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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第3編 我等の生活談義 第6回

2007年11月11日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
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戦後のインフレ
戦後のインフレを語るには、いわゆる物価統制価格(配給品の価格)である公定価格に基づいた物価指数が使われ、1934年(昭和9年)~1936年(昭和11年)の物価指数平均を1とした値を基準として扱います。若山武義氏の手記に出てくる「丸公」は、公定価格のことで、当時は○の中に「公」の文字を入れた丸文字が使用されておりました。
当然、公定価格に対して、配給以外に物資を調達する自由・闇価格の定価の2本立ての経済となり、戦後の双方のインフレ率を見ると公定価格で測ったインフレ率は,自由・闇価格で測ったインフレ率を大きく上回っていたと、大蔵省財政金融研究所「フィナンシャル・レビュー」(1994年)が示しております。

この資料によると、戦後のインフレである日本銀行の卸売物価指数(旧指数)は、1945年9月の346.6から同統計の公表最終月である1948年12月の20825.1まで、3年3か月の間に60倍(連続複利ベースでは月率10.5%、年率126%)上昇しました。
同じく小売物価指数は、1945年8月の475. 1から物価水準の最初のピークである1949年5月の37386.9まで、3年9か月の間に79倍(連続複利ベースでは月率9.7%、年率116%)上昇しました。

また、公定価格ベースの消費財物価指数は、1945年10月の3.21から物価上昇の勢いの弱まる1949年5月の315.38まで、3年6か月の間に98倍(連続複利ベースでは月率10. 9%、年率131%)上昇しました。このように、終戦直後からドッジ安定化政策の始まる1949年初めにかけての3年強の間、公定価格で測ったインフレ率は月率で10%前後、年率で120~130%であったことが示されております。

新円切替え
終戦によって、戦費捻出のために発行された戦時国債の償還、軍需物資に対する支払い、進駐軍による円の大量印刷、復員兵の帰還費用の捻出、戦後復興させるための資金供給のためのお金はいくらあっても足りず、日銀は沢山の日本銀行券を発行したため、カネにみあったモノが不足する状態となりインフレが発生しました。

そこで1946年2月16日(土曜)、第一次総合インフレ対策として、金融緊急措置令を含む「経済危機緊急対策」が発表され、翌日実施し旧円が新円に切替えられ預金封鎖が行われました。
預金封鎖は、2月17日(日曜)現在における預金を閉鎖して、旧紙幣は3月2日(土曜)をもって強制通用力を失い、新円との引き換えは2月25日から3月7日までの間に強制預入の形で行われることになりました。さらに、10万円を超える資産に対して25%から90%の財産税がかけられました。

そして、標準世帯生計費を500円と定め、一般勤労者の給与等は一か月500円までは新円による現金払で、それ以上は封鎖払とされました。封鎖預金からの現金引出は、原則的として毎月世帯主に300円、世帯員一人につき100円に限定されました。また、3月30日からは一律一人100円までの限定となりました。
金融緊急措置令により、日銀券は2月18日の618億円から3月12日の152億円へ収縮したものの、4月からは増加に転じ、9月には旧円封鎖直前の最高発行高を突破し、金融緊急措置の影響は一時的なものでした。

戦後のこのインフレは、ドッジ・プランなどの幾多の施策により、1947年10月に182.2%のピークに達した後,インフレ率は次第に低下し、1947年秋から1949年秋まではインフレの減速期となり、1949年秋以降はデフレ期に入りやっと収束したのです。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) 我等の生活談義 第6回

持たざる者勤労階級の庶民生活
我々大衆の預金は、一体どこに飛んで行ったのであろうか。委く生産資本家と農漁村の懐に鞍替してしまったのである。事実の説明は、金融、産業あらゆる資本家階級と農漁村の新興成金の財産税や所得税は、我々の懐から納めてやった事になる。即ちこのインフレの様相は、聖書の教え給う如くに
 持てる者は尚その上に与えられ、持たざる者は持つもの迄も奪わるる

と。かくて富める者はいよいよ富み、貧しき者はいよいよ貧しく、貧すれば鈍する、悲しき事実である。インフレを我が世の春と記う階級と、日に月に重圧に苦しむ勤労階級と、一線を引いて二つに区分することが出来るのである。

庶民の悲願 主食三合配給
我等庶民の悲願は只々一つ、主食三合配給、これである。
祖国再建の為めの重ねての増税、結構である。我々の枡で量ったきまりきった収入から勤労所得の二割徴収、これもよろしい。欣然と応ずる。鉄道、郵便、莨なんでも値上げ、夫れも当然よろしかろう。
 但し主食三合配給を条件としての上の事である。

収入はピッタリ押さえて置く。徴収の税金、消費の値上げは遠慮会釈なくとり上げる。「不足の主食はヤミ買いせよ」と云う事は、我々庶民階級が貯蓄も何も使い果たした時に自殺を強いる事になるのである。
然らば、三食三合果たして不可能であろうか。今、社会の現象と各方面の意見を茲に綜合して見よう。

前議会で会える選良は、議政壇上から「大臣諸公と雖も、よもや二合一勺の配給で生活してる訳はあるまい」と質問して苦笑せしめた。かく質問する御当人も二合一勺の配給で生活してる訳ではないから、お互いに配給以外の生活を肯定したのである。

配給だけの生活をして居ったら、栄養失調で死んだ大学の先生の後を追うのみである。「あいつ栄養失調で死んだ」と云われたくないばかりに、乗車券の入手に二日か三日立ち通し、駅より二里、三里遠しとせず、叩頭百遍、やっと買った重荷を汗水流して殺人汽車電車にもみくちゃにされ、やっと我家に辿りつくまでは真に薄氷を踏む思いである。これで幾月の補給が出来るのかと思うと、考えた丈でもぞっとする。況や育ち盛りの子を多く持つ母の労苦は並大抵の事ではない。とても書きつくせるものではない。

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