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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第4編 配給生活談義 第1回

2008年08月17日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2008

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昭和戦後史 第3編までの若山武義氏の手記の解説では、断片的にその時々の戦中・戦後の参考情報を記載しておりましたが、昭和戦後史 第4編の連載に当たり戦前から戦後時代にかけての大森町や疎開先での生活について、60数年を経ているの記憶は殆んど失念していますが、出来る限り想い出して経過順に整理して記録していきます。

千住から大森町への転入
大森町への転入は、1936年(昭和12年)の3、4月頃、東京都足立区千住寿町35番地から当時の大森区大森6丁目2654番地(拡大地図参照)に越して来ました。転入地は、父が勤務先の第1京浜国道から分岐した産業通りのすぐ先にありました。当時は大森区役所(現在の大森警察署)ビルの向かいに面した木造2階建ての1階が会社事務所兼社宅で、その1階の和室と台所に2階の和室が大森町での最初の住居地となりました。

 昭和16年大森区大森町地図と大森町会社事務所兼社宅(大森町拡大地図および転入地付近詳細地図)

大森町は大森区の中心地
このあたりの地形は、第1京浜国道と産業道路とのロータリーの付いた分岐点であり、この分岐点から北北東に旧東海道の三原通りが分岐しています。分岐点の南側は、国道が旧東海道上に敷設されて第1京浜国道となりました。当時は、まだ第2京浜国道は、存在していません。
分岐点北の旧東海道の三原通りを通らずに、第1京浜国道が分離して造られたのは、昭和初期以前には大森町一帯は大森区の中心地で賑わいを見せており、三原通り商店街は大森地区の繁華街で古くからの暖簾のある多数の商店が密集していたので、新設国道がルートを避けて造られました。

昔の大森は海苔の一大生産地
また、大森地区は江戸時代以前から、養殖海苔の一大生産地であり、1964年の東京オリンピックの間際までは生産を続け、海苔の品質は随一を誇り昔はお上に献上した実績があり、今日でも大森にはかなり多くの海苔問屋があり、高品質の海苔の加工・出荷が行われています。大田区には、東西に流れ東京湾に注ぐ3河川の内川、呑川、六郷(多摩)川があり、川の上流から流れてくる栄養分の含まれた水が、東京湾で養殖の海苔の生育に好適な環境で生産に恵まれていたのです。

このように、昭和初期の大森町は大森区の中心街であり、劇場、映画館や金融機関、商店や工場が連ねてあったところでした。なお、現在の第1京浜国道際の大森警察署は、三原通りにありました。
また、大森町を南北に貫通して運行する京浜急行電鉄の大森町駅は、戦前には山谷から大森山谷駅と称しており、環7通り際の平和島駅を元は学校裏駅と称していました。当時は、環7通りは未だ貫通していなく、第1京浜国道で終点の澤田通りと呼んでいました。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) 配給生活談義 第1回

ヤミ生活
過般、食糧メーデーの時、赤旗を立てて押しかけた連中と食糧管理局の役人との押問答。「配給の二合一勺で生活してる」と答弁に苦しむ御役人、聞く方も聞く方だ。答弁する御役人も役目の上にさぞつらかろ。然らばこの十日、二十日、約一ヶ月の遅配、欠配に此の人方は何たべて居るだろうか、まさか空気と水とのみとは考えられない。或は、御役人と我々の量目は、同じ二合一勺でも量り方が違うのかしら、とにかく算術では割り出せない問題である。
お偉い方々は、家来眷族が唯々諾々と、セッセと運ぶから、お芋の煮えたも御存じあるまい。全くおうらやましい限りである。
去る四月の総選挙に、千人が千人の候補者は、「主食三合配給断行」と主張し、声をからしてどなった。但し己れが天下をとったら必ず三合配給するとは云わなかったから、ただ提灯をつけただけに過ぎない。
嘘も偽りもない、一日働くに四苦八苦、今日迄配給以外の物資で生きて来た事は事実である。大臣も、議員も、役人も、赤旗かついで純綿のおにぎりほゝばった人達も、共に云わず共に語らず。公然の秘密か、なんと称するか知らんが不思議の事である。
首相の宮様の仰せられし如く、我等国民は、ひそかにヤミでなければ生活出来ない事をよも否定する人はあるまい。

食糧供出
そこで昨年は空前の不作で四千万石を割ったとの公表である。供出以外に、日々夜々蟻の運ぶ如く汗を流して運んだ数量は、この四千万石の内に含まれてるのか、それとも落穂なのか。落穂としては、あまりにも莫大な数量と推想される。こゝで先ず生産農家、指導者の代表意見を聞くとしよう。

○ 第一に、我が郷土の上野南郷村長曰く
泥田の中の味を知らない役人には、この農民の気持を、素直に供出に持って行く「コツ」
を御存知ない。私はつくづく役人の頭の悪さを残念に思う。そこで、私は百姓の事は、増産も供出も村の自治体にまかせ、農民の自治性に訴えよと叫ばずに居られない。
 従来も政府は、すべての施策は目先の手しかうてなかった。農民も目先の利潤には敏いが、将来の見透しが利かない。これでは、陽と陽で相反発し合うばかりではないか。どちらか陰にならねば呼吸がピッタリしない。して見れば、実際作るのは百姓だから、当然百姓に自主性をもたせ、国家は受け身の立場になれば、百姓はぎりぎり一杯の手持ち残してさらけ出してしまう事請合だ。
 納得させて百姓の愛国心に訴えるのだ

 もう百姓は、お上の腹はすっかり判って居る。笛や太鼓では踊りはしない。
 もう一つは供出の値段だ。いも七貫匁割当てになったが、米がないので一貫匁喰べてしまった。そうして、一貫匁五円余りで買って来て供出した処、全部七貫匁の供出代金が五円に足りなかったと云う。こんな馬鹿の事を強いるから、百姓も自分を守る事に努力するが当然である。農家は米を作って喰べて余りを売って生計を立てる。だから、放っておいてもどうせ出すものを「出せ出せ」というたでは、殻を固くしてしまうばかりではないか。この心理は、心理学者にでも研究してもろう必要がある。
 亦私個人の考であるが、百%の割当てを九十%にして、残りを自由販売にさせる案だ。勿論無茶な闇値は禁止してやらせたら、滑らかに供出されて、生産意欲がぐんと向上すると思う
と。

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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第3編 我等の生活談義 第6回

2007年11月11日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

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戦後のインフレ
戦後のインフレを語るには、いわゆる物価統制価格(配給品の価格)である公定価格に基づいた物価指数が使われ、1934年(昭和9年)~1936年(昭和11年)の物価指数平均を1とした値を基準として扱います。若山武義氏の手記に出てくる「丸公」は、公定価格のことで、当時は○の中に「公」の文字を入れた丸文字が使用されておりました。
当然、公定価格に対して、配給以外に物資を調達する自由・闇価格の定価の2本立ての経済となり、戦後の双方のインフレ率を見ると公定価格で測ったインフレ率は,自由・闇価格で測ったインフレ率を大きく上回っていたと、大蔵省財政金融研究所「フィナンシャル・レビュー」(1994年)が示しております。

この資料によると、戦後のインフレである日本銀行の卸売物価指数(旧指数)は、1945年9月の346.6から同統計の公表最終月である1948年12月の20825.1まで、3年3か月の間に60倍(連続複利ベースでは月率10.5%、年率126%)上昇しました。
同じく小売物価指数は、1945年8月の475. 1から物価水準の最初のピークである1949年5月の37386.9まで、3年9か月の間に79倍(連続複利ベースでは月率9.7%、年率116%)上昇しました。

また、公定価格ベースの消費財物価指数は、1945年10月の3.21から物価上昇の勢いの弱まる1949年5月の315.38まで、3年6か月の間に98倍(連続複利ベースでは月率10. 9%、年率131%)上昇しました。このように、終戦直後からドッジ安定化政策の始まる1949年初めにかけての3年強の間、公定価格で測ったインフレ率は月率で10%前後、年率で120~130%であったことが示されております。

新円切替え
終戦によって、戦費捻出のために発行された戦時国債の償還、軍需物資に対する支払い、進駐軍による円の大量印刷、復員兵の帰還費用の捻出、戦後復興させるための資金供給のためのお金はいくらあっても足りず、日銀は沢山の日本銀行券を発行したため、カネにみあったモノが不足する状態となりインフレが発生しました。

そこで1946年2月16日(土曜)、第一次総合インフレ対策として、金融緊急措置令を含む「経済危機緊急対策」が発表され、翌日実施し旧円が新円に切替えられ預金封鎖が行われました。
預金封鎖は、2月17日(日曜)現在における預金を閉鎖して、旧紙幣は3月2日(土曜)をもって強制通用力を失い、新円との引き換えは2月25日から3月7日までの間に強制預入の形で行われることになりました。さらに、10万円を超える資産に対して25%から90%の財産税がかけられました。

そして、標準世帯生計費を500円と定め、一般勤労者の給与等は一か月500円までは新円による現金払で、それ以上は封鎖払とされました。封鎖預金からの現金引出は、原則的として毎月世帯主に300円、世帯員一人につき100円に限定されました。また、3月30日からは一律一人100円までの限定となりました。
金融緊急措置令により、日銀券は2月18日の618億円から3月12日の152億円へ収縮したものの、4月からは増加に転じ、9月には旧円封鎖直前の最高発行高を突破し、金融緊急措置の影響は一時的なものでした。

戦後のこのインフレは、ドッジ・プランなどの幾多の施策により、1947年10月に182.2%のピークに達した後,インフレ率は次第に低下し、1947年秋から1949年秋まではインフレの減速期となり、1949年秋以降はデフレ期に入りやっと収束したのです。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) 我等の生活談義 第6回

持たざる者勤労階級の庶民生活
我々大衆の預金は、一体どこに飛んで行ったのであろうか。委く生産資本家と農漁村の懐に鞍替してしまったのである。事実の説明は、金融、産業あらゆる資本家階級と農漁村の新興成金の財産税や所得税は、我々の懐から納めてやった事になる。即ちこのインフレの様相は、聖書の教え給う如くに
 持てる者は尚その上に与えられ、持たざる者は持つもの迄も奪わるる

と。かくて富める者はいよいよ富み、貧しき者はいよいよ貧しく、貧すれば鈍する、悲しき事実である。インフレを我が世の春と記う階級と、日に月に重圧に苦しむ勤労階級と、一線を引いて二つに区分することが出来るのである。

庶民の悲願 主食三合配給
我等庶民の悲願は只々一つ、主食三合配給、これである。
祖国再建の為めの重ねての増税、結構である。我々の枡で量ったきまりきった収入から勤労所得の二割徴収、これもよろしい。欣然と応ずる。鉄道、郵便、莨なんでも値上げ、夫れも当然よろしかろう。
 但し主食三合配給を条件としての上の事である。

収入はピッタリ押さえて置く。徴収の税金、消費の値上げは遠慮会釈なくとり上げる。「不足の主食はヤミ買いせよ」と云う事は、我々庶民階級が貯蓄も何も使い果たした時に自殺を強いる事になるのである。
然らば、三食三合果たして不可能であろうか。今、社会の現象と各方面の意見を茲に綜合して見よう。

前議会で会える選良は、議政壇上から「大臣諸公と雖も、よもや二合一勺の配給で生活してる訳はあるまい」と質問して苦笑せしめた。かく質問する御当人も二合一勺の配給で生活してる訳ではないから、お互いに配給以外の生活を肯定したのである。

配給だけの生活をして居ったら、栄養失調で死んだ大学の先生の後を追うのみである。「あいつ栄養失調で死んだ」と云われたくないばかりに、乗車券の入手に二日か三日立ち通し、駅より二里、三里遠しとせず、叩頭百遍、やっと買った重荷を汗水流して殺人汽車電車にもみくちゃにされ、やっと我家に辿りつくまでは真に薄氷を踏む思いである。これで幾月の補給が出来るのかと思うと、考えた丈でもぞっとする。況や育ち盛りの子を多く持つ母の労苦は並大抵の事ではない。とても書きつくせるものではない。

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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第3編 我等の生活談義 第5回

2007年11月09日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
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戦中・戦後の食糧消費統制
1940年には、砂糖、塩、醤油が配給制になり、1941年4月から東京、大阪、名古屋、京都、神戸、横浜の六大都市において、米穀の一人一日二合三勺(330グラム)の配給が行なわれました。当時の日本人の中等程度の勤労作業を行う成年の米の消費量は、一日430~500グラム(三合~三合五勺)とされております。この配給量のみでは、約二割も少ないもので、外食、混食、代用食等何等かの方法によって補給しなければ食糧不足となる状況でした。

配給開始当時は、開戦直前であり配給量を補給する食品の入手もまだ比較的余裕がありました。しかし、開戦後の1942年7月には、主要食糧の国家管理体制の強化が施行され、食糧管理法にもとづいて「中央食糧営団」が東京に設けられて、米穀・内地米は政府が農家からすべてを供出・買上げ、外米は政府が輸・移入を行ない、直営配給所を通じて消費者に配給が行なわれました。

また、麦類(大麦、小麦、裸麦)は政府が農家からすべてを買い上げて、これを業者に依託して精麦あるいは乾麺、乾パン、小麦粉などに加工し、一般消費者には米の代替品として配給を行ないました。甘藷、馬鈴薯も、すべてを買い取り、このうち副食物用は青果会社に売り渡し、また主食物として総合配給に加える必要のある場合には、一般消費者に配給が行なわれました。

配給内容の低下
1939年12月の米穀搗精等制限令の施行によって消費節減のため、お米は七分づきを強制されたので、配給米の内容は当初七分づきでしたが、1940年の夏ごろには京浜、阪神などの大都市においては、外米の混入率が50%から70~80%にも及びました。
1942年8月には米の変わりに乾麺が一般家庭に配給され、同10月には配給米に仏印産のひき割玉蜀黍の混入が実施されました。

1943年に入ると配給米は五分づきとなり、代用食に馬鈴薯や小麦粉、乾パンが配給されるようになり、さらに、大豆10%、外米20%、稿米20%、内地米50%が米に混ぜて配給されるようになりました。その配給米も、二分づきとなり、大政翼賛会の指導のもとに玄米食普及の国民運動が展開されました。

さらに、雑穀の主食代替による「綜合配給制」が実施され、同年秋の甘藷の収穫期からは甘藷が、同年冬以降においては脱脂大豆(大豆粕)も代替食糧に加わり、1944年度からは穀粉もこれに加わりました。
代用食の混合率は、1943年度には10~20%程度でありましたが、1944年度には30~40%以上と増加されました。

1945年にはいると食糧事情は極度に窮迫化し、混合割合が増加し6月ごろの東京都における状況は、お米五割に大豆、食用粉等の代替物五割から、さらに食糧事情の逼迫でお米四割に玉蜀黍、高梁当の代替物六割となり、7月ごろになると実際の混合率は70%以上となり人間が生活していくには、ヤミの食糧の購入量がかなり必要となり、善良な国民は悪性なインフレに見舞われ、耐乏生活の生き地獄を味わらされたのです。

しかも、ついに主食配給量そのものの10%削減が7、8月に実施され、8月15日の終戦に至ったのです。
戦後も、飢餓地獄は続き、1947年10月に東京地方裁判所刑事部判事の山口良忠氏は、闇物資を拒否して配給食糧だけの清節を通し、栄養失調で餓死すると云う事件が起こり、現在の衣食住が満ち足りた時代のいまの人には信じられないような、多くの凄惨な事が起こりました。(日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働者状態 法政大学大原社会問題研究所編 1964年発行 出典)


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) 我等の生活談義 第5回

主食の配給とヤミ値
日華事変初まっての後、十五年の初め頃までは、兵隊さんのおかげです、兵隊さん御苦労さまで、其の慰問袋に、缶入りのエァーシップ、ドロップス、純綿の越中や手拭で袋に包んで、格家庭が供出する程の余裕、物資があったのである。
あ〃あ〃、あの時代にもう一ぺんなってくれんかなと、長大息するのは、我れ一人ではあるまい。今日只今は夢の夢である。

主食の米麦が営団の手で配給されるようになったのは何時からか記憶にない。企業合同、なんでもかんでも統制流行のトップを切ったものと思う。初め二合三勺、十八年の夏頃のヤミ米が一升四円位の時迄は、外食券なしでも、どこの食堂でもめしは喰べられた。汽車弁あり、そば、うどん、天丼、うな丼ありで、狸の腹鼓迄行かんでも先ず腹をすかして歩く必要はまずなかった。亦今日のように腰弁で歩く必要もなかった。「給仕、今日は僕もり二つ」とどなって居られた。

其のヤミも翌年は二十円から三十円と飛び、更に五、六十円と飛躍し、宿やに行こうが、温泉に行こうがお米持参。通勤から、どこに行くにも持弁。今日此頃は三俵一万円の、一升百円のと、上海の話かと思うと東京のヤミ程の話であり、我々には手も足も出ぬ。米の二十倍から二十五倍はまだよしとするも、生鮮食料の野菜、魚の百倍余の暴騰には悲鳴を挙げざるを得ない。

一皿四十銭の当時の切身の魚は十五円から二十円、一盛十銭の茄子やきうりがお安く致しましての十円から十五円、水密、夏みかん一ヶ十円、ぶどう、桜桃一粒五十銭、一銭か二銭で買った子供の「飴」がなんと十円。おどろき、桃の木、さんしょの木である。

去る三月、お母ぁからおばあさんのへそくり迄まき上げて一旦収縮した日銀券も、百五十億から八月一日には既に五百億円をを突破した。此の勢いで毎日々々日銀の窓口から二億、三億と云う札束が、速射砲のように吐き出され、年末には一千億円を突破するだろうと思う。

戦争中、ヤレ国債だ、ヤレ定額だと、隣組の何時も物議の種の貯金、それが今日毎月の生活費と引出される。竹の子生活である。物交の品はなくなる、貯蓄はつきてなくなる。たとへ現在の五百円の枠をはずされても、今では、使い果たして二歩も残らぬ実情なのである。

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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第3編 我等の生活談義 第4回

2007年11月07日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
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戦前・戦後の飢餓地獄
1941年(昭和16年)に戦争に突入してから、政府が定めた一日一人主食米二合三勺の配給は、生存に必要な最低限度の食糧でしたが、東京大空襲のあった昭和20年3月以降の配給は遅配・欠配が続きました。
東京では敗戦の直前の6月には、3ヶ月間も配給がとまり、まさに飢餓地獄に陥りました。

しかも、主食食糧の配給品は、米・麦はほとんど無く、代用食と称し高粱(こうりゃん)、とうもろこし、脱脂大豆(豆粕)や煮ても柔らかくならないさつま芋などです。
それも同年7月には、生存最低限な食量配給がさらに削られて、二合一勺となりました。

配給は、主食だけでなく、生活必需品のすべてが配給制で、調味料の塩、醤油、菜種油も配給品でこれらも欠配続きです。特に、砂糖の配給は昭和19年から停止されておりました。
たばこや酒も配給で、二級合成酒が一家庭二合と決められていましたが、遅配・欠配でありました。

8月の終戦を迎えても、配給は改善されるどころかますます劣悪となり、主食配給に食べられない芋がらなどが配られた時もありました。
ともかく、大変な食糧難の時代で、飢餓は昭和22年頃まで続きました。
連合軍は、最初には放置しておりましたが、後になり大変だと援助することになり、国外から食糧が入ってきましたが、初めの頃は主食配給品には、キューバ糖やオレンジ缶ジュースなどが見られました。

これも、だんだんとコンビーフ、コーン、ハム、ソーセージ缶や混じりけのない食パンなどが配給になり、食糧飢餓からやっと改善れてきたのです。
副食の魚の配給も、戦時中には漁獲しなかったので豊漁で、東京ではすけそう鱈がしばらくの間タンパク源となりました。

当時、少量のお米の配給もありましたが、まったくの玄米であり、そのままでは食べ難いので、各家庭では配給のお米を一升瓶にいれ、篠竹棒で突っいて多少でも白米にして食べたのです。
終戦直後は、焼け野原で土地が空いており、自給の食糧生産に励み焼け灰により収穫もよく、食糧不足の足しにしたり、ヤミの買い出しなどの努力により、何とか切り抜けたのです。

しかし、物資不足は、食糧以外の全製品にわたり、昭和24年に焼け跡の土地を借りてバラックを建てたのですが、建築材が配給で窓のガラスもしばらく入らず、板貼りの状態で大変な時代でした。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) 我等の生活談義 第4回

インフレ生活
前大戦のドイツ、現在のハンガリー、莨一本買うのに我々は千円紙幣を出す様になった時は、石橋さんの云う本当のインフレかも知れぬが、そうなったら日本の破滅だ。
現在丸公さえ、昭和12年からの騰貴指数は十一倍七分五厘、ヤミの十八年十二月から現在迄の騰貴平均指数(砂糖の如き我々に不必要なものを除き)二十四倍五分である。祖国再建に生きて働くには、配給以外に三分ノ一以上殆ど半数のヤミ物資を必要とするのである。それが大部分主食と生鮮食料品の補給にかぎられるのである。勿論おでんやでヤミ酒一杯のむ余裕のないギリギリの苦しみなのである。

今日の五百円生活、此の基準は、十年前から十倍の諸物価値上りを見ての算出である。相当生活物資の出廻る事を予想しての事であると云う説明である。前記の通り丸公さえ十一倍七分五厘である。配給だけの生活なら稍々十分であろうけれ共、ヤミ物資と云うものの勘定を入れぬお上の算盤なのである。

十年前の社会生活世相
なる程、十年前は、たしかに東京市民三人位の生活で所得五十円なら、細々ながら貯蓄も出来、ゆかたの一枚位は毎年変えたのは事実である。但し、但しですよ、当時の社会生活の世相は次の如くであった。

もり、かけ、とうふ、湯銭が仲よく五銭、安食堂で定食三品付十銭から十五銭、酒屋、魚屋、八百屋の御用聞きがうるさい程来る。銀ブラがえりに明治製菓あたりでミルクの香りのよい御自慢のコーヒー一杯十銭、而も角砂糖がきれいな容器に山程出して置いて入れほうだい、お好みのままの御接待である。今日は帝劇、明日は三越、各デパートは商品珍品山と積み、食堂は亦競争で珍味佳肴を華麗にならべて食欲をそそり、休憩室に入れば、可愛いガールさんのすすめるお茶はのみほうだい、マーク入りのマッチは使いほうだい、おかえりには二ツ三ツたもとに無断頂戴してかえるから買う必要がない。

デパートの屋上から東京を見渡してみる。先ず御婦人方の虎やの羊かん、夜の梅、栄太郎の甘納豆、風月のカステーラ、塩瀬の梅干、岡野のもなかとならべて立てれば数限りない。兎に角、御自慢の味を看板にして売ってくれた。我々にした所で、飲むと食うのには事かかぬ。南は橋善、天金、浅草では松喜、ちんや、牛山盛りの米久、財布の軽い時は吉原土手まで足をのばしてけとばしや、たまさか思い出しては金万のふぐのひれ酒、到る処、粋な小料理、江戸前御料理、乙な姉さんの御酌でも鎌足公一枚で沢山。いよいよ苦しい時は風呂帰りに屋台のおでんやでコップ二、三杯ひっかけて、お好みおでん三ツ四ツ、おまけに茶めし二、三杯かっこんでも、ギザ二枚で事足りた。

新婚の夫婦、めしたくのは七面倒なりと仰せ遊ばして、何もかも仕出しや、煮しめやで事足り、箸一本持って居なくとも不自由のなかった時節である。

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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第3編 我等の生活談義 第3回

2007年08月22日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

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戦後の食料難と労働運動
敗戦の食料不足と、インフレによる物価の高騰での生活苦には、国民は当然ながら労働運動に参加し激化しました。
日本では戦争中から食料品を始め、殆どの品物が配給制となっていました。これは、戦争で若い青年が戦場へ動員され、労働力が不足し生産能力が足りなくなり、空襲によって工場、輸送機関が破壊され、肥料や農機具も不足していたからです。
そこへ、戦地に行っていた人約350万人、外地にいた人約300万人が帰国し、1割近く人口が増えました。

おまけに、1945年の米の収穫は平年の2/3の4千万トンしか穫れず、大変な食料難で配給される食料だけでは餓死してしまうので、闇と言う配給以外のルートで品物を買うことでしのいでいたのです。農家は配給に回す品物を、出来るだけ闇ルートに回す事になり、配給食糧はますます不足となります。
闇で品物を買うのですから、当然高くなり大変なインフレーションになりました。
終戦直後の主食の配給品に、煮ても軟らかくならない甘藷や芋がら、小麦フスマなどが米の代わりに配られたような酷い時代でもありました。
そこで、米国はガリオア資金を日本に貸与し、アメリカで余剰食料品を買い、小麦粉・とうもろこし粉などが主体で米の代わりに配給になりましたが、当時は砂糖やトマト缶ジュースなども米の代わりでした。

サラリーマンの給料は毎月賃上げと言うわけにはいきません。一方物価は毎日のように上がっていきます。闇で食料を買おうとしてもお金がありません。農家ではお金を貰っても、お金の値打ちがどんどん下がるので、代わりの品物を要求します。そこで今まで持っていた着物を持って行き食料を分けて貰いました。1枚づつ着物がはがされていく事から竹の子生活と言いました。

マッカーサーの施政改革として、東久邇終戦処理内閣から引き継いだ幣原首相と会見し、改革指令を出しました。一つは労働組合の奨励であり、又共産党員等政治犯の釈放もあり投獄されていた共産党の指導者が一斉に釈放されました。
それにより労働組合の結成が相次ぎ、10月には各地でストライキが始まり、その要求は賃上げの要求で2倍から5倍という激しいものでした。
会社側ではストライキに対してロックアウトで対抗し、組合員が会社へ入ることを禁止し、ロックアウト期間は賃金を支払わないというものです。そこで組合側は実力で会社に押し入り、経営者の入場を阻止し、かってに会社の機械や原料を使って操業しました。これを組合による生産管理といいます。

1946年4月19日の米寄こせデモでは30万人が参加し、その一部は首相官邸になだれ込み、その鎮圧に占領軍は装甲車を出すほどでした。余りにも行きすぎた闘争にマッカーサーは、集団暴動と呼び警告を発し、6月に政府は「生産管理は正当な争議行動と認めない」と声明を出しました。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) 我等の生活談義 第3回

インフレその2
そこで今度は、政府の公定価格がどれだけ低物価政策に、机上に於て努力しても、其の丸公さえインフレの波に引きずられ、下表の騰貴である。

   ○ 昭和十二年七月日華事変勃発の頃を基準とす



上表の如く丸公さえ、主食の平均十割、生鮮食料の四十割から百割の暴騰である。これに対し、我々勤労階級の待遇は如何程改善されしや、兎の疾走に亀である。故に其の苦痛、生きんが為の言語に絶する。敗戦後インフレは当然でるとは雖も、全く寝ては夢、さめては現実に米櫃のカラカラ不足に泣くのが腹にこたえる。茲に当然、待遇改善に、賃金棒給値上げに結束して要求せざるを得ぬ破目となった。

戦争中は総てなにもかにも弾圧されてきた。敗戦と共に一挙に民主主義、祖国再建は我々勤労者の双肩にあり、天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず、人間は総て能力に於て平等に生活する権利あり、と、茲に
  闘争だ、争議だ、生管だ、
しののめのストライキと、あの手この手の戦術でやっと増給が三倍か五倍である。それでも、一先ず安心と、息つく束の間もあらばこそ、この兔はひるねをせぬ、却って二足も三足も飛躍して、亀さんここまでおいでと手招きして居る。
瞬刻も其の日の生活に安心出来ぬが、我々庶民の姿なのである。

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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第3編 我等の生活談義 第2回

2007年08月20日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

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新円切り替え
第二次世界大戦に敗れた日本経済は、戦争によって国富の約4分の1を失いました。それにより、生産水準も戦前の2~3割にまで落ち込み、大きな痛手を被りました。
そうしたなかで、終戦処理費として巨額の財政支出を出費されたことから、日本経済は激しいインフレに見舞われ、国民生活は極度に窮乏化しました。実際には、1935年(昭和10年)の卸売物価水準を基準として、終戦時には3.5倍、1949年(昭和24年)には208倍を記録するなど、復興期の日本経済はハイパーインフレの渦中にありました。

これにより、政府では1946年(昭和21年)2月に、金融緊急措置令および日本銀行券預入令を公布して、5円以上の日本銀行券を預金や貯金、金銭信託として強制的に金融機関に預入させました。こうして、既存の預金とともに封鎖したうえ、生活費や事業費などに限って新銀行券による払い出しを認める「新円切り替え」という非常措置が実施されました。

金融緊急措置の実施に伴い、金融機関からの預金引き出しは厳重に制限されましたが、一定の生活資金や事業資金については新円での払い出しが認められたため、封鎖預金の払い戻し請求はかなりの金額に達しました。
これにより、日本銀行券発行残高は金融緊急措置実施後1か月のうちに6割にまで縮小したが、その後再び増大しインフレの減速は一時的なものにとどまりました。
これは、マネーサプライ増大にある財政赤字の削減が、進まなかったからでした。

しかし、1948年(昭和23年)に経済安定9原則が連合軍総司令部から発表され、続く翌年には、均衡財政による財政の健全化と、1ドル=360円の単一為替レートの設定を主たる内容とするドッジ・ラインが実施されて、インフレも終止符が打たれました。

・尺貫法
日本では江戸時代から尺貫法が用いられ、1891年に制定された度量衡法により尺・貫を原器により定義し、メートル法も認める体系となり、1921年にメートル法を基本とする度量衡法を改正し国内単位の統一を計り、1951年に度量衡法は廃止され計量法が制定されて、土地・建物を除きメートル法が実地されました。
全面的な実地は1966年のことであるが、現行計量法は1992年に公布されました。
 長さ 1尺 = 30.3cm
 重さ 1貫 = 3.75kg
 容積 1升 = 1.8リットル


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) 我等の生活談義 第2回

インフレその1
一体全体物価はどれ程暴騰したものか、第一お札の方から見る事にしよう。
昭和十二年日華事変の頃は発券高二十億円に過ぎなかったのが、二十年一月百七十億円、七月末二百八十五億円となり、終戦の八月十五日三百三億円、九月四百二十億、本年モラ旋風ストップ六百十八億と三十一倍に膨張したのである。それが新円となってとにかく百五十億円におさまったのである。
処が、ヤミ値は「おさつ」のふくれる通り足並そろえて値上がりしたから面白いのである、然し面白いというのは生産家だけ、配給以外ヤミ生活を強いられている我々勤務消費者は泣きつらに蜂である。

 ○ヤミ値の騰貴率  「主要物資のみ」
              ・二十年十月迄は日銀調査
              ・本年七月は自己調査
              ・最高、最低は主として品質による


上表昨年十月迄の分は、日銀がその職員と関係業者とを動員して、一種目に付き五十から約百の報告を基準にして、其の平均化したものである。十月迄の平均暴騰指数は三十四倍となると。

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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第3編 我等の生活談義 第1回

2007年08月17日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

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玉音放送
62年前の1945年8月15日も、朝からじりじりと照りつける暑さの厳しい最中、疎開先の校庭で正午からの昭和天皇による玉音放送を聞くために召集され、整列したことは決して忘れることが出来ない出来事の記憶でした。
前のブログでも記述しましたが、当時のラジオの性能は、校庭の隅々まで音声が届くものでは無く、前列中央の一部の者しか聞き取れないものでした。放送が終了して、校長先生の「解散」の号令を聞き、何があったのかは帰宅して家に着くまでは戦争終了は分からなかったのです。

当日は朝から「賢き辺りにあっては本日正午から重大発表を行なうので、必ず聴くように」と繰り返しアナウンスされていて、このラジオ放送は国民にとって敗戦の象徴ともいうべき出来事であり大きな衝撃でしたが、当時国民(小学)6年生にとっては事の重大さの理解が深く及ぶものでは無い年齢でした。
疎開先では、米軍の艦載機が飛んで来て、人が動くと機銃掃射で攻撃される日々を送っておりましたが、戦争が終わって機銃掃射も受けなくて済むことと、夜は灯火管制で黒い布で覆っていた照明が明るくなったことが嬉しく感じたことでした。

終戦直後の生活記録
終戦により秋には大森町に引き上げて、戦後生活を送ることになりましたが、悲疎開先での悲惨な生活は終止符をうちましたが、戦後の欠乏生活もそれ以上に大変なものでした。
1945年(昭和20年)代の終戦直後の生活記録は、現在殆ど無いのが現状です。
若山武義氏の大戦の空襲戦災体験から始まる手記は、終戦翌年の11月末まで続き、大変貴重な記録です。
今回から、戦後編の第3編 我等の生活談義を掲載して行きます。是非、周囲の皆様にもお伝え頂き、このような時代もあったことを知って頂けたらと思います。

掲載中の若山武義氏手記
[戦中編 1944年11月~1945年8月]
1 大森町界隈あれこれ 鎮魂!大森町大空襲(第1回第11回)
2 大森町界隈あれこれ 手記第2編 戦災日誌中野にて(第1回第7回)
3 大森町界隈あれこれ 手記第3編 終戦前後目黒にて (第1回第9回) 
[戦後編 1945年9月~1946年11月]
4 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第1回第8回
5 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第2編 天皇制の問題集 第1回第6回
6 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第3編 我等の生活談義 第1回~


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) 我等の生活談義 第1回

政府の配給だけでは生きてゆけぬ
悲しい哉、我々は武士の子ではない、「おなかがすいてもひもじゅうない」とヤセがまんは出来んし、「武士は喰はねど高楊枝」と、庶民にはそのようなき持ちなどあろう筈がない。
「このガキ、なんでめしくわないんだ」と、どなわれどなわれ育って来た今、たべ盛りの子供に「あんまりたべてくれるな」と制限せざるを得ぬ破目なのである。

我々階級は戦争以来、インフレと食料不足に苦しめられ通しである。殊に昨年終戦後、泣きつらに蜂の空前の凶作、満州、朝鮮、台湾を失った今日、主食の不足二千万石、一千万人の餓死者が出るとおどかされ、浅ましくも生きんが為め食物の収奪に無我夢中、昨日の相場は、今日の値段ではない。金のある連中はあるにまかせて大仕掛け、ない者はないで七置き八おき、物交やりくり算段で買いだめしたのである。其の為め、たださえ混雑の人殺し電車、汽車。昨秋の千葉、埼玉の冠水芋買出しの情勢を、為政者はなんと見たか、説明して欲しいものである。

インフレではない、物のキキンであるとは石橋さんの説明である。勿論たしかに其の通りである。金のキセルもつめてのむ莨がなければ用をなさぬ。乞食が小判をだいて餓死するのであるから、まさしく物のキキンである事は其の通りである。生産の昂揚さえせばインフレは消滅する。故に生産振興の生きた金ならどしどし使う。インフレはインフレで克服する、毒には毒を以ってする筆法である。

今茲に腹ペコの我々は、高遠なる論議は其の道の専門家におまかせする。ただ、戦後このインフレの怒涛のなかを、いかに生きて来たか、亦今後一層苦しかるべき生活を、如何に生き抜くべきかを考えるより外に手はないのである。率直に結論を申せば
  政府の配給だけでは生きてゆけぬ
問題はただこれ丈なのである。

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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第2編 天皇制の問題集 第6回

2007年07月15日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

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昭和の風景
「昭和 写真の1945~1989」の写真展の主要写真を掲載して、その時代背景を写真史的に担当の学芸士が解説したガイドブックに、「昭和の風景」(東京都写真美術館編 新潮社)があります。
「昭和の風景」の書籍も写真展と同じく、同名のタイトルで第1部から第4部に分けて編集してあります。
本の帯書きに、「敗戦、占領下のどん底から這い上がり、高度成長を遂げ、そしてバブルまで――激動の昭和に生きた写真家たちは、ファインダーに何を見、印画紙に何を焼き付けようとしたのか?」とあり、「貧しくとも活気と希望にあふれていた昭和」の美術館所蔵の名作で辿る、写真昭和史と紹介しています。


希望と活気のある社会
帯書きに書いてある通り大東亜戦争を生き抜き、終戦のどん底から這い上がり、昭和30年代の復興期に入ると誰でもが、貧しいけれども何となく希望があり、気力を持って過ごせた時代でした。この頃を生き抜いた世代には、現在の物資は豊富で科学が非常に進歩した今の生活は、何か幸せを感ぜず、生きがいも見出せず、物が無く貧しくとも張り合いが持てた昭和30年代とは、何が違うのか考えてしまいます。

当時中学生の秋に赤い羽根共同募金の第1回活動で、手作りのボール箱製募金箱を持って、電車の出札口付近で街頭活動を行うと殆どの人がつり銭を募金して呉れ、忽ち予定金額を超えましたので最後の頃は、赤い羽根を消化させるため金額に係わらず渡したことの思い出があります。
戦後の生活は、全員が食料難で物資が無く貧しいどん底の状態でしたが、人心は自分より貧しいひとには助け合う気持ちが強く、それが募金に現れておりました。
戦争中の軍と官に騙されていた国民は、この様な状況から自分たちで何とか脱皮しようとの考えを持っての生活が活気に繋がり、昭和30年代に至り戦後の復興が見えてきた時で、まだ貧しいながらも希望に燃えておりました。

戦後のどん底生活
若山武義氏の手記は、次回から編を移して昭和21年9月に記した、当時のどん底時代の生活記録の「我等の生活談義」編の貴重な情報を掲載します。
昭和20、21年頃には、「昭和 写真の1945~1989」の写真展や「昭和の風景」の図書で見られる通り、巷には私と同年の浮浪児が溢れ、当時の省電都内各駅近くには闇市の露天が繁盛していました。

学習用品の買い物のため、運転数が少ない超満員の電車に乗降りするには窓からの出入りで、車体の前後部面にある僅かの突起部に足を乗せ、窓の柱に手をかけてホームまで移動するという命がけの荒業も行う必要もありました。また、当時の電車には、車両の先頭か後ろを区切って、米軍専用車が付いており、のうのうと数人程度の乗車を見ても羨ましい気持ちは持ちましたが、何故か癪に障る気持ちは起きませんでした。
「昭和の風景」を閲読すると、当時12歳の頃の想いが走馬灯のように駆け巡りました。これからも、若山武義氏の手記の進展と共に、昭和20年代の数少ない記録解説を記載します。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) 天皇制の問題集 第6回

満州国建国の実相
先きにシンガポール攻略の際、無条件降伏をイエスかノーかと英将に大喝一声せる山下将軍も、比島に於いて勝敗所を異にし、遂に比島軍事裁判に於いて死刑を宣告されしに対し、マッカーサー元帥の裁決は、真に武士道の真髄として感激せざるを得ぬ。

 「軍人というものは、敵であれ味方であれ、弱者と武装せざるものを保護するのが本務である。若し軍人に寄せられたこの神聖なる信倚に背反するならば、それは軍人に寄せられた尊敬を冒涜するに止まらず国際社会の構想を脅かす事になる」
然して
 「摩下部隊が祖国、敵国及人類に対する自らの責任を果さず軍人としての信義に侼ったものである」
と断じて、何等か情状酌量すべきものを見出さんとして意見を再検討せるも遂に此の死刑の判決に同意を遺憾ながらせざるを得ぬという趣旨である。

本間中将と共に、部下の人道を無視せる残虐行為の責任を問われたのであるが、殊に此の裁判に、遥々マニラ迄飛んで行き、夫君の為め其の証人台に立った本間中将夫人の心情は、まさに世紀の悲劇である。
日華事変に、南京初め至る処、人として為すまじき悪逆無道、続々として立つ幾多の証人によって実証され、真に慄然たり。

此の鬼畜に等しき、神を恐れざる悪業を為したるものは我が同胞なのである。更に運命の人として証人台に立った元満州国皇帝溥儀氏は「皇帝は一切の自由を奪われたロボットに過ぎず。妻は日本人に毒殺された」と憤然として述べ、満廷を驚かせ、全世界驚かせた。
かっての我等の生命線、王道楽士、満州国建国の其の実相はかくの如きものであったのであろうか、今日初めて我々はこれを知ったのである。

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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第2編 天皇制の問題集 第5回

2007年07月13日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

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昭和の風景「昭和 写真の1945~1989」展
前回記載の「昭和 写真の1945~1989」展開催の東京都写真美術館(目黒区三田1-13-3)は、恵比寿のガーデンプレス内にあり、開館時間は10:00~18:00(木・金は20:00まで)で月曜日と年末年始が休館です。美術館の展示室は、常設コーナーはなく1階ホールでは映画や人形アニメなどの演劇などの催しの会場です。
写真の展示会場は、2、3階の展示室とB1階の映像展示室があり、各会場はテーマ別の写真を展示しており、テーマー毎に個別料金を払って入場します。

    東京都写真美術館       美術館3階展示室入り口

「昭和 写真の1945~1989」展は、3階展示室で第1部から第4部までの期間を区切っての開催で、入場料は一般が500円、学生が400円、中高生・65歳以上が250円の他、第1部から第4部の通し券もあります。
第1部は終了し、現在第2部が開催されておりますが、若山武義氏の手記に合わせて第1部の「オキュパイド・ジャパン(占領下の日本)」で展示されていた写真を振り返って見ていくことにします。

第1部の写真展示構成は、[パート1]「廃墟――焦土からの出発」が27作品、[パート2]「オキュパイド・ジャパン――闇市・P.X.・女性」が36作品、[パート3]「解放――エロスとリアル」が40作品、[パート4]「復興――『戦後』という風景」が22作品の鑑賞ができました。
このうち、手記の年代の昭和20~23年に写した写真は、[パート1]が26点、[パート2]が26点、[パート3]が23点、[パート4]がなしで、計75作品もの貴重な記録が見られました。

手記第5回の極東国際軍事裁判に関しての写真には、作品番号49「東京裁判」木村伊兵衛作1948年(昭和23年)の出展がありました。
若山氏の手記にもあります様に、1946年(昭和21年)の元旦に新聞各紙に掲載された、いわゆる「人間宣言」の昭和天皇詔書で年があけました。1月4日にGHQから「侵略支持者」などに公職追放指令が出されました。5月3日には、東條英機元首相などのA級戦犯28人が出廷して極東国際軍事裁判(東京裁判)の審理が始まり、2年半後の昭和23年11月12日に判決を言い渡して終了しました。
木村氏の写真は、昭和23年に撮影したもので、被告たちの姿をユーモラスに描き出されております。
今後、若山氏の手記の解説には、「昭和 写真の1945~1989」展の資料を参照していきます。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) 天皇制の問題集 第5回

極東国際軍事裁判
南原帝大総長は、「学者としての信念を、切なる憂国の気持ちを以って述べたままである」と。洵に我等国民の総意をのべて呉れられたものと思う。
陛下に一切の責任を負わせ、国民に塗炭の苦しみを興えたる戦争責任者、「国民を欺瞞し之れを世界征服の挙に出ずるの過誤を犯さしめたる」かっての軍国の指導者達は、今東京の極東国際軍事裁判の公判に全世界の視聴を集め開延されつつある。その真相は新聞にラヂオに、日々これを知って唖然とするのみである。

 自存自衛の戦にあらずして、真に侵略戦争である乎。
然し我が国は明治維新以来其の人口逐年増加し、当時三千五百万人位だったのが五千万人となり、六千万、七千万となった。狭い日本に住みあきたと、逐次北米に南米に移民となり、日露戦争後は、満州に進出し、生きんが為めに必死の努力を続けたのが事実である。然るに先ずアメリカが我が移民を禁し、これが南米各地に波及した為めに、遂に我が過剰人口は勢い満州、朝鮮に進出せざるを得ず、一方国内の軽工業勃興、低賃金、長時間労働により生産されたる綿布及び雑貨の市場たる中国より日貨排斥を受け、全世界相手の輸出貿易も到る処関税の障壁に阻止された。
此の国際的〆め出しは、国内的には未曾有の混乱をまき起こし、即ち大正の中頃から昭和にかけての農村極度の窮乏、街に失業者の氾濫、加うるに赤之に跳躍し、人心の不安の絶頂の秋、茲に満州事変起り、日華事変に発展、遂に大東亜戦争迄止まるなく、今日の破目となったのである。

今日迄公開せられたる証拠及証人の陳述は、正に軍閥の侵略戦争である。何が故に、我が民族の生存の為め、この当然なる主張を武力に訴えず平和的に出来なかったものであろうか。
何が故に世界から総スカンの〆め出しをくったのか、今後の新日本建設に、来るべき国際貿易参加に、十二分の反省を要する処であるが、とにかく、此の裁判に当り、我が民族の生存上武力に訴えた理由を、被告となった東條氏初め御身等の名誉の為めにも、明瞭に我々国民の得心の行く様に堂々と所信を述べて頂きたい。今や「まないたに乗った鯉」である以上。
其の起訴状に対し被告として各々其の無罪を主張した上にも、此の裁判は洵に公平無私である。夫にしても、かっての敵国人に、国境と恩讐を超え、真摯に弁護の労をとるアメリカの人々の「爾の敵を愛せ」を実践せらるる、真実に感激せざるを得ぬのである。

捕虜虐待事件の横浜初め各地の裁判に於ても、各事件毎にアメリカ人の弁護人がつき、罪を憎んで人を憎まずか、熱心に、真に涙ぐましき努力を為されつつある。この悪逆無道の人道に反したかっての敵国人の行為に、アメリカ人として弁護に立ってくれる崇高博愛、其の裁判の至公至平、真摯熱心なる弁護、これが本当に民主主義の真姿なのであると思う。

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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第2編 天皇制の問題集 第4回

2007年07月11日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

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「昭和 写真の1945~1989」展
東京都写真美術館で、「昭和 写真の1945~1989」展が開催されました。
戦後の日本はさまざまな変化を遂げ、焼け野原からの復興と人びとの生活の変化がありました。写真の展示構成は、東京都写真美術館の収蔵作品の中から、戦後の「昭和」を象徴する約600点の写真を選び時代別の4期に分け、第1部では、戦争の惨禍の後、占領下におかれていた昭和20年代を舞台に、新しい価値観を持ってこの時代をとらえた「オキュパイド・ジャパン(占領下の日本)」が、5月12日から6月24日までの期間開催されました。

丁度、若山武義氏の手記も、昭和戦後史を掲載中でもあり、昭和20年代の写真展はあまりなく関心がありましたので、期間中の6月23日に見てきました。
なお、この写真展の開催は、現在第2部の「ヒーロー・ヒロインの時代」では、力道山から長島茂雄、吉永小百合など、エネルギーにみちあふれた昭和30~40年代のヒーロー・ヒロインの姿を通じ、この時代を表現した展示が6月30日から8月19日まで開催中です。

また、第3部「高度成長期」昭和30~40年代 Part.2 が、8月25日~10月14日に開催され、第4部「オイルショックからバブルへ」昭和50年代以降 が10月20日~12月9日まで開催されます。

・写真展から見る「廃墟の時代」の想い
第1部の写真展示は、[パート1]「廃墟――焦土からの出発」の写真が27点あり、展示の写真の前に立つと、当時実体験の悲惨な姿が眼の前にありありと浮かんできて、しばしもの想いいに耽りました。
展示作品の中に、「敗戦の日の太陽、高田」(1945年8月15日)撮影の写真がありました。この写真を見て、すぐに、若山武義氏手記の、大森町大空襲爆撃で逃げまどって土手の上で、翌朝見た太陽の印象「ああ、深紅の太陽」(「大森町界隈あれこれ(15) 鎮魂!大森町大空襲(第9回)」参照)が浮かんできました。地球上で、どんなことがあっても、太陽はいつも同じ姿を見せます。
1945年8月15日は、関東は快晴で暑い太陽がじりじりと照り付ける中、私は疎開先の国民学校の校庭に集合して玉音放送を聞き、その時の照り付ける太陽が忘れられない記憶です。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) 天皇制の問題集 第4回

政治法律上の責任なし、道徳的に責任あり

しかも陛下に最後の叡才がないわけではなかった。日本が存亡の最後の関頭に立ち至った時、国民を滅亡の渕から救うため、御一身を以ってポツダム宣言の受諾を宣明されたと云うことは、私共にまだ生々しいことである。今次の大戦において、陛下に政治上、法律上の責任のないことは明白である。しかし、御聖代においてかくの如き大戦が起り、しかも開国以来完全なる敗北で国民を悲惨な状態に陥し入れたことについては、宗祖に対し、また国民に対し、道徳的、精神的な責任を最も強く感じていられるのはけだし陛下であらうと私は拝察する。諸臣は臣節を弁えず、責任をとらず、その中にあって陛下がその御自覚を持たるることは、けだし我国至高の道徳の表明であって、我々が国民の中心として皇室を尊崇して来た所以であり、今後祖国の再建の精神的礎石は一にそれにかけられているからである。
このことを更に十分に御自覚遊ばされ、静かに苦悩に堪えられて、この歴史的混乱の時代を、憲法の改正へ、更に能うべくんば平和条約の締結へと御躬ら尊き義務を果たされてあることを私は拝察し、陛下の御心事に涙なきを得ないのである。

「自由の国」の建設
降伏後八ヶ月半、連合軍の指令下とは云え、いかに多くの変革が今上陛下の時代において行われつつあることであろうか。我々は戦の敗れたことを悲しむよりも、新しい日本の胎動を瞠目して待つものである。然してそれは陛下本来の御意思、亦国民本来の要望の実現に外ならぬ。即ち平和国家、高遠な理想を自覚した文化国家の創設。再び大権の名に隠れて国民の自由と批判を猱 する余地と危険の見出されぬ民主国家。もはや人が人により抑制と圧迫を加えらるることなき「自由の国」の建設である。

これ、世界に伍して恥ずるなき完全なものまでこの国を高めんとする君民一致の悲願に外ならぬ。この為には、古きが故に保持されると云うのではなく、むしろ進んで惜しみなく放棄せんとして、これを御自身事実の上に証明されつつあるのか陛下であろうと存じ上げる。そこにいささかの不自然さもない。
近く新憲法が制定されよう。あくまだポツダム宣言の條章に従い、日本国民の自由の意志の表現によって出来たものでなければならぬ。今迄の大権の中の多くのものが削られても、なほ、日本国家構成の最高の実現、日本国民統合の象徴として、天皇は永久に維持されなければならぬ。
それは単なる天皇制護持ではないのである。我国の長い歴史において、民族の結合の本源においてそれを支持して来たものである。それは、君主主義対民主主義という対立を超え、一君万民、国民共同体そのものの本質としてである。

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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第2編 天皇制の問題集 第3回

2007年06月09日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

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日本国憲法
日本の現憲法が成立したのは、1946年11月3日で、施行日は翌47年5月3日です。
当時の政府は、ポツダム宣言の要求に従うには、基本的人権の尊重をより強化するよう憲法を改正しなければダメだという程度の認識は持っておりました。
GHQは、憲法改正を必要としながらも、改正は日本のイニシアティブで行われるべきだと考えており、1945年10月、憲法改正、人権確保のための五大改革を当時の幣原喜重郎首相に要求し、同首相は松本烝治国務大臣を長とする憲法問題調査委員会を設置し、改正案づくりにとりかかりました。

1946年2月1日、毎日新聞が憲法問題調査委員会のつくった草案を掲載し、それを見たGHQは、予想とはかけかけ離れて天皇を主権者とし明治憲法と殆ど変わらないものなので、日本国政府につくらせるわけにはいかないと決断しました。
2月3日、民生局長のホイットニー准将に象徴天皇、戦争放棄、封建制は意思の三原則に基づくGHQ草案をつくるよう指示し、秘密裏のに作業が進められました。
何も知らない日本政府は2月8日、改正案をGHQに提出しましたが、これを握り潰して、13日に日本政府に政府案の拒否を告げ、同時にホイットニー草案が渡されました。これが現在の日本国憲法となったのです。

日本政府は絶対権力者であるGHQの指示に従うしか方法はなく、GHQ草案をを日本文に訳し、日本が自主的に作成した形をとって、3月6日に公表したのです。新憲法制定の手続きは、大日本帝国憲法の改正という形式を踏んで、枢密院に諮詢し可決、次に帝国議会に提出し、若干の修正後、衆議院、貴族院で可決、11月3日に公布されました。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) 天皇制の問題集 第3回

 無智な山奥の老婆は
天子さまも戦さに負けておいたわしい。東條の奴らにくたらしいたらないぞ、無智と云われようが、無批判と罵られようが、我々庶民は戦争に対する責任は絶対に陛下にはないと信ずるものである。
日本国民を欺瞞し、之をして世界征服の挙に出ずるの過誤を犯させしめたる者の権力及勢力

即ち、かっての我が国の指導者である現在の戦争犯罪人の一連を心から憎まざるを得ぬ。

 日露戦争の時
  明治天皇御製
   四方の海みなはらからと思ふ世に
     など波風のたちさわくらむ

この御製の翻訳を読んだ当時のアメリカ大統領閣下は、明治天皇は真の平和愛好者であるとし、日露和平に協力せられたる由に聞く。
今回の戦争開始の御前会議に、今上陛下は右御製を御読み上げになり
 朕は常にこの御製を拝誦して、故大帝の平和愛好の御精神を紹述せんと努めて居るものである。
と宣せ給うた旨、故近衛公の手記にある。
近く憲法も改正される今日、こうした特権階級、虎の威を借る柧共の再び生まぬように天皇制の改正は出来ぬものであろうか。

これに対し、全国民の真意を吐露せるものとして、南原帝大総長は、本年の天長節式典で「天長節に際して」として大要左のような講演をせられたのである。
  
 ○悲壮なる御命運
  我が国歴史始まって以来、今上陛下ほど最も多事多難な時代に、最も悲壮な運命を担われた方はないと申してypかろう。
  御即位後、幾多の不祥事件、五・一五、二・二六等重大なる事件、更に満州事変、支那事変、そうして、遂に太平洋戦争に突入したのである。
  一個の人として、何よりも平和を愛せられ、立憲国の君主としては国民の意志の総てを尊重せられ、およそ独裁あるいは英雄的な王者型ではあらせられぬこの天皇の時代に、この重大なる戦乱の起こった事は、何としても日本民族の悲劇的な運命と云わねばならぬ。
 天皇の英断が、なぜこうした事件を止めることが出来なかったと云う嘆声を発する者もあるが、あの專暴の限りを尽くした軍閥、これに迎合した超国家主義者の力の前に、重臣等が之を阻止し得ず、歴代の内閣が却って之を支持してこれに参加し、国民の唯一の代表機関たる議会が付和雷同し、言論機関迄がこれを謳歌しておるその中で、この事を天皇に要望するのは、不可能を要求し奉ることと同じ事である。

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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第2編 天皇制の問題集 第2回

2007年05月15日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

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総選挙
戦後最初の総選挙は1946年(昭和21年)4月10日に行われた。これは前年12月17日の選挙法改正で20歳以上の男女が投票権を得て、はじめての選挙であった。女性作家の生田花世の文章を使った選挙ポスターも、女性の投票を呼びかけている。
選挙を前に政党の再編も進んだが、1946年(昭和21年)1月4日のGHQによる公職追放令により、共産党以外の既成政党、とりわけ旧翼賛議員を中心としていた進歩党は大きな打撃を受けた。選挙の結果は、鳩山一郎率いる自由党が第一党となり、また39人の女性議員が初めて誕生した。そして鳩山の追放後、自由党総裁を継いだ吉田茂が進歩党との連立内閣を組織することとなった。東洋経済新報社社長であった石橋湛山もこの選挙で自由党から立候補し、落選したが大蔵大臣として入閣を果たした。なお、第1回の参議院の選挙は翌年の4月20日に実施された。

戦後最初の総選挙における有権者数及び投票率
選挙当日有権者数(人)  36,878,420 
投票者数(人)  26,582,175
投票率(%)  72.08 (男 78.52、女 66.97)


            戦後最初の総選挙ポスター

 



若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) 天皇制の問題集 第2回

我等の天子さま
今回の総選挙に当たり、産業、金融、地主等富裕階級の代表たる自由、進歩の両党は、自己の地盤を守る為め当然現状維持の天皇制絶対支持を一枚看板にしたのである。群小小会派及び無所属も国民大衆の心理をつかんで、天皇制に関する限り、自由、進歩と同一歩調であった。
社会党は、天皇の大権を大幅に縮小の上の天皇制を主張し、共産党は親の仇のように天皇制打倒を一本槍にしたが、大衆の気持ち察してか、野坂氏は「天皇制とは軍、官、財、これ等の閥と警察閥の一聯の政治組織を天皇制と称するので、之を徹底的に打倒する。天皇と皇室とは別である」と訂正したのである。
実際戦争中迄、御幸の際は、憲兵、巡査の垣、最戒裡に御通過なさるのである。まるで善良な国民を乱臣、賊子扱いで隔離する。

 皇室は特権階級のみの皇室ではないのである。
かく、戦争迄は特権階級の為にあまりにも利用された。所轄奃龍の袖に巧妙隠れて天下に号令したのである。
血盟団。五・一五、神兵隊、二・二六事件と血なまぐさき一連の思想は、要するに君民一如を邪魔する時の軍、官、財閥の排除を目的とし決行されたのである。
靖国神社大祭に御親拝の陛下の御写真は、御尊容神々しく拝されるけれど、龍顔なんとなくともらせ給うよう拝され申す。然して、御親拝を奉迎する遺族は、老も若きも、妻も子も、感激の涙と共に手を合せ拝して居る。
子を、夫を、父を、御国に捧げて、御奉公出来た事を心から真実の感激、偽りなき涙である。

敗戦となって此の信念は動揺したであろうか、否、みじんもゆるぎないのである。
天皇の詔書に現御神たることを否定された陛下は、セビロにソフトの平服で、戦災地から復興途上の産業施設、農村に御巡幸になって、親しく庶民に伍して、老婆にも、無邪気な子供にも親しく御言葉を賜り、亦申上げる事にうなずきさせ給う。新宿にては、御巡幸に熱狂せる民衆は、警戒制御を突破して陛下の御身辺に集り、期せずして純真な万歳を絶叫したのである。これでこそ、特権階級から取戻した、我々民族の心から敬愛申上げる事の出来る我等の
 天子さま
である。

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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第2編 天皇制の問題集 第1回

2007年05月03日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

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若山武義氏の手記も、今回から昭和戦後史の第2編に入ります。1945年(昭和20年)代の終戦直後の記録は非常に少なく、大変貴重な戦後史の資料です。
 戦後史第1編 大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第1~8回

若山氏の手記は、大戦の大空襲の戦災に遭遇された空襲編の3編も掲載済であります。是非この貴重な記録を閲読して頂き、お知り合いの皆様方にもご紹介願えれば、記述者におかれましても満足されるのではと思います。
 戦災日誌第1編 大森町界隈あれこれ(8) 鎮魂!大森町大空襲(第1~11回) 
 戦災日誌第2編 大森町界隈あれこれ(19) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第1~7回)
 戦災日誌第3編 大森町界隈あれこれ(K30) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第1~9回) 
 
終戦の詔書
終戦の詔書は、天皇の大権に基づいてポツダム宣言受諾に関する勅旨を国民に宣布した文書で、1945年(昭和20年)8月14日発布され、これにより戦争終結が公式に表明されました。同日、天皇は詔書を録音し、その内容は翌15日正午にラジオ放送を通じて広く国民に報じられました。
これが、玉音放送(「大森町界隈あれこれ(K33) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第4回)」参照)であり放送の時間は正味4分10秒間であったと記録されております。
放送時間が正午を選んだのは、最も聴取率が高い時間帯であったからと云われております。当日は、学生・生徒は学校に、町会隣組は隣組単位に集合してラジオ放送を聞いたのですが、当時のラジオは性能上多数の人に聞かせるものはありませんでしたので、大部分の人は放送内容を聞くことができない状況でした。
終戦の詔書の内容を国民が見たのは、翌日の新聞記事でした。

終戦の詔書は、国立公文書館で所蔵されております。

詔書の全文テキスト文書は、国立図書館の電子展示会「日本国憲法の誕生」資料内の資料と解説・第1章 戦争終結と憲法改正の始動「終戦の詔書(クリック)」で閲覧できます。



若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) 天皇制の問題集 第1回

終戦の詔書

昭和20年八月十四日終戦の詔書に
 朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激
 スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ
 朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ
 将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコ
 トヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ

と仰せ給うて、敗戦に虚脱せる国民に其の進むべき道を宣示し給うた。更に元旦の詔書に、明治天皇開国五箇条の御誓文により新たに国運を開かせ給う旨を仰せられて
 朕ハ爾臣民ト共二在リ常二利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス朕ト爾臣民トノ間ノ紐帯ハ終始相互
 ノ信頼トニ結バレ単ナル神話ト伝説ニヨリテ生ゼルモノニ非ズ

と、天皇の現御神たる事を御否定遊ばされ
 朕ハ我ガ国民ガ時難二躍起シ当面ノ困苦克服ノ為メ二、又産業文運振興ノ為勇住センコトヲ希念ス。
 我ガ国民ガ其ノ公民生活ニ於テ団結シ、相倚リ相扶ケ寛容相許スノ気風ヲ作興スルニ於テハ、能ク
 至高ノ伝統ニ恥ヂザル真贋ヲ発揮スルニ至ラン斯ノ如キハ実ニ我国民ガ人類ノ福祉ト向上ノ為、絶
 大ナル貢献ヲ為ス所以ナルヲ疑ハザルナリ
 一年ノ計ハ年頭ニ在リ朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ自ラ奮ヒ自ラ励マシ、以テ此
 ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ  

敗戦後の新日本建設に付き懇篤に我等の向かうべき道を宣示し給うたのである。
 戦争華やかなりし頃、如何なる点が不敬であったのか所轄「天皇機関説」にて篤学の学者、思想家、の連中が学園より追放され、自由主義者と共に囹圄の人となった人々も相当あったのである。
「皇室に対する国民の感情は宗教以上の信仰である」と、クルーアメリカ大使初め我国に長く滞在した欧米人の皆一致して断定された通り、学問や理屈で説明の出来ぬ感情なのである。
 天皇制に対して、学者の学問的解釈に対し、ただ
  神聖にして犯すべからず
として、何が故に神聖であるかは、学問的にも倫理的にも説明されない。只、国民衆庶の牢固熱烈なる信仰を特権階級に利用され戦争となり敗戦となっあ今日、言論の自由から批判の対象となったのは当然である。

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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第8回

2007年04月17日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

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終戦直後の平和島捕虜収容所
前回に記述した平和島の前身となる小島にあった、連合国側の捕虜を収容する東京捕虜収容所の資料が、Web上で見つかりましたので紹介します。
資料には、「鳥飼行博研究室 東海大学教養学部人間環境学科社会環境課程」ホームページの中の「連合軍捕虜と日本軍捕虜の運命:POW」内に、貴重な「戦後の大森収容所(1945年8月29-30日ごろ撮影)」と:「戦後,大森収容所で米軍に解放された英米軍捕虜(1945年8月29-30日撮影);東京俘虜収容所本所」の写真と関連の記事が掲載されております。

今、思うと1945年4月15日の大森町大空襲の爆撃により大森町の大半は戦災して灰燼に帰しましたが、東京湾沿いの特殊鋼と大森ガス会社が焼けずに無疵であったのは、東京捕虜収容所がその北方の延長上(再掲地図参照)にあることで、友軍が収容されている場所の爆撃を避けたためではと考えられます。
3月10日の台東・江東区の徹底的な民家の爆撃は、東京の下町中に軍需工場が潜んでいるための攻撃であると云われております。このことから、軍需工場の特殊鋼とインフラのガス会社の格好の爆撃目標を外すことは考えられず、捕虜収容所への被害を及ぼすのを避けるため、両工場への爆撃を行わなかったのです。

・戦後再興時の平和島
東京都は、戦後の新しい港湾施設建設を目指し1950年に「港湾法」を制定し港湾計画を策定しました。これにより、勝島の整備や平和島の埋め立て工事が再開されました。
1960年頃の航空写真によると、勝島の競馬場施設と平和島の競艇場施設の姿が見られます。まだこの頃の平和島の面積は、1967年竣工で完成した時点(竣工面積:1,176,588㎡)の5分の1程度であり、大森町の海岸線は、やや大きくなった平和島の埋め立て部分を除き、4月1日にオープンの「大森ふるさとの浜辺公園」(「大森町界隈あれこれ 大森町風景 オープンの大森ふるさとの浜辺公園」参照)が東京湾沿岸でありました。

まだ1960年のころには、東京湾の大森海苔養殖は生産が行われておりましたが、平和島の埋め立てが進んだ1962年には、海苔漁場は埋め立てられ海苔生産は終わり(「大森町界隈あれこれ 大森海苔物語 のり祭り」参照)ました。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) マッカーサーの進駐 第8回

アメリカの指摘
右の文の内「彼等は国家の運命をかけて大賭博をやり」から「全国民に自殺を強要して己が罪をおおわんとして居る」の一句であるが、ポツダム宣言受諾の御前会議に、軍部は本土決戦を最後迄、御聖断の下るまで譲らず、あく迄強硬に主張したその真意なのである。
我が国民は、今日迄、最後の決戦は必勝の信念で、何もかにも我慢もし辛抱もして来たのである。此の敵の新兵器、恐るべき原子爆弾を封殺し更に一層強力な、一瞬に敵兵何百万でも撃滅し得る丈の新科学兵器が我が手にあっての上の主張なのかである。
仮に百万の米兵上陸しても、我れに迎え撃つ精鋭三百万、武器こそ劣れ共、本土防衛の力戦は元冠以上たるは勿論、一対一なら真実絶対不敗であろう。然しアメリカは犠牲の多い上陸作戦には応ぜず、徹頭徹尾爆撃と原子爆弾投下の科学戦に出たら、之に対応するだけの準備があっての上最後迄本土決戦を主張するのであったのか。

あればよし、なくての主張なら、アメリカの紙片の指摘する通り、大賭博であり、己が罪をおおわんとする為め全国民に全自殺を強要したものと断定せぬばならぬのである。茲に

 御聖断にある終戦の大詔は我等国民にとっては真の神風であった。
 とにかく、日米親善はぺルリ提督浦賀来航以来の我が国是であったのである。
此の日米親善に最善渾身の努力を尽されし故萌藤アメリカ大使の逝去を哀悼し、其の遺霊を巡洋艦にて我が国遠葬されたのはアメリカの国なのである。

日本は四等国か五等国
この戦争中、我が海軍の特殊潜航艇は遥かに遠くシドニーを襲撃した。襲撃の目的を達し戦死を遂げた四勇士に対し、豪州海軍はその勇敢なる名誉の戦死に海軍葬を以って懇篤なる弔意を表し、其の遺骨を我が引き揚げの官民に託したのも記憶に新たな処である。
かくの如き、武士道の神髄とする崇高博愛の歴史は我々祖先にも数々あった事は、故新渡戸博士の「英文武士道」に説きつくされてある。
然るに、今次の戦争に於いて我が同胞は、中国初め到る処に人道に反する悪逆無道何の罪なき無辜の民を殺椋行為如何に多かりしぞ、謝するに辞なく詫びるに言葉なしである。
戦争の敗因、科学の貧困、それもあろう。資源の不足、これも当然であろう。消耗の対する生産の不足、これも重大であった。然し兵力に於いては決して不足ではなかったと云う。
戦う精神に於いては遜色なく、寧ろ優位であったと云うではないか。
我が同胞は
 人としての道義を忘れた。祖先の武士道の精神をすっかり忘れた。
これが唯一の敗因であるとの賀川先生の言に、我々は今更この点を深思させられる。
マッカーサー元帥が我が国を四等国か五等国と指摘したのは、道義の低下を云うたものであろうかと思うのである。

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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第7回

2007年04月10日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2007

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戦後の大森町 その1
・終戦直後の住居地周辺の様子
疎開から引き揚げた1945年(昭和20年)秋頃の仮住まい付近の地域はどんな様子であったのかを、同年9月に米軍が撮影した空中写真から、陸測1万分之1地形図(1937年)を参考にして日本地形社が作成した、戦災復興院の大森5千分之1地図(1946年12月仮製版)を元にして、当時の記憶を元に編集した住居地周辺地図(地図参照)から再現してみます。なお、地図の文字が読みにくい場合には、地図を拡大(「番外編 ブログ記事の参照地図を拡大して見る方法 [付 kan-haruの日記3月月間INDEX] 」参照)して見てください。

・大森町の殆どは焼け野原
地図の大半の道路部以外が空白の部分は、1945年4月15日の大森町大空襲で焼け野原となった所を示します。地図上から見ると焼け残った部分は、地図東南部の東京ガス大森工場、日本特殊鋼とその両工場に挟まれた、引き揚げ後の暫定居住地付近の十数戸の住宅と、大森第五国民学校を含む近辺の若干の住宅の外、入新井一、二、四丁目の帯状の住宅と、捕虜収容所(後述)の島だけが僅かに戦災を免れたのでした。
東京急行京浜線(現京浜急行電鉄)の大森山谷駅は焼失のため暫くは営業停止が続きました。沢田通りとあるのは現在の環七通りのことで、当時は第一京浜国道で止まっておりました。
学校裏駅(現平和島駅)は、地図に示す通り当初は沢田通りの南側にありましたが、戦中の1943年に現在地の平和島駅の場所に移転されておりました。

・終戦時の東京湾海岸線
東京湾の海岸線は、東京ガス大森工場、日本特殊鋼の東側が海岸線であり、大森第五国民学校は海に接しておりました。
当時の東京湾の湾岸線を、米軍が1947年4月14日に高度6,705mから撮影した標準・縮小サイズ(撮影縮尺:1/43,740)の航空写真(国土地理院 標準縮小写真)と共に、小島部付近をトリミングした写真を掲載しました。当時のこれらの航空写真をみると、1939年の東京港修築事業による京浜第1区の埋立工事が開始された、現在大井競馬場のある品川区の勝島が、大戦による物資欠乏による工事が打ち切られるまでの一部完成した埋め立ての島の姿が見られます。

・当時の平和島は捕虜収容所の小島であった
大森第五国民学校の対岸には、防潮堤に接して小島(地図航空写真参照)が見えます。この小島は、勝島と同様に東京港修築事業京浜第2区の埋立工事により僅かな面積の埋め立てが進みましたが、物資欠乏で工事が中止となりました。
この埋立工事第2区の小島は、戦時中はアメリカなどの連合国側の捕虜を収容する東京捕虜収容所でありました。戦後は、一時東条英機ら戦犯の一時収容所になっておりました。
このような経緯から、平和への祈りを込めて「平和島」と呼ばれるようになりそのまま地名になりました。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) マッカーサーの進駐 第7回
アメリカの宣伝ビラ
敗戦の今日、なる程、満州事変以来政党の無気力に乗じ、官僚と組んで総ゆる政治に乗り出し、軍人にあらずんば人でないと云う程の勢いであった。勝てば官軍、負くれば賊となる、負けたら理も非となる故に、邪が非でも戦は捷たねばならぬ。歴史は後から創作出来るけれど、さりとて無名の師は許されぬ。邪は正に捷たざるは千古の金言である。
極東軍事国際裁判に被告となっている、かっての我が国の戦争指導者達である処の御歴々の人々よ。

  一将功なって万骨枯るる
の一句を御承知ない事はあるまい。このアメリカの宣伝ビラに対し、今日の我等は真に感慨無量である。
更に次ぎは、御紋章を中央にし、祟神天皇の践柞の御詔敇を掲げ、其の裏面に解説して曰く

  この詔こそ帝国永遠の真理である。然し現在の閣僚は帝国を安泰ならしめる大任を果たして
  居ない。彼等は平和を愛好せらるる陛下と国民との間に介在し、平和に対する上位下達、下
  位上達を阻害して居る。彼等は国家の運命をかけて大賭博をやり、完全に失敗しながら切腹
  して責任をとろうともせず、逆に国民に全国的自投を強要して己が罪をおおわんとして居る。
 
  日本には平和を欲する人が沢山ある。憲法に明示する権利により諸氏は陛下に直訴すべきで
  ある。彼等に国家と破滅させてはならない。
  軍閥が滅びた時は、雄略天皇の詔に「今宇内一衆の如く百姓堵に安んじ四夷叛くなく是れ天
  意の然らしむる処なり」と仰せられた様に、国家の再び栄える日を見る事が出来るであろう。

と。今日迄夢のように忘れて居た古事記の講義を先き様から承るのである。

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