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安全問題研究会(旧・人生チャレンジ20000km)~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

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<地方交通に未来を(6)>騒がしくなってきたローカル線~鉄道40年周期説から考える

2022-08-17 20:07:02 | 鉄道・公共交通/交通政策
(この記事は、当ブログ管理人が長野県大鹿村のリニア建設反対住民団体「大鹿の十年先を変える会」会報「越路」に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 前号のこの欄で、JR西日本の赤字線区公表についての見解を明らかにする予定だったが、海難事故としてはここ数十年来で最悪レベルの知床遊覧船事故が起きたため先送りせざるを得なかった。そうしているうち、7月28日にはついにJR東日本までが赤字線区を公表。翌29日、朝日・毎日・読売の全国主要3紙の1面トップをローカル線問題が飾った。

 これに先立つ7月25日には、国交省「鉄道事業者と地域の協働による地域モビリティの刷新に関する検討会」によるローカル線問題に関する提言も公表され、ローカル線周辺が一気に騒がしくなってきた。

 全国に先駆けて、2016年11月に北海道で「自社単独では維持困難」10路線13線区が公表されてから早くも5年半。北海道の「地域問題」に押し込められ、道外ではどんなに訴えても理解してもらえなかったローカル線問題がようやく全国課題になるのだと思うと、身が引き締まる思いがする。北海道ではローカル線維持を求める闘いはすでに終局ムードだが、全国レベルで言えば、ようやくスタートラインに立つのだ。

 この問題に関する考えを早々にまとめる必要があるが、今はまだうまくまとまらない。だが私は、このような事態が訪れることは割と早い段階で予想していた。というのも、日本の鉄道の歴史を紐解いていくと、「ある法則」が見えてくるからだ。

 今年は1872年に日本初の鉄道が開業してからちょうど150年に当たる。新橋(現・汐留)~横浜で開業したのは官設鉄道だったが、その後は民間による鉄道建設を政府が認めたことによって、現在の全国鉄道網を形作る主要幹線の多くが民間の手によって建設された。

 日露戦争で日本はなんとか勝つには勝ったが、鉄道会社の境界駅で貨物が何日も運ばれないまま放置されるという事態が頻繁に起きた。この事態を重く見た軍部が「今後もこのようなことが続くなら次の戦争は危うい」としてバラバラに別れていた鉄道会社の統合に乗り出す。1906年3月27日、第22回帝国議会衆院本会議は、西園寺公望内閣提出の鉄道国有法案を強行採決で成立させた。「鉄道時報」は裁決時の衆院本会議場の様子を「怒号叫喚」と報じている。

 次の変化は敗戦後に訪れる。侵略戦争遂行に官営鉄道が果たした役割を問題視したGHQ(連合国軍総司令部)が、鉄道の意思決定を政府から切り離すよう要求した。当時、官営でなければ民間企業の形態しか知らなかった日本政府は民営化を計画するが、敗戦後の経済混乱で全国民がその日暮らしの状況の中、金のかかる鉄道の経営に乗り出す民間企業など現れるはずもない。結局、米国で採用されていた公共企業体方式の導入をGHQに提案された日本政府は、他に妙案があるわけでもなくこれを受け入れる。1949年6月1日、日本国有鉄道発足式では、当時の運輸大臣が職員に対し、諸君はこれから運輸省の役人ではなく「パブリック・コーポレーション」の社員として職務に当たるよう訓示している。

 そして、本誌の大方の読者が記憶している次の大変革は1987年4月1日の国鉄分割民営化である。1872年の鉄道開業から1906年の全面国有化まで34年、ここから1949年の公共企業体発足まで43年。公共企業体が再度分割民営化される1987年までが38年。日本の鉄道は、おおむね40年周期で経営形態を大きく変えてきたことがわかる。私はこれを「鉄道40年周期説」と名付けたいと思う。

 日本全体で見ても、明治維新のどん底(1868年)から日露戦争勝利(1905年)まで37年。太平洋戦争敗戦(1945年)でどん底に落ちた日本は1985年に「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われる頂点に立つ。山から次の山まで、谷から次の谷までが80年であることから、歴史家の半藤一利さんは生前これを「日本80年周期説」と呼んだ。しかし、山と谷を40年周期で繰り返している点では鉄道と同じ40年周期であるとの評価もできる。要するに鉄道の経営形態の変革は、日本社会全体の山と谷による40年周期を数年遅れで追っているのである。

 1985年を頂点とする半藤説に従うと、日本社会が迎える次のどん底は2025年となる。原発事故、コロナ、ウクライナ戦争と苦難が続く中、日本人の人心荒廃と劣化を目の当たりにすることが増え、確かにここ数年は閉塞感、終末感がかつてなく強まっている。なぜ80年周期なのかについて、半藤さんは多くを語らないまま旅立ったが「人間は、……与えられた、過去から受け継いだ事情のもとで(歴史を)つくる」(「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」マルクス)という歴史書の記述を意識するなら、人生80年といわれる今日、ちょうどその長さに匹敵する時間を単位として歴史が次の局面に移行するのだと考えてもそれほど大きくは外れていないだろう。

 鉄道に話を戻すと、もうひとつ重要な点がある。民営鉄道から国有化へは、会社境界駅での滞貨に業を煮やした軍部主導で変化した。官設鉄道から公共企業体への変化は、国家意思と軍事輸送を分離するよう求めるGHQの意向が大きかった。国鉄分割民営化は、モータリゼーションの進行によって鉄道貨物の地位が急低下する中、財界主導で起きた。過去、40年周期で3回起きた鉄道の経営形態の変化からは、いずれも(1)旅客ではなく貨物輸送の行きづまりを直接の契機としている、(2)軍部、GHQ、財界など、その時代において鉄道当局が抗うことのできない絶対権力者からの「天の声」によって行われる一方、鉄道当局みずからは受け身で一度も主導的役割を果たしていない――という2点が見える。

 もし歴史が繰り返すなら、鉄道40年周期説における「次」の節目、すなわち2027年頃を目標として、JRグループの「次」をめざす動きがよりはっきりしてくるだろう。冒頭で取り上げた一連の出来事も「次」への予兆と見て間違いない。今回も事態は旅客輸送よりも貨物輸送、鉄道当局自身よりも外的要因によって動くだろう。

 このように分析すると「次」がどのような形を取って私たちの前に現れるかが見えてくる。旅客輸送は上下一体、貨物だけが上下分離という変則的な分割形態の是正が「次」の主要テーマになる。上下一体を維持するか「下」のみにとどまるかは別として、地域6社分割の弊害を是正する方向での変化となるであろう。主導権を誰が握るかはまだ見えないが、少なくとも国交省やJRグループ自身でないことだけは確かだ。これ以上の廃線を避けたい地方、災害で鉄道が運休するたびに荷物が停滞して被害を受けている物流業界、脱炭素を求める「外圧」、ウクライナ戦争を受け鉄道による軍事輸送のオプションを残したい防衛省などの意向が複雑に絡み合い、事態は進行していくと予想する。

 (2022年8月16日)

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【管理人よりお知らせ】さっぽろ自由学校「遊」2022年度上半期講座「北海道の問題から地球と共生の未来を考える」第3回講座資料を掲載しました

2022-07-26 21:11:58 | 鉄道・公共交通/交通政策
管理人よりお知らせです。

さっぽろ自由学校「遊」2022年度上半期講座「北海道の問題から地球と共生の未来を考える」第3回講座資料を掲載しました。

さっぽろ自由学校「遊」における2022年度上半期講座「北海道の問題から地球と共生の未来を考える」第3回の講座で、当研究会代表が「北海道における『持続可能な社会』と鉄道復権」と題して講演しました。「遊」からのテーマは、持続可能な環境政策に鉄道をどのように位置づけるべきかというもので、主として環境政策の面から鉄道の優位性を説明、できる限り廃線を避け活用する道を追求しています。紙に印刷する場合は、印刷版PDF資料も用意しています。

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<地方交通に未来を(5)>「知床遊覧船」は日本の地方交通事業者の象徴である

2022-05-23 21:11:09 | 鉄道・公共交通/交通政策
(この記事は、当ブログ管理人が長野県大鹿村のリニア建設反対住民団体「大鹿の十年先を変える会」会報「越路」に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 4月23日、乗客ら26人を載せた知床遊覧船「KAZU I」(カズワン)が沈没して1か月になる。今なお12人が行方不明のままだ。

 事故直後から、知床遊覧船の違法かつ全くずさんな運行管理の実態が明らかになった。(1)経験豊富な船長を解雇し操船未経験者を後任にしたこと(2)船体の亀裂をきちんと修理しないまま今シーズンの運行に入っていたこと(3)波高を測定せず毎日同じ数値を記載していたこと(4)故障した船舶無線を修理せずアマチュア無線を連絡手段としていたこと―等々である。(1)は、船長の要件を操船経験3年以上とした海上運送法に違反する。(2)は船舶安全法違反の疑いがある。(4)についても、アマチュア無線の用途を趣味用に限定、人命救助の場合を除いて業務上の使用を禁じた電波法に違反する。こうした何重もの違法行為の末に事故を起こした知床遊覧船に釈明の余地はない。

 一方でこの事故は、日本の公共交通事業者が置かれた現在の苦境を象徴している。もともとコロナ前から青息吐息だったのに、長引くコロナ禍で密集が敬遠された結果、観光目的のものを含め公共交通機関はどこも経営が厳しさを増している。最大手のJRですら公然とローカル線切り捨てを表明している(この件は大変重要なので、次回当たり詳しく述べたいと思っている)。当座の資金確保のため、悪天候でも運航を優先しようとの衝動にかられる零細観光事業者の苦しい経済事情がそうさせている面も見逃せないと思う。

 鉄道に目を転じても、地方のローカル線は似たような状態に置かれている。たとえば、和歌山県に紀州鉄道という事業者がある。名前を聞くと鉄道会社のイメージより不動産屋を連想する人のほうが多いかもしれないが、れっきとした鉄道路線を持っている。ただし営業キロはわずか2.7km(御坊~西御坊)しかなく、千葉県・芝山鉄道(東成田~芝山千代田、2.2km)に次いで2番目に短い。ただ、芝山鉄道は京成電鉄の末端区間を延長する形で開業、全列車が京成電鉄から乗り入れている。自社単独の列車が運行されている鉄道としては日本一短いのが紀州鉄道ということになる。

 その紀州鉄道で2017年1月、脱線事故が発生した。レール幅が通常よりも広がる「軌間変位」が原因とされた(レールの異常にはこの他、2本のレールが揃って同じ方向にずれるものの、軌間自体は変わらない「通り変位」がある)。軌間変位は通り変位と異なり、線路を枕木に固定する「犬釘」の緩みや脱落によって起きることが知られている。つまり保線が十分に行われていないところで起きるのが軌間変位による事故であり「貧乏鉄道」型の事故といえる。2013年9月、北海道・函館本線大沼駅付近で起きた貨物列車脱線事故も軌間変位が原因とされたが、いま振り返れば、その3年後に「自社単独で維持困難」10路線13線区の公表に至ったJR北海道の「窮乏化」の予兆だったのだ。

 紀州鉄道事故をめぐっては、2018年1月、運輸安全委員会が調査報告書を公表している。報告書は「再発防止策」として「軌道整備の着実な実施」「木製枕木からコンクリート製枕木への交換」が望ましいとまるで他人事のように指摘している。たった2.7kmの線路すらまともに維持できないのか、と大半の読者は驚かれるかもしれないが、地方の零細ローカル鉄道は、その程度のことさえできないほど経営が弱体化している。紀州鉄道の経営陣からすれば「そのくらいのことは言われなくてもわかっているが、それでもできないから困っているんだ。そんなことを言うなら補助金出せよ」が偽らざる本音であろう。

 紀州鉄道に限らず、零細ローカル鉄道の中には、すでに毎日、定刻に列車が来ていること自体、奇跡に近い状況のところが数多くある。実際、JR北海道では、仮にも「本線」を名乗っていた2路線(根室本線、日高本線)で大雨が降り、少し線路が流されただけなのに、復旧もしないまま、ある日突然列車が来なくなり、日高本線に至っては大半の区間がそのまま廃線になってしまった。こんなギリギリの状況のところで、事故が起き、運輸安全委員会から「再発防止のため、今後はもっとしっかり保線やってね」と言われたら、そのこと自体が廃業への引き金を引くことになりかねないのである。

 一方で、運輸安全委員会としても「財源の話は国交省の政策部門にしてほしい。事故調査組織であり、担当でもない当委員会に言われても困る」というのが本音だろう。こうして、縦割り行政の弊害で誰もが弱小鉄道を救済しないまま無駄に時間だけが流れているのが問題の背景にある。日本の公共交通はお寒い実態にあり、零細ローカル鉄道もバスも、今日を生きるために少々無理をしても商売せざるを得ない知床遊覧船と五十歩百歩の状況に置かれている。

 弱小公共交通が戦国大名のように群雄割拠する時代はいつまで続くのだろうか。事業者にとっては無益な消耗戦が続き、利用者にとっては安全が犠牲になり、監督官庁にとっては業者の数が多すぎて実のある検査を行き届かせることができない。インターネット用語で言うところの「誰得案件」(誰も得をせず、全員が敗者状態)は、公共交通に限らず他業界にも蔓延しており今や「日本のお家芸」の感があるが、この状態でいいとは誰も思っていないだろう。

 一般路線バス(高速バス以外の通常のバス)をめぐっては、公共交通を熟知している大手持株事業者の下で零細地方バス会社の再編が進行している。本来なら一般路線バス事業を複数の都道府県にまたがって営業することはできないという道路運送法の規定がある(タレント蛭子能収さんが出演する人気番組「全国路線バスの旅」で、出演者一行が県境になるとバス路線がないため、険しい山道を徒歩で越えなければならないのもこの法律に原因がある)。だが、実際には法の目をかいくぐるように、東日本では「みちのりホールディングス」、西日本では「WILLER」(ウィラー)グループが次々と地方零細バス会社を傘下に収めており、このまま行けばいずれ日本全国の一般路線バス会社のほとんどがこの東西2社の子会社として統合されかねない雰囲気が出てきている。

 太平洋戦争開戦前夜、国が「陸上交通事業調整法」を制定し、公共交通機関の戦時大統合を行ったこともある。折しも世は100年に一度のパンデミックと100年に一度の戦争が重なり合う未曾有の局面にある。そろそろ政府が強権を発動しての統合という荒療治を行うことも必要なときではないだろうか。

(2022年5月20日)

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【管理人よりお知らせ】「ノーモア尼崎事故!生命と安全を守る4.29集会」における当ブログ管理人の講演資料を掲載しました

2022-05-04 21:16:19 | 鉄道・公共交通/交通政策
管理人よりお知らせです。

そういうわけで、当ブログ管理人は表記集会終了後、そのまま3泊4日の日程で四国を回って、5月2日に帰宅しました。

集会で当ブログ管理人(安全問題研究会代表)が講演に使用した資料「限界に来た民営JR7社体制と再国有化の展望」(PDF)を、安全問題研究会サイトにアップしました。

また、講演動画も以下「安全問題研究会Youtubeチャンネル」にアップしています。

<動画>2022.4.29 「限界に来た民営JR7社体制と再国有化の展望」(ノーモア尼崎事故!生命と安全を守る集会」講演)


いずれも、現在はこの記事または安全問題研究会トップページとしかリンクを張っていないため、それ以外からは飛ぶことができません。次回のトップページ更新までには整理する予定です。

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<地方交通に未来を(4)>沼田町「鉄道ルネサンス構想」はローカル線の救世主となるか?

2022-03-23 18:19:41 | 鉄道・公共交通/交通政策
(この記事は、当ブログ管理人が長野県大鹿村のリニア建設反対住民団体「大鹿の十年先を変える会」会報「越路」に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 北海道で、廃線の危機に瀕している留萌本線沿線の沼田町が2021年9月に公表した「鉄道ルネサンス構想」(以下「構想」)が、玄人筋から注目され始めている。道内ローカル線の廃線問題のほとんどが決着した今となっては時すでに遅しの感もあるが、この構想が実現すれば、廃線復活も含めた反転攻勢も可能と思う。

 構想は全20ページ。「鉄道は今、あり方を考える時期に来ている」として「既存の制度にとらわれない新しい制度を考える」ためとその意義を説明する。「自家用車と比較して(複数人で利用する場合には)料金が高い」「駅からのアクセスが不便」「切符の種類が複雑で購入が面倒」「時間的な制約が大きい」(本数が少なく待ち時間が長い)などと現状のローカル線の問題点を指摘する。これらは、長年、全線完乗活動を通じて鉄道を見てきた筆者の実感と完全に一致する。こうした問題点が生まれた背景として、鉄道網が道内に引かれたのは明治から昭和中期までであり、自動車の普及で周辺環境が激変したこと、鉄道運賃が国鉄時代から変わらない距離制であること、固定費が高いため大量高速輸送では特性を発揮するが「輸送密度が低くなりがちな地方ローカル線に弱点」を抱えていることなどを指摘する。「地方ローカル線」という表現は「頭痛が痛い」というのと同じ二重表現で気になるが、指摘自体は適切だ。駅からのアクセスが不便なのも、自動車中心のまちづくりばかり続けてきた自治体の責任であり、指摘する資格があるのかという気持ちもあるが、そんな遠い過去を今さら問うても仕方ないので筆者の胸の内にとどめておこう。

 構想は、持続可能な鉄道を守るためには新たな収入源が必要であるとして、JR北海道の鉄道を会員制に変更するよう提案する。JR北海道の年間赤字額420億円を道人口530万人で割り、1人当たり年間8千円を負担すれば1年中、道内全線が乗り放題となる「フリーダムパスポート」の導入を訴える。パスポートは、会員と非会員との間で貸し借りを防ぐため顔写真入りにするという具体的なものだ。シルバープラン(高齢者割引)やファミリープラン(家族割引)なども提案。2人以上での利用だと結局は自家用車のほうが安いという問題の解消が期待される。

 沼田町は提案理由について「会員制度を魅力的にするには、スケールメリットと広いネットワークが必要」としている。乗客減少→減便→不便になりさらに乗客減少→廃線のスパイラルをこれにより断ち切りたいとの思惑だろう。利用者には「年会費制のため乗れば乗るほど得になる」メリットがあり、またJR北海道にとっては「景気に左右されにくい安定収入」が確保できるとしている。注目されるのは「現在の鉄道を上下分離により存続させても延命措置を施すだけとなり利用者は増加しない」と、最近の安易な上下分離ブームを戒めていることである。最後に、構想はそのまとめとして「JR北海道のこれまでの経営努力に敬意」を評しつつ「今こそ鉄道が大きく変わらなければならない時」であると締めくくる。

 筆者は読み終わってみて、ある種の清々しさを感じた。国からも道からも「廃線の手引き」ばかりが続けられてきたこの間の情勢を理解した上での「国、道への決別宣言」と筆者は受け止めた。「JR北海道のこれまでの経営努力に敬意」という表現ひとつとっても、「減便と廃線しか頭にないあなた方はもう結構です」という決別宣言と取れる。沼田町の不退転の決意が感じられる。この間、ローカル線問題を追ってきた筆者の目には、道内から提案される最後のJR再建策であるように見える。

 この再建策自体は決して奇をてらったものではなく、むしろ筆者が提案している「日本鉄道公団法案」によるJR再国有化よりはるかに実現が容易である。既存の法制度に一切手を付けることなく、営業施策の枠内で取り組みが可能だからである。会員制鉄道というと大上段に構えた表現に聞こえるが、若い世代にとっては「鉄道運賃料金へのサブスクリプション(サブスク)制の導入」だといえばそれ以上の説明は不要だろうし、中高年層に対しては「北海道全線で利用可能な定額制1年定期券」だといえば理解されるだろう。年間8千円という金額設定も、現行の通勤定期から見ても破格の安さである。

 この構想に懸念があるとすれば、全道民の加入を想定している点だと思う。鉄道沿線でなく利用機会もなさそうな道民が、自分が乗らない鉄道を支えるためだけに毎年8千円を払い続けるかどうかには疑問がある。むしろ、北海道の魅力を理解しているファンは道外にこそ多くいることを踏まえると、半分は道外会員でもいいと割り切るべきだ。

 日本の鉄道はもともと、その輸送力の大きさに着目した篤志家が資本を募り、線路を引いた。東海道本線などの主要路線も、東京の地下鉄もすべて建設は民間である。政府は富国強兵路線の中、戦争のために民間から鉄道を強引に買収し、さんざん戦争に使い倒した後、自動車普及で経営が悪化すると民営化の名の下、鉄道をポイ捨てにした。東日本大震災のとき、早々に被災地での配達を取りやめた日本郵政に対し、ヤマト運輸はがれきを乗り越え配達を続けた。民営化反対、公共サービス強化を訴え続ける筆者にとってはなはだ残念なことだが、日本では公共サービスの分野に関しても官より民のほうが優れていることを示す実例のほうが多い。だからこそ、筆者は日本鉄道公団法案を自分でとりまとめておきながら、実効性に疑問を感じるときがある。日本の鉄道の基礎を築いた民間の手で何か再建方策が考えられるならそれでもいいのではないか。今この瞬間も揺れ動いている。

 勝手に来店し、マスクもせず大声で話し続ける客に辟易して会員制を導入する飲食店がコロナ禍以降、増えている。客が企業を選ぶ時代は終わり、これからは企業が客を選ぶ時代に入ったといえる。

 鉄道も同じだ。「無駄なものには誰が何と言おうとビタ一文払いたくない」という考えが世界でも突出して強く、公共財なんて概念すら理解していない多くの日本人に「他の誰かのために必要な公共財だから税金で支えてくれ」などと説得をする段階はとっくに過ぎている。前回も述べたが、鉄道なんてもう支える意思を持つ人だけの会員制でいい。みずからの構想に基づく新たな会員制鉄道が実現したら、赤字線の廃止を主張してきた人の乗車は拒否するくらいの強い決意で臨むよう、沼田町には望みたい。

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【管理人よりお知らせ】ローカル線存続を訴えるビラ2種を作成、公開しました

2022-02-14 21:36:51 | 鉄道・公共交通/交通政策
根室本線、函館本線(長万部~余市間、通称「山線」)が相次いで寸断の危機にあります。根室本線は災害、函館本線は新幹線札幌延伸が原因ですが、つながっている路線、それも本線と名称を持つ大動脈をわざわざ切断し、直通できなくするというのは発展途上国でもあり得ないような世紀の愚策です。かつて新幹線を生み出し、鉄道先進国と呼ばれたのも今は昔、日本は今や世界最低の鉄道後進国に成り下がりました。こうした背景に、鉄道を国民の公共交通から「民間企業の商売道具」に変えてしまった国鉄分割民営化に原因があります。

当研究会では、取り急ぎ、存続のために何が必要か、今最も有効と考えられる方策を訴えるためのビラ2種を作成しました。「私たちは根室線をなくしてはならないと考えます」と「国は今こそ貨物列車迂回対策を!」です。北海道向けに作成していますが、全国でも豪雨災害の大規模化によって毎年のように鉄道寸断による迂回輸送は発生しており、全国的課題です。全国でこのビラを広げていただくようお願いします。

なお、「当ブログのご案内」からもリンクしていますが、この「ご案内」はスマホ版、タブレット版には表示されません。その場合は、上記リンク先を直接拡散してください。

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<地方交通に未来を(3)>ローカル線とクラウドファンディング

2022-01-17 18:36:45 | 鉄道・公共交通/交通政策
(この記事は、当ブログ管理人が長野県大鹿村のリニア建設反対住民団体「大鹿の十年先を変える会」会報「越路」に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 新型コロナ感染が始まる以前の時代、クラウドファンディングはまだ一般には馴染みの薄い言葉だったと思う。富裕層や社会的地位の高い人たちはノブリス・オブリージュ(高貴なるがゆえの義務)の一環として寄付をするのが当然だという風潮のある米国などと違い、もともと寄付文化も希薄な日本では、街頭募金やカンパなどを求めてもなかなか集まらないのが常だった。

 しかし、「プロジェクトや寄付金の使用目的を提示して、一定期間内に目標金額を集める企画」をクラウドファンディングと呼ぶのだということが、ここ1~2年でかなり浸透してきた。発案者が設定した寄付額を期間内に集め、プロジェクトが成立した場合に限り寄付金が発案者に引き渡されるが、成立しなければ寄付金を拠出した人に返金されるもの、成立しなくても締切時点で集まった金額が発案者に渡されるものなどいくつかのタイプがある。実施するインターネット事業者も「CAMPFIRE」「READYFOR」など数社あり、プロジェクト実現のための企画書の書き方や目標金額の設定方法などを初心者にもわかりやすく手ほどきしてくれるところが多い。

 従来なら成立させることが難しかったようなプロジェクトでも、ここ1~2年で成立に至る事例が急速に増えてきた。長引くコロナ禍によって医療崩壊という事態を市民が現実に目の当たりにしたことがきっかけであることは間違いない。感染対策上、密集を避けることが有効であることから自宅で過ごすことが奨励された。従来であれば旅行・外食・レジャーなどに向けられてきた市民の巨大な資金が行き場を失った。日本の観光業の経済効果は39兆円に上るとの試算もある。これだけの巨大な資金の向かう先が新たに必要になったという事情も見逃すことができないだろう。

 とはいえ、ここ数年で急増したクラウドファンディングの成功例を見ていると、何でもいいというわけではもちろんなく、そこには一定の傾向も見えてくる。(1)生活に必要不可欠な分野(いわゆるエッセンシャルワーク/サービス)、(2)政府・自民党サイドに理解がないため公的支援が薄く、また今後も改善する見込みがないと考えられる分野――に寄付が集中する傾向が見えてきたのである。医療・福祉・教育などがその典型的分野であり、福祉施設の開業資金援助や子ども食堂への資金援助などといったクラウドファンディングが次々と成立するようになっている。こうした分野は本来、政府が最も手厚く予算と人員を配分しなければならないことはいうまでもないが、自民党に今さらそれを求めても仕方がないという思いもあるのだろう。必要不可欠な存在として自分が守りたいと思っている産業や業界を「政治以外」の方法で直接、手軽に支援できる有効な存在としてますますクラウドファンディング頼みの傾向は強まっているように思える。

 ただ、鉄道はコロナ前からクラウドファンディングの一大人気分野だった。引退した古い車両を復活運転させるイベントなどには多くの資金が集まり、失敗例を探す方が難しいくらいの人気だった。ただ、イベントへの参加など、寄付金の拠出者に対する明確な見返りがあり、かつ一過性のものに限られていた。通常運行している車両の整備補修費や、鉄道会社の赤字補てんのように、果実を伴わず、一過性でもないため際限なく寄付を求められ続けるような案件には「理解が得られるわけがない」と考える鉄道会社がほとんどで、そのような案件に寄付を募るという発想自体が鉄道会社にはなかったといえる。

 コロナ禍で大きく変わったのは、このような分野にも寄付が集まり始めたことだ。特に大きかったのは、旧国鉄北条線を転換した第三セクター・北条鉄道(兵庫県)で、国鉄時代の主力車両でありながら多くの路線からは引退したキハ40系気動車を復活させるためのクラウドファンディングが成功したことである。引退した旧車両の復活という部分に趣味的・イベント的な要素もあるものの、北条鉄道が公表した趣意書を読むと、ダイヤ改正で計画している増便後、車両数がギリギリとなり車両の定期検査を交代で受けさせるための予備車もないという状況になる。そうした事態を避けるため、新規にキハ40系を導入したいとしている。要するに、一過性のイベントでも趣味的動機がメインでもなく、鉄道会社の日常経費に当たる部分でのクラウドファンディングとして実施された点に特徴がある。当初の目標額は300万円だったが、あっという間に集まったため、二度にわたり目標を引き上げ。第3回目標は無謀とも思える1千万円に設定したが、これすら期間内にあっさりと突破、1300万円もの寄付を集めた。

 この成功には大きな意味がある。特に北海道では、鉄道の公共財としての性格を理解せず、その維持のため前面に出ようとする動きが国にも道にもないまま、赤字路線維持のため、背負いきれないほど巨額の財政負担が沿線自治体に対して求められ、沿線自治体と地域住民が涙を流しあいながら、鉄道会社から提案された廃線を「仕方なく」受け入れる悲劇を多く見てきた。北条鉄道でのクラウドファンディングの成功は、こうした局面を打開し、地域住民に必要とされながらも、採算性至上主義の下では廃線一択だったローカル線の行方を大きく変える可能性を開いたという意味で、きわめて画期的出来事である。

 こうした動きに対しては「政府に金を出させるべきだ」という反論が予想される。しかし、その議論をしている間にもローカル線の赤字は日々蓄積している。鉄道の価値をまったく認めず、予算も割かない自民党の意識変化を待っていてもいつになるかわからないし、そうした自民党政治からの転換を目指した野党共闘も政権交代にはほど遠かった。それならば、鉄道の価値なんてわかる人だけにわかってもらえればいいという割り切りも必要だろう。次善の策として「鉄道の価値を正しく認める人たちだけで浄財を出し合ってでも支えていこう」という動きにつながることに何の不思議もない。

 群馬県の第三セクター・わたらせ渓谷鉄道(旧国鉄足尾線)もクラウドファンディングを成功させた例である。コロナ禍で利用客が激減し、車両整備補修費も捻出できないほど危機的状況に陥ったがクラウドファンディングで確保した。鉄道ライター枝久保達也氏の取材に対し、わたらせ渓谷鉄道の担当者は「かなり頑張って支援していただいた中で、また次も、とは言いづらい。これが最後のつもり」というが、そんな変な遠慮はせず、どんどん援助を求めたらいい。貧困が広がる日本ではにわかに信じられないかもしれないが、富裕層の中にはカネの使い道に困っている人たちもいる。欧米諸国のように、日本でも富裕層に対し、ノブリス・オブリージュの一環として公共サービスへの寄付を求める時期に来ていると思う。

(2022年1月15日)

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【転載記事】「社会的共通資本」としての鉄道 「廃線」を回避しよう SDGs時代こそ公共交通機関が必要だ!

2022-01-02 00:00:00 | 鉄道・公共交通/交通政策
新年早々、鉄道ライター小林拓矢さんによる心強い論考がインターネットに掲載されています。長文ですが、読み応えのある内容ですのでご紹介します。なお、写真を含む記事全体は、リンク先からご覧いただけます。

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「社会的共通資本」としての鉄道 「廃線」を回避しよう SDGs時代こそ公共交通機関が必要だ!(小林拓矢さんのブログ)

 鉄道がなくなってしまうところには、あるいは路線バスさえもないところには、人は住まなくなるのではないだろうか――毎年のように起こる災害で、閑散路線の廃止が話題となり、そう思うことは多い。

 一昨年はコロナ禍の中でJR北海道の札沼線の末端部分が廃止され、昨年は日高本線の大部分が廃線になった。

 これらの路線以外でも、JR北海道では存続をどうするかが問われている路線がある。その路線の中には、かつては「骨格」と呼べたものも。

 ●危機の路線は全国に

 JR北海道だけではない。一昨年の豪雨で被災したJR九州の肥薩線八代~吉松間は復旧のめどが立たず、むしろそこから分岐していくくま川鉄道のほうが再開に向けた動きを見せ、昨年11月に肥後西村~湯前間で運転が再開した。

 時刻表の路線図の欄外を見ると、各地で被災路線の不通が見られる。路線ネットワークの上で重要だから復旧工事をするところもあれば、BRTへの移行をすでに決めたところもある。いっぽうで、どうするかを何年にもわたり議論しているところも。

 そのような視点だと、昨年はうれしいニュースもあった。2011年7月の新潟・福島豪雨による只見~会津川口間の運休状態が、JR東日本と福島県の上下分離方式が成立したことにより、今年中の運転再開をめざして動いている。2011年には福島県では東日本大震災と福島第一原発事故があり、その影響で常磐線は長期間にわたる一部不通状態が続き、一昨年にようやく復旧した。福島県の鉄道が長く寸断されていたものの、ようやくつながった。

 鉄道の存廃論議が起こるとき、都会の人は経済効率性の観点からバス転換やむなしという考えを持ち、地元の人は存続を強く望む人もいれば、あきらめる人もいる。なお、国鉄末期からJR初期に廃止になった路線には、バス転換後そのバス路線もなくなったところがある。

 だが、鉄道が廃止になったところには、いったい誰が生活し、やってくるのだろうか。バス路線もなくなってしまったら?

 かつては人の営みがあったところも、だんだん人がいなくなり、地域が消えてしまう。

 ●路線網の衰退がもたらすものとは

 もし鉄道路線もバス路線もなくなり、自ら自動車を運転して移動するほかないところが多くなったら――完全に自力救済、自己責任の世界となり、社会的な、公共的なものというのが具体的に存在しない地域がかなり増えてくるということになる。

 昨年秋のダイヤ改正で、JR西日本は大幅な減便を行った。閑散路線では、ただでさえ少ない鉄道の本数がさらに減った。

 この流れは今春のダイヤ改正でも続く。首都圏の本数減が大きく取り上げられるものの、地方の路線もダイヤ見直しが行われる。野岩鉄道や会津鉄道のように、第三セクターでも大きく本数を減少させるところもある。

 鉄道はどの地域でも、地域の中心であり、社会の重要な要素となっている。そういった「社会」は鉄道網が弱くなることにより、衰退してしまうという悲しい未来が見える。

 公共交通は「社会」の重要な構成物であり、大切にしないといけない。鉄道は多くが企業の手により運営されているものの、単純に経済原理だけで考えていいものではない。

 世界的に「ソーシャル」なものが復活する中、日本だけ市場主義的なものが強く、その中で人々は苦しめられている一方、責任は当該に帰せられる。この国の場合、鉄道事業者と地域住民である。

 そのような風潮が強まるこの国で、鉄道はどこをめざしていくべきなのか?

 ●「社会的共通資本」としての鉄道・公共交通

 この「社会」の重要な要素として、人々のインフラとしての鉄道・公共交通を確実に維持・発展させていくためにはどんな考え方が必要なのか。

 宇沢弘文という経済学者は、「社会的共通資本」という概念を提示していた。人々がゆたかな生活を送り、社会を持続的、安定的に維持することを可能にする社会的装置のことだ。

 宇沢は社会的インフラストラクチャーもその一つとして挙げ、交通機関も重要視している。

 その著書『社会的共通資本』(岩波新書)で新古典派経済学を厳しく批判し、それに対して社会的な装置を大切にしようと主張している。『自動車の社会的費用』(岩波新書)で自家用車がいかにコストがかかるかについて書いた流れからこの「社会的共通資本」の概念は生まれた。

 宇沢は地球環境についても触れ、持続可能性や地球温暖化についても触れている。それらに対してもっとも優しいのは、鉄道であることは言うまでもない。

 近年、「SDGs」がさかんに言われている。鉄道会社でも、SDGsへの取り組みはさかんだ。「産業と技術革新の基礎をつくろう」「住み続けられるまちづくりを」「気候変動に具体的な対策を」をといったところが、鉄道、そして公共交通が大きく関与できるところである。このあたりは「社会的共通資本」の価値観と一致する。

 鉄道は本来エコな乗り物でありながら、現実の気候変動に対して厳しい状況にさらされている。だが、地域に人が住み続けられる基盤となり、誰かがやってくるにも便利な鉄道を残し続けることは、「社会」を維持する上で必要なことではないだろうか。

 鉄道、そして公共交通機関を逆境に立たせ、脆弱にしてはならない。

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リニア工事崩落でついに死者、さらに崩落事故 ただちに工事中止だ

2021-11-28 23:49:12 | 鉄道・公共交通/交通政策
(この記事は、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2021年12月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 中央リニア新幹線工事現場で最近事故が相次いでいる。10月27日にリニア関連工事では初の死亡事故が起きたのに続き、11月8日にも崩落事故が続いた。

 ◎初の死亡事故

 10月27日、岐阜県中津川市の「瀬戸トンネル」建設現場で発破作業に伴って土砂が崩落。巻き込まれた作業員1人が死亡した。リニア新幹線工事での死亡事故は初めてだ。

 JR東海の発表によると、崩落は2回発生した。発破作業を行った場所の表層の土砂が崩れ落ちる「肌落ち」と呼ばれる現象だ。1回目の崩落で作業員1人が動けなくなり、別の作業員が救出に駆け付けたところ、10~20秒後に2回目の崩落が発生。1回目の崩落に巻き込まれた作業員が死亡した。

 11月8日の崩落事故は長野県豊丘村のトンネル工事現場で発破作業の準備中に発生。火薬を詰める作業に当たっていた作業員が崩落に巻き込まれ負傷した。

 驚くのは事故後のJR東海の対応だ。死亡事故が起きた場合、他の工事現場でも工事を止め、同じような危険がないか点検するのが普通だが、JR東海は山岳部の14工区で「3日程度の掘削作業の中断」を表明しただけ。瀬戸トンネル以外の現場ではさっさと工事を再開した。工事現場の基本的な安全確保にすらまったく関心を払っていない。

 情報公開に対するJR東海の姿勢も同様だ。死者を出した瀬戸トンネル事故でさえ、A4用紙1枚のニュースリリースをホームページに掲載しただけ。豊丘村の事故に至ってはホームページに掲載すらしていない。このようなJR東海のふざけた隠蔽体質こそ連続事故の根底にある。

 ◎事故は2年ごとに起きている

 実は、リニア新幹線の工事現場での大規模な事故はこれが初めてではない。2017年12月にも、発破作業の失敗で長野県大鹿村と松川町とを結ぶ県道に大量の土砂が崩落。復旧に1ヶ月かかり、崩落現場の先にある観光地は年末年始に減収になるなど多大な影響を受けた。大鹿村には国道の通行止めで燃料運搬車も入れなくなり、村民生活にも打撃となった。2019年にも岐阜県中津川市の工事現場で陥没事故が発生。事故はほぼ2年に1回のペースで起きていたのだ。

 リニア工事現場で相次ぐ事故の背景に、施工に当たるゼネコンの技術力低下を指摘する声もある。発破作業直後の十数分は肌落ちが起きやすく、また爆破の衝撃で土ぼこりが舞い現場確認もできないため、通常は「作業員を投入せず待機させる」(技術者)という。

 こうした技術面ももちろんだが、今回の連続事故には工事が大幅に遅れている現場で発生したという共通点がある。瀬戸トンネルは1年遅れ、豊丘村の工事現場は計画では2017年10~12月期に掘削開始予定となっており4年も遅れている。こうした大幅な遅れが焦りにつながったことは間違いない。

 瀬戸トンネル現場での事故は総選挙投票日の2日前に起きた。事業推進の与党とJR東海に忖度したのか、大手メディアは作業員死亡を速報後は沈黙した。今年6月の静岡県知事選でも、静岡県の反対で工事が遅れているかのような印象操作をメディアは繰り返したが、事実とは異なる。現場の最低限の安全さえ確保しないままずさんな工事が横行するリニア事業は中止が当然だ。

 ◎事業中止の闘い続く

 11月9日、リニア・市民ネット東京はじめ、首都圏・愛知・大阪の他、山梨・長野・岐阜のリニア反対17団体が連名で、リニア工事の中止などを求める要請を国土交通省・JR東海に対して行った。

 安全問題研究会も11月26日、リニア中止の要請を計画したが、驚くことに国交省は対面での申し入れ書の受け取りを拒否。安全問題研究会のリニア関係要請に対し、国交省(地方運輸局を含む)が要請書の直接受け取りを拒否するのはこれで3度目。国がいかにリニア問題を恐れているかが見えてくる。

 筆者は原発問題をめぐっても各省庁等への要請行動を行っているが拒否されたことはない。国交省は「新型コロナウイルス感染症対策のため、面談による対応は現在行っておりません。誠に恐れ入りますが、ご了承のほどお願い致します」(国土交通ホットライン・ステーション)としているが、過去2度の直接要請拒否はコロナ前であり理由になっていない。

 安全問題研究会がこのような対応に「了承」を与えることはない。事業中止の展望ははっきり見えてきたと思う。今後もリニア中止に向けた行動を続けていく。

(2021年11月27日)

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<地方交通に未来を(2)>歌を忘れた鉄道は……

2021-11-05 12:03:46 | 鉄道・公共交通/交通政策
(この記事は、当ブログ管理人が長野県大鹿村のリニア建設反対住民団体「大鹿の十年先を変える会」会報「越路」に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 鉄道が歌に歌われなくなって久しい。ここでいう歌とは、一部のマニアだけが笑い、歌いあっているものの、一般の人には歌詞の意味も分からないようなマニアックソングのことではない。そのようなマニアック鉄道ソングを専門とするSUPER BELL"Z(スーパーベルズ)というグループがあるが、一般人が聞いてもほとんど意味がわからないだろう。

 私のいう「歌」とは、昭和時代の「いい日旅立ち」(山口百恵)や「なごり雪」(イルカ)のような曲のことである。日本語を日常語とする人なら誰でも容易に理解でき、市民こぞって歌い合うことで一体感を醸成できるような曲――少し古い言葉で言えば「国民歌謡」、最近の言葉であればJ-POPに分類されるような曲の中で鉄道が舞台であるものや、鉄道に言及しているものである。こうした曲がほとんど出ないまま、平成というひとつの時代が終わりを迎えてしまった。

 ドラマや映画の出会いや別れの舞台としても、かつては鉄道が頻繁に登場していた。蒸気機関車が牽引する、扉が手動式の旧型客車がゆっくり、ゆっくりと加速していく。携帯電話などなかった時代、大切な人との別れを惜しむように最後の瞬間まで語らいあった後、発車ベルが鳴り、列車が動き出すのを見て、ようやく覚悟を決めたようにホーム上を走って列車に追いつき、手動式のドアから乗り込む。歌謡曲に話が戻るが、「あれは3年前/止めるあなた駅に残し/動き始めた汽車に/ひとり飛び乗った」(「喝采」ちあきなおみ、1972年レコード大賞受賞)という歌詞は多くの人に共感をもって迎えられたからこそ大賞を受賞したといえよう。

 私は、小学生の頃、「喝采」の歌詞そのままに、動き出した旧型客車に手動式のドアから飛び乗る体験をしてみたことがある。自宅の前を走っていた日豊本線は電化され、すでに大部分が自動ドアの電車になっていたが、1日3往復だけ旧型客車の列車があった。その頃蒸気機関車はすでに引退、性能のいい電気機関車に代わっていたため、予想に反してホームを発車した列車はグイグイと加速し、危うく乗り遅れそうになった。なんとかホームを走って追いつき、飛び乗ることには成功したが、「蒸気機関車でないとあのドラマは成り立たないな」と子ども心に思ったことを今でも覚えている。昭和の時代のドラマや映画には、こうしたシーンが随所に盛り込まれていた。

 このような形で歌謡曲、ドラマ、映画の主役だった鉄道が、平成に入って以降、まったくと言っていいほど登場しなくなった。その原因はいくつかある。国鉄時代には撮影・制作に協力的だった現場がJRになってから非協力的になったこと、駅が地域の拠点、公共の場からエキナカビジネスのためのプライベート・スペースへとその位置づけを変えたことがその大きな要因だと思う。こうしたことがあいまって、鉄道が市民から遠いところに行ってしまい、市民に意識されなくなってしまう現象につながった。国鉄民営化は駅という空間の「民営化」につながり、ひいては鉄道の社会的地位の低下をももたらしたのだ。

 現在、ドラマや映画での出会いや別れのシーンに登場する場所は圧倒的に空港が多くなった。それに次いで多いのが「クルマで走り去る」シーンであり、もはや公共交通ですらない。新自由主義は人間同士の出会いや別れまでパブリック(公)からプライベート(私)に変えてしまった。

 平成時代を通じて貫かれたのは経済、カネの論理だった。昭和の歌謡曲の主役だった「動き始めた汽車にひとり飛び乗る」女性、「汽車を待つ君の横で時計を気にしてる」僕の代わりにテレビの主役になったのは、新幹線のわずか7分の折り返し時間に手際良く16両編成の列車の清掃と座席転換を終える清掃会社、駅の代わりに百貨店の催し場で売り上げ1位を目指す駅弁業者のような、身も蓋もない経済とカネの論理だった。震度7の激震で公共交通機関も電気・ガス・水道もすべて止まった2011年3月11日、「列車を走らせられない駅に人を入れる意味はない」と早々に駅のシャッターを閉め、まだ冬が居座る中、寒空の下に10万人近い帰宅困難者を放り出し、社会的批判を浴びてもなお改めなかったJRの姿は、本来なら公共空間であるはずの駅「民営化」がもたらしたひとつの悲劇的結末だった。

 2020年、突如発生したコロナ禍ではトイレットペーパーがなくなるという噂が広まった。噂自体に根拠がなくても、多くの人が買い占めに走ることで本当にその通りの結末が訪れる「予言の自己成就」は行動経済学の世界では研究対象になっている。「自分」と「他人」の行動を「買い占める/買い占めない」に分け、2×2の4通りのケースでどの行動が最も理にかなっているか、ゲーム理論を基に説明を試みる研究者も現れた。結果は「自分が買い占めておけば、他人が買い占めをしてもしなくても敗者になることはない」というものだった。結局、資本主義は利己主義であり「抜け駆けをする者が有利」という結論である。

 だが、そのような人々の利己的行動もさることながら、私が最も関心を抱いて推移を見守っていたのは、トイレットペーパー供給不足の背景にある問題だった。製紙工場の倉庫にはトイレットペーパーがうずたかく積まれているのに、ドラッグストアの店頭からは消えている。矛盾する2つの現象が同時展開するニュース映像を見てふと私の頭に浮かんだのは国鉄民営化だった。

 国鉄時代は多くの貨物駅が「国営物流倉庫」として機能しており、余裕物資を備蓄する役割を果たしていた。大きくてかさばるトイレットペーパーは鉄道向きの貨物であり、国鉄時代はワム80000型有蓋貨車(通称ワムハチ)を使ってトイレットペーパーが全国各地に運ばれていた。国鉄民営化で貨物事業は大幅に縮小、貨物駅も整理統合された。物資の保管中は経費がかかるだけで利益は生まれないから、荷主の間にトヨタ流のジャスト・イン・タイム方式が広がるにつれ、倉庫は民間でもビジネスとして成り立たなくなり整理統合が進んだ。物流分野におけるこうした「余裕備蓄力の崩壊」がトイレットペーパー不足の背景にあるのではないか。長く公共交通業界を見てきた私の現在までの推測である。

 元号が令和に変わって3年。カネカネカネで走り続けてきたニッポンはこの先どこに向かうのか。市民意識から遠ざかってしまった鉄道が公共交通の地位を取り戻し、駅が再び公共空間に戻るためにこれから何が必要なのか。鉄道がもう一度「歌」を取り戻すことにその答えがあるのではないかと、私はいま思っている。

(2021年11月1日)

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