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K&A

kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第4回その2)

2010年08月31日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2010 京急蒲田駅に入る第1京浜2階高架橋上の空港線列車(20101029誤記訂正)  

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第3、4工区高架工事
8月27日に京急蒲田駅旧上り線ホームを見るとホームは全て取り壊しが完了して、取壊し材料の残存物は片づけられて平坦となっています。旧上り線ホームの線路は北方部の大半の個所で撤去されていますが、京急蒲田第2踏切北側付近の僅かの区間には、工事資材の搬送のための、荒い間隔の簡易枕木上に線路が敷かれています。

 京急蒲田旧上り線ホーム撤去跡(0827写真拡大)

同27、30日には撤去の済んだ旧上り線ホームの南部で、シャベルカーにより地中に残った土台基礎残在の掘り起しと破砕などの作業が行われていました。

 上り線ホーム取壊し跡の整理工事(0827・0830写真拡大)

第5工区高架工事
同27日に京急蒲田第2踏切北側付近の地上線路を見ると、多数の作業員により線路切り替えポイントの交換準備工事が行われておりました。

 切り替えポイントの交換準備工事(0827写真拡大)

同踏切北側には、交換用の切り替えポイントが置かれてありました。

 交換用の切り替えポイント線路(0827写真拡大)

30日に見ると下り本線と空港線用の専用の切り替えポイントとして交換敷設されていました。同ポイントは上り線高架化運用以前には、下り本線と空港線との切り替えポイントと共に、仮上り線高架橋を経ての地上上り線を加えた3ポイントの切り替え器として使用していました。地上上り線が高架に移設したため、同切り替え器は仮に不要部分を取り除いて使用していた暫定のポイントでした。

 交換敷設された下り本線・空港線切り替えポイント(0830写真拡大)

第6工区高架工事
8月26日に見ると、雑色駅旧上り線のホームを利用した高架上りホーム通路部の外側部では、旧ホームの取壊しが行われていました。

 雑色駅旧上りホームの取壊し状況を見る(:在来下りホームより旧上りホームの取壊し状況を見る、:旧下りホーム通路よりホームの取壊し状況を見る、:駅西側道路よりホームの取壊し状況を見る)

同27日には雑色第4踏南から六郷土手付近の仮上り線高架橋脇の旧上り線線路上では、多数の作業員が上り線本高架橋の築造の準備作業に従事していました。同31日に下り線列車から片線の本高架橋築造(仮下り線高架運用使用)現場の動画を撮影しました。

六郷土手付近上り線本高架橋築造現場.wmv

[クリックすると上り線本高架橋の築造現場の状況が見られます]

第8工区高架工事
8月23日に糀谷駅の旧上り線ホームの取壊し状況は、ホーム盤の鋼枠桁のみが残されていましたが、同30日には鋼桁取付の基礎柱部を残すのみで取壊しはほぼ終了の状況です。

 糀谷駅旧上り線ホームの取壊し状況(:ホームの取壊しはホーム盤の枠鋼桁を残すのみ0823、:旧上り線ホームの取壊しはほぼ完了0830)

同27日には、下り線列車から築造済の上り線高架橋に、連結して建設する下り線高架橋の築造現場を、糀谷第1踏切から同第2踏切間を下り線列車から動画を撮影しました。

糀谷第1-2踏切間下り線本高架橋築造現場.wmv

[クリックすると下り線本高架橋の築造現場の状況が見られます]

第7工区高架線路の摩耗噴霧運用(1029記述誤記訂正)
京急蒲田駅脇の空港線第1京浜国道2階高架鉄橋の曲線部線路には、線路が急カーブのため摩耗を緩和
するため、液を噴射する噴霧装置を稼働しています。8月31日に、同鉄橋上の曲線部線路に液を噴射して冷却している模様の動画を、上り方向と下り方向の両方向から列車走行により撮影しました。この噴霧装置は、気温が低下した10月にも噴霧している時がありました(1029この項記述ミスにより訂正しました。動画のタイトルに記載の「冷却」とあるのを、「噴霧」と置き換えてください)。

第1京浜国道高架橋の曲線線路部の噴霧装置.wmv

[クリックすると第1京浜国道2階高架鉄橋の曲線部線路の噴霧の状況が見られます]

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大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第4回その1)

2010年08月29日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2010 平和島第5踏切より内川橋梁を見る[中央は旧上り線跡]  

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高架化工事の完了工程予定
これまでの猛暑の工事も、これからは9月の本格的な工事に入るところです。旧上り線ホームの撤去工事や平和島と六郷付近の仮下り線高架工事の準備が見られるようになりました。
第1工区内川付近の高架橋工事予定の案内板を見ると、仮上り線高架橋架設下の道路が工事のため、2014年(平成26年)12月31日までを車両の通行止めとすることが掲示されています。
内川付近の今後の工事の予定は上り線側の単線本高架橋を架設して、これを仮下り線高架橋としての上下線高架化運用が2012年に開始され、その後に上り線側の単線本高架橋を複線の本高架橋に築造し上下線を移設して本運行するのが2014年前半と予想されます。さらにその後に、仮上り線高架橋を撤去して旧の形態に復させて完了するのが2014年12月31日のようです。

 第1工区の内川付近下り線高架橋築造工事現場(:第1工区の内川付近工事予告掲示板、:仮高架橋工事が始まる内川橋梁、:仮上り線高架橋と在来内川橋梁0828)

同様に六郷土手側の工事も、内川と同じ手順で工事が行われます。また、京急蒲田第6踏切南方の工事では、先ず仮上り線用に築造した高架橋を利用して、仮下り線の高架運行に転用します。上り線単線本高架橋に並行した空き下り線跡に、複線の本高架橋として増築工事を行います。2012年には完成の複線本高架橋に、上下線を移設して本運行を開始した後、空いた仮上り線用高架橋を撤去して元の形態に復帰させ完了です。

 六郷土手・京急蒲田下り線高架橋築造現場(:六郷土手[左から仮上り線、仮下り線、在来下り線]、:京急蒲田工事現場[左から仮下り線、高架上り線]、:京急蒲田工事現場[左から高架上り線、在来下り線])

第1工区
第1工区の大森町駅南方の旧上り線ホームの取壊しは、月遅れお盆休み後の猛暑の中連日の工事により、ホーム側壁と屋根の撤去が行われ、屋根支え梁とホーム線路側の柱が全部取り除かれ、ホーム裏側の柱のみが残された状態となりました。

 旧上り線ホームの撤去工事(左上:ホーム屋根骨格の解体0820、中上:ホーム基礎土台部の解体、右上左下:ホーム部の解体0823、中下:ホーム屋根骨格部の解体、右下:ホーム土台骨格部の解体0826)

28日現在、取壊しを実施中の旧上り線ホームは大森町駅南方の高架橋4橋部の間であり、中間橋部のゑびすヤード付近のホームは既に撤去が完了し、北方の高架橋の4橋部間の平和島方の屋根なしホーム部の取壊しは未着手の状況です。

 取壊しが進む大森町駅旧上り線ホーム(:現在取り壊し中の大森町駅南方ホーム、:取り壊し完了の大森町駅中央部ホーム、:現在取り壊し未着手の大森町駅北方ホーム0826)

8月20日に見ると、仮上り線高架橋の築造時に使用していた内川上の工事用仮橋の整備が行われていました。これは、上記に記述の仮下り線高架橋の築造のための準備工事です。

 下り線仮高架橋工事が始まる内川橋梁の準備工事(写真拡大0820)

また、同日には、在来線の内川橋梁の北側の傾斜高架橋桁部の下側の土砂の除去を行っていましたので、旧上り線で使用していた傾斜高架橋の空いた跡に、片線本高架橋を築造のための準備工事のようです。この片線本高架橋は、当面は仮下り線高架運行用に使用されます。

 在来線内川北方傾斜高架橋下の整地工事(写真拡大)

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kan-haru日記 大森町界隈あれこれ 京浜急行関連総目次

2010年08月29日 | INDEX

kan-haru blog 2016 2月15日17版

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   大森町界隈あれこれ 京浜急行関連 総目次



1 大森町界隈あれこれ 京浜急行関連 カテゴリー全目次

1-1 大森町界隈あれこれ 京浜急行関連 目次 2006・2007年版(2006年8月9日~2007年12月11日)
1-2 同 京浜急行関連 目次 2008年前期版(2008年1月5日~6月25日)
1-3 同 京浜急行関連 目次 2008年中期版(2008年7月4日~9月29日)
1-4 同 京浜急行関連 目次 2008年後期版(2008年10月5日~12月31日)
1-5 同 京浜急行関連 目次 2009年前期版(2009年1月9日~4月20日)
1-6 同 京浜急行関連 目次 2009年中期版(2009年4月24日~7月20日)
1-7 同京浜急行関連 目次 2009年中Ⅱ期版(2009年7月27日~11月11日)
1-8 同 京浜急行関連 目次 2009年後期版(2009年11月16日~12月31日)
1-9 同 京浜急行関連 目次 2010年前期版(2010年1月3日~3月31日)
1-10 同 京浜急行関連 目次 2010年前Ⅱ期版(2010年4月10日~5月21日)
1-11 同 京浜急行関連 目次 2010年中期版(2010年5月23日~8月31日)
1-12 同 京浜急行関連 目次 2010年後期版(2010年9月13日~12月29日)
1-13 同 京浜急行関連 目次 2011年前期版(2011年1月22日~6月26日)
1-14 同 京浜急行関連 目次 2011年後期版(2011年7月25日~12月18日)
1-15 同 京浜急行関連 目次 2012年前期版(2012年1月17日~6月12日)
1-16 同 京浜急行関連 目次 2012年後期版(2012年7月3日~10月11日)
1-17 同 京浜急行関連 目次 2012年後期(2)版(2012年10月18日~12月21日)
1-18 同 京浜急行関連 目次 2013年前期版(2013年1月4日~5月8日)
1-19 同 京浜急行関連 目次 2013年前中期版(2013年6月14日~10月28日)
1-20 同 京浜急行関連 目次 2013年前後期版(2013年11月15日~12月31日)
1-21   同 京浜急行関連総目次 2014年前期版(2014年1月4日~4月30日)
1-22 同 京浜急行関連総目次 2014年中期版(2014年5月28日~10月16日)
1-23 同 京浜急行関連総目次 2014年後期版(2014年10月27日~12月28日)
1-24  京浜急行関連総目次 2015年前期版 (2015年2月22日~9月6日)
1-2 同 京浜急行関連総目次 2015年後期版 (2015年8月9日~11月21日)
1-2 同 京浜急行関連総目次 2016年期版 (2016年2月14日~)



2 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 Sub INDEX 別目次

[大森町付近工区]
2-1 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 大森町付近工区 Sub INDEX 2006・2007年版(2006年8月9日~2007年11月3日)
2-2 同 京浜急行の高架化 大森町付近工区 Sub INDEX 2008年版(2008年1月5日~12月24日)
2-3 同 京浜急行の高架化 大森町付近工区 Sub INDEX 2009年版(2009年1月9日~8月29日)
[梅屋敷付近工区]
2-4 同 京浜急行の高架化 梅屋敷付近工区 Sub INDEX(2007年5月13日~2009年8月31日)
[京急蒲田付近工区]
2-5 同 京浜急行の高架化 京急蒲田付近工区 Sub INDEX 2006~2008年(2006年8月9日~2008年12月19日)
2-6 同 京浜急行の高架化 京急蒲田付近工区 Sub INDEX 2009年版(2009年1月17日~9月9日)
[雑色付近工区]
2-7 同 京浜急行の高架化 雑色付近工区 Sub INDEX(2008年1月23日~2009年9月15日)
[糀谷付近工区]
2-8 同 京浜急行の高架化 糀谷付近工区 Sub INDEX(2008年3月12日~2009年9月22日)
[全工区統合]
2-9 同 京浜急行の高架化 全工区統合 Sub INDEX 2009年版(2009年10月7~12月31日)
2-10 同 京浜急行の高架化 全工区統合 Sub INDEX 2010年版(2010年1月3日~6月30日)
[全工区統合下り線高架化]
2-11 同 京浜急行の高架化 全工区下り線高架化 Sub INDEX 2010年版(2010年7月16日~12月29日)
2-12 同 京浜急行の高架化 全工区下り線高架化 Sub INDEX 2011年前期版(2011年1月22日~6月26日)
2-13 同 京浜急行の高架化 全工区下り線高架化 Sub INDEX 2011年後期版(2011年7月25日~12月18日)
2-14 同 京浜急行の高架化 全工区下り線高架化 Sub INDEX 2012年前期版(2011年1月17日~6月12日)
2-15 同 京浜急行の高架化 全工区下り線高架化 Sub INDEX 2012年後期版(2012年7月3日~10月11日)
[関連側道]
2-16 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 関連側道 Sub INDEX(2010年2月15日~ )

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大森町界隈あれこれ 大森町の昔を古地図で探る 大森村絵図第2編第1回その3

2010年08月26日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2010 1957年(昭和32年)諏訪神社例祭の樽神輿

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大森村絵図の社寺(2)
前回に続き、明治初期の大森村周辺の社寺を見ていきます。

 大森村の浅間神社、諏訪神社(①:大森神社[その2参照]、②:浅間神社、③:諏訪神社)

・浅間神社
大森村絵図の浅間神社が鎮座する位置は東海道三原の南原から、西隣の新井宿村の春日社に延びる横断道と、東海道山谷の内川から不入斗村の八幡まで縦断する道との交差点にありました。
浅間神社は1716-36年(享保年間)に、当時隆盛を極めた富士信仰に基づき、富士山本宮浅間神社を勧請したもので、祭神は木花咲耶姫命を祀ります。社記がなく草創は不明であるが、口伝によると氏子28戸で勧請し、大森村の沢田の鎮守でありました。

 大森村東大森沢田の浅間神社 

・諏訪神社
諏訪神社は、浅間神社の南西の大森村中心部の内川北岸からおよそ300m北方の田んぼの中央部にあって、境内は六郷用水に接しており江戸期には山谷の鎮守で、祭神は建御名方命が祀られています。諏訪神社の社録は1868年(明治初年)に保管者が火災に遭い、伝来の由緒は灰燼のため不明です。伝えられるところでは、徳川初期(1600年頃)の創建で昔は東海道付近にあり、後年現地に遷宮したものであると云われています。1611年(慶長16年)に完成した六郷用水が、諏訪神社境内の周囲を迂回していますので、その前後に創建地から移ったのではないかと思われます。

 大森村北大森山谷の諏訪神社

推定ですが、戦前には諏訪神社の神輿倉が第1京浜国道の現大森警察署の反対側付近にありましたので、創建時の諏訪神社は東海道の内川端縁付近に鎮座されていたものと思われます。

 諏訪神社例祭第1京浜国道神輿倉にて[昭和12年6月]

田んぼの中の本殿は草創期のもので、その彫刻美は徳川芸術を語るものとして有名であったと云われています。拝殿は遷宮の折に建築したもので、1831年(天保2年)に修復を加え同時に内陣を造営したと伝えられています。拝殿の天井は極彩色の花魚獣魚を描いた一尺四方の96個の区画で造られた合天井で、すこぶる美観を呈した大和画で揮毫者は不詳であるが、徳川時代の相当名のある画家の筆であると思われます。この種の大和画の天井は、厳正寺などの寺院では多く見受けられるが、社祠では珍しいものです。

 戦時下[1943年頃]の諏訪神社例祭子供樽神輿(写真の拝殿は戦災前の建築でその後修復されているが大和画の天井であるかは不明)

伝説として残る諏訪神社の縁起は、その昔、波に漂い大森海岸袖ヶ浦へ着岸されたご神体を、村民が尊崇して一祠を建立したのが諏訪神社の起源であると云われております。この境内に一匹の白蛇が棲みつき、祭礼の時、氏子等多数が参社して知らずに白蛇の尾端を踏んだので、古来祭礼には必ず降雨ありと伝えられています。
境内には、数百年を経たる老松が神威を示す如く繁茂しており、1824年文政7年甲申歳9月吉日建立の石造り明神型の鳥居が建ち、同じく文政の銘がある算盤額が掲げられています。(新版大森風土記から)

 文政七年建立の諏訪神社正門の鳥居

・貴舩神社と天神社
大森村の東海道を下ると東大森村の谷戸で、江戸時代には間(あい)の宿で立場茶屋がありました。谷戸の東海道4つ角道の左右には貴舩神社と天神社が対向して並んでいました。

 大森村の諏訪社、貴舩社、天神社

貴舩神社は、創建の年代は明らかではないが、江戸時代には大森村のうち東海道に面した本宿の鎮守であり、祭神は高龗神(たかおかみのかみ)が祀られており、貴船神社の御分霊と云われています。天神社は、菅原道真公を祀っています。2社に分かれているのは、村人の対立の関係から相立したものではないかと推察されるが、水上を営業とする生活者には欠くことができない守護神で、尊崇厚く祀られていました。(新版大森風土記から)

 大森村東大森谷戸の貴舩社、天神社

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大森町界隈あれこれ 大森町の昔を古地図で探る 大森村絵図第2編第1回その2

2010年08月24日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2010 磐井神社祭礼

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隣村の不入斗村社寺
大森村の北隣の不入斗村(現大田区入新井)は東海道の東側は海岸線で、八幡を経て鈴ヶ森(現在の品川区)の大井村には東海道沿いに1651年(慶安4年)に置かれた刑場跡(隣接村の社寺説明図オレンジ④)があります。
大井村の地名の鈴ヶ森は不入斗村(大森)とは密接な関係があり、江戸名所図絵の鈴森八幡宮にある鈴石は、磐井神社の伝記にある霊石によりこの地を鈴石森と云い、略して「すずのもり」と云い鈴ヶ森の地名が起こったと伝えられています。徳川家康が関東入国の時代には、磐井神社付近から刑場近辺には大松林が残存していたといわれます。

 江戸名所図絵鈴の森

地名のいわれ
大森村の隣村の不入斗(いりやまず)は、昔は海岸地帯で土地は塩分のため田畑は殆ど収穫を上げることが出来ず、為政者が耕作奨励の意味を持って貢税免除を宣言して不入斗村と称したと云われています。なお、現在の地名は入新井と称しています。

 隣接村の社寺説明図

・磐井神社
大森村隣村の不入斗村の東海道を上って行くと、八幡には鈴ヶ森八幡(磐井神社 隣接村の社寺説明図オレンジ①)(「大森町の社寺 磐井神社 大森町北端にある鈴石伝説の磐井神社夏祭り その1、2」参照)があります。磐井神社の霊宝には「鈴石」が鎮座してありますので、神社の地を鈴石森というようになったと縁起に書かれています。旧東海道時代には、東の沖合いの海浜までが神社の境内であったとも云われております。

 磐井神社霊宝の鈴石と烏石(大田区史 資料編 寺社1から)

磐井神社は、先記の大森空襲の被害地の北限であったため社殿は焼失しましたが、樹齢300年の2本の神木の大いちょうは一部に黒焦げ跡がありますが、当時からの唯一現存する植物で貴重な歴史を残しています。

 大戦では戦火を受けた樹齢300年以上現存の大いちょう(0807写真拡大再掲)

磐井神社の由緒によると敏達天皇2年8月には存立し、山城国男山八幡を鎮座した延歴の頃より1504~20年(永正年中)に至る680年間は神威赫燃として宮中が繁栄したが、永正年に兵火により末社と共に焼失し再興で建立したが、その後の1532~54年(天文年中)に重ねて火災に罹るが、1597年(天正18年)に徳川家康関東下向の際に磐井神社を参拝された。その後の1661~72年(寛文年中)に再興する。1689年(元禄2年)に将軍家光が参詣の際に磐井神社をを祈願所に申し付けられる。1725年(享保10年)に将軍吉宗、伊奈半左衛門により本殿、拝殿、末社の建立が行われました。祭神は応神天皇、大己貴命、仲哀天皇、神功皇后、仲津姫大神のご神体が祀られ、末社の笠島弁天社の祭神は弁財天が祀られています。
新版大森風土記によると、徳川家康の江戸入府の頃には磐井神社付近には大きな松林が存立していたと云われています。磐井神社は、江戸開府の頃に東海道の交通量が急激に増大して、その沿道にある八幡神社は発展したものと思われます。

 昔の磐井神社(:戦災消失前の磐井神社、:元禄ころの鈴森八幡宮配地図 大森区史から)

1741年 (元文6年)3月に松下烏石が磐井神社に烏石を奉達した由来を刻した烏石(うせき)碑、1786年天明6年10月に建立の筆塚、1809年文化6年8月に建立の狸筆塚、17696年寛政8年5月に建立の竹岡先生書学碑は大森村絵図の時代には末社の弁天池の周辺にありました。また、烏石、鈴石はともに非公開で神社の屋内に保存されています。

 磐井神社石碑群(:烏石碑、中左:筆塚、中右:狸筆塚、:竹岡先生書学碑)

なお、当時は境内にあった磐井の井戸は、現在では東海道が拡幅されて神社前の歩道上にあります。

 磐井神社の現在の配置図

・八幡山蜜厳院
八幡山蜜厳院(隣接村の社寺説明図オレンジ②)は、昔は大鳥(鷲)神社が鎮座するところにあり、当時祈念塚があったので祈念寺蜜厳院と称しました。開基は1324~1326 年(正中年間)に真宗大阿闍梨師が建立し、磐井神社、鷲神社が共に寺内にあったと伝えられており、城南三大寺院の一つであったと云われています。蜜厳院は1781~1788 年(天明年間)に火融のため炎上し、寺宝と記録は全て焼尽し何も残っていません。本堂は1830~1843年(天保年間)に現在地に再建され、明治初年頃まで大森14社を掌っていました。

 八幡山蜜厳院1(:八幡山蜜厳院山門、:御堂建立碑、:石碑群)

蜜厳院には、お七地蔵と呼ぶ地蔵尊が安置されており、八百屋お七の三周年忌に追悼のため建立されたものではないかと云われています。(新版大森風土記から)
 八幡山蜜厳院2(:お七地蔵尊、:本堂並びに客殿落慶普済供養塔)

・大鳥(鷲)神社
大鳥(鷲)神社(隣接村の社寺説明図オレンジ③)の創建は不明であるが、鷲神社縁起由来によると社殿は、1864年(元治元年)11月再建と古文書にあり、蜜厳院が別当でその寺内にあったという伝説よりみるとかなり古いようです。

 江戸名所図絵江戸酉の市発祥の花又村の鷲大明神

祭神は、日本武尊、天日鷲命が祀られており、通称おとりさんと呼ばれ、毎年11月の酉の日には熊手の授与には混雑します。明治初期の酉の日の大森鷲神社には市が立ち、やつがしらが人気で東海道に近いので東京、神奈川からの日帰り行楽で賑わったことでしよう。

 大森鷲神社酉の市風景 

大森村絵図の社寺
大森村社寺の分布
明治初期の大森村絵図を見ると、内川から北側には神社が3社と1寺社と少ないのですが、内川の南側では11以上の寺社が集中して見られます。
大森村の住居地地帯は、北部では東海道の三原地区海岸地帯と沢田地帯のみで隣村の不入斗村が入りこんでいます。南部では羽田道と池上通り沿いの集落と東海道の谷戸の間の宿周辺および呑川沿岸の農漁村地帯が住居地地帯です。当時の農漁村の海苔養殖の大半が呑川周辺地区に集中しており、旅人などの通行の多い羽田道、池上本門寺への参道と谷戸の周辺には多くのが出来て、それにより社寺が集中したものと思われます。

 大森村絵図(再掲)

・寄来神社
大森村の絵図を描いた頃の寄来神社は東海道際にあり、三原の里の海辺に近く付近には森林があったと伝えられており、同社の縁起によると1573-1593年(天正年中)に、ある時海上の波間に寄り来した御神体を、漁を業とする里人が畏みて沖へ流し奉るとまた漂い来て、このことが三度も及んだので、海より御神体を引き上げて仮宮を造営して寄来大神として祀り、御神体寄り来したので寄来神社と称しました。

 東海道東大森寄来社

その後次第に人口も多くなり、社殿を造り三原の産土神として奉ったのが起源であると伝えられています。なお、1720年(享保5年)9月に再建の棟札には、「元和二丙辰年至享保五年遷宮八度也氏子数九十一戸」とあることより、元和2年前から存在していた久々能知命を祀る村社です(新版大森風土記から)。明治初期に見る寄来神社には、隣村の神社の様に境内には樹齢300年以上の古木が植えられていたものと思います。

 江戸名所図絵寄木明神社(品川寄来神社)

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イベント 第11回国際鉄道模型コンベンション 鉄道模型コンテストに大森学園高校が出展

2010年08月22日 | イベント
kan-haru blog 2010 第2回全国高等学校鉄道模型コンテスト展示作品

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8月20日から22日まで東京ビックサイトで開催の第11回国際鉄道模型コンベンションの第2回全国高等学校鉄道模型コンテストに、大森学園高等学校の鉄道研究部が出展(「イベント 第11回国際鉄道模型コンベンション 大森学園高校が鉄道模型コンテストに初参加」参照)しましたので、20日に見てきました。

 第11回国際鉄道模型コンベンション会場(写真拡大)

第11回国際鉄道模型コンベンション
国際鉄道模型コンベンションは、東京ビックサイトの西4ホールの8エリアと屋上展示場に、77の個人・団体のモデラーズパフォマンスの出展者と55の企業出展者および、29校のコンテスト参加校が、Nゲージを始めとする各種ゲージのジオラマ模型、風景模型、各時代の列車模型や国外列車模型、紙・木・ブリキの模型列車など様々の工夫を凝らした模型と、模型販売企業が会場いっぱいに展示されています。また、屋上と会場のコーナーでは、人を乗せる蒸気機関車模型などを走らせていました。

 モデラーズパフォマンスの出展作品名と出展者のアピール(左表拡大右表拡大)

母校のコンテストに出展した模型作品の様子を見に出かけたのですが、国際鉄道模型コンベンションの規模と内容の豊富さには、他の模型ショーでは見られない最大の規模であり、夏休みにも関わらず殆どの入場者は大人であり、鉄道マニアの熱心さには感服します。

 初日から満員の国際鉄道模型コンベンション会場(写真拡大)

入場料1500円を払ってコンベンション会場に入ると、会場エリアは各鉄道線路の列車の色名を付けた9エリア(中央線オレンジ、山手線ウグイス、総武線カナリア、京葉線ピンク、京浜東北線スカイブルー、有楽町線ゴールド、半蔵門線バイオレット、常磐線エメラルド、日比谷線シルバー)のゾーンに分けて出展作品が展示されています。出展作品のジオラマをみると、大規模で豪勢な作品で博物館クラスに匹敵します。

 出展作品ジオラマ展示風景(写真拡大)

風景を中心の展示模型を見ると、微に入り細に入りの風景描画でまるで実物の世界のミニチュアです。また、実在の鉄道情景を模した展示模型も数多く見られ、なかなか特徴を捉えており関心します。

 風景模型展示作品(写真拡大)

鉄道模型展での子供の人気は何と云っても乗って走る大型鉄道模型です。ピンクとシルバーのコーナには、トーマスや石炭を焚いて走る蒸気機関車には子供が乗って喜んでいる風景は微笑ましいものです。

 人を乗せて走る大型模型(写真拡大)

第2回全国高等学校鉄道模型コンテスト
第2回全国高等学校鉄道模型コンテストは昨年から開催しているもので、高等学校のクラブ活動で鉄道模型を楽しんでいる生徒たちが、精一杯力を出し切って制作したNゲージモジュールを持ち寄り、その出来栄えを競うものです。コンテストのジャッジは、モデラーズパフォマンスの出展しているモデラーが行います。
ちなみに2009年のコンテスト入賞校は、最優秀賞が関東学院六浦中学校・高等学校、優秀賞が芝学園中学校・高等学校、佳作が芝浦工業大学高等学校、逗子開成中学高等学校、高輪中学高等学校と日本大学第三中学校・高等学校で、入賞が成城中学・高等学校と東京電機大学中学校・高等学校でした。

 第2回全国高等学校鉄道模型コンテスト展示作品(左・写真拡大)

コンテストの各校参加作品の展示会場は、国際鉄道模型コンベンションの総武線のカナリア・エリアで、2ヶ所のコーナーに作品が展示されており、何れの展示作品も力作揃いで優劣を競っていました。

 全国高等学校鉄道模型コンテスト展示作品(左上:早稲田中・高展示作品、中上:鎌倉学園展示作品、右上:江戸川学園取手中・高校展示作品、左下:東京電機大高校展示作品、中下:聖学院高校展示作品、右下:関東学院中・高校展示作品)

・大森学園高校参加作品
母校の大森学園の初参加作品は、高架化工事が進展している京浜急行電鉄梅屋敷駅の6輌編成列車の2輌のドアカットを再現したもので、高架化が完成すると見られなくなる歴史的な作品です。梅屋敷駅は大森学園高校の下車駅の南隣の駅で、近くにある明治天皇が好まれて行幸の聖跡梅屋敷公園が、公園に接している第1京浜国道の拡幅工事により姿を変えようとしている場所で、2年先には街並みが大きく変わろうとしています。

 大森学園高校初参加作品(写真拡大)

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イベント 第11回国際鉄道模型コンベンション 大森学園高校が鉄道模型コンテストに初参加

2010年08月20日 | イベント
kan-haru blog 2010 イラストレーション作品

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国際鉄道模型コンベンション
国際鉄道模型コンベンションは、毎年8月に開催するNPO法人日本鉄道模型の会(JAM)が主催する、鉄道模型愛好家の相互交流、鉄道模型文化の普及、認知度向上を目的としたイベントです。2000年に第1回が新宿で開催されて以来、今回で11回目の開催を迎え、第2回~第6回、第8回~第10回の開催はビックサイトを会場で開かれ、第7回は大阪で開催されました。第11回の今年も8月20日から22日までビックサイトで開催されます。
鉄道模型コンベンションは、鉄道模型関連では日本最大の集客力を誇るイベントとしてファンに知られ、単なる模型ショウに止まらず、多くのファンが作り上げた作品を公開展示して、それを見て、触れて、感じることにより、鉄道模型趣味のレベル向上を来場者とともに目指すイベントとして人気を博しています。
昨年の第10回のコンベンションの集客数は3万4300人で、個人・団体部門出展数は70で、企業出展数が60社でした。

 第11回国際鉄道模型コンベンション

第2回全国高等学校鉄道模型コンテスト
昨年から全国高等学校鉄道模型コンテストが開始され、高校生が力を合わせて作り上げたNゲージのモジュールレイアウトには29校が参加しました。
今年の第2回全国高等学校鉄道模型コンテストにも、29校が参加してNゲージのモジュールを持ち寄ることになりました。今年のコンテストには、母校の大森学園高等学校鉄道研究部が初参加をすることになり、8月18日に出展作品の準備状況を見に行きました。

 全国高等学校鉄道模型コンテスト参加校

大森学園高等学校鉄道研究部
8月18日に大森学園高等学校を訪れると、夏休みの16日から19日まで鉄道研究部員が20名近く集まり、出展作品の仕上げの追い込みの最中でした。大森学園高等学校の鉄道研究部のメンバーは20数名の構成だそうで、1年生が大半でメンバーには鉄子さんはおりませんでした。鉄道研究部の作業室は、3階の作業室が週3回ほど解放されて、活動を行っているとのことです。

 大森学園高校鉄道研究部(写真拡大)

18日に訪れると、学校の傍を運行している京浜急行のNゲージのモジュールボードを纏めており、隣接駅の梅屋敷駅をテーマとした作品を出展するようでした。

 出展作品完成への追い込み仕上げ作業

普通列車のみ停車の京浜急行の梅屋敷駅の特徴は、駅ホームの南北に隣接して踏切道が通っており、ホーム長が列車の4輌の長さしか無く、6輌編成の運行列車の場合横浜方面の2輌分の扉が開けられない、都内では珍しいドアカットの駅なのです。

 梅屋敷駅ドアカット(写真拡大)

現在、京浜急行は平和島と六郷土手駅間と、空港線の糀谷駅間の高架化工事が行われており、今年の5月16日には上り線のみの高架化運行がおこなわれており、下り線の高架化は2012年に完成の予定です。上下線の高架化が完成すると、梅屋敷駅のドアカットは見られなくなりますので、大森学園高校の梅屋敷駅のNゲージのモジュールボードは貴重な歴史的遺産の展示物となります。出展作品を見ると地元であるので、昔の梅屋敷駅をかなり忠実に再現して作成されています。

 梅屋敷駅のNゲージのモジュールボード(写真拡大)

鉄道模型コンテストが終わり展示物が戻ってきたら、整備して遺産的作品として永く保存展示することを望みます。

第2回全国高等学校鉄道模型コンテスト参加作品.wmv

[クリックすると電車が走行します]

ちなみに、梅屋敷駅は開業の1901年(明治34年)2月1日には第1京浜国道上にあったが、1923年(大正12年)4月1日には専用軌道となり、1945年昭和20年4月15日には世界大戦の大森町大空襲で焼失したので、バラック然駅舎がNゲージのモジュールボードの梅屋敷駅なのです。また、現在高架化工事が進展しており、梅屋敷駅周辺の商店街通りやホーム周辺の建物の立ち退き取壊しが行われており、出展作品が高架工事前の梅屋敷駅の姿を留めております。

 高架工事前の梅屋敷(写真拡大)

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大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第3回)

2010年08月17日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2010 大森町駅旧上り線ホーム取壊し工事  

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京急高架工事も夏休みを終えた8月17日には工事を再開し、下り線高架化工事に向けてスタートを切りましたので、各工区の工事現場を巡回してきました。今後は、これからの工事の進捗を追っていきます。

第1工区
第1工区の今後の作業予定を見ると、仮線高架橋工事と信号工事が昼夜間工事で行われ、大森町駅関連工事と管理用地整備工事が昼間工事で行われ、軌道撤去工事と通信工事が夜間に行われるようです。本線高架橋の工事は、まだ行われないようです。

 第1工区高架工事予定表(8-9月)(工事予定表の拡大表示) 

17日に大森町駅構内を見ると、大森町第1踏切側の南方の旧上り線ホームのホーム板が取外ずされました。

 旧上り線ホーム板の取外しが始まる(0817写真拡大)

また、ホーム屋根の取壊しおよびホーム下基礎部の撤去などの作業が行われていました。

 旧上り線ホームの取壊し準備が始まる(:旧上り線ホーム屋根の取壊し準備が始まる、:旧上り線ホーム基礎部の取壊し準備が始まる0817)

第2工区
同日梅屋敷駅構内を見ると、梅屋敷第1踏切側の南方の旧上り線ホームの取壊し準備の作業が行われていました。

 旧上り線ホームの取壊し準備の作業が始まる(0817写真拡大)

第3、4工区
同日京急蒲田駅構内を見ると、呑川上付近ではショベルカーを使用して旧上り線ホームの取壊し工事を行っており、同様に南方の旧上り線ホームでも大勢の作業員にて取壊しを進めていました。

 旧上り線ホーム取壊し工事(:北側旧上り線ホーム取壊し工事、:南側旧上り線ホーム取壊し工事0817)

第6工区
同日雑色駅構内を見ると、旧上り線ホームの取壊し工事を行っていましたが、夏休み前にはホーム北方の屋根柱部の取壊しがかなり進んでいました。

 旧上り線ホーム取壊し状況(:休み前にはホーム北方の屋根柱部の取壊しがかなり進む、:旧上り線ホーム取壊し現場)

第8工区
同日旧上り線ホームの取壊し工事が殆ど進んでいる糀谷駅構内を見ると、同日までは工事が休みで準備中でした。

 17日はホーム取壊し作業は休工(写真拡大)

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大森町界隈あれこれ 大森町の昔を古地図で探る 大森村絵図第2編第1回その1

2010年08月15日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2010 東都名所大森 歌川国芳 1832年(天保3年)

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明治初期の大森村
東海道
明治初期の大森村の絵図を見ると、道幅3間(5.4m)余りの東海道(「大森町界隈あれこれ 大森町風景 旧東海道(三原通り) その1」参照)が大森村の北端では海岸線に接して三原の北原を南に下り、人家の多い中原から南原を過ぎると内川にかかります。内川の内川橋の木橋を渡ると方向をやや西に傾け海岸線を離れ、大森山谷を過ぎると松並木の先は間(あい)の宿(「大森町の社寺 貴菅神社 東海道間(あい)の宿であった第1京浜国道際神社の夏祭り」参照)の谷戸で、その先は大森村の中央部で境界の北蒲田村となります。

内川
内川の川幅は2間(3.6m)余りで、大森村のほぼ中央を西から東へと流れ東海道付近で北に折れ、曲折して南原で再び流れを西に向けて三原に沿って海に排出します。内川の源流は、新井宿村から本流は北馬込付近の水源に達しており、他に2本の支流があり、1本は市野倉方面から、他の支流は池上方面の呑川から流れて(「大森町界隈あれこれ 内川風景 大森町を流れる昭和の面影 第2回」参照)きます。内川は海水が遡上するため塩分が強く、飲み水や稲作には適さなかったので、昭和の初期頃まで飲み水を売る「水売り」がいました。

 東京府武蔵国荏原郡大森村地図から昔の内川の流れを再現(再掲)

六郷用水
大森村一帯は、徳川幕府により江戸の穀倉地帯としての政策がとられたので、田んぼや畑の田園風景です。内川の水は塩分のため、田畑の灌漑用水には適しないため、徳川家康は江戸幕府の成立の前の1597年(慶長2年)に、多摩川左岸(大田)に六郷用水と、同右岸(川崎)に二ヶ領用水の開削工事を、徳川家家臣の小泉次大夫の監督により同時に行い1611年(慶長16年)に完成しました。来年2011年は、丁度六郷用水完成から400年(「大森町界隈あれこれ 六郷用水完成400年 「下袋村と六郷用水」水上写真展」参照)となります。
六郷用水は、六郷領から10数キロ上流の泉村(狛江市元泉2-8)に多摩川の取水口を設け、下流に向け用水堀を開削し、武蔵野台地国分寺崖線に沿って世田谷領を通り、六郷領矢口村の南北引分(大田区千鳥3-8-2)に達します。ここから蒲田・羽田方面灌漑用の南堀と、下池上・大森・新井宿方面灌漑用の北堀の二手に分かれ用水堀が進み、それぞれの堀から支流の内堀により配水されます。
大森村絵図では、大森村の末端の用水内堀の配水構成と内川または海への廃水の様子が手に取る様に見えます。先ずは青色で示す様に、大森村での用水内堀の配水の張り巡らし方が詳細に示されております。また、灌漑で使用した廃水用の川幅1間(1.8m)余りの堀川が大森村の北側境界を東に向け掘られ、東海道の近くの不入斗村の張り出し部境界で南に向きを変え、内川に放流するという設計が克明に示されています。
前回のその3で記載のように、1872~74年(明治初年)の「東京府志料」によると、大森村の戸数は1261戸、人口7541人で、田地が104町3反5畝20歩で、畑地が77町2反2畝11歩であり、六郷用水の農業用水利用の最盛期は明治末期でした。

 大森村絵図から内川、六郷用水、海苔養殖を探る

大森海苔養殖
大森の海苔が採れはじめたのは何時ごろかは定かでないが、鎌倉時代には採集し食用に供していたものと云われています。当時の海苔は今の様に干しあげたものではなく、生の海苔が波除の麁朶や石に付着したものを採って来て食用に供したものではないかと思われます。それを進歩させて、若芽のように乾したり、筵の上に広げて乾したりするようになり、やがて今日の紙の形になったのです。大森の堀の内の野口六郎左衛門が浅草の紙漉きを見て、海苔も紙漉きの様に加工して干すことにより、保存や販売するのに都合がよいと考え、今の様な乾し海苔を作りました。その子の二代目六郎左衛門が麁朶(そだ)を海中に建て、篊(ヒビ)と呼ぶ海苔採集方法を考案しました(大森区史から)。これにより、大森の海苔の生産は盛んになり、呑川沿岸や大森村の海岸線での冬の海苔干し風景は大森の風物詩ですが、1964年に大森の海苔の生産は終焉しました。

 大森村の冬の風物詩海苔干し(左:森ヶ埼海苔干場 日本画 安西啓明、右:昭和大東京百図絵版画 大森海苔乾し 小泉癸巳男 大田区海苔物語から)

江戸時代の海苔養殖は、海岸の浅瀬に篊(ヒビ)と呼ぶ麁朶(そだ)木を建て、そこに海水に浮遊の海苔の胞子を付着させ、葉状に成長するのを待ち育成し、多量に生育・採取する方法が品川・大森の海苔養殖の発祥(「大森町界隈あれこれ 大森海苔物語 のり祭り」参照)で、「品川宿書上」[1843年(天保14年)]や「嬉遊笑覧」[1830年(文政13年)]に見られ、ヒビを用いた海苔の養殖は1716~36年(享保年間)には本格したと見られています。

 ヒビ建てとヒビの海苔採り(左:海苔養殖のヒビ建て[昭和初期頃まで]、右:ヒビの海苔採り 大森では手入れと呼び、明治期では12月上旬でした 大田区海苔物語から)

海苔養殖は幕府の許可を得た村のみで、品川宿の海晏寺門前・品川寺門前・南品川宿・品川漁師町、大井村、不入斗村、大森村、糀谷村に限られていました。

 海苔の製造1(左:洗い笊で海苔を洗う、中:海苔を刻む、右:海苔付け 大田区海苔物語から)

品川・大森の海苔養殖は、当初には海辺の農村の冬期の副業として開始されたが、その後効率的な農閑余業として価値を高めていき、農漁村の海苔生産に携わった割合は1838年(天保9年)には大森村では42.3%の383戸が、大井村では34.3%の188戸で、専業漁村の品川漁師町では72.6%の82戸が海苔魚業に関与しました。

 海苔の製造2(:東海道名所図会 竹原春斉他画、:海苔簾の裏から乾し具合を見て表へ返す、:海苔はがし 大田区海苔物語から)

江戸前の海産物の干し海苔は御膳海苔と呼ばれ、将軍家やその菩提寺の寛永寺、紀伊・尾張・水戸の徳川御三家に上納され、当初の御膳海苔の供給地は品川宿と大井村であったが、1833年(天保4年)からの無償提供になってから、天保7年の上納では大森村が38石を負担し、品川側が12石を賄うことになり、近隣村からの漁場の拡大や配置換えの申請に対して、御膳海苔に悪影響を被るとして阻止理由の大義名分としたようです。
1868年(明治元年)に江戸幕府から明治政府へと献上先が変わっても、海苔漁業に従事出来たのは、江戸期からの品川宿、大井村、不入斗村、大森村、糀谷村の5地区だけでありました。この秩序が破られたのは大森村が明治政府に5000両を提供し、新たに2万7500坪の漁場を獲得したのが契機となり、さらに、これまで永らく海苔漁業の枠外に置かれた羽田地区に対して着業の申請を促して、羽田の進出に異を唱えなかったので、1874年(明治6年)に羽田村は1万2500坪の追加認可を受けられました。これにより、大森村は羽田村より8000坪の行使権を得て、周辺地区の業者の容認と引き換えに、漁場の拡大策に転じました。(大田区海苔物語 大田区郷土博物館平成5年発行から)

 海苔漁場の変遷(大田区海苔物語から)  

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大森町の社寺 磐井神社 古記に伝わる敏達天皇の二年に鎮座した大森で最も古い磐井神社の夏祭り

2010年08月11日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
kan-haru blog 2010 八幡通りの渡御神輿

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鈴ヶ森に近い磐井神社
大森町北端の第1京浜国道際にある磐井神社(大田区大森北2-20-8)の創立は849年(嘉祥2年)と云われ、大森町では歴史の大変古い神社(「大森町の社寺 磐井神社 大森町北端にある鈴石伝説の磐井神社夏祭り その1、2」2007参照)です。
昔の大森の不入斗村(いりやまずむら)にある磐井神社の別称を、鈴石伝説から鈴ヶ森八幡宮と呼び、地理的には隣接の品川区大井村の処刑場付近一体も含めて、鈴ヶ森と称したものと思われます。

 大戦では戦火を受けた樹齢300年以上のいちょう(写真拡大)

磐井神社には境内に樹齢が300年以上の2本の大いちょうがあり、上記ブログに記載してあるように、1本のいちょうには1945年4月15日の空襲による被害の黒焦げのあとがあり、このいちょうにも長い歴史のなかで大戦の傷跡を受けましたが、戦後65年を経過して傷跡も多少癒れて薄くなった感じがします。実はいちょうの記事を再録したのは、今まで気が付きませんでしたが例祭を見に行った際、本殿の南側に1906年(明治39年)11月の日露戦争凱旋記念に植樹した樹齢100年を超すいちょうの木と記念碑を見かけました。大いちょうとは樹齢がかけはなれていますが、磐井神社には3本のいちょうの古木の他にシイ・ケヤキなどの古木があり大田区の保護樹林に指定されており、大森町の殆どの神社では古木や樹木が見られないのに対して唯一貴重な存在です。

 日露戦争凱旋記念植樹の樹齢100年を越えたいちょう(写真拡大)

磐井神社例大祭
前回記述時のブログの例祭は影祭りでしたが、今年の8月6~8日の例大祭は本祭りにあたり、町会神輿の連合渡御が行われるので8日の午後見に行き、例祭の行われている磐井神社に参拝してから、神輿の連合渡御を追いかけました。

 磐井神社例大祭2010(写真拡大)

連合渡御神輿
向睦、根岸睦、仲ノ町睦、八幡睦、入三東町会、入二北町会、北六南町会の7つの睦みの連合渡御神輿は、13時過ぎに平和島商店街に集結して出発です。渡御のコースは平和島商店街を西に進み、入三銀座商店街を通り、進路を北に向けハローワーク前を抜けて大森ミルパアーケード街から東に進み、八幡通りに接した森っこ広場まえが神輿の担ぎ手と見物人の盛り上げるポイントです。休息には、八幡通りを神社へ向かって渡御して、渡御後には各町会の神酒所に戻ります。
本祭りの連合渡御神輿を見るのは初めてですので、神社を出て八幡通りを西に進み、森っこ広場に向かうと渡御の先頭の神輿と神官、役員の方々が休憩を取っていましたので、大森ミルパアーケード街を西に進むと、最後の渡御神輿がおおとり神社前に到着したところで、神輿の担ぎ手と見物者が盛り上がっていました。

 ミルパアーケードの連合渡御神輿(写真拡大)

ミルパアーケード街で休息中の各町会の渡御神輿を見て回りました。

 ミルパアーケード街での連合渡御神輿(左上中上右上左下中下右下写真拡大)

休憩後、天狗を先頭に神社太鼓を打ち鳴らし、神官、役員、高張り提灯、お囃子車と続き、連合渡御神輿が八幡通りを城南担ぎで神社へと向かいます。

磐井神社例大祭連合渡御神輿2.wmv

[クリックすると例大祭連合渡御神輿が見られます]

神輿の城南担ぎは、品川区から大田区の一部での担ぎ方で、神輿の胴に神楽で使う大拍子(桶胴の締め太鼓) が括り付けられ、この締め太鼓と篠笛に合わせて担ぎます。磐井神社の大拍子が前向に付いており、篠笛の吹き手は交代で一人で吹きます。神輿の担ぎ手に気合が入ってくると激しく体を揺するのが特徴です。

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大森町界隈あれこれ 大蒲田祭2010 熱気の歩行者天国でおおた打ち水大会の「打ち水」で気温が下る

2010年08月09日 | 大森町界隈あれこれ イベント
kan-haru blog 2010 おおた打ち水大会

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京浜急行蒲田駅南方の京急蒲田第3踏切道の旧多摩川堤通りに面してある蒲田八幡神社(「風景・風物誌 京急高架化沿線の春 5月開通の上り線高架橋沿線の桜を歩く(蒲田八幡神社)第1回」参照)は、8月7、8日は例大祭で神社神輿が、蒲田氏子青年会担当のもと氏子地域9町会を練り歩きます。午後4時からは、大蒲田祭2010を開催中のJR蒲田東口駅前通りを、町会の神輿と共に蒲田駅前通りを連合渡御します。

大蒲田祭2010
蒲田八幡神社の例祭に合わせて同6~8日はJR蒲田東口駅前大通りで、大蒲田祭2010が開催されます。大蒲田祭は、蒲田東口町会、蒲田東口商店街商業協同組合、蒲田飲料組合第4支部の主催で、三水会・三水睦、東寿会、蒲田警察署、蒲田消防署、大田区の協力により開催され、8日の日曜日には午前12時から午後6時までJR蒲田東口駅前大通り(歩行者天国)に特設ステージが設けられ、大道芸、荏原流れ太鼓、フラダンス、くすのき連阿波踊りが披露された他、消防署はしご車、警察署白バイ、大田区起震車の体験試乗と記念撮影が行われました。

 大蒲田祭ポスター

また、午後2時半から、大田区では大蒲田祭の中のイベントとして「おおた打ち水大会」が開催されました。丁度、所用で蒲田にきましたので、おおた打ち水大会を見てきました。

 大蒲田祭2010(写真拡大)

おおた打ち水大会
おおた打ち水大会は、都会のヒートアイランド現象を少しでも緩和するため、昔ながらの「しぐさ」のひとつとして、「打ち水」が注目されていますので、大田区では区民の皆さんにも知っていただこうと、大蒲田祭主催者のみなさん、自治会・町会、商店街、消防署のご協力により開催したものです。

 おおた打ち水大会1(写真拡大)

午後2時30分過ぎ、松原大田区長、小山蒲田東地区自治会連合会会長の挨拶に続き、自治会・町会長、来賓が、手桶から水を撒きました。それに続いて蒲田消防署子供クラブの消火器放水による打ち水と小さな子どもたちのじょうろでの可愛いい打ち水や、「くすのき連」(大田区職員有志の阿波踊り連)の踊り手による涼しげな打ち水が行われました。熱かった路面も、打ち水効果で冷やされ、気温は3度下がりました。

おおた打ち水大会(大蒲田祭).wmv

[クリックすると打ち水の状況が見られます]

年々激しくなる猛暑に対して、大田区では冷房に頼りがちになりがちな現代生活ですが、昔ながらの知恵、「打ち水」を身近な生活に取り入れてはいかがでしょうかとの提案で、打ち水で地球温暖化対策として、打ち水を実施する団体の方(商店街や自治会、町会および区民活動団体、区内事業者等)に対して、手桶の無料貸出しを行っています。貸出用具は、打ち水用手桶(木桶)が最大15個までで、15日以内の期間借りられます(「大田区ホームページ・生活情報:住まい・まちなみ・環境 地球温暖化対策」参照)。

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イベント たからばこ展 新進気鋭のきむらはるかとたかはしかよこのメルヘンチックな2人展

2010年08月07日 | イベント
kan-haru blog 2010 イラストレーション作品

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たからばこ展
久しぶりに高橋さんからの「たからばこ展」の案内のダイレクトメールを頂きました。
前回の展示は、4年前に経堂のギャラリー カタカタで開催した、若き新進気鋭の陶芸家、木工製品手造家具・玩具の創作家とメルヘンチックな色鉛筆画のアート達が組んで、「ぬくもり三彩展」(「土と木とメルヘンな鉛筆画のぬくもり三彩展を鑑賞」参照)で、久しぶりの展示会開催の案内です。
今回は、高橋さんと新進気鋭ペーパークイリング創作家との女性2人による、心ときめく作品を展示するとの予告ですので期待して7月22日に見に行きました。

 たからばこ展ダイレクトメールのイラストレーション

Gallery A/N
会場のGallery A/N(中央区日本橋浜町2-545-5)は、新大橋通りの隅田川縁の浜町公園に並んであり、都営地下鉄・日比谷線の人形町駅から徒歩8分、半蔵門線の水天宮駅から徒歩6分、都営新宿線の浜町駅から徒歩2分の足回りが良い場所です。
Gallery A/ Nは間口が3mの奥行きが7m程の細長い展示スペースで、左側壁面には展示台が設置してあり、右側は全面が壁面で、突き当りは事務室と展示コーナー面のギャラリーです。

 たからばこ展案内状

2人展のきむらはるかさんはペーパークイリングの作品の展示で、幅3mmの細長い紙で作る芸術作品で、その創造性は無限大です。ペーパークイリング作品は左側壁面の展示台上と右側壁面前に置かれた小型テーブル上に展示されていました。ペーパークイリングとは歴史が古く、エジプトが発祥と云われ、イタリアやフランスの修道院で芸術性が高められイギリスに渡り、数百年以上前に英国王室貴族間で愛された伝統の技だそうです。

 左側壁面のたからばこ展示作品(写真拡大)

また、たかはしかよこさんはイラストレーション作品展示で、文字では表すことのできないものを、沢山のメルヘンチックな絵で表現していました。今回の作品は、AからZまで26種類のアルファベットの文字のモチーフを入れたイラストレーションをテーマとした作品が展示されていました。

 イラストレーション作品展示(写真拡大)

今回の2人展では、イラストレーションにペーパークイリングを入れ込んだ共同作品も見られ、新しいジャンルです。

 ペーパークイリングとイラストレーション作品(写真拡大)

また、突き当りのコーナーには、透明のタンブラー内部に似顔絵のイラストレーションを入れた作品も展示されていました。

 似顔絵タンブラー(写真拡大)

今回も記念にと、テレビ画面の前に置ける小型のイラストレーション展示作品を購入して、本日届きました。伺うところによると、展示作品の嫁入りも多く、中には同一作品で複数の希望もあるとかと聞いています。

 記念に購入したイラストレーション(写真拡大)

高橋さん、メルヘンチックな礼状を有難うございます。

 メルヘンチックな礼状

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イベント 押上でスカイツリーを見て 和食料理で異業種交流会H11メトロの暑気払い

2010年08月05日 | イベント
kan-haru blog 2010 高さが400m越えたスカイツリー

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H11メトロの暑気払い
異業種交流会H11メトロは、地方独立行政法人東京都立産業技術研究センターが異業種交流事業として募集した、東京都異業種交流会グループの中の平成11年に発足したグループの一つで、毎月例会を開催しており7または8月には暑気払いを行っております。
今年は、建設が進むスカイツリーを見て暑気払いをするとの趣向で、押上の「和食なおよし」で、冷房の効いたお座敷で飲み放題のビール、日本酒、焼酎などを傾けながらコース料理を頂きました。

 スカイツリー工事現場と暑気払い会場の押上周辺地図

スカイツリー見学
暑気払いの席は午後6時半からの予約で、それまで各自で自由にスカイツリーの建設進行状況を眺めることで、押上駅周辺からスカイツリーの姿を写真に収めました。
スカイツリーは、既に東京タワーの高さを越えた今年の5月6日に、第1回目の見学を業平橋駅周辺で368mの高さのスカイツリーを見て(「風景・風物詩 東京スカイツリー 江戸文化の残る隅田川・荒川界隈に高さ世界一の自立式電波塔が建つ」参照)おります。
また、同7月1日には、第1展望台の枠組み組立の終わった、高さ389mのスカイツリーを、隅田川の桜橋上から2回目の見学をしています。

 桜橋からのスカイツリー眺望(0701写真拡大)

今回の暑気払いでは3回目のスカイツリーで、高さが408mとなりツリーの東側からの眺望ですが、スカイツリーの構造上前2回の西側および西北側からの眺めと殆ど変りません。今回のツリーの撮影場所は、押上駅のA3口に下車して、東武伊勢崎線北側の線路際道路上が最初撮影場所です。

 押上周辺からのスカイツリー眺望1(0804写真拡大)

次に同線の踏切を渡り踏切の先の道路を押上駅方向に進むとスカイツリーの撮影場所がありましたのでここでも撮影し、最後に暑気払いのお店前の通りで撮影しました。

 押上周辺からのスカイツリー眺望2(0804写真拡大)

和食なおよし
暑気払いの和食なおよし(墨田区押上1-19-12)は関口ビルの1Fで、スカイツリーの撮影した踏切を進むと、浅草通りから分岐した京成曳舟方面に進む通りに出るので、そこの押上1丁目の信号を渡り東に進むとすぐの交差点の角がお店の入っている関口ビルであり、押上駅からは徒歩2分のところです。暑気払いの日には、同ビルの1階は改修工事を行っていましたので、一寸わかりにくくなっていました。

 暑気払い会場「和食なおよし」(写真拡大)

お店の造りはまだ新しく、1階は15席ほどのテーブル席のお馴染み客向けで、中央にシャンデリアの照明のある半分吹き抜けの宴会の席は2階で、螺旋階段を上がり座卓が置かれた畳席です。
暑気払いは、先ずは飲み放題のヱビスビールで乾杯して、暫くは今年の猛暑を凌いでビールで冷えるまで歓談です。料理は2時間コースの季節料理で、前菜、肉料理、お造り、揚げ物、煮物などで、各人思い思いに日本酒、焼酎などを注文して宴席が盛り上がりました。最後は、大鍋で炊き込んだ松茸と帆立ご飯での仕上げです。

 暑気払い歓談会場風景

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大森町界隈あれこれ 六郷用水完成400年 「下袋村と六郷用水」水上写真展

2010年08月03日 | 大森町界隈あれこれ イベント
kan-haru blog 2010 八幡橋工事現場鋼桁梁上の水上写真展会場

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六郷用水開削400年
ブログの「大森町の昔を古地図で探る 大森村絵図」(「大森町界隈あれこれ 大森町の昔を古地図で探る 大森村絵図その1~4」参照)を見ると、明治初年頃の大森村は田んぼと畑で、大森・蒲田の低地部は米蔵です。これは徳川家康が江戸幕府の基盤充実を図るため、多摩川下流域の低地平野部の農地化を図り、六郷用水を引いて灌漑して田畑を開発したものです。
六郷用水は、江戸幕府が開かれる6年前の1597年(慶長2年)に、川崎側の二ヶ領用水(にかりょうようすい)と共に並行して測量・工事が始まり、2011年が六郷用水開削400年に当たります。江戸から東京に遷都して明治時代に入り、水田を潤す灌漑の六郷用水の利用は増加の一途を辿り、農業用水の最盛期は明治末期で、大森・蒲田では近世最大の生産施設でした。
六郷用水の工事を指揮した小泉次大夫(こいずみじだゆう)は、用水完成の功績により、蒲田の下袋村(したぶくろむら 現在の北糀谷)周辺の領地を賜りました。

 明治時代の大森・蒲田地区は一面の田んぼ

六郷用水ゆかりの昔の下袋村の北側の旧呑み川の対岸が、大森村です。現在の新呑み川は、子安八幡神社の南側に接して新設されており、そこに架設されている八幡橋の架け替え工事が開始されています。小泉次大夫の子孫の墓は、今も子安八幡神社裏側の廃寺となった円龍寺跡に残っており、神社にもゆかりの鳥居(現在移動して保存中)や扁額が伝えられています。
そこで、六郷用水完成400年を記念して、八幡橋の架け替え工事現場と子安八幡神社境内で、「下袋村と六郷用水」水上写真展が「六郷用水の会」と「大田区郷土博物館・水路の会」および五洋・永光・市石建設工事共同企業体などの共催で、7月26日から30日まで開催されましたので、30日に見に行きました。

 六郷用水完成400年写真展ポスター

「下袋村と六郷用水」写真展示会場
写真展示会場へは、京急バスの大森駅発羽田空港行き(森21)または蒲田発森が先行き(蒲36)に乗車して仲糀谷で下車し、産業通りを南下して呑み川沿いで右折して八幡橋の架け替え工事の現場には徒歩2分です。

 写真展示会場地図

産業道路から呑川北岸に沿って西に進むと八幡橋の架け替え工事現場です。既に古い橋は撤去され、基礎工事鋼鉄桁が造られており、八幡神社の大田区で最も古い鳥居は保護のため、取り除かれて保安場所に移動してあります。

 写真展開催の八幡橋工事現場と八幡神社(:八幡橋架け替え工事現場、:保全のため鳥居が外された八幡神社0730)

・子安八幡神社
子安八幡神社(大田区北糀谷 1-22-10)は、祭神は応神天皇で、1394年から1428年(応永年間)に、鎌倉八幡を勧請したのに始まるといわれています。新大田区百景に描かれている石造明神型の鳥居(区指定文化財)は、柱間21メートルで安永3年(1774年)に奉納されたもので、区内最古のものであります。最古の現物の鳥居を見ることができませんので、大田区百景に描かれている風景より雰囲気を掴んでみます。

 新大田区百景子安八幡神社 安西東作(大田区ホームページから)

子安八幡神社内の末社の諏訪社参道にある狛犬は、奉納が1911年(明治44年)であり、左右とも同一の阿像の先代の狛犬です。本殿の前の狛犬は、1963年(昭和38年)の昭和の狛犬です。

 子安八幡神社(:諏訪社[左]、末社と本殿、:八幡神社本殿)

・八幡神社境内展示写真
展示会の写真は、徳川家康の関東領国支配の先駆けとして、400年の歴史を秘める経済の礎となった灌漑水路の六郷用水の歴史的・今日的意義を伝えたいとの趣旨で、八幡神社境内と架け替え工事中の八幡橋上の防護フェンスの会場に、六郷用水の姿と用水跡の散策路を対比した、100枚以上の大型サイズの写真を屋外に展示してあります。

 八幡神社境内会場(写真拡大)

先ず、八幡神社境内展示写真から見ると、六郷用水の撮影ポイントの説明図と世田谷付近の大正・昭和時代の六郷用水の新旧対比写真が見られました。

 昭和・大正時代の世田谷付近の六郷用水(:六郷用水の撮影ポイント図、:世田谷等々力付近[昭和初期]、:世田谷鎌田付近[大正時代])

・八幡橋上の防護フェンス会場
防護フェンス会場は、呑川上の八幡橋架け替え工事現場の鋼桁梁の仮通行路で、クレーンが始動すると会場全体が振動するという環境で、今年は酷暑で日陰がありませんので普通では体験ができない屋外の会場でしたが、幸い30日には薄曇りで川風に吹かれてわりに涼しく見学ができました。

 八幡橋工事現場鋼桁梁上の水上写真展会場(写真拡大)

写真展示会場では、毎日午前11時と午後3時には説明者の三橋氏が資料を配布して、展示写真の説明を行っていました。丁度11時の説明の時間でしたので、写真を見ながら詳しい説明を聞くことにより、六郷用水の全般についての理解ができました。

 水上写真展会場で三橋氏の説明を聞く参加者(写真拡大)

防護フェンス会場では、蒲田周辺の六郷用水の新旧対比写真が見られました。なお、配布された資料は、六郷用水ミニノート 大田区立郷土博物館編集・製作2006年3月でした。

 各年代の六郷用水風景(:下丸子[昭和6年]、:稗田神社付近[明治42年]、:鵜の木1-5[昭和23年頃])

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番外編カテゴリー別ブログ記事の検索と見方 8月INDEX

2010年08月01日 | INDEX
kan-haru blog 2010 8月1日24版

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K&A kan-haruの日記の月間INDEXは、毎月1日付けで掲載しており前月の登録記事の即時検索のほか、カテゴリー別の登録記事の全て(2006年3月から最新登録まで)の検索ができます。
また、京浜急行の高架化の駅別工区をキーとした、大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 サブ・カテゴリー別目次を新設しました。

[K&A kan-haru 日記の見方について]
ブログ左覧のガイド板「カテゴリー」には、kan-haru日記のカテゴリー名とカテゴリー毎の記事登録数が掲載されております。
カテゴリー名の「ようこそ kan-haru日記へ」欄内には、次に示す日記の総合目次と日記を見るためのガイダンスが掲載してあります。
総合目次は、この月間INDEXと統合しており、同一のカテゴリー別目次を併用しております。
「ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について」は、この日記を見るためのガイダンスを記載してあります。日記の見方について (その1)の解説には、カテゴリー別の概要説明と共に、カテゴリー項目からは当該カテゴリーの第1回登録記事から最終・最新の登録までの全ての記事の索引が行えるようにカテゴリー別INDEXと結合してあります。
kan-haru日記 カテゴリー別総合目次(全日記INDEX)
ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その1)  2007年1月30日 更新
ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その2)  2007年1月22日更新
・ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その3) (未完)

[ブックマーク からカテゴリー別目次を見る]
ブログ左覧のガイド板の「ブックマーク」に、カテゴリー別目次を登録しました。カテゴリーを選択するとカテゴリー別の目次が見られます。
閲覧日記と同一のカテゴリーの目次は、記載日記最後尾のカテゴリー別Indexから見られます。

[閲覧日記のページから総合目次を見るには]
ブログ左覧のガイド板「ブックマーク」の[kan-haru日記 総合目次]を指定すると、「ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について」内のカテゴリー別総合目次を参照できます。
各閲覧日記の先頭または後尾に記載の"< 総合INDEX へ" からも最新の目次が見られます。

[ブログ記事内の参照地図・写真などを拡大して見るには]
次の2006年3月月間INDEXに方法が記載してありますので、参照して下さい。
番外編 ブログ記事の参照地図を拡大して見る方法 [付 kan-haruの日記3月月間INDEX] 2006年4月1日

  大森町界隈あれこれ カテゴリー別目次
■印覧の10年7月掲載項目以外の目次は、下記の項番に付記された下線付きのカテゴリー項目を選択すると、当該カテゴリーの掲載当初から現在日時点までの目次が見られます。

 1 大森町界隈あれこれ 大森町に住んで65年!
 2 大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記 総目次
  2-1 大森町界隈あれこれ 鎮魂! 大森町大空襲 (第1編)
      付 東京大空襲 ~あれから61年~
  2-2 大森町界隈あれこれ 手記第2編 戦災日誌中野編
  2-3 大森町界隈あれこれ 手記第3編 戦前戦後目黒にて
 3 大森町界隈あれこれ 戦後編若山武義氏手記 総目次
  3-1 大森町界隈あれこれ 戦後史編手記 第1~4編総目次
 4 大森町界隈あれこれ 大森町の社寺
 5 大森町界隈あれこれ 大森町商店街
 6 大森町界隈あれこれ 大森海苔
 7 大森町界隈あれこれ 京浜急行関連
  ◇ 2006・2007年版2008年前期版2008年中期版2008年後期版2009年前期版2009年中期版2009年中Ⅱ期版2009年後期版2010年前期版2010年前Ⅱ期版2010年中期版
 8 大森町界隈あれこれ 大森町風景
 9 大森町界隈あれこれ イベント  
 ■ 大森町界隈あれこれ 夏のイベント 大森町商店街サマーフェスティバル2010 7月26日 
 ■ 大森町界隈あれこれ ニュース 大森町周辺の夏のイベント 7月29日
10 大森町界隈あれこれ 大森町学びや
 
  大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 サブ・カテゴリー別目次

11 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 Sub INDEX
  ◇ 関連側道高架化全工区下り線工事2010年版全工区統合2009年版全工区統合2010年版大森町付近工区2006・2007年版大森町付近工区2008年版大森町付近工区2009年版梅屋敷付近工区京急蒲田付近工区2006~2008年版京急蒲田付近工区2009年版雑色付近工区糀谷付近工区
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第1回) 7月16日
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合下り線高架化工事編(第2回) 7月31日
  一般 カテゴリー別目次

21 風景・風物詩 総目次
  ◇ 2006・2007年版2007・2008年版2008~2010年版
 ■ 大森町界隈あれこれ 大森町の昔を古地図で探る 大森村絵図その1 7月12日
 ■ 大森町界隈あれこれ 大森町の昔を古地図で探る 大森村絵図その2 7月18日
 ■ 大森町界隈あれこれ 大森町の昔を古地図で探る 大森村絵図その3 7月21日
 ■ 大森町界隈あれこれ 大森町の昔を古地図で探る 大森村絵図その4 7月24日 
22 小さな旅 総目次
  ◇ 2006~2009年版2009・2010年版
 ■ 小さな旅 勝海舟 牛島で修行し赤坂・洗足池と移り、西郷と会見で江戸無血開城戦禍から救う その1 7月3日
 ■ 小さな旅 勝海舟 牛島で修行し赤坂・洗足池と移り、西郷と会見で江戸無血開城戦禍から救う その2 7月5日
23 旅ものがたり 総目次
24 秋葉原界隈 総目次
25 イベント 総目次
  ◇ 2006・2007年版2008年版2009年版
26 ITと技術 総目次
27 Weblog 総目次
 ■ Kan-haru日記へのご訪問有難うございます 本日からKan-haru日記を第2部に衣替えします 7月10日

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