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kan-haruの日記

旅ものがたり(2) 土湯温泉、二本松菊人形の一泊旅行(その3)

2006年10月31日 | 旅ものがたり
二本松菊人形
10月1日は、二本松菊人形の開催初日です。前日宿泊の土湯温泉を出発して、10時頃には菊人形展会場の臨時駐車場に到着しました。
二本松菊人形は、今年は第52回目の開催(ポスター)で、新二本松市誕生記念して10月1日から11月23日まで県立霞ヶ城公園で行われます。

霞ヶ城(Wikipedia)
室町時代の1341年(興国2年)に幕府より奥州探題に任ぜられた畠山高国が、地名を二本松と改称し、四代の畠山満泰が1414~ 1443年頃に、二本松城を築城し二本松氏と姓を改めました。140年を過ぎて1586年(天正14年)に伊達政宗の奥南制覇により落城しました。
1590年(天正18年)になると、豊臣秀吉に会津地方を没収され、二本松城は会津若松の支城となり、1600年(慶長5年)の徳川時代には、上杉、蒲生、加藤、丹羽氏らが二本松城代となり、丹羽長秀の孫光重は二本松藩の藩庁としての偉容を備えるため大改修を行い、本丸に石垣が積まれ、3重の天守が築かれました。改修にあたり、箕輪村(現在二本松市内)山王寺山の御神木を用いて楼門の建築を行い、『箕輪門』と命名しました。

1868年(慶応4年)の戊辰戦争までは、丹羽氏の居城となっていましたが、二本松藩は奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦い、大半が白河口に出向いている隙をつかれ、新政府軍が二本松城下に殺到し、手薄の攻城戦では「二本松少年隊」も動員されたが、僅か1日の戦闘において落城し、城の建物の多くを焼失し城主丹羽長国は米沢に逃亡しました。
1872年(明治5年)廃城となり残る建物も全て破却されました。
1982年(昭和57年)箕輪門と附櫓が復元さ、1993~95年(平成5~7年)にかけて本丸の修復、復元工事を行い、天守台や本丸石垣も整備され、県立霞ヶ城公園となりました。
二本松城は別名、霞ヶ城・白旗城と呼ばれ、春には桜が咲き誇り城山が霞につつまれたように見えたことから『霞ヶ城』と呼ばれるようになりました。

二本松菊人形
県立霞ヶ城公園は、霞ヶ城跡を公園にしたものです。
日本一の菊人形の会場は、第一会場から第三会場と滝の場面、池の場面に特別場面で構成されております。
菊人形の見学は、箕輪門の石垣沿いの石段を昇り正門潜ると菊人形の入り口です。道順に従い進むと、菊小屋が並んであり開園初日で開花ぐあいを懸念しておりましたが、早咲きの菊が花を開いておりました。

・第一会場
菊小屋の先がメインの第一会場であり、ここでは今年のNHKの大河ドラマ「功名が辻」をテーマとした12場面の菊人形で、山之内伊右衛門一豊と嫁いできた千代との激動の戦国時代を駆け抜けた物語を凛々しい菊人形が表現しておりました。
[菊人形12場面]

醍醐の花見
土佐24万石拝領、②放浪の身、③新妻、④桶狭間の戦い、⑤長篠の戦い、⑥本能寺の変、⑦清洲会議、⑧長浜城主となる、⑨千代の小袖、⑩醍醐の花見、⑪小山評定、⑫関が原の戦い

・滝の場面
第一会場を出ると、すぐ菊人形の五重塔ですが、残念ながらまだ屋根には菊が整えられておりませんでした。先に進むと、滝の場面には「七福神の宝船」がありました。ここで、記念撮影です。

・特別場面と第二会場
第二会場へは、やや急な坂を上って高台へと進みますが、坂道の途中に特別場面の「南総里見八犬伝」の菊人形があります。
なお、坂を進むと常設館の第二会場の日本昔ばなしと物産展が開いておりました。この高台からの二本松市の展望は素晴らしいもので、桜の木が沢山ありこの辺の花見の名所です。

・第三会場 
第二会場からの下りは、坂道と並行した石段を降りきりますと第三会場です。第三会場は芝居小屋で、13段返しの「智恵子抄」を公演しておりました。

・池の場面と洗心亭
第一会場内から池の場面の「金閣寺」は見えたのですが、池の対面に木造カヤ葺きの茶亭が見えました。折角霞ヶ城公園を訪れたので、菊人形会場外の池と茶亭の見学をしてきました。途中で、金閣寺古木、滝などが見られて、霞ヶ城公園の一端に触れられました。
茶亭は、「洗心亭」(説明板)で城跡内に残る唯一の江戸期の寄棟平屋造りの建造物で、当時は「墨絵の御茶屋」と呼ばれ、光重公がこよなく愛したと云われております。ここで、お点前のお茶をあじわい、再び菊人形会場へと急坂を下り二本松菊人形を後にしました。

アサヒビール福島工場
二本松市を後にして国道4号線で帰路につき、30分ほどでアサヒビール福島工場がありましたので、見学と出来立てのビールを試飲してから、往路で合流の新幹線那須塩原駅まで送ってもらいお別れして、土湯、二本松菊人形の旅を終えました。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(9月分掲載Indexへ)
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旅ものがたり(2) 土湯温泉、二本松菊人形の一泊旅行(その2)

2006年10月29日 | 旅ものがたり
露天桶風呂
宿泊の土湯温泉山水荘(福島県福島市土湯温泉町字油畑55 地図参照)は、平成9年7月にリニューアルオープンした土湯温泉郷の奥に位置した荒川の畔りにあり、「湯づくし」の宿です。
土湯温泉は、1400年の歴史ある聖徳太子ゆかりの湯です。温泉宿泊の楽しみは、何と言ってもお風呂と食事です。



土湯温泉山水荘の温泉
先ずは、部屋係りからお風呂の案内を聞くと、1階には24時間入浴可能な大浴場のつれずれの湯とたまゆらの湯があります。3階には滝の音を聞きながら楽しむ露天風呂の太子の湯があり、木の桶風呂もあります。6階には大浴場の二階建ての展望の良い淵の湯と滝の湯があり、それぞれには露天桶風呂があるとのことです。その他に、5つの貸切風呂もありますが、旅行会で来た温泉には、大浴場で心いくまで温泉に浸るのが温泉三昧を味わえます。
これだけ施設のある温泉は珍しく、山水荘は温泉が売りの旅館であることでうれしくなりました。

山水荘の温泉は、源泉より60℃の状態で、毎分180リットルという豊富な湯量で引き込んでおり、その温泉に自然の湧水を加水し、入浴しやすい温度に調整して入浴する、源泉かけ流しの単純温泉です。
何と言っても温泉は、湯量が豊富な源泉かけ流しが最高です。温泉の入浴の感じは、透明で無臭であっさりとして物足りなさを感じましたが、豊富な湯量のかけ流し温泉に浸っているとさすがの味わいがあります。

温泉の入浴は、先ずは旅館到着後に1階の大浴場をゆったりと浴び、お楽しみの夕食事後と朝目覚め後には6階の男女時間別交代の滝の湯と淵の湯のそれぞれを入浴して堪能しました。
夕食後に入った二回目の6階の滝の湯は、山景と滝を眺めながら楽しめるゆったりとした大浴場ですが、夜景の景色は山の温泉ならではのもので、かけ流し温泉でたっぷりとくつろぎました。
朝起き掛けに入った淵の湯は二階建てに出来ており、両階には深湯、朝湯、みはらしの湯があり、広い浴室から見る窓いっぱいの初秋の山と二段の滝を眼下に眺めての温泉気分は、日本でのみ味わえる最高のひと時でした。
ライトアップされた庭園の眺めの良い、山水荘が売りの3階の風望天流太子の湯の露天風呂は、残念ながら利用時間の19時から23時までが女性専用時間帯のため入浴ができませんでした。

3階の風望天流太子の湯の露天風呂

土湯温泉山水荘での食事と団欒
食事は、寝室とは別に準備された一階下の部屋に運ばれて、全員で団欒のなか楽しくご馳走を味わいました。食事を運んでくれた係りの娘さんの姓が、兄弟会の姓と同一なのが偶然で、食事前の雰囲気が楽しいものとなりました。
食事「長月お献立(平成18年9月)」には、鍋盛り、造り、焼き物、蓋物、揚物などの料理が豪華に15品と並び、年代的には食事の量の多さを感じましたが、皆でビールやお酒で団欒しながらの宴会のため、カロリーの過多を感じながらも楽しい食事で殆ど残さずに食しました。


楽しい食事の後の男性の部屋では、兄弟の囲碁大会で熱戦が繰り広げられ、秋の夜長を過ごしました。

朝食は、最近のお定まりであるバイキング形式で、和・洋・中華の料理の中から好みのものを選び、デザートで食事を済ませましたが、バイキング形式ですと何でもおいしそうに見え、何時でも少し多めに持ってきてしまい、朝からカロリー過多のようです。

二日目の二本松菊人形への行程
朝食を済ませ二日目の行程は、来る時に見た二本松の菊人形と決まり、山水荘の玄関で記念写真を撮り、9時頃2台の車に分乗して宿の女将さんなどに見送られながら出発しました。
土湯温泉から二本松へは、国道115号を通り前日寄った「道の駅つちゆ」へと辿りました。
昨日通過した「道の駅つちゆ」から、国道115号の土湯バイパスから延長約29Kmの磐梯吾妻スカイライン(地図再掲)を通り、国道70号を経てフルーツラインに入り、再び国道115号から土湯で一泊し、2日目の「道の駅つちゆ」までのコースにより、雄大な吾妻山麓と果物王国の果樹畑を見ながら完全に一周したことになります。

道の駅つちゆには、ちょっと立ち寄り採りたての茸などを自宅への土産として買い、そこからは昨日と逆行の道順でミドルラインの国道459号を南下し、岳温泉で左折し二本松市方向に向かいました。二本松市に入り東北自動車道の二本松ICの出口付近で、須賀川二本松線(国道355号)に入り、道路に面して多数立てられている二本松の菊人形への案内旗を頼りに、菊人形展の臨時駐車場へと向かいました。

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旅ものがたり(2) 土湯温泉、二本松菊人形の一泊旅行(その1)

2006年10月28日 | 旅ものがたり
兄弟会の旅行を8年振りに再開し、茨城県結城市から4人、茨城県下菅谷から2人と東京から2人の5人兄弟で同伴を含めて都合8人が参加して、9月30日から車2台に分乗、福島県奥座敷の土湯温泉に一泊旅行しました。

土湯温泉までのドライブ旅行
大森町からは、新幹線の那須塩原で待ち合わせて車に同乗させて貰う楽な旅でした。那須塩原着が12時40分で、駅周辺には昼食をとるようなところが見当たらないため、東北自動車道に入り那須サービスエリアで腹ごしらえをして、一路福島を目指して郡山を過ぎると間もなく二本松ICで高速道路をおりました。二本松市にはいると、10月1日から菊人形展を開催する広告が目に付き、日本一を称する菊人形を見てみたいと思いました。

二本松から土湯への道は、国道459号線を安達太良山目指して高度を上げ、岳温泉近くで県道30号と合流したモミジラインを左に安達太良山を見て北上すると、国道115号と合流したところが「道の駅つちゆ」(地図参照)です。ここからは、土湯温泉までは目と鼻の先ですが、15時を少し廻ったばかりですので、磐梯吾妻スカイラインを巡っても1時間半ほどであるとのことで、遠回りして吾妻山麓のスカイラインのドライブを楽しみました。
土湯温泉の旅行のお陰で、1カ月のうちに磐梯吾妻スカイラインのドライブと、9月4日の乗鞍スカイライン(「旅ものがたり おわら風の盆と上高地(その3)」参照)の日本二大スカイラインのドライブを楽しめました。

磐梯吾妻スカイライン
「道の駅つちゆ」から磐梯吾妻スカイラインへ(地図参照)は、国道115号の土湯バイパスを西進し、途中で旧道の国道30号に入りしばらく行くと、8年ほど前の最初に旅行して宿泊した野地温泉を左に見て進むと磐梯吾妻スカイラインの入り口に到着である。
スカイラインに入ると、相ノ峰付近で九十九折を急登し、高度が高くなるにつれ、まだ9月ですので多くはありませんが、ところどころ樹木にうっすらと色づきはじめておりました。後2週間ほどで、紅葉の季節です。

鳥子平、浄土平では右に吾妻小富士を、左に蓬莱山が見えるこのあたりは、当にスカイライン一番の風景であります。(スカイライアン風景1風景2風景3風景4)
吾妻小富士を過ぎると左手にちらりと五色沼が見え、賽河原を過ぎると、九十九折の急な下りにかかります。急坂道が終わると、磐梯吾妻スカイラインの出口で、国道70号となります。途中、旅館玉子湯を通り、福島市にみちのく観光果樹園があり、フルーツラインの県道5号で右折し南下します。この辺は、我が国の果物の名産地で、桃、梨、葡萄、柿などの宝庫です。この時期、東京ではもう見られない桃が沢山売られていました。
暫くして、国道115号に突き当たり左折して進むと土湯温泉の入り口になり、今夜の宿泊の温泉です。

土湯温泉
土湯温泉は今回が初めてであり、温泉に着くまでのイメージは、名前からの印象もありひなびた辺鄙な温泉と思っておりました。しかし、温泉街の全景が見える橋の上を通過したときの光景は、全く予想していないものでした。イメージと異なりがっかりしたような気持ちと、さすが福島の奥座敷の温泉と聞いたこともあり、素晴らしい温泉に着いたとの思いとが交錯しました。
今晩の宿泊の旅館は、山水荘で温泉街を進みどん尻に近いところにありましたが、旅館の建物は土湯温泉で一番大きいようでした。とにかく、2組別行動の車は、殆ど同時に到着し17時を少し廻っていました。
先ずは、夕食まで少し時間がありますので、土湯温泉と山水荘を紹介します。



土湯とこけし

土湯温泉の歴史と伝統ある「土湯こけし」の無しでは語れない、と言っても過言ではないほど、こけしと深く長いつながりがあります。
土湯の温泉街を見下ろしながら、ゆるやかな石段を上がって行くと、聖徳太子をお奉りしている太子堂があります。太子堂よりさらに石段を上がっていくとこけし堂があります。土湯は日本三大こけしのひとつに数えられるこけしの里。始祖といわれる惟高親王と、薬師如来、土湯こけしが奉られています。

土湯の名前の由来は、一説として用明2年、病に倒れた聖徳太子の父、用明天皇の回復祈願と仏教布教のため東国に秦河勝が遣わされた。しかし、河勝は半身不随の病におかされ、良医良薬の効なく臥していたところ、ある夜、聖徳太子が夢枕に現れ「岩代国の突き湯に霊湯あり。そこで湯治せよ。」と説いたという。また、聖徳太子が奉られている太子堂が、土湯の名所として残っています。
また、別の一説には、神代の時代までさかのぼり、大穴貴命(おおあなむちのみこと)が陸奥の国に下がる時、ここに温泉があると荒川のほとりを鉾で突いた。すると、こんこんと湯が湧き、誰ともなしに「突き湯」と名がつけられ、それがやがて「土湯」と呼ばれるようになったとも云われております。

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イベント(7) 大森駅開業130周年(その3)

2006年10月24日 | イベント
大森駅開業130周年パネル展「記された大森駅」第2回
前回に続き、大森駅開業130周年パネル展「記された大森駅」展示出品から、大森駅と周辺の模様の変遷を見てみます。
大森駅周辺 小新井たけ作(出展:新大田区百景 大田区役所)

・大町桂月の八景園から蒲田梅園にかけての南郷の梅見紀行文に見る1906年頃の大森駅近辺の風景
大町桂月(1869-1925)本名芳衛は、高知出身の詩人、歌人、随筆家、評論家で、明治29年東大国文科卒業。「文芸倶楽部」、「太陽」などに随筆を書き美文家として知られ、韻文、紀行、評論、史伝、人生訓などの多彩な著書を残しました。
全国を旅して書いた紀行文も多く、「東京遊行記」は、東京とその近郊を散策した折に、行く先々の土地の情景を記述したもので、関東大震災や太平洋戦争、そして乱開発によって失われた土地の、元の姿をよみがえらせてくれます。



東京遊行記の「梅の名所 第四 南部の梅」では、1906年(明治39年)頃の紀行記の、大森駅に接した八景園の記述があり、「梅も数十百本あり水戸の常盤公園(現階楽園)を十分の一も小さくしたるものにて、さばかりの事はなけれど、田を隔てて品川湾を見渡す眺めは、常盤公園より千波沼を見下すぐらいの比には非ず。差引勘定、たいした優劣なく、これが此園の特色にして、他の梅園にその比を見ざる所也。」と梅園を紹介しております。
また、蒲田梅園(「大森町界隈あれこれ(N32) 大森町風景 梅屋敷公園」参照)の記述では、「海岸まで電車(「大森町界隈あれこれ(P31) 京急歴史(1) 大森海岸と大森間に電車が走る(その1) 」参照)、のりかへて、蒲田梅園の前にて下る。手の入った庭なり、池めぐり、樹老いて風致瀟洒、大に見ばえのある処也、梅を賞する者は、臥龍梅以外ここを一訪せざるべからず。」と梅園を紹介しております。

臥龍梅福岡県大牟田市宇今山普光寺(うこんざんふこうじ)境内にあり、樹齢400年で全長22mの八重咲きの紅梅であり、2月下旬~3月上旬に見頃となります。

・小説「魔術」から芥川龍之介が見た1920年(大正9年)頃の大森駅周辺の風景
芥川龍之介(1892-1927)は、東京市京橋区で新原敏三長男として生まれ、母は11歳の時亡くなり叔父芥川道章に預けられる。
東京府立第三中学校(現両国高校)、第一高等学校から東京帝国大学英文科に進学。
在学中の1914年に菊池寛、久米正雄らとともに同人誌『新思潮』を刊行、処女小説「老年」を発表し、1915年代表作「羅生門」を、1916年に発表した「鼻」が漱石に絶賛される。
芥川龍之介の作品は、主に短編小説を書き、多くの傑作を残した。しかし、その一方で長編を物する事は出来なかった。35歳で服毒自殺し、障害を終える。



小説「魔術」に出てくる、「ある時雨の降る晩のことです。私を乗せた人力車は、何度も大森界隈の険しい坂を宇上がったり下りたりして、やっと竹薮に囲まれた小さな西洋館の前に梶棒を下ろしました。」という場面は、大森駅西口改札傍の山王の高台から続く馬込文士村までの起伏にとんだ高台を描写しており、文士村の知り合いの室生犀星、北原白秋や萩原朔太郎を訪れる時に、大森駅前から人力車に乗ったのではと察せられます。地図で示す様に東海道線の大森駅前には、高台がそびえ急な石段を上ると天祖神社のある山王の高台で、起伏のある台地を西に進むと現在の環七通りが谷となり、その先がまた起伏のある高台となり、文士村で有名な馬込です。

・「東京大森海岸 ぼくの戦争」(小関智弘)の1945年(昭和20年)の大森大空襲で大森殲滅の記
小関智弘(1933年大森生まれ)、高校時代から文筆活動をして、卒業後大森・蒲田の町工場で働きながら、日本の戦後の町工場を見据えてルポや小説を著し、「羽田浦地図」、「祀る町」で芥川賞候補、「錆色の町」、「地の息」で直木賞候補となりました。

私と同年生まれの小関智弘氏が書き下ろした「東京大森海岸 ぼくの戦争」は、東京大空襲の記録資料で大森に関しての資料は大変少ない中で、戦時中軍需工場が集積した大森は空襲の標的になり、機銃掃射に遭い住居も全焼の被災者となった戦中、戦後を少年の目線で振り返り、体験を語り戦争が風化しつつあると懸念して、「戦争は戦場でだけ起こるのではなく、戦争を経験した人が『自分はこうだった』と声を上げることが必要だ」との思いで執筆したとあります(「大森町界隈あれこれ(14) 鎮魂!大森町大空襲(第7回) 」参照)。

「東京大森海岸 ぼくの戦争」の記述中に、「五月二十九日のこの空襲は、横浜や鶴見を集中的に爆撃したものであった。横浜、鶴見を爆撃してもなお余った焼夷弾を、旋回して東京湾上に出てゆく帰路の置き土産として落としていったものであった。」たり、この空襲で入新井の住居が戦災に合い、あたり一面の焼野原から大森駅の駅舎が見えたことの描写が書かれております。
大森の大空襲の壊滅的被害は、それより一月半ほど前の四月十五日の晩から翌朝にかけての大森町大空襲により、26万3千人が羅災にあったのです。戦災を示す図は、大森警察署付近の戦災の焼け跡で、遠くに見える大森町のガス会社のガスタンクまで、何も残らない焼け野原です。



このガスタンクは、大森町の住人にとっては川口のキュウポラのある街と同様にシンボルでした。疎開前の小学生であった頃、住居の二階の物干しから左側の露出のガスタンクは、朝ガスが満タンで、夕方にはガス残量が少なくなる様子を見ながら暮らしていた懐かしい写真なのです。
この、被害風景が、まさに完結した『若山武義の手記(1946年記述) 「戦災日誌(大森にて)第1~11回』の記述で、若山氏など住民が戦災遭遇した跡の記録写真そのものなのです。
若山武義の手記は、大森の他に『若山武義の手記(1946年記述)第2編「戦災日誌(中野にて)第1~7回』と『若山武義の手記(1946年記述) 第3編「終戦前後(目黒にて)第1~9回』があり、空襲編は完結しております。

現在、戦争を知らない世代が8割を超えました。また、北朝鮮では核実験を実施し、きな臭い世の中となってきました。悲惨で惨めな意味の無い戦争体験は、我々で終わりとして恒久平和の世界を願うために、是非無謀な戦争を起こさないように語りついて頂きたいと思います。

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イベント(7) 大森駅開業130周年(その2)

2006年10月22日 | イベント
大森駅開業130周年パネル展「記された大森駅」第1回
10月14日に大森東急イン通路で、大森駅開業130周年パネル展「記された大森駅」が展示されました。パネル展は、東京都大森貝塚保存会の企画で、大森駅開業から今日までの姿を、小説、絵や写真などで紹介しておりました。その展示物をみて、それらの背景の時代の大森駅に関する記録から、130年の歴史を浮き彫りして大森駅と周辺の模様の変遷を浮き出してみました。

・モースの大森貝塚発掘の日記から見た1897年頃の大森駅の模様
エドワード・S・モース(Edward Sylvester Morse、1838-1925)が、1877年(明治10年6月)に来日した時に、横浜から東京に向かう汽車の窓から貝塚を発見し、大森駅の近くにあったので大森貝塚と名付けられました。この貝塚が、日本考古学の発祥の地となりました。
しかし、大森駅は大森村にあるのではなく、新井宿村にありましたが、なぜ大森駅と名付けられたのかは理由がよく分かっておりません。大森駅から700mほど東にある東海道の三原通りから谷戸にかけては、品川宿と川崎宿の中間に当たる大森村の間(あい)の宿(「大森町界隈あれこれ(N31) 大森町風景 旧東海道(三原通り) その1」参照)であり、それにより大森の名は知られておりましたので名付けた(「大森町界隈あれこれ(7) 大森町に住んで65年!(その6)」参照)というのが理由のようです。

パネル展の展示から、モースの1887年(明治10年)9月16日日曜日の日記「日本その日その日」(石川欣一訳)によると、この日に行った貝塚の発掘は、直弟子の生物学者、佐々木忠次郎と学生二人で大森駅まで汽車に乗り、築堤までの半マイルの線路を歩いて行ったと記述してあります。
ところが、モースは生物学者であったため、考古学者であれば必ず実施する発掘地点周辺部の測量をしなかったことから、モースのリポートを見ても正確な発掘地点はわからなかったのです。
現在、大森貝塚に関する石碑は、大田区側の大森駅近くと品川区側の遺跡一帯に整備された大森貝塚遺跡庭園内との2ヵ所にあります。この2ヵ所の大森貝塚については、今後記述を予定しておりますので、ここでは大森駅との係わりのみで留めておきます。

・幸徳秋水の論説記事から見た1897年頃の大森駅の模様
パネル展の展示から、ジャーナリストの幸徳秋水が、崩御された英照皇太后の京都後月輪東山陵に東海道線で葬送するお見送りの模様を、拡張高い筆運びで書いた中央新聞論説記事の「大森駅奉送記」の中に、当時の大森駅の状況が見られます。当時の大森駅の周辺は、明治の大森村編集の地図に示す通り田んぼの中にありました。
英照皇太后(えいしょう こうたいごう、旧名:九条夙子(くじょう あさこ)、1833年- 1897)は、孝明天皇の女御にして明治天皇の嫡母にあたります。1897年(明治30年)1月11日、65歳で崩御。同月30日に「英照皇太后」の追号を奉られた。御陵は京都市東山区今熊野の後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしやまのみささぎ)で、孝明帝と同所に葬むられました。


当時の大森駅の周辺は、田んぼが広がっています。

幸徳秋水(1871-1911)は、高知県幡多郡中村町(現四万十市)の酒造業と薬種業を営む有力者の家に生まれ、本名は幸徳伝次郎と云い、思想家、社会主義者で1901年に「廿世紀之怪物帝国主義」を刊行し帝国主義を道徳見地から批判しました。また、1903年には記者をしていた「万朝報」が開戦論に転換したので退社し、「平民新聞」を創刊して非戦論を訴えつづけました。1910年「大逆事件」で逮捕され、翌年処刑されました。

・小説「暗夜行路」(志賀直哉)の中で見る1913年頃の大森駅の描写
志賀直哉(1883-1971)は、宮城県石巻市の出身で、学習院初等、中等、高等科を経て東京帝国大学英文科に入学し、国文科に転じた後中退し、1910年に武者小路実篤らと文芸雑誌「白樺」を創刊した。1949年に文化勲章を受章し、1971年に没しました。


<パネル展の説明図写真には、小説に記述の品川行きの電車が写っています。

暗夜行路」は、志賀直哉唯一の長編小説で、大正10年(1921)1月~昭和12年(1937)4月、『改造』に断続連載し、小説の場面は東京、尾道、京都、山陰の大山と移っていきます。この中の東京大森駅付近の描写場面から、1913年頃の大森駅付近の模様が見られます。
小説に出てくる、(院線電車のない頃)の注釈の意味は、後記の「1920年までの日本の鉄道管轄官庁」の記載に示す様に1913年(大正2年)頃は、まだ鉄道院管轄の院線電車では無かったという説明です。

[1920年頃までの日本の鉄道管轄官庁の概略]
日本の鉄道管轄官庁は、新橋-横浜間鉄道開業の前年の1871年に設置の工部省鉄道寮が最初で、1885年に工部省が廃止され内閣直属となり、1890年に鉄道庁となり内務省外局になった、1892年に逓信省外局とされ、1893年には内局化され逓信省鉄道局となった。
さらに、1897年に現業部門を外局として独立させ、鉄道作業局(1908年に帝国鉄道庁へと改組)となり、鉄道行政の相次ぐ所管変更や監督組織と現業組織の分離による混乱が、鉄道国有化問題化をきっかけに、1908年12月5日、鉄道局と帝国鉄道庁を統合して内閣鉄道院を設置し内閣の直属機関とすることになり、総務・運輸・建設・計理の4部と鉄道調査所が置かれた。
1913年には4部が技術部・運輸局・監督局・経理局に再編され、1918年には建設局の新設と鉄道管理局の鉄道局への再編成が行われた。だが、鉄道路線の増大によって行政事務が増加した事から、1920年に鉄道院は省に昇格する事となった。(Wikipedia調べ)

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イベント(7) 大森駅開業130周年(その1)

2006年10月20日 | イベント
1872年(明治5年)10月14日は、新橋(旧汐留貨物駅)と横浜(根岸線桜木町駅)とを結んで、日本初の鉄道が開業した日を記念した鉄道記念日です。
東海道線の敷設は、東海道の街道筋に沿って引く予定でありましたが、大森村の住民の反対に会い、村外れを通ることになりました。
大森駅は、東海道線開通の4年後の1876年(明治9年)6月12日に開設され (「大森町界隈あれこれ(7) 大森町に住んで65年!(その6)」参照)、開業130周年を迎えました。その記念行事(パンフレット参照)が、鉄道記念日の10月14日に行われましたので覗いてきました。



大森駅に係わる歴史
1877年に、上り列車で横浜から新橋へ移動中のE.S.モースが、大森駅発車直後の左車窓に大森貝塚を発見しました。大森貝塚発見発掘100周年を記念して、1977年に駅ホームに「日本考古学発祥の地」碑が建立(「大森町界隈あれこれ(P31) 京急歴史(1) 大森海岸と大森間に電車が走る(その1)」参照)されました。
1901年に開通した「京浜電気鉄道」(現京浜急行電鉄)の八幡(現大森海岸駅)と大森停車場前(現大森駅)間に支線が開業(「大森町界隈あれこれ(P31) 京急歴史(1) 大森海岸と大森間に電車が走る(その1)」参照)されましたが、1937年に廃止されました。
1913年に現在の西口にあたる、山王口改札(大田区立郷土博物館蔵)が開設(「大森町界隈あれこれ(7) 大森町に住んで65年!(その6)」参照)され、1959年に北口改札が開設されました。
1984に東口駅舎が開設され、駅ビル「大森プリモ」(現「アトレ大森」)が開業しました。

130周年記念イベント
10月14日の記念イベントは、パンフレットに記載の様に地元北睦囃子連による祭囃子、大森甚句の歌と踊り、五代目春風亭柳好の落語、細野理絵とストリングスと一緒に地元子供音楽家とのジョイントコンサートなどなど多彩な催しが行われましたが、都合で見られませんでした。
参加できませんでしたが、ビッグエベントには、大森駅開業130周年記念列車のジョイフルトレーン「宴」が品川駅を予約人気の希望者を乗せて、8時に出発し鎌倉へ向かいました。明治42年頃の大森駅を発着する汽車には、東海道方面の他に横須賀行きも走っておりました。
その他、運転シュミレータの設置(操作1操作2)、記念入場券の発売、東京都大森貝塚保存会によるパネル展「記された大森駅」などが催されておりました。

大森駅開業130周年を記念した入場券(入場券表紙入場券中側)を買い、パネル展を観賞して130年の記録を留めてみました。
また、大森駅では、130周年を記念して電車の発車ベルを地元の名曲の「大森甚句」の編曲に代りましたので、大森駅からの乗車の機会は少ないのですが新しい発車ベルを聞くことが楽しみです。

大森甚句
大森甚句は、江戸時代海苔作業の歌として、ご祝儀の席で漁師によりよく歌われてきた労働歌といわれております。
鳶凧ならよ糸目つけて コイ コイ
たぐり寄せますよ膝元によ キタコリャ ヨイショナ

六郷鳶とよ大森象(もの)は コイ コイ
のりに離れりゃよ揚りゃせぬよ キタコリャ ヨイショナ

羽田がらすによ 大森とんび コイ コイ
大師すずめのよ気の強さよ キタコリャ ヨイショナ

雪はチラチラよ話は積もる コイ コイ
我しが思いはよいつけとるよ キタコリャ ヨイショナ

大森良いとこ来てみやしゃんせ コイ コイ
海苔で黄金のよ花が咲くよ キタコリャ ヨイショナ

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がすてなーに 東京ガスの科学館見学

2006年10月18日 | ITと技術
10月13日の午後2時から、所属する部会の見学会で、平成18年6月から開館したばかりの豊洲の「がすてなーに ガスの科学館」(東京都江東区豊洲6-1-1 )を見学してきました。
科学館は、入場無料で、月曜日が休館で9時30分から17時まで見学ができます。

ガスの科学館へのアクセス
豊洲のガスの科学館は、東京メトロ有楽町線の豊洲駅または、平成18年3月27日に有明~豊洲間2.7kmが延伸開業した東京臨海新交通臨海線(ゆりかもめ)の豊洲駅から、西へ徒歩6分のところ(地図参照)にあります。
ガスの科学館の近くには、10月5日にオープンしたばかりのララポート豊洲もあり、人が出ておりました。このあたりは、以前は石川島重工の広大な跡地で、高層マンションの建設ラッシュの最中で都市開発が進められております。ララポート豊洲は、東京ドームの広さもあると云われ、さまざまなショップやレストラン、カルチャーの集積した大規模商業施設です。科学館の見学前の昼食を、ララポートで取り施設の一端を垣間見てきました。ララポートの裏側には、かなり広い公園があり正面にレインボーブリッジが見えなかなかの風景の良いところです。

以前にあったガスの科学館(東京都江東区豊洲6-3-16 )は、現在開通のゆりかもめ豊洲駅から2駅先の海寄りの市場前駅の近く(地図参照)にありました。以前の科学館の跡地あたりには、手狭となった築地魚市場が移転してくる予定となっております。

ガスの科学館の建築・設備
ガスの科学館の敷地は、およそ14400㎡で、建物は鉄骨鉄筋コンクリート造りの地上3階建ての延べ床面積が6470㎡あります。緑化として、2500㎡の屋上にはノシバのマットをべた張りし、地上の緑化には高・中木を500本、低木を6500本植栽してあります。



電気設備は、1450KVAの受変電設備と250KVAのディゼル発電機設備を備えてあります。
熱源設備には、100KWの燃料電池とガス焚きの排熱投入型吸収冷温水機があります。
科学館に設備された燃料電池は、富士電機製でりん酸形(PAFC)のもので、電池の電解質にはりん酸水溶液を使用し、燃料には改質したLPGなどが使われます。燃料電池の構造は、ガスを通しやすいように無数の穴の開いた燃料極と空気極の二つの電極に、化学反応の触媒の白金が散りばめられております。その間に電解質があり、これらが厚さ数ミリの板状に圧縮された単セル構造からなるもので構成されております。

ガスの科学館の展示フロワー
ガスの科学館の入り口を入ると、ガス気球の模型が展示してある吹き抜けのホールがあり、そこから展示フロワーに行ける50人乗の大型のエレベータがあります。

・屋上ひろば
展示フロワーは、7つのゾーンがあり、先ずは屋上にエレベータで上がり、海と周囲のビルの風景が眺められる屋上全体を芝で張りつめてあります。当日は、天気が良く太陽の光や風の匂いが感じられました。
屋上からの眺めも素晴らしく、日本ユニシス、石川島播磨重工(手前がララポート豊洲)豊洲センタービル新豊洲変電所やその他の数多くのビル群を見られました。

・2階展示フロワー
「ようこそポカの家へ!」コーナーでは、キッチン、リビング、バスルームで温度の魔術師・ガスがどんな働きをするのかを見て、「探検!!ワンダータウン」でガスがいろいろな町で活躍する様子を見ます。

・1階展示フロワー
「プカのひみつ」で、ガスの正体から、ガスの旅で家庭までの通り道を探ります。「エナジースタジオ」でガスの特長や性質を解き明かし、エネルギーや科学の世界を体験し、「ピカッとラボ」でマイホームや町ごとの発電などの環境と未来を考えた、燃料電池ガス冷却などの新しい使い方を考えます。

東京ガスのガス供給の変遷
東京ガス株式会社(東京都港区海岸1‐5‐20)は、創立が1885年(明治18年)で、1都8県の980万のお客へのガス供給量がおよそ130億㎥であり、ガス管の総延長距離が約5万1千Kmもある巨大企業です。

現在は無くなり存在しておりませんが、以前大森町の大森ガス工場のあった頃のガスの原料は、石炭で都市ガスを製造しており、朝満杯の大きな2基の円筒型のガスタンクが使用に従い減ってきて、夕刻を過ぎる頃には最小となる毎日見る風景は、とても子供時代の懐かしく生活に密着した哀愁のある想い出です。
石炭・石油を燃焼させてガスを製造すると、二酸化炭素、窒素酸化物や硫黄酸化物が排出し大気汚染の原因となるため、現在の都市ガスの主原料は天然ガスを使用しております。
1969年から導入されたメタンを主成分とする天然ガスは、不純物をほとんど含まないクリーンなエネルギーで、埋蔵量も173兆㎥あり供給の安定性が高いのです。天然ガスを使用するようになり、各地のガス会社では球形状のガスホルダーが見られるようになりました。

2010年を目指して東京ガスでは、燃料電池コージェネレーションシステムとガスエンジン発電によるマイホーム発電、超小型コージェネレーションや蒸気ボイラーの熱利用と、地域冷暖房のエネルギーサービスのワンストップ提供を策定していることなどが、ガスの科学館見学により勉強できました。

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風景・風物詩(B9) 秋の風物詩 池上本門寺のお会式

2006年10月16日 | 風景・風物詩
毎年、日蓮上人が亡くなられた13日を中心にお会式(おえしき)が営まれ、大田区池上本門寺(空中写真)では、10月11~13日に法要が行われます。
日蓮の命日の前夜(12日)は、宗祖報恩御逮夜法要が行われ、午後7時頃より各地から集まった信徒団体約三千人の百数十講中が、池上通りの大森方面からと池上方面から本門寺まで万灯練り行列が、団扇太鼓や鉦を叩き、題目を唱えながら池上本門寺の石段参道を登り境内に集結(万灯練り歩き経路図本門寺境内図参照)した後、坂道参道から降りて池上の町を深夜に至るまで練り歩きます。

万灯の練り歩きの移り代わり
万灯の練り歩きの行列の時期が来ると、やがて冬を迎える季節の到来を知り、お会式は秋の風物詩なのです。近年は、温暖化で寒くなるのが遅くなりましたが、小学生のころは陽気も寒くオーバーを着て見に行ったた記憶があります。
古来の練り歩きは、提灯に蝋燭を灯し団扇太鼓を叩き ながら、参詣するという簡素なものでありましたが、やがて蝋燭を灯した万灯が加わりました。さらに、纏を振るようになったのは、明治時代の町火消の人達が、講中の人達と共に参詣に訪れた事によると云われます。
近年は、万灯の明かりとして、蝋燭の替わりに、発電機を持ち込み、電球や蛍光灯や発光ダイオードなどにより、発光させるようになりました。
万灯は、支える棒を担ぎ手が持って交代で練り歩いていたのですが、車社会になると万灯もやがて台車の上に乗せて、押して練り歩くという時代に変化してきました。

万灯の練り歩き見物
12日には、万灯の集結する池上通りの本門寺新参道付近に、秋の風物詩のお会式に午後7時頃大森町を出て見にきました。池上通りは、夕刻より交通規制が行われ、JRの大森駅方面から東京急行電鉄池上駅方面行きのバスは呑川の手前で停まり、折り返し運転となります。そこから、本門寺新参道付近までは歩きとなります。
万灯の練り歩きは、大森方面と池上方面からそれぞれ一方向に進みますので、池上通りの車線の片側は見物用に開放されておりますので、比較的楽に見物できます。

本門寺新参道への万灯の練り歩きは、それぞれの方面から来る万灯の行列を、交通整理して交互に参道を進んで行きます。同時に、新参道を横断する歩行者もおりますので、この交差点は大変なラッシュで、多数の警察官による交通整理を行っておりますが、池上通りの万灯の行列は渋滞となり、万灯の行列の列が時間と共に長蛇となります。

本門寺新参道は、比較的広い道路で、両側の歩道上には多数の夜店が店を出しており、万灯見物の客は、夜店と万灯の練り歩きを見ながら本門寺方向へと向かいますが、午後八時を廻ると人手もピーク(混雑の万灯見物人1見物人2)となり、それにつれて歩行速度も遅くなり大変な混雑です。
そこで、万灯の練り歩きの見物は、池上通りの新参道近くの開放車線上で午後八時半頃まで、いろいろと変ってきた万灯練り歩きを楽しみました。



万灯も時代と共に変遷しておりますが、今年の万灯は個性が表れてきた(カラフルな万灯)ようで、太鼓も和太鼓が登場したり、叩きかたもお会式のオーソドックスな題目を唱えるリズムから、新たなリズムへの潮流も感じられました。お会式の万灯の練り歩きも、信徒団体の参加者により新しい方向へと歩いているように見えました。

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小さな旅(7) 日本一大きい牛久の大仏

2006年10月13日 | 小さな旅
10月9日の3連休3日目は、朝から風も無く雲一つない快晴で家に閉じこもっては勿体ない秋日和なので、茨城県牛久市にあるギネスブックにのった大仏の見学に行きました。
大森町を9時半ころ出て、JR上野駅から快速を利用して11時半頃に牛久駅に着き、牛久大仏行きのバス時刻を調べると30分以上待たなければならないので、タクシーを利用しました。タクシーに乗り行き先を告げると、「道順が分かるか」と聞かれ、駅前待ちの地元のタクシーなのにと怪訝に思いながら「東京から来たので、分からない」と答えると、運転士が「実は、2日前まで土浦で運転しており、以前に大仏を見に来たことはあるのだが、牛久は慣れていないので道が分からない。途中で会社の無線で聞きます。」ということで心細い車に乗り合わせました。

牛久大仏の遠景
牛久の大仏は、牛久駅から丁度真東(地図赤線参照)にあり、慣れてない運転手のため牛久浄苑の管理棟前で、到着しましたとタクシーから降ろされました。そこで見る右横顔の大仏はかなり大きいのですが、周辺の浄苑の墓地も非常に広大ななかにあるポツンと立っている一体の大仏立像は、見る近くに比較対象できる構造物が無いので大きさの印象はピンときません。
ここから、浄苑内を通って大仏の前に行けそうもないので管理棟の人に尋ねると、降りた道を進むと右側に管理事務所があるので、反対に左折して暫く行くと大仏の入り口があると聞き歩き始めました。折角タクシーに乗ったのに、途中で降ろされるとは何のためだと思いましたが、凄い好天と付近の閑静な環境に歩くことに心地よさがありました。
歩くにつれ大仏の姿は変わり、牛久浄苑管理事務所から庭木を通して見る大仏や、途中の浄苑内から見る姿も変化があり飽きませんでした。



牛久大仏見物
さらに進むと入り口があり、中に入って牛久大仏の見学(浄土真宗東本願寺派本山東本願寺 空中写真参照)です。入り口を入ると仲見世でお土産物や食べ物店があり、そこを通過すると広場でフリーマーケットを開いておりました。
その先のチケット売り場で、胎内めぐり付の入場券で正門を入りました。先に進むと、本物の大仏の顔の千分の一という顔の模型があり、模型も結構と大きいものでした。
さらに進むと、頭のちぢれ毛? の模型と大仏のサイズにいついての説明板(開いて大きさを見てください)とギネスブックに登録した説明の石碑など、日本一大きい大仏を示すコーナーがあります。

その先の雲の道を経て、発遣門を潜ると直線の道の先が牛久阿弥陀大仏です。大仏に向かって進むと、道の右側には花摘みの定聚苑があり、コスモスが5分咲きでした。道をふり返ると、発遣門の二階に釈迦三尊像が祀られております。
さらに、大仏に向かうと日本一の大香炉があり、お線香を上げて横超の橋を六歩で渡りますと、右側の本願荘厳の庭には餌さを求める鯉が群がって突進してきます。
すぐ先は、大仏様の足元で、看板にここから見上げてと書いてありましたので、見上げてみました。逆に、上から見た大仏の空中写真を示します。

牛久大仏の胎内見物
牛久大仏の胎内の入り口は、台座をぐるりと回り背面から入ります。内部は、撮影禁止のため、ここからの説明は記述のみとなります。
土足禁止なので、靴を脱ぎ待っていると扉が開き入ると、明かりが消え静寂な観想の間で一心に思いを凝らした後、明かりが点り前方の扉が開き大仏の胎内に入ります。
階段を二階(地上10m)に上ると、大仏の建設の模様のパネルや模型が展示してあります。工事施工業者は、川田工業㈱(東京都北区赤羽西1-7-1)で平成5年に完成しました。
また、二階には、知恩報徳の世界で、阿弥陀如来への知恩の気持ちを込めて写経を行う77席の空間と、法話を行う念仏の間がありますが、この間へは上から降りてきたときに通過します。
ここからエレベータで四・五階(地上80~85m)に上がると霊鷲山(りょうじゅせん)の間で、仏舎利(釈尊のご遺骨)が安置されておりました。また、四方に窓があり、東西南北が見渡せます。なお、大仏の正面の胸の辺りにある三本のスリット状のどの窓から下を見下ろしても、入り口から入ってきた発遣門が見られるように出来ております。内部の左窓から、下を見てみました。五階から階段を降りると、香や数珠などの仏具と簡単なお土産品の売店です。

さらにここから、三階(地上20~30m)までエレベータで降りると、極楽浄土の蓮華蔵(れんげぞう)世界で、周囲の回廊には約三千体の金ぴかの永代経(胎内仏)で囲まれております。
永代経は、法名(戒名)を収め奉安して永代に亘り供養することで、二種類のサイズの永代経があり受付け(大型百万円、小型三十万円)をしておりました。
三階からは、二階に階段をおりますが、前述の写経の間を通り階段を降りると出口です。

大仏の裏手には、お猿のショーステージやウサギとリスの小動物園がありましたが、見ずに帰ることにしました。帰りは、バス(バス停から見た大仏)の時間を調べて置き、14時49分発の牛久駅東口行きにのり、駅前ビルで遅い昼食を取り帰宅しました。

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大森町界隈あれこれ(L34) 大森町の社寺 堀の内三輪神社

2006年10月11日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
堀の内三輪神社は、京浜急行電鉄の大森町駅近くの大森警察署付近から、第一京浜国道と枝分かれして南々東に伸びる産業道路との中間(地図参照)にあり、蒲田に近接する大森町の南端部にあります。堀の内三輪神社の近辺は、旧東海道(第一京浜国道)が三原通り(「大森町界隈あれこれ(N31) 大森町風景 旧東海道(三原通り) その1」参照)からはしり、500m以内に中世に開創された密乗院や大林寺があり、また三輪厳島神社や八幡神社もあります。

このあたりは、旧東海道の間中の宿の大森宿があったところで、近くには梅屋敷の梅園(「大森町界隈あれこれ(N32) 大森町風景 梅屋敷公園」参照)、常備薬の和中散を売る店、麦藁細工を売る店、梅びし・梅干の売店や海苔茶づけの茶店などがあり、このあたりは古くから開けておりました。寛永年間(1624-44)に創立したといわれる三輪神社は、村人からの信心も厚く堀の内の鎮守様として祀られてきたものと考えられます。しかし、残念ながら今は何も面影は残っておりません。

堀の内三輪神社
堀の内三輪神社(航空写真参照)は、1915年(大正4年)に近くの貴船神社と天祖神社を合祀して小字堀の内の鎮守となり、祭神は大国主命、天照皇大神、高麗神、菅原道真が祀られております。
大森には、長くおりますが、なかなか他地区の鎮守様にはお参りする機会がありませんでしたが、10月7、8日が例祭でありましたのでお賽銭をあげてきました。


堀の内三輪神社(地図参照)へは、京浜急行大森町駅の南隣の梅屋敷駅(「大森町界隈あれこれ 京急駅シリーズ(1) 梅屋敷」掲載予定)から向かいます。現在、高架化工事(「大森町界隈あれこれ(P30) 京浜急行 京浜急行の高架化(その1) 」参照)で足元の悪い梅屋敷駅を降りると、駅の東方向に第一京浜国道が見えますので、交差点を渡り梅屋敷東通り商店街を産業通りに向かって東に進むと、中間点あたりで左側に大林寺「(大森町界隈あれこれ 大林寺」掲載予定)を過ぎて、次の四つ角を右折して暫く南進すると左手に見えてきた、角地の神社が堀の内三輪神社です。
神社の入り口は、角を左折すると鳥居があり、入って右手が本殿です。本殿と並んだ右に、末社の北村神社があり、祭神の北村大人が祀られております。また、末社の右手前には、地元に残る大森海苔採取に関する口碑伝承を伝える碑が建立されております。参考に、名碑の内容を巻末に記載してあります。

堀の内三輪神社祭礼
当日は、祭礼で角地のお囃子やぐらで、祭り囃子の景気をつけておりました。なお、神社の裏口は、角地を右折しないで、直進すると左側に本殿の裏から社務所へと直進できます。
この付近には、祭りの祭壇お神酒所奉納者芳名板などがありました。
神輿殿には、大人神輿と子供神輿が鎮座しており、反対側の仮設演芸奉納舞台の脇には山車が待機しておりました。

東海道の常夜灯
旧東海道の常夜灯(「大森町界隈あれこれ(L32) 大森町の社寺 谷戸三輪神社秋の例祭」参照)は、今の谷戸の交番付近に建てられておりましたが、1923年(大正12年)の関東大震災では、灯篭が倒壊して破損し、その後東海道を拡幅して第一京浜国道が建設の時に、堀の内三輪神社に移転されました。その後、1986年(昭和61年)には三輪神社の社殿の改築のため、移転する必要を生じ大田区教育委員会に寄付されました。教育委員会では、前方の八幡神社(大森中3-3-8)の神前燈籠が、この燈籠を模して建立したと伝えられていたところから、それを参考にして火袋、竿石といった中間部分を復元し、大森西図書館前に保管されております。

北村神社由来
当社は、大森海苔養殖業に特に功績のあった北村石見守を祀り、当地の海苔養殖業者の崇敬するところとなっております。
本場浅草海苔の中心となった当地の海苔養殖業は、今より二百八十有余年前の天和二年、当大森村字堀之内の野口六郎左衛門が有志と計り、幕府より海苔篊(ひび)建の免許を請け、その基礎が確立されたのでありますが、その後文政三年九月二十二日境界紛争から、海苔篊建場を全面的に改めるという海苔養殖史上最悪の事態を招いたのであります。
このような危機に際し、当大森村の窮状を理解し、海苔養殖業継続の決断を考えたのが北村石見守であり、村民の崇敬するところとなったのであります。かくてその尽力を徳とし永く祀ろうと、同氏の烏帽子(大東亜戦争で消失)を請い受け、神社を建立したのが当社の起源であります。
尚、現在の社殿は昭和三十六年九月堀之内の海苔業者と有志の手により再建されたものであります。
  行く水や何にとどまる海苔の味    其角
昭和四十二年九月一日

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旅ものがたり おわら風の盆と上高地(その3)

2006年10月09日 | 旅ものがたり
新平湯温泉
八尾町に来た時降りたバス駐車場に21時30分に集合し、この時間は交通規制により町外れで待機中の観光バスまでは、町で運用のシャトルバスでの送迎で移動します。
これから、ツアー行程宿泊地の新平湯温泉へと向かいます。経路(地図参照)は、夜道を八尾町から笹津付近で越中東街道に入り、神通川とJR高山本線に沿って神岡鉱山まで一路南下し、そこで国道471号線に入ります。深夜で景色は見られず、早朝からの長旅で乗客は、観光バスのゆりかごで全員白河夜船です。

23時30分頃、宿泊の新平湯温泉「緑水苑」に到着しましたが、周囲は真っ暗でどんな風光の温泉かを知ることができず、とりあえず疲れを取るため温泉に入り明日に備えました。
温泉は、緑水苑の源泉の湯口から豊かなお湯がとうとうとあふれる炭酸泉で、翌朝目が覚めると昨日の疲れがとれており、つくづく温泉は日本人に与えてくれた自然の宝だと感じました。
翌日は快晴で、新平湯温泉「緑水苑」 (高山市奥飛騨温泉郷一重ヶ根202-203)は一軒ポツンとただずんだ2階建ての部屋数が23室、大露天風呂と大屋天風呂を備えた静かなコンパクトな温泉で、北方向に霞んで北アルプスが望めました。


第2日最初の行先 高山朝市
新平湯温泉は9時の出発で、国道471号線を南下して、平湯温泉スキー場付近で国道158号線に入り西進して高山に向かい(地図参照)ます。
途中、今日の昼食休憩の「赤かぶの里」の前を通過して、10時頃高山に着き、朝市や古い町並みを散策しました。高山は、大抵の人が何度か訪れているので、軽く朝市を見て、町を歩きました。岐阜の朝市には、関東地方では見たことの無い細長いかぼちゃが、あちこちで売られておりました。
次の工程の乗鞍スカイラインへは、11時頃高山を後にし、「赤かぶの里」で昼食を済ませて、12時30分出発し、国道158号線で平湯峠から乗鞍畳平までのドライブです。


乗鞍スカイライン、乗鞍畳平
乗鞍スカイライン(地図参照)は、国道158号旧道の平湯峠(標高1684m)から乗鞍岳、畳平までの約15kの有料道路で、冬期通行止めになり、標高差約1100mの山岳ドライブです。2003年5月より乗鞍岳の自然環境を保護するため、マイカーでの通行は出来なくなりました。
標高2702mの畳平には13時頃着き、日本一標高の高いスカイラインで、山の自然や高山植物が誰でも気楽に楽しめます。4日は平日のためか、駐車場、バスターミナル、宿泊施設、食事やお土産店がある畳平は、天候にも恵まれ比較的空いており良いドライブ日和でした。しかし、観光バスの座席は、初日が一番前の席でしたので、二日目は最後尾席のため、スカイラインのカーブでは若干振り回せられました。

標高3026mの剣が峰を主峰とする乗鞍岳は、飛騨山脈の南部にあり、大小の3000m近くの峰々23山がそびえ立ち、長野県と岐阜県にまたがり日本百名山の一つで、畳平を中心に山岳観光のメッカとなってます。長野県側のふもとには、乗鞍高原が広がり馬の鞍に似ていることから名つけられました。
畳平から恵比須岳(標高2831m)、不動岳(標高2875m)、富士見岳(標高2817m)、大黒岳(標高2772m)、魔王岳(標高2760m)など手軽にトレッキングが楽しめます。摩利支天岳(標高2872m)には、コロナ観測所が設置してあります。
また、朝日岳(標高2975m)や乗鞍山頂、剣が峰(標高3026m)に登山に行く人の登り口になっています。鶴ヶ池は、標高2700mにあります。


上高地
畳平を13時50分頃出発して、乗鞍スカイラインを戻り平湯の国道158号には14時15分頃でした。これから上高地への道は、平湯温泉スキー場付近から、安房峠(あぼうどうとうげ)道路(全長5.6Km)へと入ります(地図参照)。安房峠道路は、湯ノ平トンネル(380m)と安房トンネル(4370m)の2本のトンネルが大半を占めております。安房トンネルの中間で、岐阜県と長野県の県境があります。
安房峠道路は、1964年、日本道路公団による安房峠の現地調査が始まり、世界でも類をみない、活火山の下にトンネルを貫通させるという、世紀の難工事でありました。1988年長野オリンピック開催の2カ月前に完成し、間に合わせることができましたが、中ノ湯側の取り付け道路工事の最中に、火山性ガスを含んだ水蒸気爆発事故が発生、4人の尊い命が奪われました。

あっという間に安房トンネルを抜け安房峠道路を出て、梓川を渡り国道158号と分かれて国道24号線に入り北進して暫くすると、焼岳が見えてきて上高地の大正池です。ここでツアーグループが2班に別れ、大正池からウォーキングして河童橋に行く組と、そのままバスで駐車場に行く組の行動となりましたので、後者を選択しました。
駐車場には、14時40分頃到着で、上高地から帰路の出発まで約2時間が自由行動で、河童橋周辺を散策し、お茶を飲んだりして50年振りに泊まった五千尺ホテルを懐かしく想いおこしたりして、梓川辺りで人慣れしたカモとともに初秋のひと時を優雅に過ごしました。


松本から東京へ
帰路(地図参照)は、上高地を16時40分頃出て、来た道の国道24号線を戻り、国道158号を東進してJR松本駅へと向かい、夕食を駅ビルで取り20時02分発のスーパーあずさ36号で新宿着22時37分で、自宅には2日連続して22時30分の帰着でツアーは無事に終えました。

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旅ものがたり おわら風の盆と上高地(その2)

2006年10月07日 | 旅ものがたり
八尾町
越中八尾町は、岐阜県に接した富山県中南部にあり、富山市中心部から南へ17Kmのところの井田川(神通川支流)沿いの右岸(地図参照)にあり、高い石垣に支えられた三百数十年の歴史がある、聞名寺(もんみょうじ)の門前町として発達しました。
聞名寺は、1290年(天応3年)に本願寺第三世覚如上人が建立した浄土真宗の古刹で、総ケヤキ造りの本堂は当時の隆盛を偲ぶものです。
旧八尾町(地図参照)は、十町内に分かれ、藩政時代から地場産の蚕種や和紙の取引を中心に商人町として栄えました。

各町内には、おわら保存会支部があり、現在の支部は福島公民館を加え十一支部があります。
「おわら風の盆」は、本祭りが9月1~3日に行われ十一支部が一斉に3日間に亘り各町内で輪踊りや町流し踊りが行なわれます。そのほか前夜祭が8月20~30日の11日間十一支部が一日ずつ交代で輪踊りや町流しが行われます。

おわら風の盆の見物場所取り
以前には本祭りの時間や場所は、各公民館の前に張り出されたそうですが、最近では張り出しを行わなくなっため、踊りの見物はここぞという場所に早くから列の最前列を陣取り動かずに、目前で一支部の踊りだけを堪能するようにと、バスガイドのアドバイスにより先ずは、おわら風の盆の踊りの見物の場所確保をはじめました。
八尾町には、バス駐車場から禅寺橋を渡ると、正面が石垣の町並みの坂道で、上り詰めたところが西町酒造の西町で、町の入り口です。
西町の左手には、西町公民館がありましたが、公民館の建屋がやや小ぶりに感じましたので、そこから更に町中に進み、次の道の左手に瀟洒で立派な東町公民館がありましたので、見物場所をここに決めました。

16時少し前のこの時点での町並みの人出は、まだ混雑しておらず、一般の観光客は皆八尾の町並みの見物にあちこちと移動しておりました。
19時から、おわら風の盆の踊りがスタートである場合には、たっぷりと3時間もあります。
東町公民館の道を挟んだすぐ前の建物は、蔵造りの商家のようです。東町公民館の道路の東方には、大きな古刹の聞名寺の本堂も見えます。反対の側には、八尾おわら資料館も目と鼻の先にあります。隣の諏訪町には、日本の道百選に選ばれた昔ながらの白壁と格子戸の家が並んだ石畳の諏訪町通りがあります。また、目の前には、何よりも歴史ある商家の町並みがあります。

時間もたっぷりあるのに、ただ踊り見物の場所取りの為に道端で手持ち無沙汰で待っているのは、何と時間の経つのは遅く、八尾の町並みの見物に行きたいとの衝動に駆られました。
しかし、8月の浅草サンバカーニバルの見物に遅く行ったので、殆ど見られなかった(「風景・風物詩(B7) 夏の風物詩 浅草サンバカーニバル」参照)経験から、多くの見物客が詰め掛ける催しには、見物場所の確保は必要との認識があり、バスガイドからの執拗な注意も効いて町並みの見物は諦めました。ツアー同行の人も同様な思いから、同じ場所に十人ほどが踊りの始まるまで一緒に待っておりました。

おわら風の盆の踊りのスタート
東町おわらは、保存に私財を投げ出した方や天才歌い手の輩出で、その誇りを引き継いで「品格のある」おわらの伝統を守り、青年男女、中学生、小学生、幼児を合わせて百人以上の大所帯であります。
18時過ぎから、東町おわらの踊り手や三味線・胡弓・太鼓などの囃子方と歌い手の人が公民館に三々五々集合してきました。中学生、小学生や幼児も沢山おり、踊り前の遊びを楽しんでおりました。小学生の3、4年生ぐらいの子に、「踊りは、楽しいかい」と聞いたところ、「うん、楽しいよ」と元気に答えてくれました。八尾では、後継者の指導も順調なようで、町の人は踊りを楽しみにしている様で、大勢の見物者は町の人にとっては迷惑なのです。石川さゆりの歌で、おわら風の盆が有名になりすぎで観光客が殺到しているのです。しかし、話によると、今年の観光客の数は頭打ちになったようです。
19時ちょうどに、東町公民館前から踊りのスタートです。先ず、公民館の前で輪踊りが始まり、それから公民館の通りを町流しで西に踊りながら進んで行きました。







町流しには、並んで進んで行けませんので、八尾おわら資料館を駆け足で覗いた後西町の先の路地に露店の食べ物屋が並んでおりましたので、腹ごしらえをしておりますと、西町おわらの町流しが帰ってきましたので、見物しようと道路に行きましたが、やはり見物人の後列からは踊りは見られませんでした。
そこで、先ほど見物した東町通りに行くとこれから町流しが帰ってくるところで、見物客の間にもぐり込んで、会館前での輪踊りが見られました。
先ほど見物の輪踊りとは異なり、成人だけでのムードある哀調のこもったおわら風の盆の踊りを堪能できました。
女踊り1女踊り2
男踊り1男踊り2男踊り3
囃子方胡弓
ここで、そろそろ集合時間が近ずいたので、バスを降りた駐車場に向かいました。

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旅ものがたり おわら風の盆と上高地(その1)

2006年10月05日 | 旅ものがたり
おわら八尾の風の盆踊りをかねて見たいと思い、この9月3日に宿泊所と足の便を考えTBSのツアーを利用して見物してきました。
今年は天候不順で、9月には台風が接近していることより出発の前日までは雨模様でしたが、幸いと出発日と翌日は天気に恵まれ、東京駅の集合時間に間に合うように自宅を午前5時50分ごろ出ました。

ツアーコース
ツアーのコース(地図参照)初日は、7時28分発の新幹線で上田駅に8時40分に着き、そこからは長野電鉄バスで黒姫高原コスモス園に寄り、長野県から一路北陸道を富山へと向かい、早めの夕食をますのすし本社の見学した後にとり、16時には八尾町に入り目的の風の盆の踊りを見るための場所を確保のため陣取りをしました。長時間の陣取り場所に留まった後、待望の風の盆踊り21時頃まで見て、宿泊地の岐阜県億飛騨の新平湯温泉には23時30分頃の深夜の到着で、温泉に浸かり早朝出発と長時間の踊り見物の疲れを癒しました。
コースの2日目は、朝食後新平湯温泉を9時に出て、高山の朝市と古い町並みを見物した後、来た道を戻り「あかかぶの里」で昼食をとり、さらに平湯温泉まで戻りそこから乗鞍スカイラインを通り、畳平を散策し上高地に入りました。上高地の河童橋など散策後、松本駅発20時02分発の特急で新宿には22時37分着で、自宅には23時30分頃に戻るという2日間に亘る早朝から深夜までの強行コースでした。

黒姫高原コスモス園
黒姫高原コスモス園には、上田から上信越自動車道に入り千曲で長野自動車道に合流し、小布施を過ぎ黒姫のICを出てコスモス園(地図参照)に到着しました。
コスモス園は、コスモスまつりの期間中(8月1日~10月15日)で長野県内の実力派アマチュア音楽グループ出演の黒姫高原コスモス音楽祭などのイベントが開催しておりました。
コスモス園では、パノラマリフトで往復してコスモス空中散歩し、野尻湖をリフト上から遠望しました。
今年はコスモスの咲きぐあいが遅く、60種類100万本あるといういうコスモスは、やっと4分咲きで満開は20日ごろかと思われます。
コスモス園の境では、“アーリーヘブンリーブルー”がコスモスと一緒に咲き誇っておりました。

北陸道車窓風景
11時出発のコスモス園から再び上信越自動車道を北上して、上越JCTで北陸道に入ります。
幸い往路のバスの座席は、一番前の運転席の上で車窓風景の見晴らしには最高の席にあたりましたので、初めての北陸道のドライブを堪能できました。
北陸道に入ってしばらくたつと、何と26個ものトンネルを出たり入ったりが続き、やっと快晴でめずらしく青く澄んだ日本海が見えて来ると、実験用の設備であるのか風力発電機が何本(風力発電機その1その2)も建てられてました。
日本海が見え始めてから快適なドライブ風景を楽しみ、およそ20分後に糸魚川付近に着き、セメント工場やフォッサマグマを通過し糸魚川を越えました。
さらに、10分足らずの親不知では、山が海に張り出しているため、北陸道は海の上を通ります。このあたりから富山までは、70Km程で、北陸新幹線の工事も見るからに結構進んでおります。左手の黒部渓谷の宇奈月方面の山は雲がかかっており、これからの天候が気になりました頃、そろそろ北陸道ともお別れです。



ますのすし源本社工場見学
ますのすし 源本社工場への到着は14時前で、工場見学後には「早お昼」ならぬ、早夕食です。これは、夜始まるおわら風の盆の踊りを見物するための場所取りのための行動なのです。
源本社工場の飾り物(夜高あんどん福野夜高祭説明板、双魚)などを見て、15時ごろおわら八尾に向かいました。

おわら八尾町
八尾町のバス降車場には、15時40分頃到着し、いよいよ風の盆の踊りを見る場所の物色です。坂の町で有名な石垣の坂道を登り、八尾町へと向かいました。



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大森町界隈あれこれ(M32) 大森町商店街 京急高架化で大変貌 ラーメン屋さん閉店第一号

2006年10月03日 | 大森町界隈あれこれ 商店街
大森町商店街では、京浜急行電鉄の高架化工事で駅周辺の、特に駅から東側の第一京浜国道までの商店は、商店通りの道幅が6mから13mに拡幅されるため、店舗建屋をセットバックして建て直しをする必要があり、そのため同通り商店街で30年間開業していた中華屋の三光軒が10月1日をもって閉店第一号となりました。
大森町駅から東側の第一京浜国道までの商店街の商店通り(約63m 地図空中写真参照)は、京急高架化工事関連の都市計画事業の大田区画街路第3号線により拡幅されるもので、完成すると今までの一方通行から両方向通行となり、駅前にタクシーの駐車場が設けられるようにする計画です。



高架化工事前の商店街町並
このため、商店街商店通りの両側の店舗10棟は、道幅が倍に拡幅されることで、店舗を建て替えることになり、将来商店街は大変貌を遂げることとなります。
工事により大きく変わる商店街の町並みを見て、現在の姿を記録に残すため探索してみました。
大森町商店街(「大森町界隈あれこれ(M30) 大森町商店街 大森町サマーフェスティバル」参照)は、第一京浜国道の大森町駅入り口商店通りから東邦医大通りまでの約700mのまっすぐなショッピングストリート(地図緑色参照)です。
第一京浜国道から見た商店通り は、手前の国道(東側)西側の東邦医大通り方向への一方通行で、夕方の買い物客が多い時には車輌の通行止となります。この商店街通りが町の境界線で、道を挟んで南側が大森西5丁目、北側が大森西3丁目となります。



間もなく姿を変える第一京浜国道から京浜急行踏み切りまでの商店街南側店舗には、「たばこや」さんから始まり、以前の第一京浜国道拡幅工事により国道に接するようになりました。路地を挟んで喫茶店「CHIC」、文房具店「みどり屋」、以前レストラン「ルミナス」の後に入った景品交換所「T・U・C SHOP」が続き、中華「大森食堂」、クリーニング店「CLEAN BLUE」、御菓子司「青柳」と並び、路地を隔てて薬局「ホケン堂」があります。
反対の商店街通り北側の店舗には、丼物チエーン店「すき家」の入居ビルの上階にはオフイスがあり、続いて酒場「大森町銘酒コーナー」、花屋「TULIP TREE」、路地を挟んで不動産の「長沼不動産」と同建屋の中華料理「三光軒」とその2階にはマージャン荘「伸芳」が営業しておりましたが、店舗取り壊しの予定でここで閉店となりました。
その隣が韓国料理「ハナ」と2階には「パブ」と続き、弁当惣菜「東京キッチン」と2階が美容室「Rope」から成る商店街です。

大森町駅近接周辺の高架化関連工事
大森町駅近くの京浜急行電鉄高架化の工事は、駅東側の大田区画街路第3号線(大区街3)の道路拡幅工事の他に、駅西側の線路沿いの道路を拡幅する都市高速鉄道京浜急行電鉄本線付属街路第1号線(鉄京本付1)で、「大森町界隈あれこれ 京急高架化 沿線の都市計画事業道路工事」(掲載予定)にて大森町の変貌振りを追って行きます。
今回の記事関連の大区街3の道路拡幅工事は、6mの道幅を13m(歩道3m+車道7m+歩道3m)にして、車を両方向通行とするものです。

今後工事は、朝晩ラッシュの通勤客と夕刻の買い物客による混雑、日中の車輌交通に合わせて開かずの踏み切りによる人と車の滞留の中、店舗の取り壊しや改築工事と道路自体の拡幅工事に、さらには高架化工事が同時進行しますので、各種の工事にはいろいろな問題が想定されます。
これらの問題を解決しながらの工事の進行には、大変な関心があります。今後のブログに取り上げて行きます。

懐かしの味
閉店した近隣の三光軒の中華料理やラーメンには、30年の長い間の馴染みの味となっておりましたので、閉店前の9月29日の夕食に想い出の味の食べ収めをしました。
閉店サービスによる2割引の別れの味には、一抹の寂しさを感じました。

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<前回 大森町界隈あれこれ(M31) 大森町商店街 ミハラ通り夜店フェスティバル へ
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番外編 カテゴリー別ブログ記事の検索と見方 [付 kan-haruの日記9月月間INDEX]

2006年10月01日 | INDEX
K&A kan-haruの日記の月間INDEXは、毎月1日付けで掲載しております。
K&A kan-haruの日記も、カテゴリーが増加し、カテゴリー毎に充実して日記の連載も増してきております。

・カテゴリー毎の日記の初回(先頭)ページは、INDEXの初回欄をクリックすると先頭のページにジャンプして開きます。
・次回のページに進むには、日記ページの末尾の「次回 ・・・・・・ へ>」をクリックしますと進みますので、最終ページまで辿れます。日記が未完で、連載がさらに継続する場合には、「次回 へ>」の記載はありません。
・前のページに進むには、日記ページの末尾の「<前回 ・・・・・・ へ」をクリックします。
・カテゴリー毎の日記の終回(最新)ページを開くには、ブログ左欄のカテゴリー欄の該当カテゴリー上をクリックすると最新ページにジャンプして開きます。

・前月の月間INDEXを見る場合には、日記末尾の「<前月 kan-haruの日記n月月間INDEX へ」をクリックしますと、そのページに進みます。同様に次月の月間INDEXは、「次月 kan-haruの日記”i”月月間INDEX へ>」をクリックしますと表示されます。

なお、日記ページの先頭に表示されている写真や図が右端に小さく表示されている場合は、日記トップのタイトルバー上をクリックすると、写真や図が大きく表示されます。この状態のインターネット エクスプローラ上の「アドレス」欄に表示されているURLでアクセスすると、写真や図が大きく表示されます。

また、ブログの参照地図・写真などを拡大して見るには、次の3月月間INDEXに方法ガ記載してありますので、参照して下さい。
番外編 ブログ記事の参照地図を拡大して見る方法 [付 kan-haruの日記3月月間INDEX] 4月1日

日記が参照する図、地図、写真や記事は、該当文字に下線が引いてあります。下線の文字をクリックすると、新たなウインドウが開いて図、地図、写真や記事が見られます。日記に戻る場合には、ブラウザのメニューの「戻る」をクリックすると戻ります。

kan-haruの日記 9月 月間カテゴリ別INDEX

INDEX上の日記をクリックすると、当該ページが表示されます。INDEXに戻る場合には、ブラウザのメニューの「戻る」をクリックします。

[ようこそ kan-haru日記へ]
ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その1)  9月18日
ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その2)  9月17日
ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その3) (未完) 9月17日

[大森町界隈あれこれ 大森町大空襲] 連載29回掲載完結
カテゴリーの「大森町界隈あれこれ 大森町大空襲」の若山武義氏の手記(第1~3編)は完結しましたので、大森町界隈あれこれ 空襲篇手記 目次を掲載しました。
総目次には、記事に関連する写真、地図や図をリンクして掲載してありますので、小百科事典的にご利用になれます。
[総目次]
大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記 総目次 1/3 9月6日
大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記 総目次 2/3 9月6日
大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記 総目次 3/3 9月5日

東京大空襲~あれから61年~(その1) まえがき3月10日
東京大空襲~あれから61年~(その2) まえがき3月11日
大森町界隈あれこれ(8) 鎮魂! 大森町大空襲(第1回)  初回4月13日
(9)第2回、(10)第3回、(11)第4回、(12)第5回、(13)第6回、(14)第7回、(15)第8回、(16)第9回、(17)第10回、(18)第11回、
大森町界隈あれこれ(19) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第1回) 第2編初回5月25日
(23)第2回、(25)第3回、(26)第4回、(27)第5回、 (28)第6回、 (29)第7回
大森町界隈あれこれ(K30) 手記第3編 終戦前後目黒にて(第1回) 第3編初回7月3日
(K31)第2回、(K32)第3回、(K33)第4回、(K34)第5回、(K35)第6回、(K36)第7回、
(K37)第8回、(K38)最終回、

[大森町界隈あれこれ 大森町に65年] 連載6回掲載
大森町界隈あれこれ(1) 大森町に住んで65年!(その1)  初回3月19日
(2)その2、(3)その3、(4)その4、(6)その5、(7)その6、

[大森町界隈あれこれ 大森町の社寺] 連載8回掲載
大森町界隈あれこれ(20) 大森町の社寺(1) 諏訪神社その1 初回5月28日
(21)諏訪神社その2、(22)諏訪神社その3、 (24)浅間神社、(L30) 巌正寺の水止め舞
(L31) ささやかに鎮座する貴船(貴菅)神社
大森町界隈あれこれ(L32) 大森町の社寺 谷戸三輪神社秋の例祭 9月15日
大森町界隈あれこれ(L33) 大森町の社寺 大森神社(寄来神社)  9月28日

[大森町界隈あれこれ 大森町商店街] 連載2回掲載
大森町界隈あれこれ(M30) 大森町商店街 大森町サマーフェスティバル 初回8月5日
大森町界隈あれこれ(M31) 大森町商店街 ミハラ通り夜店フェスティバル 9月13日

[大森町界隈あれこれ 大森海苔物語] 連載1回掲載
大森町界隈あれこれ(5) 大森海苔物語(1) プロローグ   初回4月3日

[大森町界隈あれこれ 京浜急行] 連載2回掲載
大森町界隈あれこれ(P30) 京浜急行 京浜急行の高架化(その1)  初回8月9日
(P31) 京急歴史(1) 大森海岸と大森間に電車が走る(その1)

[大森町界隈あれこれ 大森町風景] 連載3回掲載
大森町界隈あれこれ(N30) 大森町風景 大森ふるさとの浜辺公園の砂浜開放 初回8月7日
大森町界隈あれこれ(N31) 大森町風景 旧東海道(三原通り) その1 9月13日
大森町界隈あれこれ(N32) 大森町風景 梅屋敷公園 9月20日

[風景・風物詩] 連載13回掲載
[東京百景]
風景・風物詩(A1) 東京百景 山の上ホテルとその周辺(その1)  初回7月11日
(A1)その1、その2
[夏の風物詩]
風景・風物詩(B1) 夏の風物詩 入谷の朝顔市 初回7月17日
(B2) 浅草ほおずき市 その1、その2、(B3) 川崎大師風鈴市、(B4) 江戸三大祭 富岡八幡例大祭(その1)、(その2)、(B5) 夏の風物詩 日比谷公園丸の内音頭盆踊り大会、 
(B6) 夏の風物詩 ヨコハマカーニバル ハマこい踊り
風景・風物詩(B7) 夏の風物詩 浅草サンバカーニバル 9月2日
風景・風物詩(B8) 夏の風物詩 高円寺阿波踊り 9月8日

[小さな旅] 連載10回掲載
小さな旅(1) 秩父長瀞の蝋梅と火祭り 初回3月12日
(2)菩提寺墓参、(3)清澄庭園・深川江戸資料館、(4)京都日帰り桜・花見 その1、その2、
その3、その4、 (5)旧古河庭園、 (6)矢切の散歩道(野菊の墓) その1、その2

[イベント] 連載4回掲載
春の花とアルス五重奏団コンサート 初回4月11日
 土と木とメルヘンな鉛筆画のぬくもり三彩展を鑑賞、
倉澤杏菜 ベルリン芸術大学留学記念 ピアノリサイタル
(4) 東京都美術館 第61回日本書道美術院「教育部展」
イベント(5) 歌舞伎座観劇 秀山祭九月大歌舞伎夜の部 9月23日
イベント(6) 運動会 お茶の水小学校運動会 9月26日

[ITと技術] 連載5回掲載
パソコンは、いつでもまともに動くとは限らない  初回4月21日
 パソコンは突然に機嫌が悪くなる、
 トラブル多頻発で、奮闘に追われる我が家のパソコン その1、その2
 地球シミュレータ(海洋研究開発機構横浜研究所) 見学

[秋葉原界隈] 連載5回掲載
秋葉原界隈(その1)  初回3月9日
  秋葉原界隈その2、秋葉原界隈その3、続・秋葉原界隈(1)秋葉原クロスフィールド完成、
  続・秋葉原界隈(2) 秋葉原UDXに昔懐かしい「須田町食堂」が、

[Weblog] 連載1回掲載
kan-haruのgooブログ日記 初回3月8日

[INDEX]
番外編 ブログ記事の参照地図を拡大して見る方法 [付 kan-haruの日記3月月間INDEX] 初回4月1日
4月月間INDEX、5月月間INDEX、6月月間INDEX、7月月間INDEX、8月月間INDEX、
・番外編 カテゴリー別ブログ記事の検索と見方 [付 kan-haruの日記9月月間INDEX] 10月1日

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(9月分掲載Indexへ)
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