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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ(K38) 手記第3編 終戦前後目黒にて (最終回)

2006年08月31日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
若山武義氏の手記(1945年記述)は、終戦を迎え大空襲篇は今回が最終回ですが、戦後61年を経過した今日、戦争を語り継ぎ平和を求めていくためには大変貴重な手記であります。ご提供を賜りました、ご遺族様には大変感謝を申し上げます。
軍・官の無謀と無知に振り回された戦争は、多くの死傷者を出し、平和な家族と離れ離れとなり、暖かな生活を営む住居を灰燼に帰し、一般庶民に多大な犠牲を強いたのです。このような無残で悲惨な戦争は、二度と繰り返してはならないのです。
戦争を知らない人が80%を越しました。戦争を風化させずに、平和について考えていきたいのです。この手記をお読みになられた方は、戦争について語りついていくため、是非紹介をお願い致します。

なお、ブログのカテゴリ欄に、「大森町界隈あれこれ 空襲編手記 目次」を掲載します。
目次は、第1編「戦災日誌(大森にて)」、「手記第2編 戦災日誌中野にて」、「手記第3編 終戦前後目黒にて」および「東京大空襲~あれから61年~」の全29記事と、記事中に参照している写真や全資料のリンク付きの総目次で索引が容易に行えますのでご利用下さい。

また、若山武義氏の手記は、戦災編が終わりでなく、大戦後を記録した戦後編も残されております。戦後篇の手記は、戦災篇よりも長編で、今日では誠に貴重な記録でありますので、これからもカテゴリーを変えて、内容を抜粋して掲載してまいります。

掲載手記から再現
今までの手記を振り返りますと、第一編の「戦災日誌(大森にて)」10回連載では、大森町に住んでいた1944年暮れ頃から東京大空襲も激しくなり始め、4月15日の晩の大森町大空襲の手記場面では、
 「...京浜国道夫婦橋先に猛烈なる大炸裂音と共に一面火の海の火柱がたった。
 「アッ、しまった」と思う間に背後に百雷一時に落下する凄猛なる轟音!
 アッ、爆弾と直覚して地面にツッ伏した。形容の出来ぬおそろしき轟然炸裂とともに一面
 火の海。
 立ち上がって見ると、京浜国道帝銀の前、田川食堂、赤羽根町会長宅、警備隊と一連に猛
 炎を吹き上げて来たと同時に、瓦斯会社方面、南は第一国民学校から十全病院に亘り次ぎ
 次ぎに爆撃され、三方火の海となって迫り来る。
 予想に反し、あまりにも予期せぬ恐ろしさにただ顚倒、我が周囲は一瞬に阿鼻叫喚の巷と
 化し、恐怖に呆然と立ち竦み、名状し難い混乱となった。 ...」

 「...一たん我が家に飛び込んで、非常袋に重要書類のみ詰め込んで飛び出した。落ち
 付こうと思うても落ち付けない。とにかく風の流れはと見ると、東の方からの烈風が吹き
 つけて、火の粉と煙が身近かに迫り、刻々猛火をあをっている。北、東、南と三方の火の
 海、僅に西には火がないが、第二、第三次ぎ次ぎの爆撃必至だ。とにかく森ヶ崎から東海
 岸に出ようとして、羽田街道を国民学校の猛火の下をくぐって一散に、一団の人々とか
 だまりあって駆け出した。
 呑川の川端迄辿り付き、一息ついて蒲田方面を見ると、之れ亦一面火の海、大森をふるか
 えって見ると、火の手は五ヶ処も六ヶ処も燃え盛る。敵機は波状爆撃に次ぎ次ぎ繰り返し
 繰り返し爆弾、焼夷弾を投下しているのが明瞭に見られる。 ...」

と、大森町の住居は全焼の戦災に遭い、「手記第2編 戦災日誌中野にて」7回連載では、中野に移っての5月25日の手記には、
 「...今度は、敵機は反対の方面、帝都の中心より侵入し始め、我等の頭上に交錯し始
 めた。あっ、これは危険だぞと思うまに、幡ヶ谷、高円寺、東中野方面が次第に火の海と
 なり出した。秒一秒、不安がつのり、焦慮がます。いよいよ大変な事になったと思うトタ
 ンに
  ピピユーピピユー
 物凄い腸のちぎれるような怪音と共に、焼夷弾が一斉に附近一帯に落下した。
 「組長さんのとこ、焼夷弾落下!」
 と女の呼び声。ソレッとばかり、平素の訓練通りバケツ持ち出した連中、二発は消し止め
 たけれど、近所近隣のは一ぺんに火を吹き出した。もう消す処の沙汰ではない。此の勢い
 に皆退避し初めた。 ...」

 「...決して離れるなよと注意して、差当り火の手のない東養豚所まで来たら、再び
 第二の焼夷弾が怪音と共に降って来た。 ...
  ...さあ来いとばかり一散に飛び出した。約二、三十人の人と魔物に追われる気持ち
 でかけ出して、畑を横切る時、ガアーッと落雷の如き物凄き音、
  アッ、爆弾
 と直覚、トタンに背後で轟然炸裂した。アッもスッもない。無我夢中でスッとんだ。吹き
 飛ばされたとおんなじだ。 ...
  ...何とか此の危機をのがれたいとする、焦虜と不安と恐怖の地獄の釜のなかにたた
 きこまれた騒ぎ、このまま人生一巻の終わりになるのかと、泣くにも泣けぬ、我れ初め顔
 色を失ってしまった。 ...」

と、中野でも大森町についで2度とも住居消失の戦災を蒙りました。仕事のため住居を求めて目黒に移った、「手記第3編 終戦前後目黒にて」9回連載では玉音放送で終戦を迎えた記録です。
若山武義氏が、大森町大空襲の戦災期を記述し始めてから、終戦を迎えるまでの期間は僅かに8ヶ月足らずです。この間に、大戦のため庶民である一般国民は、何度も住いを焼かれ、何度も死ぬ思いをしながら爆撃の火の手を避けての避難を繰り返すという戦災被害を受けられました。


若山武義氏の手記(1946年記述) 第3編「終戦前後(目黒にて)」第9回
続東久邇宮内閣
仮りに民間人が内閣を組織して、敗戦の真因を軍官の批政の結果なりと痛烈に批判して見よ、たちまい一発の御見舞を受ける処である。それが宮様なればこそ、かくツケツケ仰せ給うのである。全くひそかにヤミをやり生きて来た我々庶民は、総ざんげするのは忘れ、真に本当だ、まさしく其の通りであると、戦時中圧制されて来た軍、官に、初めて反撥し、批判する余裕が生じたのである。
然しさればとて過去の事で茲に泥試合は許されないが、お互深く反省せねばならぬ事は当然である。此の敗戦と云う冷厳な事実を、臨時議会で、首相の宮様が具体的数字を挙げての御説明に、初めて愕然として驚き、真に無暴な戦をしたものだと憤慨せざるを得ぬ。

かって、世界に初めての十六吋巨砲の陸奥、長門の巨艦を造り上げて米英を吃驚させて軍縮会議の素因を造り、更に其の制限範囲内に最優秀装備の重、軽巡洋艦を造り上げ、軍縮撤廃後、我が海軍が全智全能、その精魂を傾けて尽した怪物巨艦武蔵、大和等々、我が無敵艦隊の
  赫々たる戦果、勇壮なる軍艦マーチ
ああ、夢の夢、今はかげも形もなし、其の威容をむなしく海底に誇り居ようとは思わなんだ。
初めて知り唖然とし、只々呆然とし、泣くになけぬくやしさである。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(7月分掲載Indexへ)
<前回 大森町界隈あれこれ(K37) 手記第3編 終戦前後目黒にて(第8回) へ

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大森町界隈あれこれ(K37) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第8回)

2006年08月29日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
北区平和マップ
北区では、今月から区内の戦争や平和に関する史跡などを紹介した「北区平和マップ」の配布を無料で行っております。
平和マップは、A2版を折りたたんだポケットサイズで、かって北区には軍施設や軍需工場が立ち並んでおり、その史跡や平和像など24箇所を写真と解説文で紹介したもので、無料で配布しており25日に入手してきました。

平和マップには、かって北区の面積の10%を占める多くの軍需施設が、北区全域のイラスト マップ上に写真と記事で示されており、どこにどんな軍施設や軍需工場があったのかが一目で分かるように作られておりますので、史跡を訪れるには非常に良いガイドです。
主な軍需施設の史跡は、王子駅近くの王子区役所、中央公園付近には東京第一陸軍造兵廠の赤レンガ建造物の面影が残っており、石神井川の南の滝野川には陸軍用地標石や憲兵の詰め所跡があります。また、環七通りの北側には、陸軍兵器補給廠や射撃場跡があります。

軍需施設跡の他に、北区に1916年から1953年まで住んで居た、彫刻家の北村西望氏(1884-1987)が製作された長崎の平和記念像の分身が、「北トピア」に1990年に建立されており、飛鳥山公園には、平和の女神像が人類の平和と幸福を願って、1973年に建立されております。



無謀、無知な戦争の犠牲
若山武義氏の手記にも戦災記録が克明に記載されておりますように、軍と官による無謀、無知な行為により、一般庶民は激烈な都市大空爆と原爆により多数の死傷者や家屋の戦災を蒙り、沖縄決戦では多くの民間人が激戦に巻き込まれるなど、戦争は勝つものと信じて何も知らない国民は悲惨な戦災の犠牲を蒙りました。
戦争は、想像を絶する大空襲を受け、当時の国民学校(今の小学校)の学童は、家族と離れて生活する縁故・強制の学童疎開が始まり、戦争のため小国民も犠牲を強いられました。

平和マップ配布の資料室には、「子どもの世界でとらえた戦争と平和 終戦50年」東京都北区平成8年3月15日発行 東京書籍印刷の図書が置いてありました。裏表紙に疎開先の学童が、病気療養の帰京した先生に送った絵手紙の、田植えの手伝い(1945年)が描かれてあるのを見て、当時6年生での疎開体験の田の草取りの想いをブログに記述したばかりであり、戦争記録を風化してはならないと購入してきました[大森町界隈あれこれ(K35) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第6回) 2006年06月08日掲載参照]。

この手記の掲載と北区の資料作成の思いは、何度もくどく繰り返しておりますが、二度と悲惨な戦争を起こしてはならないと、戦争記録を風化せずに平和について考えてもらいたいためなのです。

その他北区発行の戦争に関する資料・図書
北区では、「北区平和マップ」の他にも戦争に関する資料を配布しており、その一つに、「戦後60年 写真で語り継ぐ平和の願い」を発行し、平和都市宣言20周年にあたる平成18年3月15日に東京都北区が記念誌の無料で配布しました[大森町界隈あれこれ(25) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第3回) 2006年06月08日掲載参照]。現在、記念誌の残数を北区区役所で有料頒布しておりました。

また、区役所の資料室には、各種の図書・資料が閲覧してあり、記念誌配布の際に、東京空襲関係の図書「真っ赤な空は忘れられない 戦争体験の記録」昭和63年(1988年)3月15日東京都北区編集・発行、(有)鯨吼社制作が置いてありましたので入手しました[大森町界隈あれこれ(26) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第4回) 2006年06月11日掲載参照]。


若山武義氏の手記(1946年記述) 第3編「終戦前後(目黒にて)」第8回
東久邇宮内閣
終戦内閣としての任務終了せりとして、今後の後始末は他の適任者にと云う理由に鈴木内閣は総辞職した。敗戦の困惑、国家内外の難問題累積、一歩其の収拾を誤まらんか、亡国とならんとも限らない。皇国の興廃の岐路、真実 卵の危機である。此の際、幕末の勝安房先生の如き卓越した人は居ないものか、何もかも安心して任せられる人がないものかと、我々庶民の目でさがしてみたが、政党には勿論、今更軍人ではなし、では重臣はと指折って見ても、これはと思う人は一人もない貧困さである。処が東久邇宮殿下に大令が降下したのでホット安心、全く嬉しかった。昔はともかく、明治以来初めての宮様内閣である。

而して初の内閣記者団との御会見の席上、何が故に戦争に負けたかの理由として
 一、戦力の壊滅的打撃と戦災の被害が想像以上甚大なる為め其の生産力の低下。
 一、官僚統制の為め、法律法令の乱発、全部とは云わぬが我が国情に適せぬ統制の為め、
   国民が働きたくも働けぬ程苛酷であった。
 一、軍、官はなかば公然とヤミをやり、国民はひそかにヤミをやった。
 一、国民道義の低下。  
等数項目を挙げて御説明遊ばされた。

何れ来るべき議会に数字を挙げて、国民の得心の行く様説明をするが、大体空襲が想像以上激烈であり、故に戦力が壊滅的打撃を受け、新に真に恐るべき原子爆弾の出現と、ソ連の参戦を直接の原因とし、国民はあまりにも多き朝令暮改の法律法令の乱発に手も足もしばられて、働きたくとも働く気力を失い、且つ官僚統制が全部とは云わぬが、大部分、我が国情に沿わぬ統制を行う事が却って戦力の増強を阻止し、軍、官は半ば公然と、民間はひそかにヤミをやり、為に国民の道義頗る低下したるが重なる素因である。丁度父親が派手に商売をやっていて、うんと儲けて居たとばかり思うて居た処、ポックリ死なれた。あると思う資産がなく、却って数えきれぬ程の借金で、その始末に処置なしと呆然たると同じであると、くだけて仰せられた。然して、新日本建設には真に国民全部総ざんげをしなければならぬと、力強く仰せ給ったのである。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(7月分掲載Indexへ)
<前回 大森町界隈あれこれ(K36) 手記第3編 終戦前後目黒にて(第7回) へ
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大森町界隈あれこれ(K36) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第7回)

2006年08月27日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
降伏文書調印
61年前の9月2日は、東京湾上の米戦艦ミズリー号の甲板で、外相の重光葵と参謀総長の梅津美治郎が日本の全権として、連合国への降伏文書に調印をしたのであります。
調印の署名は、重光、梅津、マッカーサーに続き、米国、中華民国、英国、ソ連、オーストラリア、オランダ、ニュージーランドの代表の順で署名されました。
日本では、政府・軍の指導者には屈辱との受け止めが多く、だれが代表として降伏文書に名を残すのかの人選は難航しました。
政府代表の人選は、首相の東久邇宮稔彦と副総理の近衛文麿が断り、外相の重光葵が決まり、軍代表の梅津美治郎は、本土決戦を唱えた本人であることから激しく抵抗したが、東久邇宮が「天皇のおぼしめし」として指名されたのです。

日本は、8月14日に御前会議でポツダム宣言を受諾し、15日の天皇の「玉音放送」で国民に伝えたが、9月2日までは、正式に戦争が終結したとはいえなかった。
8月8日に宣戦布告したソ連は、9月初めまで、樺太の南半分や千島列島、北方四島などを占領したのです。

(国立国会図書館ウエブサイト)
降伏文書調印に関する詔書 1945年9月2日
降伏文書


若山武義氏の手記(1946年記述) 第3編「終戦前後(目黒にて)」第7回 
続 ポツダム宣言
まさか連合国と雖も、餌を興えずして卵をのみ獲るとはよもすまい。如何に苦しかろうとも、罪の償い、立派に其の責務の賠償を果したい。其の責務を果たしてこそ、三千年の父祖に、負けるべき戦争をおこした罪を詫び、子孫をして再び此の戦争の愚をなめさせないようにと。

 日本国国民ヲ欺瞞シ、之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ
権力及勢力ハ永久ニ除去セザルベカラズ
これは敢て連合国の指示を俟つ迄もなく、我々の手にて除去に努力せねばならぬ。
これ等の権力、勢力亦思想は、一石一草と雖もあますなく除去して、その上でなくては本当の民主主義が成り立たぬと思う。

 日本ニ対スル聨合国ノ緒目的ガ達成セラレ且ツ日本国民ノ自由ニ表明セル意志ニヨッテ、平和的傾向ヲ持チ且ツ責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ聨合国ノ占領軍ハ直チニ撤収セラルベシ
敗戦の今日、軍閥は勿論解体されるだろう。戦争で儲けた新旧財閥、之も壊滅せしめなけ
ればならぬ。戦争中軍閥と共に国民を奴隷にした重臣、官僚群、華族などの特権階級は寸刻も早く追放せねばならぬ。而して全国民の九割を占める勤労階級の自由に表明せる意思によって、平和的責任ある政府を一日も早く我等の手で樹立せねばならぬ。かくてこそ、聨合国を安心させ、我等国民も初めて安心し得るのである。

 聨合国ハコノ条件ヨリ離脱スルコトナカルベシ、右ニ代ル条件存在セズ。
とある。どうせ勝てぬ戦争なら、もっと早く終戦の機会はなかったのか、と思う。今更昨日が今日にはならぬから、愚痴は一切申すまいとは思わぬではないが、凡人の悲しさ、敗戦と云う千仭の谷底になげ込まれた上、今日迄、あまりにまっ正直に政府と軍とを信用しきって来た我々庶民は、この発表された「ポツダム宣言」に「右ニ代ル条件存在セズ」とあるけれど、お上の都合のよいようのに訳してあるのでないだろうか、丸々うのみに信用出来るかなと迷わざるを得なかったのでえある。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(7月分掲載Indexへ)
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大森町界隈あれこれ(K35) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第6回)

2006年08月15日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
疎開先で終戦を迎える
61年前の8月15日は、朝から快晴でじりじりと照りつける暑いなか重大放送があるとのことで、学童縁故疎開先での当時六年生であった栃木県芳賀郡物部村国民学校(現二宮町立物部小学校)からの召集があり、正午前に校庭に全校生徒が整立して玉音放送を聞きました。
当時のラジオの性能は、現在の拡声装置のように全校生徒全員にはっきりと音声が届き、話の内容が伝わると云うものではなく、家庭用のラジオより若干音が大きいかなと思われる程度のもので、ラジオ体操の伴奏を聴くのがやっとの物でした。

玉音放送
玉音放送は、天皇陛下のお言葉であることは承知しておりましたが、列の後列の方に並んでおりましたので、何をしゃべっているのか全く聞き取れないうちに終了解散となり、はだしで疎開先の3家族が居候の遠い親戚の家に戻りました。
それまでは戦局がおかしいとは感じておりましたが、負けるとは思ってもおりませんでしたので、家に戻るまでは終戦を知りませんでした。家に戻ると、回りの大人たちは殆んどお喋りをしておりませんでしたが、玉音放送が終戦を告げるものであったことが分かりました。玉音放送を聴いた物部村国民学校は、二度目の疎開先の通学した学校です。
(国立国会図書館ウエブサイト)
終戦の詔書(玉音放送)

縁故疎開
最初の疎開先は、隣県の母の実家のある茨城県西茨城郡青柳に接した、水戸線(小山-友部間)岩瀬町の駅前通りから旧道を右折した傍の家作を、縁故をたよりに一間を借りて、母と2人の間借り疎開生活が始まりました。
学童疎開は、当初個人的な縁故疎開を原則としましたが、本土が米軍の長距離大型爆撃機B29の航続距離圏に入るに及んで、急きょ1944年6月30日付閣議決定「学童疎開促進要綱」にもとづき、縁故疎開に依り難い国民学校初等科(現在の小学校)3年生から6年生の学童の集団疎開が実施されました。

1945年3月に入り、激化する一方の本土空襲に対処して、「学童疎開強化要綱」を閣議決定し、国民学校初等科3年生以上の全員疎開と1・2年生の縁故疎開・集団疎開を強力に推進する「根こそぎ疎開」が実施されました。
また、学童疎開の徹底と併せて本土決戦に備え、千葉、茨城、静岡、和歌山県等太平洋沿岸部の集団疎開学童は、より遠隔の地である青森、岩手、秋田、富山、島根、滋賀県等への再疎開が実施されました。
これにより、P51艦載機による機銃掃射などをさけるため、茨城県の町内から栃木県の農業地帯へと再疎開(地図参照)して、玉音放送を聞いたのが物部村国民学校なのです。

疎開先の岩瀬では、町外れの岩瀬第二国民学校までのおよそ2Kmの通学路を、ちびた運動靴で通学しましたが、物部村国民学校での通学は、一変して約700mを素裸足で通いました。岩瀬と物部とは、わずか10数Kmしか離れておりませんが、幹線道路もなく田園地帯の田圃であるため、上空にはP51の姿はありませんでしたが、生活環境がかなり異なりました。出征兵士で戦場に取られた留守宅に出かけ、田の草採りや農家のお手伝いなど、地元の子は当たり前に精を出して働きましたが、東京育ちの未経験者には立ち往生でした。
疎開生活は、縁故疎開では疎開先との複雑な人間関係、食糧不足、言葉や習慣の違い、いじめ等に悩み、集団疎開では少国民錬成の場としての厳しい規律・上下関係、空腹、食べ物を巡る葛藤、いじめ、蚤・虱等に悩まされ、幼い学童の心に消し難い傷痕を残しました。
61年前を振り返りますと平和を維持し、家族が離れ離れの生活で、幼い体で慣れない風習に暮らす疎開生活は、二度としたくないと強い思いを抱いております。


若山武義氏の手記(1946年記述) 第3編「終戦前後(目黒にて)」第6回
ポツダム宣言 
其の発表された全文のうちで我等が一番直接関心を持つ(前後するが)
 我等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ、又ハ国民ヲシテ滅亡セシメントスル意図ヲ有スルモノニアラザルモ、我等の採勢ヲ虐待スル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニタイシテハ厳重ナル処罰ヲ加エラルベシ
これで、負けたら我等の死か奴隷かとの考は先ず解消し安心であるが、戦争責任者に対しては当然以上当然である。
 日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障害ヲ除去スヘシ、言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立サルベシ

これで今次の戦争は、民主主義と全体主義の戦であるとの点が我々にも初めてうなづける。のみならず、今日迄、御無理御尤も、無理が通れば道理がひっこむ、長いものにはまかれろ、泣く子と地頭には勝たれぬ、見ざる、聞かざる、云わざるの、今日迄の我々の生活そのもが、真実の奴隷生活ではなかったかと初めて気がついた。戦争に負けると奴隷にされると耳にたこの出来る程きかされた処が我々庶民は無自覚にも、知らず知らずに、軍、官、財閥の奴隷生活を今日迄強制されて来たのではなかったか、如何に戦争中とは云え。
 日本軍隊ハ完全ニ武装解除セラレタ後、各自ノ家庭ニ復帰シ、平和的且ツ生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ

これが、我等の敵は日本国民ではない、好戦的日本軍閥であると区別した所以である。
 日本国ハ、ソノ経済ヲ支持シ且ツ公平ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムガ如キ産業ハ維持スル事ヲ許サルベシ、但シ日本国ヲシテ戦争ノ為メ再軍備ヲ為ス事ヲ得セシムルガ如キ産業ハ此ノ限リニ非ズ
 右目的ノ為ノ原料ノ入手ヲ許可サルベシ、日本国ハ将来世界貿易ヘノ参加を許サルベシ。
敗戦の上は賠償は当然の責務である。今は朝鮮、満州、台湾、樺太を衰失し、国土は徳川時代に狭められ、資源の貧困、八千万の人を養うに足りぬ。

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大森町界隈あれこれ(K34) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第5回)

2006年08月13日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
明後日の15日は、61回目の終戦の日を迎えます。
若山武義氏の貴重な東京空襲の戦災体験の手記も、終戦の日に合わせて休載しておりましたが、今日から他のカテゴリーの記事と交えながら掲載を再開します。
手記は、第一編「鎮魂! 大森町大空襲」が連載11回、第二編「戦災日誌中野にて」が連載7回、第三編「終戦前後目黒にて」の連載が今回まで5回を数えます。

若山武義氏が手記を記述した所は、たまたま8月9日に掲載の記事「大森町界隈あれこれ(N30) 大森町風景 大森ふるさとの浜辺公園の砂浜開放」に出てくる、現在工事中の「大森ふるさとの浜辺公園」の隣接の住居地に居住中に書かれたものであり、また、その場所は大戦中の空襲体験時の勤務先事務所の所在地でもありました。まさに、大森町は若山氏の戦中の大森大空襲時の焼夷弾の雨を目の前に落とされ、爆撃延焼の猛火を潜り命辛々逃げ惑って、人知れぬ思わぬ苦難を強いられた貴重な体験記であります。

61年前の空襲での民間人被害
61年前の8月6日と9日には、世界で始めて広島と長崎に原爆が投下されました。
当時の広島市内には、34万2千の人口で、爆心地から1.2kmの範囲では50%の人が死亡し、1945年末までに14万人が死亡したと推定されております。また、長崎市の人口はおよそ24万人で、即死者は3万5千人、1945年末までに総死亡者数は7万人以上でありました。
東京大空襲では、原爆は免れましたが、1942年4月18日の初空襲以来、1945年8月15日の空襲までに36万発以上のM69型焼夷弾と爆弾が落とされ、11万7000人が犠牲となりました。
この世界大戦では、全国47都道府県の無差別爆撃で、罪のない一般市民の約56万人(推定)が犠牲となっております。この犠牲者には、地上決戦場となった沖縄県民の犠牲者は含まれておりません。

戦争では、焼夷弾で被爆して怪我をしても、肉親を亡くしても、財産を失っても、国からの空襲被害者への保障は一切ありません。この様に、悲惨で、無残な戦争は二度と起こしてはならないのです。
このところ、世界ではイスラエルとレバノンではきな臭い戦争が起きています。また、北朝鮮やイランでは、核開発が進められております。
日本では戦争を体験しない人が80%を超え、戦争を知らない世代が増えております。大戦後61年を経過して、戦争の記憶が風化してます。
日本国憲法に掲げられている、恒久平和の理念は私達の願いです。世界に非核三原則の維持を訴え戦争を無くすために、若山武義氏の手記などを読んで頂き、平和の尊さを口伝えに広めて頂ければ何よりと思っております。

手記参考情報(国立国会図書館ウエブサイト)
・ポツダム宣言
・カイロ宣言


若山武義氏の手記(1946年記述) 第3編「終戦前後(目黒にて)」第5回
・戦争だけはやめになった
 息つまる緊張がとけると、ああと吐息が出た。対ソ宣戦ではないぞと、判ったような、判らぬような、半信半疑である。
 「おじさん、サッパリわからんけんど、一体全体どうなったのさ」
 「おれもサッパリわからんけんど、戦争だけはやめになった、休戦だな」
 「それではまけたの?」
 「負けたとは思わないし、勝ったでもないようだが、とにかくいくさだけはやめになったと思う、とにかくあしたの新聞見んことには、しっかりした事わからない」
 「戦さがやめになったら、今夜から空襲はないね」
 「無論なくなるさ」
 「ああよかった、それさえなければねぇ」
本当に今日迄毎日毎夜、ある夜の如き、しのつく豪雨のさなかの空襲警報に、ねむれる子供をおこし、夫れ夫れ仕度させ、幼児を背に二人の子の手をひき、防空壕に退避させねばならぬ、其の困苦、毎夜二度、三度、困惑真に想像される。
 あす、お国と我が民族の運命が如何なろうとも、とにかく空襲の恐怖から開放された丈でも「ああよかった」と思う母親がいかに多かった事であろう。

・無条件降伏 
然し狐にばかされたような、なんとしても割り切れぬ気持ちである。むやみやたらに腹がたつ。それが翌日の新聞で、初めてポツダム宣言受諾即ち無条件降伏と知って腰を抜かすばかり呆然自失した。
 「無条件降伏って、どんな事なの?」
妻の問いに対し、「若い女房や娘はみんなラシャメンに連れて行かれる、男は一生奴隷として働かされるのさ」。とにかく大変な事になった。だから戦争は負けられんのだ、負けたら先様の云いなり放題だ。
 不安にあけて不安にくれる、恐怖からデマが乱れとぶ。海軍機がビラを散布し、
 「我ら断じて戦う、工員諸士、職場に就け」と
 交通機関を除いて、ピタリと休止、働らなくなった、動きたくも動かない、腰抜けとなったのである。

 「ピカッ! ドカン!」の死の恐怖からは開放されたが、今度は生きるに新しい不安と恐怖である。湘南方面では、婦女子全部急疎開せよと騒ぎ出し、我も人も落付きがない。
 然し、我々もから騒ぎはして居られない、心を落付けて詔書をよく熟読し、其のポツダム宣言とは如何なるものか、これが問題なのである。大体其の内容は全然我等は知らぬし、戦争中は教えても呉れぬ。終戦前鈴木首相が記者団の質問に答えて
 「カイロ宣言の焼き直しである」
と事もなげに無関心に云うた。其の「カイロ宣言」なるものも、どんなものか全然知らぬ。尤も最後の決戦に必ず提っのであるから、敵は何と宣言し、何を宣伝しようと馬耳東風でよかったのである。敢えて知る必要もなかった。
 敗戦、而も無条件降伏となっては、我が国の運命を規定するこのポツダム宣言の意味をよく知らねばならぬ。

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大森町界隈あれこれ(K33) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第4回)

2006年07月09日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
東京大空襲の記録資料(8)
今回も、「海野十三敗戦日記」抜粋を記す。

八月十一日の日記から
○ 今日は宿題を検討する予定なりしが、それよりもソ連の参戦、原子爆弾のことの方が重大となったので、このことを検討する。
八月十二日の日記から
○ 朝、英(夫人)と相談する。私としてはいろいろの場合を説明し、いろいろの手段を話した。その結果、やはり一家死ぬと決定した。
 いかなる条件を付したかわからぬが、国体護持の一点を条件とするものらしいことが、新聞面の情報局総裁談などからうかがわれる。
八月十三日の日記から
○ 十日米英、首都において緊急会議開催と、朝刊が報じている。和平申し入れが討議されているものと思われる。
八月十四日の日記から
○ 万事終わる。
八月十五日の日記から
○ 本日正午、いっさい決まる(玉音放送)恐懼の至りなり。ただ無念。
しかし私は負けたつもりはない。三千年来磨いてきた日本人は負けたりするものではない。
○ 今夜一同死ぬつもりなりしが、忙しくてすっかり疲れ、家族一同ゆっくりと顔見合すいとまもなし。よって、明日は最後の団欒してから、夜に入りて死のうと思いたり。
 くたくたになりて眠る。
八月十六日の日記から
○ 死の第二手段、夜に入るも入手出来ず、焦虜す。妻と共に泣く。明夜こそ、第三手段にて達せんとす。

玉音放送 (Wikipedia玉音放送から)
昭和20年(1945年)8月14日、御前会議においてポツダム宣言受諾が決定され、これを受けて同日夜大東亜戦争終結ノ詔書(通称:終戦の詔書)が発布された。これを昭和天皇が肉声によって朗読したものを録音し、翌日正午よりラジオ放送する事で国民に対して敗戦、降伏を広く告げる事とした。当時より、敗戦の象徴的事象として考えられてきた。


若山武義氏の手記(1946年記述) 第3編「終戦前後(目黒にて)」第4回
ソ連に対する宣戦布告と結論
さあ、一億時宗だ。日蓮にでもなんにでもなれの命令に違いないと飛び立つばかりである。
 翌十五日、「読売報知」に何か重大放送の記事があるかと探して見た
 ○ 大本営発表 八月十三日十七時
   我が潜水部隊ハ八月十二日夕刻沖縄東南海面ニ於テ大型水上機母艦ヲ攻撃、之ヲ撃沈セリ
 ○ 大本営発表 八月十四日十時三十分
   我ガ航空部隊ハ八月十三日午後鹿島灘東方二十五里ニ於テ航空母艦四隻ヲ基幹トスル敵機動部隊ノ一群ヲ
   捕捉攻撃シ航空母艦一隻 巡洋艦一隻ヲ大破炎上セシメタ
即ち悪天候を冒して我が特攻隊出撃の戦果である。いよいよ我が軍の迎撃が本格化して来たな、と判断した。

一方ソ連は朝鮮雄基、海拉蘭で我が関東軍と激戦を報じ、特に羅津及樺太に新上陸を開始せり、とある。
裏面には、「出撃を待つ我が新鋭荒鷲群」と題し、基地に、出撃命令一下まさに羽ばたきせんとする新型荒鷲数百機の威容を誇る写真である。
隣組集まって、なけなしの頭をしぼっての判断は、これ等新聞記事よりして、この重大放送を
  ソ連に対する宣戦布告
と結論したのである。

日本開闢以来の玉音放送
八月十五日朝のニュースで、本日正午
  天皇陛下御直々に御放送遊ばされる
旨繰返しての放送である。
いよいよ来る処まで来たのである。先にイタリヤ倒れ、ドイツ壊滅し、我が国は全世界を相手に孤軍奮闘、今やソ連に宣戦し、最後の力戦に、一億の民に親しくこの国難に一層の奮励を望ませ給う重大放送であらう事と推想したのである。
我が隣組でも、なるべく早くごはんをたべて集まりましょうと打合せ、一番調子のよい高田さんのラヂオを廊下に持ち出し、服装を改め整列して、静粛に時間を待った。
天子さまの御言葉を承る、何事か知らぬがとにかくお国の運命に関する重大なる事を御自ら我々庶民に追う仰せ給う、ただ何となく緊張するのみである。

 正午
 「天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、畏くもおんみずから、大詔を宣わらせ給うことになりました、これより謹しみて玉音を御送り申します」
国家「君が代」が静かにマイクを流れる。やがて
 詔書
 御玉音で仰せ給う、この時からラヂオの調子が急に悪くなって、全身の神経を耳に集めたが、いらいらして調節してもよく聞こえぬ。ただ
  非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セント欲シ
  朕ガ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応ゼシルニ至レル
  堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ビ難キヲ忍ビ以テ万世ノ為メニ太平ヲ開カント欲ス
の処は力強く仰せ給わりハッキリと判ったが、あとは残念ながらわかりかねた。
 御玉音が終って再び「君が代」。

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大森町界隈あれこれ(K32) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第3回)

2006年07月07日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
東京大空襲の記録資料(7)
若山武義氏の手記に同期して、今回も「海野十三敗戦日記」を見ていきます。

八月九日(その一) の日記から
○ 去る八月六日午前八時過ぎ、広島へ侵入したB29少数機は、新型爆弾を投下し、相当の被害を見たと大本営発表があった。これは落下傘をつけたもので、五、六百メートル上空で信管が働き、爆発する。非常に大きな音を発し、垂直風圧が地上のものに対して働くばかりか、熱線を発して灼く。日本家屋は倒壊し、それによる被害者は少なくなかった。熱線は、身体の露出部に糜爛を生じ、また薄いシャツや硝子は透過して、熱作用を及ぼすのである。

八月九日(その二) の日記から
○ 「今九日午前零時より北満及朝鮮国境をソ連軍が越境し侵入し来り、その飛行機は満州及朝鮮に入り分散銃撃を加えた。わが軍は目下自衛のため、交戦中なり」とラジオ放送が伝えた。
ああ久しいかな懸案状態の日ソ関係、遂に此処に至る。それと知って、私は五分ばかり頭がふらついた。もうこれ以上の悪事態は起こり得ない。これはいよいよぼやぼやしていられないぞという緊張感がしめつける。

○ 夕刻七時のニュース放送。「ソ連モロトフ人民委員は昨夜モスクワ駐在の佐藤大使に対し、ソ連は九日より対日戦闘状態に入る旨の伝達方を要請した」由。事はかくして決したのである。
これに対し、わが大本営は、交戦状態に入りしを云うるのみにて、寂として声なしというか、静かなる事林の如しというか......
とにかく最悪の事態は遂に来たのである。これも運命であろう。二千六百年つづいた大日本帝国の首都東京が、敵を四囲より迎えて、いかに勇戦して果てるか、それを途中迄、われらこの目で見られるのである。
 最後の御奉公を致さん。

八月十日の日記から
○ 今朝の新聞に、去る八月六日広島市に投弾された新型爆弾に関する米大統領トルーマンの演説が出ている。それによると右の爆弾は「原子爆弾」だという事である。
 あの破壊力と、あの熱線輻射とから推察して、私は多分それに近いものか、または原子爆弾の第一号であると思っていた。
......
 戦争は終結だ。

原子爆弾 (Wikipedia原子爆弾から)
広島市:1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分。原子爆弾リトルボーイは、第33代アメリカ合衆国大統領、ハリー・S・トルーマンの原子爆弾投下への決意(トルーマンの日記に7月25日夜投下決意の記載あり)により発した大統領命令を受けたB-29(エノラ・ゲイ)によって投下された。爆心地は、市街地中心部の細工町の広島県産業奨励館の東約200メートルで、爆心地から1.2kmの範囲では8月6日中に50%の人が死亡し、1945年12月末までに14万人が死亡したと推定されている。
長崎市:1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分。原子爆弾ファットマンが、B-29(ボックスカー)によって市北部に位置する松山町171番地のテニスコート上空に投下された。即死は推定3万5千名で、最終的には7万名以上が死亡した。

ソ連参戦 (Wikipediaヤルタ会談から)
1945年2月にソ連クリミア半島のヤルタで行われた、ルーズベルト(米)、チャーチル(英)、スターリン(ソ連)による首脳会談(ヤルタ協定)の極東密約で、ルーズベルトは、千島列島をソ連に引き渡すことを条件に、ソ連の対日参戦を求め、これが協定の形にまとめられた。協定では、ドイツ降伏の2~3ヵ月後にソ連が日本との戦争に参戦すること、樺太(サハリン)南部をソ連に返還すること、千島列島をソ連に引き渡すことなどが決められた。
ソ連は、ドイツ降伏3ヵ月後に日本に宣戦布告。広島に原爆投下されても、なおも抵抗を続けていた日本軍は、ソ連参戦の翌日にポツダム宣言受諾を決めた。


若山武義氏の手記(1946年記述) 第3編「終戦前後(目黒にて)」第3回
原子爆弾投下
我々庶民は、新聞、雑誌、ラヂオ以外に世間の様子は皆目わからないが、こうした新聞記事によって、最後の五分の必勝の信念は疑わない、必ず近いうちに痛快な快勝に勇壮な軍艦マーチを聞く事を夢にまで待って居るのであるが、反面亦不安少なしとせぬ。負けるも運命だ、勝つのも運命なら、一つ、一か八かと大勝負をして我々を一刻も早くあきらめさせて貰いたいなと云う焦慮が現れる事もある。

毎日の様にB29から宣伝ビラが散布される。手に持つな、読むな、届け出ろと云われても、好奇心で読まざるを得ぬ。届けは面倒だから手軽に焼いてしもう。デマは聞きたくもないけれど乱れ飛ぶ。八月に入るとデマとばかり想わぬ事もある。処に広島、長崎に投下された爆弾は世にも恐るべき原子爆弾と知って驚愕した。
初めは、公の発表は、新型は新型でも大したものではないとあったけれど、科学に殆ど無知な我々でも、マッチ函一つで戦闘艦を粉々にする威力があると何時かの貴族院の田中舘博士の演説を思い出さぬ訳にはゆかぬ。

  ピカッ! ドカン!
と来たら、逃げようがかくれようが一巻の終りである。どうせ人間一度は死ぬんだ、まさか百年とは生きられない、あとやさきに死ぬより、親子諸共死ぬのである、おまけにそれも隣組のみんなといっしょなら、地獄に行っても淋しくはないとヤセ我慢は云うものの、どうにもならぬ恐怖。それからは夜中の警報にも起きない、ねたまんま、このままドカンと来た方が本望だ位に、あきらめられぬとあきらめてしまった。

ソ連参戦
  そこにソ連の宣戦
畜生やりやがったな、ただむざむざとくたばるのもおもしろくない、こうなったら暴れるだけ暴れて死にたいもんだ。本当に生か死の 
  大号令が出そうなものだ
なと、期待したものは我れ一人ではあるまい。必ず大号令の出るものと予期した八月十四日晩
 「明日重大放送がある」
との予告である。

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大森町界隈あれこれ(K31) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第2回)

2006年07月05日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
前回の日記(7月3日)にもちょっと触れましたが、北朝鮮が懸念していた弾道ミサイルを7月5日未明から続けさまに6発を日本海に向けて発射しました。
世界の平和にキナ臭いにおいが漂い初めました。kan-haru日記のカテゴリー「大森町界隈あれこれ 空襲」シリーズの若山武義氏手記のこの日記は、ご遺族のご提供による悲惨な戦争の戦災体験を赤裸々に記述されたもので、貴重な記録を関連資料とともに編集して掲載しております。
このシリーズ掲載の理由は、私が国民学校(今の小学校)時代に望まない学童疎開などの戦争体験を受けた者として平和の尊さを誰よりも認識しており、戦争を知らない世代が80%を超え風化しつつある現在、平和の守りを後世に語り継ぐ必要があると考えて連載しております。
今回の連載を交えて、今までに次の連載を掲載してあります。この記事に触れお読みになられ方は、お知り合いにご紹介を頂き、二度と過ちを繰り返さないで平和の継続が維持できることを希望しております。
 ・東京大空襲~あれから61年~(その1、2) まえがき
 ・大森町界隈あれこれ 鎮魂! 大森町大空襲(第1~11回) 若山武義氏手記第1編
 ・大森町界隈あれこれ 手記第2編 戦災日誌中野にて(第1~7回)
 ・大森町界隈あれこれ 手記第3編 終戦前後目黒にて(第1回~)  連載継続中

東京大空襲の記録資料(6)
大空襲記録資料は、前々回に続き「海野十三敗戦日記」について紹介します。
空襲都日記(第一部)は、五月一、二日の日記にて終了となり、五月三日から「降伏日記(空襲都日記第二部)」となります。
若山武義氏の手記と同期して、海野十三降伏日記(空襲都日記第二部)から抜粋し記述してみます。
六月十日の日記から
「四月十六日以後一ヵ月間は、沖縄作戦を有利に導くため戦略爆撃を主として、九州、四国方面の航空基地、あるいは航空機工場を目標としていたが、五月十四日以降再び大都市無差別爆撃を開始し、戦略的効果をねらうに至り、五月十四日、十七日名古屋に、二十三、二十五日東京、二十九日横浜に来襲した。

四月十六日から五月三十一日までの空襲で、皇居、赤坂離宮、大宮御所も災厄を受けたが、大宮御所の場合は夜間爆撃とはいえ、月明の中で広大な御苑の樹林、芝生のほとんど全部が焼けただれるほどに焼夷弾を投下したことは、単なる無差別爆撃でなく特別な意図を抱く行為であることは明らかである。」

七月十四日の日記から
○沖縄は去月二十日を以って地上部隊が玉砕し、二十六日にはそれが発表された。「天王山だ、天目山だ、これこそ本土決戦も関が原だ」といわれた沖縄が失陥したのだ。国民は、もう駄目だという失望と、いつ敵が上陸して来るか、明日か、明後日か、という不安に駆りたてられている。

当局はそれに困ってか、沖縄は天王山でも関が原でもなかった。そんなに重要ではない。出血作戦こそわが狙うところである――という風に宣伝内容を変えてもみたが、これはかえって国民の反感と憤慨とを買った。そんならなぜ初めに天王山だ、関が原だといったのだと、いいたくなるわけだ。

沖縄戦
沖縄戦については、沖縄市ホームページの「平和の発信都市 那覇市」内の「沖縄戦の概説」で沖縄戦の概要が見られます。
それによると、沖縄戦は、1945年の3月下旬から8月までの戦いをいい、1944年10月10日に空襲があり、旧那覇市街の90%が消失し首里城の司令部も焼ける。司令部が首里陥落目前に、南部に撤退したため、多くの住民が戦闘に巻き込まれた。沖縄戦の主戦場は、南部ではなく、米軍の上陸地点から首里城までが主戦場であり、この間10キロを進むのに50日かかり、日本兵の死者は1日あたり千人以上にのぼり、10万人の主戦力守備軍の7割の兵力を失う、太平洋戦争で最も激しい戦いでありました。


若山武義氏の手記(1946年記述) 第3編「終戦前後(目黒にて)」第2回
鈴木内閣誕生
大命は日清、日露歴戦の勇将の鈴木大将に降下し新に首相の印綬をおびて登場したのである。洵に無色透明な人格者、なるほど此の人でなくては、此の危機に軍にも官にもにらみのきく人は他にあるまい。政治はきらいと我がままを云わせられぬ程度危急の時局である。
忠誠至純の人柄に先ず我々は安心したのである。東条内閣の如き暴政は為ないし、小磯内閣の如き愚政は致すまい。鈴木老提督の下に全国民初めて結束し得ると。

而して、其の初の臨時議会の施策演説に首相として
「今日、アメリカは我に対し無条件降伏を揚言して居る、かくの如きは、正に我が国体を破壊し、我が民族を滅亡せしむるものである、我々としては今一段の努力である、敵国内の情勢の動向を推し、又国際情勢の機微を察するに、我々としては、ただ此の際、あくまでも戦い抜く事が、戦椗への最も手近なる方法である」、と
 阿南陸相は更に勇敢に
 「今日に於いて、勝利を疑い遲疑する人は、勝利を信ぜざる人である、勝利を信ぜざる人は、勝利を自ら放棄する人である、戦局の推移誠に不利の時、必勝を不動の信念として、我等は国民に告ぐるものである」と
 米内海相曰く
 「最後の勝利は、総力を結集して、最後の五分間を最もよく戦い抜きたるもののみが獲得する」と
「最後の五分」は開戦以来、聞きあきる程聞いた言葉であるが、今日此の情勢は、真実なる意味のこもる五分である。平凡な言葉ではあるが、今日一徳一心、茲に最後の五分を頑張り抜かねばならぬ時が刻々到来しつつある此際、ただただ我々は政府を信じ、其の指揮命令に忠実に服従するより他に道はないのである。

敵の空襲は益々激烈となる。敵の機動部隊は我が本土近海を暴れ廻る。如何に沖縄を失い此の上は本土決戦となるにしても、無抵抗主義なのかと国民がいらいらして来た。此の事に付き内閣記者団が鈴木首相に
 「アメリカの我が本土に対する機動部隊の艦砲射撃、B29の熾烈なる空襲に対し、積極的な対戦を為して貰いたいとの気持ちが国民の中に見受けられる」
との質問に対し、首相は
 「参謀、軍令両総長から、軍としては策する所があるので、其の考えの下に作戦をしているのだから、今暫く見ていて頂きたいとの事である。故に私も国民の思惑に係わる事なく、作戦遂行に最善を尽くされたいと意見を申した次第である、国民諸君に於かれても、軍をしてこの力強き作戦に後掲の憂いなく遂行出来る様御協力を切望する」と。

敵の空襲は益々激烈となる。敵の機動部隊は我が本土近海を暴れ廻る。如何に沖縄を失い此の上は本土決戦となるにしても、無抵抗主義なのかと国民がいらいらして来た。此の事に付き内閣記者団が鈴木首相に
 「アメリカの我が本土に対する機動部隊の艦砲射撃、B29の熾烈なる空襲に対し、積極的な対戦を為して貰いたいとの気持ちが国民の中に見受けられる」
との質問に対し、首相は
 「参謀、軍令両総長から、軍としては策する所があるので、其の考えの下に作戦をしているのだから、今暫く見ていて頂きたいとの事である。故に私も国民の思惑に係わる事なく、作戦遂行に最善を尽くされたいと意見を申した次第である、国民諸君に於かれても、軍をしてこの力強き作戦に後掲の憂いなく遂行出来る様御協力を切望する」と。

沖縄陥落
敵の空襲は益々激烈となる。敵の機動部隊は我が本土近海を暴れ廻る。如何に沖縄を失い此の上は本土決戦となるにしても、無抵抗主義なのかと国民がいらいらして来た。此の事に付き内閣記者団が鈴木首相に
 「アメリカの我が本土に対する機動部隊の艦砲射撃、B29の熾烈なる空襲に対し、積極的な対戦を為して貰いたいとの気持ちが国民の中に見受けられる」
との質問に対し、首相は
 「参謀、軍令両総長から、軍としては策する所があるので、其の考えの下に作戦をしているのだから、今暫く見ていて頂きたいとの事である。故に私も国民の思惑に係わる事なく、作戦遂行に最善を尽くされたいと意見を申した次第である、国民諸君に於かれても、軍をしてこの力強き作戦に後掲の憂いなく遂行出来る様御協力を切望する」と。

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大森町界隈あれこれ(K30) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第1回)

2006年07月03日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
東京大空襲の記録資料(5)
若山武義氏手記は、これまで次の2編の手記を連載して参りました。
 ・大森町界隈あれこれ 鎮魂! 大森町大空襲 第1回~第11回
 ・大森町界隈あれこれ 手記第2編 戦災日誌中野にて 第1回~第7回
大森町と中野の2ヶ所で戦災にあい住まいは灰燼にきしました。今回からタイトル記載の「手記第3編 終戦前後目黒にて」を掲載します。第3編は、アメリカの空襲はますます熾烈を極め、敗戦色が濃厚となって行く中、庶民は必勝の信念を疑わず政府を信じ忠実に服従して竹槍で立ち向かう気概を持つが、原子爆弾の投下、ソ連の参戦、1945年8月15日の天皇陛下の玉音放送で終戦を迎え、そして戦後の混乱期を体験する一庶民として翻弄された様子がありありと記述されております。

私も、この時期を国民学校(現在の小学校)生として茨城・栃木県で疎開生活を送り、大森町での空襲には直接遭遇しませんでしたが、若山武義氏の手記を読むと、東京の空襲での死傷者が21万5千人以上、戦災家屋が82万3千以上、羅災人口301万4千人以上の悲惨な被害を蒙った何と無謀な戦争に突入したのでしょうか。国民のあずかり知らぬところで戦争が始まり、「赤紙」一枚で戦前に繰り出され、残酷な戦禍の犠牲を強いられたのは罪のない庶民です。今後、この様な過ちを二度と絶対繰り返してはならないのです。最近、北朝鮮ではテボドン2号の発射準備をしているきな臭いニュースが伝えられているなか是非、この若山武義氏の手記に触れられた方は、平和の維持の継続を願うために皆様に紹介して語り継いで頂きたいのです。

なお、「大森町界隈あれこれ 手記第2編 戦災日誌中野にて(第5回6回7回)」で紹介記載しました、作家海野十三(うんの じゅうざ)氏の見た東京大空襲の記録「海野十三敗戦日記」に付きましては、次回の「東京大空襲の記録資料」にても記述して参りますが、「青空文庫」の「海野十三敗戦日記」からダウンロードして読むことができます。今、すぐ読みたい場合には、ここをクリックすると読むことができます。


若山武義氏の手記(1946年記述) 第3編「終戦前後(目黒にて)」第1回
熾烈な横浜爆撃から地方都市爆撃に指向
サイパン、テニヤン、グァムの三島を結ぶ敵空軍の基地は益々強化され、敵将ルーメーが豪語せる如く、総兵力を挙げて、大阪、神戸、名古屋、静岡を徹底的に爆撃してより、息をもつかせず、B29 五百五十機の大編隊で五月二十五日夜帝都に来襲、畏くも宮城、大宮御所を初め都内に極めて広範囲に亘り爆撃を加え、我等も亦中野にて再度の戦災に合うたのである。
更に五月二十九日早朝、硫黄島を基地とするP51百機を伴うB29 五百機のかってなき大編隊で、それ迄は殆ど無疵同様の横浜を爆撃し、一瞬に廃墟と化せしめた。敵ながら恐るべき威力である。

三十日朝中野の町会に戦災見舞品をとりに行くと「電報が来てる筈ですよ」との事で、多数の信書からさがし出した一通の電報は
  「応募、三十日、横須賀に往く、後頼む、大森」
あっと驚いた。祖国の危急に召され、妻子七人を残して征途に就く、義弟の心情を想う。此の厳しき戦争の現実に直面して、今更何を考え、何を案じようや、我等も亦竹槍とって戦うべき時が正しく来たのであると、電報をにぎり意気悲壮に興奮するのみである。
敵は横浜を一挙に灰燼にして後は、地方都市爆撃に指向し、虱つぶしに威力を振るう。毎日毎夜空襲警報が、二度、三度発令されぬ日とてはなくなった程頻繁激化し此の間十数種の宣伝ビラを散布、軍民離間策に、国民の厭戦思想喚起に、執拗なる宣伝を開始し始めたのである。

本土への艦砲射撃開始により竹槍で対抗
これと表裏して、一方敵の機動部隊は、いよいよ我が本土に近接し、大胆不敵にも、北は室蘭、釜石、日立、帝都の玄関先き外房州白浜まで艦砲射撃を加へ、我々には頗る苦手である厄介千万な艦上機を飛ばして、帝都周辺を毎日のように波状攻撃して来たのである。
最後のこの一戦で勝期をつかむ事と予期せし沖縄戦も、もろくも茲に攻略せられ、いよいよ本土決戦、文字通り真に皇国の興廃を賭する、奴隷か死の関頭に立ち、今や全国に大量に動員され、本土到る処要塞化、国民総決起、総訓練、いよいよ我等の竹槍の秋となったのである。

東条暴政軍閥内閣がサイパン失陥で退却し、朝鮮の虎小磯内閣を組織し、する事為す事後手ばかり、レイテ天王山の掛声だけは名調子でも、木炭自動車と批判され、国民の期待に反し硫黄島失陥で辞職を余儀なくされた。さて、誰れ、何人が此の危機重なる難局負荷の重責の任に当たるであろうかと、全国民の関心を茲に集めたのである。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(6月分掲載Indexへ)
前回 大森町界隈あれこれ(29) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第7回) 
次回 大森町界隈あれこれ(K31) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第2回) 
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大森町界隈あれこれ(29) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第7回)

2006年06月20日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
東京大空襲の記録資料(4)
若山武義氏手記「手記第2編 戦災日誌中野にて」も、今回の五月二十七日までで終了し、次回から「手記第3編 終戦前後(目黒にて)」を開始します。
第3編では、原子爆弾と終戦日に関する記述で、爆撃からは逃れられたが敗戦により千仞の谷底になげ込まれた上、今日迄、あまりにもまっ正直に政府と軍とを信用しきって来た我々庶民は、「ポツダム宣言」を信用出来るかなと迷わざるを得なかった。此の敗戦と云う冷厳な事実を、臨時議会での説明に、初めて愕然として驚き、真に無謀な戦いをしたものだと憤慨せざるを得ぬ。戦時中に圧制されて来た軍、官に、初めて反撥し、批判する余裕が生じたのである、と記述されております。

大空襲記録資料は、前回に続き「海野十三敗戦日記」について紹介します。
また、若山武義氏手記のハイライトである昭和二十年(1945年)四月十五日の悲惨な大森町大空襲が描かれている、海野十三敗戦日記の四月二十七日の日記から抜粋してみました。

 四月二十七日
◯この日記をしばらく休んだ。........
◯さて、休んでいた間にも、帝都への大爆撃はあった。それは去る四月十五日深更より十六日暁へかけての夜間爆撃で、蒲田、荏原、品川、大森をやられ、大小の工場がほとんど全滅したとのことだ。なおこのとき川崎もかなりの被害があった。
◯蒲田の工場は当然疎開したものと思っていたが、欲ばっていて親工場へ吸収される値段の吊上げを試みつつあり、そしてやられて元も子もなくしたものが軒並だ。個人工場の損失ではない、国家の大損失であり、猫の手さえ借りたい刻下の沖縄大決戦の折柄、戦力をそぐこと甚しい。

◯去る四月二十五日の新聞に、被害の総合結果の発表あり。
 東京  五十万戸  二百十万人
   その他省略
 「大部分焼失した区域は、浅草、本所、深川、城東、向島、蒲田」であり、「その他相当焼けた区は下谷、本郷、日本橋、神田、荒川、豊島、板橋、王子、四谷、大森、荏原、品川」である。「川崎市は市街の大部分を焼失」
◯四月十五日、十六日の夜間空襲のときはちょうど神戸の益三兄さんが泊っていて、これを見物した。その前の豊島区などの焼けたときほど大きくは見えなかったが、初め品川上空に照明弾を落としてそれからずんずん東へ南へひろがり、駒沢のが一番近く、そこへ落ちる頃はこれはいよいよ来るかなと思わせた。  

この後、空襲都日記(第一部)は、五月一、二日の日記にて終了となります。
海野十三は日記第一部を閉じ、夜ヒットラー総統死去のラジオ報道を聞き、「この騒然たる空の下、事実を拾うはなかなか困難であり、それを書き付けるは一層難事であるが、私としては出来るだけ書き残して行きたいと思う」
と、五月三日から「降伏日記(空襲都日記第二部)」を記述しはじめ、十二月三十一日まで続きます。
(次回に続く)


若山武義氏の手記(1946年記述) 第2編「戦災日誌(中野にて)」第7回
海軍記念日
翌日、航機統制会に勤務の石原君に、第二戦災記念の写真を娘と共に撮影してもらい、借りてもらったリヤカーで娘たちを連れて焼跡整理に出かけた。
途中荻窪の酒屋で「戦災者激励慰安立飲所」の看板がある。大勢行列して勢よく飲んでいる。
 「とうさんのんでおいでよ、まってるから」
娘のすすめなくとも、のどのなる処だ。早速二杯直しをひっかけて、とてもよい機嫌となった。これで死ぬ苦しみも苦労もすっとんでしまった。リヤカーにお乗りよで乗ってゆられゆられすっかりよっぱらった。
高円寺まで来ると、戦災地の焼トタンの至極お粗末なバラック三々五々。初夏の陽にはためく国旗を出して居る。
 「なんだろ、今日旗を出してさ」
 「お父さん、今日は海軍記念日よ」

ああそうか、なにもかもわすれて居た。なる程、今日は五月二十七日。想い起す四十年前、日本海に
  皇国の興廃をを此の一戦に決した日であった
  我れに無敵艦隊厳として存す
  第二、第三、幾多の東郷元帥健在なり
  軍備は制限されようとも訓練に制限はない
  我が海軍猛者の訓練は月々金々だ
神州は不滅、絶対不敗だ
  来るなら来いだ、焼くなら何度でも焼いて見ろ
  必勝の信念は焼かれないぞ
と、おやじ一人でリヤカーの上で悠然としてりきんで居る。
おやじ何を想い、何を考えようと頓着なく、前夜の苦しみなんかけろりと忘れた娘三人、朗らかに歌を謡い、足なみそろえて進み行く。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(5月分掲載Indexへ)
前回 大森町界隈あれこれ(25) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第6回) 
次回 大森町界隈あれこれ(K30) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第1回) 
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大森町界隈あれこれ(28) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第6回)

2006年06月18日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
東京大空襲の記録資料(3)
大空襲記録資料は、前回に続き「海野十三敗戦日記」について紹介します。
中公文庫BIBLIO海野 十三 (著), 橋本 哲男 (編集) 文庫 (2005/07/26) 中央公論新社の「海野十三敗戦日記」の章立ては、「空襲都日記(第一部)」、「降伏日記(空襲都日記第二部)」に続き編集者の橋本 哲男の「愛と悲しみの祖国に」が掲載され、その後に「編者あとがき」と長山 靖生の「解説」で構成されております。

空襲都日記(第一部)
「空襲都日記(第一部)」は、昭和十九年(1944年)十二月七日の「はしがき」で始まり、同年十二月十日の空襲から日記を書き始めているが、その前に十一月一日の初空襲、十一月二十四日の本格的空襲と海野 十三が戦前の昭和十六年(1941年)に作った防空壕のことを含めて、「これまでのことを簡単に」に記述してあります。
空襲都日記は、若山武義氏手記と異なり、都民殺戮の焼夷弾爆撃による四方八方火の海の中を逃げ回るような描写とは異なり、空襲の経過を記録的に記述してあります。

三月十日の10万人が亡くなった下町空襲を記述した、三月十三日の日記から抜粋してみる。
三月十日の10万人が亡くなった下町空襲を記述した、三月十日および十三日の空襲都日記から抜粋してみる。
 三月十日
○昨夜十時半警戒警報が出て、東南洋上より敵機三目標近づくとあり。この敵、房総に入らんとして入らず、旋廻などをして一時間半ぐらいぐずぐずしているので、眠くなって寝床にはいったら、間もなく三機帝都へ侵入の報あり、空襲警報となり、後続数目標ありと、情報者は語調ががらりと変わる。起きて出てみれば東の空すでに炎々と燃えている。ついに、大空襲となる。
◯発表によれば百三十機の夜間爆撃。これが最初だ。
◯折悪しく風は強く、風速十数メートルとなる。
 三月十三日
◯十日未明の大空襲で、東京は焼死、水死等がたいへん多く、震災のときと同じことをくりかえしたらしい。つまり火にとりまかれて折重なって窒息死するとか、橋の上で荷物を守っていると両端から焼けて来て川の中へとび込んだとか、橋が焼けおち川へはまったとか、火に追われて海へ入り、水死又は凍死したとか、川へ入ったが岸に火が近づいたので対岸へ泳いで行くと、そこも火となり水死したとかいう話が下町の方にたくさんあり、黒焦死体が道傍に転り、防空壕内で死んで埋っているのも少くないとの事である。
(次回に続く)


若山武義氏の手記(1946年記述) 第2編「戦災日誌(中野にて)」第6回
九死に一生の脱出
如何にせんかと思案に迷う時、中年の婦人が「この先きに一昨夜の戦災で相当広い焼跡がある筈です、そこより外に安全な処はないけれど、そこへ行くには、あそこの下火となった一丁位(110m)もある処を渡れば行かれます。「行きませんか」と誘われたので、「それでは行きましょう」と「さあ来いよ、今一ぺん火渡りだ」、はじめてでないだけおそろしいとは思わない。行く途中井戸があったのでこれ幸いと水をもらい、防空頭巾から着物みんなぬらし、水をかけられるだけかけて、さあ来いで飛び出した。
来て見ればなるほど約一丁位、火は燃えくずれて余燼もうもうと云う処、かけれるだけかけろよと先頭になってかけ出して、改正道路まで最後の突破、みんな無事出来た。

兵隊さんが大勢で消火してる、向う側に早く行けとの指示でヤット目指す一昨夜の焼跡、なる程、ここなら天下一品の安全地帯だ。
ヤレヤレ御蔭様で助かった、ありがたかったと思う嬉し涙。道傍に積んである石材に、いっしょになった婦人も妻も腰かけたまま、つかれはてたのと安心でねてしまった。娘たちも道路に毛布をしいてゴロねとのびてしまった。
夜もすでに明けたけれど、吹きまくる風に余燼もうもうとして目も口もあけられぬけれど、妻や娘たちを起こし、焼跡を見に迂回に迂回して来て見たら、何もの一つも残らずきれいさっぱりと焼きつくした。電柱は今尚火を吹いてる。それから西荻窪の坂部氏宅に一時落付くこととし、お互い無事を喜んだ。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(5月分掲載Indexへ)
前回 大森町界隈あれこれ(25) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第5回) 
次回 大森町界隈あれこれ(28) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第7回) 
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大森町界隈あれこれ(27) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第5回)

2006年06月13日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
東京大空襲の記録資料(2)
今回の東京大空襲の記録資料は、仕事に関する大先達の逓信省出身のS氏から、ご照会を頂きました、作家海野十三(うんの じゅうざ)氏の見た東京大空襲の記録「海野十三敗戦日記」を紹介します。

海野十三敗戦日記
中公文庫BIBLIO海野 十三 (著), 橋本 哲男 (編集) 文庫 (2005/07/26) 中央公論新社


海野 十三(1897.12.26~1949.5.17)は、日本におけるSFの始祖となった小説家。本名は佐野昌一。徳島市の医家に生まれ、早稲田大学理工科で電気工学を専攻。逓信省電気試験所に勤務するかたわら、科学雑誌に解説を多数執筆し、技術専門書を刊行した。初のフィクション『ラジ夫と電子王の話』を発表後、海野十三名で処女科学小説『遺言状放送』から、海野十三名を使用。1928(昭和3)年、「新青年」に『電気風呂の怪死事件』と名付けた探偵小説を発表して小説家としてデビュー。
以降、探偵小説、科学小説、加えて少年小説にも数多くの作品を残した。太平洋戦争中、軍事科学小説を量産し、海軍報道班員として従軍した海野は、敗戦に大きな衝撃を受ける。敗戦翌年の1946(昭和21)年2月、盟友小栗虫太郎の死が追い打ちをかけ、海野は戦後を失意の内に過ごす。

橋本 哲男 1923年(大正12)、東京生まれ。明治大学文学部卒。学生時代に海野十三に師事。48年(明治23)、毎日新聞社入社。77年に退職ののち、フリー・ライターとして多数の著作を発表。

「海野十三敗戦日記」は、空想科学小説作家海野十三の戦中日記である。期間は、1944年(昭和19年)末から約一年間。東京・若林(世田谷区)に住む海野家の上空を、米軍機が轟音をたてて飛び交う。そんな状況が、科学者らしい正確さとリアリティをもって記録されている。米機による最初の空襲は、昭和19年11月1日。その後、空襲は日増しに激しさを増す。家族ともども防空壕に逃げ込んだり、戻ったりの日々だ。 (次回に続く)


若山武義氏の手記(1946年記述) 第2編「戦災日誌(中野にて)」第5回四方火の海からの脱出
今更悔いても、へそをかんでも及びもつかず、何とか此の危機をのがれたいとする、焦虜と不安と恐怖の地獄の釜のなかにたたきこまれた騒ぎ、このまま人生一巻の終わりになるのかと、泣くにも泣けぬ、我れ初め顔色を失ってしまった。
此の時西の方から、女性をまぜる五、六人の大学生の一団がやって来た。我等には無我夢中で気がつかなかったが、一軒の家に立てかけある梯子を見て、ヤア君ここに梯子がある、この屋根に登って天下の形勢を見ようか、うん、よかろう、で二、三人、スルスル登って、四方を見て居た。

 「どこもここも、おそろしい位燃えてるな、然し東中野の方がやや安全だな、そこにい
くには二ヶ所火の手があるけど、した火だから突破出来るだろう」
と判断して降りて来た。さあ行こうと先頭に立ってくれたので、ヤレ助かったかと一団続々と後に続いた。中野警察の前と今一ヶ処の処を突破して、ヤット東中野駅にたどりついて、ヤレよかったと一時の危機を脱し得て一先ず安心したが、烈風物凄く、焼トタンやあらゆるものを吹き飛ばし危険であるから、暫次駅の本屋の方に移って四方を見渡すと、西の方は三菱銀行支店でとまって一面火の海、駅附近が疎開された為め駅が無事なだけで、今日本閣に火がついたばかりであった。

日本閣炎上
さすが、一世に豪華を誇った日本閣も、一団の火のかたまりとなって黒煙火花を吹き出し、遂に哀れにも崩れ去ったと同時に、今夜は風の方向が変って、駅の東の方の火焔が駅を一となめにせん勢いで吹きつけて来た。安心して居た駅そのものが危険となった。若し駅に火がついたら、それこそここを安全として避難してきた我々数万の人の運命は、一難さってまた一難である。見渡す限り四方火の海、猛烈風にあおられる火焔の海、どこをどの方向に逃げようにも、土地を知らぬだけ仕末が悪い。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(5月分掲載Indexへ)
前回 大森町界隈あれこれ(26) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第4回) 
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大森町界隈あれこれ(26) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第4回)

2006年06月11日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
東京大空襲の記録資料(1)
これまでに、若山武義氏手記に関連する多くの東京大空襲の記録資料を掲載してきましたが今回は、前回6月8日付け日記で紹介しました、東京都北区が無料で発行の記念誌「戦後60年 写真で語り継ぐ平和の願い」を受け取りに行った際、配布場所で東京空襲関係の図書「真っ赤な空は忘れられない 戦争体験の記録」昭和63年(1988年)3月15日東京都北区編集・発行、(有)鯨吼社制作が置いてありました。


この図書は、昭和61年(1986年)3月15日に東京都北区が、平和都市宣言を行い、二度と過ちを繰り返さないために、区民の方から貴重な戦争体験を綴り、戦争の悲惨さや、平和の尊さについて、後世に語り継ぐ必要があるとの考えで作成された記録集です。
そのため、1987年に戦争体験文を募集して、201件の応募文から120編を編集したもので、カテゴリー別に、疎開:10編、空襲(北区内):21編、空襲(東京):23編、空襲(東京外):9編、戦地(東南アジア):21編、戦地(シベリア):6編、戦地(内地) :5編、引き上げ:7編、その他:8編と、戦時下の区民の暮らし、略年表などが263ページの章立てで収められております。

図書の題名の「真っ赤な空は忘れられない」は、応募作品の題名が使われております。
また、若山武義氏の手記「戦災日誌(大森にて)第8回」の中にも、
 爆撃は益々熾烈を極め、烈風にあおられる猛炎の火の海。
 大型焼夷弾は炸裂と共に花火の如き熱焔を吹き上げる。爆弾は轟然炸裂と共に黒煙を天に沖し凄惨とも悲惨とも書くすべを知らぬ。
 前後約六時間、何ものも残さず燃え盛る。火の手は中々おさまりそうもない。東の空はほのぼのとあけて昇る太陽は真紅であった。
 このようなまっかなおてんとうさまは、過ぐる関東大震災の翌朝にあった。私としては生まれて二度目の真紅の太陽、一生に忘れられぬ印象である。
と記述してあります。

戦争体験の悲惨さは、絶対に忘れることが出来ない体験で、決して二度と繰り返してはならないと思います。
北区発行の後世に語り継ぐ必要がある「戦争体験の記録」は、大森町大空襲の日記の掲載にも関連があるため、図書の在庫が若干あるとのことなので譲って頂き、保存しております。


若山武義氏の手記(1946年記述) 第2編「戦災日誌(中野にて)」第4回
四方八方火の海の包囲、進退窮まる
妻と娘と、留守不在中頼まれた安田さんの娘二人、四人連れて決して離れるなよと注意して、差当り火の手のない東養豚所まで来たら、再び第二の焼夷弾が怪音と共に降って来た。
幸いに大樹のかげにみんなかくれて避け、さあ来いとばかり一散に飛び出した。約二、三十人の人と魔物に追われる気持ちでかけ出して、畑を横切る時、ガアーッと落雷の如き物凄き音、

  アッ、爆弾
と直覚、トタンに背後で轟然炸裂した。アッもスッもない。無我夢中でスッとんだ。吹き飛ばされたとおんなじだ。ぱっと気がついてふりかえると、妻や娘たち、息せき切ってかけてくる。
 「とうさんたら薄情だわ、母さんもわしも捨ててにげるんだもの」
 「なにな云うてあがる、だからまごまごするなっんだ」
とはどなるものの、まあよかったと、ホッとした。爆弾だったらみんなお陀仏だ、幸いに大型焼夷弾で、直撃を受けた民家は猛烈な火を吹き出している、風は背後より吹きつのる、一瞬もまごついて居られぬ窮地に立ったのである。

とにかく北の方へ行こうとして、みんな離れるなよ、来いよ来いよと怒鳴りながら行くと、先方からゾロゾロ来る、「先に行ったってだめですよ」と注意され、この人だちと逆戻りする。それでは西の方に行こうかと、約半町(55m)も行くと、又一団の人々がゾロゾロ来る、此の人だちも「むこうはだめですよ」で再び逆戻り。東の方からも続々と避難して来る。南方の猛火と黒煙が烈風にあおられて益々身近く迫る。東西南北、四方八方火の海に包囲され、ここに期せずして集まった数千の人々と共に進むも退くも出来ず、真に全く茲に進退に窮し、忘然と立ち竦んでしまった。

前回 大森町界隈あれこれ(25) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第3回) 
次回 大森町界隈あれこれ(27) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第5回) 
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大森町界隈あれこれ(25) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第3回)

2006年06月08日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
若山武義氏手記の解説 その7
大森町大空襲の戦災を受けた後、一旦仙台に帰郷してからご家族で東京の中野の借家住まいで再度の東京大空襲の戦災に遭い、その爆撃の情景の凄まじさを記述した、若山武義氏手記の第2編 戦災日誌中野にて(第3回)を読むと、無残な戦争を再び繰り返してはならないと改めて思いを募らせます。皆様で、平和について考え恒久平和を願い、戦争記録を風化させることなく、語り継いでいく必要があります。
若山武義氏の手記はまだまだ続きますが、お読みになられた方は、是非皆様にご紹介して頂ければ幸いと存知ます。

今回の東京大空襲の記録資料は、平和都市宣言20周年にあたる平成18年3月15日に東京都北区が発行し、無料で配布された記念誌の「戦後60年 写真で語り継ぐ平和の願い」をご紹介します。

記念誌の発行の趣旨は、A4版49頁たてで、戦争の記録と記憶を風化させることなく、未来に語り継いで行くことを目的として、北区出身の推理作家・内田康夫氏の特別寄稿をはじめ、写真を中心に当時の区民生活や区内の戦跡などを紹介しています。
なお、現在、無料配布が終わり、区役所第一庁舎1階「区政資料室」において、1冊250円で有料配付しています。
また、 「戦後60年-写真で語り継ぐ平和の願い」のホームページ(ここをクリック)の「ダウンロード」欄から、記念誌を27ページに抜粋したPDF ファイル (12296.68KB) のダウンロードができます。


若山武義氏の手記(1946年記述) 第2編「戦災日誌(中野にて)」第3回
五月二十五日中野大空襲
翌五月二十五日、西荻窪に坂部氏を訪ね、借家さがしを頼んで夕方かえり、九時頃就寝しようとすると警報が出た。ものの十分とたたぬうちに空襲警報となった。大急ぎで身仕度をして戸外に出て形勢観望である。妻も娘も一昨夜と今晩と二度目の空襲である。
初め敵機は立川方面より帝都に侵入し始めた。我が軍の迎撃も物凄く、探照灯は八方より集中捕捉せる敵機に高射砲は力一杯火蓋をきり花火の如く沖天に炸裂する。見ている我々は、アー今少し、アッ、アタッタアタッタと手に汗を握るばかり。たちまち一機亦一機と火達磨となって墜落する。B29からの応戦も亦猛烈で、ドドッドドッと打ち出ち機関砲弾、一聯の花火のようである。戦は真に凄惨となった。
此の時、敵機の編隊の先頭機に隼の如き勢いにて突進迫る我が戦闘機に対し、敵機の集中砲火を物とせず遂に体当り、一塊の火の玉となって我が機は散華したのである。見て居った我々一団の男女、思わず知らず「アッ」と悲鳴をあげて声を呑んだ。体当りされた敵機も次第に速度がおち、火を吹き出したように見えた。こうして、他所事のように此の時は見て居れた。

今度は、敵機は反対の方面、帝都の中心より侵入し始め、我等の頭上に交錯し始めた。あっ、これは危険だぞと思うまに、幡ヶ谷、高円寺、東中野方面が次第に火の海となり出した。秒一秒、不安がつのり、焦慮がます。いよいよ大変な事になったと思うトタンに
  ピピユーピピユー
物凄い腸のちぎれるような怪音と共に、焼夷弾が一斉に附近一帯に落下した。
「組長さんのとこ、焼夷弾落下!」
と女の呼び声。ソレッとばかり、平素の訓練通りバケツ持ち出した連中、二発は消し止めたけれど、近所近隣のは一ぺんに火を吹き出した。もう消す処の沙汰ではない。此の勢いに皆退避し初めた。

前回 大森町界隈あれこれ(23) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第2回) 
次回 大森町界隈あれこれ(26) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第4回) 
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大森町界隈あれこれ(23) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第2回)

2006年06月04日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
若山武義氏手記の解説(大森町大空襲) その6
東京大空襲の記録写真集としては、石川光陽氏の撮影された1942年(昭和17年)8月18日の東京初空襲から、1945年(昭和20年)5月25日の山の手地区空襲までの間の東京空襲の有様を地上からの被災現場写真を撮影して編集発行した、「<グラフィック・レポート>東京大空襲の全記録」岩波書店1992年3月10日発行の図書が、現存する唯一の貴重な記録資料なのです。

<グラフィック・レポート>東京大空襲の全記録 岩波書店

それは、1943年(昭和18年)5月7日に内務省警保局の命により、空襲被害の状況を敵国はもちろん国民の目からも隠匿するために、空襲現場の写真撮影や被害現場への立ち入りは禁じられておりました。唯一、石川氏が警視庁のカメラマンだった1944年(昭和19年)11月24日、B29による初めての東京空襲(中島飛行機製作工場)があった日、空襲写真専務になるように命じられて、愛機のライカを片手に、日々本格化する空襲の現場を飛び回り、未だくすぶる焼け跡、崩壊した家屋、無惨な遺体を撮影し続けたのです。

戦後、GHQ は、東京空襲を撮影した唯一のカメラマンである石川氏の存在を探り出し、フィルムの提出を命令した。しかし石川氏は、自分が命をかけて撮影したフィルムを渡すまいと提出を拒否し、こっそり持ち帰って自宅の庭に埋めてしまった。
繰り返しの提出命令にもかかわらず石川氏はそれを拒否し続け、これは当時としてみれば命がけの行動により、「東京大空襲の全記録」が発刊されたものです。

「東京大空襲の全記録」には、1945年3月10日の東京下町の大空襲を初めとして、4月13日の豊島、新宿や4月15日の大森町大空襲を含めて、34日に及ぶ撮影した無惨な遺体の写真や、見渡す限り瓦礫の山となった被災現場写真が掲載されております。
大森町大空襲の被災現場写真(4月16日撮影)には、①大田区大森6丁目付近の焼け跡1(同書115ページ掲載)、②大森警察署前で配給の乾パンを積み込む(同書115ページ掲載)、③大田区大森6丁目付近の焼け跡2(同書116ページ掲載)、④大田区大森3丁目付近(同書117ページ掲載)、⑤蒲田警察署前通り(同書116ページ掲載)などの学童疎開前に目の当たりにした所の瓦礫の山となった被災現場写真が掲載されております。

このブログに取って大森町大空襲の貴重な記録写真ですので掲載したいと思い、石川光陽氏のご遺族の方と折衝致しましたが、残念ながら折り合いがつきませんでしたので断念しました。
ご覧頂くには、「東京大空襲の全記録」は各所の図書館に蔵書として保管されておりますので、見ることができます。また、岩波書店には残数があると思いますので、購入の上ご覧下さい。


若山武義氏の手記(1946年記述) 第2編「戦災日誌(中野にて)」第2回
五月二十三日の大空襲
其の夜の空襲も、東中野、渋谷、目黒、大森に亘る一面火の海、相当大仕掛けの爆撃である。省線が全然普通、自転車で余燼つきぬ東中野から新宿、渋谷を経て目黒も相当な被害である。会社は無事なので、安心して久ヶ原に行く道筋、大岡山付近は全滅同様通行止め、迂回してやっと久ヶ原にに来たら、こはなんと高射砲陣地は跡も形もない。伊藤さんの所へ来て見ると、焼跡にお母さんが呆然立って「亦やられました」と苦笑された。先ず何より無事でよかったと心から喜ぶより外ない。そこへ利雄さんがかえる、なんとした事だ。「これではだんだん東京に住む家は一軒もなくなるね」と慰めようなく顔見合せて苦笑した。

これで東京が一軒残らず焼けた処で、戦争が負けるなんて事は夢にも亦みじんも思いもせず考えもしないのである。これで久ヶ原で借りようとした二軒も諸共形も影もない。借家の有無を鶴の首の様にして待って居た妻も伊藤さんの再度の羅災に唖然とした。

前回 大森町界隈あれこれ(19) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第1回) 
次回 大森町界隈あれこれ(25) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第3回) 
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