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kan-haruの日記

小さな旅(6) 矢切の散歩道(野菊の墓) その2

2006年06月29日 | 小さな旅
国府台は、今の真間山から松戸駅東側の台地までをいい、文学碑のある大坂を中心とした四キロ四方は、国府台合戦の激戦地であったとのことです。裏境内には、矢切の古戦場の史跡「国府台の戦争」の説明板があります。

・史跡 国府台の合戦
国府台の合戦の説明板の大意は、「今から約460年前、天文7年(1538年)に松戸駅東側台地、相模台を中心として行わた合戦を前の国府台合戦といい、永禄7年(1564年)に市川城(国府台城ともいう)を中心に繰り広げられた合戦を後の国府台合戦といい、ここ矢切の台地で戦われた。
小田原の北条方と矢切側の里見義弘との戦いで、北条方の勇将富永三郎右衛門尉が文学碑わきの坂道で落馬し首を打たれ、また、遠山丹波守はこの坂下、坂川の手前の「カイカバ曲り目の内野」という所で、里見方の里見山之介という16才の少年にその首を打たれて、この日の戦いは北条方の敗北で、柴又陣に引き退いた。
緒戦に大勝して気を良くした里見方は、夕刻から小雨と疲れから次の合戦は翌日だと考え、鎧を脱ぎ馬に飼葉を与え油断するその隙に、北条氏の大軍にはさみ打たれ、徹底的に打ちのめされ、大将里見義弘は市川の須和田から中山をへて安房に逃れたが、その後再起することはなかった。」とあります。

西蓮寺から江戸川堤へ
西蓮寺の高台から、地名の語源のいわゆる「谷切れ」の坂を下りきると(散策地図の赤印線参照)、上矢切から栗山まで続く壮大な田圃と畑地の平坦地に出ます。
・矢切ネギ
畑地には、葱、キャベツやジャガイモが生育されておりました。このあたりの矢切ネギは、Webで調べると根部の白い部分を食べる千住群の根深一本葱で、その起源については、明治二十年ごろ東京府下砂村から種子を輸入し、栽培したといわれていたが定かでない。
地元の矢切で現在使用されているねぎの種子は、その後に幾たびか品種改良がなされたもののようです。

・江戸川堤小公園「矢切苑」
前方に江戸川堤が見える、畑地の中の長い一本道を進むと坂川に出ます。坂川は、源流を流山に発して、松戸市中を通り上矢切から下矢切、栗山を経て江戸川に放流されております。坂川に架かる整備された大変と立派な橋を渡り、さらに畑地の道を進み江戸川の大堰堤に着きました。

堰堤に上がると、堤防上には休憩小屋のある小公園「矢切苑」があり、そこには何人かの人が休息しておりました。堤防からの眺望は、何も遮るものが無く180度の悠大な風景展望は当に圧巻です。江戸川の対岸を眺めると、川辺の木の茂った所が矢切の渡しの船着場で、川を渡ると帝釈天のある東京下町の柴又が見えます。堤防から振り返り今来た道を展望すると、先方に西蓮寺の台地の大坂が見渡せ、手前には坂川を挟んで展開する180ヘクタールに及ぶ田園・畑地の景色は一幅の絵を見る様でした。

江戸川土手の道は、松戸方面から南へと、市川方面から北へとのウォーカーやサイクリングの人達が、結構行き交わっておりました。桜の木の下のクローバーの絨毯に腰を下ろして、軽い昼食休憩をとりました。
休憩した小公園周辺には、「川の一里塚」(一里塚説明板)、昭和30年代に戻ったような懐かしい姿の「魚釣りの少年像」や太田道灌の「水五則」などが見られました。

江戸川堤小公園から里見公園へ
昼食をとり活力がでてき出発し、途中「野菊のこみち」の案内像を見ながら、江戸川大堰堤沿いを南下して里見公園へと向かいました。
北総電鉄のガード下を通り、暫らく行くと「柳原水門関」に到着です。坂川の治水事業は古くから手掛けられてましたが、明治37年(1904年)に煉瓦造樋門として造り替えらた、四蓮アーチ式の貴重なもので、平成7年4月に松戸市の有形文化財に指定されたものです。
柳原水門関から江戸川沿いを離れ、市川市国府台に入り里見公園下の道を公園口へと進み、左折すると「羅漢の井」説明板がありました。

・里見公園

里見公園は洋式庭園と奥の自然式公園に造られており、洋式公園には噴水池があり久保田俶通作のブロンズ像があります。そのかたわらにもと対岸の小岩にあった詩人・北原白秋の旧居「紫烟草舎」が移築されており、夜泣き石も本来の位置に移設してあります。
公園の洋式庭園には、丁度よくばらが咲き誇っており感嘆し、見事な満開のばらを観賞してから県道松戸市川線に出て、バスで矢切駅に戻り帰路につきました。
里見公園の洋式庭園の咲き誇る ばら1ばら2ばら3

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(5月分掲載Indexへ)
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小さな旅(6) 矢切の散歩道(野菊の墓) その1

2006年06月27日 | 小さな旅
6月10日は、うす曇で雨の心配はなさそうなので一週前の旧古川庭園に引き続き、小説伊藤左千夫ゆかりの「野菊の墓」で名が売れてる矢切周辺を散策してみました。
矢切の散歩道は、東京から出かける場合には京成柴又駅から帝釈天を通り、江戸川を矢切の渡しで渡り、野菊のこみちを経て野菊の墓文学碑に至るのが一般ですが、今回のコースは、自宅から京浜急行、都営地下鉄、京成電鉄押上線、北総電鉄の4社線を乗り繋いて北総電鉄の矢切駅をスタートし、西蓮寺の野菊の墓文学碑を見て、江戸川左岸堤防上の小公園から土手道を散策し、里見公園の見頃のばらを観賞後、県道に出てバスで矢切駅に戻り帰路につきました。

矢切駅をスタート、矢切神社へ
北総電鉄は、京成電鉄の高砂駅から次の新柴又駅を過ぎると江戸川を渡り千葉県に入り、しばし田園地帯を進み、高架線のままトンネルに入るとすぐの所が矢切駅です。トンネル内の駅改札を出ると、駅構内に「矢切の渡し」に使用された渡し船が展示してありましたが今回は、渡し船を利用しないで、江戸川左岸沿いの矢切周辺の一周コース(散策地図の赤印線)を散策しました。
矢切駅前からは、県道松戸市川線を北に向かい下矢切の交差点を左折して暫らく進むと、突き当たりが矢切神社です。矢切神社は、昔の矢切村の鎮守で学業、健康の神様で、お賽銭を上げて参拝しましたが、神社境内はひっそりとしていました。

矢切の地名をWebで調べてみると、矢切は谷の多い所で地形から谷の切れた所を「谷切れ」と呼び習わし、それが「矢切」となったともあり、土地の俗説として、北条、里見の戦いで、里見が矢を使い尽くして敗れたので、矢が切れたことからなどの説が地名に結びついていると書かれております。また、下矢切、矢切神社の石塔には、元文五年(1740年)下矢喰村...とあり、矢喰も地名として使われていたとのことです。

矢喰村庚申塚
矢切神社を後にして進むと、三叉路の角が矢喰村庚申塚です。
いくつかの石像が建っていてその中央に青面金剛を主尊とする、庚申塔があります。碑には寛文8年(1668年)の銘があり、1988年12月に松戸市の有形文化財に指定されています。

「国府台の合戦」に因んだ庚申塚名「矢喰」の由来を説明した石碑も建っています。
矢喰村庚申塚の由来の石碑の大意は、「矢切が北条、里見の国府台合戦の主戦場となり戦没者が一万余、家は焼かれ逃げまどい一家離散の敗残の苦しみから弓矢を呪うあまり「矢切り」「矢切れ」「矢喰い」の名が生まれ、親から子へ、子から孫に言い伝えられ、江戸時代中期に二度と戦乱のないよう、やすらぎと健康を願い、庚申仏や地蔵尊に矢喰村と刻み、朝夕お祈りをしてきました。先人達の苦難と生きる強さを知り、四百年前の遺跡と心を次の世代に伝えるため、この塚をつくります。」とあります。

西蓮寺の野菊の墓文学碑
矢喰村庚申塚から緩やかに道を下って行くと道路上に歩道橋が見え、道路右の石段を登って上がった所が高台の「野菊苑」で、江戸川を見晴らす展望台となっています。
展望台から、道路上に架かっている歩道を渡ると西蓮寺で、裏境内に野菊の墓文学碑があります。
・西蓮寺の野菊の墓文学碑 (拡大写真)
野菊の墓文学は、小説の3ヶ所から一つの文に構成して碑文としています。
小説のなかに、「村外れの坂の降くちの大きな銀杏の樹の根で民子のくるのを待った。」とあるのが、即ちこの文学碑のある場所です。樹齢約六百年の大きな銀杏の樹は、西蓮寺の入り口にありましたが、何年か前に切られて現在はありません。
・伊藤左千夫の短歌
   牛飼が歌よむ時に世のなかの
   新しき歌大いに起る
伊藤左千夫が、明治33年1月はじめて正岡子規を訪問して入門し、その短歌革新の思想と運動に共鳴して詠んだ代表作で、この歌には、牛飼の歌人と自ら称した左千夫の歌に対する気概がこめられています。
子規の没後、長塚節、蕨真等と発行した根岸派の機関紙「馬酔木」「アララギ」の主導的地位に立ち、島木赤彦、斎藤茂吉、吉泉千樫、中村憲吉、土屋文明その他の歌人たちを育成しました。

・野菊
小説「野菊の墓」には、政夫が「民子さんはどう見ても野菊の花だ」、民子は「政夫さんはりんどうのようだ」という記述があります。
野菊という花は山野に咲く数種の菊を総称しているだけで"野菊"という名の花はないようです。小説の野菊が具体的にどの花を指すのか興味がそそられます。
・歌碑
野菊の墓文学碑の両脇の花壇には、カントウヨメナ、ノコンギク、ユウガギクやリンドウの苗が植えられています。その脇にある歌碑は、市内で印刷会社を経営する高山光江さんが、市川市在住の姉美恵さんを数年前に亡くしました。高山さんは平成13年春に所属している東京中小企業家同友会が自主製作した映画を市民会館でチャリティ上映会を成功させ、その時の収益金の残額を野菊とリンドウの植裁に充てました。子宝に恵まれなかった美恵さんとは「老後は仲良く一緒に・・・」との約束があった光江さんは、歌を刻んだ石碑を野菊の花壇の脇に添えられたものです。

小説「野菊の墓」の作者の伊藤左千夫は、1864年8月18日、現在の山武市殿台に伊藤重左衛門の末っ子として生まれる。30歳の時、同業者の伊藤並根のきっかけで 歌の手ほどきを受けることになり、これが左千夫と和歌の本格的な出会いとなる。左千夫は世に数々の作品を発表しているが、中でも「野菊の墓」は夏目漱石に激賞を受けたことで有名。他にも「隣の嫁」「春の湖」「紅黄緑」などの名作を残している。大正2年7月左千夫は脳出血で50年の生涯を閉じるものの、歌論において近代短歌革新の偉大な原動力となった人であると現代において高く評価されている。
小説「野菊の墓」は、インターネットの図書館、青空文庫からダウンロードして読むことができます。
<続く>

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トラブル多頻発で、奮闘に追われる我が家のパソコン その2

2006年06月25日 | ITと技術
トラブル発生後の仮環境での運用
サーバー パソコンのWindows Updateにより運用中のOSのWindows 2000 Serverが停止のトラブルに見舞われたため同機の運用は、暫定的にマルチブートでインストール済のOSのWindows 2003 Server側で運用するように準備を行いました。
しかし、Windows 2003 ServerでのOutlook Express環境は、未整備のため最初のトラブルが発生する前まで使用していたデスクトップ パソコン(OS :Windows 2000 Professional )のOutlook Expressに戻しましたが、同機は電源投入後の立ち上げ時に、パソコン間のLAN接続は行われるのですが、外部とのWebとの接続が出来ないことがあり、電源再投入やその他の方法で接続を行いながらの不安定な運用状態です。
また、メール転送の二重化のため、暫時の間会社に置いてあるパソコンのメールアドレス宛にもメール転送を設定し、Webメールへの転送との二重化環境での運用をしております。

3度目のWebメール転送異常の発生
これまでの、トラブル連発により運用業務が滞留しておる中、6月19日に3度目のWebメール転送異常が発生しました。
最初の転送異常が発生するまでは、1年以上に亘りノートラブルでしたが、この所頻発しており、しかも2度目の転送異常から1週間の短い間隔で立て続けの発生であり、Webメールのサービス プロバイダーに原因調査を依頼中(メール)です。
なお、19日のWebメール転送異常は、調査中ですが22日に15日15時受信のメールから転送が再開しておりますが、運用では使用を停止しており、受信メールの運用処理は、自宅のデスクトップ パソコンと会社の設置パソコン上へのメール転送を併用しております。

さらなる新たなトラブルの発生
今回の頻発中のトラブルは、一向に落ち着きを見せずに、サーバー パソコン上でオンラインUp Dateの新たなトラブルが発生しました。
最近のソフトウェアは、OSやアプリケーションのプログラムのUp DateがWebを通してオンラインで行われるようになりました。これは、パソコンのウイルスやスパイウェア対策には非常に貢献しております。
しかし、ユーザーのパソコン環境は、多種でさまざまな環境で使用していますので、単純で一律的なオンラインUp Dateでの不安を抱いておりましたが、的中して今回の奮闘記(その1)に記載のように、パソコンが停止するアクシデントが発生したのす。

その2の奮闘記では、一連のトラブル発生中に、2つめのオンラインUp Dateが、AdobeのPDFアプリケーションで障害に見舞われた状況報告です。
オンラインUp Dateは、非同期に発生しますので、パソコン運用作業中にUp Dateの通知があります。今回は、Adobe Acrobat 6.0の使用中にUp Date通知があり、作業中でもインストールができるとの案内で「OK」ボタンを押しました。インストール処理が終わり、「再起動」の通知がありましたので、作業を打ち切り「OK」ボタンを押しました。
パソコンが再起動したので、作業継続のためOffice 2003 Wordを最初に立ち上げる都度、次図のような「ダイヤログボックスが開いているので閉じろ」との注意表示が出るようになりました。


「OK」ボタンを押すと次図のような「Office Wordは必要なファイルをインストールできません」とのダイヤログボックスの注意表示が出ますので、「OK」ボタンを押すと繰り返し同じダイヤログボックスが表示します。


「OK」ボタンを押し、10回程ダイヤログボックスの表示が繰り返すと、Wordがやっと立ち上がるという障害が現れました。

実はこの障害は、1年程前に会社の別のパソコンのOffice 2003環境で、Adobe Acrobat 7.0.0をインストールした際に発生した古典的な障害で、マイクロソフト社とアドビ社に申し入れしたのですが、お互いに相手社の問題であるとの回答を受け、呆れた経緯のあるトラブルであり、この時はAdobe AcrobatのUp Dateが何回か進行して解消しました。
今回の、AdobeのUp Dateのバージョンを見ると、結構古い版であるのが原因と思われます。何れはAdobe Acrobat 7.0にUp Dateを予定しておりますので、他の作業も山積しておりますので、Wordを立ち上げる都度不愉快な10回のダイヤログボックス「OK」ボタンを押して過ごすことにしました。
これより、オンラインのUp Dateは、何が起こるか判らないことを認識しました。

ITの革新が急で追いつかないハードとソフト
今回の頻発するトラブルにより、パソコン運用業務のファイルデータの外部媒体への保存には、DVDなどの大容量の媒体が望ましいのですが、現在の自宅パソコンのOSのWindows 2003 Server用のDVD Writerのハードおよびソフトがいまだ存在しておりませんので、CD-ROM書き込みで保存せざるを得ない状況なのです。
そこで、ファイルデータの外部媒体への保存用に、デスクトップ パソコン(OS :Windows 2000 Professional )にはUSB出力のDVD Writerを使用し、サーバー パソコン(OS :Windows 2003 Server )には、ISOモードが辛うじて動作するUSB出力のCD Writerを使用して、パソコン間をLAN接続によりデータを転送して保存処理に供します。

しかし、最近のIT革新は急で、次期OS のWindows Vista やWindows Longhorn およびアプリケーションのOffice 2007のソフトでは、ISOモード出力のDVDが要求されているのです。

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前回 トラブル多頻発で、奮闘に追われる我が家のパソコン その1 
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トラブル多頻発で、奮闘に追われる我が家のパソコン その1

2006年06月22日 | ITと技術
ブログを掲載しはじめてから3ヶ月を少し経過しました。
ITテリトリーの日記は3回目ですが、今回もまたパソコンのトラブルに関してのものですので、月に1回のペースでパソコン障害が発生しております。

現在パソコンの構成は、中古のデスクトップ パソコン、サーバー パソコンおよびノート パソコンと共に、プリンター、スキャナー、外部入力周辺機器を接続して、何とか運用させております。うち、デスクトップ パソコンは、立ち上げ時にしばしばWebに接続出来ない場合があり、何とか強引に接続をさせながら使用している状態です。

最初のトラブル
これらのパソコンの前歴は、1月程前に起きたデスクトップ パソコンのOutlook Expressの異常(4月21日付け日記)により、1日まるまるの受信メールが消滅するとともに、外出先でも読めるようにとWebメールに転送していたメールまで、偶発的に転送不能の重複トラブルに見舞われたことからが始まりです。
この故障で、メール受信のパソコンをサーバー パソコンに切替えました。

2回目のトラブル
続いてのトラブルは、メール受信の役目を果たしていたサーバー パソコンのIMEが突然変調をきたし、キー入力が不能となったため、それまでのサーバーとデスクトップ2台のパソコンのOffice 2000をOffice 2003にUpして、IMEの動作を回復(5月23日付け日記)させました。

止まらない3回目のトラブル
さて、3回目の今回のトラブルは、これでもかと云う程トラブルが集中して発生し、現在回復の途中で、その収拾には悪戦苦闘を強いられその奮戦記です。
先ず、6月12日に出先で受信メールを読むためWebメールを開いたところ、前回の時と同様にメールの転送が着信しないという、最初のトラブルが発生しました。
そこで、出先から帰宅して、6月12日の1日分の着信メールをOutlook Expressで受信し、後日処理を行うためにとOutlook Expressの保存トレイに保管しました。
Webメールの回復は、6月14日に自然復旧して、1日おいた6月13日のメールから転送着信が始まりました。このトラブルについての調査は、転送元と着信側のサービス プロバイダーには報告を行ったのみで、原因が不明のままとなりました。

2つめのトラブルは、サーバー パソコンで仕事を実行中に、想像もしない思わぬ現象に遭遇し、一連の障害では最も被害を受けたトラブルに見舞われ愕然としました。
それは、サーバー パソコンの作業中に、Windows Updateの自動更新が実行され、ローディング、インストールが終わり、パソコンの再起動が要求されたので再起動の指示をしたところ、再起動のアクションの途中でダイアログが出たままハングアップしてしまったのです。

トラブルによりパソコンがだんまり
前にも、後にも進まないので悪い予感の中、止む無くパソコンのリセットボタンを押して電源を落としました。電源を投入してパソコンを立ち上げたところ、デスクトップの初期画面は正常に表示されたのですが、予感が的中してプログラムやアイコンをクリックしても、受付の反応はあるのですが起動せず、動作不能のパソコンとなってしまいました。
これにより、前記のOutlook Expressの保存トレイに保存した6月12日の1日分の着信メールは読むことが出来なくなりました。
これまでの、度重なるトラブルの遭遇により、受信メールの処理やパソコン作業の処理が滞納して、大きなショックを受けております。

ただ、不幸中の幸いで、この障害となったサーバー パソコンには、種類の異なるサーバーOSがマルチブートでインストールしてありましたので、もう一方のパソコンOSは健在で動作できますので運用を切り替えました。サーバー パソコン上のディスクのファイルはアクセス出来ますので、ファイルのデータはメールデータを除き使用はできますので、取敢えずは自宅パソコンの作業は継続して運用でき、最悪の事態はなんとか免れました。

しかし、トラブル続出のため、なるべく早急に3台のパソコンのファイル データを外部媒体に退避する必要がでてきました。それと、トラブルにより遅れている作業の回復処理も必要ですが、対応のための時間が不足です。
これからは、ハードデスクのデータ退避が早いか、ハード故障が先きかの競争です。
また、余裕ができた時点で、動作がしなくなったOS側のOutlook Expressの保存トレイに残っている1日分のメールデータの取り出しも行う必要があります。

終結しないトラブル
さて、今回の重なるトラブルの発生は、これで終結では無く、またまた6月19日に懲りもせず都合3回目の着信メールの転送受信が止まりました。
さらに、その上休む間も無く、Adobe Acrobat のオンラインUp Dateによる小トラブルの発生と続きます。どうもオンラインUp Dateは曲者です、奮闘記は未だ続きます。
<その2へ続く>

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前回 パソコンは突然に機嫌が悪くなる 
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大森町界隈あれこれ(29) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第7回)

2006年06月20日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
東京大空襲の記録資料(4)
若山武義氏手記「手記第2編 戦災日誌中野にて」も、今回の五月二十七日までで終了し、次回から「手記第3編 終戦前後(目黒にて)」を開始します。
第3編では、原子爆弾と終戦日に関する記述で、爆撃からは逃れられたが敗戦により千仞の谷底になげ込まれた上、今日迄、あまりにもまっ正直に政府と軍とを信用しきって来た我々庶民は、「ポツダム宣言」を信用出来るかなと迷わざるを得なかった。此の敗戦と云う冷厳な事実を、臨時議会での説明に、初めて愕然として驚き、真に無謀な戦いをしたものだと憤慨せざるを得ぬ。戦時中に圧制されて来た軍、官に、初めて反撥し、批判する余裕が生じたのである、と記述されております。

大空襲記録資料は、前回に続き「海野十三敗戦日記」について紹介します。
また、若山武義氏手記のハイライトである昭和二十年(1945年)四月十五日の悲惨な大森町大空襲が描かれている、海野十三敗戦日記の四月二十七日の日記から抜粋してみました。

 四月二十七日
◯この日記をしばらく休んだ。........
◯さて、休んでいた間にも、帝都への大爆撃はあった。それは去る四月十五日深更より十六日暁へかけての夜間爆撃で、蒲田、荏原、品川、大森をやられ、大小の工場がほとんど全滅したとのことだ。なおこのとき川崎もかなりの被害があった。
◯蒲田の工場は当然疎開したものと思っていたが、欲ばっていて親工場へ吸収される値段の吊上げを試みつつあり、そしてやられて元も子もなくしたものが軒並だ。個人工場の損失ではない、国家の大損失であり、猫の手さえ借りたい刻下の沖縄大決戦の折柄、戦力をそぐこと甚しい。

◯去る四月二十五日の新聞に、被害の総合結果の発表あり。
 東京  五十万戸  二百十万人
   その他省略
 「大部分焼失した区域は、浅草、本所、深川、城東、向島、蒲田」であり、「その他相当焼けた区は下谷、本郷、日本橋、神田、荒川、豊島、板橋、王子、四谷、大森、荏原、品川」である。「川崎市は市街の大部分を焼失」
◯四月十五日、十六日の夜間空襲のときはちょうど神戸の益三兄さんが泊っていて、これを見物した。その前の豊島区などの焼けたときほど大きくは見えなかったが、初め品川上空に照明弾を落としてそれからずんずん東へ南へひろがり、駒沢のが一番近く、そこへ落ちる頃はこれはいよいよ来るかなと思わせた。  

この後、空襲都日記(第一部)は、五月一、二日の日記にて終了となります。
海野十三は日記第一部を閉じ、夜ヒットラー総統死去のラジオ報道を聞き、「この騒然たる空の下、事実を拾うはなかなか困難であり、それを書き付けるは一層難事であるが、私としては出来るだけ書き残して行きたいと思う」
と、五月三日から「降伏日記(空襲都日記第二部)」を記述しはじめ、十二月三十一日まで続きます。
(次回に続く)


若山武義氏の手記(1946年記述) 第2編「戦災日誌(中野にて)」第7回
海軍記念日
翌日、航機統制会に勤務の石原君に、第二戦災記念の写真を娘と共に撮影してもらい、借りてもらったリヤカーで娘たちを連れて焼跡整理に出かけた。
途中荻窪の酒屋で「戦災者激励慰安立飲所」の看板がある。大勢行列して勢よく飲んでいる。
 「とうさんのんでおいでよ、まってるから」
娘のすすめなくとも、のどのなる処だ。早速二杯直しをひっかけて、とてもよい機嫌となった。これで死ぬ苦しみも苦労もすっとんでしまった。リヤカーにお乗りよで乗ってゆられゆられすっかりよっぱらった。
高円寺まで来ると、戦災地の焼トタンの至極お粗末なバラック三々五々。初夏の陽にはためく国旗を出して居る。
 「なんだろ、今日旗を出してさ」
 「お父さん、今日は海軍記念日よ」

ああそうか、なにもかもわすれて居た。なる程、今日は五月二十七日。想い起す四十年前、日本海に
  皇国の興廃をを此の一戦に決した日であった
  我れに無敵艦隊厳として存す
  第二、第三、幾多の東郷元帥健在なり
  軍備は制限されようとも訓練に制限はない
  我が海軍猛者の訓練は月々金々だ
神州は不滅、絶対不敗だ
  来るなら来いだ、焼くなら何度でも焼いて見ろ
  必勝の信念は焼かれないぞ
と、おやじ一人でリヤカーの上で悠然としてりきんで居る。
おやじ何を想い、何を考えようと頓着なく、前夜の苦しみなんかけろりと忘れた娘三人、朗らかに歌を謡い、足なみそろえて進み行く。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(5月分掲載Indexへ)
前回 大森町界隈あれこれ(25) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第6回) 
次回 大森町界隈あれこれ(K30) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第1回) 
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大森町界隈あれこれ(28) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第6回)

2006年06月18日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
東京大空襲の記録資料(3)
大空襲記録資料は、前回に続き「海野十三敗戦日記」について紹介します。
中公文庫BIBLIO海野 十三 (著), 橋本 哲男 (編集) 文庫 (2005/07/26) 中央公論新社の「海野十三敗戦日記」の章立ては、「空襲都日記(第一部)」、「降伏日記(空襲都日記第二部)」に続き編集者の橋本 哲男の「愛と悲しみの祖国に」が掲載され、その後に「編者あとがき」と長山 靖生の「解説」で構成されております。

空襲都日記(第一部)
「空襲都日記(第一部)」は、昭和十九年(1944年)十二月七日の「はしがき」で始まり、同年十二月十日の空襲から日記を書き始めているが、その前に十一月一日の初空襲、十一月二十四日の本格的空襲と海野 十三が戦前の昭和十六年(1941年)に作った防空壕のことを含めて、「これまでのことを簡単に」に記述してあります。
空襲都日記は、若山武義氏手記と異なり、都民殺戮の焼夷弾爆撃による四方八方火の海の中を逃げ回るような描写とは異なり、空襲の経過を記録的に記述してあります。

三月十日の10万人が亡くなった下町空襲を記述した、三月十三日の日記から抜粋してみる。
三月十日の10万人が亡くなった下町空襲を記述した、三月十日および十三日の空襲都日記から抜粋してみる。
 三月十日
○昨夜十時半警戒警報が出て、東南洋上より敵機三目標近づくとあり。この敵、房総に入らんとして入らず、旋廻などをして一時間半ぐらいぐずぐずしているので、眠くなって寝床にはいったら、間もなく三機帝都へ侵入の報あり、空襲警報となり、後続数目標ありと、情報者は語調ががらりと変わる。起きて出てみれば東の空すでに炎々と燃えている。ついに、大空襲となる。
◯発表によれば百三十機の夜間爆撃。これが最初だ。
◯折悪しく風は強く、風速十数メートルとなる。
 三月十三日
◯十日未明の大空襲で、東京は焼死、水死等がたいへん多く、震災のときと同じことをくりかえしたらしい。つまり火にとりまかれて折重なって窒息死するとか、橋の上で荷物を守っていると両端から焼けて来て川の中へとび込んだとか、橋が焼けおち川へはまったとか、火に追われて海へ入り、水死又は凍死したとか、川へ入ったが岸に火が近づいたので対岸へ泳いで行くと、そこも火となり水死したとかいう話が下町の方にたくさんあり、黒焦死体が道傍に転り、防空壕内で死んで埋っているのも少くないとの事である。
(次回に続く)


若山武義氏の手記(1946年記述) 第2編「戦災日誌(中野にて)」第6回
九死に一生の脱出
如何にせんかと思案に迷う時、中年の婦人が「この先きに一昨夜の戦災で相当広い焼跡がある筈です、そこより外に安全な処はないけれど、そこへ行くには、あそこの下火となった一丁位(110m)もある処を渡れば行かれます。「行きませんか」と誘われたので、「それでは行きましょう」と「さあ来いよ、今一ぺん火渡りだ」、はじめてでないだけおそろしいとは思わない。行く途中井戸があったのでこれ幸いと水をもらい、防空頭巾から着物みんなぬらし、水をかけられるだけかけて、さあ来いで飛び出した。
来て見ればなるほど約一丁位、火は燃えくずれて余燼もうもうと云う処、かけれるだけかけろよと先頭になってかけ出して、改正道路まで最後の突破、みんな無事出来た。

兵隊さんが大勢で消火してる、向う側に早く行けとの指示でヤット目指す一昨夜の焼跡、なる程、ここなら天下一品の安全地帯だ。
ヤレヤレ御蔭様で助かった、ありがたかったと思う嬉し涙。道傍に積んである石材に、いっしょになった婦人も妻も腰かけたまま、つかれはてたのと安心でねてしまった。娘たちも道路に毛布をしいてゴロねとのびてしまった。
夜もすでに明けたけれど、吹きまくる風に余燼もうもうとして目も口もあけられぬけれど、妻や娘たちを起こし、焼跡を見に迂回に迂回して来て見たら、何もの一つも残らずきれいさっぱりと焼きつくした。電柱は今尚火を吹いてる。それから西荻窪の坂部氏宅に一時落付くこととし、お互い無事を喜んだ。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(5月分掲載Indexへ)
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小さな旅(5) 旧古河庭園

2006年06月15日 | 小さな旅
今年の春先の天気は、晴れの日が少なく植物の生育が遅れ気味となり、開花も例年に比し遅いように見受けられます。
旧古河庭園のバラ園のばらも通常5月頃が見ごろですが、今年は6月に入ってもまだ観賞ができそうなので、3日の土曜日に出かけてみました。
JRの山手線駒込駅から本郷通りを10分ほど北に進むと、旧古河庭園の塀が左手に見えてくるので、先の四つ角を左折すると正門です。
正門(庭園案内図)を入ると、右手の小高い丘に洋館が建てられております。この日は、日柄が良かったのか、洋館で結婚式が行われておりました。

和洋一体の庭園
旧古河庭園(庭園マップ)は、洋館の前の斜面に洋風庭園を、その先の低地には日本庭園を配した和洋一体の庭園の説明案内板によると、「本園は、大正六年(1917年)古河家により作られたものです。本館と前庭欧風花壇は英国人ジョサイア コンドル博士(1852~1920)の設計であり、和風回遊式庭園部分は京都の庭師植治(小川治兵衛1860~1933)による、和洋が一体となった庭園です。本園は大正初期を代表する庭園として貴重なものです。」とあります。
なお、旧古河庭園は、昭和57年(1982年)8月4日に東京都の名勝に、また今年の平成18年(2006年)1月26日に国の「名勝」に指定されております。

バラ園
バラ園には、5月に咲いてたバラと入れ替えに、満開の時期は過ぎましたが、まだまだ蕾もあり、沢山のバラの観賞ができました。また、バラ園の下のツツジ園には、一株のサツキの玉物が満開でピンク色の花をびっしりと咲かせておりました。
バラ園に咲き誇るばらの花(クリック)、ばら1ばら2ばら3ばら4ばら5


日本庭園
明るい洋風庭園のバラを堪能してから、日本庭園へ向かうと入り口にはシイなどの濃い植え込みで雰囲気が一変し、カエデやムクノキなどで深い植え込みにより深山幽谷の趣きを呈しております。
大滝
松に囲まれた雪見灯篭を右に見て、「心」の字に似せて造った心字池を大島伝いに右回りして進むと大滝があります。大滝は庭園の勾配が急な場所を断崖として、高さ10数mから落ちる滝を配し、濃い樹林で囲み渓谷の雰囲気を醸し出しております。
奥の院型灯篭
心字池をさらに右回りに進み、大きな奥の院型灯篭を過ぎると、当日は茶室で有料の茶のもてなしをしておりました。
さらに、崩石積や書庫などを見て、庭園を半周して和洋の見事に調和された大正初期の庭園を堪能しました。

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前回 小さな旅(4) 京都日帰り桜・花見 その4 
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大森町界隈あれこれ(27) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第5回)

2006年06月13日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
東京大空襲の記録資料(2)
今回の東京大空襲の記録資料は、仕事に関する大先達の逓信省出身のS氏から、ご照会を頂きました、作家海野十三(うんの じゅうざ)氏の見た東京大空襲の記録「海野十三敗戦日記」を紹介します。

海野十三敗戦日記
中公文庫BIBLIO海野 十三 (著), 橋本 哲男 (編集) 文庫 (2005/07/26) 中央公論新社


海野 十三(1897.12.26~1949.5.17)は、日本におけるSFの始祖となった小説家。本名は佐野昌一。徳島市の医家に生まれ、早稲田大学理工科で電気工学を専攻。逓信省電気試験所に勤務するかたわら、科学雑誌に解説を多数執筆し、技術専門書を刊行した。初のフィクション『ラジ夫と電子王の話』を発表後、海野十三名で処女科学小説『遺言状放送』から、海野十三名を使用。1928(昭和3)年、「新青年」に『電気風呂の怪死事件』と名付けた探偵小説を発表して小説家としてデビュー。
以降、探偵小説、科学小説、加えて少年小説にも数多くの作品を残した。太平洋戦争中、軍事科学小説を量産し、海軍報道班員として従軍した海野は、敗戦に大きな衝撃を受ける。敗戦翌年の1946(昭和21)年2月、盟友小栗虫太郎の死が追い打ちをかけ、海野は戦後を失意の内に過ごす。

橋本 哲男 1923年(大正12)、東京生まれ。明治大学文学部卒。学生時代に海野十三に師事。48年(明治23)、毎日新聞社入社。77年に退職ののち、フリー・ライターとして多数の著作を発表。

「海野十三敗戦日記」は、空想科学小説作家海野十三の戦中日記である。期間は、1944年(昭和19年)末から約一年間。東京・若林(世田谷区)に住む海野家の上空を、米軍機が轟音をたてて飛び交う。そんな状況が、科学者らしい正確さとリアリティをもって記録されている。米機による最初の空襲は、昭和19年11月1日。その後、空襲は日増しに激しさを増す。家族ともども防空壕に逃げ込んだり、戻ったりの日々だ。 (次回に続く)


若山武義氏の手記(1946年記述) 第2編「戦災日誌(中野にて)」第5回四方火の海からの脱出
今更悔いても、へそをかんでも及びもつかず、何とか此の危機をのがれたいとする、焦虜と不安と恐怖の地獄の釜のなかにたたきこまれた騒ぎ、このまま人生一巻の終わりになるのかと、泣くにも泣けぬ、我れ初め顔色を失ってしまった。
此の時西の方から、女性をまぜる五、六人の大学生の一団がやって来た。我等には無我夢中で気がつかなかったが、一軒の家に立てかけある梯子を見て、ヤア君ここに梯子がある、この屋根に登って天下の形勢を見ようか、うん、よかろう、で二、三人、スルスル登って、四方を見て居た。

 「どこもここも、おそろしい位燃えてるな、然し東中野の方がやや安全だな、そこにい
くには二ヶ所火の手があるけど、した火だから突破出来るだろう」
と判断して降りて来た。さあ行こうと先頭に立ってくれたので、ヤレ助かったかと一団続々と後に続いた。中野警察の前と今一ヶ処の処を突破して、ヤット東中野駅にたどりついて、ヤレよかったと一時の危機を脱し得て一先ず安心したが、烈風物凄く、焼トタンやあらゆるものを吹き飛ばし危険であるから、暫次駅の本屋の方に移って四方を見渡すと、西の方は三菱銀行支店でとまって一面火の海、駅附近が疎開された為め駅が無事なだけで、今日本閣に火がついたばかりであった。

日本閣炎上
さすが、一世に豪華を誇った日本閣も、一団の火のかたまりとなって黒煙火花を吹き出し、遂に哀れにも崩れ去ったと同時に、今夜は風の方向が変って、駅の東の方の火焔が駅を一となめにせん勢いで吹きつけて来た。安心して居た駅そのものが危険となった。若し駅に火がついたら、それこそここを安全として避難してきた我々数万の人の運命は、一難さってまた一難である。見渡す限り四方火の海、猛烈風にあおられる火焔の海、どこをどの方向に逃げようにも、土地を知らぬだけ仕末が悪い。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(5月分掲載Indexへ)
前回 大森町界隈あれこれ(26) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第4回) 
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大森町界隈あれこれ(26) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第4回)

2006年06月11日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
東京大空襲の記録資料(1)
これまでに、若山武義氏手記に関連する多くの東京大空襲の記録資料を掲載してきましたが今回は、前回6月8日付け日記で紹介しました、東京都北区が無料で発行の記念誌「戦後60年 写真で語り継ぐ平和の願い」を受け取りに行った際、配布場所で東京空襲関係の図書「真っ赤な空は忘れられない 戦争体験の記録」昭和63年(1988年)3月15日東京都北区編集・発行、(有)鯨吼社制作が置いてありました。


この図書は、昭和61年(1986年)3月15日に東京都北区が、平和都市宣言を行い、二度と過ちを繰り返さないために、区民の方から貴重な戦争体験を綴り、戦争の悲惨さや、平和の尊さについて、後世に語り継ぐ必要があるとの考えで作成された記録集です。
そのため、1987年に戦争体験文を募集して、201件の応募文から120編を編集したもので、カテゴリー別に、疎開:10編、空襲(北区内):21編、空襲(東京):23編、空襲(東京外):9編、戦地(東南アジア):21編、戦地(シベリア):6編、戦地(内地) :5編、引き上げ:7編、その他:8編と、戦時下の区民の暮らし、略年表などが263ページの章立てで収められております。

図書の題名の「真っ赤な空は忘れられない」は、応募作品の題名が使われております。
また、若山武義氏の手記「戦災日誌(大森にて)第8回」の中にも、
 爆撃は益々熾烈を極め、烈風にあおられる猛炎の火の海。
 大型焼夷弾は炸裂と共に花火の如き熱焔を吹き上げる。爆弾は轟然炸裂と共に黒煙を天に沖し凄惨とも悲惨とも書くすべを知らぬ。
 前後約六時間、何ものも残さず燃え盛る。火の手は中々おさまりそうもない。東の空はほのぼのとあけて昇る太陽は真紅であった。
 このようなまっかなおてんとうさまは、過ぐる関東大震災の翌朝にあった。私としては生まれて二度目の真紅の太陽、一生に忘れられぬ印象である。
と記述してあります。

戦争体験の悲惨さは、絶対に忘れることが出来ない体験で、決して二度と繰り返してはならないと思います。
北区発行の後世に語り継ぐ必要がある「戦争体験の記録」は、大森町大空襲の日記の掲載にも関連があるため、図書の在庫が若干あるとのことなので譲って頂き、保存しております。


若山武義氏の手記(1946年記述) 第2編「戦災日誌(中野にて)」第4回
四方八方火の海の包囲、進退窮まる
妻と娘と、留守不在中頼まれた安田さんの娘二人、四人連れて決して離れるなよと注意して、差当り火の手のない東養豚所まで来たら、再び第二の焼夷弾が怪音と共に降って来た。
幸いに大樹のかげにみんなかくれて避け、さあ来いとばかり一散に飛び出した。約二、三十人の人と魔物に追われる気持ちでかけ出して、畑を横切る時、ガアーッと落雷の如き物凄き音、

  アッ、爆弾
と直覚、トタンに背後で轟然炸裂した。アッもスッもない。無我夢中でスッとんだ。吹き飛ばされたとおんなじだ。ぱっと気がついてふりかえると、妻や娘たち、息せき切ってかけてくる。
 「とうさんたら薄情だわ、母さんもわしも捨ててにげるんだもの」
 「なにな云うてあがる、だからまごまごするなっんだ」
とはどなるものの、まあよかったと、ホッとした。爆弾だったらみんなお陀仏だ、幸いに大型焼夷弾で、直撃を受けた民家は猛烈な火を吹き出している、風は背後より吹きつのる、一瞬もまごついて居られぬ窮地に立ったのである。

とにかく北の方へ行こうとして、みんな離れるなよ、来いよ来いよと怒鳴りながら行くと、先方からゾロゾロ来る、「先に行ったってだめですよ」と注意され、この人だちと逆戻りする。それでは西の方に行こうかと、約半町(55m)も行くと、又一団の人々がゾロゾロ来る、此の人だちも「むこうはだめですよ」で再び逆戻り。東の方からも続々と避難して来る。南方の猛火と黒煙が烈風にあおられて益々身近く迫る。東西南北、四方八方火の海に包囲され、ここに期せずして集まった数千の人々と共に進むも退くも出来ず、真に全く茲に進退に窮し、忘然と立ち竦んでしまった。

前回 大森町界隈あれこれ(25) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第3回) 
次回 大森町界隈あれこれ(27) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第5回) 
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大森町界隈あれこれ(25) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第3回)

2006年06月08日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
若山武義氏手記の解説 その7
大森町大空襲の戦災を受けた後、一旦仙台に帰郷してからご家族で東京の中野の借家住まいで再度の東京大空襲の戦災に遭い、その爆撃の情景の凄まじさを記述した、若山武義氏手記の第2編 戦災日誌中野にて(第3回)を読むと、無残な戦争を再び繰り返してはならないと改めて思いを募らせます。皆様で、平和について考え恒久平和を願い、戦争記録を風化させることなく、語り継いでいく必要があります。
若山武義氏の手記はまだまだ続きますが、お読みになられた方は、是非皆様にご紹介して頂ければ幸いと存知ます。

今回の東京大空襲の記録資料は、平和都市宣言20周年にあたる平成18年3月15日に東京都北区が発行し、無料で配布された記念誌の「戦後60年 写真で語り継ぐ平和の願い」をご紹介します。

記念誌の発行の趣旨は、A4版49頁たてで、戦争の記録と記憶を風化させることなく、未来に語り継いで行くことを目的として、北区出身の推理作家・内田康夫氏の特別寄稿をはじめ、写真を中心に当時の区民生活や区内の戦跡などを紹介しています。
なお、現在、無料配布が終わり、区役所第一庁舎1階「区政資料室」において、1冊250円で有料配付しています。
また、 「戦後60年-写真で語り継ぐ平和の願い」のホームページ(ここをクリック)の「ダウンロード」欄から、記念誌を27ページに抜粋したPDF ファイル (12296.68KB) のダウンロードができます。


若山武義氏の手記(1946年記述) 第2編「戦災日誌(中野にて)」第3回
五月二十五日中野大空襲
翌五月二十五日、西荻窪に坂部氏を訪ね、借家さがしを頼んで夕方かえり、九時頃就寝しようとすると警報が出た。ものの十分とたたぬうちに空襲警報となった。大急ぎで身仕度をして戸外に出て形勢観望である。妻も娘も一昨夜と今晩と二度目の空襲である。
初め敵機は立川方面より帝都に侵入し始めた。我が軍の迎撃も物凄く、探照灯は八方より集中捕捉せる敵機に高射砲は力一杯火蓋をきり花火の如く沖天に炸裂する。見ている我々は、アー今少し、アッ、アタッタアタッタと手に汗を握るばかり。たちまち一機亦一機と火達磨となって墜落する。B29からの応戦も亦猛烈で、ドドッドドッと打ち出ち機関砲弾、一聯の花火のようである。戦は真に凄惨となった。
此の時、敵機の編隊の先頭機に隼の如き勢いにて突進迫る我が戦闘機に対し、敵機の集中砲火を物とせず遂に体当り、一塊の火の玉となって我が機は散華したのである。見て居った我々一団の男女、思わず知らず「アッ」と悲鳴をあげて声を呑んだ。体当りされた敵機も次第に速度がおち、火を吹き出したように見えた。こうして、他所事のように此の時は見て居れた。

今度は、敵機は反対の方面、帝都の中心より侵入し始め、我等の頭上に交錯し始めた。あっ、これは危険だぞと思うまに、幡ヶ谷、高円寺、東中野方面が次第に火の海となり出した。秒一秒、不安がつのり、焦慮がます。いよいよ大変な事になったと思うトタンに
  ピピユーピピユー
物凄い腸のちぎれるような怪音と共に、焼夷弾が一斉に附近一帯に落下した。
「組長さんのとこ、焼夷弾落下!」
と女の呼び声。ソレッとばかり、平素の訓練通りバケツ持ち出した連中、二発は消し止めたけれど、近所近隣のは一ぺんに火を吹き出した。もう消す処の沙汰ではない。此の勢いに皆退避し初めた。

前回 大森町界隈あれこれ(23) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第2回) 
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大森町界隈あれこれ(24) 大森町の社寺(2) 浅間神社

2006年06月06日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
先週の土・日の諏訪神社の例祭に続いて、今週の6月3、4日の第1土・日曜日は、浅間神社のお祭りでした。浅間(せんげん)神社(大田区大森西2-2-7)は、大森町の社寺(1)に記載の諏訪神社(大田区大森西2-23-6)の裏通りの道を一路北上し、環七通りで左折すると通り面した(地図参照)所にあります。諏訪神社とは、同じ丁目でおよそ400mほど離れた徒歩5分の所にある、ごく近くの隣組みの様な大森町の社寺です。

先週に続き、浅間神社のお祭りの見物に出かけました、諏訪神社の裏道を北上すると環七に出る少し前右手に町会の御神酒所があり祭囃子が気分を盛り上げておりました。そこを通り過ぎると、環七通りの歩道には沢山の出店で賑わっておりました。
鳥居を潜り、狛犬を前にした本殿に参詣を済ませると、昼時なので神社の近くにある環七沿いの創業八十余年の老舗うなぎの「はせ川」(地図参照、「大森町界隈あれこれ 大森町の老舗」に掲載予定)で、国産うなぎ、紀州備長炭、三代引き継いだ秘伝のタレに、地元のお店で舌ずつみを打って午後の神輿し練り歩きをを待ちました。

環七車道を進む神輿、曳き太鼓
車道を通る神輿や曳き太鼓を見るのは初めてであり、日曜日なので比較的空いているとは言え何し追う環七通りです。曳き太鼓と神輿の出発時間となりましたが、思ったより車の交通量は少なく、スムースに練り歩きは進みました。
環七歩道橋から見た浅間神社
環七通り車道を進む曳き太鼓
環七通り車道を進む神輿1
環七通り車道を進む神輿2
先週に続きお祭りを見物しましたが神社や町会が異なると、それぞれ特徴のある神輿や曳き太鼓の練り歩きが見られました。

御祭神は、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)が祭られております。
浅間神社の御朱印

浅間神社由来
旧大森村の内、沢田地区の鎮守で、地名の沢田とは、古くは馬込・池上の山より海へ出る処の一面沢地であったところから生れた。
8代将軍吉宗の時代(300年前)に、富士山本宮浅間大社を勧請したことに起こる。当時盛んであった富士講ゆかりの神社で、毎年の富士登拝の際、近郷の先達はまず当社に参拝して道中平安を祈願したという。
また、安産・子育ての神、又火防の神として知られております。

大正7年(1918)耕地整理のため移転、さらに氏子の増加と道路拡張のため、昭和15年(1940)現社地に遷座した。大森町大空襲では、戦災を免れて、現在に至っております。

<前回 大森町界隈あれこれ(22) 大森町の社寺(1) 諏訪神社その3  へ
次回 大森町界隈あれこれ(L30) 大森町の社寺 巌正寺の水止め舞 へ>
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大森町界隈あれこれ(23) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第2回)

2006年06月04日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
若山武義氏手記の解説(大森町大空襲) その6
東京大空襲の記録写真集としては、石川光陽氏の撮影された1942年(昭和17年)8月18日の東京初空襲から、1945年(昭和20年)5月25日の山の手地区空襲までの間の東京空襲の有様を地上からの被災現場写真を撮影して編集発行した、「<グラフィック・レポート>東京大空襲の全記録」岩波書店1992年3月10日発行の図書が、現存する唯一の貴重な記録資料なのです。

<グラフィック・レポート>東京大空襲の全記録 岩波書店

それは、1943年(昭和18年)5月7日に内務省警保局の命により、空襲被害の状況を敵国はもちろん国民の目からも隠匿するために、空襲現場の写真撮影や被害現場への立ち入りは禁じられておりました。唯一、石川氏が警視庁のカメラマンだった1944年(昭和19年)11月24日、B29による初めての東京空襲(中島飛行機製作工場)があった日、空襲写真専務になるように命じられて、愛機のライカを片手に、日々本格化する空襲の現場を飛び回り、未だくすぶる焼け跡、崩壊した家屋、無惨な遺体を撮影し続けたのです。

戦後、GHQ は、東京空襲を撮影した唯一のカメラマンである石川氏の存在を探り出し、フィルムの提出を命令した。しかし石川氏は、自分が命をかけて撮影したフィルムを渡すまいと提出を拒否し、こっそり持ち帰って自宅の庭に埋めてしまった。
繰り返しの提出命令にもかかわらず石川氏はそれを拒否し続け、これは当時としてみれば命がけの行動により、「東京大空襲の全記録」が発刊されたものです。

「東京大空襲の全記録」には、1945年3月10日の東京下町の大空襲を初めとして、4月13日の豊島、新宿や4月15日の大森町大空襲を含めて、34日に及ぶ撮影した無惨な遺体の写真や、見渡す限り瓦礫の山となった被災現場写真が掲載されております。
大森町大空襲の被災現場写真(4月16日撮影)には、①大田区大森6丁目付近の焼け跡1(同書115ページ掲載)、②大森警察署前で配給の乾パンを積み込む(同書115ページ掲載)、③大田区大森6丁目付近の焼け跡2(同書116ページ掲載)、④大田区大森3丁目付近(同書117ページ掲載)、⑤蒲田警察署前通り(同書116ページ掲載)などの学童疎開前に目の当たりにした所の瓦礫の山となった被災現場写真が掲載されております。

このブログに取って大森町大空襲の貴重な記録写真ですので掲載したいと思い、石川光陽氏のご遺族の方と折衝致しましたが、残念ながら折り合いがつきませんでしたので断念しました。
ご覧頂くには、「東京大空襲の全記録」は各所の図書館に蔵書として保管されておりますので、見ることができます。また、岩波書店には残数があると思いますので、購入の上ご覧下さい。


若山武義氏の手記(1946年記述) 第2編「戦災日誌(中野にて)」第2回
五月二十三日の大空襲
其の夜の空襲も、東中野、渋谷、目黒、大森に亘る一面火の海、相当大仕掛けの爆撃である。省線が全然普通、自転車で余燼つきぬ東中野から新宿、渋谷を経て目黒も相当な被害である。会社は無事なので、安心して久ヶ原に行く道筋、大岡山付近は全滅同様通行止め、迂回してやっと久ヶ原にに来たら、こはなんと高射砲陣地は跡も形もない。伊藤さんの所へ来て見ると、焼跡にお母さんが呆然立って「亦やられました」と苦笑された。先ず何より無事でよかったと心から喜ぶより外ない。そこへ利雄さんがかえる、なんとした事だ。「これではだんだん東京に住む家は一軒もなくなるね」と慰めようなく顔見合せて苦笑した。

これで東京が一軒残らず焼けた処で、戦争が負けるなんて事は夢にも亦みじんも思いもせず考えもしないのである。これで久ヶ原で借りようとした二軒も諸共形も影もない。借家の有無を鶴の首の様にして待って居た妻も伊藤さんの再度の羅災に唖然とした。

前回 大森町界隈あれこれ(19) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第1回) 
次回 大森町界隈あれこれ(25) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第3回) 
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番外編 カテゴリー別のブログ記事を連続して読むには [付 kan-haruの日記5月月間INDEX]

2006年06月01日 | INDEX
K&A kan-haruの日記も、カテゴリーが月毎に新設して増えてきております。
K&A kan-haruの日記の月間INDEXは、毎月1日付けで掲載しております。

カテゴリーのINDEXは、日記左欄の案内板の「カテゴリー」に掲載されております。
ここをクリックすると、その時点のカテゴリー別の最新のページが見られます。
今回の月間INDEXから、カテゴリー別の先頭ページのINDEXを付けることにしました。
見たいカテゴリーの先頭ページを見る場合には、このINDEXをクリックすることにより、連載の先頭ページが表示されます。

次回のページに進むには、日記ページの末尾の「次回 ・・・・・・ >」をクリックしますと進みますので、最終ページまで辿れます。日記が未完で、連載がさらに継続する場合には、「次回 >」の記載はありません。
前のページに進むには、日記ページの末尾の「<前回 ・・・・・・ 」をクリックします。

前月の月間INDEXを見る場合には、末尾の「<前月 kan-haruの日記n月月間INDEX 」をクリックしますと、そのページに進みます。同様に次月の月間INDEXは、「次月 kan-haruの日記”i”月月間INDEX >」をクリックしますと表示されます.

なお、日記ページの先頭に表示されている写真や図が右端に小さく表示されている場合は、日記トップのタイトルバー上をクリックすると、写真や図が大きく表示されます。この状態のインターネット エクスプローラ上の「アドレス」欄に表示されているURLでアクセスすると、写真や図が大きく表示されます。


kan-haruの日記 5月 月間カテゴリ別INDEX
INDEX上の日記をクリックすると、当該ページが表示されます。INDEXに戻る場合には、ブラウザのメニューの「戻る」をクリックします。

[大森町界隈あれこれ 大森町大空襲] 連載14回掲載
東京大空襲~あれから61年~(その1) まえがき3月10日
東京大空襲~あれから61年~(その2) まえがき3月11日
大森町界隈あれこれ(8) 鎮魂! 大森町大空襲(第1回)  初回4月13日
大森町界隈あれこれ(13) 鎮魂! 大森町大空襲(第6回)  5月9日
大森町界隈あれこれ(14) 鎮魂! 大森町大空襲(第7回)  5月11日
大森町界隈あれこれ(15) 鎮魂! 大森町大空襲(第8回)  5月14日
大森町界隈あれこれ(16) 鎮魂! 大森町大空襲(第9回)  5月16日
大森町界隈あれこれ(17) 鎮魂! 大森町大空襲(第10回)  5月18日
大森町界隈あれこれ(18) 鎮魂! 大森町大空襲(第11回)  5月21日
大森町界隈あれこれ(19) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第1回)  5月25日

[大森町界隈あれこれ 大森町に65年] 連載6回掲載
大森町界隈あれこれ(1) 大森町に住んで65年!(その1)  初回3月19日

[大森町界隈あれこれ 大森町の社寺] 連載3回掲載
大森町界隈あれこれ(20) 大森町の社寺(1) 諏訪神社その1 初回5月28日
大森町界隈あれこれ(21) 大森町の社寺(1) 諏訪神社その2 5月29日
大森町界隈あれこれ(22) 大森町の社寺(1) 諏訪神社その3 5月30日

[大森町界隈あれこれ 大森海苔物語] 連載1回掲載
大森町界隈あれこれ(5) 大森海苔物語(1) プロローグ  初回4月3日

[小さな旅] 連載7回掲載
小さな旅(1) 秩父長瀞の蝋梅と火祭り 初回3月12日
小さな旅(4) 京都日帰り桜・花見 その2 5月3日
小さな旅(4) 京都日帰り桜・花見 その3 5月5日
小さな旅(4) 京都日帰り桜・花見 その4 5月7日

[イベント] 連載2回掲載
春の花とアルス五重奏団コンサート 初回4月11日

[IT] 連載2回掲載
・パソコンは、いつでもまともに動くとは限らない 初回4月21日
パソコンは突然に機嫌が悪くなる 5月23日

[秋葉原界隈] 連載5回掲載
秋葉原界隈(その1)  初回3月9日

[Weblog] 連載1回掲載
kan-haruのgooブログ日記 初回3月8日

[INDEX]
番外編 ブログの参照写真などを拡大して見る方法 [付 kan-haruの日記4月月間INDEX] 5月1日


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