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K&A

kan-haruの日記

旅ものがたり 湯野上温泉 同窓旧友たちの旅での会津鉄道を懐かしみ南会津の癒しの温泉の旅その4

2015年01月10日 | 旅ものがたり

kan-haru blog 2015 こぼうしの湯.

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・こぼうし
こぼうしの湯 洗心亭のゆかりの「こぼうし」(起き上がり小法師)は、会津で最も古い民芸品と呼ばれており、約400年前、当時の藩主蒲生氏郷公が藩士にこれらを作らせ、正月に売り出したのが始めと伝えられて、起姫(おきひめ)ともいいます。「転んでも転んでも起上る」と云う所から七転八起といって、身体は小さいが健康忍耐を表し、いつも元気で働けるように願う人たちから縁起物として扱われてきました。会津地方では、1月10日に行なわれる「十日市」という縁日で、家族の人数+1個のを購入し一年間神棚などに飾り、家族が増え一家が繁盛しますようにと願って、毎年お正月の初市で買い求めるのが慣習として受け継がれてきました。

 起き上がり小法師1
(:1113)

宿泊の温泉の当館名の由来は、2011年3月11日に発生した東日本大震災後に、もう一度この福島でがんばろうという意味で、当に起き上り小法師にはいろんな意味で勇気づけられ館名を変更させていただきました。そこで、「こぼうしの湯 洗心亭」の館内には、いろいろなところに、起き上がり小法師を飾ってありますので、お客様にもこのをみていただき、なごんでいただければうれしく思います。

 起き上がり小法師1(:1113)

2日目の朝食は8時に依頼しましたので、起き掛けの朝風呂の後、前日の大広間で頂きました。

 朝餉の膳(:1113)

朝食が済んで帰り支度をして、ロビーでお土産を買った後、ゆっくりとコーヒーをすすりながら庭の紅葉を楽しみ、タクシーを呼んで会津線湯野上温泉駅11時57分発の普通列車で帰路に着きました。

 湯野上温泉旅の景色(
:1113)

・帰路は東武ワールドスクェアに寄り道
昼食をとるため、鬼怒川温泉駅を13時46分に途中下車をして、バスで東武ワールドスクェアに寄り道して、ワールドスクェアの入口を覗いてみました。

 復路は東武ワールドスクェアに寄り道
(:復路は湯野上温泉11時57分発の下り列車に乗る、:下り列車は湯西川温泉郷を通過、:東武ワールドスクウェアに寄り道して昼食をとる1113)

ワールドスクェアの入口部を見てからの復路は、鬼怒川温泉駅発15時45分発の浅草行きに乗り、浅草には17時45分に到着しました。

 東武ワールドスクェアを覗いてみる(左上中上右上左下中下右下:1113)

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旅ものがたり 湯野上温泉 同窓旧友たちの旅での会津鉄道を懐かしみ南会津の癒しの温泉の旅その3

2015年01月05日 | 旅ものがたり

kan-haru blog 2015 こぼうしの湯の語源の「起き上がり小法師」は、福島県会津地方に伝わる郷土玩具・縁起物です。

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湯野上温泉
11月12日の今宵の宿の湯野上温泉「こぼうしの湯 洗心亭泉」(福島県南会津郡下郷町高陦寄神乙1614)は、見学の大内宿からはタクシーにて20分ほどの距離で、会津鉄道を跨いだ大川対岸にあります。

 こぼうしの湯洗心亭周辺図

・湯野上温泉の歴史
今は湯野上温泉郷と呼ばれているが、湯野上温泉観光協会Webによると、湯野上温泉の歴史は、「新編会津風土記」によれば、昔は湯ノ腹村と云い、村には三つの温泉が湧き、1つは岩石を穿き浴す切湯、2つは大川の西岸に猿湯、3つは端村館本の西大川の渚にあったと云われています。
その1つの猿湯のいわれは、昔、漁師が1匹の猿を射ったところ、その猿が手負いとなり、湯の原に来て入浴し傷をいやしたといわれ、その源泉を猿湯と名付けたと言われています。
温泉宿の開設は、1884 年(明治18年)に新日光街道(国道121号線)が開通し、古くから加登屋などの商人宿がありましたが、1887 年(明治20年)頃に大川の沿岸に、最初の温泉宿清水屋が営業を開始して、近くにあった猿湯の露天風呂を利用していました。

・こぼうしの湯 洗心亭
大内宿からタクシーで県道329号をおよそ20分ほど戻り、奇岩怪石が連なる大川を渡り湯野上温泉北方にある山の中にあるこぼうしの湯 洗心亭にチェックインしたのは、15時40分頃になりました。

 こぼうしの湯洗心亭エントランス(:こぼうしの湯 洗心亭玄関、:エントランスの置物1112)

こぼうしの湯 洗心亭は1989年創業のホテルで、宿が集まる温泉街から離れたところに佇む13室だけの一軒宿で、周辺は4千坪の自然林に囲まれ、聞こえてくるのは遠くの会津鉄道の汽笛の音と鉄橋を渡る列車の音だけが聞こえる静かな温泉で、熟年夫婦が過ごすのにはゆったりの宿です。

 こぼうしの湯洗心亭パンフレット

通された部屋の窓から眺めた周囲の山々の展望は、紅葉真っ只中の見事な風景に恵まれました。

 旅館の部屋から見る周囲の山々は見事な紅葉で染まる
(:1112)

旅行の楽しみは、何といってもその地の季節の天然の素材で調理された、料理長が自慢の夕餉は一番の楽しみで、19時半に予約しました。

 大宴会場で夕餉のひと時(:1112)

南会津は豊かな山の恵みと川の幸が豊かの食材で、素朴さと田舎の味わいを特徴とした東北の料理は、年長の日本人にはぴったりです。この、秋の香りのこぼうしの膳に、東北の地酒を味わえるのは、この上ない幸せな夕餉のひと時です。

 秋の香りこぼうしの膳(左上中上右上:1112)

湯野上温泉には源泉が7カ所あり、噴出量は毎分3,000リットルもある全国でも屈指の湯量の豊富な温泉で、泉質は弱アルカリ単純泉で神経痛、筋肉痛、関節痛、慢性消化器病に効き、マイナスイオン濃度も高く、かけ流しの温泉です。内湯に浸り体に有効成分を吸収し、
露天風呂では紅葉を満喫しながら心身の安らぎを得られる天然の温泉は、体の保養には最高の効能が得られます。

 こぼうしの湯の内湯と露天風呂(左上中上:温泉風呂入口、右左下:内湯温泉浴槽、中下右下:紅葉満喫の露天風呂1112)

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旅ものがたり 湯野上温泉 同窓旧友たちの旅での会津鉄道を懐かしみ南会津の癒しの温泉の旅その2

2014年12月23日 | 旅ものがたり

kan-haru blog 2013 江戸時代に翔る道

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・湯野上温泉駅から大内宿へ
湯野上温泉駅には13時35分に着き、今宵宿泊の「こぼうしの湯 洗心亭」のチェツクインまでには時間がありますので、大内宿にはいまから16年前の1998年に兄弟会で行っておりますが、久しぶりなのでタクシーで行ってみました。
湯野上温泉駅前から北に国道121号を進み、湯野上橋を渡り左に折れ小野観音を右に見て、小野川添いに福島県道329号湯野上会津高田線を進むとスノーシェッドを通過して、下野街道との合流点の三叉路です。三叉路を北上すると、駅前から15分ほどで大内宿(福島県南会津郡下郷町大字大内字山本)の入口に到着です。入口の曲がり角には、1980年に下郷町伝統的建造物群保存地区保存条例がが制定され、翌年には国の「重要伝統的建造物群保存地区 下郷町大内宿」に選定され、その石標が建っています。ここから先は、保存地区で一般車両の乗り入れはできず、歩行による見物です。

 湯野上温泉駅前から大内宿へ
(:湯野上温泉駅前、:紅葉の県道329号、:大内宿の入口1112)

・大内宿
重要伝統的建造物群保存地区に指定された大内宿は、「大内宿保存会」が設立されて住民による町並み保存活動が始まり、「大内宿を守る住民憲章」を制定し、大内宿入口にはその立札が建てられており、さらに並んで「江戸時代に翔る道」の説明板が建っています。江戸時代に翔る道のとは、「この道は、大内区(里親)と福島県下郷町(道路管理者)の養子縁組のロードで、里親が清掃美化等の維持管理を行っています。地域住民と大内宿を訪れる皆さんとの共有空間の「江戸時代に翔る道」を大きな着新心を深めていただければ幸いです。」と記されています。

 江戸時代に翔る道
(:江戸時代に翔るロード、中:「大内宿を守る住民憲章」掲示板、右:「江戸時代に翔る道」説明板1112)

時計を見ると、昼時が過ぎて14時を回っていましたので、大内宿場の右側3軒目に、鳥せいろう飯・そばと看板のある黄色い壁が目立つ、外にはワンちゃんの休憩室がある分家
玉や(下郷町大字大内字権現上358番地)に入りました。

 大内宿での昼食は分家玉やで新そば
(:江戸時代に翔るロードを進む、:鳥せいろう飯・そばと看板のある分家玉や1112)

分店玉やは、玄関を入り左側の廊下を進むと中央には広い座敷の席があり、その奥のカギの手の廊下上のテーブル席に着き、突き出しのそば饅頭と冷やしと温かいそばをとり、おそい昼食後にコーヒーで一服しました。


 分家玉やで昼食とスイーツ(:窓辺に干し柿がいっぱいの玉や分店、:奥縁側の座席で新そばの昼食、:そばもち1112)

昼食をとり、15時を過ぎましたので奥まで行かずに、大内宿のロードを途中まで見て戻りました。

 大内宿図
(下郷町観光案内所配布から)

下郷町大内宿伝統的建造物群保存地区の説明版が建っていましたので、説明詳細は写真中をクリックして、拡大写真を見てください。説明文の要約は、「面積が約2.3ヘクタールで、大内宿は会津若松と日光・今市を結ぶ南山通り(会津西街道)の宿駅の1つである。この通りは江戸時代初期に、会津と江戸を結ぶ幹線道路として整備し、廻米の輸送で栄え、会津藩主も参勤交代に利用した重要な街道である。大内宿が宿駅として整えられたのは、17世紀中ごろと推定され、本陣・脇本陣として置かれた。この地区の街並みの特徴は、寄棟造りの建物が道路に直角にならべられ、母屋は道路から空地を設け、敷地の北側に後退して建ち、南は余地を置いて奥の土間への通路となっており、道路側に半間幅の縁をつけ、その奥に2部屋の座敷としている。当初は、道路の中央に広い溝を設け、用水路として利用されたが、1886年(明治19年)に埋め立てられ、道路の両側に側溝が掘られ洗い場を設ける変遷があった。」と説明されています。
 「下郷町大内宿伝統的建造物群保存地区」説明版
(:「下郷町大内宿伝統的建造物群保存地区」説明版、:説明版文章部大拡大、:説明版文章部1112)

説明版を読んで、大内宿の街並みを見ながら江戸時代に翔るロードを奥へと歩いてみました。

 江戸時代に翔るロードを歩く1(:三澤屋、:松美屋1112)

大内宿では、ほとんどの家でお土産を扱っており、お蕎麦店などの食事を扱っている家は15店を数えます。南仙院本家ではそば粉のてんぷらを名物にし、萬屋では名物ねぎそばを扱っています。

 江戸時代に翔るロードを歩く2(:扇屋分家、:南仙院本家、:萬屋1112)

大内宿のロードの両側には、明治時代に改造して掘られた洗い場付きの水路側溝があります。ロードの終点は、1998年に兄弟会で一緒に来た時、おそばを食べた扇屋分家があります。今回の大内宿旅行も、15時を回りましたので、大内宿入口に戻りタクシーで、今宵の宿泊の湯野上温泉 こぼうしの湯洗心亭にむかいます。

 江戸時代に翔るロードを歩く3
(:両側に水路溝のある江戸時代に翔るロード:江戸時代に翔るロード終点の扇屋分家1112)

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旅ものがたり 湯野上温泉 同窓旧友たちの旅での会津鉄道を懐かしみ南会津の癒しの温泉の旅その1

2014年12月18日 | 旅ものがたり

kan-haru blog 2013 八重のふるさとの湯野上温泉駅正面壁面

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会津鉄道の旅
今年の旅は、今から10年前の2004年に同窓旧友たち夫婦で、一緒に旅した時に乗った懐しの
会津鉄道で、11月12、13日に湯野上温泉に行ってきました。

 湯野上温泉周辺図

同窓旧友たちの旅の経緯は、58年前の1956年(昭和31年)に明治大学工学部を卒業し、大学授業の実験グループで編成された6人組が、最終学年の行事で行った黒部と寄り道した上高地(「イベント 東京写真美術博物館 冠松次郎と穂苅三寿雄写真展を見て想いでの黒部と槍を辿るその2、3」(1955年黒部・上高地)参照)が縁で、卒業後もスキーや登山、旅行や飲み会などで投合していましたが、勤めも忙しくなるに連れ疎遠となりました。
ところが、いまから20年近く前にAさんが逝去され悲しみと寂しさが募りました。これを契機にして、誰言うともなく一年に一度旅行をしようとの言で、2001年から夫妻同伴の和気あいあいの旅行が始まり、一部はブログにも掲載(「旅ものがたり 同窓旧友たちの旅 草津温泉(その1)、2(2006年)」、「旅ものがたり 同窓旧友たちの旅 袋田の滝と大子温泉 その1、2(2007年)」「旅ものがたり 同窓旧友たちの旅 西伊豆の旅堂ヶ島と夕日の町松崎 その1、2」(2008年)参照)しました。会津鉄道には、浅草から10時発の下り線東武特急きぬで出発し、終点の鬼怒川温泉駅で12時10分発の快速AIZUマウントエクスプレス号の上り線(会津若松方面)に乗継です。

 会津鉄道の旅(:1112)

会津鉄道に乗り換ると、栃木県から福島県に入り、山岳地帯の秋景色を眺めながら湯野上温泉に向けて、大川沿いに単線の線路をのどかに走り、13時35分に湯野上温泉駅上りホームに到着です。

 会津鉄道列車沿線風景
(:福島県に入り車窓からの風景、:大川を渡る会津鉄道、:湯野上温泉駅に到着1112)

・湯野上温泉駅
到着の湯野上温泉駅(福島県南会津郡下郷町大字湯野上字大島)は、1932年に国有鉄道会津線の湯野上駅として開業し、1987年に東日本旅客鉄道から会津鉄道に代わり、湯野上温泉駅に改称しました。駅の構造は、列車交換が可能な相対式ホーム2面2線を有し、朝から夕方のみ有人の委託駅です。
列車は、会津若松方面行きの通常感覚とは逆の上り線ホームに到着します。駅舎は下り線ホーム(会津田島方面)側にあり、構内踏切で結ばれています。

 湯野上温泉駅到着ホーム
(:上り線ホームを出ていく会津若松行きの上り列車、:駅舎は構内踏切を渡り下り線ホームに、:湯野上温泉駅名標1112)

湯野上温泉駅舎は、1987年に日本で唯一の茅葺屋根の駅舎が完成し、駅名板には「江戸風情と湯けむりの里」とあります。2005年に駅舎の屋根の茅の葺き替が行われました。

 湯野上温泉駅ホーム側からの駅舎(:1112)

湯野上温泉駅は、大内宿の街並みになぞらえた茅葺屋根を有する駅舎として、2002年に東北の駅百選に選定されました。駅玄関前には、昔からの赤いポストが設置してあります。


 湯野上温泉駅舎正面入口(:湯野上温泉駅舎正面全景:湯野上温泉駅玄関入口1112)

湯野上温泉駅の駅務員が務めており、駅舎内あがり間口には囲炉裏がほられ、日本茶がセルフサービスで受けられます。また、駅売店では、お土産、名産品の販売と地元のお菓子やコーヒーを販売しており、上がり間口の囲炉裏にあたりながら喫茶が楽しめます。

 湯野上温泉駅舎内(:駅舎内の左間口にきられた囲炉裏の吊るし鉄瓶のお湯がサービス、:駅舎内右側にはお土産販売店と観光案内所がある1112)

2012年に、湯野上温泉駅に湯野上温泉駅足湯「親子地蔵の湯」の新名所が誕生しました。「親子地蔵の湯」の由来は、古くから駅駐車場に安置され大切にされてきた「親子地蔵尊」を足湯内に移設したことから名付けられました。この「親子地蔵尊」は、湯野上温泉駅に来られたお客様の旅の安全と近隣の皆さんの健康と地域の発展を祈願し建立されたものです。

 湯野上温泉駅の足湯「親子地蔵の湯」(:1112)

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<前回 旅ものがたり 湯河原温泉 三世代での湯河原温泉宿泊を想い起こし、孫の湯河原勤務を縁に親子孫での温泉旅行
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旅ものがたり 湯河原温泉 三世代での湯河原温泉宿泊を想い起こし、孫の湯河原勤務を縁に親子孫での温泉旅行

2014年07月24日 | 旅ものがたり

kan-haru blog 2013 料理に真心を込めるふかざわ

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湯河原温泉
孫が湯河原勤務となり、その孫が12年前の小学生であった2002年に、一家三世代で湯河原温泉宿泊の旅をしたことを想い出し、6月28、29日に親・子・孫で湯河原温泉の旅をしました。
湯河原への旅の初めは、高校生の遠足で湯河原駅から十国峠に登山して、熱海にくだった60数年前と古く、湯河原温泉に宿泊したのは、大学学友達とのグループ旅行で、10年ほど前と記憶しています。
最近では、2013年5月に「こごめの湯」に浸かり、2014年3月には湯河原梅林の観梅(「小さな旅 湯河原梅林 遺跡のある「鍛冶屋」地区に崖崩れ対策として植えた4000本の梅林で観梅」参照)をしています。

・料亭小宿ふかざわ
湯河原の三世代家族5人の旅行は、湯河原の料亭小宿ふかざわ泊となり、湯河原駅に15時に集合し、車でふかざわに向かいました。

 料亭小宿ふかざわ地図

料亭の小宿ふかざわは、湯河原駅からわずか400mほどの、町中の瀟洒な4階建ての部屋数10室のこじんまりした旅館です。かって、ミシュランガイドで2つ星を獲得したといわれる、お料理が楽しみの温泉です。

 料亭小宿ふかざわパンフレット

旅館に着くと、案内された【SAKURA】は、限定1室の人気の8畳2間の広い16畳のお部屋です。到着が早かったので、人気の「展望貸切露天風呂~翔天~」がチェックイン順に予約が取れ、17時30分から30分間は男性陣が入浴し、女性陣は流れる滝と湯船を包む岩壁が印象的な大浴場「滝の湯」に浸りました。翌朝は、逆に女性陣が露天風呂で、男性陣は鶴と亀が湯の側に佇んでいる長寿の湯を楽しみました。

 料亭小宿ふかざわ(:宿泊部屋[SAKURA]、:屋上の展望貸切露天風呂翔天、:大浴場「滝の湯」)

風呂上りを部屋でくつろいでいると、18時過ぎに食事のお知らせです。5人以上の宿泊客はダイニング「飛天」でのお楽しみの夕食です。当日は、5人以上の宿泊客は、われわれの1組のみでした。

 第1日目の楽しい夕餉のひと時
(:お部屋で一幅のお茶で休息、:「飛天」の間でお楽しみの夕餉のお料理、:夕食のお品書き)

料亭小宿ふかざわの夕餉の御膳は、食への出逢いとの触れ込みで、数多くのご馳走が並びました。飲み物は、食前酒を味わいビールのあと地酒の「湯が笑」です。

 夕食の御膳(左上中上右上左下中下:お膳に並んだ料理の品々、右下:地酒「湯が笑」)

夕食の後は、ゆっくりとくつろぎ、温泉に入ってから就寝するのが、温泉旅館の醍醐味です。快晴の明るさに寝覚めた後温泉に浸り、案内により8時過ぎに「飛天」で朝御膳です。朝食は、宿泊客の全員が、「飛天」でとります。

 ふかざわの朝食御膳(:「飛天」の間での朝食)

朝食が済み、お土産を購入して、9時45分には目的地の不動滝に向けて出発です。

 想い出の料亭小宿ふかざわ(ふかざわ玄関での記念撮影ふかざわフロント:おみやげ処)

・湯河原不動滝散策
湯河原町から国道75号を北北西に進み、不動滝(神奈川県足柄下郡湯河原町宮上)には10時に着きました。

 不動滝・湯河原美術館地図

湯河原五滝の一つで、落差15mの名瀑です。滝の左側には身代わり稲荷、右側には出世大黒尊が祭られています。不動滝では1931年に桜井欽一博士によって湯河原沸石が発見されました。湯河原沸石は、伊豆半島で最も古い新第三紀湯ヶ島層から発見されています。

 不動滝散策
(:不動滝)

・町立湯河原美術館
不動滝を引き替えし、湯河原駅までの途中にある温泉街に建つ赤レンガ造りの小さな町立湯河原美術館(足柄下郡湯河原町宮上623-1)を見学しました。開館時間は、9時から16時30分で、水曜日が休館です。入場料は大人600円、小・中学生300円です。

 町立湯河原美術館と入場券

美術館は、1998年(平成10年)に老舗旅館を改装して開館しました。2006年に日本画壇の第一線で活躍する画家・平松礼二画伯の作品を展示する「平松礼二館」を新設し、収蔵品の中から竹内栖鳳や安井曾太郎など湯河原にゆかりの画家の作品を展示する「常設館」を併設してあります。

 平松礼二館パンフレット

湯河原美術館の展示作品を鑑賞し、湯河原の美術を堪能して湯河原駅に戻り、駅前レストランで昼食をとり解散しました。

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カテゴリー別Index 旅ものがたり総目次 2006~20011年版2010~2014年版
<前回 旅ものがたり 善光寺・小布施・渋温泉 北斎が愛した小布施の歴史を追い、渋温泉でくつろぎ善光寺参りその5
次回 旅ものがたり 湯野上温泉 同窓旧友たちの旅での会津鉄道を懐かしみ南会津の癒しの温泉の旅その1

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旅ものがたり 善光寺・小布施・渋温泉 北斎が愛した小布施の歴史を追い、渋温泉でくつろぎ善光寺参りその5

2013年03月21日 | 旅ものがたり

kan-haru blog 2013 善光寺山門の扁額

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善光寺詣り
1日目は小布施を見学し渋温泉でくつろぎ、1997年4月に善光寺を訪れた時には、ご開帳と重なり参拝者で混雑のため落ち着いてお参りができなかったので、2日目はリンゴ狩りの後に善光寺詣りへと、信州中野駅10時59分発の長野電鉄に乗車して、11時47分に長野駅へ着き、昼食を頂くためタクシーで善光寺門前の食事処に案内して貰いました。

 善光寺門前付近地図(左:善光寺周辺地図、:善光寺門前地図)

食事処の門前茶寮・弥生座(長野県長野市大門町503)は、善光寺入り口前の西側の横町通りを入った所にあり、1995年(平成7年)12月28日にオープンしたお店です。料理のおもてなしは、信州の食材、旬の素材を取り入れ、各地に伝わる郷土料理や善光寺精進、家庭料理の良さをいかした創作郷土料理を紹介しています。

 長野での昼食は善光寺門前茶寮弥生座で(写真拡大20121030)

弥生座の建物は、1847年(江戸時代弘化4年)の「善光寺地震」(マグニチュード推定7,4)の直後に建てられた畳問屋を再生したもので、高い天井、太い梁、通り土間、階段箪笥など、長野の町家を楽しめます。
弥生座の由来の「弥生」は、善光寺創建以前、弥生時代からこの盆地に多くの人が暮らしていたことや、善光寺の開祖本田善光の夫人の名前にちなんでおり、「座」には、人々が賑やかに集い、語らう場にしたいという願いが込められています。長野県の伝統的工芸品に指定されている『農民美術』は、信州を代表する工芸品で、手仕事の素朴さやぬくもりを伝える木彫りとして広く親しまれています。(門前茶寮・弥生座HPから)

 弥生座に展示の農民美術工芸品の一部(写真拡大20121030)

善光寺
善光寺(長野県長野市元善町491)は、山号は「定額山(じょうがくさん)」で、無宗派の単立寺院であり、山内にある天台宗の「大勧進」(住職は「貫主」と呼ばれ天台宗の名刹から推挙された僧侶が務める)と25院および、浄土宗の「大本願」(尼寺で、住職は「善光寺上人」と呼ばれ、門跡寺院ではない代々公家出身者から住職を迎える)と14坊によって護持・運営されており、善光寺の住職は「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務めます。開基は皇極天皇で、創建年は644年(皇極天皇3年)です。
善光寺の参道は、善光寺入り口から本堂までは石畳(敷石)が敷き詰められており、本堂前の敷石は1713年(正徳3年)腰村西光寺住職単求の寄進と、二天門から山門までが江戸中橋上槙町の石屋香庄大竹屋平兵衛の寄進で1713年に完成し、敷石は西長野郷路山産の安山石の総数が7777枚と云われているが、現在およそ7千枚が敷設されており、市の文化財に指定されています。入り口から石畳みを進むと、石段があり、その石段を上ったところに仁王門があります。1752年(宝暦2年)に建立された仁王門は、1847 年(弘化4年)の善光寺大地震で焼失し、1864年(元治元年)に再建されましたが、1891年(明治24年)の火災でまた焼失し、現存のものは1918年(大正7年)に再建されたのけやき造りの高さが13.6メートル、間口が13メートルで奥行きが7メートルあり、扁額に伏見宮貞愛親王の筆で山号の「定額山」と書かれています。

 善光寺参道1(:善光寺入り口からの参道の石畳み、:善光寺入り口から石段を上がると仁王門、:扁額に「定額山」と書かれた仁王門20121030)

善光寺の仁王像は通常とは逆で、左側に「阿形」が置かれ左手に金剛杵を持ち右肩を上げており、右側の「吽形」は左手を振り上げて右手をまっすぐのばして、高村光雲と米原雲海の合作による彫刻です。仲見世通りの中央には通路があり、その東方には世尊院釈迦堂があり、そこには等身大の釈迦涅槃像(国の重要文化財に指定) 頭を北にして横臥しています。仲見世通り中央西側には延命地蔵尊があり、見過ごしました。現在の本堂が建立された後の1712年 (正徳2年)に、延命地蔵尊は造立されましたが、善光寺大地震や2回ほど火災に遭い、現在の延命地蔵は終戦後に再興されたものです。昔は、延命地蔵の場所に本堂がありましたが、火災類焼を避けるた現在の場所に移され、その後本堂は火災に遭うことなく現存しています。

 善光寺参道2(:阿形仁王像、:吽形仁王像、:仲見世通り中央付近の世尊院釈迦堂への通路20121030)

仲見世通りを進むと、石塀に囲まれた善光寺境内前の通路があり、境内の入り口には小さな石橋の「駒返りの橋」がかかっています。源頼朝は、1197 年(建久9年)に善光寺を参拝したと言われています。この石橋の端に穴があいており、その穴に馬の蹄がはさまってしまい、駒を返したところだと言われています。

 善光寺参道3(:善光寺境内に進む仲見世通り、:境内入り口前の駒返りの橋20121030)

駒返りの橋をわたり境内に入ると、右側に1759年(宝暦9年)に造立されたと云われる六地蔵は、大戦により供出され現在のものは昭和29年に再興されたものです。六地蔵の「六」は仏教の六道を表わし、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天のことで、この六の世界に赴き、迷える人を救おうという誓願を起こされています。濡れ仏と呼ばれる延命地蔵は、1922 年(享保7年)に水内群普光寺の真宋僧法誉円信によって造立され、像高は2.68メートルの銅像坐像です。

 善光寺境内の六地蔵と濡れ仏(:六道で人の悩みを救う六地蔵、:濡れ仏(延命地蔵)20121030)

六地蔵と濡れ仏を過ぎて、石段を上がったところにある山門は、桁行きが約20.4メートルで、梁行きが約8メートルの、高さ約18メートルの入母屋造りの大楼門で、1750 年(寛延3年)に建立され、1847年の善光寺地震などに耐えてきましたが、建物や屋根の老朽化が進み、2002年より2007年12月に大修理が行われ、建立時の姿が復活しました。山門の内部には、四天王に囲まれた木像文殊菩薩坐像、四国八十八ヶ所の札所本尊を模刻した百体仏が祀られ、文殊菩薩坐像が安置されていますが、時間の都合で2階には上がりませんでした。正面には、1801年(享和元年)に輪王寺宮公澄法親王の筆で書かれた、「善光寺」の扁額が掲げられており、通称「鳩字の額」(トップ写真参照)とも呼ばれており、鳩が五羽隠されています。現在の額は、「国宝善光寺本堂昭和大修理」の際に掛けかえられたもので、古い額は善光寺資料館に展示されています。

 善光寺山門(:山門、:善光寺山門手前のお水屋20121030)

山門を潜ると正面は善光寺本堂(国宝)です。現在の本堂は、1700 年(元禄13年)の火災の後に徳川幕府が松代藩に命じて、幕府お抱えの名匠甲良豊前宗賀の設計で造られたもので、間口が23.89メートル、高さが25.82メートルで、奥行きが53.67メートルの江戸時代中期仏教建築を代表する縦長の鐘木造りの大伽藍で、1707 年(宝永4年)に完成しています。本堂を入り外陣には、羅漢とよばれるびんずる尊者がおかれてあり、体の悪い部分と同じところを撫でると、良くなるといわれています。びんずる尊者の左は、親鸞聖人お花松です。外陣の奥は内陣で、約百五十畳敷きの広大な畳の空間が広がっており、参詣された信徒がお参りをする空間です。本堂の正面入り口に、献香所があります。
善光寺のご本尊は善光寺のご本尊の一光三尊式阿弥陀如来(善光寺如来)は、三国伝来の「日本最古の御仏」といわれており、本堂奥の厨子の中に安置されて今までに誰も見たことがないということです。時間の都合で、内陣、内内陣に入らず、また、お戒壇巡りは省略しました。

 善光寺本殿(左上中上:本殿、右上:本殿外人、左下:本殿外人、中下右下:献香所20121030)

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旅ものがたり 善光寺・小布施・渋温泉 北斎が愛した小布施の歴史を追い、渋温泉でくつろぎ善光寺参りその4

2013年03月16日 | 旅ものがたり
kan-haru blog 2013 渋ホテルパンフレットから

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旅ものがたり 善光寺・小布施・渋温泉の後編は、小布施から渋温泉、リンゴ狩りと善光寺参りの観光です。

渋温泉へ
渋温泉へは、15時19分発の元JR東日本253系成田エクスプレスの下り線には特急列車のスノーモンキーで、リンゴ畑の風景を眺めながら信州中野駅に途中停車して、終点湯田中駅には15時41分に到着です。

 長野電鉄で小布施から湯田中へ向かう(:小布施駅入線の下り特急列車スノーモンキー、:長野電鉄列車の車窓風景20121030)

湯田中の町を見学したいと思いましたが、駅に宿泊先の渋ホテルの送迎バスの案内人がおりましたので、小布施見学の疲れもありホテルにバスで直行しました。

 渋温泉

・渋ホテル
渋温泉の渋ホテル(長野県下高井郡山ノ内町大字平穏2173)は、湯田中駅から夜間瀬川に出て川沿いに上流へと進み、途中星川橋から支流の横湯川に沿って進むと渋湯橋のたもとがホテルの玄関です。

 渋温泉渋ホテル 

渋ホテルは、客室は和室が18室で、洋室が2室の5階鉄筋建ての温泉です。ホテルのエントランスを入ると左側には、ロビー・ラウンジまほろばがあり、そこには昭和30年代頃に実際に使われていた、机や椅子、そろばん、木琴、大きな定規などがあり、動揺や唱歌に耳を傾けると、小学校時代にタイムスリップの世界があり、遠い昔の懐かしい想い出がわくノスタルジアな雰囲気のホテルです。

 ノスタルジアな渋ホテルのロビー・ラウンジまほろば(左上:遠い昔を想いおこす雰囲気の渋ホテルのロビー、中上:昭和時代の小学校教室、右上:昭和時代の図書、左下:昭和時代のオルガンと冷蔵庫、中下:昭和時代のラジオ、蓄音機、タイプライタ、右下:昭和の各種遊びの人形20121030)

通された部屋で、横湯川の対岸や渋湯橋の風景を眺めながらお茶で休息してから、待望の温泉に浸かりました。

 渋ホテルからの展望(:客室から横湯川対岸の展望20121030、:渋ホテル脇の渋湯橋)

ホテルの温泉浴場の広さはこじんまりとし、男と女湯の内風呂と露天風呂に、貸切家族風呂があります。泉質はナトリウム・カルシウム-塩化物・硫酸塩温泉で、源泉温度は 97℃、60℃、36℃の3種類の混合泉で43℃~44℃に調節した源泉を、ブレンドした肌ざわりの柔らかな天然温泉を「かけ流し」で湯船にそそがれており、体の芯から温まり肌がツルツルになります。

 渋ホテルの内湯(写真拡大20121030)

渋温泉は歴史があり開湯1300年を経て、街道は江戸と信州善光寺を結ぶ草津道の要路で、湯宿として愛され重視されてきました。渋温泉には、9湯の外湯があり、宿泊者が全て巡って各湯の印を押し、最後に高薬師で印綬すると満願成就となり、厄除けや不老長寿などのご利益があると人気の厄除け巡浴めぐりがあり。また、横湯川の上流には、渋の地獄谷大噴泉が噴出し、その先には、約300匹のお猿が入浴する姿を見られる世界で唯一の公苑があります。

 渋温泉巡欲祈願押印手ぬぐい

夕食は、入浴後19時に食事処に行き渋温泉での晩餐です。食前酒は、調理長が1年前から仕込んだ果実酒とのことで、料理は北信濃の地元の素材で季節を感じるように手がけた懐石料理で、お品書に描かれた鮎、岩魚、松茸の土瓶蒸しなど山地のお料理を堪能しました。

 句の恵みと地元の食材が盛られた夕餉のお料理(左上中上右上左下中下右下:20121030)

朝食も、年配者には食べきれない量であり、玄関先の中庭で記念写真をとり、渋温泉周辺の観光は見送りとし、タクシーを呼んでリンゴ狩りから善光寺詣りに10時に出発です。

 想い出の渋ホテルを後に(:渋ホテルの朝餉の料理、:渋ホテルの中庭、:渋ホテルを後に20121031)

・リンゴ狩り
長野のリンゴ狩りの季節は、8月上旬から11月下旬ですので、新鮮なリンゴ狩りを北信濃の国道403号中野栗和田ランプ信号角の小林果樹園に行き、リンゴ狩りをしてきました。

 中野栗和田ランプ角小林果樹園地図

小林果樹園には、渋温泉から夜間瀬川を対岸に渡り、国道292号を北上して国道403号の交流点の中野栗和田ランプ信号角に有ります。果樹園は道路脇に直売所が設けられており、その脇に果樹園があり、赤いサンふじと黄緑の王林を狩りお土産に買ってきました。

 小林果樹園でのリンゴ狩り(左上中上右上左下中下右下:20121031)

リンゴ狩りを終えて、待たせたタクシーに乗り、国道292号と県道を通り長野電鉄の信州中野駅まで行き、そこから長野電鉄10時59分発で長野駅には11時47分に到着しました。

 長野電鉄信州中野駅を後に(:長野電鉄信州中野駅、:さようなら北信濃20121031)

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旅ものがたり 善光寺・小布施・渋温泉 北斎が愛した小布施の歴史を追い、渋温泉でくつろぎ善光寺参りその3

2012年12月10日 | 旅ものがたり
kan-haru blog 2012 「北斎漫画展―江戸伝承版木を摺る」案内        

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北斎が愛した小布施(続)
小布施が文化の香り高い地に育まれたのは、小布施有数の豪農・豪商の家に生まれた高井鴻山は、京都や江戸へ遊学し幅広く教養を習得し、学問思想に情熱を傾け、佐久間象山をはじめ広く日本史を彩った思想家、文人と交流して幕末の変革に関わり、江戸の浮世絵師葛飾北斎などの多くの文人墨客を招きました。
北斎が初めて小布施を訪れたのは83歳の秋で、それ以後都合4回訪れました。北信濃の経済の中心地として栄えた小布施を、北斎が愛して晩年の85歳と86歳に半年ずつ小布施に滞在して肉筆画に全力を傾注して描いた作品には、その1が岩松院本堂の大間天井に描かれた巨大な「八方睨み鳳凰図」で、その2は小布施の二台の屋台に描いた天井絵の肉筆画の作品です。

・北斎館
次の北斎館へは、フローラルガーデンおぶせから南方の町道を小布施駅の方向に進み、北信濃くだもの街道を越えて、国道403号線の手前にある四つ角を南に折れて、その先のT字路を西に向かうと左側に北斎館(長野県上高井郡小布施町大字小布施485)の入り口が見えます。

 小布施周辺地図

北斎館は、葛飾北斎の肉筆画、画稿、書簡などを集めて1976年(昭和51年)に開館して、1991年(平成3年)には増改築してリニューアルし、北斎の肉筆画は約50点あまりが保管され、版本や北斎漫画、天井絵が描かれた上町祭屋台などの北斎の画業が観賞できます。

 北斎館のパンフレット

北斎館の入場料は、大人が500円で、小中高生300円で、休館日は12月31日と臨時休館日があります。

 北斎館の入場券

北斎館訪れた10月30日には、企画展として開館35周年記念事業の葛飾北斎生誕250周年記念の「北斎漫画展―江戸伝承版木を摺る」が開催(10月6日~12月4日)されていました。

 小布施の文化の象徴の北斎館(:北斎館入り口、:北斎漫画展開催の北斎館)

企画展の展示場は、第一会場が北斎館の第一展示室(企画展示室)、第二展示室(版画展示室)、第五展示室(学習資料室)であり、第二会場が高井鴻山記念館で屋台蔵と穀蔵の展示と京都の芸艸堂が所蔵する江戸時代から伝承されてきたこの版木を使い、現代の職人が摺りなおした選りすぐりの各種の北斎漫画を北斎館と高井鴻山記念館で展示されまししたが、時間の都合で第二会場には行けませんでした。
「北斎漫画」は、1814年(文化11年)北斎が55歳の時に、300図余の下絵をもとに名古屋の版元永楽屋東四郎より出版され、当初は初編で完結予定が反響により続編が刊行され、1878年(明治11年)までに全15編が刊行されました。この画集には、人物のさまざまな姿態や顔の変化、動植物、風俗、妖怪など森羅万象あらゆる事物が描き出され、その数は3900余図にもなり、絵を描く練習の絵手本として多くの人に活用されました。(北斎新聞 北斎漫画大特集1号から)

 「北斎漫画」十編(北斎新聞 北斎漫画大特集1号リンク表示)

葛飾北斎が、九十歳で亡くなられる間際の1849年(嘉永2年)に「天がもう五年、私を生かしてくれれば、私は本物の画家になれたであろう」と言葉を残して去られました。北斎の絶筆に近い肉筆画「富士越龍図」は、雄大な富士を越えて黒雲とともに龍が昇天するという出世を意味するめでたい図は、巨星北斎が画業を成し遂げ天に昇る図であると捉えると思われます。(北斎新聞 北斎先生の生涯3号~北斎、天にのぼる編~から)

 「富士越龍図」(北斎新聞 北斎先生の生涯3号~北斎、天にのぼる編~リンク表示)

北斎館の第四展示室は屋台展示室で二台の屋台が展示され、東町祭屋台は、文化3年(1806年)に町中の寄附によって造営され、建造は、越後国浦原郡角海邑(現新潟県)大工棟梁栄太郎の作です。上町祭屋台は、文化2年(1805年)高井鴻山が私財を投じて建造したもので、二階建ての構造は東町祭屋台と同じ様式ですが、二階が飾り屋台として仕立てられています。(祭屋台 北斎館HPから)
その東町祭屋台の天井絵には「龍」と「鳳凰」図(1844 年(天保15年)作成)の二面と、上町祭屋台の天井絵には「怒涛」図の「男浪」と「女浪」(1845 年(弘化2年)作成)の二面が描かれております。(ブック・ナビ 北斎館 収蔵作品紹介から)
[東町祭屋台]

 東町祭屋台と天井絵(左:東町祭屋台、中:天井絵「龍」、右:天井絵「鳳凰」)
[上町祭屋台]

 上町祭屋台と天井絵(左:上町祭屋台、中:天井絵「男浪」、右:天井絵「女浪」)ブック・ナビ 北斎館 収蔵作品紹介リンク表示

・竹風堂
時間が頃合いとなりましたので、北斎館から西へ国道403号線に面した竹風堂小布施本店に立ち寄り、知り合いのところへの小布施のお土産の物色です。
 竹風堂小布施本店(写真拡大)

富良野・美瑛産赤えんどうを培煎し超微粒に挽き、粉糖と水だけを加えて作られている、初代が創製して百余年になる小布施三大名菓の一つの干菓子「方寸」を買い、東京に発送しました。

 小布施三大名菓の方寸

・小布施駅から渋温泉に向かう
小布施のおみやげも揃い小布施駅へと戻り、今宵の宿泊の渋温泉の最寄駅長野電鉄湯田中駅へと向かいます。文化の香り高い小布施ともお別れです。後で知りましたが、小布施には一茶句碑が30基建立されており、小布施駅前とホームにも、小林一茶の栗の里の句碑があります。
小布施駅前の句は、岩松院の句碑とともに一茶の真筆であるとのことです。
[小布施駅前の句]
「拾れぬ 栗の見事よ 大きさよ」 (「文政九・十年句帖写」文化10年9月)
[小布施駅ホームの句]
「いがごてら 都へでたり 丹波栗」 (「文政九・十年句帖写」文政10年閏6月)

小布施駅では列車交換のため元東急電鉄の8500系の電車が入線してきました。下り線には特急列車のスノーモンキーの元JR東日本253系成田エクスプレスが入線してきました。小布施駅発は、15時19分発で湯田中到着は15時41分着で、名残り惜しい小布施駅を出発です。

 小布施駅の列車交換風景(:上り普通列車の入線、:上り普通列車の到着、:下り特急列車の入線)

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旅ものがたり 善光寺・小布施・渋温泉 北斎が愛した小布施の歴史を追い、渋温泉でくつろぎ善光寺参りその2

2012年12月06日 | 旅ものがたり
kan-haru blog 2012 北信五岳の斑尾山(標高1381.8m)       

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北斎が愛した小布施(続)
・浄光寺
岩松院から小布施の2つ目の古刹の浄光寺へは、せせらぎ緑道を山麓沿いに曲がりくねって進むと、フローラルガーデンからの道との交差点の正面が浄光寺(長野県上高井郡小布施町雁田676)で、雁田薬師と呼ばれて信仰を集めています。山号は浄瑠璃山、宗派は真言宗豊山派で本尊は聖観音が祀られています。創建は、730年(天平2年)に僧玄明が開山し、809年(大同4年)に坂上田村麻呂が北夷征定の際、戦勝祈願を行い見事願いが達成された為、堂宇を再建し境内を整備しました。
浄光寺大門前の道端に小林一茶の句碑があり、「山寺や畳の上の栗拾ひ」は1818年(文化15年)4月に春甫と雁田参りで詠んだ句です。なお、薬師堂の石段の途中にも「大栗は猿の薬禮と見へにけり」と詠んだ句碑があり、1819年(文政2年)9月の一茶が57歳の時の句です。

 雁田薬師境内案内(小布施観光協会HPから)

浄光寺大門の左の大いちょうの前には湧水の御霊泉があり、小布施には小高くなだらかな雁田山が横たわっており、その雁田山山麓湧水群で崖錐端に湧く「沢清水」で水温は年間通して11℃~12℃であり、全国からお水くみのお客様がみえます。

 浄光寺大門前の御霊泉(:浄光寺大門前、:御霊泉、:御霊泉左手の池の奥が浄光寺本堂)

御霊泉の隣には池があり、その先にある現在の浄光寺本堂には、本尊の木造観世音菩薩、多聞天、不動明王、弘法大師、興教大師を祀ってあります。本堂は1879年(明治12年)に焼失しましたが、1976 年(昭和51年)に近くの旧都住小学校校舎の古材を活用して建てられています。また、御霊泉の隣にある山門には赤と白に塗られた仁王様が立ち、門を潜ると無造作に並べた野面積みの石段を150段ほど登ったところに薬師堂があります。

 浄光寺本堂と山門(:浄光寺本堂(HPから)、:浄光寺山門、:山門から薬師堂を望む)

薬師堂は、1408年(応永15年)に再建されたもので、茅葺の一重入母屋で三間四面の堂で、室町時代初期の寺院建築の手法が残る貴重な建築として国指定重要文化財に指定されています。薬師堂は、2008年で建立満600年を迎えましたが、その前年の2007年に茅葺屋根の総葺き替え工事を行い修復されました(浄光寺HPから)。
薬師堂内には、本尊の薬師瑠璃光如来坐像は十二神将と日光・月光両菩薩像に囲まれており薬師堂建立の翌年の作であり、阿弥陀如来坐像壁画、金銅仏などの文化財が収められています。御霊泉を湧水する小布施町の東端にある雁田山は、火山活動により生成したものといわれ、裾野がほとんどなくまるで町に山があるようです。雁田山の標高は786mであり、小布施町の海抜が360mなので、その差が頂上までの高さです。

 薬師堂と雁田山(:薬師堂へは野面積の石段を登る、中:薬師堂(HPから)、右:雁田山(HPから))

・フローラルガーデンおぶせ
小布施は花の町であり、浄光寺から門前の町道を小布施駅の方向に進み、北信濃くだもの街道の手前のバス停交差点の、雄大な北信五岳と間近にそびえ立つ雁田山の壮大なパノラマに囲まれた場所に、小布施町6次産業センターとフローラルガーデンおぶせ(上高井郡小布施町大字中松506-1)があります。

 フローラルガーデンおぶせ地図

6次産業センターは、農業が食料品の原料のみ提供する1次産業にとどまることなく、食品加工(2次産業)や、販売・情報・観光(3次産業)へも積極的に乗り出し、付加価値と雇用の場を創り出す創業産業目指したのが6次産業センターで、1階が農産物直売所になっており、展示スペースの他、研修室、加工室などがあります。

 6次産業センターおぶせ(左上:6次産業センター農産物直売所、中上右上:農産物直売、左下:りんごの直売、中下:、右下:小布施の栗)

フローラルガーデンは、地上の花々を守ると言われる花と春の女神の名「Flora」の語源から、花と人が創り出す 現代の楽園となるよう、 名付けられました。花のミュージアムのフローラルガーデンおぶせは、鑑賞温室660平方メートル、鳳凰花壇1,400平方メートル、イベント広場1,300平方メートル、アンサンブルガーデン、花木園、万葉の道などの植栽園が3,000平方メートルと、計15,000平方メートルのガーデンで、入園料は大人が200円 、高校生が100円、小中校生は無料です。時間がとれないのでガーデンの見学はパスしました。

 フローラルガーデンおぶせ(・右:(小布施HPから))

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旅ものがたり 善光寺・小布施・渋温泉 北斎が愛した小布施の歴史を追い、渋温泉でくつろぎ善光寺参りその1

2012年12月03日 | 旅ものがたり
kan-haru blog 2012 小布施観光案内帖「信州おぶせ」岩松院から       

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毎年秋には、一泊で温泉に浸るのが楽しみであり信州の紅葉を見たいと思い、秋深まる10月30日に長野渋温泉を選びましたが、今年は紅葉が遅く信州の山はまだ色付いていませんでした。東京駅の出発は、9時20分発新幹線あさま511号で、長野駅には11時5分に到着です。

北斎が愛した小布施
・小布施駅
小布施には、長野発11時43分の長野電鉄の普通電車に乗り、小布施駅到着は12時20分でした。

 長野電鉄路線図

小布施駅では、列車交換で上り特急の「ゆけむり」の進行方向右側の2番線ホームへの入線待ちです。なお、小布施駅は、1926年(大正15年)に長野電鉄株式会社の創設者の神津藤平により建設された樽川第二発電所のペルトン水車と水圧鉄管が、1993年(平成5年)に中部電力株式会社から長野電鉄へ寄贈され、プラットホーム上に展示されています。

 小布施で特急電車「ゆけむり」の待ち合わせ(:小布施で待ち合わせの下り普通電車(元東急電鉄8500系)、:交換の上り特急「ゆけむり」の入線(ホーム中央にはペルトン水車と水圧鉄管が展示されています)、右:試運転のゆけむり(元小田急電鉄10000形2006年))

特急が入線の小布施駅左側の側線にはながでん電車広場があり、2012年3月に引退した長野電鉄オリジナル2000系特急車両が保存されています。長野電鉄は、鉄道マニアにとって魅力の鉄道で、特急電車の編成の2100系の「スノーモンキー」には元JR東日本253系成田エクスプレスが走り、また1000系の「ゆけむり」には元小田急電鉄10000形HiSEで運転されています。なお、長野-信州中野間の普通電車には、元東急電鉄の8500系の電車が運行しています。

 引退の2000系特急車両が保存されているながでん電車の広場(写真拡大)

小布施駅(長野県上高井郡小布施町小布施1497−2)は、1923年(大正12年)3月26日に営業開始の駅で、長野を起点にして17.5kmの地点にあり、2面3線のホームです。

 小布施駅(:改札口へは踏切をわたり3番ホームから出る、:小布施駅入り口、:小布施駅前広場)

小布施町探索
小布施駅内の文化観光協会観光案内所で、おぶせの観光ガイドを貰い、昼時なので小布施のそばを食したいと思い駅近くにある蕎麦屋さんを教えて頂きました。

 小布施観光案内帖

お蕎麦屋さんは、駅前通りを四つ角まで進み、商工会館前の右側の「つくし」ので手打ちの信州本場の蕎麦を味わいました。

 小布施駅前通り(:小布施商工会館、中:小布施そばところ「つくし」、右:「つくし」店内)

・岩松院
駅前に戻ると13時半をまわっていましたので、これから小布施町の探索はタクシーで回ることとしました。東京を発つ前に得た情報では、岩松院前住職が亡くなられて、岩松院本堂の大間21畳の天井に、葛飾北斎が江戸末期の1848年(嘉永元年)に89歳で描いた「八方睨み鳳凰図」が、本葬のため10 月29日より11月2日まで本堂が閉められ見られないことでしたが、境内には入ることができるようなので、まずは探索を岩松院からスタートとして、再び駅前から343号県道を進み、国道403号の中町交差点から東北東に向かい、町立歴史民俗資料館を左に見て進むと、岩松院(がんしょういん)仁王門前の広場に到着です。

 小布施周辺地図(拡大)

岩松院(長野県上高井郡小布施町615)の開創は、1472年(文明4年)に雁田城主の荻野備後守常倫公の開基で、不たく玄珪禅師の開山です。山号は梅洞山、宗派は曹洞宗で本尊は釈迦如来です。岩松院の境内には、1987年(昭和62年)竣工落慶の仁王門の前に六地蔵、古墳墓石の大円相と1953年(昭和28年)建立の太子堂が並んでいます。岩松院仁王門の真っ赤な仁王像は、向かって右側は開口の阿形像で、左側は口を結んだ吽形像のユニークなお姿の一対の護衛役です。仁王門の裏側には観音像と大黒天が祀られています。

 岩松院の仁王門(:岩松院山門前広場、:岩松院仁王門、:開口の阿形像(口を結んだ吽形像クリック))

仁王門を潜ると広場の右側に、岩松院天井絵を調査し北斎直筆と発表した由良哲次(1897年 - 1979年)博士の石碑があり、左手には弁天池があり昔からお茶の水用として汲みに来ます。参道の先は石段を登り正面が本堂で、天井に葛飾北斎の「八方睨み鳳凰図」があり、福島正則公の遺品が展示してありますが、寺法要のため拝観できませんでした。

 若松院本堂(:石段を登ると正面が本堂です、:岩松院本堂、:八方睨みの仏様の功徳)

本堂と向かい合った白壁の座禅堂は禅寺の座禅修業場で、奥の鐘楼は岩松院では一番古い建築物です。本堂の左手には十一面観音菩薩像が建立してあり、蛙合戦の池と福島正則公の霊廟へは、本堂の左横から本堂裏に進みます。

 本堂周辺(:左は寺院では一番古い建築物の鐘楼、右は座禅堂、:十一面観音菩薩像、:福島正則公霊廟と蛙合戦の池へは本堂の横から)

福島正則公霊廟は本堂裏の石段の上にあり、正則は関ケ原の戦いで徳川家康に味方し、安芸・備後で49万8千石を領する大名となったが、1619年(元和5年)に武家諸法度に触れたとして、信州・越後の4万5千石に減封となり、松川の治水事業などに取り組んだが、1624年(寛永元年)に64歳で亡くなり、幕府検死役を待たずに火葬したとして領地は没収となりました。正則は仏教を信仰し、岩松院を菩提樹として海福寺の寺号を付け、霊廟に遺骨を埋葬し、埋葬標識として五輪塔を建て上屋が正則公の霊廟です。
霊廟の手前の右手には蛙合戦の池があり、花見時に多数のひき蛙が集まり、雄が数の少ない雌を奪い合いとなって合戦となります。俳人小林一茶(1763~1827)は、1816年(文化13年)に岩松院を訪れ蛙合戦を見て、「痩せ蛙まけるな一茶これにあり」と詠んだ句碑があります。

 福島正則公霊廟と蛙合戦の池(左上:福島正則霊廟、中上:福島正則公霊廟の説明版、右上左下:蛙合戦の池、中下右下:一茶句碑)

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旅ものがたり 徳島鳴門旅行 八木の鼻漁港さびき釣り、鳴門渦潮水中観測船、淡路島周遊(第3日目その3)

2011年02月06日 | 旅ものがたり
kan-haru blog 2011 神戸淡路鳴門自動車道を淡路島から鳴門に戻る    

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淡路島に寄り道し高松への帰路に向かう
徳島鳴門旅行の目的であった鳴門の渦潮を見たので、折角四国の東端に来たので鳴門海峡の対岸にある兵庫県の淡路島に寄り道して昼食をとった後、高松空港へと向かい帰路につきました。

 鳴門から淡路島へ 

・大鳴門橋
淡路島へは、亀浦観光港観潮船乗り場から、宿泊したルネッサンスリゾートナルトの前に戻り、鳴門北インターチェンジから神戸淡路鳴門自動車道に入り、鳴門の渦潮の上の鳴門海峡に架かっている大鳴門橋を渡ります。
大鳴門橋は、徳島県鳴門市鳴門町土佐泊浦と兵庫県南あわじ市福良丙間の鳴門海峡の最狭部を結ぶ吊り橋で、1985年 (昭和60年)6月に開通しました。橋長は1,629mで、中央径間は876mで、幅員は25mで、主塔の高さは144.3mあり、橋は上下2層式となっております。上部は片側3車線の道路で、現在は計6車線の内の中央の4車線を使用しており、下部は将来的に鉄道を通すことが出来る構造となっています。

 大鳴門橋(:大鳴門橋空中写真Google、:大鳴門橋鳴門側橋脚(再掲)、:橋脚は渦潮への影響を最小限に抑えるために多柱基礎構造を採用(再掲))

1985年 (昭和60年)6月に開通当時は、東洋一の吊り橋として完成してから、旅行の年の2010年6月は大鳴門橋開通25周年を迎え、6月には大々的なイベントが行われた様です。
イベントの内容を見ると6月6日に、鳴門市文化会館でベートーヴェン「第九」交響曲演奏会が開かれ、第1日目の俘虜収容所におけるドイツ兵捕虜によりベートーヴェンの交響曲「第九」の全曲の演奏のドイツ館での模擬展示(「旅ものがたり 徳島鳴門旅行 四国霊場(一・二番札所)、大塚国際美術館、鳴門のうず潮を巡る (その2)」参照)が想い起こされ、同6日には阿波踊り in 渦の道でのイベントの、渦月連による阿波踊りの演舞(「旅ものがたり 徳島鳴門旅行 四国霊場(一・二番札所)、大塚国際美術館、鳴門のうず潮を巡る (その3)参照」)については、ホテル第1夜でかげつ連出演の阿波踊りが披露され本場の踊りが堪能でき、徳島鳴門旅行の良い思い出が残っています。

 鳴門旅行の思い出の一コマ(左:俘虜収容所におけるベートーヴェンの交響曲「第九」演奏の再現場面[ドイツ館にて]、右:渦月連による阿波踊りの演舞[ホテルにて])

・淡路島
瀬戸大橋を渡ると兵庫県の淡路島で、島は北東から南西へかけて細長く伸びて南北が約53kmで、東西が約22km、周囲が約203kmであり、島の北部は幅が5kmから8kmと細く、南部では幅が拡がっています。面積は、592.26km²で対馬に次いで第7位の大きさであり、鳴門から入ると南あわじ市で、北に向かって洲本市、淡路市と続きます。地形は、北部と南部が淡路山地で山地急斜面は海岸まで迫ります。中南部は淡路平野で占められ、気候は温暖であるが、冬季に雨が少ない瀬戸内海式気候に属しています。このため多くの農業用ため池があり、島内では23,000を超えるそうです。

 南あわじ市阿那賀鎧崎(淡路島には農業用ため池が多い)

淡路島は地理不案内であるがとりあえず瀬戸大橋を渡り、淡路島南インターチェンジで神戸淡路鳴門自動車道から降りて、西海岸沿いに進んでもお店が1軒も見当たらず、南あわじウインドウファーム風車が並んでいるだけで、このあたりは民宿が多くあり夏場の海水浴場のようです。
時間は午後3時近くになり、まだ昼食が済んで無いので、ユータンして戻り兜崎にたった1軒の食事処「坂口荘」がありましたので、瀬戸内海の活魚料理で遅い昼食をとりました。

 鎧崎の食事処で遅い昼食をとる(写真拡大)

淡路島では見物する余裕の時間が無いので移動しながら、大見山の2004年3月にタワーの高さが97.5mで翼の直径が75mの風力発電機が導入されており、現在日本最大級の発電力を誇る15基(1基の発電能力200kw)の風力発電機が立ち並ぶ風景を車窓から見ましたが、なかなかの壮観でした。

 南あわじウインドウファーム風車(・右写真拡大)

・札所83番一宮寺に寄り道して高松空港へ
淡路島での昼食後大鳴門橋を鳴門に戻り、高速道を高松東道路に移り途中のサービスエリアで小休止し、一路西へと進み高松中央インターチェンジで高速道を降りて、県道172号を南に進むと一宮町交差点です。交差点の南西に第83番札所一宮寺がありますので、寄り道して門前に着いたら午後5時20分過ぎでしたので、札所は閉門となっていました。

 札所83番一宮寺

一宮寺(香川県高松市一宮町607)の創建は、わが国に仏教が伝来して約160年後の歴史を誇ります。開基は、奈良仏教の興隆の礎を築いた義淵僧正で、当時は大宝院と呼ばれ、南都仏教の一つ法相宗の普及をはじめました。また、大同年間に弘法大師が訪れ約106cmの"聖観音" 聖観世音菩薩を彫造し、伽藍の再興にあたり、この時に真言宗に改宗されました。一宮寺も、天正の兵火により灰燼に帰しました。本堂は、1701年(元禄14年)に十方施主により再建されました。平成18年に竣工の護摩堂前の石灯籠は、西村金造氏の創作の灯篭です。
さすが11月23日ですので、秋のつるべ落としであたりは見る見る暗くなってきましたが、暗い中の一宮寺をお参りさせて頂きました。

 第83番札所一宮寺(左上:境内側から見た仁王門、中上:西門、右上:、左下:大師堂、中下右下:護摩堂)

一宮寺のお参りをして、高松空港に向かいレンタカーを返して、予定通り空港19時10分発ANA540便にて羽田空港には20時20分に到着して、楽しい旅も無事に終わりました。

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旅ものがたり 徳島鳴門旅行 八木の鼻漁港さびき釣り、鳴門渦潮水中観測船、淡路島周遊(第3日目その2)

2011年02月03日 | 旅ものがたり
kan-haru blog 2011 観潮船の甲板上の船室  

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観潮船で鳴門の渦潮を見る
鳴門公園亀浦観光港を出発した、水中観潮船アクアエディの展望室の水中窓からは、あまり透明でない水面下1mの青色の海水しか見えない座席で、そろそろ飽きてきたころ「渦潮に接近したので、甲板に上がって見て下さい」の船員の声が聞こえたので、船客は一斉に甲板へと上がって行きました。

 水中観潮船アクアエディで渦潮へと向かう(左:満員の水中観潮船アクアエディの水面下の展望室、・右:水中観潮船の甲板上の船室)

外の風景は、風は収まり鳴門市孫崎と淡路島との間の鳴門海峡の瀬戸大橋の付近の鳴門海峡は幅が1.3kmと狭く海峡内に深さが200mの深いくぼみの地形があります。また、この鳴門海峡独特の海底の地形が潮の干満にともない、鳴門海峡をはさんだ播磨灘と紀伊水道との間で海水面に水位差(最大約1.5メートル)が生じ、海面の高い満潮側から低い干潮側へ激しい勢いで海水が流れ込み、中央部を流れる速い流れと、その両側の遅い流れとの速度差で鳴門の渦が発生するのです。

 鳴門海峡渦潮の上に架かる鳴門大橋(左上中上右上左下中下右下写真拡大)

2010年11月23日の潮見は干潮の大潮が13時10分で、渦潮近辺を周回していた時間は13時過ぎから干潮時間のちょっと前までの時間帯であり、渦潮見物には良い条件でした。当日の13時13分の潮流の速さは、南流で8.7ノット(16.1km/h)(第5管区海上保安本部調べ)でありました。また、当日の観潮は、大潮の引き潮に当たりましたが、満潮の渦潮と干潮の渦潮を体験で比べてみると、干潮の渦潮の方がよりダイナミックに感じるのではと書かれており、しかも前日の22日が望(満)月であり渦潮を見学の条件としては最良のタイミングに恵まれました。

 2010年11月潮見表

観潮船は、大小無数の渦巻が発生する間を縫い、目の前で渦潮を見ながらコースをとります。海面のあちこちで渦が発生し、やがて数十秒が経つと消えることをくりかえしており、これが待望の鳴門の渦潮です。

 観潮船からの渦潮見物(写真拡大)

観潮は、風も収まり渦潮による船の大揺れの遭遇はありませんでしたが、渦潮の輪は大輪で直径が15 m程度ありましたが、春、秋の大潮の時は直径が20mに及ぶときもあるそうで、世界でも最大規模と云われています。

鳴門海峡渦潮.wmv

[クリックすると、水中観潮船アクアエディから撮った鳴門の渦潮が見られます]

あちこちに渦潮が湧くように現れる様は雄大には違いないのですが、目の前で見る観潮は小型船で水面差が低いため、渦潮を見る視野が1個に注がれる関係もあり、観潮前の期待の思惑とは異なる印象でした。むしろ、大型船で高所から次々に移動しながら発生する多数の渦潮をみる方が、スケールを感じたかも知れません。
水中観潮船は観潮遊覧の所要時間は25分で、亀浦観光港には13時10分に戻りました。水中観潮船アクアエディ料金は、大人2200円で子供1100円でした。

 鳴門海峡渦潮の観潮を終え亀浦観光港に帰る水中観潮船(写真拡大)

・干潮時の鳴門海峡の渦の出来方
鳴門海峡に渦潮ができるのかを見ていきます。例えば2010年11月23日6時40分の鳴門海峡の南側の紀伊水道が満潮の場合、鳴門海峡は幅が狭いので紀伊水道から播磨灘へ流れる潮流(北流)は流れが速くなります。また、13時10分の紀伊水道が干潮に場合には、播磨灘から紀伊水道に流れる潮流(南流)が速くなります。
それは、紀伊水道から播磨灘への潮流は鳴門海峡の他、大阪湾方面への潮流があり、そこから明石海峡を通って、淡路島を一周して播磨灘側の鳴門海峡に6時間かけて到達すると云われております。その結果、紀伊水道が13時10分になると干潮となり、一方の鳴門海峡北側の播磨灘側の海面は満潮の高さとなり、鳴門海峡の海面に落差が出来て南流れの潮流により早い流れが発生します。
潮の流れが速いと渦潮が出来る理由は、鳴門海峡は中央部がぐんと深く約100メートルほどあり、この潮流は本流と呼び抵抗なく早く流れます。一方、本流の両岸は浅瀬になっているため、抵抗があって流れは緩やかです。渦潮は、流れの速い本流と、その両サイドの緩やかな流れの境目付近で渦が発生します。速い本流の流れに流れの遅い水が引き込まれて渦潮がまくものと考えられています。潮流が北から南に向かって流れている時(南流時)、大鳴門橋を背にして正面を向いた時、右側(鳴門側)には時計の針の動きと同じ右巻きの渦が、そして左側(淡路島側)には左巻きの渦が発生します。南流時は鳴門側に、北流時には淡路島側にのみ多く発生し、右巻きの渦潮がほとんどなのです。

 鳴門海峡の潮の流れ

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旅ものがたり 徳島鳴門旅行 八木の鼻漁港さびき釣り、鳴門渦潮水中観測船、淡路島周遊(第3日目その1)

2011年01月31日 | 旅ものがたり
kan-haru blog 2011 水中観潮船展望室の船首側から船尾を見る  

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第3日目
第3日目の11月23日最終日は、午後に水中観測船アクアエディに乗り期待の鳴門の渦潮を見学して、帰るまでの時間を淡路島を回遊して高松空港19時10分発で羽田に帰る行程です。

 鳴門の渦潮と淡路島を結ぶ大鳴門橋地図

八木の鼻漁港でのさびき釣り
23日は快晴で、ホテルの部屋から淡路島の展望を楽しんだ後、ルネッサンスリゾートナルトのレストラン采で9時に朝食を済ませました。

 ホテルの部屋から風光明媚な鳴門の海を望む(:北方の鳴門大橋を望む、:対岸の淡路島を望む、:南方の八木の鼻を望む)

孫は、昨秋から大森でハゼ釣りを初めて行い、釣りに大変と興味を持ち、折角鳴門に来たので、是非さびき釣りをしたいとの希望で、9時半から2時間の1人2千円で契約をして、初めてのさびき釣り体験を八木の鼻漁港へと、喜び勇んで孫親子で出かけました。
鳴子は釣り場の宝庫で、北の折野漁港から南の里浦海岸の間に18ヶ所の釣り場があり、その中の八木の鼻漁港の釣り場はホテルの南に車で5分ほどのところにあり、アジ、サバ、メバルやグレ(メジナ)など豊富な種類の魚が釣れます。

 鳴門のさびき釣りの八木の鼻漁港と渦潮遊覧船乗り場地図

さびき釣りは、防波堤での釣りや、湾内での少し沖目での投げ釣りに用いられ、安価・安全で簡単な釣り方で、初心者、子供やファミリーも楽しめるレジャーとして人気を集めています。
さびき釣りの釣りの仕掛けは、1~3メートル程の幹糸に3~12本の釣り針を付け、その針にスキン系や魚皮系、鳥の羽などを巻きつけてたもので、魚はこのハリをエサと間違へて食いつき吊り上げる釣り方です。
鳴子は釣り場の宝庫で、北の折野漁港から南の里浦海岸の間に18ヶ所の釣り場があり、その中の八木の鼻漁港の釣り場はホテルの南に車で5分ほどのところにあり、アジ、サバ、メバルやグレ(メジナ)など豊富な種類の魚が釣れます。
午後の鳴門の渦潮見学のためルネッサンスリゾートナルトのロビーで待っていると、目を輝かして得意顔で釣りから戻ってきたので、成果を聞いてみると何と2時間で大形のグレ1匹、小ぶりのグレ3匹、アジ34匹に赤アジ1匹の大漁です。せいぜい、アジを20匹くらい釣ってくるのかなと予想していましたが、思いの他の成果で早速内臓を取り除いて貰い、クール宅急便で東京に発送です。孫は釣りを初めて半年で簡単に多量に採れたので、釣りは簡単と感じたのではと思いますが、釣りは1日やっても1匹も釣れないこともあり、特に今回の大きなグレに当たったのは運が良かったのです。釣れない経験を多く踏んで、1人前の釣り人に成長します。

 こんなに釣れるのではさびき釣りは止められない(左:こんな大きいグレが釣れたぞ、:グレが4匹も釣れたぞ、:アジが35匹の大漁)

グレは四国の地方名で一般にはメジナと云われ、釣り人の間では磯釣りの対象魚として人気が高い魚で、スズキ目・イスズミ科(メジナ科とも)に分類される魚の一種で、東アジアの温暖な浅海に分布する海水魚です。魚屋やスーパー等の鮮魚売場で売られる「黒目鯛」はメジナのことです。メジナの成魚は全長60cmに達するが、よく漁獲されるのは40cm程までであるが、同族種のクロメジナの成魚は全長70cmに達し、またオキナメジナは成魚は全長45cmほどだそうです(Wikipediaから)。
メジナはクセが無く淡白な白身で、刺身、たたき、カルパッチョ、焼き魚、煮付け、唐揚げ、鍋料理など様々な調理ができるので、旅行から帰ってグレは塩焼き、鯵は唐揚げと南蛮漬けで食べましたが、どれも最高の味わいとのことでした。

 自分で釣った魚は美味しい

観潮船で鳴門の渦潮を見る
今回の旅行の中で鳴門の渦潮を真近で見るのが目的の一つで、最終日に鳴門観光汽船の水中観測船アクアエディの乗船を予約しておきました。さびき釣りの大漁で孫が満足して、12時10分にホテルチェックアウトし、ホテル前の道から大塚国際美術館を通り抜けて、三叉路信号交差点で左折し、「観潮船のりば」の看板が正面に見えてきたところを海沿いに右折して進むと亀浦観光港観潮船乗り場です。

 鳴門観光汽船乗場(鳴門観光汽船から)

乗船場では、今日は風が強いため船が揺れますのでご注意くださいとアナウンスしています。次の小型水中観潮船出航予定時間は12時45分で予めの予約客しか乗れず、大型観潮船出航予定時間は13時00分で先着順に受け付けています。当日の渦潮の見頃時間は、南流の最強時が13時10分であり絶好の時間帯です。

 渦潮観潮船乗船(:乗船券発売所、:当日の渦潮の見頃時間)

予約済みですので、小型水中観潮船アクアエディの乗船券を買い、指定座席はB-01から04で船首の先頭です。

 水中観潮船アクアエディ乗船券

出発時間が近づくと乗船が開始され、全員が水中展望室の座席は満席で着席させて出航です。揺れはそれほどでも無く、観潮船はかなりの距離を進みましたが、水中展望室の窓からは水中の渦潮などを見られる気配がありません。船が渦潮に向かい進んでいきましたが、風がおさまった様で揺れはほとんど感じませんでした。
水中観潮船アクアエディの定員は42名で、水面下1mまで水中展望室が下がり、海中が見え水中の渦の様子が見られるという点では画期的な水中観潮船です。鳴門の海中の透明度は高くないのでどの程度見られるのかは不明です。今回は、渦潮は甲板上からみました。

 水中観潮船アクアエディに乗船(:岸壁に停泊の水中観潮船アクアエディ::水中展望室指定席に着席、:水中展望室の窓からの水中には何も見えない)  

一方の大型観潮船わんだーなるとは定員が400名で、1等の2階客室と、2等の1階客室があります。

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旅ものがたり 徳島鳴門旅行 世界の名画と古代礼拝堂などを再現した大塚国際美術館(第2日目その3)

2011年01月10日 | 旅ものがたり
kan-haru blog 2011 ムンクの展示場で学芸員から「叫び」等の名画の説明を聞く入場者 

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・地下2階展示場(続)
地下3階から2階へと古代、中世、ルネサンスからバロックの時代の知っている名画にも出会いながら大まかに見て歩き、時間をみると12時45分が過ぎていましたが、雨もほとんど降ってなく遅れついでに昼食は後として、地下2階のブロッタ展示場からモネの「大睡蓮」屋外環境展示に進みました。
パリのオランジュリー美術館にある、2部屋を占める楕円形の大広間壁いっぱいに展示されているクロード・モネの「大睡蓮」は、ジヴェルニーのモネ自邸の水の庭園と睡蓮の池を題材にし、86歳でなくなるまでの最後の10年をかけて描いた睡蓮の池です。
大塚国際美術館では、屋外の展示とし周囲に睡蓮の池を配して、楕円形の壁いっぱいに陶板名画に再現された「大睡蓮」が展示されて、曇り空にはとても良く睡蓮の池が映えていました。

 モネの「大睡蓮」屋外の環境展示(左上中上右上左下中下・右下写真拡大)

地下2階展示場も大体廻ったので、エレベータで1階別館にあるレストラン・ガーデンに入りました。レストランのメニューには、鳴門鯛の茶漬け、鯛めしとうどんセット、阿波尾鶏のオーブン焼き、各種ランチ、海鮮丼や最後の晩餐などがあります。メニューの最後の晩餐は、テーブルシートによるとメニューの考案は服部幸應先生(服部栄養専門学校校長)、小山裕久先生(青柳主人)で、献立は昔魚の香草風味ローティー、仔羊のあぶり焼き、赤ワイン、昔々パン、オレンジ・レモンでの料理で、上品に指を使って食べるのが当時の宮廷のマナーでしたと書いてあり、思い思いにメニューを選び遅い昼食を採りました。

 大塚国際美術館レストラン・ガーデン(左:レストラン・ガーデン、:テーブルシート、:メニュー「最後の晩餐」)

・地下1階展示場
昼食を14時に終わり、エレベータで地下1階展示場に降りて、バロック時代のゴヤの名画が約10点と、近代のターナ、ミレー、ルノワール、ゴッホ、セザンヌ、ゴーギャンやムンクなど約330点の名画鑑賞を再開しました。
地下1階展示場のギャラリーBでは先ずは、孫が「ギャラリートーク ロボット」に認識させ、似ている名画の人物を探し出すプログラムを実施して、マネの「笛を吹く少年」が指摘された名画に対面です。「笛を吹く少年」は、パリのオルセー美術館貯蔵の印象派における先導的存在の画家エドゥアール・マネ屈指の1866年の代表作のひとつで、日本の小学生で覚える名画です。
ギャラリーBを進むと、次にはこれも同オルセー美術館所蔵の、1857年にフランスの画家ジャン=フランソワ・ミレーによって描かれた「落穂拾い」は知名度の高い名画です。
ギャラリーCに進むと、1804年のパリのノートルダムで行われた皇帝の戴冠式を描いたジャック・ルイ・ダヴィッドの1807年頃の作品「皇帝ナポレオン1世と皇后ジョセフィーヌの戴冠」で、パリのルーヴル美術館に所蔵されています。

 近代の名画1(:「笛を吹く少年」と孫、:落穂拾い、:皇帝ナポレオン1世と皇后ジョセフィーヌの戴冠) 

地下1階展示場のセンターホールを越えたギャラリーでは、ノルウエーのオスロ国立美術館所蔵のエドヴァルト・ムンクの作品が展示されており、その中の1890年代に同じ題名・同じ構図による個別の4点の一作の中の「叫び」は、最も有名な作品です。
地下1階展示場の閲覧のスタートは、近代画から見始めたので順序が逆となったが、次はバロック時代のスペインのマドリードのプラド美術館所蔵の近代絵画の創始者のフランシスコ・デ・ゴヤ屈指の1798-1800年頃の代表作「裸のマハ」[左]と「着衣のマハ」[右]が並べて展示されています。

 近代の名画2(:接吻[左]とアデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I[右]、:ムンクの「叫び」と孫、:「裸のマハ」[左]と「着衣のマハ」[右])

・1、2階展示場
1、2階展示場では、1階本館1の現代展示には、現代画のピカソ、ミロ、ダリなどの約100点が展示されており、スペイン内戦の際にはドイツ軍の激しい空襲を受け、パリ万国博覧会のスペイン政府館の壁画として1ヶ月で仕上げた、ピカソの抗議を表明した1937年の記念碑的作品の「ゲルニカ」は、現在はマドリードのソフィア王妃芸術センターに展示されています。
また、1階の本館2の系統展示には、15点のトロンプ・ルイユ(だまし絵)が展示されています。チャールズ・ウィルソン・ピールは、アメリカ合衆国の画家、軍人および博物学者であり、ピールの最も著名になった絵画は1795年制作の「階段の人物」であり、だまし絵で描かれた息子達のラファエルとティシアンの肖像画であり、この絵はフィラデルフィア美術館の収蔵品となっています。
ここまで鑑賞して15時となったので、孫の「叫び」が上がる前に入り口の地下3階に降りて、ミュージアムショップで記念のお土産を買い、ルネッサンス リゾートナルト ホテルに帰りました。

 現代画とだまし絵(:ピカソの「ゲルニカ」、:ピールのだまし絵「階段の人物」、:ミュジアムショップ)

ルネッサンス リゾート ナルト連泊の晩餐
入浴後の、2日目の晩餐は記念日申し込みの料理で、ホテルのイタリア料理「フォーシーズン」でのフルコースです。記念の特典として、シャンパン、カクテル、記念写真、ケーキのサービスが付き、食後のケーキは沢山の量で食べきれませんでした。
食後の秋の夜長には、1日目と同様に阿波の国で、遅くまで弓矢、射的、スマートボールに興じ2日目も楽しく過ごしました。

 連泊の晩餐(左・写真拡大)

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旅ものがたり 徳島鳴門旅行 世界の名画と古代礼拝堂などを再現した大塚国際美術館(第2日目その2)

2011年01月08日 | 旅ものがたり
kan-haru blog 2011 最後の晩餐(修復前) 

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・地下3階展示場(続)
大塚国際美術館の地下3階展示会場では、実物大のシスティーナ礼拝堂やスクロヴェーニ礼拝堂などの環境展示の大きさと展示現画の忠実な再現の迫力には圧倒されました。居ながらにして、1,000点を超える数の多さの世界名画の美術館を、陶板名画の技術により観賞ができるとは予想できませんでした。
地下3階展示場では、古代の名画がギリシャの壺画、ボンベイの壁画やモザイク画などが約130点と、中世の名画がイコン、聖堂の壁画など約100点が、各環境展示場とギャラリーA、Bに系統別に展示されています。
前回記述の環境展示のエル・グレコの部屋には、大祭壇衝立の展示と共にスペインのマドリッドのプラド美術館にある「聖三位一体」(1577-79年)と「聖アンデレと聖フランチェスコ」などの名画の5点が展示してあります。また、エル・グレコの部屋の手前にはフェルメールの部屋があり、そこでは「真珠の首飾りの少女」(1665-66年頃)の再現名画の他に、4点の展示画を見られます。

 エル・グレコの部屋[左]とフェルメールの部屋[中・右](写真拡大)

環境展示の再現陶板を見た後、ギャラリーを足の向くまま歩いて陶板名画をみて歩きました。地下3階展示場は、古代と中世の名画を纏めてあり、十字架上のキリストの再現画が多いなかで、イタリアのラヴェンナにあるビザンティン建築のキリスト教建築の代表的な聖堂のサン・ヴィターレ聖堂中にある小さな色石を合わせたモザイク画を再現した、「皇妃テオドラと侍女達」 (写真の左)と「皇帝ユスティニアヌスと随臣たち」 (写真の左)が展示してあり、その展示場の床にも陶版画が描かれてありました。

 地下3階展示場ギャラリーを歩く1(左・写真拡大)

古代画展示ギャッリーAの中央部には、古代ギリシアの遺跡の町パエストゥムから出土したパエスト-ム国立考古学博物館の所蔵のエジプトの石棺画が展示されております。
中央には再現した「飛び込む男の墓」(石棺)が展示され、展示室の壁面には紀元前5世紀末の出土した、墓の蓋の絵の「飛び込む男」と、墓のの周壁に描く宴会を描く「饗宴」と「剣闘士の戦い」画の陶板画が展示されています。

 石棺画(:パエストゥムから出土した「飛び込む男の墓」(石棺)の再現、右:石棺の蓋の絵の「飛び込む男」)

・地下2階展示場
地下2階展示場はルネサンスとバロック時代の名画の展示場で、ルネサンスの再現陶板画がポティチェッリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエッロなどが約140点と、バロックの再現陶板画がレンブランド、ベラスケスなどの約110点が展示されています。
地下3階展示場からエスカレータを利用すると、すぐ前がルネサンスホールの入り口でギャラリーAとなっています。ギャラリーAには、イタリアのフィレンツェのウフィツィ美術館貯蔵のサンドロ・ボッティチェリが1482年頃描いた「春(ラ・プリマベーラ)」の名画や、同ウフィツィ美術館貯蔵の15世紀フィレンツェ派を代表する、巨匠サンドロ・ボッティチェッリ1485年頃の傑作作品の「ヴィーナスの誕生」の陶板画および、同ウフィツィ美術館貯蔵のヴェネツィア派の最盛期を代表する画家のティツィアーノ・ヴェチェッリオの1490年頃の作品「ウルビーノのヴィーナス」で、ヴィーナスのポーズはジョルジョーネ作の『眠れるヴィーナス』を下敷きにしており、西洋絵画における裸体表現の重要な作品と云われています。

 ルネサンスの名画(:春(ラ・プリマベーラ)、:ヴィナスの誕生、:ウルビーノのヴィーナス)

ミラノにあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁画として、巨匠レオナルド1498年に描かれた「最後の晩餐」は、聖書に登場するイエス・キリストの最後の日の最後の晩餐の情景を描かれたもので、ルネサンス古典様式を代表する西洋美術史上の最高傑作と云われています。
しかし、1970年代までは、その芸術的価値もよくわからないほど画面は暗く形もはっきりしませんでした。ところどころにレオナルドらしくないタッチがあったりもしました。その損傷の理由は、レオナルドが漆喰の壁にはふさわしくないテンペラ(顔料に亜麻仁油と卵 を混ぜたもの)で描いたこと、教会の食堂の壁に描かれたために湿気をたえず吸収してしまったこと、1943年に連合軍の空爆によって建物が破壊されて構造 体が大打撃を受けたことなどです。そのうえ、18世紀以降、繰り返し描き直しや描き加えが行われてきました。
1977年に、ミラーノの文化財保存監督局が女性の修復士ピニン・ブランビッラさんに依頼して、科学的検査をもとに、画面に堆積した塵や加筆を細い筆で 取り除いてゆくという綿密細心な気の遠くなるような修復作業が開始され、それが20年も続きました。
汚れや加筆が取り除かれた結果、わたしたちははじめて レオナルドが描いたオリジナルの傑作に出会うことが出来、汚れや加筆が取り除かれた結果、修復された画面を修復前の画面と並べて大塚国際美術館が展示することができました(大塚国際美術館ホームページから)。
「最後の晩餐」は、ギャラリーAを時計方向に進み、ギャラリーBを通り超してギャラリーCの展示場に、修復前[左側]と修復後[右側]のそれぞれの「最後の晩餐」の縦が420cmで、横が910cmの展示場壁面いっぱいの陶板再現画が展示されています。

 最後の晩餐(左:修復前と修復後、:最後の晩餐[修復前]、:最後の晩餐[修復後])

深緑の衣装を着た一人の女性が、僅かに微笑んだ半身の肖像が描かれている、パリのルーヴル美術館に展示されている「モナリザ」は、イタリアの美術家レオナルド・ダ・ヴィンチが1507年頃描いた、絵画史上最も名の知れたあまりにも有名な肖像画で、ルネサンスホール最後のギャラリーDに展示されています。
ルネサンスホールギャラリーDの展示室を出ると、バロックホールのギャラリーAの展示室となります。その先のギャラリーBの前の通路の横窓からは1階下のシスティナ礼拝堂の2階の高さ部分の天井画がみられます。
また、ギャラリーを出て「グロッタ」の展示室では、オーストリアのウイーンのウイーン美術史美術館所蔵のアルチンボルド、ジュセッペノ「夏[四季より] 」の陶板名画が展示されています。

 地下2階展示場を歩く(:モナリザ、中:バロックギャラリーB前の通路窓からシスティナー礼拝堂を見る、:夏[四季より])

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