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禁酒生活2年を経て思うこと~いいことずくめの禁酒、皆さんもいかが?

2018-08-25 22:05:11 | その他社会・時事
(この記事は、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2018年9月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 本誌先月号(215号)掲載の杜海樹さんのコラム「忍び寄るアルコール依存」を興味深く拝読した。以前の本誌記事でも表明したように、筆者は普段、他の方が書いたものに感想を述べることはめったになく、今回も杜さんの記事に直接的に感想を述べるものではない。だが、せっかくアルコール依存のことが取り上げられたのを契機に、私自身の体験も踏まえ、今回は雑感的に述べてみたい。

 ●アルコールを口にせず2年

 私はもともと酒を飲むこと自体は好きだが、体質的に酒が強いかどうかと問われると、お世辞にも強いほうだとはいえない。飲むとすぐに眠くなる。職場の飲み会後の2次会で行ったスナックでは、会話もそこそこにカウンターに突っ伏して寝ていることもよくあった。これでも飲み代は他の参加者と割り勘だから、何をしに行ったのか今振り返ってもよくわからない。

 酒の上での失敗も数えきれないほど経験した。かつて横浜で勤務していた頃、通勤は京浜東北線で、自宅は終点・大船にあったが、駅に着いても起きられず、電車で何往復もしたあげくに、逆方向の大宮に到着、そのまま電車が終わってしまい、大宮のホテルに泊まってそこから翌朝出勤したこともある。観察眼の鋭い女性の同僚から「あら黒鉄さん、そのネクタイ、昨日と同じですよね」と言われて顔面蒼白になった。

 自宅とは全然方向の違う路線の無人駅のホームや、駅のベンチで寝ていたこともある。気がつけば隣の県の駅だったことも2~3度あった。「気がつきゃホームのベンチでごろ寝/これじゃ身体にいいわきゃないよ」の歌詞で知られるスーダラ節(植木等)の世界そのままの愚行である。電車の中で眠りこけ、起きたら網棚の上に置いていたはずのカバンがなくなっていたこともある。上着のポケットに入れていた財布はしっかり残っており、「なぜ財布でなくカバンなのだろう」と盗んだ人の真意がこのときはわからなかった。そのたびに、次からは同じような失敗を繰り返さないようにしようと思いながら、気がつくと似たことをまたしている。煙草は一切吸わず、ギャンブルも少し試してみたものの、自分には才能がないと悟って20代前半で早々と手を引いた私にとって、酒は数少ない楽しみであり、若いころ(20~30代当時)は酒が飲めなくなるくらいなら死んだほうがましだとすら思っていた。

 そんな私に転機が訪れたのは一昨年6月だった。喉や胸に異常を感じて職場の人間ドックを受けたところ、胃がんの宣告を受けたのである。すでに初期の段階は過ぎており、「胃を全摘出する以外にない」との宣告に一瞬、頭の中が真っ白になった。不幸中の幸いなのは他の場所への転移がなかったことだ。

 一昨年の8月、職場も休暇扱いになり、胃を全摘出する手術を受けた。入院は16日間。この間も本誌の連載は休まなかったため、大半の本誌読者にとって、私の胃がん手術は今回初めて知る事実だろう。

 主治医からは「無理は禁物だが、口にしたいものがあるのに自分で我慢してしまうのもよくない。自分が食べたいものがあるなら試すのは構わないし、飲めると思うようになったら飲んで試してもらうのも構わない」とのあいまいな指示があっただけで、特段、飲酒を止められているわけではない。実際、手術直後は1日も早くお酒を飲みたくて仕方がなく、何度も飲んでみようかという誘惑にかられた。だが、胃を摘出され消化器官を失ってしまった私が、普通の食事でさえまともに吸収できないのに、刺激が強く、毒性を持つアルコールをすぐに消化・吸収できるとも思えない。それよりもきちんと食べるべきものを食べられるようにすることが先決で、食べるトレーニングをするうちに1カ月、2カ月と時が過ぎていった。

 私にとって大きな心境の変化が起きたのは、退院から半年経過した昨年3月だった。あれほど強く持っていた飲みたいという欲求がスーッと消えていくのを感じたのだ。もう一生飲めなくてもいい、アルコールのない人生を楽しもうという大きな心境の変化だった。

 入院する前夜「ひょっとするともう二度と飲めなくなるかもしれない」と思い、連れ合いと一緒にビールを1缶だけ口にした。それから今月でちょうど2年になる。かつて、酒が飲めなくなるくらいなら死んだほうがましだとすら思っていた私が、この間、ついに1滴のアルコールも体内に入れないまま経過した。職場や労働組合、市民団体などの付き合い上、必要な飲み会には参加しているが、周りの人が飲んでいるのを見ても、アルコールを口にしたいという欲求はまったく湧いてこない。職場など、必要な範囲には病気を公表しているので無理に飲酒を勧められることもない。もし、10年前の私がタイムマシンで現在を訪れ、今の私の姿を見たら「こんなの自分じゃない!」と驚くだろう。

 ●飲まなくなって見えてきた新たな光景

 アルコールを口にしなくなったことで、今までと違った新たな光景が見えてきたような気がする。今までは自分自身が飲んではすぐに眠っていたため見えなかった飲み会での同僚や仲間の痴態が観察できるようになった。酒が入ることによって周りの人が普段は覆い隠している本来の姿を見られるのは面白い。運転手を頼まれることが多くなり、帰りの車内で普段は口の堅い管理職から思わぬ人事の裏話を聞いたときは、不可解だった人事の謎が解けたような気がした。運転手をした人は飲み代を少し安くしてもらえるなど、経済的な実利もある。

 深酒をしすぎて、翌朝、腫れぼったい顔をしながら仕事をしている上司や同僚を見て、人間にとってほどほどに飲むことがいかに難しいかも実感させられる。そういう人たちは実際、飲み会明けの日の午前中は著しく能率が下がり、ほとんど仕事になっていない。これが労働組合のストやサボタージュによる職務能率の低下だったら、政府・メディア・右翼を通じた激しいバッシングにさらされるのに、なぜ酔っ払いによるサボタージュに対してはどこからも誰からもお咎めなしなのだろうという当然の疑問が湧く。

 今のところ、酒をやめたことによるメリットはいくらでも思いつくが、デメリットはまったく思いつかない。最大のメリットは1日が長くなったように感じることだ。もともと手術前でも私は自宅ではほとんど飲んでおらず、飲む場所は外での飲み会にほぼ限られていたが、そんな日は帰宅後、入浴もそこそこに早い時間から眠ってしまうことも多く、飲み会があった日の帰宅後の生活時間はないに等しかった。それが、飲まなくなってからは飲み会から帰宅後も明日の仕事のイメージを描いたり、労働組合や市民団体で取り組んでいる署名やインターネットでの情報収集・情報提供などに時間を有効活用したりしている。福島第1原発事故当時、福島県内に住んでいた私たち夫婦には、事故後、原発関係で署名やパブリックコメントへの意見提出、講演などさまざまな依頼が来るし、本誌やレイバーネット等の媒体に寄稿するための原稿執筆、取材、資料整理などやるべきことは山ほどある。私が手術を受けた2016年以降は、JR北海道が10路線13線区を自社単独で維持困難と公表したことによって、さらにJR問題まで加わった。こうした多忙にもかかわらず、これだけの仕事量をこなせているのは何よりも酒を飲まなくなったことで「可処分時間」が大幅に増えたことが大きい。

 労働者・市民に時間の余裕ができると、余裕時間を使った思考が生まれる。思考することによって政治や社会への不満を自覚すると、労働者・市民は政権批判を始める。それゆえ権力者にとっては、労働者・市民に酒を飲ませて余裕時間と健康を奪い、思考させないようにすることこそ自分たちの権力基盤を固め、支配を続けるのに好都合ということになる。だからこそ日本では企業や広告会社が結託して酒のCMを浴びせ、労働者・市民に何とか飲ませようとするのだ。

 私に付き合う形で連れ合いも酒を控えているうちに以前より弱くなり、夫婦揃って酒をまったく飲まなくなった。酒のために無駄遣いしていた時間が減り、夫婦2人で見てどれだけ余裕時間が生まれたかは検証していないが、世界的に酒の弊害が言われる現在、試算してみる価値があるかもしれない。

 ●欧米で狭まる「アルコール包囲網」

 飲酒のもたらす健康被害についての認識が広まるにつれ、欧米諸国では2017年ごろから飲酒の害に関する論文の発表が増えてきた。2017年4月、英オックスフォード大学が発表した論文では、適量であっても毎日飲酒している人は、まったく飲まない人やほぼ飲まない人に比べ、脳のうち記憶をつかさどる「海馬」が収縮し、記憶力が低下することが示された。従来の見解では、適量の飲酒はまったく飲まないよりもむしろ健康にいいとの学説もあったが、「まったく飲まない」の群の中にドクターストップによる断酒者を含んだまま集計する統計処理上の誤りが指摘されたためだ。ドクターストップによる断酒者を除いて再集計すると、海馬の収縮度は飲酒量に比例していた。少量の飲酒でも心筋梗塞や脳卒中のリスクが上がることもわかった。飲酒が余命を縮めるとの英国の別の論文もある。WHO(世界保健機関)の外部組織、国際がん研究機関(IARC)はアルコールを発がん性物質のグループ1(確実な発がん性を持つ)に分類。グループ1には煙草やアスベストの他、ヒ素やマスタードガスなどの毒ガスが含まれる。

 2017年11月には、米国臨床がん学会(ASCO)が「2012年における新規発生のがんの5.5%、がん死亡者の5.8%がアルコールに起因する」との声明を出した。欧米諸国を中心に飲酒に対する包囲網は確実に狭められつつある。このまま行けば、2020年代の欧米諸国は冗談抜きに1920年代の米国のような禁酒法の時代になるかもしれない。

 日本でも、厚生労働省の研究班が2008年、飲みすぎによる社会的損失が年間4兆1483億円に上るとの試算を公表した。労働生産性が21%低下するほか、飲酒運転による交通事故まで加えた総額は5~7兆円と、煙草の社会的損失に匹敵する規模になることが示された。

 つい最近も、東京五輪を控え、受動喫煙禁止の範囲をどこまでにするかをめぐって政府与党や東京都までを巻き込む激しい議論があったが、これだけ撲滅が叫ばれながら悲惨な飲酒運転事故が後を絶たない現状を見ると、そろそろ飲酒にも何らかの社会的規制を考える時期に来ているといえよう。とはいえ、最近も量販店におけるビールの値引販売規制法を作った自民党政権は、酒屋業界が重要な選挙基盤となっていて、多くの議員が酒屋業界からの政治献金を受けるなど、今後もまともな飲酒規制は期待できそうもない。この春以降、世論調査で支持率より不支持率が上回る状態が続いている安倍政権だが、鉄道や農業など国民生活に役立つ産業にはまともに税金を投入せず、保護・育成している産業が酒・煙草・ギャンブル(カジノ)というのでは国民の支持など離れて当然だ。この面からも安倍政権には退場いただかねばならないが、それにはどのような方法があるか、労働者・市民もじっくり考えよう。酒など飲んでいる暇があるなら、その時間で思考すれば今までよりも良いアイデアが浮かぶかもしれない。酒がなければ不安で生きていけないという人は、何か他の目標を立てるといい。私の今の目標は「お酒をやめてできる限り長生きし、日本から原発がなくなる日をこの目で見届けること」である。

 そういうわけで皆さん、お酒をやめてみませんか?

(黒鉄好・2018年8月19日)

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「全国最年少町長」新潟県津南町の桑原悠町長が初登庁

2018-07-09 23:38:03 | その他社会・時事
「責任感でいっぱい」=最年少町長が初登庁―新潟県津南町(時事)

 現役町長では最年少の31歳で新潟県津南町長に就任した桑原悠氏(31)が9日、初登庁した。

 午前8時半ごろ到着した桑原町長は、職員から花束と拍手で歓迎を受けた後、執務室の椅子に座ると「責任感でいっぱいです」と笑顔を見せた。

 桑原町長はその後、就任会見に臨み「これから明るく生き生きとした、風通しのよいまちづくりをしようと決意した」と語った。

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町長の部屋――津南町ホームページ

全国の町村長としては最年少、31歳の若さで当選した新潟県津南町の桑原悠(くわばらはるか)・新町長が任期初日の今日、役場に初登庁した。今日から4年間、津南町の舵取りを担うことになる。

日頃、この手のニュースは滅多に取り上げない当ブログが今回、このニュースを取り上げたのにはもちろん理由がある。当ブログ管理人が以前、一度、桑原新町長を生で見たことがあるからだ。

国鉄分割民営化でJRが発足した際、国労組合員らがJRに採用されなかった、いわゆるJR不採用問題に取り組んでいた首都圏の市民を中心に、信濃川からの不正取水などの犯罪行為を繰り返していたJRを監視する目的でJRウォッチという市民団体が立ち上がった時期があった(現在は休眠状態)。当ブログ管理人もこの市民団体の活動を担っていたが、このJRウォッチとして参加した2012年5月の「信濃川エコツアー」の際、現地で「第3回千曲川・信濃川復権の会総会」記念行事「豪雪と名水の河岸段丘in津南」というイベントが行われた。このイベントのパネル討論における3人のパネラーの1人が、桑原さんだったのである。当時のイベントのチラシは、津南町観光協会サイトにいまも載っており、見ることができる。

当時、桑原さんは25歳で津南町議会議員に初当選したばかりだった。市町村議会議員の被選挙権は25歳からなので、当時、議員としても最も若かったことはいうまでもない。2012年には、週刊「AERA」誌の「日本を立て直す100人」に選出されたこともある。この信濃川エコツアーの模様は安全問題研究会サイトに報告記事を掲載しているが、恐らくは自分の親よりも年上であろうと思われる他の2人のパネラーとも臆せず堂々と討論する姿が眩しすぎて卒倒しそうになったことをいまも鮮明に覚えている。

そのときの桑原さんの印象をひとことで(やや乱暴に)表現すれば「暑苦しくて野心、上昇志向の強いタイプ」だ。若い人でも男性なら1学年に1~2人くらいは必ずいるタイプだが、若い女性でこのタイプは初めてで、記憶に鮮烈に残っている。

2期目の当選後は津南町議会の副議長に選出された。副議長と言えば、議長に何かがあったときに代わりを務める町議会のナンバー2。こう言えば聞こえはいいが、実際は議長が事故、病気辞職などで欠員となったときは直ちに後任が選挙されるため、副議長の出番はないのが通例で、議事進行に関われることはまずない。おまけに町当局のような答弁も、一般議員のような質問もできない。要するに副議長というのは、ほぼ何の権限もない「飼い殺しポスト」であり、限りなく名誉職に近い。

それまで町を支配してきた旧勢力にしてみれば、若くて清新、東大公共政策大学院卒業と地方の町村部としてはピカイチの学歴を持ち、何かと目立つ彼女を快く思わず、副議長にいわば「祭り上げる」ことでうまく口を封じたつもりだったのだろう。だが、そんな旧勢力の小細工も桑原さんには通用しなかったようだ。飼い殺しの閉塞状態に満足せず、町議を辞して町長選に出馬。この若さで行政トップに立ったのだから大したものだ。

選挙結果はこちらに示されたとおりで、2位の候補者との票差はわずか190票あまり。得票率は4割程度に過ぎない。定数1の選挙に候補者が3人の場合、当選のためには最低でも得票率34%が必要であることを考えると、3候補にきれいに票が割れた結果の当選だったとも評価できる。だが、そのことを割り引いても、旧勢力支配にうんざりしていて、変化を求める町民もまた多いということが示された選挙結果だと言えるのである。

この間、前町長からは「後継指名」を受けるなど、目をかけてくれる有力者にも恵まれた。当ブログ管理人は、エコツアーの際、元町議会議員の根津東六さんに信濃川を案内していただくなど大変お世話になった。最近は、住民そっちのけで「反日パヨクが賛成するものには反対、反対するものには賛成」のように思考停止かつ脊髄反射的な対応を繰り返す「エセ保守」も多いが、津南町には、根津さんのように、住民の幸せのためにいま何が必要かを大所高所から判断できる本当の意味での「名士」がたくさんいる。そうした人に認められ、推された結果の当選なのだ。

25歳で果敢に町議に立候補し当選、名誉職の副議長に祭り上げて口封じを狙う旧勢力に屈せず、町長に鞍替え当選するなど、桑原さんの持ち味はなんといってもその度胸と突破力にある。今後4年間、町民に託された町政の場でも、その度胸と突破力で、これまでの津南町の魅力を伸ばしつつ、新たな魅力の発見に向けても果敢に挑戦してほしいと思っている。当ブログも、かつてエコツアーで津南町を訪れ、その自然の豊かさに魅せられた者のひとりとして、遠く北海道の地からエールを送りたい。

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「セクハラ政権によるセクハラ改憲」NO!~札幌の憲法集会

2018-05-04 22:50:36 | その他社会・時事
(この記事は、当ブログ管理人が「レイバーネット日本」に投稿したニュース記事をそのまま転載しています。なお、レイバーネット日本のサイトでは、写真を含めた記事全文を見ることができます。)

5月3日、札幌市・大通公園で、「憲法施行71周年~安倍9条改憲NO!&守ろう憲法集会」が開催され、700人(主催者発表)が集まった。小雨のそぼ降るあいにくの天気の中、8人の登壇者が、それぞれの言葉で護憲への思いを語った。全体的に見て、例年以上に女性の登壇者が多かったこと、昨今のセクハラ問題を背景に、ジェンダーの観点から憲法の男女同権の理念を貫徹させたいとの強い思いと女性蔑視への怒りがあふれた集会だったことが今年の大きな特徴だ。

札幌市内で保育士を務める女性は「私の願いはすべての子どもたちが幸せに生きられる社会になること。しかし安倍政権の下で、一部の子どもたち、大人たちだけが幸せになり、他の大半の人たちが幸せになれない社会に向かっているように感じる」と、森友問題・加計問題に見られる安倍政権の日本社会私物化を批判。大人が平和憲法を守ることの必要性を訴えた。

この保育士の次に登壇した女性の安倍政権批判はもっとストレートで容赦のないものだった。「(9条ばかりが注目されているが)安倍政権・自民党は憲法24条を改めて「イエ」制度を復活させようともくろんでいる。『良妻賢母であれ、子どもを育てろ、男並みに働け、納税も消費もしろ』という“女性像”を押しつけようとしている。特定の性、女性だけに不平等な役割が押しつけられることこそセクハラであり、そのような改憲をセクハラ政権が行おうとしている」。毎日のように無神経な女性蔑視発言が飛び出す自民党・安倍政権による改憲の動きを「セクハラ政権によるセクハラ改憲」だとして、改憲反対を訴えた。

最後の登壇者である岩本一郎・北星学園大教授は、女性の人権尊重と男女同権を日本国憲法に書き込むために尽力したGHQ民政局のシロタ・ベアテ・ゴードンさんの功績について触れ、改めて男女同権の大切さと、この面での日本の著しい立ち後れを指摘した。

国家の支配者・権力者から企業経営者、ジャーナリスト、芸能人から各種スポーツ競技団体幹部(日本相撲協会に顕著)、一般市民に至るまで、ここ最近はセクハラという単語を聞かずに1日が終わることがないほど、社会のあらゆる領域で女性差別、女性蔑視がまん延している。「憲法24条はどこに行った!」「男女同権はどうした!」――そんな女性の怒りが私にははっきりと聞こえた。

道内選出国会議員からは、道下大樹衆院議員(立憲)、紙智子参院議員(共産)があいさつ。道下議員は「今日の道新(北海道新聞)1面には「安倍改憲暗雲」という記事が出ているが決して安心してはならない。かつて大阪都構想の住民投票の時、橋下市長と大阪維新の会はテレビCMに4億円投入したと言われているが、安倍政権が本気になればこの10倍、いや100倍、400億円でも平気で使うだろう。金の力で憲法が左右されることがあってはならない」と、改憲発議阻止と改憲への警戒を呼びかけた。紙議員は「かつてこれほどひどい政権は日本になかった。森友・加計疑惑を徹底追及しよう」と訴えた。

約1時間にわたる集会後、参加者は「憲法改悪絶対反対」「安倍政権は今すぐ退陣」「公的文書を改ざんするな」「森友問題徹底追及」「加計問題も徹底追及」「昭恵氏喚問、柳瀬氏喚問」などとコールしながら、時折小雨の降る中を札幌駅前までデモ行進した。

一方、日本会議北海道本部などが開催した改憲派集会は、主催者発表で300人と、護憲派集会の半分以下の動員にとどまった。会場となった道立道民活動センター「かでる2.7」大ホールの収容人数は520人だが、夕方のテレビ各局が報じた会場の後ろ4割ほどは完全な空席で、主催者発表の数字は実数と見ていいだろう。

空調が利き、暖かな会場さえ埋められない改憲派に対し、小雨の天候にもかかわらず平和と憲法を守るとの強い決意を、その倍以上の参加者数で示した護憲派。北海道に関する限り、勝負は決したと私は思う。白昼公然と女性を2級市民扱いする安倍セクハラ政権に未来はない。

(文責:黒鉄好)

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最近、日本が開発途上国のように見えませんか?

2018-03-25 13:41:12 | その他社会・時事
(この記事は、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2018年4月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 昨年1年間だけで1千万人を超える外国人観光客が訪日し、インバウンドというカタカナ用語が説明もなしに通用するようになるなど、すっかり観光立国の名をほしいままにしている日本。だが、そんな観光地の隆盛とは裏腹に、外国人観光客から「日本って先進国ですか?」と尋ねられても「はい」と答える自信が最近、次第になくなってきた。安倍政権成立後5年を経過した日本社会が、先進国としてのあるべき姿からあまりにかけ離れていると感じることが多くなってきたからだ。

 「経済一流、生活二流、三四がなくて政治五流」――そんなふうに言われていたのは1970~80年代だったと記憶する。エコノミック・アニマルと評せられ、経済だけは一流だった日本も、GDP(国内総生産)ではすでに中国の後塵を拝し、日本の「新階級社会」化を指摘する本まで出版されるほど貧富の差は拡大した。

 しかし、なんといってもこの間、最も劣化が進んだのは、ただでさえ五流といわれていた政治だろう。国民を「ダチ」と「敵」に峻別し、「ダチ」には徹底的な政治的分配で報いる一方、「敵」は体育館の裏に呼びつけて「ヤキ」を入れる安倍首相の手法は、70~80年代によく見られた田舎の不良中学生のようで、もはや政治の名に値しない。国家行政に日常的に介入する安倍首相の一部の「お友達」や取り巻き、インフォーマルで不透明な権力の行使を日常的に続ける首相夫人らの姿にしても、20~30年も前に打倒されてとっくに歴史の彼方に消えたフィリピンのマルコス政権や、インドネシアのスハルト政権の末期のようだ。

 ●いまや金正恩体制以下の日本

 朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)の政治体制について、日本のメディアは「金日成主席、金正日総書記から金正恩委員長へと継承された3代世襲、朝鮮労働党一党独裁」と報道しており、日本人の多くもそう思っている。もちろんその評価は間違っていない。だが、安倍首相だって岸信介元首相、安倍晋太郎元自民党幹事長に次ぐ世襲の3代目。自民党一党独裁なのもお互い様だ。

 こんなことを言うと「ちょっと待て。日本では一応、民主主義的な“自由”選挙が行われている。朝鮮なんかと一緒にするな」という声が聞こえてくる。だが、朝鮮の名誉のために書いておくと、朝鮮でも立候補の自由は認められている(ことになっている)し、旧ソ連などの共産圏諸国でも立候補の自由は(形式的には)認められていた。

 ただ、その自由を実際に行使しようとするとどのようなことが起こるかについては、80年代に毎日新聞社モスクワ特派員の手によって執筆、刊行された「モスクワの市民生活」という本に紹介されている。同書によると、お上の選んだ候補者が気に入らないため、共産党推薦候補に対抗して立候補を届け出ようとモスクワ市選挙管理委員会に出向いた男性は、選管職員から「お前、気は確かか。寝ぼけているなら顔を洗ってこい」と言われ、立候補届が受理されなかったという。

 こうして、選挙は官選候補に対する信任投票となるが、信任票が限りなく100%に近くなるよう選挙制度にも「工夫」が凝らされている。投票用紙に何も書かずに投票箱に入れた場合、官選候補への「信任」として扱われるのである。お上が選んだ候補が気に入らないへそ曲がりの有権者だけが記入所に入り、わざわざ×をつけるわけだが、こうしたへそ曲がりの有権者は、投票所の出口で選管職員に呼び止められ、精神科への入院を勧められるのが常だった。

 しかし、こうした旧ソ連の選挙制度でさえ、官選候補「個人」に対して意思表示ができるだけまだいいほうで、最も極端だった旧ドイツ民主共和国(東ドイツ)に至っては、官選候補とそれ以外の候補への議席の割当内容が記載されたリストに対し、承認か不承認かの意思を表示できるに過ぎなかった。候補者の当落が、官選候補となれるかどうかによって投票前に事実上決まってしまう――旧共産圏の一党独裁体制における選挙制度とはこのようなものだった。

 日本の選挙制度を、こうした旧共産圏の選挙制度と同一視すれば、日本が民主主義国家だと信じている純粋な読者諸氏からはお叱りを受けるかもしれない。だが日本でも、自民党公認となれるかどうかによって、候補者の当落が投票日を待たずに事実上決まってしまうという旧共産圏のような現実がある。ウソだと思う方は、昨年起きた出来事を思い出してみるといい。秘書を大声で「このハゲー!」と罵る議員、沖縄選出でありながら「基地のことはこれから勉強します」と発言して周囲を慌てさせた挙げ句、その後も基地問題の勉強より不倫に忙しい元アイドルグループ出身議員、「イクメン」を演出しながら身重の妻を置き去りにして不倫にいそしんでいた議員――議員以前に人間として失格と言わざるを得ない人物でも自民党公認の看板が付くだけで続々と当選してきた。当選後も所属議員の関心は政策ではなく、政府を通じた利益分配と政権維持にのみ向けられている。このような事実を列挙すれば、旧共産圏の一党独裁政党も自民党も似たようなものだという筆者の見解に大半の読者諸氏から同意していただけるだろう(もっとも日本では自民党以外の候補に投票しても、選管職員に入院を勧められることはないが)。

 権力行使のあり方に目を向けると、日本の病状はさらに深刻といえる。森友学園問題では、安倍昭恵首相夫人が法令を無視した国有地の払い下げを官僚に事実上強行させた。あらゆる行政機関や公的機関が、昭恵夫人の動向に注意を払い、それに沿うように活動している。先日の国会では、一私人に過ぎない昭恵夫人の名前が国有地払い下げを決める改ざん前の公文書になぜ記載されていたのかと問う野党議員の質問に対し、財務省理財局長が「首相夫人だからです」と率直に答弁して日本中を驚かせた。

 身内を重用しているという点では米トランプ政権も金正恩政権も同じではないかという反論もあるかもしれない。だが、トランプ大統領は娘のイヴァンカ氏を正式に補佐官に登用している。金正恩委員長ですら、平昌五輪に派遣した妹の金与正氏を対外宣伝担当の朝鮮労働党第一副部長の役職に就けることによって身内の権力行使を正当化できる態勢を整えている。これに対し、昭恵夫人だけがいかなる公職にも党の役職にも就かず、インフォーマルかつ恣意的で不透明な権力行使を日常的かつ無自覚に続けている。この点に限れば、安倍政権の無法ぶりはもはや金正恩政権すら超えているというべきだろう。

 ●トップは自分のためにルールを変え、政府に異を唱える女性は「亡命」

 先日、中国では最高意思決定機関である全国人民代表大会が開催され、これまで2期10年までに制限してきた国家主席の任期を撤廃する憲法改正案を可決。習近平氏が「終身国家主席」となる道が開かれた。安倍首相も、2期までとされていた自民党総裁の任期を3期までに延長する党則改正を実現している。そもそも国のトップによる法律や制度の改正は国民のためであるべきだし、逆に、国のトップのためのルール変更の場合、それは下からの市民の総意によって行われるべきものである。わかりやすく言えば、ルールとは自分ではなく他人を幸せにするために変えるものであって、自分のために変えるものではないが、安倍首相も習近平国家主席もそのことがまるでわかっていない。

 安倍政権発足以降の日本では、なぜその政策が採用され実行されているのか皆目見当がつかないケースが以前の政権と比べても増えている。合理性、経済性、過去に採られた政策との整合性や継続性、いずれの面から見ても不合理で説明できないのだ。だが、誰が安倍首相と友達か、提案した政策がよく採用される人のバックに誰がいるのかといった人的つながりに視点を移した途端、政策の採用理由をクリアに説明できる場合が多い(例えばリニア新幹線に財政投融資として3兆円もの巨額な資金が投じられる理由は、葛西敬之JR東海名誉会長が安倍首相のお友達であることで説明できる)。これは安倍政権下の日本がかつての法治主義から人治主義に後退しつつあることを示している。

 安倍政権が女性活躍推進を声高に叫べば叫ぶほど、実態は目標から遠ざかりつつある。世界経済フォーラムが毎年取りまとめ公表している女性の地位に関する国際的順位でもともと下から数えたほうが早かった日本は、安倍政権成立後はさらに右肩下がりで底に近づいている。子どもを預ける保育所が見つからないため復職をあきらめなければならない女性があふれている。安倍首相のお友達の元記者・山口敬之氏から受けた性暴力を告発している伊藤詩織さんや、右翼からの根拠のないテロリスト呼ばわりを告発した辛淑玉さんは、報復を恐れて国外に「亡命」を余儀なくされた。

 国のトップの首相が自分のためにルールを変え、首相夫人はインフォーマルで不透明な権力行使を無自覚に続ける。為政者に都合の悪い公文書は白昼公然と改ざんされる。首相の一部の取り巻きたちが、自分たちの政治的分配が最大になるように国家行政に介入し、逆らう者には公然と圧力をかける。女性は2級市民扱いされ、国に異を唱えたり、指導的地位にある男性からの性暴力を告発したりすれば亡命せざるを得なくなる。選挙で政権を変えたくとも、一党独裁政党からの公認が得られた候補者の当選が投票日を待たずに事実上決まってしまう選挙制度のためお手上げだ。20世紀のどこの共産圏や開発途上国の話かと笑い出しそうになってしまうが、これが私たちの国、日本のまぎれもない現状である。

 これでもまだ日本を先進国だと胸を張って言えるか、改めて筆者は読者諸氏に問いたいと思う。政治も経済も市民生活も朽ち果て劣化の一途をたどる日本。先の敗戦の時のように、今のこの状況を第二の敗戦と認めた上で、潔くゼロから再出発する以外に復活の道はないのではないだろうか。

(黒鉄好・2018年3月25日)

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56豪雪以来、久々の大雪となった福井 車社会が進展する中、見えてきた新たな課題

2018-02-26 23:05:22 | その他社会・時事
(この記事は、当ブログ2月9日付記事「38豪雪、56豪雪の経験から北陸豪雪の今後を読む」及び2月12日付記事「福井豪雪に見る「車社会」の意外な弱点」を再構成し、管理人が月刊誌「地域と労働運動」2018年2月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。なお、この記事掲載に伴い、元となった2つの記事は削除しました。)

 ●久しぶりの大豪雪で北陸地方大混乱

 2月に入って降り始めた記録的な豪雪で、福井市では2月5~6日の2日間だけで101センチの降雪量を記録した。1981(昭和56)年1月豪雪(通称「56豪雪」)で最多だった2日間の計109センチに匹敵する「ドカ雪」だ。5日午前2時に39センチだった福井市の積雪の深さは、1日半後の6日午後2時には1メートル近く増えて136センチに、さらに2月7日には147センチに達した。

 福井県内の国道8号線で2月6日未明から始まった1500台もの車の立ち往生は2月9日に解消するまで丸2日以上に及んだ。除雪車も救急車も救援もたどり着けないまま、これだけ長時間、国道の長い区間で車が動けなくなるのは豪雪地帯の福井にあってもかなり珍しい。今後の推移を見なければならないものの、もしかするとこの豪雪は、歴史的と言われた1963(昭和38)年1月豪雪(通称「38豪雪」)や前述の56豪雪と並び、後に戦後北陸3大豪雪と呼ばれることになるかもしれない。いずれにしても、しばらくの間語り継がれる雪害になることは間違いないだろう。

 だが、38豪雪、56豪雪、今回の豪雪を(別に平昌冬季五輪が開幕したからというわけではないが)金、銀、銅で例えるならば、やはり38豪雪がダントツの「金」。56豪雪と今回の豪雪のどちらが銀でどちらが銅になるかといったところだろう。38豪雪の異常さはそれほどまでに群を抜いたものであり、筆者の手元の資料から、改めてその異常さを検証しておきたい。

 まず、38豪雪の際に確認された異常現象を列挙すると、以下の通りだ。

・日本海側では1月16日から27日まで12日間も大雪が降り続き、北陸4県に災害救助法が適用。1万人近い自衛隊員が救助活動に入った。
・焼津港(静岡)が結氷、銚子沖でオットセイが群泳。
・利根川河口にニシン、相模湾に鮭が現れる。
・東京の気圧は統計的に1万年に1度レベルの異常低圧。この低圧の影響で、函館では海面が盛り上がって逆流、マンホールから海水が噴き出す騒ぎがあった。

 ニシンは通常、北海道の日本海側、オホーツク海にしかいない魚で、東北沿岸でも見られるのはきわめて珍しいが、それが関東地方の利根川で観測された38豪雪は桁外れの異常さだった(注)。56豪雪や今年の豪雪がどんなに記録的でも、このレベルの現象は観測されておらず、38豪雪の異常さは際立っている。

 38豪雪のあった1963年は、冬が終わっても異常続きで、西日本は5月に早々と梅雨入りした。その梅雨が異常に長引き、麦は平年の半分以下の大凶作に見舞われている。

 一方、56豪雪の場合は、その前の1980(昭和55)年夏から異常が始まっていた。1913(大正2)年以来67年ぶりの大冷害で、東北地方の太平洋側では米の作柄がゼロの地域もあったというからただ事ではない。

 このように、歴史的な雪害が起きるときは、その前後からかなり長期にわたる異常気象が続いていることがわかる。大豪雪はその長期にわたる異常気象の始まりある場合(38豪雪はこのパターン)や、逆に、長期にわたる異常気象の締めくくりである場合(56豪雪はこのパターン)が多いのだ。

 今年の歴史的雪害は38豪雪と56豪雪、どちらのケースに近いのか。振り返ってみると、昨年夏は東京で8月1日から15日まで15日連続の雨を記録、真夏日の日数は東北が大冷害に見舞われ「平成の大凶作」といわれた1993年以来の少なさとなった。しかし東京はこれでもまだマシなほうで、仙台に至っては7月22日から8月26日まで36日間連続で雨を観測。6~9月としては1934(昭和9)年を抜いて83年ぶりに記録を塗り替えた。仙台は8月の日照時間も観測史上最低を更新。記録ずくめの冷夏で、東北南部・北部は2009年以来8年ぶりに梅雨明け日を特定できずに終わっている。

 異常はその後も続き、昨年10月16日には東京都心で最高気温が14.3度までしか上がらなかった。10月中旬に東京都心で最高気温が15度を下回ったのは1971(昭和46)年以来46年ぶりとなった。このように考えると、今回の福井豪雪が訪れるまでの経過は56豪雪のパターンに非常によく似ている。昨年夏から続いてきた異常低温の締めくくりが今回の北陸豪雪だと考えることができる。

 福井を初め、全国的にその後も異常な寒波が続いており、低温傾向が収まる気配は見られない。だが昨年夏を長期にわたる異常低温の起点と考えるならば、この現象はすでに半年以上続いている。今後の推移についてはまだ予断を許さないものの、38豪雪や56豪雪の際も、おおむね1年くらいで異常低温が収束に向かっていることを考えると、今年の春先までにはさすがに終わりが見えるのではないかという気がする。

注)北島三郎のデビュー曲「なみだ船」(1962年、日本コロムビアより発売)に「どうせおいらはヤン衆かもめ」という一節がある。北海道で、主にニシン漁に従事する漁師はヤン衆と呼ばれた。ニシンは北海道の日本海側・オホーツク海でしか獲れなかったため、全国のニシン漁を独占できたヤン衆たちには過去、羽振りの良い時代もあった。

 ●車社会の意外な弱点

 同時に、今回の車の大規模な立ち往生を通じて、車社会の意外な弱点が見えてきた。元福井地方気象台長で青山学院大非常勤講師の饒村曜(にょうむら・よう)さんは、今回の大規模な車の立ち往生発生の背景に保有自動車台数の激増を挙げる。国交省のまとめでは、福井県内の自動車保有台数は38豪雪当時の約3万5千台、56豪雪時の約32万台に対し、現在は約66万台に増えている。片側1車線の国道8号線で、いったん片側車線だけ立ち往生が解消した後、夜になってまた上下線が両方とも立ち往生した状態に戻っていくのを見て、車社会の弱点がはっきりわかった。

 道路は「誰でも自由に使うことができる(=排除性なし)」であるのに対し、線路は「鉄道会社しか使うことができない(=排除性あり)」のが特徴だ。米国の経済学者サミュエルソンは、排除性がなく、かつ共同消費性(=損耗が誰の使用によって引き起こされたのかの検証が不可能な性質)があるものを「公共財」カテゴリに分類した。道路は公共財の典型で誰でも使うことができるため、どんなに費用対効果が見合わなくても造ればそこに必ず需要が発生する。そのことをわかっているからこそ、道路族はいつまでも道路を造れ造れと要求し続けるのである。

<参考>公共財、価値財、私的財とは?


(1970年ノーベル経済学賞を受賞した米経済学者、ポール・サミュエルソンによる)


 ところがこの「いつでも誰でも使うことができる」「使いたい人が自由に使うことを阻止できない」という道路最大の利点が、災害時には欠点に転化する。車の流入を阻止できないため、すぐに立ち往生や渋滞が発生し、今回のような混乱を引き起こす。道路使用者を除雪車や緊急車両だけに絞りたくても、道路を使う人はほぼ全員「自分の用件が最優先、最重要」だから結局、車の流入を阻止できないのである。

 一方、線路は「鉄道会社しか使うことができない」という欠点があるが、災害時にはこの最大の欠点が利点に転化する。鉄道会社しか使用できないため、線路使用者を除雪車や緊急物資を輸送する貨物列車に限定することが、割とたやすくできるのだ(ちなみにこの点は、国や自治体が線路を保有する「上下分離」になっても変わらない。線路が線路以外と物理的に遮断され鉄道会社の占有物となっていることが重要なのである)。世間では鉄道は災害に強いという漠然としたイメージが持たれているが、排除性の有無によって理論的に説明できることに、福井の豪雪災害は気付かせてくれた。

 北海道では今、維持困難線区をむしろバス転換するよう積極的に主張する勢力も存在するが、バス転換派に対して「バスは道路を走るが、道路には排除性がないため、無秩序に流入する自動車の影響を受ける。これに対し、鉄道は線路が排除性を持っているため、他者による影響を受けず復旧が容易」として鉄道の優位性を説明できる。「災害時に緊急でない一般車の流入を禁止する措置を取ればよい」との反論を受けたとしても、今回の福井豪雪では禁止措置をとる間もなく、すでに流入していた車だけで交通が麻痺する事態になっていたのだから、バス転換派のこのような反論はそもそも無意味である。鉄道線路は平時から鉄道会社の占有物となっており、列車以外が使用することはできないが、そこに重要な意味があるのだ。

 このように考えてみると、やはり鉄道をバスで代替するのは無理だという結論になる。代替可能なのはあくまで平和が維持されている通常時のみだ。バス転換派の言うままに線路をなくすと、災害時に泣くことになる。「自分は車が運転できるから線路なんてなくなっても困らない」と言っている人たちも、災害に遭えば車が立ち往生し、その横を何事もなく走る列車の姿を見て「線路を残しておいて良かった」と思うときが来ると思う。筆者は引き続き鉄道の重要性を訴えていく。

参考文献:「気象と地震の話」(吉武素二、増原良彦共編著、1986年、大蔵省印刷局)

(黒鉄好・2018年2月25日)

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2017年 当ブログ・安全問題研究会10大ニュース

2017-12-30 15:42:54 | その他社会・時事
さて、2017年も残すところあとわずかとなった。例年通り今年も「当ブログ・安全問題研究会 2017年10大ニュース」を発表する。

選考基準は、2017年中に起きた出来事であること。当ブログで取り上げていないニュースも含むが、「原稿アーカイブ」「書評・本の紹介」「インターネット小説」「日記」「福島原発事故に伴う放射能測定値」「運営方針・お知らせ」カテゴリからは原則として選定しないものとする。

1位 北朝鮮の核開発が「新段階」に移行、核危機が進行する一方で核兵器禁止条約が採択、ICANがノーベル平和賞<社会・時事>

2位 「のぞみ」の台車に破断寸前の大亀裂、新幹線初の重大インシデント。東急電鉄の渋谷地下線区間でトラブルが相次ぐなど鉄道安全非常事態<鉄道・公共交通安全問題>

3位 リニア建設工事で入札談合、大手ゼネコン4社が東京地検の捜査を受ける<鉄道・公共交通政策>

4位 伊方原発差し止め訴訟で広島高裁が運転差し止め命令。高裁では初、火山を理由とするものとしても初の画期的決定<原発問題>

5位 福島原発事故めぐる民事訴訟で前橋、千葉、福島(生業訴訟)いずれも東電に賠償命令、国の責任は前橋、福島で認定。強制起訴された勝俣恒久元東電会長ら3被告の刑事裁判も始まる<原発問題>

6位 米国トランプ政権発足。「米国第一」主義強まり国際社会に波乱要因も<社会・時事>

7位 東京都議選で自民惨敗、小池都知事率いる「都民ファースト」躍進も秋の衆院解散総選挙では与党が3分の2維持。安倍政権の目指す改憲案の取りまとめは越年へ<社会・時事>

8位 JR北海道の赤字路線問題、進展せず。「北海道の鉄道の再生と地域の発展を目指す全道連絡会」が設立され市民レベルで路線維持への動きも<鉄道・公共交通政策>

9位 日本原子力研究開発機構大洗研究開発センターで「国内最悪の内部被曝」事故発生<原発問題>

10位 何度も廃案を繰り返してきたいわゆる「共謀罪法」が強行採決により成立。市民監視体制への不安高まる<社会・時事>

【番外編】
・水樹奈々さん、自身初のミュージカル「ビューティフル」で主演務める<芸能・スポーツ>

・当ブログ管理人、11月に北海道日高町講演で講師を務めるなど引き続きJR北海道路線廃止反対の取り組み強化<鉄道・公共交通政策>

・当ブログ管理人、断酒を宣言

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改めて振り返ってみると、トランプ政権発足と北朝鮮の核・ミサイル開発の急激な進展によって米朝関係の危機がかつてなく高まった1年だった。国内では、安倍政権の反動・反市民ぶりが際立っているにもかかわらず、政府与党の勢力を減らすこともできない野党側の分裂・無策ぶりが浮き彫りになった1年だった。

また、JRでローカル線、安全、リニアどの面をとっても問題噴出が目立ち、民営7社体制の見直しが不可避の危機的局面に来ていることをはっきりと示した。来年以降、JRグループを中心に、日本の鉄道政策全体の危機はさらに深刻化するとともに、当ブログと安全問題研究会に課せられる役割はますます大きくなるだろうと思っている。

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<加計学園問題>獣医学部をめぐる「本当の問題」は何か

2017-06-28 22:08:15 | その他社会・時事
(当エントリは、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2017年7月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 岡山県の学校法人「加計学園」が愛媛県今治市に開設を予定している獣医学部をめぐり、開設予定地の土地が加計学園に無償で払い下げられたとされる問題に関連して、獣医学部の現状を以下の通り述べておきたい。

1.現存する獣医学部

 まず、現在日本国内で獣医学に関連する学部学科を置いているのは以下の16校である。



2.獣医師をめぐる現状

 獣医師法を所管する農林水産省が公表している最新版(2014(平成26)年)のデータによると、現在、獣医師免許保有者は全国で約39,100人。その内訳は産業動物(牛・豚・鶏・馬・羊・山羊など)の診療業務をしている者が全体の11.0%、農水省、厚労省、保健所・家畜保健衛生所(各都道府県に設置)などの官公庁に勤務する公務員が24.2%、小動物診療(動物病院など)が38.9%、その他が14.2%。この他、獣医師免許を持ちながら獣医師業務に就いていない者(いわゆる「ペーパー獣医」)が11.6%となっている。

 注目すべきなのは、産業動物診療に従事している人よりもペーパー獣医の数の方が上回っていることである。この背景については3で考察する。


出典:「獣医事をめぐる情勢」(農林水産省消費・安全局畜水産安全管理課、2016年)

 獣医師になるには、獣医学部・学科を卒業し、獣医師国家試験に合格、獣医師免許を受けることが必要である。獣医学部はかつては4年制であったが、1983(昭和58)年から医学部などと同様、6年制となった。獣医系学部学科を擁する大学は1で見たとおり、全国で16校ときわめて少なく、国立大学の募集定員は毎年30~40人程度のことがほとんどである。私立大学ではこれより多く、100名を超える獣医師希望者を入学させているところが多いが、獣医系学部学科を擁する私立大学は首都圏に集中しており、6年制であることとあいまって多額の学費がかかるため、首都圏の富裕層の学生以外にはほぼ門戸が閉ざされているのが現状である。

 獣医学部を卒業した者の就職先は、公務員(農水省、厚労省、地方自治体の保健所、家畜保健衛生所)、(2)産業動物診療(全国各地の家畜・畜産農協など)、(3)小動物診療(動物病院、動物園など)にほぼ限定されており、多額の学費を要する割には就職先が少ないのが実情である。近年、特に人気を集めているのが(3)の分野で、独立して動物病院を開業した獣医師の中には年収が3,000万円を超えるケースも見られる。

 ペットとして飼われている頭数(2015年現在)は犬が992万頭、猫が987万頭で計1,979万頭。一方、0~14歳の子どもの人口(2015年現在)は1,617万人。すでに日本は「14歳以下の子どもよりも犬・猫の方が多い」という状況に突入している。調べたわけではないが、この数字を見る限り、日本では小児科より動物病院の方が多くても別に不思議ではない。

 日本で、少子高齢化と空前のペットブームが同時進行していることが示されている。ペットのうち、犬は2008(平成20)年以降、頭数が急速に減少しているが、猫は横ばいか微増で推移。一方で子どもの人口が右肩下がりで減少しているため、このような状況が生まれている。高齢者が犬を引いて散歩している姿は今や日本の日常風景だ。


出典:左「獣医事をめぐる情勢」 右「我が国の子どもの数~こどもの日にちなんで~」(総務省統計局、2015年)

 獣医系学部学科を卒業後の獣医師の就職先は2で見たとおりである。このうち(1)公務員の年収は一般的な事務職公務員とほとんど変わらず、30~40代の中堅で500万円程度が相場だろう。仕事の内容は保健所での犬の予防接種や、道路で車にひかれた動物の死体の処理など、重要だが地味で目立たない仕事が多い。それほど高給でない代わりに、産業動物を扱う機会は多くなく、重労働でないため、安定志向の人には向いている。実際、獣医師の4分の1がこの分野への就職である。

 (2)産業動物診療は、最も人手不足に苦しんでいる分野である。就職先である家畜・畜産農協は小規模で経営が苦しいところが多い。扱うのは産業動物がほとんどで、重労働である割には待遇が低い(公務員以下のところが多い)ため、獣医師志望者には長く敬遠されてきた。

 獣医師志望の女子小学生が大人になって夢をかなえ、新潟県内の家畜農協で獣医師として活躍を始めるまでを描いたドキュメンタリー「夢は牛のお医者さん」(2014年、テレビ新潟制作)が日本獣医師会の推薦映画となり、全国で獣医師会による自主上映が開催されるなどの出来事もあった。最近の農水省による「産業獣医増加」キャンペーンもあってこの分野の仕事の重要性が認識され、徐々に志望者は増えつつある。それでも、この分野に進む獣医師は11.0%に過ぎず、「ペーパー獣医」さえ下回っている。

 (3)の小動物診療についてはすでに見たとおりであり、独立開業した動物病院経営者の中には年収が3,000万円を超えるケースもある。扱うのは犬、猫、小鳥などがほとんどで、重労働でない割には「実入り」がよいため、商才のある人を中心に、獣医師の4割がこの分野に進んでいる。

3.獣医師をめぐる「本当の問題」は何か

 以上、最近の獣医師と獣医系学部学科をめぐる情勢を見てきた。ここまでの考察で明らかになったとおり、日本の農業(畜産・酪農)の維持発展を図る上で最も重要な産業動物診療分野に進む獣医師志望者が極端に少なく、ペーパー獣医が産業動物診療分野への就職者を上回って全体の1割を超える点こそが、獣医師をめぐる最大の問題である。

 重労働で、かつ有意義な仕事でありながら、その国民経済・社会に対して果たしている貢献・重要性が正当に評価されず、低待遇が放置された結果、有資格者が大量に眠ったまま出てこない状態が長期にわたって続いているという意味において、保育士・介護士などと同様の構造的問題がある。今、獣医師に対して早急に日本社会がなすべきことは、その仕事の重要性を正当に評価し、獣医師の待遇を引き上げ、即戦力でありながら眠ったままのペーパー獣医の獣医師業務への復帰を促すことである。

 この観点に立つならば、「重労働・低待遇」を放置したまま、単に獣医師への門戸を広げるだけでは問題解決にならないことが理解されるだろう。元々志望者が殺到する分野でない、特殊な世界であることは、全国16大学の獣医系学部学科の募集定員が年1,000人に満たないことからも明らかだ。1966(昭和41)年、北里大学が青森県に開設した獣医学部を最後に、半世紀以上にわたって国が獣医学部の新設を認めてこなかったのにはこのような理由がある。

 加計学園に獣医学部の設立を認める安倍政権の方針は、その意味でも唐突すぎるものであり、安倍首相直属案件として「オトモダチ」加計孝太郎理事長への便宜を図ろうとしたとの指摘は間違っていない。最近の「安倍1強」体制下での安倍政権の腐敗と公共領域の私物化は目に余る。本資料を安倍政権追及のための一助としていただければ幸いである。

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2016年 当ブログ・安全問題研究会10大ニュース(今年は20大ニュースに拡大します)

2016-12-30 18:43:02 | その他社会・時事
さて、2016年も残すところあとわずかとなった。例年通り今年も「当ブログ版 2016年10大ニュース」を発表する。

選考基準は、2016年中に起きた出来事であること。当ブログで取り上げていないニュースも含むが、「原稿アーカイブ」「書評・本の紹介」「日記」「福島原発事故に伴う放射能測定値」「運営方針・お知らせ」カテゴリからは原則として選定しないものとする。

ただし、今年は歴史の転換点ともいうべき大事件・ニュースが内外ともに続き、10では枠がとても足りない。そのため、2011~12年に続く措置として、今年は枠を拡大し「20大ニュース」とする。なお、ニュースタイトルの後の< >内はカテゴリを示す。

1位  JR北海道が「自社単独で維持不可能な13線区」を公表、ローカル線切り捨てを本格化。留萌線が廃止、日高本線廃止方針の発表を地元との協議が整わないまま強行<鉄道・公共交通政策>

2位  JR北海道の貨物列車脱線事故におけるレール検査データ改ざん問題で、札幌区検がJR北海道幹部社員3人と法人としてのJR北海道を起訴、第1回公判開かれる<鉄道・公共交通安全問題>

3位  福島原発告訴団による告訴・告発~東京第1検察審査会の起訴議決を受け、検察官役の指定弁護士が勝俣恒久・元東京電力会長ら旧経営陣3人を強制起訴<原発問題>

4位  北海道新幹線・新青森~新函館北斗間が新規開業<鉄道趣味>

5位  高速増殖炉「もんじゅ」の廃炉が決定。日本の核燃料サイクル政策、実質的破たんへ<原発問題>

6位  福井県・関西電力高浜原発3、4号機に対し、大津地裁が住民の訴えを認め運転差し止めの仮処分命令。再稼働したばかりの高浜3、4号機が再び停止。川内、伊方原発は再稼働を強行<原発問題>

7位  長野県軽井沢町でスキーバス転落事故、乗客15人が死亡。一方、違法ツアーバス業者に対する罰金の上限を100万円から1億円に引き上げる改正道路運送法成立。規制強化へ前進<鉄道・公共交通安全問題>

8位  参院選で、自公・維新など「改憲勢力」が3分の2を確保。衆参両院で改憲勢力が3分の2を占め、戦後初めて改憲発議が可能に<社会・時事>

9位  昨年強行採決された安保関連法施行。南スーダンへ、自衛隊が「駆けつけ警護」含む新任務に派遣<社会・時事>

10位  沖縄・高江で異常な警備体制の下、オスプレイパッド強行建設。地元住民の抵抗運動も続く<社会・時事>

11位  西日本で大規模地震相次ぐ。熊本では史上初めて震度7を2回記録。鳥取でも大地震<気象・地震>

12位  米国大統領選で「暴言不動産王」ドナルド・トランプ氏が当選<社会・時事>

13位  EU離脱をめぐる英国の国民投票で、離脱派が多数を占め勝利<社会・時事>

14位  天皇が「生前退位」の意思を表明するビデオメッセージを公表<社会・時事>

15位  女性労働者の過労自殺問題で、東京労働局が電通を強制捜査、書類送検<社会・時事>

16位  電力小売り事業が全面自由化。一般家庭が電力会社を選ぶ時代に<原発問題>

17位  ベルギー、フランス(ニース)など欧州でテロ相次ぐ。国内でも、相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で障がい者を狙ったテロ発生。世界は憎悪とテロの時代へ<社会・時事>  

18位  東京都知事選で初の女性、小池百合子氏当選。築地市場の豊洲移転が延期に<社会・時事>

19位  SMAPが年内限りでの解散を表明<芸能・スポーツ>

20位  大黒摩季、6年ぶり活動再開<芸能・スポーツ>

【番外編】
・当ブログ管理人、JR北海道ローカル線問題に関連し日高町、苫小牧市、様似町、浦河町で4回にわたり学習会講師を務めるなどローカル線廃止反対運動を昨年に引き続き強化<鉄道・公共交通政策>

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改めて今年を振り返ってみると、内外ともに時代の転換点というべき年だった。10年後に「歴史の転換点だったのは何年か」と問うと、多くの人が2016年と答えるようになるだろう。しかも、その変化がよい方向ではなく悪い方向(テロと憎悪、ポピュリズムの台頭)という意味で、強い印象を残した年だった。

当ブログ管理人としては、2月に凍結路面でスリップ事故を起こし、車を買い換えに追い込まれたのに続き、8月には胃がんのため入院、手術を受けるなど、個人的にも最低の年だった。だが一方で、JRローカル線問題で4回もの講師を務めるなど、これまでの当ブログと安全問題研究会の活動が評価された年でもあった。総じて、JR北海道問題にかかりきりの1年だった。

来年こそはよい年に……と願いたいが、今年の20大ニュースを見ていると、とても来年がよい年になるとの展望は持てない。今より悪くならないようにすることもほぼ不可能だろう。悪くなっていくスピードをどのくらい緩和できるかが、内外ともに焦点だ。世界のディストピア(絶望郷)入りがよりはっきり見えて来る年になると思う。

こんな時こそ私たちの真価が問われる。未来世代に、先行世代の恥ずかしくない姿を見せることから地道に取り組む以外にないような気がする。なんとも心重い年の瀬だ。

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歴史の転換点となった2016年~ディストピアの時代に希望を紡げるか?

2016-12-25 22:18:59 | その他社会・時事
(当エントリは、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2017年1月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 この号が読者諸氏のお手元に届く頃には、新年の足音が聞こえていることと思う。年末年始にゆっくりと読まれることの多いであろう新年号を、私はとりわけ重視している。過ぎゆく年に起きた様々な出来事を踏まえて新しい年はどのように動くか、またどのように希望をつなぎ、展望を持つべきかの考察に充てることが多いからだ。そのような意味で言えば、2016年という、ある意味では「特別だった1年」の出来事をきちんと回顧しておくことは、例年にも増して重要な課題である。

 ●歴史の転換点、2016年

 相変わらず無意味な停滞と閉塞感が続く日本国内はともかく、国際情勢に目を転じれば、2016年が歴史の転換点であったという評価に異論は少ないだろう。相次ぐテロと難民の大量発生、世界を驚かせた英国の国民投票におけるEU(欧州連合)離脱の意思表示、そして泡沫候補扱いされていた究極のポピュリスト、ドナルド・トランプの米大統領当選――。その背景、底流に共通するものを読み解いていけばいくほど、20世紀終盤における最大の歴史的転換点であった1989年――中国における天安門事件と東欧における社会主義圏の崩壊が連続した年――に匹敵する世界史的大変動の年であったことがはっきり見えてくる。それらひとつひとつを分析するだけでも本が1冊書けるほどの出来事を詳細かつ個別に分析することは、本誌の限られた紙幅の中ではできそうにないが、それでもいくつかのポイントをここで述べておくことにする。

 英国国民投票は、そもそも小さなボタンの掛け違いの連続だった。自由経済と所得再分配のどちらをより重視するかをめぐって、日頃は「剣線」(注)を挟んで激しくやり合う保守、労働の2大政党は、それでも最後までEU残留を主張したし、残留派の労働党女性議員が投票日直前に殺された事件も、残留派に同情が集まって勝利するだろうとの説に根拠を与えていた。福岡市出身で、1996年から英国に在住する保育士、ブレイディみかこさんによれば、投票日前日、郵便配達に来た顔見知りの郵便労働者はこう言っていたという。「俺はそれでも離脱に入れる。どうせ残留になるとはわかっているが、せめて数で追い上げて、俺らワーキングクラス(労働者階級)は怒っているんだという意思表示はしておかねばならん」と。

 また、英国のコラムニスト、スザンヌ・ムーアは「ガーディアン」紙上で次のように述べている。

 『「古いワインのような格調高きハーモニー」という意味での「ヨーロッパ」の概念はわかる。が、EUは明らかに失敗しているし、究極の低成長とむごたらしい若年層の失業を推し進める腐臭漂う組織だ。ここだけではない。多くの加盟国で嫌われている組織なのだ。それに、自分なりのやり方でグローバル資本主義に反旗を翻すためにも、私は離脱票を投じたくなる。が、2つの事柄がそれを止める。難民の群れに「もう限界」のスローガンを貼った悪趣味なUKIP(英独立党)のポスターと、労働党議員ジョー・コックスの死だ。……中略……だが、ロンドンの外に出て労働者たちに会うと、彼らは全くレイシストではない。彼らはチャーミングな人びとだ。ただ、彼らはとても不安で途方に暮れているのだ。それなのに彼らがリベラルなエリートたちから「邪悪な人間たち」と否定されていることに私は深い悲しみを感じてしまう』。

 「自分なりのやり方でグローバル資本主義に反旗を翻す」有権者たちの行動で、離脱派は勝利した。開票日の朝、ブレイディみかこさんは「おおー! マジか!」という連れ合いの一言で目を覚ました。件の郵便労働者に「まさかの離脱だったね」と言うと、彼は「おお」と笑ったという。離脱という投票結果に最も驚いたのは当の英国民自身だったのだ。

 ●実はあまり影響がない英国のEU離脱

 スザンヌ・ムーアから「多くの加盟国から嫌われ、究極の低成長とむごたらしい若年層の失業率を推し進める腐臭漂う組織」とまで酷評されたEUの基礎は、英国が離脱を決める前からすでに大きく揺らいでいた。反グローバリズム、反緊縮財政を掲げたギリシャでのSYRIZA(急進左翼連合)の政権獲得、イタリアにおける新興政党「五つ星運動」の台頭など、その兆候はいくつも指摘することができる。しかし、実際のところ、英国の離脱がEU諸国の経済に何らかの危機をもたらすかといえば、それほどでもないような気がする。

 EUの危機が、とりわけギリシャやイタリアなど、経済力の弱い国で最初に起きたことは、事の性質をよく物語っている。そもそも物価とは、貨幣と財・サービスとの交換価値を示すものであり、アダム・スミスが述べたように、重要と供給の力関係によって市場で決定される。ドイツのような経済力の相対的に強い国と、ギリシャやイタリアのような経済力の相対的に弱い国とでは、生産力にも大きな違いがあるのだから、本来は経済力の違いに応じて別々の通貨が使われるのが当然だ。各国の国内で、財・サービスと貨幣の交換価値である物価が市場を通じて適切に調整され、国と国との経済力の格差は通貨と通貨を交換する外国為替市場で調整される――現代世界の、それぞれの国民国家の内部において、財・サービスに適正な物価をつけることを可能にしてきたのはこのような二重の調整システムである。

 EUによるユーロへの通貨統合は、それまでの世界で常識であったこの二重の調整システムに真っ向から挑戦するものであった。経済力も、その基礎をなす生産力もまったく違う国同士が共通の通貨を使用することは、この二重の調整システムを否定するという根本的で重大な矛盾をはらんでいた。加盟国間の経済力の格差を放置したまま通貨だけを統合すれば、物価をどの水準に置いたとしても、「ある国では経済力と比較して物価が安すぎ、別のある国では経済力と比較して物価が高すぎる」という問題が発生する。この問題は、EU加盟国ごとに中央銀行を置き、それらが独自に通貨供給量を決められるようにすれば解決できるが、このような形で各国が発行する独自のユーロは、同じ名称でも米ドルと香港ドルがまったく別通貨であるように、もはや共通通貨ではなくなってしまう。ユーロ圏において通貨供給量を決めるのがブリュッセルの欧州中央銀行だけという状態では、この問題を根本的に解決することはできないのである。

 EU発足と通貨統合のためのマーストリヒト条約に署名した各国首脳もそのことは理解していたが、加盟国間の国境をなくし、ヒト、モノ、カネの移動を活発化させることを通じて、経済力の格差もいずれは解消すると期待して、積極的に問題を将来世代に先送りしたのだと思う。

 しかし、その期待、希望的観測は見事に外れた。国境が消え、ヒト・モノ・カネの移動が活発化しても、そのことだけで民族、言語、宗教、生活習慣などの違いが消えてなくなるほど世界は単純ではない。実際の経済は、こうした要素をはらんだ人々の意識の中で、従来の国民国家の枠組みをある程度残したまま動く。EUの制度設計をした人たちがそのことに対し、あまりに無頓着すぎたことがこの問題の根源にある。その意味で、ユーロ圏の経済危機は当初から予想されていたのであり、起こるべくして起きた出来事であった。

 英国が結果的に賢明だったのは、通貨統合に参加せず、独自通貨ポンドを捨てなかったことである。EU残留、離脱いずれの道を選択しても、前述した二重の調整システムを通じて財・サービスに適正価格をつけられるシステムを英国は温存していたからである。ポンドとユーロの間の格差は、これまで通り外国為替市場のレートを見るだけでよいのだ。

 ●エリート支配への怒りを組織できない左派

 まだ記憶に新しい、米国のトランプ勝利にも言えることだが、従来の常識を覆すこのような「番狂わせ」の背景には、エリート、エスタブリッシュメント支配に対する非エスタブリッシュメント層の反乱がある。「支配層がいいように政治を私物化し、自分たちを疎外している」という怒りが、うねりのように既成政治を倒したのである。ドナルド・トランプ個人の資質も「政権担当能力」も、そこで問われた形跡はない。

 歴史に仮定は許されないが、もし民主党がヒラリー・クリントンでなくバーニー・サンダース上院議員を大統領候補としていたら、大統領選はまったく違った結果になっただろうという論評は多くの人々の共感を得ている。実際、トランプとサンダースの支持層はかなりの程度、重複していたし、サンダースが民主党予備選に勝てず、大統領候補となれなかったことで、トランプに鞍替えしたり棄権したりした非エスタブリッシュメント層もかなりの数に上るとされる。

 『ドナルド・トランプは支配勢力の左右する経済・政治・メディアにあきれて嫌になった没落する中流階級の怒りと響きあった。人々は、低賃金が嫌になり、然るべき支払いのある仕事口が中国などの外国に行くのを見ているのが嫌になり、億万長者が連邦の所得税を支払わないのに嫌になり、そして子供たちが大学へ行く学費の余裕もないのに嫌になっている。それにも関わらず、大富豪はさらにリッチになっているのにあきれているのだ。

 トランプ氏が、この国の労働者家族の生活をよくする政治に誠実に取り組むならば、それに応じて私と、この国の先進的勢力は協力する用意がある。人種主義者、性差別主義者や外国人ヘイト、そして反環境主義の政治の道を行くならば、我々は精力的に彼に反対して行動するだろう』。

 これは、トランプ勝利を受け、サンダースが発表した声明である。これを見ても明らかなように、サンダースは移民排斥政策以外でほとんどトランプに批判らしい批判をしていない。それどころか、トランプが移民排斥をやめ、上流階級以外のための政治をするなら協力するとまで述べている。一方で、民主党予備選期間中のサンダースは、クリントンに対しては、次のように厳しい批判を加えているのだ。

 『クリントン長官は、上院議員だった2002年10月に対イラク開戦承認決議案に賛成した。北米自由貿易協定(NAFTA)や環太平洋経済連携協定(TPP)の支持者でもある。その上、自身のスーパーPAC(政治資金管理団体)を通じてウォール街から1500万ドルももらっている人に、大統領になる資格があるとは思わない』。

 今回の米大統領選がどのような構図で戦われたかを、これら一連のサンダースの発言はよく物語っている。これではどちらが自党の候補者で、どちらがライバル政党の候補者かわからないほどだ。

 既成政党が左右を問わずエリート支配に堕し、貧困層の受け皿でなくなっている状況が、英国だけでなく米国でも共通の課題であることが浮き彫りになった。選挙の対立軸がかつての左右から「上下」に移っていることが示された。『レイシストではなくチャーミングで、不安で途方に暮れている労働者層が、リベラルなエリートたちから「邪悪な人間たち」と否定されていることに深い悲しみを感じる』というスザンヌ・ムーアの指摘はここでも完璧に当てはまる。上から目線で大衆蔑視のイメージを払拭できなかったクリントンは、旧態依然としたエスタブリッシュメント層を代弁する候補者として強く忌避されたのである。

 翻って日本ではどうだろうか。次第に米英両国に近づいてきている印象を筆者は受ける。自民、民進両党の指導部(末端の議員や党員全体を指すのではなく、あくまで指導部)がどちらも貧困層軽視、グローバリズムと原発推進であること、党対党の対立よりも、党内部における指導部と末端議員・党員との対立のほうが先鋭化して見えることなど、実によく似ている。そもそも、米英両国を範として「政権交代可能な保守2大政党制」を目指してきたのが55年体制崩壊後の日本政界であった。その意味で、日本の政界風景が米英両国に似てくるのは必然といえよう。

 篠田徹・早稲田大教授は、米国では組織の枠組みを超え、地域で雇用政策などの新しい動きが生まれているとの山崎憲氏(労働政策研究・研修機構主任研究員)の指摘を受け「関係者をすべて横でかき集めるという「ステークホルダー」という考え方。関係者がみんな集まって解決していくというのは世界的流れになりつつある」としている(「労働情報」誌第949号より)。日本でも、左右対立を軸とした従来の政治感覚をそろそろ抜本的に見直して、上下を軸に政治を展望することが必要な状況になってきている。

 ●飯も食えないグローバリズムより食えるナショナリズムへ

 英国のEU離脱とトランプ勝利にはもうひとつ、避けて通ることのできない重大な共通点がある。「飯も食えないグローバリズムに殺されるくらいなら、飯を食わせてくれるナショナリストに国を委ねた方がましだ」という非エスタブリッシュメント層の意思を、新たな国際的潮流として確定させる効果を生みかねないことである。

 トランプが「米国は世界の警察官から降りる」と宣言し、国際社会に権力の空白が生まれつつある。巨大な資本主義戦争マシーンである米国が世界のあちこちに軍事介入をしてきたこれまでのやり方を見直すことは、反戦運動を戦ってきた諸勢力にとって確かに歓迎すべき出来事だろう。だが、筆者には、この権力の空白が第2次大戦直前期に似ていて、そこに一抹の不安を覚えるのである。

 米国がモンロー主義(非介入主義)を唱えた第1次大戦後、世界には現在と同じように権力の空白が生まれた。そのような権力の空白に加え、第1次大戦敗戦の結果としての天文学的な負債、そして失業者が700万人に上る未曾有の経済危機がナチスとヒトラーを政権の座に就けた。ユダヤ人を排斥する一方、アウトバーン(高速道路)建設を中心とした公共事業を通じて失業者を600万人から50万人に激減させた。ヒトラーは、当時の貧困層には決して手の届かなかった自動車保有の夢をかなえるため、ポルシェに命じて大衆車フォルクスワーゲンを開発させた。ある元社会民主党員の女性は「少しでもナチスに異議を唱えると、『ヒトラーが成し遂げたことをぜひ見てほしい。我々はまた以前のようにたいしたものになっているのだから』と決まって反論された」と当時を振り返っている。

 安倍首相は、麻生元首相に指摘されるまでもなく、すでにナチスの手法をじゅうぶんに真似ている。アベノミクスを通じて大規模な公共事業をオリンピックの名の下に興すことで、実際、失業者を減らした。ヒトラーが、自由市場経済の原則をものともせず、企業に命じてフォルクスワーゲンを作らせたように、安倍首相も企業に命じて賃上げや残業減らしに躍起となっている。メディアを総動員した“ニッポン凄い”キャンペーンによって「我々をまた以前のようなたいしたもの」にしようとする姿は、まさにヒトラーと二重写しだ。

 一度は政権を投げ出した安倍首相を再び政権に返り咲かせた要因は単に野党のふがいなさだけにあるのではない。「飯も食えない国際協調とグローバリズムから食えるブロック経済とナショナリズム」への国際的潮流の変化を抜きにしてそれを語ることはできないだろう。野党のみならず、自民党内からも安倍首相の対抗勢力が現れない理由、国際的には死んでしまった新自由主義にいまだ指導部がしがみついたままの民進党が凋落の一途をたどっている理由について、このように考えると納得がいく。安倍首相が権力を奪取したというより、時代が安倍首相を捜し当てたのである。その意味でも2016年は、10年後の世界から歴史的転換点として、はっきり記録される年になると思う。

 この他、英国のEU離脱やトランプ当選の過程において、インターネットがもたらした「負の役割」についても述べる予定だったが、紙幅以前に筆者の気力が尽きたようだ。これらは新年早々に改めて論じることにしたい。

 読者諸氏にとって、新年が安穏な年となることを願っている。

注)英国議会では、正面から見て右側に与党、左側に野党が座る形で向き合って議論する。両者の真ん中には1本の線が引かれていて、互いにどんなに議論が白熱してもその線より前に出てはならないとされる。かつて、議員が剣を身につけていた時代にこの線が引かれたことから、この線が“Sword Line”(ソードライン、剣線)と呼ばれるようになったとの俗説がある。余談だが、英語には“Live by the sword, die by the sword.”(剣によって生きる者は剣によって滅ぶ)ということわざがある。

(黒鉄好・2016年12月17日)

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今、「活字」をめぐる状況はどうなっているか

2016-10-30 21:27:17 | その他社会・時事
(当エントリは、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2016年11月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 本誌先月号(193号)掲載の杜海樹さんのコラム「活字離れは思考も奪う」(以下「コラム」と略す)を読んだ。筆者は普段、他の方が書いたものに感想を述べることはめったにないが、杜さんが指摘した憂慮すべき状況について、「物書き」として何かを述べずにいられなくなった。そこで今回、「活字」をめぐる最近の状況にまで話題を広げた上で、私の思うところを述べてみたい。

 ●「何が重要でないか」を見極めよ

 杜さんは、コラムの中で、400字という条件で依頼した相手から、2000字~3000字の原稿が送られてきた上、字数を削ることもできないというケースが珍しくないと告白している。プロの物書きでない、一般の労働組合員に多くを望むことはできないという事情は私にもじゅうぶん理解できるものの、制限字数の5倍以上というのでは、さすがに依頼した側も手の打ちようがないだろう。

 こうした事態に陥る人の特徴について、杜さんは「何が要点なのかが全く掴めていない」ことが原因と指摘している。同感だ。私は、そうした人には大きく分けて2つの能力が決定的に不足していると考える。ひとつは「相手が自分(の原稿)に何を求めているか」を理解する能力、もうひとつは「何が重要かではなく、何が重要でないか」を見極める能力である。特に後者は簡単なようで意外に難しく、字数制限の厳しい媒体の場合、私もこれで苦労することがある。

 そこで、今回は、私が本誌向けを含む原稿を執筆する場合に、どのようにしているかをご紹介する。なお、このやり方は私の「我流」であり、読者諸氏の役に立つかどうかわからないことは初めにお断りしておきたい。

 ●文章の効果的な書き方

 各運動現場で、各種メディア・媒体からの原稿依頼がうまくこなせず、苦労している人を見かけることも珍しくないが、そうした人がたいてい陥っているのが、いきなり本文を書き始め、収拾がつかなくなるケースである。昔のテレビドラマなどで、書き損じの原稿を丸めてゴミ箱に捨てながら、作家が頭をかくシーンを時折見かけるが、こんな非効率なやり方をしていては、執筆時間はいくらあっても足りない。

 私の場合、テーマが決まったら、それに沿ってこれだけは書きたいという項目を、箇条書きで列挙してみるという作業を、本文執筆に入る前にすることが多い。この作業によって、文章全体の構成を決めることができる。字数制限がある場合、本当に全項目が執筆可能か、無理な場合は何項目まで書けそうかも見えてくる。

 この作業が終わると、「何が重要でないか」を見極め、各項目の優先順位を決めた上で、字数制限に収まる見通しが立つまで、優先順位の低い順に項目を削る。互いに関連する項目を連続させ、他との関連が薄い項目は最初か最後に回すという作業を通じて文章全体の構成を決める。ここまで終わった後、初めて本文の執筆に入るが、この作業のおかげで、字数制限を大幅に超過することはまずない。

 さらに、私の場合は、箇条書きで列挙した内容をそのまま中見出しとして使う場合が多い。中見出しを考える手間も省ける便利な方法だ。気に入った方はお試しいただきたい。

 余談だが、英語圏、特に米国の新聞では、編集部が記者の書いた原稿を編集する場合、最後から順に削っていくということが、あらかじめ合意されている場合が多い。記者もそれを心得ており、結論または最も重要なことから書き始めるという習慣が確立している。そのため、「なぜ俺の一番書きたかったことを勝手に削るんだ!」という揉め事が、編集部と記者との間で起こることはほとんどない。

 逆に、そうした合意のない日本では、編集部が記者と打ち合わせしないまま、勝手に編集作業をするとこのようなトラブルが起きることがある。こうしたことをルール化すれば、日本でももっと効率のよい編集作業が可能になると思われるが、「主語を故意に曖昧にし、空気や行間を読ませる」「忖度する」文化が根強い日本で、米国のように「まず結論から言い切る」執筆手法が根付くかどうかは私にも確信が持てない。率直に言えばかなり難しいのではないか。

 ●「話し言葉」と「書き言葉」

 英語と日本語との重要な違いを、さらにもう一点指摘する。英語ではいわゆる「話し言葉」と「書き言葉」との間にほとんど違いがないのに対し、日本語ではその両者に大きな乖離があるという点だ。主語を省略することがほとんどなく、主語と述語、目的語がきちんと対応している英語では、スピーチ用の原稿をそのまま新聞に転載したとしても何ら問題なく読むことができる。

 これに対し、日本語は主語が省略されることが多いことに加え、主語と述語、目的語がきちんと対応していない場合もあり、前後の文脈を含めて正確な文意を読み取る必要がある。

 運動現場で最も困るのは、なんといっても講演やスピーチの類だろう。書き言葉と話し言葉が同じでないため、特に口下手な講師・スピーカーの場合、聴衆に配布するレジュメと、自分用のスピーチ原稿を2種類用意しなければならないことも少なくない。

 講演終了後、内容を報道するメディアの記者や、文字起こしをする主催団体の人にとってもこの問題は大きい。講師のくだけた話し言葉をそのまま文字にしたのでは軽い印象を与える一方、良かれと思って書き言葉に直した場合、後で「自分の主張したかったニュアンスと違う」などと言われてトラブルになることもある。

 結果として、記事の中では書き言葉に直した講演内容の要約のみを紹介し、講演の全文は「○○氏の講演内容(全文)」などと見出しを付け、話し言葉のまま別に掲載しなければならないという事態が生じている。

 明治時代中期、書き言葉と話し言葉を一致させようとする「言文一致」運動が起きた。文語体から口語体へ移行した最初の小説が「たけくらべ」(樋口一葉)だというのが文学界の定説になっているが、このときの言文一致運動も、文語体で書かれていた「地の文」(セリフ以外の文章)を口語体に直すところまでが精いっぱいで、話し言葉と書き言葉との乖離を埋めるところにまで至らなかった。世界でおそらく日本人だけが直面しているであろうこの問題に、解決の方法はあるのだろうか。

 ●「打ち言葉」の台頭

 インターネット、とりわけソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)の普及に伴って、最近は新たな問題が生まれている。話し言葉と書き言葉の中間に、SNSだけで使われる新たな言葉が生まれつつあるのだ。話し言葉ほどくだけているわけでなく、かといって書き言葉ほど堅苦しいわけでもない、これらの新しい言葉は「打ち言葉」と形容されることもある。「乙」(「お疲れ様」の意味で、ねぎらい、揶揄する場合の両方に使われる)や新年のあいさつの「ことよろ」(「今年もよろしくお願いします」の略)などはその典型であろう。加えて、これらの打ち言葉には、人前で声に出して話すには赤面してしまうような、雑な省略の仕方になっているものが多いという特徴もある。

 こうした言葉が生まれてきたのは、一投稿あたり全角で140字という厳しい字数制限があるツイッターの影響が大きい。この全角140字というのは、私にはかなり微妙な字数制限に見える。相手の言葉尻を捉えて叩くにはじゅうぶんな文字数なのに、叩かれた側がきちんと理解を得るように説明しようと思うと全く文字数が足りないからだ。

 こうした特性を持つツイッターが、結局は「(アベノミクスなどの)キーワード政治」「白黒、敵味方をはっきりさせる対立的でとげとげしい言葉やレッテル貼りの応酬」「気に入らない相手に対する一方的な“叩き逃げ”」といった現在の言論状況を生み出したように思う。

 私は、以前、とある集会で顔見知りの参加者に「140字しか書けないツイッターが不便で仕方がない」と言ったところ、「何言ってるの。川柳なんてたったの17文字よ」と反論され、言葉に詰まったことがある。それを聞いて「中途半端に余計なことが言えるツイッターより、必要なことを言うにも不便な川柳のほうがましだ」と思ったことを覚えている。制限字数が極端に少ないと、必要なことを誤りなく伝えるための詠み手の努力は俳句や川柳のように芸術に昇華するが、必要なことを伝えてなお少し余裕がある程度のツイッターではこのような努力が行われることもないのだろう。

 とはいえ、このような「打ち言葉」が日本語の中で大きな役割を占める時代は過去にもあった。最も速い情報伝達手段が電報だった時代、至急電(俗に言う「ウナ電」)で受験合格を表す「サクラサク」、離れて暮らす親族に危急を告げる「チチキトクスグカエレ」などの文例はその典型だ(ちなみに、私の使用する変換ソフト「ATOK」で至急電、ウナ電が変換できなかったことを考えると、この両方ともすでに死語らしい)。

 至急電とツイッターとの間に違いがあるとすれば、前者が特定の相手に用件を伝える実用的な手段であるのに対し、後者は不特定多数を相手としたコミュニケーション手段であるという点だろう。不特定多数を相手にするだけに、電報のような一律のルール化は難しい面もあるが、逆に言えば、不特定多数を相手にしたコミュニケーション手段であるからこそ、一定のルールが必要ではないかとも思う。日本人は、深刻化する一方の「打ち言葉」問題に、そろそろ真剣に向き合うべき時期に来ている。

 ●養老孟司さんが伝えたかったこと

 やや古いが、「バカの壁」などの著作で有名な作家の養老孟司さんが、週刊「AERA」誌(2013年1月28日号)のコラムで興味深いことを述べている。「読み書きをおろそかにしたくない」と題したコラムは私にとって大変刺激的であり、また「活字派」を元気づけるもので、私は大変好感を持った。

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 ここ最近の政治家を見て感じるのは、「しゃべる」ことには長けているが、書くものを読みたいとは思わない、ということ。書くといってもせいぜいツイッターかフェイスブックだろうが、それらは後々読みたい類のものではなく、あくまでも「瞬間芸」。その芸に、世の中がすっかり振り回されている。

 昭和を生きた政治家、とりわけ首相経験者であれば、その日記や回顧録には史料的価値があった。没後、仰々しい箱入りの本が出るのは一つの定番だった。平成以降、そんな本が出る政治家は果たしているだろうか。

 書くことは後世に歴史を残すことにつながるが、弁論はその場を制する手段である。その違いはかなり大きい。

 いま、日本でも書くよりしゃべるほうが優位になってきた。弁が立つことがもてはやされる。しかし、いかにもイデオロギー風の議論にどんな意味があるのか。読んで書くことを大切にしてきた日本語の本当の価値は、100年後か200年後かはわからないが、必ずや評価される日が来ると思う。
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 橋下徹・前大阪市長が登場して以来、私がずっと感じていたモヤモヤ、違和感の正体を養老さんが解き明かしてくれたような気がする。橋下前市長に典型的なのだが、最近の政治家は「今、この場で」相手を論破するのは大変うまい。それこそが政治家に最も必要な能力だと言わんばかりの風潮もある。

 だが、こうした政治家には時間軸が欠落している。彼らにあるのは「今、目の前にある瞬間」だけだ。時間軸が欠落しているから、過去は「過ぎ去ってしまったどうでもいいこと」であり、未来は「そんなの知ったことではない」のである。だから、過去の自分の言動と今の言動が不一致であることに罪の意識もなく、その場その場のムードでヒラヒラと言動を翻して恥じないのだ。

 『書くことは後世に歴史を残すこと、弁論はその場を制する手段』というところに、物書きとしての養老さんの矜持、意地を感じる。養老さんはここまではっきりと断言はしていないけれど、「しゃべることは『その場』で勝負することなのに対し、書くことは『歴史的時間軸』の中で勝負することなのだ」と主張したかったに違いない。

 忘れてはならないことがある。録音・録画技術が発達した今、書くよりしゃべるほうが得意な人たちも自分の言葉を記録して後世に伝える手段を得た。しかし、500年後に今のDVDと互換性を持つ再生機が残っているかはわからないし、ICレコーダーの使い方を500年後の人類が理解できるかどうかもわからない。それに対し、紙に文字で自分の言葉を書いておけば、500年後の日本人にも確実に伝わり、彼らに政治的、社会的影響を与えることができるだろう。結局のところ、最もシンプルな手段で自分の言葉を書き残すことができる者が歴史の上では勝利する、と考えることもできる。

 私が、世間的には実にくだらないと思うようなことも、わざわざ紙媒体に文章として記録し続けているのにはこんな理由もある。大切なことは長い歴史を見据えて行動し「最後に勝つ」ことである。それには紙に活字で書くことが最も有効な手段なのだ。

 ●若者の「活字離れ」は本当か~札幌の「文学フリマ」から見えてきたもの

 「日本人の活字離れ」が言われるようになって久しい。特に「若者の活字離れ」はメディアの定番ネタらしく、周期的に繰り返されているようにも思われる。だが、これらはいずれも「最近の若い者は」という年長者の愚痴に近いもので、周期的に繰り返される割には確たる根拠を欠いている。根拠なく批判される若者の名誉のために書いておくと、むしろ最近は若者の活字離れという俗説に逆行する動きも見られる。

 そのひとつが、今年7月、札幌で開催された「文学フリマ」だ。今年から始まったイベントで、文学作品に限定したフリーマーケットである。各自が、自分の書いた小説・詩などの文学作品を持ち込み売買する。

 このイベントの参加者を各年代別に見て、10~20歳代が最も多かったことは注目に値する。主催者も年長世代の参加を多く見込んでいたらしく、10~20歳代が多かったことに驚いたそうだ。私事で申し訳ないが、高校生の姪が最近、夢中になっているのも小説であり、好きな作家は東野圭吾、そしてどういうわけか夏目漱石という。

 日本文化のひとつと言われるアニメに目を向けても、最近はマンガやゲームが原作の作品に加え、小説が原作の作品が増えてきている。とりわけ、学園を舞台に、思春期の若者を主役とする「ライトノベル」の主要作家は20~30歳代も多く、インターネットの小説専用投稿サイト「小説家になろう」には、毎日、山のように新作が投稿されている。電車の中で文庫本を読んでいる30歳代くらいの人たちも結構見かける。

 こうした状況を見ていると、若者の活字離れなんて、誰が誰のどこを見て言っているのかと反論したくなる。全員が全員、そうと決めつけるわけではないが、むしろアニメばかり観て活字離れが最も進んでいるのは、50歳前後のバブル世代ではないか。集会、デモなどの運動現場にこの世代が極端に少ないことと無関係ではないようにも思える。案外、10~20年後は再び活字の時代になるのではないかと私は楽観的に見ている。

 いずれにせよ、活字をめぐる状況はさまざまで、一概に言えないように思う。物書きという立場上、活字をめぐる動向には人一倍、関心を払っているつもりだが、確実に言えるのは、活字に親しめば親しむほど思考が活性化されるということだ。折しも季節は読書の秋。例年以上に読書に親しむよう、私からもぜひ、お勧めしたい。

(黒鉄好・2016年10月1日)

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