に神社役員と氏子信者が社外末社の金山神社に参列し、針供養の豆腐を神社に捧げて、お祓いの式典をあげて参拝します。

 末社金山神社での針供養式典(2011年2月8日挙行)

針供養の式典後、稲荷社に戻り初午際のお菓子を配り、社務所でお倣いをして恒例の春の行事が終わります。

 金山神社の針供養2012年

諏訪神社の災害
明治以降の大森町諏訪神社が受けた災害は、3度あり、その一つは、1923年(大正12年)9月1日に、神奈川県相模湾北西沖80kmを震源として発生したマグニチュード7.9の大正関東地震で、2つ目は昨2011年3月11日に宮城県牡鹿半島の東南東沖130kmの海底を震源として発生したマグニチュード9.0の東北地方太平洋沖地震で、3つ目の戦災は、1939年から1945年にかけ、ドイツ、イタリア、日本の三国同盟枢軸国陣営と、イギリス、フランス、アメリカ、ソ連、中華民国などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の戦争で、日本は英米との1941年12月の開戦によって、1945年4月15日の焼夷弾を用いた東京大空襲により、北方の磐井神社から南方の六郷川までと、東方の三原通り・駿河屋通りから西方のJR線までの地域は、完全に焦土化した戦災です。
このうち関東大震災で諏訪神社が被った災害は、大戦で資料が焼失のため定かではありません。
・世界大戦での神殿焼失
1945年4月15日の大空襲で大森町は焦土化(「大森町界隈あれこれ 鎮魂!大森町大空襲(第6回~第11回)」参照)となり、諏訪神社は本殿、末社、神楽殿と社務所などの建築物は全焼して、残った物は鳥居、狛犬、石灯籠、石塀などの石造物以外は跡形もなくなりました。

 高度1,524mからの大森町上空戦災の航空写真(1947年7月9日撮影)(国土地理院から)

・鳥居の東日本地災被害
昨年3月11日の東日本大震災に遭遇して、諏訪神社の1824年(文政7年)甲申歳9月吉日建立の石造り明神型の鳥居が損傷の被害を蒙りました。そこで、早速鳥居に鎖を巻いて落下防止の応急処置が行われました。その後、鳥居修復の準備が整った2月8日から、修復工事が行われ、二の午祭前には完全に修復が完了して、復元なった鳥居のもとで目出度く二の午祭が挙行されました。

 東日本大震災で損傷を受けた文政7年再建の鳥居(左上:東日本大震災で損傷した鳥居111228、中上右上左下中下右下:地震で損傷修復中の文政7年再建の鳥居120208)

御神紋
諏訪神社の本社の諏訪大社は、長野県の諏訪湖の周辺に4箇所の境内地(上社本宮、上社前宮、下社秋宮、下社春宮)をもつ神社です。
信濃國一之宮。神位は正一位。全国各地にある諏訪神社総本社であり、 国内にある最も古い神社の一つとされております。諏訪大社には本殿と呼ばれる建物が無く、下社の秋宮は一位の木を春宮は杉の木を御神木とし、上社は御山を御神体として拝しております。諏訪明神は古くは風・水の守護神で五穀豊穣を祈る神。また武勇の神として広く信迎され、現在は生命の根源・生活の源を守る神として御神徳は広大無辺で、多くの方が参拝に訪れます。
全国に分布する御分社は一万有余社を数えお諏訪さま、諏訪大明神と親しまれていて、古くからある風や水に直接関係のある農業の守護神としての信仰が厚く。また水の信仰が海の守り神となり、古くからある港の近くには必ずと言っても良い程にお諏訪さまがお祀りされております。
1871年(明治4年)に国幣中社に列格、1896年(明治29年)に官幣中社、1916年(大正5年)に官幣大社に昇格し、終戦を迎え1948年(昭和23年)に諏訪大社と改称致しました。
諏訪大社では御神紋として、梶(カジ)の木の葉をモチーフにした紋を使用していますが、上社と下社のそれぞれの梶紋には微妙な違いがあり、上社の梶紋は「諏訪梶」と呼ばれ、木の根に当たる部分が4本で、下社の梶紋は「明神梶」と呼ばれ、根に当たる部分が5本あります。

 諏訪大社の梶紋(左:諏訪梶紋、中:明神梶紋、右:梶葉紋)

地元の諏訪神社分社の左右の防火桶および神楽殿幕には、「諏訪梶」と「明神梶」が付けられております。

 諏訪梶・明神梶紋(:左防化桶の諏訪梶紋、:右防化桶の明神梶紋、:神楽殿張幕の諏訪梶・明神梶紋)

本殿の飾り幕、賽銭箱や手水舎の水盤および幟には葉の数が一枚の「梶葉紋」が付けられており、地元の諏訪神社では3種の御神紋を用いています。

 諏訪神社御神紋の梶葉紋(:本殿の幕・賽銭箱の梶葉紋、:手水舎水盤の梶葉紋、:幡の梶葉紋)

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(2月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index 大森町の社寺総目次
<前回 大森町界隈あれこれ 諏訪神社 東日本大震災で損傷の鳥居修復なって初午と針供養を迎えるその1 へ
次回 大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 大人神輿の渡御が行われた諏訪神社2012年例祭その1
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大森町界隈あれこれ 諏訪神社 東日本大震災で損傷の鳥居修復なって初午と針供養を迎えるその1

2012年02月19日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
kan-haru blog 2012 諏訪神社初参り2012年   
    
< 総合INDEX へ

諏訪神社の由来
諏訪神社(大田区大森西2-23-6)の由来を、過去に記載の記事(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 諏訪神社その1その2その3」参照)から纏めてみます。
大田区の文化財によると創建の時代は明らかでないが、江戸期には大森村の山谷の鎮守であったとあります。
推定ですが、戦前には諏訪神社の神輿倉が第1京浜国道の現大森警察署の反対側付近にありましたので、創建時の諏訪神社は東海道の内川端縁付近に鎮座されていたものと思われます。

 諏訪神社例祭第1京浜国道際の神輿倉にて[昭和12年6月]

新編武蔵風土記稿(文化・文政期[1804年から1829年、化政文化の時期]に編まれた武蔵国の地誌)によると、諏訪社は大森村(東大森村・西大森村・北大森村)の中央にあり、除地(寺社の境内地)が二十歩で北大森村に属するとあります。
明治初年の地図で地形を見ると、内川北岸からおよそ300m北方の大森村の中心にある諏訪神社の北東の他村の、東海道の三原地区に大森神社と、大森村北の沢田地帯に浅間社があり、大森村と隣接村は一面田んぼの農村地帯で、また、海岸に近いことから大半が漁村で海苔養殖が盛んでした。

 大森村諏訪神社と近隣村の大森神社および浅間神社(まる1:大森神社、まる2:浅間神社、まる3:諏訪神社)再掲

諏訪神社の社録は1868年(明治初年)に保管者が火災に遭い、伝来の由緒は灰燼のため不明です。伝えられるところでは、徳川初期(1600年頃)の創建で昔は東海道付近にあり、後年現地に遷宮したものであると云われています。1611年(慶長16年)に完成した六郷用水が、諏訪神社境内の周囲を迂回していますので、その前後に創建地から移ったのではないかと思われます。
田んぼの中央部にある諏訪神社は、大森村中心部の内川北岸からおよそ300m北方にあって、境内は六郷用水に接して取り囲まれております。

 大森村北大森山谷の諏訪神社(現在地)再掲

田んぼの中の本殿は草創期のもので、その彫刻美は徳川芸術を語るものとして有名であったと云われています。拝殿は遷宮の折に建築したもので、1831年(天保2年)に修復を加え同時に内陣を造営したと伝えられています。拝殿の天井は極彩色の花魚獣魚を描いた一尺四方の96個の区画で造られた合天井で、すこぶる美観を呈した大和画で揮毫者は不詳であるが、徳川時代の相当名のある画家の筆であると思われます。

 戦時下[1943年頃]の諏訪神社例祭子供樽神輿)(写真の拝殿と神楽殿は戦災前の建築であり、その後修復されているが大和画が描かれている天井であるかは不明)再掲

伝説として残る諏訪神社の縁起は、その昔、波に漂い大森海岸袖ヶ浦へ着岸されたご神体を、村民が尊崇して一祠を建立したのが諏訪神社の起源であると云われております。この境内に一匹の白蛇が棲みつき、祭礼の時、氏子等多数が参社して知らずに白蛇の尾端を踏んだので、古来祭礼には必ず降雨ありと伝えられています。

 文政七甲申歳九月吉日再建と掘られた鳥居の柱)

新版大森風土記によると、境内には、数百年を経たる老松が神威を示す如く繁茂しており、1824年(文政7年)甲申歳9月吉日建立の石造り明神型の鳥居が建ち、同じく文政の銘がある算盤額が掲げられていると記述があります。鳥居は、東日本大震災前までは、関東大震災、東京大空襲の災害には損壊せず健在に存在していました。

 文政七年建立の諏訪神社正門の鳥居(20100711)

境内掲示によると、創建は江戸初期ともいわれ、区内の社寺の多くが鎌倉時代を機として、その源を発している事を考えると、更に遡るものと思われる。1964年(昭和39年)には、五百年祭が盛大に執行されました。1936年(昭和11年)には村社に定められ、東京府下荏原郡大森村字山谷(東山谷[大森東2丁目]、南山谷[大森西Ⅲ丁目]、北山谷[大森西2丁目])の鎮守でありました。
御祭神の建御名方神(たけみなかたのかみ)は、大国主命の第二子であり、風水害や流行病を防ぎ、農耕および漁業の神としての信仰厚く、特に武神としての誉れ高く、はなはだ霊力強き神として、氏子の崇新の念益々厚く、神威赫々として今日に至っています。

 諏訪神社本殿

・末社
諏訪神社の末社は境内に2社があり、1社は諏訪神社本殿と並んで建立の下社があり、御祭神は八坂刀賣神(やさかとめのかみ)が祀られており、もう1社は境内の東北部に建立の稲荷神社で、御祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ) が祀られています。

 諏訪神社境内に鎮座する末社(左:諏訪神社本殿横に鎮座する下社、右:稲荷神社末社)

3社目の境内外末社は、諏訪神社南の現内川べりに建立の金山神社があり、御祭神は金山彦大神が祀られています。

 金山神社

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(2月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index 大森町の社寺総目次
<前回 大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 谷戸三輪神社2010年秋の例祭 へ
次回 大森町界隈あれこれ 諏訪神社 東日本大震災で損傷の鳥居修復なって初午と針供養を迎えるその2
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 谷戸三輪神社2010年秋の例祭

2010年09月08日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
kan-haru blog 2010 明治初期の谷戸三輪神社(大森村絵図から)

< 総合INDEX へ

谷戸三輪神社秋の例祭
大森町は1945年の世界大戦により大半の地域が空襲により焼野原となり神社仏閣はほとんど焼失しましたが、昔の谷戸三輪神社は大森風土記によると、徳川時代には西大森村の小祠の鎮守様であり、明治時代には信仰するものが多くなり社運が向上したとあり、境内には樹齢数百年を経た榎の御神木があったと書かれていますが、今日では想像もできません。同風土記によると、大森界隈の神社には、地名の謂れにもよるのか昔は古木が見られたようです。

 谷戸三輪神社(写真拡大)

三輪神社秋の例祭は、9月の第1の土・日曜に開催されます。
三輪神社の今年の神輿渡御は、4日の17時40分に中神輿が神社を出御し21時に鶴渡公園の神酒所に仮納し、5日は子供神輿が9時から12時に渡御し、12時50分に大・中神輿が宮出し、中神輿が15時半に、大神輿が17時40分にそれぞれ宮入する豪勢な渡御が行われます。

 三輪神社例祭ポスター

三輪神社の例祭の掲載は、2006年2007年2008年と連続して記載してありますが、今年は例年とは異なり9月に入っても猛暑が停まらず、秋祭りという気候とはかけ離れた中での神輿渡御は、祭りの雰囲気が勝り気合の入った巡行となりました。
神社への参詣は、大神輿渡御中の合間を縫ってお参りしましたが、神社内はもぬけのからで、数少ない出店の露天は手持ち無沙汰の状態です。境内には、宮入した子供神輿と中神輿が鎮座していました。

 谷戸三輪神社例祭(写真拡大)

2年振りのお祭り見物は、4日夜の神輿渡御を見たいと思いましたが都合がつかず、所用の合間を縫ってやっと5日の大神輿の大森町商店街での渡御を見ました。大神輿は、16代浅子周慶が昭和15、16年頃に作ったといわれる気品のある台輪2尺4寸神輿です。大森町商店街を元気よく巡行する江戸前担ぎの神輿の動画を撮影しました。

谷戸三輪神社大神輿渡御.wmv

[クリックすると大神輿渡御の光景が見られます]

大森町商店街での大神輿の渡御は、東邦医大通りから大森町駅方向に進んでくる神輿を待ち、ユータンして神社に帰る神輿を見送り帰宅しました。
4、5日に行われた奉納演芸会も、久しぶりに見たいと思ったのですが都合が悪く見送りとなりました。

 大神輿渡御巡行最後の休息(左・中・右写真拡大)

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(9月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index 大森町の社寺総目次
<前回 大森町の社寺 貴菅神社 第1京浜国道拡幅で本殿移動前の夏祭り へ
次回 大森町界隈あれこれ 諏訪神社 東日本大震災で損傷の鳥居修復なって初午と針供養を迎えるその1
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大森町の社寺 貴菅神社 第1京浜国道拡幅で本殿移動前の夏祭り

2010年09月06日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
kan-haru blog 2010 貴菅神社狛犬

< 総合INDEX へ

貴菅神社
第1京浜国道沿いの貴菅神社の例祭は、毎年8月の最終の土、日曜日に行われます。
貴菅神社の祭神は、高龗神(たかおかみのかみ)・菅原道真公が祀られていますが、明治時代の昔には東海道を挟んで東側に天神社が、西側に貴舩社が別々に鎮座(「大森町界隈あれこれ 大森町の昔を古地図で探る 大森村絵図第2編第1回その3」参照)していました。1909年(明治42年)に天神社と貴舩社が合祀して、昭和に入って貴菅神社と名を変えました。その後、1920年(大正9年)に東海道を拡幅して第1京浜国道が造られることになり、神社の境内を西方に後退して現在の本殿が鎮座しています。その後の1945年(昭和20年)4月15日の世界大戦の爆撃で本殿が焼失し、1952年(昭和27年)に社殿を復興し竣工しました。

 第1京浜国道際に鎮座する貴菅神社(写真拡大)

ところが、2011年にはさらに第1京浜国道の幅員が50mに拡幅されることになり、再び本殿の移動をする(「大森町の社寺 貴管神社 国道拡幅により本殿移動を要する社の夏祭り」参照)こととなり、今年の夏祭りは幾多の歴史の変遷を潜ってきた、復興竣工時の社殿での例祭となりますので28、29日に見てきました。

 貴菅神社付近の拡幅工事中の第1京浜国道(写真拡大)

貴菅神社の例祭は、28日午前11時に祝詞奏上の式典を行い、29日に子供神輿と山車が町内を巡行します。奉納演芸は、28、29の両日の午後6時半から行われます。

 貴菅神社祭礼ポスター

今年の例祭当日は酷暑に見舞われた代わりに天気には恵まれ、朝式典前の神社では3色の幡や提灯の飾り付けとお囃子車などでお祭りの雰囲気が盛り上がっていました。

 貴菅神社例祭風景(写真拡大)

境内には受付所がおかれ本殿での例祭の執行の準備が整いましたので、拝殿を参詣してお祭りの見物をします。子供にとってお祭りの楽しみは、金魚すくい、ボールすくい、ヨウヨウ釣りや綿あめなどの露天のお店です。

 お祭りの子供たちの人気は露天(写真拡大)

例祭が行われている本殿は、国道拡幅により何れは移転せざるを得ません。1952年に戦災復興で竣工した現在の場所の本殿での例祭は見られなくなりますので、今回のお祭りは貴重な記録となります。

 1952年竣工の貴菅神社本殿(写真拡大)

貴菅神社の子供神輿と山車の巡行は、29日に猛暑でしたが沢山の子供が集まって町内会を一巡しました。

 子供神輿・山車巡行(写真拡大)

夜のとばりもおり、境内に作られた仮舞台では、2日間に亘り奉納演芸会が開かれました。演芸プログラムは、6時30分からの開始で太鼓の演奏で初まり、初日がふれあい太鼓で2日目が梅屋敷太鼓の競演です。引き続いてダンスの競演も組まれています。その後、7時10分に神社委員長の挨拶があり、カラオケや踊りにフラダンスも加わり、最後には本宿町会役員全員の登場で演芸の閉めです。

 奉納演芸会風景(左上中下右下写真拡大)

奉納演芸会2日目のダンスプログラム公演風景の動画を撮りました。

貴菅神社例祭奉納演芸会.wmv

[クリックすると公演風景が見られます]

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(9月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index 大森町の社寺総目次
<前回 大森町の社寺 磐井神社 古記に伝わる敏達天皇の二年に鎮座した大森で最も古い磐井神社の夏祭り へ
次回 大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 谷戸三輪神社2010年秋の例祭
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大森町の社寺 磐井神社 古記に伝わる敏達天皇の二年に鎮座した大森で最も古い磐井神社の夏祭り

2010年08月11日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
kan-haru blog 2010 八幡通りの渡御神輿

< 総合INDEX へ

鈴ヶ森に近い磐井神社
大森町北端の第1京浜国道際にある磐井神社(大田区大森北2-20-8)の創立は849年(嘉祥2年)と云われ、大森町では歴史の大変古い神社(「大森町の社寺 磐井神社 大森町北端にある鈴石伝説の磐井神社夏祭り その1、2」2007参照)です。
昔の大森の不入斗村(いりやまずむら)にある磐井神社の別称を、鈴石伝説から鈴ヶ森八幡宮と呼び、地理的には隣接の品川区大井村の処刑場付近一体も含めて、鈴ヶ森と称したものと思われます。

 大戦では戦火を受けた樹齢300年以上のいちょう(写真拡大)

磐井神社には境内に樹齢が300年以上の2本の大いちょうがあり、上記ブログに記載してあるように、1本のいちょうには1945年4月15日の空襲による被害の黒焦げのあとがあり、このいちょうにも長い歴史のなかで大戦の傷跡を受けましたが、戦後65年を経過して傷跡も多少癒れて薄くなった感じがします。実はいちょうの記事を再録したのは、今まで気が付きませんでしたが例祭を見に行った際、本殿の南側に1906年(明治39年)11月の日露戦争凱旋記念に植樹した樹齢100年を超すいちょうの木と記念碑を見かけました。大いちょうとは樹齢がかけはなれていますが、磐井神社には3本のいちょうの古木の他にシイ・ケヤキなどの古木があり大田区の保護樹林に指定されており、大森町の殆どの神社では古木や樹木が見られないのに対して唯一貴重な存在です。

 日露戦争凱旋記念植樹の樹齢100年を越えたいちょう(写真拡大)

磐井神社例大祭
前回記述時のブログの例祭は影祭りでしたが、今年の8月6~8日の例大祭は本祭りにあたり、町会神輿の連合渡御が行われるので8日の午後見に行き、例祭の行われている磐井神社に参拝してから、神輿の連合渡御を追いかけました。

 磐井神社例大祭2010(写真拡大)

連合渡御神輿
向睦、根岸睦、仲ノ町睦、八幡睦、入三東町会、入二北町会、北六南町会の7つの睦みの連合渡御神輿は、13時過ぎに平和島商店街に集結して出発です。渡御のコースは平和島商店街を西に進み、入三銀座商店街を通り、進路を北に向けハローワーク前を抜けて大森ミルパアーケード街から東に進み、八幡通りに接した森っこ広場まえが神輿の担ぎ手と見物人の盛り上げるポイントです。休息には、八幡通りを神社へ向かって渡御して、渡御後には各町会の神酒所に戻ります。
本祭りの連合渡御神輿を見るのは初めてですので、神社を出て八幡通りを西に進み、森っこ広場に向かうと渡御の先頭の神輿と神官、役員の方々が休憩を取っていましたので、大森ミルパアーケード街を西に進むと、最後の渡御神輿がおおとり神社前に到着したところで、神輿の担ぎ手と見物者が盛り上がっていました。

 ミルパアーケードの連合渡御神輿(写真拡大)

ミルパアーケード街で休息中の各町会の渡御神輿を見て回りました。

 ミルパアーケード街での連合渡御神輿(左上中上右上左下中下右下写真拡大)

休憩後、天狗を先頭に神社太鼓を打ち鳴らし、神官、役員、高張り提灯、お囃子車と続き、連合渡御神輿が八幡通りを城南担ぎで神社へと向かいます。

磐井神社例大祭連合渡御神輿2.wmv

[クリックすると例大祭連合渡御神輿が見られます]

神輿の城南担ぎは、品川区から大田区の一部での担ぎ方で、神輿の胴に神楽で使う大拍子(桶胴の締め太鼓) が括り付けられ、この締め太鼓と篠笛に合わせて担ぎます。磐井神社の大拍子が前向に付いており、篠笛の吹き手は交代で一人で吹きます。神輿の担ぎ手に気合が入ってくると激しく体を揺するのが特徴です。

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(8月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index 大森町の社寺総目次
<前回 大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 諏訪神社2009年例祭 へ
次回 大森町の社寺 貴菅神社 第1京浜国道拡幅で本殿移動前の夏祭り へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 諏訪神社2009年例祭

2009年06月24日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
kan-haru blog 2009  

< 総合INDEX へ

諏訪神社2009年例祭
氏神様の諏訪神社の例祭は毎年5月最後の土・日曜日に行われます。この時期は梅雨のはしりにかかる関係で、祭日中に雨に会う機会が多いのですが、今年も1日目の朝まで雨が降り続け、2日目の午後3時頃には通り雨にも遭いましたが例祭は最後まで行われました。

 諏訪神社例祭1(写真拡大)

以前の諏訪神社例祭日は6月の土・日曜日に行われていましたが梅雨時であり近隣の神社の例祭と重なるため縁日の開催を5月に変更してからは、境内と参道前の道路には沢山の露店の出店が出るようになり、お祭りの雰囲気を盛をり上げています。

露天出店の多い諏訪神社例祭

 諏訪神社例祭2(左・中:大森3丁目連合町会お神酒所、:例祭ポスター)

お祭りの縁日の露店には、射的、輪投げ、型抜きチャレンジ、金魚すくい、キャラクタお面、綿飴、あんず飴、バナナチョコ、かき氷、たこ焼き、焼きそばなどの店が出て、子供たちにとっては何よりの楽しみなのです。

 諏訪神社例祭の露天

露天出店の大半は食べ物屋で、子供にとり年に一度のお祭りでは与えられるおやつと違い、貰った小遣いで自分の食べたい物をわくわくした気持ちで買う喜びは、何にも変えられないのです。孫は帰りがてらにお腹が減り、コリントゲームで引いて当たるとイチゴ付きが200円で定番のバナナチョコをまず買いました。串に刺したバナナに湯煎したチョコレートを浸して、冷やしてトッピングなどでコーティングした色とりどりの見ても楽しめるバナナチョコを片手に、腹の足しにとたこ焼きも買いました。
この祭の雰囲気は、大人になっても何時までもノスタルジアの想いを残してくれます。

 食べもの屋の露店

世相により変化するお祭
諏訪神社の例祭は父の代から孫の代までにわたる長く、大変懐かしい大森町の小さな氏神様のお祭りですが、時代と共に世相に応じて長くお付き合いをさせて頂いております。諏訪神社の例祭の記事(2006年2007年2008年例祭参照)は、毎年にわたり掲載し、暗い戦時中のお祭りなど各時代のお祭りの一端を記載してあります。

大戦中は戦局の悪化とともにお祭りの雰囲気はなくなり日常の物資が欠乏し、おもちゃなども小学生3年の時にゴムまりが60人のクラスに5個の配給で、それを抽選で配る有様でした。出征で担ぐ人のいない神輿も供出などで無くなり、寂しいお祭りが行われた時代がありました。隣組の床屋さんが、子供たちが可哀そうだと手造りの樽神輿を造りそれを担いで、諏訪神社前で撮った写真(2008年例祭参照)がこの時代の唯一の記録写真です。その翌年に、子供たちは学童疎開で東京を離れていったのです。

小学6年の終戦で東京に引き上げると神社や京急の山谷駅(現大森町駅)は戦災で焼失し、大森町界隈の町内は焼け野原で一軒の家も無く、当座の仮の住まいは焼け残りの元事務所で複数世帯の居候でその日暮らしでした。その住居所在地の氏神様は隣接町の貴船神社であり、終戦翌年にはお祭りが復活して行われ、当時は地元の青年会が主催して境内では素人演芸会を開かれ、娯楽に飢えていた住民が多く集まり盛況でしたが、境内には売るものが何も無く露店の出店は無しで、自転車の荷台に付けたアイスキャンディだけがただ細々と売られていたとの記憶が残っています。

小学生の孫は、江戸3大祭の氏子に住んでいますが、お祭りが好きで小さな神社の祭の雰囲気もまた楽しいといって、一人で遊びに来て泊まり朝から晩まで日一杯楽しんでから帰ります。 孫の親もお祭り好きで、当時大森第2 (現開桜) 小学校時代の頃には、やはり朝から夜まで1日中祭に詰めていました。この頃から、お祭りの露天には射的、輪投げ、スマートボールや型抜きなどのゲームが出る様になり、特に男の子の対抗心を煽り熱中させます。ただ、子供を野放図にさせないためには、大人の監視か小遣いを制限して、平和なお祭りに親しまさせて楽しみを味あわせる方向付けが重要です。

 熱中させる競技ゲームの露店

神輿・曳き太鼓
諏訪神社の氏子は第1京浜国道を境にして、東の町会と西の町会に別れています。大戦の疎開前までは東の町会に住んでいて、子供の頃は戦時色のお祭りを味わいました。戦後疎開先から東京に戻って西の町会に長年お世話になり復興期を経て、平和時のお祭りが続いております。
諏訪神社の氏子町会の神輿は東の町会では大人の神輿が復活して、大森警察署内に闖入(2006~08年例祭参照)しています。しかし、西町会では供出により大人神輿は無く、いまだに子供神輿と曳き太鼓だけでお祭りを祝っており、第1日目は町会神酒所を13時に、2日目は11時に出発して町会を一巡して幼児・児童を楽しませます。

 子供神輿の町内会循環

諏訪神社奉納演芸会
年に1度の例祭は、地元町会の住民たちが楽しむ大祭です。例祭には、毎年恒例により奉納演芸プログラムが組まれ、第1日目はカラオケの唄を主体とした30番組と、第2日目は舞踊を主体とした35番組のプログラムが組まれ、両日とも多数の観客で盛況でした。
世相により変わるお祭りも今の平和の持続を祈願して、住民の楽しみが何時までも永く続くことを願って止みません。

 奉納演芸会

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(6月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index 大森町の社寺総目次
<前回 大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 堀之内三輪神社2008年秋の例祭 へ
次回 大森町の社寺 磐井神社 古記に伝わる敏達天皇の二年に鎮座した大森で最も古い磐井神社の夏祭り へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 堀之内三輪神社2008年秋の例祭

2008年10月13日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
kan-haru blog 2008

< 総合INDEX へ

堀之内三輪神社例祭
10月第1土・日が秋の例際の堀の内三輪神社(大田区大森中3-17-15 氏子町会 「(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 堀の内三輪神社」2006年参照」)では、今年は5日に2年に一度の大神輿の渡御と子供神輿、引き太鼓の練歩きが行われましたが、残念ですが所用のため前の日4日に宮入の大神輿と祭礼の準備風景を見てきました。

快晴の12時過ぎに三輪神社に着くと、祭礼の第1日目は9時に式典を執行した後は午後6時の演芸開演まで何の行事もない、のんびりとした例祭です。そのためか、境内角のお囃子やぐら上では、翁若社中の囃子方が囃子太鼓の調子をとり、道路前の笛方ものんびりと笛を合わせていました。5日の第2日目が午前10時からが大神輿の巡行で、祭り本番なのです。

 祭礼第1日目は式典と演芸だけののんびりとしたお祭り風景(写真拡大)

三輪神社は旧呑川の畔にあり、かっての氏子は海苔生業者が暮らした町で海苔の神様を祀った神社の信仰が厚い地域です。祭礼式典の済んだ昼過ぎですので、神社本殿や末社殿には三々五々と参拝者のお参りが見られ、社務所受付にも奉納に訪れ、奉納者芳名板もかなり埋まっていました。

 快晴の例祭を迎えた三輪神社風景

堀之内の地名は古く神輿殿には、明治時代からあったと云われる大神輿と子供神輿に引き太鼓が鎮座しており、神輿前では手を合わせる人も多く見受けられます。

 2年に一度の渡御を待つ神輿殿の大神輿(:大神輿に手を合わせる氏子、:渡御を待つ大神輿、:巡行を待つ子供神輿)

神社境内では、露天もすでに出店しており、夕方からの参拝客を待ちかねていました。また、町会内には、お囃子車が巡回して祭りを盛り上げてました。

 境内の露天の出店とお囃子車が町内巡回し祭りの準備が整う(:境内の露天と余興の舞台が揃う、:お囃子車が巡回し祭りを盛り上げる)

堀之内三輪神社由来
徳川期に大森周辺は武蔵国大森と称され、堀之内は大森の本村として伝承された古い地名です。堀之内の地名は館に濠を巡らした土地に与えられる由緒あるもので、北条時頼時代(1247~1259年)の陣屋旧跡と云われております。徳川期に、東大森、西大森、北大森の三ヶ村に分割され、堀之内は東大森村に属し幕府の直轄地として明治期まで代官がおかれました。堀之内は本村として早くから開け、住民は農業と漁業を生業として集落を形成し、氏神様が住民の支柱でした。
三輪神社は、享徳年間(1452~1456年)に土地開拓の神として、大国主命を祀り第六天社(デイロクサマ)と呼び、村人の崇敬を集めたのが創始と伝えられています。
1915年(大正4年)に当所内に天祖神社貴船神社を合祀して社殿を改め神社の威容が高まりました。1945年(昭和20年)に戦禍により焼失し、その後1952年(昭和27年)に社殿を新築して現在に至っています。
北村石見守を御祭神とする末社北村神社は、1967年(昭和42年)に堀之内海苔養殖業者により再建されたものです。(堀之内の起源と三輪神社由来から抜粋)

五堀縁起銘板除幕式
去る9月9日に、堀之内三輪神社境内の末社北村神社脇に、大森海苔養殖の歴史を後世に残すため「五堀縁起」の銘板を設け、除幕式(読売新聞都民版9月10日朝刊)が行われました。
大森から品川にかけての東京湾一体は、浅草海苔の発祥地で江戸時代には一大産地となり、大森村をはじめとする東京湾の海苔生産量が全国の約7割を占めた時期もありました。1963年の東京五輪開催前には、水質悪化により海苔の採取が出来なくなりました。
元生産者らが95人が「五堀親睦会」を設立して交流していましたが、会員の多くの方が亡くなり集まりが難しくなったため昨年12月に解散となりました。残った解散費を活用して、「海苔養殖の歴史を後世に伝えるもの」として縦約60センチ、横約90センチのステンレス製の銘板を七五調の文章で造りました。除幕式には、野口六郎左衛門の子孫にあたる野口博康氏らが約60人が参列して、銘板設置を祝いました。

 海苔の神様を祀る北村神社と「五堀縁起」銘板(:海苔の神様の末社北村神社、:北村神社由来石碑と「五堀縁起」銘板(左) 、右:「五堀縁起」銘板(写真拡大))

・乾海苔の考案
江戸初期の延宝年間(1673~1681年)の頃に大森周辺で自生している海苔の養殖が始まり、大森村字堀之内の初代野口六郎左衛門が紙抄き法をヒントにして、海苔を紙抄きの要領で抄いて板状にした乾海苔を考案したと云われています。
・大森海苔養殖
末社北村神社由来(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 堀の内三輪神社」2006年参照)によると大森の海苔養殖業は、1682年(天和2年)に野口六郎左衛門が有志と計り、幕府より海苔篊(ひび)建の免許を請け、その基礎が確立しました。その後、境界紛争で海苔篊建場を全面的に改めるという危機を、北村石見守が大森の海苔養殖業の継続を決断したのを、村民が崇敬してその徳を永く祀ろうと北村神社を建立したのが起源です。

< 総合INDEX へ
・毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(10月分掲載Indexへ)
・カテゴリー別Index 大森町の社寺総目次
<前回 大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 津島神社2008年秋の例祭 へ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 津島神社2008年秋の例祭

2008年09月21日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
kan-haru blog 2008

< 総合INDEX へ

津島神社例祭
9月13、14日は、環7通りから内川までの美原通り南部の東1丁目の1町会(町会地図参照)だけの氏子の津島神社(大田区大森東1-8-15)の本祭りで、14日は午前中に子供神輿と山車が練リ歩き、午後は宮神輿が小さくかわい境内(航空写真参照)の神社から出御するので見てきました。

神社氏子は南原の1町会
津島神社(地図参照)へは、大森町駅から第1京浜国道を北に進み、産業道路との交差点を美原通りに入ります。美原通りの入口に、内川を中心にした大きな地図板が掲示されていますので、津島神社へ行くのに位置の見当が付けられます。
美原通りを北に歩くと内川に架かる内川橋にでます。この内川橋南岸のたもとから分かれる「するがや通り」には、鶴屋南北作の歌舞伎「浮世塚比翼稲妻」で有名な旅籠「駿河屋」がありました。

 内川橋付近(:するがや通り石碑)

美原通りは、旧東海道(「大森町風景 旧東海道(三原通り) その1」参照)でかっては三原通りと云われ、字名の南原、中原、北原の三原のことで、美称して美原になり大田区の文化財です。津島神社氏子の町会は、内川北岸の南原に位置します。
内川橋を渡りみはら南商店会(「大森町界隈あれこれ 大森町商店街 旧東海道ふる里祭り」参照)に入ると左側に「大森名物あべ川餅」で知られた享保元年創業の老舗「餅甚」があり、宮神輿渡御の休息所の準備をしていました。
餅甚前の美原通りを北に行くと信号機のある四つ角にでます。丁度、この時間の宮神輿渡御は、四つ角左手の第一京浜国道際で練り歩いていましたが、神輿を後にして津島神社に行ってみました。

 宮神輿渡御1(:休息所の準備をする老舗餅甚、:第一京浜国道際で練り歩く宮神輿)

津島神社は神輿と反対側の四つ角を右に曲がり東に進み、神輿休憩所のマンション若松の先にある美原児童公園の四つ角を左に曲がると、その対面が津島神社です。

 津島神社例祭1(写真拡大)

公園の広場では、13、14日の両日の19時から21時まで町会などの協賛で奉納踊りが開かれます。

 津島神社例祭2(:本殿、中:内川縁を練り歩く子供神輿、:内川橋から護岸工事を終えた内川下流を見る)

海難供養塔
内川橋から下流の内川は、江戸時代以前からの源流を辿っている古い流れの川です。津島神社に近い内川のそばの東京湾沿岸に、規模が屈指の海難供養塔(大田区文化財)が建てられています。
海難供養塔(地図参照)に寄ってから神輿渡御を見ることにして、美原児童公園を一巡した道路を南に進み、信号機のある先ほど神社に来た時の道路を突っ切って進み、東側の大森東小学校の中程の道の対面にあります。

供養塔は、1855年(安政2年)に再建されたもので、江戸や神奈川の魚貝業者をはじめとして、地元や広い地域の一般の江戸町民や武士などおよそ300名の名が刻まれており、いろいろな階層の人々の協力により建てられた貴重な塔で、高さが2m32cmの五輪塔を変形した形の水輪の部分に胎蔵界大日如来の種子が刻まれています。
旧東海道の南原には、江戸時代からの歴史的な文化遺産を受けついて、大森のふる里として残っています。

 大田区文化財の海難供養塔(写真拡大)

宮神輿渡御
津島神社の宮神輿は、寸法が2尺3寸で浅草の浜田商会が制作の1978年(昭和53年)に造られたもので、唐破風の屋根に祇園守紋をいただき、鳥居に施された彫物が見事な神輿です。神輿渡御は、大拍子がくくり付けられて、氏子の南睦会が中心に参加して江戸前で担ぎ、神社を13時に出御し18時頃宮入します。

時間は15時を廻りましたので美原児童公園横の道路に戻り、町会を練り歩きマンション若松で休憩する宮神輿渡御を見てきました。

 マンション若松付近を渡御する宮神輿(写真拡大)

< 総合INDEX へ
・毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(9月分掲載Indexへ)
・カテゴリー別Index 大森町の社寺総目次
<前回 大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 谷戸三輪神社2008年秋の例祭 へ
次回 大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 堀之内三輪神社2008年秋の例祭 へ>
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 谷戸三輪神社2008年秋の例祭

2008年09月09日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
kan-haru blog 2008

< 総合INDEX へ

谷戸三輪神社秋の例祭
9月第1の土・日曜に開催される谷戸三輪神社(大森西5-18-1)の2008年秋の例祭(2006年2007年例祭参照)は、6、7日と開催されましたので、両日にわたり所用の間隙をぬって神輿の渡御を見てきました。

三輪神社の氏子は大森三輪、鶴渡、邦西の三町会(町会地図再掲)を擁する広い町会が氏子で、大森町商店街通りの南側から、梅屋敷商店街通りの北側までが南北で、東西が京浜電鉄線からJR東海道本線に接した大森西4丁目から7丁目に地域におよびます(拡大地図再掲)。

 谷戸三輪神社氏子の大森三輪、鶴渡、邦西町会の地域地図(再掲)

・子供神輿と山車の練歩き
6日の13時半頃大森町商店街通りの大森町駅近くを通りかかると、大森記念病院横の休憩所の休息を終えた、子供神輿2基と山車2台の練歩きが出発するところでした。

 大森町商店街の子供神輿・山車練り歩き1

子供神輿と山車には、沢山の子供たちと付添の親が参加しての賑やかな練歩きで、先頭が谷戸はやし会連の乗ったおはやしの山車で、その後に小学上級生たちの担ぐ子供神輿と幼児たち子供神輿と続き、最後に大森四丁目町会の山車太鼓の行列です。

 大森町商店街の子供神輿・山車練り歩き2 

・三輪神社神輿宮出し
三輪神社宮神輿の宮出しの6日は、夕刻からの神輿を担ぐ人で神社前の通りはいっぱいです。午後5時頃には神楽殿前に鎮座の神輿を前にして、神官が2人と氏子役員が並び、神輿の担ぎ手が周囲に勢ぞろいして宮出しの儀が行われました。

 三輪神社神輿宮出し1(写真拡大)

宮出しの儀は、神官が祝詞をあげ、氏子役員の挨拶と紹介の後神輿の担ぎ方の注意があり、お神酒をあけ手拍子により神輿の宮出しです。

 三輪神社神輿宮出し2(写真拡大)

今年は、神輿に手を入れ担ぎ棒の間隔を従来より広くとり、担ぎやすくしたそうで、先ずは担ぎあげた神輿を境内で揉んだ後、本殿まえでお祈りを行い、鳥居が低いので神輿を下げて潜って道路に出て、町会内の神輿渡御です。

 三輪神社神輿宮出し3(写真拡大)
 
宮神輿の渡御は、先導がお囃子車で、その後に氏子役員、神官と続きます。

 三輪神社神輿宮出し4(写真拡大)

渡御のコースは、大森町商店街通り、ぷらもーる梅屋敷、鶴渡公園、大森第三小学校横などを練り歩いて宮納めです。

 宮神輿渡御1(写真拡大)

神社付近の宮出しの情景は、鳥居を潜った神輿は神社前を東に進み、四つ角を左に曲がって大森町商店街通りに出て右折し、さわやか信用金庫の角を右に曲がりぷらもーる梅屋敷へと向かいます。

 宮神輿渡御2 

・東邦医大通りの神輿渡御
三輪神社の神輿渡御は、祭り2日目に東邦医大通りを午後1時から3時まで通行止めにして行うのが例祭の恒例のイベントで、流し踊りの行列が続きます。所用のため、残念ですがこの行列は、まだ1回も見ていません。
しかし、東邦医大通りを渡御してきた神輿は、大森町商店街通りで右折して大森町駅前まで練り歩き、さらに町会内を夕刻まで担ぎまくりますので、大森町商店街通りを行く神輿風景は見られました。

 東邦医大通りからの2日目神輿渡御(左・中:セブンイレブン前の神輿休息所、右:大東京信用組合前の神輿休息所)

・三輪神社境内演芸会
三輪神社例祭の演芸会は、神社神楽殿の他鶴渡公園などでも行われて人気があり、大勢の人が楽しみに見に集まります。しかし、今年は異常気象のため、1日目の演芸会は途中からの雨で中断となり、2日目も開始前から雨が降り出し中止となりました。
2008年の各地の例祭やイベントが、異常気象で雨中の中での開催実行や中止で取り止めとなるなど、天候には祟われた年であったと記録しておきす。

< 総合INDEX へ
・毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(9月分掲載Indexへ)
・カテゴリー別Index 大森町の社寺総目次
<前回 大森町の社寺 貴菅神社 東海道間(あい)の宿であった第1京浜国道際神社の夏祭り へ
次回 大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 津島神社2008年秋の例祭  へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大森町の社寺 貴菅神社 東海道間(あい)の宿であった第1京浜国道際神社の夏祭り

2008年09月05日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
kan-haru blog 2008

< 総合INDEX へ

貴菅神社の夏祭り
第1京浜国道に接している貴菅神社(大田区大森西5-27-7)の夏祭りは、8月最後の土曜日、日曜日に行われますので、8月31日に見に行きました。
貴菅神社がある谷戸は、昔東海道の品川宿と川崎宿の中間に当たり、馬子人足の休息のために立場茶屋が東大森村の谷戸(やと)の立場と雑色村の花の立場に設けられ、旅行者の増加に伴いそれらの人々にも供せられ、間(あい)の宿と呼ばれました。


その谷戸の東海道は現在第1京浜国道(15号線)と呼ばれ、その国道は大森町駅付近から南方向の西側を拡幅して共同溝を設ける工事が行われており、2年ほど先には神社境内が道路拡幅のため削られて、高架工事を進めている京浜急行電鉄寄りに神社本殿を移転する必要に迫われています(「大森町の社寺 貴管神社 国道拡幅により本殿移動を要する社の夏祭り」2007年参照)。

 例祭の貴菅神社境内

異常気象の夏祭り
今年8月の日本列島は、連日にわたり記録的な雨量の集中豪雨や、夜間になると雨が降り出すという異常気象に見舞われて、天気が落ち着かない夏となりました。このような天気に祟られて、各地の夏祭りやイベントは雨の中での催しとなりました。

 町会総出の神輿巡行の準備

貴菅神社の祭りもこれに漏れずに、30日の夕刻に神社前のファミリーレストランで食事を取りながらお祭り気分を味わうと予定にしていたところ、雨が降り出して初日の演芸会は中止となりました。31日の演芸会も子供の太鼓演奏後に雨となり人気の演芸会は中止となりましたが、ただ日中は朝から幸いと晴天に恵まれましたので、神輿と山車が町会中を練り歩きました。2008年夏祭りは、神輿の巡業のみの淋しいけど熱の入った町会員一致で催した、素敵なお祭りの記録です。

 町会一巡の神輿巡行

貴菅神社の氏子はただ1町会のみの、全員が登場しないと祭りが出来ない大森町では最も小さい氏子町会なので、まとまりも良く子供神輿が本宿町会を練り歩くと、途中のお菓子配りの休憩個所が多く、子供たちの人気のイベントです。
31日の子供神輿と山車の巡行は、大森町駅入口の第1京浜国道東側の城南信用金庫を10時半にお囃子の車が先導して、神社前の谷戸へと練り歩きです。出発すると、すぐ先の自動車販売会社前で飲み物を貰い休憩です。昼まで町会中を子供たちが喜んで参加して、神輿と山車が町会中をくまなく練歩きました。

 町会一巡の神輿巡行休憩所

< 総合INDEX へ
・毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(9月分掲載Indexへ)
・カテゴリー別Index 大森町の社寺総目次
<前回 大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 諏訪神社2008年例祭 へ
次回 大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 谷戸三輪神社2008年秋の例祭 へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする