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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合編(第27回)上り線高架化開通後工事

2010年06月30日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2010 京急蒲田駅の在来ホームの解体工事 

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上り線高架化開通後の工事は、旧上り線線路の踏切遮断機の下り線単線幅への移設工事と、旧上り線地上ホームの撤去工事が始められました。
各工区踏切遮断機移設工事
踏切遮断機移設工事は、第26回に記載の通り大森町第1踏切の移設工事が6月15日に行われたのが手始めで、同16日には大森町駅北方の平和島第5踏切が移設され、同17日には梅屋敷商店街通りの大森町第4踏切の移設の後に、同第3踏切の移設工事が行われていました。

 第1工区の踏切移設工事(:大森町駅北方の平和島第5踏切、:梅屋敷商店街通りの大森町第4踏切、:大森町第3踏切の移設工事)

第2工区の梅屋敷駅以南では同21日に梅屋敷第1踏切が、同第2踏切の22日に続いて同第3踏切が23日に移設工事が行われました。

 第2工区の踏切移設工事(:ホームに接した梅屋敷第1踏切、:梅屋敷公園北の梅屋敷第2踏切、:梅屋敷公園南の梅屋敷第3踏切)

京急蒲田駅北側の多摩堤通り(同第4踏切)の踏切も、同23日に見ると移設が完了していました。なお、蒲田駅南側の京急蒲田第2踏切は、元仮上り線線路はこれから仮下り線線路として転用されるため、同踏切の移設は行われていませんでした。

 京急蒲田駅北側と南側の踏切(:京急蒲田駅北の梅屋敷第4踏切、:京急蒲田駅南側の京急蒲田第2踏切)

第5工区の踏切移設工事は、同29日に見ると元仮上り線線路への分岐点である京急蒲田第9踏切では、元仮上り線路を閉鎖して踏切は現下り線路側へ移設されていました。この踏切移設は、前述のように今後下り線を元仮上り線路に移設するまでの暫定工事です。同踏切南部の京急蒲田第10踏切の移設は、同29日に行われました。

 第5工区踏切移設工事1(:元仮上り線線路がある京急蒲田第9踏切、:仲六郷小学校脇の京急蒲田第10踏切)

東六郷2丁目北交差点の京急蒲田第11踏切の移設は同24日に行われ、25日には熊野神社脇の同第12踏の移設が、また29日に見ると雑色商店街通りの同第13踏が移設されていました。

 第5工区踏切移設工事2(:東六郷2丁目北交差点の京急蒲田第11踏切、:熊野神社脇の京急蒲田第12踏切、:雑色商店街通りの京急蒲田第13踏切)

第7工区空港線の京急蒲田(空)第2踏切の移設は6月21日に、同第3踏切の移設は同24日に行われましたが、糀谷駅北側の同第4踏切の移設は7月4日の予定となっています。なお、糀谷駅南側の糀谷第4踏切の移設は、6月23日に見ると完了していました。

 第7・8工区踏切移設工事(:南蒲小学校北の京急蒲田(空)第2踏切、:南蒲小学校南の京急蒲田(空)第3踏切、:)

在来地上上り線ホームの解体工事
6月27日に大森町駅の在来地上上り線ホームを見入ると、在来上りホーム駅舎の北側部の屋根が取り除かれています。この部分は、高架ホームへのエスカレータの据え付個所にあたりますので、取付準備が行われるようです。同日京急蒲田駅でも在来上りホーム駅舎の解体工事が行われているのが見えました。

 大森町・京急蒲田駅在来上り線ホームの解体工事(:大森町駅の在来ホームの解体工事、:京急蒲田駅の在来ホームの解体工事)

一方、糀谷駅では6月7日に見ると在来地上上り線ホームの西側部の解体がかなり進んでおり、同27日にはホーム全体の解体工事が行われていました。

 解体が進む糀谷駅の在来線上りホーム(左上中上:解体中の在来ホーム西端部0607、右上左下中下右下:解体が進む在来線上りホーム0627)

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小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その5

2010年06月28日 | 小さな旅
kan-haru blog 2010 東京都復興記念館  

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最終回その5では、JR両国駅北側の史跡を散策しました。先ずは、歴史的に古い順に回り、勝海舟の病気平癒のため父小吉が水ごりをとった能勢妙見堂から開始します。

 両国北側散策地図

能勢妙見堂
能勢妙見堂(墨田区本所4-6-14)は、大阪能勢妙見山の別院として、1774 年(安永3年)5月11日に、下総之国葛飾郡本所横川町の旗本能勢筑前守頼直の江戸下屋敷内に創建して、妙見堂を建立して摂津ノ国妙見山より妙見尊像を分祀したものです。妙見堂は、大震災で大伽藍が焼失し境内を縮小して1930年(昭和5年)に再建がなったが、戦災により堂が再び灰燼に帰し1968年(昭和43年)に地元町内有志の浄財により復興しました。二度の火災により宝物は焼失しましたが、妙見尊像は難をのがれて御内陣に奉安されています。境内に鴎大善神の祠があり、その能勢の黒札は、江戸時代より魔よけの御守としてとして有名です。

 能勢屋敷妙見堂江戸地図

本堂に掲げてある略縁起には、勝海舟の父小吉が開運勝利のため水行をとって、祈願した経緯が書かれています。
能勢妙見堂へは、JR両国駅から清澄通りを北に進み蔵前橋通りを曲がり東に向かう、三ッ目通り交差点で北に進み、本所4丁目交差点の道路を右に曲がり3つめの交差点の左角が妙見堂の山門です。

 能勢妙見堂山門(写真拡大)

山門を潜ると左に能勢の黒札を授与する鷗稲荷大善神が祭祀されています。本堂を挟んで水神堂と手水舎があります。

 妙見堂境内(:かもめ稲荷、:水神堂、:手水舎)

中央本堂に吊るされている提灯には妙見山別院とあり、本殿前には阿吽の蹲踞の姿勢狛犬があるが、奉献年や石工名など不明です。毎年2月15日には正中山大荒行像出仕水行国禱会が行われます。

 本堂と狛犬(写真拡大)

稲荷堂の左の南側の塀の近くには、勝海舟晩年の胸像が建てられています。胸像の説明板には、『勝海舟九歳の時大怪我の際妙見大士の御利生により九死に一生を得その後開運出世を祈って大願成就した由縁の妙見堂の開創二百年を迎へ海舟翁の偉業を永く後生に伝えるため地元有志に仍ってこの胸像が建てられた 昭和四十九年五月十二日』と書かれてあります。

 勝海舟胸像(写真拡大)

復興記念館
・関東大震災
横網公園(墨田区横網2-3)は、もともと陸軍被服廠のあった場所で、1923年(大正11年)に陸軍から東京市が譲り受け公園の工事を進めていたおり、1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が発生し、更地になっていたため本所周辺の関東大震災の被災者が大勢避難していたところに、火災旋風により火の粉が運び込まれた家財道具などに飛び火し、炎の竜巻になって瞬く間に燃え広がり、3万8千人もの人々が焼死した場所です。震災による行方不明者を除く死亡者が確認できたのが東京市内で7万4千人であるので、この狭い公園の一角だけでその半数以上のを占めた大災害でした。
震災復興記念館は、関東大震災からの復興事業を記念するために、 震災記念堂(現:東京都慰霊堂)の付帯施設として建設されたもので、 1930年(昭和5年)9月に起工し、1931年(昭和6年)4月竣工、 1933年(昭和8年)8月に東京市に寄贈されました。
震災復興記念堂内には、当初陳列室を設けて被害品などを展示する予定でしたが、1929年(昭和4年)に帝都復興博覧会の開催で多くの資料が集まり、計画を変更して記念館の建設となりました。戦後に、戦災遭難者のご遺骨が慰霊堂に奉安されましたので、復興事業に関する諸資料を保存展示するとともに、 戦災関係の資料なども陳列されています。

 「関東大震災」小冊子

復興記念館へは、JR両国駅から清澄通りを北に進み、横網公園を入ると公園の北側にあります。

 復興記念館(写真拡大)

記念館の入館は無料で、1階が震災当時の記録写真や被害写真などが陳列されており、2階には絵画・帝都復興展での展示模型・復興資料の他、戦災関係資料・写真や各地の地震災害写真などが展示されています。

 記念館展示室(写真拡大)

なお、関東大震災の各地災害写真が、国立科学博物館のネットの「国立科学博物館地震資料館」の「関東大地震写真」で公開されておりますので、ご参照下さい。公開写真の本所・深川方面の本所安田邸跡の写真は、東京都復興記念館でこの立木とトタン板をそのままに保存されています。

 復興記念館で保存の立木とトタン板[左]と大震災時の撮影写真[右]

慰霊堂
・太平洋戦争大空襲
慰霊堂(墨田区横網2-3)は復興記念館の南にあり、関東大震災の後東京市内の災害の最も悲惨であった被服廠跡に、遭難者のご遺骨を納める霊堂として建てられ、「震災記念堂」と名付けられ、毎年9月1日の震災記念日に慰霊法要を執り行ってきました。
ところが、1944年の冬から首都東京は、太平洋戦争の大空襲により終戦までに延べ102回の爆撃により、処置した遺体の数は10万5千体を越え、不明のものを加えるとさらに大きな数にのぼります。

 「東京大空襲の記録」小冊子

関東大震災は突如として起こった天災でしたが、1945年3月10日の江東、墨田、台東、中央の下町各区空襲では、2時間半の絨毯爆撃で大小18万9590個の油脂焼夷弾による、市街地無差別攻撃により8万3千人の人が生命を失いました。4月15日には大森、蒲田の城南地区が空襲を受け、5月24日には中野、杉並などが焼野原と化しました。
大森地区の空襲被害の記録は、このブログの若山武義氏の手記を掲載してありますので、ご閲覧下さい。また、「63年前の東京大空襲傷痕 浅草、本所、深川の戦跡をめぐり平和を祈願する その1~4」の慰霊堂祈願の記事や、「東京大空襲資料展 64年前の3月10日は無差別爆撃で浅草、本所、深川の下町が大惨禍」の記事を掲載してありますのでご参照ください。
戦後、都内各地に仮埋葬されていた遭難者のご遺骨をこの堂に奉安し、1951年9月に名称を「東京都慰霊堂」と改め、空爆による被害が最も大きかった昭和20年3月10日の惨禍を偲び、毎年3月10日にも慰霊大法要が行われるようになりました。

 東京都慰霊堂(写真拡大)

・墨田電話局慰霊碑
三ツ目通りに面したNTT石原ビルの庭に、白い慰霊碑が立っています。1958年(昭和33年)3月10日に建立されたこの碑は、大空襲の夜に業火の中で最後まで電話交換の職務を遂行した殉職者を慰霊しています。当時の電話交換手は主に十代から二十代の若い女性でしたが、爆撃下でも重要な通信施設を守り抜くよう軍から要請されていたため、周囲が火に包まれても職場を放棄せず、最後までブレストと呼ばれる送受器を握り続けて殉職しました。
「由来
この慰霊碑は、昭和二十年三月十日未明の大空襲により当地一帯が焼野原と化した際、電話局も全焼し前夜から勤務していた十五歳を最年少とする電話交換手二十八名及び男子職員三名が最後まで職場を守り殉職された。職員の霊と、関東大震災において殉職された男子職員二名の霊を慰めるとともに、二度とこのような悲劇の起こらないことを祈願して昭和三十三年三月十日に建立されました。
慰霊碑右手前には吉川英治氏の自筆による碑文があります。
 昭和五十九年三月十日  墨田電話局」

 墨田電話局慰霊碑(写真拡大)

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小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その4

2010年06月25日 | 小さな旅
kan-haru blog 2010 勝海舟の生誕記念碑のある両国公園 

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今回その4では、前回までの回向院、旧国技館および吉良邸跡に続いて、両国東西に通る京葉道路と南に並行した竪川に挟まれた史跡の町を、さらに歩いて周りました。

 両国旧跡説明地図

小林一茶の旧居跡
小林一茶の旧居跡(墨田区緑1-3-4)付近は、1661年(寛文元年)に茶屋長意の拝領地となりましたが、すぐに上地された後の1687年(元禄元年に)に再度拝領地となりました。そして1694年(元禄7年)に御米蔵入堀常凌請負人拝領地が加わりましたが、1697年(元禄10年)に深川元町・六軒堀代地となって、初めて相生町5丁目(現墨田区緑1)と呼ぶようになりました。
小林一茶は、相生町5丁目に1804年(文化元年)から、祖母の33回忌に故郷に帰るまでの5年ほどを過ごしていました。
一茶は、1763年(宝暦13年) 信濃北部の北国街道柏原宿(現長野県上水内郡信濃町大字柏原)の農家に生まれ、本名を弥太郎といいました。3歳の時に母が亡くし、義母には馴染めず江戸へ奉公に出されました。奉公先を点々とかえながら、20歳を過ぎたころに、俳句の道をめざし、葛飾派三世の溝口素丸、二六庵小林竹阿、今日庵森田元夢らに師事して学びました。一茶は、江戸蔵前の札差夏目成美の句会に入って指導をうける一方、房総の知人・門人を訪ねて俳句を指導し、生計をたてました。貧乏と隣り合わせのくらしでしたが、俳人としての一茶の評価は高まっていきました。
一茶の住んでいた旧居跡へは、吉良邸跡の四つ角を南に進み、突き当りの道を左に曲がり、清澄通りを越えて行くと道路角の右側に小林一茶の標識が建っています。
標識の一面には、『一茶は、宝暦十三年(一七六三)五月、柏原宿(長野県信濃町)で、農家の長男として生まれました。十五歳の時、江戸へ出てきて苦労を重ねながら、一流の俳人となります。「我と来て遊べや親のない雀」の句等、人々に愛される独特な句風でした』とあり、反対の面には『彼の二十九年に及ぶ江戸生活の中で、文化元年(一八〇四)から足掛け五年間住んだこの相生町の借家が一番安定したすまいでした。故あって帰郷している間に他人に貸されてしまい、その後は、再び弟子や後援者の家を泊まり歩く漂泊の身となります。 昭和六十五年 墨田区』とあります。

 小林一茶の旧居跡(左写真拡大)

勝海舟生誕の地
勝海舟は、1823年(文政6年)に江戸本所亀沢町で、父小吉の実家の旗本の男谷家で誕生しました。本名は義邦ですが、幼名および通称は麟太郎と呼ばれていました。父小吉は三男であるため、男谷家から勝家に養子に出されました。勝家は小普請組という無役で小身の旗本でした。

 勝海舟生誕の地(goo地図(江戸切絵図)嘉永新鐫本所絵図から)

勝海舟生誕の地へは小林一茶の旧居跡から戻り、清澄通りを越えて2本目の通りの4つ角を右に曲がり進むと両国公園があり、公園内の東側に勝海舟の生誕記念碑がひっそりと建てられています。

 勝海舟生誕之地(:勝海舟生誕之地の碑、:由来碑、:勝海舟生誕の地説明板)

生家の男谷家で7歳まで過ごした後は、24歳で赤坂へ転居するまでは本所入江町(現在の墨田区緑4-24)で暮らしました。

 勝海舟生誕地と居住地(goo地図(江戸切絵図)嘉永新鐫本所絵図から)

芥川龍之介生育の地
芥川龍之介は、1892年(明治25年)3月1日に東京市京橋区入船町8丁目(現中央区明石町)に牛乳屋を営む新原敏三、フクの長男として生まれました。生後7ヵ月後頃に母が精神に異常をきたしたため、東京市本所区小泉町15番地(両国3-21-14)にある母の実家の芥川家に預けられ、伯母フキに養育されて、11歳の時に母が亡くなりました。翌年に叔父芥川道章(フクの実兄)の養子となり芥川姓を名乗ることになりました。
芥川家は代々江戸城の御数寄屋衆を勤めた旧家でした。道章は俳句や盆栽に親しむとともに、南画をたしなみ、また一家をあげて一中節を習い、歌舞伎を観る等、江戸趣味の濃い家庭でした。
龍之助は1897年(明治30年)に江東(えひがし)小学校(両国小学校) 付属幼稚園に入り、1905年(明治38年)小学校を卒業し高等科2年を修了。東京府立第三中学校(現両国高校)に入学しました。処女作の『大川の水』は江戸情緒が残るこの地で育ったことと深い係わりを示すものです。

 芥川龍之介生育の地(本所区小泉町15番地goo明治時代地図)

芥川龍之介生育の地は、京葉道路北側のサンクスの前に「芥川龍之介生育の地」の案内があります。

 芥川龍之介生育の地(写真拡大)

芥川龍之介が通った両国小学校(両国4-26-6)の正門前の道に面した角に芥川龍之介文学碑が建っています。碑には「杜子春」の一説が刻まれています。
『―――お前はもう仙人になりたいといふ望も持ってゐまい。
大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。
ではお前はこれから後、何になったら好いと思ふな。」
「何になっても、人間らしい、正直な暮らしをするつもりです。」
杜子春の聲には今までにない晴れ晴れした調子が罩(こも)つてゐました。
「杜子春」より』

 芥川龍之介文学碑(:文学碑、:両国小学校を訪れた日は授業参観日でした)

時津風部屋
両国周辺には相撲部屋が17を数えます。今回の散策エリアの中にも、芥川龍之介文学碑の道沿いに並んで時津風部屋があります。最近、野球賭博恐喝で警視庁の調査が行われており、7月の名古屋場所の開催が未定であるという不祥事が発生しており、国技と称している両国相撲界隈が影を落としています。今回の散策で時津風部屋の前を通りましたので、写真のみ掲載します。

 時津風部屋(写真拡大)

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小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その3

2010年06月22日 | 小さな旅
kan-haru blog 2010 本所松阪町跡石碑 

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旧国技館跡
回向院の表門に戻り京葉通りに出ると、その東隣にはオフィス棟・住宅棟・スポーツ棟の3棟からなる複合施設で、劇場・ギャラリー・飲食店にスポーツジムなどがある「両国シティコア」があります。回向院表門付近の柵塀外側の両国シティコア内に、ひっそりと旧国技館跡の高札が建っています。

 現「両国シティコア」の旧国技館跡(旧国技館跡は現在「両国シティコア」:、:旧国技館跡の高札、:旧国技館跡の説明板)

昔は、両国シティコアの敷地は回向院の境内であり、1768年 (明和5年)から76年間にわたり勧進相撲興行(その2参照)が行われていました。江戸時代の本所回向院の全国有名寺院の出開帳は人々を集め、隅田川の花火大会は夏の風物詩として江戸っ子を賑わせました。江戸が首都としての機能が高まり力士を抱える大名の多くが江戸詰めとなり、江戸相撲も民衆が集う両国で頻繁に行われるようになり、谷風・小野川時代、雷電時代の人気を得て、両国は江戸相撲の代名詞となりました。

 回向院境内の勧進相撲

徳川幕府が倒れて、相撲協会は江戸時代の旧弊を改め角界の近代化に努め、それまでは相撲のできる常設館がなく、野天の仮小屋で『蒙御免晴天十日間』という立看板で回向院の境内で、順延しながらのんびりと行っていました。
常設館建設の念願は、1906年(明治39年)の年一月場所後に具体化し、同年6月に28万円の巨費を投じて回向院境内で着工して、1909年(明治42年)5月に竣工し、同年6月に開館式が行われました。
旧国技館は、日本銀行や東京駅などを手掛けた有名な辰野金吾博士と葛西万司氏との共同設計で、千五百坪の敷地内に九百六坪五合の建坪に半楕円形の鉄骨を合掌させて直径約二百尺(60m余)、高さ八十尺(24m位)の円形の屋根のデザインで、館内の北正面に貴賓席を設け、一般観覧席は土間から四階までの席がありました。国技館の命名は、開館式の案内状に「相撲は日本の国技なり」と書いたことで、当時の年寄尾車(元大関・大戸平)提案した「国技館」となりました。

79 国技館
79 国技館 posted by (C)ヤスフロンティア
 明治44年新橋堂発行(東京市京橋区出雲町1)東京名所絵ハガキ フォト蔵 

東京新名所となった旧国技館は、失火により1917年(大正6年)と1923年(大正12年)の関東大震災で全焼しその都度再建されたが、1944年(昭和19年)の空襲により3度も焼失しました。 戦後は米軍に接収され、返還後は日大講堂として利用されていましたが、1983年(昭和58年)に解体されました。

 旧国技館と日大講堂

吉良邸跡
吉良邸跡は回向院から京葉道路を東に向かい、交差点を南に折れて交差点を左に進むと、十字路の左角のなまこ壁に囲まれた本所松坂町公園が吉良邸跡(両国3-13-9)です。

 吉良邸跡地図

本所松坂町公園は、1934年(昭和9年)3月地元両国3丁目町会有志が発起人となり、旧吉良邸内“吉良の首洗い井戸”を中心に土地を購入し、東京市に寄付したものです。2550坪と広大だった吉良家上屋敷の約86分の1のミニチュアながら、なまこ壁が往時をしのばせます。

 吉良邸跡(:吉良邸跡入り口、:赤穂義士遺跡吉良邸跡石碑、:本所松坂町公園由来説明版)

吉良邸は、浅野匠頭守による殿中刃傷事件の後の1701年(元禄14年)9月3日に吉良上野介義央が当地を拝領して建設された吉良家の上屋敷で、義士の討入りがあって没収されたのが元禄16年2月4日ですから、吉良家の上屋敷となっていたのは、前後1年半に満たない短期間でした。

 吉良邸周辺古地図(goo地図(江戸切絵図)嘉永新鐫本所絵図から)

吉良邸屋敷の表門は東側で裏門は西側に位置し、福井県のホームページ「ふくいの足跡マップ⑪吉良邸跡(隣接:福井藩本多家江戸屋敷)」によると、隣接の北側には板塀で囲った福井藩本多家江戸屋敷1650坪の拝領屋敷と、旗本土屋家屋敷2500坪の抱屋敷があり、道を挟んだ東側には鳥居家と旗本・牧野家の屋敷があったようです。
同ホームページによると、北側に隣接して屋敷を有していた、越前松平家家老の本多孫太郎の邸宅では、討ち入りの夜には初めは火事かと思ったが、火の手が見えないので討ち入りと察し、提灯を掲げお上に届け出た(出典:江赤見聞記)と資料にあるとのことです。

 吉良邸隣接屋敷概略図

吉良邸跡の本所松坂町公園の入り口を入ると、西側の手前の角に松坂稲荷大明神が鎮座(写真中の幟り左方)しています。松坂稲荷は、もと兼春稲荷と称し吉良邸内にあったもので、さらに古く、この地がまだ宅地開発される以前から、この周辺の土地に祀られていたものです。写真中の小さな碑は吉良上野介義央公の追慕碑で、同右に吉良家家臣二十士の碑があり清水一学を含め吉良側は16人が事件で命を落としています。西側の奥には「首洗い井戸」があり、上野介の首を洗ったと伝えられています。

 本所松坂町公園内部1(:吉良邸跡高札、:吉良上野公の追慕碑(左)と吉良家二十士の碑(右)、:首洗いの井戸)

公園内部の周囲の壁には、吉良邸討ち入りに関する書類や錦絵などの資料が、額縁にして提示されています。

 本所松坂町公園内部2(:公園内部の塀には四十七士に関する資料の額が提示、:仇入り引き上げの義士団錦絵、:)

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小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その2

2010年06月20日 | 小さな旅
kan-haru blog 2010 

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回向院
回向院(墨田区両国2-8-10)は、JR両国駅を降りて駅前通りを南に進むと両国橋が架かっている京葉道路に出て対面が回向院表門です(両国駅周辺地図赤印②参照)。

 回向院表門(:表門、:表門扁額、:回向院案内板)

かっての回向院には観音堂や鎮守堂、太師堂などが建立され、数多くの尊像が安置されていましたが、その後の関東大震災や世界大戦等により木彫の諸尊像はことごとく焼失し、現在では石仏、銅仏等の諸尊像のみが残されています。

 回向院現在地図

・開創
回向院が建てられたのは、今からおよそ350年前におきた1657年 (明暦3年)の大火(その1参照)での死者は、延焼が早く混乱して風下に逃げた群衆が飛び火による風下の火災に挟まれ逃げ場を失い多くの命が奪われたり、道路や空き地に避難民が持ち出した荷物に火の粉が吹き付け着火して多くの人が巻き込まれて焼死したり、火災で橋が落ちて川岸に追い込められて川に飛び込んで凍死したり餓死者も多かったと記録さている。死者数については、「むさしあぶみ」、「本所回向院記」、「山鹿素行年譜」などには10万人台と書いてあり、「上杉年譜」、「天亮吾妻鑑」、「明暦三丁酉日記」には3万7千人余りとしており、「元延実録」ではこの中間の6万8千余人とあげています。

 回向院江戸時代地図(goo地図(江戸切絵図)嘉永新鐫本所絵図から)

大火後に牛島新田(現墨田区両国)に葬られた死者数は6万3430余人のほか、漂着した死体が4654人と記されています。(中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会の「1657 明暦の江戸大火報告書」(平成16年3月)から)。
幕府は、焼死者の埋葬をすることにして、増上寺に命じて本所牛島新田に埋葬地を設け、死骸を船で運んで供養を行ないました。
また将軍家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸、当院の現在地に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。このとき、阿弥陀如来を本尊としてお念仏を行じる御堂が建てられたのが諸宗山無縁寺回向院の歴史の始まりです。
それ以来回向院には毎月18、19日の両日、江戸市中から追悼の者が訪れるようになり、境内堂宇に安置された観世音菩薩や弁財天などが江戸庶民に尊崇されることとなり、様々な巡拝の札所となり、また江戸中期からは、その地の利が尊ばれて全国の有名寺社の秘仏秘像の開帳される寺院として、境内は毎年のように参詣する人々で殷賑をきわめました。

 江戸名所図絵「回向院」境内図

・災害供養塔
回向院は一見隆盛一途をたどったかのように受とれますが、その後度重なる地震や大火に被害をこうむり、明治の廃仏毀釈、1923年(大正12年)の大震災では境内の堂宇は灰燼に帰し、更には1945年(昭和20年)第二次大戦下の大空襲によって再び焼失など、幾度かの存亡の危機に立たされましたが、檀信徒の浄信にささえられ歴代住職は、由緒あるこの寺院の法灯の絶えぬよう骨を惜しまず身を砕き、その度ごとに一大危機を乗り切ることが出来ました。

 明暦大火・天明地震・大震災横死者等供養塔(:明暦大火横死者等供養塔説明板、:明暦大火横死者等供養塔、:大震災横死者の墓と天明地震横死者の供養塔)

・著名人の墓
境内には著名人の墓として、江戸歌舞伎元祖の猿若(中村)勘三郎や竹本義太夫などが見られます。竹本義太夫は義太夫節の創始者で近松門左衛門と組み、それまでの浄瑠璃を義太夫として完成させました。義太夫ファンの大岡育造東京議会議長が1918年(大正7年)に立てた追悼墓であり、歴代の竹本義太夫の墓も一帯にあります。

 著名人の墓(:猿若勘三郎の墓、:竹本義太夫の墓)

・鼠小僧のお墓
時代劇で義賊として活躍するねずみ小僧は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷から千両箱を盗み、町民の長屋に小判をそっと置いて立ち去ったといわれ、その信仰は江戸時代より盛んでした。長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りに持つ風習が当時より盛んで、現在も特に合格祈願に来る受験生方が後を絶ちません。
特に、最近では多くの若いペアーが次々に沢山訪れ墓石を削る人が増え、回向院のホームページで掲示(年代不明)のねずみ小僧のお墓の写真と比べると、削られた量から見てお守りを求める人の多さに驚かされます。

 鼠小僧の墓(左上・中上:鼠小僧の墓、右上:回向院ホームページ写真(年代不明)、左下中下右下:お守りに求めて鼠小僧の墓のお前立ちを削る参詣者)

・水子塚と塩地蔵
回向院の水子塚は、1793年(寛政5年) に陽の目をみずに葬られた水子の霊を供養するため老中松平定信の命によって造立されたもので、水子供養の発祥とされています。
また回向院は、庶民信仰の関わりを称する像として地蔵菩薩があり、右手に錫杖、左手に宝珠を持たれ、参詣者は願い事が成就すると塩を供えたことから、「塩地蔵」と呼ばれ親しまれてきました。

 水子塚と塩地蔵(:水子塚、:塩地蔵)

・動物供養
境内広場の左手には馬頭観音堂があります。開創間もない頃、将軍家綱公の愛馬が死亡しその骸を回向院に葬ることになり、その供養をする為、回向院二世信誉貞存上人は馬頭堂を建て自らが鑿をとって刻した馬頭観世音菩薩像安置しました。
回向院は成り立ちが、人間はもちろん、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くものでありますので、境内には、猫の報恩伝説で知られる「猫塚」1816 年(文化13年)があります。

 馬頭観音堂と猫塚(:馬頭観音堂、:猫の恩返し(猫塚))

また、「唐犬八之塚」1866年(慶応2年)や義太夫協会の「犬猫供養塔」、飼鳥獣商協同組合の「小鳥供養塔」、邦楽器商組合の「犬猫供養塔」など、さまざまな動物の慰霊碑、供養碑があり、諸動物の供養が行われています。

 動物供養(写真拡大)

・力塚と回向院相撲
日本の国技である相撲は、江戸時代は主として公共社会事業の資金集めのための勧進相撲興行の形態をとっており、回向院境内で初めて行われたのは1768年 (明和5年)のことで、寛政年間を経て文政年間にいたるまで相撲興行の中心は回向院とされてきました。1833 年(天保4年)になると回向院の興行は春秋二回が定場所となり、1909年(明治42年)の旧両国国技館が完成するまでの76年間は、「回向院相撲の時代」が続いたのです。力塚の碑は、1936年(昭和11年)に相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊の為に建立したものですが、その後も新弟子たちが力を授かるよう祈願する碑として、現在も相撲が回向院とのつながりを示す象徴になっています。

 力塚(写真拡大)

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小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その1

2010年06月17日 | 小さな旅
kan-haru blog 2010 

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歴史が残る両国界隈
梅雨の合間をぬって、6月13、15日に、勝海舟の生誕地の本所(両国)を訪れて両国周辺を歩いてみました。
その両国の発展の歴史は古く、江戸がほぼ全滅し10万人余りの命が奪われた1657年(明暦3年)の振袖火事がきっかけで、幕府は牛嶋南部に焼死者を葬り回向院を建てて、市街地復興に着手し、1659年(万治2年)には隅田川に両国橋を架け、市中に防火堤や火除地を設けました。その計画で武家屋敷などの移転先に選ばれたのが現在の墨田区本所で、本所奉行を中心に、竪川・大横川・南北割下水の開さくや区画を進めて、武家屋敷を主とする市街となり、江戸の一部となりました。赤穂浪士が本所の吉良屋敷を襲い、上野介義央を討ったのが1702年(元禄15年)でした。
この時代の1717年(享保2年)には八代将軍吉宗が隅田川堤に桜100本を植樹し、1733年(享保18年)には水神祭で花火をあげて両国川開きの始まりです。また、1781年(天明元年)に本所回向院で、大相撲が開催されました。この隅田川の両国橋は眺望納涼の場として賑わい、花火が行われ、両岸橋詰の広小路では見世物小屋が繁盛し、少し上流には相撲小屋もあり、行き会うひとで賑わいが江戸一番の繁華街となりました。
両国に誕生した、墨堤の桜、隅田川の花火、国技館の相撲は、いまでも時代を越えて全国の人々に親しまれています。

 両国駅周辺地図(すみだ観光協会パンフレットから)

・隅田川
隅田川は、東京都北区の新岩淵水門で荒川から分岐し、新河岸川・石神井川・神田川・日本橋川などの支流河川を合わせ、東京湾に注ぐ全長23.5kmの一級河川です。
隅田川は元々入間川の下流部であり、下総国と武蔵国の国境でありおました。1629年(寛永6年)の荒川瀬替えにより荒川の本流となり、洪水を防ぐ為に明治末期から昭和初期にかけて岩淵水門から河口までの荒川放水路が建設され、1965年の政令で荒川と呼ばれていますが、分岐点である岩淵水門より下流は俗称であった「隅田川」に改称されました。

 隅田川(写真拡大)

・両国橋
1659年(万治2年)に千住大橋に続いて隅田川に2番目に架橋された、長さ94間(約200m)、幅4間(8m) の橋で、名称は当初「大橋」と名付けられていましたが、西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていたことから俗に両国橋と呼ばれており、1693年(元禄6年)に新大橋が架橋されると正式名称となりました。
両国橋は流出や焼落、破損により何度も架け替えがなされ、西洋風の九十六間(約210m)の橋であったが、木橋としては1875年(明治8年)12月の架け替えが最後でした。この木橋は1897年(明治30年)の花火大会の最中に、群集の重みに耐え切れず10mにわたって欄干が崩落し死傷者は十数名にもおよび、明治の世に入ってからの事故ということで、20mほど下流に1904年(明治37年)に鉄橋として生まれ変わりました。長さ164.5m、幅24.5m曲弦トラス3連桁橋であり、関東大震災では大きな損傷も無く生き残ったが、他の隅田川橋梁群の復旧工事に合わせて、1932年(昭和7年)に、橋長 164.5m、幅員 24.0mの3径間ゲルバー式鋼鈑桁橋に架け替えられました。

 両国橋(:1875年完成の最後の木橋時代の両国橋[両国橋Wikipedia東京名所絵葉書から出典]写真拡大)

・両国駅
1894年(明治27年)に私鉄の総武鉄道が、佐倉駅と本所(錦糸町)駅間が開通し、本所から両国橋までの沿線は既に市街地になっており高架線が条件で、結局煉瓦造りの橋脚の上に鉄桁を載せた形状の高架橋を約1.5 kmに渡って建設して、日本の鉄道で最初の単線の高架区間で両国橋駅を開業する事になり、1906年(明治39年)に複線化されました。1907年(明治40年)には、総武鉄道が国有化されて国鉄となり、1931年(昭和6年)に正式に「両国駅」(墨田区横網1-3)へ改称されました。

 両国駅(写真拡大)

今年の3月から列車の運行を止めた3番線ホームでは、最近「駅コン」と呼ばれるコンサート演奏が開かれるようになり、丁度13日には和楽太鼓の演奏が行われていました。観客は3番線ホームに並べられた椅子に座って楽しむか、2番線ホームから電車の到着まで見ることができます。

 3番線ホームでの和楽太鼓の演奏(写真拡大)

明暦の大火
明暦の大火の概要を中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会の「1657 明暦の江戸大火報告書」(平成16年3月)を見ると、以下に示す様です。
・最初の火災
明暦の大火は、1657年(明暦3年)1月18日から19日(太陽暦3月2、3日)にかけて発生、延焼した3件の大規模火災の総称で、1件目は北西の強風時の18日午後2時頃本郷丸山の本妙寺から出火し、湯島方面から駿河台に燃え広がり湯島天神、神田明神、東本願寺と延焼し、駿河台の大名邸宅から鎌倉河岸へと燃え広がった。神田明神からの飛び火は、村松町、材木町と延焼し、柳原から泉橋までを焦土化した。駿河台の火は二手にわかれ、一つは誓願寺を迂回して進み、もう一つは須田町から鍛冶町、白銀を南下した。
夕刻から風が西へと変わり、鎌倉河岸の火が飛び火して鞘町から東に延焼して伊勢町より江戸橋付近で川を越え、茅場町まで延焼し、さらに東へと燃え移り八丁堀も焼け、霊厳島へ延焼して霊厳寺に逃げ込んだ9600人の命を奪った。霊厳寺の火は停泊していた舟に燃え移り、海を隔てた佃島や石川島に達した。

 3か所から出火した火災の推定延焼経路(黒木喬「明暦の大火」、講談社1977出典)

強い西風にあおられて向島八幡宮も焼失し、あっというまに吉原から堀江町も延焼した。
火に追い立てられた群衆の巨大な流れが浅草に殺到している時、一時おさまっていた柳原の火が再び燃え始めて誓願寺に飛び火し、近くの大名小路を延焼するとともに、数十の寺院に延焼して小伝馬町方面からの火と合流し、数万の群集を飲み込んでいった。
午後8時になっても風は衰えず、海岸に並んでいる諸大名の屋敷を灰とし、川を一気に越えて牛島新田の農家を焼き払い、翌日の午前2時過ぎに延長約5.3kmに及ぶ火災も鎮火した。

 主な大名屋敷の存在場所(黒木喬「明暦の大火」、講談社1977出典)

・2件目火災
2件目は前日に続いて19日午前10時頃小石川鷹匠町付近から出火し、水戸藩の屋敷を焼き、飯田町から市谷、番町を延焼し、天守閣にも燃え移り、常盤橋内の大名屋敷、鍛冶橋の諸大名邸、旗本屋敷を焼き尽くした。午後4時頃北風から西風に変わり、八重洲河岸、中橋に延焼し、火は南の新橋、木挽町に達し、東は材木町、水谷町まで延び、海岸では多くの船も焼失した。逃げまどう群衆は焼け落ちた橋などにより逃げ場を失い命を失う。

 炎の中を逃げまどう人々(「むさしあぶみ」日本髄筆大成第3期6、吉川弘文館出展)

・3件目の火災
3件目は19日夜、風が北から西へと変わり始めたころ麹町の町家から出火し、延焼して大名屋敷約50を焼失し、さらに西の丸下の屋敷多数が全焼し、桜田から芝浦海岸にぬけ鎮火した。

 明暦大火の延焼被害地域図(竹内吉平「火との斗い(江戸時代編)-消防戦術のルーツをたどる」、近代消防社出典)

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大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合編(第26回)上り線高架化開通後工事

2010年06月15日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2010 遮断機が移設前の平和島第5踏切

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上り線高架駅開通後工事
上り線が開通して1ヶ月が経過して開通後に行われた各工区の共通工事は、電力線が撤去され、上り線の踏切道が閉鎖されました。また、6月半ばまでの工事表によると、信号や通信などの電気設備も撤去されたようです。
これから先1ヶ月の主たる工事は、旧上り線の線路の撤去と踏切工事の他大森町駅、梅屋敷駅ともに上りホームの撤去工事が行われるようです。

 第1工区高架工事予定表・上り線開通後(6-7月)(工事予定表の拡大表示)

・踏切道の旧上り線路の閉鎖
高架化後の旧上り線路の踏切道閉鎖の地上の踏み切りには、本線の平和島第5踏切から雑色第4踏切までと、空港線の京急蒲田(空)第1踏切から糀谷第1踏切に至る全踏切に監視員が、交通監視と整理を終日にわたり行われています。
上り線の高架化により全踏切は、直ちに旧上り線路側の踏切道の両側を黄色と黒色の鉄棒により閉鎖されました。

 高架化後の旧上り線踏切道閉鎖(左上中上:大森町第1踏切の旧上り線踏切道閉鎖、右上:大森町第4(梅屋敷商店街通)踏切の旧上り線踏切道閉鎖、左下:京急蒲田第2踏切の旧上り線踏切道閉鎖、中下:雑色第3踏切の旧上り線踏切道閉鎖、右下:京急蒲田(空)第4踏切 の旧上り線踏切道閉鎖)

・踏切遮断機移設工事
6月13日に大森町第1踏切を見ると、踏切遮断機移設工事のお知らせの看板があり、旧上り線側の遮断機を同15日に移設するとの通告があり、工事の準備のため旧上り線側の踏切道の外側の線路が撤去されていました。

 大森町第1踏切道工事(:大森町第1踏切道工事のお知らせ、:線路撤去された大森町第1踏切道工事)

同15日に大森町第1踏切を見ると、旧上り線側の遮断機が下り線側まで移動して工事が終了していました。

 遮断機が移設された大森町第1踏切(写真拡大)

同13日に大森町駅北方の平和島第5踏切を見ると、踏切遮断機移設工事のお知らせの看板があり、旧上り線側の遮断機を同16日に移設するとの通告があり、工事の準備のため旧上り線側の踏切道の外側の線路が撤去されていました。

 平和島第5踏切道工事の準備(:平和島第5踏切道工事のお知らせ、:平和島第5踏切道工事で線路撤去)

第2工区の踏切工事は同13日に見ると、大森町第3および第4踏切と梅屋敷第1踏切の、工事の準備のため旧上り線側の踏切道の外側の線路が撤去されていました。

 踏切工事のため線路が撤去された第2工区の踏切(左上中上:踏切工事のため線路が撤去された大森町第3踏切、右上左下:踏切工事のため線路が撤去された大森町第4踏切、中下右下:踏切工事のため線路が撤去された梅屋敷第1踏切)

梅屋敷駅ー大森町駅間の上り本線高架橋ルート運転ビデオ
梅屋敷駅ー大森町駅間の運行ビデオを公開します。

梅屋敷ー大森町.wmv


梅屋敷駅ー大森町駅間の上り本線高架橋ルート運転ビデオ(クリックすると再生できます)

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Kan-haru日記へのご訪問有難うございます 日記からのお知らせと平和島仮高架橋列車運行ビデオ

2010年06月10日 | Weblog

kan-haru blog 2010 

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Kan-haru日記へのご訪問、誠にありがとうございます。お蔭さまで、これまでのご訪問者は40万を超え、閲覧数も111万を超えました。今後ともご閲覧の程を、宜しくお願い致します。

Kan-haru日記も、2006年3月の開始以来記事の投稿数も788件に達し、2日に1件の記事の投稿を続けて来ました。
しかしこの度は、都合によりまして6月12日から15日まで休みとさせて頂きますのでお知らせです。ご容赦のほどをお願い致します。

今後の記事投稿の予告を次に示します。
1.大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化
京浜急行の高架化工事も、5月16日に高架化開通により上り線の高架運転が開始され、全工区の新高架駅の模様と上り線高架運転状況をビデオなどの投稿も昨日記事で一区切りしました。今後は、仮運用中の上り高架橋を本運用の上・下線高架橋として築造していく工事状況を可能な限り記述していく予定でおります。
昨日までに、本線六郷土手の上り線仮高架橋と空港線糀谷の上り線仮高架橋の列車運行の6本のビデオの投稿記事を掲載しましたが、準備の都合で平和島の上り線仮高架橋の列車運行ビデオの公開は遅れましたので、本日の記事で紹介させて頂きます。

大森町ー平和島.wmv


大森町駅ー平和島駅間の上り本線高架橋ルート運転ビデオ(クリックすると再生できます)

2.大森町界隈あれこれ 関連側道整備編交通計画
京急連続立体交差事業に伴う関連事業として関連側道整備編交通計画があり、関連側道とは鉄道の高架化に関連して都市環境の保全に資する目的で設置される道路で、高架橋の北側に設けられる幅員が原則6m道路の整備です。
関連側道は本線が内川南岸から六郷土手までと、空港線が第1京浜国道から糀谷駅東方までの区間に設置されます。関連側道整備編交通計画の投稿記事は、本年2月15日の大森西地区説明会(第1回その1)から開始し、現在は糀谷・蒲田東地区(第2回その3)まで掲載してあります。今後は、大森町界隈あれこれ 大森町商店街と連動して記載の予定です。

 梅屋敷第2踏切り付近の関連側道整備前の区道

3.大森町界隈あれこれ 大森町のイベント
今年は、大森町界隈の開桜小学校の花まつり、第8中学校前遊歩道護岸工事や季節の出来事などのイベントのトピックニュースを掲載しました。

 開桜小学校の花まつり

4.大森町界隈や近辺の風景・風物詩
今年は、大森町の箱根駅伝などの正月・年始風景や内川風景 変化する冬の内川を歩くなどを掲載しています。

 諏訪神社節分祭

5.小さな旅、旅行や観劇記、イベントなど
小さな旅では竜馬シリーズとして、竜馬と立会川、竜馬と赤坂や大田区と竜馬など連載記事を開始しました。
旅物語では、2009年に出かけた南紀家族旅行 アドベンチャーワールドで童心に返りパンダやイルカと戯れるを掲載しています。新たな旅物語をお待ちください。
イベント記事では、東京ミッドタウン 世界最大のワイン祭り『ヴルストマルクト』2010でドイツ旅行を懐かしむなどを掲載しました。

 東京ミッドタウン『ヴルストマルクト』2010

6.大森町界隈あれこれ 大森町社寺
大森町社寺では、氏子である諏訪神社の例祭の記事を毎年掲載しています。今年は、諏訪神社では現存していない宮神輿について追ってみて、諏訪神社が絡む大森町界隈の歴史資料を求めて見ようと思っています。

 1957年(昭和32年)諏訪神社例祭の樽神輿

7.大森町学びやその他
大森町の学びやの大森学園は昨年70周年記念日を迎え、昨年には「大森学園創立70周年 徒弟学校から戦後焼跡工場仮校舎の歴史を追う」の連載記事の投稿を開始しましたが、現在中断しておりますが継続をして行きたいと思っています。
また、私の父の同僚であった若山氏の大森町大空襲の体験記の手記を提供頂き、手記の記事とともに解説記に纏め、「鎮魂! 大森町大空襲 (第1編)」、「手記第2編 戦災日誌中野編」、「手記第3編 戦前戦後目黒にて」を掲載しており、現在中途で掲載を休んでおりますがあの悲惨であった世界大戦の様子を、戦争を知らない世代に伝えていきたいとの強い想いがあり、再開をして行きたいと思っています。

 戦災で焼失し森ヶ先の焼け残り工場での仮校舎(大森学園70年の軌跡DVDから)

8.IT関係記事
グーグルやその他のITベンダーなどにより、企業も一般もITの活用は、ネットにある資源を利用するというクラウドコンピューティングの技術が進んできました。今後、個人活用を中心としたクラウドのやさしい記事の掲載を予定しています。また、科学技術関係の見学記録なども掲載しています。

 情報センターJAXAi の展示場

Kan-haru日記は、掲載をしたい項目が沢山あり記事の制作には追われている状況にあり、可能な限り投稿を続ていきたいと思っておりますので、皆様のご協力をお願いします。

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毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(6月分掲Indexへ)
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次回 Kan-haru日記 トータル閲覧数が100万を超えました 多数のご閲覧ありがとうございます(その1)

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大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合編(第25回その2)上り線高架化開通ビデオ糀谷編

2010年06月09日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2010 糀谷第2踏切付近のクロスポイント

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糀谷駅の列車運行形態
上り線高架化により糀谷駅の列車運行はその1で掲載の通り、2階高架駅ホームには羽田発の品川方面行き列車と横浜方面発の羽田行きが発着し、在来下りホームには羽田発の横浜方面行き列車と品川方面発の羽田行きが発着して、従来の上り線・下り線の双方向の列車が運行しております。
今回は、糀谷駅を中心とした高架橋と在来の地上線路を運行する列車の走行形態を、先頭車窓からビデオで撮影しましたのでご覧いただきます。

・京急蒲田駅・大鳥居間の列車走行経路
上り線高架化により京急蒲田駅・大鳥居間の列車走行経路は、京急蒲田駅では仮上り線2階高架橋駅の4番線ホームには横浜方面発の羽田行きと羽田発の品川方面行きの列車が入線します。また、在来下り線地上駅の1番線ホームには品川方面発の羽田行きと羽田発の横浜方面行きの列車が入線します。
京急蒲田駅・糀谷間の走行経路は、高架橋駅の4番線ホームから仮上り線2階高架橋の北側線路を通り、糀谷駅手前のクロスポイントで高架橋の南側線路に移り糀谷駅の仮上りホームに着きます。また、在来下り線地上駅の1番線ホームから在来下り線線路を通り糀谷駅の下りホーム着きます。
糀谷・大鳥居間の走行経路は、糀谷駅下りホームから在来経路の糀谷第1踏み切りを経て大鳥居駅の下りホームに着きます。また、糀谷高架駅ホームから高架橋を傾斜して下り在来地上線を通り大鳥居駅の上りホームに着きます。なお、糀谷第2踏み切りの先の在来地上線路には、クロスポイントが儲けられました。

 上り線高架化開通空港線線路説明図

・高架橋走行の羽田発・品川方面行き列車
羽田発エアポート急行品川方面行きの列車は、大鳥居駅を発車して在来地上線路を進み、糀谷第2踏み切りの先から仮上り線高架橋を登り糀谷駅仮上りホームに到着(その1大鳥居―糀谷駅間高架橋ルート運転ビデオ参照)します。
糀谷駅高架ホームを発車すると、京急蒲田(空)第4踏切上を越えた付近のクロスポイントで、高架橋の北側線路に移り、京急蒲田高架駅2階の4番線ホームに到着(その1糀谷―京急蒲田駅間高架橋ルート運転ビデオ参照)です。

 羽田発品川方面行きエアポート急行走行経路説明図

・高架橋走行の横浜方面発・羽田行き列車
横浜方面発エアポート急行羽田行き列車は、京急蒲田高架駅2階の4番線ホームを発車して仮上り線高架橋を逆走し、同第4踏切上のクロスポイントで、高架橋の南側線路に移り、糀谷高架駅仮上りホームに到着します。
糀谷駅高架ホームを発車すると、仮上り線高架橋を逆走して下り、糀谷第2踏切先のクロスポイントで在来地上線の下り線路側に入り大鳥居駅下りホームに到着します。

 横浜方面発羽田行きエアポート急行走行経路説明図

京急蒲田ー糀谷ー大鳥居.wmv


京急蒲田駅ー大鳥居駅間の下り空港線高架橋ルート運転ビデオ(クリックすると再生できます)

・地上線路走行の品川方面発・羽田行き列車
品川方面発エアポート急行羽田行き列車は、京急蒲田高架駅1階の1番線ホームを発車して京急蒲田(空)第1踏切を通り、在来の空港下り線を走行して糀谷駅下りホームに到着します。糀谷駅から先も、在来下り線を走行して大鳥居駅下りホームに到着します。

 品川方面発羽田行きエアポート急行走行経路説明図

京急蒲田ー糀谷ー大鳥居(地上線路).wmv


京急蒲田駅ー大鳥居駅間の下り空港線地上線路ルート運転ビデオ(クリックすると再生できます)

・地上線路走行の羽田発・横浜方面行き列車
羽田発エアポート急行横浜方面行きの列車は、大鳥居駅を発車して在来地上上り線路を進み、糀谷第2踏切手前のクロスポイントで在来地上下り側線路に入り、下り線線路を逆走して糀谷駅在来下り線ホームに到着します。
糀谷駅から先も、在来下り線を逆走行して京急蒲田高架駅1階の1番線ホームに到着します。

 羽田発横浜方面行きエアポート急行走行経路説明図 

大鳥居ー糀谷ー京急蒲田(地上線路).wmv


大鳥居駅ー京急蒲田駅間の下り空港線地上線路ルート運転ビデオ(クリックすると再生できます)

糀谷駅時刻表
上り線高架化により、糀谷駅の列車高架化走行は4パタンのルートで運転されています。高架橋線路と地上線路は双方向運転で、また、糀谷第2踏付近のクロスポイントでは、双方向に入れ替えを行います。糀谷駅を走行する最煩時の列車本数は、20本/時です。
これらの運行条件を満足するための、糀谷駅の運転時刻表を見てみましょう。
クロスポイントで、相互交換するための横浜方面発着列車の運転本数は1時間に3本あり、横浜方面行き上り線がクロスポイントを渡って1階ホームからの発車と同時に、横浜方面発羽田行きが2階ホームから発車して高架橋を降りクロスポイントを渡り下り線に入ります。また、糀谷高架橋駅2階ホームの双方向使用運行は、横浜方面発羽田行きが発車して高架橋を過ぎた後の1分後に、上り線高架橋を羽田発品川方面行きが到着する神業的運行です。

 糀谷駅時刻表

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・毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(6月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index 大森町界隈あれこれ 京浜急行関連総目次2010年中期版2010年前Ⅱ期版2010年前期版2009年後期版2009年中Ⅱ期版2009年中期版2009年前期版2008年後期版2008年中期版2008年前期版2006・2007年版
・サブ・カテゴリー別Index 高架化全工区統合編大森町付近工区2009年版大森町付近工区2008年版大森町付近工区2006・2007年版梅屋敷付近工区京急蒲田付近工区2009年版京急蒲田付近工区2006~2008年版雑色付近工区糀谷付近工区 へ
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大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合編(第25回その1)上り線高架化開通ビデオ糀谷編

2010年06月07日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2010 糀谷駅の在来線と高架橋線

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糀谷駅ホームの列車運行形態
上り線高架橋運行開始により糀谷駅の仮上り線高架ホームと下り線在来ホームでの列車運行形態が変わり、発駅または着駅によりそれぞれのホームに発着の列車方向が異なり、高架線路と地上線路とも単線での双方向運転となりました。
6月1日から2日にかけて、糀谷駅高架ホームおよび地上在来ホームの列車運行形態を、先頭車窓からビデオで撮影しましたので、今回と次回でご覧いただきます。

糀谷上り線高架駅開通
5月15日の終電車後に、上り線在来ホーム、南口改札口および上り線在来線路が閉鎖されました。

 在来上り線閉鎖(:上り線糀谷南口閉鎖、:上り線糀谷駅ホーム閉鎖、:上り線在来線路閉鎖)

6月に入ると上り線在来線路の撤去の準備が行なわれ、また在来ホームの撤去工事が進んでいます。

 在来上り線設備の撤去(:在来上り線線路撤去の準備、:在来上り線ホーム撤去工事)

・大鳥居―糀谷駅間高架橋ルート運転ビデオ
6月1日に高架化開通の大鳥居駅から品川方面行きのエアポート急行列車に乗り、先頭車両の前面窓から仮上り線高架橋を登り走行する模様をビデオで撮影しました。
列車は、在来上り線を進み、糀谷第2踏み切り手前のクロスポイントを直進し、仮上り線傾斜高架橋を登り糀谷高架駅に到着します。

大鳥居ー糀谷.wmv


大鳥居―糀谷駅間高架橋ルート運転ビデオ(クリックすると再生できます)

・糀谷高架駅
大鳥居駅から品川方面行きのエアポート急行列車に乗り、糀谷駅の高架ホームに下車して高架化開通の糀谷高架駅を見てみました。

 糀谷駅構内図

5月15日の終電後、在来上り線ホームは閉鎖され、在来下りホーム上の下り高架橋ホーム側に拡幅された仮上り線高架橋駅が開設されました。仮上り線高架橋駅への通路は、在来の下り線用の中央改札口(構内図①)から入り、スロープ(構内図②)を上り在来の下り線ホームに進みます。下り線ホームに出ると、前面には旧ホーム間連絡通路跨線橋用の階段(構内図③)があり、仮上り線高架橋ホームへと通じています。

 糀谷駅中央口からの在来および高架ホームへの通路(:糀谷駅中央口①、:糀谷駅中央口ホーム通路②、:高架ホームへの階段通路③)

階段横の下り線ホームを西方へ進むと、階段の裏側にバリアフリールートのエレベータ(構内図④⑤⑥)が設置してあります。

 高架ホームへのバリアフリールート通路(:④、:⑤、:⑥)

跨線橋転用の階段(構内図⑦)を登ると上り高架ホームです。階段の西側にはエレベータ (構内図⑧)があり、その先に待合室(構内図⑨)があります。

 仮上り線糀谷駅高架ホーム1(:仮上り線高架ホーム仮階段⑦、:仮上り線高架ホーム仮エレベータ⑧、:仮上り線高架ホーム待合室⑨)

高架ホーム東端から大鳥居方面を望む(構内図⑩)と、列車に乗ってきた単線の仮上り線傾斜高架橋が見え、上下線の本高架橋の築造はこれからです。ホーム西端から京急蒲田駅方面を望む(構内図⑪)と、右(北)側に2階上り線高架橋が見え、はるか先の左(南)側には京急蒲田高架駅の3階下り高架橋に通じる傾斜高架橋が見えます。また、ホーム西端から上り線糀谷高架駅(構内図⑫)を見ると、上り線運行線路と上り仮ホームの運用構造がわかります。

 仮上り線糀谷駅高架ホーム2(:糀谷高架駅東端から大鳥居方面を望む⑩、:糀谷高架駅西端から京急蒲田方面を望む⑪、:上り線糀谷高架仮ホーム⑫)

糀谷高架駅の通過列車風景、未完成の上り高架ホーム風景と糀谷高架駅舎の壁面などの雑景をまとめてみました。

 糀谷高架駅雑景観(:エアポート快速の通過列車、:左ホームは未完成の上り高架ホーム、:糀谷高架駅舎南壁面)

・糀谷駅―京急蒲田高架駅間2階高架橋ルート運転ビデオ
6月1日に高架化開通の糀谷高架駅から品川方面行きのエアポート急行列車に乗り、先頭車両の前面窓から仮上り線高架橋を走行する模様をビデオで撮影しました。
列車は、糀谷駅高架橋から左(南)側の仮上り線線路を進み、京急蒲田(空)第4踏み切り上付近先のクロスポイントで右線側に転線して、2階高架橋を走行して京急蒲田高架駅4番ホームに到着します。

糀谷ー京急蒲田.wmv


大鳥居―糀谷駅間高架橋ルート運転ビデオ(クリックすると再生できます)

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大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合編(第24回)上り線高架化開通ビデオ雑色編

2010年06月05日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
kan-haru blog 2010 中央改札口前で六郷神社例祭神輿のよこた担ぎ(6月5日)

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5月16日の六郷土手駅付近の在来上り線の仮上り線への付け替え工事後の高架化開通の、六郷土手駅から雑色駅までの新高架橋上の普通列車運行の模様を、6月2日に先頭車窓からビデオで撮影しましたのでご覧ください。
雑色上り線高架駅開通
5月15日の終電車後に、在来上下線ホーム間の地下通路が閉鎖されました。

 在来ホーム間地下通路閉鎖(:下りホーム地下通路閉鎖、:上りホーム地下通路閉鎖、:地下通路閉鎖のおしらせ)

また、上り在来線ホームと上り線線路も閉鎖されました。

 在来上り線閉鎖(:上り線線路閉鎖、:上り線ホーム閉鎖) 

・六郷土手駅―雑色駅間高架橋運転ビデオ
6月2日に高架化開通の六郷土手駅から品川行きの普通列車に乗り、先頭車両の前面窓から雑色駅までの高架橋を走行する模様をビデオで撮影しました。

六郷土手ー雑色.wmv


六郷土手駅―雑色駅間高架橋運転ビデオ(クリックすると再生できます)

・雑色高架駅
六郷土手駅から各駅停車の電車に乗り、雑色駅の高架ホームに下車して高架化開通の雑色高架駅を見ていきます。

 雑色駅構内図

5月15日の終電後、在来上り線ホームは閉鎖され上り線高架ホームへの仮通路として改良されました。西口改札口(構内図①)と旧ホームへの階段とスロープ(構内図②)は仮通路にそのまま利用し、旧地下通路階段付近からホーム幅を拡幅して通路幅を確保(構内図③)されました。

 上り線高架ホームへの通路1(:雑色駅西口改札口①、:上り線高架ホームへの通路②、:上り線高架ホームへの通路③)

通路幅が拡幅された右側にエレベータ(構内図④)が設置され、その先を右に曲がると高架駅ホームへの階段(構内図⑤)に辿れます。高架ホームへの階段(構内図⑥)は、踊り場が2箇所ついています。

 上り線高架ホームへの通路2(:上り線高架ホームへのエレベータと階段④、:上り線高架ホーム階段への通路⑤、:上り線高架ホームへの階段⑥)

仮通路からの階段(構内図⑦)を登ると上り高架ホームです。階段の北側には待合室(構内図⑧)があり、その先にエレベータ(構内図⑨)があります。

 雑色駅上り高架ホーム1(:仮通路からの階段上⑦、:待合室⑧、:高架ホームエレベータ⑨)

エレベータの先の北側の囲い塀はエスカレータ(構内図⑩)の設置工事場所です。高架ホーム南端から六郷土手方面を望む(構内図⑪)と第1京浜国道側には、高架橋より高い建築物が展望でき、北端から京急蒲田駅方面を望む(構内図⑫)と駅北側にはスーパーのビルが聳えています。

  雑色駅上り高架ホーム2(:上り線高架ホームの工事中エスカレータ⑩、:上り線高架ホーム南端から六郷土手方面を望む⑪、:上り線高架ホーム北端から京急蒲田方面を望む⑫)

雑色高架駅に停車と通過列車風景、下り高架ホーム風景や雑色高架駅舎の壁面などの雑景をまとめてみました。

 雑色高架駅の雑景観(左上:雑色高架駅に停車の上り普通列車、中上:雑色高架駅を通過するエアポート快速、右上:雑色高架駅下りホーム北方を見る、左下:雑色高架駅下りホーム南方を見る、中下右下:上り線雑色高架駅ホームの壁面)

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小さな旅 大田区と竜馬 池畔に別荘を構え勝海舟墓所のある洗足池を歩く その2

2010年06月03日 | 小さな旅
kan-haru blog 2010 

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洗足池公園は花見のスポット
洗足池公園内にある勝海舟夫妻墓所と池畔の間の「桜の広場」と公園北の「桜山」には、約200本の桜があり、毎年3月下旬~4月上旬には24時間開放して夜桜見学ができるスポットです。陽気の良い季節には洗足池には、ペアーに人気のスワンサイクルボートやローボートが沢山浮かびます。広重の浮世絵「名所江戸百景」にも描かれた景勝地の洗足池の周回を続けます。

 洗足池案内図

・西郷隆盛留魂祠
勝海舟は、晩年に洗足池畔の洗足軒の別邸で、西郷隆盛と日本の将来について歓談されたと伝えられています。
隆盛は1877年(明治10年)の西南戦役により逝去されましたが。海舟が西郷隆盛の死を悼んで、1883年(明治16年)に東京南葛飾郡大木村上木下川(現葛飾区東四ツ木1-5-9)薬妙寺境内に留魂祠と漢詩の石碑を建立しました。

 勝海舟の歴史が漂う洗足公園(:桜のスポットの「桜広場」、:勝海舟夫妻墓所の左隣に移設された留魂祠)

その後、1913年(大正2年)の荒川の整備のため、留魂祠と石碑は勝海舟夫妻墓所の隣に移されました。

 西郷隆盛留魂祠(・右:留魂祠説明板写真拡大)

西郷隆盛留魂祠の境内には、留魂祠石碑と江戸城の無血開城を成し遂げた海舟と西郷の功績を賞賛する石碑などが建てられてあります。

 西郷隆盛留魂祠内の石碑(:留魂祠石碑漢詩文:海舟と西郷の功績を賞賛する石碑)

・水生植物園
留魂祠を北に進むと、水生植物園で最初の草摘みエリアには水路が引かれその上に木製の八橋が架けられ、周囲にはヨシ、ガマ、ミソハギなどの抽水植物と、アサザ、ヒシ、ヒツジクサなどの浮葉、植物が植えられています。草摘みエリアの先は洗足池の上に木製のジグザグの八橋が架けられ、池の中には沢山の緋鯉や亀がみられます。

 水生植物園(左上写真拡大)

・弁天島
水生植物園の先の「松山」の手前を左側に進むと弁天島で朱塗の橋を渡ると、右手に鳥居が見え、その奥に市杵島姫命(宇賀神、宗像神、弁天神)を祀った洗足池辨財天(嚴島神社)が鎮座しています。
[辨財天御由緒書]
創建の年代は不詳なれど古来より洗足池の守護神として池の北端の小島に祀られていたが長い年月の間に池中に没してしまっていた。その後昭和の初め頃より数多くの人々の夢枕に弁財天が出現せられ、この事が契機となって御社殿建立の話が具現化し多くの人々の尽力によって昭和9年7月、洗足風致協会の手により築島遷宮する運びとなり、以来今日に至る間、数多くの参拝者に神徳を授けられています。

 弁天島(写真拡大)

・池月像
弁天島から清水窪湧水路の橋を渡り、左にカーブして進むと、右側の千束八幡神社境内の丘の上に、「宇治川先陣物語」にある名馬の池月像が見えます。
千束八幡神社の池月発祥伝説の由来によると、1180年(治承4年)に 源頼朝は相州石橋山の合戦に敗れて安房に逃れ、この地の豪族の千葉常胤、上総介広常たちと再起をはかり、鎌倉に向かう途上で、ここ千束郷の大池(洗足池)の丘に宿営し、八幡丸の丘を本陣として近隣緒豪の参陣を待ちました。その夜、どこからより1頭の野馬が頼朝の本陣に向かって飛来したので郎党が捕らえてみると、馬体は逞しく青き毛並みに白き斑点を浮かべ、あたかも池に映る月影のようであったため、この馬を池月と命名して頼朝の料馬としました。士卒がこれを聞いて、征旗高く掲げたので八幡宮の別名を「旗上げ八幡」と称します。
また、1184年(寿永3年)の宇治川の合戦の出陣に際し、頼朝から賜った名馬の磨墨に梶原景季がまたがり、池月に佐々木高綱がまたがり先陣を争い、池月が見事に激流を先に乗り切り磨墨との先陣争いに勝って、歴史に名を残したといわれています。池月の誕生地が八幡であるのが、池月発祥伝説のおこりです。

 池月像(写真拡大)

・千束八幡神社
池月像の西側の小高い岡の上に鎮座する千束八幡神社の創建は860年(貞観2年)と古いが、社殿は昭和17年の建築で、宮大工は吉野直吉氏である。御祭神は、品陀和気之命(応神天皇)が祀られています。

 千束八幡神社1(:池畔の千束八幡神社の赤い鳥居、:千束八幡神社の本殿は小高い岡の上、:手水舎と末社)

狛犬は、左が吽像、右が阿像で寄進は1837(天保8年)9月で製作は○○長五郎とあります。

 千束八幡神社2(:狛犬の吽像、:狛犬の阿像、:神楽殿)

[由緒]
洗足池の畔、小高い岡の上に鎮座する。貞観2年(860)宇佐八幡を勧請したことに始まると伝えられる。
平将門の乱に際し、鎮守府副将軍として下向した藤原忠方は、乱を平定した後、この地に土着し、洗足池の畔に館を構えて当社を氏神とした。その子孫が、日蓮聖人を身延より迎えた池上氏である。
奥羽平定に向かった八幡太郎義家は洗足池で禊ぎを修し、戦勝を祈願したと伝えられる。
また、源頼朝は安房より鎌倉へ向かう途中、源氏の氏神である八幡宮が祀られていることを喜び、この地に陣を構えて諸将の参陣を待った。この時、後に宇治川の合戦で佐々木高綱が先陣の功を挙げた名馬・池月〔いけづき〕(生食)を得たという。
これを見た将兵は、平家討伐成就の吉兆として大いに意気が上がり、旗を掲げて歓声を上げた。これに因んで別名「旗挙げ八幡」と呼ばれるようになったと伝えられる。

千束八幡神社を後に、洗足池の詩碑を見て、池月橋を渡って南に進むと中原街道に出て洗足池を一周しました。

 洗足池風景(:洗足池の詩碑、:池月橋)

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毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(6月分掲Indexへ)
カテゴリー別Index 小さな旅総目次 2009・2010年版2006~2009年版
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番外編カテゴリー別ブログ記事の検索と見方 6月INDEX

2010年06月01日 | INDEX
kan-haru blog 2010 6月1日22版

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K&A kan-haruの日記の月間INDEXは、毎月1日付けで掲載しており前月の登録記事の即時検索のほか、カテゴリー別の登録記事の全て(2006年3月から最新登録まで)の検索ができます。
また、京浜急行の高架化の駅別工区をキーとした、大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 サブ・カテゴリー別目次を新設しました。

[K&A kan-haru 日記の見方について]
ブログ左覧のガイド板「カテゴリー」には、kan-haru日記のカテゴリー名とカテゴリー毎の記事登録数が掲載されております。
カテゴリー名の「ようこそ kan-haru日記へ」欄内には、次に示す日記の総合目次と日記を見るためのガイダンスが掲載してあります。
総合目次は、この月間INDEXと統合しており、同一のカテゴリー別目次を併用しております。
「ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について」は、この日記を見るためのガイダンスを記載してあります。日記の見方について (その1)の解説には、カテゴリー別の概要説明と共に、カテゴリー項目からは当該カテゴリーの第1回登録記事から最終・最新の登録までの全ての記事の索引が行えるようにカテゴリー別INDEXと結合してあります。
kan-haru日記 カテゴリー別総合目次(全日記INDEX)
ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その1)  2007年1月30日 更新
ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その2)  2007年1月22日更新
・ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について (その3) (未完)

[ブックマーク からカテゴリー別目次を見る]
ブログ左覧のガイド板の「ブックマーク」に、カテゴリー別目次を登録しました。カテゴリーを選択するとカテゴリー別の目次が見られます。
閲覧日記と同一のカテゴリーの目次は、記載日記最後尾のカテゴリー別Indexから見られます。

[閲覧日記のページから総合目次を見るには]
ブログ左覧のガイド板「ブックマーク」の[kan-haru日記 総合目次]を指定すると、「ようこそ K&A kan-haru 日記の見方について」内のカテゴリー別総合目次を参照できます。
各閲覧日記の先頭または後尾に記載の"< 総合INDEX へ" からも最新の目次が見られます。

[ブログ記事内の参照地図・写真などを拡大して見るには]
次の2006年3月月間INDEXに方法が記載してありますので、参照して下さい。
番外編 ブログ記事の参照地図を拡大して見る方法 [付 kan-haruの日記3月月間INDEX] 2006年4月1日

  大森町界隈あれこれ カテゴリー別目次
■印覧の10年5月掲載項目以外の目次は、下記の項番に付記された下線付きのカテゴリー項目を選択すると、当該カテゴリーの掲載当初から現在日時点までの目次が見られます。

 1 大森町界隈あれこれ 大森町に住んで65年!
 2 大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記 総目次
  2-1 大森町界隈あれこれ 鎮魂! 大森町大空襲 (第1編)
      付 東京大空襲 ~あれから61年~
  2-2 大森町界隈あれこれ 手記第2編 戦災日誌中野編
  2-3 大森町界隈あれこれ 手記第3編 戦前戦後目黒にて
 3 大森町界隈あれこれ 戦後編若山武義氏手記 総目次
  3-1 大森町界隈あれこれ 戦後史編手記 第1~4編総目次
 4 大森町界隈あれこれ 大森町の社寺
 5 大森町界隈あれこれ 大森町商店街
 6 大森町界隈あれこれ 大森海苔
 7 大森町界隈あれこれ 京浜急行関連
  ◇ 2006・2007年版2008年前期版2008年中期版2008年後期版2009年前期版2009年中期版2009年中Ⅱ期版2009年後期版2010年前期版2010年前Ⅱ期版
 8 大森町界隈あれこれ 大森町風景
 9 大森町界隈あれこれ イベント  
10 大森町界隈あれこれ 大森町学びや
 
  大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 サブ・カテゴリー別目次

11 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 Sub INDEX
  ◇ 関連側道全工区統合 2009・2010年版大森町付近工区2006・2007年版大森町付近工区2008年版大森町付近工区2009年版梅屋敷付近工区京急蒲田付近工区2006~2008年版京急蒲田付近工区2009年版雑色付近工区糀谷付近工区
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合編(第19回その2) 5月3日
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合編(第19回その3) 5月5日 
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合編(第20回その1) 5月9日
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合編(第20回その2) 5月11日
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合編(第21回その1) 5月15日
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合編(第21回その2)上り線高架化開通 5月17日
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合編(第21回その3)上り線高架化開通 5月19日
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合編(第22回)上り線高架化開通梅屋敷 5月21日
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合編(第23回その1)上り線高架化開通京急蒲田 5月23日
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合編(第23回その2)上り線高架化開通京急蒲田 5月26日
 ■ 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合編(第23回その3)上り線高架化開通京急蒲田 5月28日

  一般 カテゴリー別目次

21 風景・風物詩 総目次
  ◇ 2006・2007年版2007・2008年版2008~2010年版
 ■ 風景・風物詩 東京スカイツリー 江戸文化の残る隅田川・荒川界隈に高さ世界一の自立式電波塔が建つ 5月7日
22 小さな旅 総目次
  ◇ 2006~2009年版2009・2010年版
 ■ 小さな旅 大田区と竜馬 池畔に別荘を構え勝海舟墓所のある洗足池を歩く その1 5月31日
23 旅ものがたり 総目次
24 秋葉原界隈 総目次
25 イベント 総目次
  ◇ 2006・2007年版2008年版2009年版
 ■ イベント 東京ミッドタウン 世界最大のワイン祭り『ヴルストマルクト』2010でドイツ旅行を懐かしむ 5月13日
26 ITと技術 総目次
27 Weblog 総目次

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kan-haru日記 小さな旅総目次 2006~2009年版(カテゴリー別INDEX)

2010年06月01日 | INDEX
kan-haru blog 2010 6月1日14版

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   小さな旅 カテゴリー別総目次 2006~2009年版



  小さな旅(1) 秩父長瀞の蝋梅と火祭り 3月12日 
  小さな旅(2) 菩提寺墓参 3月26日 
  小さな旅(3) 清澄庭園・深川江戸資料館 3月28日 
  小さな旅(4) 京都桜・日帰り花見 その1 4月30日 
  小さな旅(4) 京都桜・日帰り花見 その2 5月3日 
  小さな旅(4) 京都桜・日帰り花見 その3 5月5日
  小さな旅(4) 京都桜・日帰り花見 その4 5月7日 
  小さな旅(5) 旧古河庭園 6月15日
  小さな旅(6) 矢切の散歩道(野菊の墓) その1 6月27日
10 小さな旅(6) 矢切の散歩道(野菊の墓) その2 6月29日
11 小さな旅(7) 日本一大きい牛久の大仏 10月13日 
12 小さな旅(8) 大江戸温泉物語 ドクターフィッシュ 12月5日
 


13 小さな旅(9) 梅祭り 府中市郷土の森梅園 復元古民家めぐり その1 2月15日
14 小さな旅(9) 梅祭り 府中市郷土の森梅園 復元古民家めぐり その2 2月17日
15 小さな旅(10) すみだ郷土文化資料館と墨田川江戸流しびな 3月5日
16 小さな旅(11) 雛のつるし飾りまつりと河津桜まつり その1 3月15日 
17 小さな旅(11) 雛のつるし飾りまつりと河津桜まつり その2 3月17日
18 小さな旅(12) 茨城古河 桃まつり 3月27日
19 小さな旅 立川 国営昭和記念公園 5月20日 
20 小さな旅 久里浜 くりはま花の国 その1 5月22日 
21 小さな旅 久里浜 くりはま花の国 その2 5月24日 
22 小さな旅 紫陽花 開成町あじさい祭り その1 6月27日
23 小さな旅 紫陽花 開成町あじさい祭り その2 6月29日
24 小さな旅 観音埼 海洋深層水風呂のSPASSO 7月27日
25 小さな旅 サイボク天然温泉 まきばの湯 7月29日
26 小さな旅 後楽園天然温泉 ラクーア 7月31日



27 小さな旅 秋のばら観賞 京成バラ園 10月17日
28 小さな旅 鎌倉の紅葉 鎌倉駅近くの妙本寺と北鎌倉円覚寺 12月26日



29 小さな旅 羽根木公園観梅 第32回せたがや梅まつり 2月27日
30 小さな旅 桃の桃源郷 日本一の桃の産地笛吹市一宮ももの里温泉での花見 4月22日
31 小さな旅 三浦半島 十数年振りの三浦三崎港と城ヶ島での晩春の散策 5月9日
32 小さな旅 世界一のつつじと鯉のぼり 館林のつつじが岡公園と文福茶釜の茂林寺に芝桜の遊覧その1 5月13日
33 小さな旅 世界一のつつじと鯉のぼり 館林のつつじが岡公園と文福茶釜の茂林寺に芝桜の遊覧その2 5月15日
34 小さな旅 曼珠沙華まつり 秋の高麗の里巾着田に真っ赤に色づく彼岸花の郷(その1) 10月3日
35 小さな旅 曼珠沙華まつり 秋の高麗の里巾着田に真っ赤に色づく彼岸花の郷(その2) 10月5日
36 小さな旅 京急羽田空港駅開業11周年 大変貌の羽田空港「国際ターミナル駅」(仮称)2010年開業 11月25日
37 小さな旅 名栗温泉 紅葉の季節の昼の一時を山間の静かな日帰り温泉に浸り焼き魚を楽しむ 12月3日
38 小さな旅 三渓園 原家の私邸であった内苑の日本庭園で楽しむ紅葉 12月5日



39 小さな旅 龍馬と立会川 土佐藩山内家下屋敷のあった京急立会川駅周辺を歩き龍馬の足跡を追う(その1) 3月11日
40 小さな旅 龍馬と立会川 土佐藩山内家下屋敷のあった京急立会川駅周辺を歩き龍馬の足跡を追う(その2) 3月13日
41 小さな旅 龍馬と立会川 土佐藩山内家下屋敷のあった京急立会川駅周辺を歩き龍馬の足跡を追う(その3) 3月15日
42 小さな旅 竜馬と赤坂 竜馬の足跡を追い赤坂本氷川坂の勝海舟邸跡を歩く(その1) 4月17日
43 小さな旅 竜馬と赤坂 竜馬の足跡を追い赤坂本氷川坂の勝海舟邸跡を歩く(その2) 4月19日
44 小さな旅 竜馬と赤坂 竜馬の足跡を追い赤坂本氷川坂の勝海舟邸跡を歩く(その3) 4月21日

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