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kan-haruの日記

イベント 生誕120年木村荘八展 東京ステーションギャラリーで昭和の東京の油絵と小説の挿絵を見るその1

2013年05月29日 | イベント
kan-haru blog 2013 永井荷風『墨東綺譚』岩波文庫本

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木村荘八
1893年(明治26年)に、東京・日本橋のいろは牛肉店の創立経営者の8男に生まれた木村荘八は、父の死後浅草と京橋のいろは牛肉支店の帳場を担当しながら、美術家を志ました。1911年、旧制京華中学卒業後、白馬会葵橋洋画研究所に入り、岸田劉生と知り合い、1922年までヒュウザン会に参加し毎回出品しました。1918年からは二科展や院展洋画部にも出品し『二本潅木』で高山樗牛賞受賞しました。1937年には、永井荷風の代表作『墨東綺譚』に挿絵を、他に大佛次郎の時代小説で、幕末・明治初期の横浜新開地を舞台にした『霧笛』、『幻灯』、『花火の街』、『その人』の挿絵を連載しました。晩年の戦後は、文明開化期からの東京の風俗考証に関する著作『東京の風俗』や『現代風俗帖』などの著作を多数出版しました。多忙により病気の発見が遅れ、悪化し1958年に病没しました。歿後刊行の『東京繁昌記』で、日本芸術院恩賜賞(1959年)を受賞しました。(Wikipediaから)
注:「墨東綺譚」の墨の字は、サンズイを付けるのが正式ですが、本ブログでは文字化けとなるため「墨」の字を使用しております。

 木村荘八 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵

生誕120年木村荘八展
東京で20年振りの生誕120年木村荘八展が、東京ステーションギャラリーで公益財団法人東日本鉄道文化財団と東京新聞の主催で、2013年3月23日から5月19日まで開かれました。入館料は、一般が900円、大・高学生が700円で、中小学生が400円です。

 生誕120年木村荘八展パンフレット

木村荘八展の出展作品は、代表作「パンの会」、「牛肉店帳場」、「浅草寺の春」などの油彩画が約78点、「墨東綺譚」の挿絵34点と、「東京繁昌記」挿絵65点と「師走風俗帖」挿絵25点および、岸田劉生、高須光治、椿貞雄、横堀角次郎、河野通勢、宮崎丈二、中川一政などの作品(「生誕120年木村荘八展東京ステーションギャラリー 出品リスト」参照)が、前期(3/23~4/21)と後期(4/23~5/19)に分けて展示されました。

 木村荘八油彩画(左上:パンの会、左下:牛肉店帳場、右:浅草寺の春) 

・東京ステーションギャラリー
東京ステーションギャラリーは1988年に誕生し、2006年の復元工事に伴い休館していましたが、2012年10月1日に再開館しました。

 東京ステーションギャラリー 

ギャラリーは、赤煉瓦駅舎内の東京駅丸の内北口改札前の1階に入り口があり、2階と3階が展示室(約2,900平方メートル)の構成で、順路や階段は創建当時の煉瓦壁の雰囲気が漂っています。

 東京ステーションギャラリーの建当時の煉瓦壁階段・回廊(左上:東京ステーションギャラリーの入り口、中上右上:東京ステーションギャラリーの階段、左下:階段周囲の創建当時の赤レンガ、中下右下:東京ステーションギャラリー2階回廊)

・東京駅
東京駅は、1889年(明治22年)に神戸まで全通した官設鉄道の新橋駅と、私鉄・日本鉄道の上野駅を結ぶ高架鉄道の建設が東京市区改正計画によって立案され、1896年(明治29年)に新線の途中に中央停車場を建設することが可決されました。1908年(明治41年)から建設工事が本格化し、1914年(大正3年)に開業して皇居正面の原野に設置され、「東京駅」と名付けられました。

 東京駅丸の内北口の丸天井(写真拡大)

1945年(昭和20年)5月25日の東京大空襲では丸の内本屋の降車口に焼夷弾により大火災を引き起こし、レンガ造壁とコンクリート造床の構造体は残りましたが、鉄骨造の屋根は焼け落ちて内装も大半が焼失しました。戦後の1947年(昭和22年)に修復工事を行い、3つのドーム部の外壁を修復し安全性を考慮して3階部分内外壁は取り除いて2階建てに変更、中央ドームは木造小屋組で元の形に復原し、南北両ドームは丸型から台形に変更して復元しました。

 東京駅丸の内北口(:東京駅丸の内北口駅舎内部、:東京駅丸の内北口出口、:東京駅丸の内北口外観)

丸の内駅舎の復元は、2001年(平成13年)に外観の復元を行うこと、南北ドーム見上げ部分の復元を行うこと、現存している部分を可能な限り保存し活用することなどの基本方針に従って、「現存する建造物について、後世の修理で改造された部分を原型に戻す」保存復原工事が2007年(平成19年)に着手され、赤煉瓦駅舎を恒久的に保存・活用するため、駅舎1階と新たに設ける地下1階との間に免震層を設ける方式を採用し、2011年(平成23年)9月末に免震化が完成しました。屋根は、創建当初は雄勝産の天然スレート約7600平方メートルで葺かれていましたが、戦災復旧に際して鉄板葺きを1952年、1973年、1990年の3回にわたって天然スレートに葺き替えが行われてきました。復原工事前のスレートは、ドーム部と中央部は魚鱗葺き、切り妻部は一文字葺きとなっていましたが、復原に当たって創建当初の一文字葺きに統一されました。ドーム内部の設計図は1枚しか残っておらず、写真も白黒のものだけでありましたが、南ドーム3階壁面南東側のレリーフのみは戦災後も一部残存していたので、これを樹脂を含浸して補強し石膏パーツで強化補強してそのまま取り付けられました。

 東京駅丸の内中央口と皇室専用貴賓出入口(:東京駅丸の内中央口、:東京駅皇室専用貴賓出入口)

復原駅舎は地上3階(一部4階)で、地下2階建ての延べ床面積約4万3000平方メートルで、このうち駅施設およびトラベルサービスセンターが約7800平方メートル、ホテルが約2万800平方メートル、ギャラリーが約2900平方メートル、地下駐車場が約3600平方メートル、設備室などが約7900平方メートルの復元工事が2012年(平成24年)10月1日に完成しグランドオープンしました。(Wikipediaから)

 東京駅丸の内南口(:東京駅丸の内南口外観、:東京駅丸の内南口出入り口、:東京駅丸の内南口の丸天井)

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風景・風物詩 善光寺出開帳 江戸時代に人気を博した回向院出開帳に行ってきましたその3

2013年05月24日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2013 善光寺出開帳両国回向院ポスター   

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・善光寺出品文化財(2)
本堂3階のその他の善光寺出品文化財には、善光寺如来の来歴を記した「絹本着色善光寺縁起絵」および、法要などで打ち鳴らす鉦鼓と呼ばれる大型の吊るし鉦「銅造双盤」や、和宮親子内親王(1846~77)由緒品の「皇女和宮由緒品」には梨子地葵紋蒔絵御文筥、梨子地唐草文蒔絵銀網掛手炙、梨子地菊葵紋散二階棚など10種類の品が展示してありました。
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                  絹本着色善光寺縁起絵(図はガイドブックから)

・びんずる尊者坐像
本堂3階から1階ロビーに降りると、奥に今回始めて善光寺本堂から外に出たびんずる尊者坐像が鎮座しており、大勢の参詣者が治して頂く願をこめて、復興しゃもじや掌で触れておりました。
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        びんずる尊者(左:回向院出開帳のびんずる尊者(ガイドブックから)、右:善光寺本堂のびんずる尊者20121031)

また、1階ホールでは、北原香菜子の演奏による薩摩琵琶の奉納演奏が開かれており、満席で入場が出来ませんでした。同ロビーの左側では、善光寺と回向院のご朱印を受け付けており、長い行列待ちをしていました。
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        本堂1階ロビー(左:善光寺・回向院出開帳ご朱印所、右:左がご朱印所、奥がびんずる尊者坐像)

ご朱印は、善光寺から出開帳御朱印を、回向院から本尊阿弥陀如来と馬頭観世音のご朱印を受けてきました。
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       善光寺と回向院のご朱印

回向院のご本尊は、阿弥陀如来で、かつては本堂を背にして露天に安置されていた濡仏さまでした。釜屋六右衛門の作で、 1705 年(宝永二年)に安置され、身の丈約250センチ、蓮座約130センチもある大きな銅作りの坐像で、都有形文化財に指定されています。
馬頭観世音は、将軍家綱公の愛馬が死亡しその骸を回向院に葬ることになり、供養をするため、回向院二世信誉貞存上人は馬頭堂を建て自らが鑿をとって刻して安置しました。馬頭観世音菩薩像は、1716~35 年(享保年中)の頃から「江戸三十三観音」に数えられて、回向院は「江戸砂子拾遺」その二十六番札所と記されています。当時のものは災難にあい焼失しましたが、現在でも昭和新撰「江戸三十三所観音参り」での第四番札所として巡拝者で賑わっています。
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        回向院本尊阿弥陀如来像と馬頭観世音菩薩像(回向院HPから)

本堂の2階では、浮世絵美人画家の鳥居清長(1752~1815)の絵の「江戸の華 浮世絵と回向院展」を開催していました。回向院には、鳥居清長の墓碑があることは知られながらも、度重なる災害によりその所在は不明となっていました。
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        本堂2階「江戸の華 浮世絵と回向院展」(左:浮世絵展と回向院展への階段口、右:茶見世十景冨ヶ岡 回向院HPから)

回向院のお戒壇巡りは、念仏堂の横を裏手に進み、入り口で係員の説明を聞いた後入ります。お戒壇は、念仏堂の背面に曲がりくねって作られた塀囲いの回廊で、真っ暗な回廊を巡り、出開帳仏背面に懸かる「極楽の錠前」に触れることで、錠前の前におられる出開帳仏と結縁を果たし、極楽往生のお約束をいただく修業です。出てくる時、最初に目にするのが出口から射し込んでいる光で、目の見える尊さと光のありがたさを感じます。
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        戒壇巡り(左:回向院のお戒壇巡り入口、右:善光寺本堂のお戒壇巡り入口 ガイドブックから)

最後に、善光寺出開帳の回向院参詣の記念に、出開帳授与品頒布所で善光寺のお線香と花絵のろうそくを購入して帰宅につきました。
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出開帳授与品(左:出開帳授与品頒布所、右:善光寺お線香と花絵のろうそく)

・盛り場両国江戸庶民の行動文化展で見る出開帳
善光寺出開帳両国回向院の開催に関連して、江戸東京博物館(墨田区横網1-4-1)で、4月16日~5月26日まで開催している、「盛り場両国江戸庶民の行動文化」展で回向院の建立と開帳の常設展の展示を、5月15日に見てきました。
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                 盛り場両国江戸庶民の行動文化展パンフレット

入場料は、一般 が600円、大学生・専門学校生が480円、中学生(都外)・高校生・65歳以上が300円、中学生(都内在学または在住)・小学生・未就学児童が無料です。なお、当日は第3水曜日のシルバーデーにあたり、65歳以上は常設展観覧料が無料となります。
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            シルバーデー入場券

展示会の第1章は回向院の建立と両国橋の架橋で、ともに1657年(明暦3年)の大火を契機とし、10万8千人の犠牲者をとむらうために本所牛島新田に「万人塚」が設けられ、その後國豊山無縁寺回向院が建立される。両国橋も大火を逃れて避難した人々が焼死もしくは溺死した惨事を受けて、1661年(寛文元年)に架橋されました。
「むさしあぶみ」上・下:文政年間に編集された「御府内寺社備考」によれば、回向院の起立は,明暦大火の後に犠牲者を弔うため与えられた本所牛島新田の50間四方の土地に死骸を埋葬したことにはじまるとしています。その後、寺領は幕府の助成もあって次第に拡張されていき、伽藍も整えられていきます。
「江戸名所図会」十八:回向院は江戸時代には坪数5101坪余りの大寺院として発展していくが、境内みは本堂のほかに鐘楼、馬頭観音堂、一言堂、地蔵堂、蓮池に弁財天などもありました。茶屋なども設けられており、常に多くの参詣者で賑わっていたことがうかがいしれます。馬頭観音は1655~58年(明暦年間)に将軍家綱の愛馬を埋葬するために建立されたといいます。
明暦大火罹災市街の図:火事は19日の深夜に一端は鎮火したが、小石川より出火しました。北西風によって江戸城の天守閣、本丸、二の丸までもが炎上しました。飯田町・市ヶ谷・番町などの江戸城周辺の武家屋敷も延焼し、さらに麹町からも出火して被害は芝口まで拡がりました。死者は10万人余といわれています。なお、この絵画によって木戸の跡がわかり、当時の町の状況を知ることができます。

 第1章回向院の建立と両国橋の架橋(:「むさしあぶみ」上・下、:「江戸名所図会」十八、:明暦大火罹災市街の図)

第3章は、回向院の開帳と相撲興行で、両国橋東詰に位置する回向院では、全国各地の寺院の出開帳がさかんに行なわれました。
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            相州小田原道了宮両国回向院ニテ開帳参詣乃図 歌川広重/画(江戸東京博物館)

開帳の時期ともなると寺社の宝物を目当てに多くの人々が訪れ、より一層の賑わいをみせました。また、回向院は大相撲の興行場所としても賑わいました。
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          近世善光寺出開帳一覧

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風景・風物詩 善光寺出開帳 江戸時代に人気を博した回向院出開帳に行ってきましたその2

2013年05月21日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2013 善光寺出開帳両国回向院チラシ  

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出開帳仏
善光寺のご本尊さまは秘仏のため、誰もお姿を拝むことはできませんが、7年に一度のご開帳では、ご本尊の分身仏である前立本尊を拝むことが出来ます。1997年(平成9年)4月のご開帳の参拝には、前立本尊の三尊阿弥陀如来を拝んできました。
江戸時代に善光寺の出開帳は各地で行われ、なかなか参詣に訪れることが出来ない人々のために、今回は東京両国の回向院にも前立本尊さまが出向いて頂き、念仏堂1階に鎮座されます。
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               回向院に出開帳の前立本尊(図はガイドブックから)

出開帳で開帳される仏様は、善光寺ご開帳の前立本尊とは異なる一光三尊阿弥陀如来さまで、中央が阿弥陀如来さま、向かって右が観音菩薩さま、左が勢至菩薩さまです。回向柱に触れて参道を進むと右側が念仏堂で、1階の正面に出開帳仏に参拝できます。出開帳仏前では、善光寺の両住職による法要が連日執り行われています。出開帳では写真の撮影は禁止なので、公式ガイドブックにより見ることにします。

・被災地からの観世音菩薩
回向院念仏堂2階に上がると、祈りの間に被災地の陸前高田からの菩薩像が安置されています。その被災地の仏像の手前の左端には、7具の善光寺式一光三尊阿弥陀如来像が安置されています。念仏堂1階の本尊として彫られた阿弥陀三尊像は、もともと回向院にあった善光寺式一光三尊阿弥陀如来像を小さく模した木造金箔の御像です。その本尊を原型として金銅仏に造られたのが生まれかわったのが7具の御像で、出開帳が閉幕した後に被災地寺院七箇寺に寄贈されます。
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            7具の善光寺式一光三尊阿弥陀如来像

今回は出開帳開催の目的が、東日本大震災復幸支縁にあり、祈りの間には、この出開帳のために、東北からお越しになられた仏様が3体安置されています。
先ずは、要害観音堂(陸前高田市気仙町字要谷)は気仙三十三観音霊場の4番札所で、津波によりお堂がどこにあったかさえ分からない状況で、がれきの中から奇跡的に聖観世音菩薩立像が発見されました。お像は砂をかぶっているうえ、手が少々破損しており、仏師に修理を依頼し観音像のクリーニングと、欠損した手の補修、厨子の屋根の復元等を行い以前と変わらぬお姿に復元して、聖観世音菩薩立像が出開帳にお出ましになりました。(ひとさじの会HPから)
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                木造聖観世音菩薩立像

つぎは、如意山金剛寺(陸前高田市気仙町字町裏29)は気仙三十三観音2番札所で、津波によって本堂や観音堂、庫裏などが破壊され、本尊の如意輪観世音菩薩は泥中より発見され、他の大日如来像や毘沙門天像、不動明王立像、弘法大師像、興教大師像が損傷し、興教大師像以外は修復されました。興教大師像は修復が困難であり、同寺のマツを材料に新たに製作となり、椅子に座り袈裟を身に着け、曲録に座る高さは約85センチの興教大師像も完成ました。同寺からは、如意輪観世音菩薩坐像が出開帳にお出ましになりました。(回向院HPから)
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               如意輪観世音菩薩坐像(図はガイドブックから)                
海岸山普門寺(陸前高田市米崎町地竹沢181)からは、7万本の松の木が流され、たった一本の松の木が残り、東京藝術大学大学院生によって70センチの大人地蔵2体と50センチの子供地蔵2体の「親子地蔵」を今年4月に制作され、父地蔵の1体は善光寺様に安置された後出開帳にお出ましになり、子地蔵の1体は普門寺からお出ましになりました。(回向院HPから)
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                   木造地蔵菩薩立像(おやこ地蔵尊)(図はガイドブックから)

・善光寺出品文化財(1)
念仏堂から3階に上がり、そのまま本堂の3階へ進むと、善光寺出品文化財が展示してあります。入り口では、高村光雲と米原雲海の合作の木造金剛力士立像の阿形・吽形がお出迎えです。現在の善光寺仁王門仁王像の原型です。
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            木造金剛力士立像(図はガイドブックから)

それから木造聖徳太子立像で、16歳の太子が父帝の病気平癒を願う「孝養太子像」と、約160年間懸けられていた先代の木造鳩字扁額で、輪王寺宮公澄法規王の筆によるもので、文字中に5羽の鳩の姿が見える。
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              左:木造聖徳太子立像と右:先代の木造鳩字扁額(図はガイドブックから)

次は、木造御三卿座像で、善光寺開山に関わる本田善光(中央)、妻弥生(右)、子息善佐(左)の三人の人物像です。
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          木造御三卿坐像(図はガイドブックから)

次は木造阿弥陀如来立像で、4年前の解体修理で快慶工房で造られたと指摘されている、安阿弥様の阿弥陀仏です。
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                      木造阿弥陀如来立像(図はガイドブックから)

次は銅像釈迦如来涅槃像で、銅製の涅槃像で釈迦が入滅した姿を現しています。
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         銅像釈迦涅槃像(図はガイドブックから)

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風景・風物詩 善光寺出開帳 江戸時代に人気を博した回向院出開帳に行ってきましたその1

2013年05月17日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2013 善光寺出開帳回向院ガイドブック 

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善光寺詣り
昨秋の渋温泉旅行をした時、東京に帰りすがりの10月31日に久振りに善光寺によってお詣り(「旅ものがたり 善光寺・小布施・渋温泉 北斎が愛した小布施の歴史を追い、渋温泉でくつろぎ善光寺参りその5」参照)をしてきました。その前の善光寺詣りはあんずの花見に行った1997年(平成9年)4月で、この年はご開帳と重なり515万人の人出により本堂内は参詣者で一杯で、お参りするのがやっとの状態でした。

・善光寺ご開帳
善光寺御開帳は7年に1度開催され、人出が多いことで知られています。善光寺の御開帳は50日以上にわたって行われ、2009年(平成21年)の前回のご開帳(「善光寺御開帳2009年信州の旅.com」参照)は673万人の参拝で、1日に平均10万人程度が訪れたことになります。御開帳のシンボルである「回向柱」に触れようとする人は多いので、山門のはるか手前から並ばないと触れません。

 平成21年善光寺ご開帳回向柱のミニチュア(中左中右写真拡大)

善光寺の御本尊は、一光三尊阿弥陀如来は絶対秘仏であり、今までに誰も見たことがありません。ご開帳には、御宝庫に安置されている鎌倉時代に造られた「前立本尊」(重要文化財)を、御本尊の身代わりとして本堂にお移し、厨子の扉を開けて一般の人が参拝できます。「前立本尊」とは、御本尊の前に立たれる分身の仏さまであることからこのように呼ばれ、ご開帳を、「善光寺前立本尊御開帳」と云われます。

・善光寺出開帳両国回向院
出開帳とは、普段参拝ができない寺院の本尊を地方に出向き、一定の期間拝むことができるよう祀ることを云います。江戸時代には寺社が出向き、秘仏や仏様を開帳する「出開帳」が盛んでした。
善光寺の両国回向院での最初の出開帳は、今より350年前の1692年(元禄5年)に行われました。
中でも江戸時代に回向院で行われた善光寺の出開帳は大変な人気で、特に1778 年(安永7年) 出開帳では、60日で1,603万人の参詣があったとも云われています。

 善光寺如来御開帳之図 井両国広小路賑墨田区より

善光寺如来御開帳之図
回向院で六十日間、善光寺が開帳を行った際の様子が示されています。その註釈では「わざわざ信州まで出向いて参詣・結縁しようという者もいるのに、如来様の方から江戸の人々と結縁するために江戸に出てきて下さる。そのありがたさを感得して、参詣するよう」と勧めたもので、上が開帳の図で、下が両国の賑わいを表した図です。

江戸時代から、回向院での出開帳を通じ災害犠牲者の供養を続けてきており、東日本大震災で亡くなられた多くの方々のご供養と被災地の復興支援を目的とし、鎮魂の祈りと「如来様との結縁により復興の光を届けたい」という思いをこめた「復“幸”支“縁”」として収益を震災被災地の復興に充てることで、善光寺御本尊のご分身である出開帳仏を奉じて、4月27日~5月19日にわたり戦後初めての善光寺の回向院出開帳が開催されましたので、4月29日に参詣してきました。

 善光寺出開帳回向院案内図

・・回向院
回向院(都墨田区両国2-8-10)は、JR両国駅を降りて駅前通りを南に進むと両国橋が架かっている京葉道路に出て対面が回向院表門 (「小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その2」参照) です。
回向院の出開帳に参拝するには参拝券が必要であり、表門の東隣の「両国シティコア」の敷地内で販売している「出開帳参拝券」の大人1000円と、「お戒壇巡り券」の大人500円を買うと、善光寺出開帳両国回向院公式ガイドブックが付いてきます。両国シティコアは、昔は回向院の境内であり、1768年(明和5年)から76年間にわたり勧進相撲興行が行われており、また旧国技館跡でありました。

 善光寺出開帳回向院参拝券とお戒壇巡り券

・・回向柱
回向院の山門を潜り、本堂に向かって進むと参道の左側に回向柱が建てられています。1997年
の信州善光寺の参拝の時には、回向柱に触れませんでしたので、先ずは前立本尊に触れるのと同じでありがたい結縁が生まれることなので、滑らかな杉の柱にふれました。

 善光寺出開帳の両国回向院回向柱(:本堂への参道の左側に回向柱が建つ、:回向柱に触れる参詣者、:回向柱は白い善の綱で前立本尊と結ばれている)

回向柱は、信州善光寺における御開帳では、松代藩が現在の本堂建立の際、普請奉行にあたったという縁から、松代町から「回向柱(えこうばしら)」が奉納され、本堂前に立てられます。善光寺出開帳両国回向院での「回向柱」は、陸前高田の矢作町にて、平成25年1月23日に杉の木を伐採し、製材業者村上製材にて製造され贈られました。

 回向柱は本堂の一光三尊阿弥陀如来とを白い善の綱結ばれる(写真拡大)

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大森町界隈あれこれ 大森町商店街 京急高架化の都市計画道路事業で変貌する駅周辺商店街第2回

2013年05月12日 | 大森町界隈あれこれ 商店街

kan-haru blog 2013 第1京浜国道方の大森町駅東側の商店街通りを見る 

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大森町駅周辺の高架化関連の道路事業
京浜急行電鉄の高架化工事関連で、大森町駅周辺では東京都市計画道路事業が進展し、大森町駅東側の商店街通りの延長63mが、幅員13mに拡幅され、のほのぼの通りの延長約144mの道路幅員が6メートルから13メートルに拡幅されます。大森町駅周辺の商店街の変遷の歴史を残して置くため、記録しておきます。

 東京都市計画道路事業(再掲)

これにより、大森町駅周辺商店街は2006年から毎年変貌し、大森町駅東側の商店街通りに14軒あった商店店舗は順次閉店取壊しが始まり、ラーメン屋の元三光軒が2006年に、大衆酒場の元大森町銘酒コーナーと薬局の元ホケン堂が2007年に、和菓子店の元青柳、クリーニング店のCLEAN BLUE、和食の元大森食堂、東京キッチンが2009年に取壊されました。2011年に入り、東京キッチン跡地が京急高架工事の仮ヤードとなり、とんべつ跡のクリーニング仮営業店、はな屋TULIP TREE、すき家が入居の東日ビルと次々と閉店して取壊わされ(「大森町界隈あれこれ ニュース 建替えが進む大森町駅周辺の商店街(2011.7.17号)その1」参照)ました。
また、ほのぼの通りの東側には、ゑびす市場、100円ショップ、三吉野、ナンカ堂A館が並んでおり、2007年に入ると閉店して取壊しが行なわれました。通利の西側には、北からナンカ堂B館と一軒おいて、田肥電器、コマツヤ靴店、丸忠行川商店、TSUTAYAと並んでいました。なお、ナンカ堂B館と田肥電器に挟まれた商店は、2008年に閉店し更地(「大森町界隈あれこれ ニュース 建替えが進む大森町駅周辺の商店街(2011.8.18号)その2」参照)となりました。

 2006年移転取壊し前の大森町駅周辺商店街図(再掲)

前回(「大森町界隈あれこれ 大森町商店街 京急高架化の都市計画道路事業で変貌する駅周辺商店街新シリーズ1」参照)記述時には、大森町駅東側の商店街通りの新築マンション(WEST SQUAR OMORI)の1階には、「からあげ専門店福のから」が2011年9月に開店しました。2011年11月には拡幅道路にセットバックして立て直しの「はな屋TULIP TREE」が再開店し、とんべつ跡には道林ビルが完成し1階に、「焼き牛丼東京チカラめし」2012年2月に開店しました。
ほのぼの通りの突き当りにある池田医院は2011年10月に建替えが始まり、2012年3月には新築の医院が完成しました。また、大森町第1踏切の西南にある元大森記念病院は、2011年11月に解体を開始し、2012年3月に取壊しは完了しました。池田医院と元大森記念病院の東側は、ほのぼの通り西側から線路沿いの幅員6mの道路を繋ぐ拡張道路となります。

 大森町駅周辺商店街20130511現在

銘酒コーナーと旧東日ビルの跡地には、4階建ての店舗・共同住宅の建築が2012年3月から開始され、同10月15日にはすき家がオープンしました。

 旧東日ビルの跡地に4階建てのビルが建ちにはすき家がオープン(:第1京浜国道から大森町商店街通りを見る20110713、:銘酒コーナーと旧東日ビルの跡地に4階建てのビルが建つ、:同11月18日にすき家オープン20121026)

4月12日に見ると、第1京浜国道と区道に面したたばこ屋さんが閉店して、取壊しを始めました。

 姿を変え再開店に進む商店跡(:たばこ屋が閉店し取壊しはじめました0412、:元商店建屋の取壊しが進む0416、:元商店の姿が消える0418)

同23日には取壊しの商店が更地となり、拡幅道路部の区画整理が行われ、これから店舗の再開店に向けての前進です。

 再開店を待つ元商店跡(:更地となった元商店跡0423、:道路拡幅部の整地0427、:整地が整った元商店跡0512)

5月12日に大森町駅東側の商店街通り南面の商店群を、駅前から第1京浜国道へと見ていきました。

 大森町駅東側商店街通り南面の商店群(左上:大森町高架駅ホームから東側商店街通り南面を眺める、中上:駅前マンションの「福のから」と「クリーニング店」、右上:WEST SQUAR OMORIマンション1階の商店、左下:手前からパチンコ景品交換所、みどりや、シック、中下:元商店跡の更地、右下:元商店跡の更地前の拡幅道路から大森町駅方を見る0512)

また、商店街通り北面の商店群を、第1京浜国道から仮駅舎改札口へと見ていきました。

 大森町駅東側商店街通り南面の商店群(左上:第1京浜国道から商店街北面の「すき家」と「TULIP TREE」を見る、中上:すき家、TULIP TREE前の拡幅道路部、右上:商店街通り北面の「チカラめし」、左下:「チカラめし」前から仮ヤードを見る、中下:工事中の大森町駅舎入り口となる高架橋下、右下:大森町駅の仮駅舎改札口0512)

同日、元大森記念病院跡と拡幅道路との境界を見ました。同病院跡地に接して、家屋が新設されていました。

 元大森記念病院跡と拡幅道路との境界を見る(:大森町高架駅ホームから元大森記念病院跡を見る、:大森町駅仮駅舎前から元大森記念病院跡を見る、:元大森記念病院跡の地続きの新築家屋を見る0512)

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大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 高架化事業完了工事大森町駅編(第3回その4)

2013年05月08日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2013 平和島第2架道橋跡北部     

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内川北岸の下り線高架橋築造工事(続)
・旧下り線平和島第2架道橋撤去工事
旧下り線の平和島第2架道橋は、3月15日に見ると南北の橋脚台(P16、15)と橋梁のみが残されています。

 平和島第2架道橋(:山川から見る、:海側から見る0315)

同22日に見ると、同架道橋の撤去作業が行われていました。

 平和島第2架道橋梁の撤去工事(左上中上右上左下:架道橋の撤去工事、中下:第2架道の北側橋脚台、右下:上り線橋脚柱台新P15(左)と旧下り線線橋脚柱台P15(右)0322)

同26日には、平和島第2架道橋の橋梁は南北の橋脚台(P16、15)を残すのみで、撤去されました。この、下り線高架道橋は、環7との立体交差のため、1970年(昭和45年)12月に開通してから42年7か月で消滅し、新たな立体高架橋に生まれ変わります。

 平和島第2架道橋梁が撤去される(写真拡大0326)

4月12日に見ると、和島第2架道橋橋梁の南北橋脚台の取壊し工事が行われており、南橋脚台(P16)は取壊しの最中で、北橋脚台(P15)は取壊しが完了していました。

 平和島第2架道橋の南北の橋脚台(P16、15)の取壊し工事(:平和島第2架道橋の南北の橋脚台(P16、15)の取壊し、:平和島第2架道橋の南の橋脚台(P16)の取壊し工事、:平和島第2架道橋の北の橋脚台(P15)の取壊し完了0412)

旧下り線の平和島第2架道橋の橋梁は、4月27日には完全に姿を消しました。

 旧下り線平和島第2架道橋梁は完全に姿を消す(写真拡大0427)

旧下り線の内川北岸旧内川橋梁の橋脚台の北方から、平和島第2架道北の高架橋脚柱台P14までの高架橋は、上り線を仮高架橋で運行して、下り線は上り線本高架橋上で仮運行しています。

内川北岸高架橋築造工事説明図(再掲)

・平和島第2架道橋跡北部の下り線本高架橋築造
旧下り線の平和島第2架道橋の橋梁の撤去工事が終わり、架道橋跡北部の下り線本高架橋築造のため、橋脚柱台建立の工事が4月27日には開始されました。

 平和島第2高架橋跡に下り線本高架橋用の橋脚台建立工事(:元下り線平和島第2架道橋の北の下り線本高架橋築造の橋脚台建立工事0412、:下り本線高架橋用高架橋脚柱台新P15建立工事0427、:下り線本高架橋用橋脚柱台P14の増設整備工事0427)

5月2日に見ると、下り線本高架橋築造用の橋脚柱台P14の増設整備の工事が進んでいました。

 下り線本高架橋用橋脚柱台P14の増設整備工事が進む(写真拡大0502) 

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大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 高架化事業完了工事大森町駅編(第3回その3)

2013年05月05日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2013 左上から仮高架橋と仮下り線高架橋に右側傾斜高架橋撤去跡    

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内川北岸の下り線高架橋築造工事
・旧下り線傾斜高架橋撤去工事
旧下り線内川橋梁は、前回記述時(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 高架化事業完了工事大森町駅編(第2回)」参照)では取壊し撤去され、同橋梁撤去跡の平地の位置に下り線本高架橋の築造のため、工事作業台の鋼板が設置され整備を行っていました。
また、内川北岸の下り線橋梁柱台の北部の傾斜高架橋は、下り線の旧橋脚柱台P16のみを残して取壊し撤去が進んでおり、下り線の橋梁柱台新P15~P18は今後建立されます。

 内川北岸高架橋築造工事説明図

3月15日に旧下り線傾斜高架橋を見ると、旧下り線内川橋梁の撤去跡には、下り線本高架橋築造工事用の鋼板敷設台設置が施設され、内川北岸の旧下り線傾斜高架橋は旧橋脚柱台P17、18と共に撤去され、現在は旧下り線の橋脚柱台P16と、旧内川橋梁の橋脚柱台は残されています。

 内川下り線橋梁撤去跡から橋脚台P16までの傾斜高架橋撤去跡(左上:旧下り線内川橋梁撤去跡には高架橋築造の工事用鋼板敷設台設置、中上:工事用鋼板敷設台の内川北端、右上:内川北岸の区道北には旧内川橋梁橋脚台が残る、左下:内川北岸の傾斜高架橋撤去跡、中下:内川北岸の傾斜高架橋撤去跡遠望、右下:内川北岸の傾斜高架橋撤去跡の橋脚台P160315) 

旧下り線傾斜高架橋が撤去された後の3月22日には、下り線用の橋脚柱台新P18の建立用の土台穴の掘削の作業が始まり、穴が深く掘られた4月18日には穴上にI型鋼が置かれました。4月23日に見ると、I型鋼上に板が張られ多数の作業員での工事が見られました。

 下り線橋脚柱台新P18の建立用穴の堀込(左上:下り線橋脚柱台新P18建立用穴の土堀開始0322、中上:旧橋脚柱台P17の土台石の堀起こし0326、右上:下り線橋脚柱台新P18建立穴上にI型鋼の設置作業0412、左下:橋脚柱台建立穴上にI型鋼が渡される0418、中下右下:橋脚柱台建立穴上に板を敷き作業員多数での工事0423)

4月27日に見ると、I型鋼と貼り付け板が外されており作業が完了したようです。5月2日にみると、連休で土台穴の掘削作業は休業です。

 板張上の工事が終わり敷板・I型鋼が外された新P18建立穴(:板張上の工事が終わり敷板・I型鋼が外された新P18建立穴0427、:上り線サイトから見た新P18建立穴0427、:連休で工事が休止中の新P18建立穴0502)

・下り線用の橋脚柱台新P16~P17建立工事
旧下り線用の元橋脚柱台P16は、3月15日時点では取り壊し撤去が行われていません。

 未撤去の旧下り線橋脚柱台P16(写真拡大0315)

3月26日に見ると、下り線用の橋脚柱台新P17の建立場所に枠が施され、橋脚柱台の基礎台が造られていました。新P17の建立場所の穴の構造は、新P18の建立穴とは異なり、仮下り線橋脚柱に接して小さな正方形の穴が設けられています。

 下り線用の橋脚柱台新P17の建立穴(左上:0326、中上:0412、右上:0418、左下:0423、中下:0427、右下:0428)

下り線用の橋脚柱台新P16の建立場所にも3月26日には四角の枠が施され、脇には元橋脚柱旧P16はまだ撤去されていません。4月27日に見ると、元橋脚柱旧P16は撤去されており、新P17の建立場所の穴の構造は、仮下り線橋脚柱を取り巻いて“コ”の字状にコンクリートで囲んでいます。

 下り線用の橋脚柱台新P16の建立穴(左上:0326、中上:0427、右上左下:0428、中下右下:0502)

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番外編カテゴリー別ブログ記事の検索と見方 5月INDEX

2013年05月01日 | INDEX

kan-haru blog 2013 5月1日57版

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  大森町界隈あれこれ カテゴリー別目次
■印覧の13年4月掲載項目以外の目次は、下記の項番に付記された下線付きのカテゴリー項目を選択すると、当該カテゴリーの掲載当初から現在日時点までの目次が見られます。

 1 大森町界隈あれこれ 大森町に住んで65年!
 2 大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記 総目次
  2-1 大森町界隈あれこれ 鎮魂! 大森町大空襲 (第1編)
      付 東京大空襲 ~あれから61年~
  2-2 大森町界隈あれこれ 手記第2編 戦災日誌中野編
  2-3 大森町界隈あれこれ 手記第3編 戦前戦後目黒にて
 3 大森町界隈あれこれ 戦後編若山武義氏手記 総目次
  3-1 大森町界隈あれこれ 戦後史編手記 第1~4編総目次
 4 大森町界隈あれこれ 大森町の社寺
 5 大森町界隈あれこれ 大森町商店街
 6 大森町界隈あれこれ 大森海苔
 7 大森町界隈あれこれ 京浜急行関連
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 9 大森町界隈あれこれ イベント 目次
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11 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 Sub INDEX
  ◇ 関連側道高架化 全工区下り線工事2012年後期版高架化全工区下り線工事2012年前期版高架化全工区下り線工事2011年後期版高架化全工区下り線工事2011年前期版高架化全工区下り線工事2010年版全工区統合2009年版全工区統合2010年版、大森町付近工区:2006・2007年版2008年版2009年版梅屋敷付近工区、京急蒲田付近工区:2006~2008年版2009年版雑色付近工区糀谷付近工区
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 高架化事業完了工事梅屋敷駅編(第2回) 4月6日
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 高架化事業完了工事京急蒲田駅編(第2回その1) 4月9日 
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 高架化事業完了工事京急蒲田駅編(第2回その2) 4月13日
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 高架化事業完了工事雑色駅編(第2回) 4月17日
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 高架化事業完了工事糀谷駅編(第2回) 4月21日
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 高架化事業完了工事大森町駅編(第3回その1) 4月25日
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 高架化事業完了工事大森町駅編(第3回その2) 4月28日

  一般 カテゴリー別目次

21 風景・風物詩 総目次
  ◇ 2006・2007年版2007・2008年版2008~2010年版2010~2013年版 
 ■ 風景・風物詩 羽田国際空港 好天につられ国際ターミナルビル開業から2年半経過の国際空港を見に行く  4月3日
22 小さな旅 総目次
  ◇ 2006~2009年版2009~2011年版
23 旅ものがたり 総目次
2006~2011年版2010~2013年版
24 秋葉原界隈 総目次
25 イベント 総目次
  ◇ 2006・2007年版2008年版2009・2010年版2011年版2012年版2013年版
26 ITと技術 総目次
◇ 2006~2011年版2012年版
27 Weblog 総目次

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