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安全問題研究会(旧・人生チャレンジ20000km)~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

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問題は本当にジャニーズだけか? 日本企業に「行動変容」迫る「ビジネスと人権」の大波

2023-09-22 22:30:12 | その他社会・時事
(この記事は、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2023年10月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 ●「帝国」の落日

 所属タレントの絶大な人気と、それがもたらす巨大な経済効果によって芸能界をほしいままに支配し、「帝国」とまで評されたジャニーズ事務所の「落日」がはっきりしてきた。

 ジャニーズ事務所の綻びの兆候は、2016年、国民的な人気を誇っていた所属グループSMAPが事務所によってテレビ番組での公開謝罪を強いられ、事実上の空中分解に追い込まれたころから現れていた。

 この騒動の過程で、SMAPの育ての親とされるジャニーズ事務所の敏腕マネージャー飯島三智さんが、5人のうち事務所に残留した木村拓哉さんを除く4人のメンバーとともに事務所を去った。ジャニーズ事務所の「女帝」とされるメリー喜多川副社長(2021年死去)から、(自分に意見するなら)SMAPを連れて出ていくよう「勧告」を受けたためとされる。自分亡き後の後継者を娘の藤島ジュリー景子氏とすることで、この時すでにメリー副社長の意思は固まっていたようだ。

 事務所を去ったSMAPメンバー4人のうち3人(稲垣吾郎さん、香取慎吾さん、草彅剛さん)は、飯島さんが設立した新事務所に移籍し「新しい地図」を名乗っている。移籍当初は「新しい地図」のメンバーを使わないよう求めるジャニーズ事務所の有形無形の圧力により、なかなか活躍の機会が与えられなかった。だが、2021年に入り、これらの不当な「圧力」が、公正な競争を妨げる独占禁止法違反の疑いがあるとして公正取引委員会から勧告を受けたあたりから大きく潮目が変わり始めた。

 メリー副社長の弟で、ジャニーズ事務所社長を務めるジャニー喜多川氏が死去したのは、姉に先立つ2019年のことだった。ジャニー氏は、売れるタレントを見抜く「天賦の才能」があるとされ、またプロデューサーとして発掘したタレントの育成にも能力を発揮した。一方で芸術家肌の性格から、事務所の経営等、管理的な業務には無関心といわれており、事務所経営をメリー氏、タレント発掘・育成をジャニー氏がそれぞれ担当するという「適材適所」の役割分担の下で「帝国」を築いたとされる。

 ●没後に噴き出した「黒い過去」

 1980年代に青春時代を過ごした本稿筆者にとって、同世代のジャニーズタレントといえばシブがき隊、光GENJI、また藤島ジュリー景子氏の辞任を受け、今回社長に就任した東山紀之氏もメンバーだった「少年隊」などがある。だが、ジャニー氏の特殊な性的嗜好は、すでにそのころから芸能界はじめ公然の秘密であると同時に、触れてはならないタブーともなっていた。

 筆者が高校生の頃、同じクラスの女子生徒からこんなことを言われたことがある。「ジャニーズの社長のジャニー喜多川って人がいるんだけど、ホモで変態なんだって。デビューしたいって応募してきた男子を抱いてみて、抱き心地が良かったら採用、悪かったら不採用にしてるって聞いたんだけど、変態で最低だよね」。

 彼女がそんな根拠不明の話をどこで聞きつけてきたのかわからないが、おそらく週刊誌などの類だろう。話し相手に私を選んだ理由も不明だが、おそらく当時の私が「反論できなさそうなタイプ」に見えたことも、今思えば一因かもしれない。時は1980年代後半、すでにそのころからジャニー喜多川氏が行っていた所属タレントへの蛮行は、芸能界のみならず、多くの一般人でさえ知るところとなっていた。その内容も、普通の感覚を持つ女性はもちろん、多くの男性でさえ嫌悪感を抱くような悪質な性加害行為だった。

 抑え込まれていた性加害が公然と語られるようになったのは、メリー・ジャニー姉弟の相次ぐ死去でタブーが取り払われたことが大きい。とりわけ元所属タレントのカウアン・オカモト氏による今年4月12日、日本外国特派員協会での記者会見は内外に強い衝撃を与えた。ジャニー氏から受けた性被害の詳細が含まれていたからである。さらに、オカモト氏は記者会見の場に日本外国特派員協会を選んだ理由について「日本のメディアはおそらくこのことは報じないだろう。でも外国のメディアならば取り上げてくれるのではないかと言われた」と述べた。一般人でも知っているジャニー氏の性加害を、芸能関係者が知らなかったなどということはよもやあるまい。もちろんそれを知りながら、冒頭で記したように「所属タレントの絶大な人気と、それがもたらす巨大な経済効果」を前にして、日本の大手メディアは見て見ぬふりをするという共存共栄かつ「共犯」関係に長く浸かってきた。オカモト氏の会見には、日本のメディアに関する深い不信もにじんでいた。

 ジャニー氏が行った性加害の詳細については、あまりに品性下劣で、労働運動・社会運動をテーマとする本誌の趣旨にふさわしくない上、本稿の主題でもないため商業メディアに譲ることにし、ここでは問題の要点のみ列挙するにとどめたいと考える。(1)「帝国」と呼ばれるほどの絶大な影響力を誇る芸能事務所の経営幹部によって、所属タレントという圧倒的弱者に対し、日常的・継続的に行われた人権侵害であること、(2)日本政府、メディアを含む経済界が利益のために「黙認」という形で性加害に事実上加担してきたこと、(3)ファンも自分が「推し」活動(近年、芸能界隈で急速に使われるようになった用語で、好きな芸能人を応援する活動一般を指す)をしているジャニーズ所属タレントの「偶像」を維持するため性加害黙認の形で加担してきたこと――を指摘しておけば十分だろう。

 ●「ビジネスと人権」の「黒船」襲来

 ジャニーズ事務所所属タレントに対する喜多川氏による性加害問題は連日商業メディアを賑わせているが、ここ最近のこうした目まぐるしい動きの背景に大きな国際的潮流があることを指摘しておく必要がある。キーワードは「ビジネスと人権」だ。人権の視点から企業活動が適切かどうかを点検し、人権侵害につながるような不適切な経済活動を行う企業に対して「行動変容」を促そうという国際的な動きである。

 日本が東日本大震災・福島第1原発事故による混乱のさなかにあった2011年、国連人権理事会が「ビジネスと人権に対する指導原則」を採択した。これに呼応し、OECD(経済協力開発機構)も「多国籍企業行動指針」に人権の章を追加する改正を行う。児童労働、男女の差別的取り扱い、環境破壊など企業活動が与える負の影響を監視する国際的合意ができたのである。

 人権問題に敏感な欧米諸国の反応は早かった。英国政府は2013年、ビジネスと人権に関する行動計画(NAP)を策定。2014年には、非財務情報(経営状態にとどまらず、広範な企業活動全般に関する情報)の開示を義務付けるEU(欧州委員会)指令が発出された。英国、オーストラリアは奴隷労働禁止法を制定。ドイツは「サプライチェーン法」制定に動いた。サプライチェーンは、直訳すれば「供給網」のことで、生産から流通まで、企業が財・サービスを消費者に届けるまでにおける経済活動のあらゆる段階を意味する。日本でも流通業界などの現場では注釈なく使われる一般的な用語である。ドイツの法律に関して筆者は現段階では内容を確認していないが、サプライチェーンの語感から、経済活動のあらゆる段階における人権侵害に対し、網羅的に規制をかける内容であることは想像がつく。

 日本ではやや遅れて、2016年にNAP策定を行うことを決定。2022年、「責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン」が策定された。このガイドラインが「日本版NAP」と呼べるものかどうかははっきりしないが、少なくとも日本政府がそのように考えていることは、策定までの過程を示した一連の公文書を見るとうかがえる。あくまでもガイドライン(指針)であり、強制力を伴わないことから、企業がこのガイドライン通りに行動を変容させるかどうかは、企業・経済界の意識次第の部分が大きいといえよう。

 前述したように、欧米諸国では「ビジネスと人権」の精神を、強制力を持つ法律の形で実現しようという動きも活発になってきている。国際的には「人権デューディリジェンス(DD)法」と呼ばれ、EUは2022年2月、特定の企業に対して企業活動における人権や環境への悪影響を予防・是正する義務を課す「企業持続可能性デューディリジェンス指令案」を発表している(EUには、EU議会で制定され、加盟国を強制的に拘束する「法律」と、加盟国を拘束しないがこれに準じて国内事情に見合った立法措置を促す「指令」があり、これは後者に相当する)。近い将来、正式決定され指令となることは避けられない情勢だ。

 日本でも、人権DD法制定に向けた動きが出始めている。今年4月25日には、休眠状態だった「人権外交を超党派で考える議員連盟」が会合を開き、一定規模以上の企業に人権DDに基づいた行動を義務付ける法整備を目指すことを確認した。今年4月30日付け毎日新聞の報道によれば、この議員連盟は2021年秋までの人権DD法制定を目指していたが、前述のガイドラインが公表されたためにいったん休眠状態となったという。

 ガイドライン公表は「ビジネスと人権に関する行動計画の実施に係る関係府省庁施策推進・連絡会議」によって行われたが、省内に大臣官房ビジネス・人権政策調整室という担当部署が置かれている経産省が策定を主導したことは間違いない。そして、旧通産省時代から「経団連霞が関支店」と揶揄されてきた経産省にとっては、企業・経済界への強制力を伴う法律制定の動きが本格化する前に、強制力を伴わず企業の自主的行動にゆだねる形でのガイドライン策定で「機先を制する」狙いもあったことは間違いないと思われる。実際、この推測を裏付けるように日本政府の人権DD法制定への動きは今なお鈍い。

 だが、ある「官邸幹部」から議連に対し、議員立法での法制化に向けた働きかけがあったことが、議連再起動のきっかけとなった。「人権問題をめぐって国際社会の日本への視線が厳しさを増しており、どのような分野からでもいいので、取り組みを目に見える成果として示さないと持たない」との官邸幹部の危機感があると報道されている。

 ●「ジャニーズ問題の消費」で終わらせないために

 現在、国連人権理事会の下部組織として「ビジネスと人権に関する作業部会」が設置されている。この作業部会メンバーが7月24日から8月4日の日程で初めて来日し、日本政府や企業による人権DDへの取り組み状況を調査した。ジャニーズ問題に関しても聞き取りが行われた他、大阪、愛知、北海道、福島を訪問。東京電力に関しては、原発作業員の労働環境や多重下請け問題など、日本企業による人権侵害状況を直接現地で調査した。

 作業部会は日本に関して「三つの根本的問題」を指摘した。第1は、先進的なグローバル企業と家族経営を含む中小企業との間で、指導原則の理解と履行に大きなギャップがあること。第2は「人権を保護する国家の義務」を政府が十分に果たしていないこと。第3として、各企業に合わせた要求への対応能力の構築が必要だということだ。作業部会は、日本では「裁判所も人権意識が低い」として裁判官に対する人権研修の実施を促す声明を発表している。

 作業部会が調査対象とした企業のほとんどが、公正な競争の観点から、政府に対して人権DDの義務づけを望んでいると公表されたことは少し意外だった。作業部会がどのような企業を調査対象に選んだのかわからないが、調査本来の趣旨から見て、いわゆる「意識の高い」企業が選択的に対象とされたとは考えられない。そのような抽出の仕方をするのであれば、わざわざ訪日までして調査する意味に乏しいからだ。それだけに、義務化を望む声は経済界の主流とまでは言えないとしても、その少なくない意思だと見ておく必要はあろう。なにしろ、経団連ですら広報誌「月刊経団連」(2022年5月号)でビジネスと人権を巡る世界の動きを紹介し、加盟企業に取り組みを促しているくらいなのだ。背景には、望むと望まざるとにかかわらず、世界の潮流に合わせたビジネス展開をしなければ、日本企業が国際市場から締め出されるという経団連なりの強い危機感があるといえよう。

 むしろ、先行する企業・経済界に比べて、遅れているのが政府、消費者の意識改革である。政府は遅々として法制化に動かず、消費者は「安いニッポン」問題が深刻化する中で「供給される財・サービスの背景に多少の問題があっても、安ければ目をつぶる」長年の意識から抜け出せていない。ジェンダー問題に関しても、このところ法制度や仕組みより「アンコンシャス・バイアス」(男は/女はこうあるべきという無意識の偏見)に焦点が当たっているように、意識改革が求められる局面になっている。エシカル消費などというおおげさな言葉を使うまでもなく、「自分が今、買おうとしている財やサービスの背景に何があるのか」「自分が目をつぶってお金を払うことで誰かが苦しんでいないか」を意識することがますます重要になってきている。

 作業部会の調査メンバーが離日するにあたって行われた会見では、メディアの質問はジャニーズ問題1色になった。司会者がジャニーズ以外のことも質問するようメディアに促したにもかかわらず、参加した記者たちは無視してジャニーズ問題の質問を延々と続けるという醜態をさらした。そのこと自体が「数字が取れる=メディア企業として儲かる」のであればいいという、人権DDに真っ向から反する行為であることはいうまでもない。

 それでも、性加害に加担した過去がなく「真っ白」なメディアがそのように振る舞っているにすぎないのであればまだ救いもあろう。だが、すでに述べたようにメディアもジャニーズタレントを起用して莫大な利益をあげることと引き換えに性加害を黙認し「共犯」関係だったのである。そのメディアが、「落日」を迎えたとたんにジャニーズ叩きで正義や知る権利など振りかざしたところで、しょせんは茶番劇に過ぎないことを視聴者は見透かしているに違いない。

 ジャニーズをめぐる一連の騒動を、メディアによる数字稼ぎのためのエンタメ的消費で終わらせてはならない。私たちは「その先」を見据えなければならない。メディアも同罪ではないのか。メディア自身の人権DDはどうなっているのか。厳しく追及していく必要がある。作業部会も指摘した「被曝作業員」に対する多重下請け構造に伴う賃金ピンハネ問題もほったらかしにして、原発は再稼働に向かっている。汚染水の海洋投棄という人類史上最悪の環境破壊が政府公認の下に白昼堂々と行われているが、メディアは見向きもしないどころか、「汚染水」の単語を使う者、海洋放出に反対する者は中国の手先だとでもいうべき差別排外主義的宣伝に手を貸している。そのことも徹底して問わなければならない。

 ともあれ、賽は投げられた。ビジネスと人権をめぐる潮流は、幾多の抵抗に直面しても、後退することはないと思う。無益な抵抗を続ける企業はいずれ国際市場から淘汰されることになる。本質的なことに目を向けられたくない資本主義とグローバル企業によって作り出される空騒ぎから距離を置き、企業に行動変容を促していくこと、「地球の裏側に住んでいる女性や子どもたち」のために何ができるか考え、微力でも世界市民として良識ある行動をとること――私たちに課せられた課題はこれに尽きる。

(2023年9月17日)

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コロナ「5類移行」で見えてきた風景に思う

2023-05-24 23:42:32 | その他社会・時事
日々の雑事が忙しすぎてご挨拶が遅れてしまったが、私はこの春も異動はなかった。2013年4月に異動で引っ越してきた北海道での生活は丸10年過ぎ、とうとう11年目に突入する。こんなに長くここで暮らすことになるとは思っていなかった。

生活していく上ではせっかくのいい環境なのに、この3年間はコロナ禍で思うような対面活動はできなかった。新型コロナウィルスの感染力、重症化率ともに通常のインフルエンザより依然として高いため、法的には新型コロナウィルス対策特別措置法に基づく2類伝染病扱いのままだったが、感染拡大当初(2020年春)、緊急事態宣言が出された頃と比べて弱毒化が明らかとなり、訪日客に対する水際対策が緩和されたあたりから、実質的には「個人の判断で勝手に5類化」といってもいい状態だったから、このGW明けの5類移行と聞いても「ふーん」という感想しかないのが正直なところだ。

実際、対面活動がほぼコロナ禍以前に戻ってきている実感もあるし、私の手帳のスケジュール欄を見ても、既に夏までスケジュールはびっしり埋まっており、1日が完全休養という日は片手で数えられるくらいしかない。

ステイホーム、行動変容といわれて人が我慢していられるのもせいぜい1~2年が限度だし、重症化度合いは若い世代ほど低く、高齢者ほど高いが高齢世代では個人の健康状態によるばらつきも大きいことを考慮すると、全員に対し一律に何らかの強制に近い制限を課する措置からは、そろそろ出口戦略を探る時期だったことは確かだろう。

問題は、この3年間から我々が何を得たのか。別の言い方をすれば、何を得て、何を失ったのかだと思う。通勤ラッシュ、コンサートやイベント、インバウンドに関しては「戻ってきた」感が強いが、子どもの頃の社会科の授業で、日本は「原材料を輸入して、製品を輸出する加工貿易の国」だと教わったのも遠い昔のことになりつつある。「サービスを輸出し、モノを輸入する」経済構造に今ではすっかり変わってしまった日本は、もう「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」とお金持ちの外国人にお辞儀する以外に食い扶持がなくなりつつあるのだから、こうした分野で「戻ってきた」感が出ているのは、いいことか悪いことかは別として、やむを得ない選択なのだろう。日本人の多くが気付かないか、不都合な真実として気付かないふりをしてきたこのような経済構造の変化が、コロナ禍で白日の下にさらされることになった。

(注:インバウンドによる日本国内での買い物が「輸出」に当たることに対しては、今ひとつピンと来ない方も多いと思うが、日本からモノを買い、代金を払ってそれを外国人が自国に持ち帰ることは、それが個人によって行われる点が違うだけで、日本企業が外国にモノを送り、代金を受け取る行為と変わらないから「輸出」に当たるし、財務省の貿易統計でもちゃんと「輸出」として扱われている。外国人観光客が体験型観光(いわゆる「コト消費」)をするのも、支出と引き替えに外国人が受け取るのが形のないサービスだというだけで、やはり「輸出」に当たることに変わりはない。)

日本経済が「原材料を輸入して、製品を輸出する」から「サービスを輸出し、モノを輸入する」に変わるにつれ、多くの日本人が「以前より貧しくなった」と実感しているとしたら、それは経済学的に正しい。一般的に、付加価値(=経済活動、生産活動によって新たに生み出される富)は、製造業では大きく、サービス業では小さくなるからだ。

機械のスイッチをポンと押せば、1時間当たり何百、何千もの製品が勝手に作り出される製造業と、「いらっしゃいませ~」と大声で呼び込みをしても、来店してもらえるかはお客さん次第のサービス業では、生産性は比べものにならない。サービス産業は製造業と違い、ほとんどの業務は機械化できないので、労働コストが高くつく上、お客さんが来るかどうかはふたを開けてみるまでわからないサービス業は当たり外れも大きいからだ。「あくせく働いているのに、成果に結びつかない」「拘束時間ばかり長い割に、成果が見合わない」と多くの日本人が感じているのは、サービス産業が持つこうした特性によるところが大きい。

賃金も、物価も、成長率も、すべてが「安いニッポン」になってしまった原因が誰にあるのか。経営者は「消費者が安物しか買ってくれないから儲けが出ず、賃金を上げたいのに上げられない」と主張し、労働者は「経営者が内部留保ばかりため込んで賃金を上げないから消費が増えないのだ」と主張する。どちらも「自分は悪くない。悪いのは相手のほうだ」と責任を押しつけ合っている。

先進国になるにつれ、経済は第3次産業(=サービス業、知識産業)が主流になっていくことを、米国の経営学者・ドラッカーが指摘したのはもうずいぶん昔のことだが、日本以外の先進国はサービス業が経済の中心になっても成長し、賃金も物価も上昇していることを考えると、日本経済低迷の原因はサービス産業化とは別のところにあるといわざるを得ない。

今までは、その原因がどこにあるのか私もつかみかねていたが、コロナ禍の3年間でそれが割とはっきり姿を現してきたように思う。日本人の経済活動が、純粋な意味で「無から有を生み出す」ものになっていないからではないかというのが私の推論である。

アメリカが経済成長を続けているのは、WINDOWSやFacebook、twitterなどのように、今まで人類の誰も見たことがなかったものを、新しく作り出す--つまり「無から有を生み出す」ことに成功しているからである。逆に、中国が成功したのは、日本では半世紀近くも前に整えられたような基本的な生活基盤も十分に整っていないような途上国であったために、先進国の真似をすることが「無から有を生み出す」ことにつながり、それが富を生み出してきたからである。

1990年代に「失われた30年」に突入して以降の日本人が怠けていたわけではない。むしろ世界的にも真面目な部類だったように思う。しかし不幸だったのは、日本より先を行っている国の真似をしていれば、それが「無から有を生み出す」ことに結びついていたキャッチアップ型経済ではなくなっていたにもかかわらず、アメリカのように「今まで人類の誰も見たことがなかったものを、新しく作り出す」型経済に移行できなかったことにある。

その日本の「ダメさ加減」を象徴していたのが、いま思い返せばデジタル分野だった。紙・カード式の健康保険証を廃止して、マイナ保険証に置き換えるようなものが、愚策の典型に思える。日本では、新しいものを作り出すのではなく、古いもの、それもアナログ時代に確立した、割と完成度の高いシステムをわざわざ壊して、ものになるかもわからない未知のデジタルシステムに置き換えようとするような政策ばかりだった。

「今まで人類の誰も見たことがなかったものを、新しく作り出す」経済活動は、社会の大多数に喜びをもって迎えられるが、日本では経済活動(特にデジタル化)の大部分が「既存システムの置き換え」だったために、古いシステムで食べている人たちの頑強な抵抗に遭い挫折する。ごくたまに上手くいくことがあっても、既存のシステムを壊したために経済にマイナスの影響も生じてしまい、せっかく新システムを導入しても差し引きゼロ。スクラップ・アンド・ビルドでは差し引きがプラスにはならないということに、そろそろ日本人は気付くべきだろう。

日本人はもともと既にあるもののカイゼンは得意でも無から有を生み出すイノベーションは大の苦手。おまけに「全社一丸」なんてスローガンだけは立派なものの、組織全体を統括できるリーダーがいないため、各部署がそれぞれ勝手に部分最適を追求した結果、部署ごとの足の引っ張り合いや衝突ばかり。ようやく長い時間をかけて社内調整が終わる頃には、世界は既に次のフェーズに移行している--なんて場面を何度も見てきた。やはり日本の場合、技術よりも組織運営の拙劣さが長い停滞を生んできたように思う。

そうした拙劣な組織運営のあり方を見直す。コロナ禍はその100年に一度のチャンスであるように私には思えた。このピンチではあるが同時にチャンスでもある局面を、日本は十分に生かし切っただろうか。私にはどうもそうは思えない。どうでもいい会社の飲み会に全員が「同調圧力という名の事実上の強制」によって参加させられ、いわれなくても女性は男性にお酌をするもの--そうした前時代的で差別的ですらある馬鹿げた風習、文化が「三密回避」の名目とともに廃れれば、今度こそ日本が変わるかもしれないという希望が芽生えた時期があった。だがそれも緊急事態宣言直後の一時期だけだったのだろうか。

コロナ禍で日本人が新たに手に入れたもののうち、今後も確実に残りそうなのは「オンライン会議の普及」だろう。Zoomによる会議、イベントの開催は一般的になった。市民団体の集会など、これまで遠方での開催のため参加を諦めていた人たちが参加できるようになった。コロナが弱毒化し、対面開催が復活してくるにつれ、リアル参加者のために会場設営もし、オンライン参加者のために配信機材の設置もしなければならないハイブリッド集会の開催は、成果は今まで通りで変わらないのに手間だけ2倍かかるので、多くの市民団体がオンライン配信をやめ、対面開催オンリーの形に戻したがっている。だが「せっかく遠方からでも参加できるようになったのに、やめるなんて酷い」といわれ、やめるにやめられないでいる。コロナ禍3年の既得権として、定着したまま進みそうだ。

もうひとつ、今後に資産として残りそうなのが「無駄な夜間活動の削減」だ。夜の飲食店、歓楽街が感染拡大の元凶と見なされ(本当にそうだったのかは結局判然としないが)、特に酒類提供が中心だった店の多くに以前の賑やかさは戻っていない。どうでもいい会社の飲み会や、差別的なお酌の強要などがなくなり、若い世代(特に理不尽が集中していた女性)は「せいせいしている」のが実態だろう。私の職場でも、異動や退職で職場を去る人には、送別会の代わりに記念品の贈呈が一般的になった。こうしたことは前向きな変化として今後に継承すべきだと思う。オヤジたちのどうでもいい武勇伝とか、時代は変わっているのに「俺たちの頃はそうだったんだ(=だからお前らもそうしろ、という無言の圧力)」なんて話を聞かされても、若い世代でこのブログを読んでいる人がいたら、それこそ「知らんけど」で片付けておけばいい。

先日も、日本経済新聞に「夜間経済の縮小」を憂う記事が載っていたが、日本の代表的経済紙がそんな古い感覚だからダメなのだ、と私は苦言を呈しておきたい。働き手もいないのに、CO2を吐き出すだけのコンビニの24時間営業など無駄の最たるもので、もう2度と復活しなくていい。お天道様が沈んだら寝て、上ったら起きる、でかまわないのだ。

 *   *   *

そんなわけで、北海道からの情報発信11年目に入るこのブログを、引き続きご愛顧のほど、よろしくお願いします。

なお、どうでもいいお知らせです。当ブログでは、管理人が自称する時の1人称として「当ブログ管理人は、~」という表現をしばしば使用してきましたが、今後は「私は、~」に原則、統一します。

最近、当ブログに先に書いた記事を、後日、再構成の上、紙媒体で発表し直すことが増えているためです。その際、「当ブログ管理人は、~」という表現のままで紙媒体に転載するわけにいかず、主語を「私」に書き直していたのですが、そうでなくても忙しいのに、そんなことに使う時間と労力がもったいないと考えるからです。

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世界に冠たる(?)世襲制国家・日本

2023-05-01 23:40:27 | その他社会・時事
(以下の文章は、ある知人にメールで書き送ったところ、「大変面白い、だが真剣に考えさせられる考察です。類似の言説を読んだことがありません」との感想をいただいたので、以下、転載します。)

日本の歴史を、今回の統一地方選と重ね合わせながら見ていると、興味深いことに気づきました。

・平安時代までの日本は「貴族制」で、当然、世襲制です。藤原氏がその典型で繁栄を謳歌します。戦前、首相になった近衛文麿は藤原氏の系譜です。

・鎌倉時代以降、歴史は「武家制」に移行します。戦国大名の中には、織田信長のように実力主義で家臣を起用した人もいましたが、その多くは親から子へ、子から孫へ、世襲で家督を相続しました。武家制は、徳川幕府が終わるまで続きます。

・明治時代になると、「大政奉還」で主権が武家から天皇家に返還されます。天皇家は当然、世襲で、この体制が1945年まで続きます。

・戦後になると、新憲法の下で国民主権に移行しますが、現在に至るまで戦後のほとんどの期間、1党支配を続けている自民党は大半の議員が世襲です。

「貴族制」時代も世襲、「武家制」時代も世襲、「天皇制」時代も世襲、「自民党」時代も世襲……。もしかして、日本人って、歴史上、世襲以外の権力を戴いたことがないのでは?

……この恐ろしい疑問に対する答えは、YESです。日本人は、世襲以外の権力を知らないまま、神武天皇生誕以来、皇紀2683年間を過ごしてきたのでした。

日本のすぐお隣には、統一協会に貢いでもらった資金で作った「花火」を、毎日のように日本の領海近くまで飛ばしてくれる世襲制国家があります。民主主義のかけらもないのに朝鮮「民主主義」人民共和国を名乗るこの国は、現在「偉大なる領袖」金正恩同志がトップを務めていますが、金正恩同志でさえ「まだ」3代目です。しかし自民党には3世がごろごろいて、中には4世議員もいます。こと世襲に関する限り、日本は「経済制裁に甘んじている1党独裁テロ国家」よりはるかに酷い状態です。

ついでに言えば、1党独裁なのは日本も同じです。北朝鮮は、選挙がないので国民が仕方なく朝鮮労働党の支配に服していますが、日本人は選挙があるのに野党を自分から進んで潰し、自分で1党独裁を選んでいるのですから、北朝鮮以下でもはや付ける薬もありません。

韓国は、李氏朝鮮までは世襲制国家でしたが、苛烈なる日帝支配36年を経て、戦後、独立してからは軍政時代も世襲ではありませんでした。民政移管後も世襲ではなく、定期的に政権交代もしています。

もう一度日本を振り返ってみて、どうでしょう。世襲大好き民族ですよね。我が息子や娘が「ミュージシャンになりたい」とか「Youtuberになりたい」などと言ったら、何で「そんな仕事」を選ぶんだ、と烈火のごとく怒り出す人たちでも、「家業を継ぐ」と言う若者に「何で家業を継ぐんだ!」などと怒り出す人はまずいません。たとえその家業がどんなに衰退確実な業態・業種であっても。

「○○時代から○年も続く老舗・○○堂を今年、引き継いだ何代目」と言えば、マスコミはそれだけで美談扱い、取材殺到です。優秀な社員を辞めさせないため、あの手この手で慰留する企業も、退職理由が「家業を継ぐため」だったら「まぁ仕方ないよね」でお咎めなしです。

日本人の底流を流れるこうした国民性が、政治家の世襲を助長しているのではないでしょうか。だとしたら、政治家は世襲ばかりだと嘆く前に、まず我々自身が「カエルの子はカエル」で当たり前だと思っていないか、点検が必要です。

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【訃報】「一水会」元代表・鈴木邦男さん

2023-01-30 23:32:40 | その他社会・時事
鈴木邦男さん死去 79歳、「一水会」元代表(東京)

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 民族派団体「一水会」の元代表で、イデオロギーの枠を超えた言論活動を展開した評論家の鈴木邦男(すずき・くにお)さんが十一日、誤嚥(ごえん)性肺炎のため死去した。七十九歳。福島県出身。葬儀は近親者で行った。後日お別れの会を開く予定。

 早稲田大在学中に民族主義運動に没頭し、新聞社に入社。作家三島由紀夫の自決に影響され一九七二年に一水会を結成し、九九年まで代表、二〇一五年まで顧問を務めた。

 当初の武闘派右翼から新右翼の論客に転じ、左翼の言論人とも交流。安倍晋三政権の改憲論に「国家主義的だ」と反対、在日韓国人へのヘイトスピーチに抗議したほか、中国人監督の映画「靖国 YASUKUNI」公開を右翼が妨害した際も上映実現に尽力するなど、思想信条や価値観の違いを超えた「愛国」の在り方を追求した。テレビの討論番組などでも活躍した。

 「夕刻のコペルニクス」「言論の覚悟」「憲法が危ない!」「新右翼<最終章>」など著書多数。
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当ブログが右翼団体関係者の訃報を取り上げるのは、異例中の異例であることはお断りしておきたい。ちなみに、引用した東京新聞記事末尾に紹介されている鈴木さんの著作のうち「夕刻のコペルニクス」は、かつて「週刊SPA!」誌に同じ名前の連載があった。書籍としては読んでいないが、おそらくこの連載をまとめたものだと思う。

取り上げる理由は、私が短時間、一度だけとはいえ、実際に鈴木さんにお会いし、直接話した経験を持つからである。その当時のことは、2013年1月17日付当ブログ記事「ある右翼人との対話」に書いてある。この記事は1ヶ月後に書いたもので、実際、お会いしたのは2012年12月。福島在住当時だった。

私が、西郷村在住であることをカミングアウトして話しかけると「僕も自分の出身は郡山だけど、母親は坂下(ばんげ)なんですよ」と上半身を乗り出すようにして話しかけてきた。坂下とは会津坂下町を指しており、福島県内ではこれで通じる(会津若松も「若松」と表現するなど、福島県内では会津○○町のことを話題にするときには「会津」を省略することが多い)。

自分の出身地を大事にするところなどは、やっぱり郷土愛というか、保守の人だなぁと感心した覚えがある。黒塗りの街宣車に乗り、大音響で君が代や軍歌を流し「北方領土返さんかい! オラァ!」とか「売国日教組粉砕せよ!」などと叫んでいる人たちで、目が合ったら最後、殴りかかられるんじゃないかという右翼のイメージとはかけ離れ、親しみやすい人だった。

「ある右翼人との対話」を10年ぶりに読み返してみたが、鈴木邦男さんを「戦後自民党的な「保守」の立場に近い」と評したのは、いま思えば的外れもいいところで、私はやっぱり保守の人たちのことを何もわかっていなかったな、と反省する。そういう自民党的なものと最も対峙してきた人が鈴木さんではなかったか。そういう面で、今はかなりというか、当時とは180度違う評価を持っている。本来なら鈴木さんに謝らなければならないくらい失礼な評価をしていたと思うが、鈴木さんが違う世界に旅立たれたせいか、それもできなくなり申し訳ない。あと20年後か30年後かに、私がそっちの世界に行ったら鈴木さんには失礼を詫びておきたいと思う。

戦後自民党的なものが持つ欺瞞性は、安倍元首相殺害後に明るみに出た統一協会との関係で完全に明らかになった。清濁併せ飲むと言えば聞こえはいいが、そうやって何でも飲み込んでいるうちに、善悪の判断すらできなくなっている自民党から、本来の敵である共産党まですべてをYP(=ヤルタ・ポツダム)体制と規定し、打倒の対象とするのが民族派の本来の立ち位置だったはずだ。日本人から巻き上げたカネを、彼ら的に言えば「いつまでも執拗に謝罪を要求してくる」韓国に貢いでいた統一協会や、表向きは「日本人の子孫に二度と過去の謝罪をさせない」などと息巻いておきながら、裏では選挙のため彼らと抱き合っていた自民党を見て、心ある「民族派」の人たちはおかしいと思わないのだろうか。当然、思うはずだし、思わないようなら彼らに未来はないと思う。

「ある右翼人との対話」を書いた2012年当時、私は自分をこんな苦しみに追いやった原発に対し、「原発と自分は共存できない。原発をこの手で殺さなければ自分が原発に殺される」と強い敵愾心を抱いていた(この点は、暦が一回りした現在も変わっていない)。だが、保守の人たちに対する思いは当時とはかなり変わった気がする。JRのローカル線廃止に反対する活動を通じて、元町長(自民党員)など保守の人たちにも「地元、郷土を守りたい」という強い思いがあることを知ったからだ。

左翼と右翼には、実は共通点がある。「金銭に換算できなくても、時には命を賭けるほど大事なものがある」ということを知っている点だ。たとえば、我々が天皇制と呼んで批判しているもの(保守派は皇室制度と呼ぶ人が多い)であったり、郷土であったり、国旗や国歌であったり。こうしたものが、金銭には置き換えられなくても守るべき価値があると思っている。私のような立場の人間が、人権や憲法や平和主義などを、カネに換算できなくても守るべき価値があると理解しているように。「守る対象が何か」が違うだけで、「カネに換算できないものにも守るべきものがある」と知っている点では、「カネ」しか理解できない腐った新自由主義者より何万倍もマシである。「赤字を垂れ流すだけのローカル線はさっさと廃止しろ」「税金で食っているくせに、ヒモ男と結婚する眞子様は日本から出て行け」などとネットに書き込んでいる連中を見ると吐き気がしてくる。それなら「北方領土返さんかい! オラァ!」のほうがはるかに健全な精神である。

私の言っていることが理解できないという人には、「竹中平蔵と鈴木邦男ならどちらを選ぶか」と言い換えてもいいだろう。私は断然、鈴木さんを選ぶ。竹中みたいな奴と比べること自体が失礼に当たる。

たとえば私が、一院制の100議席の国会を持つ国で、中道左派政党の党首として率いている党が、100議席のうち40議席を獲得して第1党になったと仮定する。第1党にはなったが、過半数には10議席届かず、このままでは少数与党として政権を樹立しても早晩、行き詰まりは必至。ここで他の政党に目を向けると、新自由主義政党と右翼政党が20議席ずつ獲得していて、このどちらかと連立政権を組めば過半数を維持でき、安定政権となる。中道左派の自分から見て、どちらも与しがたい相手だが、政権安定のためにはこのどちらかと組まなければならない。さて、どちらと組むかーー。

このような状況になったら、私はたぶん右翼政党と組むと思う。「カネに換算できなくても守るべきものがある」という価値観を、右翼とは共有できるが新自由主義者とは共有できないからである。ただし右翼政党には、法務大臣(人権問題を担当)、文部科学大臣(学校教育を担当)、環境大臣(原発政策を担当)などのポストは与えないだろうけれど。

そういう意味では、鈴木邦男さんと、ほんの一瞬、わずか数分間だけの対話に過ぎなかったが、そこから得たものは大きかったのではないかという気がする。保守の人の中にも、郷土や歴史、地元経済を守りたいと考える人たちがいる。それを知ることができ、自分の考え方に昔と比べて「幅」が生まれたことは、今につながっていると思う。改めて、そのことを教えてくれた鈴木さんに哀悼の意を表する。

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【転載記事】日本は未来だった、しかし今では過去にとらわれている BBC東京特派員が振り返る

2023-01-25 23:11:38 | その他社会・時事
外国特派員として、10年間という異例の長期間日本で過ごし、このほど離日したBBC記者による日本への「惜別の辞」が話題になっている。日本人の自画自賛的「ニッポンスゴイ」より何倍も参考になるので、全文掲載する。

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日本は未来だった、しかし今では過去にとらわれている BBC東京特派員が振り返る(BBC)

ルーパート・ウィングフィールド=ヘイズ、BBC東京特派員

日本では、家は車に似ている。

新しく入居した途端に、マイホームの価値は購入時の値段から目減りする。40年ローンを払い終わった時点で、資産価値はほぼゼロに等しい。

BBCの東京特派員として初めて着任した時、このことを知って私は途方に暮れた。あれから10年たち、離任の準備をする中でも、この現象は同じだった。

この国の経済は世界第3位の規模だ。平和で、豊かで、平均寿命は世界最長。殺人事件の発生率は世界最低。政治的対立は少なく、パスポートは強力で、新幹線という世界最高の素晴らしい高速鉄道網を持っている。

アメリカとヨーロッパはかつて、強力な日本経済の台頭を恐れていた。現在、中国の経済力の成長を恐れているように。しかし、世界が予想した日本は結局のところ、出現しなかった。1980年代後半に、日本国民はアメリカ国民よりも裕福だった。しかし今では、その収入はイギリス国民より少ない。

日本はもう何十年も、経済の低迷に苦しんできた。変化に対する根強い抵抗と、過去へのかたくなな執着が、経済の前進を阻んできた。そして今や、人口の少子高齢化が進んでいる。

日本は、行き詰まっている。

■かつて未来がここにあった

私が初めて日本に来たのは1993年。当時とりわけ驚いたのは、ネオンがきらびやかな銀座や新宿の街並みではなく、原宿に集まる少女たちのワイルドな「ガングロ」ファッションでもなかった。

自分が行ったことのあるアジアのどこよりも日本ははるかに裕福だと、当時の私は感じて、そのことに驚いた。アジアの他のどの都市よりも、いかに東京が見事なほど清潔できちんとしているか、そのことにも驚いた。

対照的に、香港はうるさくて臭くて、こちらの五感に襲いかかってくる街だった。ヴィクトリア・ピークの高級住宅街と、「魔窟」のような九龍北端の工場街の落差をはじめとして、極端から極端に振れる落差の街だった。私が中国語を勉強していた台北は当時、道路にあふれる2ストローク自動二輪車の騒音がたえまなく響き、鼻をつく排気ガスの臭いと煙で、数十メートル先はもうほとんど見えないというありさまだった。

当時の香港と台北がアジアのやかましい10代の若者だったとするなら、日本はアジアの大人だった。確かに東京はコンクリート・ジャングルだったが、美しく手入れの行き届いたコンクリート・ジャングルだった。

東京の皇居の前には、三菱、三井といった日本の巨大企業のガラス張り社屋がそびえていた。ニューヨークからシドニーに至るまで、野心的な親は子供たちに「日本語を勉強して」と力説していた。自分が中国語を選んだのは間違いだったのか、私もそう思ったことがある。

日本は第2次世界大戦の破壊から復興を遂げ、世界の製造業を席巻した。その利益は国内に還流し、不動産市場を急成長させ、日本の人たちは手当たり次第に土地を買った。森林さえ買った。1980年代半ばにもなると、皇居内の土地の値段が、カリフォルニア州全体の土地の値段と同じだとさえ、冗談めかして言われた。日本で「バブル時代」と呼ばれる時期のことだ。

バブルは1991年にはじけた。東京の市場では株価と不動産価格が暴落し、いまだに回復していない。

最近のことだが、日本の山林を数ヘクタール購入しようとしている友人がいた。所有者の売値は平米あたり20ドル。「今の山林時価は平米あたり2ドルですよと伝えた」のだと友人は言う。

「でも所有者は、1平米あたり20ドル払ってもらわないと困ると言うんだ。1970年代に自分が買った時の地価が、そうだったから」

日本のスマートな新幹線や、トヨタ自動車の驚異的な「ジャストインタイム」生産方式を思えば、この国が効率性のお手本のような場所だと思ったとしても仕方がない。しかし、実態は違う。

むしろ、この国の官僚主義は時に恐ろしいほどだし、巨額の公金があやしい活動に注ぎ込まれている。

私は昨年、日本アルプスのふもとにある小さい町で使われる、見事なマンホール蓋(ふた)の裏話に巡り合った。町の近くの湖で1924年に、氷河時代のナウマンゾウの化石が発見されて以来、ゾウはこの町のシンボルになった。そして数年前に、この有名なゾウの姿をあしらったマンホール蓋を、町のすべてのマンホールに使おうと、誰かが決めた。

同じようなことは日本各地で行われている。「日本マンホール蓋学会」によると、全国のマンホール蓋のデザインは、6000種類に及ぶ。マンホール蓋が大好きだという人が大勢いるのは理解できる。芸術品だと思う。けれども、1枚につき最大900ドル(約12万円)するのだ。

日本がどうして世界最大の公的債務国になったか、理解するヒントになる。そして、高齢化の進む人口は膨れ上がる巨額債務の軽減につながらないし、医療費や年金の圧迫で高齢者は仕事をやめることができないのだ。

私が日本で自動車運転免許を更新したとき、とことん丁寧なスタッフは私を視力検査から写真撮影ブース、料金支払いまで案内してくれて、さらには「第28講習室」へ行くよう指示した。この「安全」講習は、過去5年間で何かしらの交通違反をした全員に義務付けられている。

部屋に入ると、同じように罰を受けるのを待つ人たち、心もとなさそうに座っていた。パリッとした身なりの男性が入ってきて、「講習」は10分後に始まると説明した。しかも、2時間かかると! 

講習の内容を理解する必要さえない。私は内容のほとんどがわからなかったし、2時間目に入ると受講者の何人かは居眠りを始めた。私の隣の男性は、東京タワーのスケッチを完成させた。かなり上手だった。私は退屈で、不満だらけになった。壁の時計が、こちらをあざ笑っているようだった。

「あれはいったい何が目的なの?  あれは、罰なんだよね?」 

オフィスに戻り、日本人の同僚にこう尋ねると、「そうじゃないよ」と彼女は笑った。

「あれは、定年退職した交通警官の働き口を作るためなの」

しかし、この国に長く住めば住むほど、いらいらする部分にも慣れて、愛着さえわくようになる。ちょっと妙だなと思うことさえ、ありがたく思うようになる。たとえば、ガソリンスタンドに行けば、給油している間に従業員4人が車の窓を片端から拭いてくれて、出発する際には全員がそろってお辞儀してくれるのだ。

日本では今でも日本であって、アメリカの複製ではない。そういう感じがする。だからこそ世界は、パウダースノーからファッションまで、日本のいろいろなものが大好きなのだ。東京には素晴らしいことこの上ないレストランがたくさんあるし、(ディズニーには申し訳ないが)スタジオ・ジブリは世界で一番魅力的なアニメを作る。確かにJ-Popはひどいが、それでも日本はまぎれもなく、ソフトパワーの超大国だ。

ギークや変わり者は、日本の素晴らしく妙な部分を愛している。しかし同時に、移民受け入れを拒否し家父長制を維持していることをたたえる、オルタナ右翼もいる。

日本は、古い社会のあり方を手放すことなく、現代社会への変貌を成功させた国だと、よく言われる。これはある程度、本当だ。しかし私は、日本の現代性は表面的なものに過ぎないと思う。

新型コロナウイルスのパンデミックが起きると、国境を封鎖した。定住外国人でさえ、帰国が認められなかった。何十年も日本で暮らし、ここに自宅や事業がある外国人を、なぜ観光客のように扱うのか、私は外務省に質問してみた。返ってきたのは、「全員外国人だから」という身も蓋もない答えだった。

無理やり開国させられてから150年。日本はいまだに、外の世界に対して疑心暗鬼で、恐れてさえいる。

■外部という要因

房総半島の村で会議場に座っていたことがある。消滅の危険があるとされる約900の日本の集落のひとつだったからだ。議場に集まった高齢の男性たちは、現状を心配していた。1970年代以降、若者が仕事を求めて次々と村を離れ、都会へ行くのを、ここのお年寄りたちは見ていた。残る住民60人のうち、10代はたった1人。子供はいなかった。

「自分たちがいなくなったら、だれが墓の世話をするんだ」。高齢男性の1人はこう嘆いた。日本では、死者の霊を慰めるのは大事な仕事なのだ。

しかし、イングランド南東部で生まれた自分にとって、この村が死に絶えるなど、まったくあり得ないばかげたことに思えた。絵葉書にしたいようなたんぼや、豊かな森林におおわれた丘に囲まれた、美しい場所だ。しかも東京は車で2時間弱という近さなのに。

「ここはこんなに美しいのだから」と、私はお年寄りたちに言った。「ここに住みたいという人は大勢いるはずです。たとえば、私が家族を連れてここに住んだら、どう思いますか」。

会議場はしんと静まり返った。お年寄りたちは黙ったまま、ばつが悪そうに、お互いに目をやった。やがて1人が咳ばらいをしてから、不安そうな表情で口を開いた。

「それには、私たちの暮らし方を学んでもらわないと。簡単なことじゃない」

この村は消滅へと向かっていた。それでも、「よそもの」に侵入されるかと思うと、なぜかその方がこの人たちには受け入れがたいのだった。

今では日本人の3割が60歳を超えている。そのため日本は、小国モナコに次いで、世界で最も高齢化の進む国だ。生まれる子供の数は減り続けている。2050年までに人口は現状から2割は減っているかもしれない。

それでもなお、移民受け入れへの強い拒否感は揺らいでいない。日本の人口のうち、外国で生まれた人はわずか約3%だ。イギリスの場合は15%だ。ヨーロッパやアメリカの右翼運動は、日本こそが純血主義と社会的調和の輝かしいお手本だとたたえる。

しかし、そうした称賛をよそに、日本は実はそれほど人種的に一様ではない。北海道にはアイヌがいて、南には沖縄の人たちがいる。朝鮮半島にルーツを持つ人たちは約50万人。中国系は100万人近くいる。そして、両親の片方が外国人だという日本の子供たちもいる。私の子供3人もここに含まれる。

2つの文化にルーツを持つこうした子供は「ハーフ」、つまり「半分」と呼ばれる。侮辱的な表現だが、この国では普通に使われる。有名人や有名スポーツ選手にもいる。たとえば、テニス界のスター、大坂なおみ選手もその1人だ。大衆文化では、「ハーフはきれいで才能がある」とちやほやされることもあるが、ちやほやされるのと、受け入れられるのは、まったく別のことだ。

出生率が低下しているのに移民受け入れを拒否する国がどうなるか知りたいなら、まずは日本を見てみるといい。

実質賃金はもう30年間、上がっていない。韓国や台湾の人たちの収入はすでに日本に追いつき、追い越している。

それでも、日本は変わりそうにない。原因の一部は、権力のレバーを誰が握るのか決める、硬直化した仕組みにある。

■年寄りがまだ権力を握っている

「いいですか、日本の仕組みについて、この点を理解する必要がある」。とある高名な学者が、私にこう言った。

「武士は1868年に刀を手放し、髷(まげ)を落とし、西洋の服を着て、霞ケ関の役所にぞろぞろと入っていった。そして、今でもそこに居座っている」

1868年の日本では、欧米列強によって中国と同じ目に遭うのを恐れた改革派が、徳川幕府を倒した。それ以降、日本は急速な工業化へと邁進(まいしん)することになった。

しかし、この明治維新は、フランス革命におけるバスティーユ陥落とは全く異なる。明治維新は、エリート層によるクーデターだった。1945年に2度目の大転換が訪れても、日本の「名家」はそのまま残った。圧倒的に男性中心のこの国の支配層は、日本は特別だという確信とナショナリズムに彩られている。第2次世界大戦において、日本は加害者ではなく被害者だったのだと、この支配層は信じている。

たとえば、殺害された安倍晋三元首相は元外相の息子で、岸信介元首相の孫だった。岸氏は戦時下に閣僚を務め、戦犯容疑者としてアメリカに逮捕された。それでも絞首刑は免れ、1950年代半ばに自由民主党の結党に参加した。この自由民主党がそれ以来、日本を支配し続けている。

日本は単独政党国家だろうと、冗談で言う人もいる。それは違う。しかし、特権的なエリートが支配する政党、アメリカに押し付けられた平和主義を廃止したいと切望する政党、それなのにもう30年も生活水準を向上させられずにいる政党に、なぜ日本の有権者は繰り返し投票し続けるのか、そこを不思議に思うのは、当然のことだ。

最近の選挙の最中、私は都心から車で西に約2時間離れた、山間の狭い渓谷を車で登った。自民党の地盤だ。そこの地元経済はセメント作りと水力発電に依存している。小さい町の投票所に歩いていくお年寄りの夫妻に、私は話を聞いた。

「自民党に投票する」と男性は言った。「信用しているので。私たちの面倒をしっかり見てくれる」。

「私も主人と同じです」と、男性の妻は言った。

この夫妻は、最近完成したばかりのトンネルと橋を挙げた。これがあれば週末に、都心からの観光客が増えるかもしれないと期待していると。

自民党の支持基盤はコンクリートでできているとよく言われる。利益誘導型のこの政治が原因のひとつとなって、日本の海岸がテトラポッドだらけで、河岸は灰色のコンクリートでがっちり固められている。コンクリートを作り続けるのが不可欠だからだ。

人口構成の影響で、都市部を離れたこうした地域の支持基盤が、今や自民党にとって何より重要だ。何百万人もの若者が就職のために都市部に移動したのだから、それ以外の地域の政治的影響力は減少したはずなのに、そうはならなかった。自民党にとってはその方が好都合だ。高齢者の多い非都市部の票が、重みをもつので。

しかし、高齢者が亡くなり世代交代が進めば、変化は避けがたい。だからといって、日本が今よりリベラルに開放的になるかというと、私は必ずしも確信できずにいる。

日本の若い世代は上の世代よりも、結婚したり子供を持つ可能性が少ない。同時に若い世代の間では、両親や祖父母の世代に比べて、外国語が話せたり、海外留学したりする割合は減っている。日本の経営者に占める女性の割合はわずか13%で、女性の国会議員は10%に満たない。

女性初の東京都知事となった小池百合子氏を取材したとき、男女格差対策をどうするつもりか質問した。

「うちにはもうすぐ大学を卒業する娘が2人います」と私は小池氏に話した。「2人はバイリンガルな日本国民です。君たちはこの国に残ってキャリアを築くべきだと2人を応援するため、何が言えますか」と尋ねた。

「私が成功できるならあなたたちもできますよと、そう言うでしょうね」と、小池氏は答えた。それだけですか? と私は思った。

しかし、こうした諸々のことがあっても、それでもなお、私は日本を懐かしく思うだろう。日本にとてつもない愛着を抱いている。同時に、日本はたまにではなく、しばしば私を辟易(へきえき)とさせる国だ。

東京出発を目前に控え、私は年末に友人たちと都内の商店街を訪れた。ひとつの店で私は、古くて美しい大工道具の入った箱を物色した。そのすぐそばでは、華やかな絹の着物姿の女性たちが立ち話をしていた。昼には、ぎゅうぎゅうづめの小さい食堂になんとかみんなで収まって、焼きサバと刺身とみそ汁の定食に舌鼓を打った。おいしい料理、居心地の良い店、何かと世話を焼いてくれる親切な老夫婦……。すっかりおなじみの、慣れ親しんだものばかりだ。

この国で10年過ごして、私は日本のあり方に慣れたし、日本がそうそう変わらないだろうという事実も受け入れるようになった。

確かに、私は日本の未来を心配している。そして日本の未来は、私たち全員にとって教訓となるだろう。人工知能(AI)の時代には、労働者の数が減っても技術革新は推進できる。高齢化の進む日本の農家も、AIロボットが代役を務めるようになるかもしれない。国土の大部分が自然に帰ることだってあり得る。

日本は次第に、存在感のない存在へと色あせていくのだろうか。それとも日本は自分を作り直すのか。新たに繁栄するには、日本は変化を受け入れなくてはならない。私の頭はそう言っている。しかし、日本をこれほど特別な場所にしているものをこの国が失うのかと思うと、心は痛む。

(英語記事 Japan was the future but it's stuck in the past)

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2022年 安全問題研究会10大ニュース

2022-12-29 14:04:02 | その他社会・時事
さて、2022年も残すところあとわずかとなった。例年通り今年も「安全問題研究会 2022年10大ニュース」を発表する。

選考基準は、2022年中に起きた出来事であること。当ブログで取り上げていないニュースも含むが、「原稿アーカイブ」「書評・本の紹介」「日記」「福島原発事故に伴う放射能測定値」「運営方針・お知らせ」カテゴリからは原則として選定しないものとする。

こうしてみると、改めて今年がただならぬ世情騒然の1年だったことがわかる。2022年は歴史的転換点として、人々の記憶に長くとどめられる年になることは間違いない。そして、これらの課題のほとんどは解決しないまま、2023年に持ち越される。

1位 ロシアがウクライナに侵攻、ウクライナとの間で一進一退の攻防続く<社会・時事>

2位 安倍晋三元首相、参院選演説中の奈良県内で銃撃、死亡<社会・時事>

3位 東電株主代表訴訟で、東電旧経営陣4人に13兆3210億円の弁償命令。日本の民事裁判賠償額としては史上最高額<原発問題/一般>

4位 セシリア・ヒメネス・ダマリー国連特別報告者による原発事故避難者問題に関する訪日調査が実現。暫定ステートメントが発表<原発問題/一般>

5位 乗客乗員26人を乗せた知床遊覧船が沈没。現在までに20人の死亡確認。運輸安全委が事故調査報告書公表<鉄道・公共交通/安全問題>

6位 北海道原発泊原発運転差し止め訴訟で、札幌地裁が差し止め認める<原発問題/一般>

7位 岸田政権、福島事故以降の「原発依存低減」政策を全面転換、「最大限活用」へ逆戻り<原発問題/一般>

8位 子ども甲状腺がん裁判始まる。原発事故当時6~16歳の6人(その後、追加提訴1人)が東京電力の賠償求め提訴<原発問題/一般>

9位 国交省「鉄道事業者と地域の協働による地域モビリティの刷新に関する検討会」がローカル線の地元協議求める「提言」。日本共産党はローカル線維持のための「提案」公表<鉄道・公共交通/交通政策>

10位 原発賠償訴訟で最高裁、東電の責任を認めるも、国の責任を否定する不当判決<原発問題/一般>
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【番外編】
・JAL争議で大きな動き。被解雇者のうち「納得いく解決」を求める人々がJAL被解雇者労働組合を結成<鉄道・公共交通/交通政策>
・JAL123便墜落事故をめぐって、ボイスレコーダー等の全面開示を求めた訴訟で、請求棄却の不当判決<鉄道・公共交通/安全問題>

【当研究会関連】
・9月、安全問題研究会が「根室本線の存続と災害復旧を求める会」と合同で北海道十勝総合振興局宛に要請行動を実施<鉄道・公共交通/交通政策>

この10大ニュースでは、例年は、概ね「鉄道」系カテゴリーから3つ、「原発問題」系カテゴリーから3つ、その他から4つを選ぶのを恒例としているが、今年はウクライナ戦争・安倍元首相殺害事件という2トップがいずれも動かしがたく、また原発問題系カテゴリーから6ニュースが選出となった。

原発問題系ニュースはいくら何でも多すぎるし、偏りすぎているのではないかと自分自身も思っている。だがこれらのニュースは、いずれも今年でなければ1位にしていたニュースばかり。20大ニュースに拡大した上で、原発問題系ニュースだけ別枠にしようかと、秋頃までは割と真剣に考えていたほどである。10年後、振り返ったとき「日本の原子力政策にとっても2022年が転機の年だった」と振り返られることになると思う。

なお、10大ニュースはこの企画を始めた2009年以降、すべて「日記」カテゴリーで発表してきたが、もともとは管理人の個人的備忘録を扱うために設置した「日記」カテゴリーでこうした社会的な内容を扱うことへの違和感は年々強まっていた。しかも、10大ニュースは「原稿アーカイブ」「書評・本の紹介」「日記」「福島原発事故に伴う放射能測定値」「運営方針・お知らせ」カテゴリからは原則として選定しないとルール化しておきながら、その10大ニュース自体を、選出対象とならない「日記」カテゴリーで扱うのも矛盾している。

このため、今年から10大ニュースの発表は「社会・時事」カテゴリーに切り替えることにした。過去の10大ニュースもすべて「日記」から「社会・時事」カテゴリーに移動したのでお知らせする。

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2023年に向けて~民主主義は生き残れるのか?

2022-12-20 23:31:17 | その他社会・時事
(この記事は、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2023年1月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 2022年も残りわずかとなった。年の瀬に配達され、年末年始を通じてじっくり読み込まれることが多い新年号では、私はこの先10年の展望や人類の思想的潮流など、割と大きめのテーマを扱うことが多い。特に今年はウクライナ戦争や安倍元首相殺害事件など内外ともに世情騒然とした年だったからなおさらその思いは強い。本誌読者の中にも、これからどうしていいかわからず、立ちすくんでいる人もいるのではないだろうか。

 私たちは、今はまだ激動する歴史の渦中に身を置いており、これらの出来事に現時点で評価を下すことは難しい。このような時代に大切なことは、個別の事件や出来事の評価は後世の歴史家に委ねざるを得ないとしても、そこで肯定的な評価を受けられるように、今、自分に課せられた役割をきちんと果たすことに尽きる。

 ところで、2022年以前から、私の中で徐々に膨らんできた「ある疑問」がある。民主主義はこの先の時代も果たして生き延びられるのかというものだ。中国やロシアなど、従来のいわゆる「西側社会的常識」の範囲外にある国が、民主主義国家よりはるかに迅速な意思決定の下に、効率的に国家・経済建設を進めているように見えるからだ。ウクライナ戦争や安倍元首相殺害事件は、この疑問を後押しするものではあっても、解決の糸口を提供するような性質のものではない。

 ●何が本当の民主主義かわからなくなった

 敗戦でGHQ民政局に陣取ったニューディール派から世界で最も民主主義的憲法を「プレゼント」された日本の市民は、すでに人の一生に匹敵する80年近い年月をこの憲法とともに暮らしてきた。西側陣営の一員に属し、市民的自由や複数政党制に基づく民主主義は疑いを挟む余地のない、自明な、所与の条件であり、独裁国家や専制体制に対する優位性の根拠になってきた。ソ連崩壊で官僚主義的社会主義体制が崩壊し、自由民主主義体制が普遍性を持つ唯一の政治体制と捉えられるようになってから、その傾向にはますます拍車がかかった。

 民主主義が本当に機能しているのかという私の問題意識は、2016年大統領選で米国にトランプ政権が成立してからかなり明確になったが、今年6月にNHKで放送された「マイケル・サンデルの白熱教室~中国って民主主義国?」を見てから決定的になった。米ハーバード大学、中国・復旦大学、そして日本からは東京大学、慶應義塾大学の学生が出演して民主主義について議論するというものだ。最近、物価高など生活に密着した課題はテーマになっても、こうした大きなテーマが論じられることがまったくといっていいほどない日本で、多くの知的刺激を与えられた。

 番組の詳細を紹介する余裕はないが、市民的自由や複数政党制に基づく民主主義に信頼を置いているのが米国の学生であり、対照的に「中国には中国の民主がある」とそれらに否定的なのが中国の学生。日本の学生はその中間だが、真ん中より若干中国寄りというのが、番組を見た私の印象だった。

 司会進行を務めるマイケル・サンデルはハーバード大教授で、2009年に出版した「これからの「正義」の話をしよう」は100万部の売り上げを記録。日本でも注目されるようになった。2021年に出版した「実力も運のうち」では、有名進学校から有名大学に進めたのが自分の努力のように見えても、それには裕福で有名進学校に子どもを通わせられる家にたまたま生まれたという要素が大きく、エリートが自分自身の努力の結果と思っていることのほとんどが「運」によるものであるとして、先進国の社会にまん延するいわゆる能力主義(メリトクラシー)に真っ向から疑問を投げかけ、再び話題を呼んだ。

 「白熱教室」で、サンデル自身は自分の意見を押しつけることはなく学生の意見を尊重する。その意見が極端なものであっても、主張に一貫性があれば問題としない代わり、議論の過程で学生の意見が変わり、または主張が一貫しないときは「君は先ほど○○と言っていたはずだが?」と確認を求める。自分の教え子かもしれないハーバード大学生を特別扱いもせず、公正な司会進行に努める姿が印象的だった。

 米国の学生は、共産党が国家社会の全領域を指導し、包摂する政治体制について「共産党が間違いを犯した場合、誰がチェックするのか」との疑問を投げかけた。サンデルが別の話題に切り替えたため、中国人学生は直接この質問には答えなかった。だが、全体の利益に配慮した善政を「王道政治」、権力者が私利私欲を満たそうとする悪政を「覇道政治」として区別する考え方が中国では歴史的に根強い。仮に聞かれたとしても、中国人学生は共産党をチェックできる外部勢力の有無には触れず「どのような政治が“民主”かは、人民は見ればわかるものです」と答えたに違いない。

 中国の政治体制について「自由選挙でも複数政党制でもなく、言論の自由も完全に保証されていないのに、それは民主主義と呼べるのか」との疑問が出されたのに対し、中国人学生がそれを「中国式“民主”」として堂々と肯定する姿に私は違和感を覚えた。もしこれでも“民主”に含まれるなら、そもそも“民主”でない政治体制にはどんなものがあるのかという疑問を持ったからである。おそらく、中国でいう“民主”は王道政治のことではないかというのが私の推測である。

 「中国の政治体制を民主主義と認めるか」というサンデルの問いに対し、米国人学生は6人全員が認めないと回答したのに対し、中国人学生6人全員が認めると回答したのは対照的だが予想通りだった。私が衝撃を受けたのは、日本の学生6人のうち4人までが「認める」と回答したことである。

 ここからは私の推測になるが、日本では自民党は保守合同によって1955年に結党してから、ほとんどの期間与党の地位にあった。自民1党支配はそろそろ人の一生に近い70年になろうとしており、自民党政権成立以前の日本を知る日本人はいなくなりつつある。その上、過去2度起きた非自民政権への交代がたいした成果も上げられなかったとなれば、ほとんどの日本人は1党支配を疑う余地のない所与の前提と思うだろう。中国で、共産党とその公認を受けた8つの「民主党派」以外には立候補の自由がないのに対し、日本は誰がどんな政党・結社を作っても自由に立候補できるなど本質的な違いはある。だが少なくとも「誰がどれだけの期間、政権を担当しているか」という外形的な部分だけを見れば、長期1党支配として日本も中国も大きな違いはなくなっている。日本人学生が、自国の政治体制を民主主義に含めるなら、中国の“民主”も民主主義に含めなければ平仄がとれないと考えたとしても、それを責めるのは酷というものだろう。

 ●選挙は機能しているか

 サンデルが別の話題に移ったため、米国人学生から投げかけられた疑問に答えるチャンスを逃した中国人学生に代わり、私が西側的「民主主義」より中国型“民主”のほうが優れていると思われる点も挙げておくことにしよう。

 近年、日本の選挙では再び投票率低下が激しくなっており、大都市部では20~30%台という極端な例も見られる。先日行われた東京都品川区長選挙は、6人が乱立した末、公職選挙法が定める法定得票(有効票数の4分の1)を得た候補者がなく再選挙となった。再選挙では当選者が決まったが、投票率は10月の1回目投票が35.22%、再選挙も32.44%という惨憺たるものだった。

 仮に、投票率が32.44%で当選者の得票率が4分の1すれすれだった場合、全有権者の8%の支持しか得られなかったことになる。このような状態で当選した人に公職者としての政治的正統性があるかどうかは検証されるべきだろう。

 当選した人が圧倒的な得票率だったとしても問題の本質は同じである。投票率を「現行選挙制度に対する支持率」だと見るならば、支持率が30%代前半で「危険水域」といわれている岸田政権と大して変わらない。日本の現行選挙制度も岸田政権同様の危険水域にある。

 これに対し、中国では政治体制こそ一党独裁だが、各級選挙は、党が選んだ官選候補に対する信任投票として行われる。信任か不信任かの二者択一しかなく、不信任が上回った場合には、候補者を差し替えるなどの方法で選挙がやり直される。いずれにしても、信任された場合、その信任票は必ず投票総数の半数を超えることになる。「誰でも立候補できる選挙制度の下で、全有権者数の8%の支持しかないのに当選した者と、誰でも立候補できるわけではないものの、必ず投票者の過半数からの信任を得なければ当選できない制度の下で信任を得た者とでは、あなたならどちらを正当な政治的交渉相手として認めますか」と聞かれた場合、それでも前者だと答えられるだけの勇気は私にはない。

 本誌読者の皆さんは、この問いを投げかけられた場合、あなたならどう答えるか頭の体操をしてほしい。このように考えれば、東西冷戦崩壊後、私たちが疑いを挟む余地のない、自明な、所与の条件であり、独裁国家や専制体制に対する優位性の根拠だと考えてきた民主主義が実際にはたいしたものではないことが見えてくるだろう。

 中国の習近平国家主席は、一般市民は参加できない中国共産党員のみの選挙で総書記に選ばれているに過ぎないが、それをいうなら日本の首相も自民党員だけの選挙で党総裁になり、国会議員だけの選挙で首相に選ばれているに過ぎない。習近平国家主席や、プーチン・ロシア大統領が民主主義陣営に「果敢に挑戦」し、一定の成果を上げている背景には、隙だらけの民主主義の本質を見通しているからである。民主主義が専制政治より優位に立っていたこれまでの世界が今後も続くかどうかは、私はかなり危うくなっていると思う。単なる代表選出の方法論では回収できない言論の自由や多様性など「こちらにあって、あちらにないもの」を守り、強化させる努力なくして西側世界が今後、今の地位にとどまれないことは、この間の経過を見れば明らかだ。

 ●哲学を持たない日本人

 「失われた30年」については本誌前号で述べたので、今号では繰り返さない。長く続く日本の漂流の原因について、日本と日本人の「哲学不在」を指摘する声は多い。日本は何を目標とするどんな国であるべきか。国際社会での立ち位置をどこに定めるか。そんな本質的なことを日本人が議論している姿は、もう何十年の単位で見ていない気がする。

 そもそも、子どもたちの教科書に、太字で名前が書かれている日本人はほとんどが政治家や文化人だ。これに経済人が加わる程度で、哲学者、思想家はほとんどいない。枚挙にいとまがないほど多くの哲学者、思想家を輩出してきたギリシャ、ドイツ、フランス、中国などの国々とは違う。

 ドイツでは、メルケル前政権の下で2022年末までの脱原発を決めた。福島原発事故後のエネルギー政策について諮問するため、メルケル首相みずから設置した「脱原発倫理委員会」による答申を受けてのものだ。この倫理委員会で筆頭委員を務めたのが、ミュンヘン大学社会学部教授(リスク社会学)のウルリヒ・ベックであった。ベックはチェルノブイリ原発事故直後の1988年に「危険社会~新しい近代への道」を著している。同書は10年後の1998年になってようやく日本語版が出された。私は福島原発事故後に同書を手にしたが、科学と社会との関係、原発のような巨大な科学技術が社会にもたらす正負の影響、科学者という専門家集団を通じた「サブ政治(政治の中の政治)」がもたらす民主主義無力化など多くの点が論じられている。

 日本では他の学問分野に属さない種々雑多な領域を扱うものとして捉えられ、社会学と社会学者の地位は高くない。何を対象とする学問なのかわからないと言われるのはまだいいほうで、オタク、サブカルチャーや文化芸能などについて論じるのが本業だと思っている人さえいる。実際、私が学生時代には自嘲気味に「社会学者ってのは失業対策のためにいるようなもんですよ」などと発言する教授もいた。

 これに対し、ドイツでは社会学者の地位は高く「職業としての政治」「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」などの著作で知られるマックス・ウェーバーも社会学者であった。哲学者、思想家の域に達していなくとも、ウェーバーやベックのような、人間と社会、人間と科学、あるいは人間相互の関係について的確に論じられる社会学が日本に確立し、それを担う社会学者がいれば、30年もの長期にわたって日本が漂流する事態は避けられただろう。

 日本では、哲学不在は有史以来の一大課題だったが、近代に入るまでは宗教者がその穴を埋めてきた。この基本構造は現在も変わらない。原発差し止め訴訟に多くの宗教者が関わるなど、教科書に名前が載るような存在でなくても、多くの無名の宗教者が政治運動に立ち上がっているところに、ひとつの希望を感じる。

 ドイツで本来なら今ごろ実現していたはずの脱原発の期限は、ウクライナ戦争によるエネルギー危機のため先送りされたが、脱原発の方針自体は現在も覆されたわけではない。

 ●「大きな物語」とコミュニティの再建を

 安倍元首相殺害事件とともに、30年ぶりに統一教会が社会を騒がせていることについても、前号で触れたので多くは繰り返さないが、このようなカルト宗教団体をめぐる問題が日本で周期的に起きる背景に、私は日本と日本人の哲学不在が大きいと考えている。失われた30年の間、一貫して続いた新自由主義による共同体、コミュニティの解体によって、多くの日本人が孤独、孤立に追いやられたことも、「心の隙間」にカルトがつけ込みやすくなる土壌を作り出している。

 この問題に特効薬はない。日本人を孤立、孤独から救い出すためには、面倒で長い道のりであっても、共同体やコミュニティを再建する以外に解決策はない。国家、政府と市民ひとりひとりの中間に位置する労働組合、市民団体、文化団体などの再建が急務である。

 同時に、冷戦崩壊後ほとんど語られることのなくなった「○○主義」などの物語も多くの人々を共同体に束ねるためには再建が必要であろう。人間が損得を度外視してでも行動するのは、正義や自由、民主主義など信じる価値観があるときである。

 輝きを失ったソ連型社会主義が人々の希望になるとは思わない。民主主義も昔に比べれば色褪せて見える。これらに代わって私たちの心を捉える価値体系があるのだろうか。自由と多様性、環境保護と持続可能な社会、そして硬直したソ連型の欠点を克服した新しい形での社会主義あたりが、その候補となりうるだろう。いずれにしても、この事態を第2の敗戦と捉え、まったく新しい社会への構想力を持たない限り、日本の復活はあり得ない。2023年をそのためのスタートにしたいと私は今考えている。

(2022年12月18日)

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「死」を通じて見えたこの国の本当の姿 日本はどこへ行くのか?

2022-11-25 19:57:48 | その他社会・時事
(この記事は、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2022年12月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 ●「死」がかつてなく身近に

 本誌が読者諸氏のお手元に届いた時点で、2022年はまだ1ヶ月以上残っており、総括するのはまだ早いと思われる方も多いだろう。だが、半世紀を過ぎた筆者の人生の中で「こんな年、早く終わってしまえばいいのに」とこれほどまでに強く思った年はかつてなかった。自分の精神面ではなく、世情という意味でとにかく苦しい年である。

 こんなことを思っているのは自分だけかもしれないと思い、これまで筆者は、こうした感情を露出するのを本誌はじめ、どの媒体でも避けてきた。だが月刊誌「文藝春秋」2022年10月号で、作家・五木寛之さんがこんなことを述べているのを読んで少し考えが変わった。『小説を書くようになってから55年になりますが、この2022年ほど多難だった年はかつて経験がなく、数百年に一度の天下変動に直面しているような実感があります』。

 1932年生まれで、今年90歳を迎えた五木さんですらかつて経験がないというほどの年なのだ。たかが半世紀ごときの人生経験しかない「若輩者」の筆者が多少弱音を吐いたところで、今年に関する限り、大目に見ていただけるだろうと考えが変わった。読者諸氏からたとえ早すぎるとお叱りを受けたとしても、気が遠くなるほど強烈な多くの出来事が走馬燈のように駆け巡った2022年は、もう総括してしまいたいという思いが強くなってきたのである。

 2022年を思い切り乱暴に、ひとことでまとめるならば、「生」よりも「死」が優位に立った年、「死」を通じて人間の本質が見えた年であったと思う。

 2月、ロシアのウクライナ侵略で幕を開けた戦争は、9ヶ月経ってもまったく収束のめどは立たず、遠く離れた日本では「ウクライナ疲れ」などという軽い言葉で片付けられ始めている。だが現地では、私たち日本人にとっては名前も顔も知らないOne of themであっても、身近な人にとってかけがえのない誰かが今この瞬間も銃弾を受け、倒れ、傷つき、死んでいる。多くの人をウィルスの犠牲にしたコロナ禍もまだ去っていない。そして、安倍元首相襲撃事件である。

 本稿筆者は2016年8月に胃がんによる手術を経験した(本誌2018年9月号参照)が、このときですら「末期よりは初期に近いがんで、医師も摘出可能な部位にしかがんはないと言っているのだから、生還できるだろう」と楽観的だった。それが、病気が悪化しているわけでもない今年のほうが「死」を身近に感じる。他人に恨まれるようなことをした覚えはないし、安倍元首相のような巨大な影響力を持っているわけでもないが、ウクライナ戦争の今後の展開次第では「明日、どこか外を歩いているときに、突然、頭上の空にピカッと閃光が走り、そのまま苦しみすら感じることなく、自分の生きてきた歴史そのものが終わるかもしれない」という思いが頭から離れることがないのだ。

 毎年、10月1日になると年賀はがきの発売が始まる。今年もすでに始まっているが、今年は例年以上に年賀状を書く気が起きない。内容以前に、書いたところでそれが宛先に届くまで人類が生き延びているかどうかの確信が持てない。壮絶な1年だったと思う。

 ●「銃声は世界を変えない」と言われるが

 子どもの頃、学校の授業で「テロや銃弾が歴史を変えることはない」と教えられた。児童生徒にとって模範的存在でなければならない教員としては、理不尽な世界を変えるために闘う必要を認めるとしても、「そこに暴力を介在させてよい」などと教壇の上から子どもたちに向けてはとても言えないであろうし、目の前の児童生徒の中からそのような「最終的解決手段」を用いる者が出てくることは断固、阻止しなければならないであろう。

 だが、それとは別次元の問題として、1発の銃声が世界を変えることは、残念ながら起こりうる。オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子に向け、セルビア人の青年が発射した銃弾は第一次世界大戦を呼び起こした。誰もが取るに足りないと思うような小さく偶発的な暴力行使が世界を暗転させた例は、歴史書を紐解けばいくらでもある。

 死者に鞭打たないことがこの国の「美徳」のように言われているが、凶弾に倒れた人物が、憲政史上最も長く首相の座にあった政治家とあっては嫌でもその評価に触れないわけにいかない。安倍元首相が日本に残したのは「言葉の通じない政治」だった。言葉を無力化することに徹底してこだわった。安倍支持者には成功体験が、反安倍派には諦念がもたらされた。その政治のあり方がひとつの争点として問われる選挙戦の最中に、白昼公然と「凶行」は起きたが、それは安倍元首相自身がもたらした「言葉の通じない政治」の必然的な帰結だった。

 『今回の事件は、山上容疑者の意図とは全く別として、日本政治の行方を大きく変える出来事になる可能性もあります』――五木さんの発言を伝えたのと同じ「文藝春秋」10月号誌上で、宗教学者の島田裕巳さんがそんな不気味な「警告」をしている。可能性としては高くないが、起こりうる展開のひとつではあろう。

 本誌読者に40歳代以下の若い世代がどれほどいるかはわからないが、筆者と同じかそれ以上の年代の方には、30年前も統一協会問題が世間を騒がせた記憶がおそらく残っているだろう。タレント桜田淳子さんや、元新体操日本代表の山崎浩子さんら著名人が次々、統一協会に絡め取られ広告塔となっていった。この山崎浩子さんと華々しく「合同結婚式」で結ばれた人物こそ、宗教法人「世界平和統一家庭連合」(旧統一協会)の勅使河原秀行・改革推進本部長である。30年前もメディアに頻繁に登場しては「テッシー」と呼ばれ、言動が物議を醸した(山崎さんとはその後離婚、山崎さんは統一協会を脱会している)。

 合同結婚式が世間を騒がせたのは1992年だったが、その翌年の1993年に行われた総選挙で、自民党は過半数割れを起こし、結党以来初めて下野する。非自民8党が連立し細川護煕政権が成立したのだ。このときの総選挙は、直前に宮沢喜一内閣不信任決議案が衆院で可決されたことによるもので、自民党から「造反」して賛成票を投じた小沢一郎らが離党、新生党や新党さきがけを作った。解散前の衆院で140議席以上を持っていた日本社会党は70議席あまりに半減し惨敗した一方、自民党は20議席程度しか減らさず踏みとどまった。にもかかわらず、このわずかな自民党の議席の減少が過半数ラインをめぐっての攻防だったために、選挙に負けなかった自民党が下野する一方、議席半減の大敗をしたはずの社会党が政権入りする。今振り返れば憲政の常道に反する政権交代劇だった。

 選挙制度は今と違って中選挙区制だったが、当時の宮沢政権が岸田政権と同じ宏池会であること、統一協会問題で世情騒然としていたこと、バブル崩壊直後で極度の経済不振だったこと、ソ連崩壊直後でロシア発の混乱が世界を覆っていたことなど、不思議と今に通じる共通点が多い。

 1993年は、内閣不信任案可決によって不意に訪れた総選挙だったが、今、歴史を振り返れば、自民党の選挙運動を陰で支えていた統一協会が、現在と同様、強い批判にさらされ、表だって選挙運動ができなかった結果の「政権交代」だったのではないかという気がする。社会党が大敗するなど、当時も野党への期待は全くといっていいほどなかったからだ。

 ここから何かの教訓的なものが読み取れるとすれば、野党への期待が高まらなくても、与党への怒りがそれを超えれば政権交代は起きうることだが、一方で当時と今で180度異なる点もある。ソ連崩壊で核戦争の危機が去り、自由と民主主義が世界の大半を占めるようになるとの期待があった当時と比べ、今は核戦争の危険が目前に迫り、世界的に民主主義よりも専制的政治体制が優位になりつつあることだ。明らかに状況は当時より今のほうが悪く、局面打開は容易ではない。

 ●日本衰退局面の中で

 当時より今のほうがはるかに日本の「基礎体力」が落ちてしまっていることも局面打開を困難にさせている要因のひとつだ。それは政治、経済、社会あらゆる領域に及ぶが、特に深刻なのは経済だろう。今や日本の賃金は韓国を下回り、タイやフィリピン、インドネシアなど、かつて日本がNIES(新興工業国)と呼んでワンランク下に見ていた国とほとんど変わらなくなった。「安いニッポン」で買い物をしようと、欧米人はもとより、これら東南アジア諸国の人まで大挙して来日するようになった。

 未曾有の少子高齢化により、日本社会全体も老化しつつある。かつてならあり得なかったクレーン倒壊、工場爆発などの事故を聞くことが増えた。福島第1原発事故は技術管理能力が落ちていくニッポンの象徴だった。子どもたちが昨日までできなかったことが今日はできるようになることで成長を感じ、高齢者は逆に昨日までできていたことが今日はできなくなることを通じて老いを感じる。日本社会全体で、昨日までできていたことが今日はできなくなっている例が増えたと感じる。それは日本社会全体の老いを示すものであり、日本社会全体に死期が迫っている感覚がある。

 こうしたことを、一部の勇気ある人々だけは認めても、過去の栄光を知っている大半の日本の市民は最近まで認めようとはしなかった。だがコロナ禍と東京五輪の無残な姿は、嫌でもその現実を日本の市民に見せつけることになった。五輪前までは、外国人を利用して「ニッポン、スゴイデスネ」と言わせる番組があふれていたのがうそのように、今は日本を「○○後進国」と呼ぶ論調ばかりになった。もともと人権、ジェンダーなどの分野は世界最低レベルの後進国だったが、IT後進国、環境対策後進国など何にでも「後進国」とつけておけば最低レベルの評論は成り立つという言論状況になってきている。差別やヘイトスピーチなどの問題を生まないだけ、空虚で無根拠な「ニッポン凄い」運動よりはマシだと思うが。

 東京五輪以降、市民の中にも「後進国願望」が芽生えているようにすら感じられる。基礎体力も落ちた日本が、誇りある先進国としての矜持など持てないし、そのような言動を私たちに期待しないでほしい。途上国の未開市民と同じように、自分の利益だけを考え楽にやりたい――特にインターネット言論空間にそうしたムードを強く感じる。筆者は、福島原発事故を契機に日本が先進国ではなくなった認識を持っていたが、多くの市民は否定的だった。そのことを多くの市民に自覚させることができたという意味で、皮肉を込めて言えば東京五輪は「大成功」だったのである。

 ●精神世界の変化と時代

 当時の私たちは歴史の進行過程に身を置いていたからわからなかったが、前回、合同結婚式や「テッシー」の名前とともに統一協会が日本を騒がせた1992~1993年頃が日本にとって「失われた30年」の入口に当たっていたことを疑う人は、今日ではいないであろう。あれ以降、日本は世界観やビジョン、中長期的な視野などの「大きな物語」も、人々の紐帯としての共同体も崩壊した。あらゆる物事の「自己責任」化と、それを背景とした短期的で小さな利益の追求だけに汲々とするようになった。

 国家神道とそれに基づく皇国史観が形成され、大戦を通じて崩壊したことで戦後が始まった。1992~93年頃、統一協会による霊感商法やオウム真理教による地下鉄サリン事件が騒がれ、日本社会は失われた30年に入っていった。もし精神世界とでも呼ぶべきものがあるならば、日本では、市民の精神世界の大きな転機に、カルト的な宗教や歴史観が登場し、その崩壊とともに時代が移り変わってきたことが見て取れる。

 そして時代はめぐり、今、再び統一協会が世間を騒がせている。筆者には、これが何かの警告であり、時代は再び「精神世界の転換期」に入りつつあるように思える。今はまだ、それがどちらに向かうかは見えない。だが『歴代最長政権を率いた安倍元首相は、保守を象徴する存在であり、安倍元首相が亡くなったことは、今後、日本の政治から大きな勢力が消え、流動化が進むことを暗示している気がします』と島田さんは述べている。「いま思えばあれは失われた30年ではなく、次の新しい時代に向けた長い助走期間だった」。後世の歴史家にそのような評価を受けられるような芽を、小さくてもよいから生み、育てていくことが、2023年に向けた課題ではないだろうか。

(2022年11月22日)

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アベ国葬反対集会用のポスターが完成しました!(&札幌集会のお知らせ)

2022-09-19 12:48:36 | その他社会・時事
アベ国葬反対の闘いも終盤に入っています。今が正念場と思います。 そんな中、アベ国葬反対集会参加のみなさんの一助になればと、ポスターを作成しました。

作成後、自分で大笑いしてしまいました。こんな男の国葬を、全国民の税金まで使って本当に実施する気なのでしょうか。

このポスターを国葬反対集会等でのアピールにぜひ使いたいという方は、セブンイレブン(ブラック会社なので本当は使いたくないのですが)のネットプリントから、プリント予約番号「46185999」を入力すれば、どなたでもA3版でプリントできます(有料)。パスワードは設定していませんので、気に入った方はぜひお使いください。

なお、北海道では、札幌で「つぶせ国葬! 許すな自民党! 自民党道連包囲デモ」が開催されます。参加される方は、大通西4丁目にお集まりください。

●9月21日(水) 18:30集合 19:00デモ出発
●9月27日(火) 13:30集合 14:00デモ出発

※両日とも集合は大通西4丁目

札幌国葬反対デモ実行委員会

・実行委員長 札幌学院大学教授 浅川雅己
・実行副委員長弁護士 中島光孝(国葬公費支出住民監査請求代理人)

(黒鉄好@北海道)

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みんな、これから自民党のことを「統一自民党」と呼ぼうぜ!

2022-09-16 22:06:56 | その他社会・時事
自民、統一協会と接点179人 国会議員半数 安倍元首相ら対象外(しんぶん赤旗)

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 自民党は8日、統一協会(世界平和統一家庭連合)や関係団体との関係について、党所属国会議員379人から報告を受けた点検内容の結果を発表しました。接点のあった国会議員は半数近くの179人。このうち121人の氏名を公表しましたが、全面公表には至りませんでした。(志位委員長の会見)

 茂木敏充幹事長は党本部で記者会見し、社会的問題がある団体との接点について「それぞれの議員は認識があっても、当時問題ある団体とは考えていなかった」などと弁明。説明不足の点は「個々の議員が説明を尽くす」と述べ、党としては説明責任を果たさない無責任な姿勢をあらわにしました。

 統一協会関連団体の会合に本人が出席し、あいさつを行った96人の議員の氏名を公表し、県知事選が行われている沖縄県選出の国場幸之助、島尻安伊子、宮崎政久ら各衆院議員が含まれています。すでに関係が指摘されている萩生田光一政調会長は、統一協会主催の会合出席や選挙支援など4項目に該当しました。

 点検は現職国会議員のみが対象。安倍晋三元首相の調査は行わず、細田博之衆院議長と尾辻秀久参院議長も会派離脱を理由に対象外としたことが分かりました。党所属の地方議員も対象外です。

小池氏が批判

 日本共産党の小池晃書記局長は8日、沖縄県名護市内での遊説で「茂木敏充幹事長はこれまで、『自民党は統一協会と組織的なつながりを一切持っていない』と言っていたではないか。半数近い179人も接点を持っていて組織的なつながりがないというのは笑止千万だ」と批判しました。
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自民党国会議員の約半数が、統一協会に汚染していることが明らかになった。とどまることを知らず、深まる一方の統一協会との癒着。一般紙の中にも、「まるで「連立政権」 自民党と旧統一教会」(毎日)などと報じているところもある。来年春の統一地方選まで大型選挙はなく、統一協会キャンペーンはしばらくの間続くだろう。

つい最近まで党のトップだった人物が統一協会のせいで凶弾に倒れたのだ。普通の組織だったら「弔い合戦だ!」と悪徳商法の限りを尽くしてきた統一協会せん滅の聖戦に決起して当然だろう。だが、トップが殺される原因になったインチキカルト団体に対し、所属議員が「僕ちゃんも名前貸してました~」とへらへら笑いながら告白を続け、安倍政権下でさんざん嫌韓ヘイトの限りを尽くしながら、一方で韓国がルーツの統一協会に「靴を舐めろ」と要求されるとせっせと舐めていたのだから驚きだ。自民党はもはや組織として完全に終わっている。底なしの堕落、腐敗にはもはや怒りすら湧いてこない。

当ブログでは、今後、統一協会とつながりの深い自民党や自民党議員について、予告なく「統一自民党」と呼ぶことがある。これは、2021年衆院総選挙で、野党共闘陣営に対し、自民党が「立憲共産党」と攻撃した結果、野党共闘が破壊されたことに対する当ブログからの「報復」である。

今後は「統一自民党」というキーワードを「立憲共産党」がかすんでしまうほどのキラーワードに育てたいと考えている。自民党は、立憲と共産が統一候補を立てるくらいのレベルでも「立憲共産党」と悪し様に罵倒した。それなら、統一協会と事実上の「連立」状態にある自民党を「統一自民党」と呼ぶくらいなんの問題もなかろう。

次の選挙まで、市民みんなで徹底的に「統一自民党」呼ばわりを続け、霊感商法被害者・市民の敵、自民党を解体に追い込もう!

<おことわり>統一協会の名称について

<おことわり>統一協会の名称について

自称「宗教団体」・世界平和統一家庭連合の旧名称については、一般メディアが「統一教会」との略称なのに対し、しんぶん赤旗は「統一協会」との略称を用いています。

当ブログでは、この団体について、過去、タレント桜田淳子さんの「合同結婚式」騒動や霊感商法等により、1990年代に社会問題となった「宗教団体」との歴史的連続性を重視するため、現在の名称である「家庭連合」は使用せず旧名称を使用します。

またこの旧正式名称が「世界基督教統一神霊協会」であること、当ブログと反原発運動などで協力関係にあるキリスト教会関係者から「キリスト教というだけで一緒にされ迷惑している」との声が寄せられていることを踏まえ、略称についてもしんぶん赤旗と同じ「統一協会」と表記することとします(ただし、「統一教会」表記を使用しているメディアの引用の場合は、引用元のメディア表記に従います)。基本的に、今後も当ブログでは統一協会を彼らの主張する「宗教団体」とは認めない立場を取ります。

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