共同代表 伴英幸 逝去のお知らせ(原子力資料情報室公式ホームページ;2024年6月11日)
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伴英幸さん死去 72歳 原子力資料情報室の共同代表(毎日)
脱原発の立場から国の原子力政策を批判、点検してきたNPO法人原子力資料情報室の伴英幸(ばん・ひでゆき)・共同代表(72)が10日、がんのため死去した。葬儀、告別式は近親者のみで営む。
1951年生まれ、早稲田大卒。生活協同組合専従を経て、90年に原子力資料情報室のスタッフになり、95年に事務局長、98年から共同代表。
原子力政策大綱を策定する原子力委員会の有識者会議の委員や、東京電力福島第1原発事故後に中長期のエネルギー政策を見直す経済産業省の有識者会議の委員を歴任。国の原子力政策に批判的な立場で発言を続けてきた。著書に「原子力政策大綱批判――策定会議の現場から」(七つ森書館)。
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伴英幸さんが遺したバトンとは…「脱原発社会」目指し対話続けた原子力資料情報室共同代表 悼む声が広がる(東京)
脱原発の実現を訴える市民団体「原子力資料情報室」(東京)の共同代表、伴英幸(ばん・ひでゆき)さんが10日、亡くなった。72歳だった。チェルノブイリ原発事故をきっかけに、脱原発の運動に参加。経済産業省や国の原子力委員会の会合でも委員を務め、「原発推進」側とも粘り強く議論した。「こちら特報部」の取材にも丁寧に応じてくれた。その人柄と功績に関係者から悼む声が広がっている。(宮畑譲)
◆「政府と折り合いがつかない時も対話を」
「温和な人だったが、内に熱いものを持っていた。あと5年は一緒に活動してもらえると思っていた」
情報室事務局長の松久保肇さんが悔やむ。松久保さんによると、伴さんは今年3月に入っても講演活動をこなしていたが、腰痛を訴え、精密検査を受けたところ、がんが進行していることが発覚し、入院した。
見舞いに訪れた松久保さんに、伴さんは「政府と折り合いがつかない時も対話は大事」「なるべく現場に通うように」と対話と現場の大切さを伝えたという。
◆チェルノブイリを契機に市民運動へ
伴さんは旧ソ連ウクライナで1986年に起きたチェルノブイリ原発事故を契機に、脱原発の市民運動に参加し、90年に情報室のスタッフになった。情報室は75年、物理学者の高木仁三郎さん(故人)らが、市民の側から原子力に関する情報収集や調査・研究をしようと設立。伴さんは95年に事務局長、98年から共同代表に就いた。
「高木さんが亡くなった2000年から11年3月11日の東京電力福島第1原発の事故まで、脱原発の市民運動や情報室にとっては厳しい時代だった。その時代に、しぶとくしなやかに運動をつないでこられた」
NPO法人「環境エネルギー政策研究所」の飯田哲也所長は、そう功績を振り返り、伴さんがつないだバトンを受け継ぐ重要性を訴える。「高木さんの後を伴さんが埋めたように、これからみんなで何ができるのか。伴さんをイメージしながら次のステージをつくっていかなくてはいけない」
◆福島事故後の混乱に「灯台」の役割
3.11直後、前例のない事故に日本中が混乱を極めた。東電と経産省原子力安全・保安院(現原子力規制委員会)の説明は難解。楽観的な見立てを語る専門家もいた。そんな中、情報室に取材が殺到した。飯田さんは「あの時、日本中のほとんどの人が何が起きているのか分からなかった。情報室と伴さんは『灯台』の役割を果たした」と評する。
エネルギー政策を議論する総合資源エネルギー調査会(経産相の諮問機関)の委員も務めた伴さんは、脱原発・反原発の強い思いを持ちながら、原発を推進する政府・国とも粘り強く「対話」をした。
◆いろんな人をつなげる人だった
原子力市民委員会の座長を務める龍谷大の大島堅一教授(環境経済学)は「脱原発を目指す地域の人や研究者など、いろんな人をつなげる人だった。一方で、意見が違う政府とも話ができる。そんな人はなかなかいない。大きな存在を失った」と残念がる。
ただ、大島さんは「松久保さんら若い世代が育った。これも伴さんがいたからだろう。彼らの個性、やり方で伴さんの意思は引き継がれていくと信じている」と強調する。
◆「このままではいけないと思ったはず」
一方の政府は3.11から10年以上がたち、原発推進に回帰する。岸田文雄首相は昨年2月、原発の60年超運転や次世代型原発への建て替えを柱とする基本方針を閣議決定した。
原発事故でもたらされた教訓はどこに行ってしまったのか。伴さんは18年、「こちら特報部」の取材にこう答えている。
「3.11の直後に感じた原発への不安は拭われていない。誰もが、このままではいけないと思ったはずだ。その危機感をあらためて共有することから、脱原発社会は始まる」
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福島第1原発事故以降、当ブログの「ブックマーク」にもずっと登録したままになっている「原子力資料情報室」共同代表、伴英幸さんが死去した。私は直接の面識はなかったが、3月の入院後、がんが全身に転移し厳しい状態にあるとの情報は、反原発運動筋を通じて私も3月中には聞いていた。3.11以降の激務の中で、自分をいたわる時間はほとんど取れなかったのではないだろうか。
「福島事故後の混乱に「灯台」の役割」という東京新聞記事は、まさに3.11直後の空気を誤りなく表現している。電力業界からのおびただしい広告収入と、電通による支配が行き届いた商業メディアはこの未曾有の事態に当たっても福島の危険性をまったく報じなかった。当時、私が住んでいた福島県西郷村でも震度6強の強い揺れを記録。一時的に停電したが、数時間後、停電から復旧し使えるようになったネットで頼りにしたのが、原子力資料情報室の記者会見動画だった。会見は毎日、また福島第1原発に大きな動きがあったときは1日複数回、行われることもあった。
私たち夫婦が、福島から関西方面へ、1ヶ月にわたる避難を決断できたのも、原子力資料情報室の会見を随時チェックしていたからである。これがなければ、福島の危険に気づかず、避難を決断することはできなかったに違いない。福島第1原発からの放射能の流出は、3月12~13日頃と3月15~16日頃に大きなピークがあった。この時期に福島を離れていたことは、私たちが無用の被ばくから身を守ることにつながった。
政府から原子力関係の委員会・審議会などの就任依頼があれば積極的に引き受けた。通常、国のこの種の委員会・審議会は15人くらいの委員で構成されるが、反対派は1~2人のことが多く、しょせんは「反対派の意見も聞いた」というアリバイ作り、セレモニーに過ぎない。「多勢に無勢」の中で折れずに自分の主張を貫き通すにはかなりの覚悟を必要とする。「負け戦」とわかっていて、脱原発実現のために原発推進派と対話をし続けるのは並大抵のメンタルではできない。
加えて、この種の委員に反対派から就任する人にはもうひとつ、超えなければならない「壁」がある。それは仲間からの「裏切り」批判だ。「負け戦」とわかっていても、あえて反対派から委員が就任するのにはいくつかの大きな理由がある。①委員会・審議会の議事録として国の公文書に原子力政策への反対意見を残すことができる ②将来、国が政策転換をするときのために重要な政治的・社会的・経済的・技術的知見を提供する--などである。こうした意義を理解し、かつメンタルが強く、覚悟も持っている人が反対派から委員となるが、この種の人に対しては、一緒に反対運動をしてきた仲間から「あいつは権力・政府に取り込まれた」「裏切り・寝返り」などと批判されることがある。献身的に頑張ってきた運動家が、この手の「裏切り」批判で潰されていった実例(原子力と別の分野だが)を私は知っている。
そのような事情から、反対派でこのような委員を務めてもいいという人はごく限られていて、伴さんのような人は結果的にいくつもの委員を掛け持ちすることになる。孤軍奮闘できる人、仲間も一目置き、「裏切り・寝返り」批判が起きない程度には反対運動内部で実績を積んでいる人であることが求められる。伴さんはそんな希有な人材だった。
放射性物質の性質など技術的なことはもとより、放射能の健康への影響、核ごみ問題、原発の安全性や経済性、海外の原子力政策の動向など、原子力に関するあらゆる分野に精通し、適時適切な批判を行うことができるという意味では他の追随を許さなかった。私が反原発運動団体の役員にも就いていないのに、各地で講演ができるほど「兵隊として最強」になれたのは原子力資料情報室によるところが大きい。原子力資料情報室以外にも反原発運動団体はあるが、「たんぽぽ舎」が現場行動重視なのに対し、原子力資料情報室は理論・政策面に強く、またFoE Japanはグローバルな視野を持ち海外とつながっているなど、各団体にはそれぞれの特徴がある。
72歳はあまりに若く、松久保さんは「あと5年頑張ってほしかった」と述べているが、私はあと10年頑張っていただきたかったと思う。それでも福島第1原発事故から13年、後進は全国各地に育ってきている。確かに反原発運動にとって、巨大な支柱が折れたような喪失感はある。高木仁三郎の最後の言葉「せめてプルトニウム最後の日くらいは生きているうちに見たかった」との思いは伴さんの胸にも去来していただろう。その思いは私たちが引き継ぎ実現していかなければならない。